▲ 三栄町「音色」から荒木町「ディープ」~花街に佇むバー(パート1)

【Yotsuya Sanei-cho Neiro To Araki-cho Deep (Part 1)】

1年余。

プリンス・マニア、ツナさんから、2010年11月にオープンした四谷・三栄町のソウル・バー「音色~ねいろ」が、2011年12月9日で閉店することになったという知らせが来て、25日に行きますが、いかがですかというお誘いがあり、ボーイズ・トゥ・メンのライヴ後、出向いた。そこにグレイト・ヴォイス、ケイ・グラントさんも合流。ケイさんに住所を知らせると、「7番地の次はないんですか」と問われ、「古い住居表示の街なので、7番地だけなんですよ」と答えた。そんな昔からの街だ。

一度オープンして間もない頃お伺いしようとしたところ、たぶん夜中をだいぶ過ぎていたので、閉店していて店を探すことができず、夜中にもかかわらずツナさんに電話し、ツナさんがオウナーの外園(ほかぞの)さんに連絡したところ、その日はお客が切れたので閉店してしまった、ということがあった。それ以来なかなかチャンスがなかったのだが。ついに初「音色」を体験できた。

オウナーの外園将一郎さんは1967年生まれ。渋谷でIT系のサラリーマンをしていた時代に、よく立ち寄っていたソウル・バー「ルーム」にほれ込んだ。「ルーム」は残念ながらオウナー樫井さんの体調不良のために2009年1月23日にクローズ。それから1年10か月を経てその「ルーム」をイメージした感じでおしゃれな空間が四谷・三栄町に出来た。

■バー・ルームの閉店記事
2009年01月24日(土)
バー・ルーム「オールウェイズ&フォーエヴァー」で閉店
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10197102198.html

階段を下りると中はかなり広いスペースで天井も高い。幅広のカウンター(約12席)と奥に5-6人が座れるソファ席。かなりゆったりしたスペースで22坪だという。余計なものが置いてないので、広く感じる。壁面はお酒とグラスで、レコード、CD棚がないためソウル・バーというより普通のおしゃれでスタイリッシュなバーという感じだ。

ソウル・バーなのに、レコード、CDがない。なんと流れるソウル・ミュージックはすべて2台のコンピューターに入れられ、事前に当日セットリストが外園さんによってセットされ、それが流れる。もちろん、途中でリクエストなどが入れば差し替えられる。曲が流れるときは店内3台のテレビモニターにジャケット、アーティスト名、曲名が表示される。これまでのソウル・バーではジャケットをDJブースの前に飾るが、それをコンピューターのモニターでやる。現在かかっている曲のレコード・ジャケットがモニターの正面に大きく出て、その右横に次にかかるジャケットが4分の1くらい顔を覗かせている。左横はやはり4分の1くらい、前にかかっていた曲のジャケット。これは、アイテューンズ(iTunes)の無料のアプリを使っているそうだ。ジャケットも音源から、ネットに落ちている画像を自動的に拾ってくる。

音は基本CD音源なのでかなりクリア。下手なアナログより音がいい。これからの音楽バーはこういう形の音出しをするのが基本になっていくのかな、などとも思った。2台で1万2000曲くらい入っているそうだ。この日はプリンス、シーラE、シャカ・カーン、タイム、エディM、ジャネット・ジャクソン、シェレール、ミニー・リパートン、スティーヴィー・ワンダー、アイズレイ・ブラザーズ、インコグニート、パティー・オースティンなどが次々と流れていた。

12月9日閉店後は、いわゆる「居ぬき」で別のオウナーが入ることが決まっているが、ソウル・バーになるかどうかは不明だという。今回の閉店は、オウナーの体調不良のため。それまで昼間の仕事をしていた人にとって、生活時間帯が夜に激変すると、体調に影響するらしい。体内時計が変調をきたすらしい。何人かのソウル・バーのオウナーに相談したら、「ソウル・バーを始めるなら、若い方がいい」と言われたそうだ。夜の生活で慣れてしまえば、それはそれで特に問題にはならないようだ。しかし、本当に残念だ。

ケイ・グラントさんが、一度ここを訪れたことがある松尾潔さんに電話して、呼び出そうとしたところ、松尾さん風邪のため家でおとなしくしてて出られないとのこと。残念。

みなさん、12月9日までに行ってください。

(このハシゴ・ソウル・バーの項、つづく)

■ソウル・バー音色・ウェッブ
http://neiro2010.web.fc2.com/index.html

■同ブログ(トップページ)
http://showzono495.blog107.fc2.com/

2011年11月26日付けではこの訪問の様子も書かれています
http://showzono495.blog107.fc2.com/blog-date-20111126.html

■ ソウル・バー音色-neiro-
新宿区三栄町7番地ヴィラアート四谷B1F
JR四ツ谷駅より徒歩5分
TEL 03-5919-3280
日曜・祝日休
営業時間 20:00~02:00(月~金)
20:00~24:00(土)
但し平日の24:00以降はノーゲストになり次第、閉店
2010年11月19日オープン、2011年12月9日(金)閉店予定

■たまたまこの日、「音色」でかかっていたパティー・オースティン

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000H5U0DK/soulsearchiho-22/ref=nosim/

外園さんが大好きなレオン・ウェア

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000A9D1V/soulsearchiho-22/ref=nosim/

SOUL BAR>Neiro


◎由紀さおりとピンク・マルティーニ(フィリップ・ウー&ニューヨーク・オールスターズ(パート2))

【Philip Woo & New York All Stars】

(昨日からの続き)

音楽談義。

フィリップ・ウーのライヴが始まるまで、湯川れい子先生とニューヨークのファースト・クラス・エンジニア、ゴー・ホトダ(Goh Hotoda)さんとしばし音楽談義に花が咲いた。

湯川さんに、まずこのバンドについて軽くご説明をした。久保田利伸バンドのメンバーで、ドラムスとコーラスの2人は来年1月までずっと日本にいて、ツアーにでている、ということ。フィリップ・ウーはニューヨークで長く活躍し、メイズ、ロイ・エアーズ、アシュフォード&シンプソン、ジェフリー・オズボーンなど数々のR&B系アーティストバックをつけたりしているということなどなど。

湯川さんは最近来日していたベンEキングにインタヴューをされ、そのときのお話などもされた。FM横浜の湯川さんのラジオ番組でオンエアされるそうだが、ベンEキング本人がとってもいい人で、50年以上一人の妻と寄り添っているという話しや、今回の「上を向いて歩こう」日本語盤誕生の秘話などを教えてくださった。

今回ベンEのバック・コーラスの一人で来ているマキシン・ブラウン(ヴェテランのR&Bシンガーで60年代にヒットがある)が一員であるワイルド・ウーマンという女性トリオが、かつて欧陽菲菲の「雨のNew York」という曲をカヴァーしたが、その作詞が湯川先生で、楽曲は大黒魔季だった。それにかかわったのが、今回のライヴでキーボードをプレイしていたトーヤさんということで、彼のことなどもご存知だった。今回のベンEのプロジェクトは、そのトーヤさんとワイルド・ウーマンを日本でマネージしている日本のプロダクションの原さんらが音頭を取ってベンEで何か日本語曲を歌う企画盤を作ろうとしたところから始まったようだ。それがユニバーサルからリリースされ、宣伝もうまく行き、テレビでの露出もあり、ビルボードのライヴは満員になった。

ピンク・マルティーニ。

アメリカに進出を試みたアーティストということで、今、アメリカのジャズ・シーンで大きな話題の由紀さおりさんがピンク・マルティーニとレコーディングした作品について話しが盛り上がった。

ホトダさんも、ピンク・マルティーニを以前からご存知で、今回のアルバムもしばらく前にタワー・レコードで買って楽しんでいるということ。湯川さんは、3年ほど前に由紀さんのプロデューサー、佐藤剛さんからその件で相談を受け、日本の曲をしっかり聴かせる作品を作ったらどう、とアドヴァイスをされていたという秘話を教えてくださった。なるほど、あの大ヒットの裏には、湯川さんのちょっとしたアドヴァイスもあったんですね。さすがです。

僕もこの件に関してはとても興味を持ちいろいろ読んだら、十数年前にピンク・マルティーニのリーダー、トーマス・ローダーデールが地元オレゴンの中古レコード店で、由紀さおりさんの1969年のデビュー作『夜明けのスキャット』のアナログ・アルバム(もちろん日本盤)を買ったところから始まっているというところがおもしろいと思った。トーマスはこの中から「タヤタン」を自身のジャズ・グループ、ピンク・マルティーニのアルバム『ヘイ、ユージーン!』の中の1曲としてレコーディング。そのアルバムがリリースされたのは2007年5月のこと。2009年6月、そのユーチューブの映像が日本の関係者によって発見され、そこからさらに物事が進んでいった。

湯川さんは、オレゴンにも行ったことがあり、その地はとても日本人好みの街で、そこで日本的なものが受けるのも行ってみるとすごくよくわかる、とおっしゃっている。それにしても、いろいろと紆余曲折あり、アルバムが完成し、ついにはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのライヴというのは、すごい快挙だ。ニューヨークのオペラ・ハウスのようなところでも、なにやらやるらしい。由紀さんは来年3月に渋谷のジェイジー・ブラットでライヴをやるそうで、その選曲などの相談にも乗っているそうだが、今回のブレイクで、とてもあのキャパでは収まらなくなってしまい、おそらく即完になるだろうとのこと。

「上を向いて歩こう」については、佐藤剛さんの著作『上を向いて歩こう』がひじょうに詳しく、素晴らしい作品だが、湯川さんは同著作の元の原稿がスタジオ・ジブリの雑誌『熱風』に載っていた頃から愛読していて、そのために、『熱風』を定期購読するようになった、とおっしゃっている。そして、「上を向いて歩こう」が全米ナンバーワンになったことも含め、由紀さおりさんのCDが日本語で受けている点について、「結局、(アメリカで)日本語であれだけ話題になるってことは、歌詞じゃないのよねえ。歌い方とか、歌唱、声とか、サウンドなんでしょうね」と作詞家でもあられる湯川先生がそうおっしゃったのが、ひじょうに印象的だった。

日本語楽曲「上を向いて歩こう」が全米ナンバーワンになったメカニズムを解明したその佐藤剛さんが、由紀さおり&ピンク・マルティーニで、日本語で全米ジャズ・チャート・ナンバーワンを生み出した。佐藤さんはその鍵を掴んでいる。

■由紀さおり オフィシャル
http://www.emimusic.jp/pmsy1969/

■「上を向いて歩こう」佐藤剛著 いかにして、「上を向いて歩こう」が、全米・ナンバー1になったかを膨大な資料を元に明らかにしていく名ドキュメンタリー

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000222198/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

■由紀さおりの『1969』 全米ジャズチャートで1位

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005G66WIW/soulsearchiho-22/ref=nosim/

アルバム・ライナーノーツ(英語・日本語)
http://www.emimusic.jp/pmsy1969/html/liner_note.html

ENT>ARTIST>

◎フィリップ・ウー&ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ(パート1)

【Philip Woo & New York All Stars】

超満員。

フィリップ・ウーが久保田利伸のバックバンドとして来日しているニューヨークからのミュージシャンたちとともにお送りするライヴ、フィリップ・ウー&ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ、このメンバーではおよそ4年ぶり。ブルースアレイはいつものフィリップ・ファンを含め超満員で、立ち見まで出た。久保田ファンが多く足を運んだようだ。

このタイトなバンドなら、どこにもって行ってもはずかしくない。この日は、湯川れい子先生とニューヨークのトップ・エンジニア、ゴー・ホトダさんをお誘いし観戦。

フィリップもいつになくこのメンバーとのジャムセッションを楽しんでいる様子。ドラムスのラルフ・ロール、コーラスのタイ・スティーブンスとフェリシア・フェリックス・グラハム。そして、ベースはジーノにギターはマサ・コハマという超強力リズム隊だ。

選曲がまだ渋い。「誰も知らないような曲を選んだ」と言って、スパイラル・スペアケースの「モア・トゥデイ・ザン・イエスタデイ」を演奏。「これを知ってる人?」とフィリップが言うと、なんと下北沢レコードショップ「フラッシュディスク・ランチ」の椿さんが挙手。それを見てラルフが驚き、フィリップが「CMタイムです。彼は下北沢のレコードショップ、フラッシュディスク・ランチからやってきました」と宣伝。確かに、この曲、一般的には知名度はないがポップヒットとしてはなかなかいい。フィリップが「一発屋、大好き。一発屋とは、ワンヒットワンダーのこと」と言ってこれを紹介。さらに、この曲の中盤以降はドラムブレイクに載せて、デルフォニックスの「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」やイントゥルーダーズの「アイ・リメンバー!」の歌声が印象的な「カウボーイズ・トゥ・ガールズ」をマッシュアップして、遊んでいた。

最後のアンコールの1曲目が、「フリーマン」。ニューヨークのディスコ・グループ、サウスショア・コミッションのヒットだ。フィリーでの録音だった。フィリップにレコードは持ってるのかと尋ねると、持ってない、ダウンロードした、という答え。僕は7インチ、アルバム、持ってるよ、というと、ラルフが驚いて、「ユー、ラジオ番組やるべきだ。なんでも知ってるんだな。こんな曲知ってるんだったら、ラジオ番組やるべきだ」と笑った。しかし、久々に聞いた「フリーマン」。ホーンセクション(ここではフィリップのキーボードで)が入って、なかなか重厚でかっこいい。まあ、どう考えても、この曲をライヴで聴けるなんてことは、ニューヨークでもあるまい。すごい選曲だ。

このあたりの、渋い選曲はさておき、王道の歌物もよかった。フェリシアもタイも実に聴かせる。

タイ・スティーブンスが歌うルーサーの「フォーエヴァー・・・」(お見事)、クインシー・ジョーンズ、バーナード・アイグナーの「エヴリシング・マスト・チェンジ」(素晴らしい)、レオン・ラッセルの「ア・ソング・フォー・ユー」(やられた)、タイはまるで歌を演じるかのように歌いきる。

フェリシアが歌うアレサ・フランクリンの「エイント・ノー・ウェイ」(超せつない)、シャカ・カーンの「アイ・ノウ・ユー、アイ・リヴ・ユー」(ゴキゲン)、ラルフが歌う「アクロース・110th ストリート」など、最高のソウル満載のライヴだった。タイのリズム感の良さ、ダンサーとしての身体能力も見事だ。僕は彼を見ていて、かのカール・アンダーソンを思い出した。それをタイに言うと、「それは大変嬉しい、すばらしい褒め言葉だ」と喜んだ。

湯川先生は、「なんかニューヨークにいるみたいね」と楽しんでいただいたようだ。

(この項、つづく。ライヴ前の音楽談義などを明日ご紹介します)

■今日の『ソウル・ブレンズ』内「ソウル・サーチン」でライヴ音源ご紹介

今日日曜『ソウル・ブレンズ』内「ソウル・サーチン」(インターFM、日曜午後2時半~)でこのライヴ音源をご紹介します。

■前回ニューヨーク・オールスターズ、タイ・スティーブンスなど

July 13, 2006
Philip Woo Band: So Tight, So Funky
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200607/2006_07_13.html

July 21, 2006
Philip Woo & New York Allstars: Don’t Leave Me This Way (Japanese Version)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_07_21.html

July 20, 2006
Philip Woo & New York Allstars: Don’t Leave Me This Way
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_07_20.html

August 03, 2006
Tonight Is Ty Night: Philip Woo & New York All Stars Final
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_03.html

March 15, 2007
"Summer Time" Is Coming: Donny’s Soul Is Coming: Ty Stephens Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/001639.html

March 03, 2007
Ty Stephens Will Sing Day And Night In Tokyo, Next Week
http://blog.soulsearchin.com/archives/001616.html

■メンバー、セットリスト

Philip Woo & New York All Stars: Live
November 24, 2011 At Blues Alley Meguro

Members:

Philip Woo (Keyboards, harmonica)
Ralph Rolle (Drums, vocal)
Hino “Jino” Kenji (Bass)
Masa Kohama (Guitar)
Felicia “Felix” Graham (Vocal)
Ty Stephens (Vocal)

Setlist: New York All Stars, November 24, 2011 at Blues Alley Meguro
セットリスト ニューヨーク・オールスターズ、2011年11月24日
[ ]=original, ( )=singers today

1st set

Show started 19:46
01.Six To Four [George Benson] (Instrumental)
02.Across 110th Street [Bobby Womack] (Ralph Rolle)
03.How Come You Don’t Call Me [Prince/Alicia Keys] (Felicia Graham)
04.Something Special (Felicia’s original)
05.Forever, For Always, For Love [Luther Vandross] (Ty Stephens)
06.Who Is He, And What Is He To You [Bill Withers, Creative Source] (Ty)
07.Slipping Into Darkness [War](Ralph,Ty& Felicia)
08.Rock Steady [Aretha Franklin] (Felicia)
Show ended 21:00

2nd set

Show started 21:31
01.Organ Prelude [Twinky Clark] (Felicia)
02.Can We Pretend? [Bill Withers] (Ty)
03.I Never Liked You (Ty) (original)
04.Ain’t No Way [Aretha Franklin] (Felicia)
05.More Today Than Yesterday [Spiral Starecase] (1969) (Ralph) – mashup including a riff of “La La Means I Love You”, “Cowboys To Girls”, “Love On A Two Way Street”
06.Everything Must Change [Quincy Jones / Bernard Ighner] (Ty)
07.L-O-V-E [Ohio Players] (Ralph)
08.I Know You, I Live You [Chaka Khan] (Felicia)
Encore
09.Free Man [Southshore Commission] (all)
10.A Song For You [Leon Russell] (Ty +Philip only)
Show ended 22:59

(2011年11月24日木曜、目黒ブルースアレイ、フィリップ・ウー&ニューヨーク・オールスターズ)
ENT>MUSIC>LIVE>Woo, Philip & The New York All Stars
2011-

◎久保田利伸 『ゴールド・スクール』ツアー~ゴールドの道を行く

(内容が少し出ますが、詳細はでません。ただ、これからごらんになる方で事前に内容を知りたくないかたはご注意ください)

【Kubota Toshinobu Gold Skool: Live】

ゴールド。

久保田のライヴはいつものように、ライヴが始まる前からライヴは始まっていた。ミラーボールが天井で周りながら、ステージのDJが徐々に音を大きくしながら、ソウル、ファンクをプレイしている。定刻少し前に席につくと、シャラマー、トム・ブラウン、レイ・パーカー、ザップ、カール・カールトン、シックなどがかかり、一昔前のディスコを彷彿とさせる雰囲気を生み出す。そして、おもむろにステージ中央の高い台に登場。歓声。

今回はステージを全面LEDパネルでまとめ、そこにミュージシャンたちを配し、映し出される映像とライヴ・パフォーマンスをリンクさせ、試聴効果を格段にアップしている。

ただ、あくまで基本はしっかりしたタイトなライヴ・バンドにバック・コーラス、ダンサー、その中央に位置する久保田という、ライヴの基本、王道を貫き通すところ。本当にこのバンドはかっこいい。そしてどの曲もキャッチーで日本になじむ。ライヴ後もいろいろなメロディーがこちらの頭の中でぐるぐる回るまわる。

それにしても、ブラックっぽいファンキーっぽいグルーヴっぽい音楽を日本にここまでなじませた久保田の力、足跡は立派だ。ソロ・デビュー25周年。25年を歩み、さらに続く道はソウルの輝くソウル・ゴールドの道。その行方はゴールド・スクールだ。

ちなみに、中盤、久保田が着替えるときにコーラスのタイ・スティーブンスとフェリシアが歌うのは、マーヴィン・ゲイの「マーシー・マーシー・ミー」、ティーナ・マリーの「スクエア・ビズ」、その後、「マーシー…」に戻り、少しマーヴィンの「ホワッツ・ゴーイング・オン」を交える。

今回のハイライトというか、おもしろかったのが、マジック・ショー。フィリップと柿崎さんの「オリーブの首飾り」が会場に流れると、元々マジックが大好きだった久保田が、堂々とマジックを披露する。なんとマギー司郎さんの門を叩き、習ったという。スティッキのマジックなど2演目。そのうち、瞬間移動でもやるかな。

そして、ライヴ終了後は、いつものようにヒートウェイヴの「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」から、マーヴィンの「アフター・ザ・ダンス」へ。これもひとつの型だ。

ツアーは2012年1月21日、22日の国立代々木競技場第一体育館(東京)まで続く。

(ネタばれにならないようにまとめてありますので、ツアー終了後に改めて詳細を書く予定です)

■月曜日のテレフォン・ショッキング、久保田登場

2011年11月28日(月)の『笑っていいとも』(フジテレビ系、午後12時~)「テレフォン・ショッキング」で、鈴木雅之からの紹介で久保田利伸が登場。

■久保田利伸過去記事

2010年07月30日(金)
久保田利伸ライヴ@国際フォーラム
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10603911387.html

2010年06月28日(月)
久保田利伸『タイムレス・フライ』ツアー
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10575093029.html

2010年08月24日(火)
久保田利伸『タイムレス・フライ・ツアー』セットリスト
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100824.html

July 30, 2006
Kubota Toshinobu Shouted "You Are My Soul" At The Center Of The Stage
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200607/2006_07_30.html

August 07, 2006
Groovy Performance For Groovy People: Kubota Toshinobu Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_08_07.html

March 09, 2007
Kubota Toshinobu: MTV Icon TV Shooting Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/001633.html

2010年03月01日(月)
久保田利伸さん、『ソウル・ブレンズ』を1時間ジャック
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10470448295.html

December 25, 2006
After Johnny Gill; Japanese Soul Men Summit
http://blog.soulsearchin.com/archives/001478.html

■久保田利伸 オフィシャル・ホームページ(ツアー予定なども)
http://www.funkyjam.com/artist/kubota/

■ゴールド・スクール(初回限定盤)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0056WFP1G/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■通常盤

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0056WFP2A/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ メンバー

Toshinobu Kubota (vocal)

Yoichiro Kakizaki (keyboards)
Ralph Rolle (drums)
Philip Woo (keyboards)
Wataru Suzuki (bass)
Yosuke Onishi (guitar)
DJ Mass (DJ)

Yuri (background vocal)
Ty Stephens (background vocal)
Felicia Graham (background vocal)

Miho Brown (dancer)
Ricky (dancer)
Kae The Funk (dancer)

■ セットリスト
Setlist : Kubota Toshinobu @ NHK Hall, November 17, 2011

(セットリストの詳細は、ライヴツアーが終了後にご紹介します)

DJ*

00.A Night To Remember / Shalamar
01.Funkin For Jamaica / Tom Browne
02.It’s Time To Party Now / Ray Parker Jr.
03.Dance Floor / Zapp
04.She’s A Bad Mama Jama / Carl Carlton
05.Le Freak / Chic

Live performance started 18:43

01.

