(昨日の続き)
○【ルーファス(パート5)~ヴァル・ヤング語る】
ファンク。
今回のルーファスのバンド編成は実に強力だ。ヴォーカル陣にインコグニートでおなじみのメイサ・リーク、キーボードに白人ながらファンクを演奏するブライアン、そして、コーラスにヴァル・ヤング、パーカッションはタワー・オブ・パワーなどでもおなじみのレニー・カステロ。そしてオリジナル・メンバー、ケヴィン・マーフィーも来ている。
ヴァル・ヤングは、メリー・ジェーン・ガールズの一員として紹介されている。ところがメリー・ジェーンたちのアルバムを見ると、ヴァル・ヤングの名前はない。
ヴァルは1958年6月13日生まれ。ギャップ・バンドのツアーやレコーディングで活躍、ヴァルによれば、ギャップ・バンドでは「イエーニング・フォー・ユア・ラヴ」などたくさんのヒットを歌っている。ギャップ・バンド時代に、来日もしている。ギャップのアルバム4-5枚は、レコーディングに参加しているという。
その後、リック・ジェームスに認められ、リックのツアーなどにつきあうようになった。リックのところに来たのは1981年。『ストリート・ソングス』が出た後のようだ。その後、リックのツアーでバック・コーラスで参加。リックが1983年、女性4人組、メリー・ジェーン・ガールズをデビューさせるが、このオリジナル・メンバーにはいなかった。その後、リックがプロデュースしてソロ・アルバム『セダクション』で1985年、デビュー。これがそこそこ評判になった。
彼女は、ファンク女性シンガーの王道を来ているが、それもあってか、ラッパーたちからの熱いラヴ・コールが多いシンガーだ。中でも2パックとのコラボレーションは多く、「トゥ・リヴ・アンド・ダイ・イン・LA」ではヴァルが大々的にフィーチャーされている。このほかにもトーン・ロック、ウォーレンG、ネイト・ドッグなどでもバック・ヴォーカルを担当している。他に、ロイ・エアーズでも参加している。
彼女がメリー・ジェーン・ガールズに入ったのは意外と遅く2005年になってのことだそうだ。
「最近は、この夏にギャップ・バンドをやったわ。今でも、タイミングがあえば、ギャップのツアーにもでるわ」
「ルーファスは、ファンク・バンドでしょう。だから、もっとファンキーにならないと」とヴァルは言う。「もちろん、今のでもよいけど、昔の70年代のファンク・グループって、もっとファンク・ファンクしていたでしょう。ああいう感じ。泥臭くて、ファッションなんかも、こうちょっとスペーシーで。襟が立ってるような服でね」
ところで、いろいろ調べてみると、ヴァルは、元々ジョージ・クリントンのところから出てきたと書いてある資料があった。一時期彼がてがけたブライズ・オブ・ファンケンシュタインに参加していたというのだが、やはり、レコードにはクレジットはないので、やはりツアーでのコーラスなのかもしれない。この部分は確認しそこねた。次の機会に確かめてみたい。
+++++
リーダー。
今回のルーファスのライヴだが、いろいろとメンバーと話をしてバンド・マスター、音楽ディレクターであるトニー・メイデンの素晴らしさがよくわかった。
今回の厳選メンバーは、基本はトニーが選んでいるのだが、みないい連中なのが特徴的だった。ミュージシャン、シンガーだと、「俺が、俺が」あるいは「私が、私が」タイプの自己主張が強い人が多い。また、ある程度の年齢差がある場合、先輩に対する尊敬の念も必要になってくる。
もちろん、単にライヴの一観客にしてみれば、「どんなにそのミュージシャンの性格が悪くても、演奏が超一流だったらそれでもいい」という見方もある。そもそもそのミュージシャンの性格なんて、90分のパフォーマンスからはなかなかわからないからだ。「どんなに性格がよく、人がよくても、歌が下手だったり、パフォーマンスが二流だったらだめだ」というのも当然ある。
だがやはり、ある程度のレベルを持っているミュージシャンたちだったら、みんなが気持ち良くできて、その中で切磋琢磨し、ある部分勝負し相手より少しでもいいパフォーマンスをしようと努力できる環境を作るのが、バンド・リーダー、バンド・マスターの役目だ。それが今回のバンドにはできたいたような気がした。
最終日のライヴが終わったあと、メンバー有志がトニーのホテルの部屋に集まり、木曜日に収録した録画映像のラフカットを見ていた。そこでは、みんながあーだ、こーだ「このカットはビューティフル、パフォーマンス素晴らしい」など和気藹々で楽しんでいた。
トニーが言う。「このバンドは、別にひとりのスーパースターがいるバンドではない。全員でルーファスというバンドを作っていて、その全員で作ったバンドがいいものになっている、というのが理想だ。僕もいろいろなバンドに入って演奏する。あるミュージカル・ディレクターに『このラインを弾いてくれ』と言われたとする。だが、それは他の楽器がすでにいくつも同じラインを弾いているから、ぶつかってだめだから出来ない、と説明する。だが、その人物は怒って『俺が、ミュージカル・ディレクターなんだから、やれ』と叫ぶ。そこには、ミュージシャン同士のリスペクトも何にもない。(一般論として)最近の若いミュージシャンたちは、先輩ミュージシャンに尊敬の念を持つことが少ないと思う。それだと、いいバンド・サウンド、いいユニットにはならない。みんながひとつにならなければいい音楽はできないからね」
「僕も、バンドにとってもっとも大事なことは、ひとつの音楽イメージを全員が同じように共有することだと思う」と向けると、「その通りだ」とトニーは言う。お互いある程度の力量があれば、そこにひとつの共通イメージを描けば、ミュージシャン全員のヴェクトルがそれに向かい、徐々に固まりいいものが出来ていくのだ。何年も同じメンバーで、同じ曲をやっていると、音が強固になっていくのはそのためだ。
バンド・リーダーは、その共通イメージをメンバーに提示し、それを各ミュージシャンにわかりやすく理解させ、技術が未熟であればそれを教え、ひとつのものを作り上げていく環境を作るのが仕事なのだ。たぶん、クインシー・ジョーンズなどは、そういうことが天才的にうまいのだろう。
トニーもその人柄から、メンバー全員からの人望を集めている。そこから生まれるバンドとしてのサウンドは確実にきっちりしたものになっていく。ギタリストとして素晴らしいだけでなく、バンド・リーダーとしても素晴らしいということが今回はよくわかった。
翌日帰国を控えたトニーが「パッキングは大嫌いなんだ」と笑った。
「But you have to pack your bags」というと、「pack’d my bags and put em at the door」と歌って返してきた。
■ライヴ サヴォイでストンプ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0018OAAR0/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ライナーノーツ・吉岡正晴
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
○【ルーファス(パート5)~ヴァル・ヤング語る】
ファンク。
今回のルーファスのバンド編成は実に強力だ。ヴォーカル陣にインコグニートでおなじみのメイサ・リーク、キーボードに白人ながらファンクを演奏するブライアン、そして、コーラスにヴァル・ヤング、パーカッションはタワー・オブ・パワーなどでもおなじみのレニー・カステロ。そしてオリジナル・メンバー、ケヴィン・マーフィーも来ている。
ヴァル・ヤングは、メリー・ジェーン・ガールズの一員として紹介されている。ところがメリー・ジェーンたちのアルバムを見ると、ヴァル・ヤングの名前はない。
ヴァルは1958年6月13日生まれ。ギャップ・バンドのツアーやレコーディングで活躍、ヴァルによれば、ギャップ・バンドでは「イエーニング・フォー・ユア・ラヴ」などたくさんのヒットを歌っている。ギャップ・バンド時代に、来日もしている。ギャップのアルバム4-5枚は、レコーディングに参加しているという。
その後、リック・ジェームスに認められ、リックのツアーなどにつきあうようになった。リックのところに来たのは1981年。『ストリート・ソングス』が出た後のようだ。その後、リックのツアーでバック・コーラスで参加。リックが1983年、女性4人組、メリー・ジェーン・ガールズをデビューさせるが、このオリジナル・メンバーにはいなかった。その後、リックがプロデュースしてソロ・アルバム『セダクション』で1985年、デビュー。これがそこそこ評判になった。
彼女は、ファンク女性シンガーの王道を来ているが、それもあってか、ラッパーたちからの熱いラヴ・コールが多いシンガーだ。中でも2パックとのコラボレーションは多く、「トゥ・リヴ・アンド・ダイ・イン・LA」ではヴァルが大々的にフィーチャーされている。このほかにもトーン・ロック、ウォーレンG、ネイト・ドッグなどでもバック・ヴォーカルを担当している。他に、ロイ・エアーズでも参加している。
彼女がメリー・ジェーン・ガールズに入ったのは意外と遅く2005年になってのことだそうだ。
「最近は、この夏にギャップ・バンドをやったわ。今でも、タイミングがあえば、ギャップのツアーにもでるわ」
「ルーファスは、ファンク・バンドでしょう。だから、もっとファンキーにならないと」とヴァルは言う。「もちろん、今のでもよいけど、昔の70年代のファンク・グループって、もっとファンク・ファンクしていたでしょう。ああいう感じ。泥臭くて、ファッションなんかも、こうちょっとスペーシーで。襟が立ってるような服でね」
ところで、いろいろ調べてみると、ヴァルは、元々ジョージ・クリントンのところから出てきたと書いてある資料があった。一時期彼がてがけたブライズ・オブ・ファンケンシュタインに参加していたというのだが、やはり、レコードにはクレジットはないので、やはりツアーでのコーラスなのかもしれない。この部分は確認しそこねた。次の機会に確かめてみたい。
+++++
リーダー。
今回のルーファスのライヴだが、いろいろとメンバーと話をしてバンド・マスター、音楽ディレクターであるトニー・メイデンの素晴らしさがよくわかった。
今回の厳選メンバーは、基本はトニーが選んでいるのだが、みないい連中なのが特徴的だった。ミュージシャン、シンガーだと、「俺が、俺が」あるいは「私が、私が」タイプの自己主張が強い人が多い。また、ある程度の年齢差がある場合、先輩に対する尊敬の念も必要になってくる。
もちろん、単にライヴの一観客にしてみれば、「どんなにそのミュージシャンの性格が悪くても、演奏が超一流だったらそれでもいい」という見方もある。そもそもそのミュージシャンの性格なんて、90分のパフォーマンスからはなかなかわからないからだ。「どんなに性格がよく、人がよくても、歌が下手だったり、パフォーマンスが二流だったらだめだ」というのも当然ある。
だがやはり、ある程度のレベルを持っているミュージシャンたちだったら、みんなが気持ち良くできて、その中で切磋琢磨し、ある部分勝負し相手より少しでもいいパフォーマンスをしようと努力できる環境を作るのが、バンド・リーダー、バンド・マスターの役目だ。それが今回のバンドにはできたいたような気がした。
最終日のライヴが終わったあと、メンバー有志がトニーのホテルの部屋に集まり、木曜日に収録した録画映像のラフカットを見ていた。そこでは、みんながあーだ、こーだ「このカットはビューティフル、パフォーマンス素晴らしい」など和気藹々で楽しんでいた。
トニーが言う。「このバンドは、別にひとりのスーパースターがいるバンドではない。全員でルーファスというバンドを作っていて、その全員で作ったバンドがいいものになっている、というのが理想だ。僕もいろいろなバンドに入って演奏する。あるミュージカル・ディレクターに『このラインを弾いてくれ』と言われたとする。だが、それは他の楽器がすでにいくつも同じラインを弾いているから、ぶつかってだめだから出来ない、と説明する。だが、その人物は怒って『俺が、ミュージカル・ディレクターなんだから、やれ』と叫ぶ。そこには、ミュージシャン同士のリスペクトも何にもない。(一般論として)最近の若いミュージシャンたちは、先輩ミュージシャンに尊敬の念を持つことが少ないと思う。それだと、いいバンド・サウンド、いいユニットにはならない。みんながひとつにならなければいい音楽はできないからね」
「僕も、バンドにとってもっとも大事なことは、ひとつの音楽イメージを全員が同じように共有することだと思う」と向けると、「その通りだ」とトニーは言う。お互いある程度の力量があれば、そこにひとつの共通イメージを描けば、ミュージシャン全員のヴェクトルがそれに向かい、徐々に固まりいいものが出来ていくのだ。何年も同じメンバーで、同じ曲をやっていると、音が強固になっていくのはそのためだ。
バンド・リーダーは、その共通イメージをメンバーに提示し、それを各ミュージシャンにわかりやすく理解させ、技術が未熟であればそれを教え、ひとつのものを作り上げていく環境を作るのが仕事なのだ。たぶん、クインシー・ジョーンズなどは、そういうことが天才的にうまいのだろう。
トニーもその人柄から、メンバー全員からの人望を集めている。そこから生まれるバンドとしてのサウンドは確実にきっちりしたものになっていく。ギタリストとして素晴らしいだけでなく、バンド・リーダーとしても素晴らしいということが今回はよくわかった。
翌日帰国を控えたトニーが「パッキングは大嫌いなんだ」と笑った。
「But you have to pack your bags」というと、「pack’d my bags and put em at the door」と歌って返してきた。
■ライヴ サヴォイでストンプ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0018OAAR0/soulsearchiho-22/ref=nosim/
ライナーノーツ・吉岡正晴
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
(昨日の続き)
◆【ルーファス(パート4)~マダム・ディー語る】
迫力。
ルーファスのライヴの中でも、ド迫力の歌唱を聴かせ観客の度肝を抜いたマダム・ディー。野太い声と最近のジェニファー・ハドソン風の派手なパフォーマンスで存在感を見せ付けたが、彼女はまだレコード契約もない無名のシンガーだった。アメリカ・エンタテインメント界の底力を見せた格好だ。彼女はルーファス・ショーでは「エヴァーラスティング」(ルーファスの1977年のヒット)と「ゴーイング・イン・サークルス」(フレンズ・オブ・ディスティンクションの1969年のヒット)の2曲を堂々と歌ったが、特に後者はそれを歌い終えた後、あまりの素晴らしさに観客が立ち上がって拍手をする「スタンディング・オヴェーション」が巻き起こったほど。
そのマダムに話を聞いた。マダムは、ノース・キャロライナ州ダーナムに1964年6月24日生まれた。兄がひとりいる2人兄弟。「兄は、歌えるけれど、歌でキャリアを築こうとはしなかった。私のバンドで歌っていたことはあるけど(笑)」と彼女は言う。
マダムの本名はドゥワナ・パーカー(Dwanna Parker)という。子供の頃は教会でゴスペルを歌っていたが、ゴスペルだけでなく、ポピュラーな世俗音楽も歌いたがった。ゴスペルの師匠が、ある時「ゴスペルを歌うか、世俗を歌うか、どちらかを選びなさい」と彼女に言った。マダムは、両方歌いたがったが、結局、ひとつしか選べないということで、ゴスペルを去り、ポピュラー音楽(ソウル・ミュージック)に進む事にしたという。20歳頃のことだった。父方も母方の家族も歌うことが上手だったそうだ。
ちなみに従兄弟のひとりにデブラ・ヘンリー(Debra Henry)といい歌手がいて、パティー・ラベルのバックコーラスを20年以上やっている、という。そのデブラ・ヘンリーを調べてみると、なんとパティー・ラベルだけでなく、コン・ファンク・シャン、リンダ・ロンシュタッド、ブルース・ホーンズビーなどのバックも務めていた。
ハイスクール卒業後、ビューティー・カレッジ(美容学校)に通い、歌とは別に美容師(ヘア・スタイリスト)の道を歩み始めた。ここを出た後は、ビューティー・サロンさらに、ネイル・サロンに就職、ついには独立して、自身のビューティー・サロンも持った。そこでやっている内に、もっと大きな成功を夢見るようになった。オウナーが「だったらLAに行ったらどうだ、その気があるなら、(LA行きの)チケットをあげるよ」と背中を押してくれた。意を決し、1996年5月にロスアンジェルスへ引っ越す。
ロスでヘア・スタイリストをやったり、洋服のデザインをしたり、クラブなどで歌い、最近ではカリフォルニア州エンシノにある「スティーヴィーズ」という店で歌ったりしている。実際、ここで歌っているときにトニー・メイデンが見ていて、声をかけられ、ルーファスのライヴに参加するようになった。昨年のこと。影響を受けたシンガーは、アレサ・フランクリン、ヴァネッサ・ベル・アームストロング、カレン・クラーク・シアードなど。「私はパワフルなシンガーが好きなのよ」と彼女は言う。
ルーファス・ショーでの「エヴァーラスティング・ラヴ」は、彼女が入る前はドラマーのドーネルが歌っていた。トニーらのアイデアで彼女が歌うことになったようだ。ちょうど、ミラクルではDJキヨミさんが次々とルーファスの曲をかけている。ちょうど、「エニー・ラヴ」がかかっている。続いて「シェアリング・ラヴ」が流れると、みんな大合唱だ。
「その声は、両親譲りなのですか」 「さあ、母はすごく低い声よ。私はソプラノ。あ、でも、母はものすごく声が大きいわ。(笑)」 いいシンガーの条件、それは声が大きいことか?(笑) 彼女は声も大きく、よく通る。体格もがっしりしている。
ところで、なぜ、マダム・ディーなのか。本名は、ドゥワナ・パーカー。実は、この本名をみんながなかなか正確に発音ができなかった。「ある時、ニグロ・カレッジ・ファウンドの会合で歌うことになったの。司会者が私の名前を聞いてきた。私は、ドゥワナ・パーカーと答えた。どうもわかってそうもなかったので、紙に書きましょうか、と言った。するとその彼は、『大丈夫、大丈夫』と返事をしてきた。さて、本番になって、いよいよ私の出番になった。すると、その司会者は大きな声で言った。『さあ、ご紹介しましょう! タワンタ・パークス!』 オ~マイ・ゴッド! こりゃあ、この名前じゃダメだわ、と思ったわ。そこで、名前を考えることにした。ノース・キャロライナ時代にヘアーのことを学んだビューティー・スクールの先生がいるんだけど、その人がマダム・ディシェイザーと言ったの。その人はダーハムで初めて黒人のビューティー・カレッジを作った人なんだけど、私が学校にいる間に亡くなってしまった。そこで、そこから名前を取って、マダム・ディーにしたのよ。これ以来、名前をステージで間違って呼ばれることもなくなったわ。気に入ってる。たぶん、私は24歳以降、マダム・ディーとしてやっているわ」
「あなたはCDは出していないんですよね。なぜですか」 「さあ、わからないわ。私は今まで(レコード会社から)アプローチされなかったということね」
ところで、「ゴーイング・イン・サークルス」は、その「スティーヴィーズ」でよく歌っていたという。もちろん、フレンズ・オブ・ディスティンクションのヴァージョンも知っている。
マダムの横で、金髪のヴァル・ヤングがトニー・メイデンやドラマーのドネールと話している。一段落したところで、ヴァルと話をした。
(この項続く=次回はヴァル・ヤングなどについて)
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
◆【ルーファス(パート4)~マダム・ディー語る】
迫力。
ルーファスのライヴの中でも、ド迫力の歌唱を聴かせ観客の度肝を抜いたマダム・ディー。野太い声と最近のジェニファー・ハドソン風の派手なパフォーマンスで存在感を見せ付けたが、彼女はまだレコード契約もない無名のシンガーだった。アメリカ・エンタテインメント界の底力を見せた格好だ。彼女はルーファス・ショーでは「エヴァーラスティング」(ルーファスの1977年のヒット)と「ゴーイング・イン・サークルス」(フレンズ・オブ・ディスティンクションの1969年のヒット)の2曲を堂々と歌ったが、特に後者はそれを歌い終えた後、あまりの素晴らしさに観客が立ち上がって拍手をする「スタンディング・オヴェーション」が巻き起こったほど。
そのマダムに話を聞いた。マダムは、ノース・キャロライナ州ダーナムに1964年6月24日生まれた。兄がひとりいる2人兄弟。「兄は、歌えるけれど、歌でキャリアを築こうとはしなかった。私のバンドで歌っていたことはあるけど(笑)」と彼女は言う。
マダムの本名はドゥワナ・パーカー(Dwanna Parker)という。子供の頃は教会でゴスペルを歌っていたが、ゴスペルだけでなく、ポピュラーな世俗音楽も歌いたがった。ゴスペルの師匠が、ある時「ゴスペルを歌うか、世俗を歌うか、どちらかを選びなさい」と彼女に言った。マダムは、両方歌いたがったが、結局、ひとつしか選べないということで、ゴスペルを去り、ポピュラー音楽(ソウル・ミュージック)に進む事にしたという。20歳頃のことだった。父方も母方の家族も歌うことが上手だったそうだ。
ちなみに従兄弟のひとりにデブラ・ヘンリー(Debra Henry)といい歌手がいて、パティー・ラベルのバックコーラスを20年以上やっている、という。そのデブラ・ヘンリーを調べてみると、なんとパティー・ラベルだけでなく、コン・ファンク・シャン、リンダ・ロンシュタッド、ブルース・ホーンズビーなどのバックも務めていた。
ハイスクール卒業後、ビューティー・カレッジ(美容学校)に通い、歌とは別に美容師(ヘア・スタイリスト)の道を歩み始めた。ここを出た後は、ビューティー・サロンさらに、ネイル・サロンに就職、ついには独立して、自身のビューティー・サロンも持った。そこでやっている内に、もっと大きな成功を夢見るようになった。オウナーが「だったらLAに行ったらどうだ、その気があるなら、(LA行きの)チケットをあげるよ」と背中を押してくれた。意を決し、1996年5月にロスアンジェルスへ引っ越す。
ロスでヘア・スタイリストをやったり、洋服のデザインをしたり、クラブなどで歌い、最近ではカリフォルニア州エンシノにある「スティーヴィーズ」という店で歌ったりしている。実際、ここで歌っているときにトニー・メイデンが見ていて、声をかけられ、ルーファスのライヴに参加するようになった。昨年のこと。影響を受けたシンガーは、アレサ・フランクリン、ヴァネッサ・ベル・アームストロング、カレン・クラーク・シアードなど。「私はパワフルなシンガーが好きなのよ」と彼女は言う。
ルーファス・ショーでの「エヴァーラスティング・ラヴ」は、彼女が入る前はドラマーのドーネルが歌っていた。トニーらのアイデアで彼女が歌うことになったようだ。ちょうど、ミラクルではDJキヨミさんが次々とルーファスの曲をかけている。ちょうど、「エニー・ラヴ」がかかっている。続いて「シェアリング・ラヴ」が流れると、みんな大合唱だ。
「その声は、両親譲りなのですか」 「さあ、母はすごく低い声よ。私はソプラノ。あ、でも、母はものすごく声が大きいわ。(笑)」 いいシンガーの条件、それは声が大きいことか?(笑) 彼女は声も大きく、よく通る。体格もがっしりしている。
ところで、なぜ、マダム・ディーなのか。本名は、ドゥワナ・パーカー。実は、この本名をみんながなかなか正確に発音ができなかった。「ある時、ニグロ・カレッジ・ファウンドの会合で歌うことになったの。司会者が私の名前を聞いてきた。私は、ドゥワナ・パーカーと答えた。どうもわかってそうもなかったので、紙に書きましょうか、と言った。するとその彼は、『大丈夫、大丈夫』と返事をしてきた。さて、本番になって、いよいよ私の出番になった。すると、その司会者は大きな声で言った。『さあ、ご紹介しましょう! タワンタ・パークス!』 オ~マイ・ゴッド! こりゃあ、この名前じゃダメだわ、と思ったわ。そこで、名前を考えることにした。ノース・キャロライナ時代にヘアーのことを学んだビューティー・スクールの先生がいるんだけど、その人がマダム・ディシェイザーと言ったの。その人はダーハムで初めて黒人のビューティー・カレッジを作った人なんだけど、私が学校にいる間に亡くなってしまった。そこで、そこから名前を取って、マダム・ディーにしたのよ。これ以来、名前をステージで間違って呼ばれることもなくなったわ。気に入ってる。たぶん、私は24歳以降、マダム・ディーとしてやっているわ」
「あなたはCDは出していないんですよね。なぜですか」 「さあ、わからないわ。私は今まで(レコード会社から)アプローチされなかったということね」
ところで、「ゴーイング・イン・サークルス」は、その「スティーヴィーズ」でよく歌っていたという。もちろん、フレンズ・オブ・ディスティンクションのヴァージョンも知っている。
マダムの横で、金髪のヴァル・ヤングがトニー・メイデンやドラマーのドネールと話している。一段落したところで、ヴァルと話をした。
(この項続く=次回はヴァル・ヤングなどについて)
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
(昨日の続き)
★【ルーファス(パート3)~ケヴィン・マーフィー語る】
歴史。
ケヴィンは日本に来るのは3回目だという。1回目がルーファスで東京音楽祭に出た時。シャカと同時に来日した。1976年6月のこと。次がデビュー当時14歳という女の子のブルーズ・ギタリストとして話題を集めたシャノン・カーフマンのバックで来日。ケヴィンは2000年ごろだと思うと言ってたので調べてみると、2000年5月のブルーズ・フェスだった。そして、今回が3回目。
ということは、84年のムゲンには来ていない? 「うん、来ていないなあ」 「ムゲンですか、懐かしい」と入ってきたのは、今回のもうひとりのキーボード奏者ミチコ・ヒルさん。東京出身のミチコさんは、とにかくソウル・ミュージックが好きで昔ムゲンに入り浸っていたという。その後80年代(1981年頃)になって本場のソウル・ミュージックを求めて、アメリカに渡った。アメリカでキーボード奏者として活動を始め、あちこちのライヴハウスなどでプレイするようになり、ミュージシャン界隈で知られるようになった。そして、今回来日しているベースのロバート・ピーウィー・ヒルは、彼女の夫。すでにグリーンカードではなく、アメリカ市民権も獲得し、従ってパスポートはもはやアメリカ、もちろん、選挙もできて、今回の大統領選にはオバマに一票を投じた一人。
さて、ルーファスは、ある意味でケヴィンが作ったバンドと言っていい。そこに何度かメンバーチェンジしているうちに、トニー・メイデンが入ってきて、以来、トニーとケヴィンはルーファスの核となった。お互い36-7年知っているということになる。
彼らは木曜のライヴ後、赤坂のソウルバー「ミラクル」に遊びに行った。もちろん、川畑さん、DJキヨミさんらも大歓迎。六本木のソウルバー「ワッツアップ」のマスター、カツミさんもいて、アナログ・レコードにサインをもらっている。そこで、ケヴィンに話の続きを聞く。
ケヴィンが言う。「僕は、元々ミネソタ州ミネアポリスの生まれだよ。1943年の9月21日生まれ。その後、シカゴに10年ほど住んでいた。そこでアメリカン・ブリードに入った。もっともグループの終盤だったけどね。69年くらいかなあ。ちょうどシカゴのラッシュ・ストリートという繁華街のようなところで、プレイしていた。ナイトクラブなんかがたくさんあるところだ。僕はそこで、ダンサーのバックでキーボードを弾いていた。そこに彼らが来て、プレイを気に入ってくれ、バンドに誘ってくれたんだ。で、そのアメリカン・ブリードに入るんだが、しばらくして、僕はグループを辞めた。すると他のメンバーもほぼ同じ時期に辞めてしまったんだ。で、僕が新しいバンドを作ることになったとき、その辞めた連中がみんな僕のところにやってきた。アンドレ・フィッシャーやアル・サイナーだ。これがルーファスの始まりだよ」
アメリカン・ブリードは、1967年暮れから「ベンド・ミー・シェープ・ミー」というポップの大ヒットを放ったポップ・グループ。リーダーは、ゲイリー・ロワイザーと言って、彼だけ新しいグループに入ってこなかった。ゲイリーは、この動きを不満に思ったらしい。ただケヴィンによれば、自分が辞めただけのことで残りの連中はケヴィンとは関係なく勝手に辞めたのだという。ただ彼らは、「あなたと一緒に行きたい」とケヴィンには言ったそうだ。つまり、アメリカン・ブリードのリーダーに人をひっぱる力、人徳がなくて、ケヴィンに人徳があったということなのだろう。それは、実際に彼に会って話すとよくわかる。ハッピーでとても人生を楽しんでいる人物だ。
このグループは当初はスモークと言っていたが、この最初のリード・シンガーは、ポーレット・マックウィリアムスという女性シンガーだった。バンドはシカゴのナイトクラブなどでけっこう人気となり、これを気に入った当地の若き女性シンガーが毎日これを見に来ていた。それがシャカ・カーンだった。
「ポーレットが辞めるときに、シャカがやってきて、オーディション受けさせてもらっていいかしら、と言ってきた。もちろん、といい受けるんだが、彼女は毎日来ていたから、すべての曲をもう知っていたんだ。だから、彼女が辞めた後、シャカはすぐに次のリード・シンガーになったんだよ。71年~72年あたりかな。その頃、彼女には大きな虫歯が2本あってね。それがすきっ歯みたいになって、そこに彼女はダイアモンドみたいなものをいれたがった。僕は言ったよ。『歯にダイアモンドはやめておきなさい』ってね(笑)」
