● ディック・クラーク(『アメリカン・バンドスタンド』)82歳で死去
2012年4月21日 音楽● ディック・クラーク(『アメリカン・バンドスタンド』)82歳で死去
【Dick Clark Dies At 82: Pioneer Of TV, Music Industry】
訃報。
アメリカ音楽業界、エンタテインメント業界における大物司会者、起業家でもあるディック・クラークが2012年4月18日、ロスアンジェルスの病院で心臓発作のため死去した。82歳だった。すでに膨大な量のニューズ、コメンタリー、追悼記事がでている。今年の訃報でいえば、ホイットニー・ヒューストン以来の大きなニューズだ。
ディック・クラークは1929年(昭和4年)11月30日ニューヨーク州ブロンクスヴィル生まれ。ラジオDJから始まり、テレビ番組の司会者、番組プロデューサーなどもこなし、アメリカの音楽業界でもっとも影響力を持った業界人の一人。音楽業界にテレビを持ち込んだ、あるいはテレビに音楽番組を持ち込んだ、第一人者でもある。1952 年に始まっていた『アメリカン・バンドスタンド』は、1957年からクラークが司会に就任。1950年代後期から1960年代、1970年代にかけて、多数の新人シンガーたちを生み出し、スターにした。番組は1989年まで30年以上にわたって続いた。テレビの音楽番組としては、1948年から始まった『エド・サリヴァン・ショー』などと並んで大きな影響力があった。
これはレコードにあわせてスタジオに来ている観客が踊るというシンプルなフォーマットだったが、実際のシンガーも登場し、口パクで歌い人気となった。番組は、新しいアーティスト、新しいダンス、そして、新しいファッションを若者に紹介し、そうしたものに全米の若者が多大な影響を受けた。若者カルチャー全般を広く伝えた。また、この番組でも別の番組でもヒット曲のカウンタとダウン番組を始め、これも後に多くのフォロワーを生み出した。
ディック・クラークがひじょうにずば抜けていた点は、身なりも話し方もきちんとして、一見「保守風」に見え、ロックに眉をひそめるような固い大人たちに、新しいものをわかりやすく紹介してきた点。ちょうど二者の間を取り持ったわけだ。
『アメリカン・バンドスタンド』は初回から、男の子はネクタイをすること、女の子のスラックスは禁止、チューインガムは禁止、というルールを厳しく守らせた。
こうしてディック・クラークは、ロックン・ロールのアイコン、テレビ/ラジオのパイオニアとなった。
ディック・クラークは、アメリカにダンスを教えた人物、としても知られる。レコードにあわせてダンスを踊るという、今では当たり前のことが、1950年代にはまだまだ特別なことだった。それを全国放送のテレビ番組でやってのけた。また、フィラデルフィアをベースとする黒人ミュージシャンも積極的に出演させたため、同地からの黒人アーティストのヒットも多数生まれた。チャビー・チェッカーの「ツイスト」、ディー・ディー・シャープの「マッシュポテト」など。
この番組をヒントに黒人のドン・コーネリアスは、「黒人版・アメリカン・バンドスタンド」を作ろうというアイデアを思いつき、『ソウル・トレイン』を生み出し、成功を収めた。
多くのアーティスト、プロデューサーやラジオ・テレビ関係者から弔辞が届いている。
■ アメリカン・バンドスタンド30周年記念特別番組(1982年)
http://youtu.be/aMv1DQ8OChM
多数のアーティストが登場。11本のうちの1本。テディー・ペンダーグラス、マーヴィン・ゲイ、マイケル・ジャクソンらも登場。
評伝。
ディック・クラークは1929年(昭和4年)11月30日ニューヨーク州ブロンクスヴィル(マウント・ヴァーナン)生まれ。16歳のときに、ユティカの小さなラジオ局で郵便物を整理する雑用から始まり、徐々に階段を上り、1952年、22歳でフィラデルフィアの『キャラヴァン・オブ・ミュージック』というラジオ番組でしゃべりだすようになった。そのラジオ局が持つテレビ局で、1957年、すでに番組としてはあった『アメリカン・バンドスタンド』の司会者に就任。ディックはまだ26歳だった。当初はフィラデルフィアのローカル番組だったが、徐々に全国ネットになり、この番組は爆発的人気を獲得、ディックも人気となった。1958年までに、視聴者は全米で4000万人を越えるほどまでになった。その他テレビのクイズ番組『ピラミッド』、『ディック・クラークス・ニューイヤー・ロッキン・イヴ』など。『アメリカン・バンドスタンド』は大変影響力のある音楽番組で、多くのアーティストがここからヒットをだし、成功を収めるようになった。
