ジョニー・ブリストル65歳で死去

モータウンでソングライター、プロデューサーとして活躍したジョニー・ブリストルが(2004年3月)21日(日曜)朝、デトロイト近郊の自宅で死去した。65歳だった。

ジョニー・ブリストルは1939年2月3日ノース・キャロライナ州モーガントンの生まれ。デトロイトに本拠を移し、1960年頃から「ジョニー&ジャッキー」というデュオとして活動を始めた。ジャッキーはジャッキー・ビーヴァーズのことで、彼らは軍隊時代に知り合った。ジョニーは一度目の結婚・離婚の後にモータウン創始者ベリー・ゴーディーの姪アイリス・ゴーディーと結婚。名実ともに「モータウン・ファミリー」の一員になった。

ジョニー&ジャッキーは、1961年「サムデイ・ウィル・ビー・トゥゲザー」を録音、ハーヴィー・フークワが持っていたトライ・ファイからリリースされたが、ヒットはしなかった。しかし、この曲は69年、ダイアナ・ロス&スプリームスが最後のシングルとしてリリースし、大ヒットとなる。

ジョニーとハーヴィー・フークワとは、パートナーとして、ジュニア・ウォーカー&オールスターズの「ホワット・ダズ・イット・テイク」などを書いたり、プロデュースした。他にてがけたアーティストは、ダイアナ・ロス&スプリームス、グラディス・ナイト&ピップスなど多数。

ジョニー・ブリストル自身は主としてモータウンのソングライターとして活躍していたが、74年、モータウンを離れMGMに移籍、ここで「ハング・イン・ゼア・ベイビー」を大ヒットさせ注目のシンガーとなった。この曲は80年にアルトン・マクレーンとデュエットでリメイクされ再びヒットした。

++++++++++++++++++++++++++++

勝ち組。

「ハング・オン・イン・ゼア・ベイビー」がヒットし始めた時、いかにもロスアンジェルスのソウルという感じだった。第一印象は、バリー・ホワイト風のサウンドというものだった。74年のことだ。このアルバムが出たときだったか、彼がかつてモータウンで様々なヒットにかかわっていたことを知った。そんな中でダイアナ・ロス&スプリームスの最後のヒット「サムデイ・ウィル・ビー・トゥゲザー」が彼のプロデュース曲だということがわかる。この曲がものすごく好きだったので、モータウンのレコードをいろいろひっくり返した。

1974年頃というのは、元モータウン・アーティストにとっては大きな転機となった年である。それは、72年にモータウン自体がデトロイトから本拠をロスアンジェルスに一挙に移すからである。ある者はデトロイトを離れず、ある者はモータウンについてロスに引っ越した。その引越しのことを会社は、ミュージシャンやスタッフたちに直前までほとんど知らせていなかった、という。そのあたりのちょっとした悲劇は、5月に公開されるドキュメンタリー映画『永遠のモータウン(Standing In The Shadows Of Motown)』http://diary.note.ne.jp/d/32970/20031025.htmlにも登場する。

ジョニー・ブリストルはこの映画には登場してこないが、彼はロスに移って、ある意味モータウン時代以上に成功した珍しい「勝ち組」になった。しかし、今回の死去に際し、デトロイト近郊の自宅にいたということがわかった。すでに引退し、ロスから再びデトロイトに戻っていたのだろう。モータウン自体の華やかさから比べれば、ジョニーが残したヒットによって、彼自身が果たして「勝ち組」になったのか、今となってはわからない。ジョニーの死去は、いまだビルボード誌(音楽業界誌)が報じていない。あまり注目されているとは言えない。人生において「勝ち組」とは一体なんなのだろう。ひょっとすると、ジョニーも「モータウンの影にいた男」の一人なのかもしれない。

しかし、彼が勝ち組ではないとしても、もちろん負け組でないことも確かだ。あれだけいい曲を出したのだから。それだけで充分価値ある人生だったと言える。そう、言ってみれば、価値組ということだ。価値組の人生は、悪くない。

++++++++

コメント