「シカゴに引っ越したのは、ディック・クラークのキャラヴァンに参加することになってからだ。これは、ディック・クラークの(テレビ番組)『アメリカン・バンドスタンド』の地方巡業もの。3年ほどやった。1960年代だな。1965年くらいから3年くらいかな。だいたい毎回10組くらいの歌だけのグループがいて、それぞれが2-3曲ずつ歌うんだが、僕らはそのバックバンドだった。オルガンを弾いて、アナウンサーをやった。次に出るアーティストの紹介をしてた。大体1回で3ヶ月ツアーに出る。バスで全米を回るんだよ。それはそれは大変だった。バックをつけたアーティストに、シュープリームスがいた。確か、最初のヒット、何だっけ。『ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー』、それが出た直後、彼女たちは10組いる内の一番最初にでるアーティストだった。だが、ツアーが終わる頃には彼女たちは、トリ(一番最後にでるアーティスト)になっていたよ。ほんと大きくなっていた。他には、ジーン・ピットニー、ブライアン・ハイランド、チャッド・ジェレミー、ゾンビーズ…。コースターズ、ドリフターズ…。名前が思い出せないアーティストがたくさんいるな…」
「バスでの移動は本当にきついんだよ。ろくに寝るところなんかもなかった。荷物室で寝たこともあった。僕は、これを3回やったんだ。それで、もういいという感じになって、本拠を定めることにした」 バスツアー時代のおもしろいエピソードを何か教えてください。「いやあ、あまりに多すぎて。でも、話せる話はない。(爆笑)」
ケヴィンの声はライヴでもMC、いや、CM宣伝でさんざん聴かれたと思うが、実に深いいい声、マイクのりのする声だ。DJでもやっているかと思うほど。「DJはやらないのですか」と尋ねると、「DJはやってないな。音楽をプレイするほうが好きだから。(笑)今の人生でとてもハッピーだよ。好きな音楽をプレイできて、時々、こうやって日本にも来られて。日本の人たちはみんなよくしてくれる。あ、DJはやってないが、ヴォイス・オーヴァー(声のナレーション、CMの声などのこと)はやったことがあるよ。ナントカカントカ(英語で早口でCM風にやってくれたがわからず)~~」
ルーファスっていうのは、解散していたんですか、と訊くと「ルーファスは一度も解散していない。トニーと僕でずっとやっている。トニーのことは、彼が結婚している期間より長く知ってるんだよ(笑)」
「(ルーファス以外の活動?) 僕は今、孫の世話なんかしてるよ。(笑) 結婚して44年。僕にとって人生とは、ゆっくり楽しむものなんだ。これ(今回の来日)なんか、僕の人生にとってのグレーヴィー・ソースみたいなものだ。(人生をおいしく味付けるソース、といったところか。グレーヴィー=思いがけない利得みたいなもの) 素晴らしい家族と、仲間がいて、とても楽しんでいるよ」
(この項続く=次回はマダム・ディー、ヴァル・ヤングなどについて)
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
★【ルーファス(パート3)~ケヴィン・マーフィー語る】
歴史。
ケヴィンは日本に来るのは3回目だという。1回目がルーファスで東京音楽祭に出た時。シャカと同時に来日した。1976年6月のこと。次がデビュー当時14歳という女の子のブルーズ・ギタリストとして話題を集めたシャノン・カーフマンのバックで来日。ケヴィンは2000年ごろだと思うと言ってたので調べてみると、2000年5月のブルーズ・フェスだった。そして、今回が3回目。
ということは、84年のムゲンには来ていない? 「うん、来ていないなあ」 「ムゲンですか、懐かしい」と入ってきたのは、今回のもうひとりのキーボード奏者ミチコ・ヒルさん。東京出身のミチコさんは、とにかくソウル・ミュージックが好きで昔ムゲンに入り浸っていたという。その後80年代(1981年頃)になって本場のソウル・ミュージックを求めて、アメリカに渡った。アメリカでキーボード奏者として活動を始め、あちこちのライヴハウスなどでプレイするようになり、ミュージシャン界隈で知られるようになった。そして、今回来日しているベースのロバート・ピーウィー・ヒルは、彼女の夫。すでにグリーンカードではなく、アメリカ市民権も獲得し、従ってパスポートはもはやアメリカ、もちろん、選挙もできて、今回の大統領選にはオバマに一票を投じた一人。
さて、ルーファスは、ある意味でケヴィンが作ったバンドと言っていい。そこに何度かメンバーチェンジしているうちに、トニー・メイデンが入ってきて、以来、トニーとケヴィンはルーファスの核となった。お互い36-7年知っているということになる。
彼らは木曜のライヴ後、赤坂のソウルバー「ミラクル」に遊びに行った。もちろん、川畑さん、DJキヨミさんらも大歓迎。六本木のソウルバー「ワッツアップ」のマスター、カツミさんもいて、アナログ・レコードにサインをもらっている。そこで、ケヴィンに話の続きを聞く。
ケヴィンが言う。「僕は、元々ミネソタ州ミネアポリスの生まれだよ。1943年の9月21日生まれ。その後、シカゴに10年ほど住んでいた。そこでアメリカン・ブリードに入った。もっともグループの終盤だったけどね。69年くらいかなあ。ちょうどシカゴのラッシュ・ストリートという繁華街のようなところで、プレイしていた。ナイトクラブなんかがたくさんあるところだ。僕はそこで、ダンサーのバックでキーボードを弾いていた。そこに彼らが来て、プレイを気に入ってくれ、バンドに誘ってくれたんだ。で、そのアメリカン・ブリードに入るんだが、しばらくして、僕はグループを辞めた。すると他のメンバーもほぼ同じ時期に辞めてしまったんだ。で、僕が新しいバンドを作ることになったとき、その辞めた連中がみんな僕のところにやってきた。アンドレ・フィッシャーやアル・サイナーだ。これがルーファスの始まりだよ」
アメリカン・ブリードは、1967年暮れから「ベンド・ミー・シェープ・ミー」というポップの大ヒットを放ったポップ・グループ。リーダーは、ゲイリー・ロワイザーと言って、彼だけ新しいグループに入ってこなかった。ゲイリーは、この動きを不満に思ったらしい。ただケヴィンによれば、自分が辞めただけのことで残りの連中はケヴィンとは関係なく勝手に辞めたのだという。ただ彼らは、「あなたと一緒に行きたい」とケヴィンには言ったそうだ。つまり、アメリカン・ブリードのリーダーに人をひっぱる力、人徳がなくて、ケヴィンに人徳があったということなのだろう。それは、実際に彼に会って話すとよくわかる。ハッピーでとても人生を楽しんでいる人物だ。
このグループは当初はスモークと言っていたが、この最初のリード・シンガーは、ポーレット・マックウィリアムスという女性シンガーだった。バンドはシカゴのナイトクラブなどでけっこう人気となり、これを気に入った当地の若き女性シンガーが毎日これを見に来ていた。それがシャカ・カーンだった。
「ポーレットが辞めるときに、シャカがやってきて、オーディション受けさせてもらっていいかしら、と言ってきた。もちろん、といい受けるんだが、彼女は毎日来ていたから、すべての曲をもう知っていたんだ。だから、彼女が辞めた後、シャカはすぐに次のリード・シンガーになったんだよ。71年~72年あたりかな。その頃、彼女には大きな虫歯が2本あってね。それがすきっ歯みたいになって、そこに彼女はダイアモンドみたいなものをいれたがった。僕は言ったよ。『歯にダイアモンドはやめておきなさい』ってね(笑)」
「シカゴに引っ越したのは、ディック・クラークのキャラヴァンに参加することになってからだ。これは、ディック・クラークの(テレビ番組)『アメリカン・バンドスタンド』の地方巡業もの。3年ほどやった。1960年代だな。1965年くらいから3年くらいかな。だいたい毎回10組くらいの歌だけのグループがいて、それぞれが2-3曲ずつ歌うんだが、僕らはそのバックバンドだった。オルガンを弾いて、アナウンサーをやった。次に出るアーティストの紹介をしてた。大体1回で3ヶ月ツアーに出る。バスで全米を回るんだよ。それはそれは大変だった。バックをつけたアーティストに、シュープリームスがいた。確か、最初のヒット、何だっけ。『ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー』、それが出た直後、彼女たちは10組いる内の一番最初にでるアーティストだった。だが、ツアーが終わる頃には彼女たちは、トリ(一番最後にでるアーティスト)になっていたよ。ほんと大きくなっていた。他には、ジーン・ピットニー、ブライアン・ハイランド、チャッド・ジェレミー、ゾンビーズ…。コースターズ、ドリフターズ…。名前が思い出せないアーティストがたくさんいるな…」
「バスでの移動は本当にきついんだよ。ろくに寝るところなんかもなかった。荷物室で寝たこともあった。僕は、これを3回やったんだ。それで、もういいという感じになって、本拠を定めることにした」 バスツアー時代のおもしろいエピソードを何か教えてください。「いやあ、あまりに多すぎて。でも、話せる話はない。(爆笑)」
ケヴィンの声はライヴでもMC、いや、CM宣伝でさんざん聴かれたと思うが、実に深いいい声、マイクのりのする声だ。DJでもやっているかと思うほど。「DJはやらないのですか」と尋ねると、「DJはやってないな。音楽をプレイするほうが好きだから。(笑)今の人生でとてもハッピーだよ。好きな音楽をプレイできて、時々、こうやって日本にも来られて。日本の人たちはみんなよくしてくれる。あ、DJはやってないが、ヴォイス・オーヴァー(声のナレーション、CMの声などのこと)はやったことがあるよ。ナントカカントカ(英語で早口でCM風にやってくれたがわからず)~~」
ルーファスっていうのは、解散していたんですか、と訊くと「ルーファスは一度も解散していない。トニーと僕でずっとやっている。トニーのことは、彼が結婚している期間より長く知ってるんだよ(笑)」
「(ルーファス以外の活動?) 僕は今、孫の世話なんかしてるよ。(笑) 結婚して44年。僕にとって人生とは、ゆっくり楽しむものなんだ。これ(今回の来日)なんか、僕の人生にとってのグレーヴィー・ソースみたいなものだ。(人生をおいしく味付けるソース、といったところか。グレーヴィー=思いがけない利得みたいなもの) 素晴らしい家族と、仲間がいて、とても楽しんでいるよ」
(この項続く=次回はマダム・ディー、ヴァル・ヤングなどについて)
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
▲【ルーファス(パート2)~トニー・メイデン語る】
雑談。
ルーファスのファンキーなライヴが終わると、メンバーがサイン会にでてきた。そして、ファンと写真を撮ったり、お話をしたり大サーヴィス。一段落したところで、すでにリーダー格トニーと親しく仕事などもしている松浦さんが紹介してくれた。
名刺を渡すと、夜でもサングラスのトニーが「おおっ、ソウル・サーチンか、これは気に入った。(笑) 今夜はあちこちにたくさんソウルがあっただろ(笑)」といきなり全開。立ち話で他愛もない雑談が始まり、なんとなくマーヴィン・ゲイの話になった。するとトニーが言った。「むかし、マーヴィンが僕に電話してきて、このグループ(ルーファス)を彼のバックバンドにしたいと言ってきたんだ。でも、その時僕はライオネル・リッチー(のバンド)に入っていたので、それはできなかった」 「いつ頃?」 「1980年代のどこかだと思う。かなり昔だよ。マーヴィンの音楽は大好きだよ。彼とは本当に一緒に仕事をしたかったなあ。シーラEがそのとき、マーヴィンとプレイしていた。それで連絡があったみたいだ」 「マーヴィンは1939年生まれで、生きていれば来年70歳になるんだ」 「おおっ、そうか、僕は1949年生まれだよ。来年60だ」 トニーの元にはいろいろな人から電話がかかってくるらしい。
マーヴィンともう一人、トニーが一緒に共演したかった人物がいる。それがなんとあのジャズの巨匠マイルス・デイヴィス(1926~1991)だった。「あの時も突然電話がかかってきた。僕はそれまでいわゆるジャズ・ギタリストではなかった。だから誘われたことはとてつもなく嬉しかったよ。たぶんファンキーなギターが欲しかったんだろう。(マイルスから誘われた後)僕をジャズに導いてくれたのは、アル・ジャロウだ。アルとのライヴは素晴らしかった。レニー・キャストロ、ジョー・サンプル、アンソニー・ジャクソン、ラリー・ウィリアムスなどと一緒にやった。たしか、90年代に大阪のブルー・ノートでやった。他には、ハーブ・アルパートともやった」
好きなギタリストは、と訊くとすぐに「ウェス・モンゴメリー、BBキング、そして、ジミ・ヘンドリックス」と答えた。「おおっ、ウェスはジャズ、BBはブルーズ、ジミはロック、オール・ジャンルをカヴァーするんですね」 「そうだな。ウェスのシンプリシティーとオクターヴ奏法が好き。BBも、シンプルだ。あらゆるタイプの音楽のコンビネーションが好きなんだ。グッド・メルティング・ポット(いいるつぼ)だろ。もちろん、マイルスのところのジョン・マクラフリンも好きだよ」
「一度、スムース・ジャズでソロ・アルバムを作ったことがあるんだけど、どうも、僕の趣味じゃなくてね(笑)。僕はいろんな人と一緒にプレイできて幸せだよ。僕はいつかティナ・ターナーと一緒にやりたいんだ。(彼女は)たぶん、今はパリに住んでるんじゃないかな。ツアーを始めたはずだ」 「あれ、引退したんじゃないかな」 「あらゆるアーティストがみな、引退って言うんだよ。アーティストが引退して、毎日テレビでも見てると思うかい?(笑) そんなのすぐに飽きるに決まってるじゃないか(笑)シェールも、ローリング・ストーンズも、みんな、決して終わらないんだよ。もちろん、僕たち(ルーファス)もね。BBキングが言うように、死ぬまで止めないよ、って感じだな」
「BBには会ったことある?」 「もちろん、僕の古いギターにBBからサインをもらったんだ。古いエスクワイアーね。宝物だよ」 「ひょっとして、BBからギター・ピックもらった?」 「おおっ、もらったよ!」 「僕ももらった。彼は会う人みんなにあげられるように、いつもピックをたくさん持ってるんだ。でも、BBからギター・ピックをもらったら、みんな大喜びするよね」 「イエ~~ッ!」 「彼は、本当にナイス・ガイだよね。あ、そうだ、信じられるかい。僕が昔ポーラ・アブドゥールのツアーをやっていた時、BBは、なんとそのオープニング・アクト(前座)だったんだよ」 「ええええっ???(腹の底から驚く) BBがオープニングっ??」 「どういうコンビネーションだか、まったくわからないが、実際そうだったんだ。ほんと奇妙な組み合わせだ。たぶん、プロモーターのアイデアだろうな。BBはブルーズ・キングだからねえ。ほんと不思議だ。まあ、ただそのライヴは『フェスティヴァル』のようなもので、いろんなアーティストが出るんで、そんな組み合わせになったのかもしれないな」
「ポーラは、ほとんどリップシンク(口パク)って聞いたけど、本当かな」と僕が言うと、彼はにやっと笑い、一呼吸おいて答えた。「その通りだ(笑) ま、彼女は本当は歌えるんだ。でも、(歌うことに)自信がないんだね。だから踊ることに集中するときには、踊りに集中したいんだろう。彼女は元々レイカーズ・ガールだったからね。それから振り付け師になって、ジャクソンズ、ジャネットの仕事をするんだよね」
トニーが続ける。「おもしろい話があるよ。ポーラのライヴは、実は僕にとってはとても退屈でね。(笑) というのも、ほとんどシークエンス(打ち込み)でやっているから、ミュージシャンの自由なアドリブとかのパートがまったくないんだ。きっちり、すべて作りこまれている。あるとき、『ザ・ウェイ・ユー・ザット・ユー・ラヴ・ミー』をやっている時だった。LAのフォーラムでやった時だ。そこで、シークエンスを飛ばして、この曲の途中でブレイクダウンして、観客の参加を求め自由な感じのやりとりをしたんだ。みんなそれについてきてくれて、すごくうまく行った。そうしたら、マネージャーが終わった後やってきて、『あれ、毎晩やってくれ』って言うんだよ。『ちゃんとリハーサルして、毎晩やろう』とね。僕はマネージャーに言った。『これは、ひとりでに自然にそうなるもんで、リハーサルとかするものじゃない。やる晩もあれば、のらずにやらない晩もある』とね」
もちろん、今回のルーファス・ライヴでは、「テル・ミー・サムシング・グッド」で観客にそのサビを歌わせたり、「エイント・ノーバーディ」ではミュージシャンを紹介し、いくつかのソロをいれたりしている。木曜のセカンドでは、なんと前者で我らがブレンダ・ヴォーンと、広尾やブルースアレーでライヴを見せたアンドレア・ホプキンスが客席にいて、見事に歌い、満員の観客を驚かせた。スポンテニアス(自然にアドリブ)は、ライヴのカギだ。
「(アブドゥールの)バンドは素晴らしいよ。ドラマーは、ソニー・エモリーだった」 「ソニー・エモリー! 最近彼はどうしてるの?」 「え~と、確か、シェールのツアーじゃないかな、ちがう、ベット・ミドラーだ! 彼女がラスヴェガスでビッグショーをやっていて、それをずっとやっている。ベースはサム・シムズだった。サムはジャネットとやったり、スティーヴィー・ニックスとやっている。ダリル・スミスがキーボード…だったかな」
トニー・メイデンは1949年6月17日生まれ。現在59歳だが、ギタープレイ、パフォーマンスなど実に若くてかっこいい。ちょっとベースのピーウィとともに、ナイル・ロジャース&バーナード・エドワーズ・コンビを思わせる。
その横にオルガンを弾いていたケヴィン・マーフィーがいてニコニコしている。ケヴィンも語るべき多くのストーリーを持っている人物に違いない。
(この項続く)
■ ルーファス @ ブルーノート東京 ライヴ
November 13, 2008
Rufus @ Blue Note (Part 1)
http://blog.soulsearchin.com/archives/002732.html
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
ENT>MUSIC>ARTIST>Maiden, Tony
2008-186
雑談。
ルーファスのファンキーなライヴが終わると、メンバーがサイン会にでてきた。そして、ファンと写真を撮ったり、お話をしたり大サーヴィス。一段落したところで、すでにリーダー格トニーと親しく仕事などもしている松浦さんが紹介してくれた。
名刺を渡すと、夜でもサングラスのトニーが「おおっ、ソウル・サーチンか、これは気に入った。(笑) 今夜はあちこちにたくさんソウルがあっただろ(笑)」といきなり全開。立ち話で他愛もない雑談が始まり、なんとなくマーヴィン・ゲイの話になった。するとトニーが言った。「むかし、マーヴィンが僕に電話してきて、このグループ(ルーファス)を彼のバックバンドにしたいと言ってきたんだ。でも、その時僕はライオネル・リッチー(のバンド)に入っていたので、それはできなかった」 「いつ頃?」 「1980年代のどこかだと思う。かなり昔だよ。マーヴィンの音楽は大好きだよ。彼とは本当に一緒に仕事をしたかったなあ。シーラEがそのとき、マーヴィンとプレイしていた。それで連絡があったみたいだ」 「マーヴィンは1939年生まれで、生きていれば来年70歳になるんだ」 「おおっ、そうか、僕は1949年生まれだよ。来年60だ」 トニーの元にはいろいろな人から電話がかかってくるらしい。
マーヴィンともう一人、トニーが一緒に共演したかった人物がいる。それがなんとあのジャズの巨匠マイルス・デイヴィス(1926~1991)だった。「あの時も突然電話がかかってきた。僕はそれまでいわゆるジャズ・ギタリストではなかった。だから誘われたことはとてつもなく嬉しかったよ。たぶんファンキーなギターが欲しかったんだろう。(マイルスから誘われた後)僕をジャズに導いてくれたのは、アル・ジャロウだ。アルとのライヴは素晴らしかった。レニー・キャストロ、ジョー・サンプル、アンソニー・ジャクソン、ラリー・ウィリアムスなどと一緒にやった。たしか、90年代に大阪のブルー・ノートでやった。他には、ハーブ・アルパートともやった」
好きなギタリストは、と訊くとすぐに「ウェス・モンゴメリー、BBキング、そして、ジミ・ヘンドリックス」と答えた。「おおっ、ウェスはジャズ、BBはブルーズ、ジミはロック、オール・ジャンルをカヴァーするんですね」 「そうだな。ウェスのシンプリシティーとオクターヴ奏法が好き。BBも、シンプルだ。あらゆるタイプの音楽のコンビネーションが好きなんだ。グッド・メルティング・ポット(いいるつぼ)だろ。もちろん、マイルスのところのジョン・マクラフリンも好きだよ」
「一度、スムース・ジャズでソロ・アルバムを作ったことがあるんだけど、どうも、僕の趣味じゃなくてね(笑)。僕はいろんな人と一緒にプレイできて幸せだよ。僕はいつかティナ・ターナーと一緒にやりたいんだ。(彼女は)たぶん、今はパリに住んでるんじゃないかな。ツアーを始めたはずだ」 「あれ、引退したんじゃないかな」 「あらゆるアーティストがみな、引退って言うんだよ。アーティストが引退して、毎日テレビでも見てると思うかい?(笑) そんなのすぐに飽きるに決まってるじゃないか(笑)シェールも、ローリング・ストーンズも、みんな、決して終わらないんだよ。もちろん、僕たち(ルーファス)もね。BBキングが言うように、死ぬまで止めないよ、って感じだな」
「BBには会ったことある?」 「もちろん、僕の古いギターにBBからサインをもらったんだ。古いエスクワイアーね。宝物だよ」 「ひょっとして、BBからギター・ピックもらった?」 「おおっ、もらったよ!」 「僕ももらった。彼は会う人みんなにあげられるように、いつもピックをたくさん持ってるんだ。でも、BBからギター・ピックをもらったら、みんな大喜びするよね」 「イエ~~ッ!」 「彼は、本当にナイス・ガイだよね。あ、そうだ、信じられるかい。僕が昔ポーラ・アブドゥールのツアーをやっていた時、BBは、なんとそのオープニング・アクト(前座)だったんだよ」 「ええええっ???(腹の底から驚く) BBがオープニングっ??」 「どういうコンビネーションだか、まったくわからないが、実際そうだったんだ。ほんと奇妙な組み合わせだ。たぶん、プロモーターのアイデアだろうな。BBはブルーズ・キングだからねえ。ほんと不思議だ。まあ、ただそのライヴは『フェスティヴァル』のようなもので、いろんなアーティストが出るんで、そんな組み合わせになったのかもしれないな」
「ポーラは、ほとんどリップシンク(口パク)って聞いたけど、本当かな」と僕が言うと、彼はにやっと笑い、一呼吸おいて答えた。「その通りだ(笑) ま、彼女は本当は歌えるんだ。でも、(歌うことに)自信がないんだね。だから踊ることに集中するときには、踊りに集中したいんだろう。彼女は元々レイカーズ・ガールだったからね。それから振り付け師になって、ジャクソンズ、ジャネットの仕事をするんだよね」
トニーが続ける。「おもしろい話があるよ。ポーラのライヴは、実は僕にとってはとても退屈でね。(笑) というのも、ほとんどシークエンス(打ち込み)でやっているから、ミュージシャンの自由なアドリブとかのパートがまったくないんだ。きっちり、すべて作りこまれている。あるとき、『ザ・ウェイ・ユー・ザット・ユー・ラヴ・ミー』をやっている時だった。LAのフォーラムでやった時だ。そこで、シークエンスを飛ばして、この曲の途中でブレイクダウンして、観客の参加を求め自由な感じのやりとりをしたんだ。みんなそれについてきてくれて、すごくうまく行った。そうしたら、マネージャーが終わった後やってきて、『あれ、毎晩やってくれ』って言うんだよ。『ちゃんとリハーサルして、毎晩やろう』とね。僕はマネージャーに言った。『これは、ひとりでに自然にそうなるもんで、リハーサルとかするものじゃない。やる晩もあれば、のらずにやらない晩もある』とね」
もちろん、今回のルーファス・ライヴでは、「テル・ミー・サムシング・グッド」で観客にそのサビを歌わせたり、「エイント・ノーバーディ」ではミュージシャンを紹介し、いくつかのソロをいれたりしている。木曜のセカンドでは、なんと前者で我らがブレンダ・ヴォーンと、広尾やブルースアレーでライヴを見せたアンドレア・ホプキンスが客席にいて、見事に歌い、満員の観客を驚かせた。スポンテニアス(自然にアドリブ)は、ライヴのカギだ。
「(アブドゥールの)バンドは素晴らしいよ。ドラマーは、ソニー・エモリーだった」 「ソニー・エモリー! 最近彼はどうしてるの?」 「え~と、確か、シェールのツアーじゃないかな、ちがう、ベット・ミドラーだ! 彼女がラスヴェガスでビッグショーをやっていて、それをずっとやっている。ベースはサム・シムズだった。サムはジャネットとやったり、スティーヴィー・ニックスとやっている。ダリル・スミスがキーボード…だったかな」
トニー・メイデンは1949年6月17日生まれ。現在59歳だが、ギタープレイ、パフォーマンスなど実に若くてかっこいい。ちょっとベースのピーウィとともに、ナイル・ロジャース&バーナード・エドワーズ・コンビを思わせる。
その横にオルガンを弾いていたケヴィン・マーフィーがいてニコニコしている。ケヴィンも語るべき多くのストーリーを持っている人物に違いない。
(この項続く)
■ ルーファス @ ブルーノート東京 ライヴ
November 13, 2008
Rufus @ Blue Note (Part 1)
http://blog.soulsearchin.com/archives/002732.html
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
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ENT>MUSIC>ARTIST>Maiden, Tony
2008-186
■Miriam Makeba Dies At 76
2008年11月14日 音楽■【ミリアム・マケバ死去~「パタ・パタ」の大ヒット】
訃報。
サウス・アフリカ出身のシンガー、ミリアム・マケバが去る2008年11月10日、出張先のイタリア南部ナポリ近くのカセータの病院で心臓発作のため死去した。76歳だった。
マケバは、作家ロバート・サヴィアーノのためのコンサートに他のアーティストと出演した後に、体調が悪くなり、病院に運ばれ死去したという。ステージで「パタ・パタ」を踊った後、舞台袖に戻り、関係者の腕の中で倒れた、という報告もある。
ミリアム・マケバは「ママ・アフリカ」の愛称で知られるシンガー。1932年(昭和7年)3月4日、南アフリカ国ヨハネスブルグ生まれ。1959年、同地のグループ、マンハッタン・ブラザースの一員としてアメリカ・ツアーを行うが、翌年帰国しようとしたときに、母国で「アパルトヘイト(人種隔離政策)」が勃発。マケバの市民権が剥奪され、彼女の音楽も禁止されてしまった。その結果、彼女は以来ずっと南アフリカに帰れないまま「亡命生活」を余儀なくされる。
1964年から1966年まで、同じ南アフリカ出身のトランペター、ヒュー・マサケラと結婚していた。
1966年、マケバはその前年にハリー・ベラフォンテとともに出したアルバム『アン・イヴニング・ウィズ・ベラフォンテ/マケバ』で、グラミー賞「ベスト・フォーク・レコーディング」部門を獲得した。
1967年、自国のダンスをモチーフにした楽曲「パタ・パタ」がアメリカを始め世界で大ヒット。一躍有名になった。ニーナ・シモン、デージー・ガレスピーなどとともに共演。また、ジョン・F・ケネディー、ネルソン・マンデラらの前でも歌った。
「反アパルトヘイト」活動家として、2度国連でスピーチをしたり、積極的に活動していた。
しかし、彼女の生涯は決して恵まれたものではなかった。1985年、彼女の一人娘が36歳で急死したとき、マケバには棺を買う現金もなく、多くの友人たちが協力したという。その後、アパルトヘイトが終わり、ネルソン・マンデラが解放されると晴れて母国南アフリカに戻った。
現在葬儀をどうするか検討されているが、遺体を南アフリカに戻すように手配中。また、孫娘のゼンジ・ミヒゼさんは、「遺灰を海にまいてほしいと願っていた」と述べている。
■ ミリアム・マケバ死去・記事の1本
http://www.iol.co.za/index.php?set_id=1&click_id=139&art_id=nw20081111093036343C388466
ENT>OBITUARY> Makeba, Miriam (3/4/1932- 11/10/2008, 76)
訃報。
サウス・アフリカ出身のシンガー、ミリアム・マケバが去る2008年11月10日、出張先のイタリア南部ナポリ近くのカセータの病院で心臓発作のため死去した。76歳だった。
マケバは、作家ロバート・サヴィアーノのためのコンサートに他のアーティストと出演した後に、体調が悪くなり、病院に運ばれ死去したという。ステージで「パタ・パタ」を踊った後、舞台袖に戻り、関係者の腕の中で倒れた、という報告もある。
ミリアム・マケバは「ママ・アフリカ」の愛称で知られるシンガー。1932年(昭和7年)3月4日、南アフリカ国ヨハネスブルグ生まれ。1959年、同地のグループ、マンハッタン・ブラザースの一員としてアメリカ・ツアーを行うが、翌年帰国しようとしたときに、母国で「アパルトヘイト(人種隔離政策)」が勃発。マケバの市民権が剥奪され、彼女の音楽も禁止されてしまった。その結果、彼女は以来ずっと南アフリカに帰れないまま「亡命生活」を余儀なくされる。
1964年から1966年まで、同じ南アフリカ出身のトランペター、ヒュー・マサケラと結婚していた。
1966年、マケバはその前年にハリー・ベラフォンテとともに出したアルバム『アン・イヴニング・ウィズ・ベラフォンテ/マケバ』で、グラミー賞「ベスト・フォーク・レコーディング」部門を獲得した。
1967年、自国のダンスをモチーフにした楽曲「パタ・パタ」がアメリカを始め世界で大ヒット。一躍有名になった。ニーナ・シモン、デージー・ガレスピーなどとともに共演。また、ジョン・F・ケネディー、ネルソン・マンデラらの前でも歌った。
「反アパルトヘイト」活動家として、2度国連でスピーチをしたり、積極的に活動していた。