テレビ番組を製作する「ディック・クラーク・プロダクション」を設立。
グラミー賞に対抗して、1973年、一般的な人気を反映する「アメリカン・ミュージック・アワード」を設立し、授賞式をテレビ番組にした。
大晦日恒例の『ディック・クラークス・ニューイヤー・ロッキン・イヴ』は1972年から30年以上も続いている。ニューヨークのタイムズ・スクエアでのカウントダウン中継をするもの。2004年、心臓発作で番組を休んだが、このときは、30年以上で初めてのこと。翌年復帰。2011年の大晦日には、レディー・ガガが登場した。最近はメインの司会は後輩のライアン・シークレストに任せ、ディックはスタジオで顧問的に登場していた。
ディック・クラークは、音楽制作、ラジオ、テレビ、ツアーなどあらゆる分野で活躍。まさに今で言うところの「メディア・モーグル」(メディアの権力者、大御所)になった。
「ディック・クラーク・プロダクション」は、これまでに7500時間分の番組を制作してきたという。30本のレギュラー(たとえば、『アメリカン・バンドスタンド』など)から、250本を超えるスペシャル(特番)などを制作した。
ベイビーフェイスなクラークのニックネームは「ワールド・オールデスト・ティーンエイジャー」(世界でもっとも歳を取ったティーンエイジャー)というもの。
『アメリカン・バンドスタンド』は、1989年まで続き、多くのスターを生み出した。
若者向けロックン・ロールのアーティストをテレビに出演させ、ヒットさせたという意味で、「ロック育ての親」の一人とも言える。
OBITUARY>Clark, Dick (November 30, 1929 – April 18, 2012, 82 Year Old)
【Dick Clark Dies At 82: Pioneer Of TV, Music Industry】
訃報。
アメリカ音楽業界、エンタテインメント業界における大物司会者、起業家でもあるディック・クラークが2012年4月18日、ロスアンジェルスの病院で心臓発作のため死去した。82歳だった。すでに膨大な量のニューズ、コメンタリー、追悼記事がでている。今年の訃報でいえば、ホイットニー・ヒューストン以来の大きなニューズだ。
ディック・クラークは1929年(昭和4年)11月30日ニューヨーク州ブロンクスヴィル生まれ。ラジオDJから始まり、テレビ番組の司会者、番組プロデューサーなどもこなし、アメリカの音楽業界でもっとも影響力を持った業界人の一人。音楽業界にテレビを持ち込んだ、あるいはテレビに音楽番組を持ち込んだ、第一人者でもある。1952 年に始まっていた『アメリカン・バンドスタンド』は、1957年からクラークが司会に就任。1950年代後期から1960年代、1970年代にかけて、多数の新人シンガーたちを生み出し、スターにした。番組は1989年まで30年以上にわたって続いた。テレビの音楽番組としては、1948年から始まった『エド・サリヴァン・ショー』などと並んで大きな影響力があった。
これはレコードにあわせてスタジオに来ている観客が踊るというシンプルなフォーマットだったが、実際のシンガーも登場し、口パクで歌い人気となった。番組は、新しいアーティスト、新しいダンス、そして、新しいファッションを若者に紹介し、そうしたものに全米の若者が多大な影響を受けた。若者カルチャー全般を広く伝えた。また、この番組でも別の番組でもヒット曲のカウンタとダウン番組を始め、これも後に多くのフォロワーを生み出した。
ディック・クラークがひじょうにずば抜けていた点は、身なりも話し方もきちんとして、一見「保守風」に見え、ロックに眉をひそめるような固い大人たちに、新しいものをわかりやすく紹介してきた点。ちょうど二者の間を取り持ったわけだ。
