【「モア・モア・モア」誕生秘話】
ひょうたん。
来月(2007年8月)ビクターからリリースされる『ディスコ・チャンピオン・リミテッド』というディスコヒットのオムニバスの解説原稿を書いていて、その中におなじみの「モア・モア・モア」があり、いろいろ調べていたらこの曲のおもしろい誕生秘話がでてきた。ライナーノーツではほんの200字程度しか書けないので、このブログでご紹介したい。
この「モア・モア・モア」は、アンドレア・トゥルーという元ポルノ映画スターが歌って放ったヒット。全米では1976年2月からヒットし、ソウルで23位、ポップで4位、ディスコで2位を記録、ゴールド・ディスクになっている。この他に「ニューヨーク・ユー・ガット・ミー・ダンシング」などのディスコ・ヒットがあり、アルバムも3枚出している。
さて、アンドレア・トゥルーは、これまで1952年5月29日テネシー州ナッシュヴィル生まれとされていた。ジョエル・ウィットバーン著のチャートブックではいずれもこの生年月日が紹介されている。ところが、今回調べたところ、アメリカのウィッキペディアによると、ナッシュヴィルは同じなのだが、なんと1943年7月26日生まれとなっているではないか。9歳も違う。しかも、月日もぜんぜん違う。一般的に生年月日は古いほうが真実に近いので、これは彼女は9歳ほどサバを読んでいたのであろうか。まず、これに驚嘆。
彼女はナッシュヴィルの保守的なセント・セシリア・アカデミーという学校で寄宿舎生活をしていた。ここを1956年に卒業。これが本当であれば、1952年生まれはありえない。また1943年生まれでも、13歳だ。もし18歳で卒業していれば、さらに5歳増え、1938年あたりになってしまう。あるいは成績優秀で飛び級で早く卒業できたのかもしれないが。卒業年がもう少し後ろなのか。どうも、このあたりのバイオグラフィーは信頼性に乏しい。
いずれにせよ、卒業後、彼女は映画スターを夢見てニューヨークに向かう。いくつか、小さな役を得ることが出来たが、大きな役は取れなかった。そんな失意の頃、彼女の元にポルノ映画出演の話が舞い込み、これを受ける。以降彼女は多数のポルノ映画に出演、50本以上のポルノにでて、そのほとんどがX指定だ。
生年から考えると、1950年代後半か1960年代の話と思えるが、インターネット・アダルト・フィルム・データベース(しかし、すごいデータベースがあるものだ=(笑))を調べると、彼女がアクティヴだったのは、1971年から1983年くらいまでとある。そして、作品リストがどっとでてきた。28歳で初出演だと1943年生まれになる。この時代、いくつか芸名を持っていた。たとえば、「インガー・キッシン」「アンドレア・トラヴィス」「シン・ロウ」「シング・ロウ」などだ。
さて、1975年、アンドレアはジャマイカの不動産会社のCMに出演することになり、その撮影のために、ジャマイカに向かった。ところが彼女がジャマイカ滞在中に、政治的な変革で、国外への外貨持ち出しが禁止されてしまった。つまり、CMを撮影してもそのギャラをアメリカに持って帰れないというのだ。
そこで彼女は一計を案じた。以前から知り合いだったニューヨークの音楽プロデューサー、グレッグ・ダイアモンドに連絡し、ジャマイカで曲をレコーディングして、そのマスターテープを持って帰ろうというのだ。テープであれば、現金ではないので、国外に持ち出せる。もらったギャラを、当地のミュージシャンたちへのギャラ、スタジオ代などで使ってしまおうというアイデアだ。
グレッグは、急にふってわいた話だったが、とりあえず歌なしのインストゥルメンタル・トラックだけをいれたマスターテープを持ってジャマイカにやってきた。そこで、アンドレアとともに急遽歌詞を書き、現地のホーンセクションなどのミュージシャンを起用してレコーディングを完成させた。
無事このマスターテープをアメリカに持ち帰ったアンドレア・トゥルーとグレッグ・ダイアモンドは、まだミックス(トラックダウン)前のマスターを、「ディスコ・ミックスの父」ことトム・モウルトンに聴かせた。トムはこの作品を気に入り、ミックスをすることを引き受け、「モア・モア・モア」は、「ア・トム・モウルトン・ミックス」で完成。
これは1976年1月に12インチが配布され、瞬く間にディスコで話題を集め始め、ディスコ、ソウル・ラジオ、はてはトップ40でも大ブレイクした。現金を持ち出すことができなくなったおかげでジャマイカでレコーディング・セッションを行い、それが大ヒットに結びついたのだから、音楽の神様はどこでどう微笑むかわからない。まさにひょうたんから駒だ。
