◆■ テリーの地下室~おとなの世界への扉
2013年2月11日 音楽◆■ テリーの地下室~おとなの世界への扉
【The Things Learned At Terry’s Basement: The Door To Adult’s World】
(先日(2013年2月3日)『ソウル・ブレンズ』でDJマーヴィン・デンジャーフィールドが、オハイオ・プレイヤーズを初めて聴いたのが、デトロイトに住んでいたときの友達の家の地下室だったという話をした。その話がおもしろかったので、曲がかかっている間にいろいろ聞いたことなどを含めてまとめてみた。たとえば、オハイオ・プレイヤーズの音楽を11歳の少年は一体どのように聴いたかなどの風景がとてもおもしろいと思う。題して「テリーズ・ベースメント(地下室)」)
地下室。
デトロイト、1975年秋――。
十歳頃の子供にとって大人の世界とは未知のものだ。それはそれは興味津々で、ちょっと怖いが何でも試してみたいと思うもの。それは少年の冒険だ。
デトロイトに生まれ育った11歳のマーヴィン少年は隣に住む4つ年上のテリーと仲良しだった。テリーは元々ロスアンジェルス出身だったが、兄弟がたくさんいたので彼だけデトロイトの祖父母のところに預けられ、そこから学校に行っていた。マーヴィンは学校から帰るといつもテリーの家に遊びに行き、その地下室でレコードを聴いたりしていた。マーヴィンが住んでいたエリアは一軒家の住宅街でどの家にも物置にできるような地下室があった。
マーヴィンの周りにはいつも音楽があふれていた。母親はふだんはゴスペルを聴いていたがラジオから流れるモータウンも大好きだった。父親はジャズをよく聴いていてジャズのレコードをけっこう持っていた。一方テリーの祖父や父親は当時の流行のソウル・レコードを聴いて、アナログの最新LPをたくさんもっていた。10歳そこそこのマーヴィンにとっては、ジャズやゴスペルよりも、当時のヒットしているソウルのレコードのほうがよほど興味を引いた。テリーもそうしたものをよく知っていて、年下のマーヴィンにいろいろ教えてくれた。この頃聴いた音楽はみなテリーの影響だ。
そんなある日、テリーと一緒にテリーの父が最近手に入れていた一枚のアルバムを聴こうとしていた。そのジャケットは、ヌードの女性が蜂蜜を体にたらしているというひじょうにセクシーなもので、十代の彼らには「何か見てはいけない大人のもの」のように思えた。1970年代の子供にとって、それはたくさんの女性のヌード写真が出ている大人向け「プレイボーイ・マガジン」のように感じられた。
地下室は日本でいえば20畳ほどの広い部屋。床はコンクリート打ちっぱなしでそこにソファやプールテーブル(ビリヤード台)、バーカウンターがあり、大きなステレオ・セットがあった。地下室だがエアコンはあったという。この日は「大人向けのレコード」を聴こうとしていたので、マーヴィンとテリーは地下室の扉を開けた。そして部屋の鍵を締めて誰も大人が入ってこないようにしてそのレコードをかけた。それは親に秘密で垣間見る「大人の世界」だった。放課後から親が帰ってくるまでのわずかな時間は子供の天国だった。親に知られずになにかをするには打ってつけの時間帯だった。
ハニー。
彼らがその日聴こうとしていたレコードとはオハイオ・プレイヤーズの『ハニー』のアルバムだった。表ジャケットもヌードなら、ジャケットを開くと見開きでもっと大胆なヌード写真が現れた。二人はまさに息を呑んでジャケットを見つめた。「わお、これはすごい」
興奮気味にアルバムA面の1曲目に針を落とすと、「ハニー」というゆったりしたテンポの曲が流れてきた。よくわからないまま、なんとなくかっこいいのかなと思いつつ、アルバムは進んだ。A面が終わりレコードをひっくり返しB面をかけた。
その1曲目に入っていたのが、「スイート・スティッキー・シングス」(甘いネバネバしたもの、の意味)だった。マーヴィンたちは考えた。「甘くてネバネバ、べとべとしたもの?」「これは一体何のことだろう?」 11歳と15歳の子供には意味がわからなかった。
歌詞をいろいろ読んでみたが、やはりわからなかった。どうも男女のラヴ・ソングのようだったがそれでもタイトルの意味はわからなかった。そして、そのアルバム・ジャケットに映っているヌード・モデルを見て、「これがスイート・スティッキー・シングなのかなあ」とテリーと笑っていた。蜂蜜(ハニー)は確かに甘くてネバネバしている。マーヴィンにとってのオハイオ・プレイヤーズ初体験がこの『ハニー』のアルバム、とりわけその中でも「スイート・スティッキー・シング」だった。