『アメリカン・バンドスタンド』は初回から、男の子はネクタイをすること、女の子のスラックスは禁止、チューインガムは禁止、というルールを厳しく守らせた。
こうしてディック・クラークは、ロックン・ロールのアイコン、テレビ/ラジオのパイオニアとなった。
ディック・クラークは、アメリカにダンスを教えた人物、としても知られる。レコードにあわせてダンスを踊るという、今では当たり前のことが、1950年代にはまだまだ特別なことだった。それを全国放送のテレビ番組でやってのけた。また、フィラデルフィアをベースとする黒人ミュージシャンも積極的に出演させたため、同地からの黒人アーティストのヒットも多数生まれた。チャビー・チェッカーの「ツイスト」、ディー・ディー・シャープの「マッシュポテト」など。
この番組をヒントに黒人のドン・コーネリアスは、「黒人版・アメリカン・バンドスタンド」を作ろうというアイデアを思いつき、『ソウル・トレイン』を生み出し、成功を収めた。
多くのアーティスト、プロデューサーやラジオ・テレビ関係者から弔辞が届いている。
■ アメリカン・バンドスタンド30周年記念特別番組(1982年)
http://youtu.be/aMv1DQ8OChM
多数のアーティストが登場。11本のうちの1本。テディー・ペンダーグラス、マーヴィン・ゲイ、マイケル・ジャクソンらも登場。
評伝。
ディック・クラークは1929年(昭和4年)11月30日ニューヨーク州ブロンクスヴィル(マウント・ヴァーナン)生まれ。16歳のときに、ユティカの小さなラジオ局で郵便物を整理する雑用から始まり、徐々に階段を上り、1952年、22歳でフィラデルフィアの『キャラヴァン・オブ・ミュージック』というラジオ番組でしゃべりだすようになった。そのラジオ局が持つテレビ局で、1957年、すでに番組としてはあった『アメリカン・バンドスタンド』の司会者に就任。ディックはまだ26歳だった。当初はフィラデルフィアのローカル番組だったが、徐々に全国ネットになり、この番組は爆発的人気を獲得、ディックも人気となった。1958年までに、視聴者は全米で4000万人を越えるほどまでになった。その他テレビのクイズ番組『ピラミッド』、『ディック・クラークス・ニューイヤー・ロッキン・イヴ』など。『アメリカン・バンドスタンド』は大変影響力のある音楽番組で、多くのアーティストがここからヒットをだし、成功を収めるようになった。
テレビ番組を製作する「ディック・クラーク・プロダクション」を設立。
グラミー賞に対抗して、1973年、一般的な人気を反映する「アメリカン・ミュージック・アワード」を設立し、授賞式をテレビ番組にした。
大晦日恒例の『ディック・クラークス・ニューイヤー・ロッキン・イヴ』は1972年から30年以上も続いている。ニューヨークのタイムズ・スクエアでのカウントダウン中継をするもの。2004年、心臓発作で番組を休んだが、このときは、30年以上で初めてのこと。翌年復帰。2011年の大晦日には、レディー・ガガが登場した。最近はメインの司会は後輩のライアン・シークレストに任せ、ディックはスタジオで顧問的に登場していた。
ディック・クラークは、音楽制作、ラジオ、テレビ、ツアーなどあらゆる分野で活躍。まさに今で言うところの「メディア・モーグル」(メディアの権力者、大御所)になった。
「ディック・クラーク・プロダクション」は、これまでに7500時間分の番組を制作してきたという。30本のレギュラー(たとえば、『アメリカン・バンドスタンド』など)から、250本を超えるスペシャル(特番)などを制作した。
ベイビーフェイスなクラークのニックネームは「ワールド・オールデスト・ティーンエイジャー」(世界でもっとも歳を取ったティーンエイジャー)というもの。
『アメリカン・バンドスタンド』は、1989年まで続き、多くのスターを生み出した。
若者向けロックン・ロールのアーティストをテレビに出演させ、ヒットさせたという意味で、「ロック育ての親」の一人とも言える。
OBITUARY>Clark, Dick (November 30, 1929 – April 18, 2012, 82 Year Old)
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