☆スティーヴィー・ワンダー・トリビュート、再演
2010年6月13日 音楽☆スティーヴィー・ワンダー・トリビュート、再演
【Stevie Wonder Tribute At Blues Alley】
スティーヴィー。
2010年3月に目黒ブルース・アレイで行われたケイリブ・ジェームス、秋谷えりこらのスティーヴィー・ワンダー・トリビュートが再度6月19日(土)に行われる。参加メンバーは、彼らのほかに、ドラムスにジェイ・スティックス、ベースに滝元堅志、ギターにマサ小浜、サックスにアンディ・ウルフ、ヴォーカルにサユリーとゲイリー・スコット。前回参加のユリは、久保田利伸ツアーのリハーサルのため参加できない。このほかに飛び入りでスペシャル・ゲストがはいるかもしれない。
前回のライヴ評
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100331.html
『ソウル・サーチン』では第1回と第2回でスティーヴィー・ワンダーを取り上げた。ただ1回目はバンドはなく、2回目はケイリブの単独パフォーマンスだった。2004年4月だからもう6年以上も前のことになる。
● マサ小浜も初ライヴ
また、このスティーヴィー・トリビュート、同じく『ソウル・サーチン』にも出演し、このところ大活躍中のソウルフルなギタリスト、マサ小浜が初めての自身のソロ・ライヴを2010年7月6日(火)ブルース・アレイで行う。メンバーは、ケイリブ、ジェイ・スティックス、ベースに日野賢二(ジーノ)。マサ小浜は長くアメリカをベースに活躍していたギタリストで、ファンキーで黒い音が得意なギタリスト。ケイリブ、ジーノなどとのセッションも多く、最近ではAIのツアーメンバーにもなっている。
■ スティーヴィー・ワンダー、8月サマーソニックで来日
スティーヴィー・ワンダーが2010年8月、サマーソニックで来日する。東京は8月8日、大阪が8月7日。スティーヴィーの来日は、2007年2月以来3年6ヶ月ぶり。
■ スティーヴィー・ワンダー・トリビュート~ウィ・ラヴ・スティーヴィー
日時 2010年6月19日(土) 午後7時半から
会場 目黒・ブルース・アレイ http://www.bluesalley.co.jp/
住所 〒153-0063 東京都目黒区目黒1-3-14
ホテルウィング・インターナショナル目黒B1F
電話 03-5740-6041(予約専用電話)当日のお店の番号03-5496-4381
料金 4500円(前売り)このほかにテーブルチャージ525円と飲食代別途
当日500円アップ。
メンバー (Vo/Key)Kaleb James (Pf/Key)秋谷えりこ (Ds)JAY Stixx (B)滝元堅志
(G)マサ小浜 (Sax/Fl)Andy Wulf (Vo)Sayulee、Gary Scott
■ マサ小浜 ライヴ
日時 2010年7月6日(火) 午後7時半~
会場 目黒・ブルース・アレイ http://www.bluesalley.co.jp/
住所 〒153-0063 東京都目黒区目黒1-3-14
ホテルウィング・インターナショナル目黒B1F
電話 03-5740-6041(予約専用電話)当日のお店の番号03-5496-4381
料金 4500円(前売り)このほかにテーブルチャージ525円と飲食代別途
当日500円アップ。
メンバー (G)マサ小浜 (Vo/Key)Kaleb James (Ds)JAY Stixx (B)日野賢二
■ スティーヴィー・ワンダー『トーキング・ブック』から始まる名作アルバム
1) トーキング・ブック
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000PWQQ2E/soulsearchiho-22/ref=nosim/
2)インナーヴィジョンズ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000PWQQ2O/soulsearchiho-22/ref=nosim/
3) ファースト・フィナーレ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00004S35Z/soulsearchiho-22/ref=nosim/
4) キー・オブ・ライフ (グレイト・ソングスの宝庫~奇跡のアルバム)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00004SZWD/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>ANNOUNCEMENT>Stevie Wonder Tribute
【Stevie Wonder Tribute At Blues Alley】
スティーヴィー。
2010年3月に目黒ブルース・アレイで行われたケイリブ・ジェームス、秋谷えりこらのスティーヴィー・ワンダー・トリビュートが再度6月19日(土)に行われる。参加メンバーは、彼らのほかに、ドラムスにジェイ・スティックス、ベースに滝元堅志、ギターにマサ小浜、サックスにアンディ・ウルフ、ヴォーカルにサユリーとゲイリー・スコット。前回参加のユリは、久保田利伸ツアーのリハーサルのため参加できない。このほかに飛び入りでスペシャル・ゲストがはいるかもしれない。
前回のライヴ評
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100331.html
『ソウル・サーチン』では第1回と第2回でスティーヴィー・ワンダーを取り上げた。ただ1回目はバンドはなく、2回目はケイリブの単独パフォーマンスだった。2004年4月だからもう6年以上も前のことになる。
● マサ小浜も初ライヴ
また、このスティーヴィー・トリビュート、同じく『ソウル・サーチン』にも出演し、このところ大活躍中のソウルフルなギタリスト、マサ小浜が初めての自身のソロ・ライヴを2010年7月6日(火)ブルース・アレイで行う。メンバーは、ケイリブ、ジェイ・スティックス、ベースに日野賢二(ジーノ)。マサ小浜は長くアメリカをベースに活躍していたギタリストで、ファンキーで黒い音が得意なギタリスト。ケイリブ、ジーノなどとのセッションも多く、最近ではAIのツアーメンバーにもなっている。
■ スティーヴィー・ワンダー、8月サマーソニックで来日
スティーヴィー・ワンダーが2010年8月、サマーソニックで来日する。東京は8月8日、大阪が8月7日。スティーヴィーの来日は、2007年2月以来3年6ヶ月ぶり。
■ スティーヴィー・ワンダー・トリビュート~ウィ・ラヴ・スティーヴィー
日時 2010年6月19日(土) 午後7時半から
会場 目黒・ブルース・アレイ http://www.bluesalley.co.jp/
住所 〒153-0063 東京都目黒区目黒1-3-14
ホテルウィング・インターナショナル目黒B1F
電話 03-5740-6041(予約専用電話)当日のお店の番号03-5496-4381
料金 4500円(前売り)このほかにテーブルチャージ525円と飲食代別途
当日500円アップ。
メンバー (Vo/Key)Kaleb James (Pf/Key)秋谷えりこ (Ds)JAY Stixx (B)滝元堅志
(G)マサ小浜 (Sax/Fl)Andy Wulf (Vo)Sayulee、Gary Scott
■ マサ小浜 ライヴ
日時 2010年7月6日(火) 午後7時半~
会場 目黒・ブルース・アレイ http://www.bluesalley.co.jp/
住所 〒153-0063 東京都目黒区目黒1-3-14
ホテルウィング・インターナショナル目黒B1F
電話 03-5740-6041(予約専用電話)当日のお店の番号03-5496-4381
料金 4500円(前売り)このほかにテーブルチャージ525円と飲食代別途
当日500円アップ。
メンバー (G)マサ小浜 (Vo/Key)Kaleb James (Ds)JAY Stixx (B)日野賢二
■ スティーヴィー・ワンダー『トーキング・ブック』から始まる名作アルバム
1) トーキング・ブック
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000PWQQ2E/soulsearchiho-22/ref=nosim/
2)インナーヴィジョンズ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000PWQQ2O/soulsearchiho-22/ref=nosim/
3) ファースト・フィナーレ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00004S35Z/soulsearchiho-22/ref=nosim/
4) キー・オブ・ライフ (グレイト・ソングスの宝庫~奇跡のアルバム)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00004SZWD/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>ANNOUNCEMENT>Stevie Wonder Tribute
◎ワールド・カップ・キックオフ・コンサート~アリシア、ジョン・レジェンドなど
2010年6月12日 音楽【World Cup Kick Off Concert featuring Alicia, John Legend, Black Eyed Peas】
キックオフ。
サッカーのフィファ・ワールド・カップ2010の開幕前夜祭が2010年6月10日(金)夜、開催地南アフリカ・ヨハネスブルグのヨハネスブルグ・サッカー・シティー・スタジアムで行われ、多数のアーティストが登場し、会場を盛り上げた。ショーは現地時間(6月10日)午後8時(日本時間、11日午前3時)過ぎから始まり、3時間以上にわたってインターネットなどで生中継された。
オープニングは、南アフリカ出身のヒュー・マサケラ、さらに、ブラック・アイド・ピーズ、中盤にジョン・レジェンド、後半にアリシア・キーズ、最後をシャキーラがしめた。途中アフリカ出身のアーティストなども多数登場した。この模様は、6月12日(土)、日本の有料衛星テレビ・ワウワウ(WOWOW)で午後3時50分から約3時間にわたって放送される。
また、この映像は、下記サイトでいつでも閲覧できる。再生は冒頭から。(早送りはできないようだ)
http://worldcup.vevo.com/
個人的には、ジョン・レジェンドが歌った「ウェイク・アップ・エヴリバディー」に胸を打たれた。今年1月に亡くなったテディー・ペンダーグラスは、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツに在籍していたときのヒットとして知られる。ジョンのバックバンドには、レイ・パーカー・ジュニアが映っていた。
ジョン・レジェンドはその前に出ていた西アフリカ・ベナン共和国出身のアンジェリークのステージにジョインする形で、「ムーヴ・オン・アップ」(カーティス・メイフィールドの作品。インプレッションズのヒット)を歌いながらステージに登場した。いきなり、あがる。そして、ジョンがピアノに向かい、「ウェイク・アップ・エヴリバディー」を。メッセージも、今の世界に語りかけるには最適な歌と言えるだろう。そして、「グリーン・ライト」。
オープニングのヒュー・マサケラも、またブラック・アイド・ピーズのパフォーマンスもインパクトがあった。
アリシアも特別に6曲。破格の扱い。短くメドレーにして次々と堂々と歌っていく。
メインのアーティスト以外で簡単に説明を。
下記18曲目「ファ・ファ」を歌ったヴュー・ファルカは、1981年マリ出身のシンガーソングライター。
フアネス(現地ではジュアネスと発音していた)は1972年生まれコロンビア出身の人。コロンビアではかなりの人気とのこと。
ティナリウェンの「アマサクール・ン・テネレ」。マリ北部出身の元々は4人組。ここにはもっとたくさん映ってる。1980年代から活躍しているそう。
BLK JKSは、2000年に結成された南アフリカのロックバンド。
K’naanはケイナーンと読む。ソマリアとカナダのハーフ。ラッパー、ポエット。
The Parlotones パーロトーンズは、南アフリカでとても人気のある1998年に結成された4人組ロックバンド。ユニバーサル所属。とてもわかりやすいロック、ポップ。
シャキーラと一緒にラップを見せたラッパー、ポエットのTumi トゥミーはタンザニア生まれ、南アフリカ・ソエトに亡命して、現在は南アフリカ在住。シャキーラは、実にセクシーでかわいい。「ワカワカ」は、今回のオフィシャル・ソングの1曲。
最後本編が終わってから、全員が再度でてきてスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「エヴリデイ・ピープル」を演奏した。
なお、オフィシャル・ソングもう一曲はRケリー。ケリーは、6月11日のオープニング・セレモニーに出演し、その模様がファンがテレビ映像を撮ったものがユーチューブにアップされている。
http://www.youtube.com/v/g6UJ3iP2oF4&hl=ja_JP&fs=1
■ オフィシャルCD
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003ICXCSY/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ アリシア『アンプラグド』「フォーリン」「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」収録
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000B7BST4/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■セットリスト Fifa World Cup 2010 Kich Off Concert, June 10, 2010 @ Johannesburg Succor City Stadium
Setlist:
Show started June 11, 2010 about 3:00am Japan Time (June 10: 20:00: Local Time)
01. Grazing In The Grass / Hugh Masakela
02. Patapata / Hugh Masakela featuring Lira
03. Where Is The Love / Black Eyed Peas
04. Pump It / Black Eyed Peas
05. Meet Me Halfway / Black Eyed Peas
06. Boom Boom Pow / Black Eyed Peas
07. I Gotta Feeling / Black Eyed Peas
08. Welcome To Mali / Amadou & Mariam
09. Africa / Amadou & Mariam
10. Malaika / Angelique Kidjo ftg Soweto Gospel Choir
11. Africa / Angelique Kidjo ftg Soweto Gospel Choir
12. Move On Up / Angelique Kidjo ftg Soweto Gospel Choir + John Legend
13. Wake Up Everybody / John Legend (03:55)
14. Green Light / John Legend
15. Say Africa / Vusi Mahlasela
16. When You Came Back / Vusi Mahlasela
17. Ndzkupenda…?? / Vusi Mahlasela + Angelique Kidjo
> Desmond Tutu
18. Fafa / Vieux Farka Toure
19. Diaraby Magni / Vieux Farka Toure
20. La Camisa Negra / Juanes
21. La Page / Juanes
22. Yerbatero / Juanes
> Franz Anton Beckenbauer
23. Amassakoul ’N’ Tenere /
24. Matadjem Yinmixan / Tinariwen
> (4:54)
25. You Don’t Know My Name / Alicia Keys
26. Try Sleeping WithA Broken Heart / Alicia Keys
27. Fallin’ / Alicia Keys
28. Empire State Of My Mind (Part 2) / Alicia Keys
29. No One / Alicia Keys
30. Too Late For Mama (featuring guitarist) (05:12) / Alicia Keys
31. Mzabalazo / BLK JKS
> four soccer players
32. Wavin’ Flag (Celebration Mix) / K’Naan
33. Umalid / Big Nuz & DJ Tira
34. Push Me To The Floor / Parlotones
>
35. She Wolf / Shakira
36. Hips Don’t Lie / Shakira (featuring Tumi Molekane)
37. Waka Waka (This Time For Africa) / Shakira
38. Everyday People / All Artists
show ended 6:11 (23:11)
ENT>MUSIC>LIVE>Fifa World Cup 2010 Kick Off Concert
キックオフ。
サッカーのフィファ・ワールド・カップ2010の開幕前夜祭が2010年6月10日(金)夜、開催地南アフリカ・ヨハネスブルグのヨハネスブルグ・サッカー・シティー・スタジアムで行われ、多数のアーティストが登場し、会場を盛り上げた。ショーは現地時間(6月10日)午後8時(日本時間、11日午前3時)過ぎから始まり、3時間以上にわたってインターネットなどで生中継された。
オープニングは、南アフリカ出身のヒュー・マサケラ、さらに、ブラック・アイド・ピーズ、中盤にジョン・レジェンド、後半にアリシア・キーズ、最後をシャキーラがしめた。途中アフリカ出身のアーティストなども多数登場した。この模様は、6月12日(土)、日本の有料衛星テレビ・ワウワウ(WOWOW)で午後3時50分から約3時間にわたって放送される。
また、この映像は、下記サイトでいつでも閲覧できる。再生は冒頭から。(早送りはできないようだ)
http://worldcup.vevo.com/
個人的には、ジョン・レジェンドが歌った「ウェイク・アップ・エヴリバディー」に胸を打たれた。今年1月に亡くなったテディー・ペンダーグラスは、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツに在籍していたときのヒットとして知られる。ジョンのバックバンドには、レイ・パーカー・ジュニアが映っていた。
ジョン・レジェンドはその前に出ていた西アフリカ・ベナン共和国出身のアンジェリークのステージにジョインする形で、「ムーヴ・オン・アップ」(カーティス・メイフィールドの作品。インプレッションズのヒット)を歌いながらステージに登場した。いきなり、あがる。そして、ジョンがピアノに向かい、「ウェイク・アップ・エヴリバディー」を。メッセージも、今の世界に語りかけるには最適な歌と言えるだろう。そして、「グリーン・ライト」。
オープニングのヒュー・マサケラも、またブラック・アイド・ピーズのパフォーマンスもインパクトがあった。
アリシアも特別に6曲。破格の扱い。短くメドレーにして次々と堂々と歌っていく。
メインのアーティスト以外で簡単に説明を。
下記18曲目「ファ・ファ」を歌ったヴュー・ファルカは、1981年マリ出身のシンガーソングライター。
フアネス(現地ではジュアネスと発音していた)は1972年生まれコロンビア出身の人。コロンビアではかなりの人気とのこと。
ティナリウェンの「アマサクール・ン・テネレ」。マリ北部出身の元々は4人組。ここにはもっとたくさん映ってる。1980年代から活躍しているそう。
BLK JKSは、2000年に結成された南アフリカのロックバンド。
K’naanはケイナーンと読む。ソマリアとカナダのハーフ。ラッパー、ポエット。
The Parlotones パーロトーンズは、南アフリカでとても人気のある1998年に結成された4人組ロックバンド。ユニバーサル所属。とてもわかりやすいロック、ポップ。
シャキーラと一緒にラップを見せたラッパー、ポエットのTumi トゥミーはタンザニア生まれ、南アフリカ・ソエトに亡命して、現在は南アフリカ在住。シャキーラは、実にセクシーでかわいい。「ワカワカ」は、今回のオフィシャル・ソングの1曲。
最後本編が終わってから、全員が再度でてきてスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「エヴリデイ・ピープル」を演奏した。
なお、オフィシャル・ソングもう一曲はRケリー。ケリーは、6月11日のオープニング・セレモニーに出演し、その模様がファンがテレビ映像を撮ったものがユーチューブにアップされている。
http://www.youtube.com/v/g6UJ3iP2oF4&hl=ja_JP&fs=1
■ オフィシャルCD
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003ICXCSY/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ アリシア『アンプラグド』「フォーリン」「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」収録
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000B7BST4/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■セットリスト Fifa World Cup 2010 Kich Off Concert, June 10, 2010 @ Johannesburg Succor City Stadium
Setlist:
Show started June 11, 2010 about 3:00am Japan Time (June 10: 20:00: Local Time)
01. Grazing In The Grass / Hugh Masakela
02. Patapata / Hugh Masakela featuring Lira
03. Where Is The Love / Black Eyed Peas
04. Pump It / Black Eyed Peas
05. Meet Me Halfway / Black Eyed Peas
06. Boom Boom Pow / Black Eyed Peas
07. I Gotta Feeling / Black Eyed Peas
08. Welcome To Mali / Amadou & Mariam
09. Africa / Amadou & Mariam
10. Malaika / Angelique Kidjo ftg Soweto Gospel Choir
11. Africa / Angelique Kidjo ftg Soweto Gospel Choir
12. Move On Up / Angelique Kidjo ftg Soweto Gospel Choir + John Legend
13. Wake Up Everybody / John Legend (03:55)
14. Green Light / John Legend
15. Say Africa / Vusi Mahlasela
16. When You Came Back / Vusi Mahlasela
17. Ndzkupenda…?? / Vusi Mahlasela + Angelique Kidjo
> Desmond Tutu
18. Fafa / Vieux Farka Toure
19. Diaraby Magni / Vieux Farka Toure
20. La Camisa Negra / Juanes
21. La Page / Juanes
22. Yerbatero / Juanes
> Franz Anton Beckenbauer
23. Amassakoul ’N’ Tenere /
24. Matadjem Yinmixan / Tinariwen
> (4:54)
25. You Don’t Know My Name / Alicia Keys
26. Try Sleeping WithA Broken Heart / Alicia Keys
27. Fallin’ / Alicia Keys
28. Empire State Of My Mind (Part 2) / Alicia Keys
29. No One / Alicia Keys
30. Too Late For Mama (featuring guitarist) (05:12) / Alicia Keys
31. Mzabalazo / BLK JKS
> four soccer players
32. Wavin’ Flag (Celebration Mix) / K’Naan
33. Umalid / Big Nuz & DJ Tira
34. Push Me To The Floor / Parlotones
>
35. She Wolf / Shakira
36. Hips Don’t Lie / Shakira (featuring Tumi Molekane)
37. Waka Waka (This Time For Africa) / Shakira
38. Everyday People / All Artists
show ended 6:11 (23:11)
ENT>MUSIC>LIVE>Fifa World Cup 2010 Kick Off Concert
○Rケリー、アリシア・キーズ、ブラック・アイド・ピーズなどワールドカップ・オープニング・セレモニーに登場
【R Kelly, Alicia Keys, Black Eyed Peas And More Will Be Performing At Opening Ceremony Of World Cup 2010】
開会セレモニー。
Rケリー、アリシア・キーズ、ブラック・アイド・ピーズ、オシビサ、シャキーラなどを含む1500人以上のアーティストが、来る2010年6月11日午後2時(現地時間=日本時間午後9時)から南アフリカ・ヨハネスブルグのヨハネスブルグ・サッカー・シティー・スタジアムで行われるフィファ・ワールド・カップ2010のオープニング・セレモニーに登場する。
R&Bシンガー、プロデューサー、Rケリーは、今回のサッカー・ワールド・カップのオフィシャル・ソング「サイン・オブ・ア・ヴィクトリー」をレコーディング、開会セレモニーで、同地のソエト・スピリチャル・シンガーズを従え歌う。この楽曲からの収益金は、フィファ・ワールド・カップの「20センターズ・フォー・2010」を含むアフリカのチャリティーに寄付されるという。
Rケリーは、「この『サイン・オブ・ア・ヴィクトリー』がワールド・カップの曲に選ばれて光栄だ。ワールド・カップは世界をひとつにするイヴェントであり、我々に多くのインスピレーションを与え、我々がベストを尽くすことを教えてくれる。ひじょうに高揚する感情で、それを曲の中に込めようと思った」と語る。
1930年から始まったフィファ・ワールド・カップでは、1978年からオフィシャル・ソングが選定されている。記念すべき第1作はアルゼンチン大会にちなみ、サン・ホセ・フィーチャリング・ロドリゲス・アルゼンティーナの「アルゼンティナ・メロディー」が選ばれた。1994年(アメリカ大会)にはグローリーの「グローリーランド」(ダリル・ホール&サウンズ・オブ・ブラックネス)とクイーンの「ウィ・アー・ザ・チャンピオンズ」、1998年(フランス大会)にはリッキー・マーティンの「ラ・コパ・デ・ラ・ヴィダ(ザ・カップ・オブ・ライフ)」とジャン・ミシェル・ジャールと小室哲哉の「トゥゲザー・ナウ」、2002年(韓国・日本)にはアナスタシアの「ブーン」とヴァンゲリスの「アンセム」、2006年(ドイツ)にはイル・ディーヴォの「ザ・タイム・オブ・アワ・ライヴス」とハーバート・グローンの「セレブレート・ザ・デイ」などが選ばれている。今年はRケリーとシャキーラの「ワカ・ワカ(ディス・アイム・フォー・アフリカ)」。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVGC8/soulsearchiho-22/ref=nosim/
楽曲音声リンク
http://www.jiverecords.com/rkelly/player/
サッカー・シティー・スタジアムでは午前10時(現地時間=日本時間17時)に開場し、オープニング・セレモニーは午後2時(現地時間=日本時間21時)から始まる。このセレモニーには、ガーナなどアフリカ諸国、世界から総勢1581人のアーティストが参加、Rケリー、シャキーラもそのうちのひとりとなる。ここには、Rケリーのほかそうそうたるメンバーが集結しパフォーマンスを見せる予定だ。
日本の試合は、6月14日(月)16時(日本時間23時)対カメルーン、6月19日(土)13時30分(日本時間20時30分)対オランダ、6月24日(木)16時(日本時間23時)対デンマークの全3試合。4カ国のうち上位2カ国だけが決勝トーナメントに進む。勝ち点1では上には進めない。
ENT>NEWS>World Cup
【R Kelly, Alicia Keys, Black Eyed Peas And More Will Be Performing At Opening Ceremony Of World Cup 2010】
開会セレモニー。
Rケリー、アリシア・キーズ、ブラック・アイド・ピーズ、オシビサ、シャキーラなどを含む1500人以上のアーティストが、来る2010年6月11日午後2時(現地時間=日本時間午後9時)から南アフリカ・ヨハネスブルグのヨハネスブルグ・サッカー・シティー・スタジアムで行われるフィファ・ワールド・カップ2010のオープニング・セレモニーに登場する。
R&Bシンガー、プロデューサー、Rケリーは、今回のサッカー・ワールド・カップのオフィシャル・ソング「サイン・オブ・ア・ヴィクトリー」をレコーディング、開会セレモニーで、同地のソエト・スピリチャル・シンガーズを従え歌う。この楽曲からの収益金は、フィファ・ワールド・カップの「20センターズ・フォー・2010」を含むアフリカのチャリティーに寄付されるという。
Rケリーは、「この『サイン・オブ・ア・ヴィクトリー』がワールド・カップの曲に選ばれて光栄だ。ワールド・カップは世界をひとつにするイヴェントであり、我々に多くのインスピレーションを与え、我々がベストを尽くすことを教えてくれる。ひじょうに高揚する感情で、それを曲の中に込めようと思った」と語る。
1930年から始まったフィファ・ワールド・カップでは、1978年からオフィシャル・ソングが選定されている。記念すべき第1作はアルゼンチン大会にちなみ、サン・ホセ・フィーチャリング・ロドリゲス・アルゼンティーナの「アルゼンティナ・メロディー」が選ばれた。1994年(アメリカ大会)にはグローリーの「グローリーランド」(ダリル・ホール&サウンズ・オブ・ブラックネス)とクイーンの「ウィ・アー・ザ・チャンピオンズ」、1998年(フランス大会)にはリッキー・マーティンの「ラ・コパ・デ・ラ・ヴィダ(ザ・カップ・オブ・ライフ)」とジャン・ミシェル・ジャールと小室哲哉の「トゥゲザー・ナウ」、2002年(韓国・日本)にはアナスタシアの「ブーン」とヴァンゲリスの「アンセム」、2006年(ドイツ)にはイル・ディーヴォの「ザ・タイム・オブ・アワ・ライヴス」とハーバート・グローンの「セレブレート・ザ・デイ」などが選ばれている。今年はRケリーとシャキーラの「ワカ・ワカ(ディス・アイム・フォー・アフリカ)」。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVGC8/soulsearchiho-22/ref=nosim/
楽曲音声リンク
http://www.jiverecords.com/rkelly/player/
サッカー・シティー・スタジアムでは午前10時(現地時間=日本時間17時)に開場し、オープニング・セレモニーは午後2時(現地時間=日本時間21時)から始まる。このセレモニーには、ガーナなどアフリカ諸国、世界から総勢1581人のアーティストが参加、Rケリー、シャキーラもそのうちのひとりとなる。ここには、Rケリーのほかそうそうたるメンバーが集結しパフォーマンスを見せる予定だ。
日本の試合は、6月14日(月)16時(日本時間23時)対カメルーン、6月19日(土)13時30分(日本時間20時30分)対オランダ、6月24日(木)16時(日本時間23時)対デンマークの全3試合。4カ国のうち上位2カ国だけが決勝トーナメントに進む。勝ち点1では上には進めない。
ENT>NEWS>World Cup
◆告知3本~TBS『リッスン・ソウル』~トークショー西麻布イレヴン、大阪サウンド・チャンネル
【Announcement Of Exposure】
告知。
ここ1ヶ月ほどの吉岡正晴関連の告知をまとめてみます。
1)TBS『リッスン・ソウル』、土曜日ゲスト
毎週土曜日午後6時から9時までTBSラジオ(JRNネットで全国)で放送されている音楽番組『リッスン・ソウル』に、2010年6月12日(土)吉岡正晴がゲスト出演します。TBSラジオは、AM954hz。登場時間は「ミュージック・マイスター」のコーナー。午後7時10分過ぎから30分程度。今回のテーマは、「テンプテーションズ~アリ・オリ逝去をしのんで」。アメリカR&B界最大のヴォーカル・グループ、テンプテーションズとその魅力、彼らから影響を受けたアーティスト、また、アリ・オリ・ウッドソンとの個人的な思い出などを語ります。
『リッスン・ソウル!』ウェッブ↓
http://www.tbsradio.jp/listen/index.html
リクエスト、おたよりは listen@tbs.co.jpまで。
ラジオはインターネットでも聴けます。関東地区はTBS↓
http://radiko.jp/#TBS
■関連CD テンプテーションズ・ベスト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001HXY8XY/soulsearchiho-22/ref=nosim/
2)6月25日(金)西麻布イレヴンでマイケル・ジャクソン・トークショー
西麻布のクラブ「イレヴン」(元イエロー)で、来る2010年6月25日(金)、アメリカからDJスピナを呼び、「マイケル・ジャクソン・イヴェント」が行われます。その冒頭(午後10時ごろから)で、吉岡正晴と西寺郷太氏が約1時間にわたってマイケル・ジャクソンについてのトーク・ショーを行います。吉岡・西寺コンビがトーク・ショーを行うのは、2009年12月お台場以来。6月25日はマイケルの一周忌。DJスピナは、かつて、「マイケルVSプリンス」というイヴェントを行ったり、何度も来日しています。
イヴェントタイトル: Keistar Productions presents Forever Michael
会場: 西麻布イレヴン
住所: 106-0031東京都港区西麻布1-10-11セソーラス西麻布B1/B2
電話: 03-5775-6206
日時: 2010年6月25日(金) 開場21時、開演22時
料金: 22時以前の入場2000円、22時以降:フライヤー提示3000円、フライヤーなし3500円(それぞれ1ドリンク付)
出演: DJスピナ、VJハジメ
トーク・ショー: 西寺郷太・吉岡正晴
■ DJスピナ関連記事。インタヴューなど
December 28, 2005
DJ Spinna(Part 1): The Future Of DJ
http://blog.soulsearchin.com/archives/000733.html
December 29, 2005
DJ Spinna(Part 2): Record Maniac
http://blog.soulsearchin.com/archives/000734.html
January 06, 2006
DJ Spinna: Using Serato Scratch Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/000750.html
今回のイヴェントページ
http://go-to-eleven.com/schedule/detail/65/2010/6
3)「マイケル・ジャクソン L.O.V.E ナイト in 大阪」
西寺郷太・吉岡正晴コンビが初めて大阪に登場。マイケル・ジャクソンについてのトーク・ショーを大阪で行います。
場所: 大阪サウンド・チャンネル
住所: 〒542-0086 大阪府大阪市中央区西心斎橋2−8−21 やすらぎビルB1
電話: 06-6212-5552
ウェッブ: http://www.sound-channel.jp/
日時: 2010年07月03日(土曜) 開場18時、開演18時半~21時半
サイン会: 21時半~22時
入場料: 3,000円 (限定80名) 当日別途ドリンク代500円
(前売り先着54名様には予約席を割り当てます。それ以外のお客様は立見となります)
出演: 西寺郷太(ノーナリーヴス) 吉岡正晴(音楽評論家)
「新しい『マイケル・ジャクソン』の教科書」著者である西寺郷太と、「マイケル・ジャクソン全記録1958 - 2009」の翻訳・監修者の吉岡正晴による伝説のトークイヴェント「マイケル・ジャクソン L.O.V.E ナイト」が大阪で開催!!
