James Brown’s Song Credit:
2007年6月2日【ジェームス・ブラウンの作品のクレジット】
クレジット。
ジェームス・ブラウンのアルバムが紙ジャケットでリリースされ、そのうちの『ゲッタップ・オファ・ザット・シング』(1976年7月)と『ボディーヒート』(1976年12月)のライナーを書いている。
いろいろと見ていたら、これらのアルバムの作曲家クレジットが、ディーナ・ブラウン、ヤマ・ブラウン、そして、デイドラ・ブラウンの3人になっていて、ジェームス・ブラウン本人の名前がないことに気づいた。デイドラは、ミスター・ブラウンの2番目の妻。ヤマとディーナは娘だ。
通常、ジェームス・ブラウンの曲は、ジェームス・ブラウンがひとりか、バンドメンバーたちとジャムセッションを続けながら作り上げていく。よって作曲家クレジットはジェームス・ブラウン(プラス・バンドメンバーの誰か)になることが普通だ。ところがここで妻や娘の名前をいれているということは、どういうことになるかというと、これらの楽曲から生まれる著作権印税が娘や妻に行くことになることを意味する。
言ってみれば、ブラウンが娘や妻へ、ある種お小遣いをあげている、というニュアンスなのだ。
このうち、ヤマ・ブラウンはミスター・ブラウンの自慢の娘でよく勉強もできたようで、現在はドクターになっている。1990年代に、レコードデビューさせようという話が進み、何曲かレコーディングしていた。
2番目の妻デイドラ(愛称・ディー・ディー)は、ブラウンにもっと家にいて子育てを手伝って欲しいと願っていた。そこで70年代中期、一時期ツアー本数を減らす。しかし、残念ながら最終的には1981年に離婚。
その後、3番目の妻となるエイドリアナと出会う。エイドリアナにクレジットを与えたかどうかは、調べてみないとわからない。
クレジット。
ジェームス・ブラウンのアルバムが紙ジャケットでリリースされ、そのうちの『ゲッタップ・オファ・ザット・シング』(1976年7月)と『ボディーヒート』(1976年12月)のライナーを書いている。
いろいろと見ていたら、これらのアルバムの作曲家クレジットが、ディーナ・ブラウン、ヤマ・ブラウン、そして、デイドラ・ブラウンの3人になっていて、ジェームス・ブラウン本人の名前がないことに気づいた。デイドラは、ミスター・ブラウンの2番目の妻。ヤマとディーナは娘だ。
通常、ジェームス・ブラウンの曲は、ジェームス・ブラウンがひとりか、バンドメンバーたちとジャムセッションを続けながら作り上げていく。よって作曲家クレジットはジェームス・ブラウン(プラス・バンドメンバーの誰か)になることが普通だ。ところがここで妻や娘の名前をいれているということは、どういうことになるかというと、これらの楽曲から生まれる著作権印税が娘や妻に行くことになることを意味する。
言ってみれば、ブラウンが娘や妻へ、ある種お小遣いをあげている、というニュアンスなのだ。
このうち、ヤマ・ブラウンはミスター・ブラウンの自慢の娘でよく勉強もできたようで、現在はドクターになっている。1990年代に、レコードデビューさせようという話が進み、何曲かレコーディングしていた。
2番目の妻デイドラ(愛称・ディー・ディー)は、ブラウンにもっと家にいて子育てを手伝って欲しいと願っていた。そこで70年代中期、一時期ツアー本数を減らす。しかし、残念ながら最終的には1981年に離婚。
その後、3番目の妻となるエイドリアナと出会う。エイドリアナにクレジットを与えたかどうかは、調べてみないとわからない。
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