"Hitch": Lean On Consultant
2005年5月21日【映画『最後の恋のはじめ方』】
コンサルタント。
何をもって「ソウル・ムーヴィー」というか。もちろん、古くからの「ブラック・ムーヴィー」はひとつのジャンルとしてある。だが、広義にテーマや、ストーリーのどこかに「ソウル」があれば、「ソウル・ムーヴィー」。ソウル・ミュージックがたくさんかかっていれば、それも「ソウル・ムーヴィー」ともいえる。
ウィル・スミス主演のちょっとしたラヴ・コメディー「ヒッチ(邦題、最後の恋のはじめ方)」は、まさに「ソウル・ムーヴィー」だった。なにしろ、ど頭サム・クックの「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」から映画は始まる。(サントラCDには未収録) 恋をすれば、世界はなんと素晴らしい、という曲は、この映画のテーマにもってこい。さすがウィル・スミス。ソウル・サーチン的には完璧つかみはOKだ。この曲にのって、ヒッチの仕事ぶりが簡単に紹介される。
アレックス・ヒッチ(ウィル・スミス)は、ニューヨークのデート・コンサルタント。「デート・ドクター」などとも呼ばれ、恋愛問題に悩む男女に、どのようにしたら自分が好きな相手とうまくデートできるかを指南して、それを生業としている。
出会いのきっかけ作り、話題の選び方、洋服、靴などの選択などなど、様々なシチュエーションでのかけひきをクライアント(お客さん)にアドヴァイスする。
彼のもとにとてもモテそうもないちょっと太り気味の男、アルバート・ブレナマン(ケヴィン・ジェームス)がやってきた。彼の意中の人はコール財団のリッチなセレブ、アレグラ・コール。一サラリーマンからすれば、完全に高嶺の花だが、ヒッチは彼の熱い思いに負けて様々なアドヴァイスを与え、デートのチャンスを作り出す。
そんなある夜、ヒッチはバーでゴシップ記事専門のタブロイド紙の女性記者サラ・ミラス(エヴァ・メンデス)と知り合う。他人のデートのアドヴァイスはできるが、自分のデートはなかなかうまく進められない。斬新なアイデアでファースト・デートにこぎつけるが・・・。
軽快なテンポ、デート・コンサルタントという職業をテーマにしたところなど、なかなか斬新で楽しめた。しかもヒッチは、この仕事でけっこうなお金を稼いでいるようで、彼の住むアパートはかなりリッチで豪華だ。1時間100ドルとか200ドルでもチャージするのだろうか。(笑)
音楽の使い方もうまい。ヒッチがサラを初デートに誘った時、ジェットスキーに乗るがそのバックで流れていたのが、ジョン・レジェンドが歌うスティーヴィーの「ドンチュー・ウォーリー・アバウト・ア・シング」。不安な初デート、しかもジェットスキー、そこで、心配するな、というわけだ。冒頭、サム・クックに続いて流れたのがジミー・クリフの「ユー・キャン・ゲット・イット・イフ・ユー・リアリー・ウォント・イット」。本当に望めば、それは手に入る。
一番、おもしろいなと思った部分は、ヒッチがよっぱらって、サラと散歩をしているところで、かなり音程をはずして、アース・ウィンド&ファイアーの「リーズン」を歌うシーン。サラが「この曲は誰?」と訊き、ヒッチが「アース・ウィンド&ファイアー」と答える。ヒッチとサラが、ヒッチのアパートでちょっとした喧嘩をするシーンでは、テンプテーションズの「アイ・キャント・ゲット・ネクスト・トゥ・ユー」。「君の隣にはいられないな」という曲だ。アルバナンが踊りを練習するシーンでは、アッシャーの「イエー」。(サントラCDには未収録)
ヒッチとクライアントのアルバナンが言い争う場面がある。ヒッチは「愛は、自分にとって人生そのものだ」というと、アルバナンが彼に向かって「お前は愛を商売にしてるじゃないか」と言い返す。だがそこでヒッチが「自分は魂を込めて、この仕事をしている」とか、「魂をこめて相手に臨まないとだめだ」みたいなセリフを言ったような気がしたのだが、正確に覚えられなかった。これはDVDでもでた時にもう一度チェックしてみよう。
デート・コンサルタント、おもしろい仕事だ。しかも、ここでいろいろアドヴァイスされるノウハウが興味深い。ところがあれこれ指南するものの、結局、落ち着くのが「恋愛に基本ルールはない」というオチ。でも、そこに行き着くまでに、コンサルタントが必要なわけだ。いかにも今風だなあ。(笑) 世の中、何でもちょっと困ったらコンサルタントに頼る時代。「1億総コンサル頼み時代」ってことか。いや、アメリカだから、「2億総コンサル頼み時代」かな。
+++++
サントラ盤 『HITCH 最後の恋のはじめ方 』(ソニー)
HITCH 最後の恋のはじめ方
1.I Thing(エイメリー)
2.Don’t You Worry’Bout A Thing(ジョン・ジェンド)
3.This is How I Feel(アース・ウインド&ファイアー featuring ケリー・ローランド&スリーピー・ブラウン)
4.Ooh Wee(マーク・ロンソン featuring ゴーストフェイス・キラー,ネイト・ドック,トライフ・ダ・ゴッド&サイゴン)
5.Now That We Found Love(ベビー・デューティー・アンド・ザ・ボーイズ)
6.Happy(メレニー・スミス)
7.Love Train(オージェイズ)
8.I Can’t Get Next To You(ザ・テンプテーションズ)
9.You Can Get It If You Really Want(ジミー・クリフ)
10.It’s Easy To Fall In Love(With A Guy Like You)(マーサ・リーブス・アンド・ザ・バンデラス)
11.リーズンズ(アース・ウインド&ファイアー)
12.Never Gonna Let You Go(She’s a Keepa)(オマリオン)
13.Turn Me On(Low Tide Remix)(ケヴィン・リトル)
+++++
(映画『最後の恋のはじめ方』〜2005年6月4日(土)より新・日比谷みゆき座、シネア・メディアージュなどでロードショー)
ENT>MOVIE>Hitch
コンサルタント。
何をもって「ソウル・ムーヴィー」というか。もちろん、古くからの「ブラック・ムーヴィー」はひとつのジャンルとしてある。だが、広義にテーマや、ストーリーのどこかに「ソウル」があれば、「ソウル・ムーヴィー」。ソウル・ミュージックがたくさんかかっていれば、それも「ソウル・ムーヴィー」ともいえる。
ウィル・スミス主演のちょっとしたラヴ・コメディー「ヒッチ(邦題、最後の恋のはじめ方)」は、まさに「ソウル・ムーヴィー」だった。なにしろ、ど頭サム・クックの「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」から映画は始まる。(サントラCDには未収録) 恋をすれば、世界はなんと素晴らしい、という曲は、この映画のテーマにもってこい。さすがウィル・スミス。ソウル・サーチン的には完璧つかみはOKだ。この曲にのって、ヒッチの仕事ぶりが簡単に紹介される。
アレックス・ヒッチ(ウィル・スミス)は、ニューヨークのデート・コンサルタント。「デート・ドクター」などとも呼ばれ、恋愛問題に悩む男女に、どのようにしたら自分が好きな相手とうまくデートできるかを指南して、それを生業としている。
出会いのきっかけ作り、話題の選び方、洋服、靴などの選択などなど、様々なシチュエーションでのかけひきをクライアント(お客さん)にアドヴァイスする。
彼のもとにとてもモテそうもないちょっと太り気味の男、アルバート・ブレナマン(ケヴィン・ジェームス)がやってきた。彼の意中の人はコール財団のリッチなセレブ、アレグラ・コール。一サラリーマンからすれば、完全に高嶺の花だが、ヒッチは彼の熱い思いに負けて様々なアドヴァイスを与え、デートのチャンスを作り出す。
そんなある夜、ヒッチはバーでゴシップ記事専門のタブロイド紙の女性記者サラ・ミラス(エヴァ・メンデス)と知り合う。他人のデートのアドヴァイスはできるが、自分のデートはなかなかうまく進められない。斬新なアイデアでファースト・デートにこぎつけるが・・・。
軽快なテンポ、デート・コンサルタントという職業をテーマにしたところなど、なかなか斬新で楽しめた。しかもヒッチは、この仕事でけっこうなお金を稼いでいるようで、彼の住むアパートはかなりリッチで豪華だ。1時間100ドルとか200ドルでもチャージするのだろうか。(笑)
音楽の使い方もうまい。ヒッチがサラを初デートに誘った時、ジェットスキーに乗るがそのバックで流れていたのが、ジョン・レジェンドが歌うスティーヴィーの「ドンチュー・ウォーリー・アバウト・ア・シング」。不安な初デート、しかもジェットスキー、そこで、心配するな、というわけだ。冒頭、サム・クックに続いて流れたのがジミー・クリフの「ユー・キャン・ゲット・イット・イフ・ユー・リアリー・ウォント・イット」。本当に望めば、それは手に入る。
一番、おもしろいなと思った部分は、ヒッチがよっぱらって、サラと散歩をしているところで、かなり音程をはずして、アース・ウィンド&ファイアーの「リーズン」を歌うシーン。サラが「この曲は誰?」と訊き、ヒッチが「アース・ウィンド&ファイアー」と答える。ヒッチとサラが、ヒッチのアパートでちょっとした喧嘩をするシーンでは、テンプテーションズの「アイ・キャント・ゲット・ネクスト・トゥ・ユー」。「君の隣にはいられないな」という曲だ。アルバナンが踊りを練習するシーンでは、アッシャーの「イエー」。(サントラCDには未収録)
ヒッチとクライアントのアルバナンが言い争う場面がある。ヒッチは「愛は、自分にとって人生そのものだ」というと、アルバナンが彼に向かって「お前は愛を商売にしてるじゃないか」と言い返す。だがそこでヒッチが「自分は魂を込めて、この仕事をしている」とか、「魂をこめて相手に臨まないとだめだ」みたいなセリフを言ったような気がしたのだが、正確に覚えられなかった。これはDVDでもでた時にもう一度チェックしてみよう。
デート・コンサルタント、おもしろい仕事だ。しかも、ここでいろいろアドヴァイスされるノウハウが興味深い。ところがあれこれ指南するものの、結局、落ち着くのが「恋愛に基本ルールはない」というオチ。でも、そこに行き着くまでに、コンサルタントが必要なわけだ。いかにも今風だなあ。(笑) 世の中、何でもちょっと困ったらコンサルタントに頼る時代。「1億総コンサル頼み時代」ってことか。いや、アメリカだから、「2億総コンサル頼み時代」かな。
+++++
サントラ盤 『HITCH 最後の恋のはじめ方 』(ソニー)
HITCH 最後の恋のはじめ方
1.I Thing(エイメリー)
2.Don’t You Worry’Bout A Thing(ジョン・ジェンド)
3.This is How I Feel(アース・ウインド&ファイアー featuring ケリー・ローランド&スリーピー・ブラウン)
4.Ooh Wee(マーク・ロンソン featuring ゴーストフェイス・キラー,ネイト・ドック,トライフ・ダ・ゴッド&サイゴン)
5.Now That We Found Love(ベビー・デューティー・アンド・ザ・ボーイズ)
