Have You Seen J Wave Singing Tower?
2003年10月9日同調。
それにしても、すごいアイデアだなあ。先日夕方青山キラー通りを千駄ヶ谷方面から西麻布の方に向かっていたら、斜め正面に見える六本木ヒルズ森ビルの真中あたりの階あたりで光がちょこちょこ上下に動いているのが見えた。なにかと思ったら、なんと東京のFM局Jウェイヴの放送の音に同調して、その光パネルが動いていたのだ。これはすごい。
しかけは簡単。J ウエイヴが入っている六本木ヒルズの森ビルの5フロアをぶちぬいて横一面その窓際に音に反応するライトのパネルを置いているのだ。同局の放送、つまりおしゃべりや曲に同調してそのパネルが上下に動く。光イコライザーの巨大版だ。
車でJウェイヴをかけ、そのはるかかなたの森ビルの光パネルを見ると、確かに声や音楽に同調している。別にいつも見ている同じイコライザーなのに、それを屋外で、しかもあの巨大ビルの一部で見るというだけでかなり、おもしろい。夕方のピストン西沢の番組で、リスナーの電話をつないで、彼らに何か一言言ってもらうという企画をやっていた。そのうちのひとりは、自分で声をはりあげるときに、しっかり森ビルを見ていた、という。遠くから見ながら、自分の声を張り上げて、それに同調してイコライザーが動くのを見たら、これは気持ちいいだろうなあ。
車を運転していても、思わず森ビルの方を見てしまう。逆サイド(麻布十番側)は見えないが、西側のほうはかなり遠くまで見えるはずだ。一応、今月一杯の期間限定で、時間も16時から23時までということだが、これは一見の価値あり。ギネスブックにも申請するそうだ。それほど大きくないあちこちのビル窓に光イコライザーが誕生したら、どうなることやら。このアイデアはどこにでも持っていける! これを考え出した人は誰なんですか? インタヴューしたい。
それにしても、すごいアイデアだなあ。先日夕方青山キラー通りを千駄ヶ谷方面から西麻布の方に向かっていたら、斜め正面に見える六本木ヒルズ森ビルの真中あたりの階あたりで光がちょこちょこ上下に動いているのが見えた。なにかと思ったら、なんと東京のFM局Jウェイヴの放送の音に同調して、その光パネルが動いていたのだ。これはすごい。
しかけは簡単。J ウエイヴが入っている六本木ヒルズの森ビルの5フロアをぶちぬいて横一面その窓際に音に反応するライトのパネルを置いているのだ。同局の放送、つまりおしゃべりや曲に同調してそのパネルが上下に動く。光イコライザーの巨大版だ。
車でJウェイヴをかけ、そのはるかかなたの森ビルの光パネルを見ると、確かに声や音楽に同調している。別にいつも見ている同じイコライザーなのに、それを屋外で、しかもあの巨大ビルの一部で見るというだけでかなり、おもしろい。夕方のピストン西沢の番組で、リスナーの電話をつないで、彼らに何か一言言ってもらうという企画をやっていた。そのうちのひとりは、自分で声をはりあげるときに、しっかり森ビルを見ていた、という。遠くから見ながら、自分の声を張り上げて、それに同調してイコライザーが動くのを見たら、これは気持ちいいだろうなあ。
車を運転していても、思わず森ビルの方を見てしまう。逆サイド(麻布十番側)は見えないが、西側のほうはかなり遠くまで見えるはずだ。一応、今月一杯の期間限定で、時間も16時から23時までということだが、これは一見の価値あり。ギネスブックにも申請するそうだ。それほど大きくないあちこちのビル窓に光イコライザーが誕生したら、どうなることやら。このアイデアはどこにでも持っていける! これを考え出した人は誰なんですか? インタヴューしたい。
I Ate Chicken With James Brown (Part 2)
2003年10月8日御言葉。
ミスター・ブラウンの独演会は続く。しばらく前にサウスキャロライナに大きな自宅を購入したという。そこでミスター・ブラウンとトミー・レイの結婚式が行われた。トミーが言う。「大々的に結婚式をやったの。3−400人は招待客が来たからしら。もっとも招待状を持ってない人も、どういうわけか、やってきたみたいなんだけどね(笑)」 2001年12月のことだ。
そこで、またまたミスター・ブラウンはK氏に「結婚はどうした」と尋ねる。たまたまK氏は「3度目の離婚をした」と答える そして、僕にこう耳元でささやく。「ブラウンに、あなたの真似をしてるんです、って言ってくれ」 「えええ? どう訳せばいいんだ(笑) う〜〜ん、わかった」 僕はミスター・ブラウンにこう伝えた。「彼は3度結婚し、3度離婚した。あなたの後を追ってると言ってます。(He said he follow you)」「なに、He follows me? (爆笑)」 そして、横のトミーと社長に、その話を伝えて、また、連中が大笑いとなる。そして、ミスター・ブラウンはまじまじとK氏の顔を見つめる。
そして、ひじをついて左手に持っていたフォークを振りながら、こう言った。(ミスター・ブラウンはレフティー(左利き)なのだ) 「オレの母方にはインディアンの血が流れている。そして、父方にはオリエンタルの血が流れている」 この時の「Oriental」という言葉の発音が何度聞いても聞き取れなく苦労した。そして、そこから導かれる結論はこうだ。「いいか、だからなんだ、そういう血筋があるから、オレは頭が全然禿げないんだ」 そういって人差し指で自らの頭を指す。たしかに頭はふさふさだ。「そうかあ、じゃあ、かつらじゃないんだ〜〜」と心の中でつぶやいた。間違ってもそんなことは口にはだせない。う〜〜ん、メイクセンスしているといえばしているし、していないかもしれない。だが、ミスター・ブラウンが「オリエンタルは禿げない」と言えば、そうなのである。「神の言葉」だから。
食事が一段落したところで、僕はミスター・ブラウンに尋ねた。「ミスター・ブラウン、実はお願いがあるんですが。ラジオ番組用のIDをいただきたいんですが」 「もちろん、いいとも」 「ありがとうございます」 すぐに僕はしゃべってもらう言葉を紙に大きい字で書いた。それでも字は見づらいらしく、番組名などをもう一度口頭で伝えた。ミスター・ブラウンはいくつかヴァリエーションを作ってやってくれた。感激だ。それだけでなく、横のトミー・レイにも同じことをやらせた。さらにちょうどそこにやってきていたミスター・ブラウンの息子ダリル・ブラウン(ギター)とドラムスのロバート・ムーシーにも同じようにやれ、と指示を出す。このIDには、コーヒーハウスの喧騒の音も入っている。まあ、これも雰囲気ものだ。
周りの連中がミスター・ブラウンと写真をとり始めた。機嫌よくカメラに収まる。最近はみな携帯電話でも写真をとれるようになったので、携帯を取り出す者も多い。かく言う僕も携帯でしっかりツーショットをとってもらった。だが、この時とったモードでは待ち受けにできない。まだ使い方をしっかり把握していないのだ。残念。
さて2日の日に続いて、3日もまったく同じように同じカフェでほぼ同じ時間に同じようなメンバーで食事とあいなった。4人の席次も同じだ。トミー、ブラウン、K、僕。
前日にデジカメで写真をとったK氏の友人がいて、その人がはやくもプリントアウトした写真を持ってきていた。1枚はミスター・ブラウンとK氏、もう1枚はミスター・ブラウンと僕の写真だ。きれいにとれている。ミスター・ブラウンが言う。「これと同じ写真を2枚ずつ大きく引き伸ばしてくれないか。うちに飾るんだ」といいながら、これくらい、と腕で大きさを示す。
そして、思わぬ展開となった。その普通サイズの2枚の写真をまざまざと見てミスター・ブラウンは、僕たちに言った。「この写真に、君たちのサインをくれ」 「おおおおっ」 思わず、K氏と顔を見合わせる。「マジカヨ」という表情。サインをくれ、と言われて、サインをしないわけにはいかない。なぜなら神の言葉だからだ。マジックでさらさらとサインをした。「To Mr. Brown...」 えらいこっちゃ。
この日のミスター・ブラウンのメニューはビールとチーズ盛り合わせと魚介のフリッターのようなものだった。ミスター・ブラウンは塩胡椒が大好きということが判明した。ビールにまで胡椒をばんばん振っていた。
「ミスター・ブラウン、前回の来日よりおやせになったようですが」と僕は尋ねた。トミー・ブラウンが答える。「数ヶ月前とても体調が悪くてね。バリウムで浣腸をしたの。ただちに20ポンド(約9キロ)体重が減り、それ以来非常に健康になったの」と言う。プログラムに映っている昔の写真と比べて、「この頃よりあごのところがやせているだろ」とミスター・ブラウンは言う。なるほど、そうだったのか。やはり、今回の来日は前回よりやせた印象があった。しかし、動きなどを見る限り非常に健康のようだ。
ちょうど、プログラムがでたところで、映画『ゲロッパ』の話になった。「ミスター・ブラウン、映画『ゲロッパ』(Get Up)はごらんになりましたか?」 「いいや。なんだ、それ?」 「ミスター・ブラウンにまつわる映画なんですが。あなたが『ミロッパ』と言ってCMをやられていた映画です」 「わからんなあ」 僕とK氏は小さな声で言う。「どうなってんだろう。知らないのかなあ」 そこで、僕はプログラムに印刷されている映画のCMページを見せて少し説明した。
「・・・そして、俳優の西田敏行が『セックス・マシーン』を歌うんです・・・」 「おお、そうか? 彼はシンガーか?」 「いいえ、俳優です」 K氏「最初は西田さんで撮影したんですが、どうしても足の部分をミスター・ブラウンのように動かせないんで、結局、僕が吹き替えでやったんです」 「おお、そうか」とミスター・ブラウン、満面の笑み。ジェームス・ブラウンといえば、あの華麗な足さばきを見ずして語るなかれ、である。
しばし雑談があり、ミスター・ブラウンが来る11月にアポロに登場する話を聞きたかった。「ミスター・ブラウン、あなたは来る11月にニューヨークのアポロ劇場に登場しますね。アポロでやるということはあなたにとって、特別な意味があることですか」 「もちろんだ。アポロがあるところは、かつては貧しい人たちが住んでいた。オレはそこに行って演奏した。彼ら、貧しい人々のためにな。だから特別(な場所)だ。今、オレがこうしていられるのも、神のご加護があったからだ」
なんだか、アポロのジェームス・ブラウンが無性に見たくなってきた。ミスター・ブラウンは、依然日本列島縦断中である。
ミスター・ブラウンの独演会は続く。しばらく前にサウスキャロライナに大きな自宅を購入したという。そこでミスター・ブラウンとトミー・レイの結婚式が行われた。トミーが言う。「大々的に結婚式をやったの。3−400人は招待客が来たからしら。もっとも招待状を持ってない人も、どういうわけか、やってきたみたいなんだけどね(笑)」 2001年12月のことだ。
そこで、またまたミスター・ブラウンはK氏に「結婚はどうした」と尋ねる。たまたまK氏は「3度目の離婚をした」と答える そして、僕にこう耳元でささやく。「ブラウンに、あなたの真似をしてるんです、って言ってくれ」 「えええ? どう訳せばいいんだ(笑) う〜〜ん、わかった」 僕はミスター・ブラウンにこう伝えた。「彼は3度結婚し、3度離婚した。あなたの後を追ってると言ってます。(He said he follow you)」「なに、He follows me? (爆笑)」 そして、横のトミーと社長に、その話を伝えて、また、連中が大笑いとなる。そして、ミスター・ブラウンはまじまじとK氏の顔を見つめる。
