●Jブラックフット65歳で死去
2011年12月2日 音楽●Jブラックフット65歳で死去
【J. Blackfoot Dies At 65】
訃報。
ソウル、ブルーズを歌ってきたシンガーで、元ソウル・チルドレンのリード・シンガーのひとり、J.ブラックフットが2011年11月30日、メンフィス近くのメソジスト・ジャーマンタウン病院で死去した。65歳。癌を患っていた。
長くスタックスの名門ヴォーカル・グループ、ソウル・チルドレンのリード・シンガーとして活躍、1972年の『ワッツタックス』にも登場している。1983年グループからソロに転じ、同年11月からJブラックフット名義で「タクシー」の大ヒットを放った。以後はソロ・シンガーとして活動していたが、ソウル・チルドレン・メンバーとの活動もあった。
2001年3月、チョコレート・クリーム・プロダクションの招きで、六本木スイート・ベイジルでソウル・チルドレンのノーマン・ウェストとライヴを行っている。
「タクシー」を含むアルバム『シティー・スリッカー』のジャケットは、日本では「渋谷の交差点をイメージした」などと話題になった。また、「タクシー」は、日本では鈴木聖美、大澤誉志幸、久保田利伸らがライヴなどでもカヴァー、イギリスのブライアン・フェリーもカヴァーしている。鈴木雅之は、大澤がステージで歌う「ドント・テイク・マイ・サンシャイン」のコーラスをいれたりしていた。
+++++
評伝。
Jブラックフットは、本名ジョン・コルバート、1946年11月20日ミシシッピー州グリーヴィルに生まれた。2歳でメンフィスに移住。周囲からは、「J」と呼ばれていたが、メンフィスに来た当初は、裸足で歩道などを歩いていて、足が黒く汚れていたために、「ブラックフット」(黒い足)というニックネームがついていた。不良仲間との自動車窃盗で一時期テネシー州の刑務所にいたが、ここでソウル・ヴォーカル・グループのメンバーになり、レコーディングを経験。1965年出所。その後メンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードの向かいにある酒屋近くで歌っているところを、スタックス・レコードのソングライター、デイヴィッド・ポーターに見出され、1967年頃からスタックスに出入りするようになった。その頃、デイヴィッド・ポーターは、オーティスにジョンを勉強させるために、しばらくツアーに連れて行ってくれないかと頼んだが、飛行機の定員に余裕がなかったことなどのため、それは実現しなかった。しかし、そのツアーのさなか、オーティスとバック・バンドのバーケイズは、1967年12月10日飛行機事故で死去した。その後、ジョンはバーケイズのリード・シンガーに抜擢された。
1968年、スタックスから売れっ子のサム&デイヴがアトランティックに移籍したため、デイヴィッド・ポーターとアイザック・ヘイズのプロダクション・チームは、その後釜を狙うべくグループを作ることにした。しかし、デュオでは、そのままなので、彼らは男女2人ずつの4人組ソウル・グループを結成することにし、J(ジョン)・ブラックフットに声をかけ、ジョンは加入。これがノーマン・ウェスト、アニタ・ルイス、シェルブラ・ベネットとでソウル・チルドレンとなった。ソウル・チルドレンは4人がリードを取れる実力派グループとして頭角を現し、1972年「ヒアセイ」、73年「アイル・ビー・ジ・アザー・ウーマン」などがヒット、スタックスを代表するソウル・グループとなった。
1976年、スタックスの倒産などを受け、グループは1979年に解散。メンバーはそれぞれソロ活動に。1983年、スタックス時代に仕事をしたホーマー・バンクスが新たに設立したサウンドタウンと契約し、「タクシー」の大ヒットを放った。これは、元々はジョニー・テイラー用に書かれた作品だったが、ジョニーはレコーディングしなかったという。ここで数枚作品を出した後、やはり元スタックスのアル・ベルが設立したエッジ・レコードに移籍、1987年、「ティア・ジャーカー」がヒット。ソロとしても10枚近くのアルバムを出している。
2007年、ブラックフットとノーマン・ウェストは新たな女性シンガー二人(アン・ハインズとカサンドラ・グラハム)を向かえ、新生ソウル・チルドレンを結成していた。
2011年11月30日、メンフィスの病院で癌のため死去。
http://youtu.be/KGpv2Erf79Q
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006JTEE/soulsearchiho-22/ref=nosim/"
■ソウル・チルドレン ジェネシス
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001PBQMAU/soulsearchiho-22/ref=nosim
OBITUARY>Blackfoot, J. >Nov 20, 1946 – Nov 30, 2011 – 65 year-old)
【J. Blackfoot Dies At 65】
