◎▲ OA(オーエー)のママとオリト
2013年4月8日 音楽◎▲ OA(オーエー)のママとオリト
【OA Mama & Orito】
思い出。
青山のソウル・バー、ソウル・スナック「OA(オーエー)」のママも、村上さんも、そして僕もオリトに最後に会ったのは、OAの一度目の閉店パーティーが行われた2006年3月12日だった。
そのときの模様↓
March 13, 2006
OA Farewell Party
http://blog.soulsearchin.com/archives/000883.html
オリトはママへの感謝を捧げ3曲歌った。あれもよかったなあ。この日、OAに来たそれぞれが一冊のノートにOAファンとママへあてて寄せ書きを書いていた。僕も書いたのだが、すっかり忘れていた。するとママがこの日、そのノートと小さな写真ブックを持ってきていてそれらを見せてくれた。久々にみんなのOAへの熱い思いを読んだ。
そのノートにはオリトの文章も書かれていた。そこにはママへの感謝の気持ちがこれまた熱い文章で書かれていた。
ママはオリトへメンフィスに行ってみたらどうだ、とアドヴァイスした人物だ。それをきっかけにオリトはメンフィスに行った。しかし、最初はウィリー・ミッチェルの弟子とかいうミュージシャンに虎の子の金を騙し取られる。失意のどん底の彼はもう一度一念発起して貯金をし、やっとの思いでメンフィスに行き、レコーディング。それが日本でビクター音産の目にとまりデビュー。
この日、横浜で行なわれたオリト・トリビュートにOAのママの存在はなくてはならない。少々乱暴にいえばOAあってのオリトでもあるのだ。
オリトがメンフィスのロイヤル・スタジオでレコーディングしてから数年後、ゴスペラーズのメンバーが同じスタジオを訪ねた。そのときウィリー・ミッチェルは日本のシンガーで二人知っていると言った。ひとりは忌野清志郎、もうひとりがオリトだった。その名前が口からでたとき、村上はちょっと嫉妬し悔しかったという。
そして、村上はオリト・トリビュートに深くかかわるようになり、ドナルド・ダック・ダン(メンフィスの名ベース奏者)死去をトリビュートする意味でメンフィス・ソウル・マナーの「ソウル・ソング・ジューク」を完成させゴスペラーズのアルバムで発表し、オリト・トリビュートで歌いきる。歴史がつながり一回転しているかのようだ。
毅然。
OAは1971年5月10日に誕生した。ママによると、それまで住んでいた小田急線沿線の自宅が立ち退きにあって少しまとまったお金が入り、青山あたりの環境のいいところで、子供(3歳)を育てながら出せる店をやりたいと物件を探して、そこに落ち着いたという。
その間、本当にいろいろな人がやってきた。もちろんメインは普通の学生たちだったが、学生運動の活動家の溜まり場になったり、隣に入った怪しげな「○○興産」の事務所に訪れる刺青(いれずみ)の入った人たちの溜まり場にもなった。そんなときもママは毅然とした態度で接していた。刺青の人たちがいると、普通の学生がはいって来られなくなるから、営業保証的な意味で「いらっしゃっていただいてもいいですが、コーヒー一杯1万円、いただきますよ」と宣言。相手も黙ってそれを払っていったという。ママ、すごいな。
そしてママの好きなソウル・ミュージックをかけていたので、いつしかソウル好き、ソウル音楽業界の人たちが集まりだすようになった。ソウル業界の大評論家桜井ユタカさんなどその筆頭だ。そして、雑誌ソウルオンなどにもかかわった鈴木啓志さん、周辺のレコード会社の人々も集まった。
小林さんによると村上さんらとサム・ムーアとOAで待ち合わせて会ったこともあったという。ママによれば、サム・ムーアだけでなく、スティーヴ・クロッパー、カーティス・メイフィールド、チャイ・ライツ、清志郎らも来店しているという。
それから35年。奇しくも再び立ち退きでOAは閉店することになる。いわば、このOAは立ち退きで始まり、立ち退きで幕を閉じたという店だ。