そして、ひじをついて左手に持っていたフォークを振りながら、こう言った。(ミスター・ブラウンはレフティー(左利き)なのだ) 「オレの母方にはインディアンの血が流れている。そして、父方にはオリエンタルの血が流れている」 この時の「Oriental」という言葉の発音が何度聞いても聞き取れなく苦労した。そして、そこから導かれる結論はこうだ。「いいか、だからなんだ、そういう血筋があるから、オレは頭が全然禿げないんだ」 そういって人差し指で自らの頭を指す。たしかに頭はふさふさだ。「そうかあ、じゃあ、かつらじゃないんだ〜〜」と心の中でつぶやいた。間違ってもそんなことは口にはだせない。う〜〜ん、メイクセンスしているといえばしているし、していないかもしれない。だが、ミスター・ブラウンが「オリエンタルは禿げない」と言えば、そうなのである。「神の言葉」だから。
食事が一段落したところで、僕はミスター・ブラウンに尋ねた。「ミスター・ブラウン、実はお願いがあるんですが。ラジオ番組用のIDをいただきたいんですが」 「もちろん、いいとも」 「ありがとうございます」 すぐに僕はしゃべってもらう言葉を紙に大きい字で書いた。それでも字は見づらいらしく、番組名などをもう一度口頭で伝えた。ミスター・ブラウンはいくつかヴァリエーションを作ってやってくれた。感激だ。それだけでなく、横のトミー・レイにも同じことをやらせた。さらにちょうどそこにやってきていたミスター・ブラウンの息子ダリル・ブラウン(ギター)とドラムスのロバート・ムーシーにも同じようにやれ、と指示を出す。このIDには、コーヒーハウスの喧騒の音も入っている。まあ、これも雰囲気ものだ。
周りの連中がミスター・ブラウンと写真をとり始めた。機嫌よくカメラに収まる。最近はみな携帯電話でも写真をとれるようになったので、携帯を取り出す者も多い。かく言う僕も携帯でしっかりツーショットをとってもらった。だが、この時とったモードでは待ち受けにできない。まだ使い方をしっかり把握していないのだ。残念。
さて2日の日に続いて、3日もまったく同じように同じカフェでほぼ同じ時間に同じようなメンバーで食事とあいなった。4人の席次も同じだ。トミー、ブラウン、K、僕。
前日にデジカメで写真をとったK氏の友人がいて、その人がはやくもプリントアウトした写真を持ってきていた。1枚はミスター・ブラウンとK氏、もう1枚はミスター・ブラウンと僕の写真だ。きれいにとれている。ミスター・ブラウンが言う。「これと同じ写真を2枚ずつ大きく引き伸ばしてくれないか。うちに飾るんだ」といいながら、これくらい、と腕で大きさを示す。
そして、思わぬ展開となった。その普通サイズの2枚の写真をまざまざと見てミスター・ブラウンは、僕たちに言った。「この写真に、君たちのサインをくれ」 「おおおおっ」 思わず、K氏と顔を見合わせる。「マジカヨ」という表情。サインをくれ、と言われて、サインをしないわけにはいかない。なぜなら神の言葉だからだ。マジックでさらさらとサインをした。「To Mr. Brown...」 えらいこっちゃ。
この日のミスター・ブラウンのメニューはビールとチーズ盛り合わせと魚介のフリッターのようなものだった。ミスター・ブラウンは塩胡椒が大好きということが判明した。ビールにまで胡椒をばんばん振っていた。
「ミスター・ブラウン、前回の来日よりおやせになったようですが」と僕は尋ねた。トミー・ブラウンが答える。「数ヶ月前とても体調が悪くてね。バリウムで浣腸をしたの。ただちに20ポンド(約9キロ)体重が減り、それ以来非常に健康になったの」と言う。プログラムに映っている昔の写真と比べて、「この頃よりあごのところがやせているだろ」とミスター・ブラウンは言う。なるほど、そうだったのか。やはり、今回の来日は前回よりやせた印象があった。しかし、動きなどを見る限り非常に健康のようだ。
ちょうど、プログラムがでたところで、映画『ゲロッパ』の話になった。「ミスター・ブラウン、映画『ゲロッパ』(Get Up)はごらんになりましたか?」 「いいや。なんだ、それ?」 「ミスター・ブラウンにまつわる映画なんですが。あなたが『ミロッパ』と言ってCMをやられていた映画です」 「わからんなあ」 僕とK氏は小さな声で言う。「どうなってんだろう。知らないのかなあ」 そこで、僕はプログラムに印刷されている映画のCMページを見せて少し説明した。
「・・・そして、俳優の西田敏行が『セックス・マシーン』を歌うんです・・・」 「おお、そうか? 彼はシンガーか?」 「いいえ、俳優です」 K氏「最初は西田さんで撮影したんですが、どうしても足の部分をミスター・ブラウンのように動かせないんで、結局、僕が吹き替えでやったんです」 「おお、そうか」とミスター・ブラウン、満面の笑み。ジェームス・ブラウンといえば、あの華麗な足さばきを見ずして語るなかれ、である。
しばし雑談があり、ミスター・ブラウンが来る11月にアポロに登場する話を聞きたかった。「ミスター・ブラウン、あなたは来る11月にニューヨークのアポロ劇場に登場しますね。アポロでやるということはあなたにとって、特別な意味があることですか」 「もちろんだ。アポロがあるところは、かつては貧しい人たちが住んでいた。オレはそこに行って演奏した。彼ら、貧しい人々のためにな。だから特別(な場所)だ。今、オレがこうしていられるのも、神のご加護があったからだ」
なんだか、アポロのジェームス・ブラウンが無性に見たくなってきた。ミスター・ブラウンは、依然日本列島縦断中である。
I Ate Chicken With James Brown (Part 1)
2003年10月7日チキン。
2日(木曜)のライヴが終わった後、K氏と「どうする?」という話になり、「まあ、とりあえず、ホテル行きましょうか」ということになった。一足先にホテルに向かい、入口近辺のコーヒーハウスでお茶しながら、ミスター・ブラウンの帰りを待つことにした。しばらくすると、ご一行が戻ってきた。するとブラウンがこちらを見つけ、近寄ってきた。ひとことふたことあり、なんとそのコーヒーハウスで軽く飲もうということになった。まあ、予想外の展開というか。かなり焦った。
こちらサイド、ブラウン・サイド(ミスター・ブラウン、トミー・ブラウン=奥さん、社長、マネージャー)で12人くらいのグループでお茶をする。席は大きな丸いテーブルに全員が座る形で、トミー、ミスター・ブラウン、K氏、そして、僕。で、K氏の言うことを僕が訳して伝え、その返りをまた日本語に訳すという通訳状態になる。
だいたいが、昔話になる。「30年前、君たちはもっと若かったな。オレは君たちが成長していくのを見てるからな。30ロング・イヤーズ・・・」というミスター・ブラウン。トミーやスーパーフランク社長(白人の長髪の人物で、ステージで最後にブラウンと一緒に踊った人)に、「彼とは30年前から知ってるんだ。彼はオレそっくりに踊れるんだよ」などと話している。社長はこの1年くらいで、ブラウンのマネージメントをてがけるようになったので、来日は初めて。ブラウン宅にはK氏とミスター・ブラウンの30年前のツーショットの写真が飾られている。だから、いつでも、ミスター・ブラウンはその話を持ち出す。「昔は、おまえはこ〜〜んな大きなアフロヘアーだったよな。ははは」
「シャンペーンでも飲むか?」とミスター・ブラウン。「いやいや、おかまいなく」と遠慮する日本サイド。でも、結局頼まれた。(←敬語使い) 少しずつ全員に注がれると、ミスター・ブラウンとトミーが「何に乾杯しましょうか。じゃあ、みんなの健康に」と言い、「かんぱ〜〜い」となった。再び「30ロング・イヤーズ!」 この日、何度この言葉を聞いたことか。
ミスター・ブラウンは「腹は減ってるか? なんでも頼んでくれ。オレのおごりだから」と言う。昔、なぜかその一行にまぎれて一緒になった勝新太郎さんに同じことを言われたのを思い出した。なんだか、一瞬、ミスター・ブラウンと勝さんがだぶって見えた。どちらも、親分肌で、超豪快な人物である。そして、どちらも愛すべき人物であり、一緒にいると「大ファン」になってしまうようなキャラクターの持ち主だ。
ミスター・ブラウンたちは、若干おなかが減ったのかフードをオーダーする。どうやらフライド・チキンをオーダーしたようだ。ミスター・ブラウンが今2歳の息子の写真を見せてくれる。トミーが言う。「2001年6月11日に生まれたの」 「名前は?」 ミスター・ブラウンが答える。「ジェームス・ブラウン・セカンドだ」 「オ〜〜、イエ〜」 それから、また別の写真を見せてくれる。「うちの池で釣れた魚だ」とミスター・ブラウン。どうやら、バスらしい。「釣りはなさるのですか?」「う〜〜ん、習っているところかな。池に、どんどん(魚を)放ってるんだ」
僕は誰もが思う疑問を尋ねた。「今日のステージを見て、とても70歳には見えませんでした。本当にお若いですねえ。その若さの秘密はなんなんですか」 ミスター・ブラウンは僕の目を見て、黙って人差し指で天井を指した。そして、いつものように訛りの強い英語で答えた。「神だよ。神がオレに力を与えてくれるんだ」
横に座っていたトミーが、「先日、日本で一番長寿の女性が亡くなったんですって」と話をふってきた。「ああ、そういうニュースがありましたね」「日本人はみな長寿なんでしょう?」 「え〜確かに」
そこで、僕はミスター・ブラウンが昔、自分は200歳まで生きると言っていた発言を思い出した。「ミスター・ブラウン、その調子だったら、本当にあと何十年もライヴができますね。僕はあなたが昔おっしゃっていた200歳まで生きるという言葉が大好きなんですよ」 (正確には、ジェームス・ブラウンは、「オレは200歳マイナス1日まで生きるんだ」と発言していた。それだけ長くファンクの伝道師を続ける意欲を示したものとして受け取られていた。僕はそれを単純に「あなたは200歳まで生きると言っていた」ということを持ち出した) 「よ〜く覚えてるな。(笑) すばらしい記憶の持ち主だな。だがな、オレは君たちに200歳まで生きて欲しいと思っている。それで、オレは200歳マイナス1日だけ生きるんだ。そうすれば、君たちのようなすばらしいフレンド(友達)の死を見ずにすむからな」 「オオ、イエ〜」 ほとんど、ゴスペルの説教の相槌みたいになる! (こんな会話、テープに取りたかった!) ミスター・ブラウンのその言葉を日本語に訳すと、座っていたみんなから思わず拍手が巻き起こった。
しばらくしてチキンがやってきた。僕たちは遠慮して、フードはオーダーしなかった。というか、とてもミスター・ブラウンの前で何かを食べるという余裕がなかったのだ。(笑) ミスター・ブラウンはかなりの量の塩と胡椒を振りまく。すると、そのチキンの乗ったプレートをさして、「どうだ?」という。「だいじょうぶです、ありがとうございます」と答えるが、ミスター・ブラウンがフォークにチキンを刺し、こちらに手渡してくれる。まずK氏が食べる。「あちっち」とK氏、落としそうになる。次に僕に手渡される。ミスター・ブラウンじきじき手渡しのチキンをじっくり味わう。しかも、テーブルの一番向こう側までミスター・ブラウンはわざわざ歩いてチキンを持っていったのだ。もちろん、その彼は大感激だ。
「どうだ?」 「ありがとうございます。とてもおいしいです」 「そうか、じゃあ、君はこんな曲が書けるんじゃないか。 I ate chicken with James Brown(オレはジェームス・ブラウンとチキンを食べた)」 「オオ、イエ〜。アイ・エイト・チッキン・ウィズ・ジェームス・ブラウン。いいタイトルですね」 僕がそのタイトルを2−3度繰り返して言う。 「う〜む、I ate chicken with James Brown, Papa’s got a brand new bag, おおお、メイクセンスするな」とミスター・ブラウン、ご満悦。この並びがなんでメイクセンス(理に適う)なのか、どうも英語力の乏しい僕にはよくわからないのだが・・・。(おそらく英語ができてもわからないのだろう) でも、きっとミスター・ブラウンの中ではメイクセンスしているのだ。