6.Happy(メレニー・スミス)
7.Love Train(オージェイズ)
8.I Can’t Get Next To You(ザ・テンプテーションズ)
9.You Can Get It If You Really Want(ジミー・クリフ)
10.It’s Easy To Fall In Love(With A Guy Like You)(マーサ・リーブス・アンド・ザ・バンデラス)
11.リーズンズ(アース・ウインド&ファイアー)
12.Never Gonna Let You Go(She’s a Keepa)(オマリオン)
13.Turn Me On(Low Tide Remix)(ケヴィン・リトル)
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(映画『最後の恋のはじめ方』〜2005年6月4日(土)より新・日比谷みゆき座、シネア・メディアージュなどでロードショー)
ENT>MOVIE>Hitch
【音楽のネイティヴ・スピーカーによる『音楽のすゝめ』】
一月一枚。
ソウルメイトY先生から帝国ホテル内にある三田倶楽部で、音楽家の千住明さんのお話があるので来ないかとの誘い。以前にもお会いしたことがあるので、ちょっと出向いた。Yは、ここでいろんな世話役をやっていて、僕にもさかんに三田倶楽部に入会しろとせっつく。僕はいつもそれを煙にまいているが、それはさておき、約1時間半、お話があって、その後若干の質疑応答。充実の2時間であった。
千住さんのところは、一番上の兄が日本画家の博氏、下の妹がヴァイオリン奏者真理子さんとそれぞれ有名で、明さんもいまやテレビドラマや映画音楽などクラシックからポピュラーまで幅広い分野で大活躍中だ。
とてもいい話がいくつもぽんぽんと出てきた。いくつかご紹介しよう。中でも印象的だったのは、彼と彼の父の話だ。
例えば、その父の話として、才能のある・なし、ということについて語った。「才能のある・なしなど、それほど差はない。ある人が才能があって、別の人に才能がない、あるいは普通だとすると、普通の人が1.0なら、才能ある人の才能などせいぜい1.1くらいのものだ。ただし、それに努力を掛けると、そこに結果がでてくる、という。才能ある人が努力をすれば、掛け算で結果が普通の才能の人とかなり違ってくる、という話だ」。(な〜〜るほど)
「アート、芸術というものは、人間の創造性を出すものだ。誰も創っていないものを創らないければ意味がない。しかし、何かを創るとしても、先人たちが積み上げた物の上に立っていかないとだめだ。やっていないことをやり続けることが大事だ」。(その通り)
「自分は『音楽のネイティヴ・スピーカー』を目指す。だが、音楽を正式に勉強したのは、随分と後になってからなので、3歳4歳頃から音楽を『しゃべってきた』人たちとはどうしても違う。だが、自分としては音楽のネイティヴ・スピーカーになりたい。しかも、誰もがわかる言葉でしゃべりたい」。(ふ〜〜む)
「ヨーロッパ、西洋では音楽は哲学だ。特にドイツの人などは音楽を理論で聴くが、日本の人たちは音楽を官能で聴く。自分も20歳くらいまでは、音楽を官能、感覚で聴いていた。だが、芸術大学に行って音楽理論を学んでからは圧倒的に音楽を理論で聴いていた」。(ほ〜〜〜)
「音楽にはとてつもない力がある。だが、音楽があなたの心を癒せる、あるいはこの音楽で人を癒せるなどということは、とてもおこがましく、そんなことは言えない。感動の扉というものは、聴く側が完全に無垢の状態でなければ開いたりしないものだ。新興宗教などが巧みに音楽を利用するが、音楽で人を癒してやろう、などというのは、大きなお世話だ」。(いえ〜〜〜い)
あるいは、芸術大学に行く前に様々な音楽を聴いていた頃の話としてこんなエピソードを語った。
彼は高校時代に赤坂のディスコ、ムゲンにコモドアーズやクール&ギャングのようなソウル・バンドを見に行ったという。彼がソウル好きだというのは、初めて知った。ところが、ムゲンなどは普通は学らんを着た高校生をいれてくれない。そこで、店のマネージャーに「とにかくこのバンドが見たいんです。それだけでいいですから」というようなことを熱心に言っていれてもらい見たという。それまでに見たこともないようなきらびやかな音楽で、楽しみとしての音楽を知った。
あるいは、中学生時代にコーヒーと煙草の煙が立ちこめる、いかにも大人の世界というジャズ喫茶にも出入りした。その店主は、しゃべると怒ったが、だまって名盤といわれるレコードを聴いていれば、にこにこしていた。そこでは、随分とジャズの名盤を聴いて覚えた。渋谷のジニアスという店はそんな店のひとつだったが、今はもうない。
ある時、NHKの『スタジオ・パークからこんにちは』という番組に出て、ジャズ喫茶の話をしたところ、それをたまたま見ていたジニアスの店主が連絡をくれ、その後感動の再会を果たした、という。
彼は、音楽の歴史や理論を学び、ずっと理論で音楽を聴いてきて、頭で音楽を作ってきた。だがある時、あることをきっかけに自分は誰もがわかる言葉で音楽をしゃべらなければならない、心の叫びを音楽の中に込めなければならないと悟った。今、かつての作品(頭で作っていた頃の作品群)を聴くと、とても恥ずかしい。以来、自分は単純に音楽が好きだった十代の頃、スタート地点に戻ったような気がした、と振り返る。
そして、「今、この時代に何をすべきか、音楽で何ができるのか、そういったことを考えるようになった。今、自分は音楽を理論ではなく、官能で作れるようになった」と語る。
千住さんは、机にラジカセを置いていた。最初の1時間半のトークでは、それは使わなかった。「なんとなく、使うと授業みたいになってしまうので」と説明。なんと彼は大学で一年間、授業をやっていて、その時、いろいろな音をCDなどで聞かせて講義をしたので、同じようにラジカセを用意していた。講義をされていたのね。道理で話がうまいはずだ。
質疑応答のときに、ジプシー・キングスの「マイ・ウェイ」(フランク・シナトラで有名)のオリジナルと彼がリミックスしたものの聴き比べをしてくれた。オリジナル・ヴァージョンのヴォーカル部分だけをもらって、それに新しいオーケストラを付け加え作ったものだ。なかなかおもしろい。彼は言う。「クラシックの作曲などは苦痛が続くんですが、こういうのは本当に楽しい。唯一の趣味と言ってもいいかもしれない(笑)」。
「今後20年間の(自分の)使命としては、大人のための音楽を創るということです。例えば、(日本でも)食の世界、舌は肥えてきてそうした文化は根付いてきた。でも、音楽という文化は、日本はまだまだです。(普通の大人の人が)1ヶ月に1枚でいいからCDを買ったらどうでしょうか。知らないお酒を飲んでみるのも楽しいでしょう。ジャケットから選んでもいいんです。自分が創る音楽で、みなさんの歴史の一ページを飾れれば嬉しいですね」。
福澤先生の『学問のすゝめ』ならぬ、千住先生の『音楽のすゝめ』だ。僕自身も『音楽のすゝめ』というコンセプトは前々から持っていて、ずばりこのタイトルのコラムでも作ろうかとも思っているほど。したがって大賛成である。
ところで、誘ってくれたY。「いい話聞いたでしょう。三田倶楽部入れば、毎月こういうの見られるよ。どうよ、どう」。「う〜〜ん、よかった、よかった。でも、入会金に、年会費かかるしなあ。しばらくはYのゲストでいいよん」。 Y先生は三田倶楽部への『入会のすゝめ』なり〜〜〜。『学問のすゝめ』『音楽のすゝめ』、そして、『入会のすゝめ』と、すゝめ三段活用であった。
(続く)
(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)
PEOPLE>Senju, Akira
LECTURE>Senju, Akira
一月一枚。
ソウルメイトY先生から帝国ホテル内にある三田倶楽部で、音楽家の千住明さんのお話があるので来ないかとの誘い。以前にもお会いしたことがあるので、ちょっと出向いた。Yは、ここでいろんな世話役をやっていて、僕にもさかんに三田倶楽部に入会しろとせっつく。僕はいつもそれを煙にまいているが、それはさておき、約1時間半、お話があって、その後若干の質疑応答。充実の2時間であった。
千住さんのところは、一番上の兄が日本画家の博氏、下の妹がヴァイオリン奏者真理子さんとそれぞれ有名で、明さんもいまやテレビドラマや映画音楽などクラシックからポピュラーまで幅広い分野で大活躍中だ。
とてもいい話がいくつもぽんぽんと出てきた。いくつかご紹介しよう。中でも印象的だったのは、彼と彼の父の話だ。
例えば、その父の話として、才能のある・なし、ということについて語った。「才能のある・なしなど、それほど差はない。ある人が才能があって、別の人に才能がない、あるいは普通だとすると、普通の人が1.0なら、才能ある人の才能などせいぜい1.1くらいのものだ。ただし、それに努力を掛けると、そこに結果がでてくる、という。才能ある人が努力をすれば、掛け算で結果が普通の才能の人とかなり違ってくる、という話だ」。(な〜〜るほど)
「アート、芸術というものは、人間の創造性を出すものだ。誰も創っていないものを創らないければ意味がない。しかし、何かを創るとしても、先人たちが積み上げた物の上に立っていかないとだめだ。やっていないことをやり続けることが大事だ」。(その通り)
「自分は『音楽のネイティヴ・スピーカー』を目指す。だが、音楽を正式に勉強したのは、随分と後になってからなので、3歳4歳頃から音楽を『しゃべってきた』人たちとはどうしても違う。だが、自分としては音楽のネイティヴ・スピーカーになりたい。しかも、誰もがわかる言葉でしゃべりたい」。(ふ〜〜む)
「ヨーロッパ、西洋では音楽は哲学だ。特にドイツの人などは音楽を理論で聴くが、日本の人たちは音楽を官能で聴く。自分も20歳くらいまでは、音楽を官能、感覚で聴いていた。だが、芸術大学に行って音楽理論を学んでからは圧倒的に音楽を理論で聴いていた」。(ほ〜〜〜)
「音楽にはとてつもない力がある。だが、音楽があなたの心を癒せる、あるいはこの音楽で人を癒せるなどということは、とてもおこがましく、そんなことは言えない。感動の扉というものは、聴く側が完全に無垢の状態でなければ開いたりしないものだ。新興宗教などが巧みに音楽を利用するが、音楽で人を癒してやろう、などというのは、大きなお世話だ」。(いえ〜〜〜い)
あるいは、芸術大学に行く前に様々な音楽を聴いていた頃の話としてこんなエピソードを語った。
彼は高校時代に赤坂のディスコ、ムゲンにコモドアーズやクール&ギャングのようなソウル・バンドを見に行ったという。彼がソウル好きだというのは、初めて知った。ところが、ムゲンなどは普通は学らんを着た高校生をいれてくれない。そこで、店のマネージャーに「とにかくこのバンドが見たいんです。それだけでいいですから」というようなことを熱心に言っていれてもらい見たという。それまでに見たこともないようなきらびやかな音楽で、楽しみとしての音楽を知った。
あるいは、中学生時代にコーヒーと煙草の煙が立ちこめる、いかにも大人の世界というジャズ喫茶にも出入りした。その店主は、しゃべると怒ったが、だまって名盤といわれるレコードを聴いていれば、にこにこしていた。そこでは、随分とジャズの名盤を聴いて覚えた。渋谷のジニアスという店はそんな店のひとつだったが、今はもうない。
