Arif Mardin Dies At 74: The Great Producer.
2006年6月28日【大物プロデューサー、アリフ・マーディン死去】
ノンストップ。
1960年代から現在に至るまで、あらゆるジャンルの音楽をプロデュースしてきた大物プロデューサー、アリフ・マーディンが去る2006年6月25日(日曜)ニューヨークの自宅で死去した。74歳だった。ここ1年ほどすい臓ガンを患っていた。てがけたアーティストは、アレサ・フランクリン、ダニー・ハザウェイ、チャカ・カーン、ウイルソン・ピケットなどのソウル系から、ビージーズ、メリサ・マンチェスターなどのポップ・アーティストまで幅広い。最近ではノラ・ジョーンズ、ラウル・ミドンの大ヒットが記憶に新しい。グラミー賞12回受賞、うち2回は「ベスト・プロデューサー」部門。アメリカ音楽業界における押しも押されぬ大プロデューサーだ。
アリフ・マーディンは1932年3月15日、トルコ・イスタンブールの裕福な家庭に生まれた。トルコ人。十代の頃から両親兄弟の影響で音楽、特にジャズに傾注。インスタンブール大学、ロンドンの学校などで教育を受けた。この頃は音楽は彼にとってただの趣味に過ぎなかったが、1956年、ジャズ・ジャイアンツのひとり、ディージー・ガレスピーがトルコにやってきた時に衝撃を受け、音楽の仕事をする決意を固めた。この時、クインシー・ジョーンズとも知り合い、クインシーがアリフの作曲能力に惚れこみ、アメリカのバークリー音楽院のクインシー・ジョーンズ奨学金を提供した。アリフはアメリカに渡り1961年に卒業。1963年、アトランティック・レコード創始者であり、同郷のアーティガン兄弟のひとりネスヒ・アーティガンのアシスタントとして同社に就職。まもなく、スタジオの管理から、音楽のアレンジ、プロデュースの仕事などを任されるようになる。
当初は、アトランティック・レコードに所属するエディー・ハリス、フレディー・ハバードなどジャズ・アーティストの作品をてがけていたが、1967年大きな転機が訪れた。同年、コロンビア・レコードからアトランティックに移籍してきたアレサ・フランクリンとの出会いだ。
アリフは、アトランティックのスタッフだったプロデューサー、ジェリー・ウェクスラー、エンジニアのトム・ダウドらの下で、アレサの作品にかかわるようになる。アレサのアトランティックでのデビュー作『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・』(1967年)では、「レコーディング・エンジニア」としてクレジットされている。このアルバムからは、「リスペクト」、「アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・」、「ドゥ・ライト・ウーマン」などが大ヒット、アレサの名前を決定づけ、アルバムは傑作ソウル・アルバムとして高い評価を得るようになった。
初めて彼の名前がプロデューサーとしてクレジットされたのは、ラスカルズの作品。ジェリー・ウェクスラーとの共同プロデュースだったが、67年5月から「グッド・ラヴィン」が大ヒット。全米ナンバーワンになり、一躍注目されるようになった。
その後もアレサ・フランクリンの作品群にかかわるだけでなく、ラスカルズ、ダスティー・スプリングフィールド、ホール&オーツ、ベット・ミドラー、ロバータ・フラック、ウィリー・ネルソン、ビージーズ、アヴェレージ・ホワイト・バンド、ジョージ・ベンソンなど多数のアーティストをてがけた。ラスカルズ作品は「グルーヴィン」などほとんどすべてをてがけ、「5番目のメンバー」とさえ言われるほどにまでなった。
特にアレサ・フランクリンなどの黒人R&Bをプロデュースするノウハウを、白人アーティストにも応用し、ラスカルズ、ホール&オーツ、アヴェレージ・ホワイト・バンドなどに「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれる作品群を提供し注目された。
1990年代には、ミュージカルなどもてがけている。
2001年5月、マーディンはアトランティックのシニア・ヴァイス・プレジデントの役職を退任。しかしその数ヵ月後、EMIと「新人と契約しプロデュース権利を持つチーフ・プロデューサー」の役職に就いた。そして生まれたのが、2002年のセンセーション、ノラ・ジョーンズの『カム・アウエイ・ウィズ・ミー』だった。これは翌年グラミー賞主要4部門を独占する。60年代から40年以上にわたってまさにノンストップでヒットを生み出してきた偉大なプロデューサーだ。