■ マイケル・ジャクソン関連CD エッセンシャル
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000A3H6EA/soulsearchiho-22/ref=nosim/
+++++
EVENT>ANNOUNCEMENT>
【Announcement Of Exposure】
告知。
ここ1ヶ月ほどの吉岡正晴関連の告知をまとめてみます。
1)TBS『リッスン・ソウル』、土曜日ゲスト
毎週土曜日午後6時から9時までTBSラジオ(JRNネットで全国)で放送されている音楽番組『リッスン・ソウル』に、2010年6月12日(土)吉岡正晴がゲスト出演します。TBSラジオは、AM954hz。登場時間は「ミュージック・マイスター」のコーナー。午後7時10分過ぎから30分程度。今回のテーマは、「テンプテーションズ~アリ・オリ逝去をしのんで」。アメリカR&B界最大のヴォーカル・グループ、テンプテーションズとその魅力、彼らから影響を受けたアーティスト、また、アリ・オリ・ウッドソンとの個人的な思い出などを語ります。
『リッスン・ソウル!』ウェッブ↓
http://www.tbsradio.jp/listen/index.html
リクエスト、おたよりは listen@tbs.co.jpまで。
ラジオはインターネットでも聴けます。関東地区はTBS↓
http://radiko.jp/#TBS
■関連CD テンプテーションズ・ベスト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001HXY8XY/soulsearchiho-22/ref=nosim/
2)6月25日(金)西麻布イレヴンでマイケル・ジャクソン・トークショー
西麻布のクラブ「イレヴン」(元イエロー)で、来る2010年6月25日(金)、アメリカからDJスピナを呼び、「マイケル・ジャクソン・イヴェント」が行われます。その冒頭(午後10時ごろから)で、吉岡正晴と西寺郷太氏が約1時間にわたってマイケル・ジャクソンについてのトーク・ショーを行います。吉岡・西寺コンビがトーク・ショーを行うのは、2009年12月お台場以来。6月25日はマイケルの一周忌。DJスピナは、かつて、「マイケルVSプリンス」というイヴェントを行ったり、何度も来日しています。
イヴェントタイトル: Keistar Productions presents Forever Michael
会場: 西麻布イレヴン
住所: 106-0031東京都港区西麻布1-10-11セソーラス西麻布B1/B2
電話: 03-5775-6206
日時: 2010年6月25日(金) 開場21時、開演22時
料金: 22時以前の入場2000円、22時以降:フライヤー提示3000円、フライヤーなし3500円(それぞれ1ドリンク付)
出演: DJスピナ、VJハジメ
トーク・ショー: 西寺郷太・吉岡正晴
■ DJスピナ関連記事。インタヴューなど
December 28, 2005
DJ Spinna(Part 1): The Future Of DJ
http://blog.soulsearchin.com/archives/000733.html
December 29, 2005
DJ Spinna(Part 2): Record Maniac
http://blog.soulsearchin.com/archives/000734.html
January 06, 2006
DJ Spinna: Using Serato Scratch Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/000750.html
今回のイヴェントページ
http://go-to-eleven.com/schedule/detail/65/2010/6
3)「マイケル・ジャクソン L.O.V.E ナイト in 大阪」
西寺郷太・吉岡正晴コンビが初めて大阪に登場。マイケル・ジャクソンについてのトーク・ショーを大阪で行います。
場所: 大阪サウンド・チャンネル
住所: 〒542-0086 大阪府大阪市中央区西心斎橋2−8−21 やすらぎビルB1
電話: 06-6212-5552
ウェッブ: http://www.sound-channel.jp/
日時: 2010年07月03日(土曜) 開場18時、開演18時半~21時半
サイン会: 21時半~22時
入場料: 3,000円 (限定80名) 当日別途ドリンク代500円
(前売り先着54名様には予約席を割り当てます。それ以外のお客様は立見となります)
出演: 西寺郷太(ノーナリーヴス) 吉岡正晴(音楽評論家)
「新しい『マイケル・ジャクソン』の教科書」著者である西寺郷太と、「マイケル・ジャクソン全記録1958 - 2009」の翻訳・監修者の吉岡正晴による伝説のトークイヴェント「マイケル・ジャクソン L.O.V.E ナイト」が大阪で開催!!
■ マイケル・ジャクソン関連CD エッセンシャル
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EVENT>ANNOUNCEMENT>
★キング・ソロモン・バーク復活までの道のり
2010年6月9日 音楽★キング・ソロモン・バーク復活までの道のり
【Long Way To Resurgence Of King Solomon Burke】
復活。
去る2010年5月29日、30日に日比谷で見たキング・ソロモン・バーク。僕はいまだ興奮冷めやらないが、1960年代に世界を席巻したヴェテラン、ソロモン・バークは2000年代に入って急速に再注目を集め、いわば奇跡の復活を果たす。果たして、その復活への道のりはどんなものだったのか。6月6日(日)に「ソウル・サーチン」のコーナーで特集するにあたり、いろいろ調べているうちに、いくつかポイントとなることがあったので、整理して書いてみたい。
イギリスのレコード・マニアでレコード店員、ときどきDJをする男を主人公にした小説『ハイ・フィデリティ』にこんなシーンがある。
「ローラに会ったのはちょうどそのころ、1987年の夏だった。(中略) フロアを眺めているときは、いちばんかわいい子しか目にとまらない。だから、ローラが狭いDJブースへやってきて話しかけてきたとき、もう3、4回店に来ていたというのに、ぼくには覚えがなかった。だが、彼女を好きになった。リクエストしたのが、ぼくも大好きな曲だったからだ(ちなみに名前をあげておくと、ソロモン・バークの「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・オフ・マイ・マインド」だ)。しかし、それはターンテーブルに乗せると、とたんにフロアから人がいなくなってしまう曲だった」(『ハイ・フィデリティ』(ニック・ホーンビー著・森田義信訳=新潮社・新潮文庫、1995年、118ページ~)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102202110/soulsearchiho-22/ref=nosim/
イギリス白人のレコード・マニアには、ソロモン・バークや、アメリカのR&Bシンガー、ブルーズ・シンガーのファンがけっこう多い。ビートルズしかり、ローリング・ストーンズしかりだ。この小説が発表されたのは1995年。これでソロモン人気に火がついたということはないだろうが、ソロモンぐらいのヴェテランでレジェンドになれば、「音楽好きの基礎教養」として多くの人がソロモンの存在を知り、リスペクトしていることに間違いはない。
そうしたことで、将来どこかで再ブレイクするかもしれない下地はできているわけだ。(ちなみに、この小説は音楽レコード・マニアとそのガールフレンドに巻き起こるさまざまな事件などがおもしろおかしく描かれていて、けっこう笑える。男子のレコード・マニアは相当共感する部分もあるのではないだろうか)
ソロモン・バーク作品の中でもっとも有名なのは、「エヴリバディー・ニーズ・サムバディー・トゥ・ラヴ」あたりか。ローリング・ストーンズがカヴァーし、その後、1980年の映画『ブルース・ブラザース』でも使用された。バークの「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」も有名で、オーティス・レディングがカヴァーして知られる。また、「クライ・トゥ・ミー」は、1987年の映画『ダーティー・ダンシング』でも使われた。このサントラ(実際は2枚サントラが出て、2枚目のサントラに収録)は400万枚も売れた。気づかないうちに、意外とあちこちで使われ、耳になじんでいるのだ。同年、ソロモンは映画『ザ・ビッグ・イージー』に端役で出演。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000LZ53JM/soulsearchiho-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002RN9U4/soulsearchiho-22/ref=nosim/
大きな転機は2001年。ソロモン・バークは、「ロックンロール・ホール・オブ・フェーム(ロック殿堂)」入り。再度大きな注目を集めるようになる。そして決定的になるのが、2002年にリリースされた白人のソウル、R&B好きジョー・ヘンリーのプロデュースによるカンバック・アルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』のリリースである。
ジョー・ヘンリーのコネクションとアイデアで、ボブ・ディラン、ブライアン・ウィルソン、エルヴィス・コステロ、トム・ウェイツなどの白人シンガーソングライターの作品をモダンなサウンドでソロモンに歌わせ、白人マーケットを中心に大きな支持を集め、見事ソロモンが蘇った。それだけでなく、なんとこのアルバムは翌年グラミー賞「ベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム」を受賞。完全にソロモン・バークは旬のアーティストとなった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068CTE/soulsearchiho-22/ref=nosim/
さらに、2004年、マーティン・スコセシーが監督した音楽映画『ライトニング・イン・ア・ボトル』に出演。ここで威風堂々のパフォーマンスを見せ、印象付けた。これは本当にインパクトがあった。僕もスクリーンを見ていて、思わず、「オオッ、ソロモン!」とうなったほど。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0009UAZJC/soulsearchiho-22/ref=nosim/
このほかにショット的に、イタリアのシンガー、ズッケロとのデュエット録音、ライヴ(2004年)、ゴスペル・グループ、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマのアルバム『ゴー・テル・イット・ザ・マウンテン』に「アイ・プレイ・オン・クリスマス」を提供、これもグラミー賞「ベスト・トラディショナル・ゴスペル・アルバム」を受賞。2006年、カントリー・アルバムを発表。その後もコンスタントにアルバムをリリース。2010年に出た最新盤『ナッシングス・インポッシブル』は、故ウィリー・ミッチェルプロデュース作で話題になっている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVH22/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ソロモン・バークは、ライヴを見てもわかるように、南部ソウル・アーティストとして捉えがちだが、南部のソウルだけでなく、カントリー、ゴスペル、ブルーズ、その他のポップ・ミュージックも歌う。このあたりの姿勢が、レイ・チャールズなどとも通じる。
ここ10年をこうして振り返ってみると、キング・ソロモン、現役アーティストばりばりの活躍ぶりだ。まさにキングス・ロードを歩き、着々と見事な復活劇を演じている。キング・ソロモンは、日本の後、7月にはヨーロッパ・ツアーが控えている。ぜひとも再来日を望みたい。
ENT>ARTIST>Burke, Solomon
【Long Way To Resurgence Of King Solomon Burke】
復活。
去る2010年5月29日、30日に日比谷で見たキング・ソロモン・バーク。僕はいまだ興奮冷めやらないが、1960年代に世界を席巻したヴェテラン、ソロモン・バークは2000年代に入って急速に再注目を集め、いわば奇跡の復活を果たす。果たして、その復活への道のりはどんなものだったのか。6月6日(日)に「ソウル・サーチン」のコーナーで特集するにあたり、いろいろ調べているうちに、いくつかポイントとなることがあったので、整理して書いてみたい。
イギリスのレコード・マニアでレコード店員、ときどきDJをする男を主人公にした小説『ハイ・フィデリティ』にこんなシーンがある。
「ローラに会ったのはちょうどそのころ、1987年の夏だった。(中略) フロアを眺めているときは、いちばんかわいい子しか目にとまらない。だから、ローラが狭いDJブースへやってきて話しかけてきたとき、もう3、4回店に来ていたというのに、ぼくには覚えがなかった。だが、彼女を好きになった。リクエストしたのが、ぼくも大好きな曲だったからだ(ちなみに名前をあげておくと、ソロモン・バークの「ゴット・トゥ・ゲット・ユー・オフ・マイ・マインド」だ)。しかし、それはターンテーブルに乗せると、とたんにフロアから人がいなくなってしまう曲だった」(『ハイ・フィデリティ』(ニック・ホーンビー著・森田義信訳=新潮社・新潮文庫、1995年、118ページ~)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102202110/soulsearchiho-22/ref=nosim/
イギリス白人のレコード・マニアには、ソロモン・バークや、アメリカのR&Bシンガー、ブルーズ・シンガーのファンがけっこう多い。ビートルズしかり、ローリング・ストーンズしかりだ。この小説が発表されたのは1995年。これでソロモン人気に火がついたということはないだろうが、ソロモンぐらいのヴェテランでレジェンドになれば、「音楽好きの基礎教養」として多くの人がソロモンの存在を知り、リスペクトしていることに間違いはない。
そうしたことで、将来どこかで再ブレイクするかもしれない下地はできているわけだ。(ちなみに、この小説は音楽レコード・マニアとそのガールフレンドに巻き起こるさまざまな事件などがおもしろおかしく描かれていて、けっこう笑える。男子のレコード・マニアは相当共感する部分もあるのではないだろうか)
ソロモン・バーク作品の中でもっとも有名なのは、「エヴリバディー・ニーズ・サムバディー・トゥ・ラヴ」あたりか。ローリング・ストーンズがカヴァーし、その後、1980年の映画『ブルース・ブラザース』でも使用された。バークの「ダウン・イン・ザ・ヴァレー」も有名で、オーティス・レディングがカヴァーして知られる。また、「クライ・トゥ・ミー」は、1987年の映画『ダーティー・ダンシング』でも使われた。このサントラ(実際は2枚サントラが出て、2枚目のサントラに収録)は400万枚も売れた。気づかないうちに、意外とあちこちで使われ、耳になじんでいるのだ。同年、ソロモンは映画『ザ・ビッグ・イージー』に端役で出演。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000LZ53JM/soulsearchiho-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002RN9U4/soulsearchiho-22/ref=nosim/
大きな転機は2001年。ソロモン・バークは、「ロックンロール・ホール・オブ・フェーム(ロック殿堂)」入り。再度大きな注目を集めるようになる。そして決定的になるのが、2002年にリリースされた白人のソウル、R&B好きジョー・ヘンリーのプロデュースによるカンバック・アルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』のリリースである。
ジョー・ヘンリーのコネクションとアイデアで、ボブ・ディラン、ブライアン・ウィルソン、エルヴィス・コステロ、トム・ウェイツなどの白人シンガーソングライターの作品をモダンなサウンドでソロモンに歌わせ、白人マーケットを中心に大きな支持を集め、見事ソロモンが蘇った。それだけでなく、なんとこのアルバムは翌年グラミー賞「ベスト・コンテンポラリー・ブルーズ・アルバム」を受賞。完全にソロモン・バークは旬のアーティストとなった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068CTE/soulsearchiho-22/ref=nosim/
さらに、2004年、マーティン・スコセシーが監督した音楽映画『ライトニング・イン・ア・ボトル』に出演。ここで威風堂々のパフォーマンスを見せ、印象付けた。これは本当にインパクトがあった。僕もスクリーンを見ていて、思わず、「オオッ、ソロモン!」とうなったほど。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0009UAZJC/soulsearchiho-22/ref=nosim/
このほかにショット的に、イタリアのシンガー、ズッケロとのデュエット録音、ライヴ(2004年)、ゴスペル・グループ、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマのアルバム『ゴー・テル・イット・ザ・マウンテン』に「アイ・プレイ・オン・クリスマス」を提供、これもグラミー賞「ベスト・トラディショナル・ゴスペル・アルバム」を受賞。2006年、カントリー・アルバムを発表。その後もコンスタントにアルバムをリリース。2010年に出た最新盤『ナッシングス・インポッシブル』は、故ウィリー・ミッチェルプロデュース作で話題になっている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVH22/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ソロモン・バークは、ライヴを見てもわかるように、南部ソウル・アーティストとして捉えがちだが、南部のソウルだけでなく、カントリー、ゴスペル、ブルーズ、その他のポップ・ミュージックも歌う。このあたりの姿勢が、レイ・チャールズなどとも通じる。
ここ10年をこうして振り返ってみると、キング・ソロモン、現役アーティストばりばりの活躍ぶりだ。まさにキングス・ロードを歩き、着々と見事な復活劇を演じている。キング・ソロモンは、日本の後、7月にはヨーロッパ・ツアーが控えている。ぜひとも再来日を望みたい。
ENT>ARTIST>Burke, Solomon
▲マーヴィン・アイズレイ56歳で死去
2010年6月8日 音楽▲マーヴィン・アイズレイ56歳で死去
【Marvin Isley Dies At 56】
訃報。
1950年代から活躍しているR&Bグループ、アイズレイ・ブラザースのメンバー、マーヴィン・アイズレイが2010年6月6日、シカゴで死去した。56歳だった。長く糖尿病を患い、両足を切断していた。ちょうど、リード・シンガーのロナルド・アイズレイも4月に刑務所から出所して以来、同地で復活コンサートをするために、シカゴ入りしていた。
マーヴィン・アイズレイは、1953年(昭和28年)8月18日オハイオ州シンシナティー生まれ。アイズレイ兄弟は、上から順にオケーリー(1937年生まれ、1986年死去。48歳)、ルドルフ(1939年生まれ)、ロナルド(1941年生まれ)、ヴァーノン(生年不詳、1954年交通事故で死去)、アーニー(1952年生まれ)、マーヴィン(1953年生まれ、2010年死去)。なお、いとこのクリス・ジャスパーは1951年生まれ。したがってマーヴィンは男兄弟の末っ子ということになる。
1950年代初期から、上の3人の兄がR&Bヴォーカル・グループ、アイズレイ・ブラザースとして音楽活動を開始。1959年、RCAと契約、「シャウト」が初ヒット。これを機に本拠をオハイオからニュージャージー州ティーネック市に移す。その後インディ・レーベルを渡り歩き、1962年に「ツイスト&シャウト」が大ヒット。この頃、ツアー・メンバーに一時期当事は無名だったジミー・ヘンドリックスが参加していた。1963年、イギリスのR&B好きグループ、ビートルズが「ツイスト&シャウト」をカヴァー。アイズレイにも注目がいくようになる。1964年、自身のレーベル、ティーネックを設立するも不発。1966年から1968年までモータウン所属。その後、1969年、再度ティーネックをスタート。ここから「イッツ・ユア・シング」が大ヒットした。同曲を含むアルバムは、200万枚を超えるベストセラーになり、アイズレイはビッグな存在になっていった。
1969年9月、それまで上の3人(オケーリー、ルドルフ、ロナルド)だったアイズレイ・ブラザースは、下の2人(アーニー、マーヴィン)さらにいとこのクリスを加えた6人組となって再出発。以後、すべてのレコード上の音は、彼ら3+3(6人だけ)で作られるようになった。アーニーは、ジミー・ヘンドリックスに影響を受けたギター、マーヴィンはベースを担当。これを機に、アイズレイ・ブラザースは、単なるR&Bヴォーカル・グループから、いわゆる「セルフ・コンテインド・グループ」(作詞作曲・演奏もすべて自らまかなうグループ)になり、来る1970年代の「セルフ・コンテインド・グループ」大全盛時期へ準備万端となった。
1973年、ティーネックの配給が大手のCBSになり、さらにパワーアップ。同年リリースのアルバム『3+3』、そこからの「フーズ・ザット・レイディ」が大ヒット。以後は出すアルバムを次々とヒットさせた。特に「ファイト・ザ・パワー」「ザ・プライド」などアップテンポの作品におけるうねるようなドライヴ感あふれるマーヴィンのベースは、グループ・サウンドの要ともなった。
1983年、名盤名曲「ビトウィーン・ザ・シーツ」が大ヒット。しかし、この後、1984年、若手の3人(アーニー、マーヴィン、クリス)が「アイズレイ・ジャスパー・アイズレイ」となりCBSと契約。一方1985年、上の3人(オケーリー、ルドルフ、ロナルド)がアイズレイ・ブラザースとしてワーナー・ブラザースへ移籍するという、電撃的な分裂劇が起こってしまった。
だが、ドラマはここでは終わらず、1986年3月、長兄のオケーリーが48歳で急死。しばらく、上2人(ルドルフ、ロナルド)でアイズレイ・ブラザースを名乗っていたが、ルドルフは1989年、牧師の道へ進むためにグループを脱退。アイズレイ・ジャスパー・アイズレイも、若干のヒット(「キャラヴァン・オブ・ラヴ」)は出たが大成功にはいたらず、その後のクリス、アーニーの各ソロも不発となり、1991年、アーニーとロナルド、マーヴィンは再びアイズレイ・ブラザースとして一緒にやっていくことになった。
しかし、マーヴィン・アイズレイは1997年、持病の糖尿病が悪化、両足を切断、音楽活動を引退、静養していた。
なお、ロナルド・アイズレイは脱税容疑で2006年に逮捕され、裁判の結果有罪となり、2010年4月まで収監されていた。現在は自由の身となり、復活ライヴを行うことになっていた。
■ アイズレイ・ジャスパー・アイズレイ (ベストアルバム=2枚組)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0035KGE5M/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■アイズレイ・ジャスパー・アイズレイ 『キャラヴァン・オブ・ラヴ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00000264U/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ アイズレイ・ブラザース 『エッセンシャル』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002JP1W6/soulsearchiho-22/ref=nosim/
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■ アイズレイ・ブラザース過去関連記事
~ソウル・サーチン・ザ・セッション~アイズレイ・ブラザース(2009年7月)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090716.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090714.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090719.html
~アイズレイ・ブラザース 2004年来日ライヴ評
2004/03/02 (Tue)
Power Of Blood Brothers, Power Of Continuation: Isley Brothers Live At Bluenote
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040302.html
2004/03/03 (Wed)
Isley Brothers Day Two: Rock, Soul, Funk, All Happening Here
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040303.html
+++++
OBITUARY>Isley, Marvin (August 18, 1953 – June 6, 2010, 56 years-old)
【Marvin Isley Dies At 56】
訃報。
1950年代から活躍しているR&Bグループ、アイズレイ・ブラザースのメンバー、マーヴィン・アイズレイが2010年6月6日、シカゴで死去した。56歳だった。長く糖尿病を患い、両足を切断していた。ちょうど、リード・シンガーのロナルド・アイズレイも4月に刑務所から出所して以来、同地で復活コンサートをするために、シカゴ入りしていた。
マーヴィン・アイズレイは、1953年(昭和28年)8月18日オハイオ州シンシナティー生まれ。アイズレイ兄弟は、上から順にオケーリー(1937年生まれ、1986年死去。48歳)、ルドルフ(1939年生まれ)、ロナルド(1941年生まれ)、ヴァーノン(生年不詳、1954年交通事故で死去)、アーニー(1952年生まれ)、マーヴィン(1953年生まれ、2010年死去)。なお、いとこのクリス・ジャスパーは1951年生まれ。したがってマーヴィンは男兄弟の末っ子ということになる。
1950年代初期から、上の3人の兄がR&Bヴォーカル・グループ、アイズレイ・ブラザースとして音楽活動を開始。1959年、RCAと契約、「シャウト」が初ヒット。これを機に本拠をオハイオからニュージャージー州ティーネック市に移す。その後インディ・レーベルを渡り歩き、1962年に「ツイスト&シャウト」が大ヒット。この頃、ツアー・メンバーに一時期当事は無名だったジミー・ヘンドリックスが参加していた。1963年、イギリスのR&B好きグループ、ビートルズが「ツイスト&シャウト」をカヴァー。アイズレイにも注目がいくようになる。1964年、自身のレーベル、ティーネックを設立するも不発。1966年から1968年までモータウン所属。その後、1969年、再度ティーネックをスタート。ここから「イッツ・ユア・シング」が大ヒットした。同曲を含むアルバムは、200万枚を超えるベストセラーになり、アイズレイはビッグな存在になっていった。
1969年9月、それまで上の3人(オケーリー、ルドルフ、ロナルド)だったアイズレイ・ブラザースは、下の2人(アーニー、マーヴィン)さらにいとこのクリスを加えた6人組となって再出発。以後、すべてのレコード上の音は、彼ら3+3(6人だけ)で作られるようになった。アーニーは、ジミー・ヘンドリックスに影響を受けたギター、マーヴィンはベースを担当。これを機に、アイズレイ・ブラザースは、単なるR&Bヴォーカル・グループから、いわゆる「セルフ・コンテインド・グループ」(作詞作曲・演奏もすべて自らまかなうグループ)になり、来る1970年代の「セルフ・コンテインド・グループ」大全盛時期へ準備万端となった。
1973年、ティーネックの配給が大手のCBSになり、さらにパワーアップ。同年リリースのアルバム『3+3』、そこからの「フーズ・ザット・レイディ」が大ヒット。以後は出すアルバムを次々とヒットさせた。特に「ファイト・ザ・パワー」「ザ・プライド」などアップテンポの作品におけるうねるようなドライヴ感あふれるマーヴィンのベースは、グループ・サウンドの要ともなった。
1983年、名盤名曲「ビトウィーン・ザ・シーツ」が大ヒット。しかし、この後、1984年、若手の3人(アーニー、マーヴィン、クリス)が「アイズレイ・ジャスパー・アイズレイ」となりCBSと契約。一方1985年、上の3人(オケーリー、ルドルフ、ロナルド)がアイズレイ・ブラザースとしてワーナー・ブラザースへ移籍するという、電撃的な分裂劇が起こってしまった。
だが、ドラマはここでは終わらず、1986年3月、長兄のオケーリーが48歳で急死。しばらく、上2人(ルドルフ、ロナルド)でアイズレイ・ブラザースを名乗っていたが、ルドルフは1989年、牧師の道へ進むためにグループを脱退。アイズレイ・ジャスパー・アイズレイも、若干のヒット(「キャラヴァン・オブ・ラヴ」)は出たが大成功にはいたらず、その後のクリス、アーニーの各ソロも不発となり、1991年、アーニーとロナルド、マーヴィンは再びアイズレイ・ブラザースとして一緒にやっていくことになった。
しかし、マーヴィン・アイズレイは1997年、持病の糖尿病が悪化、両足を切断、音楽活動を引退、静養していた。
なお、ロナルド・アイズレイは脱税容疑で2006年に逮捕され、裁判の結果有罪となり、2010年4月まで収監されていた。現在は自由の身となり、復活ライヴを行うことになっていた。
■ アイズレイ・ジャスパー・アイズレイ (ベストアルバム=2枚組)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0035KGE5M/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■アイズレイ・ジャスパー・アイズレイ 『キャラヴァン・オブ・ラヴ』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00000264U/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ アイズレイ・ブラザース 『エッセンシャル』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002JP1W6/soulsearchiho-22/ref=nosim/
+++++
■ アイズレイ・ブラザース過去関連記事
~ソウル・サーチン・ザ・セッション~アイズレイ・ブラザース(2009年7月)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090716.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090714.html
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20090719.html
~アイズレイ・ブラザース 2004年来日ライヴ評
2004/03/02 (Tue)
Power Of Blood Brothers, Power Of Continuation: Isley Brothers Live At Bluenote
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040302.html
2004/03/03 (Wed)
Isley Brothers Day Two: Rock, Soul, Funk, All Happening Here
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200403/diary20040303.html
+++++
OBITUARY>Isley, Marvin (August 18, 1953 – June 6, 2010, 56 years-old)
■シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ(パート2)
2010年6月7日 音楽■シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ(パート2)
(昨日の続き)
【Ohio Players’ Sugarfoot (Part 2)】
前日のライヴ評。
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100606.html
ふたつ。
なんとビルボードにあがっていくエレヴェーターで、ミラクル川畑さんとばったり。川畑さん、日比谷で行われたファンク・フェスのプロモーターをやっていたそうだ。そうだったか、あれ、チョコレート・クリームでしたっけ。
ライヴ後、シュガーフットにひとこと挨拶しに出向く。19年前に会ったことなど覚えてはいないと思うものの、会うなり、「Oh, I remember you」などといわれると、社交辞令だとしても嬉しい。
「日比谷のファンク・フェスにいらっしゃってたでしょう、あれっていつだか覚えていますか?」「いやあ、俺は何年かなんて覚えてないんだよ。君のほうが知ってるんじゃないか? ははは」 「1996年、97年頃なんですよ。それより以前、81年に横田エアベースでお会いしてインタヴューしました」「おおっ、ベースは世界中、回ったよ。 (スタッフに)次の公演場所はどこだっけ? あ、オーサカ! 君はオーサカには来ないのか? ぜひ見てくれよ」「ええっっと、明日・大阪はちょっと行けないです…(冷汗)」「そうか、残念だな。久々にやってきて、(日本を)楽しんでるよ。死ぬ前にもう一度くらいは、ここにやってきたいもんだよ」「ぜひ、来年でも」
