○ 『ビッグ・スペシャル』でスティーヴィー・ワンダー特集
2012年2月8日 音楽○『ビッグ・スペシャル』でスティーヴィー・ワンダー特集
【”Big Special” Featuring Stevie Wonder】
大特集。
深夜の本格派音楽番組『ビッグ・スペシャル』(東京FM系列ネット)で4夜連続でスティーヴィー・ワンダーの特集をしている。今日はその二日目。最終日2月9日(木曜深夜、10日午前1時から)には、吉岡正晴も生出演してスティーヴィー・ワンダーについて話をする。今年はスティーヴィー・ワンダーがデビューしてちょうど50周年。さまざまなスティーヴィー・ワンダーの話題、トピックを集めて大特集をする。
本ブログでは、この『ビッグ・スペシャル』と連動して、「スティーヴィー・ワンダー」特集をお送りする。番組では初日2日目で大体主なヒットをかけ、3日目で5大アルバムを特集、4日目でスティーヴィーの世界と題して、さまざまなスティーヴィー関連、プロデュース、楽曲提供作品などをお送りする。
今日はスティーヴィー・ワンダー物語(パート2)」。
++++
『ビッグ・スペシャル』は東京FMをキーステーションに全国のFM局で放送される生番組。月曜深夜25時から28時(深夜1時から4時)まで。
直接メールを送るフォームはこちら
http://www6.jfn.co.jp/mailforms/index/94
『ビッグ・スペシャル~スティーヴィー・ワンダー特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。
2012年2月7日(火)午前1時~4時生放送(6日月曜深夜25時~28時)、『ビッグ・スペシャル~スティーヴィー・ワンダー特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。
関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT
この『ビッグ・スペシャル』は、毎週月曜深夜25時(火曜午前1時~4時)から木曜深夜(金曜午前)まで生放送しているもので30以上の局でネットされる。(番組ホームページでは35局のネット局名が出ている)
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
当日は生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けます。
ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
■ スティーヴィー・ワンダー 最近の強力3枚組みベスト。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003OTLV3Y/soulsearchiho-22/ref=nosim/
++++
スティーヴィー・ワンダー物語、パート2。
(昨日からの続き) 1971年、スティーヴィーは21歳になり、それまでの契約から解放された。そして向かったニューヨーク。クリエイティヴ・フリードムを獲得して作り始めたアルバムは、どんどんとスティーヴィー独自の世界を作り上げていく。スティーヴィー・ワンダー物語、パート2。
ACT 3. モータウンと再契約、開花する才能
先駆者。
このアルバム『ミュージック・オブ・マイ・マインド(邦題、心の詩)』は、1972年3月に発売され。「スーパーウーマン」などがヒット。特にこの作品は多くの楽器を一人でプレイする文字通りのワンマン・アルバムで、そのマルチ・ミュージシャンぶりも注目された。いまでこそ、プリンスのような一人であらゆる楽器を演奏しアルバムを作ってしまうアーティストも多数輩出しているが、この頃はそのようなアーティストはほかにおらず、正に画期的でありスティーヴィーはそうしたワンマン・アーティストの先駆者的存在ともなった。
この頃からスティーヴィーに対する評価が非常に高まり、72年6月にはローリング・ストーンズ・ツアーの前座を勤め、それまでのR&B、ソウル・ファンだけでなく、幅広いファンにアピールするようになっていった。
