【ロックン・ロール・オリジネイター、ボ・ディドリー死去】

ビート。

いわゆる「ロックン・ロール」のオリジネイターのひとりであるミュージシャン、ボ・ディドリーが2008年6月2日、フロリダ州アーチャーの自宅で心臓疾患で死去した。79歳だった。

ボ・ディドリーは1928年12月30日アメリカ南部ミシシッピー州マッコム生まれ。本名はエラ・オサ・ベイツ・マクダニエル。実の親ではなく、親類に育てられ、その親類家族と7歳で北部シカゴへ。ブルーズ・ギタリスト、ジョン・リー・フッカーを見て影響され、ブルーズ・ギタリスト、シンガーとしてシカゴのサウスサイドのライヴハウスなどで活動するようになる。その後リズムを強調したサウンドを作り出し、ロックン・ロールの原型となるサウンドを作り出し、多くの黒人、白人ミュージシャン、ロッカーに多大な影響を与えた。

1954年、ハーモニカ奏者、ドラマーらとともに、2曲のデモテープを制作。それが「アイム・ア・マン」と「ボ・ディドリー」という楽曲。シカゴの名門スタジオ、チェスでこれを再録音。1955年になって、R&Bチャートで1位を記録する大ヒットとなった。

「ボ・ディドリー」のサウンドは、当時「ボ・ディドリー・ビート」と呼ばれ、その特徴は、「ボンバ・・ボンバ・・」といったパーカッシヴなリズム・サウンド。そして、ほとんどワンコードで楽曲が作られ、そののりのよさはそうしたパーカッション的な音ゆえだった。また彼はカスタムメイドの独特の形をしたギターを持って演奏したことからも有名になった。

1955年11月、彼は『エド・サリヴァン・ショウ』(生放送)に出演するが、このとき、事前の打ち合わせではテネシー・アーニー・フォードの「16トンズ」を歌うように言われていたが、それを無視し、自身のヒット「ボ・ディドリー」を歌い、司会者エド・サリヴァンを激怒させた。以来、番組には出られなくなった。しかし、彼は次々とヒットを生み出し、珍しく白人からも支持を集める黒人アーティストとなった。

ロックン・ローラー、バディー・ホリーは「ノット・フェイド・アウェイ」で、ボ・ディドリーのリズムを借用するが、これは後にローリング・ストーンズが1964年にカヴァーし、彼らにとっての初ヒットとなる。

1980年代には映画に端役で出演したり、ナイキのCMに出演したりしていた。

1997年、楽曲「ボ・ディドリー」は、「グラミー・ホール・オブ・フェイム」入りし、また1998年グラミー賞ライフタイム・アチーヴメント賞を獲得。そのほかにも多数のアワードを獲得している。近年は、教会に通い、ゴスペル的な作品を録音するつもりだったらしい。

2007年5月12日のライヴ後、心臓発作に見舞われ翌13日入院。8月に再発。その後11月までに一時退院し、自宅療養していた。

6月2日午前1時45分頃、自宅には約35名の家族親類が集まり、ゴスペル曲「ウォーク・アラウンド・ザ・ヘヴン」が歌われたという。これを聴きながら、本人は「私はこれから天国へ行く」と言って旅立ったという。

彼には15人の孫、15人のひ孫、さらに3人の玄孫(やしゃご=ひ孫の子供)がいる。

ENT>OBITUARY>Bo Diddley / December 30, 1928 - June 2, 2008 (79)

コメント

nophoto
かつ
2008年6月8日0:11

僕も彼をロンウッドを通じて知りました。彼のライブはハイエナジーですごかった。あのリズム、ギター、歌あれこそがロックンロールというのではないだろうか?何なんだ?という衝撃をあたえたひとだった。かれもなくてはならない人物であった。