ジェームス・ブラウンの曲のタイトルは、ちょっと日本人にはわかりにくいタイトルが多い。直訳しても意味不明な作品もある。おそらくアフリカン・アメリカンにとってはよく使われるスラングなどで直感的にわかるのだろうが、われわれ外国人には意味が辞書にでていないために理解不能なものもあるのだ。またミスター・ブラウンがストリートの言葉をたくさん使っているためにわれわれにはなかなかわからないものもあるのだと思う。それはさておきミスター・ブラウンが曲のタイトルを決める時ってこんな風に決めるのかな、とふと感じた。ミスター・ブラウンが2−3度「I ate chicken with James Brown, Papa’s got a brand new bag」と言うと、それだけで、レストランでさえもソウル・ジェネラルがダダダッダと演奏を始めそうな空気になった。
「ミスター・ブラウンとディナーを食べたよ」と友人に自慢気に話すと「何、食べたの?」と返ってきた。「僕はミスター・ブラウンとチキンを食べたよ」と僕。彼は一言言った。「それこそ、ほんとのファンキー・チキンだな」
2日(木曜)のライヴが終わった後、K氏と「どうする?」という話になり、「まあ、とりあえず、ホテル行きましょうか」ということになった。一足先にホテルに向かい、入口近辺のコーヒーハウスでお茶しながら、ミスター・ブラウンの帰りを待つことにした。しばらくすると、ご一行が戻ってきた。するとブラウンがこちらを見つけ、近寄ってきた。ひとことふたことあり、なんとそのコーヒーハウスで軽く飲もうということになった。まあ、予想外の展開というか。かなり焦った。
こちらサイド、ブラウン・サイド(ミスター・ブラウン、トミー・ブラウン=奥さん、社長、マネージャー)で12人くらいのグループでお茶をする。席は大きな丸いテーブルに全員が座る形で、トミー、ミスター・ブラウン、K氏、そして、僕。で、K氏の言うことを僕が訳して伝え、その返りをまた日本語に訳すという通訳状態になる。
だいたいが、昔話になる。「30年前、君たちはもっと若かったな。オレは君たちが成長していくのを見てるからな。30ロング・イヤーズ・・・」というミスター・ブラウン。トミーやスーパーフランク社長(白人の長髪の人物で、ステージで最後にブラウンと一緒に踊った人)に、「彼とは30年前から知ってるんだ。彼はオレそっくりに踊れるんだよ」などと話している。社長はこの1年くらいで、ブラウンのマネージメントをてがけるようになったので、来日は初めて。ブラウン宅にはK氏とミスター・ブラウンの30年前のツーショットの写真が飾られている。だから、いつでも、ミスター・ブラウンはその話を持ち出す。「昔は、おまえはこ〜〜んな大きなアフロヘアーだったよな。ははは」
「シャンペーンでも飲むか?」とミスター・ブラウン。「いやいや、おかまいなく」と遠慮する日本サイド。でも、結局頼まれた。(←敬語使い) 少しずつ全員に注がれると、ミスター・ブラウンとトミーが「何に乾杯しましょうか。じゃあ、みんなの健康に」と言い、「かんぱ〜〜い」となった。再び「30ロング・イヤーズ!」 この日、何度この言葉を聞いたことか。
ミスター・ブラウンは「腹は減ってるか? なんでも頼んでくれ。オレのおごりだから」と言う。昔、なぜかその一行にまぎれて一緒になった勝新太郎さんに同じことを言われたのを思い出した。なんだか、一瞬、ミスター・ブラウンと勝さんがだぶって見えた。どちらも、親分肌で、超豪快な人物である。そして、どちらも愛すべき人物であり、一緒にいると「大ファン」になってしまうようなキャラクターの持ち主だ。
ミスター・ブラウンたちは、若干おなかが減ったのかフードをオーダーする。どうやらフライド・チキンをオーダーしたようだ。ミスター・ブラウンが今2歳の息子の写真を見せてくれる。トミーが言う。「2001年6月11日に生まれたの」 「名前は?」 ミスター・ブラウンが答える。「ジェームス・ブラウン・セカンドだ」 「オ〜〜、イエ〜」 それから、また別の写真を見せてくれる。「うちの池で釣れた魚だ」とミスター・ブラウン。どうやら、バスらしい。「釣りはなさるのですか?」「う〜〜ん、習っているところかな。池に、どんどん(魚を)放ってるんだ」
僕は誰もが思う疑問を尋ねた。「今日のステージを見て、とても70歳には見えませんでした。本当にお若いですねえ。その若さの秘密はなんなんですか」 ミスター・ブラウンは僕の目を見て、黙って人差し指で天井を指した。そして、いつものように訛りの強い英語で答えた。「神だよ。神がオレに力を与えてくれるんだ」
横に座っていたトミーが、「先日、日本で一番長寿の女性が亡くなったんですって」と話をふってきた。「ああ、そういうニュースがありましたね」「日本人はみな長寿なんでしょう?」 「え〜確かに」
そこで、僕はミスター・ブラウンが昔、自分は200歳まで生きると言っていた発言を思い出した。「ミスター・ブラウン、その調子だったら、本当にあと何十年もライヴができますね。僕はあなたが昔おっしゃっていた200歳まで生きるという言葉が大好きなんですよ」 (正確には、ジェームス・ブラウンは、「オレは200歳マイナス1日まで生きるんだ」と発言していた。それだけ長くファンクの伝道師を続ける意欲を示したものとして受け取られていた。僕はそれを単純に「あなたは200歳まで生きると言っていた」ということを持ち出した) 「よ〜く覚えてるな。(笑) すばらしい記憶の持ち主だな。だがな、オレは君たちに200歳まで生きて欲しいと思っている。それで、オレは200歳マイナス1日だけ生きるんだ。そうすれば、君たちのようなすばらしいフレンド(友達)の死を見ずにすむからな」 「オオ、イエ〜」 ほとんど、ゴスペルの説教の相槌みたいになる! (こんな会話、テープに取りたかった!) ミスター・ブラウンのその言葉を日本語に訳すと、座っていたみんなから思わず拍手が巻き起こった。
しばらくしてチキンがやってきた。僕たちは遠慮して、フードはオーダーしなかった。というか、とてもミスター・ブラウンの前で何かを食べるという余裕がなかったのだ。(笑) ミスター・ブラウンはかなりの量の塩と胡椒を振りまく。すると、そのチキンの乗ったプレートをさして、「どうだ?」という。「だいじょうぶです、ありがとうございます」と答えるが、ミスター・ブラウンがフォークにチキンを刺し、こちらに手渡してくれる。まずK氏が食べる。「あちっち」とK氏、落としそうになる。次に僕に手渡される。ミスター・ブラウンじきじき手渡しのチキンをじっくり味わう。しかも、テーブルの一番向こう側までミスター・ブラウンはわざわざ歩いてチキンを持っていったのだ。もちろん、その彼は大感激だ。
「どうだ?」 「ありがとうございます。とてもおいしいです」 「そうか、じゃあ、君はこんな曲が書けるんじゃないか。 I ate chicken with James Brown(オレはジェームス・ブラウンとチキンを食べた)」 「オオ、イエ〜。アイ・エイト・チッキン・ウィズ・ジェームス・ブラウン。いいタイトルですね」 僕がそのタイトルを2−3度繰り返して言う。 「う〜む、I ate chicken with James Brown, Papa’s got a brand new bag, おおお、メイクセンスするな」とミスター・ブラウン、ご満悦。この並びがなんでメイクセンス(理に適う)なのか、どうも英語力の乏しい僕にはよくわからないのだが・・・。(おそらく英語ができてもわからないのだろう) でも、きっとミスター・ブラウンの中ではメイクセンスしているのだ。
ジェームス・ブラウンの曲のタイトルは、ちょっと日本人にはわかりにくいタイトルが多い。直訳しても意味不明な作品もある。おそらくアフリカン・アメリカンにとってはよく使われるスラングなどで直感的にわかるのだろうが、われわれ外国人には意味が辞書にでていないために理解不能なものもあるのだ。またミスター・ブラウンがストリートの言葉をたくさん使っているためにわれわれにはなかなかわからないものもあるのだと思う。それはさておきミスター・ブラウンが曲のタイトルを決める時ってこんな風に決めるのかな、とふと感じた。ミスター・ブラウンが2−3度「I ate chicken with James Brown, Papa’s got a brand new bag」と言うと、それだけで、レストランでさえもソウル・ジェネラルがダダダッダと演奏を始めそうな空気になった。
「ミスター・ブラウンとディナーを食べたよ」と友人に自慢気に話すと「何、食べたの?」と返ってきた。「僕はミスター・ブラウンとチキンを食べたよ」と僕。彼は一言言った。「それこそ、ほんとのファンキー・チキンだな」
来日。
スティーヴィー・ワンダーが12月末に来日、全国各地で公演を行う。ツアー予定は次の通り。
2003年12月27日、28日・さいたまスーパーアリーナ
12月30日・マリンメッセ福岡、
2004年1月4日・名古屋レインボーホール、
1月6日、7日・大阪城ホール・
全6公演。チケットは、コンビニエンスストアのam/pmが10月15日から21日まで、午前10時から午後10時の間に独占先行発売。一般販売は11月1日から。問い合わせはスティーヴィー・ワンダー・ジャパンツアー実行委員会事務局。電話03-3475-5999.
スティーヴィー・ワンダーの来日は、1999年8月、東京で行われた来日公演以来4年4ヶ月ぶり。このときは「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」の一環で2回公演が行われた。来日は通算13回目になる。スティーヴィーの初来日は、1968年マーサ&ヴァンデラスの前座として。次が75年1月、スティーヴィー・ワンダーとしての来日となった。以後81年、82年、85年、88年、89年、90年、95年、96年、97年、99年と来日している。
+++++
ジェームス・ブラウンの話題がまだまだ続きますが、スティーヴィーの来日が決まっています。ちょっと遅れましたが、一応情報を紹介しておきましょう。
コンスタントに日本にやってきているスティーヴィーの来日が決まった。前回が99年なので、約4年ぶり。80年代、90年代にそれぞれ5回ずつ来日しているのだから、ちょっと間があいた感はあるかもしれない。今年は、ベスト・アルバムがヒット、さらに、日本人歌手平井堅の作品も収録された「トリビュート・アルバム」などもヒットし、スティーヴィーにも注目が集まっている。また、11月には待望の約8年ぶりとなる新作アルバムの発売も予定されている。新作発売、世界ツアーというプランなのだろう。ということは、今年こそアルバムが発売されるかもしれない。
しかし、日程がねえ。個人的には非常に、きびしい日程です。土日で、しかも、さいたまスーパーアリーナってなぜ。遠い・・・。
スティーヴィー・ワンダーが12月末に来日、全国各地で公演を行う。ツアー予定は次の通り。
2003年12月27日、28日・さいたまスーパーアリーナ
12月30日・マリンメッセ福岡、
2004年1月4日・名古屋レインボーホール、
1月6日、7日・大阪城ホール・
全6公演。チケットは、コンビニエンスストアのam/pmが10月15日から21日まで、午前10時から午後10時の間に独占先行発売。一般販売は11月1日から。問い合わせはスティーヴィー・ワンダー・ジャパンツアー実行委員会事務局。電話03-3475-5999.