過去3枚で培ったセルフ・プロデュースのノウ・ハウを存分に注ぎ込んで作り上げたのが、1972年11月に発表された『トーキング・ブック』である。ここからは自作の「スーパースティション(邦題、迷信)」「ユーアー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」などが大ヒット。以後は神懸り的な作品を次々と送り出した。
1973年8月『インナーヴィジョンズ』、1974年7月に『フルファイリングネス・ファースト・フィナーレ』、そして1976年10月超大作『ソングス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』を発表する。
これらの4作はいずれもスティーヴィー・ワンダーという一人のアーティストが音楽的なクリエイティヴな面でもっともピークにあった事を示す作品群であり、いずれもその時代を一歩リードする楽器の使用法、アレンジなどの音楽面、そして自らの人生を語り始めた歌詞、社会的メッセージを発信しだした面でも充実した密度の濃い内容になっている。そして、それは商業的に妥協することなく創造性を追及して、そして結果的には商業的に成功を収めるというポピュラー・ミュージック市場におけるポピュラー・ミュージックの理想的な形をも提示してくれたのである。
これらの4作は高い評価を受け、特に『インナーヴィジョンズ』『ファースト・フィナーレ』『キー・オブ・ライフ』の3作は、連続してグラミー賞の「アルバム・オブ・ジ・イヤー」を獲得、この3年ほどの間に彼は12のグラミーを集めるという快挙をなしとげたのである。『キー・オブ・ライフ』はとりわけ、スティーヴィーの集大成的アルバムとしてとらえられ多くの人から絶対的な評価を得ている。
事故。
『インナーヴィジョンズ』が発売された直後の1973年8月6日。スティーヴィーはノースカロライナ州の次の公演地に向かうためにいとこが運転する車に乗っていた。だが、その車は前の大きなトラックを追い越そうとした時に誤って激突。そのトラックに載っていた大きな木材がフロントグラスを破ってスティーヴィー・ワンダーの頭を直撃したのである。すぐに病院に担ぎ込まれた彼は、しばらく意識不明に陥り、手術も出来ないほどの重体が続いた。ニュース・リポーターがスティーヴィー・ワンダーの重体を放送し、多くのファンが彼の生死を見守った。医師も彼が再び意識を取り戻すことができるか、あるいは意識が戻っても音楽をすることができるようになるか、などまったくわからなかった。
だが、奇跡は起きた。強い精神力と信仰心によって彼は死の淵から這い上がったのである。そして、この事故は彼の人生のなかでも、彼の人生を考え直すという点で大きなターニング・ポイントになったのである。
彼によれば、この事故の後、「何事もすべてを急ぐことはない」と悟り、「今、こうして生きていることの素晴らしさをかみしめる」と振り返る。
彼の人生にとって、大きなハイライトが、1975年4月、彼に初めての子供が誕生したときだ。その子は娘で、彼はアイシャ・サギアと名付けた。
ACT 4.、社会的主張をこめて
主張。
スティーヴィー・ワンダーはかねてから映画にも大いに興味を持っていた。そして、機会さえあれば映画音楽を作ってみたいと思っていた。そうした中で発売されたのが1979年の『シークレット・ライフ・オブ・プランツ』であった。その音楽的内容はかならずしも一般受けするものではなかったが、あらゆる音楽をスティーヴィーなりに解釈したもので、彼の音楽を受け入れる許容量の並外れた大きさを示す作品となった。
80年代にはいっての彼の活動は以前にも増して社会的な主張を込めたものが多くなっていった。
1980年9月『ホッター・ザン・ジュライ』を発表。ここでは黒人運動の英雄でもあるキング牧師の誕生日を国の祝日にしようという運動を推進するために彼に捧げる「ハッピー・バースデイ」を歌う。
一方、1982年、新曲4曲を含むベスト・アルバム『オリジナル・ミュージックエイリアム』発表。同じ年ポール・マッカートニーとのデュエット「エボニー&アイボリー」を全米一位にしている。
1984年には、映画のサウンド・トラック盤『ウーマン・イン・レッド』をてがけ、この中の「アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー(邦題、心の愛)」が再び全米一位に輝いた。