しかし、彼女の生涯は決して恵まれたものではなかった。1985年、彼女の一人娘が36歳で急死したとき、マケバには棺を買う現金もなく、多くの友人たちが協力したという。その後、アパルトヘイトが終わり、ネルソン・マンデラが解放されると晴れて母国南アフリカに戻った。
現在葬儀をどうするか検討されているが、遺体を南アフリカに戻すように手配中。また、孫娘のゼンジ・ミヒゼさんは、「遺灰を海にまいてほしいと願っていた」と述べている。
■ ミリアム・マケバ死去・記事の1本
http://www.iol.co.za/index.php?set_id=1&click_id=139&art_id=nw20081111093036343C388466
ENT>OBITUARY> Makeba, Miriam (3/4/1932- 11/10/2008, 76)
●Rufus Live @ Blue Note (Part 1)
2008年11月13日 音楽●【ルーファス@ブルーノート・ライヴ】
タイト。
1970年代に多くのヒットを放ったブラックのセルフ・コンテインド・グループ(自分たちで曲を書き、演奏し、歌う、すべてを自給自足でやるグループ)のひとつとして大きな人気を放ったルーファス。グループとしては、アース、クール&ザ・ギャング、コモドアーズ、オハイオ・プレイヤーズらと並んで人気となったが、リード・シンガーからソロに転じ大きな成功を収めたシャカ・カーンのいたグループとしても有名だ。
前回のシャカ・ソロ・ライヴ(2008年6月、ビルボード・ライヴ)で実にかっこいいギターを聴かせたオリジナル・ルーファス・メンバー、トニー・メイデン率いる強力バンドだ。今回はもうひとりのオリジナル・メンバー、ケヴィン・マーフィー(いい味でハモンドを弾く)も帯同していて色を添える。ルーファスとしては、1976年6月(東京音楽祭)、1984年12月(赤坂ムゲン)以来、3度目約24年ぶりの来日。
今回は、ドラムス、ギター2人、ベース、キーボード3人、パーカッション、歌4人という最大12人がオンステージという、まさに大型バンド。基本的には、トニーがバンドマスターで、全体的にはよくまとまったリズムとグルーヴを生み出し、なかなかタイトなバンドとなっていた。
いくつも見所があるが、ヴォーカル4人の中で一番強力だったのが、マダム・ディーというシンガー。それはそれは迫力あるパンチの効いたヴォーカルを聴かせる。一方、トニーの娘というアマンダが一番多くリードを取るがマダムあたりと比較すると若干力不足の点は否めない。他にシンガーは、インコグニートなどで有名なメイサ・リーグ。ヴァル・ヤングは、「オール・ナイト・ロング」のヒットを放ったメリー・ジェーン・ガールズの一員でもあり、『セダクション』というアルバムも出しているシンガー。メイサもヴァルでさえも、マダムの前にひれ伏す感じだ。このマダム、トニーがロスアンジェルスのライヴハウスで見つけてスカウトしたシンガーで、まだCDなどはだしていない、という。
白人のイケメン・キーボード、ブライアンも自身のアルバムを出したところで、そこからブッツィー・コリンズとの共作曲などをがんばって演奏した。かなりのエンタテイナーで、サックスのデイヴ・コーズに対してキーボードのブライアンという立ち位置になりそう。彼は彼で、ソロでのライヴも楽しみ。
この中ではトニーの技量がずば抜けているのは間違いないが、ドラムス、ベースとのリズム隊はかなりいい。ドラムスは最近ではジョディー・ワトリーで来ていたという。なので、バンドとしてかなりまとまり、ヴォーカル陣の弱点をカヴァーする。
僕はシンガーの主役をマダムにすると一番いいと思う。いわゆる1970年代風のシャウト系ヴォーカルで、いかにもシャカ・カーン系なヴォーカルだ。リハーサルなどの時間的制約で、他のシンガーが歌わざるを得ないようだが、バンド・サウンドがまとまっているだけに惜しい。ひとついえるのはシャカのバンドは、かなりひどいので、このバンドにシャカ・カーンが入ったら相当いい感じになるだろうということ。あっちを立てれば、こっちが立たず。そううまく行かないのが、この音楽業界の難しいところ。
ルーファス曲としては、他に「At Midnight」、「Hollywood」(これは他の日にやった)、「Tonight We Love」「Pack’d My Bags」「 I’m A Woman (I’m A Backbone)」なども聴きたい。
アンコールでメイサがスティーヴィーの「オール・アイ・ドゥー」をカヴァーして歌ったが、これは彼女の最新アルバムに収録されていて、イギリスでヒットしているためだそうだ。ヴァル・ヤングは他の日には、メリー・ジェーン・ガールズの「オール・ナイト・ロング」を歌ったそうだが、そうなるとブライアン、メイサらも含めてそれぞれのショーケース的な雰囲気もでてくる。それはそれでひとつの方向性ではあるだろうが、ルーファスに焦点を集めることも重要だ。ま、難しいところではあるが。
僕はシャカ・カーンの日本での人気を10とすると、ルーファスは8くらいの人気や知名度があるのかと思っていたが、それは若干楽観的すぎたようで、実際は5くらいしかないのかもしれない。ただし、しっかりとこれくらいのライヴをやっていればリピーターもつくはず。シャカとルーファス、いわゆる人気、ヒット曲の数、というものの差を感じた。シンガー陣を立て直して、また来て欲しい。
ライヴ後、彼らはすぐにサイン会。そこで、トニーらと少し話す機会があった。その模様は明日以降に。
■ 関連記事
June 03, 2008
Chaka Khan Live @ Hi Energy Performance
http://blog.soulsearchin.com/archives/002552.html
2008年6月2日(月)ビルボード・ライヴのライヴ評
■メンバー
トニー・メイデン(ヴォーカル、ギター)Tony Maiden(vo,g)
ケヴィン・マーフィー(キーボード、オルガン、ヴォーカル)Kevin Murphy(key,org,vo)
ブライアン・カルバートソン(トロンボーン、キーボード、ヴォーカル)Brian Culbertson(tb,key,vo)
メイサ・リーク(ヴォーカル)Maysa Leak(vo)
アマンダ・メイデン(ヴォーカル)Amanda Maiden(vo)
ヴァル・ヤング(ヴォーカル)Val Young(vo)
マダム・ディー(ヴォーカル)Madam Dee(vo)
ダレル・クロックス(ギター)Darrell Crooks(g)
ミチコ・ヒル(キーボード)Michiko Hill(key)
ロバート・ヒル(ベース)Robert Hill(b)
ドネル・スペンサー(ドラムス)Donnell Spencer(ds)
レニー・カストロ(パーカッション)Lenny Castro(per)
■セットリスト ルーファス ブルーノート東京 2008年11月12日
Setlist : Rufus featuring Brian Culbertson & Maysa Leak @ Blue Note Tokyo, November 12, 2008
( ) lead singer or artist
show started 21:37
01. Once You Get Started (Tony) [Rufus - 1975]
02. Any Love (Maysa) [Rufus - 1980]
03. Dance With Me (Val) [Rufus - 1976]
04. You Got The love (Amanda) [Rufus - 1974]
05. Funkin’ Like My Father (Brian) [Brian’s solo album]
06. So Good (Brian) [Brian’s solo album]
07. Everlasting Love (Madam Dee) [Rufus - 1977]
08. Going In Circles (Madam Dee) [Friends Of Distinction - 1969]
09. Tell Me Something Good (Amanda) [Rufus - 1974]
10. Sweet Thing (Amanda) [Rufus - 1975]
11. You’re Welcome, Stop On By (Amanda + Tony, Tony on guitar solo) [Bobby Womack - 1974]
12. Ain’t Nobody (Maysa → Val → chorus) [Rufus -1983]
Enc.1. All I Do (Maysa) [Stevie Wonder - 1980] [Maysa’s new album]
Enc.2. Do You Love What You Feel (Maysa)[Rufus - 1979]
show ended 23:10
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
タイト。
1970年代に多くのヒットを放ったブラックのセルフ・コンテインド・グループ(自分たちで曲を書き、演奏し、歌う、すべてを自給自足でやるグループ)のひとつとして大きな人気を放ったルーファス。グループとしては、アース、クール&ザ・ギャング、コモドアーズ、オハイオ・プレイヤーズらと並んで人気となったが、リード・シンガーからソロに転じ大きな成功を収めたシャカ・カーンのいたグループとしても有名だ。
前回のシャカ・ソロ・ライヴ(2008年6月、ビルボード・ライヴ)で実にかっこいいギターを聴かせたオリジナル・ルーファス・メンバー、トニー・メイデン率いる強力バンドだ。今回はもうひとりのオリジナル・メンバー、ケヴィン・マーフィー(いい味でハモンドを弾く)も帯同していて色を添える。ルーファスとしては、1976年6月(東京音楽祭)、1984年12月(赤坂ムゲン)以来、3度目約24年ぶりの来日。
今回は、ドラムス、ギター2人、ベース、キーボード3人、パーカッション、歌4人という最大12人がオンステージという、まさに大型バンド。基本的には、トニーがバンドマスターで、全体的にはよくまとまったリズムとグルーヴを生み出し、なかなかタイトなバンドとなっていた。
いくつも見所があるが、ヴォーカル4人の中で一番強力だったのが、マダム・ディーというシンガー。それはそれは迫力あるパンチの効いたヴォーカルを聴かせる。一方、トニーの娘というアマンダが一番多くリードを取るがマダムあたりと比較すると若干力不足の点は否めない。他にシンガーは、インコグニートなどで有名なメイサ・リーグ。ヴァル・ヤングは、「オール・ナイト・ロング」のヒットを放ったメリー・ジェーン・ガールズの一員でもあり、『セダクション』というアルバムも出しているシンガー。メイサもヴァルでさえも、マダムの前にひれ伏す感じだ。このマダム、トニーがロスアンジェルスのライヴハウスで見つけてスカウトしたシンガーで、まだCDなどはだしていない、という。
白人のイケメン・キーボード、ブライアンも自身のアルバムを出したところで、そこからブッツィー・コリンズとの共作曲などをがんばって演奏した。かなりのエンタテイナーで、サックスのデイヴ・コーズに対してキーボードのブライアンという立ち位置になりそう。彼は彼で、ソロでのライヴも楽しみ。
この中ではトニーの技量がずば抜けているのは間違いないが、ドラムス、ベースとのリズム隊はかなりいい。ドラムスは最近ではジョディー・ワトリーで来ていたという。なので、バンドとしてかなりまとまり、ヴォーカル陣の弱点をカヴァーする。
僕はシンガーの主役をマダムにすると一番いいと思う。いわゆる1970年代風のシャウト系ヴォーカルで、いかにもシャカ・カーン系なヴォーカルだ。リハーサルなどの時間的制約で、他のシンガーが歌わざるを得ないようだが、バンド・サウンドがまとまっているだけに惜しい。ひとついえるのはシャカのバンドは、かなりひどいので、このバンドにシャカ・カーンが入ったら相当いい感じになるだろうということ。あっちを立てれば、こっちが立たず。そううまく行かないのが、この音楽業界の難しいところ。
ルーファス曲としては、他に「At Midnight」、「Hollywood」(これは他の日にやった)、「Tonight We Love」「Pack’d My Bags」「 I’m A Woman (I’m A Backbone)」なども聴きたい。
アンコールでメイサがスティーヴィーの「オール・アイ・ドゥー」をカヴァーして歌ったが、これは彼女の最新アルバムに収録されていて、イギリスでヒットしているためだそうだ。ヴァル・ヤングは他の日には、メリー・ジェーン・ガールズの「オール・ナイト・ロング」を歌ったそうだが、そうなるとブライアン、メイサらも含めてそれぞれのショーケース的な雰囲気もでてくる。それはそれでひとつの方向性ではあるだろうが、ルーファスに焦点を集めることも重要だ。ま、難しいところではあるが。
僕はシャカ・カーンの日本での人気を10とすると、ルーファスは8くらいの人気や知名度があるのかと思っていたが、それは若干楽観的すぎたようで、実際は5くらいしかないのかもしれない。ただし、しっかりとこれくらいのライヴをやっていればリピーターもつくはず。シャカとルーファス、いわゆる人気、ヒット曲の数、というものの差を感じた。シンガー陣を立て直して、また来て欲しい。
ライヴ後、彼らはすぐにサイン会。そこで、トニーらと少し話す機会があった。その模様は明日以降に。
■ 関連記事
June 03, 2008
Chaka Khan Live @ Hi Energy Performance
http://blog.soulsearchin.com/archives/002552.html
2008年6月2日(月)ビルボード・ライヴのライヴ評
■メンバー
トニー・メイデン(ヴォーカル、ギター)Tony Maiden(vo,g)
ケヴィン・マーフィー(キーボード、オルガン、ヴォーカル)Kevin Murphy(key,org,vo)
ブライアン・カルバートソン(トロンボーン、キーボード、ヴォーカル)Brian Culbertson(tb,key,vo)
メイサ・リーク(ヴォーカル)Maysa Leak(vo)
アマンダ・メイデン(ヴォーカル)Amanda Maiden(vo)
ヴァル・ヤング(ヴォーカル)Val Young(vo)
マダム・ディー(ヴォーカル)Madam Dee(vo)
ダレル・クロックス(ギター)Darrell Crooks(g)
ミチコ・ヒル(キーボード)Michiko Hill(key)
ロバート・ヒル(ベース)Robert Hill(b)
ドネル・スペンサー(ドラムス)Donnell Spencer(ds)
レニー・カストロ(パーカッション)Lenny Castro(per)
■セットリスト ルーファス ブルーノート東京 2008年11月12日
Setlist : Rufus featuring Brian Culbertson & Maysa Leak @ Blue Note Tokyo, November 12, 2008
( ) lead singer or artist
show started 21:37
01. Once You Get Started (Tony) [Rufus - 1975]
02. Any Love (Maysa) [Rufus - 1980]
03. Dance With Me (Val) [Rufus - 1976]
04. You Got The love (Amanda) [Rufus - 1974]
05. Funkin’ Like My Father (Brian) [Brian’s solo album]
06. So Good (Brian) [Brian’s solo album]
07. Everlasting Love (Madam Dee) [Rufus - 1977]
08. Going In Circles (Madam Dee) [Friends Of Distinction - 1969]
09. Tell Me Something Good (Amanda) [Rufus - 1974]
10. Sweet Thing (Amanda) [Rufus - 1975]
11. You’re Welcome, Stop On By (Amanda + Tony, Tony on guitar solo) [Bobby Womack - 1974]
12. Ain’t Nobody (Maysa → Val → chorus) [Rufus -1983]
Enc.1. All I Do (Maysa) [Stevie Wonder - 1980] [Maysa’s new album]
Enc.2. Do You Love What You Feel (Maysa)[Rufus - 1979]
show ended 23:10
(2008年11月12日水曜、東京ブルーノート=ルーファス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Rufus
2008-186
⊿【バーナード・プリティー・パーディー&チャック・レイニー】
ジューク・ジョイント。
昨年12月以来、一年も空けずの再度ライヴ。ドラムス、ギター、ベース、キーボードにヴォーカルというシンプルにて最強の布陣のバンド。手練手管(てれんてくだ)とはこういう連中のことを言うのだろう。主人公は、バーナード・パーディー(ドラムス)とチャック・レイニー(ベース)。今年は昨年とは違うキーボード、ジョン・コルバが参加。けっこう歌っていた。ブルース・ブラザース・バンドの一員でもあるロブ・パパロッツィは、歌とハーモニカで大活躍だが、ハーモニカを12台以上持ってきていた。
なんと言っても、バーナードのドラムスの機材数は少ないのに、表現力のありようはもう文字では表せない。たまたまこの日、新進気鋭のドラマー小笠原さんが来ていたのでちらっと話しをすると、「もう影響受けまくりです。あんなに少ないのに、『(ドラムの)歌わせ方が全然違いますよ』」と大興奮ぎみ。そうかあ、ドラムスを歌わせるんだ。なるほど。さすが、優秀なドラマーは言うことが違う。
昨年のセットリストと比較するとわかるが、今年もセットリストを大幅に変えている。レパートリーが多く、また自由自在に曲を入れ替えられるわけだ。
曲を始めるキューはいつもパーディーが出す。「1-2-3!」 そして、めくるめくグルーヴの世界が始まる。しかし、パーディー・シャッフルとはうまいことを言ったものだ。
パーディーの確固たるファットバックなドラムスとレイニーのポンピン・ベースは、六本木のビルボードを、どこかアメリカ南部のジューク・ジョイントに変貌させるかのようだ。
(ジューク・ジョイント=ダンスも出来るような酒場。バンド演奏やジュークボックスで音楽がかかるところ)
■過去記事(前回ライヴ評)
December 04, 2007
Bernard Pretty Purdie & Chuck Rainey Live
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200712/2007_12_04.html
■ メンバー
バーナード・“プリティー”・パーディー / Bernard "Pretty" Purdie(Drums/Vocals)
チャック・レイニー/Chuck Rainey(Bass/Guitar)
ロブ・パパロッツィ/Rob Paparozzi(Harmonica/Vocals)
ジョージ・ナーハ/George Naha/(Guitar)
ジョン・コルバ/John Korba(Piano/Vocals)
■セットリスト バーナード・パーディー&チャック・レイニー 2008年11月11日
Setlist : Bernard Pretty Purdie & Chuck Rainey @Billboard Live, November 11, 2008
[ ] indicates the acts who made hit
Show started 21:31
01. Until You Come Back To Me [Aretha Franklin]
02. I’d Rather Drink Muddy Water (In A Sleep In A Hollow Log) [Grant Jones]
03. How Long Will It Last (Instrumental) [Stuff]
04. Sara Smile [Hall & Oates]
05. Back In Love Again [LTD]
06. Baby I Love You [Aretha Franklin]
07. Peg [Steely Dan]
08. Hangin Out Right(Chuck on vocal) [Chuck Rainey]
09. Something You Got [Alvin Robinson, Chuck Jackson & Maxine Brown]
10. What’s Going On [Marvin Gaye]
11. Going Back To Louisiana [Delbert McClington]
Enc. Home At Last [Steely Dan]
show ended 22:38
(2008年11月11日火曜=ビルボード・ライヴ=バーナード・パーディー&チャック・レイニー・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Purdie, Bernard & Rainey, Chuck
2008-185
ジューク・ジョイント。
昨年12月以来、一年も空けずの再度ライヴ。ドラムス、ギター、ベース、キーボードにヴォーカルというシンプルにて最強の布陣のバンド。手練手管(てれんてくだ)とはこういう連中のことを言うのだろう。主人公は、バーナード・パーディー(ドラムス)とチャック・レイニー(ベース)。今年は昨年とは違うキーボード、ジョン・コルバが参加。けっこう歌っていた。ブルース・ブラザース・バンドの一員でもあるロブ・パパロッツィは、歌とハーモニカで大活躍だが、ハーモニカを12台以上持ってきていた。
なんと言っても、バーナードのドラムスの機材数は少ないのに、表現力のありようはもう文字では表せない。たまたまこの日、新進気鋭のドラマー小笠原さんが来ていたのでちらっと話しをすると、「もう影響受けまくりです。あんなに少ないのに、『(ドラムの)歌わせ方が全然違いますよ』」と大興奮ぎみ。そうかあ、ドラムスを歌わせるんだ。なるほど。さすが、優秀なドラマーは言うことが違う。
昨年のセットリストと比較するとわかるが、今年もセットリストを大幅に変えている。レパートリーが多く、また自由自在に曲を入れ替えられるわけだ。
曲を始めるキューはいつもパーディーが出す。「1-2-3!」 そして、めくるめくグルーヴの世界が始まる。しかし、パーディー・シャッフルとはうまいことを言ったものだ。
パーディーの確固たるファットバックなドラムスとレイニーのポンピン・ベースは、六本木のビルボードを、どこかアメリカ南部のジューク・ジョイントに変貌させるかのようだ。
(ジューク・ジョイント=ダンスも出来るような酒場。バンド演奏やジュークボックスで音楽がかかるところ)
■過去記事(前回ライヴ評)
December 04, 2007
Bernard Pretty Purdie & Chuck Rainey Live
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200712/2007_12_04.html
■ メンバー
バーナード・“プリティー”・パーディー / Bernard "Pretty" Purdie(Drums/Vocals)
チャック・レイニー/Chuck Rainey(Bass/Guitar)
ロブ・パパロッツィ/Rob Paparozzi(Harmonica/Vocals)
ジョージ・ナーハ/George Naha/(Guitar)
ジョン・コルバ/John Korba(Piano/Vocals)
■セットリスト バーナード・パーディー&チャック・レイニー 2008年11月11日
Setlist : Bernard Pretty Purdie & Chuck Rainey @Billboard Live, November 11, 2008
[ ] indicates the acts who made hit
Show started 21:31
01. Until You Come Back To Me [Aretha Franklin]
02. I’d Rather Drink Muddy Water (In A Sleep In A Hollow Log) [Grant Jones]
03. How Long Will It Last (Instrumental) [Stuff]
04. Sara Smile [Hall & Oates]
05. Back In Love Again [LTD]
06. Baby I Love You [Aretha Franklin]
07. Peg [Steely Dan]
08. Hangin Out Right(Chuck on vocal) [Chuck Rainey]
09. Something You Got [Alvin Robinson, Chuck Jackson & Maxine Brown]
10. What’s Going On [Marvin Gaye]
11. Going Back To Louisiana [Delbert McClington]
Enc. Home At Last [Steely Dan]
show ended 22:38
(2008年11月11日火曜=ビルボード・ライヴ=バーナード・パーディー&チャック・レイニー・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Purdie, Bernard & Rainey, Chuck
2008-185
△Ray Parker Jr. Live At Cotton Club
2008年11月11日 音楽△【レイ・パーカー・ライヴ@コットン・クラブ】
最後。
「今夜は、最後の夜だ。だから、門限もなければ、何の縛りもない。徹底してやるぞ~~」とレイ・パーカーが叫ぶ。ヘッドフォーン・セットをつけたレイは実に身軽にあちこち動き、ハグしてキスして、大サーヴィス。観客の一部は1曲目から立ち上がって踊っている。
進行は比較的ゆったりまったり、レイが自身のヒット曲を歌っていくのだが、やはりバックがしっかりしているだけに、それなりの演奏になる。ドラムス、オリー・ブラウン(オリー&ジェリーのヒットあり)、ギター、ランディー・ホール(ソロ作品あり)、キーボード、ケヴィン・トニー(元ブラック・バーズでヒット多数)、ベースのフレディー・ワシントンもロスのファースト・コールで多数のセッションをこなす。
はっきり言って、選曲を固め、正しい曲順でノンストップで間髪いれず曲をやっていくスタイルで作りこめたら、すぐ90点くらいのライヴにはなる。なにしろ、曲自体はいいものが多いのだから。今は曲間にだらっとしたレイのトークがあるので、それはそれでのんびりしていいのだが、どうしても間延びしてしまう。そこが実に惜しい。
セットリスト、中盤で、前回来日時にはほんのワンフレーズだったそれぞれのミュージシャン関連の曲を各曲フルサイズで演奏した。例えば、フレディーがベースを弾いたパトリース・ラッシェンの「フォーゲット・ミー・ノッツ」。レイ曰く「例えば、ギターの音や、キーボードの音をこの曲から消してみよう。そして、そこに彼のベースの音だけが残るとする。するとこれだけで、ファンキーなグルーヴが出てくる。フレディー・ワシントン!」
これがなかなかいい企画で、どれも楽しい。僕などは、ブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」が生で聴けただけで、けっこう嬉しい。このあたりもノンストップでやったら、相当盛り上がるはず。
この日は本編終わったあと、通常だったら、アンコールで「ゴースト・バスターズ」になだれ込むところだが、「ほとんど今回はリハーサルしていないが、ちょっとやってみよう」と言って「ジャック&ジル」を演奏。途中の「ジャック~~」の後、観客が「ジャック~~」と反応し、さらに、「ジル~~」で「ジル~~」と反応するところなど、実に盛り上がった。そして、「ゴースト・バスターズ」では、観客からのりのいい女性たちを舞台に上げ、コーラスまでやらせた。そして、これで終わりかと思いきや、なんと、一度客電もついたが、再び、メンバーが戻ってきて、「これも、全然リハやってないけど…」といいぶっつけ本番で「ジ・ア・ザー・ウーマン」を披露。かなりのサーヴィスぶりだった。
あと、日本で人気の高い「ザット・オールド・ソング」、「ホット・スタッフ」、「トゥ・プレイセス・アット・ザ・セイムタイム」、プロデュース曲でシェリル・リン関係(「イン・ザ・ナイト」)などうまくまぜれば、もっと密度の濃いショーになることまちがいない。
ライヴ後、前回も来ているキーボード、ケヴィン・トニーと再会。彼は元ブラックバーズのオリジナル・メンバー。最近はソロ活動に重点を置いていて、自らの新作をもって来ていた。そのケヴィンとの話は明日以降にご紹介しよう。
■過去記事
October 24, 2006
Ray Parker’s Raydio Show: Family Reunion
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200610/2006_10_24.html
(前回来日時ライヴ評)
■メンバー
レイ・パーカー Jr.