08.Mercy Mercy Me [Marvin Gaye] (Ty Stephens) – Square Biz [Teena Marie] (Felicia) – Mercy Mercy Me – A riff of What’s Going On



Encore
show ended 21:15
01. CD: Always & Forever / Heatwave
02. CD: After The Dance / Marvin Gaye

(2011年11月17日木曜、東京・渋谷NHKホール、久保田利伸ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Kubota, Toshinobu
2011-

●アンドレア・トゥルー、68歳で死去~「モア・モア・モア」のディスコスター

【Andrea True Dies At 68】

訃報。

1976年のディスコ・ヒット「モア・モア・モア」で知られるディスコ・アーティスト、アンドレア・トゥルー・コネクションのアンドレア・トゥルーが、2011年11月7日、ニューヨーク・キングストンの病院で死去した。68歳だった。死因は明らかにされていない。どうやら身寄りがなく、最後を看取った施設で火葬されたようだ。

By ABC News
Nov 22, 2011 3:51pm
Andrea True, Porn Star and Singer, Dies at 68
http://abcnews.go.com/blogs/entertainment/2011/11/andrea-true-porn-star-and-singer-dies-at-68/

アンドレア・トゥルーとその大ヒット曲「モア・モア・モア」については、下記エントリーが詳しい。同曲は、アンドレアのヒット後、サマンサ・フォックス、バナナラマ(1993年)、レイチェル・スティーヴンス(2004年)、ダニー・ミノーグらがカヴァー。1999年にはカナダのグループ、レンがサンプリングして使用している。また、アンドレアのヴァージョンは、テレビ・シリーズ『セックス・アンド・ザ・シティー』や他の映画などでも使用されている。プロレスラー、ラリー・スイーニーの入場テーマともなっていた。替え歌が『シンプソンズ』で2度にわたって使われている。

■ 2007年07月24日(火)
【「モア・モア・モア」誕生秘話】
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10040975223.html

アンドレア・トゥルーは、本名、アンドレア・マリー・トゥルーデン。1943年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ。

彼女はナッシュヴィルの保守的なセント・セシリア・アカデミーという学校で寄宿舎生活をしていた。ここを1956年頃に卒業。

卒業後、彼女は映画スターを夢見てニューヨークに向かう。いくつか、小さな役を得ることが出来たが、大きな役は取れなかった。そんな失意の頃、彼女の元にポルノ映画出演の話が舞い込み、これを受ける。以降彼女は多数のポルノ映画に出演、50本以上のポルノにでて、そのほとんどがX指定だ。

彼女がアクティヴだったのは、1971年から1983年くらいまで。この時代、「インガー・キッシン」「アンドレア・トラヴィス」「シン・ロウ」「シング・ロウ」などいくつか芸名を持っていた。

1975年、アンドレアはジャマイカの不動産会社のCMに出演することになり、その撮影のために、ジャマイカに向かった。ところが彼女がジャマイカ滞在中に、政治的な変革で、国外への外貨持ち出しが禁止されてしまった。つまり、CMを撮影してもそのギャラをアメリカに持って帰れないというのだ。

そこで彼女は一計を案じた。以前から知り合いだったニューヨークの音楽プロデューサー、グレッグ・ダイアモンドに連絡し、ジャマイカで曲をレコーディングして、そのマスターテープを持って帰ろうというのだ。テープであれば、現金ではないので、国外に持ち出せる。もらったギャラを、当地のミュージシャンたちへのギャラ、スタジオ代などで使ってしまおうというアイデアだ。

グレッグは、ふってわいた話だったが、とりあえず歌なしのインストゥルメンタル・トラックだけをいれたマスターテープを持ってジャマイカにやってきた。そこで、アンドレアとともに急遽歌詞を書き、現地のホーンセクションなどのミュージシャンを起用してレコーディングを完成させた。

無事このマスターテープをアメリカに持ち帰ったアンドレア・トゥルーとグレッグ・ダイアモンドは、まだミックス(トラックダウン)前のマスターを、「ディスコ・ミックスの父」ことトム・モウルトンに聴かせた。トムはこの作品を気に入り、ミックスをすることを引き受け、「モア・モア・モア」は、「ア・トム・モウルトン・ミックス」で完成。

これは1976年1月に12インチが配布され、瞬く間にディスコで話題を集め始め、ディスコ、ソウル・ラジオ、はてはトップ40でも大ブレイク、ポップ・チャートで最高位4位を記録。ディスコ・クラシックとなった。現金を持ち出すことができなくなったおかげでジャマイカでレコーディング・セッションを行い、それが大ヒットに結びついたのだから、音楽の神様はどこでどう微笑むかわからない。まさにひょうたんから駒だ。

アンドレア・トゥルーはその後もディスコを狙った作品をだし、デビュー作に収録されていた「ニューヨーク・ユー・ガット・ミー・ダンシング」などは、ディスコでも大いに受けていた。

3作目がヒットしなかった後、アンドレアは一時期ポルノ業界に戻ろうとしたが、30代中盤を越えていた彼女にはなかなか仕事はこなかった。一方、彼女は喉におおきな腫れ物が出来る病気にかかり、結局、手術をする。このことによって、歌手生命も絶たれ、その後は静かにプライヴェート・ライフを送っていた。

それからおよそ20年後、1999年、カナダのグループ、レンが「モア・モア・モア」のリフを使い、「スティール・マイ・サンシャイン」という曲をヒットさせたことから、再びアンドレアも脚光を浴びることになった。これを機に彼女は「あの彼らは今どこへ」といったテレビ番組などで取り上げられるようになる。VH1が作成した「100グレイテスト・ダンス・ソングス・イン2001」で45位に選出されたり、「VHS1・100グレイテスト・ワンヒット・ワンダー・イン2003」に選出されたりしていた。

その中で、彼女は、「人々に快感を与えた人物として覚えておいてもらいたい。私の音楽でね」といったコメントをしている。ポルノではなく、音楽で快感を与えた、というところがおもしろいところだ。

彼女は4年ほど前まではフロリダで、星占いなどをしたり、ドラッグ中毒者に対するカウンセラーなどを行っていた、というが、最近はニューヨーク郊外ウッドストックに住んでいたという。

■モア・モア・モア

http://youtu.be/RlJGrIyt-X8



■ベスト

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000DIJPC/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

OBITUARY> Andrea True, (July 26, 1943, – November 7, 2011, 68 year old),

○『八木カナのソウル・マジック』にゲスト生出演~11月29日(火)

【The Soul Searcher Will Be On Yagi Kana’s Soul Magic】

ゲスト。

ソウル・ミュージックのライター/フォトグラファーとして1970年代に活躍した札幌在住の八木カナさんがインターネット上で隔週放送しているトーク番組『ソウル・マジック』の2011年11月29日(火)放送分で吉岡正晴がゲスト出演することになった。生放送で11月29日、午後10時から約1時間半をメドにお送りする。1974年から75年頃にかけてのソウル・ミュージック・シーンについてお話する予定。

ネットでは、次のユーチューブのアドレスにアクセスして、聴ける。
http://www.ustream.tv/channel/kanachan-nel

また、ここには、これまで13回分のアーカイブもある。

また、ツイッターでは、次のハッシュタグをつけて、当日生放送中にツイートしていただければ吉岡も八木さんも、それを見ながらオンエアする。

#soulmagic

この打ち合わせを昨日(11月23日)スカイプでしたのだが、なんと3時間を越えるものになった。

いくつかアーティストをピックアップし、それぞれ思い入れやエピソードなどを語る。今候補に挙がっているのが、ドラマティックス、デルズ、スタイリスティックス、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、シャイ・ライツ、マーヴィン・ゲイなど。またトークネタとして、それぞれがインタヴューしたアーティストで苦労した例などを具体的に話す。ただし、話がそれぞれかなり脱線する可能性もある。

生放送ですので、ぜひ、29日夜10時頃から、ネットでお聴きください。生放送終了後、アーカイブとしても残します。今回の出演はたまたま八木さんがツイートでこのアーカイブをアップしたという情報をアップしていてそれを聴いたところ大変おもしろかったので、おもしろかったです、とツイートしたら、お返事をいただき、とんとん拍子に話が進んだもの。

■マーヴィン・ゲイの『引き裂かれたソウル』の翻訳秘話もします

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4860203186/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

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生放送。

八木さんは1950年札幌生まれ。2歳で東京に移り、以後東京育ち。1960年代後期から黒人音楽に興味を持ち、1971年頃からちょくちょくアメリカに出向き本場のブラック・ミュージックなどに接するようになった。1974年頃からスイング・ジャーナル社が発行し始めた音楽誌「アドリブ」などに、写真や原稿を寄稿し始めた。当時日本に来るソウル・アーティストやジャズ系のミュージシャンたちと親交を深め、多くのインタヴューなどをものにした。

それだけに飽き足らず、1989年6月から2002年までテキサスをベースにアメリカ在住。1990年から約5年でテキサス州のヒューストン・トリットソン大学に入学、アメリカ文学、人種問題などを勉強し卒業した。

八木さんが卒業したヒューストン・トリットソン大学。この大学名は二人の名前からとっている。テキサス州ヒューストンとスペルが違う。
http://htu.edu/

ちなみに、この「ソウル・マジック」という番組自体は、もともとFM北海道で1987年6月から1988年3月まで放送されていた30分番組。これをインターネットで流したところ、大変好評を得て、それを機に生でトークをしようと考え、現在は隔週火曜日夜に生放送するに至っている。当初は30分番組として始めたが、ゆるく放送するために、フュージョン・グループ「スタッフ」について語った前回などは1時間30分以上になっていた。実際にミュージシャンと触れ合ってのエピソードは圧倒的におもしろい。

29日、お楽しみに。

ANNOUNCEMENT>RADIO>Soul Magic

□ 第39回アメリカン・ミュージック・アワード(2011)決定

【39th American Music Award (2011)】

決定。

今年で第39回を迎える「アメリカン・ミュージック・アワード」が、2011年11月21日夜(日本時間、22日午前)、ロスアンジェルスのノキア・シアターで発表された。

テイラー・スイフトとアデルが3部門ずつ受賞。カントリーのテイラーは、この賞のハイライトである「アーティスト・オブ・ジ・イヤー」を2009年に続いて受賞した。

「アメリカン・ミュージック・アワード」は、1973年度(発表は1974年1月)から始まり今年で39回目。当初は翌年1月に発表していたが、2003年からは当該年度の11月に発表している。グラミー賞が業界人によって選出されるのと違い、アメリカン・ミュージック・アワードは一般のファンの投票で決まる。また部門も19部門とグラミーの100部門前後と比べ圧倒的に少ない。作品よりも、アーティスト単位で賞を授与する。

受賞者は、次の通り。

— Adult Contemporary Artist: Adele
— Alternative Rock Artist: Foo Fighters
— Contemporary Inspirational Artist: Casting Crowns
— Country Female Artist: Taylor Swift
— Country Male Artist: Blake Shelton
— Country Band, Duo or Group: Lady Antebellum
— Country Album: Taylor Swift, “Speak Now”
— Latin Music Artist: Jennifer Lopez
— Pop/Rock Female Artist: Adele
— Pop/Rock Male Artist: Bruno Mars
— Pop/Rock Band, Duo or Group: Maroon 5
— Pop/Rock Album: Adele, “21”
— Rap/Hip-Hop Artist: Nicki Minaj
— Rap/Hip-Hop Album: Nicki Minaj, “Pink Friday”
— Soul/R&B Female Artist: Beyonce
— Soul/R&B Male Artist: Usher
— Soul/R&B Album: Rihanna, “Loud.”
— Artist of the Year: Taylor Swift
— New Artist of the Year: Hot Chelle Rae

Pop/Rock Album: Adele, “21”アデル

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B004EBT5CU/soulsearchiho-22/ref=nosim/

日本盤

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0048JEEH4/soulsearchiho-22/ref=nosim/


リアーナ

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005HWUCMC/soulsearchiho-22/ref=nosim

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00428ZRFE/soulsearchiho-22/ref=nosim/

ニッキー・ミナージュNicki Minaj, “Pink Friday”

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0042RUMEQ/soulsearchiho-22/ref=nosim/

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B004EMWC3S/soulsearchiho-22/ref=nosim/

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AWARD>American Music Award>39th

◎メイヤー・ホーソーン(パート2)~ソウルに敬意を表して~新しい時代のブルーアイドソウル 

【Mayer Hawthorne (Part 2): New Age Of Blue-Eyed Soul】

ソウルマニア。

ファーストの後は、いつもメンバーは食事をするのだが、本人が快く応対してくれた。

メイヤー・ホーソーンは、実はステージ・ネーム(芸名)。本名は、アンドリュー・メイヤー・コーエン。ミドルネームの「メイヤー」とデトロイト近くの生まれ育ったストリートの名前「ホーソーン」から、芸名を作った。1979年2月2日、ミシガン州アン・アーバー生まれ。現在32歳。デトロイトのすぐ近くなので、デトロイトに育ったといってもいい。ということで、モータウンの影響が強いのは当然なのだが、しかし、32歳だと、60年代のモータウン全盛は、リアルタイムではない。そのあたりがとても不思議だった。

彼のサウンドは60年代、70年代のモータウン・サウンドがベースになっている。「そんなに若いのになぜ、こうした古いソウルに触れているの?」と尋ねると、「僕はデトロイト出身だからね。それに父親がミュージシャンでたくさんのレコード(アナログ)を持っていたんだ。それをよく聞いていた。父はロックだけど、いまだにプレイしているよ。父親が聴いていた音楽を聴いたり、自分で父親のレコードを聴いたりしたんだ」という。「フィリー・ソウルやモータウンが大好きなんですね」とふると、「オオ・イエー(もちろんだよ)」。

好きなシンガーはと訊くと間髪をいれずに、「バリー・ホワイト」との返答。なかなか意外なところが出てきた。彼自身なかなかいいファルセット(裏声)を聴かせていたが、では好きなファルセット・シンガーは誰かと尋ねると、「エディー・ホールマン、ラッセル・トンプキンス、カーティス・メイフィールド、モーメンツのハリー・レイ…。たくさんいる」。

「けっこう古いレコード持っているのですか」と訊くと、「たくさんある」。

彼自身かなりのレコードコレクターだと聞いて驚いた。どれくらい持っているのかと訊くと「1万枚はあると思う」と、楽屋の壁の端から端まで指差した。しかも、なんと、アナログのアルバムだけでなく、7インチも12インチも集めるという。「デトロイトにはいいレコード屋があるんだよ、新譜も、古いのも扱う店もある。もちろん、今でも買うよ」

彼はもともとDJとしてクラブ・シーンで活躍を始めた。それから歌を始めた。「歌を始める前から僕はDJで、歌は最近なんだ」 だから、彼の作品群が今のクラブ風というか、DJ風に受け入れられる要素があると妙に納得した。そして、その楽曲もひょっとしたらDJに好まれるような感じでシンプルに作られているのかもしれないと思った。

「7インチでこれまでにもっとも高く払ったものは覚えてる?」「ああ、何枚かある。ミッドナイト・エクスプレスのえ~と曲名なんだっけな。その7インチは200ドルだったか払った。それを、そのアーティストの知り合いという男が最後の10枚だとか言って持ってて、その値段を言われて、どうしても欲しかったから、買ったんだよ(笑)」 そして、ベース奏者のジョーに「なあ、ミッドナイト・エクスプレスのあの曲名なんだっけ」と尋ねると、彼が「『デンジャー・ゾーン』じゃないか」と答える。「あ、そうだ、『デンジャー・ゾーン』だ」。帰って調べてみると、これは12インチもでているコレクター向けの1枚だが、今では比較的安価で手に入るようだ。

ということは、欲しいレコードのリストというのはあるわけだ。「もちろん、これくらい(と手を広げる)、いつもあるよ。いわゆる『ウォンツ・リスト』がね(笑)」うむ、これは一度、メイヤーとソウルバーに行って、じっくり話をしてみたいなと思った。

あれだけ、古いソウルを知っているのだったら、地元デトロイトのブラック・ラジオ局でもかじりついて聴いていたかと思い、「ラジオは?」と尋ねると、「ラジオはだめだよ。何にも(そういったものを)かけない」と言い、「ではあなたのCDもかけないの?」ときくと、「そう、僕のCDも全然かからないよ。だから、プロモーションはレコードショップや、ライヴをやったり、口コミだったりだね」と言う。これにはさすがに僕も驚いた。

黒沢薫さんが彼の曲をこう分析する。「メイヤーの曲がいいのは、彼がそんなに歌がうまくないので、それでいいバランスの曲を作るからだと思う。たとえばルーサー・ヴァンドロスやジョニー・ギルみたいにめちゃくちゃうまくて、そのうまさを思い切り聞かせてやろう、っていう風にならないので、その分、いい曲を作ってそれを聞かせようっていうスタンスになるんだと思う」 なるほど、その通りだ。

西寺郷太さんは、「おしゃれでかっこいい。スーツにスニーカー。僕もああいうキャッチーでポップなのをやりたいんです。今、新しいアルバム用に曲作ってて、ちょっと止まっちゃってるんですけど、今日のメイヤー見て、なんかインスピレーションもらった」という。

■ライヴ・フロム・ダリルズ・ハウス

リスペクト。

スタイル・カウンシルやダリル・ホールみたいだと思ったら、なんと、メイヤーはすでにあの名音楽番組『ライヴ・フロム・ダリルズ・ハウス』に出演していた。その中でダリルが、「ある種の音楽が好きな連中がいて、彼らはそうした音楽への愛を自分のものにしている。彼もそんなアーティストだ」と言っている。まさにその通り。

http://www.livefromdarylshouse.com/currentep.html?ep_id=58

メイヤーが歌うホール&オーツの「プライヴェート・アイズ」など、はまりすぎだ。

メイヤーはスタイル・カウンシル、インコグニートのブルーイなどと同列で、一方同じ60年代、70年代ソウルに傾注するラファエル(ラフィーエル)・サディークあたりと比べると、メイヤーのほうがサディークよりポップで軽い印象がする。その分、日本人受けするのかなあ、などとも思った。

また、CDよりも、ライヴのほうが何倍もいいという発見も、ライヴを見ての大きな感想のひとつ。

そうそう、余談だが、ドラムスのクイントン・ジョセフという名前をみて、フィラデルフィアに同名のドラマーがいて、オージェイズのバックなどをしていると思っていたが、なんとフィリーのクイントンとは、まったく同名別人だそうだ。同じ名前で、同じ楽器とは、これはややこしい。(笑) このメイヤーのバックのクイントンは1980年生まれで若い。彼はフィリーのクイントンの存在を知っていたが、会ったことはないそうだ。

おりしも、最近のビルボード誌が、メイヤーがツアーに行くときに持っていくものというネタで記事にしていた。

http://www.billboard.com/column/the-hook/mayer-hawthorne-s-style-council-1005543882.story#/column/the-hook/mayer-hawthorne-s-style-council-1005543882.story

そのトップが、ナイキのスニーカー。東京でもそれを履いてた。ツアーどこへ行くにもポータブル・ターンテーブルを持って行くというところが、レコード好きの証明だ。

彼がツアーに出るとき必ず持っていくもの。来年来たら、また必ず見に行こうと思う。

1.DJ AM Nike Dunks
"These are my DJ AM dunks which are some of my all time favorites, partly because AM was a homie and they’re also some of the dopest kicks. They have the Technics 1200 pattern on the back which is one of the dopest details ever."
2.Custom Made Pajamas
"The PJs! Yeah, I had those tailored-I get almost all of my clothing tailored-and the pajamas are no exception. Those come with me everywhere I go."
3.Flud Turntable Watch
"I have my own signature model of this watch coming out soon. It’s going to have my heart record on the turntable and my little logo on the bottom." See style details for more quotes.
4.Oliver Peoples Glasses
5.Portable Turntable
"The biggest travel essential is my portable turntable, for sure. I don’t go anywhere without that. And a boatload of D batteries - it runs on six DJ batteries. D MOTHERFU**A D."
6.Olympus Stylus Epic Camera
"It has a 2.8-macro lens in it, which is really rare for a compact point-and-shoot camera. I love shooting with film. It’s really small and compact; I can carry it around in my pocket. I can just pull it out and slide the thing open.Yeah, it’s a film camera. I’ve been documenting all of my journeys around the world and touring with this thing."