「ところで、いまオハイオ・プレイヤーズっていくつあるんですか?」と尋ねると、「俺のものと、ジェームス・ダイアモンドのだ」。「なんで二つあるんです?」「俺が休んでたからな。1-2年前、(俺は)復活することを決めたんだ。あそこに座ってるのが、俺のバンドの音楽ディレクター、トレイだ。キーボードのね。それで彼に連絡して、またバンドを始めた。奴がこのバンドをじつにうまくまとめてくれてる。彼なしに、このバンドはないよ」 なんとこのトレイは、かつて20年ほど前に、一時期オハイオ・プレイヤーズに参加していたという。
「オリジナル・メンバーの何人かは、亡くなってるんだよ(若干さびしいそうに)。クラレンス・サッチ、ラルフ・ミドルブルックスもな」
「ところで、どのように、トレイを発見したのですか?」と尋ねると、「奴が俺を発見してくれたんだ」
すごくいい人だ。好々爺という感じ。
さて、もうひとつのオハイオ・プレイヤーズは、いわば本流のオリジナル・グループということになるのだろうか。以前からオハイオ・プレイヤーズにいたジェームス・ダイアモンド・ウィリアムスが、看板をしょって立っている。これは、シュガーフットが一時期、引退したかのように現役から退いていたためという説明だった。彼がここ1-2年で、カンバックを決めたが、長いブランクがあったため、オハイオ・プレイヤーズという名前はもう使えなかった。ということらしい。
となると、もうひとつのオハイオ・プレイヤーズも見てみたくなる。
ところで今日6月7日はプリンスの52回目の誕生日。ハッピーバースデイ。
■ マーキュリー時代のベスト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068FUN/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>MUSIC>LIVE>Sugarfoot’s Ohio Players
ENT>MUSIC>ARTIST>Ohio Players
(昨日の続き)
【Ohio Players’ Sugarfoot (Part 2)】
前日のライヴ評。
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100606.html
ふたつ。
なんとビルボードにあがっていくエレヴェーターで、ミラクル川畑さんとばったり。川畑さん、日比谷で行われたファンク・フェスのプロモーターをやっていたそうだ。そうだったか、あれ、チョコレート・クリームでしたっけ。
ライヴ後、シュガーフットにひとこと挨拶しに出向く。19年前に会ったことなど覚えてはいないと思うものの、会うなり、「Oh, I remember you」などといわれると、社交辞令だとしても嬉しい。
「日比谷のファンク・フェスにいらっしゃってたでしょう、あれっていつだか覚えていますか?」「いやあ、俺は何年かなんて覚えてないんだよ。君のほうが知ってるんじゃないか? ははは」 「1996年、97年頃なんですよ。それより以前、81年に横田エアベースでお会いしてインタヴューしました」「おおっ、ベースは世界中、回ったよ。 (スタッフに)次の公演場所はどこだっけ? あ、オーサカ! 君はオーサカには来ないのか? ぜひ見てくれよ」「ええっっと、明日・大阪はちょっと行けないです…(冷汗)」「そうか、残念だな。久々にやってきて、(日本を)楽しんでるよ。死ぬ前にもう一度くらいは、ここにやってきたいもんだよ」「ぜひ、来年でも」
「ところで、いまオハイオ・プレイヤーズっていくつあるんですか?」と尋ねると、「俺のものと、ジェームス・ダイアモンドのだ」。「なんで二つあるんです?」「俺が休んでたからな。1-2年前、(俺は)復活することを決めたんだ。あそこに座ってるのが、俺のバンドの音楽ディレクター、トレイだ。キーボードのね。それで彼に連絡して、またバンドを始めた。奴がこのバンドをじつにうまくまとめてくれてる。彼なしに、このバンドはないよ」 なんとこのトレイは、かつて20年ほど前に、一時期オハイオ・プレイヤーズに参加していたという。
「オリジナル・メンバーの何人かは、亡くなってるんだよ(若干さびしいそうに)。クラレンス・サッチ、ラルフ・ミドルブルックスもな」
「ところで、どのように、トレイを発見したのですか?」と尋ねると、「奴が俺を発見してくれたんだ」
すごくいい人だ。好々爺という感じ。
さて、もうひとつのオハイオ・プレイヤーズは、いわば本流のオリジナル・グループということになるのだろうか。以前からオハイオ・プレイヤーズにいたジェームス・ダイアモンド・ウィリアムスが、看板をしょって立っている。これは、シュガーフットが一時期、引退したかのように現役から退いていたためという説明だった。彼がここ1-2年で、カンバックを決めたが、長いブランクがあったため、オハイオ・プレイヤーズという名前はもう使えなかった。ということらしい。
となると、もうひとつのオハイオ・プレイヤーズも見てみたくなる。
ところで今日6月7日はプリンスの52回目の誕生日。ハッピーバースデイ。
■ マーキュリー時代のベスト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068FUN/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>MUSIC>LIVE>Sugarfoot’s Ohio Players
ENT>MUSIC>ARTIST>Ohio Players
●オハイオ・プレイヤーズ・ライヴ
2010年6月6日 音楽●オハイオ・プレイヤーズ・ライヴ
【Sugarfoot’s Ohio Players: Still Funkin’ And Alive】
久々。
オハイオ出身のファンク・バンド、その名もオハイオ・プレイヤーズの久々の来日。今回のグループ名の正式クレジットは、シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ。メンバーが分裂し、これはシュガーフットのグループということになる。
僕は1980年1月に横田基地でライヴを見て、インタヴューをした。その後、1989年ごろ、MZA有明、1991年3月横浜バード(のちのベイホール)でのライヴがあった。このときも、ライヴを見てしっかりシュガーフットを含むメンバー3人にインタヴューをした。オハイオ・プレイヤーズのボックスセット(マーキュリーのアルバム8枚を4枚のCDにした)を1991年に作ったときに、それらの取材をベースに、かなり詳細なライナーを書いた。おそらく、オハイオ・プレイヤーズについて日本語で書かれたものとしては、一番詳しいものになっていると思う。ただ、ボックスも限定ものだったので、今ではなかなか入手しづらいのが難。ライナーの文字データは残っているので、要望があればいずれウェッブに公開してみたい。その後1992年4月に大阪ブルーノートに来日。さらに、1996年か1997年頃、日比谷の野外音楽堂で行われたファンク・フェスで来日。したがって、来日としては、13-4年ぶりということになる。
シュガーフットことリロイ・ボナーは1943年3月14日生まれ。67歳。1963年ごろからグループに参加した、いわばグループの最長老。その彼が若いミュージシャンを集めて結成しているのが、このグループだ。シュガーフットがリーダーシップを取って、自らのヒットを演奏するのであれば、オハイオ・プレイヤーズのサウンドになる。
セットリストは、オハイオ・プレイヤーズの全盛期の大ヒット曲中心。当時を知るファンなら、だれでも大喜びの曲だ。「スイート・スティッキー・シングス」と「フー・チー・クー」はバンドだけで、3曲目の「スキン・タイト」からシュガーフット御大のお出まし。バンドは、全員若手ながらしっかりオハイオ・プレイヤーズ・サウンドを踏襲している。ベースのトレイは、20年以上も前から、シュガーフットと知り合い、その頃からオハイオ・プレイヤーズに参加。今回は音楽ディレクターを務めている。「ラヴ・ローラーコースター」「ファイアー」あたりは、客がいっせいに立ち上がる。
シュガーフットは、足が若干弱っているようで、ときどき、座ったまま歌ったり、ステージの上がり降りに、スタッフの手を借りていたが、それでも、ファンキーな歌声は元気。
「俺の好きな曲だ」と言って歌いだした「アイ・ウォント・トゥ・ビー・フリー」は、そのせりふ回し風ナレーションがちょっとゴスペルの司祭の説教みたいにも聞こえた。
オハイオ・プレイヤーズは、1970年代に次々と大ヒットを放ったいわゆる「セルフ・コンテインド・グループ」(自分たちで曲を書き、演奏もする、『自給自足グループ』)。当時、クール&ザ・ギャング、アース・ウィンド&ファイアー、コモドアーズなど多くの同種のグループが人気を博したが、オハイオたちはファンクとジャズを融合させたスタイル、さらにジャケットに女性のヌード写真を堂々と使ったことで大人気となった。
ところで、今回いろいろ調べていたら、メンバーのうち、クラレンス・サッチ・サッチェルが1995年12月30日に55歳で脳の病気で亡くなっていることを知った。またオリジナル・メンバーでオハイオ・アンタッチャブルズのメンバーだったラルフ・ミドルブルックスも1997年11月に58歳で亡くなっていた。ともにご冥福をお祈りしたい。(インタヴューしたクラレンス・ウィリアムスではありませんでした。訂正します)
(この項続く予定)
■ オハイオ・プレイヤーズ~名作『ファイアー』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000001G05/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ベスト・オブ(2枚組み)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000BHJTW/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■メンバー
シュガーフット / Sugarfoot(Vocals)
トレイ・ピアース / Trae Pierce(Bass)
カルヴィン・ロートマン / Calvin Loatman(Guitar)
アール・フレミング / Earl Fleming(Keyboards)
エマニュエル・クック / Emmanuel Cook(Keyboards)
ダーウィン・ダニエルズ / Derwin Daniels(Saxophone)
アーマッド・ラズベリー / Ahmad Rasberry(Trumpet)
マーカス・ルイス / Marcus Lewis(Trombone)
コートニー・ガーリー / Courtney Girlie(Drums)
■セットリスト シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ 2010年6月5日、ビルボードライブ東京
Setlist: Sugarfoot’s Ohio Players, June 5, 2010 @ Billboard Live Tokyo
Show started 18:01
01.Intro:(Contradiction)
02.Sweet Sticky Thing
03.Who’d She Coo
04.Skin Tight (Sugarfoot came on the stage) (A riff of Land Of Thousand Dances)
05.Let’s Love
06.Fopp
07.Heaven Must Be Like This
08.Funky Worm ~ Pain
09.I Want To Be Free
10.Love Rollercoaster ~ O-H-I-O
Enc. Jam Adlib ~ Fire ~ A riff of “Sex Machine / Shake Your Body Make Up” ~ Fire
Show ended 19:10
(2010年6月5日土曜、ビルボードライブ東京=シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Sugarfoot’s Ohio Players
2010-85
【Sugarfoot’s Ohio Players: Still Funkin’ And Alive】
久々。
オハイオ出身のファンク・バンド、その名もオハイオ・プレイヤーズの久々の来日。今回のグループ名の正式クレジットは、シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ。メンバーが分裂し、これはシュガーフットのグループということになる。
僕は1980年1月に横田基地でライヴを見て、インタヴューをした。その後、1989年ごろ、MZA有明、1991年3月横浜バード(のちのベイホール)でのライヴがあった。このときも、ライヴを見てしっかりシュガーフットを含むメンバー3人にインタヴューをした。オハイオ・プレイヤーズのボックスセット(マーキュリーのアルバム8枚を4枚のCDにした)を1991年に作ったときに、それらの取材をベースに、かなり詳細なライナーを書いた。おそらく、オハイオ・プレイヤーズについて日本語で書かれたものとしては、一番詳しいものになっていると思う。ただ、ボックスも限定ものだったので、今ではなかなか入手しづらいのが難。ライナーの文字データは残っているので、要望があればいずれウェッブに公開してみたい。その後1992年4月に大阪ブルーノートに来日。さらに、1996年か1997年頃、日比谷の野外音楽堂で行われたファンク・フェスで来日。したがって、来日としては、13-4年ぶりということになる。
シュガーフットことリロイ・ボナーは1943年3月14日生まれ。67歳。1963年ごろからグループに参加した、いわばグループの最長老。その彼が若いミュージシャンを集めて結成しているのが、このグループだ。シュガーフットがリーダーシップを取って、自らのヒットを演奏するのであれば、オハイオ・プレイヤーズのサウンドになる。
セットリストは、オハイオ・プレイヤーズの全盛期の大ヒット曲中心。当時を知るファンなら、だれでも大喜びの曲だ。「スイート・スティッキー・シングス」と「フー・チー・クー」はバンドだけで、3曲目の「スキン・タイト」からシュガーフット御大のお出まし。バンドは、全員若手ながらしっかりオハイオ・プレイヤーズ・サウンドを踏襲している。ベースのトレイは、20年以上も前から、シュガーフットと知り合い、その頃からオハイオ・プレイヤーズに参加。今回は音楽ディレクターを務めている。「ラヴ・ローラーコースター」「ファイアー」あたりは、客がいっせいに立ち上がる。
シュガーフットは、足が若干弱っているようで、ときどき、座ったまま歌ったり、ステージの上がり降りに、スタッフの手を借りていたが、それでも、ファンキーな歌声は元気。
「俺の好きな曲だ」と言って歌いだした「アイ・ウォント・トゥ・ビー・フリー」は、そのせりふ回し風ナレーションがちょっとゴスペルの司祭の説教みたいにも聞こえた。
オハイオ・プレイヤーズは、1970年代に次々と大ヒットを放ったいわゆる「セルフ・コンテインド・グループ」(自分たちで曲を書き、演奏もする、『自給自足グループ』)。当時、クール&ザ・ギャング、アース・ウィンド&ファイアー、コモドアーズなど多くの同種のグループが人気を博したが、オハイオたちはファンクとジャズを融合させたスタイル、さらにジャケットに女性のヌード写真を堂々と使ったことで大人気となった。
ところで、今回いろいろ調べていたら、メンバーのうち、クラレンス・サッチ・サッチェルが1995年12月30日に55歳で脳の病気で亡くなっていることを知った。またオリジナル・メンバーでオハイオ・アンタッチャブルズのメンバーだったラルフ・ミドルブルックスも1997年11月に58歳で亡くなっていた。ともにご冥福をお祈りしたい。(インタヴューしたクラレンス・ウィリアムスではありませんでした。訂正します)
(この項続く予定)
■ オハイオ・プレイヤーズ~名作『ファイアー』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000001G05/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ベスト・オブ(2枚組み)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0000BHJTW/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■メンバー
シュガーフット / Sugarfoot(Vocals)
トレイ・ピアース / Trae Pierce(Bass)
カルヴィン・ロートマン / Calvin Loatman(Guitar)
アール・フレミング / Earl Fleming(Keyboards)
エマニュエル・クック / Emmanuel Cook(Keyboards)
ダーウィン・ダニエルズ / Derwin Daniels(Saxophone)
アーマッド・ラズベリー / Ahmad Rasberry(Trumpet)
マーカス・ルイス / Marcus Lewis(Trombone)
コートニー・ガーリー / Courtney Girlie(Drums)
■セットリスト シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ 2010年6月5日、ビルボードライブ東京
Setlist: Sugarfoot’s Ohio Players, June 5, 2010 @ Billboard Live Tokyo
Show started 18:01
01.Intro:(Contradiction)
02.Sweet Sticky Thing
03.Who’d She Coo
04.Skin Tight (Sugarfoot came on the stage) (A riff of Land Of Thousand Dances)
05.Let’s Love
06.Fopp
07.Heaven Must Be Like This
08.Funky Worm ~ Pain
09.I Want To Be Free
10.Love Rollercoaster ~ O-H-I-O
Enc. Jam Adlib ~ Fire ~ A riff of “Sex Machine / Shake Your Body Make Up” ~ Fire
Show ended 19:10
(2010年6月5日土曜、ビルボードライブ東京=シュガーフットズ・オハイオ・プレイヤーズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Sugarfoot’s Ohio Players
2010-85
⊿『ストンプ』~舞台全体がグルーヴになる
2010年6月5日 音楽⊿『ストンプ』~舞台全体がグルーヴになる
【Rhythm Is Life, Rhythm Is Beat】
ストンプ。
ロンドンで始まったパフォーマンス・ステージ「ストンプ」。僕は2005年8月に見ていたので、約5年ぶり。実験的なパフォーマンスが始まったのが1990年とのことなので、もうすでに20年間、彼らは「物を叩き続けている」わけだ。初来日は1995年5月、以後、1996年9月(東京ライヴUFO、プレイヴェント出演)、1997年3月、2002年8月、2003年8月、2005年4月(愛知万博特別出演)、2005年8月、2008年7月以来。今回でツアー・ライヴ公演としては約1年ぶり7回目の来日公演。
いったい、どんなパフォーマンスかというと、ありとあらゆるものを叩いたり、振ったりして、音を出し、それをひたすら見せるというもの。これが1人から2人、そして、4人、8人と大勢になって、しかも、みんなが揃って同じことをすると、これが実にグルーヴ感のあふれる楽しいエンタテインメントになる。
一言で言えば、「物を叩いているのを見せる出し物」。こんな単純なものが、実に楽しい。これを見終わる頃には、みんな何かを叩きながら、会場を出てくる、そこら辺にあるものをみな叩きたくなる、そんなライヴだ。
今回、なんとセットリストがあった。前回のライヴ評をみたら、しっかりメモ書きから作ったセットリストがあったが、けっこう出し物も同じものがあることを発見した。
オープニング、いきなりほうき(モップのような)で床を叩きながら、メンバーが登場。1人、2人、最後には8人になる。叩き、振り回し、躍動感あふれるパフォーマンス。途中でほうきの先が取れた。しかも、2人のほうきが壊れた。すると、舞台袖からすぐに新しいほうきが投げられた。1週間に30本以上のほうきを消費するそうだ。
たぶん、セットリストを見ると、これをごらんになった方はどういう出し物だったか思い出されると思う。たとえば2の「マッチ箱」は、マッチ箱をパーカッション代わりに使ったり、「ポール」は2メートル近くの棒をみんなで振り回す。まるで殺陣のよう。一番おおがかりなのが、「サスペンション」。3メートル以上あるステージ正面の壁に演者が一本のワイアーでつながれ、そこについているいろいろなフライパンなどの物を叩く。一番スペースを使うのと音が大きいので、ひじょうに印象に残る。メロディーは、ほぼない(一部で音階が違うものを叩くシーンがあり、ちょっとしたメロディー的なものがでるところがある)が、リズムと演技だけでもたせるところがすごい。
コミカルな「ニューズペイパー」もおもしろい。日本人ストンパー、宮本やこも登場、かっこいい。もちろん、さまざまな人種がいて、おもしろいのだが、もしこれをタップのプロとか、黒人ばかりでやったら、ものすごいグルーヴとファンクが炸裂するかもしれない、とも思った。これがイギリスから出た、というのがおもしろい。
大きな動作から、小さな動きまで、さまざまな音が出される。叩き、動き、飛び跳ね、体全体がパーカッションとなり、80分の舞台全体がグルーヴの塊になる。リズムが命、リズムがビートを刻む、とてもユニークなパフォーマンスだ。
日曜までやっている。
■2010年6月1日(火曜)から6日(日)まで。JCBホール。
問い合わせ=キョードー東京 03-3498-9999
www.ntv.co.jp/stomp
SS席9500円、S席8500円、A席7000円。土日は昼・夜2回公演。
■過去記事
August 17, 2005
Musical "Stomp": Hitting Everything And Became Hit Worldwide
【『ストンプ』、あらゆる物を叩いて世界的ヒットへ】
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200508/2005_08_17.html
(ここにドラム、パーカッション関係の記事一覧)
■セットリスト
Setlist: Stomp @ JCB Hall, June 3, 2010
Show started 19:06
01. Brooms (ほうき)
02. Matches (マッチ箱をパーカッションのように)
03. Hands & Feet (足を踏み鳴らし[stomp]、手を叩く)
04. Brush Off, Dustpan & Brush, Pedal Bin (ほうき、ゴミ箱、塵取り、フライパンなど)
05. Pipes (水道管のようなパイプ)
06. Bucket Laying (バケツ)
07. Sinks (キッチンのシンクを叩く。水が入っている)
08. Mops (水を拭くモップ)
09. Paint Cans (ペンキ缶)
10. Poles (8本のポールを演者が自在に操る)
11. Suspension (壁にぶる下がて叩くパフォーマンス)
12. Chairs (5つの椅子に座って)
13. Zippos (ライターのジッポを使った小ネタ)
14. Newspapers (新聞紙を使って)
15. Basketballs (バスケットボールを使って)
16. Donuts (ドーナッツ風の大きなタイヤをフラフープのように使って)
17. Bags (ヴィニール・バッグに小物をいれていて、そこからいろいろ取り出して音を出す)
18. Bins (巨大な竹馬のようなドラム缶で登場)
Encore Encore (全員集合)
Encore Beers (ビール缶をあける)
Show ended 20:44
(2010年6月3日木曜、JCBホール=ストンプ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Stomp
2010-83
【Rhythm Is Life, Rhythm Is Beat】
ストンプ。
ロンドンで始まったパフォーマンス・ステージ「ストンプ」。僕は2005年8月に見ていたので、約5年ぶり。実験的なパフォーマンスが始まったのが1990年とのことなので、もうすでに20年間、彼らは「物を叩き続けている」わけだ。初来日は1995年5月、以後、1996年9月(東京ライヴUFO、プレイヴェント出演)、1997年3月、2002年8月、2003年8月、2005年4月(愛知万博特別出演)、2005年8月、2008年7月以来。今回でツアー・ライヴ公演としては約1年ぶり7回目の来日公演。
いったい、どんなパフォーマンスかというと、ありとあらゆるものを叩いたり、振ったりして、音を出し、それをひたすら見せるというもの。これが1人から2人、そして、4人、8人と大勢になって、しかも、みんなが揃って同じことをすると、これが実にグルーヴ感のあふれる楽しいエンタテインメントになる。
一言で言えば、「物を叩いているのを見せる出し物」。こんな単純なものが、実に楽しい。これを見終わる頃には、みんな何かを叩きながら、会場を出てくる、そこら辺にあるものをみな叩きたくなる、そんなライヴだ。
今回、なんとセットリストがあった。前回のライヴ評をみたら、しっかりメモ書きから作ったセットリストがあったが、けっこう出し物も同じものがあることを発見した。
オープニング、いきなりほうき(モップのような)で床を叩きながら、メンバーが登場。1人、2人、最後には8人になる。叩き、振り回し、躍動感あふれるパフォーマンス。途中でほうきの先が取れた。しかも、2人のほうきが壊れた。すると、舞台袖からすぐに新しいほうきが投げられた。1週間に30本以上のほうきを消費するそうだ。
たぶん、セットリストを見ると、これをごらんになった方はどういう出し物だったか思い出されると思う。たとえば2の「マッチ箱」は、マッチ箱をパーカッション代わりに使ったり、「ポール」は2メートル近くの棒をみんなで振り回す。まるで殺陣のよう。一番おおがかりなのが、「サスペンション」。3メートル以上あるステージ正面の壁に演者が一本のワイアーでつながれ、そこについているいろいろなフライパンなどの物を叩く。一番スペースを使うのと音が大きいので、ひじょうに印象に残る。メロディーは、ほぼない(一部で音階が違うものを叩くシーンがあり、ちょっとしたメロディー的なものがでるところがある)が、リズムと演技だけでもたせるところがすごい。
コミカルな「ニューズペイパー」もおもしろい。日本人ストンパー、宮本やこも登場、かっこいい。もちろん、さまざまな人種がいて、おもしろいのだが、もしこれをタップのプロとか、黒人ばかりでやったら、ものすごいグルーヴとファンクが炸裂するかもしれない、とも思った。これがイギリスから出た、というのがおもしろい。
大きな動作から、小さな動きまで、さまざまな音が出される。叩き、動き、飛び跳ね、体全体がパーカッションとなり、80分の舞台全体がグルーヴの塊になる。リズムが命、リズムがビートを刻む、とてもユニークなパフォーマンスだ。
日曜までやっている。
■2010年6月1日(火曜)から6日(日)まで。JCBホール。
問い合わせ=キョードー東京 03-3498-9999
www.ntv.co.jp/stomp
SS席9500円、S席8500円、A席7000円。土日は昼・夜2回公演。
■過去記事
August 17, 2005
Musical "Stomp": Hitting Everything And Became Hit Worldwide
【『ストンプ』、あらゆる物を叩いて世界的ヒットへ】
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200508/2005_08_17.html
(ここにドラム、パーカッション関係の記事一覧)
■セットリスト
Setlist: Stomp @ JCB Hall, June 3, 2010
Show started 19:06
01. Brooms (ほうき)
02. Matches (マッチ箱をパーカッションのように)
03. Hands & Feet (足を踏み鳴らし[stomp]、手を叩く)
04. Brush Off, Dustpan & Brush, Pedal Bin (ほうき、ゴミ箱、塵取り、フライパンなど)
05. Pipes (水道管のようなパイプ)
06. Bucket Laying (バケツ)
07. Sinks (キッチンのシンクを叩く。水が入っている)
08. Mops (水を拭くモップ)
09. Paint Cans (ペンキ缶)
10. Poles (8本のポールを演者が自在に操る)
11. Suspension (壁にぶる下がて叩くパフォーマンス)
12. Chairs (5つの椅子に座って)
13. Zippos (ライターのジッポを使った小ネタ)
14. Newspapers (新聞紙を使って)
15. Basketballs (バスケットボールを使って)
16. Donuts (ドーナッツ風の大きなタイヤをフラフープのように使って)
17. Bags (ヴィニール・バッグに小物をいれていて、そこからいろいろ取り出して音を出す)
18. Bins (巨大な竹馬のようなドラム缶で登場)
Encore Encore (全員集合)
Encore Beers (ビール缶をあける)
Show ended 20:44
(2010年6月3日木曜、JCBホール=ストンプ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Stomp
2010-83
△MJスピリット(パート2): マイケル・ジャクソンのスピリットとソウルが舞い降りたMJスピリット
【MJ-Spirit Part 2: 5 Most Impressive Scene In This Is It Tour】
ベスト5。
2010年5月22日(土)、渋谷アックスで行われたマイケル・ジャクソンを愛をもって真剣にリサーチし、そのスピリットを伝えるユニット、MJスピリットのライヴ評。そのパート2。
まるで、『ディス・イズ・イット』を見ているかのようなライヴ、僕が感動したポイントベスト5を。
(次点 「ダーティー・ダイアナ」のオリアンティーとスラッシュ)
5位 冒頭。映像とマイケルのロボットのようなキラキラの衣装で登場したシーン。
4位 「スリラー」のクモと帆
3位 「スムース・クリミナル」のゼロ・グラヴィティー
2位 「ビリー・ジーン」のパフォーマンスと電飾
1位 最後のMJエアで、ショーが終わるところ。
しかし、よくここまでやってくれた。やはり、各曲の小道具、いや、大道具がいちいち楽しい。たぶん、本物のオーツー・アリーナだと、ステージがもっと大きいので、スクリーンや、クモなど、もっと大きいのだろう。だが、こうしてその場で音楽とともに、こういう感じになると見せられると感動もひとしおだ。
ショーの始まりと終わりは、エンタテイナーがもっとも頭とお金をかけるところ。どうやって観客を驚かすか、どうやって最高の余韻を残すか、マイケルは常にそれを考え続けていた。その答えが今回の冒頭のシーンであり、エンディングだ。
オリアンティーがでてくるところは、みなおもしろかったが、「スリラー」では、まさかクモが出てくるとは思わなかったので、驚いた。すべて自作とのこと。
「ゼロ・グラヴィティー」は、前回まで6人だったのが、今回は7人になっている。人数が多ければ、やはりインパクトは強い。腹筋というより、背筋がかなりいるようで、実際にやってみた彼らからすると、マイケルのあの前への倒れ方ははんぱでない、ものすごい背筋力だそうだ。僕は2階で見ていたので、「スムース・クリミナル」が始まるときに「ゼロ・グラヴィティー」の仕掛けがステージに置かれているのが見えたが、それが見えただけで興奮した。パブロフの犬状態だ。(笑)
「ビリー・ジーン」の電飾は、何度も試行錯誤を繰り返し、できたそうだ。あるタイミングでブルーツリーがスイッチをオンにすると、あとは事前にプログラミングしておいた順番で、色が交互に変わっていく仕組み。実に綺麗だった。しかも、リハーサルのときなど、体内に張り巡らす電線が細いために、ちょっと動くだけで断線してしまうという。リハでもうまくいかず、予定通りぴったり決まったのは、あの本番1回だけだったそうだ。だから、これがうまくいったときは、スタッフも号泣したという。
このあたりまでショーが進んでくると、最後のMJエアはどうするのだろうという思いが頭の中をかけめぐる。なんと言っても、実際の最後のシーンは誰も見ていないに等しいのだから。また、会場アックスのスクリーンは、さすがに扉は開かないだろうし。どうやってマイケルを飛行機に乗せるのか。などと考えていたら、やってくれました。マイケルが乗りこむところは、じつにうまく映像が作られていたのだ。映像は全部作ったそうだ。そして、最後、その飛行機(MJエア)が飛び立っていくところは、感動した。
それにしても、素材となった資料は、映画『ディス・イズ・イット』とそのボーナス映像だけ。そこから、よくあれだけのものをイマジネーションを駆使して作った。衣装もほかに依頼していたが届かなかったものが何点かあったそうで、こんごのパフォーマンスで使うことにするそうだ。
それぞれの曲に小道具、映像などがあるから、曲ごとにミニ・ミュージカル、ショートフィルムそのものになっているようなもの。それにしても、こんなアイデアどこで思いつくのかといったものが矢継ぎ早にでてくるから、飽きない。
今回の規模はそれまでのものと比べて充実した内容になっているが、スタッフはみなヴォランティア的に参加している。マイケル役のブルーツリーは、ここで使う衣装代をほとんど自腹でつぎこんでいるそうだ。いわばマイケルへの究極の愛がこのステージに注ぎ込まれているのかもしれない。
■MJスピリット再公演決定 (なお、AXのような規模のライヴにはなりません)
MJ-spirit MJ memorial show In Morph Tokyo
2010年6月25日(金)開場19:00開演20:00前売り\3400(ドリンク代600円別) 6月5日(土)14:00発売開始 チケットのお求めはmorph tokyo 03-5414-2684
■過去関連記事
2010年05月23日(日)
マイケル・ジャクソンのスピリットとソウルが舞い降りたMJスピリット (パート1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100523.html
2009年10月07日(水)
マイケルのDNAを受け継いで~MJ-スピリット@モーフ
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20091007.html