Ray Parker Jr.(vo,g), Mark Felton(sax,fl), Kevin Toney(p), Randy Hall(g,vo), Fred Washington(b), Ollie Brown(ds)
■セットリストレイ・パーカー 2008年11月10日(月)コットン・クラブ
Setlist : Ray Parker Jr. @Cotton Club, November 10, 2008
show started 21:32
01. Them Changes [Buddy Miles]
02. You Can’t Change That
03. I’m So Into You
04. Mr. Telephone Man
05. After Midnight (Instrumental)
06. A Woman Needs Love
07. Breakin’...There’s No Stoppin’ Us Now (Ollie Brown) [Ollie & Jerry]
08. Forget Me Nots (Freddy Washington) [Patrice Rushen]
09. Walking In Rhythm (Kevin Tony) [Blackbyrds]
10. It’s Your Night (Party Night)
11. It’s Time To Party Now
Enc.1. Jack & Jill
--. A Riff of "The Past"
Enc.2. Ghost Busters
Enc.3. The Other Woman (including a riff of Love Roller Coaster)
show ended 23:11
(2008年11月10日月曜、丸の内コットン・クラブ=レイ・パーカー・ジュニア・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Parker, Ray, Jr.
2008-184
最後。
「今夜は、最後の夜だ。だから、門限もなければ、何の縛りもない。徹底してやるぞ~~」とレイ・パーカーが叫ぶ。ヘッドフォーン・セットをつけたレイは実に身軽にあちこち動き、ハグしてキスして、大サーヴィス。観客の一部は1曲目から立ち上がって踊っている。
進行は比較的ゆったりまったり、レイが自身のヒット曲を歌っていくのだが、やはりバックがしっかりしているだけに、それなりの演奏になる。ドラムス、オリー・ブラウン(オリー&ジェリーのヒットあり)、ギター、ランディー・ホール(ソロ作品あり)、キーボード、ケヴィン・トニー(元ブラック・バーズでヒット多数)、ベースのフレディー・ワシントンもロスのファースト・コールで多数のセッションをこなす。
はっきり言って、選曲を固め、正しい曲順でノンストップで間髪いれず曲をやっていくスタイルで作りこめたら、すぐ90点くらいのライヴにはなる。なにしろ、曲自体はいいものが多いのだから。今は曲間にだらっとしたレイのトークがあるので、それはそれでのんびりしていいのだが、どうしても間延びしてしまう。そこが実に惜しい。
セットリスト、中盤で、前回来日時にはほんのワンフレーズだったそれぞれのミュージシャン関連の曲を各曲フルサイズで演奏した。例えば、フレディーがベースを弾いたパトリース・ラッシェンの「フォーゲット・ミー・ノッツ」。レイ曰く「例えば、ギターの音や、キーボードの音をこの曲から消してみよう。そして、そこに彼のベースの音だけが残るとする。するとこれだけで、ファンキーなグルーヴが出てくる。フレディー・ワシントン!」
これがなかなかいい企画で、どれも楽しい。僕などは、ブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」が生で聴けただけで、けっこう嬉しい。このあたりもノンストップでやったら、相当盛り上がるはず。
この日は本編終わったあと、通常だったら、アンコールで「ゴースト・バスターズ」になだれ込むところだが、「ほとんど今回はリハーサルしていないが、ちょっとやってみよう」と言って「ジャック&ジル」を演奏。途中の「ジャック~~」の後、観客が「ジャック~~」と反応し、さらに、「ジル~~」で「ジル~~」と反応するところなど、実に盛り上がった。そして、「ゴースト・バスターズ」では、観客からのりのいい女性たちを舞台に上げ、コーラスまでやらせた。そして、これで終わりかと思いきや、なんと、一度客電もついたが、再び、メンバーが戻ってきて、「これも、全然リハやってないけど…」といいぶっつけ本番で「ジ・ア・ザー・ウーマン」を披露。かなりのサーヴィスぶりだった。
あと、日本で人気の高い「ザット・オールド・ソング」、「ホット・スタッフ」、「トゥ・プレイセス・アット・ザ・セイムタイム」、プロデュース曲でシェリル・リン関係(「イン・ザ・ナイト」)などうまくまぜれば、もっと密度の濃いショーになることまちがいない。
ライヴ後、前回も来ているキーボード、ケヴィン・トニーと再会。彼は元ブラックバーズのオリジナル・メンバー。最近はソロ活動に重点を置いていて、自らの新作をもって来ていた。そのケヴィンとの話は明日以降にご紹介しよう。
■過去記事
October 24, 2006
Ray Parker’s Raydio Show: Family Reunion
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200610/2006_10_24.html
(前回来日時ライヴ評)
■メンバー
レイ・パーカー Jr.
Ray Parker Jr.(vo,g), Mark Felton(sax,fl), Kevin Toney(p), Randy Hall(g,vo), Fred Washington(b), Ollie Brown(ds)
■セットリストレイ・パーカー 2008年11月10日(月)コットン・クラブ
Setlist : Ray Parker Jr. @Cotton Club, November 10, 2008
show started 21:32
01. Them Changes [Buddy Miles]
02. You Can’t Change That
03. I’m So Into You
04. Mr. Telephone Man
05. After Midnight (Instrumental)
06. A Woman Needs Love
07. Breakin’...There’s No Stoppin’ Us Now (Ollie Brown) [Ollie & Jerry]
08. Forget Me Nots (Freddy Washington) [Patrice Rushen]
09. Walking In Rhythm (Kevin Tony) [Blackbyrds]
10. It’s Your Night (Party Night)
11. It’s Time To Party Now
Enc.1. Jack & Jill
--. A Riff of "The Past"
Enc.2. Ghost Busters
Enc.3. The Other Woman (including a riff of Love Roller Coaster)
show ended 23:11
(2008年11月10日月曜、丸の内コットン・クラブ=レイ・パーカー・ジュニア・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Parker, Ray, Jr.
2008-184
▽Nick Tribute At Danceteria And More
2008年11月10日 音楽▽【ニック・トリビュート@ダンステリア】
トリビュート。
ニック岡井氏没後一年のトリビュート・イヴェント第二弾が、11月9日(日)、ニック本人がDJをしていた白金ダンステリアで行われた。この日も、ニックゆかりの人たちが多数集まり、江守藹さん、川畑さんらのDJのもと、ソウル・ヒットでソウル・ステップを踏んだ。
++++
始動。
ブラザー・コーンとブラザー・トムのユニット、バブルガム・ブラザースの新録による新曲が12月3日、ユニバーサルからリリースされる。いよいよバブル本格始動だ。タイトルは「Daddy’s Part Night(懲りないオヤジの応援歌)」。新曲のプロモ・ビデオがすでに撮影されている。この撮影は11月第一週に横浜のクラブで行われ、多数のエキストラのほか、ソウル仲間である鈴木雅之、久保田利伸らが参加。また、振り付けは、このところすっかりソウル系振り付けでおなじみになってきたマイケル鶴岡が担当している。
ブラザー・コーン曰く「もう、これで、バリバリ行きますからね!」と鼻息荒い。ちょうど、ダンステリアであったコーンちゃん、11月5日が誕生日ということで、「今週1週間、誕生日ウイークでさあ、昨日も朝までグデングデンになってて、今日はさすがに水でいいです」とミネラル・ウォーターをオーダーしていた。
++++
ギャラクシー。
このコラムでも何度もご紹介している『ソウル・ギャラクシー』のソウル・コンピレーション。ここから、先日(11月2日・日曜)の山下達郎さんの『サンデイ・ソングブック』で、チャプター・ワンをかけていただいた。大感謝です。そして、発売後の最初のバックオーダー(レコード店からの再注文数)が、ユニバーサルでの発売物すべての中で4位だったそうだ。もちろん、最初の出荷枚数が少ないということもあり、一概に比較はできないのだが、全社的にはまったくノーマークの作品に、ソウル・ファンの力が集結していい反応を見せたといってもいいかもしれない。
この選曲をした赤坂ミラクルの川畑さん、再来週(11月23日)の『ソウル・ブレンズ』にゲストで登場します。山野ミュージック・ジャムでも紹介する。今からどの曲かけるか、超悩み中。(笑)
++++
先日久々に目黒のライヴハウスで、ソウル・サーチンでコメンテーターとして登場してくれた内田さんとばったり。そのとき、その数日前に見たネヴィル・ブラザース・ライヴの話になり、「ギタリスト、日本人だった?」と聞かれ、ブログに書いた名前(福田真國さん)を言うと、「ええっ、知ってる、昔、一緒にプレイしたことある。彼、うまかったんで、覚えてる」と驚かれた。一緒にプレイしたことあるというのがさすがだ。(笑) その内田さんから、11月2日の『サンデイ・ソングブック』で、フォー・トップスのリーヴァイ・スタッブス追悼でフォー・トップスの曲が2曲もかかり狂喜乱舞してメールが来た。モータウン時代も好きだが、このランバート・ポッター時代も大好きとのこと。一人の追悼で同アーティストが2曲かかるのも珍しい。
++++
ENT>EVENT>
トリビュート。
ニック岡井氏没後一年のトリビュート・イヴェント第二弾が、11月9日(日)、ニック本人がDJをしていた白金ダンステリアで行われた。この日も、ニックゆかりの人たちが多数集まり、江守藹さん、川畑さんらのDJのもと、ソウル・ヒットでソウル・ステップを踏んだ。
++++
始動。
ブラザー・コーンとブラザー・トムのユニット、バブルガム・ブラザースの新録による新曲が12月3日、ユニバーサルからリリースされる。いよいよバブル本格始動だ。タイトルは「Daddy’s Part Night(懲りないオヤジの応援歌)」。新曲のプロモ・ビデオがすでに撮影されている。この撮影は11月第一週に横浜のクラブで行われ、多数のエキストラのほか、ソウル仲間である鈴木雅之、久保田利伸らが参加。また、振り付けは、このところすっかりソウル系振り付けでおなじみになってきたマイケル鶴岡が担当している。
ブラザー・コーン曰く「もう、これで、バリバリ行きますからね!」と鼻息荒い。ちょうど、ダンステリアであったコーンちゃん、11月5日が誕生日ということで、「今週1週間、誕生日ウイークでさあ、昨日も朝までグデングデンになってて、今日はさすがに水でいいです」とミネラル・ウォーターをオーダーしていた。
++++
ギャラクシー。
このコラムでも何度もご紹介している『ソウル・ギャラクシー』のソウル・コンピレーション。ここから、先日(11月2日・日曜)の山下達郎さんの『サンデイ・ソングブック』で、チャプター・ワンをかけていただいた。大感謝です。そして、発売後の最初のバックオーダー(レコード店からの再注文数)が、ユニバーサルでの発売物すべての中で4位だったそうだ。もちろん、最初の出荷枚数が少ないということもあり、一概に比較はできないのだが、全社的にはまったくノーマークの作品に、ソウル・ファンの力が集結していい反応を見せたといってもいいかもしれない。
この選曲をした赤坂ミラクルの川畑さん、再来週(11月23日)の『ソウル・ブレンズ』にゲストで登場します。山野ミュージック・ジャムでも紹介する。今からどの曲かけるか、超悩み中。(笑)
++++
先日久々に目黒のライヴハウスで、ソウル・サーチンでコメンテーターとして登場してくれた内田さんとばったり。そのとき、その数日前に見たネヴィル・ブラザース・ライヴの話になり、「ギタリスト、日本人だった?」と聞かれ、ブログに書いた名前(福田真國さん)を言うと、「ええっ、知ってる、昔、一緒にプレイしたことある。彼、うまかったんで、覚えてる」と驚かれた。一緒にプレイしたことあるというのがさすがだ。(笑) その内田さんから、11月2日の『サンデイ・ソングブック』で、フォー・トップスのリーヴァイ・スタッブス追悼でフォー・トップスの曲が2曲もかかり狂喜乱舞してメールが来た。モータウン時代も好きだが、このランバート・ポッター時代も大好きとのこと。一人の追悼で同アーティストが2曲かかるのも珍しい。
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ENT>EVENT>
☆【元モータウン社長、ジェリー・バズビー氏死去】
元社長。
伝統的なソウル・レーベル、モータウン・レコードの1988年から1995年まで社長を務めた音楽エグゼクティヴ、ジェリー・バズビーが2008年11月4日、カリフォルニア州マリブの自宅のバスタブで死去しているのが発見された。59歳だった。
ロスアンジェルス郡検死オフィースのエド・ウィンターは、「事故か自然死だろう」と述べている。一応、検死にかけられる。
バズビーは1949年(昭和24年)5月5日ロスアンジェルス生まれ。サウスセントラル地区に育った。ロング・ビーチ・ステート・カレッジに入学、2年で中退後、「バービー人形」を生み出したことで有名なマテル・トイズという玩具会社に就職。1970年代に入り、メンフィスのスタックス・レコードのウェスト・コースト宣伝部入り。スタックスが1976年までに倒産すると、カサブランカ、アトランティック、CBS、A&Mなどのレーベルで宣伝などを担当。多くのヒットをてがけた。カサブランカ時代にはドナ・サマーや多くのディスコヒットを生み出した音楽業界人として頭角を現した。
1984年、MCAレコードのブラック・ミュージック部門のヘッド(社長)に就任、ここでブラック・ミュージックに力を入れ始めたMCAを「ブラック王国」にする。生まれたヒットは、パティー・ラベール、グラディス・ナイト、ジョディー・ワトリー、ニュー・エディション、そこから派生するボビー・ブラウン、ラルフ・トレスヴァント、ベル・ビヴ・デヴォー、ジェッツ、さらに新しい波「ニュー・ジャック・スウィング」のテディー・ライリー&ガイなど多数にのぼる。
1988年、モータウン・レコードの創始者、ベリー・ゴーディーがモータウンをMCAとボストン・ヴェンチャー社グループに6100万ドルで売却。このとき、MCAからモータウン・レーベルの社長に就任した。この時、バズビーは「アメリカのブラック・ミュージック史上において、これ以上(モータウン社長になること)の喜びはない」と興奮をコメントしていた。
ここでバズビーは、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダーらに再度脚光をあびさせたり、ダイアナ・ロスを呼び戻したり、新人アーティストのボーイズ・トゥ・メン、ジョニー・ギルなどでヒットを生み出した。1990年にはR&Bチャートのベスト5をモータウン勢が独占したこともある。
1993年、MCAグループはモータウンを3億100万ドルでユニヴァーサル・グループへ売却するが、バズビーはモータウン社長の座にとどまった。
1995年、バズビーはモータウンと契約でもめ、退社。1998年、ドリームワークス入り、2001年退社。2004年にはデフ・ソウル・クラシック社長、再結成のラベル、アイズレー・ブラザースなどと契約している。その後、プロデューサーのマイク・シティー氏とともにアンブレラ・レコードを設立、ここでリリースしたカール・トーマスのCDは2007年日本でも発売された。
バズビーは1998年にカリフォルニアにおける初の黒人所有の銀行、ファンダーズ・ナショナル・バンクの有力株主となり、死去まで別のワン・ユナイテッド・バンクの役員をしていた。
++++
バズビーというと、やはりMCAブラックの最大の立役者。本当に多くのヒットが出た。そして、その後モータウンへ。モータウンの社長は以後もいろいろ変わるが、それでも彼が在籍していた時期にボーイズ・トゥ・メンなどがブレイクしたのだから、レコードマンとしては超優秀といっていい。
ご冥福をお祈りする。
ENT>OBITUARY>Busby, Jheryl (5/5/1949 - 11/4/2008=59)
元社長。
伝統的なソウル・レーベル、モータウン・レコードの1988年から1995年まで社長を務めた音楽エグゼクティヴ、ジェリー・バズビーが2008年11月4日、カリフォルニア州マリブの自宅のバスタブで死去しているのが発見された。59歳だった。
ロスアンジェルス郡検死オフィースのエド・ウィンターは、「事故か自然死だろう」と述べている。一応、検死にかけられる。
バズビーは1949年(昭和24年)5月5日ロスアンジェルス生まれ。サウスセントラル地区に育った。ロング・ビーチ・ステート・カレッジに入学、2年で中退後、「バービー人形」を生み出したことで有名なマテル・トイズという玩具会社に就職。1970年代に入り、メンフィスのスタックス・レコードのウェスト・コースト宣伝部入り。スタックスが1976年までに倒産すると、カサブランカ、アトランティック、CBS、A&Mなどのレーベルで宣伝などを担当。多くのヒットをてがけた。カサブランカ時代にはドナ・サマーや多くのディスコヒットを生み出した音楽業界人として頭角を現した。
1984年、MCAレコードのブラック・ミュージック部門のヘッド(社長)に就任、ここでブラック・ミュージックに力を入れ始めたMCAを「ブラック王国」にする。生まれたヒットは、パティー・ラベール、グラディス・ナイト、ジョディー・ワトリー、ニュー・エディション、そこから派生するボビー・ブラウン、ラルフ・トレスヴァント、ベル・ビヴ・デヴォー、ジェッツ、さらに新しい波「ニュー・ジャック・スウィング」のテディー・ライリー&ガイなど多数にのぼる。
1988年、モータウン・レコードの創始者、ベリー・ゴーディーがモータウンをMCAとボストン・ヴェンチャー社グループに6100万ドルで売却。このとき、MCAからモータウン・レーベルの社長に就任した。この時、バズビーは「アメリカのブラック・ミュージック史上において、これ以上(モータウン社長になること)の喜びはない」と興奮をコメントしていた。
ここでバズビーは、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダーらに再度脚光をあびさせたり、ダイアナ・ロスを呼び戻したり、新人アーティストのボーイズ・トゥ・メン、ジョニー・ギルなどでヒットを生み出した。1990年にはR&Bチャートのベスト5をモータウン勢が独占したこともある。
1993年、MCAグループはモータウンを3億100万ドルでユニヴァーサル・グループへ売却するが、バズビーはモータウン社長の座にとどまった。
1995年、バズビーはモータウンと契約でもめ、退社。1998年、ドリームワークス入り、2001年退社。2004年にはデフ・ソウル・クラシック社長、再結成のラベル、アイズレー・ブラザースなどと契約している。その後、プロデューサーのマイク・シティー氏とともにアンブレラ・レコードを設立、ここでリリースしたカール・トーマスのCDは2007年日本でも発売された。
バズビーは1998年にカリフォルニアにおける初の黒人所有の銀行、ファンダーズ・ナショナル・バンクの有力株主となり、死去まで別のワン・ユナイテッド・バンクの役員をしていた。
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バズビーというと、やはりMCAブラックの最大の立役者。本当に多くのヒットが出た。そして、その後モータウンへ。モータウンの社長は以後もいろいろ変わるが、それでも彼が在籍していた時期にボーイズ・トゥ・メンなどがブレイクしたのだから、レコードマンとしては超優秀といっていい。
ご冥福をお祈りする。
ENT>OBITUARY>Busby, Jheryl (5/5/1949 - 11/4/2008=59)
◎【「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」から「チェンジ・ハズ・カム」へ~オバマ氏勝利演説】
予言。
長かった大統領選に民主党のオバマ氏が勝利し、2009年1月20日、第44代アメリカ大統領に就任する。そのオバマ氏の勝利演説(11月4日夜)がシカゴで行われた。シカゴはソウル・レジェンド、サム・クックのホームタウンである。(1931年ミシシッピー生まれだが、2歳のときからシカゴ育ち)
サム・クックは、1964年暮れ「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(変革は訪れる)」(未来形)と録音し、この曲を1965年1月からヒットさせた。
"A Change Is Gonna Come" by Sam Cook
I was born by the river in a little tent
Oh and just like the river I’ve been running ever since
It’s been a long, a long time coming
But I know a change gonna come, oh yes it will
川べりの小さなテントで僕は生まれた
以来僕は、その川の流れのように、ずっと(人生を)走り続けている
ここまで到達するのに、とても長い長い年月がかかった
だが、僕にはわかる。必ずや、変革は訪れるということを、そう必ず
Obama Victory Speech, Chicago, November 4th, 2008
「オバマ演説の一部」(2008年11月4日、シカゴ・勝利宣言スピーチ)
It’s been a long time coming, but tonight, because of what we did on this date in this election at this defining moment change has come to America.
ここまで到達するのに長い年月がかかった。しかし、今夜、この日、この選挙で我々が成し遂げたこの瞬間、アメリカに変革が訪れたのだ
そう、オバマ氏は44年前、サム・クックが「変革は必ずや訪れる」と未来形で予言したことを、ついに成し遂げ「変革は訪れた」と現在形で語ったのだ。しかも、サムのホームタウン、シカゴの地で。
オバマ氏の演説は実に素晴らしい。ケネディの演説や、マーチン・ルーサー・キング牧師の演説のように見事だ。
この勝利演説の中で、彼は106歳のひとりの一般黒人女性、アン・ニクソン・クーパーさんの話を盛り込んだ。そこにはブラック・ヒストリーが凝縮されている。
「(黒人解放のきっかけとなったアラバマ州)モンゴメリーのバス(ボイコット運動事件)も、(白人の警察官が黒人のデモ隊を消火ホースによる散水で抑圧しようとした同州)バーミングハム(事件)も、(参政権を求める黒人が州警察などから暴行を受けた同州)セルマの橋(事件)も、彼女は知っている。アトランタの(キング)牧師の『我々は勝利する』という言葉も彼女は聞いた。そう、我々にはできる。
(観客) (歓声) 我々にはできる!
人類が月に降り立ち、ベルリンの壁が崩壊し、世界は人類の科学と想像力によって結ばれた。そして今年、この選挙で、彼女は(電子投票機の)画面に指を触れ1票を投じた。なぜならアメリカに106年間住み、最良の時も最悪の時も経験した上で彼女は知っているからだ。そう、アメリカは変わることができる、と。我々にはできる」
OBAMA: She was there for the buses in Montgomery, the hoses in Birmingham, a bridge in Selma, and a preacher from Atlanta who told a people that "We Shall Overcome." Yes we can.
AUDIENCE: Yes we can.
OBAMA: A man touched down on the moon, a wall came down in Berlin, a world was connected by our own science and imagination.
And this year, in this election, she touched her finger to a screen, and cast her vote, because after 106 years in America, through the best of times and the darkest of hours, she knows how America can change.