この『ハニー』のジャケットをはじめ、オハイオ・プレイヤーズのヌード・ジャケットを撮影していたのは、なんとプレイボーイ・マガジンで30年以上カメラマンとして活躍していたリオン・フェグリーというカメラマンだった。この『ハニー』のジャケット・モデルは、1974年10月号の「プレイメイト」だったパナマ生まれのエスター・コーデットだった。
11歳と15歳の少年たちにとって、見てはいけないものを見て、聴いてはいけないものを聴いてしまった地下室だった。
扉。
マーヴィンは当時の最新のアルバムはみんなこのテリーの地下室で聴いて覚えた。アース・ウィンド&ファイアーで初めて覚えた曲は「リーズンズ」だった。(アルバム『ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド(暗黒への挑戦)』収録) ほかにもブラザーズ・ジョンソンやコモドアーズ、クール&ザ・ギャング、みんなテリーの地下室で知った。
地下室ではときに親たちがハウスパーティーなどをしていた。そんなときでさえ、マーヴィンら子供たちは子供たちだけで遊んでいた。
そして、放課後にテリーと過ごすベースメントでのひとときこそ、11歳のマーヴィンにとって大人の世界を垣間見る小さな扉だった。オハイオ・プレイヤーズの『ハニー』は、11歳の少年にとってそんな大人への第一歩だったのかもしれない。あれから38年後の今これを聴いてもマーヴィンにはあのテリーの地下室での出来事が瞬時に思い出されるのだ。音楽はタイムトンネルへの扉でもあった。
■マーヴィンの「スタンド・バイ・ミー」のような回想話
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040207.html
■オハイオ・プレイヤーズ『ハニー』(1975年8月)
11歳のマーヴィン少年をときめかせたアルバム。ジャケット・モデル、カメラマンとも「プレイボーイ・マガジン」から。この傑作が571円! 2コインCDだ。(笑) スタバで2杯飲むより安い
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000001G07/soulsearchiho-22/ref=nosim/"
ESSAY>
【The Things Learned At Terry’s Basement: The Door To Adult’s World】
(先日(2013年2月3日)『ソウル・ブレンズ』でDJマーヴィン・デンジャーフィールドが、オハイオ・プレイヤーズを初めて聴いたのが、デトロイトに住んでいたときの友達の家の地下室だったという話をした。その話がおもしろかったので、曲がかかっている間にいろいろ聞いたことなどを含めてまとめてみた。たとえば、オハイオ・プレイヤーズの音楽を11歳の少年は一体どのように聴いたかなどの風景がとてもおもしろいと思う。題して「テリーズ・ベースメント(地下室)」)
地下室。
デトロイト、1975年秋――。
十歳頃の子供にとって大人の世界とは未知のものだ。それはそれは興味津々で、ちょっと怖いが何でも試してみたいと思うもの。それは少年の冒険だ。
デトロイトに生まれ育った11歳のマーヴィン少年は隣に住む4つ年上のテリーと仲良しだった。テリーは元々ロスアンジェルス出身だったが、兄弟がたくさんいたので彼だけデトロイトの祖父母のところに預けられ、そこから学校に行っていた。マーヴィンは学校から帰るといつもテリーの家に遊びに行き、その地下室でレコードを聴いたりしていた。マーヴィンが住んでいたエリアは一軒家の住宅街でどの家にも物置にできるような地下室があった。
マーヴィンの周りにはいつも音楽があふれていた。母親はふだんはゴスペルを聴いていたがラジオから流れるモータウンも大好きだった。父親はジャズをよく聴いていてジャズのレコードをけっこう持っていた。一方テリーの祖父や父親は当時の流行のソウル・レコードを聴いて、アナログの最新LPをたくさんもっていた。10歳そこそこのマーヴィンにとっては、ジャズやゴスペルよりも、当時のヒットしているソウルのレコードのほうがよほど興味を引いた。テリーもそうしたものをよく知っていて、年下のマーヴィンにいろいろ教えてくれた。この頃聴いた音楽はみなテリーの影響だ。