■これが去年話題になったアルバム『ア・ストレンジ・アレンジメント』

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002HRTMHQ/soulsearchiho-22/ref=nosim

■そしてこれが最新作

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005HWUBZ0/soulsearchiho-22/ref=nosim/

ENT>ARTIST>Hawthorn, Mayer
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◎メイヤー・ホーソーン(パート1)~ソウルに敬意を表して~新しい時代のブルーアイドソウル 

【Mayer Hawthorne Live: New Age Of Blue-Eyed Soul】

ソウル。

「ブルー・アイド・ソウル・センセーション」と騒がれたのは昨年。アメリカのインディ音楽シーンでちょっとした話題を集めていたシンガー、メイヤー・ホーソーン。昨年のライヴを見逃していたので、二度目の来日で初鑑賞。

いやあ、予想以上によかった。一言で言えば、白人でソウル好きな若者が、かつてのソウルにリスペクトを持って、それを消化し、自分のものにして、おしゃれに見せた、といったところか。イギリスのスタイル・カウンシル、フィラデルフィアのダリル・ホールあたりがソウルを解釈して、自分のものにして、その結果良質の「ブルー・アイド・ソウル」になったという感じだった。バンドがまたしっかりしていて驚いた。

東京1日しかないために、1-2セットとも超満員。観客は若いクラブに行きそうな人たちが多かった。来年はきっと最低2日のライヴになりそうだ。

全員グレイのスーツで、しかし、足元はスニーカーというおしゃれさん。全体的にモータウン風曲調がポップに響く。テンポの速い曲では、ちょっとメイヤーとギター、ベースが揃ってステップを踏みながらやって見せ、ソウルショーっぽいプレゼンテーションにもなる。

モータウン風もあるが、ちょっとスタックス風も。みな60年代を思わせる。そのせいか、各曲が短くて実にいい。なんか、ポップだ。それにしても全曲、60年代、70年代のソウル風。どうしてここまで徹底できるのか、すごく興味を持った。しかし、やっぱり、一番はモータウンの影響かな。そして、その中でもスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズが一番強い。あと、ハイ・ヴォイスのあたりは、カーティス・メイフィールドを思わせる。

ギターを持って歌う姿も、ちょっと振りをつけながら歌う姿が、いかにもソウル好きな白人がかわいくやっている感じがして好感が持てる。

日本人やイギリス人のソウル好きがライヴをやるとこうなる、という感じがして、日本人でこういうスタイルのバンドがいれば面白いのにな、と思った。ダリル・ホールがソウルバンドをやるとき、スタイル・カウンシル、あるいは、インコグニート、ブランニュー・ヘヴィーズあたりが同路線なのだろう。そうしたら、西寺郷太さんが「めちゃくちゃ、よかったですね。こういうのやりたいんですよ」大興奮しながら口角泡を飛ばした。偶然会ったゴスペラーズ黒沢さんも「いやあ、よかった、よかった。ほんとおしゃれだよねえ」と興奮中。

ライヴが始まる前かかっていたCDがアル・グリーンの「ゴッド・ブレスド・アワ・ラヴ」、そして、ライヴ・アンコール後もアル・グリーンだった。(曲名失念) このあたりもこだわりがあるのかな。

ということで、ちょっとだけ本人に会うことにした。

(明日につづく)

■これが去年話題になったアルバム『ア・ストレンジ・アレンジメント』

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■そしてこれが最新作

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■メンバー

メイヤー・ホーソーン / Mayer Hawthorne(Vocals)
クインシー・マクラリー / Quincy McCrary(Keyboards)
クリスチャン・ヴンダリッヒ / Christian Wunderlich(Guitar)
ジョー・エイブラムス / Joe Abrams(Bass)
クエンティン・ジョセフ / Quentin Joseph(Drums)

■セットリスト
Setlist : Mayer Hawthorne, Billboard Live Tokyo, November 16, 2011

CD God Bless Our Love / Al Green
show started 19:03
00.Intro
01.Maybe So
02.Gangster Love
03.Maker Her Mine
04.Easy Lovin’
05.The Walk
06.Shiny And New
07.Wish Would Rain
08.No Strings
09.Dreaming
10.I’ve Got A Crush On You [Standard-George Gershwin]
11.One Track Mind
12.Work To Do [Isley Brothers]
13.Just Ain’t Gonna Work Out
14.A Long Time
15.The Ills
Enc. Love Is Alright
Show ended 20:08

(2011年11月16日水曜、ビルボードライブ東京、メイヤー・ホーソーン・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Hawthorn, Mayer
2011-

☆今日はマイケル・ジャクソン『イモータル』~「ソウル・サーチン」(午後2時半から)

【”Immpoetal Megamix” Will Be On Soul Searchin】

不滅。

ダンス・カンパニー「シルク・ド・ソレイユ」が、マイケル・ジャクソン楽曲ばかりを使用して作り上げたエンタテインメント・ショー『イモータル』が2011年10月2日からカナダ・モントリオールで始まったが、そのショーで使われる音源のサウンドトラック的存在のアルバム、その名も『イモータル』が2011年11月23日日本発売される。

シルク・ド・ソレイユ予告編

http://youtu.be/x5kPTl4jEFo



これに伴い、今日の『ソウル・ブレンズ』(関東地区・インターFM、76.1mhz、毎週日曜午後1時~3時)内「ソウル・サーチン」(午後2時半~)のコーナーで、ご紹介する。また、12月13日、14日に行われる「マイケル・ジャクソン・トリビュート・イヴェント」のことも少し紹介できるかと思う。

インターFMは、関東地区にお住まいの方は、パソコンでラジコにアクセスすると聴ける。また、他にAUの携帯電話をお持ちの方は、有料だが、申し込めば全国のFMラジオを聴ける。そのほか、衛星テレビ放送、スカパーと契約している方も、ラジオチャンネルで聴ける。

ラジコはこちら。
http://radiko.jp/player/player.html#INT

(なお、ラジコは現在のところアクセス者にエリア制限をかけているために、基本的には関東地区の方しか聴けません。それ以外の方は、AUもしくは、スカパーなどでお聴きください。この両者を使えば日本全国で聴けます)

今回アルバム『イモータル』を紹介するのだが、音源に関しては厳しい解禁日設定があり、アルバム全曲の解禁は日本では発売日11月23日の午前0時。それまでは、先にデジタル配信となった「イモータル・メガミックス」のみ。アルバム・ヴァージョンは9分08秒、シングルは4分54秒で、「ソウル・サーチン」では、長いヴァージョンをノーカットでオンエアする。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005SUI4O6/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

このロング・ヴァージョンには、次のような曲がうまくマッシュアップされている。

Can You Feel It / Don’t Stop Till You Get Enough / Billie Jean / Black Or White

番組では、マッシュアップとは何か、などについてもお話する予定。

■マイケル・ジャクソン最近のブログ・エントリー~『イモータル』について

2011年10月05日(水)
サウンドトラック盤『イモータル』2種類で発売~ケヴィン・アンテューンズが音楽デザイナー
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11037930579.html

2011年10月04日(火)
マイケル・ジャクソン~シルク・ド・ソレイユのショーモントリオールから始まる
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11037189225.html

2011年10月28日(金)
物故者(デッド・セレブ)長者番付2011~マイケル・ジャクソン2年連続1位
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11060239931.html

MICHAEL JACKSON>Immortal


■ JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート6)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 6】

TSOP。

今週月曜から木曜まで4日間連続で、深夜JFN系列全国ネットでお送りした『ビッグ・スペシャル』~フィラデルフィア・ソウル大特集。いかがでしたでしょうか。木曜深夜、生放送を3時間ほどしました。

今回ちょっと驚いたのが、前回のモータウン特集と比べ、「フィリー・ソウル」とか「フィラデルフィア・サウンド」「フィラデルフィア・ソウル」とか、そういう言葉、ジャンル自体が一般的に圧倒的に知名度がなかったということ。「モータウンっていうのは、なんとなく雰囲気でわかるけど、フィリー・ソウルってジャンル自体も初めて知った」といったおたよりもいただきました。

確かにそうなのかもしれません。「フラデルフア」「フリーソウル」といった単語が届いていたそうだ。もちろん、「フィラデルフィア・ソウル」がまったく知名度がないので、ギャンブル&ハフ、トム・ベルといった固有名詞は、もっと一部の音楽ファンだけしか知らないということになります。そのあたりをどう説明していくか、解説していくかは、これからの課題かなあ、と思いました。

また、フィリー楽曲が3000曲以上あるということで、完全データベースが欲しいと思いました。(笑) 誰か作ってください。今回選んでみて、アナログしかなくてかけられなかったものもありました。また、フィリー関係は登場人物があまりに多く、そうした人たちに一人一人スポットをあてていっても、大変です。

作品はまだまだあるので、僕的には第二弾、第三弾もできるかなあ、などと思いました。その前に、「フィリー・ソウル」の知名度を上げないと…。(笑) 

番組中、ツイッターなどでメール、メッセージをお送りいただきありがとうございます。

(初日から3日目までのリストは昨日のブログに掲載してあります)

■プレイリスト
JFN ビッグ・スペシャル「フィリー・ソウル特集」~
2011年11月15日~18日

25:00—

M01When Will I See You Again -- Three Degrees 2:59

1)フィラデルフィア・サウンド前夜

M02. Twist -- Chubby Checker 1960
M03. Mash Potato Time -- Dee Dee Sharpe 1962
M04The Horse -- Cliff Norbles 1968

ここでは、フィラデルフィア・ソウルが大爆発する以前のフィラデルフィアの音楽都市としてのお話。

2)トム・ベル、ギャンブル&ハフの登場

M05We’ll Be United -- Intruders: 1966 (2:53)
M06Didn’t I (Blow Your Mind This Time) -- Delfonics (3:22) 1970
M07You’re Everything – Stylistics 2:55 1971
M08Armed And Extremely Dangerous – First Choice 2:50 1973
M09I Wouldn’t Give You Up -- Ecstasy Passion & Pain (3:24) 1974

フィリーのミュージシャンの中で抜け出てきたギャンブル&ハフとトム・ベルの話。

3)PIRフィラデルフィアインターナショナル・設立~TSOP(フィラデルフィア・サウンド)の全盛

M10It’s Forever -- Ebonys: (4:30) 1973
M11Slow Motion -- Johnny Williams:2:57 1972

ギャンブル&ハフがフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを設立していよいよ快進撃が始まるという話。

26:00――

M12TSOP -- MFSB 3:42 1974
M13Nigai Namida -- Three Degrees: (3:52) 1975
M14Best Disco In Town -- Richie Family:6:30 1976
M15I Just Can’t Say Goodbye -- Philly Devotions:3:11 1975
M16Young Americans -- David Bowie 1975
M17Zing Went The Strings Of My Heart -- Trammps: 4:53 1972
M18Don’t Leave Me This Way -- Harold Melvin & The Blue Notes: (6:04) 1975
M19Good For The Gander -- Jermain Jackson 4:18 (1976) (previously unreleased material)
M20Show You The Way To Go -- Jacksons 5:291977

たくさんのアーティストがフィラデルフィア詣でをするようになり、フィラデルフィア・サウンドがアメリカで最大の盛り上がりを持ち始めた話。

27:00—

4) 新しいフィラデルフィア・サウンド

M21(They Just Can’t Stop It) Games People Play -- Spinners: 4:37 1975
M22You’ll Never Find Another Love Like Mine -- Lou Rawls: (4:26) 1976
M23Close The Door -- Teddy Pendergrass:3:35 1978
M24Useta Be My Girl -- O’Jays ( 3:24) 1978
M25If Only You Knew -- Patti LaBelle: (4:45) 1983

70年代後半からは、徐々にそれまで下積みだったアーティストたちが陽の目をみるようになった話。

27:30—

5)個人的に好きなレア・フィリー・グループ

M26Look On The Good Side -- Invitations: (3:22) 1974
M27Whisper A Love Chant – Ambition (3:38)『ソウルギャラクシー』から 1978
M28I Can Testify (Good Things Come To Those Who Wait) -- Richmond Extention: (4:43) 1975  『ソウルギャラクシー』から
M29Samson -- Ebony, Ivory & Jade 2:52 1974
M30 They Say The Girl’s Crazy -- Invitations: (2:51) 1973

僕が好きな、または珍しい作品をピックアップ。

■ フィリー・ソウル入門編のお薦めアルバム

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001F290GM/soulsearchiho-22/ref=nosim/

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FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special





■ JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート5)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 5】

TSOP。

月曜深夜(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。今日は4日目ということで最終回。吉岡正晴が午前1時から生放送で登場します。リクエスト、質問、ご意見などありましたら、下記のメールホームからお寄せください。ツイッターでもOKです。

メール用フォーム・アドレス
http://site.jfn.co.jp/big/mailform/94
吉岡正晴ツイッター
https://twitter.com/soulsearcher216
番組ツイッター
https://twitter.com/ bigsp_staff
番組ホームページ
http://www2.jfn.co.jp/big/
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
ハッシュ・タグ
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
パソコンで聴けるラジコ(関東地区)
http://bit.ly/tRLmkk
なお、これは関東地区のラジコ・アドレスで、全国のラジコは各地の放送局のホームページなどでご確認ください

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてました。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

今日4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろな細かなエピソードをお話をします。

ただ、今日はこれから生放送ですので、放送終了しての感想などは、明日以降のブログで書く予定です。

+++++

3日目まで。

さて、3日まで終えて、4日目に行く前に書いているが、ここ1-2週間、フィリー関係のCDざっと200枚くらい目を通したというか、聴いたというか、した。最終的には3日で86曲かかって、たぶん4日目も20曲はかかると思うので、100曲以上は選んだ勘定になる。しかし、ギャンブル&ハフ関連だけで、トータル3000曲以上がレコーディングされたというから、30分の1にも満たない。しかも、ギャンブル&ハフ以外のものも勘定すればもっとになるだろう。確かに1日1曲としても年間365曲、それが20年続けば7000曲を超えることになる。60年代後期から80年代中期までは、フィラデルフィア・サウンドは次々とあらゆるものがレコーディングされていたにちがいない。改めて、膨大な数のレコーディングが行われたんだなあ、と思った。

だから、アーティスト名、ミュージシャン名、アレンジャー名などを横軸に、楽曲名を縦軸にしたエクセルで超すごいデータベースかなんかできれば、すごく楽しくて便利だろうな、と思った。

フィラデルフィア・サウンドがこれほど現象的な人気を得たのは、たくさんの才能あるミュージシャン、ソングライター、プロデューサー、アレンジャーらがいたからに他ならない。

しかし、フィラデルフィア・ソウルには、当たり前だがいい曲が多い。

なお、初日から3日目まで、「フィリー・ソウル特集」でプレイした曲のリストをお送りします。

PLAY LIST: TSOP The Sound Of Philadelphia

DAY ONE 11/15/2011 Tuesday 1:00am to 3:30am

1st Hour

M01Can’t Give You Anything – Stylistics (1975)

Thom Bell Story

M02La-La (Means I Love You) - The Delfonics (3:20) (1968)
M03Ready or Not Here I Come (Can’t Hide from Love) - The Delfonics (2:00) (1968)
M04Brand New Me -- Dusty Springfield (2:24)(1969)
M05Help Me Find A Way – Little Anthony & Imperials (3:03) (1970)
M06I’ll Be Around – Spinners (3:10)(1972)
M07Could It Be I’m Falling in Love - The Spinners (4:12)(1972)
M08Life Is A Song Worth Singing – Johnny Mathis (6:03)(1973)
M09It’s Gonna Take a Miracle - Deniece Williams (4:11) (1982)
M10I Don’t Have The Heart – James Ingram (4:15)(1990)
M11Baby Is Gone – James Ingram (5:01) (1990)

2nd Hour: Stylistics Story~ World Of Linda Creed

M12Betcha by Golly, Wow - The Stylistics (3:45)(1972)
M13People Make the World Go Round - The Stylistics (3:29)(1972)
M14I’m Stone In Love With You - The Stylistics (3:19)(1972)

M15Break Up To Make Up - The Stylistics (3:58)(1973)
M16You Make Me Feel Brand New- The Stylistics (5:27)(1974)
M17Rockin’ Roll Baby – The Stylistics (3:32)(1974)

>リンダ・クリードが描く独特のブラックとラヴの世界

M18Betcha By Golly Wow – Prince 3:31(1996)

>マイケル・マッサー作品2曲(ちなみに、どちらもフィリー・ソウルではありません)

M19Touch Me In The Morning – Diana Ross 3:27 (1973)
M20Greatest Love Of All – George Benson 3:30 (1977)

>リンダ・クリードの世界、訳詞が火曜のブログに

M21Ghetto Child – Spinners (3:47) (1973)
M22Children Of The Night – Stylistics (6:52)(1972)

3rd Hours : Quiet Storm

M23Quiet Storm – Smokey Robinson [Theme](1975)
M24Didn’t Anyone Ever Tell You I Love You – Philly Devotions (2:54) (1974)
M25You Make Me Feel So Good Baby – Temprees (3:15) (1972)
M26 Do You Remember Yesterday -- New York City (4:38) (1973)
M27I’m Not In Love -- Dee Dee Sharp (5:14) (1975)
M28You’re My Latest, My Greatest Inspiration -- Teddy Pendergrass (5:22)(1981)
M29Time -- Lou Rawls (2:53)(1976)

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DAY TWO 11/16/2011

1st Hour Gamble & Huff Story

M01I’m Gonna Make You Love Me – Diana Ross & Supremes & The Temptations (3:06) (1968)
M02Together – Intruders (2:58), (1967)
M03Expressway To Your Heart -- The Soul Survivors (2:19)(1967)
M04Cowboys To Girls– Intruders (2:39) (1968)
M05Hey, Western Union Man – Jerry Butler (2:39)(1968)
M06Only The Strong Survive - Jerry Butler (2:35)(1969)
M07One Night Love Affair – O’Jays (2:19)(1969)
M08Don’t Let The Green Grass Fool You - Wilson Pickett (2:47)(1971)
M09You’re The Reason Why – Ebonys (3:03)(1971)
M10Drowning In The Sea Of Love – Joe Simon (3:20)(1971)
M11Backstabbers – O’Jays (3:06)(1972)
M12If You Don’t Know Me By Now – Harold Melvin & The Bluenotes, (3:26)(1972)
M13Me & Mrs. Jones – Billy Paul (4:46)(1972)
M14I Wanna Know Your Name – Intruders (5:49)(1973)

2nd hour Gamble & Huff And More

M15I’ll Be Around – Hall & The Oates 4:02 (Spinners)(2004)
M16If You Don’t Know Me By Now – Simply Red (3:23)(1989)
M17Love T.K.O. – Regina Belle 5:02 (1995)