訃報。
ソウル、ブルーズを歌ってきたシンガーで、元ソウル・チルドレンのリード・シンガーのひとり、J.ブラックフットが2011年11月30日、メンフィス近くのメソジスト・ジャーマンタウン病院で死去した。65歳。癌を患っていた。
長くスタックスの名門ヴォーカル・グループ、ソウル・チルドレンのリード・シンガーとして活躍、1972年の『ワッツタックス』にも登場している。1983年グループからソロに転じ、同年11月からJブラックフット名義で「タクシー」の大ヒットを放った。以後はソロ・シンガーとして活動していたが、ソウル・チルドレン・メンバーとの活動もあった。
2001年3月、チョコレート・クリーム・プロダクションの招きで、六本木スイート・ベイジルでソウル・チルドレンのノーマン・ウェストとライヴを行っている。
「タクシー」を含むアルバム『シティー・スリッカー』のジャケットは、日本では「渋谷の交差点をイメージした」などと話題になった。また、「タクシー」は、日本では鈴木聖美、大澤誉志幸、久保田利伸らがライヴなどでもカヴァー、イギリスのブライアン・フェリーもカヴァーしている。鈴木雅之は、大澤がステージで歌う「ドント・テイク・マイ・サンシャイン」のコーラスをいれたりしていた。
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評伝。
Jブラックフットは、本名ジョン・コルバート、1946年11月20日ミシシッピー州グリーヴィルに生まれた。2歳でメンフィスに移住。周囲からは、「J」と呼ばれていたが、メンフィスに来た当初は、裸足で歩道などを歩いていて、足が黒く汚れていたために、「ブラックフット」(黒い足)というニックネームがついていた。不良仲間との自動車窃盗で一時期テネシー州の刑務所にいたが、ここでソウル・ヴォーカル・グループのメンバーになり、レコーディングを経験。1965年出所。その後メンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードの向かいにある酒屋近くで歌っているところを、スタックス・レコードのソングライター、デイヴィッド・ポーターに見出され、1967年頃からスタックスに出入りするようになった。その頃、デイヴィッド・ポーターは、オーティスにジョンを勉強させるために、しばらくツアーに連れて行ってくれないかと頼んだが、飛行機の定員に余裕がなかったことなどのため、それは実現しなかった。しかし、そのツアーのさなか、オーティスとバック・バンドのバーケイズは、1967年12月10日飛行機事故で死去した。その後、ジョンはバーケイズのリード・シンガーに抜擢された。
1968年、スタックスから売れっ子のサム&デイヴがアトランティックに移籍したため、デイヴィッド・ポーターとアイザック・ヘイズのプロダクション・チームは、その後釜を狙うべくグループを作ることにした。しかし、デュオでは、そのままなので、彼らは男女2人ずつの4人組ソウル・グループを結成することにし、J(ジョン)・ブラックフットに声をかけ、ジョンは加入。これがノーマン・ウェスト、アニタ・ルイス、シェルブラ・ベネットとでソウル・チルドレンとなった。ソウル・チルドレンは4人がリードを取れる実力派グループとして頭角を現し、1972年「ヒアセイ」、73年「アイル・ビー・ジ・アザー・ウーマン」などがヒット、スタックスを代表するソウル・グループとなった。
1976年、スタックスの倒産などを受け、グループは1979年に解散。メンバーはそれぞれソロ活動に。1983年、スタックス時代に仕事をしたホーマー・バンクスが新たに設立したサウンドタウンと契約し、「タクシー」の大ヒットを放った。これは、元々はジョニー・テイラー用に書かれた作品だったが、ジョニーはレコーディングしなかったという。ここで数枚作品を出した後、やはり元スタックスのアル・ベルが設立したエッジ・レコードに移籍、1987年、「ティア・ジャーカー」がヒット。ソロとしても10枚近くのアルバムを出している。
2007年、ブラックフットとノーマン・ウェストは新たな女性シンガー二人(アン・ハインズとカサンドラ・グラハム)を向かえ、新生ソウル・チルドレンを結成していた。
2011年11月30日、メンフィスの病院で癌のため死去。
http://youtu.be/KGpv2Erf79Q
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006JTEE/soulsearchiho-22/ref=nosim/"
■ソウル・チルドレン ジェネシス
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001PBQMAU/soulsearchiho-22/ref=nosim
OBITUARY>Blackfoot, J. >Nov 20, 1946 – Nov 30, 2011 – 65 year-old)
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