ママは言う。「ほんと、いろんなお客さんいますよ。せっかちな人にはすぐにいろいろださなきゃならないんですよ。入っていきなり、水割りって人には氷もすぐに出さないとね。うちは一々カチ割りで出していたので、時間かかるんだけど、私、早かったわよ。(笑) 逆にのんびりした人には、がちゃがちゃせわしなく接してはダメ。だいたいね、長年やってるとね、うちの店の扉の開け方でわかるのよ、どんな人か」
おおっ、すごい。OAの扉は押して開けるタイプで鈴がついている。開け方によって鈴の鳴る音が確かに違う。バーンと開ける人、静かに開ける人、千差万別だ。
それを聞いて僕は、「それこそ、マックみたいな店の新人研修の先生にでもなって、みんなにそういう接客を教えたらよいのでは」というと、小林さんが「ああいうところは、みんなマニュアルだからなあ、ダメだろう」。確かにそうだ、マニュアルと真逆の接客だ。「それに、マックとかはみんな自動ドアでしょ、それじゃダメよ(笑)」とママ。
OAの名物メニューのひとつが、「ソウル・バンバン」。小林社長も大好物。みんな大好物。一番人気のメニューだ。細めの中華麺にちょっとぴりカラの独特の秘伝ソースであえて、いろいろな野菜がはいっているもの。夜中に食べても胃に負担があまりかからないようなヘルシー・メニューでもある。これは元々、OAに一時期入っていたシェフの発案でできたものが、ママ、娘さんと引き継がれて続いたというもの。ママにまだできますか、と聞くと「娘がたぶんできると思う」とのこと。じゃあ、こんどイヴェントかなんかで、ぜひ作ってください、と頼んでみた。ゴスペラーズのライヴでも一度「ソウル・バンバン」を出したことがあるという。
なんか、こう「OAナイト」みたいな、OAを一夜だけ再現するイヴェントなんかあってもいいのではないかと思った。ねえ、村上さん。
(この項、まだ続く)
ENT>ORITO TRIBUTE LIVE
SOUL BAR>OA
【OA Mama & Orito】
思い出。
青山のソウル・バー、ソウル・スナック「OA(オーエー)」のママも、村上さんも、そして僕もオリトに最後に会ったのは、OAの一度目の閉店パーティーが行われた2006年3月12日だった。
そのときの模様↓
March 13, 2006
OA Farewell Party
http://blog.soulsearchin.com/archives/000883.html
オリトはママへの感謝を捧げ3曲歌った。あれもよかったなあ。この日、OAに来たそれぞれが一冊のノートにOAファンとママへあてて寄せ書きを書いていた。僕も書いたのだが、すっかり忘れていた。するとママがこの日、そのノートと小さな写真ブックを持ってきていてそれらを見せてくれた。久々にみんなのOAへの熱い思いを読んだ。
そのノートにはオリトの文章も書かれていた。そこにはママへの感謝の気持ちがこれまた熱い文章で書かれていた。
ママはオリトへメンフィスに行ってみたらどうだ、とアドヴァイスした人物だ。それをきっかけにオリトはメンフィスに行った。しかし、最初はウィリー・ミッチェルの弟子とかいうミュージシャンに虎の子の金を騙し取られる。失意のどん底の彼はもう一度一念発起して貯金をし、やっとの思いでメンフィスに行き、レコーディング。それが日本でビクター音産の目にとまりデビュー。
この日、横浜で行なわれたオリト・トリビュートにOAのママの存在はなくてはならない。少々乱暴にいえばOAあってのオリトでもあるのだ。
オリトがメンフィスのロイヤル・スタジオでレコーディングしてから数年後、ゴスペラーズのメンバーが同じスタジオを訪ねた。そのときウィリー・ミッチェルは日本のシンガーで二人知っていると言った。ひとりは忌野清志郎、もうひとりがオリトだった。その名前が口からでたとき、村上はちょっと嫉妬し悔しかったという。