ある時、NHKの『スタジオ・パークからこんにちは』という番組に出て、ジャズ喫茶の話をしたところ、それをたまたま見ていたジニアスの店主が連絡をくれ、その後感動の再会を果たした、という。
彼は、音楽の歴史や理論を学び、ずっと理論で音楽を聴いてきて、頭で音楽を作ってきた。だがある時、あることをきっかけに自分は誰もがわかる言葉で音楽をしゃべらなければならない、心の叫びを音楽の中に込めなければならないと悟った。今、かつての作品(頭で作っていた頃の作品群)を聴くと、とても恥ずかしい。以来、自分は単純に音楽が好きだった十代の頃、スタート地点に戻ったような気がした、と振り返る。
そして、「今、この時代に何をすべきか、音楽で何ができるのか、そういったことを考えるようになった。今、自分は音楽を理論ではなく、官能で作れるようになった」と語る。
千住さんは、机にラジカセを置いていた。最初の1時間半のトークでは、それは使わなかった。「なんとなく、使うと授業みたいになってしまうので」と説明。なんと彼は大学で一年間、授業をやっていて、その時、いろいろな音をCDなどで聞かせて講義をしたので、同じようにラジカセを用意していた。講義をされていたのね。道理で話がうまいはずだ。
質疑応答のときに、ジプシー・キングスの「マイ・ウェイ」(フランク・シナトラで有名)のオリジナルと彼がリミックスしたものの聴き比べをしてくれた。オリジナル・ヴァージョンのヴォーカル部分だけをもらって、それに新しいオーケストラを付け加え作ったものだ。なかなかおもしろい。彼は言う。「クラシックの作曲などは苦痛が続くんですが、こういうのは本当に楽しい。唯一の趣味と言ってもいいかもしれない(笑)」。
「今後20年間の(自分の)使命としては、大人のための音楽を創るということです。例えば、(日本でも)食の世界、舌は肥えてきてそうした文化は根付いてきた。でも、音楽という文化は、日本はまだまだです。(普通の大人の人が)1ヶ月に1枚でいいからCDを買ったらどうでしょうか。知らないお酒を飲んでみるのも楽しいでしょう。ジャケットから選んでもいいんです。自分が創る音楽で、みなさんの歴史の一ページを飾れれば嬉しいですね」。
福澤先生の『学問のすゝめ』ならぬ、千住先生の『音楽のすゝめ』だ。僕自身も『音楽のすゝめ』というコンセプトは前々から持っていて、ずばりこのタイトルのコラムでも作ろうかとも思っているほど。したがって大賛成である。
ところで、誘ってくれたY。「いい話聞いたでしょう。三田倶楽部入れば、毎月こういうの見られるよ。どうよ、どう」。「う〜〜ん、よかった、よかった。でも、入会金に、年会費かかるしなあ。しばらくはYのゲストでいいよん」。 Y先生は三田倶楽部への『入会のすゝめ』なり〜〜〜。『学問のすゝめ』『音楽のすゝめ』、そして、『入会のすゝめ』と、すゝめ三段活用であった。
(続く)
(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)
PEOPLE>Senju, Akira
LECTURE>Senju, Akira
(千住明さんの講演会の話の続き)
【渡されたバトン】
バトン。
千住明さんの講演の中盤で、彼はそれまで理論で音楽を作ってきたり、頭で音楽を作ってきたが、あるきっかけで、心の叫びみたいなもの、理論ではなく湧き上がる感情のようなもので曲を創らなければならないと感じるようになった、という話がでた。
そのきっかけというのは、父のことだった。5年前(2000年)、父が病(脳梗塞)に倒れたのだ。病は重く、完治することは考えられなかった。この時、子供たちは可能な限りの英知を集結し、いかに父に最高の時を過ごしてもらうかを考えた。そこででた結論は、父親を病院ではなく、自宅で介護するということだった。しかし、それは一般的な医学の常識からすれば、とても考えられないことだった。ある程度の医療機器がなければ、患者を安全に保つことはできないからだ。
だが、理解ある医師たちのアドヴァイスを得て、彼らは自宅に様々な設備を備え、そこを病院のようにしてしまったのだ。そして子供たちが、24時間体制で父の面倒をみた。2000年3月、明さんたちの戦いが始まった。
父親は頭脳明晰な学者だった。兄が絵の道に進みたいと言っても反対もしなかった。明さんが音楽の道に進みたいと言っても文句ひとつ言わなかった。父が言ったことはただひとつ。「やるならば、徹底してやれ。そこで一流になれ」ということだった。「音楽も、遊び半分でやるくらいなら、やめろ」という感じだった。
子供の頃から、父親は「何でも好きなことをしてよろしい。だが、もしそれが自分が思ったものと違ったと感じたら、30歳までに(人生の)方向転換をしなさい」と助言した。つまり、もし彼が音楽の道で生きていきたいと思ったら、30までは自由にやるだけ、やってみろ。もし、それでだめなら、30歳で方向転換しなさい、というのだ。「父にはそんなことをほんの子供の頃からずっと言われてきたので、自分の中にはなんとなく30歳(という転機)が、身体に染み付いていたという感じです」。なぜ父が30歳と口を酸っぱくして言ったのかといえば、父自身が30歳で人生の転換をしていたからだった。
明さんは、慶応で幼稚舎から大学まで進むが、音楽家を目指し、一念発起。芸術大学を目指す。一度慶応の大学に進んでそれを途中で辞めての受験だったので、芸大には2浪して入ったが、その他の現役新入生と比べれば「実質5浪」で入ったことと同じだった。現役と5浪の差は大きかった。
「あの2年間の受験勉強の厳しさ、辛さは、もうとても同じことをやれといわれても、絶対にやれない。何百冊とある百科事典のような本をすべて覚えなければならないんです。それほど厳しいものでした」と彼は振り返る。23歳で無事芸大に入り、卒業、しかもさらに一念発起し、大学院にも進み、29歳で首席で修了した。父が言っていた30歳前に、芸大を、しかも首席で卒業したことで、「なんとか間に合ったと思った」という。
現在44歳の明さんは、それからの10年、クラシックの音楽家として、またテレビ番組のテーマ曲などポピュラー畑の音楽家として、休みになく突っ走ってきた。
かつては、クラシックの世界とポピュラーの世界の二束の草鞋(わらじ)を履くことは許されなかった。そこで、彼はポピュラーの世界で仕事をしていることを、しばらくは隠していた。それは、50年代に敬虔なゴスペル・シンガーが、世俗的なR&Bを歌うことを隠していたことと似ている。あるいは、ひょっとして、彼にとっては「クラシック作曲の苦しみ」を「ポピュラーを創る楽しみ」で帳消しにしていたのかもしれない。
父が倒れ、その看病をするために、彼の生活スタイルは劇的に変わった。特に夜、夜中は彼が父に付き添うことが多かった。千住明さんは、そんなある日、父と長い時間かなり深い話をした、という。父はその時いわゆる延命治療というものを拒否していたために、かなりの痛み、苦しみを感じていた。
「父を看病していた頃から自分の音楽に対する姿勢が変わってきたような気がします。自分は音楽を作るために、とにかく(人生を)突っ走ってきた。だが、その看病をきっかけにいろいろ考えさせられるようになったんです」。
自分は音楽という「国際語」をしゃべるようになっているが、その時、何かを主張しようかな、と思ったこともそんな変化のひとつだった。
病床に横たわる苦痛の父に「人生で一番楽しかったのはいつだったのか」と息子は尋ねた。父は答えた。「1967年家族全員で車でアメリカ横断をした時のことだ」。 ちょうど、その時の8ミリ・フィルムが残っていて、それをともに見ながら話したという。明さんが6、7歳頃のことだ。
強い父が弱音を吐いた。「なんでこんなに(痛い思いをして)苦しいのか」。 その時、明さんの口から、思わず「生きるためじゃないかなあ」という言葉がでた。「生きるっていうのは苦しいことなんだよ」と息子は父に言った。「ほんとに僕は父と一緒に戦っていた、と思います。いわゆる延命治療はしなかったんですが、ここは矛盾するんですが、その中でできるだけ延命できるようにいろいろしていた。そんな中で、自然にその言葉がでたんです。生きるっていうのは苦しいことなんだ、という言葉。自分でもよくそんな言葉がでたな、と思います。そんな重い話を、父と(生まれて)初めてしました。父がどんどんとだめになっていくのがわかった。衰弱していって、父の(明晰で優秀な)学者としての頭脳がだめになっていくのが悲しかった。人生のこと、妹のこと、お袋のこと頼むね、とか、様々なことを話した。普段、父とは絶対しなかったような話をしました。それは、父が僕にバトンを渡した瞬間だったように思います」。
バトンは受け継がれた。そのバトンに込められた真実は、今度は明さんが何十年かかけて、次の世代に受け継ぐことになるだろう。父が倒れてから半年後の2000年9月、戦いは終った。半年間の濃密な時間の想い出を残して・・・。
(千住さんが話された内容を元に構成しました)
+++++
千住明氏公式ホームページ
http://www.akirasenju.com/
+++++
(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)
【渡されたバトン】
バトン。
千住明さんの講演の中盤で、彼はそれまで理論で音楽を作ってきたり、頭で音楽を作ってきたが、あるきっかけで、心の叫びみたいなもの、理論ではなく湧き上がる感情のようなもので曲を創らなければならないと感じるようになった、という話がでた。
そのきっかけというのは、父のことだった。5年前(2000年)、父が病(脳梗塞)に倒れたのだ。病は重く、完治することは考えられなかった。この時、子供たちは可能な限りの英知を集結し、いかに父に最高の時を過ごしてもらうかを考えた。そこででた結論は、父親を病院ではなく、自宅で介護するということだった。しかし、それは一般的な医学の常識からすれば、とても考えられないことだった。ある程度の医療機器がなければ、患者を安全に保つことはできないからだ。
だが、理解ある医師たちのアドヴァイスを得て、彼らは自宅に様々な設備を備え、そこを病院のようにしてしまったのだ。そして子供たちが、24時間体制で父の面倒をみた。2000年3月、明さんたちの戦いが始まった。
父親は頭脳明晰な学者だった。兄が絵の道に進みたいと言っても反対もしなかった。明さんが音楽の道に進みたいと言っても文句ひとつ言わなかった。父が言ったことはただひとつ。「やるならば、徹底してやれ。そこで一流になれ」ということだった。「音楽も、遊び半分でやるくらいなら、やめろ」という感じだった。
子供の頃から、父親は「何でも好きなことをしてよろしい。だが、もしそれが自分が思ったものと違ったと感じたら、30歳までに(人生の)方向転換をしなさい」と助言した。つまり、もし彼が音楽の道で生きていきたいと思ったら、30までは自由にやるだけ、やってみろ。もし、それでだめなら、30歳で方向転換しなさい、というのだ。「父にはそんなことをほんの子供の頃からずっと言われてきたので、自分の中にはなんとなく30歳(という転機)が、身体に染み付いていたという感じです」。なぜ父が30歳と口を酸っぱくして言ったのかといえば、父自身が30歳で人生の転換をしていたからだった。