2008年11月30日(日)
マイケル・ジャクソン「バッド・ツアー」再現
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20081130.html
March 22, 2008
マイケル・ジャクソン降臨す
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080322.html
(バッド・ツアーのショート・ヴァージョン)
■MJ-スピリット・オフィシャル・ホームページ
http://mj-spirit.com/index2.html
ENT>MUSIC>LIVE>MJ-Spirit
【MJ-Spirit Part 2: 5 Most Impressive Scene In This Is It Tour】
ベスト5。
2010年5月22日(土)、渋谷アックスで行われたマイケル・ジャクソンを愛をもって真剣にリサーチし、そのスピリットを伝えるユニット、MJスピリットのライヴ評。そのパート2。
まるで、『ディス・イズ・イット』を見ているかのようなライヴ、僕が感動したポイントベスト5を。
(次点 「ダーティー・ダイアナ」のオリアンティーとスラッシュ)
5位 冒頭。映像とマイケルのロボットのようなキラキラの衣装で登場したシーン。
4位 「スリラー」のクモと帆
3位 「スムース・クリミナル」のゼロ・グラヴィティー
2位 「ビリー・ジーン」のパフォーマンスと電飾
1位 最後のMJエアで、ショーが終わるところ。
しかし、よくここまでやってくれた。やはり、各曲の小道具、いや、大道具がいちいち楽しい。たぶん、本物のオーツー・アリーナだと、ステージがもっと大きいので、スクリーンや、クモなど、もっと大きいのだろう。だが、こうしてその場で音楽とともに、こういう感じになると見せられると感動もひとしおだ。
ショーの始まりと終わりは、エンタテイナーがもっとも頭とお金をかけるところ。どうやって観客を驚かすか、どうやって最高の余韻を残すか、マイケルは常にそれを考え続けていた。その答えが今回の冒頭のシーンであり、エンディングだ。
オリアンティーがでてくるところは、みなおもしろかったが、「スリラー」では、まさかクモが出てくるとは思わなかったので、驚いた。すべて自作とのこと。
「ゼロ・グラヴィティー」は、前回まで6人だったのが、今回は7人になっている。人数が多ければ、やはりインパクトは強い。腹筋というより、背筋がかなりいるようで、実際にやってみた彼らからすると、マイケルのあの前への倒れ方ははんぱでない、ものすごい背筋力だそうだ。僕は2階で見ていたので、「スムース・クリミナル」が始まるときに「ゼロ・グラヴィティー」の仕掛けがステージに置かれているのが見えたが、それが見えただけで興奮した。パブロフの犬状態だ。(笑)
「ビリー・ジーン」の電飾は、何度も試行錯誤を繰り返し、できたそうだ。あるタイミングでブルーツリーがスイッチをオンにすると、あとは事前にプログラミングしておいた順番で、色が交互に変わっていく仕組み。実に綺麗だった。しかも、リハーサルのときなど、体内に張り巡らす電線が細いために、ちょっと動くだけで断線してしまうという。リハでもうまくいかず、予定通りぴったり決まったのは、あの本番1回だけだったそうだ。だから、これがうまくいったときは、スタッフも号泣したという。
このあたりまでショーが進んでくると、最後のMJエアはどうするのだろうという思いが頭の中をかけめぐる。なんと言っても、実際の最後のシーンは誰も見ていないに等しいのだから。また、会場アックスのスクリーンは、さすがに扉は開かないだろうし。どうやってマイケルを飛行機に乗せるのか。などと考えていたら、やってくれました。マイケルが乗りこむところは、じつにうまく映像が作られていたのだ。映像は全部作ったそうだ。そして、最後、その飛行機(MJエア)が飛び立っていくところは、感動した。
それにしても、素材となった資料は、映画『ディス・イズ・イット』とそのボーナス映像だけ。そこから、よくあれだけのものをイマジネーションを駆使して作った。衣装もほかに依頼していたが届かなかったものが何点かあったそうで、こんごのパフォーマンスで使うことにするそうだ。
それぞれの曲に小道具、映像などがあるから、曲ごとにミニ・ミュージカル、ショートフィルムそのものになっているようなもの。それにしても、こんなアイデアどこで思いつくのかといったものが矢継ぎ早にでてくるから、飽きない。
今回の規模はそれまでのものと比べて充実した内容になっているが、スタッフはみなヴォランティア的に参加している。マイケル役のブルーツリーは、ここで使う衣装代をほとんど自腹でつぎこんでいるそうだ。いわばマイケルへの究極の愛がこのステージに注ぎ込まれているのかもしれない。
■MJスピリット再公演決定 (なお、AXのような規模のライヴにはなりません)
MJ-spirit MJ memorial show In Morph Tokyo
2010年6月25日(金)開場19:00開演20:00前売り\3400(ドリンク代600円別) 6月5日(土)14:00発売開始 チケットのお求めはmorph tokyo 03-5414-2684
■過去関連記事
2010年05月23日(日)
マイケル・ジャクソンのスピリットとソウルが舞い降りたMJスピリット (パート1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100523.html
2009年10月07日(水)
マイケルのDNAを受け継いで~MJ-スピリット@モーフ
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20091007.html
2008年11月30日(日)
マイケル・ジャクソン「バッド・ツアー」再現
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20081130.html
March 22, 2008
マイケル・ジャクソン降臨す
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080322.html
(バッド・ツアーのショート・ヴァージョン)
■MJ-スピリット・オフィシャル・ホームページ
http://mj-spirit.com/index2.html
ENT>MUSIC>LIVE>MJ-Spirit
☆キング・ソロモン・バーク・ライヴ
2010年6月3日 音楽 コメント (1)☆キング・ソロモン・バーク・ライヴ
(2010年5月31日付けブログのつづき)
【King Solomon Burke (Part 2)】
夜空。
日比谷野音は、オープンエア。屋根がないから、雨が降ってくると、ライヴ鑑賞にはかなり厳しいものがある。だが、日曜日は無事晴れた。土曜日も最初は雨が降っていたが、キング・ソロモンのときにはなんとかもちこたえた。
派手な青のキラキラの衣装に身を包んだソロモン・バークのライヴも、どうやら事前のセットリストがあってなきようなものだった。キング・ソロモンが曲を歌いだすと、バンドが後をついて演奏を始める。まるで、ジェームス・ブラウンのライヴのようだった。キングは何度も言っていた。「時間がなくなってしまう。やるべきたくさんの曲がある」。
セットリストが決まっていないから、「イフ・ユー・ニード・ミー」から始まるメドレーも、前日とは曲目ががらりと代わっていた。全体的なセットリストも大幅に代わっている。土曜日のセットリスト(下記5月31日付けブログ)と比べていただければわかるが、これは嬉しい誤算だった。前日は歌われなかったレイ・チャールズの「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」やアップテンポの「プラウド・メアリー」が歌われると、古き良きソウル・ショーを強烈に実感させてもらえた。
この日はなぜか女性バックコーラスが1人増えていた。
そして、この日一番感動したのが、サム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」だ。キング・ソロモンを聴いていて、まるでオーティスやサムがもし生きていたらこんなライヴをやっただろうと思っていたところ、まさにどんぴしゃの選曲だったから、それもひとしお。
すっかり日も落ちた日比谷の夜空に響くキング・ソロモンの「I was born by the river…」の歌声は格別だった。
キングが座った大きく立派な椅子は、サイズ、色など細かい指示がきて日本で作ったという。これを地方にももっていった。
東京の次は名古屋。名古屋までは、キング・ソロモンは車で移動したそうだ。そういえば、ウィリー・ミッチェルの葬儀にロスからメンフィスまで行くのにも、キングは車で移動した。車椅子のため、飛行機がしんどいのかもしれない。ところで、キングは単独で90分くらいのショーはやるのだろうか。そうであれば、ぜひ再度見てみたい。
■ ライヴ評
2010年05月31日(月)
キング・ソロモン・バークのピュアなハートとソウル (パート1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100531.html
土曜日のセットリスト、メンバーなども。
■セットリスト ソロモン・バーク 2010年5月30日(日)
Setlist : Solomon Burke, Hibiya Yagai Ongakudou, May 30,2010
show started 17:50
01. Nothing’s Impossible
02. Got To Get You Off My Mind
03. The Error Of My Ways
04. Cry To Me
05. Diamond In Your Mind
06. Like A Fire
07. If You Need Me ~ Words ~ Hanging Up My Heart For You ~Take Me (Just As I Am)~ I Can’t Stop Loving You [Ray Charles]
08. Proud Mary [Ike & Tina Turner]
09. Today Is Your Birthday
09. Keep A Light In The Window Till I Come Home (Solomon’s son sings)
10. I Will Survive (Solomon’s daughter sings) [Gloria Gaynor]
10. A Change Is Gonna Come [Sam Cooke]
11. Detroit City
12. Don’t Give Up On Me
13. The More
14. Till I Get It Right
15. What A Wonderful World [Louis Armstrong]
16. Everybody Needs Somebody To Love
17. When The Saints Go Marching In [Louis Armstrong]
Show ended 18:57
【2010年5月30日日曜、日比谷野外音楽堂=ジャパン・ブルーズ・アンド・ソウル・カーニヴァル=ソロモン・バーク・ライヴ】
ENT>MUSIC>LIVE>Japan Blues & Soul Carnival>Burke, Solomon
2010-81
(2010年5月31日付けブログのつづき)
【King Solomon Burke (Part 2)】
夜空。
日比谷野音は、オープンエア。屋根がないから、雨が降ってくると、ライヴ鑑賞にはかなり厳しいものがある。だが、日曜日は無事晴れた。土曜日も最初は雨が降っていたが、キング・ソロモンのときにはなんとかもちこたえた。
派手な青のキラキラの衣装に身を包んだソロモン・バークのライヴも、どうやら事前のセットリストがあってなきようなものだった。キング・ソロモンが曲を歌いだすと、バンドが後をついて演奏を始める。まるで、ジェームス・ブラウンのライヴのようだった。キングは何度も言っていた。「時間がなくなってしまう。やるべきたくさんの曲がある」。
セットリストが決まっていないから、「イフ・ユー・ニード・ミー」から始まるメドレーも、前日とは曲目ががらりと代わっていた。全体的なセットリストも大幅に代わっている。土曜日のセットリスト(下記5月31日付けブログ)と比べていただければわかるが、これは嬉しい誤算だった。前日は歌われなかったレイ・チャールズの「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」やアップテンポの「プラウド・メアリー」が歌われると、古き良きソウル・ショーを強烈に実感させてもらえた。
この日はなぜか女性バックコーラスが1人増えていた。
そして、この日一番感動したのが、サム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」だ。キング・ソロモンを聴いていて、まるでオーティスやサムがもし生きていたらこんなライヴをやっただろうと思っていたところ、まさにどんぴしゃの選曲だったから、それもひとしお。
すっかり日も落ちた日比谷の夜空に響くキング・ソロモンの「I was born by the river…」の歌声は格別だった。
キングが座った大きく立派な椅子は、サイズ、色など細かい指示がきて日本で作ったという。これを地方にももっていった。
東京の次は名古屋。名古屋までは、キング・ソロモンは車で移動したそうだ。そういえば、ウィリー・ミッチェルの葬儀にロスからメンフィスまで行くのにも、キングは車で移動した。車椅子のため、飛行機がしんどいのかもしれない。ところで、キングは単独で90分くらいのショーはやるのだろうか。そうであれば、ぜひ再度見てみたい。
■ ライヴ評
2010年05月31日(月)
キング・ソロモン・バークのピュアなハートとソウル (パート1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100531.html
土曜日のセットリスト、メンバーなども。
■セットリスト ソロモン・バーク 2010年5月30日(日)
Setlist : Solomon Burke, Hibiya Yagai Ongakudou, May 30,2010
show started 17:50
01. Nothing’s Impossible
02. Got To Get You Off My Mind
03. The Error Of My Ways
04. Cry To Me
05. Diamond In Your Mind
06. Like A Fire
07. If You Need Me ~ Words ~ Hanging Up My Heart For You ~Take Me (Just As I Am)~ I Can’t Stop Loving You [Ray Charles]
08. Proud Mary [Ike & Tina Turner]
09. Today Is Your Birthday
09. Keep A Light In The Window Till I Come Home (Solomon’s son sings)
10. I Will Survive (Solomon’s daughter sings) [Gloria Gaynor]
10. A Change Is Gonna Come [Sam Cooke]
11. Detroit City
12. Don’t Give Up On Me
13. The More
14. Till I Get It Right
15. What A Wonderful World [Louis Armstrong]
16. Everybody Needs Somebody To Love
17. When The Saints Go Marching In [Louis Armstrong]
Show ended 18:57
【2010年5月30日日曜、日比谷野外音楽堂=ジャパン・ブルーズ・アンド・ソウル・カーニヴァル=ソロモン・バーク・ライヴ】
ENT>MUSIC>LIVE>Japan Blues & Soul Carnival>Burke, Solomon
2010-81
◎リトル・ベニー(ワシントンDCのゴーゴーのヴェテラン)46歳で死去
2010年6月2日 音楽◎リトル・ベニー(ワシントンDCのゴーゴーのヴェテラン)46歳で死去
【Little Benny Dies At 46】
訃報。
アメリカ東部ワシントンDCで生まれ、1980年代に世界を席巻した独特のリズムを持つ「ゴー・ゴー・ミュージック」の重鎮のひとり、リトル・ベニーが2010年5月30日、ワシントンDCの兄弟の自宅で死去した。46歳だった。ビジネス・パートナーのキース・ギャロウェイが確認した。ギャロウェイによると死因は不明、また就寝中に亡くなったという。前日にはワシントンDCのお隣メリーランド州キャピトル・ハイツの「キャピトル・ハイツ・ボールルーム」で行われていたチャック・ブラウン、EU、ネラ・ドナなどのライヴに参加していた。
リトル・ベニーは本名アンソニー・ハーリー、1963年9月26日、ワシントンDC生まれ。子供の頃から父親のR&Bバンド、フランク・ハーリー&ザ・ベル・コーズのリハーサルを見ていた。最初父親は彼にギターをあげたが、本人は興味を持たず、音楽に興味を持ったのは12歳ころになってから。ホーンに興味を持ち、これを独学、トランペット奏者として同地で活動を始める。1974年ごろから後に1980年代に「ゴー・ゴー・ミュージック」の人気グループとなるレア・エッセンスのメンバーらと知り合い、1980年代に入って同グループのメンバーとなった。このバンドは、ワシントンDCにおけるゴー・ゴーのゴッドファーザー、チャック・ブラウンの弟子的存在となり、チャック・ブラウンがいないときに、同地でゴー・ゴーの城を守っていた。チャックがゴー・ゴーの基礎を築き、レア・エッセンス(リトル・ベニー)らがさらに花開かせた、という見方をするゴー・ゴー関係者もいる。
リトル・ベニーは、1980年代中期にレア・エッセンスを離れ、独自のバンド、リトル・ベニー・アンド・ザ・マスターズを結成。「キャット・イン・ザ・ハット」などのヒットを放った。トランペットとヴォーカルを聴かせる。その後、プロパー・ユーテンシルズなどに参加したり、またレア・エッセンスに戻ったりしていた。
ベニーは、音楽以外昼間の仕事で、アラームをつける仕事、引越し業者、ケーブル技術者などをしていた。また、ライヴも一晩で同時に複数箇所で行ったりしていたため、「ヘリコプター」などのニックネームがついていた。
リトル・ベニーはしばらく前に背中を手術し、歩くために杖を使っていた。同地では、ワシントンポスト紙や、地元のテレビチャンネル「チャンネル9」なども報道している。
葬儀の日程は未定だが、妻と6人の子供によって送られる。
2010年3月、2年ぶりに来日していたゴー・ゴーの大御所、チャック・ブラウン・アンド・ザ・ソウル・サーチャーズのライヴにフィーチャリング・ゲストとして同行。元気なところを見せていた。
チャック・ブラウンは、ワシントンシティーペーパー(電子版)で、次のように述べている。「親愛なる友人リトル・ベニーを失って失意のどん底にいる。彼らの初期、よくリハーサルを見に行った。彼らのファースト・アルバム『ボディー・ムーヴ』をプロデュースできたことは誇りだ。あるとき俺の喉が調子が悪くて歌えないとき、助けてくれないかと言ったら彼がやってきて、以来16年、彼とは一緒にステージに立っている。彼のような人物は他にいない。誰も彼にとって代わることはできない。彼の損失はどんな言葉で表すことはできない」
現在74歳のチャックからすれば、46歳のベニーが先に逝くなど、まったくもって予想外であったろう。心中察する。
■関連記事
2010年03月21日(日)
チャック・ブラウン&ソウル・サーチャーズ・ライヴ
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100321.html
2010年3月にビルボードライブ東京で行われたライヴ評。ここに前々回来日時のリンクも。
リトル・ベニーのインタヴュー(英語)(1998年ごろのものか)
http://www.tmottgogo.com/littlebenny.html
リトル・ベニーの訃報記事(ワシントンポスト紙)(英語)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/30/AR2010053003566.html
スティーヴ・キヴィアットのブログ(英語)
R.I.P. Go-go Pioneer Little Benny: Chuck Brown & Others Reminisce
Posted by Steve Kiviat on May. 31, 2010 at 07:47 pm
http://www.washingtoncitypaper.com/blogs/artsdesk/general/2010/05/31/r-i-p-go-go-pioneer-little-benny-chuck-brown-others-reminisce/
OBITUARY>Little Benny [Harley, Anthony] (September 26, 1963 – May 30, 2010 – 46 Years Old)
【Little Benny Dies At 46】
訃報。
アメリカ東部ワシントンDCで生まれ、1980年代に世界を席巻した独特のリズムを持つ「ゴー・ゴー・ミュージック」の重鎮のひとり、リトル・ベニーが2010年5月30日、ワシントンDCの兄弟の自宅で死去した。46歳だった。ビジネス・パートナーのキース・ギャロウェイが確認した。ギャロウェイによると死因は不明、また就寝中に亡くなったという。前日にはワシントンDCのお隣メリーランド州キャピトル・ハイツの「キャピトル・ハイツ・ボールルーム」で行われていたチャック・ブラウン、EU、ネラ・ドナなどのライヴに参加していた。
リトル・ベニーは本名アンソニー・ハーリー、1963年9月26日、ワシントンDC生まれ。子供の頃から父親のR&Bバンド、フランク・ハーリー&ザ・ベル・コーズのリハーサルを見ていた。最初父親は彼にギターをあげたが、本人は興味を持たず、音楽に興味を持ったのは12歳ころになってから。ホーンに興味を持ち、これを独学、トランペット奏者として同地で活動を始める。1974年ごろから後に1980年代に「ゴー・ゴー・ミュージック」の人気グループとなるレア・エッセンスのメンバーらと知り合い、1980年代に入って同グループのメンバーとなった。このバンドは、ワシントンDCにおけるゴー・ゴーのゴッドファーザー、チャック・ブラウンの弟子的存在となり、チャック・ブラウンがいないときに、同地でゴー・ゴーの城を守っていた。チャックがゴー・ゴーの基礎を築き、レア・エッセンス(リトル・ベニー)らがさらに花開かせた、という見方をするゴー・ゴー関係者もいる。
リトル・ベニーは、1980年代中期にレア・エッセンスを離れ、独自のバンド、リトル・ベニー・アンド・ザ・マスターズを結成。「キャット・イン・ザ・ハット」などのヒットを放った。トランペットとヴォーカルを聴かせる。その後、プロパー・ユーテンシルズなどに参加したり、またレア・エッセンスに戻ったりしていた。
ベニーは、音楽以外昼間の仕事で、アラームをつける仕事、引越し業者、ケーブル技術者などをしていた。また、ライヴも一晩で同時に複数箇所で行ったりしていたため、「ヘリコプター」などのニックネームがついていた。
リトル・ベニーはしばらく前に背中を手術し、歩くために杖を使っていた。同地では、ワシントンポスト紙や、地元のテレビチャンネル「チャンネル9」なども報道している。
葬儀の日程は未定だが、妻と6人の子供によって送られる。
2010年3月、2年ぶりに来日していたゴー・ゴーの大御所、チャック・ブラウン・アンド・ザ・ソウル・サーチャーズのライヴにフィーチャリング・ゲストとして同行。元気なところを見せていた。
チャック・ブラウンは、ワシントンシティーペーパー(電子版)で、次のように述べている。「親愛なる友人リトル・ベニーを失って失意のどん底にいる。彼らの初期、よくリハーサルを見に行った。彼らのファースト・アルバム『ボディー・ムーヴ』をプロデュースできたことは誇りだ。あるとき俺の喉が調子が悪くて歌えないとき、助けてくれないかと言ったら彼がやってきて、以来16年、彼とは一緒にステージに立っている。彼のような人物は他にいない。誰も彼にとって代わることはできない。彼の損失はどんな言葉で表すことはできない」
現在74歳のチャックからすれば、46歳のベニーが先に逝くなど、まったくもって予想外であったろう。心中察する。
■関連記事
2010年03月21日(日)
チャック・ブラウン&ソウル・サーチャーズ・ライヴ
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100321.html
2010年3月にビルボードライブ東京で行われたライヴ評。ここに前々回来日時のリンクも。
リトル・ベニーのインタヴュー(英語)(1998年ごろのものか)
http://www.tmottgogo.com/littlebenny.html
リトル・ベニーの訃報記事(ワシントンポスト紙)(英語)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/30/AR2010053003566.html
スティーヴ・キヴィアットのブログ(英語)
R.I.P. Go-go Pioneer Little Benny: Chuck Brown & Others Reminisce
Posted by Steve Kiviat on May. 31, 2010 at 07:47 pm
http://www.washingtoncitypaper.com/blogs/artsdesk/general/2010/05/31/r-i-p-go-go-pioneer-little-benny-chuck-brown-others-reminisce/
OBITUARY>Little Benny [Harley, Anthony] (September 26, 1963 – May 30, 2010 – 46 Years Old)
○アリ・オリ・ウッドソン58歳で死去
2010年6月1日 音楽○アリ・オリ・ウッドソン58歳で死去
【Ali Ollie Woodson Dies At 58】
訃報。
元テンプテーションズのリード・シンガーとして、またソロ・シンガーとしても活躍したアリ・オリ・ウッドソンが2010年5月30日(日)夜、カリフォルニアの病院で死去した。数年白血病を患っていて、これが死因となった。
アリ・オリは、本名オリー・クリゲット、1951年9月12日(一部報道で10月12日説も)デトロイト生まれ。地元でR&Bシンガーをしているうちに、1983年、デニス・エドワーズの後釜としてテンプテーションズのリード・シンガーに抜擢され、1984年発表のアルバム『トゥルーリー・フォー・ユー』から正式参加。ここに収録された「トリート・ハー・ライク・ア・レディー」を、共同作曲、共同プロデュースし、一躍注目されるようになった。その後も、テンプスの一員として活動。1986年には、名曲「レディー・ソウル」の大ヒットが生まれた。アリ・オリといえば、「レディー・ソウル」というほど。
しかし、アリ・オリは、その後テンプスを脱退、再参加など出たり入ったりを続ける。ソロ活動のほかに、セッション・シンガーとして、いくつかのプロジェクトに参加。アル・マッケイ・オールスターズや、デイヴィッド・T、ジェームス・ギャドソンらが結成したスピリット・トラヴェラーなどに参加。
来日履歴は、1988年10月、今は亡き有明MZAなどでテンプテーションズのメンバーとして初。その後テンプスで1989年12月(MZAなど)、1992年12月(厚生年金など)、アリ・オリとして1997年7月(東京オンエア・イーストなど)、1998年6月(福岡・大阪ブルーノート)、アル・マッケイ&オールスターズの一員として2001年7月(赤坂ブリッツ、福岡・大阪ブルーノート)、2002年4月アリ・オリとして(青山ベルコモンズなど)、2007年11月デニス・エドワーズのテンプテーションズ・レヴューの一員として(コットンクラブ)、2008年6月アリ・オリとして(銀座ケントスなど)。計9回の来日を数える。
これらのうち、1997年と2002年は現在赤坂ミラクルの川畑氏がプロモーターとなり招聘している。筆者は、1988年10月にテンプテーションズとしてインタヴューしている。
テンプテーションズは、モータウン・レコードを、アメリカを代表するR&Bヴォーカル・グループでそのリード・シンガーは、常に脚光を浴びてきた。初代は、デイヴィッド・ラッフィン、次がデニス・エドワーズ(1968年7月~1977年、1980年~1982年、1987年~1989年)、デニス後はしばらく何人かが変わり、1983年にアリ・オリが参加した。リード・シンガーは3人以上いるが、デイヴィッド、デニス、アリ・オリの3人がもっともリードらしいリードとして高く評価されている。
ソウル・ファンがテンプスの話をするとき、3人のどの時代が好きかがしばしば話題にあがる。
■ アリ・オリ・ウッドソン
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005QC4C/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ テンプテーションズ・アンソロジー2枚組み (一応、「トリート・ハー…」と「レディー・ソウル」が入っています)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000001A96/soulsearchiho-22/ref=nosim/
++++
○二つの訃報に翻弄された一日
翻弄。
本当にこのところ訃報が多くて悲しくなる。しかも、星のかなたのスーパースターが亡くなるだけでなく、比較的身近で知己を得たアーティストの訃報があいつぐ。
ところで、アリ・オリの訃報は若干情報が錯綜した。
アリ・オリの死去は、例によってツイッターで、シンバッドのツイートで第一報を知った。東京時間で5月31日月曜の昼12時すぎだ。さすがにシンバッドのツイートなので、信頼性はあるとは思ったが、ダブルチェックが必要なので、いろいろ確認作業をした。その後、ブレンダのフェイスブックで、アーバンネットワークのニュースのリンクをアップしていた。シンバッドのツイートだけでは、いつどこで亡くなったかが、はっきり確認できなかったので、その時点ではリツイートなどはしなかったが、このニュース記事で確定的だろうとツイッターに書き込んだ。その後、ブログ用にいろいろ書いたり、調べていたが、第一稿を書き上げ、午後1時30分すぎに僕もブログにアップ。しかし、その後、ブレンダのフェイスブックで午後2時ごろ、ケネス・ホールという人が、「アリ・オリの妻からの電話情報として、ICUには入っているが、まだ生きている。祈ってください」という書き込みがあった。これを受けて、すぐにブログを一時削除。再度の確認作業をすることになった。
デイヴィッド・シーの盟友である江守アイ氏に電話をすると、まだアリ・オリの死亡情報は入っておらず、ただ江守氏はアリ・オリの白血病を知っていた。江守氏がデイヴィッドに電話をいれると、留守電で、その留守電にはメッセージがいっぱいで入れられないという応答だった。おそらく、多くの人が真偽を確かめようとしていたのだろう。
そのうち、他の電子メディアや、ウィッキぺディアも死亡を流し始めた。ただこれらもアーバンネットワークの記事を元にしたもののようで、このアーバンのものが誤報だとすると、すべて誤報になる可能性があった。だが、日本時間4時過ぎに、先のケネス氏が「死亡を確認、アリ・オリ妻から電話」と書いたので、僕も再度ブログをアップするにいたった。その後、川畑さんに連絡した。
ツイッターに第一報を書いたところ、ものすごい量の返信とリツイートがあり、改めて情報伝播の速さ、反応のすごさを再認識した。訃報の扱いは本当に慎重にやらないと痛感した。この場合、やはり、速さよりも、正確さを優先すべきだと考えるようになった。今回は誤報にはいたらなかったが、いつどこでも、誤報が蔓延する可能性は飛躍的に大きくなっている。
そんなこんなしているうちに、今度はリトル・ベニー(ワシントンDC・ゴーゴー・ミュージックシーンの大物シンガー)の訃報が入る。さすがに、これはワシントン・ポストが書いているので、また、記事もしっかりしているので、間違いないだろうと考え、これもツイートした。しかしこの訃報はびっくり。なにしろ、3月には元気に来日していて、ライヴも見ていたのだから。
アリ・オリは、下記2007年11月29日付けのブログに書いたあのやきそばのストーリーが思い出される。
アリ・オリ・ウッドソン、リトル・ベニー、ともにご冥福をお祈りします。
そして、今日、6月1日はデイヴィッド・ラッフィンの命日だ。ラッフィンは1991年6月1日、50歳で亡くなった。
■ リトル・ベニー46歳で死去
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/30/AR2010053003566.html
(リトル・ベニー訃報記事は後日)
■ アリ・オリ・ウッドソン訃報記事
デトロイトニューズ(電子版)
http://detnews.com/article/20100531/ENT04/5310358/1424/ENT04/Former-lead-Temptations-singer-Ali-Woodson-dies
アーバンネットワーク(電子版)の速報
http://urbannetwork.com/blog/2010/05/30/former-temptation-ollie-woodson-dies/
ショウビズ411の速報
http://www.showbiz411.com/2010/05/31/ollie-ali-woodson-of-the-temptations-dies-at-58
BVBuzzの速報
http://www.bvbuzz.com/2010/05/31/ollie-woodson-the-temptations-dead/
■ アリ・オリ関連過去記事
2009年7月ソロ来日中止のニュース記事
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10287671889.html
2008年12月22日(月)
アリ・オリ入院
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20081222.html