そんなある日、テリーと一緒にテリーの父が最近手に入れていた一枚のアルバムを聴こうとしていた。そのジャケットは、ヌードの女性が蜂蜜を体にたらしているというひじょうにセクシーなもので、十代の彼らには「何か見てはいけない大人のもの」のように思えた。1970年代の子供にとって、それはたくさんの女性のヌード写真が出ている大人向け「プレイボーイ・マガジン」のように感じられた。
地下室は日本でいえば20畳ほどの広い部屋。床はコンクリート打ちっぱなしでそこにソファやプールテーブル(ビリヤード台)、バーカウンターがあり、大きなステレオ・セットがあった。地下室だがエアコンはあったという。この日は「大人向けのレコード」を聴こうとしていたので、マーヴィンとテリーは地下室の扉を開けた。そして部屋の鍵を締めて誰も大人が入ってこないようにしてそのレコードをかけた。それは親に秘密で垣間見る「大人の世界」だった。放課後から親が帰ってくるまでのわずかな時間は子供の天国だった。親に知られずになにかをするには打ってつけの時間帯だった。
ハニー。
彼らがその日聴こうとしていたレコードとはオハイオ・プレイヤーズの『ハニー』のアルバムだった。表ジャケットもヌードなら、ジャケットを開くと見開きでもっと大胆なヌード写真が現れた。二人はまさに息を呑んでジャケットを見つめた。「わお、これはすごい」
興奮気味にアルバムA面の1曲目に針を落とすと、「ハニー」というゆったりしたテンポの曲が流れてきた。よくわからないまま、なんとなくかっこいいのかなと思いつつ、アルバムは進んだ。A面が終わりレコードをひっくり返しB面をかけた。
その1曲目に入っていたのが、「スイート・スティッキー・シングス」(甘いネバネバしたもの、の意味)だった。マーヴィンたちは考えた。「甘くてネバネバ、べとべとしたもの?」「これは一体何のことだろう?」 11歳と15歳の子供には意味がわからなかった。
歌詞をいろいろ読んでみたが、やはりわからなかった。どうも男女のラヴ・ソングのようだったがそれでもタイトルの意味はわからなかった。そして、そのアルバム・ジャケットに映っているヌード・モデルを見て、「これがスイート・スティッキー・シングなのかなあ」とテリーと笑っていた。蜂蜜(ハニー)は確かに甘くてネバネバしている。マーヴィンにとってのオハイオ・プレイヤーズ初体験がこの『ハニー』のアルバム、とりわけその中でも「スイート・スティッキー・シング」だった。
この『ハニー』のジャケットをはじめ、オハイオ・プレイヤーズのヌード・ジャケットを撮影していたのは、なんとプレイボーイ・マガジンで30年以上カメラマンとして活躍していたリオン・フェグリーというカメラマンだった。この『ハニー』のジャケット・モデルは、1974年10月号の「プレイメイト」だったパナマ生まれのエスター・コーデットだった。
11歳と15歳の少年たちにとって、見てはいけないものを見て、聴いてはいけないものを聴いてしまった地下室だった。
扉。
マーヴィンは当時の最新のアルバムはみんなこのテリーの地下室で聴いて覚えた。アース・ウィンド&ファイアーで初めて覚えた曲は「リーズンズ」だった。(アルバム『ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド(暗黒への挑戦)』収録) ほかにもブラザーズ・ジョンソンやコモドアーズ、クール&ザ・ギャング、みんなテリーの地下室で知った。
地下室ではときに親たちがハウスパーティーなどをしていた。そんなときでさえ、マーヴィンら子供たちは子供たちだけで遊んでいた。
そして、放課後にテリーと過ごすベースメントでのひとときこそ、11歳のマーヴィンにとって大人の世界を垣間見る小さな扉だった。オハイオ・プレイヤーズの『ハニー』は、11歳の少年にとってそんな大人への第一歩だったのかもしれない。あれから38年後の今これを聴いてもマーヴィンにはあのテリーの地下室での出来事が瞬時に思い出されるのだ。音楽はタイムトンネルへの扉でもあった。
■マーヴィンの「スタンド・バイ・ミー」のような回想話
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040207.html
■オハイオ・プレイヤーズ『ハニー』(1975年8月)
11歳のマーヴィン少年をときめかせたアルバム。ジャケット・モデル、カメラマンとも「プレイボーイ・マガジン」から。この傑作が571円! 2コインCDだ。(笑) スタバで2杯飲むより安い
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000001G07/soulsearchiho-22/ref=nosim/"
ESSAY>
コメント