>Philly’s obscure groups

M18I’m Hopelessly In Love With You – Modulations (3:11) (1975)
M19The Way Of Woman – Futures (2:49) (1978)
M20Come And Get Your Love – The Temprees (3:15) (1973)

M21I’m Going Through Changes Now – Brown Sugar (2:47) (Capitol-1975) (Vince Montana)
M22Ain’t Got Nobody To Give It To – Howard Tate(3:42) (1974) (Jerry Ragovoy)
M23One Girl Too Late- Brenda & The Tabulations(3:05) (1973) (Van McCoy)
M24Ain’t No Stoppin’ Us Now – McFadden & Whitehead, (7:01)(1979)
M25Love Train – Bunny Sigler (7:02)(1974)

3rd hour : Quiet Storm

M26Quiet Storm – Smokey Robinson [Theme]
M27Just You And Me Baby - Spinners (3:02) (1972)
M28The Common Broken Heart - Lou Courtney (5:39) (1973)
M29Close The Door - Teddy Pendergrass (5:25) (1978)
M30I Believe And Have Not Seen - Barbara Mason(4:35) (1973)
M31You’re All That Matters - Deniece Williams (5:17) (1982)

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DAY THREE 11/17/2011

1st Hour Salsoul Records

M01Ten Percent – Double Exposure (3:05)(1976)
M02Nice & Nasty – Salsoul Orch (3:48)(1976)
M03Salsoul Hustle – Salsoul Orch (3:28)(1975)
M04Hit & Run – Loleatta Holloway (3:39)(1977)
M05 Runaway – Loleatta Holloway & Salsoul Orch (4:41)(1977)
M06 Dr. Love – First Choice (2:55)(1977)
M07This Will Be A Night To Remember – Eddie Holman (5:47)(1977)
M08Cheaters Never Win – Love Committee (3:55)(1977)
M09You’re So Much A Part Of Me – Carol Williams (3:49)(1977)
M10Love Is Finally Coming My Way – True Example (6:18) (1978)

2nd hour Bobby Martin

M11Love Is the Message – MFSB featuring Three Degrees (6:36) (1974)
M12There’s No Me Without You – Manhattans (3:37)(1973)
M13Dirty Ol’ Man – Three Degrees (3:04)(1973)

2)Baker-Harris-Young (モータウンでいえばホランド・ドジャー・ホランドみたいなプロデューサーチーム) Ron Baker, Norman Harris Young, Earl Young

M14Love Epidemic Trammps (4:47)(1973)
M15Love Won’t Let Me Wait -- Major Harris (3:49)(1975)
M16Bingo -- Whispers (5:12)(1974)

3)Bobby Eli (ギタリストでアレンジャー、プロデューサー)

M17Sweet Charlie Baby --Jackie Moore (2:37) (1973)
M18Sideshow -- Blue Magic (4:06) (1974)
M19Let’s Get Together Now – Aristocrats (3:06) (1976)

4)Dexter Wansel (キーボード奏者、プロデューサー)

M20Hurry Up This Way Again – Stylistics (3:35) (1980)

3rd Hour Quiet Storm Day Three

M21Quiet Storm [Theme]
M22Hurt / Manhattans (3:01)(1973)
M23Wake Up Everybody / Harold Melvin & Blue Notes (7:30)(1975)
M24Let’s Live In Peace / Temptations (4:17) (1976)
M25Stairway To Heaven / O’Jays (6:18)(1976)
M26Sadie / Spinners (5:29)(1975)

フィリー・ソウルが手軽に楽しめる4枚組み

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001F290GM/soulsearchiho-22/ref=nosim/

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FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special

■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート4)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 4】

TSOP。

月曜深夜(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

番組ホームページ
http://www2.jfn.co.jp/big/
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
番組ツイッター
bigsp_staff
ハッシュ・タグ
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
メール用フォーム・アドレス
http://site.jfn.co.jp/big/mailform/94
関東地区のラジコ。http://bit.ly/tRLmkk 
なお、これは関東地区のラジコで全国のラジコは、各地の放送局のホームページなどでご確認ください

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

■フィラデルフィア・サウンドを送り出すレーベルとミュージシャンたち

ACT 1 インディ・レーベルとサルソウル・レコード

サルソウル。

1960年代からフィラデルフィアには多くのインディ・レーベルやプロダクションがありました。フランク・ヴァーチューのスタジオ、ダイナ・ダイナミック・プロダクション、元々は白人レーベルとして始まったキャメオ/パークウェイ・レコード、アークティック・レコード、レッド・トップ・レコード、ブルーベルズ・レコード、フィラ・オブ・ソウル、ジェイミー・ガイデンといったレコード会社です。

そして、ギャンブル・レコード、フィリー・グルーヴ・レコード、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードなどが登場します。

そんなシーンに、1974年、ニューヨークでサルソウル・レコードというレコード会社がスタートします。

サルソウル・レコードは、正確に言うとニューヨークに本社がありフィラデルフィアのレコード会社ではありません。ただフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオで多くのレコーディングをしたり、シグマがニューヨークに支店スタジオを出すと、そこを使用したりして、多くのフィラデルフィア・ミュージシャンを起用することで、フィラデルフィア・サウンドのエッセンスを多く含んだレーベルとなり、かなり多くのフィリー・サウンドの作品を出し、成功を収めたレーベルとなりました。1970年代のフィラデルフィア・サウンドを語る上でギャンブル&ハフ関連以外でもっとも重要なレーベルといえるかもしれません。そこで、3日目の今日は、このサルソウル・レーベルとその周辺のプロデューサー、アレンジャー、ミュージシャンたちにスポットをあててみます。

このサルソウル・レコードは、1974年、既にジャズ、ラテン音楽業界で成功を収めていたジョー、ケン、スタンリーのキャリー兄弟が、ニューヨークで始めた新しいレコード会社です。彼らのアイデアは、当時人気を集め始めていた「サルサ」と「ソウル」をあわせた音楽を作ることでした。そこで、新しいレーベルの名前を「サルソウル」としたわけです。「サルソウル・レコード」の誕生です。

ACT 2 12インチシングルの初の一般発売

12インチ。

サルソウルは、ラテン系人気ミュージシャン、ジョー・バターンのレコードを出した後、フィラデルフィアのアレンジャー、ヴァイブ奏者ヴィンス・モンタナのアイデアで、ディスコを狙ったダンサブルな作品を出します。それは先にヒットを放っていたMFSBというフィラデルフィアのミュージシャンの集合体にならい、独自のオーケストラを作るということでした。それがサルソウル・オーケストラの「サルソウル・ハッスル」で、1975年8月のことでした。その後1976年5月にリリースしたのが、フィラデルフィアのソウル・ヴォーカル・グループ、ダブル・エクスポージャーの「テン・パーセント」です。

この頃、アメリカのディスコでは、多くのソウル・ヒットがプレイされ、人々を躍らせていました。その中でも特にフィリー・ソウルのものは、踊るためのリズム、テンポもよく、ディスコDJに大変好まれていました。そこで、初期のディスコでは、フィリー・ソウルのダンス・ソングが人気となっていました。
 
サルソウル・オーケストラ、ダブル・エクスポージャー以後、サルソウル・レコードからは次々とダンサブルなヒットが続出しました。特にサルソウル・レコードは、それまで多くのレコード会社がプロモーション用だけに制作していたディスコ用の音がいい12インチ・シングルを初めて一般発売したことでも有名になりました。サルソウル・オーケストラの「サルソウル・ハッスル」やダブル・エクスポージャーなどです。これ以後、ディスコ用12インチ・シングルの一般発売が加速し、ディスコ市場は一挙に12インチ自体が盛り上がるようになりました。

ロリータ・ハロウェイ、インスタント・ファンク、ファースト・チョイス、エディー・ホールマンなどいずれもフィリー出身もしくは、フィリーでレコーディングされた作品を出しました。そうしたダンサブルなヒット曲の数々は、いまだにクラブ、ディスコ、そしてラジオでかかります。

サルソウル系では、ヴィンス・モンタナのほかに、フィリーのロン・ベイカー/ノーマン・ハリス/アール・ヤング(通称「ベイカー・ハリス・ヤング」=B-H-Yとも略されます)のトリオが多くの作品をプロデュースしています。

ACT 3 ヴィンス・モンタナ

ヴィンス。

そのサルソウル・レコードでもっとも活躍したのが、ヴィンス・モンタナとベイカー・ハリス・ヤングのトリオでした。

ヴィンス・モンタナは、1928年2月12日生まれ。フィラデルフィアで活躍していたヴァイブ奏者です。古くは1959年のフランキー・アヴァロンの大ヒット「ヴィーナス」でヴァイブをプレイしていました。その後、フィラデルフィアの音楽シーンでプレイヤーとして活動。ソウル・サヴァイヴァーズの「エクスプレスウェイ・トゥ・ユア・ハート」、クリフ・ノーブルスの「ザ・ホース」、エディー・ホールマンの「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」、イントゥルーダーズの各ヒット曲、そのほか多くのヒットでプレイしています。以前から楽譜が書けたことから、アレンジャーとしても活躍、サルソウル・レコードでオーケストラを作ります。それが、ヴィンスのMFSB的存在となる、サルソウル・オーケストラとなります。

ヴィンス・モンタナは、このサルソウル・オーケストラのほか、ザ・モンタナ・オーケストラ、グッディー・グッディー名義でもディスコ・レコードを出しています。ちなみに、モンタナのレコーディングで核となったのは、アール・ヤング(ドラムス)、ロニー・ベイカー(ベース)、ラリー・ワシントン(パーカッション)、ジョン・ボニー(サックス)、ロニー・ジェームス(ギター)といった面々です。

ACT 4 B-H-Y

B-H-Y。

さて、ベイカー・ハリス・ヤングは、自らトランプスというグループの一角としても活動、また、「ベイカー・ハリス・ヤング」名義のアルバムもリリース。ファースト・チョイス、ロリータ・ハロウェイ、ラヴ・コミティー、エグゼクティヴ・スイート、ウイスパーズなど多くの作品をプロデュースしています。

ベースのロニー・ベイカーは、1947年生まれで、1977年には30歳くらいということになりますが、1990年、43歳くらいで死去しています。テディー・ペンダグラスの「ゲット・アップ、ゲット・ダウン…」、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「バッド・ラック」などの生き生きとしたベースラインが印象的です。

また、ギターのノーマン・ハリスも1947年10月14日フィラデルフィア生まれですが、1987年3月20日、わずか39歳という若さで死去しています。デルフォニックスの元リード・シンガーで、後にソロとなったメジャー・ハリスは、ノーマン・ハリスのいとこです。

ドラムスのアール・ヤングは、今でも現役で、元気にやっています。フィリー・サウンドの独特のドラミングを開発しました。また、彼はなかなかいい声の持ち主で、自身メンバーでもあるトランプスでコーラスを担当したり、ときどき、低音で聞かせます。彼らの大ヒット「ジング・ウェント・ザ・ストリングス・オブ・マイ・ハート」の魅力的な低音は、アール・ヤングです。日本で言えば、シャネルズの佐藤善雄さん、ゴスペラーズの北山陽一さんみたいな存在です。

■トランプス 伝説のジング・アルバム(ちょっと値段が高くなってます)

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ゴールデン・フリースから出た紙ジャケット

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ACT 5 ボビー・マーティン

BM。

さて、フィリー・サウンドの立役者の一人で見逃すことができないのがヴェテランのアレンジャー、ボビー・マーティンです。

ボビー・マーティンは1933年頃ニューヨーク生まれ。最初は、ヴィンス・モンタナ同様ヴァイヴを演奏するようになり、1950年代に、ニューヨークでライオネル・ハンプトンと共演したこともあるといいます。1947年に、パサディナ・キャリフォルニア・アンバサダー・オーディトリウムで行われたライヴで「スターダスト」を録音もしたそうです。

1951年、フィラデルフィアのレン・ホープ・オーケストラに招かれ、フィラデルフィアにやってきたボビーは、以後、同地をベースに活動。ここで、さらにアレンジ、プロデュースなどを覚えていきます。

トム・ベルとも盟友で、マーティン&ベル・プロダクションズという会社をやっていたこともあります。

ボビーがてがけたもので一番古い作品は、1961年のもので、ドリーム・ラヴァーズというグループの「ホエン・ウィ・ゲット・マリード」という曲をプロデュースとアレンジを担当。これが、ポップ・チャートで10位を記録する大ヒットとなったのです。その後、1962年から63年にかけて、パティー・ラベール&ザ・ブルーベルズの「アイ・ソールド・マイ・ハート・トゥ・ザ・ジャンク・マン」「ダウン・ザ・ウィル」などをプロデュース。

彼らは、1969年、アーチー・ベル&ドレルスの「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」、ダスティー・スプリングフィールドの「ア・ブランユー・ミー」などのアレンジを担当、地元でその名声を確立していきます。

アレンジャーとして活躍するのと同時に、プロデュースも始めます。大きな転機となったのが1973年リリースのマンハッタンズのCBS移籍第一弾アルバムでした。最初の数枚をボビーがプロデュースしますが、ここからは1976年、「キス・アンド・セイ・グッドバイ」がプラチナム・シングル(200万枚)のセールスを記録する大ヒットへ。その後、フィラデルフィア・インターでも多数の作品をアレンジ、プロデュースをてがけます。ルー・ロウルズ、オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツなどなど。一時期、ギャンブル&ハフ作品で、もっともアレンジを担当していたのが、このボビー・マーティンでした。

それらのフィラデルフィアでの仕事で名前が売れた彼の元には次々とあちこちから声がかかり、ラリー・グラハム、LTD、ビージーズなどもてがけるようなりました。

1975年から1981年の間、A&Mレコードでプロデューサーとしての仕事もしています。この時期に、ニューヨークのアトランティック・スター、LTDなどのプロデュースをてがけました。

■マンハッタンズCBS第一弾

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MFSB

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ACT 6 デクスター・ワンゼル

ワンゼル。

デクスター・ワンゼルは、1950年8月22日フィラデルフィア生まれ。キーボード奏者。12歳の頃から、地元のアップタウン・シアターで雑用のアルバイトを始めます。元々自分たちでイエロー・サンシャインというグループをやっていました。ここには、ローランド・チェンバース(1944年3月9日生まれ~2002年5月8日死去)というギタリストがいました。ギャンブル&ハフの元で活躍するようになり、売れっ子アレンジャー、キーボード奏者となり、フィリス・ハイマン、ジャクソンズ、ルー・ロウルズ、テディー・ペンダグラス、パティー・ラベール、ジーン・カーンなどの作品のアレンジ、プロデュースするようになります。

ジョーンズ・ガールズの1981年のヒット「ナイツ・オーヴァー・エジプト」、1984年のパティー・ラベールのヒット「イフ・オンリ・ユー・ニュー」なども共作しています。デクスター・ワンゼル名義でもアルバム『ライフ・オン・マーズ』を出しています。ジャクソンズのエピックでの2枚のアルバムでもアンレジなどを担当しています。

彼はシンシア・ビッグス、バニー・シグラー、T・ライフらと多く共作しています。

■デクスター・ワンゼル

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVGBE/soulsearchiho-22/ref=nosim

ACT 7 ボビー・イーライ 

イーライ。

フィラデルフィア生まれのボビー・イーライも、ギタリストとして、MFSBの一員として、また、プロデューサーとしても活動しています。おそらく1940年代初期の頃の生まれでしょう。オージェイズ、テディー・ペンダグラスなど多くのギャンブル&ハフのレコーディング・セッションに参加。ソングライターとしても、メジャー・ハリスの「ラヴ・ウォント・レット・ミー・ウェイト」、ブルー・マジックの「サイドショー」、「スリー・リング・サーカス」、メイン・イングレディエントの「ジャスト・ドント・ウォント・トゥ・ビー・ロンリー」、ジャッキー・ムーアの「ディス・タイム・ベイビー」などを書いています。アトランティック・スターの2枚のアルバム、デニース・ウィリアムスの『ラヴ・ニーシー・スタイル』、TUMEなど数多くてがけています。

ボビー・イーライは、1974年、ザ・ソンズ・オブ・ロビン・ストーン、デイモン・ハリスのインパクトなどをてがけています。

■ブルー・マジック 「サイドショー」収録。スイートソウルの決定盤。名盤です。

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■メジャー・ハリス『マイ・ウェイ』(「ラヴ・ウォント・レット・ミー・ウェイト」収録)

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このほかにもまだまだたくさんのミュージシャン、アレンジャーらがいます。そうした人たちはまた別の機会にご紹介しましょう。

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明日は、吉岡正晴が生出演し、ここでお話できなかったエピソードなどもお話できるかもしれません。吉岡正晴のツイッターや、番組ホームページからお便りなどお寄せください。https://twitter.com/soulsearcher216


FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special
■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート3)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 3】

TSOP。

昨日(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

番組ホームページ。
http://www2.jfn.co.jp/big/
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
番組ツイッター
https://twitter.com/#!/bigsp_staff
ハッシュ・タグ
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
関東地区のラジコ。http://bit.ly/tRLmkk 
なお、これは関東地区のラジコで全国のラジコは、各地の放送局のホームページなどでご確認ください。

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

■ギャンブル&ハフ・ストーリー

ACT 1 二人の出会い

出会い。

今日、第二日目は、フィラデルフィア・サウンドのビッグ・スリーのうち、トム・ベルと並ぶケニー・ギャンブルとレオン・ハフ・ストーリーです。ちなみにもうひとりは、昨日ご紹介したトム・ベルです。

ケニー・ギャンブルは、1943年8月11日、フィラデルフィア生まれ。レオン・ハフは1942年4月8日フィラデルフィア生まれ。それぞれ68歳、69歳。

ふたりで「ギャンブル&ハフ」として知られるプロデューサー、ソングライター・コンビです。特に1960年代後期から1970年代にかけて、たくさんのヒット曲を生みだし、フィラデルフィア・サウンド、フィラデルフィア・ソウル、フィリー・ソウルの隆盛の大原動力となったチームです。

ケニー・ギャンブルは子供の頃から音楽の世界で何かをやろうと思い、地元のソウル・ラジオ局WDASに出入りし、当地の人気DJジョージ・ウッズやジミー・ビショップらにコーヒーを運んだりしていました。歌も好きで、ゲームセンターにある簡易録音マシンで、アセテート盤を作ったりしていました。今でいうカラオケで録音して、それをCDに焼くようなものです。レコード店でバイトもしたりしていました。

ギャンブルが17歳のとき、1960年頃、地元のジェリー・ロスというマネージャーがギャンブルの面倒をみるようになり、しばらく手を組んで仕事をするようになります。この頃、彼らは「ギャンブル&ロス」というわけでした。

一方、この頃、レオン・ハフはフィラデルフィアのシューベルト劇場にオフィースを構えます。すると偶然にもケニーも同じビルにオフィースを構えていたのです。ケニーは6階、レオンは2階でした。彼らはお互いエレヴェーターなどですれ違って顔は知っていましたが、何をする人物かは知りませんでした。

そんな中、彼らはとあるレコーディング・セッションで偶然顔をあわせるのです。

それが、地元のキャンディー&ザ・キッセスというグループの「ザ・81(The 81)」という曲のレコーディングで、1964年のことでした。

一方ジェリー・ロスは、一足先に、1963年、ギャンブルをソロ・シンガーとしてコロンビア・レコードに売り込むことに成功「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ユー・ガット・アンティル・ユー・ルーズ(You Don’t Know What You Got Until You Lose It)」という曲をレコーディング。

ケニー・ギャンブルはほかにも「エイント・イット・ベイビー(パート1)Ain’t It Baby, Pt. 1」 (Arctic 114)という曲もフィラデルフィアのインディ・レーベル、アークティックにレコーディングしています。1965年のことです。

そして、彼らはロメオズというグループとしても活動。このロメオズには、トム・ベルやローランド・チェンバーズ(ギター)、レオン・ハフも在籍していました。レオン・ハフとギャンブルは、二人とも曲を書くことに大変興味があり、一緒に曲作りをするようになります。二人が初めて曲作りをしたときに、一気に10曲ほど書いたというほどです。

ギャンブルとハフ、そして、ジェリー・ロスの3人は、"I’m Gonna Make You Love Me"を共作、これは、ディー・ディー・ワーウィック(ディオンヌ・ワーウィックの妹)によってレコーディングされ、1966年12月からシングルヒットします。そして、この曲はその2年後、1968年12月からダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス&ザ・テンプテーションズによって、リメイクされ、ソウル・チャートで2位まで行く大ヒットを記録。ソングライターとしての名声を高めていきます。