12月のコットンクラブでのライヴをキャンセル。代わりにGCキャメロンが来日。
2008年06月16日(月)
アリ・オリ・ライヴ@ケントス銀座
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080616.html
November 26, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071126.html
November 27, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 2)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071127.html
November 28, 2007
It’s The Temptations’ Week (Part 3) : Treat Them Like A Legend
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071128.html
November 29, 2007
It’s The Temptations Week (Part 4) : Ali Ollie At Ali Ollie & Miracle
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071129.html
ミラクルで「川畑スペシャル」やきそばを食べるアリ・オリ。
OBITUARY>Woodson, Ali-Ollie (September 12, 1951 – May 30, 2010, 58 years-old)
【Ali Ollie Woodson Dies At 58】
訃報。
元テンプテーションズのリード・シンガーとして、またソロ・シンガーとしても活躍したアリ・オリ・ウッドソンが2010年5月30日(日)夜、カリフォルニアの病院で死去した。数年白血病を患っていて、これが死因となった。
アリ・オリは、本名オリー・クリゲット、1951年9月12日(一部報道で10月12日説も)デトロイト生まれ。地元でR&Bシンガーをしているうちに、1983年、デニス・エドワーズの後釜としてテンプテーションズのリード・シンガーに抜擢され、1984年発表のアルバム『トゥルーリー・フォー・ユー』から正式参加。ここに収録された「トリート・ハー・ライク・ア・レディー」を、共同作曲、共同プロデュースし、一躍注目されるようになった。その後も、テンプスの一員として活動。1986年には、名曲「レディー・ソウル」の大ヒットが生まれた。アリ・オリといえば、「レディー・ソウル」というほど。
しかし、アリ・オリは、その後テンプスを脱退、再参加など出たり入ったりを続ける。ソロ活動のほかに、セッション・シンガーとして、いくつかのプロジェクトに参加。アル・マッケイ・オールスターズや、デイヴィッド・T、ジェームス・ギャドソンらが結成したスピリット・トラヴェラーなどに参加。
来日履歴は、1988年10月、今は亡き有明MZAなどでテンプテーションズのメンバーとして初。その後テンプスで1989年12月(MZAなど)、1992年12月(厚生年金など)、アリ・オリとして1997年7月(東京オンエア・イーストなど)、1998年6月(福岡・大阪ブルーノート)、アル・マッケイ&オールスターズの一員として2001年7月(赤坂ブリッツ、福岡・大阪ブルーノート)、2002年4月アリ・オリとして(青山ベルコモンズなど)、2007年11月デニス・エドワーズのテンプテーションズ・レヴューの一員として(コットンクラブ)、2008年6月アリ・オリとして(銀座ケントスなど)。計9回の来日を数える。
これらのうち、1997年と2002年は現在赤坂ミラクルの川畑氏がプロモーターとなり招聘している。筆者は、1988年10月にテンプテーションズとしてインタヴューしている。
テンプテーションズは、モータウン・レコードを、アメリカを代表するR&Bヴォーカル・グループでそのリード・シンガーは、常に脚光を浴びてきた。初代は、デイヴィッド・ラッフィン、次がデニス・エドワーズ(1968年7月~1977年、1980年~1982年、1987年~1989年)、デニス後はしばらく何人かが変わり、1983年にアリ・オリが参加した。リード・シンガーは3人以上いるが、デイヴィッド、デニス、アリ・オリの3人がもっともリードらしいリードとして高く評価されている。
ソウル・ファンがテンプスの話をするとき、3人のどの時代が好きかがしばしば話題にあがる。
■ アリ・オリ・ウッドソン
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005QC4C/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ テンプテーションズ・アンソロジー2枚組み (一応、「トリート・ハー…」と「レディー・ソウル」が入っています)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000001A96/soulsearchiho-22/ref=nosim/
++++
○二つの訃報に翻弄された一日
翻弄。
本当にこのところ訃報が多くて悲しくなる。しかも、星のかなたのスーパースターが亡くなるだけでなく、比較的身近で知己を得たアーティストの訃報があいつぐ。
ところで、アリ・オリの訃報は若干情報が錯綜した。
アリ・オリの死去は、例によってツイッターで、シンバッドのツイートで第一報を知った。東京時間で5月31日月曜の昼12時すぎだ。さすがにシンバッドのツイートなので、信頼性はあるとは思ったが、ダブルチェックが必要なので、いろいろ確認作業をした。その後、ブレンダのフェイスブックで、アーバンネットワークのニュースのリンクをアップしていた。シンバッドのツイートだけでは、いつどこで亡くなったかが、はっきり確認できなかったので、その時点ではリツイートなどはしなかったが、このニュース記事で確定的だろうとツイッターに書き込んだ。その後、ブログ用にいろいろ書いたり、調べていたが、第一稿を書き上げ、午後1時30分すぎに僕もブログにアップ。しかし、その後、ブレンダのフェイスブックで午後2時ごろ、ケネス・ホールという人が、「アリ・オリの妻からの電話情報として、ICUには入っているが、まだ生きている。祈ってください」という書き込みがあった。これを受けて、すぐにブログを一時削除。再度の確認作業をすることになった。
デイヴィッド・シーの盟友である江守アイ氏に電話をすると、まだアリ・オリの死亡情報は入っておらず、ただ江守氏はアリ・オリの白血病を知っていた。江守氏がデイヴィッドに電話をいれると、留守電で、その留守電にはメッセージがいっぱいで入れられないという応答だった。おそらく、多くの人が真偽を確かめようとしていたのだろう。
そのうち、他の電子メディアや、ウィッキぺディアも死亡を流し始めた。ただこれらもアーバンネットワークの記事を元にしたもののようで、このアーバンのものが誤報だとすると、すべて誤報になる可能性があった。だが、日本時間4時過ぎに、先のケネス氏が「死亡を確認、アリ・オリ妻から電話」と書いたので、僕も再度ブログをアップするにいたった。その後、川畑さんに連絡した。
ツイッターに第一報を書いたところ、ものすごい量の返信とリツイートがあり、改めて情報伝播の速さ、反応のすごさを再認識した。訃報の扱いは本当に慎重にやらないと痛感した。この場合、やはり、速さよりも、正確さを優先すべきだと考えるようになった。今回は誤報にはいたらなかったが、いつどこでも、誤報が蔓延する可能性は飛躍的に大きくなっている。
そんなこんなしているうちに、今度はリトル・ベニー(ワシントンDC・ゴーゴー・ミュージックシーンの大物シンガー)の訃報が入る。さすがに、これはワシントン・ポストが書いているので、また、記事もしっかりしているので、間違いないだろうと考え、これもツイートした。しかしこの訃報はびっくり。なにしろ、3月には元気に来日していて、ライヴも見ていたのだから。
アリ・オリは、下記2007年11月29日付けのブログに書いたあのやきそばのストーリーが思い出される。
アリ・オリ・ウッドソン、リトル・ベニー、ともにご冥福をお祈りします。
そして、今日、6月1日はデイヴィッド・ラッフィンの命日だ。ラッフィンは1991年6月1日、50歳で亡くなった。
■ リトル・ベニー46歳で死去
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/05/30/AR2010053003566.html
(リトル・ベニー訃報記事は後日)
■ アリ・オリ・ウッドソン訃報記事
デトロイトニューズ(電子版)
http://detnews.com/article/20100531/ENT04/5310358/1424/ENT04/Former-lead-Temptations-singer-Ali-Woodson-dies
アーバンネットワーク(電子版)の速報
http://urbannetwork.com/blog/2010/05/30/former-temptation-ollie-woodson-dies/
ショウビズ411の速報
http://www.showbiz411.com/2010/05/31/ollie-ali-woodson-of-the-temptations-dies-at-58
BVBuzzの速報
http://www.bvbuzz.com/2010/05/31/ollie-woodson-the-temptations-dead/
■ アリ・オリ関連過去記事
2009年7月ソロ来日中止のニュース記事
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10287671889.html
2008年12月22日(月)
アリ・オリ入院
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20081222.html
12月のコットンクラブでのライヴをキャンセル。代わりにGCキャメロンが来日。
2008年06月16日(月)
アリ・オリ・ライヴ@ケントス銀座
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080616.html
November 26, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071126.html
November 27, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 2)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071127.html
November 28, 2007
It’s The Temptations’ Week (Part 3) : Treat Them Like A Legend
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071128.html
November 29, 2007
It’s The Temptations Week (Part 4) : Ali Ollie At Ali Ollie & Miracle
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071129.html
ミラクルで「川畑スペシャル」やきそばを食べるアリ・オリ。
OBITUARY>Woodson, Ali-Ollie (September 12, 1951 – May 30, 2010, 58 years-old)
◆(速報・訃報) アリ・オリ・ウッドソン(元テンプテーションズ)58歳で死去
2010年5月31日 音楽◆(速報・訃報) アリ・オリ・ウッドソン(元テンプテーションズ)58歳で死去
【Ali-Ollie Woodson Dies At 58】
訃報。
元テンプテーションズのリード・シンガーで、最近ではソロ・シンガーとして活躍していたアリ・オリ・ウッドソンが、2010年5月30日、カリフォルニアで死去した。58歳。しばらく白血病を患っていた。(詳しくは後送。)海外のネットメディアが報じた。また、近親者も確認した。葬儀の日程などは未定。
アーバンネットワーク(電子版)の速報
http://urbannetwork.com/blog/2010/05/30/former-temptation-ollie-woodson-dies/
ショウビズ411の速報
http://www.showbiz411.com/2010/05/31/ollie-ali-woodson-of-the-temptations-dies-at-58
BVBuzzの速報
http://www.bvbuzz.com/2010/05/31/ollie-woodson-the-temptations-dead/
アリ・オリ・ウッドソンは1951年9月12日デトロイト生まれ。1984年から1986年まで正式にテンプテーションズのリード・シンガーを務めた。その後、同じくテンプスのリードから独立したデニス・エドワーズのテンプテーションズ・レヴューなどにも参加したり、ソロ・コンサートを行ったりしていた。
アリ・オリは、来日も多く、また親しみやすい性格で誰とでも仲良くできるため、日本にもたくさんのファンがいる。2009年7月、コットン・クラブのライヴ、2008年12月の同ライヴも体調不良でキャンセルしていた。2008年6月の銀座ケントスなどでのライヴが最後の来日になってしまった。初来日は1988年10月、MZA有明などでの公演。2008年6月までアリ・オリとして、テンプス関連、アル・マッケイ・オールスターズの一員などとして10回を数える。
恵比寿にアリ・オリ・ウッドソンから命名したソウルバー「アリ・オリ」があり、来日した折にアリ・オリ本人もここを訪れ、大のお気に入りとなり、壁面にサイン。その後も何度も訪れている。また、赤坂のソウルバー、「ミラクル」のオウナー川畑氏とも親しく、来日のたびに必ずミラクルを訪れ、気軽にファンと歓談したり、写真に収まっていた。
ご冥福をお祈りします。
■ アリ・オリ関連過去記事
2009年7月来日中止のニュース記事
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10287671889.html
2008年06月16日(月)
アリ・オリ・ライヴ@ケントス銀座
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080616.html
November 26, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071126.html
November 27, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 2)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071127.html
November 28, 2007
It’s The Temptations’ Week (Part 3) : Treat Them Like A Legend
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071128.html
November 29, 2007
It’s The Temptations Week (Part 4) : Ali Ollie At Ali Ollie & Miracle
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071129.html
OBITUARY>Woodson, Ali-Ollie
【Ali-Ollie Woodson Dies At 58】
訃報。
元テンプテーションズのリード・シンガーで、最近ではソロ・シンガーとして活躍していたアリ・オリ・ウッドソンが、2010年5月30日、カリフォルニアで死去した。58歳。しばらく白血病を患っていた。(詳しくは後送。)海外のネットメディアが報じた。また、近親者も確認した。葬儀の日程などは未定。
アーバンネットワーク(電子版)の速報
http://urbannetwork.com/blog/2010/05/30/former-temptation-ollie-woodson-dies/
ショウビズ411の速報
http://www.showbiz411.com/2010/05/31/ollie-ali-woodson-of-the-temptations-dies-at-58
BVBuzzの速報
http://www.bvbuzz.com/2010/05/31/ollie-woodson-the-temptations-dead/
アリ・オリ・ウッドソンは1951年9月12日デトロイト生まれ。1984年から1986年まで正式にテンプテーションズのリード・シンガーを務めた。その後、同じくテンプスのリードから独立したデニス・エドワーズのテンプテーションズ・レヴューなどにも参加したり、ソロ・コンサートを行ったりしていた。
アリ・オリは、来日も多く、また親しみやすい性格で誰とでも仲良くできるため、日本にもたくさんのファンがいる。2009年7月、コットン・クラブのライヴ、2008年12月の同ライヴも体調不良でキャンセルしていた。2008年6月の銀座ケントスなどでのライヴが最後の来日になってしまった。初来日は1988年10月、MZA有明などでの公演。2008年6月までアリ・オリとして、テンプス関連、アル・マッケイ・オールスターズの一員などとして10回を数える。
恵比寿にアリ・オリ・ウッドソンから命名したソウルバー「アリ・オリ」があり、来日した折にアリ・オリ本人もここを訪れ、大のお気に入りとなり、壁面にサイン。その後も何度も訪れている。また、赤坂のソウルバー、「ミラクル」のオウナー川畑氏とも親しく、来日のたびに必ずミラクルを訪れ、気軽にファンと歓談したり、写真に収まっていた。
ご冥福をお祈りします。
■ アリ・オリ関連過去記事
2009年7月来日中止のニュース記事
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10287671889.html
2008年06月16日(月)
アリ・オリ・ライヴ@ケントス銀座
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20080616.html
November 26, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071126.html
November 27, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 2)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071127.html
November 28, 2007
It’s The Temptations’ Week (Part 3) : Treat Them Like A Legend
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071128.html
November 29, 2007
It’s The Temptations Week (Part 4) : Ali Ollie At Ali Ollie & Miracle
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071129.html
OBITUARY>Woodson, Ali-Ollie
★キング・ソロモン・バークのピュアなハートとソウル (パート1)
2010年5月31日 音楽 コメント (2)★キング・ソロモン・バークのピュアなハートとソウル (パート1)
(ライヴ内容でます。これからごらんになる方はご注意ください。)
【King Solomon Burke: Pure Heart And Soul】
ソウル。
来日していない最後の大物。確かに何人かそういうアーティストはいる。だが、キング・ソロモンことソロモン・バークはそんな中でも格別のアーティストだ。今では彼は「キング・オブ・ロックン・ソウル」と言われる。1940年3月21日フィラデルフィア生まれ(1936年2月22日生まれ説も)としても、現在70歳。1950年代から活躍し、全盛期の60年代の活動ぶりは僕も知らない。だからまさか彼のライヴを日本で拝めるとは思っていなかった。2002年に出たジョー・ヘンリー・プロデュースのアルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』のおかげ。これがグラミー賞を獲得しなければ、現在の彼の派手な復活振りはなく、そして来日もなかっただろう。彼の来日、神に感謝だ。
25回目を迎える『ジャパン・ブルーズ&ソウル・カーニヴァル』のアーティストとして初来日、初登場。客層は例年同様年齢層高く、7-8割は男性。今年はバーナード・アリソンが急病のために来日中止となり、ピンチヒッターでジョー・ルイス・ウォーカーが登場。
さてソロモンはトリに登場。9歳から天才説教師として知られてきたソロモン・バークは、ゴスペル、さらにブルーズ、リズム&ブルーズも歌って、世界的人気を博した超ヴェテランだ。ヒット曲もたくさんあるが、ほとんどが1960年代のもの。
ステージ中央には大きな真っ赤な椅子、その周囲にはゴールドが飾られている。それはキングス・チェア。そして、舞台下手(観客席から見て左)からそのキングス・チェアに向かってレッドカーペットが敷かれていた。これこそはステージへの王道、キングス・ロードだ。
バンド編成は、超豪華。ドラムス、ギター2、ベース、キーボード2、ホーン4、コーラス2、そしてヴァイオリン2の計14人だ。一人のシンガーでここまでのバンドは、なかなかめったにない。まさにキングス・バンド。(2日目は15人)
バンドが1曲目「ナッシングス・インポッシブル」(同名最新作のタイトル曲)を演奏しだすと、ステージの明かりが消え暗闇に。しばし、演奏が続き、ぱっとライトが点くと、さきほどまで空だった大きなキングス・チェアにキング・ソロモンが堂々と鎮座ましましていた。瞬間移動か。(笑) そして、一声出す。が~~ん、ものすごい迫力だ。70歳超えの声とは思えない。どうやら足は悪いようだが、声は完璧だ。ミディアム調、バラード、ヒット曲メドレーと次々と歌っていく。そして、その合間になんども観客に向かって「Are you with me(ついてきてるか、みんな)」、「Easy, easy, easy(ゆったり、落ち着いて、のんびり行こう)」と声をかける。
座って歌っても、こんなに声が出るのか。遠めには小錦あたりが歌っているように見える。途中で、ちょこちょこ話をするが、実に滑舌(かつぜつ)がよく、話に引き込まれる感じがした。それを聞いていてキング・ソロモンが若い頃から天才説教師だったことを思い出した。この調子で教会で話せば、誰もが彼の説教に納得し、気分も高揚してくるだろう。歌う以前に説教師だったのだ。途中の話とともに、曲に乗ってのモノローグ(ナレーション)がまた実にかっこいい。
そんなトークの中で、キング・ソロモンは、自分には21人の子供と90人の孫がいる、その子供のうちのひとりを紹介しよう、といって女性コーラス(キャンディー)を紹介し、彼女はグローリア・ゲイナーのヒット「アイ・ウィル・サヴァイヴ」を歌った。また、もうひとりの男性コーラスもソロモンの息子で、彼は「キープ・ア・ライト・イン・ザ・ウィンドウ」を歌った。息子もかなりいい感じで、ちょっとアル・グリーンを思わせた。(しかし、子供と孫合計111人って、名前、絶対に全部覚えられないだろうなあ)
そして、歌ももちろんはっきりと単語が聞こえる。そこにはゴスペルの煽り(あおり)からブルーズの悲しみ、リズム&ブルーズの快活さがすべて備わっていた。ちょうど、キング・ソロモンがオーティス・レディングの曲をメドレーでやったシーンがあったが、これを聴いていると、オーティスや、ディクション(発音)がさらにいいサム・クックあたりが、今、生きていてライヴをやったら、こうなったのではないかと確信した。いわば、キング・ソロモンのライヴには、オーティスやサムの言霊が宿っていたようにさえ思えた。それもこれも、すべてソロモンの声が、日比谷の夜空に堂々と突き抜けたからだ。繰り返すが座してあの声量はすごい。
ハモンドB3のオルガンがなり、渋いギターが爪弾かれると、南部の教会か、サザン・ソウルを聴かせるジュークジョイントさながらになる。
最後の曲「エヴリバディー・ニーズ・サムバディー・トゥ・ラヴ」から「ホエン・ザ・セインツ・ゴー・マーチン・イン(聖者の行進)」になると、歌いながらも、ステージが始まったときと同じように真っ暗になった。演奏が長く続き、明るくなると、キングの姿はなかった。双眼鏡で暗くなったステージを見ていたら、キング・チェアから車椅子に乗り換え、車椅子でレッドカーペットを下がっていっていた。なるほど、出入りは車椅子だったのだ。
時折風が吹くと、ちょっと寒かったが、このソウルは熱かった。人間国宝、キング・ソロモン・バーク。それにしても、わずか64分だったが見事にピュアなハート&ソウル・ショーだった。
(この項続く)
●ソロモン・バークのライヴは5月31日(月)名古屋ザ・ボトム・ライン、6月1日(火)大阪なんば・ハッチであります。
■ソロモン・バーク 最新盤
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVH22/soulsearchiho-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0007V5ZS4/soulsearchiho-22/ref=nosim/
The Very Best of Solomon Burke
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002F3BOZK/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ 過去記事
2010年03月10日(水) 付けブログ↓
ソロモン・バーク初来日へ~『ブルーズ&ソウル・カーニヴァル』出演で
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10477897752.html
2010年04月09日(金)
ジョー・ヘンリーからソロモン・バークへの伝言
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100409.html
■ メンバー
Solomon Burke Tour Member
1. Solomon Burke (Vocal)
2. Selassie Burke (BG Vocal)
3. Candy Burke (BG Vocal)
4. Rudy Copeland (Organ)
5. John Wargo (Guitar)
6. William Magid (Trumpet)
7. Keith Ladinsky (Keyboard)
8. Daniel Hofmann (Sax)
9. Aaldert Weelden (Bass)
10. Carle Vickers (Sax, Trumpet)
11. Raffaella Stirpe (Viola)
12. Samuel Mayfield JR (Guitar)
13. Simona Mana (Violin)
14. Mandale McGee (Drum)
15. Aya Toyoshima (Trombone)
16. Sophia (background vocal) on day two
■セットリスト ソロモン・バーク 2010年5月29日(土)
Setlist : Solomon Burke, Hibiya Yagai Ongakudou, May 29,2010
show started 19:26
01. Nothing’s Impossible
02. Diamond In Your Mind
03. Cry To Me
04. Fast Train [Van Morrison]
05. That’s How I Got To Memphis
06. Down In The Valley
07. Hits Medley: Tonight’s The Night ~ If You Need Me ~ He’ll Have To Go ~ I Almost Lost My Baby [Albert King, Hank Williams, written by Ivory Joe Hunter] ~ Just Out Of Reach (Of My Two Empty Arms) ~
08. I Wish I Knew (How It Would Feel to Be Free)
09. Keep A Light In The Window Till I Come Home (Solomon’s son sings)
10. I Will Survive (Solomon’s daughter sings) [Gloria Gaynor]
11. None Of Us Are Free
12. Don’t Give Up On Me
13. Medley: Sitting On The Dock Of The Bay ~ Fa Fa Fa [Otis Redding] ~Stand By Me [Ben E King]
14. What A Wonderful World [Louis Armstrong]
15. If I Give My Heart To You
16. Everybody Needs Somebody To Love
17. When The Saints Go Marching In [Louis Armstrong]
Show ended 20:30
【2010年5月29日土曜、日比谷野外音楽堂=ジャパン・ブルーズ・アンド・ソウル・カーニヴァル=ソロモン・バーク・ライヴ】
ENT>MUSIC>LIVE>Japan Blues & Soul Carnival>Burke, Solomon
2010-80
(ライヴ内容でます。これからごらんになる方はご注意ください。)
【King Solomon Burke: Pure Heart And Soul】
ソウル。
来日していない最後の大物。確かに何人かそういうアーティストはいる。だが、キング・ソロモンことソロモン・バークはそんな中でも格別のアーティストだ。今では彼は「キング・オブ・ロックン・ソウル」と言われる。1940年3月21日フィラデルフィア生まれ(1936年2月22日生まれ説も)としても、現在70歳。1950年代から活躍し、全盛期の60年代の活動ぶりは僕も知らない。だからまさか彼のライヴを日本で拝めるとは思っていなかった。2002年に出たジョー・ヘンリー・プロデュースのアルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』のおかげ。これがグラミー賞を獲得しなければ、現在の彼の派手な復活振りはなく、そして来日もなかっただろう。彼の来日、神に感謝だ。
25回目を迎える『ジャパン・ブルーズ&ソウル・カーニヴァル』のアーティストとして初来日、初登場。客層は例年同様年齢層高く、7-8割は男性。今年はバーナード・アリソンが急病のために来日中止となり、ピンチヒッターでジョー・ルイス・ウォーカーが登場。
さてソロモンはトリに登場。9歳から天才説教師として知られてきたソロモン・バークは、ゴスペル、さらにブルーズ、リズム&ブルーズも歌って、世界的人気を博した超ヴェテランだ。ヒット曲もたくさんあるが、ほとんどが1960年代のもの。
ステージ中央には大きな真っ赤な椅子、その周囲にはゴールドが飾られている。それはキングス・チェア。そして、舞台下手(観客席から見て左)からそのキングス・チェアに向かってレッドカーペットが敷かれていた。これこそはステージへの王道、キングス・ロードだ。
バンド編成は、超豪華。ドラムス、ギター2、ベース、キーボード2、ホーン4、コーラス2、そしてヴァイオリン2の計14人だ。一人のシンガーでここまでのバンドは、なかなかめったにない。まさにキングス・バンド。(2日目は15人)
バンドが1曲目「ナッシングス・インポッシブル」(同名最新作のタイトル曲)を演奏しだすと、ステージの明かりが消え暗闇に。しばし、演奏が続き、ぱっとライトが点くと、さきほどまで空だった大きなキングス・チェアにキング・ソロモンが堂々と鎮座ましましていた。瞬間移動か。(笑) そして、一声出す。が~~ん、ものすごい迫力だ。70歳超えの声とは思えない。どうやら足は悪いようだが、声は完璧だ。ミディアム調、バラード、ヒット曲メドレーと次々と歌っていく。そして、その合間になんども観客に向かって「Are you with me(ついてきてるか、みんな)」、「Easy, easy, easy(ゆったり、落ち着いて、のんびり行こう)」と声をかける。
座って歌っても、こんなに声が出るのか。遠めには小錦あたりが歌っているように見える。途中で、ちょこちょこ話をするが、実に滑舌(かつぜつ)がよく、話に引き込まれる感じがした。それを聞いていてキング・ソロモンが若い頃から天才説教師だったことを思い出した。この調子で教会で話せば、誰もが彼の説教に納得し、気分も高揚してくるだろう。歌う以前に説教師だったのだ。途中の話とともに、曲に乗ってのモノローグ(ナレーション)がまた実にかっこいい。
そんなトークの中で、キング・ソロモンは、自分には21人の子供と90人の孫がいる、その子供のうちのひとりを紹介しよう、といって女性コーラス(キャンディー)を紹介し、彼女はグローリア・ゲイナーのヒット「アイ・ウィル・サヴァイヴ」を歌った。また、もうひとりの男性コーラスもソロモンの息子で、彼は「キープ・ア・ライト・イン・ザ・ウィンドウ」を歌った。息子もかなりいい感じで、ちょっとアル・グリーンを思わせた。(しかし、子供と孫合計111人って、名前、絶対に全部覚えられないだろうなあ)
そして、歌ももちろんはっきりと単語が聞こえる。そこにはゴスペルの煽り(あおり)からブルーズの悲しみ、リズム&ブルーズの快活さがすべて備わっていた。ちょうど、キング・ソロモンがオーティス・レディングの曲をメドレーでやったシーンがあったが、これを聴いていると、オーティスや、ディクション(発音)がさらにいいサム・クックあたりが、今、生きていてライヴをやったら、こうなったのではないかと確信した。いわば、キング・ソロモンのライヴには、オーティスやサムの言霊が宿っていたようにさえ思えた。それもこれも、すべてソロモンの声が、日比谷の夜空に堂々と突き抜けたからだ。繰り返すが座してあの声量はすごい。