マーディンは、48年間連れ添った妻ラティーフ、息子でプロデューサーでもあるジョー、二人の娘ネリーとネイザンによって送られる。
+++
1日。
アリフ・マーディンは大好きなプロデューサーのひとりだ。アレサ、チャカ、ダニー・・・。気に入ったアルバムにはいつも彼の名前があった。クインシーと同じくらい多数の作品をてがけてきた人物だ。一度、ゆっくり話が聞きたい人物のひとりだった。僕にとっては、彼は「ソウル・ミュージックのプロデューサー」という印象が圧倒的に強い。
アリフの恩人でもあるクインシー(Q)はアリフより1歳年下、1933年生まれ。誕生日がなんと一日違いなのだ。Qは3月14日シカゴ生まれ。一年と一日違いということを聞いたのは、クインシーにインタヴューした時のことだった。なにかのきっかけで、アリフの話になり、誕生日が一日違いだと教えられた。もう10年以上も前のことだ。
そして、昨年。ラウル・ミドンが来日しライヴを行った。その時、ほんの少しだけ話をする機会があった。誕生日を尋ねたら、「3月14日」との答え。その時は、クインシーかアリフかどっちの誕生日か覚えていなかったが、どちらかと同じでしょう、というとクインシー(3月14日)だと答えた。
3月15日生まれのアリフは、3月14日生まれのクインシーに大々的に世話になった。そして、そのアリフは、こんどは3月14日生まれの無名の新人ラウル・ミドンをプロデュースし、ヒットさせた。だから、どうだということはないのだが、なんとなく、因縁めいていておもしろいなと思った。
ラウフがステージで語ったアリフ・マーディン話は、ひじょうに興味深かった。(下記ブログに)
October 25, 2005
Raul Midon: From Donny To Stevie To Raul
http://blog.soulsearchin.com/archives/000603.html
この訃報記事を書き始めた時、アレサの『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・』をかけていたが、今はシャカ・カーンの『アイ・フィール・フォー・ユー』を聴いている。
ご冥福をお祈りしたい。
ENT>OBITUARY>Mardin, Arif / March 15, 1932 -- June 25, 2006 (74)
ノンストップ。
1960年代から現在に至るまで、あらゆるジャンルの音楽をプロデュースしてきた大物プロデューサー、アリフ・マーディンが去る2006年6月25日(日曜)ニューヨークの自宅で死去した。74歳だった。ここ1年ほどすい臓ガンを患っていた。てがけたアーティストは、アレサ・フランクリン、ダニー・ハザウェイ、チャカ・カーン、ウイルソン・ピケットなどのソウル系から、ビージーズ、メリサ・マンチェスターなどのポップ・アーティストまで幅広い。最近ではノラ・ジョーンズ、ラウル・ミドンの大ヒットが記憶に新しい。グラミー賞12回受賞、うち2回は「ベスト・プロデューサー」部門。アメリカ音楽業界における押しも押されぬ大プロデューサーだ。
アリフ・マーディンは1932年3月15日、トルコ・イスタンブールの裕福な家庭に生まれた。トルコ人。十代の頃から両親兄弟の影響で音楽、特にジャズに傾注。インスタンブール大学、ロンドンの学校などで教育を受けた。この頃は音楽は彼にとってただの趣味に過ぎなかったが、1956年、ジャズ・ジャイアンツのひとり、ディージー・ガレスピーがトルコにやってきた時に衝撃を受け、音楽の仕事をする決意を固めた。この時、クインシー・ジョーンズとも知り合い、クインシーがアリフの作曲能力に惚れこみ、アメリカのバークリー音楽院のクインシー・ジョーンズ奨学金を提供した。アリフはアメリカに渡り1961年に卒業。1963年、アトランティック・レコード創始者であり、同郷のアーティガン兄弟のひとりネスヒ・アーティガンのアシスタントとして同社に就職。まもなく、スタジオの管理から、音楽のアレンジ、プロデュースの仕事などを任されるようになる。
当初は、アトランティック・レコードに所属するエディー・ハリス、フレディー・ハバードなどジャズ・アーティストの作品をてがけていたが、1967年大きな転機が訪れた。同年、コロンビア・レコードからアトランティックに移籍してきたアレサ・フランクリンとの出会いだ。