スティーヴィー・ワンダーの来日は、1999年8月、東京で行われた来日公演以来4年4ヶ月ぶり。このときは「モントルー・ジャズ・フェスティヴァル」の一環で2回公演が行われた。来日は通算13回目になる。スティーヴィーの初来日は、1968年マーサ&ヴァンデラスの前座として。次が75年1月、スティーヴィー・ワンダーとしての来日となった。以後81年、82年、85年、88年、89年、90年、95年、96年、97年、99年と来日している。
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ジェームス・ブラウンの話題がまだまだ続きますが、スティーヴィーの来日が決まっています。ちょっと遅れましたが、一応情報を紹介しておきましょう。
コンスタントに日本にやってきているスティーヴィーの来日が決まった。前回が99年なので、約4年ぶり。80年代、90年代にそれぞれ5回ずつ来日しているのだから、ちょっと間があいた感はあるかもしれない。今年は、ベスト・アルバムがヒット、さらに、日本人歌手平井堅の作品も収録された「トリビュート・アルバム」などもヒットし、スティーヴィーにも注目が集まっている。また、11月には待望の約8年ぶりとなる新作アルバムの発売も予定されている。新作発売、世界ツアーというプランなのだろう。ということは、今年こそアルバムが発売されるかもしれない。
しかし、日程がねえ。個人的には非常に、きびしい日程です。土日で、しかも、さいたまスーパーアリーナってなぜ。遠い・・・。
"A"。
ジェームス・ブラウン・ショウはいつでもサプライズの連続だ。同じショウは二度とない。ミスター・ブラウンのショウには事前に決められた曲目表(セットリスト)がない。すべて、その日、その気分、その場ののりで曲が決まっていく。だから、同じショウはふたつとしてない。同じ曲でさえ、ソロパートをとる人間を変えることもあれば、長さが短くなったり長くなったりすることもあるから、毎回違うということになる。
ジェームス・ブラウンはヒット曲で100曲以上、アルバムで80枚近くあり、しかもソウルクラシックさえも歌うからレパートリーの正確な数など誰も知らない。500曲かあるいは1000曲くらいあるのだろうか、その中から、その日のステージで歌われるのはせいぜい20曲から多くて30曲。これでは一回見ただけでは、「君たちは、われわれができることの5パーセントしか見ておらんよ」とミスター・ブラウンが言う通りだ。
初日とは違ってソウル・ジェネラルは、この日はおなじみの「ソウル・パワー」から始めた。いきなり全開だ。白のパンツに青いジャケットがミュージシャンたちのユニフォーム。ダニー・レイは黒のスーツに赤いチーフを胸ポケットにさし、実にかっこいい。伊達男とは彼のような人物のことか。英語では、Dudeだろうか。ダニー・レイの声がいやがおうでも、ガソリンが撒かれた会場に火をつけようとする。
「メイク・イット・ファンキー」でブラウンはスタート。ジェフのサックスが発火材となって炸裂する。続く「ゲッタップ・オファ・ザット・サング」ではリロイのサックスが爆発。一気に、会場は火事場と化した。そして4曲目の「アイ・ガット・フィーリン」でミスター・ブラウンが自ら「サプライズをお送りしよう」と言って、ドン勝本氏をステージにあげた。二人でしばしファンキー・ダンスを披露。
ブラウン・ショウにはいくつもの秘密がある。曲順があらかじめ決まっていないため、ミスター・ブラウンは次の曲のキューをだす。そのキューは時に言葉だったり、指で作る数字のブロックサインだったりする。そして、この日、ひょっとしたらサインのひとつがわかったかもしれない。ブラウンがバンドメンバーに向かって「A!」というと、彼らは「リヴィング・イン・アメリカ」を始めた。「A!」という単語が「リヴィング・イン・アメリカ」へのサインではないだろうかと思ったのだ。前日は、それをおそらくマイクを通さずにステージで直接メンバーに言っていたのかもしれない。
この途中で、銀色のマントが登場、ダニー・レイがそれをブラウンの背中にかけ、ブラウンははらいのける。でも、今日も一回だけ。その後、ビタースイートのメンバーのひとりシンシア・ムーアがアレサの「リスペクト」を歌った。これはなかなかいける。
この日のハイライトは、なんと言っても「スーパーバッド」だろう。このリズム、圧倒的に押し寄せてくるファンクの波は、圧巻だ。めちゃくちゃかっこいい。途中のリロイのサックスもかなりいい。さらに、これに続いて「ホットパンツ」が演奏された。また、この日はほんの少しだったが、「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が歌われ、もう一度マントショウが行われた。
もうひとつ、サインを知っている。ブラウンが「ビッグ・ストロングD」と叫ぶと、「アイ・フィール・グッド」になだれこむ。アップテンポ、ミディアム調、スローと自由自在に様々な曲をちりばめるショウは、まさに飽きることがないエンタテインメント・ショウだ。確かにリズム隊などは70年代初期のバンドのほうが強烈だっただろうが、21世紀の今日、これだけのレヴューを見せてくれるという点で驚嘆と畏敬の念を持たざるを得ない。しめは12分間の「セックス・マシーン」。アンコールは、やはりなかった。同じように観客はアンコールを求めた。会場に放たれた火を消すには長い時間が必要だった。
show starts 19:17
1. Soul Power (Soul General)
2. Make It Funky (以下特記なきものはJames Brown)
3. Get Up Offa That Thang
4. I Got The Feeling (King Of Soul - cameo)
5. Living In America(cape show short version)
6. (Mother Popcorn-Bridge)
Respect (Cynthia Moore)
7. Try Me
8. (What My Mama Say-bridge)(?) Instrumental Jam
9. Try (Tommie Rae Brown)
10. My Lonely Days Are Gone(Tommie Rae Brown)
11. Medley: Come Rain Or Come Shine(Tommie Rae Brown)
You Send Me (James Brown)
Unforgettable (Tommie Rae Brown)
Bewildered (?) (James Brown)
Baby, I Love You (?) (Tommie Rae Brown)
12. I Can’t Turn You Loose (Tommie Rae Brown)
13. Just Say You Come Back To Me (?) (Bittersweet)
14. Super Bad
15. Hot Pants
16. It’s A Man’s Man’s Man’s World
17. Please Please Please (cape show)
18. I Feel Good
19. Sex Machine
end of the show: 20:47
(曲目リストについて訂正情報などお持ちの方がいらっしゃたら、ぜひお知らせください)
【2003年10月03日金曜・日本武道館=ジェームス・ブラウン・ライヴ】
ジェームス・ブラウン・ショウはいつでもサプライズの連続だ。同じショウは二度とない。ミスター・ブラウンのショウには事前に決められた曲目表(セットリスト)がない。すべて、その日、その気分、その場ののりで曲が決まっていく。だから、同じショウはふたつとしてない。同じ曲でさえ、ソロパートをとる人間を変えることもあれば、長さが短くなったり長くなったりすることもあるから、毎回違うということになる。
ジェームス・ブラウンはヒット曲で100曲以上、アルバムで80枚近くあり、しかもソウルクラシックさえも歌うからレパートリーの正確な数など誰も知らない。500曲かあるいは1000曲くらいあるのだろうか、その中から、その日のステージで歌われるのはせいぜい20曲から多くて30曲。これでは一回見ただけでは、「君たちは、われわれができることの5パーセントしか見ておらんよ」とミスター・ブラウンが言う通りだ。
初日とは違ってソウル・ジェネラルは、この日はおなじみの「ソウル・パワー」から始めた。いきなり全開だ。白のパンツに青いジャケットがミュージシャンたちのユニフォーム。ダニー・レイは黒のスーツに赤いチーフを胸ポケットにさし、実にかっこいい。伊達男とは彼のような人物のことか。英語では、Dudeだろうか。ダニー・レイの声がいやがおうでも、ガソリンが撒かれた会場に火をつけようとする。
「メイク・イット・ファンキー」でブラウンはスタート。ジェフのサックスが発火材となって炸裂する。続く「ゲッタップ・オファ・ザット・サング」ではリロイのサックスが爆発。一気に、会場は火事場と化した。そして4曲目の「アイ・ガット・フィーリン」でミスター・ブラウンが自ら「サプライズをお送りしよう」と言って、ドン勝本氏をステージにあげた。二人でしばしファンキー・ダンスを披露。
ブラウン・ショウにはいくつもの秘密がある。曲順があらかじめ決まっていないため、ミスター・ブラウンは次の曲のキューをだす。そのキューは時に言葉だったり、指で作る数字のブロックサインだったりする。そして、この日、ひょっとしたらサインのひとつがわかったかもしれない。ブラウンがバンドメンバーに向かって「A!」というと、彼らは「リヴィング・イン・アメリカ」を始めた。「A!」という単語が「リヴィング・イン・アメリカ」へのサインではないだろうかと思ったのだ。前日は、それをおそらくマイクを通さずにステージで直接メンバーに言っていたのかもしれない。
この途中で、銀色のマントが登場、ダニー・レイがそれをブラウンの背中にかけ、ブラウンははらいのける。でも、今日も一回だけ。その後、ビタースイートのメンバーのひとりシンシア・ムーアがアレサの「リスペクト」を歌った。これはなかなかいける。
この日のハイライトは、なんと言っても「スーパーバッド」だろう。このリズム、圧倒的に押し寄せてくるファンクの波は、圧巻だ。めちゃくちゃかっこいい。途中のリロイのサックスもかなりいい。さらに、これに続いて「ホットパンツ」が演奏された。また、この日はほんの少しだったが、「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が歌われ、もう一度マントショウが行われた。
もうひとつ、サインを知っている。ブラウンが「ビッグ・ストロングD」と叫ぶと、「アイ・フィール・グッド」になだれこむ。アップテンポ、ミディアム調、スローと自由自在に様々な曲をちりばめるショウは、まさに飽きることがないエンタテインメント・ショウだ。確かにリズム隊などは70年代初期のバンドのほうが強烈だっただろうが、21世紀の今日、これだけのレヴューを見せてくれるという点で驚嘆と畏敬の念を持たざるを得ない。しめは12分間の「セックス・マシーン」。アンコールは、やはりなかった。同じように観客はアンコールを求めた。会場に放たれた火を消すには長い時間が必要だった。
show starts 19:17
1. Soul Power (Soul General)
2. Make It Funky (以下特記なきものはJames Brown)
3. Get Up Offa That Thang
4. I Got The Feeling (King Of Soul - cameo)
5. Living In America(cape show short version)
6. (Mother Popcorn-Bridge)
Respect (Cynthia Moore)
7. Try Me
8. (What My Mama Say-bridge)(?) Instrumental Jam
9. Try (Tommie Rae Brown)
10. My Lonely Days Are Gone(Tommie Rae Brown)
11. Medley: Come Rain Or Come Shine(Tommie Rae Brown)
You Send Me (James Brown)
Unforgettable (Tommie Rae Brown)
Bewildered (?) (James Brown)
Baby, I Love You (?) (Tommie Rae Brown)
12. I Can’t Turn You Loose (Tommie Rae Brown)
13. Just Say You Come Back To Me (?) (Bittersweet)
14. Super Bad
15. Hot Pants
16. It’s A Man’s Man’s Man’s World
17. Please Please Please (cape show)
18. I Feel Good
19. Sex Machine
end of the show: 20:47
(曲目リストについて訂正情報などお持ちの方がいらっしゃたら、ぜひお知らせください)
【2003年10月03日金曜・日本武道館=ジェームス・ブラウン・ライヴ】
神様。
1年7ヶ月ぶりのゴッドファーザー・オブ・ソウルのライヴ。前回の国際フォーラムから今回は武道館。19時08分、場内が暗転。バンドが演奏を始める。メンバーは赤のスーツ。しばらくしてMCダニー・レイが白いスーツで登場。なぜかたくさんしゃべって、あおるあおる。およそ5分間ダニー・レイがあおって、御大登場。いきなり「メイク・イット・ファンキー」。以後は、一気呵成も同然。
若干、やせましたか、ミスター・ブラウン。あいかわらず元気に前に後ろに、右に左に。一人で、バックシンガーとともに、ダンサーとともに、シャウトし、踊る。マイクスタンドを客席側に投げ、そのコードで戻す例の得意技を見せる。ジャンプしてのスピリットも。スライドするような足裁きも、昔ほどたくさんはやってくれないが、相変わらず。
この日は「プリーズ・プリーズ・プリーズ」を歌わなかったが、5曲目の「リヴィング・イン・アメリカ」でミニ・マント・ショウを披露。今日はま新しい銀色のマントをダニー・レイがブラウンにかけて、ブラウンは軽くそれを掃っただけで終わった。
タミ−・レイのコーナーでは、ジャニスの「トライ」を歌った後、タミ−に続いてブラウンがサム・クックの「ユー・センド・ミー」を、さらに、今度はタミーが「アンフォーゲッタブル」を歌う。ラヴソングを交互に歌い愛を確かめあう。
フィーチャー・シンガー、ダンサー、専属MC、サックス、トランペット、ギター、バックシンガーなど、ジェームス・ブラウン以外にもたくさんのスポットがあたる、まさにレヴュー中のレヴュー。70歳にして、この徹底したエンタテインメントぶり。
昨日日記で、事前に入手したメンバー表をもとにオンステージは最大17人と書いたのですが、実際最大は20人でした。昨日のメンバー以外の人がさらにいるようです。ベース2人(フレッドではない人が加わっていました)、ギター3人、ドラムス2人、パーカッション1人、コーラス3人、ダンサー2人、ホーン3人、ヴォーカル2人(RJとタミー・レイ)、ダニー・レイ、ジェームス・ブラウン。総計20人です。
1日「ニュースステーション」でサックスを吹いた長髪の白人サックスマンは、ジェフリー・ワトキンス、この日も大活躍。短い髪の毛のギターはキース・ジェンキンス、バンドマスタ−は、ジェームス・ブラウンだが、そのナンバー2の役目はトランペットのホリー・ハリスが担当している、という。
この日で注目は13曲目の「アイル・ゴー・クレイジー」。ブラウンの1960年のヒット曲。う〜〜ん、これは珍しい。おそらくライヴで聴くのは初めてに近いかもしれない。(去年もやってました)
15分続いた「セックス・マシン」でショウが終わり、場内に照明がついたにもかかわらず、アンコールを求める拍手と足踏みが10分以上続いた。皆、相当満足して帰路についたにちがいない。
観客の喧騒が続く中、ドラマーが客席に投げたドラム・スティックを、ゲットした。ラッキー! Papa’s Got A Brand New Stick
しかも、なんとこの後、ホテルでジェームス・ブラウン様とゆっくり話すことができたのだが、その話はまた後日。I ate chicken with James Brown.