社会的メッセージ作品はさらに続く。1985年には「ウイ・アー・ザ・ワールド」に参加、さらに南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)に反対を表明し、「イッツ・ロング・アパルトヘイト」という作品を作ったり、エイズ治療研究のチャリティのための作品「ザッツ・ワット・フレンズ・アー・フォー
(邦題、愛のハーモニー)」に参加したりといった具合である。
1985年10月、アルバム『イン・スクエア・サークル』を発表し日本にも5度目の来日を果たした。このアルバムからは、アップ・テンポの「パートタイム・ラヴァー」が、ポップ、ブラック共に一位になった。
1986年 1月。彼が積極的に運動を促進したキング牧師の誕生日を国民の祝日にしようという動きがついに実を結び、この年から1月の第三月曜日が、キング牧師誕生日として祝日になった。「ハッピー・バースデイ」が世に出てから5年余が過ぎていた。
彼はその後も1987年11月、『キャラクターズ』を、91年 5月、スパイク・リーの映画『ジャングル・フィーヴァー』のサウンド・トラック盤を発表。精力的に活動を続ける。
映画。
この映画は、黒人の建築家とその秘書であるイタリア系の白人女性との間の愛が、その周りの反対にあって、様々な出来事を巻き起こすというもの。ここでのテーマは、異人種間結婚という問題だ。
スティーヴィーは、御存じのように目が見えない。では、彼はどのようにして映画のサウンド・トラック盤をレコーディングするのか。その手順は、こうだ。
映画監督は、事前にその映画のストーリー、脚本、コンセプト、テーマなどをしっかりスティーヴィーに伝える。そして、時には監督とスティーヴィーが何度か打ち合わせをして、どのような音楽を監督が求めているかを探る。フィルムのラッシュ(大まかな完成間近のフィルム)が完成すると、スティーヴィーにそれを「見せ」、シーンごとの音楽のニュアンスを説明する。ここで「見せる」という作業は、アシスタントが映像のなかでの動きやシーンを事細かに彼に口で説明するのである。日本のテレビでも目の不自由な人のために音声で状況を説明するサーヴィスがあるが、それと同じである。
スティーヴィーは、しばしば「僕は何々の映画を見たよ」とか、「何々の映画がよかった」といったいい方をするが、彼はこうして、いつでも話題の映画を楽しんでいる映画フリークだ。
こうして、その映画のシーンを覚え、それに合わせた音楽を作っていくというわけである。
来日。
スティーヴィーは、1987年から1991年の間にも3回来日しているが、一方でアルバム発表間隔はゆったりしており、まさにマイ・ペースで仕事を続けているようだ。
彼は、1991年以降しばらく沈黙を守っていたが、およそ4年ぶりに新作『カンヴァセイション・ピース』を発表。それにさきがけて、やはり、4年2ヶ月ぶりに来日した。
スティーヴィーがこの『カンヴァセイション・ピース』のアルバムについて発表したのは1989年9月のこと。制作に足掛け7年もかかったわけで、それだけに彼の思い入れもひとしおだ。
彼はこのアルバムを完成させたときのことをこう語ってくれた。「この『カンヴァセイション・ピース』を完成させて、通して聴いていたとき、僕はスタジオで思わず泣いてしまったんだ。スタジオで泣くなんて、滅多にないことでね。振り返ってみれば、スタジオで泣いたのなんて、初レコーディングの『マザー・サンキュー』以来のことだったよ。」
1961年、彼が11歳の初レコーディングで見せた涙から33年。6年以上もかかって完成させた一枚のアルバムを聴いて涙したというスティーヴィー。1995年にリリースされた『カンヴァセイション・ピース』には、そのメッセージ以上に、スティーヴィー個人の33年間の思い入れが凝縮されているのかもしれない。
そして、それから10年。スティーヴィーは、10年ぶりのスタジオ録音による新録アルバムを2005年に出した。『ア・タイム・トゥ・ラヴ』だ。スティーヴィーはその後、2007年2月に来日、さいたまスーパー・アリーナなど全国でコンサート。そして、2010年8月、サマーソニック2010にも出演した。これまでに12回来日している。グラミー賞は22、グラミー・ライフタイム・アチーヴメントを加えれば23になる。
ARTIST>Wonder, Stevie
RADIO>BIG SPECIAL