アメリカの人々は「モンゴメリーのバス、バーミングハムのホース、セルマの橋…」だけで意味がわかるのだ。黒人が虐げられ、そして、戦ってきたことを。この文はまるで詩のようだ。
オバマのヴィクトリー・スピーチをYou Tubeなどの映像で見ると、まるで映画のようだ。
英語の全文、日本語訳全文が次のところにある。(将来リンクが切れる可能性はありますのでお早めにごらんください)
(英文全文)
http://elections.foxnews.com/2008/11/05/raw-data-barack-obamas-victory-speech/
(日本語訳・毎日新聞のサイト)
http://mainichi.jp/select/world/news/20081106mog00m030056000c.html
映像を見ると、この演説を聴きながら、「イエス・ウィ・キャン!」と観客が応える。その様はまさにゴスペルのコール&レスポンス。聞きながら泣いている人さえいる。きっと、将来教科書にも載るであろう感動的な名演説だ。
ESSAY>Obama’s Victory Speech
予言。
長かった大統領選に民主党のオバマ氏が勝利し、2009年1月20日、第44代アメリカ大統領に就任する。そのオバマ氏の勝利演説(11月4日夜)がシカゴで行われた。シカゴはソウル・レジェンド、サム・クックのホームタウンである。(1931年ミシシッピー生まれだが、2歳のときからシカゴ育ち)
サム・クックは、1964年暮れ「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム(変革は訪れる)」(未来形)と録音し、この曲を1965年1月からヒットさせた。
"A Change Is Gonna Come" by Sam Cook
I was born by the river in a little tent
Oh and just like the river I’ve been running ever since
It’s been a long, a long time coming
But I know a change gonna come, oh yes it will
川べりの小さなテントで僕は生まれた
以来僕は、その川の流れのように、ずっと(人生を)走り続けている
ここまで到達するのに、とても長い長い年月がかかった
だが、僕にはわかる。必ずや、変革は訪れるということを、そう必ず
Obama Victory Speech, Chicago, November 4th, 2008
「オバマ演説の一部」(2008年11月4日、シカゴ・勝利宣言スピーチ)
It’s been a long time coming, but tonight, because of what we did on this date in this election at this defining moment change has come to America.
ここまで到達するのに長い年月がかかった。しかし、今夜、この日、この選挙で我々が成し遂げたこの瞬間、アメリカに変革が訪れたのだ
そう、オバマ氏は44年前、サム・クックが「変革は必ずや訪れる」と未来形で予言したことを、ついに成し遂げ「変革は訪れた」と現在形で語ったのだ。しかも、サムのホームタウン、シカゴの地で。
オバマ氏の演説は実に素晴らしい。ケネディの演説や、マーチン・ルーサー・キング牧師の演説のように見事だ。
この勝利演説の中で、彼は106歳のひとりの一般黒人女性、アン・ニクソン・クーパーさんの話を盛り込んだ。そこにはブラック・ヒストリーが凝縮されている。
「(黒人解放のきっかけとなったアラバマ州)モンゴメリーのバス(ボイコット運動事件)も、(白人の警察官が黒人のデモ隊を消火ホースによる散水で抑圧しようとした同州)バーミングハム(事件)も、(参政権を求める黒人が州警察などから暴行を受けた同州)セルマの橋(事件)も、彼女は知っている。アトランタの(キング)牧師の『我々は勝利する』という言葉も彼女は聞いた。そう、我々にはできる。
(観客) (歓声) 我々にはできる!
人類が月に降り立ち、ベルリンの壁が崩壊し、世界は人類の科学と想像力によって結ばれた。そして今年、この選挙で、彼女は(電子投票機の)画面に指を触れ1票を投じた。なぜならアメリカに106年間住み、最良の時も最悪の時も経験した上で彼女は知っているからだ。そう、アメリカは変わることができる、と。我々にはできる」
OBAMA: She was there for the buses in Montgomery, the hoses in Birmingham, a bridge in Selma, and a preacher from Atlanta who told a people that "We Shall Overcome." Yes we can.
AUDIENCE: Yes we can.
OBAMA: A man touched down on the moon, a wall came down in Berlin, a world was connected by our own science and imagination.
And this year, in this election, she touched her finger to a screen, and cast her vote, because after 106 years in America, through the best of times and the darkest of hours, she knows how America can change.
アメリカの人々は「モンゴメリーのバス、バーミングハムのホース、セルマの橋…」だけで意味がわかるのだ。黒人が虐げられ、そして、戦ってきたことを。この文はまるで詩のようだ。
オバマのヴィクトリー・スピーチをYou Tubeなどの映像で見ると、まるで映画のようだ。
英語の全文、日本語訳全文が次のところにある。(将来リンクが切れる可能性はありますのでお早めにごらんください)
(英文全文)
http://elections.foxnews.com/2008/11/05/raw-data-barack-obamas-victory-speech/
(日本語訳・毎日新聞のサイト)
http://mainichi.jp/select/world/news/20081106mog00m030056000c.html
映像を見ると、この演説を聴きながら、「イエス・ウィ・キャン!」と観客が応える。その様はまさにゴスペルのコール&レスポンス。聞きながら泣いている人さえいる。きっと、将来教科書にも載るであろう感動的な名演説だ。
ESSAY>Obama’s Victory Speech
○【文化の日の贈り物~39年前の録音から】
タイム・カプセル。
先日、郵便物の中にCDらしきものが入っているパッケージがあった。通常のレコード会社から来るものとはちょっとちがっていて、その裏には個人の名前と住所が書かれていた。「また、売り込みのCDかな」と思ったのだが、何か気になってすぐに封を開けた。
すると手書きのメモとCDが1枚はいっていた。それを見て腰を抜かした。手書きのメモは、中等部(中学)時代の同級生西村さんからで、中学3年生のときにみんなでやった演劇の録音がCD化されてはいっていたのだ。メモにはこう書いてあった。
「先日クラス会があり、8月に亡くなった古阪君主演の聴耳頭巾(ききみみ・ずきん)の録音がみつかったので皆さんにお渡ししました。あなたのナレーションも入ってます。よかったら聞いてください。一緒に効果をやった太一も先日亡くなりました。」 太一は、先日訃報を書いた村上太一さんだ。
CDには「木下順二作・放送劇・昔話聴耳頭巾」、昭和44年(1969年)11月3日(月) 幼稚舎自尊館にて とある。すぐにCDプレイヤーにいれた。ピアノの音、効果音、そして、ナレーション。こ、こ、これが僕? 覚えてない…。(苦笑) 必死に記憶の糸を手繰り寄せ、フルスロットルで記憶頭脳を再生しようとするが、何がなんだか思い出せない。しかし、主演の古阪君の声はしっかり覚えている。ナレーションで出演者、スタッフらの名前が次々と紹介されるのだが、もちろん、知っている名前ばかりだ。だが、覚えてない名前もある、同じクラスではない人の名前もある気がする。しかし、クラス変えで同クラスになったのかもしれないがよくわからない。(謎)
次々と疑問が頭を駆け巡る。そもそもなんで、こんな音質のいいものが残っていたのか。マイクはきちんとしたオンマイクで、舞台を遠目のマイクで拾ったものではない。その頃、ピンマイクなんてあるわけないので、このクリアな音はなんだ。それから効果音。明らかに放送劇である。ナレーションのクレジットで「効果、吉岡正晴、西村昭、村上太一」と読まれている。(読んでいる) 太一と西村さんと一緒に効果音を作ったんだ。そうか、作ったかもしれない…。(謎)
鳥のさえずり、水の流れる音、風の音、まさに放送劇の効果音だ。しかし、自尊館でやったとなると、舞台なのかなあ。(謎)
39年前の中学3年生たちが集まって作ったものなのだが、主演の古阪君がけっこううまいのだ。それだけでなく出演者がみなうまい。どうなってるんだろう。(謎)
いくら考えてもわからない。メールアドレスが書いてあったので、さっそくメールをしてみた。翌日すぐに返事がきた。衝撃でした。それはまさに39年前へのタイム・スリップだった。
そのメールによるとこうだ。中等部では毎年11月の文化の日に、「演劇の会」というのをやっていた。各学年の有志が集まり、いろいろな劇を演じるというもので、クラスを超えて集まり、稽古をして、当日発表するというイヴェントだった。そして、このCDはそのときの録音だという。
1年生の時に「まねし小僧」(主演は古阪君)、2年が「ベニスの商人」(シャイロック役が古阪君)、3年で「聴耳頭巾」(主演・古阪君)だった。古阪君は毎年何かやっていたんだ。だが、別に演劇部だったわけではない、という。しかも、この「聴耳頭巾」がすごい。何がすごいかって、これを放送劇として、舞台の上でやったというのだ。西村さん曰く、三谷幸喜の『ラジオの時間』(1993年)に先駆けること24年の斬新なアイデアでした、という。これは、当時の国語の先生、仲井さんの発案だったそうだ。それですべてが合点が行く。
僕たちは効果音を作り、放送劇をやった。それを舞台の上で舞台劇としてやったが、放送劇なのでマイクが舞台に何本もあり、それを録音していたものを、西村さんがキープしていて今回日の目を見たわけだ。彼は7インチのオープンリールで保存されていたものを、自分でカセットにコピーし、ずっと保存していたという。彼もずっとオープンリールの機械を持っていたが、以前に処分した。僕も同じだ。また、一度に全員の親御さんが入らないので、午前、午後と2回公演をしたそうだ。2回公演! すごい。(笑) 録音は午後の部のもの。冒頭のピアノはどうやらありもののレコードを使ったらしいが、最後のエレクトーンは鈴木(平尾)美智子さんが弾いているそうだ。
感無量。
西村さんは書く。「中等部の放送室で、いろんな効果音を作りました。木の上を歩く音は、校庭から木の枝を集めてきてこすり合わせ、風の音は、3人が交代で息をマイクに吹きかけて録音したものをテープの再生速度を落として作りました。水の流れる音は、トイレにマイクを持っていって作りました。吉岡さんは当日、調整室で冒頭と終了のナレーションを喋りました。終了後の打ち上げで、東急文化会館のピザ屋に行き、『あの、ナレーションよかったわね』と女子たち(言い回しが古い!)が、あなたに言っていたのを、よく覚えています。」(驚)
僕はまったく覚えていません。(笑) しかし、よく覚えてるなあ。すごい。すごい。風の音、口でやって、テープ速度を落とした? なんで、そんなこと知ってるんだ。(謎)
徐々に記憶が蘇る。国語の仲井さん(先生)、幼稚舎、クラスを超えてのイヴェント…。僕はその劇が終わった後に、なぜか仲井さんに褒められたことだけうっすら覚えてる。何かを片付けていた時の些細なことだ。子供は褒められたことを覚えているものなのか。(単純)
効果音を作ったこと、かろうじて覚えてるかも。でも、ナレーションしたことは完璧に覚えてない。打ち上げに行ったことも覚えてない。もちろん褒められたこともまったく覚えてない。子供は褒められても覚えていないものもある。(単純)
ま、とにかく、ないないずくしである。しかし、第三者の証言があるのだから、そして、証拠の音(!)もあるのだから、僕はみんなとそれらをやったことに間違いはない。効果音を作ったのはわかるが、なんでナレーションなんかやったんだろう。それに、そもそも中学生が打ち上げで渋谷のピザ屋に行くのか。(笑) いや、行ったんだね。証人がいるんだから。行ったんだ。(無理やり納得)
放送劇は約32分。冒頭、耳を凝らすと「キュー」という声が入っている。それからピアノの音、ナレーションへつながる。エンディングを向かえ、劇が終わると、エレクトーンの演奏、拍手がきて、ナレーションが入っていた。「これで本日の演劇の会を終わります。指示に従って退場してください」 僕かなあ。…僕ですね。僕の声だ…。証拠が残ってるんだから。声変わり中なのか、風邪ひいてるのか、なんか変な声。
きっと、その頃、ブログなんてものがあったら、事細かに書いてただろうなあ。(笑) 39年前へのタイム・トリップ。ちょうど文化の日。まさに僕にとっての「文化の日の贈り物」。タイム・カプセルを開けた日だ。感無量だ。ありがとうございます、西村さん。そして、改めて古阪英之君のご冥福をお祈りする。
■ 村上太一さんの訃報
October 16, 2008
Bits & Pieces : Gold Concert, Murakami Taichi...
http://blog.soulsearchin.com/archives/002704.html
ESSAY>
◆グレイト・ソング・ストーリー:「ファイアー&レイン」】
火雨。
今週、六本木「ビルボード・ライヴ」でライヴを行っているベイビーフェイスがアルバム『プレイリスト』でカヴァーした白人シンガー・ソングライター、ジェームス・テイラー作の「ファイアー&レイン」。ジェームスの1970年2月発売の2枚目アルバム『スイート・ベイビー・ジェームス』に収録されシングルとしてもヒットした。この作品の誕生秘話。(ベイビーフェイスのライヴ評、セットリストなどは、昨日付けブログで)
ベイビーフェイスのライヴで、キーボード奏者のグレッグ・フィリンゲーンズがシンガーから聞いた話としてこんなことを言った。「ジェームスのガール・フレンドがジェームスに会いに行くとき、その飛行機が墜落してしまった。そのことを描いた曲だ」といったことを言うと、ベイビーフェイスが「それは違うんだ」と受けた。へえ~と思い調べてみた。すると~~いろいろわかった。
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『ファイアー&レイン』(訳詞・ソウル・サーチャー)
ほんの昨日の朝、友達が教えてくれた。君が死んだことを
スザンヌ、彼らの計画が君の人生を終わらせた(みたいだね)
今朝、散歩に出て、この曲を書いた
誰に向けて書いたのかまだ思い出せない
燃え盛る火、降り注ぐ雨、
決して曇ることない晴れた日々、
たった一人の友達さえいない孤独の日々
そんな明暗の日々があっても、ずっとまた君と会えると思っていた (冒頭のみ)
(註、ジェームスのヴァージョンは、スザンヌとなっているが、ベイビーフェイスのヴァージョンはここをlooks like=みたいだね=に変えている)
+++++
解釈。
ジェームス・テイラーはこの曲について、いくつかのヴァージョンの話をしている。イギリスのBBC(放送)に語ったインタヴューでは、この作品は彼自身の精神的鬱(うつ)と友人の自殺について書いたものだという。別のVH1のインタヴューでは彼の友人スザンヌ・シュナーについて書いたものだという。スザンヌはジェームスがロードで出ていたときに、突然他界した。ほぼ同じ時期ジェームスは当時自分がいたバンド「ザ・フライング・マシーン」が成功しなかったことに、大きく落ち込んでいた。「甘い夢とフライング・マシンは、地上で粉々になっている」
彼自身どうしていいかわからない混迷の時期に、彼はスザンヌの死を知らされる。そこで人生、命のはかなさを知り、古い友人の元へ戻る。またこの時期、ジェームスはドラッグ問題も抱えていた。
さらに、2005年のNPRへのインタヴューで、ジェームス・テイラーは楽曲は3つのパートに分かれていると説明する。
1番は、ジェームスがロンドンのアップル・レコード(ビートルズのレコード会社)と契約し、レコーディングをしているときに、スザンヌが死んだことを描いている。友人たちはせっかくのいいチャンスを台無しにしてはいけないということで、ジェームスにショックを与えないために、スザンヌの死をしばらく隠していた。また、スザンヌは友人で、ガール・フレンドではないという。
2番はジェームスのドラッグとの戦い。
3番は、彼が有名になり富を得るまでの下積みの時代。そして、彼のリハビリ時期のこと。
そして、それまでに言われてきたこの曲にまつわる噂が次のようなものだ。「ジェームスは自分の誕生日にどこかの地方都市でライヴの予定があった。仲間がガール・フレンドのスザンヌをその地へサプライズで行かせようと航空券をプレゼントした。ところが不幸にもその飛行機が激しい雨のために離陸直後墜落、スザンヌが死亡。それを知ったジェームス・テイラーはそのことを『ファイアー・アンド・レイン』として書いた。火と雨は、飛行機が燃えてる火、雨はその日の激しい雨を指す」 だが、ジェームス・テイラー本人はこの噂を否定している。
グレッグが話したのは、この噂話の部分だ。実際は、NPRへのインタヴュー内容が近いようだ。ローリング・ストーン誌でのインタヴューもほぼこれに沿った感じになっている。そこで、これがジェームスが否定しているのを知っているのか、ベイビーフェイスもこの話を否定した。
「火と雨」、そして、「太陽=晴れた日」の対比が実にうまい。つらい時も、厳しい時も、楽しい時もあった。でも、いつでも、君に会いたい、メインのメッセージはここにある。そして、その付随説明をする部分にジェームス・テイラーの詳細な自伝的エピソードが散りばめられている。いくつもの説や解釈があるにせよ、この曲がジェームス・テイラーの自伝的作品のひとつであることは間違いない。
それにしても、この曲を左利きのベイビーフェイスがギターを弾きながら歌うところがユニークだ。そして、この曲に興味を持たせてくれたベイビーフェイスとグレッグ・フィリンゲーンズに改めて感謝。
+++++
Fire & Rain (written by James Taylor)
(1番)
Just yesterday morning they let me know you were gone
Susanne[looks like] the plans they made put an end to you
I walked out this morning and I wrote down this song
I just can’t remember who to send it to
I’ve seen fire and I’ve seen rain
I’ve seen sunny days that I thought would never end
I’ve seen lonely times when I could not find a friend
But I always thought that I’d see you again
(2番)
Won’t you look down upon me, Jesus
You’ve got to help me make a stand
You’ve just got to see me through another day
My body’s aching and my time is at hand
And I won’t make it any other way
Oh, I’ve seen fire and I’ve seen rain
I’ve seen sunny days that I thought would never end
I’ve seen lonely times when I could not find a friend
But I always thought that I’d see you again
(3番)
Been walking my mind to an easy time my back turned towards the sun
Lord knows when the cold wind blows it’ll turn your head around
Well, there’s hours of time on the telephone line to talk about things to come
Sweet dreams and flying machines in pieces on the ground
Oh, I’ve seen fire and I’ve seen rain
I’ve seen sunny days that I thought would never end
I’ve seen lonely times when I could not find a friend
But I always thought that I’d see you, baby, one more time again, now
(4番)
Thought I’d see you one more time again
There’s just a few things coming my way this time around, now
Thought I’d see you, thought I’d see you fire and rain, now
+++++
■過去グレイト・ソング・ストーリー (楽曲にスポットをあてた記事)
2004/03/22 (Mon)
"New York State Of Mind"
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040322-1.html
「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」(ビリー・ジョエル)
2004/03/18 (Thu)
"Golden Lady"
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040318-1.html
「ゴールデン・レイディー」(スティーヴィー・ワンダー)
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father:
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」(ルーサー・ヴァンドロス)
2004/05/03 (Mon)
American Pie
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040503.html
「アメリカン・パイ」(ドン・マクリーン)
2003/08/16 (Sat)
Sunny: Bobby Hebb
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030816.html
「サニー」(ボビー・ヘブ)
August 03, 2007
Ron Miller: Great Poet (Part 2) - The Meaning Of "I’ve Never Been To Me"
http://blog.soulsearchin.com/archives/2007_08_03.html
「アイヴ・ネヴァー・ビーン・トゥ・ミー(愛はかげろうのように)」(シャーリーン)
August 02, 2007
Ron Miller: Great Poet (Part 1)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2007_08_02.html
「ヘヴン・ヘルプ・アス・オール」(スティーヴィー・ワンダー)
July 20, 2007
"Fortunate Son" Story (Part 1): "Die Hard 4.0" Saga Continues
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200707/2007_07_20.html
「フォーチュネイト・サン」(CCR)
July 21, 2007
"Fortunate Son" Story (Part 2): "Die Hard 4.0" Saga Continues
http://blog.soulsearchin.com/archives/2007_07_21.html
「フォーチュネイト・サン」(CCR)
November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200611/2006_11_10.html
リンダ・クリード作品 「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」(スタイリスティックス)、「ゲットー・チャイルド」(スピナーズ)
September 29, 2006
"Guess Who I Saw Today" Is Nancy Wilson’s Signature Song
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200609/2006_09_29.html
「ゲス・フー・アイ・ソウ・トゥデイ」(ナンシー・ウィルソン、シャンテ・ムーア&ケニー・ラティモア)
+++++
ENT>SONG>Fire & Rain
ENT>GREAT SONG STORY>Fire & Rain
ENT>ARTIST>Babyface
火雨。
今週、六本木「ビルボード・ライヴ」でライヴを行っているベイビーフェイスがアルバム『プレイリスト』でカヴァーした白人シンガー・ソングライター、ジェームス・テイラー作の「ファイアー&レイン」。ジェームスの1970年2月発売の2枚目アルバム『スイート・ベイビー・ジェームス』に収録されシングルとしてもヒットした。この作品の誕生秘話。(ベイビーフェイスのライヴ評、セットリストなどは、昨日付けブログで)
ベイビーフェイスのライヴで、キーボード奏者のグレッグ・フィリンゲーンズがシンガーから聞いた話としてこんなことを言った。「ジェームスのガール・フレンドがジェームスに会いに行くとき、その飛行機が墜落してしまった。そのことを描いた曲だ」といったことを言うと、ベイビーフェイスが「それは違うんだ」と受けた。へえ~と思い調べてみた。すると~~いろいろわかった。
+++++
『ファイアー&レイン』(訳詞・ソウル・サーチャー)
ほんの昨日の朝、友達が教えてくれた。君が死んだことを
スザンヌ、彼らの計画が君の人生を終わらせた(みたいだね)
今朝、散歩に出て、この曲を書いた
誰に向けて書いたのかまだ思い出せない
燃え盛る火、降り注ぐ雨、
決して曇ることない晴れた日々、
たった一人の友達さえいない孤独の日々
そんな明暗の日々があっても、ずっとまた君と会えると思っていた (冒頭のみ)
(註、ジェームスのヴァージョンは、スザンヌとなっているが、ベイビーフェイスのヴァージョンはここをlooks like=みたいだね=に変えている)
+++++
解釈。
ジェームス・テイラーはこの曲について、いくつかのヴァージョンの話をしている。イギリスのBBC(放送)に語ったインタヴューでは、この作品は彼自身の精神的鬱(うつ)と友人の自殺について書いたものだという。別のVH1のインタヴューでは彼の友人スザンヌ・シュナーについて書いたものだという。スザンヌはジェームスがロードで出ていたときに、突然他界した。ほぼ同じ時期ジェームスは当時自分がいたバンド「ザ・フライング・マシーン」が成功しなかったことに、大きく落ち込んでいた。「甘い夢とフライング・マシンは、地上で粉々になっている」
彼自身どうしていいかわからない混迷の時期に、彼はスザンヌの死を知らされる。そこで人生、命のはかなさを知り、古い友人の元へ戻る。またこの時期、ジェームスはドラッグ問題も抱えていた。
さらに、2005年のNPRへのインタヴューで、ジェームス・テイラーは楽曲は3つのパートに分かれていると説明する。
1番は、ジェームスがロンドンのアップル・レコード(ビートルズのレコード会社)と契約し、レコーディングをしているときに、スザンヌが死んだことを描いている。友人たちはせっかくのいいチャンスを台無しにしてはいけないということで、ジェームスにショックを与えないために、スザンヌの死をしばらく隠していた。また、スザンヌは友人で、ガール・フレンドではないという。
2番はジェームスのドラッグとの戦い。
3番は、彼が有名になり富を得るまでの下積みの時代。そして、彼のリハビリ時期のこと。
そして、それまでに言われてきたこの曲にまつわる噂が次のようなものだ。「ジェームスは自分の誕生日にどこかの地方都市でライヴの予定があった。仲間がガール・フレンドのスザンヌをその地へサプライズで行かせようと航空券をプレゼントした。ところが不幸にもその飛行機が激しい雨のために離陸直後墜落、スザンヌが死亡。それを知ったジェームス・テイラーはそのことを『ファイアー・アンド・レイン』として書いた。火と雨は、飛行機が燃えてる火、雨はその日の激しい雨を指す」 だが、ジェームス・テイラー本人はこの噂を否定している。
グレッグが話したのは、この噂話の部分だ。実際は、NPRへのインタヴュー内容が近いようだ。ローリング・ストーン誌でのインタヴューもほぼこれに沿った感じになっている。そこで、これがジェームスが否定しているのを知っているのか、ベイビーフェイスもこの話を否定した。
「火と雨」、そして、「太陽=晴れた日」の対比が実にうまい。つらい時も、厳しい時も、楽しい時もあった。でも、いつでも、君に会いたい、メインのメッセージはここにある。そして、その付随説明をする部分にジェームス・テイラーの詳細な自伝的エピソードが散りばめられている。いくつもの説や解釈があるにせよ、この曲がジェームス・テイラーの自伝的作品のひとつであることは間違いない。
それにしても、この曲を左利きのベイビーフェイスがギターを弾きながら歌うところがユニークだ。そして、この曲に興味を持たせてくれたベイビーフェイスとグレッグ・フィリンゲーンズに改めて感謝。
+++++
Fire & Rain (written by James Taylor)
(1番)
Just yesterday morning they let me know you were gone
Susanne[looks like] the plans they made put an end to you
I walked out this morning and I wrote down this song
I just can’t remember who to send it to
I’ve seen fire and I’ve seen rain
I’ve seen sunny days that I thought would never end
I’ve seen lonely times when I could not find a friend
But I always thought that I’d see you again
(2番)
Won’t you look down upon me, Jesus
You’ve got to help me make a stand
You’ve just got to see me through another day
My body’s aching and my time is at hand
And I won’t make it any other way
Oh, I’ve seen fire and I’ve seen rain
I’ve seen sunny days that I thought would never end
I’ve seen lonely times when I could not find a friend
But I always thought that I’d see you again
(3番)
Been walking my mind to an easy time my back turned towards the sun
Lord knows when the cold wind blows it’ll turn your head around
Well, there’s hours of time on the telephone line to talk about things to come
Sweet dreams and flying machines in pieces on the ground
Oh, I’ve seen fire and I’ve seen rain
I’ve seen sunny days that I thought would never end
I’ve seen lonely times when I could not find a friend
But I always thought that I’d see you, baby, one more time again, now
(4番)
Thought I’d see you one more time again
There’s just a few things coming my way this time around, now
Thought I’d see you, thought I’d see you fire and rain, now
+++++
■過去グレイト・ソング・ストーリー (楽曲にスポットをあてた記事)
2004/03/22 (Mon)
"New York State Of Mind"
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040322-1.html
「ニューヨーク・ステイト・オブ・マインド」(ビリー・ジョエル)
2004/03/18 (Thu)
"Golden Lady"
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040318-1.html
「ゴールデン・レイディー」(スティーヴィー・ワンダー)
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father:
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」(ルーサー・ヴァンドロス)
2004/05/03 (Mon)
American Pie
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200405/diary20040503.html
「アメリカン・パイ」(ドン・マクリーン)
2003/08/16 (Sat)
Sunny: Bobby Hebb
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030816.html
「サニー」(ボビー・ヘブ)
August 03, 2007
Ron Miller: Great Poet (Part 2) - The Meaning Of "I’ve Never Been To Me"
http://blog.soulsearchin.com/archives/2007_08_03.html
「アイヴ・ネヴァー・ビーン・トゥ・ミー(愛はかげろうのように)」(シャーリーン)
August 02, 2007
Ron Miller: Great Poet (Part 1)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2007_08_02.html
「ヘヴン・ヘルプ・アス・オール」(スティーヴィー・ワンダー)
July 20, 2007
"Fortunate Son" Story (Part 1): "Die Hard 4.0" Saga Continues
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200707/2007_07_20.html
「フォーチュネイト・サン」(CCR)
July 21, 2007
"Fortunate Son" Story (Part 2): "Die Hard 4.0" Saga Continues
http://blog.soulsearchin.com/archives/2007_07_21.html
「フォーチュネイト・サン」(CCR)
November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200611/2006_11_10.html
リンダ・クリード作品 「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」(スタイリスティックス)、「ゲットー・チャイルド」(スピナーズ)
September 29, 2006
"Guess Who I Saw Today" Is Nancy Wilson’s Signature Song
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200609/2006_09_29.html
「ゲス・フー・アイ・ソウ・トゥデイ」(ナンシー・ウィルソン、シャンテ・ムーア&ケニー・ラティモア)
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ENT>SONG>Fire & Rain
ENT>GREAT SONG STORY>Fire & Rain
ENT>ARTIST>Babyface
★【ベイビーフェイス、オンステージ3人で経済的】
アコースティック。
ベイビーフェイスの1年ぶり、7回目の来日、5回目の一般公演。初来日は1994年。前回はバンド編成で、90分でヒット曲を30曲歌うという大サーヴィスぶりで、ファンも大喜びだったが、今回はしっとり、ゆったり、まったりアコースティックで聴かせるという若干地味目、何よりエコノミカル(経済的)なショウ。
ベイビーフェイスに、もうひとりギタリスト、そして、キーボードという編成。ただし、このキーボードが超大物グレッグ・フィリンゲーンズで救われる。マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、クインシー・ジョーンズ、エリック・クラプトンなどともにやってきたナンバーワン・キーボード奏者だ。
ベイビーフェイスの自宅リヴィングで仲間を集めて軽くノリでジャム・セッションをやってみた、という感じの87分。インティメートな雰囲気はそれなりにある。前回のバンドがいまいちだったから、今回アコースティックの3人編成にしたわけではないだろうが(まさかベイビーフェイス、去年のブログを読んだか?=(笑))、セットリスト5から8までは、打ち込みも併用。7ではそこにはいない女性コーラスまで飛び出てくるのでちょっと…。ケイリブのセリフではないが、リアルではないからねえ。
曲目もあまりがっちり決めていないようで、ノリで曲がでてくるようだ。それはそれで別によいのだが、そんな中、突然グレッグがいくつかのヒットをほんのサワリだけやって、これが一番受けた。バリー・ホワイトはあまり知られてなかったようだが、トトの「アフリカ」さらに「ホールド・ザ・ライン」になると、やんやの喝采が巻き起こった。やはりこのあたりの洋楽ファンが多いのだろう。このコーナー、もう少しちゃんとするといいと思う。
ベイビーフェイスはかなりよくしゃべるが、どうも観客には伝わりにくかったようだ。ただし話はちょっとおもしろい。「ファイアー&レイン」の前にグレッグが友人のシンガーから聞いた話として、「ジェームス・テイラーのガールフレンドが、彼に会いにやってくることになっていた。だが、彼女はそこに向かう飛行機が墜落して死んでしまった。それを歌った歌だ」といったことを説明した。するとベイビーフェイスが「それは違う(that’s not true)」と言う。グレッグは「おお、そうか…」という感じで淡々と受ける。そのやりとりの間がけっこうおもしろかった。ここまでしゃべるとなると、質のいい同時通訳がいたほうがいいのではないだろうか。話の内容が伝わればもっと楽しめるはず。観客の外人には随分と受けていた。「ファイアー&レイン」のエピソードに興味を持ったので帰って調べてみた。するとけっこうおもしろい話があったので、それはまた後日。
こういうアコースティックのしっとりしたゆるいライヴが好きな人にはいいかもしれない。
■過去ベイビーフェイス関連記事
October 16, 2007
Babyface Sings Tons Of Hits At Billboard Live: Another Human Jukebox
http://blog.soulsearchin.com/archives/002081.html
前回来日時ライヴ評。
ベイビーフェイスのインタヴュー記事(2001年8月)
「ベイビーフェイスを育んできたもの」
http://www.barks.jp/feature/?id=52256021(ベイビーフェイスのルーツがよくわかるインタヴュー記事、お勧めです)
2004/11/11 (Thu)
Babyface; Just Another One Night Gig: You Owe Me One, ’Face
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200411/diary20041111.html(前々回の一般ライヴの評)
September 16, 2005
Babyface Live: When Can I See You Again?