セットリストは次の通り。
show starts19.08
1. Instrumental Jam
2. Make It Funky
3. Get Up Offa That Thang
4. Doing It To Death
5. Living In America
6. (Mother Popcorn-bridge) Try Me
7. (Get On The Good Foot-bridge) Instrumental Jam
8. Try (Tommie Rae Brown)
9. Medley: My Lonely Days Are Gone (Tommie)
You Send Me(James Brown)
Unforgettable (Tommie)
(unknown)(James Brown)
Baby I Love You So(Tommie)
10. I Can’t Turn You Loose (Tommie)
11. Get On The Good Foot
12. (Mother Popcorn-bridge) It’s A Man’s Man’s Man’s World
13. I’ll Go Crazy (1960)
14. I Feel Good
15. Sex Machine
end of show 20.47
【2003年10月02日木曜・日本武道館=ジェームス・ブラウン・ライヴ】
1年7ヶ月ぶりのゴッドファーザー・オブ・ソウルのライヴ。前回の国際フォーラムから今回は武道館。19時08分、場内が暗転。バンドが演奏を始める。メンバーは赤のスーツ。しばらくしてMCダニー・レイが白いスーツで登場。なぜかたくさんしゃべって、あおるあおる。およそ5分間ダニー・レイがあおって、御大登場。いきなり「メイク・イット・ファンキー」。以後は、一気呵成も同然。
若干、やせましたか、ミスター・ブラウン。あいかわらず元気に前に後ろに、右に左に。一人で、バックシンガーとともに、ダンサーとともに、シャウトし、踊る。マイクスタンドを客席側に投げ、そのコードで戻す例の得意技を見せる。ジャンプしてのスピリットも。スライドするような足裁きも、昔ほどたくさんはやってくれないが、相変わらず。
この日は「プリーズ・プリーズ・プリーズ」を歌わなかったが、5曲目の「リヴィング・イン・アメリカ」でミニ・マント・ショウを披露。今日はま新しい銀色のマントをダニー・レイがブラウンにかけて、ブラウンは軽くそれを掃っただけで終わった。
タミ−・レイのコーナーでは、ジャニスの「トライ」を歌った後、タミ−に続いてブラウンがサム・クックの「ユー・センド・ミー」を、さらに、今度はタミーが「アンフォーゲッタブル」を歌う。ラヴソングを交互に歌い愛を確かめあう。
フィーチャー・シンガー、ダンサー、専属MC、サックス、トランペット、ギター、バックシンガーなど、ジェームス・ブラウン以外にもたくさんのスポットがあたる、まさにレヴュー中のレヴュー。70歳にして、この徹底したエンタテインメントぶり。
昨日日記で、事前に入手したメンバー表をもとにオンステージは最大17人と書いたのですが、実際最大は20人でした。昨日のメンバー以外の人がさらにいるようです。ベース2人(フレッドではない人が加わっていました)、ギター3人、ドラムス2人、パーカッション1人、コーラス3人、ダンサー2人、ホーン3人、ヴォーカル2人(RJとタミー・レイ)、ダニー・レイ、ジェームス・ブラウン。総計20人です。
1日「ニュースステーション」でサックスを吹いた長髪の白人サックスマンは、ジェフリー・ワトキンス、この日も大活躍。短い髪の毛のギターはキース・ジェンキンス、バンドマスタ−は、ジェームス・ブラウンだが、そのナンバー2の役目はトランペットのホリー・ハリスが担当している、という。
この日で注目は13曲目の「アイル・ゴー・クレイジー」。ブラウンの1960年のヒット曲。う〜〜ん、これは珍しい。おそらくライヴで聴くのは初めてに近いかもしれない。(去年もやってました)
15分続いた「セックス・マシン」でショウが終わり、場内に照明がついたにもかかわらず、アンコールを求める拍手と足踏みが10分以上続いた。皆、相当満足して帰路についたにちがいない。
観客の喧騒が続く中、ドラマーが客席に投げたドラム・スティックを、ゲットした。ラッキー! Papa’s Got A Brand New Stick
しかも、なんとこの後、ホテルでジェームス・ブラウン様とゆっくり話すことができたのだが、その話はまた後日。I ate chicken with James Brown.
セットリストは次の通り。
show starts19.08
1. Instrumental Jam
2. Make It Funky
3. Get Up Offa That Thang
4. Doing It To Death
5. Living In America
6. (Mother Popcorn-bridge) Try Me
7. (Get On The Good Foot-bridge) Instrumental Jam
8. Try (Tommie Rae Brown)
9. Medley: My Lonely Days Are Gone (Tommie)
You Send Me(James Brown)
Unforgettable (Tommie)
(unknown)(James Brown)
Baby I Love You So(Tommie)
10. I Can’t Turn You Loose (Tommie)
11. Get On The Good Foot
12. (Mother Popcorn-bridge) It’s A Man’s Man’s Man’s World
13. I’ll Go Crazy (1960)
14. I Feel Good
15. Sex Machine
end of show 20.47
【2003年10月02日木曜・日本武道館=ジェームス・ブラウン・ライヴ】
生放送。
なんと、ついにジェームス・ブラウンがテレビ生出演。昨日(1日=水曜)、テレビ朝日の『ニュース・ステーション』に登場、フルバンドで「セックス・マシン」を歌った。日本でテレビの生番組に出演するのは初めて。
司会久米宏とのやりとりが若干あって、ブラウンのライヴが始まりました。カメラワークがライヴにおいついていかない。アップを映すあまり、ブラウンの足元が映らない。肝心の激しいサイドステップのところなど、画面に映らない。足元を見せてくれ。っていうか、ブラウンの全身を真正面から映してくれ。
カメラが移動するときに、前のカメラが映ってしまったり、まあ、リハをする時間もなかったのかもしれませんが、けっこうバタバタの絵でしたね。それはまあ、よしとしましょう。生放送に免じて、許してしまいましょう。
ところで、10月2日、3日などの告知とか出てたっけ。途中にブラウンのキーボード演奏、サックスソロ。バックでは酔っ払っているのではないかと見えてしまうフレッド・トーマス、そして、ダニー・レイがマントを持って体を揺らしています。バックコーラスには元奥さんトミーさん。曲が終わってしっかりダニーがマントをかけました。テレビ用のショートヴァージョンの演出があるんですね。さすが。
さて、今回の来日メンバーがわかりましたので、ご紹介しておきます。
ジェームス・ブラウン(アーティスト)
エリック・ハーグローヴ(ドラムス)
ロバート・トンプソン(パーカッション/ドラムス)
キース・ジェンキンス(ギター)
デイモン・ウッド(ギター)
ダリル・ブラウン(ギター)
フレッド・トーマス(ベース)
リロイ・ハーパー(サックス)
ホリー・ファリス(トランペット)
ジェフリー・ワトキンス(サックス)
トミー・ブラウン(シンガー)
ルーズヴェルト・ジョンソン(シンガー)
シンシア・ムーア(ヴォーカル)
シーラ・ウィート(ヴォーカル)
ケリー・ジャレル(バックグラウンド・ヴォーカル)
サラ・レイヤ(ダンサー)
ダニー・レイ(MC)
オンステージは最大17人ということになります。いよいよブラウン・ウィークです。
なんと、ついにジェームス・ブラウンがテレビ生出演。昨日(1日=水曜)、テレビ朝日の『ニュース・ステーション』に登場、フルバンドで「セックス・マシン」を歌った。日本でテレビの生番組に出演するのは初めて。
司会久米宏とのやりとりが若干あって、ブラウンのライヴが始まりました。カメラワークがライヴにおいついていかない。アップを映すあまり、ブラウンの足元が映らない。肝心の激しいサイドステップのところなど、画面に映らない。足元を見せてくれ。っていうか、ブラウンの全身を真正面から映してくれ。
カメラが移動するときに、前のカメラが映ってしまったり、まあ、リハをする時間もなかったのかもしれませんが、けっこうバタバタの絵でしたね。それはまあ、よしとしましょう。生放送に免じて、許してしまいましょう。
ところで、10月2日、3日などの告知とか出てたっけ。途中にブラウンのキーボード演奏、サックスソロ。バックでは酔っ払っているのではないかと見えてしまうフレッド・トーマス、そして、ダニー・レイがマントを持って体を揺らしています。バックコーラスには元奥さんトミーさん。曲が終わってしっかりダニーがマントをかけました。テレビ用のショートヴァージョンの演出があるんですね。さすが。
さて、今回の来日メンバーがわかりましたので、ご紹介しておきます。
ジェームス・ブラウン(アーティスト)
エリック・ハーグローヴ(ドラムス)
ロバート・トンプソン(パーカッション/ドラムス)
キース・ジェンキンス(ギター)
デイモン・ウッド(ギター)
ダリル・ブラウン(ギター)
フレッド・トーマス(ベース)
リロイ・ハーパー(サックス)
ホリー・ファリス(トランペット)
ジェフリー・ワトキンス(サックス)
トミー・ブラウン(シンガー)
ルーズヴェルト・ジョンソン(シンガー)
シンシア・ムーア(ヴォーカル)
シーラ・ウィート(ヴォーカル)
ケリー・ジャレル(バックグラウンド・ヴォーカル)
サラ・レイヤ(ダンサー)
ダニー・レイ(MC)
オンステージは最大17人ということになります。いよいよブラウン・ウィークです。
僕(しもべ)。
「私はあなたの僕(しもべ)です」 客席全員との握手を約7分かけてやり終えたピーボはステージに上がってマイクを握るなり、こう言った。前々回のブルーノートのライヴ以来、ピーボは毎回ショウが始まると、客席全部を回り、そこに来ている人全員と握手をしてから歌いはじめる。なかなかできるものではない。お客様は神様です、を地で行くミスター・ジェントルマン。
いくつか初めて聴く新曲も含めてちょうど1時間20分。いつも思うことは、なんと声の美しいことか、ということ。一体この声のメインテナンスはどのようにしているのだろうか。本当に安定した発声、そして、完璧なディクション(発音)。簡単そうに歌い、しかしきっちり歌う。一流の野球選手が簡単そうにヒットやホームランを打つのと同じだ。歌のすべての基礎をしっかり身につけて歌うその姿は歌手の理想だ。
このところは、カヴァー曲の歌唱が目立つ。スティングの「イフ・ユー・ラヴ・サムワン」、アル・ジャロウの「アフター・オール」、「ブルーノートはジャズクラブなので、最低一曲はジャズをやってみたい、僕はジャズが好きだからね。ダイアナ・クロールのヴァージョンが気に入ってるんだ。そのダイアナのヴァージョンで歌ってみたい」と解説してちょっとジャジーに歌いだしたビリー・ジョエルの「ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー」。う〜〜む、バリー・ホワイト・ヴァージョンで歌ってもらうのも聴きたいが。このほかに、「ショウ・アンド・テル」(オリジナルはアル・ウィルソン)、「エイント・ノーバーディー」(ルーファス)などもカヴァー曲だ。
「ホール・ニュー・ワールド」を歌った女性シンガー、キム・ケイジ・ラリーも実にいい声。「ルックス・ライク・ラヴ・トゥ・ミー」を一緒に歌ったもう一人の女性シンガー、クリスティー・ウィリアムスもいい感じだ。さすがデュエットキング。いいパートナーを見つけてくる。ピーボはデュエットパートナーの僕でもあります。
「『テイク・ノー・プリズナー』のアルバムを録音するとき、あのすばらしいソングライター・チーム、バリー・マンとシンシア・ワイルが僕のために一曲書いてくれました。僕にとっては特別な曲なので、あんまりめったに歌いません。でも今日は、みなさんが僕にとって特別なので、歌います。これは悲しい歌です。痛みとは何かを教えてくれる歌なんです」という説明の後に歌われたのが「シーズ・オーヴァー・ミー」という曲だった。いい曲だ。
歌の途中でもどんどん観客席に降りてきて、ハグをしながら歌ったり、握手をしたり、これ以上サーヴィスはありえないというほどのサーヴィスぶり。アンコールの前の曲「アイ・ニード・トゥ・ノウ」ではお約束の赤い薔薇のプレゼント。手渡したり、投げたり・・・。ピーボはお客様の僕です。
(2003年9月30日火曜ブルーノート東京・セカンド=ピーボ・ブライソン・ライヴ)
(10月4日土曜までブルーノート東京)
「私はあなたの僕(しもべ)です」 客席全員との握手を約7分かけてやり終えたピーボはステージに上がってマイクを握るなり、こう言った。前々回のブルーノートのライヴ以来、ピーボは毎回ショウが始まると、客席全部を回り、そこに来ている人全員と握手をしてから歌いはじめる。なかなかできるものではない。お客様は神様です、を地で行くミスター・ジェントルマン。
いくつか初めて聴く新曲も含めてちょうど1時間20分。いつも思うことは、なんと声の美しいことか、ということ。一体この声のメインテナンスはどのようにしているのだろうか。本当に安定した発声、そして、完璧なディクション(発音)。簡単そうに歌い、しかしきっちり歌う。一流の野球選手が簡単そうにヒットやホームランを打つのと同じだ。歌のすべての基礎をしっかり身につけて歌うその姿は歌手の理想だ。
このところは、カヴァー曲の歌唱が目立つ。スティングの「イフ・ユー・ラヴ・サムワン」、アル・ジャロウの「アフター・オール」、「ブルーノートはジャズクラブなので、最低一曲はジャズをやってみたい、僕はジャズが好きだからね。ダイアナ・クロールのヴァージョンが気に入ってるんだ。そのダイアナのヴァージョンで歌ってみたい」と解説してちょっとジャジーに歌いだしたビリー・ジョエルの「ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー」。う〜〜む、バリー・ホワイト・ヴァージョンで歌ってもらうのも聴きたいが。このほかに、「ショウ・アンド・テル」(オリジナルはアル・ウィルソン)、「エイント・ノーバーディー」(ルーファス)などもカヴァー曲だ。
