【青木智仁氏逝去】
急死。
日本の音楽シーンでベーシストとして人気の高かった青木智仁(あおき・ともひと)氏が去る2006年6月12日、誕生日であるその日に自宅で倒れ、そのまま品川区の病院に運ばれ急性心不全で亡くなった。49歳になったばかりだった。
青木智仁氏は1957年6月12日神奈川県生まれ。ギターを14歳で始め、その後16歳でベースに転向。19歳の時に出たヤマハのコンテストでベストベーシスト賞を受賞。その後プロとして活動を始めた。多くのアーティストのバックをつけたり、スタジオミュージシャンとして活躍。中でも角松敏生(かどまつ・としき)の作品群では、レコーディングだけでなくツアーにも全面的に参加、その関係は現在まで続いていた。89年、ソロアルバム『ダブル・フェイス』を発表、2000年に『エクスペリエンス』を発表。93年から5年間は渡辺貞夫グループにも参加。現在はフォー・オブ・ア・カインド[本田雅人(Sax)・ 塩谷哲(P,Key)・沼澤尚(Ds)・青木智仁(Bass)]、ソースのメンバー、また本田雅人、近藤房之助 などのサポートもてがけていた。フォー・オブ・ア・カインドも2枚のアルバムをリリースしている。日本の音楽シーンにおけるベース奏者の第一人者だった。スケジュールもこの先、多数入っていた。
+++++
衝撃。
13日の午後あたりから、青木さん死去の噂が駆け巡っていたようだ。僕は、この前会ったばかりだし、違う青木さん、青木違いじゃないか、あるいは、ルーサー死去の時のようなガセネタではないかと思っていた。いただいた名刺の携帯に「まちがいですよね」などと電話でもしてみようか、と思ったほどだ。それほど、そんなことはあり得ないと思っていた。しかし、14日になっていくつかの朝刊にも記事が出て、事実だということが判明。愕然とした。まだ49歳になったばかりである。あまりの若さに言葉がでない。
まだ3ヶ月も経っていない。名前はそれこそ20年以上前から存じ上げていて、ベース奏者の第一人者だった青木さん。その青木さんとは、黒沢薫さんのソロライヴの打ち上げで、初めて名刺を交換させていただいた。3月23日のことだ。しかし、初めて会うという感じがしなかった。たぶんわからないが、好きな音楽(ソウルミュージック)が共通している、聴いてきた音楽が似ているなどという、それだけで親しみが湧いてきてしまうのだろう。そういうことはしばしばある。
その時に、青木さんが娘さんとともに、『ソウル・ブレンズ』を毎週聴いていると言われ、大変恐縮した。いろいろな音楽談義をさせていただいたが、その様子は当日の日記に書き記した。青木さんの観察によるソウルの東西の違いは、見事なものだと思う。
【ソロを見ることによってわかるグループの構成部品】
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_03_24.html
ものすごく優しい方で、話易く、これを機にずっと仲良くしてください、という感じだった。
海外のアーティストの訃報記事も徐々に増えていて、実際書くのに辛いことも多々あるが、このような身近なところにいる方の訃報記事というのは、本当に書きたくない。だが、葬儀で故人の話をたくさんして、偲ぶように、書くことによって偲ぶことができるのであれば、それもいいのかな、とも勝手に思ってみたりする。
それほど親密ではなかった僕でさえショックを受けるのだから、一緒に音楽をやっていたバンド仲間のみなさん、グループのみなさん、親しく接しておられた方たちのお気持ちははかりしれない。
青木さん、ご冥福をお祈りします。天国でファンキーなベースを弾いて盛り上げてください。
ENT>OBITUARY>Aoki, Tomohito>June 12, 1957 - June 12, 2006 (49)
急死。
日本の音楽シーンでベーシストとして人気の高かった青木智仁(あおき・ともひと)氏が去る2006年6月12日、誕生日であるその日に自宅で倒れ、そのまま品川区の病院に運ばれ急性心不全で亡くなった。49歳になったばかりだった。
青木智仁氏は1957年6月12日神奈川県生まれ。ギターを14歳で始め、その後16歳でベースに転向。19歳の時に出たヤマハのコンテストでベストベーシスト賞を受賞。その後プロとして活動を始めた。多くのアーティストのバックをつけたり、スタジオミュージシャンとして活躍。中でも角松敏生(かどまつ・としき)の作品群では、レコーディングだけでなくツアーにも全面的に参加、その関係は現在まで続いていた。89年、ソロアルバム『ダブル・フェイス』を発表、2000年に『エクスペリエンス』を発表。93年から5年間は渡辺貞夫グループにも参加。現在はフォー・オブ・ア・カインド[本田雅人(Sax)・ 塩谷哲(P,Key)・沼澤尚(Ds)・青木智仁(Bass)]、ソースのメンバー、また本田雅人、近藤房之助 などのサポートもてがけていた。フォー・オブ・ア・カインドも2枚のアルバムをリリースしている。日本の音楽シーンにおけるベース奏者の第一人者だった。スケジュールもこの先、多数入っていた。
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衝撃。
13日の午後あたりから、青木さん死去の噂が駆け巡っていたようだ。僕は、この前会ったばかりだし、違う青木さん、青木違いじゃないか、あるいは、ルーサー死去の時のようなガセネタではないかと思っていた。いただいた名刺の携帯に「まちがいですよね」などと電話でもしてみようか、と思ったほどだ。それほど、そんなことはあり得ないと思っていた。しかし、14日になっていくつかの朝刊にも記事が出て、事実だということが判明。愕然とした。まだ49歳になったばかりである。あまりの若さに言葉がでない。
まだ3ヶ月も経っていない。名前はそれこそ20年以上前から存じ上げていて、ベース奏者の第一人者だった青木さん。その青木さんとは、黒沢薫さんのソロライヴの打ち上げで、初めて名刺を交換させていただいた。3月23日のことだ。しかし、初めて会うという感じがしなかった。たぶんわからないが、好きな音楽(ソウルミュージック)が共通している、聴いてきた音楽が似ているなどという、それだけで親しみが湧いてきてしまうのだろう。そういうことはしばしばある。
その時に、青木さんが娘さんとともに、『ソウル・ブレンズ』を毎週聴いていると言われ、大変恐縮した。いろいろな音楽談義をさせていただいたが、その様子は当日の日記に書き記した。青木さんの観察によるソウルの東西の違いは、見事なものだと思う。
【ソロを見ることによってわかるグループの構成部品】
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_03_24.html
ものすごく優しい方で、話易く、これを機にずっと仲良くしてください、という感じだった。
海外のアーティストの訃報記事も徐々に増えていて、実際書くのに辛いことも多々あるが、このような身近なところにいる方の訃報記事というのは、本当に書きたくない。だが、葬儀で故人の話をたくさんして、偲ぶように、書くことによって偲ぶことができるのであれば、それもいいのかな、とも勝手に思ってみたりする。
それほど親密ではなかった僕でさえショックを受けるのだから、一緒に音楽をやっていたバンド仲間のみなさん、グループのみなさん、親しく接しておられた方たちのお気持ちははかりしれない。
青木さん、ご冥福をお祈りします。天国でファンキーなベースを弾いて盛り上げてください。
ENT>OBITUARY>Aoki, Tomohito>June 12, 1957 - June 12, 2006 (49)
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