そして、村上はオリト・トリビュートに深くかかわるようになり、ドナルド・ダック・ダン(メンフィスの名ベース奏者)死去をトリビュートする意味でメンフィス・ソウル・マナーの「ソウル・ソング・ジューク」を完成させゴスペラーズのアルバムで発表し、オリト・トリビュートで歌いきる。歴史がつながり一回転しているかのようだ。
毅然。
OAは1971年5月10日に誕生した。ママによると、それまで住んでいた小田急線沿線の自宅が立ち退きにあって少しまとまったお金が入り、青山あたりの環境のいいところで、子供(3歳)を育てながら出せる店をやりたいと物件を探して、そこに落ち着いたという。
その間、本当にいろいろな人がやってきた。もちろんメインは普通の学生たちだったが、学生運動の活動家の溜まり場になったり、隣に入った怪しげな「○○興産」の事務所に訪れる刺青(いれずみ)の入った人たちの溜まり場にもなった。そんなときもママは毅然とした態度で接していた。刺青の人たちがいると、普通の学生がはいって来られなくなるから、営業保証的な意味で「いらっしゃっていただいてもいいですが、コーヒー一杯1万円、いただきますよ」と宣言。相手も黙ってそれを払っていったという。ママ、すごいな。
そしてママの好きなソウル・ミュージックをかけていたので、いつしかソウル好き、ソウル音楽業界の人たちが集まりだすようになった。ソウル業界の大評論家桜井ユタカさんなどその筆頭だ。そして、雑誌ソウルオンなどにもかかわった鈴木啓志さん、周辺のレコード会社の人々も集まった。
小林さんによると村上さんらとサム・ムーアとOAで待ち合わせて会ったこともあったという。ママによれば、サム・ムーアだけでなく、スティーヴ・クロッパー、カーティス・メイフィールド、チャイ・ライツ、清志郎らも来店しているという。
それから35年。奇しくも再び立ち退きでOAは閉店することになる。いわば、このOAは立ち退きで始まり、立ち退きで幕を閉じたという店だ。
ママは言う。「ほんと、いろんなお客さんいますよ。せっかちな人にはすぐにいろいろださなきゃならないんですよ。入っていきなり、水割りって人には氷もすぐに出さないとね。うちは一々カチ割りで出していたので、時間かかるんだけど、私、早かったわよ。(笑) 逆にのんびりした人には、がちゃがちゃせわしなく接してはダメ。だいたいね、長年やってるとね、うちの店の扉の開け方でわかるのよ、どんな人か」
おおっ、すごい。OAの扉は押して開けるタイプで鈴がついている。開け方によって鈴の鳴る音が確かに違う。バーンと開ける人、静かに開ける人、千差万別だ。
それを聞いて僕は、「それこそ、マックみたいな店の新人研修の先生にでもなって、みんなにそういう接客を教えたらよいのでは」というと、小林さんが「ああいうところは、みんなマニュアルだからなあ、ダメだろう」。確かにそうだ、マニュアルと真逆の接客だ。「それに、マックとかはみんな自動ドアでしょ、それじゃダメよ(笑)」とママ。
OAの名物メニューのひとつが、「ソウル・バンバン」。小林社長も大好物。みんな大好物。一番人気のメニューだ。細めの中華麺にちょっとぴりカラの独特の秘伝ソースであえて、いろいろな野菜がはいっているもの。夜中に食べても胃に負担があまりかからないようなヘルシー・メニューでもある。これは元々、OAに一時期入っていたシェフの発案でできたものが、ママ、娘さんと引き継がれて続いたというもの。ママにまだできますか、と聞くと「娘がたぶんできると思う」とのこと。じゃあ、こんどイヴェントかなんかで、ぜひ作ってください、と頼んでみた。ゴスペラーズのライヴでも一度「ソウル・バンバン」を出したことがあるという。
なんか、こう「OAナイト」みたいな、OAを一夜だけ再現するイヴェントなんかあってもいいのではないかと思った。ねえ、村上さん。
(この項、まだ続く)
ENT>ORITO TRIBUTE LIVE
SOUL BAR>OA
コメント