「ホール・ニュー・ワールド」を歌った女性シンガー、キム・ケイジ・ラリーも実にいい声。「ルックス・ライク・ラヴ・トゥ・ミー」を一緒に歌ったもう一人の女性シンガー、クリスティー・ウィリアムスもいい感じだ。さすがデュエットキング。いいパートナーを見つけてくる。ピーボはデュエットパートナーの僕でもあります。
「『テイク・ノー・プリズナー』のアルバムを録音するとき、あのすばらしいソングライター・チーム、バリー・マンとシンシア・ワイルが僕のために一曲書いてくれました。僕にとっては特別な曲なので、あんまりめったに歌いません。でも今日は、みなさんが僕にとって特別なので、歌います。これは悲しい歌です。痛みとは何かを教えてくれる歌なんです」という説明の後に歌われたのが「シーズ・オーヴァー・ミー」という曲だった。いい曲だ。
歌の途中でもどんどん観客席に降りてきて、ハグをしながら歌ったり、握手をしたり、これ以上サーヴィスはありえないというほどのサーヴィスぶり。アンコールの前の曲「アイ・ニード・トゥ・ノウ」ではお約束の赤い薔薇のプレゼント。手渡したり、投げたり・・・。ピーボはお客様の僕です。
(2003年9月30日火曜ブルーノート東京・セカンド=ピーボ・ブライソン・ライヴ)
(10月4日土曜までブルーノート東京)
誕生日。
われらがニック岡井の誕生日会・イヴェントが渋谷で行われました。かけつけました。東急ハンズ前のビルの7階。初めて来た店です。しかし、この店に入った瞬間もうダンステリア状態になってました。すごいわ。(笑)
「ニック岡井のニックというニックネームは、誕生日9月29日の29日(ニック)からきている」
はい、へ〜〜ボタン押してください。いくつくらいあがるんだろ。
毎度おなじみのダンステリア選曲、そして、それにリンクしたステップの数々。近くにいたBボーイがきしくも言いました。「いやあ、ニックさんかっこいいでしょう。50を超えてもこうやってみんな仲間が集まって、好きな音楽かけて、聴いて、踊って、酒飲んで、楽しい時間過ごせて、サイコーっすよ。オレもああいう大人になりたいっす」
この会の主催者はTシャツを作るのを専門としているところ。というわけで、ニックのTシャツをみんな着てました。ニック・56って書いてあるんですよ。ニクは18だろ、って言いたいんですが、56は、ニックの今年の御年。ということは昭和22年生まれですか。・・・イノシシ年です。
それからニューヨーク・ヤンキースのロゴNYをもじったデザインのNICKのロゴ入りTシャツもシンプルでなかなかのもんです。
そして夜中2時過ぎには中目黒の餃子専門店りんりん軒から大量の餃子の差し入れ搬入。踊り疲れた体に、餃子はひときわおいしゅうございました。(踊ってないだろ、おまえ、ってつっこみがきそう)
(2003年9月29日渋谷ロックウェスト=ニック岡井・誕生日イヴェント)
われらがニック岡井の誕生日会・イヴェントが渋谷で行われました。かけつけました。東急ハンズ前のビルの7階。初めて来た店です。しかし、この店に入った瞬間もうダンステリア状態になってました。すごいわ。(笑)
「ニック岡井のニックというニックネームは、誕生日9月29日の29日(ニック)からきている」
はい、へ〜〜ボタン押してください。いくつくらいあがるんだろ。
毎度おなじみのダンステリア選曲、そして、それにリンクしたステップの数々。近くにいたBボーイがきしくも言いました。「いやあ、ニックさんかっこいいでしょう。50を超えてもこうやってみんな仲間が集まって、好きな音楽かけて、聴いて、踊って、酒飲んで、楽しい時間過ごせて、サイコーっすよ。オレもああいう大人になりたいっす」
この会の主催者はTシャツを作るのを専門としているところ。というわけで、ニックのTシャツをみんな着てました。ニック・56って書いてあるんですよ。ニクは18だろ、って言いたいんですが、56は、ニックの今年の御年。ということは昭和22年生まれですか。・・・イノシシ年です。
それからニューヨーク・ヤンキースのロゴNYをもじったデザインのNICKのロゴ入りTシャツもシンプルでなかなかのもんです。
そして夜中2時過ぎには中目黒の餃子専門店りんりん軒から大量の餃子の差し入れ搬入。踊り疲れた体に、餃子はひときわおいしゅうございました。(踊ってないだろ、おまえ、ってつっこみがきそう)
(2003年9月29日渋谷ロックウェスト=ニック岡井・誕生日イヴェント)
野心。
3歳の時にすでにマライア・キャリーの「ヴィジョン・オブ・ラヴ」を歌っていた。しかも英語で。4歳の時、マイケル・ジャクソンのステージに上げられ、だっこされた。お母さんの記憶によると91〜92年頃の12月30日だという。マイケルの本『マイケル・ジャクソン観察日誌』をチェックすると、それは92年12月30日ですね。マイケル、ドームでやっています。彼女の初ステージはマイケル・ジャクソンとの共演@東京ドーム! このときは東京ドームのみの日本公演で全8回。マイケルはたしかこの年も全部見てるはずなので、ということは、僕はその姿を目撃しているわけだ。witness.
約11年前、東京ドームのマイケルのステージで見た、マイケルにだっこされた当時4歳の女の子が、11年たってFM局のスタジオでインタヴューに答えている・・・。すごいなあ。これだけで。そう日曜のゲストは、そんなエミリー。88年4月23日東京生まれの現在15歳。awesome.
昼過ぎケイ・グラントさんのT−FMの番組を聴いていたら、なんと彼女がケイさんの最後のゲスト、ということでびっくり。じっくり聴かせていただきました。(笑) ケイさん、お疲れ様です。しばらく休養されてまたラジオぜひ復活してください。brilliant voice.
僕が最初にアルバムを通して聴いてみてびっくりしたのが、「ホエンエヴァー・ユー・コール・マイ・ネーム」ですね。アリシア・キーズか、これ。ってくらい驚きました。しかも15歳。これが45歳の歌手だったら驚かないと思うのです。へ〜〜、って感じで。そして、改めてアルバムをじっくり聴くと、いい曲が目白押しなんですね。そこでソングライターのクレジットを見るとkusunokiと書いてあって、誰だろうと思い調べたら・・・。
楠木勇有行さんといって、ビクター・アオシス・レーベルから2枚もアルバムをリリースしているということがわかり、しかもそのアルバムにはマーヴィンの「アフター・ザ・ダンス」やら「ドンチュー・ウォーリー・アバウト・ア・シング」やら「バック・スタバーズ」がカヴァーされているではありませんか。ご本人によれば、昔はアイドルとしてシングルも出していた、とか。その後多数のCM曲を歌い、しかも、なんとジェームス・ブラウンの「ミソンパ」の歌唱指導もした、という経歴が発覚。世界広しと言えども、あのミスター・ブラウンに歌唱指導した人なんて後にも先にもいないでしょう。しかも20年以上前から日本人でダニー・ハザウェイ張りに歌うと東京のバンドシーンで言われていたという人物。(BBS情報) Truly R&B connect.
エミリーのプロフィールにはダニー・ハザウェイ、アリシア・キーズ、クリスティーナ・アギレラが好きなアーティストとあります。ダニー・ハザウェイって、生まれる前の話でしょう、それ。(笑) すごい一家に生まれたものです。
ちなみに、みなさん純粋の日本生まれの日本人の一家で、エミリーはアメリカに住んだことはありません。これも驚愕。ただ学校がインターナショナルスクールなので、英語はネイティヴになっていったのでしょう。教会というのは国内にあるアメリカの教会ということかな。what a family.
やはり何がすごいかというと、歌いまわしでしょうね。どこで覚えた、こんな歌い方、って感じでしょうか。そして、曲が日本人好みのメロディーで襲ってくる。しかも、マライア、アリシア、メアリーJ風の要素もある。
僕が最初新人アーティストを見るときに、判断する基準に「これから10年、そのアーティストとつきあっていくか。10年後に聴いているか」というのがあります。ホイットニーなんかあのデビューアルバム聴いて、10年は絶対いけるって確信しましたね。マライアもそうかな、あるいは古いですがドナ・サマーのファースト、マイケルの『オフ・ザ・ウォール』(これは、デビューとは言えませんが)などもそうでした。『オフ・ザ・ウォール』を聴いて、これから10年この彼はどうなっていくのだろうか、っていう感じでした。
でもファーストで必ずしも衝撃をうけるということでもありません。例えば、プリンスはそういう確信を持ったのは4枚目の『コントラヴァーシー』でした。1枚目、2枚目はOK、3枚目はなんだこれ、ていう感じで、4枚目でがつ〜んっていう。ジャネットはやはり3枚目の『コントロール』かな。そこから、10年行ける、と。正直最初の2枚のアルバムのときは、このまま消えるかと思った。メアリーJはファーストはすごいアルバムだと思ったんですが、正直10年後についてはわからなかった。途中でふっきれましたね、彼女は。で、見事にサヴァイヴァルしています。ここ2作は特にアーティストとしてすばらしい。テイク6もファーストおよび初めて見たライヴでやられた。10年アーティストだと確信した。それからもう15年ですか。conviction.
そうした判断をする材料が、1に作品(LP、今はCD)、2にライヴ、3に会ってみての本人の雰囲気なんですね。この3つをクリアすれば10年行けると思うわけです。エミリーは、10年行けます。他のシンガーとの比較というのは僕はあまり好きではないのですが、わかりやすく説明するためにあえて言うなら、例えば、今年会ってライヴも見たニヴェアあたりは、10年後には聴いてないと思うんですよ。もちろんアルバムが1−2枚ひょっとしたら売れるかもしれませんが。
日本では、ミーシャ、宇多田ヒカル、クリスタル・ケイといったアーティストたちがこうした路線の地盤を築いています。それは、現時点で彼女にとってプラスでもありマイナスでもあります。プラスはもちろんそういうタイプの音楽を聴く人が圧倒的に多いということ、パイは大きいということ。マイナス点はそうしたアーティストのフォロワーだと一見思われてしまう危険性があるということ。だからそのマイナス点をできるだけ排除するようにしていくのがいいのでしょう。でも、大丈夫です、基本的には作品力で走れると思います。最初のブレイクまで時間がかかるかもしれないですが、はやいところオリコンの1位でもとってください。
オンエアでジャム&ルイスに会ったときの話をした後、他に誰かプロデュースして欲しい人はいますか、との問いに、「LAリードとか、クライヴ・デイヴィス」と答えられたのにはまたまた腰抜かしました。(笑) クライヴ・デイヴィスは、古くはスライ・ストーン、ジャニス・ジョプリン、バリー・マニロウ、ホイットニー・ヒューストン、サンタナ、モニカなどなど多数のアーティストをスターにしてきた人です。レーベル的には同じだから会えるチャンスもありますね。そして「東京ドームでライヴをやりたい!」との希望。
彼女のエンタテイナーとしての第一歩はドームから始まっているのだから、ドームに出たときは、人生の第一周目がちょうど一回転したことになります。すばらし。
そうそう、一緒に来ていた6歳年下の妹も「歌、うまいんですよ」とのこと。お母さんによると「エミリーより、もっと太い声でアレサフランクリンとか歌ってる」そうです。まだ9歳・・・。恐るべし。時代は間違いなく変革している。A Change Is Gonna Come.
それにしても、みんな、僕がエミリーのことを気に入っているのが可愛い女の子だからだと思っているのが、困ったもんだねえ。(笑) 才能だよ、才能。
3歳の時にすでにマライア・キャリーの「ヴィジョン・オブ・ラヴ」を歌っていた。しかも英語で。4歳の時、マイケル・ジャクソンのステージに上げられ、だっこされた。お母さんの記憶によると91〜92年頃の12月30日だという。マイケルの本『マイケル・ジャクソン観察日誌』をチェックすると、それは92年12月30日ですね。マイケル、ドームでやっています。彼女の初ステージはマイケル・ジャクソンとの共演@東京ドーム! このときは東京ドームのみの日本公演で全8回。マイケルはたしかこの年も全部見てるはずなので、ということは、僕はその姿を目撃しているわけだ。witness.
約11年前、東京ドームのマイケルのステージで見た、マイケルにだっこされた当時4歳の女の子が、11年たってFM局のスタジオでインタヴューに答えている・・・。すごいなあ。これだけで。そう日曜のゲストは、そんなエミリー。88年4月23日東京生まれの現在15歳。awesome.
昼過ぎケイ・グラントさんのT−FMの番組を聴いていたら、なんと彼女がケイさんの最後のゲスト、ということでびっくり。じっくり聴かせていただきました。(笑) ケイさん、お疲れ様です。しばらく休養されてまたラジオぜひ復活してください。brilliant voice.
僕が最初にアルバムを通して聴いてみてびっくりしたのが、「ホエンエヴァー・ユー・コール・マイ・ネーム」ですね。アリシア・キーズか、これ。ってくらい驚きました。しかも15歳。これが45歳の歌手だったら驚かないと思うのです。へ〜〜、って感じで。そして、改めてアルバムをじっくり聴くと、いい曲が目白押しなんですね。そこでソングライターのクレジットを見るとkusunokiと書いてあって、誰だろうと思い調べたら・・・。
楠木勇有行さんといって、ビクター・アオシス・レーベルから2枚もアルバムをリリースしているということがわかり、しかもそのアルバムにはマーヴィンの「アフター・ザ・ダンス」やら「ドンチュー・ウォーリー・アバウト・ア・シング」やら「バック・スタバーズ」がカヴァーされているではありませんか。ご本人によれば、昔はアイドルとしてシングルも出していた、とか。その後多数のCM曲を歌い、しかも、なんとジェームス・ブラウンの「ミソンパ」の歌唱指導もした、という経歴が発覚。世界広しと言えども、あのミスター・ブラウンに歌唱指導した人なんて後にも先にもいないでしょう。しかも20年以上前から日本人でダニー・ハザウェイ張りに歌うと東京のバンドシーンで言われていたという人物。(BBS情報) Truly R&B connect.