ハモンドB3のオルガンがなり、渋いギターが爪弾かれると、南部の教会か、サザン・ソウルを聴かせるジュークジョイントさながらになる。
最後の曲「エヴリバディー・ニーズ・サムバディー・トゥ・ラヴ」から「ホエン・ザ・セインツ・ゴー・マーチン・イン(聖者の行進)」になると、歌いながらも、ステージが始まったときと同じように真っ暗になった。演奏が長く続き、明るくなると、キングの姿はなかった。双眼鏡で暗くなったステージを見ていたら、キング・チェアから車椅子に乗り換え、車椅子でレッドカーペットを下がっていっていた。なるほど、出入りは車椅子だったのだ。
時折風が吹くと、ちょっと寒かったが、このソウルは熱かった。人間国宝、キング・ソロモン・バーク。それにしても、わずか64分だったが見事にピュアなハート&ソウル・ショーだった。
(この項続く)
●ソロモン・バークのライヴは5月31日(月)名古屋ザ・ボトム・ライン、6月1日(火)大阪なんば・ハッチであります。
■ソロモン・バーク 最新盤
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003DRVH22/soulsearchiho-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0007V5ZS4/soulsearchiho-22/ref=nosim/
The Very Best of Solomon Burke
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002F3BOZK/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ 過去記事
2010年03月10日(水) 付けブログ↓
ソロモン・バーク初来日へ~『ブルーズ&ソウル・カーニヴァル』出演で
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2010年04月09日(金)
ジョー・ヘンリーからソロモン・バークへの伝言
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100409.html
■ メンバー
Solomon Burke Tour Member
1. Solomon Burke (Vocal)
2. Selassie Burke (BG Vocal)
3. Candy Burke (BG Vocal)
4. Rudy Copeland (Organ)
5. John Wargo (Guitar)
6. William Magid (Trumpet)
7. Keith Ladinsky (Keyboard)
8. Daniel Hofmann (Sax)
9. Aaldert Weelden (Bass)
10. Carle Vickers (Sax, Trumpet)
11. Raffaella Stirpe (Viola)
12. Samuel Mayfield JR (Guitar)
13. Simona Mana (Violin)
14. Mandale McGee (Drum)
15. Aya Toyoshima (Trombone)
16. Sophia (background vocal) on day two
■セットリスト ソロモン・バーク 2010年5月29日(土)
Setlist : Solomon Burke, Hibiya Yagai Ongakudou, May 29,2010
show started 19:26
01. Nothing’s Impossible
02. Diamond In Your Mind
03. Cry To Me
04. Fast Train [Van Morrison]
05. That’s How I Got To Memphis
06. Down In The Valley
07. Hits Medley: Tonight’s The Night ~ If You Need Me ~ He’ll Have To Go ~ I Almost Lost My Baby [Albert King, Hank Williams, written by Ivory Joe Hunter] ~ Just Out Of Reach (Of My Two Empty Arms) ~
08. I Wish I Knew (How It Would Feel to Be Free)
09. Keep A Light In The Window Till I Come Home (Solomon’s son sings)
10. I Will Survive (Solomon’s daughter sings) [Gloria Gaynor]
11. None Of Us Are Free
12. Don’t Give Up On Me
13. Medley: Sitting On The Dock Of The Bay ~ Fa Fa Fa [Otis Redding] ~Stand By Me [Ben E King]
14. What A Wonderful World [Louis Armstrong]
15. If I Give My Heart To You
16. Everybody Needs Somebody To Love
17. When The Saints Go Marching In [Louis Armstrong]
Show ended 20:30
【2010年5月29日土曜、日比谷野外音楽堂=ジャパン・ブルーズ・アンド・ソウル・カーニヴァル=ソロモン・バーク・ライヴ】
ENT>MUSIC>LIVE>Japan Blues & Soul Carnival>Burke, Solomon
2010-80
▲ナタリー・コール(パート3):そのステージを裏側から見ると~
2010年5月30日 音楽▲ナタリー・コール(パート3):そのステージを裏側から見ると~
【Behind The Scene Of Natalie Cole Stage】
裏。
完全復活したナタリー・コール。今回1日だけ丸の内コットンクラブでのライヴがあった。コットンは超満員。さすがに年齢層は高く、往年のファンがつめかけた感じだ。たまたま、席がステージ向かって右側の真横だったので、音楽ディレクター、ゲイルの後ろになり、彼女の音楽ディレクターぶりがよく見えた。ちょっとした舞台裏から見たナタリー・コール・ライヴ・ステージをおとどけしよう。
この日は東京最後ということもあって、ナタリーもかなりのりのりだった様子。通常3曲程度インストゥルメンタルで客を暖めてから本人の登場となるが、なんと1曲、ジョッシュ・ネルソン作「アンティドート」が終わると、もうステージに登場した。4曲ほど歌うと、なにやら、ナタリーが音楽ディレクターのゲイルのところに近づき、耳元で何かをしゃべっている。そのおしゃべりの表情はけっこう厳しいものだったが、曲の間奏が終わった瞬間、もう曲の歌詞に戻って、しかも観客席に向けて満面の笑みを湛える。音楽監督に指示を出す厳しいボスの顔と、観客を楽しませるエンタテイナーの顔。いい意味での二面性を垣間見た。
そして観客に向けて「今日は、何か違った曲をやってみたい。あそこのジェントルマンが『スティル・アンフォゲッタブル』のCDをお持ちみたいですね。なにか、そのアルバムの中で聴きたい曲はありますか?」と尋ねると、その紳士、CDを掲げながら、「ホワット…」と言う。ナタリーは聞き取れず(実は僕も聞き取れず)、「ほかにある?」と聞くと、「コーヒー・タイム」の答え。すると、「You got it(やりましょう)」。これは実は予定されたセットリストの中に入っていたので、ナタリーやMDにとっては、「ビンゴ!」という感じだった。ただ予定より早めにこれをやることになったのだが、その紳士にすれば、きっと「ナタリーにコーヒー・タイムをリクエストして、歌ってもらったんだ」ということが一生の思い出になるだろう。
あらかじめ各ミュージシャンは歌われる曲をセットリスト順に楽譜台においてある。一曲終わるごとにそれを下に置き、次の曲に取り掛かる。そして途中で曲が変わると、ゲイルが楽譜番号をメンバーに指で知らせる。ナタリーがセットリストと違う曲をやりたいとゲイルに言うと、ゲイルは下に置かれている大きな楽譜ボックスから当該曲の楽譜を探している。彼女はまた、楽曲のポイントのところで、指揮者のごとくミュージシャンに腕を振る。それをピアノ、キーボード、ギター、ベース、ドラマーなども凝視し、その腕の動きに対応してプレイする。
この日おもしろいと思ったのが、ミュージシャンが「ラヴ」をプレイし始めたが、そのイントロでナタリーが探してもらった歌詞カードを出し、「これから歌う曲は、ルイ・アームストロングや、エラ・フィッツジェラルドが歌い、そして、ボビー・ダーリンが大ヒットさせた曲です」と言い、「ラヴ」のベースラインにあわせて、「マック・ザ・ナイフ」を歌いだしたのだ。そうか、これは同じコード進行だったんだ。そして、また途中から「ラヴ」へ。とてもおもしろいアレンジだった。
「ラヴ」だけをストレートに歌って終わるときもあり、ミュージシャンたちは、その場でナタリーがどっちに進むかは、その瞬間までわからない。どちらの楽曲にもその場で対応できているのだ。
この日はアンコールが2曲。そして、ひじょうに珍しいことに、ほとんどジャズ・スタンダード・セットでは歌われないR&Bヒット「ディス・ウィル・ビー」が歌われた。最後だから、増量大サーヴィスだったのかもしれない。
■ 過去関連記事
ナタリー・コール(パート1)奇跡の完全復活~
2010年5月20日付けブログ↓
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100520.html
2010年05月24日(月)
ナタリー・コール(パート2):レパートリーは800曲以上
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100524.html
2008年06月28日(土)
ナタリー・コール満身創痍のステージ(part 1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10110678041.html
(前回来日時ライヴ評)
2008年07月19日(土)
ナタリー・コール(part 2) C型肝炎を明かす
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10117732847.html#main
2003/06/17 (Tue)
Bittersweet Voice That Turned Blue Note A Desert
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030617.html
2003年来日時のライヴ評。
【2002年5月28日火曜・ブルーノート東京】
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/live/natalie20020528.html
2002年来日時ライヴ評。
『ソウル・サーチン』(吉岡正晴・著)第7話 ナタリー・コール NATALIE COLE ~二度のグラミーのはざまで~
http://www.soulsearchin.com/soulsearchin/7.html
ナタリー・コール紆余曲折のソウル・サーチン・ストーリー。
■スティル・アンフォゲッタブル
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001DDNAOQ/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■アンフォゲッタブル
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005HECA/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ セットリスト
Setlist : Natalie Cole @ Cotton Club, May 27 2010
show started 21:33
01. Antidote (instrumental)
02. My Favorite Things
03. This Can’t Be Love
04. Better Than Anything
05. Almost Like Being A Lover
06. Summer Sun
07. Coffee Time
08. Love Is Here To Stay
09. Smile
10. Somewhere Along The Way
11. Unforgettable (with Nat King Cole on the screen)
12. Root 66
13. Love – Mack The Knife – Love
Enc1. Orange Corner Sky
Enc2. This Will Be
Show ended 22:41
(2010年5月27日木曜、丸の内コットンクラブ=ナタリー・コール・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Cole, Natalie
【Behind The Scene Of Natalie Cole Stage】
裏。
完全復活したナタリー・コール。今回1日だけ丸の内コットンクラブでのライヴがあった。コットンは超満員。さすがに年齢層は高く、往年のファンがつめかけた感じだ。たまたま、席がステージ向かって右側の真横だったので、音楽ディレクター、ゲイルの後ろになり、彼女の音楽ディレクターぶりがよく見えた。ちょっとした舞台裏から見たナタリー・コール・ライヴ・ステージをおとどけしよう。
この日は東京最後ということもあって、ナタリーもかなりのりのりだった様子。通常3曲程度インストゥルメンタルで客を暖めてから本人の登場となるが、なんと1曲、ジョッシュ・ネルソン作「アンティドート」が終わると、もうステージに登場した。4曲ほど歌うと、なにやら、ナタリーが音楽ディレクターのゲイルのところに近づき、耳元で何かをしゃべっている。そのおしゃべりの表情はけっこう厳しいものだったが、曲の間奏が終わった瞬間、もう曲の歌詞に戻って、しかも観客席に向けて満面の笑みを湛える。音楽監督に指示を出す厳しいボスの顔と、観客を楽しませるエンタテイナーの顔。いい意味での二面性を垣間見た。
そして観客に向けて「今日は、何か違った曲をやってみたい。あそこのジェントルマンが『スティル・アンフォゲッタブル』のCDをお持ちみたいですね。なにか、そのアルバムの中で聴きたい曲はありますか?」と尋ねると、その紳士、CDを掲げながら、「ホワット…」と言う。ナタリーは聞き取れず(実は僕も聞き取れず)、「ほかにある?」と聞くと、「コーヒー・タイム」の答え。すると、「You got it(やりましょう)」。これは実は予定されたセットリストの中に入っていたので、ナタリーやMDにとっては、「ビンゴ!」という感じだった。ただ予定より早めにこれをやることになったのだが、その紳士にすれば、きっと「ナタリーにコーヒー・タイムをリクエストして、歌ってもらったんだ」ということが一生の思い出になるだろう。
あらかじめ各ミュージシャンは歌われる曲をセットリスト順に楽譜台においてある。一曲終わるごとにそれを下に置き、次の曲に取り掛かる。そして途中で曲が変わると、ゲイルが楽譜番号をメンバーに指で知らせる。ナタリーがセットリストと違う曲をやりたいとゲイルに言うと、ゲイルは下に置かれている大きな楽譜ボックスから当該曲の楽譜を探している。彼女はまた、楽曲のポイントのところで、指揮者のごとくミュージシャンに腕を振る。それをピアノ、キーボード、ギター、ベース、ドラマーなども凝視し、その腕の動きに対応してプレイする。
この日おもしろいと思ったのが、ミュージシャンが「ラヴ」をプレイし始めたが、そのイントロでナタリーが探してもらった歌詞カードを出し、「これから歌う曲は、ルイ・アームストロングや、エラ・フィッツジェラルドが歌い、そして、ボビー・ダーリンが大ヒットさせた曲です」と言い、「ラヴ」のベースラインにあわせて、「マック・ザ・ナイフ」を歌いだしたのだ。そうか、これは同じコード進行だったんだ。そして、また途中から「ラヴ」へ。とてもおもしろいアレンジだった。
「ラヴ」だけをストレートに歌って終わるときもあり、ミュージシャンたちは、その場でナタリーがどっちに進むかは、その瞬間までわからない。どちらの楽曲にもその場で対応できているのだ。
この日はアンコールが2曲。そして、ひじょうに珍しいことに、ほとんどジャズ・スタンダード・セットでは歌われないR&Bヒット「ディス・ウィル・ビー」が歌われた。最後だから、増量大サーヴィスだったのかもしれない。
■ 過去関連記事
ナタリー・コール(パート1)奇跡の完全復活~
2010年5月20日付けブログ↓
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100520.html
2010年05月24日(月)
ナタリー・コール(パート2):レパートリーは800曲以上
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100524.html
2008年06月28日(土)
ナタリー・コール満身創痍のステージ(part 1)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10110678041.html
(前回来日時ライヴ評)
2008年07月19日(土)
ナタリー・コール(part 2) C型肝炎を明かす
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10117732847.html#main
2003/06/17 (Tue)
Bittersweet Voice That Turned Blue Note A Desert
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030617.html
2003年来日時のライヴ評。
【2002年5月28日火曜・ブルーノート東京】
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/live/natalie20020528.html
2002年来日時ライヴ評。
『ソウル・サーチン』(吉岡正晴・著)第7話 ナタリー・コール NATALIE COLE ~二度のグラミーのはざまで~
http://www.soulsearchin.com/soulsearchin/7.html
ナタリー・コール紆余曲折のソウル・サーチン・ストーリー。
■スティル・アンフォゲッタブル
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001DDNAOQ/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■アンフォゲッタブル
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005HECA/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ セットリスト
Setlist : Natalie Cole @ Cotton Club, May 27 2010
show started 21:33
01. Antidote (instrumental)
02. My Favorite Things
03. This Can’t Be Love
04. Better Than Anything
05. Almost Like Being A Lover
06. Summer Sun
07. Coffee Time
08. Love Is Here To Stay
09. Smile
10. Somewhere Along The Way
11. Unforgettable (with Nat King Cole on the screen)
12. Root 66
13. Love – Mack The Knife – Love
Enc1. Orange Corner Sky
Enc2. This Will Be
Show ended 22:41
(2010年5月27日木曜、丸の内コットンクラブ=ナタリー・コール・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Cole, Natalie
■「セックス&ザ・シティ2」~4人のソウルメイトたちの中東大冒険
2010年5月29日 音楽■「セックス&ザ・シティ2」~4人のソウルメイトたちの中東大冒険
【”Sex & The City 2”~Adventure Of 4 Soul Mates In Middle East】
金属探知機。
人気テレビ・シリーズから劇場用映画『セックス・アンド・ザ・シティ』になったその第二弾『セックス・アンド・ザ・シティ2』が2010年6月4日(金)から公開される。その試写会が5月28日(金)丸の内ルーブルで行われた。会場に着くと「すでにお立ち見になっております」のアナウンス。さらに、入口では入念なボディー・チェックと荷物チェック。ボディー・チェックは金属探知機で体を調べられる。僕のも右のポケットで鍵が反応し、左のポケットで携帯電話が反応。それを両手で持って、音なしになってやっと中に入れた。どうやらデジカメなどを中に持ち込ませなかったようだ。預けたカメラを映画終了後返していたのでそれがわかった。金属探知機で体を調べられたのは、どこか海外に行く飛行場以来だ。(笑)
ストーリーは、久々に友人の結婚式で再会した4人から始まる。この結婚式というのが、ゲイ・カップルの結婚式で、これがおもしろい。その後、キャリー(作家)、サマンサ(会社社長)、ミランダ(弁護士)、シャーロット(専業主婦)らの生活ぶりが紹介され、サマンサが中東の大金持ちから、アラブ首長国連邦(UAE)への旅行をプレゼントされ、物語が進む。
彼が持つホテルでの滞在、彼が持つ航空会社のファーストクラスでのフライト、専用の執事、それぞれの専用車などもあてがわれ、豪華絢爛なひとときを過ごす。ここで、文化の違いやちょっとしたことから、いくつかの事件が起きる。一言で言えば、4人の超仲良し(ソウルメイト)の中東大冒険だ。
ストーリーはどうということはないが、この映画の見所は、超リッチなホテル(こんなホテルに泊まってみたいと思わせられる=ちなみに一泊2万2千ドル・200万円というのが最後に明かされる)、アラブの国(実際のロケはモロッコ)のエキゾチックな雰囲気(こんなところに行ってみたいと思わせられる)、砂漠でのラクダに乗ってのリッチなピクニック(こんなことをやってみたいと思わせられる)、そして4人のファッション、ジュエリーなどなど、女性ファンを惹きつける贅沢三昧のマテリアル・ワールドだ。そして、サマンサの自由奔放なセックスぶり、シャーロットのベイビーシッターのお色気路線も強調されている。サマンサのデタラメっぷりがマンガちっくでおもしろい。
サントラで最大の聞き物は、アリシア・キーズが歌う「ラプチャー」。1981年のブロンディーをアリシアがカヴァーしたもの。これに、「セックス・アンド・ザ・シティ」のテーマ曲をうまくまぜあわせている。(マッシュアップしている)そして、もう一曲、個人的に気に入ったのが、サントラ2曲目に入っているイギリスのダイドが歌う「エヴリシング・トゥ・ルーズ」。エレクトリック・サウンドのシンプルで無機質なヴォーカルが印象的で、この1週間ほど僕のカーステレオでのへヴィー・ローテーションになっている。映画では、キャリーとサマンサがショッピングするシーンで薄く流れていた。もっといい形で露出すればよかったのにと思った。
ちなみに、僕は男なのであくまで男目線の感想になっているが、女性はきっともっと違った感想を持つにちがいない。観客は8割がた若い女性だったように思えた。
●映画『セックス・アンド・ザ・シティ2』は2010年6月4日(金)から丸の内ルーブルなどでロードショー
●『セックス・アンド・ザ・シティ2』のサウンドトラックを、2010年5月30日日曜、インターFM『ソウル・ブレンズ』[午後1時~3時]内「ソウル・サーチン」のコーナー[午後2時半から]で紹介します
■『セックス・アンド・ザ・シティ2』(サウンドトラック)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003JEHCMI/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■映画『セックス・アンド・ザ・シティ』DVD
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003J99GOA/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■『セックス・アンド・ザ・シティ』(ボックスセット)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002LBJMVY/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>MOVIE>Sex & The City 2
【”Sex & The City 2”~Adventure Of 4 Soul Mates In Middle East】
金属探知機。
人気テレビ・シリーズから劇場用映画『セックス・アンド・ザ・シティ』になったその第二弾『セックス・アンド・ザ・シティ2』が2010年6月4日(金)から公開される。その試写会が5月28日(金)丸の内ルーブルで行われた。会場に着くと「すでにお立ち見になっております」のアナウンス。さらに、入口では入念なボディー・チェックと荷物チェック。ボディー・チェックは金属探知機で体を調べられる。僕のも右のポケットで鍵が反応し、左のポケットで携帯電話が反応。それを両手で持って、音なしになってやっと中に入れた。どうやらデジカメなどを中に持ち込ませなかったようだ。預けたカメラを映画終了後返していたのでそれがわかった。金属探知機で体を調べられたのは、どこか海外に行く飛行場以来だ。(笑)
ストーリーは、久々に友人の結婚式で再会した4人から始まる。この結婚式というのが、ゲイ・カップルの結婚式で、これがおもしろい。その後、キャリー(作家)、サマンサ(会社社長)、ミランダ(弁護士)、シャーロット(専業主婦)らの生活ぶりが紹介され、サマンサが中東の大金持ちから、アラブ首長国連邦(UAE)への旅行をプレゼントされ、物語が進む。
彼が持つホテルでの滞在、彼が持つ航空会社のファーストクラスでのフライト、専用の執事、それぞれの専用車などもあてがわれ、豪華絢爛なひとときを過ごす。ここで、文化の違いやちょっとしたことから、いくつかの事件が起きる。一言で言えば、4人の超仲良し(ソウルメイト)の中東大冒険だ。
ストーリーはどうということはないが、この映画の見所は、超リッチなホテル(こんなホテルに泊まってみたいと思わせられる=ちなみに一泊2万2千ドル・200万円というのが最後に明かされる)、アラブの国(実際のロケはモロッコ)のエキゾチックな雰囲気(こんなところに行ってみたいと思わせられる)、砂漠でのラクダに乗ってのリッチなピクニック(こんなことをやってみたいと思わせられる)、そして4人のファッション、ジュエリーなどなど、女性ファンを惹きつける贅沢三昧のマテリアル・ワールドだ。そして、サマンサの自由奔放なセックスぶり、シャーロットのベイビーシッターのお色気路線も強調されている。サマンサのデタラメっぷりがマンガちっくでおもしろい。
サントラで最大の聞き物は、アリシア・キーズが歌う「ラプチャー」。1981年のブロンディーをアリシアがカヴァーしたもの。これに、「セックス・アンド・ザ・シティ」のテーマ曲をうまくまぜあわせている。(マッシュアップしている)そして、もう一曲、個人的に気に入ったのが、サントラ2曲目に入っているイギリスのダイドが歌う「エヴリシング・トゥ・ルーズ」。エレクトリック・サウンドのシンプルで無機質なヴォーカルが印象的で、この1週間ほど僕のカーステレオでのへヴィー・ローテーションになっている。映画では、キャリーとサマンサがショッピングするシーンで薄く流れていた。もっといい形で露出すればよかったのにと思った。
ちなみに、僕は男なのであくまで男目線の感想になっているが、女性はきっともっと違った感想を持つにちがいない。観客は8割がた若い女性だったように思えた。
●映画『セックス・アンド・ザ・シティ2』は2010年6月4日(金)から丸の内ルーブルなどでロードショー
●『セックス・アンド・ザ・シティ2』のサウンドトラックを、2010年5月30日日曜、インターFM『ソウル・ブレンズ』[午後1時~3時]内「ソウル・サーチン」のコーナー[午後2時半から]で紹介します
■『セックス・アンド・ザ・シティ2』(サウンドトラック)
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■映画『セックス・アンド・ザ・シティ』DVD
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■『セックス・アンド・ザ・シティ』(ボックスセット)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002LBJMVY/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>MOVIE>Sex & The City 2
●フィリー特集(パート2): 「ソウル・サーチン~ジョン・ホワイトヘッド」
2010年5月28日 音楽●フィリー特集(パート2): 「ソウル・サーチン~ジョン・ホワイトヘッド」
(昨日からのつづき)
【5 Classic Philly Albums Released As Paper-Sleeve CD】
フィリー。
ソウル・サーチン・フィリー特集。その第一弾は、僕にとっても大変思い入れのあるマクファデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドのインタヴューに基づく「ソウル・サーチン」のパート2。ジョンの「ソウル・サーチン」は、ご存知の通り拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(2000年7月刊行)の第一章を飾る作品。僕はジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わった。『ソウル・サーチン』は全7編のうち4編をネット公開していたが、このジョンの物語はまだネットでは公開していなかったもの。
マクファデン&ホワイトヘッドの傑作「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」はいかにして誕生したか。彼らがいかにして売れっ子ソングライターとなっていったか。そして、ソロへの道。ジョンの回顧から、彼らの歴史を深く探る。(なお、このヴァージョンは、書籍に掲載されたものを少し短縮してあります)
■マクファデン&ホワイトヘッド(2010年5月26日発売=紙ジャケット)(2人とも今となっては故人。それも歴史の流れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003E838D6/soulsearchiho-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank
(長い下積みを経て、マクファデン&ホワイトヘッドの2人は、ソングライターとして、オージェイズの「バックスタバーズ(裏切り者のテーマ)」でついに初の大ヒットを手に入れる)
ACT 3 ★ よみがえるステージでの興奮
ソングライターとして売れていくと、彼らは次第にかつて自分たちがステージに立って歌っていたことを思い出すようになった。オーティスのバックとして、1万人もの人たちの前で歌った瞬間の興奮がよみがえるようになった。ステージにあがり、観客から素晴らしいリアクションを得たときの快感は、体験したものしかわからない。そしていつしか、彼らは再びその快感を得たいと考えるようになった。裏方ではなく、自分たちで自分たちの歌を自由に自分たちのスタイルで歌いたいと思い始めたのである。
ジョンとジーンはギャンブル・アンド・ハフに頼み込んだ。「今度はオレたちにも歌わせてくださいよ」と。しかし、彼らはそれを認めようとしなかった。
ハフは言った。
「いいかね。お前たちはこんなに曲を書いてそれがヒットして金もどんどんはいってくるじゃないか。この仕事がよく出来るんだから、これをどんどん続けたまえ。お前たちは別にシンガーになる必要なんかない」
だが、ジョンとジーンにはステージ上で闇のかなたから差し込むスポット・ライトに身を委ねる自分たちの姿が懐かしかった。
ジョンとジーンは粘り強く説得を続けた。その結果、ついにハフたちは折れた。
「よろしい。じゃあまず1曲、レコーディングしてこい。その出来がよければ何か歌わせてやろうじゃないか」
ジョンとジーンはすぐにスタジオに行き、彼らの思いと決意を託した歌をレコーディングした。彼らの気持ちはこうだった。「オレたちは曲を書いていれば歌を歌わなくていいといわれた。だが、オレたちは歌を自分たちで作り、自分たちで歌ってレコーディングしたい。オレたちはだれが何と言おうと、それをやるんだ。もう何ものもオレたちを止めることは出来ないぞ」
それはあたかも堰(せき)で止められていた大量の水が、堰を開けられたことによって、どっと下流に流れ出していくような爆発力を伴った激流さながらであった。
そして、彼らの思いは何ものも僕たちを止めることは出来ない、すなわち「エイント・ノー・ストッピング・アス・ナウ」という曲に結実した。
この曲の歌詞を注意深く聴くと、ジョン・ホワイトヘッドとジーン・マクファーデンのその時の心模様が手に取るようにわかる。
すなわち、「そこにはいろいろな障害があったけれど、ついにそれも乗り越えた。だがこれからの道のりは長い。もう後戻りは決してしない。そして何もオレたちを止めることは出来ない(エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ)」と力強く歌ったのである。