アリフは、アトランティックのスタッフだったプロデューサー、ジェリー・ウェクスラー、エンジニアのトム・ダウドらの下で、アレサの作品にかかわるようになる。アレサのアトランティックでのデビュー作『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・』(1967年)では、「レコーディング・エンジニア」としてクレジットされている。このアルバムからは、「リスペクト」、「アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・」、「ドゥ・ライト・ウーマン」などが大ヒット、アレサの名前を決定づけ、アルバムは傑作ソウル・アルバムとして高い評価を得るようになった。
初めて彼の名前がプロデューサーとしてクレジットされたのは、ラスカルズの作品。ジェリー・ウェクスラーとの共同プロデュースだったが、67年5月から「グッド・ラヴィン」が大ヒット。全米ナンバーワンになり、一躍注目されるようになった。
その後もアレサ・フランクリンの作品群にかかわるだけでなく、ラスカルズ、ダスティー・スプリングフィールド、ホール&オーツ、ベット・ミドラー、ロバータ・フラック、ウィリー・ネルソン、ビージーズ、アヴェレージ・ホワイト・バンド、ジョージ・ベンソンなど多数のアーティストをてがけた。ラスカルズ作品は「グルーヴィン」などほとんどすべてをてがけ、「5番目のメンバー」とさえ言われるほどにまでなった。
特にアレサ・フランクリンなどの黒人R&Bをプロデュースするノウハウを、白人アーティストにも応用し、ラスカルズ、ホール&オーツ、アヴェレージ・ホワイト・バンドなどに「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれる作品群を提供し注目された。
1990年代には、ミュージカルなどもてがけている。
2001年5月、マーディンはアトランティックのシニア・ヴァイス・プレジデントの役職を退任。しかしその数ヵ月後、EMIと「新人と契約しプロデュース権利を持つチーフ・プロデューサー」の役職に就いた。そして生まれたのが、2002年のセンセーション、ノラ・ジョーンズの『カム・アウエイ・ウィズ・ミー』だった。これは翌年グラミー賞主要4部門を独占する。60年代から40年以上にわたってまさにノンストップでヒットを生み出してきた偉大なプロデューサーだ。
マーディンは、48年間連れ添った妻ラティーフ、息子でプロデューサーでもあるジョー、二人の娘ネリーとネイザンによって送られる。
+++
1日。
アリフ・マーディンは大好きなプロデューサーのひとりだ。アレサ、チャカ、ダニー・・・。気に入ったアルバムにはいつも彼の名前があった。クインシーと同じくらい多数の作品をてがけてきた人物だ。一度、ゆっくり話が聞きたい人物のひとりだった。僕にとっては、彼は「ソウル・ミュージックのプロデューサー」という印象が圧倒的に強い。
アリフの恩人でもあるクインシー(Q)はアリフより1歳年下、1933年生まれ。誕生日がなんと一日違いなのだ。Qは3月14日シカゴ生まれ。一年と一日違いということを聞いたのは、クインシーにインタヴューした時のことだった。なにかのきっかけで、アリフの話になり、誕生日が一日違いだと教えられた。もう10年以上も前のことだ。
そして、昨年。ラウル・ミドンが来日しライヴを行った。その時、ほんの少しだけ話をする機会があった。誕生日を尋ねたら、「3月14日」との答え。その時は、クインシーかアリフかどっちの誕生日か覚えていなかったが、どちらかと同じでしょう、というとクインシー(3月14日)だと答えた。
3月15日生まれのアリフは、3月14日生まれのクインシーに大々的に世話になった。そして、そのアリフは、こんどは3月14日生まれの無名の新人ラウル・ミドンをプロデュースし、ヒットさせた。だから、どうだということはないのだが、なんとなく、因縁めいていておもしろいなと思った。
ラウフがステージで語ったアリフ・マーディン話は、ひじょうに興味深かった。(下記ブログに)
October 25, 2005
Raul Midon: From Donny To Stevie To Raul
http://blog.soulsearchin.com/archives/000603.html
この訃報記事を書き始めた時、アレサの『アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン・・・』をかけていたが、今はシャカ・カーンの『アイ・フィール・フォー・ユー』を聴いている。
ご冥福をお祈りしたい。
ENT>OBITUARY>Mardin, Arif / March 15, 1932 -- June 25, 2006 (74)
コメント