エミリーのプロフィールにはダニー・ハザウェイ、アリシア・キーズ、クリスティーナ・アギレラが好きなアーティストとあります。ダニー・ハザウェイって、生まれる前の話でしょう、それ。(笑) すごい一家に生まれたものです。
ちなみに、みなさん純粋の日本生まれの日本人の一家で、エミリーはアメリカに住んだことはありません。これも驚愕。ただ学校がインターナショナルスクールなので、英語はネイティヴになっていったのでしょう。教会というのは国内にあるアメリカの教会ということかな。what a family.
やはり何がすごいかというと、歌いまわしでしょうね。どこで覚えた、こんな歌い方、って感じでしょうか。そして、曲が日本人好みのメロディーで襲ってくる。しかも、マライア、アリシア、メアリーJ風の要素もある。
僕が最初新人アーティストを見るときに、判断する基準に「これから10年、そのアーティストとつきあっていくか。10年後に聴いているか」というのがあります。ホイットニーなんかあのデビューアルバム聴いて、10年は絶対いけるって確信しましたね。マライアもそうかな、あるいは古いですがドナ・サマーのファースト、マイケルの『オフ・ザ・ウォール』(これは、デビューとは言えませんが)などもそうでした。『オフ・ザ・ウォール』を聴いて、これから10年この彼はどうなっていくのだろうか、っていう感じでした。
でもファーストで必ずしも衝撃をうけるということでもありません。例えば、プリンスはそういう確信を持ったのは4枚目の『コントラヴァーシー』でした。1枚目、2枚目はOK、3枚目はなんだこれ、ていう感じで、4枚目でがつ〜んっていう。ジャネットはやはり3枚目の『コントロール』かな。そこから、10年行ける、と。正直最初の2枚のアルバムのときは、このまま消えるかと思った。メアリーJはファーストはすごいアルバムだと思ったんですが、正直10年後についてはわからなかった。途中でふっきれましたね、彼女は。で、見事にサヴァイヴァルしています。ここ2作は特にアーティストとしてすばらしい。テイク6もファーストおよび初めて見たライヴでやられた。10年アーティストだと確信した。それからもう15年ですか。conviction.
そうした判断をする材料が、1に作品(LP、今はCD)、2にライヴ、3に会ってみての本人の雰囲気なんですね。この3つをクリアすれば10年行けると思うわけです。エミリーは、10年行けます。他のシンガーとの比較というのは僕はあまり好きではないのですが、わかりやすく説明するためにあえて言うなら、例えば、今年会ってライヴも見たニヴェアあたりは、10年後には聴いてないと思うんですよ。もちろんアルバムが1−2枚ひょっとしたら売れるかもしれませんが。
日本では、ミーシャ、宇多田ヒカル、クリスタル・ケイといったアーティストたちがこうした路線の地盤を築いています。それは、現時点で彼女にとってプラスでもありマイナスでもあります。プラスはもちろんそういうタイプの音楽を聴く人が圧倒的に多いということ、パイは大きいということ。マイナス点はそうしたアーティストのフォロワーだと一見思われてしまう危険性があるということ。だからそのマイナス点をできるだけ排除するようにしていくのがいいのでしょう。でも、大丈夫です、基本的には作品力で走れると思います。最初のブレイクまで時間がかかるかもしれないですが、はやいところオリコンの1位でもとってください。
オンエアでジャム&ルイスに会ったときの話をした後、他に誰かプロデュースして欲しい人はいますか、との問いに、「LAリードとか、クライヴ・デイヴィス」と答えられたのにはまたまた腰抜かしました。(笑) クライヴ・デイヴィスは、古くはスライ・ストーン、ジャニス・ジョプリン、バリー・マニロウ、ホイットニー・ヒューストン、サンタナ、モニカなどなど多数のアーティストをスターにしてきた人です。レーベル的には同じだから会えるチャンスもありますね。そして「東京ドームでライヴをやりたい!」との希望。
彼女のエンタテイナーとしての第一歩はドームから始まっているのだから、ドームに出たときは、人生の第一周目がちょうど一回転したことになります。すばらし。
そうそう、一緒に来ていた6歳年下の妹も「歌、うまいんですよ」とのこと。お母さんによると「エミリーより、もっと太い声でアレサフランクリンとか歌ってる」そうです。まだ9歳・・・。恐るべし。時代は間違いなく変革している。A Change Is Gonna Come.
それにしても、みんな、僕がエミリーのことを気に入っているのが可愛い女の子だからだと思っているのが、困ったもんだねえ。(笑) 才能だよ、才能。
ドキュメンタリー。
鬼才マーティン・スコセシーが音頭を取り、ブルース音楽の魅力を探るテレビ用ドキュメンタリー映画がアメリカで28日夜から7夜連続で、PBS系列から放送される。タイトルは『ザ・ブルーズ』で、7人の監督がそれぞれのコンセプトでアメリカ文化の中におけるブルーズについて、ドキュメンタリーを制作した。全体の統括監督がスコセシー。
7本の映画のタイトルと監督は次の通り。
『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』(マーティン・スコセシー監督)
『ザ・ソウル・オブ・ア・マン』(ヴィム・ヴェンダーズ監督)
『ザ・ロード・トゥ・メンフィス』(リチャード・ピアース監督)
『ウォ−ミング・バイ・ザ・デヴィルズ・ファイアー』(チャールズ・バーネット監督)
『ザ・ゴッドファーザーズ・アンド・ソンズ』(マーク・レヴィン監督)
『レッド・ホワイト&ブルーズ』(マイク・フィギス監督)
『ピアノ・ブルーズ』(クリントン・イーストウッド監督)
7人の監督はそれぞれの切り口でブルーズを自由に描くが、ひとつだけ統一したテーマがある。それは、偏狭的な民族音楽のひとつであったブルーズがいかにしてユニヴァーサルな言葉になったか、という点だ。
詳細は次のホームページ。
http://www.pbs.org/theblues/
どれもタイトルだけでそそられるが、やはり、7本目のクリント・イーストウッドの作品は面白そうだ。イーストウッドはこれまでに、『プレイ・ミスティー・フォー・ミー』『バード』など音楽を扱った作品も多く、特に熱心なジャズファンとして知られ、多くの音楽を効果的に使っている。その彼が直接音楽ドキュメンタリーを撮ったのだから興味深い。
「ブルーズはいつも僕の人生の一部だった。そして、ピアノもまたいつも僕の人生の中にあった。なにしろ、母がファッツ・ウォーラー(ジャズの有名なピアニスト)のレコードを家に持ってきて以来のことだからね」とイーストウッドは言う。
一方ヴィム・ヴェンダースは、「そうした音楽には、僕が今まで読んだ本や、見た映画で知った以上の真実が絶対にあるはずだ。自分が感動した音楽をドキュメントするのではなく、詩を描くように描いてみたい」と語っている。
鬼才マーティン・スコセシーが音頭を取り、ブルース音楽の魅力を探るテレビ用ドキュメンタリー映画がアメリカで28日夜から7夜連続で、PBS系列から放送される。タイトルは『ザ・ブルーズ』で、7人の監督がそれぞれのコンセプトでアメリカ文化の中におけるブルーズについて、ドキュメンタリーを制作した。全体の統括監督がスコセシー。
7本の映画のタイトルと監督は次の通り。
『フィール・ライク・ゴーイング・ホーム』(マーティン・スコセシー監督)
『ザ・ソウル・オブ・ア・マン』(ヴィム・ヴェンダーズ監督)
『ザ・ロード・トゥ・メンフィス』(リチャード・ピアース監督)
『ウォ−ミング・バイ・ザ・デヴィルズ・ファイアー』(チャールズ・バーネット監督)
『ザ・ゴッドファーザーズ・アンド・ソンズ』(マーク・レヴィン監督)
『レッド・ホワイト&ブルーズ』(マイク・フィギス監督)
『ピアノ・ブルーズ』(クリントン・イーストウッド監督)
7人の監督はそれぞれの切り口でブルーズを自由に描くが、ひとつだけ統一したテーマがある。それは、偏狭的な民族音楽のひとつであったブルーズがいかにしてユニヴァーサルな言葉になったか、という点だ。
詳細は次のホームページ。
http://www.pbs.org/theblues/
どれもタイトルだけでそそられるが、やはり、7本目のクリント・イーストウッドの作品は面白そうだ。イーストウッドはこれまでに、『プレイ・ミスティー・フォー・ミー』『バード』など音楽を扱った作品も多く、特に熱心なジャズファンとして知られ、多くの音楽を効果的に使っている。その彼が直接音楽ドキュメンタリーを撮ったのだから興味深い。
「ブルーズはいつも僕の人生の一部だった。そして、ピアノもまたいつも僕の人生の中にあった。なにしろ、母がファッツ・ウォーラー(ジャズの有名なピアニスト)のレコードを家に持ってきて以来のことだからね」とイーストウッドは言う。
一方ヴィム・ヴェンダースは、「そうした音楽には、僕が今まで読んだ本や、見た映画で知った以上の真実が絶対にあるはずだ。自分が感動した音楽をドキュメントするのではなく、詩を描くように描いてみたい」と語っている。
Robert Palmer Died At 54
2003年9月28日ロバート・パーマー急死
ロバート・パーマーが9月26日、パリで心臓発作のため急死した。54歳だった。パーマーはイギリスでのテレビ・ドキュメンタリー収録後、2日間ほどパリで休養していたところだった。パーマーは過去16年ほど、スイスに住んでいた。
パーマーは、1949年 1月19日イギリス・バトレー生まれ。地中海のマルタ島で育った。十代の頃、リズム&ブルースに傾注。いくつかのバンドを結成したあと、76年「マン・スマート、ウーマン・スマーター」が初ヒット。その後小ヒットを出し、86年「アディクテッド・トゥ・ラヴ」が全米ナンバーワンになり、世界的人気となった。また、非常におしゃれな伊達男というイメージでも知られていた。85年には、デュラン・デュランのジョン・テイラー、アンディー・テイラーとともにパワーステーションというユニットを結成、「サム・ライク・イット・ホット」「ゲット・イット・オン」などのヒットを放った。
++++++
ソウル。
ロバート・パーマーは白人ながら、ソウルの名曲をうまくカヴァーしていた。システムのヒット「ユー・アー・イン・マイ・システム」、シェレールのヒット「アイ・ディドント・ミーン・トゥ・ターン・ユー・オン」、ジャメイン・ジャクソンの「テル・ミー・アイム・ノット・ドリーミン」、マーヴィン・ゲイの「マーシー・マーシー・ミー」などなど。そうした選曲からも、かなりソウル好きだったことがうかがえる。
パーマーの「アディクテッド・・・」のヴィデオは、美女のバンドがパーマーのバックをつけていた。その人気もあってか、この曲は全米ナンバーワンに。GQ誌を飾るほどのおしゃれぶりは、ミュージシャンの中でもベストドレッサーと言われていた。
ご冥福をお祈りする。
ロバート・パーマーが9月26日、パリで心臓発作のため急死した。54歳だった。パーマーはイギリスでのテレビ・ドキュメンタリー収録後、2日間ほどパリで休養していたところだった。パーマーは過去16年ほど、スイスに住んでいた。
パーマーは、1949年 1月19日イギリス・バトレー生まれ。地中海のマルタ島で育った。十代の頃、リズム&ブルースに傾注。いくつかのバンドを結成したあと、76年「マン・スマート、ウーマン・スマーター」が初ヒット。その後小ヒットを出し、86年「アディクテッド・トゥ・ラヴ」が全米ナンバーワンになり、世界的人気となった。また、非常におしゃれな伊達男というイメージでも知られていた。85年には、デュラン・デュランのジョン・テイラー、アンディー・テイラーとともにパワーステーションというユニットを結成、「サム・ライク・イット・ホット」「ゲット・イット・オン」などのヒットを放った。
++++++
ソウル。
ロバート・パーマーは白人ながら、ソウルの名曲をうまくカヴァーしていた。システムのヒット「ユー・アー・イン・マイ・システム」、シェレールのヒット「アイ・ディドント・ミーン・トゥ・ターン・ユー・オン」、ジャメイン・ジャクソンの「テル・ミー・アイム・ノット・ドリーミン」、マーヴィン・ゲイの「マーシー・マーシー・ミー」などなど。そうした選曲からも、かなりソウル好きだったことがうかがえる。
パーマーの「アディクテッド・・・」のヴィデオは、美女のバンドがパーマーのバックをつけていた。その人気もあってか、この曲は全米ナンバーワンに。GQ誌を飾るほどのおしゃれぶりは、ミュージシャンの中でもベストドレッサーと言われていた。
ご冥福をお祈りする。
Foggy Day In Tokyo Town
2003年9月27日霧。