ACT 2 レオン・ハフ~クラシック・ピアノを学んで

スタジオ。

少しレオン・ハフのキャリアを振り返りましょう。レオンは前述のように1942年生まれ。ギャンブルより1歳年上です。

レオン・ハフは、クラシック・ピアノを習い、ピアノをマスター。ハイスクール卒業後は、地元のクラブなどでプレイするようになりますが、フィラデルフィアだけでは飽き足らず、グレイハウンドのバスにのって、しばしばニューヨークまで足をのばし、ニューヨークのスタジオで仕事をするようになります。クラシック・ピアノからスタートしているところが、トム・ベルと同じです。

ニューヨークの有名な音楽ビル、ブリル・ビルディング(たくさんの音楽出版社が入っていたビル。多くのソングライターたちがここから育っていった)に通い、リーバー&ストーラー、フィル・スペクターらと知り合い、彼らのレコーディング・セッションでピアノを弾くようになります。この頃、レオンが一緒に仕事をしたのは、ジェフ・バリー、エリー・グリーンウィッチ、キャロル・キングなどそうそうたるメンバーでした。フィル・スペクターがプロデュースしたロネッツのクリスマス・アルバムやヒット曲「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」で、レオンはピアノを弾いているそうです。ほかにもアドリブスの「ボー・フロム・ニューヨーク・シティ」のピアノもレオンです。

この頃からレオン・ハフも曲を書くようになります。彼にとっての初のメジャーヒットは、パティー&ジ・エンブレムスの「ミックスド・アップ、シュック・アップ・ガール(Mixed Up, Shook Up Girl)」 [Herald 590]でした。

ニューヨークでの仕事も精力的にこなしながらも、地元フィラデルフィアでもセッションやライヴ・ハウスでプレイし、レオンの名は東海岸一帯で知られる存在となっていきました。

ACT 3 「エクセル」「ギャンブル」レーベル設立

レーベル設立。

そんなレオンとギャンブルは、前述のように意気投合。ただソングライター、プロデューサー、一ミュージシャンとしてだけでなく、小さくともレコード会社を作って運営し、ヒットを出そうと考えます。これは、かつて、モータウンを始めたベリー・ゴーディーも同様でした。

こうして、ギャンブル&ハフは1965年には、フィラデルフィアで「エクセル・レコード」をスタート。まもなく、このレーベルはその名前を「ギャンブル・レコード」に変更。1966年には、フィラデルフィアのソウル・グループ、イントゥルーダーズの「ウイル・ビー・ユナイテッド」が初ヒットに輝きます。彼らはこれと並行して、外部アーティストのプロデュースもてがけ、1967年には、ソウル・サヴァイヴァーズの「エクスプレス・ウェイ・トゥ・ユア・ハート」のヒットを生み出します。

ヒットが出ている間はよいのですが、ちょっとヒットが出なくなると苦しくなるのが、インディ・レーベルの宿命。彼らはインディペンデント・レーベルとしての限界も感じながら、ソングライター/プロデューサー・チームとしても発展していくことを考え、アトランティックやマーキュリーといったメジャー・レコード会社に売り込み、アトランティック・レコードで、アーチー・ベル&ザ・ドレルス、ウィルソン・ピケット、ダスティ・スプリングフィールドなど、マーキュリーでジェリー・バトラーなど多くのアーティストをプロデュースします。それまでインプレッションズのメンバーからソロに転じ、「フォー・ユア・プレシャス・ラヴ」が50年代にヒットしてからしばらくヒットとご無沙汰だったジェリー・バトラーは1967年、「オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ」で見事にカンバック。ソロ・シンガーとしてその寿命を延ばします。

ギャンブル・レコードからは1968年3月、イントゥルーダーズの放った「カウボーイズ・トゥ・ガールズ」が初のミリオン・セラーとなり、プロデューサーとしても、レコード会社としても成功するようになりました。このレーベルでは、他にビリー・ポール、白人のジャガーズなどを出しますが、いずれもヒットには至りません。ジャガーズはその後レーベルを移籍して、1970年に「ザ・ラッパー」のヒットを出します。

1969年、彼らは別のレーベル、ネプチューンを立ち上げ、オージェイズと契約、これはチェス・レコードによって配給されますが、ここでもそれほどの大きな成功は得ていません。しいていえば、オージェイズの「ワン・ナイト・アフェア」「ルーキー・ルーキー」といった作品が小ヒットを記録した程度でした。

■イントゥルーダーズ=初期作品ベスト

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ACT 4 CBSからの誘い~フィラデルフィア・インターナショナル誕生

チャンス。

そんな彼らにさらなる大きなチャンスがやってきました。1971年、当時のCBSコロンビア・レコードの制作ディレクターだったクライヴ・デイヴィスが、資金を提供するのでCBSの元でレーベルを作り、作品をどんどん作ってくれといってきたのです。

それまでは、一インディ・レーベルを運営していたプロデューサーだった彼らでしたが、大きな予算を得て、いい作品を作ることに専念することができるようなりました。しかも、インディ・レーベルとして苦労してきたレコードの発送、集金などの雑事一般から解放され、クリエイティヴに没頭できるのは大きな意味を持っていました。

彼らはフィラデルフィアにジョー・ターシャというエンジニアが作り上げた「シグマ・サウンド・スタジオ」で、次々とレコーディング。ここから、ヒットが生まれるようになって、この「シグマ・サウンド・スタジオ」はフィラデルフィア・サウンドのメッカとなっていきます。

ギャンブル&ハフの夢を乗せたフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは1971年4月、ギデオン・スミスというシンガーの「アーカンソー・ライフ/ホエン・トゥ・ワールズ・キャン・セクセスフリー・コリド(Arkansas Life" / "When Two Worlds Can Successfully Collide)」(PIR 3501)、さらに、ジョニー・ウィリアムスの「イッツ・ソー・ワンダフル/ラヴ・ドント・ラブ・オフ(It’s So Wonderful" / "Love Don’t Rub Off)」(PIR 3502)を出しますが、これらはヒットせず、3枚目のシングルでやったヒットが出ます。それが、エボニーズの「ユーアー・ザ・リーズン・ホワイ (You’re The Reason Why)」でした。これは5月からソウル・チャート入りし、トップ10を記録。彼らは女性一人のリードと3人の男性グループで、いわば、グラディス・ナイト&ザ・ピップスと同じ編成で、フィラデルフィア版グラディス・ナイト&ザ・ピップスを狙っていました。

Act 5 ミリオン・セラー続出。

現象。

そして、同年7月にリリースされた17枚目のシングルで遂にフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは初めてのミリオン・セラーを生み出します。それが、長年、プロデュースしてきたオージェイズの「バックスタバーズ」でした。

さらに、10月にはハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(邦題、二人の絆)」、ビリー・ポールの「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ」と連続でミリオン・セラーが誕生。「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア」とギャンブル&ハフ、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードが一挙に注目を集めるようになりました。

以後もギャンブル&ハフは、オージェイズ、スリー・ディグリーズ、イントゥルーダーズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツなど多くのアーティストを世に送り出し、次々とヒットを出していきます。

1971年の設立から3年もしないうちに、ギャンブル&ハフのフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは、全米で第二位の黒人所有の会社となったのです。もちろん、このランクの1位は長くモータウン・レコードです。

■フィリー・ソウル、ひじょうに便利な4枚組。初期から中期にかけてのフィリー・ソウル・ヒットをかなり網羅。今回もたくさんお世話になっています

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ACT 6 MFSB~フィラデルフィアのミュージシャンの集合体

集合体。

これらすべてのヒットのバック演奏をしているのが、シグマ・サウンド・スタジオを本拠とする地元のミュージシャンたちでした。ギャンブル&ハフは彼らを実にうまく起用し、独特のサウンドを作り上げることに成功しました。

これらのミュージシャンは多くのセッションで顔をあわせます。初期のだいたいのメンバーは、ドラムス、アール・ヤング、ベースにロニー・ベイカー、ギターにローランド・チェンバーズ、ノーマン・ハリス、ボビー・イーライ、パーカッションにラリー・ワシントン、ヴァイブにヴィンセント・モンタナ、キーボードにレオン・ハフ、ロン・カーシー、レニー・パクーラ。そして、ストリングスがドン・レナルドの指揮といったメンバーでした。

アレンジャーはボビー・マーティン、ジョン・カック・フェイス、デクスター・ワンゼル、バニー・シグラー、ミュージシャンでもあるノーマン・ハリス、レニー・パクーラもアレンジもやりました。このうちのベースのロン・ベイカー、ギターのノーマン・ハリス、ドラムスのアール・ヤングは、「ベイカー・ハリス・ヤング」というトリオで、プロデュース活動も始めます。ちょうど、フィラデルフィアがモデルとしたモータウン・レコードのヒット曲製造工場における人気プロデューサー・チーム、「ホランド・ドジャー・ホランド」的な存在になっていきます。

モータウンも何人かのすぐれたミュージシャンが、スタジオのハウス・バンドとなり、モータウンの多数のシンガーたちのバックをつけ、独特のサウンドを作り出しました。彼らは後に「ファンク・ブラザース」となり、脚光を浴びることになりますが、このフィラデルフィアのミュージシャンの集合体は、ギャンブル&ハフが「MFSB」と名付けました。

この「MFSB」は、「マザー・ファーザー・シスター・ブラザー(母・父・姉妹・兄弟)」の略です。そして彼らはフィラデルフィア・インターナショナルのアーティストだけでなく、シグマ・サウンド・スタジオにやってくる多くのソウル・シンガー、アーティストたちのバックもつけるようになり、フィラデルフィア・サウンドは一挙に世界中に広がっていきます。

そして、このMFSBは、1974年、ヴォーカルにスリー・ディグリーズを従え「TSOP」というヒットを生み出します。「TSOP」は、「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア」の略。この曲は人気テレビ番組『ソウル・トレイン』のテーマ曲として作られ、見事に大ヒットしました。テレビ番組も人気を獲得、このテーマも毎週番組でかかることから大ヒットしました。

ギャンブル&ハフはその成功を元に、フィラデルフィア・インターの傘下に、1974年「TSOPレコード」、1975年にベイカー・ハリス・ヤングたちが作った「ゴールデン・フリース・レコード」、さらにトム・ベルが設立した「サウンダー・レコード」を配し、一大フィラデルフィア・サウンド・ブームを作り上げていきます。

■MFSB

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ACT 7 新しい世代が登場し、徐々に変化するサウンド

変化。

そんなフィリー・ソウルを特色付けていたのが、華麗なストリングスを含むオーケストラとともに、フィリー・ソウル初期から作られていたドラマー、アール・ヤングが生み出したハイファットがパシャパシャなる独特のサウンドです。これは、当時大きな現象となってきていたディスコティックで大いにプレイされ人気となりました。ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「ザ・ラヴ・アイ・ロスト」などその典型的なサウンドで、ディスコでも大いに受けました。そして、これらのサウンドは、後の「ハウス・ミュージック」の原型ともなりました。

ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツからはリード・シンガーのテディー・ペンダーグラスが1977年ソロに転じ、さらにビッグスターに。オージェイズは軽いタッチのサウンドで「シー・ユースタ・ビー・マイ・ガール」のヒットを生み出し、デクスター・ワンゼル、マクファーデン&ホワイトヘッド、ジーン・カーン、ジョーンズ・ガールズといった新人たちが登場してきます。

70年代中期から後期になると、徐々に新しいフィリーのミュージシャンたちが育ってきて、サウンドも少しずつ変化を見せ始めます。

しかし、1980年代中期になると、なかなかヒットが出なくなり、1986年にはフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルはその配給元をCBSからEMI・マンハッタンに変更。その後、1991年BMGに変わり、現在に至っています。

ACT 8 メッセージ、主張、活動

メッセージ。

ギャンブル&ハフ・サウンドの特徴は、トム・ベル同様、リッチなストリングス、ブラス・セクションを従えた壮大なオーケストラ・サウンドです。そして、歌詞の面で、黒人であることを強く意識した社会性のあるメッセージが強い作品が多いことも特徴です。

オージェイズの大ヒット「ラヴ・トレイン」や、アルバム『シップ・アホイ』、ビリー・ポールの「アム・アイ・ブラック・イナフ・フォー・ユー」などは、そうしたメッセージ性のよく出た作品です。前者は普遍の愛が世界中に必要だと歌い、アルバム『シップ・アホイ』はかつて黒人が連れてこられた奴隷船をテーマにしています。

ギャンブル&ハフのアルバムには、必ずジャケットに「There’s a message in the music」という文句が書かれています。これは、音楽の中にはメッセージがある、という彼らの主張を端的に表わしています。

ギャンブルは黒人解放運動や、人権運動、チャリティーなどにも積極的に参加しています。そうした社会活動のなかでは、1977年、彼らが全社をあげて行った「クリーン・アップ・ゲットー」キャンペーンがあります。これはその名の通り、汚れたゲットーを掃除して綺麗にしよう、壊れて放置されたままの建物などを直し、みんなできちんと仕事ができるようにしよう、というキャンペーンで、そのテーマ曲をフィラデルフィア・インターのオールスターたちが歌いました。若者はゴミを拾い、グラフィティーで落書きされた壁を綺麗にし、散らかった道を掃除したのです。当初フィラデルフィアで始まったこの運動は、徐々にシカゴ、ロスアンジェルス、メンフィスなど全米に広がりました。これは、ひとつにはケニー・ギャンブルの生まれ育ったサウス・フィラデルフィアはゲットーでいつも街が汚れていたので、ここを綺麗にし、街自体をリノヴェーションしようというケニー自身の夢でもありました。

1990年、彼らはそれまでに何度もノミネートはされてきたものの、獲得できなかったグラミーを獲得。これはシンプリー・レッドがブルーノーツの曲をカヴァーし、その「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」が「ベストR&Bソング」を獲得したものです。彼らはこれまでに3000曲以上の作品を世に送り出したといいます。

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(明日は、ギャンブル&ハフの周辺のアレンジャー、ミュージシャン、プロデューサー、また、ユニークなサルソウル・レーベルなどを紹介します)

FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special

■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル』(パート2)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 2】

TSOP。

■ トム・ベル・ストーリー

今日(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りする深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。4日間たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

月曜深夜、火曜朝、第一日目は、フィリー・ソウルの立役者ビッグ・スリーの一人、トム・ベルです。

ACT 1 トム・ベル登場

ジャマイカ。

フィラデルフィア・サウンドを隆盛に導いた3人というと、このトム・ベル、そして、ギャンブル&ハフですが、彼ら3人は60年代から手を組み、さまざまな作品を送り出しています。彼らは3人で「マイティー・スリー」という音楽出版社も持っているほどです。文字通り、強力な3人です。彼ら周辺で制作された「フィラデルフィア・サウンド」の楽曲は3000曲以上あるといわれます。確かに1960年代中期から1980年代中期までの20年間、毎日1曲でも録音されていれば、それくらいの数はいともかんたんにクリアします。

さて、トム・ベルを有名にしたのは、1968年のデルフォニックスの大ヒット「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」です。トム・ベルはこのとき25歳でした。

トム・ベルは、フィリー・ソウルの申し子ですが、生まれたのは1943年(昭和18年)1月26日ジャマイカ・キングストンでした。本名、トーマス・ランドルフ・ベル。現在68歳ということになります。ただ幼少の頃、5歳で両親とともにフィラデルフィアに移り住み、フィラデルフィア育ちと言っていいでしょう。家が裕福だったため、クラシック音楽を勉強、5歳の頃からピアノを習っていました。その頃はクラシックのピアニストか、指揮者を夢見ていました。しかし、まもなく、当時はまだ人種差別が根強く、いから優秀でも黒人が指揮者になることはできませんでした。そこでトム・ベルはクラシックの道は諦めようと考え始めます。

十代の頃にほぼ同年代のケニー・ギャンブル、レオン・ハフ、ダリル・ホールらと知り合い、1959年には、ギャンブルがやっていたソウル・ヴォーカル・グループ、ザ・ロメオスに参加。トム・ベルは音楽的に多感なティーンの16歳でした。このあたりから、興味はクラシックからポピュラーなソウル・ミュージックに移っていきました。

地元でバンド活動をするうちに、ピアノも弾け、楽譜も書けたことから、トム・ベル19歳の1962年には当地の人気アーティスト、チャビー・チェッカーのバンドの音楽ディレクターのような仕事をするようになります。

チャビー・チェッカーは、1941年10月3日、地図で言えばフィラデルフィアより少し下のサウス・キャロライナ州アンドリュース生まれ、フィラデルフィア育ちのR&Bシンガーで、1960年に「ザ・ツイスト」が全米ナンバーワン(ポップ・チャート)になる大ヒットを出し、一躍スターになっていたシンガーです。当時の流行のお尻を振る「ツイスト」というダンスをテーマにした曲で、踊りとともに大ヒットしました。この「ツイスト」を出していたのが、フィラデルフィアの同時はまだ一インディ・レーベルだったキャメオ/パークウェイ・レコードでした。

この大ヒットが出て、チャビーが全米ツアーにでることになり、そのバンドのまとめ役としてトム・ベルが抜擢されたわけです。チャビーのバンドには約2年在籍、その間、音楽を勉強するために一時期ニューヨークにいたこともありました。1963年にフィラデルフィアに戻り、同地を本拠にレコードを出していたキャメオ/パークウェイで、セッション・ピアニストとして稼ぐようになります。

セッション・ピアニストとは、スタジオでレコーディングがある場合、プロデューサーやソングライターに呼ばれて、その曲のレコーディングでピアノを弾く専門家です。キャメオ/パークウェイではたくさんのレコーディング・セッションがあったので、トム・ベルも売れっ子ピアニストになっていきました。トム・ベルは、ただピアノを弾くだけでなく、アレンジもできたため、レコーディング・シーンでは大変重宝され、音楽シーンでも徐々に知られるようになります。

ACT 2 改名させられたデルフォニックス

改名。

この頃、トム・ベルは当時まだザ・ファイヴ・ガイズ(The Five Guys)と名乗っていたヴォーカル・グループと知り合います。彼はこの5人組を3人組にし、名前を変えるよう提案、このトリオはデルフォニックスとなります。

1967年、デルフォニックスのマネージャーだったスタン・ワトソンという人物が、サム・ベルという人物とインディ・レーベル、フィリー・グルーヴを設立。デルフォニックスのレコードをそこから出すことにし、トム・ベルはこのレーベルの制作、A&R、プロデューサーとなりました。もっとも当時はまだA&Rなどという言葉もなく、プロデューサーという言葉でさえもまだまだ浸透はしていなかった時代です。

そして、彼らが1968年2月から「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」という曲をヒットさせます。これが、トム・ベルにとって、そして、デルフォニックスにとっても記念すべき初めての大ヒットとなりました。リッチなオーケストレーション、覚え易いメロディーとサビ。ファルセットのリード・ヴォーカルが大いに受けることになりました。

デルフォニックスとはその後も多くのヒットを生み出します。中でも、1970年1月からヒットした「ディドント・アイ(ブロウ・ユア・マインド)」は、ソウル・チャートで3位ながら、ゴールド・ディスクを獲得。グラミー賞「R&Bヴォーカル・グループ」部門も獲得するという快挙を成し遂げます。

しかし、このグラミー賞授賞式でひと悶着(ひともんちゃく)起こります。当時まだ黒人は、たとえ賞を獲得しても、ステージで受賞することが許されなかったということで、トム・ベルは以来、いかにグラミー賞にノミネートされても、決してその授賞式には顔を出さなかったそうです。ちなみに、トム・ベルは1974年度でグラミー賞が初めて「プロデューサー・オブ・ジ・イヤー」部門を設定しますが、その初回さらに翌年と2年連続で見事に受賞しています。もちろん、授賞式には顔をだしていません。

ちなみに、これらの「ラ・ラ・」や、「ディドント・アイ」はその後も映画などに使われ、すっかりスタンダード化。特に「ディドント・アイ」は、クエンティン・タランティーノの映画『ジャッキー・ブラウン』(1997年)で効果的に使用されていました。


ACT 3 スタイリスティックス登場

第二弾。

トム・ベルがデルフォニックスに続いててがけたのが、やはりフィラデルフィアのソウル・ヴォーカル・グループ、スタイリスティックスでした。

当初、スタイリスティックスは地元のインディ・レーベルでシングル盤「ユー・アー・ビッグ・ガール・ナウ」をリリースしていましたが、地元でヒットし始めたところを、当時のアヴコ・レコードがその権利を買い取り、トム・ベルをプロデューサーとして抜擢し、トム・ベルにスタイリスティックスをプロデュースさせたのです。