明さんは、慶応で幼稚舎から大学まで進むが、音楽家を目指し、一念発起。芸術大学を目指す。一度慶応の大学に進んでそれを途中で辞めての受験だったので、芸大には2浪して入ったが、その他の現役新入生と比べれば「実質5浪」で入ったことと同じだった。現役と5浪の差は大きかった。
「あの2年間の受験勉強の厳しさ、辛さは、もうとても同じことをやれといわれても、絶対にやれない。何百冊とある百科事典のような本をすべて覚えなければならないんです。それほど厳しいものでした」と彼は振り返る。23歳で無事芸大に入り、卒業、しかもさらに一念発起し、大学院にも進み、29歳で首席で修了した。父が言っていた30歳前に、芸大を、しかも首席で卒業したことで、「なんとか間に合ったと思った」という。
現在44歳の明さんは、それからの10年、クラシックの音楽家として、またテレビ番組のテーマ曲などポピュラー畑の音楽家として、休みになく突っ走ってきた。
かつては、クラシックの世界とポピュラーの世界の二束の草鞋(わらじ)を履くことは許されなかった。そこで、彼はポピュラーの世界で仕事をしていることを、しばらくは隠していた。それは、50年代に敬虔なゴスペル・シンガーが、世俗的なR&Bを歌うことを隠していたことと似ている。あるいは、ひょっとして、彼にとっては「クラシック作曲の苦しみ」を「ポピュラーを創る楽しみ」で帳消しにしていたのかもしれない。
父が倒れ、その看病をするために、彼の生活スタイルは劇的に変わった。特に夜、夜中は彼が父に付き添うことが多かった。千住明さんは、そんなある日、父と長い時間かなり深い話をした、という。父はその時いわゆる延命治療というものを拒否していたために、かなりの痛み、苦しみを感じていた。
「父を看病していた頃から自分の音楽に対する姿勢が変わってきたような気がします。自分は音楽を作るために、とにかく(人生を)突っ走ってきた。だが、その看病をきっかけにいろいろ考えさせられるようになったんです」。
自分は音楽という「国際語」をしゃべるようになっているが、その時、何かを主張しようかな、と思ったこともそんな変化のひとつだった。
病床に横たわる苦痛の父に「人生で一番楽しかったのはいつだったのか」と息子は尋ねた。父は答えた。「1967年家族全員で車でアメリカ横断をした時のことだ」。 ちょうど、その時の8ミリ・フィルムが残っていて、それをともに見ながら話したという。明さんが6、7歳頃のことだ。
強い父が弱音を吐いた。「なんでこんなに(痛い思いをして)苦しいのか」。 その時、明さんの口から、思わず「生きるためじゃないかなあ」という言葉がでた。「生きるっていうのは苦しいことなんだよ」と息子は父に言った。「ほんとに僕は父と一緒に戦っていた、と思います。いわゆる延命治療はしなかったんですが、ここは矛盾するんですが、その中でできるだけ延命できるようにいろいろしていた。そんな中で、自然にその言葉がでたんです。生きるっていうのは苦しいことなんだ、という言葉。自分でもよくそんな言葉がでたな、と思います。そんな重い話を、父と(生まれて)初めてしました。父がどんどんとだめになっていくのがわかった。衰弱していって、父の(明晰で優秀な)学者としての頭脳がだめになっていくのが悲しかった。人生のこと、妹のこと、お袋のこと頼むね、とか、様々なことを話した。普段、父とは絶対しなかったような話をしました。それは、父が僕にバトンを渡した瞬間だったように思います」。
バトンは受け継がれた。そのバトンに込められた真実は、今度は明さんが何十年かかけて、次の世代に受け継ぐことになるだろう。父が倒れてから半年後の2000年9月、戦いは終った。半年間の濃密な時間の想い出を残して・・・。
(千住さんが話された内容を元に構成しました)
+++++
千住明氏公式ホームページ
http://www.akirasenju.com/
+++++
(2005年5月19日木曜、日比谷・三田倶楽部=千住明講演会)
KCi & Jojo Live: Hot & Sweat & Explosion
2005年5月24日【ケイシー&ジョジョ・ライヴ】
熱。
元気なやんちゃ音楽大好き小僧、とでも呼びたくなるほどのはしゃぎぶりを見せ、体中に刺青をいれ、帽子をかぶり、ステージを右から左、左から右へと大奮闘し、セキュリティーに肩車させ、観客席を練り歩く。暑くなれば、シャツは脱いで上半身裸になり、下手するとズボンも下ろしそうな勢いを見せる。そんなステージでやりたい放題なのがケイシーだ。比較的落ち着いたスキンヘッドのジョジョとは実に対照的。
二人合わせてケイシー&ジョジョの約1年ぶりのライヴ。前回はジョジョが来ないというケチがつき、今回は特に新作もなく、来日時期としては決して盛り上がるタイミングでもないので、渋谷デュオが座席を作ってまあまあの入り。
前半は、ちょっとまったりして、のりが悪かったが中盤からかなり熱くなってきて、最後は一気に突っ走ったという感じ。今回の来日は1日2ステージをこなすというので、7時半の回と10時の回がある。しかし、ファーストでここまで燃焼して大丈夫だろうか、と思われるほど、後半は燃えていた。
ケイシーとジョジョ以外で、バックコーラス男性3人のうち一人がやたらうまかった。途中でソロをとったのだが、ルックスや声質的にあのアメリカン・アイドル出身のルーベン・スタッダードを思わせた。
前半、中盤、後半と3つのパートにわけた構成。中盤がジョデシー時代の作品。後半は、ボビー・ウーマックの大ヒット「イフ・ユー・シンク・ユアー・ロンリー・ナウ」、「テル・ミー・イッツ・リアル」など、相当熱い。洗練ではなく、熱唱。やんちゃシンガーが魂を込めて歌いつづけた。これは10分近くのロング・ヴァージョンになっていたが、後半はミディアム・テンポのジャズ調にアレンジし、ケイシー&ジョジョが一旦そでに引いた後、さきほどのバックコーラスの一人(ルーベン似)がソロで歌った。これがよかった。思わず立ち上がって、誰が歌っているのか確かめたほどだ。
後半たたみかけて観客を乗らせ、彼ら自身の熱さと汗を爆発させていた。
+++++
ケイシー&ジョジョ 前回の来日ライヴ評。
2004年2月13日付け日記
K-Ci & Jojo Are Half Of Jodeci, K-Ci Is Half Of K-Ci & Jojo: Live At Shibuya Duo
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040213.html
+++++
Setlist 1st
show started 19:43
01. It’s Me
02. Lately
03. Life
04. Stay
05. Come & Talk To Me
06. Forever My Lady
07. Feenin
08. Freek’n You
09. Get On Up
10. If You Think You’re Lonely Now
11. Tell Me It’s Real
12. All My Life
show ended 21:09
(2005年5月23日月曜ファースト、渋谷デュオ=ケイシー&ジョジョ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>K-Ci & Jojo
熱。
元気なやんちゃ音楽大好き小僧、とでも呼びたくなるほどのはしゃぎぶりを見せ、体中に刺青をいれ、帽子をかぶり、ステージを右から左、左から右へと大奮闘し、セキュリティーに肩車させ、観客席を練り歩く。暑くなれば、シャツは脱いで上半身裸になり、下手するとズボンも下ろしそうな勢いを見せる。そんなステージでやりたい放題なのがケイシーだ。比較的落ち着いたスキンヘッドのジョジョとは実に対照的。
二人合わせてケイシー&ジョジョの約1年ぶりのライヴ。前回はジョジョが来ないというケチがつき、今回は特に新作もなく、来日時期としては決して盛り上がるタイミングでもないので、渋谷デュオが座席を作ってまあまあの入り。
前半は、ちょっとまったりして、のりが悪かったが中盤からかなり熱くなってきて、最後は一気に突っ走ったという感じ。今回の来日は1日2ステージをこなすというので、7時半の回と10時の回がある。しかし、ファーストでここまで燃焼して大丈夫だろうか、と思われるほど、後半は燃えていた。
ケイシーとジョジョ以外で、バックコーラス男性3人のうち一人がやたらうまかった。途中でソロをとったのだが、ルックスや声質的にあのアメリカン・アイドル出身のルーベン・スタッダードを思わせた。
前半、中盤、後半と3つのパートにわけた構成。中盤がジョデシー時代の作品。後半は、ボビー・ウーマックの大ヒット「イフ・ユー・シンク・ユアー・ロンリー・ナウ」、「テル・ミー・イッツ・リアル」など、相当熱い。洗練ではなく、熱唱。やんちゃシンガーが魂を込めて歌いつづけた。これは10分近くのロング・ヴァージョンになっていたが、後半はミディアム・テンポのジャズ調にアレンジし、ケイシー&ジョジョが一旦そでに引いた後、さきほどのバックコーラスの一人(ルーベン似)がソロで歌った。これがよかった。思わず立ち上がって、誰が歌っているのか確かめたほどだ。
後半たたみかけて観客を乗らせ、彼ら自身の熱さと汗を爆発させていた。
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ケイシー&ジョジョ 前回の来日ライヴ評。
2004年2月13日付け日記
K-Ci & Jojo Are Half Of Jodeci, K-Ci Is Half Of K-Ci & Jojo: Live At Shibuya Duo
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040213.html
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Setlist 1st
show started 19:43
01. It’s Me
02. Lately
03. Life
04. Stay
05. Come & Talk To Me
06. Forever My Lady
07. Feenin
08. Freek’n You
09. Get On Up
10. If You Think You’re Lonely Now
11. Tell Me It’s Real
12. All My Life
show ended 21:09
(2005年5月23日月曜ファースト、渋谷デュオ=ケイシー&ジョジョ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>K-Ci & Jojo
K-Ci & Jojo: Ain’t No Stoppin’ Them Now
2005年5月25日【トランスしていくパフォーマーと観客】
司祭。
