★『ジミー・ウォーカーを探して(パート2)』 ~『ヴァニシング・ポイント』のサントラで歌っていたシンガーその歴史

【Searching For Jimmy Walker (Part 2 of 4 Parts)】

(昨日からの続き)

(謎のシンガー、ジミー・ウォーカーを探してリサーチした結果、様々な過去が浮かび上がった。ジミー・ウォーカー・ストーリー。)

ジミー・ウォーカーが参加していたニッカボッカーズは、ジェリー・フラーというプロデューサーに見出された。

このジェリー・フラーという人物がまた業界の大物になる男で、おもしろい。ジェリーはまず1959年にチャレンジ・レコードとカントリー・シンガー、アーティストとして契約。同年「テネシー・ワルツ」(パティー・ページで大ヒット)のロカビリー版を録音、これがちょっとしたヒットになっている。

Jerry Fuller - Tennessee Waltz (1959)
http://www.youtube.com/watch?v=BNdYELhhBS8

その後はチャレンジ・レコードでシングルなどを出していたがヒットは生まれず、曲提供や新人発掘、プロデュースなど裏方的な仕事をするようになっていた。

そんな彼が1965年、たまたま東海岸のオルバニーに来ていたとき、ニッカボッカーズをみかけ、スカウト。チャレンジ・レコードに迎えた。

ニッカボッカーズは、チャレンジ・レコードからシングル3枚をヒットさせる。

Lies - The Knickerbockers
http://www.youtube.com/watch?v=1n03a7cLf0M

これが1965年12月からヒットし、ポップチャートで最高位20位を記録。幸先よいスタートを切った。その後2枚のシングルがヒット。映像には4人しか映っていないので、キーボードは辞めていたかもしれないが、このドラマーがジミー・ウォーカーということになる。これを聴けばわかるように、まさにビートルズ風を狙ったグループ・サウンドだ。

彼らはこのヒットを機に、多くのテレビ番組などに出演、一躍その名前が売れた。ジミーが言う。「あの頃はあらゆるテレビに出たよ。『ディック・クラーク』『アメリカン・バンドスタンド』『シェブリー』『ハルバルー』『シンディグ』『ホエア・ジ・アクション・イズ』…。」

「シンディグ」の名前が出たので、その司会者ジム・オニールが死去したことを知らせると、「ええっ、それは知らなかった。君がそのニュースを知らせてくれた最初の人間だ」と驚いた様子。

また、このニッカボッカーズ時代のアレンジャーにはのちにブレッド(「メイク・イット・ウィズ・ユー」「イフ」などの大ヒット)で有名になるデイヴィッド・ゲイツもいた。

ニッカボッカーズはその後2枚のシングルが小ヒット。しかし、ヒットは長続きはしなかった。彼らは1968年までに自然解散となる。

■ ニッカボッカーズのベスト

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000009QJD/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ロイヤル・ティーンズの「ショート・ショーツ」(タモリ倶楽部のテーマ)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000008GU/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ジェリー・フラーの「テネシー・ワルツ」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B006UJZWS0/soulsearchiho-22/ref=nosim/

ライチャス・ブラザーズ。

そんなとき、ジミーのもとに一足先に「ブルー・アイド・ソウル・グループ」として大人気だったライチャス・ブラザーズのビル・メドレーがグループを辞めるので、その後釜に入らないかという話が舞い込む。ライチャスはすでに多数のヒットがあったので、ジミーはすぐにこの話にのり、ライチャス・ブラザーズのメンバーとして活動。

ライチャス・ブラザーズはビル・メドレー(1940年9月19日~)とボビー・ハットフィールド(1940年8月10日~2003年11月5日)の二人でたくさんのヒットを放ったグループだが、ビルがソロ・シンガーになるためにグループ(デュオ=2人組)を脱退、ボビーがライチャスの名前を引き継ぎ、ジミーがボビーの相手役となった。こうしてボビーとジミーの二人でライチャス・ブラザーズと名乗ることになった。1968年のことである。この二人のライチャス・ブラザーズで日本に来たこともあるという。ジミーによると日本のナイトクラブでショーをやったという。

Andy Williams and The Righteous Brothers - What’d I Say(Year 1965)
http://youtu.be/KGClv9GKYmo
これは珍しいライチャス・ブラザーズとアンディ・ウィリアムス。金髪がボビー・ハットフィールド、黒髪がビル・メドレー。

そして、ボビー・ハットフィールドとジミーの二人で1969年、『リ・バース(Re-Birth)』というアルバムをリリースした。しかし、残念ながらヒットには至らなかった。

一方、ニッカボッカーズを見出したジェリー・フラーは1967年頃、CBSコロンビアにA&Rマンとして入社。フラーは旧知のジミー・ウォーカーを同レーベルに迎えようとして、曲も用意した。それが「ウーマン・ウーマン」という曲だった。カントリー・シンガーのジミー・グラッサー Jimmy Glaser(1937年12月16日ネブラスカ生まれ)が書いた曲で彼のヴァージョンもある。

Jim Glaser-Woman, Woman
http://youtu.be/2C93c549YQQ



これを聞かされレコーディングはやる気満々だったジミーだが、その時点で彼にはまだチャレンジ・レコードとの契約が残っていたため、そのレコーディングはできなくなってしまった。

一方ほぼ同じ頃、ジェリー・フラーはボーリング場でゲイリー・パケット&ザ・ユニオン・ギャップというグループと出会う。フラーは彼らに先の「ウーマン・ウーマン」を録音させ彼らをデビューさせる。するとそのソウルフルな歌声とともにこれが大ヒット。ライチャス・ブラザーズ同様、いわゆる「ブルー・アイド・ソウル」作品として受け入れられたのだ。

歴史にもしはないのだが、もしこの「ウーマン・ウーマン」をジミーがレコーディングしていれば彼がスターになっていたかもしれない。

ゲイリー・パケットはそのソウルフルな歌声で、「ウーマン・ウーマン」以後、「ヤング・ガール」「レディー・ウィルパワー」など5曲のトップ10ヒットを生み、押しも押されぬスターとなる。

http://www.youtube.com/watch?v=_nNXi66N2oc



こうしてジミー・ウォーカー周辺は劇的に動いていく。

(この項続く)

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