http://blog.soulsearchin.com/archives/000518.html(前作発売時のプロモーション来日時におけるショーケース・ライヴ)
August 08, 2007
Babyface’s New Album Will Be Covers Of 70s Pop Songs
【ベイビーフェイスの新作は、70年代カヴァー曲集】
http://blog.soulsearchin.com/archives/001939.html
■メンバー
ケニー”ベイビーフェイス”エドモンズ /Kenny "Babyface" Edmonds (Vocals/Guitar)
グレッグ・フィリンゲーンズ/ Greg Phillinganes (Keyboards)
マイケル・リポル/Michael Ripoll (Guitar)
■セットリスト ベイビーフェイス
Setlist : Babyface @ Billboard Live, November 4, 2008
[ ] indicates the artist who made the song hit, otherwise Babyface’s hits
show started 21:35
01. Someone To Watch Over Me (Gershwin)
02. Wonderful Tonight [Eric Clapton]
03. Fire And Rain [James Taylor]
04. The Loneliness
05. 5-07 Medley: Tonight It’s Going Down (with programmed)
06. For The Cool In You (with programmed)
07. Every Time I Close My Eyes (with programmed)
08. Whip Appeal (with programmed)
00. Greg Phillinganes Show:
A riff of "I’m Gonna Love You Just A Little More Baby" by Barry White
A riff of "Africa" by Toto
A riff of "Hold The Line" by Toto
A riff of "Wannabe" by Spice Girls
09. The Day
10. Change The World
Enc. When Can I See You Again
show ended 23:02
(2008年11月4日火曜、ビルボード・ライヴ=ベイビーフェイス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Babyface
2008-181
アコースティック。
ベイビーフェイスの1年ぶり、7回目の来日、5回目の一般公演。初来日は1994年。前回はバンド編成で、90分でヒット曲を30曲歌うという大サーヴィスぶりで、ファンも大喜びだったが、今回はしっとり、ゆったり、まったりアコースティックで聴かせるという若干地味目、何よりエコノミカル(経済的)なショウ。
ベイビーフェイスに、もうひとりギタリスト、そして、キーボードという編成。ただし、このキーボードが超大物グレッグ・フィリンゲーンズで救われる。マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、クインシー・ジョーンズ、エリック・クラプトンなどともにやってきたナンバーワン・キーボード奏者だ。
ベイビーフェイスの自宅リヴィングで仲間を集めて軽くノリでジャム・セッションをやってみた、という感じの87分。インティメートな雰囲気はそれなりにある。前回のバンドがいまいちだったから、今回アコースティックの3人編成にしたわけではないだろうが(まさかベイビーフェイス、去年のブログを読んだか?=(笑))、セットリスト5から8までは、打ち込みも併用。7ではそこにはいない女性コーラスまで飛び出てくるのでちょっと…。ケイリブのセリフではないが、リアルではないからねえ。
曲目もあまりがっちり決めていないようで、ノリで曲がでてくるようだ。それはそれで別によいのだが、そんな中、突然グレッグがいくつかのヒットをほんのサワリだけやって、これが一番受けた。バリー・ホワイトはあまり知られてなかったようだが、トトの「アフリカ」さらに「ホールド・ザ・ライン」になると、やんやの喝采が巻き起こった。やはりこのあたりの洋楽ファンが多いのだろう。このコーナー、もう少しちゃんとするといいと思う。
ベイビーフェイスはかなりよくしゃべるが、どうも観客には伝わりにくかったようだ。ただし話はちょっとおもしろい。「ファイアー&レイン」の前にグレッグが友人のシンガーから聞いた話として、「ジェームス・テイラーのガールフレンドが、彼に会いにやってくることになっていた。だが、彼女はそこに向かう飛行機が墜落して死んでしまった。それを歌った歌だ」といったことを説明した。するとベイビーフェイスが「それは違う(that’s not true)」と言う。グレッグは「おお、そうか…」という感じで淡々と受ける。そのやりとりの間がけっこうおもしろかった。ここまでしゃべるとなると、質のいい同時通訳がいたほうがいいのではないだろうか。話の内容が伝わればもっと楽しめるはず。観客の外人には随分と受けていた。「ファイアー&レイン」のエピソードに興味を持ったので帰って調べてみた。するとけっこうおもしろい話があったので、それはまた後日。
こういうアコースティックのしっとりしたゆるいライヴが好きな人にはいいかもしれない。
■過去ベイビーフェイス関連記事
October 16, 2007
Babyface Sings Tons Of Hits At Billboard Live: Another Human Jukebox
http://blog.soulsearchin.com/archives/002081.html
前回来日時ライヴ評。
ベイビーフェイスのインタヴュー記事(2001年8月)
「ベイビーフェイスを育んできたもの」
http://www.barks.jp/feature/?id=52256021(ベイビーフェイスのルーツがよくわかるインタヴュー記事、お勧めです)
2004/11/11 (Thu)
Babyface; Just Another One Night Gig: You Owe Me One, ’Face
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200411/diary20041111.html(前々回の一般ライヴの評)
September 16, 2005
Babyface Live: When Can I See You Again?
http://blog.soulsearchin.com/archives/000518.html(前作発売時のプロモーション来日時におけるショーケース・ライヴ)
August 08, 2007
Babyface’s New Album Will Be Covers Of 70s Pop Songs
【ベイビーフェイスの新作は、70年代カヴァー曲集】
http://blog.soulsearchin.com/archives/001939.html
■メンバー
ケニー”ベイビーフェイス”エドモンズ /Kenny "Babyface" Edmonds (Vocals/Guitar)
グレッグ・フィリンゲーンズ/ Greg Phillinganes (Keyboards)
マイケル・リポル/Michael Ripoll (Guitar)
■セットリスト ベイビーフェイス
Setlist : Babyface @ Billboard Live, November 4, 2008
[ ] indicates the artist who made the song hit, otherwise Babyface’s hits
show started 21:35
01. Someone To Watch Over Me (Gershwin)
02. Wonderful Tonight [Eric Clapton]
03. Fire And Rain [James Taylor]
04. The Loneliness
05. 5-07 Medley: Tonight It’s Going Down (with programmed)
06. For The Cool In You (with programmed)
07. Every Time I Close My Eyes (with programmed)
08. Whip Appeal (with programmed)
00. Greg Phillinganes Show:
A riff of "I’m Gonna Love You Just A Little More Baby" by Barry White
A riff of "Africa" by Toto
A riff of "Hold The Line" by Toto
A riff of "Wannabe" by Spice Girls
09. The Day
10. Change The World
Enc. When Can I See You Again
show ended 23:02
(2008年11月4日火曜、ビルボード・ライヴ=ベイビーフェイス・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Babyface
2008-181
▲Kaleb James & Friends Live At Martano
2008年11月4日 音楽▲【ケイリブ・ジェームス&フレンズ・ライヴ・アット・マルターノ】
サポート。
久々にソウル・サーチャー、ケイリブ・ジェームス本人が友人を集めての藤が丘マルターノでのギグ。マルターノで2007年8月にケイリブ&シャンティが初ライヴをして以来、同店ではコンスタントにライヴを続けてきた。ケイリブは現在もスマップのツアーが続いていて、その合間をぬってのライヴだ。この日は立ち見も出るほどの大盛況。いつも通り楽しいアット・ホームなライヴになった。詳しくは下記セットリストをじっくりごらんいただきたい。[ ] がオリジナル・アーティストである。ほとんど白人ロックのカヴァーではないか。(笑)ビートルズ、ポリース、スティーリー・ダン、トト、ストーンズ、そして、ケニー・ロギンス…。それにしてもケイリブらしいおもしろい選曲だ。
今回は、マルターノ・ライヴにおいて2度目のドラムス入り。今回ドラムスを担当したのは、ジャム・ファンク・グループ、アーブ(URB)のメンバー、山越勉さん。ギターにこのところすっかり売れっ子のマサ・コハマさん、そして、パーカッションはもちろんおなじみゲイリー・スコット。ゲストにニュージーランドからこの4月に戻ってきたという新進気鋭のシンガー、サユリー。
ライヴはファースト・セットもセカンド・セットもつつがなく進み、本編終了後のアンコール1曲目で、ケイリブが最初にピアノで弾き始めた曲だといって、「スパイダーマン」をやりだした。
それを終え、ジョー・ジャクソンの曲を歌ったあと、ケイリブは最後に熱弁を奮った。
「ライヴ・ミュージックを常にサポートしてください。カラオケじゃない。たとえば、ミニ・ディスクをかけて歌っているバーなんかもある。でも、それはライヴ・ミュージックではない。ライヴ・ミュージックは、こうして、リアルなミュージシャンが、その場でリアルに音楽をやり、リアルなシンガーがリアルに歌うことだ。それがライヴです。(拍手)
まず、ここ(マルターノ)の大西さんに感謝をしたい。彼はマサハルがやってる『ソウル・サーチン』やそのほかのギグにやってきて、ライヴをやってくれと頼んできた。彼はこうした音楽をサポートするために、この場を提供してくれた。彼がいなければ、今日のこの会はない、みなさん大西さんに拍手を。(拍手)
横浜にはモーション・ブルーという立派な場所がある。でも、それ以外はかなり…だ。(笑)ここは、値段も高くなく、ちょうどいい。それに、おいしいリアルなピッザ、パスタもある…。ライヴ・ミュージックをサポートするということは、僕の請求書の支払いを助けるだけではないんだ。(笑)あなたたちのためなのだ。
今日、何かとても気持ちいいものを感じたでしょう。(拍手) それがライヴ・ミュージックです。ミニ・ディスクでは感じられないものだ。だから、若い人も、ミドル・エージも、年老いた人も、みんなライヴを見に来てください。(笑) 子供たちも、みなさん、繰り返し来てください。ミュージシャンの演奏に合わせて、手を叩き、足を鳴らし、反応してください。それこそ、ライヴ・ミュージックです。
今、ライヴ・ミュージックは世界的に危機です。そういう意味で、大西さんにこういうチャンスをもらえて、本当に感謝しています。(拍手) そして、ひとつ悲しいお知らせがあります。この『マルターノ』が年末(12月末)で閉店してしまうんです。みなさん、ミュージシャンをサポートするだけでなく、ミュージシャンをサポートする人、大西さんみたいな人もサポートしてください。この『マルターノ』にやってきて、ピッザを食べ、たくさん飲んでいってください。みなさん、ありがとう、感謝しています」
この日はマルターノには随分とミュージシャン関係が集まっていた。こんなにミュージシャンも集まるようになっているのに…。本当に閉店はもったいない。何より、このシックのメンバーのウォール・ペインティングがもったいない。
そして、ケイリブ。「最後に歌う曲はケニー・ロギンスの作品です。『変化Change』がテーマの曲です。まず、あなた自身を変えなさい、そうして世界を変えよう、あなたが変われば、世界も変わる、そんなメッセージをもった作品です。16-7年前に僕の大好きなアーティストのひとり、ケニー・ロギンスが録音したものです。この曲は環境問題や、地球や、人間の健康について歌っています。この曲を今歌うのは、3日後(11月4日)に僕の国ではとても重要な選挙が行われるからです。おそらくアメリカの歴史上、もっとも重要な選挙になると僕は思っています。別にオバマが黒人だからというわけではない。女性も大統領の座にとても近づいた。もちろん黒人も近づいている。今アメリカは大変な時期にいる。アメリカが風邪をひくと、世界がくしゃみをする、といいます。この曲のタイトルは、心の信念、確信(Conviction of the Heart)です」
まさにマルターノにとっても変化の時で、このテーマ曲はマルターノへの賛歌だ。もし、どなたかマルターノ藤が丘店を引き受けてもいい、あるいは、営業したいという希望をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ebs@st.rim.or.jp までご連絡ください。(@を半角にしてください)
+++++
Conviction Of The Heart 邦題:愛の確信
(written by Kenny Loggins, G.Thomas, intro by Mark Isham)
From the Album "Leap Of Faith"
Where are the dreams that we once had?
This is the time to bring the back.
What were the promises caught on the tips of our tongues?
Do we forget or forgive?
There’s a whole other life waiting to be lived when...
One day were brave enough
To talk with conviction of the heart.
And down your streets I’ve walked alone,
As if my feet were not my own
Such is the path I chose, doors I have opened and closed
I’m tired of living this life,
Fooling myself, believing we’re right, when...
I’ve never given love
With any conviction of the heart
One with the earth, with the sky
One with everything in life
I believe we’ll survive
If we only try...
How long must we wait to change
This world bound in chains that we live in
To know what it is to forgive,
And be forgiven?
It’s been too many years of taking now.
Isn’t it time to stop somehow?
Air that’s too angry to breathe, water our children can’t drink
You’ve heard it hundreds of times
You say your aware, believe, and you care, but...
Do you care enough
To talk with conviction of the heart?
++++
■Members:
Kaleb James (Keyboards, Vocal)
Gary Scott (Sax, Percussions, Vocal)
Masa Kohama (Guitar)
Ben Yamakoshi (Drums) (from Urb)
Sayulee (Vocals, Guitar)
■セットリスト ケイリブ・ジェームス&フレンズ
Setlist : Kaleb James & Friends @ Martano, November 1, 2008
[ ] indicates original artists
show started 19:27
01. Black Bird [Beatles](Kaleb solo)
02. King Of Pain [Police]
03. Goodbye (Sayulee, original)
04. Love Me Like This (Sayulee, original)
05. Reelin’ In The Years [Steely Dan]
06. Wait For The Magic [Al Jarreau] (Gary)
07. Just The Two Of Us [Grover Washington Jr., Bill Withers] (Gary, +Naoko Kaji on sax)
show ended 20:32
show started 21:11
01. Love Tones (Gary original)
02. Georgie Porgie [Toto]
03. Shine (Sayulee, original)
04. You [Bonnie Raitt] (Kaleb & Sayulee)
05. Wild Horses [Rolling Stones]
06. Africa [Toto]
Enc.1. Spiderman
Enc.2. Breaking Us In Two [Joe Jackson]
Enc.3. Conviction Of The Heart [Kenny Loggins]
show ended 22:44
(2008年11月1日土曜日、藤が丘・マルターノ=ケイリブ・ジェームス&フレンズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Kaleb & Friends
2008-180
サポート。
久々にソウル・サーチャー、ケイリブ・ジェームス本人が友人を集めての藤が丘マルターノでのギグ。マルターノで2007年8月にケイリブ&シャンティが初ライヴをして以来、同店ではコンスタントにライヴを続けてきた。ケイリブは現在もスマップのツアーが続いていて、その合間をぬってのライヴだ。この日は立ち見も出るほどの大盛況。いつも通り楽しいアット・ホームなライヴになった。詳しくは下記セットリストをじっくりごらんいただきたい。[ ] がオリジナル・アーティストである。ほとんど白人ロックのカヴァーではないか。(笑)ビートルズ、ポリース、スティーリー・ダン、トト、ストーンズ、そして、ケニー・ロギンス…。それにしてもケイリブらしいおもしろい選曲だ。
今回は、マルターノ・ライヴにおいて2度目のドラムス入り。今回ドラムスを担当したのは、ジャム・ファンク・グループ、アーブ(URB)のメンバー、山越勉さん。ギターにこのところすっかり売れっ子のマサ・コハマさん、そして、パーカッションはもちろんおなじみゲイリー・スコット。ゲストにニュージーランドからこの4月に戻ってきたという新進気鋭のシンガー、サユリー。
ライヴはファースト・セットもセカンド・セットもつつがなく進み、本編終了後のアンコール1曲目で、ケイリブが最初にピアノで弾き始めた曲だといって、「スパイダーマン」をやりだした。
それを終え、ジョー・ジャクソンの曲を歌ったあと、ケイリブは最後に熱弁を奮った。
「ライヴ・ミュージックを常にサポートしてください。カラオケじゃない。たとえば、ミニ・ディスクをかけて歌っているバーなんかもある。でも、それはライヴ・ミュージックではない。ライヴ・ミュージックは、こうして、リアルなミュージシャンが、その場でリアルに音楽をやり、リアルなシンガーがリアルに歌うことだ。それがライヴです。(拍手)
まず、ここ(マルターノ)の大西さんに感謝をしたい。彼はマサハルがやってる『ソウル・サーチン』やそのほかのギグにやってきて、ライヴをやってくれと頼んできた。彼はこうした音楽をサポートするために、この場を提供してくれた。彼がいなければ、今日のこの会はない、みなさん大西さんに拍手を。(拍手)
横浜にはモーション・ブルーという立派な場所がある。でも、それ以外はかなり…だ。(笑)ここは、値段も高くなく、ちょうどいい。それに、おいしいリアルなピッザ、パスタもある…。ライヴ・ミュージックをサポートするということは、僕の請求書の支払いを助けるだけではないんだ。(笑)あなたたちのためなのだ。
今日、何かとても気持ちいいものを感じたでしょう。(拍手) それがライヴ・ミュージックです。ミニ・ディスクでは感じられないものだ。だから、若い人も、ミドル・エージも、年老いた人も、みんなライヴを見に来てください。(笑) 子供たちも、みなさん、繰り返し来てください。ミュージシャンの演奏に合わせて、手を叩き、足を鳴らし、反応してください。それこそ、ライヴ・ミュージックです。
今、ライヴ・ミュージックは世界的に危機です。そういう意味で、大西さんにこういうチャンスをもらえて、本当に感謝しています。(拍手) そして、ひとつ悲しいお知らせがあります。この『マルターノ』が年末(12月末)で閉店してしまうんです。みなさん、ミュージシャンをサポートするだけでなく、ミュージシャンをサポートする人、大西さんみたいな人もサポートしてください。この『マルターノ』にやってきて、ピッザを食べ、たくさん飲んでいってください。みなさん、ありがとう、感謝しています」
この日はマルターノには随分とミュージシャン関係が集まっていた。こんなにミュージシャンも集まるようになっているのに…。本当に閉店はもったいない。何より、このシックのメンバーのウォール・ペインティングがもったいない。
そして、ケイリブ。「最後に歌う曲はケニー・ロギンスの作品です。『変化Change』がテーマの曲です。まず、あなた自身を変えなさい、そうして世界を変えよう、あなたが変われば、世界も変わる、そんなメッセージをもった作品です。16-7年前に僕の大好きなアーティストのひとり、ケニー・ロギンスが録音したものです。この曲は環境問題や、地球や、人間の健康について歌っています。この曲を今歌うのは、3日後(11月4日)に僕の国ではとても重要な選挙が行われるからです。おそらくアメリカの歴史上、もっとも重要な選挙になると僕は思っています。別にオバマが黒人だからというわけではない。女性も大統領の座にとても近づいた。もちろん黒人も近づいている。今アメリカは大変な時期にいる。アメリカが風邪をひくと、世界がくしゃみをする、といいます。この曲のタイトルは、心の信念、確信(Conviction of the Heart)です」
まさにマルターノにとっても変化の時で、このテーマ曲はマルターノへの賛歌だ。もし、どなたかマルターノ藤が丘店を引き受けてもいい、あるいは、営業したいという希望をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ebs@st.rim.or.jp までご連絡ください。(@を半角にしてください)
+++++
Conviction Of The Heart 邦題:愛の確信
(written by Kenny Loggins, G.Thomas, intro by Mark Isham)
From the Album "Leap Of Faith"
Where are the dreams that we once had?
This is the time to bring the back.
What were the promises caught on the tips of our tongues?
Do we forget or forgive?
There’s a whole other life waiting to be lived when...
One day were brave enough
To talk with conviction of the heart.
And down your streets I’ve walked alone,
As if my feet were not my own
Such is the path I chose, doors I have opened and closed
I’m tired of living this life,
Fooling myself, believing we’re right, when...
I’ve never given love
With any conviction of the heart
One with the earth, with the sky
One with everything in life
I believe we’ll survive
If we only try...
How long must we wait to change
This world bound in chains that we live in
To know what it is to forgive,
And be forgiven?
It’s been too many years of taking now.
Isn’t it time to stop somehow?
Air that’s too angry to breathe, water our children can’t drink
You’ve heard it hundreds of times
You say your aware, believe, and you care, but...
Do you care enough
To talk with conviction of the heart?
++++
■Members:
Kaleb James (Keyboards, Vocal)
Gary Scott (Sax, Percussions, Vocal)
Masa Kohama (Guitar)
Ben Yamakoshi (Drums) (from Urb)
Sayulee (Vocals, Guitar)
■セットリスト ケイリブ・ジェームス&フレンズ
Setlist : Kaleb James & Friends @ Martano, November 1, 2008
[ ] indicates original artists
show started 19:27
01. Black Bird [Beatles](Kaleb solo)
02. King Of Pain [Police]
03. Goodbye (Sayulee, original)
04. Love Me Like This (Sayulee, original)
05. Reelin’ In The Years [Steely Dan]
06. Wait For The Magic [Al Jarreau] (Gary)
07. Just The Two Of Us [Grover Washington Jr., Bill Withers] (Gary, +Naoko Kaji on sax)
show ended 20:32
show started 21:11
01. Love Tones (Gary original)
02. Georgie Porgie [Toto]
03. Shine (Sayulee, original)
04. You [Bonnie Raitt] (Kaleb & Sayulee)
05. Wild Horses [Rolling Stones]
06. Africa [Toto]
Enc.1. Spiderman
Enc.2. Breaking Us In Two [Joe Jackson]
Enc.3. Conviction Of The Heart [Kenny Loggins]
show ended 22:44
(2008年11月1日土曜日、藤が丘・マルターノ=ケイリブ・ジェームス&フレンズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Kaleb & Friends
2008-180
■【ワックスポエティックス誌アンドレ・トレス編集長語る~パート2】
(今では全世界に8万人の読者を持つ音楽誌「ワックスポエティックス」。その編集長であり、創設者であるアンドレ・トレスがその創刊の経緯を語る。アンドレ・トレス・インタヴュー。2001年、アンドレは雑誌創刊のイメージを現実のものとするため、動き始める。昨日の続き。)
■ 32歳の解雇~紙一重の運命
運命。
雑誌創刊の決意を固めた彼はソフトウェアを売るセールスマンの仕事を朝9時から5時までしながら、オフィースのコンピューターに向かって、インターネットでソウル、R&Bについて書いているライターを探し出し、彼らにかたっぱしからメールを送り始める。「これこれ、しかじか、こんな雑誌を作ろうと思ってるんだが、記事を書いてもらえないだろうか」と。何人かから色よい返事をもらうようになり、徐々にイメージが固まってきたが、昼間オフィースでそんなメールのやりとりばかりやっていることがある日上司にバレる。
「お前、毎日、何やってんだ。ちゃんと仕事をしろ。さもなければ、クビだぞ」 単調な仕事に嫌気がさしていたアンドレは「けっこう、クビでもいいよ」と言い放つ。結局、アンドレはその会社を解雇されてしまう。アンドレ・トレス32歳の夏だった。
彼の最後の出社日は2001年8月4日。そして、彼が毎朝9時までに入っていたオフィース・ビルが、ワールド・トレード・センターの「タワー1」、78階だったのだ!!