そうして出来上がったのが、「ユー・アー・エヴリシング」や「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」などでした。

ちょうどこの頃、トム・ベルは作詞家のリンダ・クリードと知り合い、トムがメロディーとトラックを作り、リンダが作詞をするという作詞・作曲家チームとして活動するようになりました。スタイリスティックスのデビュー作『スタリスティックス』でも、トム・ベル&リンダ・クリードの作品が多数占められています。

リンダ・クリードについては、のちほど、ご紹介しましょう。

トム・ベルは、スタイリスティックスのアルバムを3枚連続でプロデュースしますが、この頃から、超売れっ子のプロデューサーとなり、多くのアーティストからプロデュース依頼が殺到するようになります。

スタイリスティックスのプロデュースをしつつも、トム・ベルはまた別のソウル・ヴォーカル・グループ、スピナーズをてがけます。1972年、アトランティック・レーベルに移籍してきたデトロイトのスピナーズです。

スピナーズは、デトロイトのヴォーカル・グループで、モータウンでちょっとしたヒットを放っていましたが、モータウンの他のアーティストほどの大ヒットはだしていませんでした。会社の力がテンプテーションズや、シュープリームスに向けられていて、なかなかスピナーズまでプロモーションしてもらえなかったからです。そんな彼らに手を差し伸べたのが、アトランティック・レコードでした。彼らはアトランティックに移籍し、その第一弾アルバムのプロデュースに、当時スタイリスティックスで飛ぶ鳥をも落とす勢いになり始めていたトム・ベルを抜擢します。

トム・ベル・プロデュースのスピナーズの「アイル・ビー・アラウンド」は、72年9月から大ヒットし、ソウル・チャートで1位、ポップ・チャートでも最高3位を記録。100万枚を売るゴールド・シングルになりました。これ以後トム・ベル&スピナーズのコンビは数年にわたり、10数曲の大ヒットを生み出します。

ACT 4 リッチなオーケストラ・サウンド

リッチ。

トム・ベルといえば、デルフォニックス、スタイリスティックス、スピナーズということになりますが、そのほかにもいくつかシンガーをてがけています。

たとえば、ジョニー・マティス、ビージーズもてがけました。1980年代に入ってから、モーリス・ホワイトの元でヒットを出しスターになっていた歌姫、デニース・ウィリアムス、フィラデルフィア育ちのシンガー、フィリス・ハイマン、そして、クインシーの秘蔵っ子だったジェームス・イングラムなどです。また、イギリスのエルトン・ジョンに請われて、エルトンの作品もプロデュースしました。

トム・ベルは、70年代後期から喧騒のフィラデルフィアを離れ、本拠をワシントン州シアトルにしています。イチロー選手がいるシアトル・マリナーズでおなじみのシアトルです。ハワイにも家があるようです。現在は8人の子供がいて、どうやら大都会には住みたくないようです。

トム・ベルが作り出すサウンドの最大の特徴は、美しいメロディーに流麗なストリングスが入ったリッチなオーケストラのアレンジがなされていることです。このリッチなオーケストレーションによって、美しいメロディーがひときわ輝くを増すことになります。これは彼がクラシック音楽を勉強した経験が役に立っているのでしょう。

そして、リンダ・クリードが作り出すブラックの生活に根付いた歌詞、女性の視点ならではのインテリジェンスとストリート感覚にあふれた詞が、多くの黒人たちの支持を集める大きな要因となりました。

トム・ベルのプロデュース作品は、70年代の作品であるにもかかわらず、21世紀の今でも、さかんにカヴァーされ、歌われ続けています。

+++++

ACT 5 リンダ・クリード・ストーリー

作詞家。

フィリー・ソウルの立役者となったプロデューサー、トム・ベルと手を組み、数多くの作詞をてがけたリンダ・クリードは、1949年12月6日、フィラデルフィアに生まれました。トム・ベルより6歳年下ということになります。

十代の頃から書くことが好きだったリンダは、よくノートに詩を書いていました。ソングライターとして、曲を書いたり、ローカル・バンドに参加したり、音楽活動を続けていました。ハイスクール卒業後、彼女は成功を求めてニューヨークに出ますが、なかなかチャンスは巡ってきませんでした。8ヶ月ほど、かの地でがんばりましたが、きっかけをつかめず、故郷フィラデルフィアに戻ります。このときの心境を描いたのが、後にジョニー・マティスなどによってレコーディングされる「アイム・カミング・ホーム」(うちに帰るわ)です。

フィラデルフィアでも音楽活動は続けましたが、ギャンブル&ハフ、トム・ベルが設立した出版社『マイティー・スリー・ミュージック』に出入りするようになり、そのスタッフであるギャンブル&ハフ、トム・ベルらと知り合い、トム・ベルはリンダの作詞の才能を買い、一緒に曲を書くようになります。

トム・ベルとリンダ・クリードが初めて手を組んだ曲は、1970年4月にシングルがリリースされた「アイ・ウォナ・ビー・ア・フリー・ガール」という曲でしたが、これを機に、彼らは数多くの作品を共作していくようになります。

そして、1970年暮れからは、トム・ベルがスタイリスティックスのプロジェクトを始めることになり、それにともないスタイリスティックスのための楽曲を共作するようになります。

1972年にリリースされるスタイリスティックスのデビュー・アルバムでは1曲、トム・ベルがてがける以前にレコーディングされた曲以外、すべてトム・ベル&リンダ・クリードによって書かれています。

ここに収められた「ストップ・ルック・リッスン」「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」「ユー・アー・エヴリシング」「ピープル・メイク・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド」などでリンダはヴィヴィッドにブラックの世界を描いています。

たとえば、普遍的なラヴ・ソングだけでなく、ブラック・ストリートを見据えた作品、たとえば、「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」や「ゲットー・チャイルド」などには、黒人の共感を得るキーワードがしたためられています。物語の起承転結の表現が実に上手です。

(「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」「ゲットー・チャイルド」の訳詞は下記に)

リンダは1972年にステファン・リー・エプスタインと結婚しますが、そのときの気持ちを描いたのが「ユー・メイク・ミー・フィール・ブラン・ニュー(あなたは、わたしをまったく新しい気分にさせてくれる)」で、スタイリスティックスの名唱で歌われ、大ヒットします。

ACT 6 売れっ子作詞家へ

ブレイク。

そうした作詞家としての才能が認められ、リンダ・クリードはトム・ベル以外からも作詞のオファーを得るようになります。そんな中、作曲家でプロデューサーであるマイケル・マッサーがリンダの才能にほれ込み、いくつか一緒に曲を書いています。

1976年、彼女は一家でカリフォルニアに移住。しかし、この頃彼女の体に癌が発症。最初の除去手術を受けますが、ちょうどその頃、ボクサー、モハメド・アリの自伝映画『モハメド・アリ~ザ・グレイテスト』のテーマ曲をマイケル・マッサーが依頼され、リンダはマイケルとともに「何よりも素晴らしい愛」をテーマに書き始めます。

自分が癌になり、周囲の家族友人の愛によって、見守られている、自分は愛されているということをしたためたのが、「ザ・グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」でした。これは、マイケル・マッサー自身の人生の葛藤とともに、二人の悩みが同時に1曲の中に結実しました。このテーマは、ジョージ・ベンソンによって歌われ、ヒットします。

作曲家、プロデューサー、マイケル・マッサーにとっては、1973年のダイアナ・ロスのヒット「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」で業界内での知名度を上げていましたが、このジョージ・ベンソンの「ザ・グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」で、さらに知名度をあげることになりました。これは、マイケル・マッサー/リンダ・クリード作品の中でも白眉の出来で、最高傑作のひとつです。しかし、この曲の魅力を世界的に知らしめたのは、ジョージ・ベンソンではなく、当時はまだ無名だった一人の新人女性シンガーでした。それが、ホイットニー・ヒューストンです。ホイットニーのヴァージョンは、オリジナル以上のヒットにしており、多くの方はホイットニーのものでご存知でしょう。

ホイットニーのヴァージョンは1986年4月からチャート入りし、ヒットし始めますが、ヒットしてまもなくの1986年4月10日、リンダは乳がんで、36歳という若さで亡くなってしまいます。ちょうど、この「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」が全米ナンバーワンに輝いたのは5月19日から6月6日までのことでした。リンダはこの曲がナンバーワンになるところは見ることができませんでした。

リンダは26歳のときに、癌が発症。以来、ずっと癌と闘い続け、結局10年間、サヴァイヴ(生き延びた)ということになります。リンダは、病気のために仕事に穴をあけることを嫌い、最後まで仕事に没頭していたそうです。

なお、彼女はたくさんのソウル・ヒットを放っていますが、彼女自身は白人です。

リンダ・クリードは、1992年に、ソングライター殿堂入りを果たしています。

また、彼女が乳がんで亡くなったことで、「リンダ・クリード乳がん基金」という基金が設立され、乳がん撲滅の運動に一役買っています。

■リンダ・クリード関連記事

November 09, 2006
Top 15 Linda Creed Songs Selected By The Soul Searcher
http://blog.soulsearchin.com/archives/001382.html

November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
http://blog.soulsearchin.com/archives/001383.html

2011年11月13日(日)
「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリー(訳詞付き)~名曲物語
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20111113.html

■リンダ・クリードの作品、2例

Children Of The Night
(Thom Bell / Linda Creed)

チルドレン・オブ・ザ・ナイト

The Stylistics - 1972 アルバム『ラウンド2』
Also recorded by: The Jones Girls

夜遅く、世界が夢に包まれ心配事など何もないとき、
僕は歩道の影を歩く
深夜、僕のソウルが空っぽになり、寂しくなる

そんな時、僕は夜の闇へ向かう
たった一人で、僕と同じような寂しい人間に
出会うまでストリートを彷徨う
誰か、仲間がいないかと。

夜の申し子・・・

深夜、不安な気持ちが僕を襲う
どうにもならない
深夜、僕と似た人間にいて欲しい
この気持ちを理解して欲しい

再び僕は夜の闇を探しにでかける
たった一人で、同類に出会うまで、
あらゆるストリートを彷徨う
同じ仲間を探して

夜の申し子・・・

ナナナナ~

【訳詞=ザ・ソウル・サーチャー】

+++++

Ghetto Child
(Thom Bell / Linda Creed)

Artist: Spinners
アルバム『ニュー・アンド・インプルーヴド』

17の時、家出した
それまでの全てから逃げ出した
僕は人生に疲れきっていた
憎しみと狭い心に溢れる都会に住むことにも
飽き飽きしていた

みんなが僕のことをあざ笑っていた

子供たちが僕を呼ぶ時、僕はどこかに逃げ隠れた
この世に生まれてきたことさえ恥じたものだ
僕は自分がやっていない罪で罰せられた
ついてない男だった

ゲットーに生まれると
人生は易しくない
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない

僕のパパは考えられる限りそんなゲットー・ライフを
うまく切り抜けたってことを誰もわかっていない

子供は過ちから厳しい現実を知っていく
夢のようなおとぎ話は、金持ちだけに訪れる物語
今や、子供時代の夢はいまだに実現すると
思う振りをするだけ

あちこちの街を旅しながら僕は考える
一つの街に留まるのは、自分のスタイルじゃない
なぜゲットーの子供は、辱められ、いじめられ、
あざけり笑われなければならないのか
僕たちは、みな同じ人間なのに

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (僕が証人さ)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (オー、イエー)

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (人生は荒れていく)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (どんどん泥沼にはまっていく)

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (何かを変えなければ)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (何かを変えなければ)

【訳詞=ザ・ソウル・サーチャー】

■同曲収録『ラウンド2』

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000K2VGBU/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■「ゲットー・チャイルド」収録

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B004YSCZ2U/soulsearchiho-22/ref=nosim/

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Children Of The Night
(Thom Bell / Linda Creed)
By The Stylistics
1972

Late at night
When all the world is safe within their dreams
I walk the shadows
Late at night
An empty feeling creeps within my soul
I feel so lonely

So I go into the darkness of the night
All alone I walk the streets until I find
Someone who is just like me
Looking for some company

Children of the night

Late at night
A restless feeling takes control of me
And I can’t fight it
Late at night
I feel the need for someone who like me
Needs understanding

So once again I’ll search the darkness of the night
All alone I’ll walk each street until I find
Someone who is just like me
Looking for some company, no, yeah, hea

Children of the night

So once again I’ll search the darkness of the night
All alone I’ll walk each street until I find
Someone who is just like me
Looking for some company, no, yeah, hea

Children of the night
Children of the night
Children of the night

Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na

Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na

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Ghetto Child
(Thom Bell / Linda Creed )
By The Spinners
1973

When I was 17
I ran away from home
And from everything
I had ever known
I was sick and tired
Living in a town
Filled with narrow minds
And hate

They used to laugh at me
The children called me names
I would ran and hide
Feelin’ so ashamed
Just for being born
I was just a boy
Punished for a crime
That was not mine

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Oh, baby)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child

No one tried to understand
Papa did the best a man could do

A child reality
Is paid for by his faults
Fancy fairy tales
Are born and sold by those
Who can well afford
Time to make believe
Childhood dreams can still come true
Uh, huh, huh, huh

So I’ve been wandering
Traveling all around
Guess it ain’t my style
To live in just one town
Still I’ll never know
Why a child is blamed
Ridiculed and shamed
We’re all the same

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (I’m a witness, baby)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Yeah...)

Ooh...ooh...yeah...

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Oh, baby)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child

Life ain’t so easy (Yeah...hey...hey...)
When you’re a ghetto child (Life can be rough)
Life ain’t so easy (The going gets tough)
When you’re a ghetto child (Yeah...but remember)

Life ain’t so easy (Things gotta change)
When you’re a ghetto child (Things gotta change, gotta change, yeah, yeah)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Whoa...oh...oh...whoa...oh...oh...I’m a ghetto boy)

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child

ENT>MUSIC>SONGS>Child Of The Night
ENT>MUSIC>SONGS>Ghetto Child
FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special

■フィラデルフィア・サウンド(TSOP)ストーリー (パート1)

【Roundup For The Sound Of Philadelphia】

TSOP。

今週は、月曜深夜からJFN系全国ネットの『ビッグ・スペシャル』(深夜1時~4時。関東地区は東京FM、全国30局以上ネット)でフィラデルフィア・ソウル特集をお送りします。そこで、この「ソウル・サーチン・ブログ」でも番組と連動して、「フィラデルフィア・ソウル」について、月曜から金曜までまとめてご紹介します。

まず、今日は「フィラデルフィア・ソウル」の全体像をご紹介します。

ACT 1 : フィラデルフィア・ソウル前夜

まず、いわゆる「フィラデルフィア・サウンド」「フィラデルフィア・ソウル」「フィリー・ソウル」というと、1960年代後期から1970年代にかけてのフィラデルフィアで録音されたソウル・ミュージックを指します。具体的には、デルフォニックス、スタイリスティックス、イントゥルーダーズ、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツなどのサウンドです。「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィアThe Sound Of Philadelphia」は、その頭文字を取って、「TSOP」とも略されます。

特徴は、踊り易いグルーヴのわかりやすいリズムと、流麗なストリングス、ブラス・セクションが入ったリッチなオーケストレーションのサウンドでにソウルフルで迫力のあるソウル・ヴォーカルがからみます。たとえば、南部のソウル・ミュージックが泥臭いと言うのであれば、フィラデルフィア・サウンドはひじょうに都会的に洗練されたものです。

また、独特のドラムスによるグルーヴ、のりのあるリズムの強いサウンドは、70年代中期から大きなブームとなる「ディスコ・サウンド」の元にもなり、さらにその後の「ハウス・ミュージック」の原形にもなっていきます。

これらの「フィラデルフィア・ソウル」略して「フィリー・ソウル」の立役者となったのが、トム・ベル、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフの3人です。彼らはフィラデルフィアで多くの若手アーティストをてがけ、スターにしていきます。

そんな彼らが活躍を始めるのは1960年代後期からですが、そうした「フィラデルフィア・ソウル」隆盛の前夜とも言うべき時代があります。それが1950年代から1960年代初期までの間、このフィラデルフィアという土地が、「音楽都市」として大きな注目を集めることになったのです。

その大きな要因が、テレビ音楽番組『アメリカン・バンドスタンド』です。これは、そのときのヒット曲をかけ、一般試聴者がそれにあわせて踊るところを見せる、というシンプルな番組です。これが、1952年9月から始まり、1989年9月まで続くことになります。この収録スタジオがフィラデルフィアにあり、当初はローカル番組でしたが、1957年10月から全米にネットワークされることになり、これを機に番組の人気が一挙に爆発します。多くのアーティストが出演するために、フィラデルフィアにやってきました。また、ロックンロールの登場とともに大変人気が高くなりますが、当然地元フィラデルフィア出身のアーティストは、こぞってこの番組に出ようとしたので、街自体が音楽で盛り上がり始めました。後に1970年代に登場する『ソウル・トレイン』のプロトタイプとなったのが、この『アメリカン・バンドスタンド』です。

この番組からは、多くのヒットが生まれましたが、その多くは白人のヒットでした。また、フィラデルフィアにも多くのインディ・レーベルが生まれました。キャメオ/パークウェイ、ジェイミー・ガイデン、フィラ・オブ・ソウルなどなどです。

そんなインディ・レーベルのキャメオ/パークウェイから、チャビー・チェッカーという黒人シンガーの「ツイスト」という曲がヒットします。これは、当時ヒットしていた「ツイスト」というダンスについて歌ったもので、その「ツイスト」用の曲として1960年8月から大ヒット、全米ナンバー1を記録しました。

これは、70年代のいわゆる「フィラデルフィア・ソウル」のジャンルには入りませんが、「フィラデルフィア・ソウル」の前夜の動きとして、頭の片隅にいれておいてもよいでしょう。

このキャメオ/パークウェイからは、女性R&B歌手のディー・ディー・シャープの「マッシュポテト・タイム」という曲が1962年に大ヒット(ソウル・チャート1位、ポップ・チャート2位)します。これも「マッシュポテト」という当時流行ったダンスをテーマにした曲です。このディー・ディー・シャープは、後にフィリー・ソウルの立役者となるケニー・ギャンブル夫人となります。いずれも『アメリカン・バンドスタンド』から出た数少ない黒人によるヒットです。

またフィラデルフィアは、南部からの黒人が多く移り住んでいたために、黒人人口が高く、そのためゴスペル音楽も盛んで多くのゴスペル・シンガーがいました。これも、ソウル・ミュージックが盛んになる大きな下地となっていました。

ACT 2 : トム・ベル、ギャンブル&ハフの登場

トム・ベルについては明日、ギャンブル&ハフについてはあさってのこのブログで詳しくご紹介しますが、この3人がフィラデルフィア・ソウルのシーンを引っ張っていくことになります。

トム・ベルは前述のチャビー・チェッカーのツアー用バンドの音楽ディレクター(コンダクター)の仕事を得て、フィラデルフィアの音楽シーンで頭角を現し始め、ギャンブル&ハフも同じようにフィラデルフィアでバンド活動を始めるうちに力を見せ始めます。

ギャンブル&ハフは1966年、イントゥルーダーズのヒットを出し、ジェリー・バトラーなどのプロデュースをしたり、トム・ベルは1968年、デルフォニックスの「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」でヒットを出し、それぞれヒット・プロデューサー、注目のプロデューサーになっていきます。単発的には、クリフ・ノーブルスのインスト・ヒット「ホース」(1968年6月からヒット、ソウル、ポップで2位)、ファンタスティック・ジョニーCの「ブーガルー・ダウン・ブロードウェイ」(1967年10月からヒット、ソウルで5位、ポップで7位)(いずれも、フィラオブ・ソウル・レーベルからのヒット)、エディー・ホールマンの「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」(1969年12月からヒット、ソウルで4位、ポップで2位、ゴールド・ディスク)などが出て、徐々にソウル・ヒットを生み出すフィラデルフィアという雰囲気が盛り上がり始めます。

そんな中、「フィラデルフィア・ソウル」の歴史の中で、大きなターニング・ポイントが訪れます。

1971年、当時メジャー・レコード会社のCBSコロンビアのヘッド、クライヴ・デイヴィスが、ブラック・ミュージックの販売に力をいれようと、ギャンブル&ハフに資金を提供し、彼らにフィリー・ソウルのレコード会社「フィラデルフィア・インターナショナル・レコード」の設立を促すのです。

クライヴ・デイヴィスはCBSですでにスライ&ファミリー・ストーンなどの新しいブラック・ミュージックを売り出すことを成功させていました。また、モータウン・レコードやスタックス・レコードの隆盛、フィラデルフィアからぽつぽつ出てきたヒットなどを見て、ソウル・ミュージックに大きな流れが来ていることを感じ取って、ギャンブル&ハフに注目していたのです。