同じフレーズを繰り返すことによって、どんどんと高揚感が増してくる。シンプルな歌詞の繰り返しで、パフォーマーも、観客も皆トランス状態になっていく。ケイシー&ジョジョのライヴの後半は、まさにそんな感じだ。特に、彼らが持つゴスペル音楽のルーツを彷彿とさせるシャウトと繰り返し、さらに観客とのコール&レスポンス(掛け声と応答=歌手が何か言葉をいい、観客が答えるスタイルのこと)は圧巻だ。
それにしても、今回の日本ツアーは10日間で20本のライヴをこなす。中に休みは2日程度。ものすごいハードなスケジュールだ。しかも、ファースト・セットも、セカンドも、ほとんど同程度の熱気あふれるパフォーマンスを見せる。この体力は何なのか。驚異的である。
しかも、兄のケイシーは、煙草も吸えば、酒もガンガンに飲む。ジョジョのほうは若干声に疲れが見えるが、ケイシーは全力投球しても、まだまだ余裕があるかのようだ。ケイシーの喉は鋼鉄製ではないだろうか。
ケイシーがどんどんハイになっていき、上半身裸になり、しかも、ダボダボのズボンが下にずれてきて、それを何度も上にあげる。脱いであばれているうちに、どうでもよくなって、ズボンやパンツまで降ろしてしまう、というのは、このパフォーマンスを見ていると、さもありなん、という感じがしてくる。もはや誰も彼らを止めることはできない。
ケイシーがワイアレス・マイクを、武士が刀をさすように、ズボンのベルトあたりにさした。それはあたかも、魂の武士ケイシーにとってのしゃきっと輝く歯切れのいい真剣のように見えた。
ハイになっていく様は特に、10曲目の「イフ・ユー・シンク・ユアー・ロンリー・ナウ」から最後の「オール・マイ・ライフ」までの3曲で顕著。なんとこの3曲で54分ほど歌っているのである。「イフ・ユー・・・」は9分くらいなので、実質最後の2曲で45分。同じことを何度も何度も繰り返す。これは、気持ちが高揚する。
肩車で観客席に飛び出てくると、みな彼に触ろうとする。まさに司祭に触れようとする信者たちさながらだ。ケイシーもまた、ソウルの司祭だ。
アフター・パーティーが西麻布のAライフで行われるというので、ちょっと顔をだした。ケイシーは来なかったが、ジョジョが来て、カラオケで「テル・ミー・イッツ・リアル」を歌った。ちょうど遊びに来ていたある歌手が一緒に歌ったが、これがイグザイルのメンバーだそうだ。
Setlist 2nd Set
show started 22.21
01. It’s Me
02. Lately
03. Life
04. Stay
05. Come & Talk To Me
06. Forever My Lady
07. Feenin
08. Freek’n You
09. Get On Up
10. If You Think You’re Lonely Now
11. Tell Me It’s Real
12. All My Life
show ended 23.06
(2005年5月24日火曜セカンド、渋谷デュオ=ケイシー&ジョジョ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>K-Ci & Jojo
司祭。
同じフレーズを繰り返すことによって、どんどんと高揚感が増してくる。シンプルな歌詞の繰り返しで、パフォーマーも、観客も皆トランス状態になっていく。ケイシー&ジョジョのライヴの後半は、まさにそんな感じだ。特に、彼らが持つゴスペル音楽のルーツを彷彿とさせるシャウトと繰り返し、さらに観客とのコール&レスポンス(掛け声と応答=歌手が何か言葉をいい、観客が答えるスタイルのこと)は圧巻だ。
それにしても、今回の日本ツアーは10日間で20本のライヴをこなす。中に休みは2日程度。ものすごいハードなスケジュールだ。しかも、ファースト・セットも、セカンドも、ほとんど同程度の熱気あふれるパフォーマンスを見せる。この体力は何なのか。驚異的である。
しかも、兄のケイシーは、煙草も吸えば、酒もガンガンに飲む。ジョジョのほうは若干声に疲れが見えるが、ケイシーは全力投球しても、まだまだ余裕があるかのようだ。ケイシーの喉は鋼鉄製ではないだろうか。
ケイシーがどんどんハイになっていき、上半身裸になり、しかも、ダボダボのズボンが下にずれてきて、それを何度も上にあげる。脱いであばれているうちに、どうでもよくなって、ズボンやパンツまで降ろしてしまう、というのは、このパフォーマンスを見ていると、さもありなん、という感じがしてくる。もはや誰も彼らを止めることはできない。
ケイシーがワイアレス・マイクを、武士が刀をさすように、ズボンのベルトあたりにさした。それはあたかも、魂の武士ケイシーにとってのしゃきっと輝く歯切れのいい真剣のように見えた。
ハイになっていく様は特に、10曲目の「イフ・ユー・シンク・ユアー・ロンリー・ナウ」から最後の「オール・マイ・ライフ」までの3曲で顕著。なんとこの3曲で54分ほど歌っているのである。「イフ・ユー・・・」は9分くらいなので、実質最後の2曲で45分。同じことを何度も何度も繰り返す。これは、気持ちが高揚する。
肩車で観客席に飛び出てくると、みな彼に触ろうとする。まさに司祭に触れようとする信者たちさながらだ。ケイシーもまた、ソウルの司祭だ。
アフター・パーティーが西麻布のAライフで行われるというので、ちょっと顔をだした。ケイシーは来なかったが、ジョジョが来て、カラオケで「テル・ミー・イッツ・リアル」を歌った。ちょうど遊びに来ていたある歌手が一緒に歌ったが、これがイグザイルのメンバーだそうだ。
Setlist 2nd Set
show started 22.21
01. It’s Me
02. Lately
03. Life
04. Stay
05. Come & Talk To Me
06. Forever My Lady
07. Feenin
08. Freek’n You
09. Get On Up
10. If You Think You’re Lonely Now
11. Tell Me It’s Real
12. All My Life
show ended 23.06
(2005年5月24日火曜セカンド、渋谷デュオ=ケイシー&ジョジョ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>K-Ci & Jojo
【オーディオ・ヴィデオのF1マシンで映画『レイ』のDVDを鑑賞】
F1。
オーディオ雑誌、「ステレオ・サウンズ」の姉妹誌に「Hi Vi(ハイ・ヴィー)」という月刊誌がある。そこでは、毎月何点かDVDなどの作品をかなり立派なオーディオ装置で見聞きして、その感想を述べるというページがある。次号で、レイ・チャールズの映画『レイ』が取り上げられることになり、オーディオ評論家の先生たちと一緒にその素晴らしいオーディオ、ヴィジュアル機器でDVDを見てきた。
この映画はスクリーンで3-4回見ているし、またアメリカ盤DVDも購入し、特典映像などもさっとは見て、いろいろ書いているので、その内容についてはここでは書かないが、その音と再生された映像にまいった。
約20畳くらいのオーディオルームに、120インチのスクリーン。プロジェクター、プレイヤー、これにパワーアンプ3台、ウーファー2本、スピーカーもフロント左右、センター、リア2本と恐るべき装置が用意されていた。まさにオーディオ・ヴィデオの「F1」マシン群だ。総額でなんと700万円を越えるシステムである。
はっきり言って、小汚い映画館で見る映像よりきれいでクリア、音も完璧にサラウンド。ホームシアターというより、シアターだ。普通に映画館で映画を見てるようで、しかも椅子が半分リクライニングっぽいかなり横になれるもので、すっかり気持ちよくなってしまった。
とても現状、こんなものは手が届かないが、これはいつかなんとかしたい。プロジェクターは、ここ2-3年で圧倒的に画質がよくなったそうだ。
どんなシステムか詳細は月刊「Hi Vi」2005年7月号(6月17日発売)をご覧になっていただくとして、興味深かったのは、映画『レイ』自体はそれほど、例えば『スターウォーズ』のように、音が前後左右に激しく飛んだりはしないで、音的には地味な作品だが、それでも、例えば、レイがまだ目が見えなくなってきていた頃、床に転び、窓の外に通る馬車の音を聞いたり、鈴虫に耳を傾けたりするシーンでの音の浮かび上がり方が見事だ。
こんなシステムが自宅にあったら、毎日引きこもって映画と音楽のDVDばっかり見るようになるんではないだろうか。
ENT>MOVIE>Ray
ENT>MAGAZINE>Hi, Vi
ENT>ESSAY>Audio
F1。
オーディオ雑誌、「ステレオ・サウンズ」の姉妹誌に「Hi Vi(ハイ・ヴィー)」という月刊誌がある。そこでは、毎月何点かDVDなどの作品をかなり立派なオーディオ装置で見聞きして、その感想を述べるというページがある。次号で、レイ・チャールズの映画『レイ』が取り上げられることになり、オーディオ評論家の先生たちと一緒にその素晴らしいオーディオ、ヴィジュアル機器でDVDを見てきた。
この映画はスクリーンで3-4回見ているし、またアメリカ盤DVDも購入し、特典映像などもさっとは見て、いろいろ書いているので、その内容についてはここでは書かないが、その音と再生された映像にまいった。
約20畳くらいのオーディオルームに、120インチのスクリーン。プロジェクター、プレイヤー、これにパワーアンプ3台、ウーファー2本、スピーカーもフロント左右、センター、リア2本と恐るべき装置が用意されていた。まさにオーディオ・ヴィデオの「F1」マシン群だ。総額でなんと700万円を越えるシステムである。
はっきり言って、小汚い映画館で見る映像よりきれいでクリア、音も完璧にサラウンド。ホームシアターというより、シアターだ。普通に映画館で映画を見てるようで、しかも椅子が半分リクライニングっぽいかなり横になれるもので、すっかり気持ちよくなってしまった。
とても現状、こんなものは手が届かないが、これはいつかなんとかしたい。プロジェクターは、ここ2-3年で圧倒的に画質がよくなったそうだ。
どんなシステムか詳細は月刊「Hi Vi」2005年7月号(6月17日発売)をご覧になっていただくとして、興味深かったのは、映画『レイ』自体はそれほど、例えば『スターウォーズ』のように、音が前後左右に激しく飛んだりはしないで、音的には地味な作品だが、それでも、例えば、レイがまだ目が見えなくなってきていた頃、床に転び、窓の外に通る馬車の音を聞いたり、鈴虫に耳を傾けたりするシーンでの音の浮かび上がり方が見事だ。
こんなシステムが自宅にあったら、毎日引きこもって映画と音楽のDVDばっかり見るようになるんではないだろうか。
ENT>MOVIE>Ray
ENT>MAGAZINE>Hi, Vi
ENT>ESSAY>Audio
Soul Blends First Club Event At Xross
2005年5月27日【『ソウル・ブレンズ』イヴェントご来場感謝】
満員御礼。
インターFM(76.1Mhz=東京)で毎週日曜日午後2時から5時まで放送している『ソウル・ブレンズ』は2001年4月スタートということで、すでに5年目に突入しています。その番組初のクラブ・イヴェントを26日、西麻布の今話題のクロスで行いました。たくさんのご来場のみなさま、ありがとうございます。ダンスマンのライヴ、おつかれさま!