アンドレア・トゥルーはその後もディスコを狙った作品をだし、デビュー作に収録されていた「ニューヨーク・ユー・ガット・ミー・ダンシング」などは、ディスコでも大いに受けていた。
3作目がヒットしなかった後、アンドレアは一時期ポルノ業界に戻ろうとしたが、30代中盤を越えていた彼女にはなかなか仕事はこなかった。一方、彼女は喉におおきな腫れ物が出来る病気にかかり、結局、手術をする。このことによって、歌手生命も絶たれ、その後は静かにプライヴェート・ライフを送っていた。
それからおよそ20年後、1999年、カナダのグループ、レンが「モア・モア・モア」のリフを使い、「スティール・マイ・サンシャイン」という曲をヒットさせたことから、再びアンドレアも脚光を浴びることになった。これを機に彼女は「あの彼らは今どこへ」といったテレビ番組などで取り上げられるようになる。VH1が作成した「100グレイテスト・ダンス・ソングス・イン2001」で45位に選出されたり、「VHS1・100グレイテスト・ワンヒット・ワンダー・イン2003」に選出されたりしていた。
その中で、彼女は、「人々に快感を与えた人物として覚えておいてもらいたい。私の音楽でね」といったコメントをしている。ポルノではなく、音楽で快感を与えた、というところがおもしろいところだ。
彼女は現在はフロリダ在住で、星占いなどをしたり、ドラッグ中毒者に対するカウンセラーなどを行っている、という。1943年7月26日生まれだとすると、まもなく64歳である。
■アンドレア・トゥルー・コネクションの『モア・モア・モア』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002UP0/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>MUSIC>SONG>STORY>More, More, More
ENT>MUSIC>ARTIST>True, Andrea Connection
ひょうたん。
来月(2007年8月)ビクターからリリースされる『ディスコ・チャンピオン・リミテッド』というディスコヒットのオムニバスの解説原稿を書いていて、その中におなじみの「モア・モア・モア」があり、いろいろ調べていたらこの曲のおもしろい誕生秘話がでてきた。ライナーノーツではほんの200字程度しか書けないので、このブログでご紹介したい。
この「モア・モア・モア」は、アンドレア・トゥルーという元ポルノ映画スターが歌って放ったヒット。全米では1976年2月からヒットし、ソウルで23位、ポップで4位、ディスコで2位を記録、ゴールド・ディスクになっている。この他に「ニューヨーク・ユー・ガット・ミー・ダンシング」などのディスコ・ヒットがあり、アルバムも3枚出している。
さて、アンドレア・トゥルーは、これまで1952年5月29日テネシー州ナッシュヴィル生まれとされていた。ジョエル・ウィットバーン著のチャートブックではいずれもこの生年月日が紹介されている。ところが、今回調べたところ、アメリカのウィッキペディアによると、ナッシュヴィルは同じなのだが、なんと1943年7月26日生まれとなっているではないか。9歳も違う。しかも、月日もぜんぜん違う。一般的に生年月日は古いほうが真実に近いので、これは彼女は9歳ほどサバを読んでいたのであろうか。まず、これに驚嘆。
彼女はナッシュヴィルの保守的なセント・セシリア・アカデミーという学校で寄宿舎生活をしていた。ここを1956年に卒業。これが本当であれば、1952年生まれはありえない。また1943年生まれでも、13歳だ。もし18歳で卒業していれば、さらに5歳増え、1938年あたりになってしまう。あるいは成績優秀で飛び級で早く卒業できたのかもしれないが。卒業年がもう少し後ろなのか。どうも、このあたりのバイオグラフィーは信頼性に乏しい。
いずれにせよ、卒業後、彼女は映画スターを夢見てニューヨークに向かう。いくつか、小さな役を得ることが出来たが、大きな役は取れなかった。そんな失意の頃、彼女の元にポルノ映画出演の話が舞い込み、これを受ける。以降彼女は多数のポルノ映画に出演、50本以上のポルノにでて、そのほとんどがX指定だ。
