●(続報)「ソウル・トレイン」創始者、ドン・コーネリアス死去の衝撃
2012年2月3日 音楽●(続報)「ソウル・トレイン」創始者、ドン・コーネリアス死去の衝撃
【Shock Of Don Cornelius’s Death】
衝撃。
テレビ番組『ソウル・トレイン』創始者、ドン・コーネリアス死去のニュースは、世界中に大きな衝撃を与えている。特に、ブラック・ミュージック、ソウル・ミュージック関係者からは、追悼の言葉が絶えない。ジェームス・ブラウン、マイケル・ジャクソンらの死去と同様のショックと受け止められている。
2012年2月2日(木)02時30分00秒
(速報)ドン・コーネリアス死去
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11152771763.html
スティーヴィー・ワンダー。「大変な衝撃を受けています。初めて『ソウル・トレイン』でやったのは、『スーパースティション』でした。彼は、僕のキャリアの上でも大変な貢献を果たしています。もちろん、僕だけでなく、音楽とダンスを世に広めたという点でも大変な貢献を果たしました。僕は『アメリカン・バンドスタンド』も、『ソウル・トレイン』も「見て」きたので、ドンの死は心が引き裂かれる思いです。多くの音楽番組が、これらを元にして作ってきているのを知っています。僕は、彼がとても優しい人物だと思っています。もちろん彼と毎日いるわけではないので、すべてを知っているわけではありませんが。メモリアルで何を歌いたいかは、家族に任せます。彼らが歌って欲しいという曲を歌います」
日本でラジオ番組『ソウル・トレイン』、さらにお台場に「ソウル・トレイン・カフェ」(ともに1999年)を持ってきたときのプロデューサーで、1960年代からソウル・ミュージック、黒人文化に詳しく自らもダンサーとしても活動してきた江守アイさんと話した。
江守さんは、ドンと2回ロスアンジェルスで、1回はドンが来日したとき、東京でついていた。東京で「ソウル・トレイン・カフェ」を始めるとき、ミーティングでロスで会ったが、最初に会ったときは、あこがれの人で、怖い人という印象だったが、徐々にいろいろな話をして打ち解けてくると、「店で必要なものだったら、なんでも持っていっていい」とまで言ってもらえるようになった。「ソウル・トレイン・ミュージック・アワード」のトロフィーのレプリカ、ビデオ、レコード、ゴールド・レコードなどいろいろな小物などを持ってきて、店内に飾った。
江守さんは言う。「彼と『ソウル・トレイン』が果たしたものは、間違いなく黒人社会の『ランドマーク』ですよ」
また、2001年の「ソウル・トレイン・レディー・アワード」では、ドンが江守氏を招待してくれ、ものすごくいい席を用意してくれた、という。
来日したときは、つきっきりでドンのケアをしたそうだが、そのときに一緒に奥さんと来ていて、それがしばらく前に離婚の話が進んでいた奥さんだったらしい。かなり若い奥さんだったそうだ。
黒人活動家、アル・シャープトン。「彼はソウル・ミュージックとダンスを、それまでになかったような方法で、世界に紹介した。彼はグローバルなレベルでの文化を変革した人物だ」
また、『ソウル・トレイン』には、黒人だけでなく、エルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイなどの白人、また、久保田利伸、イエロー・マジック・オーケストラなどの日本人も出演している。
先週、一緒に食事をしたというクラレンス・エイヴォント(元サセックス・レコード、モータウン・レコード・チェアマン)によると、自殺をうかがわせるものなど何もなく、本当に驚いている。ただ最近発作が起こるので、自身で車を運転するのをやめた、と言っていたという。
テレビ『ソウル・トレイン』のもっとも大きなポイントは、毎回ブラック・アーティストが一組出演し、口パクながら、動く姿を見せていた、点。もうひとつが、ソウル・トレイン・ギャングと呼ばれるダンサーたちが曲にあわせてラインダンスをするシーン。ここでダンスが大変うまいダンサーが注目されるようになったり、新しいダンスが披露され、それが全米に広まったりした。
また、1分間でアルファベットの文字がボードにばらばらに貼られていて、それを何かの単語に正しく置きなおす「スクランブル・ボード」のコーナーも受けていた。
多くの人が、『ソウル・トレイン』を見て、新しいステップを覚えた。当時はビデオで録画するということができなかったため、ほとんどの人が、毎週決まった時間に必ずテレビの前に座り、そのステップをリアル・タイムで覚えた。
ドンが番組を締めるときのいつものキャッチフレーズは、こうだ。“love, peace and soul.”(愛と平和とソウルを)
■『ソウル・トレイン』DVDボックスセット
http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=1ZKCP5+2M2ICY+2F4E+609HT
+++
ソーラー・レコード。
テレビ『ソウル・トレイン』のアーティストのブッキングを担当していたのが、ディック・グリフィーという人物で、ディックとドンで1975年、「ソウル・トレイン・レコード」を設立、これが1977年、ドンが手を引き、ディックが単独オウナーとなったときに、社名を「ソーラー・レコード」に変更。ウィスパーズ、ミッドナイトスター、レイクサイドなど多数のヒットを放った。ベイビーフェイスなどもここから出てきた。
ちなみにディック・グリフィーは2010年9月24日に71歳で死去している。
2010年09月29日(水)
ディック・グリフィー死去~ソーラー・レコードの生みの親
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10661964556.html
OBITUARY>Cornelius, Don