【”Big Special” Featuring Stevie Wonder】
大特集。
深夜の本格派音楽番組『ビッグ・スペシャル』(東京FM系列ネット)で4夜連続でスティーヴィー・ワンダーの特集をしている。今日はその二日目。最終日2月9日(木曜深夜、10日午前1時から)には、吉岡正晴も生出演してスティーヴィー・ワンダーについて話をする。今年はスティーヴィー・ワンダーがデビューしてちょうど50周年。さまざまなスティーヴィー・ワンダーの話題、トピックを集めて大特集をする。
本ブログでは、この『ビッグ・スペシャル』と連動して、「スティーヴィー・ワンダー」特集をお送りする。番組では初日2日目で大体主なヒットをかけ、3日目で5大アルバムを特集、4日目でスティーヴィーの世界と題して、さまざまなスティーヴィー関連、プロデュース、楽曲提供作品などをお送りする。
今日はスティーヴィー・ワンダー物語(パート2)」。
++++
『ビッグ・スペシャル』は東京FMをキーステーションに全国のFM局で放送される生番組。月曜深夜25時から28時(深夜1時から4時)まで。
直接メールを送るフォームはこちら
http://www6.jfn.co.jp/mailforms/index/94
『ビッグ・スペシャル~スティーヴィー・ワンダー特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。
2012年2月7日(火)午前1時~4時生放送(6日月曜深夜25時~28時)、『ビッグ・スペシャル~スティーヴィー・ワンダー特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。
関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT
この『ビッグ・スペシャル』は、毎週月曜深夜25時(火曜午前1時~4時)から木曜深夜(金曜午前)まで生放送しているもので30以上の局でネットされる。(番組ホームページでは35局のネット局名が出ている)
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
当日は生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けます。
ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
■ スティーヴィー・ワンダー 最近の強力3枚組みベスト。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003OTLV3Y/soulsearchiho-22/ref=nosim/
++++
スティーヴィー・ワンダー物語、パート2。
(昨日からの続き) 1971年、スティーヴィーは21歳になり、それまでの契約から解放された。そして向かったニューヨーク。クリエイティヴ・フリードムを獲得して作り始めたアルバムは、どんどんとスティーヴィー独自の世界を作り上げていく。スティーヴィー・ワンダー物語、パート2。
ACT 3. モータウンと再契約、開花する才能
先駆者。
このアルバム『ミュージック・オブ・マイ・マインド(邦題、心の詩)』は、1972年3月に発売され。「スーパーウーマン」などがヒット。特にこの作品は多くの楽器を一人でプレイする文字通りのワンマン・アルバムで、そのマルチ・ミュージシャンぶりも注目された。いまでこそ、プリンスのような一人であらゆる楽器を演奏しアルバムを作ってしまうアーティストも多数輩出しているが、この頃はそのようなアーティストはほかにおらず、正に画期的でありスティーヴィーはそうしたワンマン・アーティストの先駆者的存在ともなった。
この頃からスティーヴィーに対する評価が非常に高まり、72年6月にはローリング・ストーンズ・ツアーの前座を勤め、それまでのR&B、ソウル・ファンだけでなく、幅広いファンにアピールするようになっていった。
過去3枚で培ったセルフ・プロデュースのノウ・ハウを存分に注ぎ込んで作り上げたのが、1972年11月に発表された『トーキング・ブック』である。ここからは自作の「スーパースティション(邦題、迷信)」「ユーアー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」などが大ヒット。以後は神懸り的な作品を次々と送り出した。