ミディアム調で、非常にエネルギーがあり、ダンス・ソングとしても、これは文句なしだった。曲調も聴くだけで、思わず浮き浮きしてしまうようなリズムをもった作品で、しかも、非常に前向きなメッセージが人々の心に触れた。文字通り、「元気がでる一曲」だ。
このレコードは1979年春に全米発売され、すぐにソウル・ラジオ局やディスコでも大ヒット、ソウル・チャートなどで一位となり、さらにポップ部門でも大ヒット、ミリオン・セラーを記録、彼らの十八番となった。ニューヨークの人気ラジオ局WBLSは、この曲を「アワ・ナショナル・アンセム(当WBLS局の国歌」として、繰り返し流した。さらに、この曲の人気は高まり、スペイン語盤、そしてラップ盤まで制作された。
マクファーデン・アンド・ホワイトヘッドは、この大ヒットによってついにビハインド・ザ・シーンから表舞台に躍り出た。自らの力で、成功と栄光を獲得したのだった。
この頃、僕はニューヨークの友人から定期的にWBLS局のテープを送ってもらっていた。そして、一時期、この「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が本当に頻繁にはいっていた。しかも、この曲にはアルバム・ヴァージョンと違うさらに強力な12インチ・ヴァージョンが作られ、その10分近くになるフル・コーラスが頻繁にオン・エアされていたのである。そのインパクトは、強烈で、いまだにこの曲を聴くと、ニューヨークの摩天楼が条件反射的に僕の脳裏に浮かぶほどである。
ACT 4 ★ 成功の落とし穴
「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が大ヒットして、彼らはツアーにでたり、テレビに出演したり、文字どおり、スターになった。このヒットのおかげで、他のアーティストからのプロデュースの依頼も激増し、彼らのスケジュールは見る見る内に埋まっていった。仕事をすればするほど、金も入ってきた。ジョンは生まれて初めて「成功の優雅な甘さ」を味わいつつあった。
しかし、ジョンにはその「成功という甘さ」が、手のひらから水が溢れるように、はかなく消え去り、さらには激痛を伴った苦さに変化していくことになるとは予想だにしなかった。
彼の頭の中には「税金を払う」という概念がまったくなかったのだ。
彼はレコードの作詞作曲者としての印税、あるいはレコーディング・アーティストとしての印税、ステージのギャラ等あらゆる収入をまったく申告せずに税金を収めなかったのである。
アメリカでは税金は日本のように源泉されず、それぞれが自己申告して払うシステムになっている。そこでもし自己申告をしなければ、当然そのときは税金を払わずにすむ。だが、彼のように多額の収入があれば、当然IRS(インターナル・レベニュー・サーヴィス。日本での税務署にあたる)が調査に動き出すことになる。
ジョンは1972年に「バックスタバーズ」を書いて以来収入が激増した。
ジョンがこう振り返る。
「オレは貧しい家に生まれたので、チェックを受け取るとすぐにいい車を買ったり、かっこいい洋服を買ったり、いわゆる物質的なものを求めたんだ。そして次に金額の大きなチェックが来れば今度は家を買おうとか、他の金持ちの連中がやっているようにいいものを買ってしまったんだ」
彼の脱税がIRSに証明されるのにはほとんど時間がかからなかった。彼はIRSから起訴され、税金を申告しなかった点について、犯罪として認定され、約二年の実刑判決が下った。
しかも、実刑は、脱税についての部分であり、それによって、税金支払いが免れるというものではなかった。つまり、実刑を受けても、脱税分の借金は、年ごとに利息が付いて、毎年膨れ上がっていったのである。
彼は、それまでに自分が手に入れたものを、すべて失ってしまった。ラッグス(貧困)から始まりリッチス(金持ち)になったかと思った瞬間、リッチスから、再び、ラッグスへ転落の人生となった。1984年のことである。
だがジョンは前向きな考え方を持った男だった。
「ムショにはいったということは」と彼は笑いながら続ける。「オレにとって良い経験だったよ。まず何よりも、オレの生き方、生活のペースをスロー・ダウンさせることができた。第二に、一人きりで多くの時間を過ごし、その間にオレは自分のソウル・サーチンをする時間を持てたんだ。ムショに行ったことは、ある意味で再び大学に行ったような感じもするんだ。大学に行き、文学に接したり、いろいろ学んだり。オレはその間、小説を書いたり、映画の脚本のような物を書いたりした。そうしているうちにオレはジョン・ホワイトヘッドの責任感というものを考えるようになった」
上り続けているときには、わからないことが、ひとたび下がり始めるとわかりだしたりする。ジョンは、あらゆる意味での自分の責任というものを痛感した。子供に対する責任、妻に対する責任、仕事に対する責任、そして、社会に対する責任。自分は、それまでの人生でそうした責任をまっとうしてきただろうかと彼は自問自答した。
ACT 5 ★ 君のためのホーム
ジョン・ホワイトヘッドとジーン・マクファーデンの二人は、80年代初めに女性シンガー/エンタテイナーとして有名なメルバ・ムーアのアルバムをプロデュースした。このアルバムはニューヨークを中心に大ヒットとなったが、この時彼らに仕事を依頼したのがメルバの所属しているハッシュ・プロダクションだった。
ハッシュ・プロはもともとメルバ・ムーアの夫であるチャールズ・ハギンズがメルバをマネージするために設立した会社で、チャールズはこのジョンとジーンの才能を高く評価してくれた。そして、ジョンが刑務所にいる間でもいつもジョンのことを信じ、サポートしてくれていた。
ジョンが振り返る。
「チャールズはオレのことを本当に信じてくれた人物の一人だ。つまりオレなら出来るということを信じてくれた。オレが刑務所にいる間でも連絡してくれ、こんなことを言ってくれた。『君がムショを出たら、私はここに君のためのホーム(家)を用意してあるからね(I have a home for you)』 これにはオレ自身、本当に感動した。自分自身のことを信じるのはもちろん大事だ。だが、誰か他の人間に自分のことを信じさせることは、もっと重要だ。それは自分の後援者を作るということでもある。そして結局、刑務所から出てチャールズはオレのためにレコーディング契約をしてくれたんだ。これはソロ契約だ。オレは今までずっとソロ・アルバムを作りたいと思っていた。自分自身のことを表現したいし、ジーンと一緒にも又何かをやりたかった。そしてポリグラムがオレと契約してくれオレに再びチャンスが与えられたのだ」
彼は18ヶ月間刑務所に入り、1986年、社会復帰した。だが、彼にはいまだに政府に対して100万ドル以上の負債が残っており、これを少しずつでも返済していかなければならない。ジョンがこう事情を説明する。
「オレの場合は、未払いの税金に対して毎日その利息と反則金が足されて、とてつもなく大きな金額になっていったんだ。実際のところ今すぐには100万ドルなんてオレはとてもじゃいないけど払うすべがない。だがIRSとは話し合って、ある種の妥協点を探った。つまり、今年オレがいくらか稼いだら、それをIRSに差し出す。そして新たに出発するというものだ。そして少しずつ返していくというわけさ」
しかしジョンは自分に対して自信を持っている。
「100万ドル以上の負債。だが、オレは自分に自信と信念を持っている。オレは必ず、払ってみせる。オレはオレの人生を、もし可能ならばより大きな成功のレベルで続けたいし、オレはそのために努力しつづけるよ。この金額というのはオレに課せられた宿命とでも言うのかな。だからオレは遊んでいるヒマはないし、自分自身で楽しむようなヒマもない。オレは毎日曲を書いている。IRSもオレがやろうとしていることをわかってくれているし、彼らがオレから金を取る手段はそれしか無い、ということも知っているのだ。つまりオレのクリエイティブな才能を使うということさ」
さらにジョンは続ける。
「オレは確かに人生において無責任だった部分について、そして、それによって刑務所に18ヶ月も入ってしまったことについては後悔している。その期間、オレには『ちょっと待てよ、オレは立派な男なのか、それとも子供なのか』ということを自分自身に問い正した。そしてその時ゆっくり自分自身の人生の値踏みをしたんだ。そして今度やり直すときにはちゃんとしたビジネスに関わり、『モンキー・ビジネス』(いんちきのビジネス)には手を出さないようにしようと決めたんだ。あの頃は本当に稼いだ金は全部使って、もうモンキー・ビジネスと同じだったよ。(笑い) この人生を生きていくためには二つの事を選ばなければならない。税金を払うか、死ぬかのどっちかさ。(笑い)」
ACT 6 ★ 悔いなき音楽人生
ヒットして以来15年以上が経つ「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」は、今やクラシックとして、若手のラッパーなどによってカヴァーされている。この曲や「バックスタバーズ」、あるいはハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツの「バッド・ラック」などを聴くたびに、僕はあのジョンの快活で、前向きなキャラクターを思い出す。
ジョン・ホワイトヘッド。彼は今、自分が犯した過ちをしっかりと認識している。
「オレは確かに過ちを犯してきた。そしてその償いもした。だが、オレは今まで歩んできた音楽人生は間違いなかった、と思っている。それにオレは自分が生きていくうえで誰かの足を踏み付けたり、誰か人を押し退けて進んできたりはしなかった。音楽を通して出会った人たち、作ってきた曲、歌ってきた曲。それらは今のオレの人生を導いてくれたわけだが、そうした人たちや音楽に対してはまったく後悔していないよ」
ハッシュ・プロダクションを通じて制作された彼の初めてのソロ・アルバムは1988年4月、ポリグラムから発売された。そのアルバムからの最初のシングルは、やはり、彼のそのときの本心を吐露した物だった。
タイトルは、シンプルにそしてダイレクトに「アイ・ニード・マネー、バッド」(オレには金が本当に必要)というものだった。ジョンには税金を払うために金が必要なのだ。 ジョンは、やっと、かつて恩師オーティス・レディングが口をすっぱくして言っていた「ビジネスは面白おかしいものではなく、真剣に取り組むものだ」という教えがようやく身にしみて理解出来たのである。
そこまでたどり着くために、彼には20年という年月が必要であった。だが、彼の新たなるソウル・サーチンの旅はまだはじまったばかりだ。
エピローグ ★
人は人生を様々なところで学ぶ。ある者は家庭で、ある者は学校で、ある者はストリートで。そして、ジョンは刑務所でそれを学んだ。しかし、どこで人生を学ぼうと、学んだ教訓は、その人間の血となり肉となる。ジョンの血潮には、多くの教訓が刷り込まれている。
フィラデルフィアのサーティース・ステーションからは、今日も、何本もの列車が出発し、新たなる旅路につく。列車に乗る人々の思いや目的は、みな違う。喜びと希望を胸に列車に乗る人、絶望と悲しみにくれながら列車に乗る人、様々だ。人生の側線から、一度は本線に飛び出たジョン。そしえtまた、回り道をして側線に戻ってしまったジョン。改めて、サーティース・ストリート・ステーションからジョンが乗る列車は、再び「栄光」という名の終着駅に到達することができるのだろうか。
「本当にすばらしい話をありがとう」と僕が言いながら右手を差し出すと、ジョンは「どういたしまして」と手を握り返してきた。それは、大きく、こちらの手がつぶれてしまうのではないかと思うほど実に力強かった。この力強さをもってすれば、彼は長いいばらの道であろうと、きっとくじけずに新たな終着駅に向かってス好くことができるだろうと思った。
「また機会があったら、話をしたいな」と僕が言うと、彼はにこにこしながら軽く返答した。「いつでも(anytime)!」
インタヴューを終えて、ケヴィンのオフィースに立ち寄ると彼は電話中だった。「ジョンを紹介してくれてありがとう」と言うと、彼は手を上げて「またな」といったしぐさで答えた。その日僕は、偶然にもスリルに満ちたインタヴューという生き物と遭遇した。ホテルに向かうマンハッタンのでこぼこの歩道を、宝物のような話を聞くことができた満足感を抱えて歩いた。僕の頭の中には、彼らの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」のメロディーが響き渡っていた…。
(「ソウル・サーチン~第一章・ジョン・ホワイトヘッド・短縮版・終了」
オリジナルのフル・ヴァージョンは2000年7月刊行の『ソウル・サーチン』に収録されています。インタヴュー自体は1988年3月)
ジョン・ホワイトヘッドは、2004年5月11日、フィラデルフィアで暴漢に銃撃され死去。55歳。ジーン・マクファーデンは、2006年1月27日がんのため死去。56歳。
2004/05/13 (Thu)
John Whitehead Shot Dead
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040513.html
January 30, 2006
Philly Great Gene McFadden Dies At 56
http://blog.soulsearchin.com/archives/000804.html
ENT>ARTIST>McFadden & Whitehead
(昨日からのつづき)
【5 Classic Philly Albums Released As Paper-Sleeve CD】
フィリー。
ソウル・サーチン・フィリー特集。その第一弾は、僕にとっても大変思い入れのあるマクファデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドのインタヴューに基づく「ソウル・サーチン」のパート2。ジョンの「ソウル・サーチン」は、ご存知の通り拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(2000年7月刊行)の第一章を飾る作品。僕はジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わった。『ソウル・サーチン』は全7編のうち4編をネット公開していたが、このジョンの物語はまだネットでは公開していなかったもの。
マクファデン&ホワイトヘッドの傑作「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」はいかにして誕生したか。彼らがいかにして売れっ子ソングライターとなっていったか。そして、ソロへの道。ジョンの回顧から、彼らの歴史を深く探る。(なお、このヴァージョンは、書籍に掲載されたものを少し短縮してあります)
■マクファデン&ホワイトヘッド(2010年5月26日発売=紙ジャケット)(2人とも今となっては故人。それも歴史の流れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003E838D6/soulsearchiho-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank
(長い下積みを経て、マクファデン&ホワイトヘッドの2人は、ソングライターとして、オージェイズの「バックスタバーズ(裏切り者のテーマ)」でついに初の大ヒットを手に入れる)
ACT 3 ★ よみがえるステージでの興奮
ソングライターとして売れていくと、彼らは次第にかつて自分たちがステージに立って歌っていたことを思い出すようになった。オーティスのバックとして、1万人もの人たちの前で歌った瞬間の興奮がよみがえるようになった。ステージにあがり、観客から素晴らしいリアクションを得たときの快感は、体験したものしかわからない。そしていつしか、彼らは再びその快感を得たいと考えるようになった。裏方ではなく、自分たちで自分たちの歌を自由に自分たちのスタイルで歌いたいと思い始めたのである。
ジョンとジーンはギャンブル・アンド・ハフに頼み込んだ。「今度はオレたちにも歌わせてくださいよ」と。しかし、彼らはそれを認めようとしなかった。
ハフは言った。
「いいかね。お前たちはこんなに曲を書いてそれがヒットして金もどんどんはいってくるじゃないか。この仕事がよく出来るんだから、これをどんどん続けたまえ。お前たちは別にシンガーになる必要なんかない」
だが、ジョンとジーンにはステージ上で闇のかなたから差し込むスポット・ライトに身を委ねる自分たちの姿が懐かしかった。
ジョンとジーンは粘り強く説得を続けた。その結果、ついにハフたちは折れた。
「よろしい。じゃあまず1曲、レコーディングしてこい。その出来がよければ何か歌わせてやろうじゃないか」
ジョンとジーンはすぐにスタジオに行き、彼らの思いと決意を託した歌をレコーディングした。彼らの気持ちはこうだった。「オレたちは曲を書いていれば歌を歌わなくていいといわれた。だが、オレたちは歌を自分たちで作り、自分たちで歌ってレコーディングしたい。オレたちはだれが何と言おうと、それをやるんだ。もう何ものもオレたちを止めることは出来ないぞ」
それはあたかも堰(せき)で止められていた大量の水が、堰を開けられたことによって、どっと下流に流れ出していくような爆発力を伴った激流さながらであった。
そして、彼らの思いは何ものも僕たちを止めることは出来ない、すなわち「エイント・ノー・ストッピング・アス・ナウ」という曲に結実した。
この曲の歌詞を注意深く聴くと、ジョン・ホワイトヘッドとジーン・マクファーデンのその時の心模様が手に取るようにわかる。
すなわち、「そこにはいろいろな障害があったけれど、ついにそれも乗り越えた。だがこれからの道のりは長い。もう後戻りは決してしない。そして何もオレたちを止めることは出来ない(エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ)」と力強く歌ったのである。
ミディアム調で、非常にエネルギーがあり、ダンス・ソングとしても、これは文句なしだった。曲調も聴くだけで、思わず浮き浮きしてしまうようなリズムをもった作品で、しかも、非常に前向きなメッセージが人々の心に触れた。文字通り、「元気がでる一曲」だ。
このレコードは1979年春に全米発売され、すぐにソウル・ラジオ局やディスコでも大ヒット、ソウル・チャートなどで一位となり、さらにポップ部門でも大ヒット、ミリオン・セラーを記録、彼らの十八番となった。ニューヨークの人気ラジオ局WBLSは、この曲を「アワ・ナショナル・アンセム(当WBLS局の国歌」として、繰り返し流した。さらに、この曲の人気は高まり、スペイン語盤、そしてラップ盤まで制作された。
マクファーデン・アンド・ホワイトヘッドは、この大ヒットによってついにビハインド・ザ・シーンから表舞台に躍り出た。自らの力で、成功と栄光を獲得したのだった。
この頃、僕はニューヨークの友人から定期的にWBLS局のテープを送ってもらっていた。そして、一時期、この「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が本当に頻繁にはいっていた。しかも、この曲にはアルバム・ヴァージョンと違うさらに強力な12インチ・ヴァージョンが作られ、その10分近くになるフル・コーラスが頻繁にオン・エアされていたのである。そのインパクトは、強烈で、いまだにこの曲を聴くと、ニューヨークの摩天楼が条件反射的に僕の脳裏に浮かぶほどである。
ACT 4 ★ 成功の落とし穴
「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が大ヒットして、彼らはツアーにでたり、テレビに出演したり、文字どおり、スターになった。このヒットのおかげで、他のアーティストからのプロデュースの依頼も激増し、彼らのスケジュールは見る見る内に埋まっていった。仕事をすればするほど、金も入ってきた。ジョンは生まれて初めて「成功の優雅な甘さ」を味わいつつあった。
しかし、ジョンにはその「成功という甘さ」が、手のひらから水が溢れるように、はかなく消え去り、さらには激痛を伴った苦さに変化していくことになるとは予想だにしなかった。
彼の頭の中には「税金を払う」という概念がまったくなかったのだ。
彼はレコードの作詞作曲者としての印税、あるいはレコーディング・アーティストとしての印税、ステージのギャラ等あらゆる収入をまったく申告せずに税金を収めなかったのである。
アメリカでは税金は日本のように源泉されず、それぞれが自己申告して払うシステムになっている。そこでもし自己申告をしなければ、当然そのときは税金を払わずにすむ。だが、彼のように多額の収入があれば、当然IRS(インターナル・レベニュー・サーヴィス。日本での税務署にあたる)が調査に動き出すことになる。
ジョンは1972年に「バックスタバーズ」を書いて以来収入が激増した。
ジョンがこう振り返る。
「オレは貧しい家に生まれたので、チェックを受け取るとすぐにいい車を買ったり、かっこいい洋服を買ったり、いわゆる物質的なものを求めたんだ。そして次に金額の大きなチェックが来れば今度は家を買おうとか、他の金持ちの連中がやっているようにいいものを買ってしまったんだ」
彼の脱税がIRSに証明されるのにはほとんど時間がかからなかった。彼はIRSから起訴され、税金を申告しなかった点について、犯罪として認定され、約二年の実刑判決が下った。
しかも、実刑は、脱税についての部分であり、それによって、税金支払いが免れるというものではなかった。つまり、実刑を受けても、脱税分の借金は、年ごとに利息が付いて、毎年膨れ上がっていったのである。
彼は、それまでに自分が手に入れたものを、すべて失ってしまった。ラッグス(貧困)から始まりリッチス(金持ち)になったかと思った瞬間、リッチスから、再び、ラッグスへ転落の人生となった。1984年のことである。
だがジョンは前向きな考え方を持った男だった。
「ムショにはいったということは」と彼は笑いながら続ける。「オレにとって良い経験だったよ。まず何よりも、オレの生き方、生活のペースをスロー・ダウンさせることができた。第二に、一人きりで多くの時間を過ごし、その間にオレは自分のソウル・サーチンをする時間を持てたんだ。ムショに行ったことは、ある意味で再び大学に行ったような感じもするんだ。大学に行き、文学に接したり、いろいろ学んだり。オレはその間、小説を書いたり、映画の脚本のような物を書いたりした。そうしているうちにオレはジョン・ホワイトヘッドの責任感というものを考えるようになった」
上り続けているときには、わからないことが、ひとたび下がり始めるとわかりだしたりする。ジョンは、あらゆる意味での自分の責任というものを痛感した。子供に対する責任、妻に対する責任、仕事に対する責任、そして、社会に対する責任。自分は、それまでの人生でそうした責任をまっとうしてきただろうかと彼は自問自答した。
ACT 5 ★ 君のためのホーム
ジョン・ホワイトヘッドとジーン・マクファーデンの二人は、80年代初めに女性シンガー/エンタテイナーとして有名なメルバ・ムーアのアルバムをプロデュースした。このアルバムはニューヨークを中心に大ヒットとなったが、この時彼らに仕事を依頼したのがメルバの所属しているハッシュ・プロダクションだった。
ハッシュ・プロはもともとメルバ・ムーアの夫であるチャールズ・ハギンズがメルバをマネージするために設立した会社で、チャールズはこのジョンとジーンの才能を高く評価してくれた。そして、ジョンが刑務所にいる間でもいつもジョンのことを信じ、サポートしてくれていた。
ジョンが振り返る。
「チャールズはオレのことを本当に信じてくれた人物の一人だ。つまりオレなら出来るということを信じてくれた。オレが刑務所にいる間でも連絡してくれ、こんなことを言ってくれた。『君がムショを出たら、私はここに君のためのホーム(家)を用意してあるからね(I have a home for you)』 これにはオレ自身、本当に感動した。自分自身のことを信じるのはもちろん大事だ。だが、誰か他の人間に自分のことを信じさせることは、もっと重要だ。それは自分の後援者を作るということでもある。そして結局、刑務所から出てチャールズはオレのためにレコーディング契約をしてくれたんだ。これはソロ契約だ。オレは今までずっとソロ・アルバムを作りたいと思っていた。自分自身のことを表現したいし、ジーンと一緒にも又何かをやりたかった。そしてポリグラムがオレと契約してくれオレに再びチャンスが与えられたのだ」
彼は18ヶ月間刑務所に入り、1986年、社会復帰した。だが、彼にはいまだに政府に対して100万ドル以上の負債が残っており、これを少しずつでも返済していかなければならない。ジョンがこう事情を説明する。
「オレの場合は、未払いの税金に対して毎日その利息と反則金が足されて、とてつもなく大きな金額になっていったんだ。実際のところ今すぐには100万ドルなんてオレはとてもじゃいないけど払うすべがない。だがIRSとは話し合って、ある種の妥協点を探った。つまり、今年オレがいくらか稼いだら、それをIRSに差し出す。そして新たに出発するというものだ。そして少しずつ返していくというわけさ」
しかしジョンは自分に対して自信を持っている。
「100万ドル以上の負債。だが、オレは自分に自信と信念を持っている。オレは必ず、払ってみせる。オレはオレの人生を、もし可能ならばより大きな成功のレベルで続けたいし、オレはそのために努力しつづけるよ。この金額というのはオレに課せられた宿命とでも言うのかな。だからオレは遊んでいるヒマはないし、自分自身で楽しむようなヒマもない。オレは毎日曲を書いている。IRSもオレがやろうとしていることをわかってくれているし、彼らがオレから金を取る手段はそれしか無い、ということも知っているのだ。つまりオレのクリエイティブな才能を使うということさ」
さらにジョンは続ける。
「オレは確かに人生において無責任だった部分について、そして、それによって刑務所に18ヶ月も入ってしまったことについては後悔している。その期間、オレには『ちょっと待てよ、オレは立派な男なのか、それとも子供なのか』ということを自分自身に問い正した。そしてその時ゆっくり自分自身の人生の値踏みをしたんだ。そして今度やり直すときにはちゃんとしたビジネスに関わり、『モンキー・ビジネス』(いんちきのビジネス)には手を出さないようにしようと決めたんだ。あの頃は本当に稼いだ金は全部使って、もうモンキー・ビジネスと同じだったよ。(笑い) この人生を生きていくためには二つの事を選ばなければならない。税金を払うか、死ぬかのどっちかさ。(笑い)」
ACT 6 ★ 悔いなき音楽人生
ヒットして以来15年以上が経つ「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」は、今やクラシックとして、若手のラッパーなどによってカヴァーされている。この曲や「バックスタバーズ」、あるいはハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツの「バッド・ラック」などを聴くたびに、僕はあのジョンの快活で、前向きなキャラクターを思い出す。
ジョン・ホワイトヘッド。彼は今、自分が犯した過ちをしっかりと認識している。
「オレは確かに過ちを犯してきた。そしてその償いもした。だが、オレは今まで歩んできた音楽人生は間違いなかった、と思っている。それにオレは自分が生きていくうえで誰かの足を踏み付けたり、誰か人を押し退けて進んできたりはしなかった。音楽を通して出会った人たち、作ってきた曲、歌ってきた曲。それらは今のオレの人生を導いてくれたわけだが、そうした人たちや音楽に対してはまったく後悔していないよ」
ハッシュ・プロダクションを通じて制作された彼の初めてのソロ・アルバムは1988年4月、ポリグラムから発売された。そのアルバムからの最初のシングルは、やはり、彼のそのときの本心を吐露した物だった。
タイトルは、シンプルにそしてダイレクトに「アイ・ニード・マネー、バッド」(オレには金が本当に必要)というものだった。ジョンには税金を払うために金が必要なのだ。 ジョンは、やっと、かつて恩師オーティス・レディングが口をすっぱくして言っていた「ビジネスは面白おかしいものではなく、真剣に取り組むものだ」という教えがようやく身にしみて理解出来たのである。
そこまでたどり着くために、彼には20年という年月が必要であった。だが、彼の新たなるソウル・サーチンの旅はまだはじまったばかりだ。
エピローグ ★
人は人生を様々なところで学ぶ。ある者は家庭で、ある者は学校で、ある者はストリートで。そして、ジョンは刑務所でそれを学んだ。しかし、どこで人生を学ぼうと、学んだ教訓は、その人間の血となり肉となる。ジョンの血潮には、多くの教訓が刷り込まれている。
フィラデルフィアのサーティース・ステーションからは、今日も、何本もの列車が出発し、新たなる旅路につく。列車に乗る人々の思いや目的は、みな違う。喜びと希望を胸に列車に乗る人、絶望と悲しみにくれながら列車に乗る人、様々だ。人生の側線から、一度は本線に飛び出たジョン。そしえtまた、回り道をして側線に戻ってしまったジョン。改めて、サーティース・ストリート・ステーションからジョンが乗る列車は、再び「栄光」という名の終着駅に到達することができるのだろうか。
「本当にすばらしい話をありがとう」と僕が言いながら右手を差し出すと、ジョンは「どういたしまして」と手を握り返してきた。それは、大きく、こちらの手がつぶれてしまうのではないかと思うほど実に力強かった。この力強さをもってすれば、彼は長いいばらの道であろうと、きっとくじけずに新たな終着駅に向かってス好くことができるだろうと思った。
「また機会があったら、話をしたいな」と僕が言うと、彼はにこにこしながら軽く返答した。「いつでも(anytime)!」
インタヴューを終えて、ケヴィンのオフィースに立ち寄ると彼は電話中だった。「ジョンを紹介してくれてありがとう」と言うと、彼は手を上げて「またな」といったしぐさで答えた。その日僕は、偶然にもスリルに満ちたインタヴューという生き物と遭遇した。ホテルに向かうマンハッタンのでこぼこの歩道を、宝物のような話を聞くことができた満足感を抱えて歩いた。僕の頭の中には、彼らの「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」のメロディーが響き渡っていた…。
(「ソウル・サーチン~第一章・ジョン・ホワイトヘッド・短縮版・終了」
オリジナルのフル・ヴァージョンは2000年7月刊行の『ソウル・サーチン』に収録されています。インタヴュー自体は1988年3月)
ジョン・ホワイトヘッドは、2004年5月11日、フィラデルフィアで暴漢に銃撃され死去。55歳。ジーン・マクファーデンは、2006年1月27日がんのため死去。56歳。
2004/05/13 (Thu)
John Whitehead Shot Dead
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040513.html
January 30, 2006
Philly Great Gene McFadden Dies At 56
http://blog.soulsearchin.com/archives/000804.html
ENT>ARTIST>McFadden & Whitehead
⊿フィリー特集(パート1): アルバム5枚紙ジャケットで発売 ~「ソウル・サーチン~ジョン・ホワイトヘッド」
【5 Classic Philly Albums Released As Paper-Sleeve CD】
紙ジャケット。
1970年代に多くの良質なソウル・アルバムをリリースしたフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルからの作品のうち5枚が、紙ジャケットとなり、2010年5月26日、日本でリリースされた。アーティストは、マクファデン&ホワイトヘッド、オージェイズ、フューチャーズ、ジョーンズ・ガールズ、そして、パティ・ラベル。フィリー・ソウル紙ジャケとしては、2010年4月にテディー・ペンダーグラスの作品群が紙ジャケットでリリースされたのに続く。
ソウル・サーチンでは、これを記念して、フィリー特集をお送りする。その第一弾は、僕にとっても大変思い入れのあるマクファデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドのインタヴューに基づく「ソウル・サーチン」。ジョンの「ソウル・サーチン」は、ご存知の通り拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(2000年7月刊行)の第一章を飾る作品。僕はジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わった。『ソウル・サーチン』は全7編のうち4編をネット公開していたが、このジョンの物語はまだネットでは公開していなかったもの。
マクファデン&ホワイトヘッドの傑作「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」はいかにして誕生したか。彼らがいかにして売れっ子ソングライターとなっていったか。そして、ソロへの道。ジョンの回顧から、彼らの歴史を深く探る。(なお、このヴァージョンは、書籍に掲載されたものを少し短縮してあります) ぜひこのCDをお聴きなるとき、ジョンの話に耳を傾けてください。
■マクファデン&ホワイトヘッド(2010年5月26日発売=紙ジャケット)(2人とも今となっては故人。それも歴史の流れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003E838D6/soulsearchiho-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank
ソ ウ ル ・ サ ー チ ン~R&Bの心を求めて
第一章:ジョン・ホワイトヘッド (パート1)
【リード】
ソングライターとして成功を収めた一人の男。欲しいものは何でも手に入った。しかし、貧困ゆえの無知から彼は税金というものを払わなかった。税金を申告するということの重要さを知らなかった。そのため、彼は脱税で起訴され、その金額が大きかったことから刑務所入りという試練を体験する。彼の名はジョン・ホワイトヘッド。ラッグス・トゥ・リッチーズ(貧困から金持ちへ)、さらにラッグスへ舞い戻り。彼は一体、刑務所で一人になったときに自身の人生をどう振り返り、何を考えたか。その激変するソウルフルな生きざまのすべてーーー。
プロローグ ★ 回想
「ハロー、ケヴィン。今ニューヨークにいるんだ。明日、君のオフィースに遊びに行ってもいいかな」
「マサハル、元気か。是非来てくれ」
ニューヨークのホテルの一室からかけた先は、ハッシュ・プロダクションのオフィース。ケヴィンは、そこのマネジャーだ。もうかれこれ、5年のつきあいになり、ニューヨークに来るチャンスがあると、一度はオフィースに遊びに行くようになっていた。そのときも、何か最新情報でもないかと思って、彼のところに電話をいれてみたのだ。