僕は9時くらいに行ったのですが、地下一階のダンスフロアはもうすでにほとんど満杯。爆音でみんな踊っていました。ふだん、『ソウル・ブレンズ』でかかるような曲が大音量でかかり、ダンス、ダンス、ダンス。
そして、ダンスマンのライヴ前、マーヴィンとちさとさんとともに、ちょっとだけステージに上がって一言しゃべりました。しかし、マーヴィンのこういうライヴ・スペースでのあおりは天下一品だねえ。(笑) 中には、今日のイヴェントが何なのかよく知らずにソウル好きのお友達に連れられていらっしゃったかたもいたようですが、そこはみな、One Nation Under A Groove! 問題な〜〜し。
「背の高い奴はジャマ」から「セプテンバー」など、ダンスマン、いつもの絶好調を見せてくれました。ダンクラ系のイヴェントに、ダンスマン、欠かせません。
たくさんの人から、「いつも聞いてます」って声をかけられました。ふだん、スタジオにいても、もちろん、メールやファクスなどはいただきますが、実際に聞かれているという実感があんまりないんですが、こういう時に、そんな実感がじわじわと湧きあがります。お声がけしていただいた方、みなさま、本当にありがとうございます。
イヴェントに関するご意見、ダメだし、リクエストなどありましたら、BBSのほうにでも書き込んでみてください。
しかし、音が大きくて(当たり前ですが)、話をする時に大きな声を出さないといけないので、声が枯れました。(笑) 次やる時は、やっぱり金、土は避けたい。日曜までに声が回復しないと困るし。(笑)
(2005年5月26日木曜、西麻布・クロス=ソウル・ブレンズ・クラブ・イヴェント)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Blends
ENT>RADIO>Soul Blends
満員御礼。
インターFM(76.1Mhz=東京)で毎週日曜日午後2時から5時まで放送している『ソウル・ブレンズ』は2001年4月スタートということで、すでに5年目に突入しています。その番組初のクラブ・イヴェントを26日、西麻布の今話題のクロスで行いました。たくさんのご来場のみなさま、ありがとうございます。ダンスマンのライヴ、おつかれさま!
僕は9時くらいに行ったのですが、地下一階のダンスフロアはもうすでにほとんど満杯。爆音でみんな踊っていました。ふだん、『ソウル・ブレンズ』でかかるような曲が大音量でかかり、ダンス、ダンス、ダンス。
そして、ダンスマンのライヴ前、マーヴィンとちさとさんとともに、ちょっとだけステージに上がって一言しゃべりました。しかし、マーヴィンのこういうライヴ・スペースでのあおりは天下一品だねえ。(笑) 中には、今日のイヴェントが何なのかよく知らずにソウル好きのお友達に連れられていらっしゃったかたもいたようですが、そこはみな、One Nation Under A Groove! 問題な〜〜し。
「背の高い奴はジャマ」から「セプテンバー」など、ダンスマン、いつもの絶好調を見せてくれました。ダンクラ系のイヴェントに、ダンスマン、欠かせません。
たくさんの人から、「いつも聞いてます」って声をかけられました。ふだん、スタジオにいても、もちろん、メールやファクスなどはいただきますが、実際に聞かれているという実感があんまりないんですが、こういう時に、そんな実感がじわじわと湧きあがります。お声がけしていただいた方、みなさま、本当にありがとうございます。
イヴェントに関するご意見、ダメだし、リクエストなどありましたら、BBSのほうにでも書き込んでみてください。
しかし、音が大きくて(当たり前ですが)、話をする時に大きな声を出さないといけないので、声が枯れました。(笑) 次やる時は、やっぱり金、土は避けたい。日曜までに声が回復しないと困るし。(笑)
(2005年5月26日木曜、西麻布・クロス=ソウル・ブレンズ・クラブ・イヴェント)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Blends
ENT>RADIO>Soul Blends
Give Me A Break: After The Party...
2005年5月28日【アフター・ザ・パーティー...】
夜明け。
木曜の『ソウル・ブレンズ・ナイト』は、大入り満員で、なんとクロスの木曜日の入場記録だったそうだ。みなさま、本当にありがとうございます。そういえば、番組でしつこく流した1分近くあるオッシー入魂のCMスポットのおかげか。(笑) いやあ、あのスポットは近来稀にみる強力作でした。僕としては、ダンスマンの「ミャオ〜〜ン」という部分が、いまひとつで、本当はやり直したかったのですが、まあ、しょうがない。「5-2-6、西麻布が燃える〜〜」。
僕はやりかけの仕事も残っていたので、1時過ぎくらいに出たのですが、最後までけっこう盛り上がっていたみたいですね。確かに一旦終電の時刻近くにお客さんが引いた感はありましたが、それ以後は変わらずといったところでしょうか。今度は始発まで、みんな踊りつづけたのでしょう。
友人たち数人と、白ボ(白金ボヘム)のテラスで軽くお茶して帰宅。この時期、外お茶は実に気持ちよし。昼間だったら、こことか、外苑のセランとか、アークヒルズ裏のキハチとか、夜中だと六ヒルのスタバか。
話はそれましたが、僕はその後、原稿やら、日記などを書いてそれも無事アップして、さて寝ようかとコンピューターの電源も落した朝5時26分。携帯が鳴り響きました。最初はこのところ多くやってくるいわゆるジャンク・メールかと思いきや、ちゃんと電話が鳴っていた。誰かと思えば、オッシー。
「ヨシオカサ〜〜ン、今、ソウルナッツです〜〜。みんなで待ってま〜〜〜す」 勘弁してくれ〜〜〜。めちゃくちゃ、テンション高い。音の大きいところで、何時間もいると、みなハイになっていくのだろう。しかも、寝てないと逆にどんどんハイになったのだ。
「勘弁してくれ〜〜」を英語で言うと?
そう、「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
こんな時に使います。
ガチガチのソウル・イヴェントで、お客さんからアラベスクのリクエストが来て、DJがふと漏らす言葉。「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
レストランで、白ワインを注文したら、ウエイターが間違えて赤ワインを持ってきた。クレイムをつけたところ、引き上げる時にグラスを倒して洋服に赤ワインがかかってしまった。そんな時にきつ〜〜く言う一言。「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
友人からちょうど寝入った朝5時半、声もきんきん、めちゃテンションの高い電話がかかってきた。そんな時に電話口で言う言葉。「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
5-2-6、西麻布は、燃えた〜〜〜
5-2-6、もう夜が明けてる〜〜〜
(2005年5月26日木曜、西麻布・クロス=ソウル・ブレンズ・クラブ・イヴェント)
夜明け。
木曜の『ソウル・ブレンズ・ナイト』は、大入り満員で、なんとクロスの木曜日の入場記録だったそうだ。みなさま、本当にありがとうございます。そういえば、番組でしつこく流した1分近くあるオッシー入魂のCMスポットのおかげか。(笑) いやあ、あのスポットは近来稀にみる強力作でした。僕としては、ダンスマンの「ミャオ〜〜ン」という部分が、いまひとつで、本当はやり直したかったのですが、まあ、しょうがない。「5-2-6、西麻布が燃える〜〜」。
僕はやりかけの仕事も残っていたので、1時過ぎくらいに出たのですが、最後までけっこう盛り上がっていたみたいですね。確かに一旦終電の時刻近くにお客さんが引いた感はありましたが、それ以後は変わらずといったところでしょうか。今度は始発まで、みんな踊りつづけたのでしょう。
友人たち数人と、白ボ(白金ボヘム)のテラスで軽くお茶して帰宅。この時期、外お茶は実に気持ちよし。昼間だったら、こことか、外苑のセランとか、アークヒルズ裏のキハチとか、夜中だと六ヒルのスタバか。
話はそれましたが、僕はその後、原稿やら、日記などを書いてそれも無事アップして、さて寝ようかとコンピューターの電源も落した朝5時26分。携帯が鳴り響きました。最初はこのところ多くやってくるいわゆるジャンク・メールかと思いきや、ちゃんと電話が鳴っていた。誰かと思えば、オッシー。
「ヨシオカサ〜〜ン、今、ソウルナッツです〜〜。みんなで待ってま〜〜〜す」 勘弁してくれ〜〜〜。めちゃくちゃ、テンション高い。音の大きいところで、何時間もいると、みなハイになっていくのだろう。しかも、寝てないと逆にどんどんハイになったのだ。
「勘弁してくれ〜〜」を英語で言うと?