それまで、フィラデルフィアから出てくるソウル・ヒットは、あくまで一ローカル・ヒットがたまたま全国的になるという「単発的」なものでした。ローカルのインディ・レーベルもたくさんありましたが、ローカルでの群雄割拠の様相を呈しており、全国的なうねりにはなっていませんでした。

そこにCBSの大きな資金と、全国的な販売ネットワークが備わることによって、大きなヒットが生まれる可能性がでてきました。

ギャンブル&ハフたちは、豊富な資金をバックに、自分たちが作りたい音楽を積極的に作り出すようになりました。

ACT 3 : シグマ・サウンド・スタジオとフィリーのミュージシャンたち

そんなギャンブル&ハフ、トム・ベルらが積極的に使ったスタジオが、「シグマ・サウンド・スタジオ」です。212ノース・12ス・ストリートにあるスタジオ。1968年、当地のカメオ/パークウェイのチーフ・エンジニアだったジョー・ターシャがそれまでにあったスタジオを買い取り、手作りでいろいろ揃えていったスタジオですが、ここから多くのヒットが生まれるようになります。このスタジオは全米で2番目に「24チャンネル」のマルチ・トラック・レコーダーをいれたスタジオとなりました。フィリー・ソウルの独特のサウンドがこの名エンジニア、ジョー・ターシャの手によるものという点は特筆すべきでしょう。

このシグマ・スタジオを根城にしたミュージシャンたちは多数います。

アール・ヤング(ドラムス)、ノーマン・ハリス(ギター)、ローランド・チェンバース(ギター)、ボビー・イーライ(ギター)、TJティンドール(ギター)、ロニー・ベイカー(ベース)、ヴィンス・モンタナ(ヴァイヴ)、ラリー・ワシントン(パーカッション)、ボブ・バビット(ベース)、レニー・ペキューラ(キーボード)などなど。この他にストリングス・セクション、ブラス・セクション、またアレンジャーが多数います。アレンジャーとしては、ボビー・マーティン、ジャック・フェイス、トニー・ベル、ギャンブル&ハフ、リチャード・ローム、ジョン・デイヴィス、マクファーデン&ホワイトヘッドなどなど。

こうしたミュージシャンたちを、ギャンブル&ハフたちがシンガーのバックバンドとして起用するときに、「MFSB」と名付けるようになりました。しかし、各メンバーはそれぞれフリーのミュージシャンたちですので、ギャンブル&ハフ以外のバンド・マスター、ディレクター、あるいはプロデューサーがそうしたミュージシャンたちを起用することもできます。

そこでヴァイヴ奏者であるヴィンス・モンタナが仕切ってレコーディングするときは、同じメンバーで同じようなサウンドになっても、それは「ヴィンス・モンタナ・オーケストラ」あるいは、「サルソウル・オーケストラ」となったり、ジョン・デイヴィスがやれば「ジョン・デイヴィス&モンスター・オーケストラ」になったり、リチャード・ロームが指揮をすれば「リッチー・ファミリー」となったりします。

いずれにせよ、フィラデルフィアのシグマ・スタジオにはすぐれたミュージシャンが集まっていたので、誰を使ってもクオリティの高い作品が作れました。

ギャンブル&ハフが、当初目指したのが、60年代に多くのヒットを生み出していたモータウンのやり方です。たくさんのすぐれたソングライター、アレンジャー、プロデューサーを揃え、ハウス・バンドを使って次々とレコーディングし、ヒット曲を量産していく方法です。

このシグマ・スタジオは、モータウンの本社スタジオ、MFSBたちミュージシャンたちは、モータウンにおけるファンク・ブラザーズたち、ギャンブル&ハフ、トム・ベルらが、モータウンのベリー・ゴーディーに相当する司令塔という役割です。

ギャンブル&ハフの周辺、その元からも次第に新しい世代が育っていきます。それが、バニー・シグラー、ボビー・マーティン、ベイカー・ハリス・ヤングのトリオ、マクファーデン&ホワイトヘッド、デクスター・ワンゼルなどなどです。

ACT 4 : ヒットに継ぐヒット

1972年頃から、トム・ベルはスタイリスティックスで次々とヒットを出し、さらに、スピナーズでもヒットを量産します。ギャンブル&ハフは、1971年にフィラデルフィア・インターナショナル・レコードがスタートしてから、1972年にオージェイズの「バックスタバーズ」、ビリー・ポールの「ミー&ミセス・ジョーンズ」、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(二人の絆)」などのミリオン・ヒットで、一挙に爆発。「フィラデルフィア・ソウル」がアメリカ音楽業界の中でも、もっとも注目される現象となりました。

こうして、フィラデルフィア・ソウルに注目が集まり、いわゆる白人のロック・アーティストなどもこの地を訪れ、そのサウンドを取り入れようとしました。エルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイなどがその例です。特にデイヴィッド・ボウイの1974年の『ヤング・アメリカン』、エルトン・ジョンの『トム・ベル・セッション』などは、話題になりました。

フィラデルフィア・ソウルで人気のスリー・ディグリーズなどは、日本でも大きな人気を獲得、日本語の楽曲などもレコーディングしました。これらのフィリー・ソウルの大ブームを受けて、日本の歌謡曲界でも、このフィリー・ソウルの影響を受けた作品も出ました。

そんなフィラデルフィア・ソウルでも、プロデューサーによって、少しずつ色合いが違ってきます。

トム・ベルの作る作品は比較的甘いスイート・ソウルが多く、ギャンブル&ハフたちはもう少し硬派の、またメッセージ色の強い作品が多くなっていきます。ギャンブル&ハフの作品群のジャケットにはいつも、「There’s a Message In The Music(音楽の中にはメッセージがあります)」というキャッチフレーズが書かれていました。ボビー・マーティンもオーケストラ・アレンジがうまく、また、それとソウルフルなヴォーカルの組み合わせが大変上手です。バニー・シグラーは、ファンキーなサウンドが得意です。

1972年から1970年代を通して、「フィラデルフィア・ソウル」は大きなブームとなります。しかし、1980年代に入ってからは、徐々にその勢いを失っていきます。ミュージシャン、アレンジャーたちの変化、アーティストたちの変化などもあり、またヒップ・ホップの登場など、時代の流れもあったのでしょう。

「フィラデルフィア・ソウル」がこれほどの隆盛を極めたのは、やはり、トム・ベル、ギャンブル&ハフという「マイティー・スリー」(三巨頭)がリーダーシップを取ってフィラデルフィア・サウンドを盛り上げていったこと、その周辺に優れたミュージシャン、シンガー、ソングライターたちが多数いたためです。

しかし、大きな流れもいつかは終わりがきます。1984年、CBSとフィラデルフィア・インターナショナル・レコードの配給契約が終了し、ひとつの時代にピリオドが打たれました。その後、フィラデルフィア・インターは、EMIが配給するようになり、2007年、再びソニーが全カタログの発売権を獲得し直しています。各国で過去カタログの再発売などの作業が続いています。

2010年2月、フィラデルフィア・インターナショナルのオフィースが放火され、幸いけが人などは出ませんでしたが、多くのマスターテープなどが消失しました。

また2011年8月、フィラデルフィア・インター設立40周年を記念して、TSOP Soul Radio というインターネット・ラジオ局を開始しています。ここでは、24時間、フィリー・ソウル・ヒットが流れています。

http://media.streamads.com/playersdk/v2/widgets/webplayer/arplayer/player.html?pid=0&sid=162536

1970年代から80年代初期に多くのヒットを放った「フィラデルフィア・ソウル」「フィラデルフィア・サウンド」は、黒人のソウル・ミュージックをもっとも美しい姿で映し出した作品群の数々です。そして、それぞれに歌のうまい情感あふれるシンガーたちが熱いソウルを歌いました。モータウンのヒットの数々も、スタックスのヒットの数々も、素晴らしいのと同様に、フィラデルフィア・ソウルのヒットの数々もその時代のブラックたちだけでなく、世界中の人々の人生のサウンドトラックとなり、賛歌となったのです。

(今週のブログは、「フィラデルフィア・サウンド」特集。明日は、トム・ベル・ストーリー、リンダ・クリード・ストーリーをお送りします。あさってはギャンブル&ハフ・ストーリーです)

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JFN系列、2011年11月14日(月)から17日(木)深夜25時~28時 『ビッグ・スペシャル』~「フィラデルフィア・ソウル大特集」をお送りします。17日(木曜)深夜は、吉岡正晴も生出演します。

『ビッグ・スペシャル~フィラデルフィア・サウンド特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。

関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT

番組ホームページ。
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm

毎日生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けています。

ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。

東京FM #tfm ビッグ・スペシャル #bigsp 

ネット局:

FM青森 , FM岩手 , FM秋田 , FM山形 , ふくしまFM , RADIO BERRY , FMぐんま , FM-NIIGATA , FM長野 , FMとやま , FM石川 , FM福井 , K-MIX , FM AICHI , Radio80 , レディオキューブ , FM滋賀 , fm osaka , Kiss-FM KOBE , V-air , FM岡山 , HFM , FM山口 , FM徳島 , FM愛媛 , FM高知 , FM香川 , FM大分 , FM佐賀 , FM長崎 , FMK , μ FM , JOY FM , FM沖縄 , TOKYO FM

■4枚組み、フィラデルフィア・サウンドのオムニバス

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001F290GM/soulsearchiho-22/ref=nosim/


ANNOUNCEMENT>Big Special
RADIO>Big Special





#「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリー~「グレイト・ソング・ストーリー」(名曲物語)

【”Betcha By Golly, Wow” Story 】

(不定期でその曲の誕生秘話などをご紹介している「グレイト・ソング・ストーリー」(名曲物語)。今回は、スタイリスティックスでおなじみのフィリー・ソウル・クラシック「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」をご紹介します。この模様は、今日の「ソウル・サーチン」[インターFM76.1mhzで日曜午後2時半~]でもご紹介します)

ACT 1: 入魂の1曲

流行語。

「フィラデルフィア・ソウル」「フィリー・ソウル」の人気グループ、スタイリスティックスの大ヒット曲のひとつ「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」。1972年に大ヒットした名曲。スタイリスティックスのデビュー・アルバム『スタイリスティックス登場』に収録されている。

これを書いているのが、そのプロデューサー、トム・ベルと作詞家リンダ・クリードのコンビだ。スタイリスティックスで大ヒットし、その後、カヴァーが生まれた。有名なのは、フィリス・ハイマン、そして、プリンス、アーロン・ネヴィルなど。そのほかにもジャズの分野も含めて多数のカヴァーがある。

ところが、スタイリスティックスがレコーディングして有名にしたこの曲、実は、スタイリスティックより前に、録音されていたことを最近知った。なんと、1960年代に活躍した女優兼歌手のコニー・スティーヴンスが、1970年にレコーディングしていたのだ。しかし、そのときのタイトルは、「キープ・グロウイング・ストロングKeep Growing Strong」。そう、サビの繰り返しの部分だ。いくら「ベッチャ・バイ~」で検索してもでてこない。

コニー・スティーヴンスは1938年8月8日生まれ(現在73歳)で、1959年から始まったテレビ・シリーズ『ハワイアン・アイ』で人気となった。ほぼ同じ頃からシンガーとしての活動も開始。女優兼歌手として活躍していた。1959年4月からエディー・バーンズとのデュエットで「クーキー・クーキー」という曲が全米ポップチャートで4位、ゴールド・ディスクに輝いている。ただこれは、聴くとわかるが、歌というより、ラップというかナレーションというか、ちょっと冗談ぽいノヴェルティー・ソングだ。アイドル・タレントというところといえそう。

(一応参考までに、その楽曲映像↓)
http://youtu.be/3gDT2Xk5-Oo

さて、コニーの「キープ・グロウイング・ストロング」が録音されたのは、1970年。これも、プロデュース、コンダクト、アレンジがトム・ベル本人。シングルは、ベル・レコードからリリース。どのような経緯で当時はまだ無名だったトム・ベルがコニーの曲をプロデュースすることになったかはわからない。ひょっとすると、デルフォニックスの作品を出していたフィリー・グルーヴ・レコードを配給していたのが、ベル・レコードだったから、その線でトム・ベルに話が行ったのかもしれない。とりあえず、シングルを1枚作ろうということで出来たようだ。

サウンド的には、初期のデルフォニックスのサウンドに近い。ちょっと荒削りな音だが、ちゃんとストリングスも入っているところが、トム・ベルらしい。残念ながらこのヴァージョン「Keep Growing Strong / Tick-Tock」(Bell 922)はヒットしなかった。今では、このオリジナルのシングル盤にはオークションで300ドル以上ついたりするという。ちなみに、シングルB面の「ティック・トック」は、ミディアム調のフィリー風ダンス曲。これは、2011年5月29日(日)に山下達郎さんの『サンデイ・ソングブック』(東京FM系列全国ネット)で、オンエアされた。たぶん日本で唯一のオンエアだ。達郎さんはこのシングルをその頃入手したそうだ。シングルは1970年の9月から10月頃のリリースと思われる。(ちなみに、Bellのディスコグラフィーをあたると、Bell 910 パートリッジ・ファミリーの「I Think I Love You」が1970年10月、Bell 913 フィフス・ディメンションの「On The Beach」が1970年8月、Bell 938 ドーンの「ノックは3回(Knock Three Times)」が1970年11月のリリースで、若干の前後することもあるが、922はその間あたりのリリースと見られる)

■コニー・スティーヴンスの「キープ・グロウイング・ストロング」
Connie Stevens : Keep Growing Strong
http://youtu.be/uTokIbPQyB0


(動画ではありませんが、曲は聴けます)

(ちなみにこの曲は、今では下記掲載のコンピレーションで安価に入手できる。今日「ソウル・ブレンズ~ソウル・サーチン」でかけるのもこのCDから。また、訳詞が下にあります)

ACT 2: タイトルを変えて再録音

マジック。

ヒットはしなかったが、しかし、トム・ベルもリンダ・クリードもこの曲が気に入っていた。入魂の1曲だった。そして、これをほぼ同じ頃、ちょうどトム・ベルがプロデュースを頼まれたフィラデルフィア出身の無名の新人グループのデビュー・アルバムで再度録音する。おそらく1970年暮れか1971年初頭にかけてのことだ。

しかし、彼らはタイトルを「キープ・グロウイング・ストロング」からそのサビがくる少し前のフレーズに変更した。そう、「ベッチャバイ・ゴーリー・ワウ」という当時の流行り言葉にしたのだ。そしてそれをアルバムに入れた。新人グループはスタイリスティックスといった。このヴァージョンは、コニーのポップな感じとはまったく違い、まるで女性が歌っているかのようなソフトなファルセット(裏声)で歌われ、流麗なオーケストラのサウンドで出来ていた。

「Betcha / By Golly / Wow」は当時ブラックの間で流行っていた言い回しで、あえて今風の日本語にすると「驚いたなあ、マジ・すげえなあ」「ぶっとんだぜ~」と言った驚きを表現する言葉だった。Betcha はYou bet(その通り、マジに、もちろん、絶対!), by golly は by godで、これも「本当に! まったくその通り! おや、まあ」といった意味、そしてWowも驚きの感嘆詞。全部同じような単語が並ぶ。「ほんと、マジ、驚く、ワオ」とか、「びっくりしたなあ、モウ」とか、あるいは、少し意訳すれば、「がちょ~~ん」なんかもあるかもしれない。いわば旬の単語をそのままタイトルにしたのがこれだ。21世紀の今では誰も使わない言葉だという70年代初期の黒人間の「流行語」だった。

ここは推測だが、元々トム・ベルたちは、「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」のタイトルで曲を作ったが、これが黒人スラングで、白人のコニーにはそぐわないということで、わかりやすく「キープ・グロウイング・ストロング」にしたのかもしれない。そして、黒人のスタイリスティックスで録音するときに、黒人たちにはわかりやすい元のタイトルに戻した可能性もある。

もちろん、「キープ・グロウイング・ストロング」(愛はどんどんと強くなっていく)というタイトルのほうが一般的にはなじみやすいのだが、あえて当時の流行語で、タイトルとしては意外な「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」を全面に押し出したところがよかったのだろう。

この曲はスタイリスティックスのデビュー作『スタイリスティックス』に収められ、「ユー・アー・エヴリシング」に続いて同アルバムからは4枚目のシングルとしてカット。瞬く間にラジオ局でのエア・プレイを得る。1972年3月からヒットし始め、ソウル・チャートで2位、ポップ・チャートで3位を記録する大ヒットになる。下記の歌詞・訳詞をみていただくとよくわかるが、リンダ・クリードが生み出した不思議なラヴ・ソングの世界がとても魅力的だ。それが、スタイリスティックスのリード・シンガー、ラッセル・トンプキンスの声とからみあい、独自のスタイリスティックス・ワールドを作り出した。まさに、マジックが生まれたと言っていいだろう。

■スタイリスティックス:ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ

http://youtu.be/MUKilZ58wYY


(動画ではありませんが、曲は聴けます)

トム・ベルは、自分の自信作となると、何度でも録音を試みる。この「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」も、コニーで録音し、再度スタイリスティックスで録音。またトムは1973年、やはりヴェテラン・シンガー、ジョニー・マティスをプロデュースするが、ここでは「ライフ・イズ・ア・ソング・ワース・シンギン」と「ベイビー・ビー・マイン」を録音している。

前者はそれから4年後の1977年、ご存知テディー・ペンダーグラスが録音し、アルバム・タイトル曲にしてヒット。後者は17年後の1990年、ジェームス・イングラムがアルバムで録音、シングル・カットされている。いい曲は、タイミングとアレンジなどで、最初ヒットしなくても、のちにヒットすることがあるといういい例だ。

ACT 3: 多数のカヴァーが生まれスタンダードに

下積み。

「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」のカヴァーで特筆すべき出来のものは、やはりフィラデルフィア出身のフィリス・ハイマンのものと、プリンスのものがある。フィリスは、彼女がノーマン・コナーズのゲスト・シンガーとしてレコーディングしたものが話題となった。そのほかに、グラント・グリーン、タック・アンドレス、スモーキー・ロビンソン、アーロン・ネヴィルなど多くがカヴァー。

プリンスのものは、1996年の3枚組アルバム『エマンシペーション』に収録されている。(正確にはこの時点ではアーティスト表記は、プリンスではなく、発音不能のシンボル・マークの時代) ここには、「ベッチャ・・・」のほかにフィリー・ソウル・クラシック「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」も収録されているが、「ベッチャ・・・」は、シングルとして当時のプリンスの妻、マイテの23回目の誕生日(1996年11月12日)にリリースされ、マイテが登場するプロモーション・ビデオも制作された。

プリンスの瞳の中にカメラが入っていくところから始まるが、これは歌詞の冒頭にあわせたもの。ここではマイテがプリンスに妊娠したことを報告するというストーリーになっており、実生活そのままになっている。妊娠を知り、ますます君への愛が強くなった、といった意味で、プリンスの気持ちとこの作品が完全に一体化している。ちなみに、彼らは1996年4月ごろ妊娠を知るが、残念なことにそのベイビーは誕生後1週間でパイフェル症候群のため死去している。

Betcha By Golly Wow by Prince
http://youtu.be/lnAQkc0GuK0


日本のテレビで放映されたPV。

「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」は、スタイリスティックスで大ヒットし、その後多数のカヴァーが生まれ、40年以上を経て、文字通りスタンダードになった。おそらく、プリンスのようにこの曲を自身の人生のサウンドトラックとした人も多くいたに違いない。そういう意味で、ウエディング・ソングとして、ラヴ・ソングとしても、秀逸の1曲だ。きっとこれからもまだまだカヴァーされるだろう。

トム・ベルたちが、コニーでヒットしなかったところであきらめて、スタイリスティックスで再度録音しなければ、この曲は誰も知ることなく終わっていた。彼らがこの曲に執着し再度録音したからこそ、スタンダードになった。

歴史とは現在に至るたった一本の道筋を描くものだ。しかし、その道の途中には、いくつもの分岐点がある。過去、別の道を行ったらどうなったか、ということは誰にもわからない。だが今日ある姿は、今まで来た道が、結局はそれしかなかった、あるいは正解だった、あるいは必然のように思える道だったとしかいいようがない。そして、ソングライターは本当にいい作品なら、一度ヒットしなかったからと言って自らが生み出した子供のような楽曲を諦めることはない。楽曲にも「下積み」の時代があるものなのだ。コニーの「キープ・グロウイング・ストロング」は、そんな「下積み」時代の名曲だ。その下積みの楽曲は、時を経てどんどんと強くなっていった(keep growing strong)のである。