生年から考えると、1950年代後半か1960年代の話と思えるが、インターネット・アダルト・フィルム・データベース(しかし、すごいデータベースがあるものだ=(笑))を調べると、彼女がアクティヴだったのは、1971年から1983年くらいまでとある。そして、作品リストがどっとでてきた。28歳で初出演だと1943年生まれになる。この時代、いくつか芸名を持っていた。たとえば、「インガー・キッシン」「アンドレア・トラヴィス」「シン・ロウ」「シング・ロウ」などだ。
さて、1975年、アンドレアはジャマイカの不動産会社のCMに出演することになり、その撮影のために、ジャマイカに向かった。ところが彼女がジャマイカ滞在中に、政治的な変革で、国外への外貨持ち出しが禁止されてしまった。つまり、CMを撮影してもそのギャラをアメリカに持って帰れないというのだ。
そこで彼女は一計を案じた。以前から知り合いだったニューヨークの音楽プロデューサー、グレッグ・ダイアモンドに連絡し、ジャマイカで曲をレコーディングして、そのマスターテープを持って帰ろうというのだ。テープであれば、現金ではないので、国外に持ち出せる。もらったギャラを、当地のミュージシャンたちへのギャラ、スタジオ代などで使ってしまおうというアイデアだ。
グレッグは、急にふってわいた話だったが、とりあえず歌なしのインストゥルメンタル・トラックだけをいれたマスターテープを持ってジャマイカにやってきた。そこで、アンドレアとともに急遽歌詞を書き、現地のホーンセクションなどのミュージシャンを起用してレコーディングを完成させた。
無事このマスターテープをアメリカに持ち帰ったアンドレア・トゥルーとグレッグ・ダイアモンドは、まだミックス(トラックダウン)前のマスターを、「ディスコ・ミックスの父」ことトム・モウルトンに聴かせた。トムはこの作品を気に入り、ミックスをすることを引き受け、「モア・モア・モア」は、「ア・トム・モウルトン・ミックス」で完成。
これは1976年1月に12インチが配布され、瞬く間にディスコで話題を集め始め、ディスコ、ソウル・ラジオ、はてはトップ40でも大ブレイクした。現金を持ち出すことができなくなったおかげでジャマイカでレコーディング・セッションを行い、それが大ヒットに結びついたのだから、音楽の神様はどこでどう微笑むかわからない。まさにひょうたんから駒だ。
アンドレア・トゥルーはその後もディスコを狙った作品をだし、デビュー作に収録されていた「ニューヨーク・ユー・ガット・ミー・ダンシング」などは、ディスコでも大いに受けていた。
3作目がヒットしなかった後、アンドレアは一時期ポルノ業界に戻ろうとしたが、30代中盤を越えていた彼女にはなかなか仕事はこなかった。一方、彼女は喉におおきな腫れ物が出来る病気にかかり、結局、手術をする。このことによって、歌手生命も絶たれ、その後は静かにプライヴェート・ライフを送っていた。
それからおよそ20年後、1999年、カナダのグループ、レンが「モア・モア・モア」のリフを使い、「スティール・マイ・サンシャイン」という曲をヒットさせたことから、再びアンドレアも脚光を浴びることになった。これを機に彼女は「あの彼らは今どこへ」といったテレビ番組などで取り上げられるようになる。VH1が作成した「100グレイテスト・ダンス・ソングス・イン2001」で45位に選出されたり、「VHS1・100グレイテスト・ワンヒット・ワンダー・イン2003」に選出されたりしていた。
その中で、彼女は、「人々に快感を与えた人物として覚えておいてもらいたい。私の音楽でね」といったコメントをしている。ポルノではなく、音楽で快感を与えた、というところがおもしろいところだ。
彼女は現在はフロリダ在住で、星占いなどをしたり、ドラッグ中毒者に対するカウンセラーなどを行っている、という。1943年7月26日生まれだとすると、まもなく64歳である。
■アンドレア・トゥルー・コネクションの『モア・モア・モア』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002UP0/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>MUSIC>SONG>STORY>More, More, More
ENT>MUSIC>ARTIST>True, Andrea Connection
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