1973年8月『インナーヴィジョンズ』、1974年7月に『フルファイリングネス・ファースト・フィナーレ』、そして1976年10月超大作『ソングス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』を発表する。
これらの4作はいずれもスティーヴィー・ワンダーという一人のアーティストが音楽的なクリエイティヴな面でもっともピークにあった事を示す作品群であり、いずれもその時代を一歩リードする楽器の使用法、アレンジなどの音楽面、そして自らの人生を語り始めた歌詞、社会的メッセージを発信しだした面でも充実した密度の濃い内容になっている。そして、それは商業的に妥協することなく創造性を追及して、そして結果的には商業的に成功を収めるというポピュラー・ミュージック市場におけるポピュラー・ミュージックの理想的な形をも提示してくれたのである。
これらの4作は高い評価を受け、特に『インナーヴィジョンズ』『ファースト・フィナーレ』『キー・オブ・ライフ』の3作は、連続してグラミー賞の「アルバム・オブ・ジ・イヤー」を獲得、この3年ほどの間に彼は12のグラミーを集めるという快挙をなしとげたのである。『キー・オブ・ライフ』はとりわけ、スティーヴィーの集大成的アルバムとしてとらえられ多くの人から絶対的な評価を得ている。
事故。
『インナーヴィジョンズ』が発売された直後の1973年8月6日。スティーヴィーはノースカロライナ州の次の公演地に向かうためにいとこが運転する車に乗っていた。だが、その車は前の大きなトラックを追い越そうとした時に誤って激突。そのトラックに載っていた大きな木材がフロントグラスを破ってスティーヴィー・ワンダーの頭を直撃したのである。すぐに病院に担ぎ込まれた彼は、しばらく意識不明に陥り、手術も出来ないほどの重体が続いた。ニュース・リポーターがスティーヴィー・ワンダーの重体を放送し、多くのファンが彼の生死を見守った。医師も彼が再び意識を取り戻すことができるか、あるいは意識が戻っても音楽をすることができるようになるか、などまったくわからなかった。
だが、奇跡は起きた。強い精神力と信仰心によって彼は死の淵から這い上がったのである。そして、この事故は彼の人生のなかでも、彼の人生を考え直すという点で大きなターニング・ポイントになったのである。
彼によれば、この事故の後、「何事もすべてを急ぐことはない」と悟り、「今、こうして生きていることの素晴らしさをかみしめる」と振り返る。
彼の人生にとって、大きなハイライトが、1975年4月、彼に初めての子供が誕生したときだ。その子は娘で、彼はアイシャ・サギアと名付けた。
ACT 4.、社会的主張をこめて
主張。
スティーヴィー・ワンダーはかねてから映画にも大いに興味を持っていた。そして、機会さえあれば映画音楽を作ってみたいと思っていた。そうした中で発売されたのが1979年の『シークレット・ライフ・オブ・プランツ』であった。その音楽的内容はかならずしも一般受けするものではなかったが、あらゆる音楽をスティーヴィーなりに解釈したもので、彼の音楽を受け入れる許容量の並外れた大きさを示す作品となった。
80年代にはいっての彼の活動は以前にも増して社会的な主張を込めたものが多くなっていった。
1980年9月『ホッター・ザン・ジュライ』を発表。ここでは黒人運動の英雄でもあるキング牧師の誕生日を国の祝日にしようという運動を推進するために彼に捧げる「ハッピー・バースデイ」を歌う。
一方、1982年、新曲4曲を含むベスト・アルバム『オリジナル・ミュージックエイリアム』発表。同じ年ポール・マッカートニーとのデュエット「エボニー&アイボリー」を全米一位にしている。
1984年には、映画のサウンド・トラック盤『ウーマン・イン・レッド』をてがけ、この中の「アイ・ジャスト・コールド・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー(邦題、心の愛)」が再び全米一位に輝いた。