翌日ミッドタウンの彼のオフィースに行き、しばらく談笑していると、一人のブラザーが入ってきた。ケヴィンが僕に彼を紹介してくれた。
「ジョン・ホワイトヘッドだ。こちらは、マサハル。日本からの友人だ」
背の高い体格のがっしりした人物だった。 「ジョン・ホワイトヘッド...。ひょっとして、あなたはマクファーデン・アンド・ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドですか?」
「オウ、そうだよ」
「時間、ありますか? インタヴューしてもいいかな?」
「ああ、いいよ」
あらかじめ予定され、時間が決められているインタヴューから必ずしも面白い話が聞けるとは限らない。一方、まったく予期せぬところで、インタヴューが始まり、その話が非常に面白いこともある。準備万端で臨んだインタヴューが盛り上がらず、ほとんど準備なしにぶっつけ本番で臨んだインタヴューから素晴らしいストーリーが聞ける時もある。たとえ同じ人物にインタヴューしても、二度と同じインタヴューはない。インタヴューは、瞬時に変化していくまさに生き物だ。生き物を相手にして行くからおもしろい。質問から未知の答えが引き出され、さらにその答えが次の質問の呼び水となる。だから、インタヴューはスリルと興奮に満ちた生き物だ。
こうして、部屋を移して、彼との予期せぬインタヴューが始まった。彼が自分のキャリアを順序だてて回想し始めた。
アメリカ建国の都市、フィラデルフィアは愛称を「シティー・オブ・ブラザリー・ラヴ」(兄弟愛の街)」という。ニューヨークからも電車で約2時間の距離にある。多くの観光客が、アメリカ発祥の地を見ようと、フィラデルフィアを訪れる。そのフィラデルフィアの中心地にサーティース・ストリート・ステーションがある。ニューヨークで言えば、グランド・セントラル・ステーションのようなあらゆる列車の出発点であり、アムトラックの長距離列車や市内の電車などが忙しく行き交う全米で二番目に乗降客が多い駅である。特急(「エキスプレス」)もあれば、各駅停車(「ローカル」)もある。特急が、各駅停車を抜かすとき、各駅停車は側線で待機し、特急が行きすぎるのを待つ。それは、人生にも似ている。ある者は、早く早く目的地に着こうと急ぐ。ある者は、急がず、ゆっくりと各駅停車で人生を歩む。また、ある者は、間違いを犯し、本線から外れてしまうこともある。
この物語の主人公、ジョン・ホワイトヘッドも、そのサーティース・ステーションから「栄光」という名の終着駅に向かって列車に飛び乗った男の一人だった。
ジョン・ホワイトヘッド(1948年7月10日生まれ)とジーン・マクファーデン(1949年7月2日生まれ=1948年生まれ説も)は、フィラデルフィアの小学校からの親友同士。二人とも1960年代のスーパースター、オーティス・レディングの大ファンで、彼のバック・コーラスや前座を務めたこともあった。二人はオーティスが1967年12月、不慮の飛行機事故で死亡する前に故郷に戻ってきており、以後はフィラデルフィアでシンガーとしてのキャリアを目指していた。彼らは地元の有力プロデューサー、ケニー・ギャンブルとリオン・ハフのコンビと知り合い、彼のもとで働くようになった。1971年のことである。
最初はレコーディング・アーティストとしてやってみようと思った彼らだが、なかなかヒットにも恵まれず、彼ら二人は、ギャンブル・アンド・ハフの元で、雑用の仕事をするようになった。そして、そのオフィースでジョンとジーンは彼らが曲作りをする方法を逐一観察するようになった。
その頃、彼ら二人は同じ安アパートに住んでいた。ジーンが15階、ジョンは4階の住人だった。あるとき仕事が終わってジョンがジーンの所に遊びにいった。
「なあ、ジーン。彼らは毎日曲を書いているよな。だけどオレたちもあれなら出来るぜ。毎日見てるが簡単なもんだ。彼らがやっていることといえば、何か適当なタイトルを見つけ、それに曲をつけるだけだ。リオン・ハフがこんな事を言っていた。『最高にいいタイトルはワン・ワード(一語)のタイトルだ』とね。なぜならすぐに覚えられるからだ。そこでまずタイトルを何か決め、そしてそれにストーリーをつけ加えればいいんだ」
ジーンは、なるほど、とうなずく。
二人はキッチン・テーブルに座り、ジョンはそこらへんの紙切れに歌詞を書き始めた。その頃、ある男がジョンの妻に言い寄っていたことを思い出して、そんな話を歌にしようと思った。タイトルはその場で思い付いたあるワン・ワードを元に曲を作り始めた。ジーンはギターを持ってブルージーな音を出し始めた。彼は「何かを持っている君たち、充分に注意しろ。微笑みの陰にそれを奪おうとしている奴がいるかもしれない」といったようなことを歌い始めた。
ジーンが「これは素晴らしいな」と言う。そして、ジョンが「よし、これを明日ハフたちに聴かせようじゃないか」と言って翌日彼らが初めて書いた曲をハフに聴かせることにしたのである。
ACT 1 ★ ハフへの売り込み
ジョンは翌朝、ズボンのポケットに汚い紙切れを忍ばせ、リオン・ハフがオフィースにやって来るのを待ち受けた。ソワソワしながら待つジョンは仕事も手に付かない。そして遂に彼がやって来た。
ジョンがオフィースのドアをノックし「ハフさん、あなたに是非聴いていただきたい曲があるんですが」と言った。返事はなかった。
ジョンはことを慎重に進めた。ハフはオフィースから廊下に出て、ソーダの自動販売機の方に歩きはじめた。ジョンはその後ろにぴったりとくっついた。
「ミスター・ハフ、昨晩1曲書いたんです」とジョン。
ハフは低い声で「おお、そうか」と興味無さそうに言う。そして、「それは強力な物かね」と尋ねる。
ジョンは「もちろんですとも」と言い、すぐにポケットからその紙切れを出し、その歌詞を早口で読み始めた。その間もハフは自動販売機からソーダを取り出そうとしている。そして、ハフがオフィースに戻り始めるとジョンは、また後ろについて歌詞を読んだのだった。
ハフが彼のオフィースのドア・ノブに手をかけると、やにわにジョンの方に振り向き、「では見せてもらおうか」と言った。
ジョンはハフにその殴り書きした歌詞を見せた。ハフは言う。
「こいつはかなりいいようだな。まあ、中にはいれ」
ジョンはあわてて「ちょっと待ってください。ジーンをすぐ呼んできますから」と言って別の階にいたジーンのところに走っていった。
ジョンはハフの声色を真似て語る。そして、まるで、昨日のことのように一言一言を流暢に話す。
ハフはジーンが来るとまもなくピアノの前に座り、その曲のイントロとなるであろう部分を弾き出した。それは何か起こりそうなほどスリリングなイントロだった。そして、ハフはこの歌詞にまったく新しいメロディをつけたのだ。それは実に素晴らしい出来で、ジーンもジョンも自分たちの曲がこんなにエキサイティングに変貌する様を目のあたりにして感激したのである。
ジョンは秘かにハフが「お前たち、この曲をレコーディングしたいか」と言ってくれることを期待した。しかし、ハフはそうは言わなかった。ちょうどそんなときケニー・ギャンブルが部屋にはいってきた。ハフがギャンブルにこう言った。
「ギャンブ、これはすごい曲だぜ。こいつを聴いてくれ」と言って、ギャンブルに聴かせると彼もすっかりこれが気に入った。
ジョンが言った。
「オレたちでこの曲をレコーディングしたいんですが」
ハフはこう言った。「この曲が誰にいいと思うかね?」
「さあ」とジョン。
「実は、これをオージェイズにレコーディングさせようと思っとるんだ」とハフ。
「オージェイズだって?」
ジョンは一体どこのグループだといわんばかりに、けげんそうに答えた。何しろオージェイズといったところで若干のヒットはあったが、当時はまだ誰も知らないようなグループだったからだ。しかし、ハフは彼らを説得、ジョンとジーンも、レコードの曲名の下にきちんと作者としての名前が出ればそれも良いだろう、ということでこれを了承した。
彼らが作った曲のワン・ワードのタイトルは「バックスタバーズ(裏切り者)」。そして、これをオージェイズがレコーディングすることになったのである。
それから何週間かしてオージェイズがフィラデルフィアにやって来てこの曲をレコーディングすることになった。
フィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオ。オージェイズの面々は最初にスタジオにはいってこの楽譜を見ると「こんな曲は歌えん」とそれを床に放り投げたのである。ジョンたちは「ちょっと待て。何でオレたちの曲にそんな事をするんだ」とカっときた。 ギャンブルがオージェイズたちにこう言ってたしなめた。
「いいか、君らはまだゴールド・レコード(100万枚売れたシングル)さえ持っていないのだろう。この曲がどうなるかなんて君たちにわかるのかね」
メンバーはしぶしぶ床から楽譜を拾い、彼らはこの「バックスタバーズ」をレコーディングしたのである。1972年初めのことだった。
この話を後にオージェイズが来日した時に確かめると、リーダー格のエディ・リヴァートが笑いながら、彼らのヴァージョンを話してくれた。
「ジョンがそう言ったか。いや、あれはそういうつもりじゃなかったんだ。ちょうど、ピアノの上に楽譜を置いたら、エア・コンディションの空気がそれに当たって、床に落ちたのさ。ハハハ!」
ACT 2 ★ ビハインド・ザ・シーンのヒット・メイカー
ジョンの話にも熱がはいってくる。
ジョンの話は、理路整然としていて、非常に面白い。しかも起承転結がはっきりしている。身ぶり手ぶりを交えながら、自らの半生を語る文字通り語り部だ。
この頃、ギャンブルとハフの二人はメジャーのCBSレコーズとレコードの制作配給契約を結び、かなりの予算を持っていた。そこで彼らは自分たちの「フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ」に次々と新しいアーティストを獲得しては、どんどん新曲をレコーディングさせていたのである。そしてオージェイズのセッションもそんな一つであった。
劇的なピアノのイントロ、そして、たたみかけるようなオージェイズのコーラスを持った気持ちのいいミディアム・テンポのこの「バックスタバーズ」は1972年7月にアメリカで発売されると瞬く間に全米チャートをかけ昇り、ソウル・チャートで一位になり、ポップ・チャートでも3位まで行き、ミリオン・セラーを記録する大ヒットとなった。もちろん、これはフィラデルフィア・インターショナル・レコーズにとっても、プロデューサー、ギャンブル・アンド・ハフにとっても、そしてルーキー作曲家チーム、ジーン・マクファーデンとジョン・ホワイトヘッドにとっても記念すべき初の大ヒットとなった。
ジョンとジーンは初めて書いた曲が大ヒットとなり、ギャンブル・アンド・ハフも彼らにさらに多くのチャンスを与えてくれるようになった。彼らはオージェイズのアルバムに収められる曲も何曲か書いて、一躍ソングライターとして脚光を浴びるようになった。
二人はこれを期にフィラデルフィアのそのほかのアーティスト、イントゥルーダーズ、テディー・ペンダーグラス、ジーン・カーンなど多くのアーティストらにも曲を提供、さらにプロデュースもてがけるようになり、ステージに立つアーティストとしてではなく、ビハインド・ザ・シーンで活動するヒット・メイカーとして売れっ子となっていった。
アメリカの音楽業界におけるソングライターあるいはプロデューサーたちの成功した場合の収入は、桁外れである。アルバム一枚をプロデュースし、仮にそのアルバムが50万枚のゴールド・ディスクに輝いたとすれば、それだけで、少なくとも郊外に一軒家は買えるほどの小切手が送られてくる。そして、1972年以降、彼らはソングライターとして売れ、収入も劇的に増えたのである。
ジョンは曲がヒットして四半期ごとに小切手を貰うとそのたびに大喜びし、彼は身の回りを飾るものを買い、車を最新式のものにし、チェックの額が大きくなると、ついには家まで買った。彼はどんどんと物質的なものに執着していったのである。食べるのにさえ困った時期があった彼からすれば、ある日突然何でも欲しいものが手に入れられるだけの収入が入ってくれば、それを物質的なものに変えていくのも自然な成り行きだった。彼にとっては、物質的なもの、それこそが成功の象徴だったからだ。
僕は、多くのアフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)のアルバムのジャケット・カヴァーに、しばしば、リンカーン・コンティネンタルのような高級車や、何カラットもする大きなダイアモンドや、ゴールドものが登場するのを見て、彼らにとって成功の象徴とは、まず、そうしたものなのだな、ということを強く感じる。そして、そうした心の動きを「ソウル的な生きざま」と表現すれば、ジョン・ホワイトヘッドの生きざまはまさしくソウル的だった。
(「ソウル・サーチン」~ジョン・ホワイトヘッドの項パート2に続く)
■『ソウル・サーチン R&Bの心をもとめて』(吉岡正晴・著=音楽之友社)
現在絶版で、少し高すぎの値段がついています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/427623302X/soulsearchiho-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank
ENT>ARTIST>Whitehead, John
【5 Classic Philly Albums Released As Paper-Sleeve CD】
紙ジャケット。
1970年代に多くの良質なソウル・アルバムをリリースしたフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルからの作品のうち5枚が、紙ジャケットとなり、2010年5月26日、日本でリリースされた。アーティストは、マクファデン&ホワイトヘッド、オージェイズ、フューチャーズ、ジョーンズ・ガールズ、そして、パティ・ラベル。フィリー・ソウル紙ジャケとしては、2010年4月にテディー・ペンダーグラスの作品群が紙ジャケットでリリースされたのに続く。
ソウル・サーチンでは、これを記念して、フィリー特集をお送りする。その第一弾は、僕にとっても大変思い入れのあるマクファデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドのインタヴューに基づく「ソウル・サーチン」。ジョンの「ソウル・サーチン」は、ご存知の通り拙著『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(2000年7月刊行)の第一章を飾る作品。僕はジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わった。『ソウル・サーチン』は全7編のうち4編をネット公開していたが、このジョンの物語はまだネットでは公開していなかったもの。
マクファデン&ホワイトヘッドの傑作「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」はいかにして誕生したか。彼らがいかにして売れっ子ソングライターとなっていったか。そして、ソロへの道。ジョンの回顧から、彼らの歴史を深く探る。(なお、このヴァージョンは、書籍に掲載されたものを少し短縮してあります) ぜひこのCDをお聴きなるとき、ジョンの話に耳を傾けてください。
■マクファデン&ホワイトヘッド(2010年5月26日発売=紙ジャケット)(2人とも今となっては故人。それも歴史の流れ)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003E838D6/soulsearchiho-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank
ソ ウ ル ・ サ ー チ ン~R&Bの心を求めて
第一章:ジョン・ホワイトヘッド (パート1)
【リード】
ソングライターとして成功を収めた一人の男。欲しいものは何でも手に入った。しかし、貧困ゆえの無知から彼は税金というものを払わなかった。税金を申告するということの重要さを知らなかった。そのため、彼は脱税で起訴され、その金額が大きかったことから刑務所入りという試練を体験する。彼の名はジョン・ホワイトヘッド。ラッグス・トゥ・リッチーズ(貧困から金持ちへ)、さらにラッグスへ舞い戻り。彼は一体、刑務所で一人になったときに自身の人生をどう振り返り、何を考えたか。その激変するソウルフルな生きざまのすべてーーー。
プロローグ ★ 回想
「ハロー、ケヴィン。今ニューヨークにいるんだ。明日、君のオフィースに遊びに行ってもいいかな」
「マサハル、元気か。是非来てくれ」
ニューヨークのホテルの一室からかけた先は、ハッシュ・プロダクションのオフィース。ケヴィンは、そこのマネジャーだ。もうかれこれ、5年のつきあいになり、ニューヨークに来るチャンスがあると、一度はオフィースに遊びに行くようになっていた。そのときも、何か最新情報でもないかと思って、彼のところに電話をいれてみたのだ。
翌日ミッドタウンの彼のオフィースに行き、しばらく談笑していると、一人のブラザーが入ってきた。ケヴィンが僕に彼を紹介してくれた。
「ジョン・ホワイトヘッドだ。こちらは、マサハル。日本からの友人だ」
背の高い体格のがっしりした人物だった。 「ジョン・ホワイトヘッド...。ひょっとして、あなたはマクファーデン・アンド・ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドですか?」
「オウ、そうだよ」
「時間、ありますか? インタヴューしてもいいかな?」
「ああ、いいよ」
あらかじめ予定され、時間が決められているインタヴューから必ずしも面白い話が聞けるとは限らない。一方、まったく予期せぬところで、インタヴューが始まり、その話が非常に面白いこともある。準備万端で臨んだインタヴューが盛り上がらず、ほとんど準備なしにぶっつけ本番で臨んだインタヴューから素晴らしいストーリーが聞ける時もある。たとえ同じ人物にインタヴューしても、二度と同じインタヴューはない。インタヴューは、瞬時に変化していくまさに生き物だ。生き物を相手にして行くからおもしろい。質問から未知の答えが引き出され、さらにその答えが次の質問の呼び水となる。だから、インタヴューはスリルと興奮に満ちた生き物だ。
こうして、部屋を移して、彼との予期せぬインタヴューが始まった。彼が自分のキャリアを順序だてて回想し始めた。
アメリカ建国の都市、フィラデルフィアは愛称を「シティー・オブ・ブラザリー・ラヴ」(兄弟愛の街)」という。ニューヨークからも電車で約2時間の距離にある。多くの観光客が、アメリカ発祥の地を見ようと、フィラデルフィアを訪れる。そのフィラデルフィアの中心地にサーティース・ストリート・ステーションがある。ニューヨークで言えば、グランド・セントラル・ステーションのようなあらゆる列車の出発点であり、アムトラックの長距離列車や市内の電車などが忙しく行き交う全米で二番目に乗降客が多い駅である。特急(「エキスプレス」)もあれば、各駅停車(「ローカル」)もある。特急が、各駅停車を抜かすとき、各駅停車は側線で待機し、特急が行きすぎるのを待つ。それは、人生にも似ている。ある者は、早く早く目的地に着こうと急ぐ。ある者は、急がず、ゆっくりと各駅停車で人生を歩む。また、ある者は、間違いを犯し、本線から外れてしまうこともある。
この物語の主人公、ジョン・ホワイトヘッドも、そのサーティース・ステーションから「栄光」という名の終着駅に向かって列車に飛び乗った男の一人だった。
ジョン・ホワイトヘッド(1948年7月10日生まれ)とジーン・マクファーデン(1949年7月2日生まれ=1948年生まれ説も)は、フィラデルフィアの小学校からの親友同士。二人とも1960年代のスーパースター、オーティス・レディングの大ファンで、彼のバック・コーラスや前座を務めたこともあった。二人はオーティスが1967年12月、不慮の飛行機事故で死亡する前に故郷に戻ってきており、以後はフィラデルフィアでシンガーとしてのキャリアを目指していた。彼らは地元の有力プロデューサー、ケニー・ギャンブルとリオン・ハフのコンビと知り合い、彼のもとで働くようになった。1971年のことである。
最初はレコーディング・アーティストとしてやってみようと思った彼らだが、なかなかヒットにも恵まれず、彼ら二人は、ギャンブル・アンド・ハフの元で、雑用の仕事をするようになった。そして、そのオフィースでジョンとジーンは彼らが曲作りをする方法を逐一観察するようになった。
その頃、彼ら二人は同じ安アパートに住んでいた。ジーンが15階、ジョンは4階の住人だった。あるとき仕事が終わってジョンがジーンの所に遊びにいった。
「なあ、ジーン。彼らは毎日曲を書いているよな。だけどオレたちもあれなら出来るぜ。毎日見てるが簡単なもんだ。彼らがやっていることといえば、何か適当なタイトルを見つけ、それに曲をつけるだけだ。リオン・ハフがこんな事を言っていた。『最高にいいタイトルはワン・ワード(一語)のタイトルだ』とね。なぜならすぐに覚えられるからだ。そこでまずタイトルを何か決め、そしてそれにストーリーをつけ加えればいいんだ」
ジーンは、なるほど、とうなずく。
二人はキッチン・テーブルに座り、ジョンはそこらへんの紙切れに歌詞を書き始めた。その頃、ある男がジョンの妻に言い寄っていたことを思い出して、そんな話を歌にしようと思った。タイトルはその場で思い付いたあるワン・ワードを元に曲を作り始めた。ジーンはギターを持ってブルージーな音を出し始めた。彼は「何かを持っている君たち、充分に注意しろ。微笑みの陰にそれを奪おうとしている奴がいるかもしれない」といったようなことを歌い始めた。
ジーンが「これは素晴らしいな」と言う。そして、ジョンが「よし、これを明日ハフたちに聴かせようじゃないか」と言って翌日彼らが初めて書いた曲をハフに聴かせることにしたのである。
ACT 1 ★ ハフへの売り込み
ジョンは翌朝、ズボンのポケットに汚い紙切れを忍ばせ、リオン・ハフがオフィースにやって来るのを待ち受けた。ソワソワしながら待つジョンは仕事も手に付かない。そして遂に彼がやって来た。
ジョンがオフィースのドアをノックし「ハフさん、あなたに是非聴いていただきたい曲があるんですが」と言った。返事はなかった。
ジョンはことを慎重に進めた。ハフはオフィースから廊下に出て、ソーダの自動販売機の方に歩きはじめた。ジョンはその後ろにぴったりとくっついた。
「ミスター・ハフ、昨晩1曲書いたんです」とジョン。
ハフは低い声で「おお、そうか」と興味無さそうに言う。そして、「それは強力な物かね」と尋ねる。
ジョンは「もちろんですとも」と言い、すぐにポケットからその紙切れを出し、その歌詞を早口で読み始めた。その間もハフは自動販売機からソーダを取り出そうとしている。そして、ハフがオフィースに戻り始めるとジョンは、また後ろについて歌詞を読んだのだった。
ハフが彼のオフィースのドア・ノブに手をかけると、やにわにジョンの方に振り向き、「では見せてもらおうか」と言った。
ジョンはハフにその殴り書きした歌詞を見せた。ハフは言う。
「こいつはかなりいいようだな。まあ、中にはいれ」
ジョンはあわてて「ちょっと待ってください。ジーンをすぐ呼んできますから」と言って別の階にいたジーンのところに走っていった。
ジョンはハフの声色を真似て語る。そして、まるで、昨日のことのように一言一言を流暢に話す。
ハフはジーンが来るとまもなくピアノの前に座り、その曲のイントロとなるであろう部分を弾き出した。それは何か起こりそうなほどスリリングなイントロだった。そして、ハフはこの歌詞にまったく新しいメロディをつけたのだ。それは実に素晴らしい出来で、ジーンもジョンも自分たちの曲がこんなにエキサイティングに変貌する様を目のあたりにして感激したのである。
ジョンは秘かにハフが「お前たち、この曲をレコーディングしたいか」と言ってくれることを期待した。しかし、ハフはそうは言わなかった。ちょうどそんなときケニー・ギャンブルが部屋にはいってきた。ハフがギャンブルにこう言った。
「ギャンブ、これはすごい曲だぜ。こいつを聴いてくれ」と言って、ギャンブルに聴かせると彼もすっかりこれが気に入った。
ジョンが言った。
「オレたちでこの曲をレコーディングしたいんですが」
ハフはこう言った。「この曲が誰にいいと思うかね?」
「さあ」とジョン。
「実は、これをオージェイズにレコーディングさせようと思っとるんだ」とハフ。
「オージェイズだって?」
ジョンは一体どこのグループだといわんばかりに、けげんそうに答えた。何しろオージェイズといったところで若干のヒットはあったが、当時はまだ誰も知らないようなグループだったからだ。しかし、ハフは彼らを説得、ジョンとジーンも、レコードの曲名の下にきちんと作者としての名前が出ればそれも良いだろう、ということでこれを了承した。
彼らが作った曲のワン・ワードのタイトルは「バックスタバーズ(裏切り者)」。そして、これをオージェイズがレコーディングすることになったのである。
それから何週間かしてオージェイズがフィラデルフィアにやって来てこの曲をレコーディングすることになった。
フィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオ。オージェイズの面々は最初にスタジオにはいってこの楽譜を見ると「こんな曲は歌えん」とそれを床に放り投げたのである。ジョンたちは「ちょっと待て。何でオレたちの曲にそんな事をするんだ」とカっときた。 ギャンブルがオージェイズたちにこう言ってたしなめた。
「いいか、君らはまだゴールド・レコード(100万枚売れたシングル)さえ持っていないのだろう。この曲がどうなるかなんて君たちにわかるのかね」
メンバーはしぶしぶ床から楽譜を拾い、彼らはこの「バックスタバーズ」をレコーディングしたのである。1972年初めのことだった。
この話を後にオージェイズが来日した時に確かめると、リーダー格のエディ・リヴァートが笑いながら、彼らのヴァージョンを話してくれた。
「ジョンがそう言ったか。いや、あれはそういうつもりじゃなかったんだ。ちょうど、ピアノの上に楽譜を置いたら、エア・コンディションの空気がそれに当たって、床に落ちたのさ。ハハハ!」
ACT 2 ★ ビハインド・ザ・シーンのヒット・メイカー
ジョンの話にも熱がはいってくる。
ジョンの話は、理路整然としていて、非常に面白い。しかも起承転結がはっきりしている。身ぶり手ぶりを交えながら、自らの半生を語る文字通り語り部だ。
この頃、ギャンブルとハフの二人はメジャーのCBSレコーズとレコードの制作配給契約を結び、かなりの予算を持っていた。そこで彼らは自分たちの「フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ」に次々と新しいアーティストを獲得しては、どんどん新曲をレコーディングさせていたのである。そしてオージェイズのセッションもそんな一つであった。
劇的なピアノのイントロ、そして、たたみかけるようなオージェイズのコーラスを持った気持ちのいいミディアム・テンポのこの「バックスタバーズ」は1972年7月にアメリカで発売されると瞬く間に全米チャートをかけ昇り、ソウル・チャートで一位になり、ポップ・チャートでも3位まで行き、ミリオン・セラーを記録する大ヒットとなった。もちろん、これはフィラデルフィア・インターショナル・レコーズにとっても、プロデューサー、ギャンブル・アンド・ハフにとっても、そしてルーキー作曲家チーム、ジーン・マクファーデンとジョン・ホワイトヘッドにとっても記念すべき初の大ヒットとなった。
ジョンとジーンは初めて書いた曲が大ヒットとなり、ギャンブル・アンド・ハフも彼らにさらに多くのチャンスを与えてくれるようになった。彼らはオージェイズのアルバムに収められる曲も何曲か書いて、一躍ソングライターとして脚光を浴びるようになった。
二人はこれを期にフィラデルフィアのそのほかのアーティスト、イントゥルーダーズ、テディー・ペンダーグラス、ジーン・カーンなど多くのアーティストらにも曲を提供、さらにプロデュースもてがけるようになり、ステージに立つアーティストとしてではなく、ビハインド・ザ・シーンで活動するヒット・メイカーとして売れっ子となっていった。
アメリカの音楽業界におけるソングライターあるいはプロデューサーたちの成功した場合の収入は、桁外れである。アルバム一枚をプロデュースし、仮にそのアルバムが50万枚のゴールド・ディスクに輝いたとすれば、それだけで、少なくとも郊外に一軒家は買えるほどの小切手が送られてくる。そして、1972年以降、彼らはソングライターとして売れ、収入も劇的に増えたのである。
ジョンは曲がヒットして四半期ごとに小切手を貰うとそのたびに大喜びし、彼は身の回りを飾るものを買い、車を最新式のものにし、チェックの額が大きくなると、ついには家まで買った。彼はどんどんと物質的なものに執着していったのである。食べるのにさえ困った時期があった彼からすれば、ある日突然何でも欲しいものが手に入れられるだけの収入が入ってくれば、それを物質的なものに変えていくのも自然な成り行きだった。彼にとっては、物質的なもの、それこそが成功の象徴だったからだ。
僕は、多くのアフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人)のアルバムのジャケット・カヴァーに、しばしば、リンカーン・コンティネンタルのような高級車や、何カラットもする大きなダイアモンドや、ゴールドものが登場するのを見て、彼らにとって成功の象徴とは、まず、そうしたものなのだな、ということを強く感じる。そして、そうした心の動きを「ソウル的な生きざま」と表現すれば、ジョン・ホワイトヘッドの生きざまはまさしくソウル的だった。
(「ソウル・サーチン」~ジョン・ホワイトヘッドの項パート2に続く)
■『ソウル・サーチン R&Bの心をもとめて』(吉岡正晴・著=音楽之友社)
現在絶版で、少し高すぎの値段がついています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/427623302X/soulsearchiho-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank
ENT>ARTIST>Whitehead, John
△永井博氏個展@ビームス・ギャラリー
2010年5月26日 音楽△永井博氏個展@ビームス・ギャラリー
【Nagai Hiroshi Exhibition @ Beams Gallery】
個展。
ソウルフルなイラストで知られるイラストレーター、永井博さんの個展が2010年5月18日まで新宿ビームスの6階、ビームス・ギャラリーで約4週間行われた。オープニング・レセプションのご案内をいただいていたが、なかなか時間が取れず、結局、最終日の18日におうかがいした。
永井画伯はほぼ毎日顔をだされていたそうで、僕が到着したときも、お客さんの相手をされていた。かなり久しぶりにお会いするが、元気そう。40数点、額装され展示されている。永井さんのイラストで一番有名なのは、大瀧詠一さんのアルバム『ロング・ヴァケーション』のジャケットだろう。他に、ビクターがシリーズで出した『ブリーズ』というコンピのジャケットもずっと永井さんだった。
ロング・ヴァケーション 大瀧詠一
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005HWVQ/soulsearchiho-22/ref=nosim/
海、リゾート、青、そして、黒人、といったものが、基本的なテーマで、そうしたものを独特の筆致で描く。
ブリーズ・シリーズ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000068WEI/soulsearchiho-22/ref=nosim/
僕は、CDジャケットなどで永井さんの作品は見ていたが、本物を見るのは初めて。至近距離でじっくり見ると、本物のリアル感というのはやはりすごい。展覧会が写真やテレビ、ブックレットだけではすべてを伝えられない、ということを実感する。
ルー・カートン、オーティス・レディング、イントゥルーダーズ、ドラマティックス、マイケル・ジャクソンなどさまざまなブラック・アーティストの絵がところ狭しと飾られている。
じっくり拝見しつつ、永井さんと積もる話を立ち話で。永井さんも、レコード・コレクター、それもソウル、R&B系のものをかなり集めていることで知られているが、そんなレコード話がひとしきり。実におもしろい。
ということで、自分へのお土産に、ギャラリーにあった永井さんのイラスト集を買った。なんと最後の一冊だった。(ただしアマゾンなどではまだ買えます)
買ったのはこれ↓
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4821109727/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ENT>ART>Nagai Hiroshi
【Nagai Hiroshi Exhibition @ Beams Gallery】
個展。
ソウルフルなイラストで知られるイラストレーター、永井博さんの個展が2010年5月18日まで新宿ビームスの6階、ビームス・ギャラリーで約4週間行われた。オープニング・レセプションのご案内をいただいていたが、なかなか時間が取れず、結局、最終日の18日におうかがいした。
永井画伯はほぼ毎日顔をだされていたそうで、僕が到着したときも、お客さんの相手をされていた。かなり久しぶりにお会いするが、元気そう。40数点、額装され展示されている。永井さんのイラストで一番有名なのは、大瀧詠一さんのアルバム『ロング・ヴァケーション』のジャケットだろう。他に、ビクターがシリーズで出した『ブリーズ』というコンピのジャケットもずっと永井さんだった。
ロング・ヴァケーション 大瀧詠一
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ブリーズ・シリーズ
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僕は、CDジャケットなどで永井さんの作品は見ていたが、本物を見るのは初めて。至近距離でじっくり見ると、本物のリアル感というのはやはりすごい。展覧会が写真やテレビ、ブックレットだけではすべてを伝えられない、ということを実感する。
ルー・カートン、オーティス・レディング、イントゥルーダーズ、ドラマティックス、マイケル・ジャクソンなどさまざまなブラック・アーティストの絵がところ狭しと飾られている。
じっくり拝見しつつ、永井さんと積もる話を立ち話で。永井さんも、レコード・コレクター、それもソウル、R&B系のものをかなり集めていることで知られているが、そんなレコード話がひとしきり。実におもしろい。
ということで、自分へのお土産に、ギャラリーにあった永井さんのイラスト集を買った。なんと最後の一冊だった。(ただしアマゾンなどではまだ買えます)
買ったのはこれ↓
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