スタンプ。

映画『ミスティック・リヴァー』の製作の合間をぬって、クリント・イーストウッドはマーティン・スコセッシーの要請で、ブルースの音楽ドキュメント7本のうちの一本『ザ・ピアノ・ブルーズ』を完成させる。このドキュメンタリーのハイライトは、レイ・チャールズだ。http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030928.html

冒頭、イーストウッドがグランドピアノをぽろぽろと弾いている。そこに車から降りて、付き人に手を引かれスタジオ内にレイ・チャールズがやってくる。長身のイーストウッドと比べるとチャールズは、かなり小さく見える。グランドピアノに並んで座り、イーストウッドがインタヴューする。チャールズが昔話を始める。

イーストウッドが「どのようにピアノを始めたのですか」と訊く。レイが答える。「ワシが3歳のときのことだ。近所にいわゆる雑貨店があってな、なんでも売ってるような、そこの主人がピアノを弾いたんだ。で、なぜかわからんが、その彼がピアノを弾くのを見るのが大好きで、ものすごく惹かれたんだ。椅子の上に乗って、なんとか(鍵盤を)叩いたりするんだが、適当にね。するとその主人が『違う、違う。こうやって、こっち(右手)でメロディーを弾くんだ』みたいなことを教えてくれた」 彼の目には、その主人がピアノを弾く姿が鮮明に記憶されている。咳き込みながら、チャールズは語りつづける。(このドキュメンタリーは日本では劇場公開はされませんが、なんらかの形で公開される予定です)

彼はその3歳のとき以来、ずっと70年間、ピアノを弾き続けた。チャールズはしかし、その4年後、緑内障が原因で失明。以来、ずっと暗黒の世界に生きてきた。だが、彼には目が見える人にも見えないものが見えていた。

レイ・チャールズの元で働いていたスタッフがチャールズの自伝『ブラザー・レイ』の著者、デイヴィッド・リッツにこんな話をしている。「(レイ・)チャールズさんに何か話をしなければならないときには、いつも、(話すことを)紙に書いてから行ってました。そうしないと、何も言えなくなってしまうんです。彼が私を見ると、私は固まってしまう。まるで、私のすべてを見透かしているような感じがするのです」 

リッツも、盲目の人と話をすることのむずかしさを述べている。つまり、普段僕たちが会話をするときは、相手を見て、口から出る言葉以外のもの、ボディーランゲージであったり、目や顔の表情から得る情報が無意識のうちに役立っているのだ。しかし、チャールズと話すときは、つねに黒光りするサングラス相手なので、どうしてもわからないことが多い、という。(デイヴィッド・リッツと、レイについては http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/interview/ritz19940509.html へ)

レイ・チャールズのライヴは何回か見たことがある。よく覚えているのは89年暮れ新宿厚生年金ホール、ちょうど「いとしのエリー」がCMで使われてヒットした頃のライヴだ。その頃、レイは毎年12月に決まったように来日していた。思ったのは、とても音が小さなライヴだな、ということ。そして、曲が次々と、しかも淡々と歌われるショウだった。ところが、一番最後に「いとしのエリー」をやったときには、なぜか急にぐっときた。それまでの流れでただやってきていたライヴが一瞬にして輝きを見せたのだ。ブラザー・レイは、ほとんど、完璧に自分のものにしていた。おそらくその時点でもたいした回数は歌っていなかったはずなのに。逆にあまり回数歌っていなかったから、新鮮だったのか。

92年2月、レイ・チャールズのドキュメンタリー『ジニアス・オブ・ソウル』の解説を書くために、かなり膨大な資料を読んだ。そのときに、レイ・チャールズの偉大さを改めて知った。これは、その後99年にDVD化されている。(解説は本ウェッブに掲載。内容は、その原稿をじっくりごらんください。http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html ) これを書いた時点では、リッツの書いた『ブラザー・レイ』の本を持っていなかったが、同じ年の10月にようやくソフトカヴァーで入手することができた。DVD化されたときに、原稿を若干加筆訂正したが、それはこの本のおかげもあった。

僕は残念ながらレイ・チャールズにインタヴューしたことがない。最高に接近したのは、たしか目黒のブルースアレーでのこと。来日したときに、何かの記者会見かちょっとしたライヴを見せたときだったと思う。お店が小さかったので、すぐ目の前にブラザー・レイがいたのを強烈に覚えている。確かに、あまり大きくなかった。

その後も、ライヴを多分なんどか見たかもしれないが(やはり、ずっと日記を書いておけばよかったと思う=(笑))、最後に見たのは2000年7月のカナダ・モントリオールだった。やはり、音が小さかった。音が小さいので、集中してしまうのだが。

年に300本もライヴを行うということは、ライヴが人生そのものになっている、と言ってもいい。会場から会場へ。しかし、常に一定の水準のライヴを見せる。そのショウは、職人たちのショウとして完成している。

レイ・チャールズの音楽を聴いてもっとも感じること、それは彼がアーティストとして恐ろしいほどの「柔軟性」「吸収性」を持っているということだ。ブルーズだけにとどまらず、それをゴスペルと融合させたり、カントリーやポップを歌ったり、世界中のあらゆる音楽を自分の音楽の中に吸収しようとした。その貪欲さこそが天才の原点だと思う。しかも、それをほとんどすべて、自分の音楽「レイ・チャールズ・ミュージック」にしてしまう。あらゆる音楽に「レイ・チャールズ」というスタンプを押してしまうのだ。

ブルースとゴスペルをあわせて、当時はまだ名前もジャンルもなかったソウル・ミュージックという名の音楽を作った。音楽ジャンルをひとつ作ってしまったのだから、偉大という言葉以外思いつかない。

彼の体は小さかったが、成し遂げたことはあまりに大きい。失明、孤児、黒人、そして貧困。これ以上の四重苦はない。孤独と絶望の淵から世界の頂上に這い上がったブラザー・レイ。そのバネの強さは尋常ではない。彼が持っていた武器はただひとつ、音楽だ。空気を吸い、水を飲み、食事をするように、彼は音楽を栄養にして成長し、それは彼の体の一部になった。そしてその音楽の力で彼は世界を手にしたのだ。

(Part 2)に続く

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