社会的メッセージ作品はさらに続く。1985年には「ウイ・アー・ザ・ワールド」に参加、さらに南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)に反対を表明し、「イッツ・ロング・アパルトヘイト」という作品を作ったり、エイズ治療研究のチャリティのための作品「ザッツ・ワット・フレンズ・アー・フォー
(邦題、愛のハーモニー)」に参加したりといった具合である。
1985年10月、アルバム『イン・スクエア・サークル』を発表し日本にも5度目の来日を果たした。このアルバムからは、アップ・テンポの「パートタイム・ラヴァー」が、ポップ、ブラック共に一位になった。
1986年 1月。彼が積極的に運動を促進したキング牧師の誕生日を国民の祝日にしようという動きがついに実を結び、この年から1月の第三月曜日が、キング牧師誕生日として祝日になった。「ハッピー・バースデイ」が世に出てから5年余が過ぎていた。
彼はその後も1987年11月、『キャラクターズ』を、91年 5月、スパイク・リーの映画『ジャングル・フィーヴァー』のサウンド・トラック盤を発表。精力的に活動を続ける。
映画。
この映画は、黒人の建築家とその秘書であるイタリア系の白人女性との間の愛が、その周りの反対にあって、様々な出来事を巻き起こすというもの。ここでのテーマは、異人種間結婚という問題だ。
スティーヴィーは、御存じのように目が見えない。では、彼はどのようにして映画のサウンド・トラック盤をレコーディングするのか。その手順は、こうだ。
映画監督は、事前にその映画のストーリー、脚本、コンセプト、テーマなどをしっかりスティーヴィーに伝える。そして、時には監督とスティーヴィーが何度か打ち合わせをして、どのような音楽を監督が求めているかを探る。フィルムのラッシュ(大まかな完成間近のフィルム)が完成すると、スティーヴィーにそれを「見せ」、シーンごとの音楽のニュアンスを説明する。ここで「見せる」という作業は、アシスタントが映像のなかでの動きやシーンを事細かに彼に口で説明するのである。日本のテレビでも目の不自由な人のために音声で状況を説明するサーヴィスがあるが、それと同じである。
スティーヴィーは、しばしば「僕は何々の映画を見たよ」とか、「何々の映画がよかった」といったいい方をするが、彼はこうして、いつでも話題の映画を楽しんでいる映画フリークだ。
こうして、その映画のシーンを覚え、それに合わせた音楽を作っていくというわけである。
来日。
スティーヴィーは、1987年から1991年の間にも3回来日しているが、一方でアルバム発表間隔はゆったりしており、まさにマイ・ペースで仕事を続けているようだ。
彼は、1991年以降しばらく沈黙を守っていたが、およそ4年ぶりに新作『カンヴァセイション・ピース』を発表。それにさきがけて、やはり、4年2ヶ月ぶりに来日した。
スティーヴィーがこの『カンヴァセイション・ピース』のアルバムについて発表したのは1989年9月のこと。制作に足掛け7年もかかったわけで、それだけに彼の思い入れもひとしおだ。
彼はこのアルバムを完成させたときのことをこう語ってくれた。「この『カンヴァセイション・ピース』を完成させて、通して聴いていたとき、僕はスタジオで思わず泣いてしまったんだ。スタジオで泣くなんて、滅多にないことでね。振り返ってみれば、スタジオで泣いたのなんて、初レコーディングの『マザー・サンキュー』以来のことだったよ。」
1961年、彼が11歳の初レコーディングで見せた涙から33年。6年以上もかかって完成させた一枚のアルバムを聴いて涙したというスティーヴィー。1995年にリリースされた『カンヴァセイション・ピース』には、そのメッセージ以上に、スティーヴィー個人の33年間の思い入れが凝縮されているのかもしれない。
そして、それから10年。スティーヴィーは、10年ぶりのスタジオ録音による新録アルバムを2005年に出した。『ア・タイム・トゥ・ラヴ』だ。スティーヴィーはその後、2007年2月に来日、さいたまスーパー・アリーナなど全国でコンサート。そして、2010年8月、サマーソニック2010にも出演した。これまでに12回来日している。グラミー賞は22、グラミー・ライフタイム・アチーヴメントを加えれば23になる。
ARTIST>Wonder, Stevie
RADIO>BIG SPECIAL
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