■今日の「ソウル・ブレンズ」(日曜午後1時~3時、インターFM76.1mhz)内「ソウル・サーチン」(午後2時半~)で、この「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリーを紹介して、コニー・スティーヴンス・ヴァージョンをかけます。関東地区の方は、ネットを通じてラジコで聴けます。

http://radiko.jp/player/player.html#INT

■過去の名曲物語(訳詞つき)

http://ameblo.jp/soulsearchin/theme-10017696659.html
このジャンルにまとめておいてあります。

Rapper’s Delight : Sugarhill Gang (これは訳詞はありません…)
Time After Time: Cindy Lauper
He Ain’t Heavy, He’s My Brother : Hollies
Smoke Gets In Your Eyes :Platters

New York State Of Mind: Billy Joel
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040322-1.html
Golden Lady: Stevie Woner
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040318-1.html
Dance With My Father : Luther Vandross
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040211.html

+++++

『ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワオ』(訳詞)
(トム・ベル作曲、リンダ・クリード作詞)
スタイリスティックスでヒット

君の瞳には恋の火花が散っている
君が微笑むたびに、甘くとろけるようなキャンディーの街が現れる
そんな御伽噺が現実になるなんて夢にも思わなかった
でも、君の傍らにいると、本当に御伽噺の主人公みたいな感じなんだ
君は変装した精霊(ジーニー)だね
謎と驚きにあふれてる

なんてすごいことなんだ、ワオ
君こそ、僕がずっと探し求めていた女(ひと)
君への愛はどんどん大きくなっていく
どんどん大きくなっていく

もし僕が流れ星を捕まえられるなら、
その星で君を照らそう
そうすれば、君の居所がわかるから
虹を君の好きな形にオーダーしよう
大空に君の名前を書いて
君への思いと愛を見せよう
君がして欲しいと思うことは何でもやってみよう

だって、君の存在は、本当にすごいことなんだから、ワオ
君こそ、僕がずっと探し求めていた女(ひと)
君への愛はどんどん大きくなっていく
どんどん大きくなっていく

本当にすごいことだよ、ワオ
君こそ、僕がずっと探し求めていた女(ひと)
君への愛はどんどん大きくなっていく
どんどん大きくなっていく

君はずっと僕が探し続けてきた女(ひと)
君への愛を永遠に

(訳詞・ザ・ソウル・サーチャー)

++++

Betcha By Golly, Wow
(written by Thom Bell, Linda Creed)

There’s a spark of magic in your eyes
Candyland appears each time you smile
Never thought that fairy tales came true
But they come true when I’m near you
You’re a genie in disguise
Full of wonder and surprise

And betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you keep growin’ strong
Keep growin’ strong

If I could I’d catch a falling star
To shine on you so I’ll know where you are
Order rainbows in your favorite shade
To show I love you, thinking of you
Write your name across the sky
Anything you ask I’ll try, `cause

Betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you keep growin’ strong
Keep growin’ strong

Betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you keep growin’ strong
Keep growin’ strong

Betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you

■スタイリスティックス 名盤 『スタイリスティックス登場』(紙ジャケ)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0018OFGO2/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ コニー・スティーヴンス・ヴァージョンが入っているコンピ。(これ、けっこうおもしろい選曲で楽しめます)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000GDIC3S/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

■フィリス・ハイマン・ヴァージョン

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005EHP6/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■プリンス・ヴァージョン

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002UJC/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■アーロン・ネヴィル 『グランド・トゥアー』

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002G1A/soulsearchiho-22/ref=nosim/

GREAT SONG STORY>Betcha By Golly Wow, Keep Growing Strong

◎ウィリー・ナガサキ&フレンズ・ライヴ~ようこそ楽園へ

【Sasaki Makoto/Willie Nagasaki Session】

楽園。

来週の「フィリー・ソウル大特集」の選曲作業に没頭していたが、120曲以上を選曲し、一段落。そこで、ちょっと息抜きに。ライヴって行かないと中毒症状が出てくるんですね。(笑)

以前ゴスペラーズの北山陽一さんに紹介されたラテン系ヴォーカルの佐々木誠さん。何度かライヴにお誘いいただいていたのだが、やっとタイミングがあって、深夜のアムリタへ。この日も、ラテン系好きなファンたちが集まっていた。

僕はラテン、サルサ系の音楽はまったく知識がないのだが、こういう場所で生演奏で楽しめるというのは実にいい。

ヴォーカル、パーカッションの佐々木さんを中心に、キーボード、ベース、さらに2人のパーカッションという基本5人編成。メンバー表を見ればわかるように、それぞれあちこちで活躍しているメンバー。今回は、ティンバレスのウィリー・ナガサキさんの元に集まった。ウィリーさんは、ニューヨークのティト・プエンテ直系のお弟子さんだそう。

ラテンといえば、パーカッション。これが、ラテン・グルーヴを生み出す。なんで、ただ物を叩くだけなのに、あんなに「ノリ」で出るんだろう。



「ようこそ楽園へ!」 まさにラテンの楽園。特にパーカッション3人がそれぞれプレイし、バトルするところなど、それだけで熱くなってくる。

昨年見た『ハヴァナ・ラカタン』の興奮を思い出した。

2010年08月11日(水)
ハヴァナ・ラカタン~灼熱の音楽とダンスが爆発
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10613292309.html?

佐々木さんのブログ。マコト日記。
http://chekere.exblog.jp/

なんと2001年3月以来10年以上毎年キューバを訪れているそう。

来年も「トローバ国際音楽祭」から招待状が来て、キューバに行くそうだ。

その後、佐々木さんから詳細なセットリストをいただいたので、そのまま掲載いたします。彼のライヴなどは、上記ブログにて。

サル~~。

■ ウィリー・ナガサキさん・ウェッブ
http://bronx.cup.com/index.html

■ メンバー

Willie Nagasaki;ウィリー ナガサキ (松岡直也グループ) timbales(ティンバレス)
渋谷 和利;しぶや かずとし (オルケスタ・デ・ラ・ルス) baby bass(ベイビー・ベース)
齋藤 崇也;さいとう たかや (オルケスタ・デ・ラ・ルス) Rhodes
伊波 淑;いば よし(熱帯JAZZ楽団)congas
Makoto vo ,bongo,and minor perc.

ゲスト二階堂貴文

■セットリスト (解説は佐々木さんからいただきました。感謝)
Willie Nagasaki & Friends @Amrta, November 11, 2011

show started 2:01
1.Cachita;カチータ (Rafael Hernandez;ラファエル エルナンデス。プエルトリコの作曲家で、キューバのポピュラー音楽‘SON;ソン’のスタイル他とにかく多作。キューバでもその楽曲の数々は今も演奏され非常に人気。)

2.Masacote;マサコーテ  (作曲者なし。ラテンでいうセッション=‘デスカルガ’を行う際に用いるリズムとベース・パターンを仮に昨日はそう呼びました。強いていえばウィリー氏オリジナル。)

3.シリ・ピリカ  (ピアノ;齋藤 崇也のオリジナル。)

4.Contigo en la distancia;コンティーゴ・エン・ラ・ディスタンシア (Cesar Portillo de la Luz;セサル・ポルティージョ・デ・ラ・ルス。キューバのフィーリンというジャンルのシンガーソングライター。作曲数は少ないながら、そのどれもがヒットソングで、キューバで最も愛されるシンガーソングライターの一人。昨日はセカンド・セットで唯一ボレロ=バラードとして採上げました。)

5.El cuarto de Tula;エル・クアルト・デ・トゥーラ (Gonzales Y Siaba Sergio Eulogio;ゴンサーレス&シアバ・セルヒオ・エウロヒオ) 映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』と同名のCD発売でその収録曲として今迄以上に世の中に知られることになったキューバのポピュラー音楽ジャンル‘SON;ソン’の一曲。

6.Manbo Inn;マンボ・イン (Mario Bauza;マリオ バウサ)ラテン・ジャズで最も日本で演奏される機会の多い一曲を、昨夜は敢えて最後に選びました。

アンコール;Dscarga C7;C7のデスカルガ (作曲者なし。僕がコール&レスポンスを即興し、その場にいたミュージシャン全員でセッションになりました。)

(2011年11月10日木曜、アムリタ、ウィリー・ナガサキ&フレンズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE> Willie Nagasaki & Friends
2011-
○ フィリップ・ウー、ラルフ・ロール、マイケル・ディスタシオ、アキコ@メットポッド・セッション

【Philip Woo & Ralph Roll On Metpod】

メットポッド。

毎週DJカマサミ・コングさんが収録し、ポッドキャストにあげているMetpodの収録に現在久保田利伸ツアーで来日中のラルフ・ロールとフィリップ・ウーが登場。彼らが11月24日(木)に目黒ブルース・アレイで行う「ニューヨーク・オールスターズ」のライヴについて話した。

この日はほかに、ユニヴァーサル所属のシンガー、アキコさん、「ロック・チャレンジ」というイヴェントを行っているマイケル・J・ディスタシオさんがやってきた。

http://metropolis.co.jp/podcast/

まず、フィリップ、ラルフらのニューヨーク・オールスターズのライヴ告知。これは、現在久保田利伸ツアーでニューヨークからやってきているメンバーを中心にしたライヴ。これまでにも久保田ツアーの合間をぬって、ソウル・ミュージックを楽しむ会として行われてきた。今回はニューヨークからラルフ・ロール(シック・ナイル・ロジャーズのドラマーとしても有名)、シンガー、タイ・スティーヴンス、フェリシア・グラハム、フィリップ・ウーに加え、ジーノ、マサコハマと強力なラインアップで、スティーヴィー、ダニーなどの70年代ソウルを含めたブラック・ミュージックを奏でる。

(下記に前回のニューヨーク・オールスターズのライヴ評)

+++++

レッスン。

また、ラルフ・ロールは現在来日中の空いた時間に、ドラム・クリニックを高輪のスタジオ・ベイドで行っている。ラルフは、ドラムの技術的なことはもちろんのこと、エモーショナルな部分、心構えといったものを教える、という。

フライヤー

開催時期:2011年9月~2012年2月
開催場所:東京都港区高輪台・スタジオ・ベイド
価格: 1時間8000円~
予約・問い合わせ: Ralph.drumlesson@gmail.com

+++++

クッキー。

ラルフは、ドラマーの顔ともうひとつ、ブラック・アントレプレナー(黒人起業家)としての顔を持つ。なんと、ファミリー代々のレシピーでクッキーを作ったところ友人たちの間で評判となり、会社にし、ショップで売り始め、そのショップが現在ではニューヨークで62店舗にもなった。1996年からビジネスを始めた。「ニューヨークではスーパー・ビジーなんだよ」とラルフは笑う。ネットで販売し、日本にも送ってくれるそう。

www.soulsnacksnyc.com

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アキコ。

アキコさんは、おなじみのジャズ・シンガー。2011年11月16日にビートルズの作品ばかりを録音したカヴァー・アルバムをリリースする。そのプロモーションでやってきた。(今回はメットポッドではなく、カマサミの別の番組用にインタヴューを収録)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005KLA9HI/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

ライヴ=AKIKO

2011年12月20日(火曜)、東京品川・キリスト品川教会・グローリア・チャペル 18時30分オープン、19時開演
5000円。当日券5500円。
2011年11月12日(土)から一般発売
主催・キャピタルヴィレッジ/ability muse 問い合わせ・キャピタルヴィレッジ03-3478-9999

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ロック・チャレンジ・ジャパン。

マイケルさんは、「ロック・チャレンジ・ジャパン」というイヴェントの告知。もともとオーストラリアで始まったイヴェントを日本でもやりだして、今回は2012年2月3日、新宿文化センターで行われる。入場無料。

このイヴェントは、学生、若い世代にダンスなどのパフォーマンスのチャンスを大きなステージで与えるもの。ダンス、マイム、演技、ミュージカルの要素をツールにして、テーマやストーリーを作りパフォーマンスする。音源は参加者が8分以内で編集する。スポンサーにより参加費、入場料は無料。一般の人はなかなかステージで照明や音響を使ったものができないため、貴重な体験になる。世界的に見ても他に類を見ない、大変ユニークなパフォーミングアート、とのこと。

www.rockchallenge.jp

http://www.resultdns.com/?tmp=redir_bho_bing&prt=RsltdnsNN&keywords=www.rockchallenge+jp

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■フィリップ・ウー・ウィズ・ニューヨーク・オールスターズ
Philip Woo with The N.Y. All Stars 2011

日時・2011年11月24日(木) 午後7時半~ 
料金・4000円、4500円(当日)
会場・目黒ブルース・アレイ
http://www.bluesalley.co.jp/
東京都目黒区目黒1-3-14ホテルウィング・インターナショナル目黒B1F
電話 03-5496-4381

メンバー=
Philip Woo (Pf/HAMMOND B-3/Fender Rhodes/Synth)
Ralph Rolle (Ds/Vo)
Ty Stevens、Felicia Graham (Vo)
マサ小浜(G)
Hino Jino Kenji(B)

○ ニューヨーク・オールスターズ過去記事

July 21, 2006
Philip Woo & New York Allstars: Don’t Leave Me This Way (Japanese Version)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200607/2006_07_21.html

(English version of above)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_07_20.html

August 03, 2006
Tonight Is Ty Night: Philip Woo & New York All Stars Final
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_03.html

+++++

RADIO>Metpod
ANNOUNCEMENT>New York All Stars

●ヘヴィーD、ジョー・フレイジャー、ノーマン・ダーラムら死去

訃報。

ラッパー、俳優としても活躍していたヘヴィーDが、2011年11月8日、ロスアンジェルスのシーダス・サイナイ病院で肺炎のため急死した。ビヴァリーヒルズの自宅で息苦しくなり、午前11時半(日本時間9日午前4時半)頃救急車が呼ばれ病院に搬送されたが、まもなく死去が確認された。44歳。

ヘヴィーDは、本名ドワイト・アーリントン・マイヤーズ。1967年5月24日ジャマイカ生まれ。幼少の頃、家族でニューヨークのマウント・ヴァーノンに引越し、そこで育った。Gウィズ、Tロイ、エディーFらとともに、ヘヴィーD&ザ・ボーイズを結成。1986年に黒人起業家アンドレ・ハレルが設立したアップタウン・レコードと契約。同レーベルの成功とともに、彼らもビッグになった。1986年12月から「ミスター・ビッグ・スタッフ」(ジーン・ナイトのヒットのカヴァー)がヒット。さらに1987年、デビュー・アルバム『リヴィング・ラージ』(でっかく生きる。スケール大きく生きることと、彼自身の体が大きいことをかけている)がヒット。

さらに、1989年の2作目『ビッグ・タイム』はR&Bアルバムチャートで1位。しかし、その後1990年7月15日、インディアナポリスでボーイズのメンバー、Tロイが22歳で事故死。3作目『ピースフル・ジャーニー』をTロイへのトリビュート作品にした。同アルバムのトップを飾る「ナウ・ザット・ウィ・ファウンド・ラヴ」(オージェイズのヒットを「ニュー・ジャック・スウィング」のサウンドでカヴァー。リードはアーロン・ホール)ブラック・チャートで5位を記録、ゴールド・ディスクになり、大ブレイク。一足先に、同じMCAから登場したガイのテディー・ライリーが開発した「ニュー・ジャック・スウィング」で大ヒットさせ、メロディーのあるラップ作品を作り支持を集めた。

ラップ、ヒップ・ホップとメロディーのあるR&Bを融合することに成功、この流れは同じアップタウンでメアリーJブライジに受け継がれる。また、アップタウンからは、ショーン・パフィー・コムスが登場し、一大勢力となった。パフィーは、ヘヴィーDのおかげで音楽業界入りできたと語る。彼の口利きでアップタウン・レコードでインターンとして働き始めたのだ。

http://youtu.be/NNEgUPKxk7A



ヘヴィーDはテレビ番組『イン・リヴィング・カラー』のテーマ曲を担当、出演したり、映画にも出るようになった。また巨漢ながらそのキャラクターが大変印象的で愛され、多くのアーティストからもプロモ・ビデオへのラップ出演が舞い込み、ジャネット・ジャクソンの「オールライト」、マイケル・ジャクソンの「ジャム」などに客演。

1996年、クインシー・ジョーンズに呼ばれ彼の最新作でブランディーとともにマイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」をカヴァー。

2011年10月20日、BETヒップ・ホップ・アワードに登場、パフォーマンスは15年ぶりだったが、その後2011年10月8日、イギリス・カーディフで行われた「マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ」に出演、マイケルの姉ラトーヤと「ジャム」を歌った。

また、ヘヴィーDは約17万人のフォロワーがいる自身のツイートで2011年11月7日21時19分(現地時間)に「スモーキン・ジョー・フレイジャーRIP」とツイート。次のツイート(現地7日22時29分=日本時間11月8日15時29分)で、「BE INSPIRED!」と書いている。「元気をくれ!」「インスパイアーされなさい(元気を得なさい、刺激を受けなさい)」「息をさせてくれ」といった意味。これが最後のツイートとなったが、ある意味大変予言的なツイートになった。前夜から息苦しかったのだろうか。

ヘヴィーDのツイッター・アカウントは、@heavyd 。

■ヘヴィーD&ザ・ボーイズ

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002OGP/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ News Sources

http://moviesblog.mtv.com/2011/11/08/heavy-d-dead-movies/

http://www.seattlepi.com/entertainment/article/Heavy-D-dies-at-44-after-collapsing-outside-home-2258891.php

http://www.soultracks.com/story-heavy-d-dies

http://www.tmz.com/2011/11/08/heavy-d-dead/#.Trny7_SF-31

OBITUARY> Myers, Dwight Arrington (May 24, 1967 – November 8, 2011, 44 year old),

●ジョー・フレイジャー死去~モハメド・アリを倒したヒーロー

【Joe Fraizer Dies At 67】

肝臓癌。

1970年代に当時無敵だったボクサー、モハメド・アリを初めて倒してヒーローになったジョー・フレイジャーが、2011年11月7日死去した。肝臓癌だった。67歳。「スモーキン・ジョー」のニックネームで知られていた。

1964年東京オリンピックでアマチュアとして金メダル獲得、1965年プロに転向。1970年ヘヴィー級チャンピョン。37戦32勝(ノックアウト勝ち27)4敗1分。

OBITUARY>Fraizer, Joe (January 12, 1944 – November 7, 2011, 67 year old)

●クリアーのベース奏者、ノーマン・ダーラム59歳で死去

【Norman Durham, Kleeer Member, Dies At 59】

一酸化炭素中毒。

70年代に活躍したファンク、ディスコ・グループ、クリアー(Kleeer)のベース奏者、ノーマン・ダーラムが2011年11月2日、ニューヨーク郊外チェスナット・リッジの自宅で死去した。59歳。このところの寒波で、自家発電で暖房をしていたが、その自家発電機による一酸化炭素中毒で死去した模様。この地域は、前の週末から嵐で停電していた。

クリアーは元々1972年に結成された「ザ・ジャム・バンド」と名乗るファンク・5人組グループが前身。その後、1975年に「パイプライン」となり、このグループではロックを演奏、コロンビアからシングル1枚を出した。その後、1976年に、ディスコ・バンド「ジ・ユニヴァーサル・ロボット・バンド」となり、パトリック・アダムス、グレッグ・カーマイケルのプロデュースで1977年、「ダンス・アンド・シェイク・ユア・タンバリン」のディスコ・ヒットを生み出す。ここには、プロデューサーのパトリック・アダムスつながりでリロイ・バージェスもゲスト・ヴォーカルではいっていた。そして、1978年、グループ名をクリアーに変更。1979年アトランティックと契約、その後7枚のアルバムと12曲のソウル・ヒットを放った。1981年の「ゲット・タフ」が最大のヒット。

その後、ヒップ・ホップのラッパーたちが、さかんにクリアーの音をサンプリング。2パック、スヌープ・ドッグ、DJクイック、リル・ジョンらがサンプリングで使用している。

■クリアー、ベスト

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002F3BP0O/soulsearchiho-22/ref=nosim/

メンバーのウーディー・カニンガム(ドラムス)も2010年1月9日、死去している。Woody Cunningham: born 8th July 1948, Baltimore, Maryland, U.S.A. died 9th January 2010, Bowie, Maryland, U.S.A.

OBITUARY> Durham, Norman (Born circa 1952 – November 2, 2011, 59 year old)
OBITUARY>Fraizer, Joe (January 12, 1944 – November 7, 2011, 67 year old)
OBITUARY> Myers, Dwight Arrington (May 24, 1967 – November 8, 2011, 44 year old),

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