それから1ヵ月後の9月11日火曜日、世界の運命が変わった。そして、アンドレの人生も変わった。「僕のオフィースは78階、その上階(93階~99階)がもろ突っ込まれたところだ。僕のデスクから振り向くと外が見えるウインドウだ。そこに(飛行機が)突っ込んで来たんだよ。仕事仲間が何人も亡くなった。もちろん紙一重で命拾いした者もいた。ある男は、ちょうど朝のコーヒーを飲みに44階に降りていた。ある男は、ほんの一服タバコを吸いにやはり階下に降りていた。タバコは健康によくない、命を短くする、と言われる。だけど、その彼はタバコを吸っていたおかげで、少なくとも命が倍以上延びたんだ。タバコが彼の命を救ったんだよ。あれからしばらくは、本当に何もできなかった。茫然自失だ」
一息置いて彼は言った。「もし、解雇されていなければ、僕は今頃、死んでるよ」まさにクビが首をつないだわけだ。
「あれから2週間は本当にゾンビみたいに死んでいた。ちょうどその頃、僕は必死に創刊号の準備を進めていた。だが、よく人から言われたものだ。『誰がいまさら、レコードのことを書いた雑誌なんか読むんだ』とね。(ワールド・トレード・センターの)中にいた連中をみんな知っていたんだからね。で、ふと悟った。僕は今、生きている。それには理由があるはずだ。僕は何をすべきか、なぜ生きているのか。あのビルにその日いなかった理由、今、生きている理由、それは今やりかけている仕事を完成させるためなんだ、とね。僕の人生で次のフェーズ(段階)に進んだ瞬間だった。そこで僕は何をおいてもこの雑誌を創刊させようと決心したんだ」
「9月から12月にかけて猛烈に仕事をした。資金をあちこちから集めた。自分の貯金、2人のパートナーの貯金、両親、友人からの借金、クレジットカードでのローン、何でも現金を集め、印刷所と話をつけ、本の配給システムを作った。たぶん2万5000ドル以上は最初の資金としてあったと思う。初版は5000部作った。売れるかどうかはわからない。売れたとしても、書店からの回収は3ヵ月後、遅いところは半年後だ。だから第2号はそれを全部回収してから作ったから、(発行までに)随分と間隔があいたんだ。実際、創刊号を出す時には、どれほどの需要があるのか、音楽、それもレコードについて、人々はどれくらい知りたいのか、読みたいのか、まったくわからなかったからね。でも、出たら結局すぐに反応はあった」
横でこの話を聴いていたDJコンが、「その話は(ワックスポエティックスに)書いたのか?」と尋ねた。「いや、創刊号には、とてもじゃないが、気持ちを整理できずに書けなかった。だが、第2号(半年後)のコラムでちょっと書いたよ」
必然。
「Everything happens for reasons(すべて物事は必然で起こる)をまさに地で行くような話ですね」と僕が言うと、トレスが笑いながら答えた。「母親がいつも、その言葉を僕に言い聞かせていたんだ。まったく同じ言葉をね。ほんと、何かというとその言葉を言っていた。それまでは、何を言ってるんだ、くらいにしか思わず、全然信じることもなかったけど、あの事件以来、母が言った意味が本当の意味で理解できたよ(笑)」
雑誌の編集などまったくしたことがなかったトレスだが、イメージ、ヴィジョンは確固たるものを持っていた。「いわゆるジーン(ファンジン)と呼ばれるモノクロのいかにもマニア向けのミニコミは作りたくなかった。そういうのは本当に一部の人しか読まない。僕はもっと普通の人に読んでほしい。僕は一時期アートスクールに行っていた。だから、写真はこういう写真、レイアウトはこう、そうしたヴィジュアルのアイデアをしっかりもっていた」
「つまらない雑誌だと読み終わったら、みんな捨ててしまう。だが僕はそんな捨てられてしまうような雑誌は作りたくない。しっかりと読者が保存しておきたいと思うものを作りたいんだ」
「それが何冊も集まれば、百科事典みたいになるような雑誌?」
「その通りだ。しかも、記事もある程度アカデミックな内容で、ちゃんとプレゼンテーションされている記事、そうしたものを載せたい。もちろん自分が(雑誌に)載せたいアーティスト、載せたいレコード、そうしたものもはっきりとしている」
こうして、2001年12月11日、ファースト・イシュー(第一号)が世に出た。911からちょうど3ヶ月のことだった。「創刊パーティーをその日にやったから、よく覚えてるんだよ(笑)」 雑誌が出て、しばらくは書店もこの雑誌の取り扱いに困っていたらしい。トレスが言うのは、「ワックスポエティックス」というタイトルゆえに「詩の雑誌」のコーナーに置かれていたこともあったという。ワックスポエティックスは、直訳すると、「レコードの詩論」、つまりレコードで語られている詩を論じる、という意味だ。そこで、彼らは「これは音楽雑誌だから、音楽雑誌のコーナーに置いてくれ」とアピールしなければならなかった。
横からDJコンが訊いてきた。「最初の4号くらいまで、今いくらくらいするか知ってるかい?」 「さあ、高いとは聞いたけど」 「何百ドルってするんだよ」
2号が出るまでには、創刊号の資金を回収しなければならなかったので、半年以上かかった。それからは、しばらくは季刊(年に4回発行)で出した、そして、ビジネスが順調になって現在のスタイル、隔月刊になった。
つい最近、入手困難となっている最初の5号までの記事から秀逸記事を抜粋した『アンソロジーVOL.1』を発行した。その第2弾も予定されている。
「ワックスポエティックス」誌は好評を得て、順調に部数を伸ばし、現在31号まで刊行、毎号8万部を発行するまでに至っている。同誌のオフィースは、今は古いレコードの再発なども行うようになり、ビジネスの幅を広げている。そして、2008年10月27日、ニューヨークから6000マイル離れた極東の地で日本版が発行された。
雑誌の創刊を思い立った。仕事場で、仕事そっちのけでその準備をしていたらそれがばれて会社をクビになった。だがそのクビになったおかげで命拾いした。雑誌「ワックスポエティックス」創刊は911のその瞬間、運命付けられたのだ。もし上司が心優しい上司で彼をクビにしなければ、トレスは911の犠牲になり、この雑誌は誕生しなかったかもしれない。
Everything happens for reasons. すべては必然の元に…。
■雑誌・ワックスポエティックス・オフィシャル
http://www.waxpoetics.jp/
日本版創刊号、発売中
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861134145/soulsearchiho-22/ref=nosim/
MAGAZINES>Waxpoetics
ENT>EVENT>PARTY>Waxpoetics Release Party
ENT>MAGAZINES>Waxpoetics
(今では全世界に8万人の読者を持つ音楽誌「ワックスポエティックス」。その編集長であり、創設者であるアンドレ・トレスがその創刊の経緯を語る。アンドレ・トレス・インタヴュー。2001年、アンドレは雑誌創刊のイメージを現実のものとするため、動き始める。昨日の続き。)
■ 32歳の解雇~紙一重の運命
運命。
雑誌創刊の決意を固めた彼はソフトウェアを売るセールスマンの仕事を朝9時から5時までしながら、オフィースのコンピューターに向かって、インターネットでソウル、R&Bについて書いているライターを探し出し、彼らにかたっぱしからメールを送り始める。「これこれ、しかじか、こんな雑誌を作ろうと思ってるんだが、記事を書いてもらえないだろうか」と。何人かから色よい返事をもらうようになり、徐々にイメージが固まってきたが、昼間オフィースでそんなメールのやりとりばかりやっていることがある日上司にバレる。
「お前、毎日、何やってんだ。ちゃんと仕事をしろ。さもなければ、クビだぞ」 単調な仕事に嫌気がさしていたアンドレは「けっこう、クビでもいいよ」と言い放つ。結局、アンドレはその会社を解雇されてしまう。アンドレ・トレス32歳の夏だった。
彼の最後の出社日は2001年8月4日。そして、彼が毎朝9時までに入っていたオフィース・ビルが、ワールド・トレード・センターの「タワー1」、78階だったのだ!!
それから1ヵ月後の9月11日火曜日、世界の運命が変わった。そして、アンドレの人生も変わった。「僕のオフィースは78階、その上階(93階~99階)がもろ突っ込まれたところだ。僕のデスクから振り向くと外が見えるウインドウだ。そこに(飛行機が)突っ込んで来たんだよ。仕事仲間が何人も亡くなった。もちろん紙一重で命拾いした者もいた。ある男は、ちょうど朝のコーヒーを飲みに44階に降りていた。ある男は、ほんの一服タバコを吸いにやはり階下に降りていた。タバコは健康によくない、命を短くする、と言われる。だけど、その彼はタバコを吸っていたおかげで、少なくとも命が倍以上延びたんだ。タバコが彼の命を救ったんだよ。あれからしばらくは、本当に何もできなかった。茫然自失だ」
一息置いて彼は言った。「もし、解雇されていなければ、僕は今頃、死んでるよ」まさにクビが首をつないだわけだ。
「あれから2週間は本当にゾンビみたいに死んでいた。ちょうどその頃、僕は必死に創刊号の準備を進めていた。だが、よく人から言われたものだ。『誰がいまさら、レコードのことを書いた雑誌なんか読むんだ』とね。(ワールド・トレード・センターの)中にいた連中をみんな知っていたんだからね。で、ふと悟った。僕は今、生きている。それには理由があるはずだ。僕は何をすべきか、なぜ生きているのか。あのビルにその日いなかった理由、今、生きている理由、それは今やりかけている仕事を完成させるためなんだ、とね。僕の人生で次のフェーズ(段階)に進んだ瞬間だった。そこで僕は何をおいてもこの雑誌を創刊させようと決心したんだ」
「9月から12月にかけて猛烈に仕事をした。資金をあちこちから集めた。自分の貯金、2人のパートナーの貯金、両親、友人からの借金、クレジットカードでのローン、何でも現金を集め、印刷所と話をつけ、本の配給システムを作った。たぶん2万5000ドル以上は最初の資金としてあったと思う。初版は5000部作った。売れるかどうかはわからない。売れたとしても、書店からの回収は3ヵ月後、遅いところは半年後だ。だから第2号はそれを全部回収してから作ったから、(発行までに)随分と間隔があいたんだ。実際、創刊号を出す時には、どれほどの需要があるのか、音楽、それもレコードについて、人々はどれくらい知りたいのか、読みたいのか、まったくわからなかったからね。でも、出たら結局すぐに反応はあった」
横でこの話を聴いていたDJコンが、「その話は(ワックスポエティックスに)書いたのか?」と尋ねた。「いや、創刊号には、とてもじゃないが、気持ちを整理できずに書けなかった。だが、第2号(半年後)のコラムでちょっと書いたよ」
必然。
「Everything happens for reasons(すべて物事は必然で起こる)をまさに地で行くような話ですね」と僕が言うと、トレスが笑いながら答えた。「母親がいつも、その言葉を僕に言い聞かせていたんだ。まったく同じ言葉をね。ほんと、何かというとその言葉を言っていた。それまでは、何を言ってるんだ、くらいにしか思わず、全然信じることもなかったけど、あの事件以来、母が言った意味が本当の意味で理解できたよ(笑)」
雑誌の編集などまったくしたことがなかったトレスだが、イメージ、ヴィジョンは確固たるものを持っていた。「いわゆるジーン(ファンジン)と呼ばれるモノクロのいかにもマニア向けのミニコミは作りたくなかった。そういうのは本当に一部の人しか読まない。僕はもっと普通の人に読んでほしい。僕は一時期アートスクールに行っていた。だから、写真はこういう写真、レイアウトはこう、そうしたヴィジュアルのアイデアをしっかりもっていた」
「つまらない雑誌だと読み終わったら、みんな捨ててしまう。だが僕はそんな捨てられてしまうような雑誌は作りたくない。しっかりと読者が保存しておきたいと思うものを作りたいんだ」
「それが何冊も集まれば、百科事典みたいになるような雑誌?」
「その通りだ。しかも、記事もある程度アカデミックな内容で、ちゃんとプレゼンテーションされている記事、そうしたものを載せたい。もちろん自分が(雑誌に)載せたいアーティスト、載せたいレコード、そうしたものもはっきりとしている」
こうして、2001年12月11日、ファースト・イシュー(第一号)が世に出た。911からちょうど3ヶ月のことだった。「創刊パーティーをその日にやったから、よく覚えてるんだよ(笑)」 雑誌が出て、しばらくは書店もこの雑誌の取り扱いに困っていたらしい。トレスが言うのは、「ワックスポエティックス」というタイトルゆえに「詩の雑誌」のコーナーに置かれていたこともあったという。ワックスポエティックスは、直訳すると、「レコードの詩論」、つまりレコードで語られている詩を論じる、という意味だ。そこで、彼らは「これは音楽雑誌だから、音楽雑誌のコーナーに置いてくれ」とアピールしなければならなかった。
横からDJコンが訊いてきた。「最初の4号くらいまで、今いくらくらいするか知ってるかい?」 「さあ、高いとは聞いたけど」 「何百ドルってするんだよ」
2号が出るまでには、創刊号の資金を回収しなければならなかったので、半年以上かかった。それからは、しばらくは季刊(年に4回発行)で出した、そして、ビジネスが順調になって現在のスタイル、隔月刊になった。
つい最近、入手困難となっている最初の5号までの記事から秀逸記事を抜粋した『アンソロジーVOL.1』を発行した。その第2弾も予定されている。
「ワックスポエティックス」誌は好評を得て、順調に部数を伸ばし、現在31号まで刊行、毎号8万部を発行するまでに至っている。同誌のオフィースは、今は古いレコードの再発なども行うようになり、ビジネスの幅を広げている。そして、2008年10月27日、ニューヨークから6000マイル離れた極東の地で日本版が発行された。
雑誌の創刊を思い立った。仕事場で、仕事そっちのけでその準備をしていたらそれがばれて会社をクビになった。だがそのクビになったおかげで命拾いした。雑誌「ワックスポエティックス」創刊は911のその瞬間、運命付けられたのだ。もし上司が心優しい上司で彼をクビにしなければ、トレスは911の犠牲になり、この雑誌は誕生しなかったかもしれない。
Everything happens for reasons. すべては必然の元に…。
■雑誌・ワックスポエティックス・オフィシャル
http://www.waxpoetics.jp/
日本版創刊号、発売中
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861134145/soulsearchiho-22/ref=nosim/
MAGAZINES>Waxpoetics
ENT>EVENT>PARTY>Waxpoetics Release Party
ENT>MAGAZINES>Waxpoetics
●【ワックスポエティックス誌アンドレ・トレス編集長語る~パート1】
2001年12月ニューヨークで創刊された音楽誌「ワックスポエティックス」の日本版が2008年10月27日発売された。「ワックスポエティックス」誌はヒップホップ系DJらが使うレコードの元ネタにあたるアーティストらのレコードや、そのアーティスト自身への取材記事などで編集されたマニアックな音楽誌。広く浅くではなく、アーティストを絞り込み、深く入り込んだ記事に定評がある。日本版発売記念パーティーが代官山ユニットで31日に行われ、そこに編集長アンドレ・トレスらが参加。そのアンドレから短い時間だったが30分ほど話を聴いた。
■ レコード盤に囲まれて
レコード収集。
アンドレ・トレスは1969年4月26日ニューヨーク生まれ。現在39歳。実年齢より若く見える。父はブロンクスでジャズ、ラテン、ソウルなどを扱うレコード店を経営していた。幼少の頃、一家でフロリダへ移住。大学を卒業するまで、フロリダにいた。DJなどに興味を持ったのがこの頃だ。
代官山ユニットのカフェでウィルキンソン・ジンジャーエールのドライを飲みながら、トレスが早口で語る。「僕の父が以前レコード店をやっていたんで身近にレコードはいつもたくさんあった。子供のころ、ニューヨークからフロリダに引っ越すとき、全部置いていったんだが、(フロリダに)引越してきたら祖父がまたたくさんのレコードを持っていた。だから僕はいつもレコードに囲まれて生きてきたってことになる。(笑) 1990年代初めに(フロリダの)大学に入るまでは、それほどレコード収集に執着はしてなかった。入ってからかな、いろいろと興味を持ち始めたのは。大学の(校内放送の)テレビ局でヒップホップのビデオ・ショーをやっていたこともある。ニューヨークのヒップホップの歴史的なもの、『Bボーイ』『ヒップホップ』『グラフィティー』『ラップ』『ブレイクダンス』などをフロリダの子供たちに紹介していた。今考えてみると、その頃から僕は音楽の歴史的なものに興味があったみたいだね」
横には、今回DJのためにニューヨークからやってきたDJコンとDJアミールがいる。彼らご一行は木曜に来日、金曜にイヴェントに出演しDJをして朝までクラブにいて、土曜日昼帰る。2泊4日の強行軍だ。
そのころDJパーティーなどでレコードを回すようになったり、ブレイク・ビーツを作ったり、そのレコードを作ったりし始めるようになった。ただ毎週どこかでやるレギュラーDJというわけではなかった。頼まれたらやるという感じだ。
そして1995年、ニューヨークに戻ってきた。アンドレ26歳。アンドレが言う。「ニューヨークはヒップホップの歴史そのものみたいだろう。レコード・コレクターもたくさんいる。そして、みんな知識もある。今ではインターネットでいろいろ知ることができるが、その頃はそうではなかった。今はインターネットのおかげで、世界中ありとあらゆるところに住んでいる連中が、同じことに興味を持ったり、情報を共有できる。おそらく1995年や1990年にこの雑誌を作ろうとしたら、きっと、時期尚早だったと思う。1995年96年のころは、ニューヨークでヒップホップが変化してきた時期だ。ヒップホップがおそろしくポピュラーなものになってきていた。パフ・ダディー…。僕が知っていた古いヒップホップはもはや、なくなっていたんだ。そこで2000年になって、そうした変化のあとを受けて、今こそ雑誌を始めるときだと思ったんだ」
それより少し前、1998年、彼はコンピューターのソフトウェア会社に就職、ソフトウェアを販売するセールスマンとなった。仕事は次第に単調になり、ちょっと退屈になり始めていた。2000年頃になると、趣味のDJなどのほうがおもしろくなってくる。
ドキュメンタリー。
「2000年ごろだった。自分が好きなレコード、興味があるレコード、アーティストについてのドキュメンタリー映画でも作ろうと思いついたんだ。レコードを掘る(diggin=レコード箱を漁ること。古レコード屋などで昔の珍しいレコードなどを漁ること)連中とその周辺のカルチャーにもスポットを当てたドキュメンタリーだ。そこで、いろいろ調べていくうちに、自分が興味を持っているアーティストに関する書物や資料があまりないことに気づいた。それこそ、バーンズ&ノーブル(書店)に行っても、ローリング・ストーンズやビートルズに関する本はたくさんあるのに、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、そのほかのR&Bシンガーに関する本はほとんどない。だから、僕はレコードのライナーノーツを読むくらいしか(情報入手の)方法がなかった。今言ったメインのアーティスト(の単行本)はあることはあるが、マイナーなアーティストについてはほとんど紙に印刷された資料はないんだ。そこで、そういうアーティストについていろいろな情報が書かれている雑誌があればいいのにと思うようになったんだ」
「レコードを収集し始めていた連中にとってロック、ディスコ、ソウルの初期の作品は、ヒップホップのファンデーション(基本、基礎)となったものだ。それから、サンプリングの手法がでてきた。昔の曲のリサイクルの始まりだ。そこで、僕たちはそうしたアーティスト、サンプリングされるオリジナルのアーティストにフォーカスして記事を作りたいと考えた。僕たちはソウル、ファンク、ジャズの古いレコードをヒップホップのレコードを通じて知ることになったんだ。だからのその元のアーティストについての記事を書くということだ」
「僕もDJをするとき、R&Bや古い曲をかけていた。新しいヒップホップの曲で使われていたオリジナル曲をかけると、みんなはよく知っているフレーズの一部だけでなく、全部を聴ける。すると子供たちが興味を持つ。そこでオリジナルも聴くといいよと教えることができるわけだ」
一体彼はどれくらいのレコードを持っているのだろうか。「ある時期は買って買って買いまくるっていう時期があって、5000枚くらいにはなっていたと思う。だがよく使うレコード、そうでないレコードと、2枚あるものは処分したりして、絞り込んで、最近は3000枚くらいかな。彼ら(コン&アミール)ほどじゃないよ。彼らはヘヴィーだよ(レコード中毒が重症だ、の意味)(笑)」
音楽、特にヒップホップに熱中するようになった彼は、その元ネタの音楽にも興味を持つようになる。ジェームス・ブラウン、ハービー・ハンコック、クール&ザ・ギャング、ロイ・エアーズ、ダニー・ハサウェイ…。そこで、自身で雑誌を作ることを真剣に、現実的に考え始める。2001年にはいってのことだ。
(この項続く)
ENT>EVENT>PARTY>Waxpoetics Release Party
ENT>MAGAZINES>Waxpoetics
2001年12月ニューヨークで創刊された音楽誌「ワックスポエティックス」の日本版が2008年10月27日発売された。「ワックスポエティックス」誌はヒップホップ系DJらが使うレコードの元ネタにあたるアーティストらのレコードや、そのアーティスト自身への取材記事などで編集されたマニアックな音楽誌。広く浅くではなく、アーティストを絞り込み、深く入り込んだ記事に定評がある。日本版発売記念パーティーが代官山ユニットで31日に行われ、そこに編集長アンドレ・トレスらが参加。そのアンドレから短い時間だったが30分ほど話を聴いた。
■ レコード盤に囲まれて
レコード収集。
アンドレ・トレスは1969年4月26日ニューヨーク生まれ。現在39歳。実年齢より若く見える。父はブロンクスでジャズ、ラテン、ソウルなどを扱うレコード店を経営していた。幼少の頃、一家でフロリダへ移住。大学を卒業するまで、フロリダにいた。DJなどに興味を持ったのがこの頃だ。
代官山ユニットのカフェでウィルキンソン・ジンジャーエールのドライを飲みながら、トレスが早口で語る。「僕の父が以前レコード店をやっていたんで身近にレコードはいつもたくさんあった。子供のころ、ニューヨークからフロリダに引っ越すとき、全部置いていったんだが、(フロリダに)引越してきたら祖父がまたたくさんのレコードを持っていた。だから僕はいつもレコードに囲まれて生きてきたってことになる。(笑) 1990年代初めに(フロリダの)大学に入るまでは、それほどレコード収集に執着はしてなかった。入ってからかな、いろいろと興味を持ち始めたのは。大学の(校内放送の)テレビ局でヒップホップのビデオ・ショーをやっていたこともある。ニューヨークのヒップホップの歴史的なもの、『Bボーイ』『ヒップホップ』『グラフィティー』『ラップ』『ブレイクダンス』などをフロリダの子供たちに紹介していた。今考えてみると、その頃から僕は音楽の歴史的なものに興味があったみたいだね」
横には、今回DJのためにニューヨークからやってきたDJコンとDJアミールがいる。彼らご一行は木曜に来日、金曜にイヴェントに出演しDJをして朝までクラブにいて、土曜日昼帰る。2泊4日の強行軍だ。
そのころDJパーティーなどでレコードを回すようになったり、ブレイク・ビーツを作ったり、そのレコードを作ったりし始めるようになった。ただ毎週どこかでやるレギュラーDJというわけではなかった。頼まれたらやるという感じだ。
そして1995年、ニューヨークに戻ってきた。アンドレ26歳。アンドレが言う。「ニューヨークはヒップホップの歴史そのものみたいだろう。レコード・コレクターもたくさんいる。そして、みんな知識もある。今ではインターネットでいろいろ知ることができるが、その頃はそうではなかった。今はインターネットのおかげで、世界中ありとあらゆるところに住んでいる連中が、同じことに興味を持ったり、情報を共有できる。おそらく1995年や1990年にこの雑誌を作ろうとしたら、きっと、時期尚早だったと思う。1995年96年のころは、ニューヨークでヒップホップが変化してきた時期だ。ヒップホップがおそろしくポピュラーなものになってきていた。パフ・ダディー…。僕が知っていた古いヒップホップはもはや、なくなっていたんだ。そこで2000年になって、そうした変化のあとを受けて、今こそ雑誌を始めるときだと思ったんだ」
それより少し前、1998年、彼はコンピューターのソフトウェア会社に就職、ソフトウェアを販売するセールスマンとなった。仕事は次第に単調になり、ちょっと退屈になり始めていた。2000年頃になると、趣味のDJなどのほうがおもしろくなってくる。
ドキュメンタリー。
「2000年ごろだった。自分が好きなレコード、興味があるレコード、アーティストについてのドキュメンタリー映画でも作ろうと思いついたんだ。レコードを掘る(diggin=レコード箱を漁ること。古レコード屋などで昔の珍しいレコードなどを漁ること)連中とその周辺のカルチャーにもスポットを当てたドキュメンタリーだ。そこで、いろいろ調べていくうちに、自分が興味を持っているアーティストに関する書物や資料があまりないことに気づいた。それこそ、バーンズ&ノーブル(書店)に行っても、ローリング・ストーンズやビートルズに関する本はたくさんあるのに、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、そのほかのR&Bシンガーに関する本はほとんどない。だから、僕はレコードのライナーノーツを読むくらいしか(情報入手の)方法がなかった。今言ったメインのアーティスト(の単行本)はあることはあるが、マイナーなアーティストについてはほとんど紙に印刷された資料はないんだ。そこで、そういうアーティストについていろいろな情報が書かれている雑誌があればいいのにと思うようになったんだ」
「レコードを収集し始めていた連中にとってロック、ディスコ、ソウルの初期の作品は、ヒップホップのファンデーション(基本、基礎)となったものだ。それから、サンプリングの手法がでてきた。昔の曲のリサイクルの始まりだ。そこで、僕たちはそうしたアーティスト、サンプリングされるオリジナルのアーティストにフォーカスして記事を作りたいと考えた。僕たちはソウル、ファンク、ジャズの古いレコードをヒップホップのレコードを通じて知ることになったんだ。だからのその元のアーティストについての記事を書くということだ」
「僕もDJをするとき、R&Bや古い曲をかけていた。新しいヒップホップの曲で使われていたオリジナル曲をかけると、みんなはよく知っているフレーズの一部だけでなく、全部を聴ける。すると子供たちが興味を持つ。そこでオリジナルも聴くといいよと教えることができるわけだ」
一体彼はどれくらいのレコードを持っているのだろうか。「ある時期は買って買って買いまくるっていう時期があって、5000枚くらいにはなっていたと思う。だがよく使うレコード、そうでないレコードと、2枚あるものは処分したりして、絞り込んで、最近は3000枚くらいかな。彼ら(コン&アミール)ほどじゃないよ。彼らはヘヴィーだよ(レコード中毒が重症だ、の意味)(笑)」
音楽、特にヒップホップに熱中するようになった彼は、その元ネタの音楽にも興味を持つようになる。ジェームス・ブラウン、ハービー・ハンコック、クール&ザ・ギャング、ロイ・エアーズ、ダニー・ハサウェイ…。そこで、自身で雑誌を作ることを真剣に、現実的に考え始める。2001年にはいってのことだ。
(この項続く)
ENT>EVENT>PARTY>Waxpoetics Release Party
ENT>MAGAZINES>Waxpoetics
⊿【音楽雑誌・ワックスポエティックス誌日本版登場】
マニア。
アメリカ・ニューヨークで発刊された音楽雑誌『ワックスポエティックス』の翻訳・日本版が2008年10月27日発売され、その創刊パーティーが10月31日代官山ユニットでアメリカ版編集長アンドレ・トレス氏らを向かえ行われた。
トレスは、元々ニューヨーク生まれで父がラテン、ジャズなどのレコードを集めていた。本人はヒップホップなどに傾注したが、そうしたヒップホップがサンプリングなどで使う元の音楽に興味を持ち始め、それらを扱う雑誌を作ろうと思い立ち、2001年冬、『ワックスポエティックス』誌を創刊した。現在は隔月刊で2008年8月、第30号がリリースされた。
日本版も隔月(偶数月)発売でB5変形版、約130ページ。定価980円(税込み)、編集発行は株式会社グラントスタイル(GruntStyle)、発売元はサンクチュアリ出版。日本版発行数は4万部の予定。全国主要CDショップ、レコード店、書店などで発売。
当初は新しい記事だけでなく、過去7年分のアーカイブ記事から順次翻訳、編集していく。基本は英文の翻訳で日本編集のページも若干作る予定。第一号ではハービー・ハンコック、ダニー・ハサウェイ、ロイ・エヤーズ、ボビー・ハンフリーなどの記事を紹介している。レコード・マニア向けらしく、ジャケット写真、レーベルの写真などもふんだんに使われる。
10月31日に行われた出版記念パーティーでは、ニューヨークから彼らの仲間でもあるDJのコン&アミール、日本からDJムロらが参加しイヴェントを盛り上げた。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861134145/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ ワックスポエティックス・オフィシャル・ウェッブ
http://www.waxpoetics.jp/
+++++
意気。