そう、「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
こんな時に使います。
ガチガチのソウル・イヴェントで、お客さんからアラベスクのリクエストが来て、DJがふと漏らす言葉。「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
レストランで、白ワインを注文したら、ウエイターが間違えて赤ワインを持ってきた。クレイムをつけたところ、引き上げる時にグラスを倒して洋服に赤ワインがかかってしまった。そんな時にきつ〜〜く言う一言。「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
友人からちょうど寝入った朝5時半、声もきんきん、めちゃテンションの高い電話がかかってきた。そんな時に電話口で言う言葉。「ギヴ・ミー・ア・ブレイク」。
5-2-6、西麻布は、燃えた〜〜〜
5-2-6、もう夜が明けてる〜〜〜
(2005年5月26日木曜、西麻布・クロス=ソウル・ブレンズ・クラブ・イヴェント)
Why Do Machines Break Easily Lately?
2005年5月29日【最近のマシンはなぜすぐ壊れるのか】
保証。
ところで、先週の映画『レイ』のDVD視聴会でオーディオ評論家の先生といろいろお話させていただいた。亀山さんは、この日のシステムを選ばれた。スピーカーの位置などに実に細かく指示を出されていた。和田さんは、1948年生まれ、ちょうどLPがこの世に誕生した年に生まれたという。ちょうど、レイ・チャールズあたりだと、「ホワッド・アイ・セイ」のシングル盤をリアル・タイムで買っていたという。エルヴィス・プレスリーから入り、マイルス・デイヴィス・フリークでもあり、R&Bでは、ニューオーリーンズものなども大好きという。
雑談の中で、初めてのテープレコーダーはいつ入手されたか尋ねてみた。すると和田さんは64年だという。当時ソニーからかなり良い物がでて、初任給1万円か2万円くらいの頃、3万か4万円くらいしたはずだという。ところがその後ナショナルから1万円のオープンリールのテープレコーダーがでた。ソニーのは7インチ(17センチ=直径)のテープがかかったが、これは5インチのテープまでしかかからなかった。箱もプラスチックで若干安っぽい。それでも1万円という値段は魅力的で、夏休みに毎日アルバイトをしてお金を貯め、買ったという。たぶん1日バイトをして200円とか300円くらいで、5000円くらいまで貯金し、残りを親に出してもらったように記憶している。和田さんは、北海道の端っこの方に住んでいたので、もっぱらラジオを聴き、それをマイクを通して録音したりしていた。
ラジオは、昼間は北海道の地元の局しか聞こえなかったが、夕方の6時を過ぎると、空の電離層の関係で東京のTBS、文化放送、ニッポン放送が聞こえた。ラジオ関東は雑音の中に埋もれていてほとんど聞こえなかった。残念なことに、FENは聞こえなかったという。亀山さんも新潟で同じようにラジオを聞いていたが、やはり、最初の3局を夜になると聞いていた。
そして、ラジオ、テープレコーダー、音楽が揃い、オーディオと音楽の道に進むことになる。
ところで、最近のオーディオ製品とか電化製品はすぐ壊れるが、これは一体なぜなのですか、と尋ねた。例えば、ウォークマンなんて一年もして保障期間が切れるとそれを読んでいたかのようにすぐ壊れる。
亀山さんがいろいろ細かく説明してくださった。 「石油系の原料を使っているのが大きいんじゃないでしょうか。それから、昔は品質管理というか、そういうものが厳しかった。だが最近はそれほどでもないみたいだ」という。他にも、アジアの国、中国や台湾などで作られるものは、現地での管理体制がなかなかむずかしい、ともいう。
実際、うちにもソニーの79年に購入したベータマックスのビデオレコーダーがあり、これがまだ動く。その後に買った最初のVHSのマシン(87年購入)などもうだめになってる。総体的に言って、最近の機械はやわである。また、使っている素材がどれほど長持ちするのか、誰もわからないという点もあるらしい。
和田さんが、「いいオーディオには、いい匂いがするんだよねえ」とおっしゃった。国によって違って、それぞれの独特の匂いがあるという。たぶん、木で出来ているものなど、長持ちするということがわかっている。しかし、プラスチックやその他のものなど、どこで、どんな衝撃で割れたり、折れたりするのかが、予測不能なのだろう。
また、「耐久年数」などという文字がある意味で一人歩きしているのかもしれない。作る側も7年持てばいいだろう、とか。
マイ・ファースト・オーディオからすぐ壊れる話まで、ランチ時にずいぶんと濃い話を聞かせていただいた。なお、これは、DVDの『レイ』を見る前の話である。
ENT>ESSAY>AUDIO
保証。
ところで、先週の映画『レイ』のDVD視聴会でオーディオ評論家の先生といろいろお話させていただいた。亀山さんは、この日のシステムを選ばれた。スピーカーの位置などに実に細かく指示を出されていた。和田さんは、1948年生まれ、ちょうどLPがこの世に誕生した年に生まれたという。ちょうど、レイ・チャールズあたりだと、「ホワッド・アイ・セイ」のシングル盤をリアル・タイムで買っていたという。エルヴィス・プレスリーから入り、マイルス・デイヴィス・フリークでもあり、R&Bでは、ニューオーリーンズものなども大好きという。
雑談の中で、初めてのテープレコーダーはいつ入手されたか尋ねてみた。すると和田さんは64年だという。当時ソニーからかなり良い物がでて、初任給1万円か2万円くらいの頃、3万か4万円くらいしたはずだという。ところがその後ナショナルから1万円のオープンリールのテープレコーダーがでた。ソニーのは7インチ(17センチ=直径)のテープがかかったが、これは5インチのテープまでしかかからなかった。箱もプラスチックで若干安っぽい。それでも1万円という値段は魅力的で、夏休みに毎日アルバイトをしてお金を貯め、買ったという。たぶん1日バイトをして200円とか300円くらいで、5000円くらいまで貯金し、残りを親に出してもらったように記憶している。和田さんは、北海道の端っこの方に住んでいたので、もっぱらラジオを聴き、それをマイクを通して録音したりしていた。
ラジオは、昼間は北海道の地元の局しか聞こえなかったが、夕方の6時を過ぎると、空の電離層の関係で東京のTBS、文化放送、ニッポン放送が聞こえた。ラジオ関東は雑音の中に埋もれていてほとんど聞こえなかった。残念なことに、FENは聞こえなかったという。亀山さんも新潟で同じようにラジオを聞いていたが、やはり、最初の3局を夜になると聞いていた。
そして、ラジオ、テープレコーダー、音楽が揃い、オーディオと音楽の道に進むことになる。
ところで、最近のオーディオ製品とか電化製品はすぐ壊れるが、これは一体なぜなのですか、と尋ねた。例えば、ウォークマンなんて一年もして保障期間が切れるとそれを読んでいたかのようにすぐ壊れる。
亀山さんがいろいろ細かく説明してくださった。 「石油系の原料を使っているのが大きいんじゃないでしょうか。それから、昔は品質管理というか、そういうものが厳しかった。だが最近はそれほどでもないみたいだ」という。他にも、アジアの国、中国や台湾などで作られるものは、現地での管理体制がなかなかむずかしい、ともいう。
実際、うちにもソニーの79年に購入したベータマックスのビデオレコーダーがあり、これがまだ動く。その後に買った最初のVHSのマシン(87年購入)などもうだめになってる。総体的に言って、最近の機械はやわである。また、使っている素材がどれほど長持ちするのか、誰もわからないという点もあるらしい。
和田さんが、「いいオーディオには、いい匂いがするんだよねえ」とおっしゃった。国によって違って、それぞれの独特の匂いがあるという。たぶん、木で出来ているものなど、長持ちするということがわかっている。しかし、プラスチックやその他のものなど、どこで、どんな衝撃で割れたり、折れたりするのかが、予測不能なのだろう。
また、「耐久年数」などという文字がある意味で一人歩きしているのかもしれない。作る側も7年持てばいいだろう、とか。
マイ・ファースト・オーディオからすぐ壊れる話まで、ランチ時にずいぶんと濃い話を聞かせていただいた。なお、これは、DVDの『レイ』を見る前の話である。
ENT>ESSAY>AUDIO
Movie "Sengoku Jieitai 1549"
2005年5月30日【映画『戦国自衛隊』】
未発見。
6月11日に公開される映画『戦国自衛隊1549』の試写を通称日比谷シャンテビル内の東宝の試写室で見た。たまたま友人の放送作家K氏が行けないから行くかというので、二つ返事で行くことに。
映画はもともと1979年に公開された『戦国自衛隊』とは実質的には関係なく、まったく新たな映画となっている。現代の自衛隊が、ひょんなことから戦国時代にタイムスリップして、様々なことが起こるという点は同じだが、出来事や、細かい点が新しくなっている。映画では初めて本物の自衛隊が撮影に協力、さらにCGも加えられて、なかなかの迫力。筋はネタばれになるので、詳しくは書かないが、僕はけっこうおもしろいと思った。タイムスリップした時、過去の自分や過去の歴史を書き換えるとどうなるか、というのは最大のテーマだが、そこをうまくつじつまをあわせている。エンタテインメントとしてはいいんじゃないでしょうか。
主演は江口洋介、鈴木京香、鹿賀丈史、伊武雅刀ら。制作費15億円だそうで、これは日本の映画では破格の予算とのこと。なるほど、2−3億で作られる邦画とは確かにスケールが違う。
ただ、一点気になったのは、バックの音楽。これがちょっと出過ぎに感じた。必要以上に盛り上げよう、悲しませようとか、驚かせようとか、わざとらしさが目立つ。普段映画見ていて、こういうBGM系の音楽っていうのは、それほど耳障りにはならないが、その程度がいいんだろうと思う。
逆に、なにかのヒット曲とシーンがはまった時は、これはうまいと思うことも多々ある。最近なら『ヒッチ』や、『ブリジット・ジョーンズの日記』、タランティーノの一連の映画などだ。あるいはBGMに徹する時のジョン・ウィリアムスの映画音楽というのは、実にさりげなくうまい。映画を見ているときはまったく気にならないのに、あとからサントラを聞くと実はいい曲だった、なんてことがある。