【Shock Of Don Cornelius’s Death】
衝撃。
テレビ番組『ソウル・トレイン』創始者、ドン・コーネリアス死去のニュースは、世界中に大きな衝撃を与えている。特に、ブラック・ミュージック、ソウル・ミュージック関係者からは、追悼の言葉が絶えない。ジェームス・ブラウン、マイケル・ジャクソンらの死去と同様のショックと受け止められている。
2012年2月2日(木)02時30分00秒
(速報)ドン・コーネリアス死去
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11152771763.html
スティーヴィー・ワンダー。「大変な衝撃を受けています。初めて『ソウル・トレイン』でやったのは、『スーパースティション』でした。彼は、僕のキャリアの上でも大変な貢献を果たしています。もちろん、僕だけでなく、音楽とダンスを世に広めたという点でも大変な貢献を果たしました。僕は『アメリカン・バンドスタンド』も、『ソウル・トレイン』も「見て」きたので、ドンの死は心が引き裂かれる思いです。多くの音楽番組が、これらを元にして作ってきているのを知っています。僕は、彼がとても優しい人物だと思っています。もちろん彼と毎日いるわけではないので、すべてを知っているわけではありませんが。メモリアルで何を歌いたいかは、家族に任せます。彼らが歌って欲しいという曲を歌います」
日本でラジオ番組『ソウル・トレイン』、さらにお台場に「ソウル・トレイン・カフェ」(ともに1999年)を持ってきたときのプロデューサーで、1960年代からソウル・ミュージック、黒人文化に詳しく自らもダンサーとしても活動してきた江守アイさんと話した。
江守さんは、ドンと2回ロスアンジェルスで、1回はドンが来日したとき、東京でついていた。東京で「ソウル・トレイン・カフェ」を始めるとき、ミーティングでロスで会ったが、最初に会ったときは、あこがれの人で、怖い人という印象だったが、徐々にいろいろな話をして打ち解けてくると、「店で必要なものだったら、なんでも持っていっていい」とまで言ってもらえるようになった。「ソウル・トレイン・ミュージック・アワード」のトロフィーのレプリカ、ビデオ、レコード、ゴールド・レコードなどいろいろな小物などを持ってきて、店内に飾った。
江守さんは言う。「彼と『ソウル・トレイン』が果たしたものは、間違いなく黒人社会の『ランドマーク』ですよ」
また、2001年の「ソウル・トレイン・レディー・アワード」では、ドンが江守氏を招待してくれ、ものすごくいい席を用意してくれた、という。
来日したときは、つきっきりでドンのケアをしたそうだが、そのときに一緒に奥さんと来ていて、それがしばらく前に離婚の話が進んでいた奥さんだったらしい。かなり若い奥さんだったそうだ。
黒人活動家、アル・シャープトン。「彼はソウル・ミュージックとダンスを、それまでになかったような方法で、世界に紹介した。彼はグローバルなレベルでの文化を変革した人物だ」
また、『ソウル・トレイン』には、黒人だけでなく、エルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイなどの白人、また、久保田利伸、イエロー・マジック・オーケストラなどの日本人も出演している。
先週、一緒に食事をしたというクラレンス・エイヴォント(元サセックス・レコード、モータウン・レコード・チェアマン)によると、自殺をうかがわせるものなど何もなく、本当に驚いている。ただ最近発作が起こるので、自身で車を運転するのをやめた、と言っていたという。
テレビ『ソウル・トレイン』のもっとも大きなポイントは、毎回ブラック・アーティストが一組出演し、口パクながら、動く姿を見せていた、点。もうひとつが、ソウル・トレイン・ギャングと呼ばれるダンサーたちが曲にあわせてラインダンスをするシーン。ここでダンスが大変うまいダンサーが注目されるようになったり、新しいダンスが披露され、それが全米に広まったりした。
また、1分間でアルファベットの文字がボードにばらばらに貼られていて、それを何かの単語に正しく置きなおす「スクランブル・ボード」のコーナーも受けていた。
多くの人が、『ソウル・トレイン』を見て、新しいステップを覚えた。当時はビデオで録画するということができなかったため、ほとんどの人が、毎週決まった時間に必ずテレビの前に座り、そのステップをリアル・タイムで覚えた。
ドンが番組を締めるときのいつものキャッチフレーズは、こうだ。“love, peace and soul.”(愛と平和とソウルを)
■『ソウル・トレイン』DVDボックスセット
http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=1ZKCP5+2M2ICY+2F4E+609HT
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ソーラー・レコード。
テレビ『ソウル・トレイン』のアーティストのブッキングを担当していたのが、ディック・グリフィーという人物で、ディックとドンで1975年、「ソウル・トレイン・レコード」を設立、これが1977年、ドンが手を引き、ディックが単独オウナーとなったときに、社名を「ソーラー・レコード」に変更。ウィスパーズ、ミッドナイトスター、レイクサイドなど多数のヒットを放った。ベイビーフェイスなどもここから出てきた。
ちなみにディック・グリフィーは2010年9月24日に71歳で死去している。
2010年09月29日(水)
ディック・グリフィー死去~ソーラー・レコードの生みの親
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10661964556.html
OBITUARY>Cornelius, Don
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