この創刊号のハービー、ロイ、ダニーなどの記事の翻訳をした。今年6月ごろ、日本版発行に精力的に動いていた編集長の舟津さんから連絡があり、翻訳を頼まれた。この雑誌についてはほとんど知らなかったが、見てみるととてもマニアックでおもしろいと思ったことと、船津さんの意気に感じて引き受けた。
元々DJをやっていた仲間が集まって作り始めた雑誌ということで、普通の音楽誌ではとりあげないようなアーティストの記事なども多数ある。決して一般受けすることはないだろうが、こういう雑誌がアメリカで出て、その日本版が出るということで応援していきたい。
僕はこの種のアメリカ雑誌などの日本版翻訳については、いかに日本人向けにカスタマイズできるかが鍵だと思っている。残念ながら、まだ創刊号ではそうしたことはできていないが、徐々に出来て発行部数が増えることを祈っている。
創刊号ではハービー・ハンコックの記事がいわゆる第一特集記事にあたるカヴァー・ストーリー。18ページにわたる。しかも、現在68歳のハービーがマイルス学校を卒業、『カメレオン』を出すまでのワーナー時代のほんの3年にだけフォーカスした記事だ。こういうのは、まず日本の雑誌では余裕もなければ、編集マインドもないので、できない。かなり読み応えがある。一方、ダニー・ハサウェイの記事もおもしろいといえばおもしろいのだが、書き手のフォーカスが散漫になっていてちょっと残念。といっても、ダニーについての記事が読めるだけでもよしとすべきなのだが。こういうしっかりした記事を翻訳していると、自分が編集者になったような気分で、ここをもう少しつっこんで書いてくれ、とか、ここは無駄、とか思うことが多々でてきて、おもしろい感覚になる。ダニーの記事に関して言えば、ダニーにインタヴューができないので、書き手にとっては気の毒なのだが…。やはり時間をかけて調査し、インタヴューを重ねて書くと立派なものができる。うらやましいと思った。
自分は翻訳者というより、音楽についてのライター、書き手、ジャーナリストなので、こうやって日々雑文を書き散らしているが、ときに俯瞰して、客観的に文章を見ることが改めて大事だなと感じた。
ぜひ、書店、CDショップなどで手にとってごらんください。
そのパーティーで編集長のアンドレ・トレスと会ってほんの少しだったが話ができた。実におもしろいストーリーだったので、明日以降ご紹介する。彼はなぜ、この『ワックスポエティックス』の創刊を思い立ったのか。雑誌創刊へ向けて動き出した彼に訪れる劇的な運命のいたずらとは。Everything happens for reasons(すべては必然で起こる~すべて起こることには理由がある、そうなるべくして、なる)。彼の人生を変えたターニング・ポイントとは。
明日をお楽しみに。
ENT>EVENT>PARTY>Waxpoetics Release Party
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マニア。
アメリカ・ニューヨークで発刊された音楽雑誌『ワックスポエティックス』の翻訳・日本版が2008年10月27日発売され、その創刊パーティーが10月31日代官山ユニットでアメリカ版編集長アンドレ・トレス氏らを向かえ行われた。
トレスは、元々ニューヨーク生まれで父がラテン、ジャズなどのレコードを集めていた。本人はヒップホップなどに傾注したが、そうしたヒップホップがサンプリングなどで使う元の音楽に興味を持ち始め、それらを扱う雑誌を作ろうと思い立ち、2001年冬、『ワックスポエティックス』誌を創刊した。現在は隔月刊で2008年8月、第30号がリリースされた。
日本版も隔月(偶数月)発売でB5変形版、約130ページ。定価980円(税込み)、編集発行は株式会社グラントスタイル(GruntStyle)、発売元はサンクチュアリ出版。日本版発行数は4万部の予定。全国主要CDショップ、レコード店、書店などで発売。
当初は新しい記事だけでなく、過去7年分のアーカイブ記事から順次翻訳、編集していく。基本は英文の翻訳で日本編集のページも若干作る予定。第一号ではハービー・ハンコック、ダニー・ハサウェイ、ロイ・エヤーズ、ボビー・ハンフリーなどの記事を紹介している。レコード・マニア向けらしく、ジャケット写真、レーベルの写真などもふんだんに使われる。
10月31日に行われた出版記念パーティーでは、ニューヨークから彼らの仲間でもあるDJのコン&アミール、日本からDJムロらが参加しイヴェントを盛り上げた。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861134145/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ ワックスポエティックス・オフィシャル・ウェッブ
http://www.waxpoetics.jp/
+++++
意気。
この創刊号のハービー、ロイ、ダニーなどの記事の翻訳をした。今年6月ごろ、日本版発行に精力的に動いていた編集長の舟津さんから連絡があり、翻訳を頼まれた。この雑誌についてはほとんど知らなかったが、見てみるととてもマニアックでおもしろいと思ったことと、船津さんの意気に感じて引き受けた。
元々DJをやっていた仲間が集まって作り始めた雑誌ということで、普通の音楽誌ではとりあげないようなアーティストの記事なども多数ある。決して一般受けすることはないだろうが、こういう雑誌がアメリカで出て、その日本版が出るということで応援していきたい。
僕はこの種のアメリカ雑誌などの日本版翻訳については、いかに日本人向けにカスタマイズできるかが鍵だと思っている。残念ながら、まだ創刊号ではそうしたことはできていないが、徐々に出来て発行部数が増えることを祈っている。
創刊号ではハービー・ハンコックの記事がいわゆる第一特集記事にあたるカヴァー・ストーリー。18ページにわたる。しかも、現在68歳のハービーがマイルス学校を卒業、『カメレオン』を出すまでのワーナー時代のほんの3年にだけフォーカスした記事だ。こういうのは、まず日本の雑誌では余裕もなければ、編集マインドもないので、できない。かなり読み応えがある。一方、ダニー・ハサウェイの記事もおもしろいといえばおもしろいのだが、書き手のフォーカスが散漫になっていてちょっと残念。といっても、ダニーについての記事が読めるだけでもよしとすべきなのだが。こういうしっかりした記事を翻訳していると、自分が編集者になったような気分で、ここをもう少しつっこんで書いてくれ、とか、ここは無駄、とか思うことが多々でてきて、おもしろい感覚になる。ダニーの記事に関して言えば、ダニーにインタヴューができないので、書き手にとっては気の毒なのだが…。やはり時間をかけて調査し、インタヴューを重ねて書くと立派なものができる。うらやましいと思った。
自分は翻訳者というより、音楽についてのライター、書き手、ジャーナリストなので、こうやって日々雑文を書き散らしているが、ときに俯瞰して、客観的に文章を見ることが改めて大事だなと感じた。
ぜひ、書店、CDショップなどで手にとってごらんください。
そのパーティーで編集長のアンドレ・トレスと会ってほんの少しだったが話ができた。実におもしろいストーリーだったので、明日以降ご紹介する。彼はなぜ、この『ワックスポエティックス』の創刊を思い立ったのか。雑誌創刊へ向けて動き出した彼に訪れる劇的な運命のいたずらとは。Everything happens for reasons(すべては必然で起こる~すべて起こることには理由がある、そうなるべくして、なる)。彼の人生を変えたターニング・ポイントとは。
明日をお楽しみに。
ENT>EVENT>PARTY>Waxpoetics Release Party
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△【「サニー」で有名なボビー・ヘブ・ライヴ】
スプーン芸。
なぜかあの大ヒット「サニー」で知られるシンガー、ボビー・へブが突然の来日。1日だけ東京でショーをするという。何でも奥さんが日本人だとかで。
もちろんこの「サニー」誕生秘話は実にいい。↓
2003/08/16 (Sat)
Sunny: Bobby Hebb Sings About His Brother
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030816.html
ということなのか、本人だけの来日で、バンドは日本人ミュージシャン。カラオケでやられるよりはいいが。ま、今回はしかたないとしても、こういう形も今後は増える可能性があるだろうから、やはり、日本在住のブラックのミュージシャンで「ハウス・バンド」的なバンドを作ってもいいのではないかと思う。前にも誰かのライヴのときに同じことを書いたことを思い出す。そのときは連れてきたミュージシャンのレベルが低かったのだが。
ボビーは2005年に35年ぶりくらいのアルバムを出していて、それが『ザッツ・オール・アイ・ウォナ・ノウ』というもの。今回は4曲目で歌われたのだが、これ、調べてみるとサザン・ソウルのジェームス・カーの作品。カーのシングル「ユーヴ・ガット・マイ・マインド・メスド・アップ」のB面に収録されていた「ザッツ・ホワット・アイ・ウォント・トゥ・ノウ」を少しタイトルを変えたようだ。
ヒット曲1曲でどんなステージを組むかと思ったが、なんとその「サニー」、オープニングのイントロ、中盤で本編、エンディングの「アウトロ」と3回でてきた! さすが、使えるものは何度でも使えっていう感じ。普段、あまり歌っていないようで、歌もかなり不安定だが、一番受けたのはアンコールで登場したとき。
舞台袖からステージにあがるとき、1960年代に流行った「モンキー・ダンス」をカクカクしながらやって出てきたのだ! これがかわいくて、最高におもしろい。そして、彼は手にあるものを持ってでてきた。さて、ここで問題です。何を持ってきたでしょう。行った人以外、これがわかる人は絶対いない。正解は2本のスプーンなのだ。
そして、その2本のスプーンをカチャカチャ、テンポよくぶつけながらリズムを取る。まるでその音は、オマー・エドワーズとまではいかないが、ちょっとしたタップ・ダンスの音みたい。ボビーがスプーン使いの達人とは知らなかった。それも、やはり現場で見ての初めての発見だ。ライヴは一度は見ないと。この70分の中で、「モンキー・ダンス」と「スプーン芸」が一番受けた。
もうひとつ受けたのが、そのアンコールのところでのメンバー紹介のとき。メンバーの名前を覚えていなかったようで、キーボードの方を指し、「…キーボード・プレイヤー!」、ドラマーを指し「ドラマー!」と紹介。受ける。(笑)いいものを見せてもらった。だが彼はアンコールでこの「スプーン芸」と「モンキー・ダンス」だけで歌わなかった。なめてるなあ。(笑)
ボビー・へブは1938年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ、今年70歳。「サニー」は、先日紹介したディスコ映画『DISCOディスコ』でボニーMのヴァージョンがオープニング・テーマとなっている。そういうわけで、個人的には「サニー」がちょっとしたマイ・ブームになった。2-300以上のカヴァー・ヴァージョンがある「サニー」、これ1曲で一生安泰、これぞアメリカのショー・ビジネスの世界だ。
そして、そのサニーをひとりのジャズ・ミュージシャンが自分のものにしていた。
2004/10/15 (Fri)
Pat Martino Live At Blue Note: He’s A Jazz Survivor
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200410/diary20041015.html
■ メンバー
ボビー・ヘブ/Bobby Hebb(Guitar/Vocals)
祖田 修/Osamu Sam Soda(Piano)
房原 忠弘/Tadahiro Fusahara(Trumpet)
鈴木 央紹/Hisatsugu Suzuki(Tenor Saxophone)
東原 力哉/Rikiya Higashihara(Drums)
中島 克巳/Katsuki Nakajima(Bass)
■セットリスト ボビー・ヘブ
Setlist : Bobby Hebb : Billboard Live Tokyo, October 25, 2008
show started 18:01
01. Intro: Main Theme : Sunny (Disco version)
02. Cold Cold Night [Bobby Hebb]
03. You Want To Change Me [Bobby Hebb]
04. That’s All I Wanna Know [James Carr][Carr’s title "That’s What I Want To Know"]
05. That’s The Way I Like It [KC & The Sunshine Band]
06. Nigerian Market Place [Instrumental] [Oscar Peterson Trio]
07. A Natural Man [Lou Rawls]
08. Sunny (Original version)
09. Direct From My Heart [Little Richard]
10. You Send Me [Sam Cook] ~ Outro "Sunny"
Enc. (Instrumental) (Spoon Play & Monkey Dance)
show ended 19:09
(2008年10月25日土曜、六本木ビルボード・ライヴ=ボビー・ヘブ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Hebb, Bobby
2008-176
スプーン芸。
なぜかあの大ヒット「サニー」で知られるシンガー、ボビー・へブが突然の来日。1日だけ東京でショーをするという。何でも奥さんが日本人だとかで。
もちろんこの「サニー」誕生秘話は実にいい。↓
2003/08/16 (Sat)
Sunny: Bobby Hebb Sings About His Brother
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030816.html
ということなのか、本人だけの来日で、バンドは日本人ミュージシャン。カラオケでやられるよりはいいが。ま、今回はしかたないとしても、こういう形も今後は増える可能性があるだろうから、やはり、日本在住のブラックのミュージシャンで「ハウス・バンド」的なバンドを作ってもいいのではないかと思う。前にも誰かのライヴのときに同じことを書いたことを思い出す。そのときは連れてきたミュージシャンのレベルが低かったのだが。
ボビーは2005年に35年ぶりくらいのアルバムを出していて、それが『ザッツ・オール・アイ・ウォナ・ノウ』というもの。今回は4曲目で歌われたのだが、これ、調べてみるとサザン・ソウルのジェームス・カーの作品。カーのシングル「ユーヴ・ガット・マイ・マインド・メスド・アップ」のB面に収録されていた「ザッツ・ホワット・アイ・ウォント・トゥ・ノウ」を少しタイトルを変えたようだ。
ヒット曲1曲でどんなステージを組むかと思ったが、なんとその「サニー」、オープニングのイントロ、中盤で本編、エンディングの「アウトロ」と3回でてきた! さすが、使えるものは何度でも使えっていう感じ。普段、あまり歌っていないようで、歌もかなり不安定だが、一番受けたのはアンコールで登場したとき。
舞台袖からステージにあがるとき、1960年代に流行った「モンキー・ダンス」をカクカクしながらやって出てきたのだ! これがかわいくて、最高におもしろい。そして、彼は手にあるものを持ってでてきた。さて、ここで問題です。何を持ってきたでしょう。行った人以外、これがわかる人は絶対いない。正解は2本のスプーンなのだ。
そして、その2本のスプーンをカチャカチャ、テンポよくぶつけながらリズムを取る。まるでその音は、オマー・エドワーズとまではいかないが、ちょっとしたタップ・ダンスの音みたい。ボビーがスプーン使いの達人とは知らなかった。それも、やはり現場で見ての初めての発見だ。ライヴは一度は見ないと。この70分の中で、「モンキー・ダンス」と「スプーン芸」が一番受けた。
もうひとつ受けたのが、そのアンコールのところでのメンバー紹介のとき。メンバーの名前を覚えていなかったようで、キーボードの方を指し、「…キーボード・プレイヤー!」、ドラマーを指し「ドラマー!」と紹介。受ける。(笑)いいものを見せてもらった。だが彼はアンコールでこの「スプーン芸」と「モンキー・ダンス」だけで歌わなかった。なめてるなあ。(笑)
ボビー・へブは1938年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ、今年70歳。「サニー」は、先日紹介したディスコ映画『DISCOディスコ』でボニーMのヴァージョンがオープニング・テーマとなっている。そういうわけで、個人的には「サニー」がちょっとしたマイ・ブームになった。2-300以上のカヴァー・ヴァージョンがある「サニー」、これ1曲で一生安泰、これぞアメリカのショー・ビジネスの世界だ。
そして、そのサニーをひとりのジャズ・ミュージシャンが自分のものにしていた。
2004/10/15 (Fri)
Pat Martino Live At Blue Note: He’s A Jazz Survivor
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200410/diary20041015.html
■ メンバー
ボビー・ヘブ/Bobby Hebb(Guitar/Vocals)
祖田 修/Osamu Sam Soda(Piano)
房原 忠弘/Tadahiro Fusahara(Trumpet)
鈴木 央紹/Hisatsugu Suzuki(Tenor Saxophone)
東原 力哉/Rikiya Higashihara(Drums)
中島 克巳/Katsuki Nakajima(Bass)
■セットリスト ボビー・ヘブ
Setlist : Bobby Hebb : Billboard Live Tokyo, October 25, 2008
show started 18:01
01. Intro: Main Theme : Sunny (Disco version)
02. Cold Cold Night [Bobby Hebb]
03. You Want To Change Me [Bobby Hebb]
04. That’s All I Wanna Know [James Carr][Carr’s title "That’s What I Want To Know"]
05. That’s The Way I Like It [KC & The Sunshine Band]
06. Nigerian Market Place [Instrumental] [Oscar Peterson Trio]
07. A Natural Man [Lou Rawls]
08. Sunny (Original version)
09. Direct From My Heart [Little Richard]
10. You Send Me [Sam Cook] ~ Outro "Sunny"
Enc. (Instrumental) (Spoon Play & Monkey Dance)
show ended 19:09
(2008年10月25日土曜、六本木ビルボード・ライヴ=ボビー・ヘブ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Hebb, Bobby
2008-176
▽Neville Brothers Live At JCB Hall
2008年10月30日 音楽▽【ネヴィル・ブラザーズ12年ぶりのライヴ】
普遍。
なんと12年ぶりというニューオーリンズのネヴィル・ブラザーズのライヴが東京ドーム横のJCBホールで行われた。この会場に僕が足を運ぶのは初めて。やはりできたばかりでさすがに綺麗。レイアウトも4層になっていて、どこからでも見やすくなっている。2000人以上入るホールだ。彼らの来日は1986年が初で以来今回で8回目という。
ドラムス、ギター、ベース、キーボード2、パーカッションにアーロンとシリル・ネヴィルの計8人がオンステージ。19時ちょうどに始まり、1曲目からニューオーリンズのセカンド・ライン系のファンクを披露。のりのりだ。
このドンドドドンドドンというニューオーリンズのリズムは中毒になる。実に気持ちいい。だいたいがミディアム調の曲で、おせおせだ。ライヴ・バンドで鍛え上げただけあり、バンド演奏はがっちり、きっちり、文句なし。ニューオーリンズ・ファンクからブルーズ調のもの、そして、チャールズのサックス・ソロ、アーロンのヴォーカル・ソロなどだいたい一式揃えて披露する。
なによりよかったのが、満席ではないこの会場に来ているお客さんが全員ネヴィルのファンでネヴィルの演奏を真剣に聴きに来ているということ。だから始まる前から観客の熱気が熱い、熱い。そして、1曲目から観客の反応がすこぶるよい。こういうライヴは空気がいい。
アーロンが歌うクラシック「テル・イット・ライク・イット・イズ」は、本当に神々しい。アンコールでも1曲目はアーロンの「アメイジング・グレイス」だった。
その昔、小さなところと、その後どこかで見た記憶があるのだが、12年ぶりとは思わなかった。かつてみたときと、彼らのサウンドは普遍だ。唯一変わったことといえば、彼らが年を取ったというだけ。One Love, One Nevilles!
■ メンバー
Art Neville (Vocal & Keys)
Charles Neville (Vocal & Sax)
Aaron Neville (Vocal & Tambourine)
Cyril Neville (Vocal & Percussion)
Willie Green (Drums)
Chris Severin (Bass)
Michael Goods (Keys)
Makuni Fukuda (Guitar)
■セットリスト ネヴィル・ブラザース JCBホール
Setlist : Neville Brothers @ JCB Hall, October 29, 2008
show started 19:00
01. Fire On The Bayou [Fiyo On The Bayou]
02. No Butts, No Maybes [Cyril Neville] / They All Aske’d For You [Meters]
03. Africa [Live Nevillization]
04. Brother Jake [Brother’s Keeper]
05. Mojo Hannah [Live Nevillization]
06. Voo Doo [Yellow Moon]
07. Everybody Plays The Fool [Main Ingredient / Aaron Neville: Warm Your Heart]
08. Besame Mucho (Instrumental) [Charles Sax Solo]
09. Hey Pocky Way [Fiyo On The Bayou]
10. Tipitinas [Cyril Neville][Doctor John, Professor Longhair]
11. "Rock & Roll Medley" : Johnny B. Good [Chuck Berry] / Bony Moronie [Ritchie Valens] / Dizzy Miss Lizzie [Beatles] / Slow Down [Beatles] / Oh Boy! [Buddy Holly] / Long Tall Sally [Little Richard, Beatles]
12. ?? (Instrumental) [Charles Sax Solo]
13. Big Chief [Cyril Neville]
14. Tell It Like It Is [Aaron Solo]
15. Yellow Moon [Yellow Moon]
Enc.1 Amazing Grace [Traditional][Aaron Solo]
Enc.2 One Love [Bob Marley] / People Get Ready [Curtis Mayfield]
show ended 20:38
xx. (CD) When The Saints Go Marching In
(2008年10月29日水曜、水道橋・JCBホール=ネヴィル・ブラザース・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Neville Brothers
2008-178
普遍。
なんと12年ぶりというニューオーリンズのネヴィル・ブラザーズのライヴが東京ドーム横のJCBホールで行われた。この会場に僕が足を運ぶのは初めて。やはりできたばかりでさすがに綺麗。レイアウトも4層になっていて、どこからでも見やすくなっている。2000人以上入るホールだ。彼らの来日は1986年が初で以来今回で8回目という。
ドラムス、ギター、ベース、キーボード2、パーカッションにアーロンとシリル・ネヴィルの計8人がオンステージ。19時ちょうどに始まり、1曲目からニューオーリンズのセカンド・ライン系のファンクを披露。のりのりだ。
このドンドドドンドドンというニューオーリンズのリズムは中毒になる。実に気持ちいい。だいたいがミディアム調の曲で、おせおせだ。ライヴ・バンドで鍛え上げただけあり、バンド演奏はがっちり、きっちり、文句なし。ニューオーリンズ・ファンクからブルーズ調のもの、そして、チャールズのサックス・ソロ、アーロンのヴォーカル・ソロなどだいたい一式揃えて披露する。
なによりよかったのが、満席ではないこの会場に来ているお客さんが全員ネヴィルのファンでネヴィルの演奏を真剣に聴きに来ているということ。だから始まる前から観客の熱気が熱い、熱い。そして、1曲目から観客の反応がすこぶるよい。こういうライヴは空気がいい。
アーロンが歌うクラシック「テル・イット・ライク・イット・イズ」は、本当に神々しい。アンコールでも1曲目はアーロンの「アメイジング・グレイス」だった。
その昔、小さなところと、その後どこかで見た記憶があるのだが、12年ぶりとは思わなかった。かつてみたときと、彼らのサウンドは普遍だ。唯一変わったことといえば、彼らが年を取ったというだけ。One Love, One Nevilles!
■ メンバー
Art Neville (Vocal & Keys)
Charles Neville (Vocal & Sax)
Aaron Neville (Vocal & Tambourine)
Cyril Neville (Vocal & Percussion)
Willie Green (Drums)
Chris Severin (Bass)
Michael Goods (Keys)
Makuni Fukuda (Guitar)
■セットリスト ネヴィル・ブラザース JCBホール
Setlist : Neville Brothers @ JCB Hall, October 29, 2008
show started 19:00
01. Fire On The Bayou [Fiyo On The Bayou]
02. No Butts, No Maybes [Cyril Neville] / They All Aske’d For You [Meters]
03. Africa [Live Nevillization]
04. Brother Jake [Brother’s Keeper]
05. Mojo Hannah [Live Nevillization]
06. Voo Doo [Yellow Moon]
07. Everybody Plays The Fool [Main Ingredient / Aaron Neville: Warm Your Heart]
08. Besame Mucho (Instrumental) [Charles Sax Solo]
09. Hey Pocky Way [Fiyo On The Bayou]
10. Tipitinas [Cyril Neville][Doctor John, Professor Longhair]
11. "Rock & Roll Medley" : Johnny B. Good [Chuck Berry] / Bony Moronie [Ritchie Valens] / Dizzy Miss Lizzie [Beatles] / Slow Down [Beatles] / Oh Boy! [Buddy Holly] / Long Tall Sally [Little Richard, Beatles]
12. ?? (Instrumental) [Charles Sax Solo]
13. Big Chief [Cyril Neville]
14. Tell It Like It Is [Aaron Solo]
15. Yellow Moon [Yellow Moon]
Enc.1 Amazing Grace [Traditional][Aaron Solo]
Enc.2 One Love [Bob Marley] / People Get Ready [Curtis Mayfield]
show ended 20:38
xx. (CD) When The Saints Go Marching In
(2008年10月29日水曜、水道橋・JCBホール=ネヴィル・ブラザース・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Neville Brothers
2008-178