それはさておき、この映画を見たいなと思ったもうひとつの理由は、実は、これに静岡在住の友人がエキストラで出たという話を聞いていたからだ。彼の話だと、朝から夕方まで、ほとんど待機の時間が多かったという。かぶとや防具がかなり重くて動くのが大変だったそうだ。
そこでその彼の姿を「ウォーリーを探せ」の如く見つけられるかということで行ってみたのだが…。さすがに何百人もいるエキストラの中では見つけられなかった。
映画『戦国自衛隊1549』
2005年6月11日(土)全国東宝系ロードショー
ENT>MOVIE>Sengoku Jieitai 1549
未発見。
6月11日に公開される映画『戦国自衛隊1549』の試写を通称日比谷シャンテビル内の東宝の試写室で見た。たまたま友人の放送作家K氏が行けないから行くかというので、二つ返事で行くことに。
映画はもともと1979年に公開された『戦国自衛隊』とは実質的には関係なく、まったく新たな映画となっている。現代の自衛隊が、ひょんなことから戦国時代にタイムスリップして、様々なことが起こるという点は同じだが、出来事や、細かい点が新しくなっている。映画では初めて本物の自衛隊が撮影に協力、さらにCGも加えられて、なかなかの迫力。筋はネタばれになるので、詳しくは書かないが、僕はけっこうおもしろいと思った。タイムスリップした時、過去の自分や過去の歴史を書き換えるとどうなるか、というのは最大のテーマだが、そこをうまくつじつまをあわせている。エンタテインメントとしてはいいんじゃないでしょうか。
主演は江口洋介、鈴木京香、鹿賀丈史、伊武雅刀ら。制作費15億円だそうで、これは日本の映画では破格の予算とのこと。なるほど、2−3億で作られる邦画とは確かにスケールが違う。
ただ、一点気になったのは、バックの音楽。これがちょっと出過ぎに感じた。必要以上に盛り上げよう、悲しませようとか、驚かせようとか、わざとらしさが目立つ。普段映画見ていて、こういうBGM系の音楽っていうのは、それほど耳障りにはならないが、その程度がいいんだろうと思う。
逆に、なにかのヒット曲とシーンがはまった時は、これはうまいと思うことも多々ある。最近なら『ヒッチ』や、『ブリジット・ジョーンズの日記』、タランティーノの一連の映画などだ。あるいはBGMに徹する時のジョン・ウィリアムスの映画音楽というのは、実にさりげなくうまい。映画を見ているときはまったく気にならないのに、あとからサントラを聞くと実はいい曲だった、なんてことがある。
それはさておき、この映画を見たいなと思ったもうひとつの理由は、実は、これに静岡在住の友人がエキストラで出たという話を聞いていたからだ。彼の話だと、朝から夕方まで、ほとんど待機の時間が多かったという。かぶとや防具がかなり重くて動くのが大変だったそうだ。
そこでその彼の姿を「ウォーリーを探せ」の如く見つけられるかということで行ってみたのだが…。さすがに何百人もいるエキストラの中では見つけられなかった。
映画『戦国自衛隊1549』
2005年6月11日(土)全国東宝系ロードショー
ENT>MOVIE>Sengoku Jieitai 1549
Admachikku Tengoku: Gotanda On My Mind
2005年5月31日【「わが心の五反田」】
土。
先々週の土曜日(2005年5月21日)、テレビ東京(12チャンネル)の番組『出没! アド街ック天国』で、五反田が紹介されていた。ビデオに録画して、やっと見た。この番組の影響力の強さは以前からよく聞いていた。ここで紹介されると放映から1週間からしばらくレストランやバーなどに、どっとお客さんが増えるというのだ。
全部で30ヵ所がカウントダウン形式で紹介されるが、もちろん、よ〜〜く知っているところもあれば、全然知らないところもある。知らなかったのは、あのマリックさんが五反田に住んで30年ということ。(笑) へえ、五反田在住なんだ。会ったことないなあ。
オイスターバーはオープンした時、よく行った。今よく行くのはアリエッタのランチ、そして、我らが松本幸三さんのフランクリン・アヴェニュー。
チェゴヤ(韓国料理)、おいしそう。一方、200グラム6万3000円のステーキ? すご〜〜。これは知らなかった。正田邸は2年前に取り壊され、今では公園になった。その近くに、しばらく前までは小泉君の仮公邸があった。
グリルF、日南ね。定番ですね。駅前の文具店神岡は、小学校の頃から通ってます。
で、そのフランクリンに放映後の次の週の日曜(29日)午後に行ったら、なんと30人近く並んでいるではないか。すごい。ちょうど今時は、外のテラスが気持ちいいのだが、それにしても半端ではない。階段からはみ出て、道路まで待ち人が並んでいる。
テレビで紹介されたアスパラ・バーガーが超人気になったそうだ。22日からしばらく人数の記録を更新しているらしい。
ところで、そのフランクリンにいたら、コック着に身を包んだ人がカウンターに座ってコーヒーを飲んでいた。すると幸三さんがその方を紹介してくれた。「世界の田辺さんです」 おおおっと。お隣のヌキテパのオウナーシェフ、田辺さんだった。
田辺さんによると、以前から庭のある一軒家を探していて、幸三さんに相談したところ、一足先にオープンしていたフランクリンの隣がちょうど空いているということで、ここでヌキテパを始めた、という。もう10年になるそうだが、今やその名は世界に名を轟かせている。エルブジご一行がわざわざヌキテパに食べに来たそうだ。
「エルブジご一行さまが来られた時とか、緊張したりするんですか」 「いや、全然。関係ないね」ときっぱり。
「今、興味があるのは、土でね。土って、食べたくならないですか?」と問われ、「いやあ、土を食べるっていうのがイメージがわかないんですが…」と答えると、「野菜を食べるってことは、土を食べることにつながるんじゃないかって思うんですよ。結局、人間は地(アース)に帰るんじゃないかと思って」。番組でも紹介されていたが、今、田辺シェフの自信作だ。これは、一度試してみたい。
最近はランチもディナーもかなり満席になるらしいが、基本は来たお客さんはお店側からは帰さない、というポリシーだ。満席の場合は、フランクリンで何かを飲んで待っててもらうそうだ。ヌキテパは週に一度月曜日だけが休み。それ以外の日は、店のスタッフは朝8時くらいから、夜12時くらいまで仕事をしている。「フレンチで(夜だけで)50人の客に料理を出すというのは、ほんと大変なんですよ」と言う。
フランクリンでは実はヌキテパのデザートが食べられる。以前書いたが、絶妙スイカのケーキはヌキテパのものだ。オウナー同士が仲良しだから可能なコラボレーションだ。
+++++
『出没! アド街ック天国』のウェッブ
http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/050521/index.html
土。
先々週の土曜日(2005年5月21日)、テレビ東京(12チャンネル)の番組『出没! アド街ック天国』で、五反田が紹介されていた。ビデオに録画して、やっと見た。この番組の影響力の強さは以前からよく聞いていた。ここで紹介されると放映から1週間からしばらくレストランやバーなどに、どっとお客さんが増えるというのだ。
全部で30ヵ所がカウントダウン形式で紹介されるが、もちろん、よ〜〜く知っているところもあれば、全然知らないところもある。知らなかったのは、あのマリックさんが五反田に住んで30年ということ。(笑) へえ、五反田在住なんだ。会ったことないなあ。
オイスターバーはオープンした時、よく行った。今よく行くのはアリエッタのランチ、そして、我らが松本幸三さんのフランクリン・アヴェニュー。
チェゴヤ(韓国料理)、おいしそう。一方、200グラム6万3000円のステーキ? すご〜〜。これは知らなかった。正田邸は2年前に取り壊され、今では公園になった。その近くに、しばらく前までは小泉君の仮公邸があった。
グリルF、日南ね。定番ですね。駅前の文具店神岡は、小学校の頃から通ってます。
で、そのフランクリンに放映後の次の週の日曜(29日)午後に行ったら、なんと30人近く並んでいるではないか。すごい。ちょうど今時は、外のテラスが気持ちいいのだが、それにしても半端ではない。階段からはみ出て、道路まで待ち人が並んでいる。
テレビで紹介されたアスパラ・バーガーが超人気になったそうだ。22日からしばらく人数の記録を更新しているらしい。
ところで、そのフランクリンにいたら、コック着に身を包んだ人がカウンターに座ってコーヒーを飲んでいた。すると幸三さんがその方を紹介してくれた。「世界の田辺さんです」 おおおっと。お隣のヌキテパのオウナーシェフ、田辺さんだった。
田辺さんによると、以前から庭のある一軒家を探していて、幸三さんに相談したところ、一足先にオープンしていたフランクリンの隣がちょうど空いているということで、ここでヌキテパを始めた、という。もう10年になるそうだが、今やその名は世界に名を轟かせている。エルブジご一行がわざわざヌキテパに食べに来たそうだ。
「エルブジご一行さまが来られた時とか、緊張したりするんですか」 「いや、全然。関係ないね」ときっぱり。
「今、興味があるのは、土でね。土って、食べたくならないですか?」と問われ、「いやあ、土を食べるっていうのがイメージがわかないんですが…」と答えると、「野菜を食べるってことは、土を食べることにつながるんじゃないかって思うんですよ。結局、人間は地(アース)に帰るんじゃないかと思って」。番組でも紹介されていたが、今、田辺シェフの自信作だ。これは、一度試してみたい。
最近はランチもディナーもかなり満席になるらしいが、基本は来たお客さんはお店側からは帰さない、というポリシーだ。満席の場合は、フランクリンで何かを飲んで待っててもらうそうだ。ヌキテパは週に一度月曜日だけが休み。それ以外の日は、店のスタッフは朝8時くらいから、夜12時くらいまで仕事をしている。「フレンチで(夜だけで)50人の客に料理を出すというのは、ほんと大変なんですよ」と言う。
フランクリンでは実はヌキテパのデザートが食べられる。以前書いたが、絶妙スイカのケーキはヌキテパのものだ。オウナー同士が仲良しだから可能なコラボレーションだ。
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『出没! アド街ック天国』のウェッブ
http://www.tv-tokyo.co.jp/adomachi/050521/index.html
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