珍しく昨日の夜は霧がでていました。なかなかいい感じの霧でしたねえ。まあ、雪が降った日はなんとなく一年に何度かあって覚えていたりしますが、霧の日ってなかなかないでしょう。軽井沢とか、長野のほうとか、箱根とか行けばねえ、霧に遭遇することもたくさんありますが、この都会の東京でこれだけ濃い霧はなかなかありません。
そこで、霧と言えば、ロンドンでしょうか。ガーシュインの傑作に「フォギー・デイ」という曲があります。ルイ・アームストロング、フレッド・アステア、エラ・フィッツジェラルド、ジュディー・ガーランド、フランク・シナトラ、アート・テイタム、最近ではジョージ・ベンソンなどもやっていますね。
もやが濃いのが霧。英語ではフォグFogあるいはミストMistともいいますね。どちらも、いい歌のテーマです。ミストが入った曲といえば、「ミスティー」。超スタンダードです。今挙げた人たちはみんな歌っていることでしょう。
さっき、『ソウルトレイン』でDJのリューがリスナーからのメールで、「レインボーブリッジが霧で見えない」と紹介していました。う〜〜む、なかなかあることではありません。
珍しく昨日の夜は霧がでていました。なかなかいい感じの霧でしたねえ。まあ、雪が降った日はなんとなく一年に何度かあって覚えていたりしますが、霧の日ってなかなかないでしょう。軽井沢とか、長野のほうとか、箱根とか行けばねえ、霧に遭遇することもたくさんありますが、この都会の東京でこれだけ濃い霧はなかなかありません。
そこで、霧と言えば、ロンドンでしょうか。ガーシュインの傑作に「フォギー・デイ」という曲があります。ルイ・アームストロング、フレッド・アステア、エラ・フィッツジェラルド、ジュディー・ガーランド、フランク・シナトラ、アート・テイタム、最近ではジョージ・ベンソンなどもやっていますね。
もやが濃いのが霧。英語ではフォグFogあるいはミストMistともいいますね。どちらも、いい歌のテーマです。ミストが入った曲といえば、「ミスティー」。超スタンダードです。今挙げた人たちはみんな歌っていることでしょう。
さっき、『ソウルトレイン』でDJのリューがリスナーからのメールで、「レインボーブリッジが霧で見えない」と紹介していました。う〜〜む、なかなかあることではありません。
Grammy Will Be In LA Next Year
2003年9月26日ロス。
第46回グラミー賞授賞式は来年はロスアンジェルスで行われる。会場はステイプル・センター、2004年2月8日。テレビ放映はCBSで放送開始時刻は東部時間午後8時から。ショウ自体が生放送される。ただし、西海岸では西部時間8時から放送されるため、3時間遅れの放送となる。
また、グラミーは通常2月の最終週あたりに発表されるが来年は少しスケジュールがはやくなっている。これは、毎年しばらく後に発表されるアカデミー賞の授賞式の日程が2月末に繰り上がってきたため、グラミーも前倒しになった。
ノミネートは、今年12月4日に発表される。これも例年より一月ほど早いスケジュールである。
第46回グラミー賞授賞式は来年はロスアンジェルスで行われる。会場はステイプル・センター、2004年2月8日。テレビ放映はCBSで放送開始時刻は東部時間午後8時から。ショウ自体が生放送される。ただし、西海岸では西部時間8時から放送されるため、3時間遅れの放送となる。
また、グラミーは通常2月の最終週あたりに発表されるが来年は少しスケジュールがはやくなっている。これは、毎年しばらく後に発表されるアカデミー賞の授賞式の日程が2月末に繰り上がってきたため、グラミーも前倒しになった。
ノミネートは、今年12月4日に発表される。これも例年より一月ほど早いスケジュールである。
帰郷。
そこはかつて映画館だった。その名は「ロイヤル・シアター・シネマ」。60年代にその映画館はレコーディング・スタジオになった。そして、名前はシンプルに「ロイヤル・スタジオ」に。70年代初期からこの小さく汚いスタジオから数々のヒットが世界中に放たれた。スターになったのは、アル・グリーン、アン・ピーブルス、シル・ジョンソン、OVライト・・・。ここでレコーディングしていったシンガーも多い。
メンフィスの貴公子、アル・グリーンがそのメンフィスで新作をレコーディングした。しかも、かつて70年代に手を組んで数多くの大ヒットを放ったプロデューサー、ウィリー・ミッチェルとともに、同じロイヤル・スタジオで、しかも同じマイクロフォンを使って録音したのだ。70年代のハイ・サウンドが再現されるのか。
これは、アル・グリーンがこのほど契約したブルーノート・レコードからの移籍第一弾アルバムで、タイトルは『アイ・キャント・ストップ』。全米で11月18日の発売が予定されている。
メンフィスのロイヤル・スタジオで、ウィリー・ミッチェルとアル・グリーンは、70年代初期に「タイアード・オブ・ビーイング・アローン」、「レッツ・ステイ・トゥゲザー」、「シャララ」など多数の作品を録音、ヒットさせた。いわば盟友同士である。そのアル・グリーンとウィリー・ミッチェルが手を組むのは85年のアルのゴスペル・アルバム『ヒー・イズ・ザ・ライト』以来のことだという。
一方、この新録による新作の発売のため、彼のハイ時代の4枚組ベスト作品集『アル・グリーン、イモータル・ソウル・オブ…』の発売が2004年初頭に延期された。この4枚組には1967年から78年までにハイ・レコードで録音された75曲が収録され、マスターテープから新たにリマスターされている。
このロイヤル・スタジオは、ウィリー・ミッチェルが所有しているが、彼は70年代に数多くのヒットを生み出したハイ・レコード(アルなど前述のアーティストはみなハイ・レコード所属)の重要人物でもあった。そして、ロイヤル・スタジオで、ウィリーのプロデュースでアルバムを録音した日本人歌手がいる。オリトだ。そのアルバムは95年6月『ソウル・フード』のタイトルで発売された。
スタジオは軽く30年以上の古さ、しかも、マイクも30年以上前のもののはずだ。21世紀の今日、果たして四半世紀前へタイムトリップさせてくれるか、楽しみだ。
そこはかつて映画館だった。その名は「ロイヤル・シアター・シネマ」。60年代にその映画館はレコーディング・スタジオになった。そして、名前はシンプルに「ロイヤル・スタジオ」に。70年代初期からこの小さく汚いスタジオから数々のヒットが世界中に放たれた。スターになったのは、アル・グリーン、アン・ピーブルス、シル・ジョンソン、OVライト・・・。ここでレコーディングしていったシンガーも多い。
メンフィスの貴公子、アル・グリーンがそのメンフィスで新作をレコーディングした。しかも、かつて70年代に手を組んで数多くの大ヒットを放ったプロデューサー、ウィリー・ミッチェルとともに、同じロイヤル・スタジオで、しかも同じマイクロフォンを使って録音したのだ。70年代のハイ・サウンドが再現されるのか。
これは、アル・グリーンがこのほど契約したブルーノート・レコードからの移籍第一弾アルバムで、タイトルは『アイ・キャント・ストップ』。全米で11月18日の発売が予定されている。
メンフィスのロイヤル・スタジオで、ウィリー・ミッチェルとアル・グリーンは、70年代初期に「タイアード・オブ・ビーイング・アローン」、「レッツ・ステイ・トゥゲザー」、「シャララ」など多数の作品を録音、ヒットさせた。いわば盟友同士である。そのアル・グリーンとウィリー・ミッチェルが手を組むのは85年のアルのゴスペル・アルバム『ヒー・イズ・ザ・ライト』以来のことだという。
一方、この新録による新作の発売のため、彼のハイ時代の4枚組ベスト作品集『アル・グリーン、イモータル・ソウル・オブ…』の発売が2004年初頭に延期された。この4枚組には1967年から78年までにハイ・レコードで録音された75曲が収録され、マスターテープから新たにリマスターされている。
このロイヤル・スタジオは、ウィリー・ミッチェルが所有しているが、彼は70年代に数多くのヒットを生み出したハイ・レコード(アルなど前述のアーティストはみなハイ・レコード所属)の重要人物でもあった。そして、ロイヤル・スタジオで、ウィリーのプロデュースでアルバムを録音した日本人歌手がいる。オリトだ。そのアルバムは95年6月『ソウル・フード』のタイトルで発売された。
スタジオは軽く30年以上の古さ、しかも、マイクも30年以上前のもののはずだ。21世紀の今日、果たして四半世紀前へタイムトリップさせてくれるか、楽しみだ。
サプライズ。
先日のジャム&ルイスのパーティーで会ったエミリちゃんとそのお父さん楠木勇有行(くすのき・ゆうこう)氏が、友人のジャムセッションで歌うというので、目黒のブルースアレーに行きました。この日のイヴェントのタイトルは、『ジュン&アキオ、ブルース...アレ!』というもの。基本的にはミュージシャン仲間が好きなブルースを楽しくやろうというもの。メンバーは青山純(ドラムス)、鈴木明男(サックス)(この二人がジュン&アキオですね)、佐々木久美子(キーボード)、種子田健(ベース)、西山史翁(ギター)の5人。ここに様々なゲストがはいるわけです。
時間の都合で2部から見たのですが、「ブルース・フォー・ショーティー・ビル」(メイシオ・パーカーの曲かな? 確信なし)でいきなりブルージーにスタート。そして、2曲目で楠木勇有行氏が登場し、ダニー・ハザウェイの「リトル・ゲットー・ボーイ」を熱唱します。ダニー好きとは聞いていましたが、なるほど、これは聴きこんでいるというか、歌いこんでいるというか。この曲自体をライヴで見るのは初めてでしたが、きっとダニーもこうやってエンジョイしながら歌っていたんじゃないかなあ、などと想像しながら聴きました。楠木さんは、「柳ジョージ&レイニーウッド」の柳ジョージの後釜にはいった人、という知られざるエピソードをステージでちらっと明かしていました。(60へぇ〜〜くらい)
そして、彼が「15歳の女の子を紹介します。実は娘なんですが・・・」という紹介で、黒の衣装に身を包んだエミリーちゃん登場。まずは「アイル・ビー・ゼア」。しいていえば、ジャクソン・ファイヴというより、マライア・キャリー・ヴァージョンでしょうか。ちょっと出だしが硬かった感じもなくはなかったですが、高音の伸びの部分あたりは、なかなかです。そして、アリシア・キーズの「フォーリン」。ジェームス・ブラウン・マナーのあの重厚な曲です。こんな曲をカヴァーするというだけでいい意味で大胆不敵。そして、ピンクの「ミザリー」。このあたりになると、すっかりステージに慣れたのか、歌いっぷりも堂々としたものです。
途中のトークで、楠木氏「今度のデビュー・アルバムで、エミリーが全曲、詞を書いているんですよ」と説明。すると、横の長年の友人でもある鈴木明男氏「じゃあ、曲は?」と尋ねると、楠木氏「あ、僕」。すると、鈴木氏ちょっと首を振り「それはどうなんだ」と言わんばかりのジェスチャーをみせます。楠木氏すかさず、「今まで書きためた曲から、いい曲ばかりを選抜してるんだから」と切り返し。「選抜!」 いい言葉です。
ライヴパフォーマンスは今15歳ということを考えると、将来性というか、伸びる余地というのは、ものすごいものがありますね。もっともっといろいろなことを経験し、歌にドラマと深みを持たせるようになれば、鬼に金棒でしょうね。言ってみればダイアモンドの原石か。第一、あなたが15歳の時、人前でバンドをバックにこんなに歌を堂々と歌えたでしょうか。声が伸びていくところが、特にいいですね。あとは場数でしょうね。本当にエイジ・エイント・ナッシング・バット・ザ・ナンバーです。
そして、キーボードの佐々木さんが「おそうじオバチャン」を歌います。憂歌団の作品。いやあ、実は僕はこの曲初めて聴いたんですが、これ、いいですねえ。ブルーズで。よく出来てる曲です。最初聴いているときは、「シングルヒット、いけるのでは」なんて勝手に思ってしまいましたが、もう昔話題になっていたんですね。バンドもけっこうタイトで、ブルージーでいい感じです。
一旦全員がはけると、拍手がなかなかやみませんが、スタッフの人がギター・アンプをもう一台ステージに準備し始めました。しばらくして、明男さんがステージにあがり、「もう一台アンプが用意されたということは、ここに誰かが来るということですね。(ひと息あって) 来てくれないかと思っていましたが、本当に来てくれました。山下達郎!!」 観客席から一斉に「おおおおっ」という声と大拍手。超びっくりしました。いやあ、今までもいろんな飛び入りに遭遇してきましたが、久々に背筋がぞくぞくとくる飛び入りでしたねえ。見事なサプライズ。ドラムの青山氏が達郎氏のドラムをずっとやっているつながりでしょう。
達郎氏はブルーズをやりにきました。アンコールの一曲目はジミー・リードの「ベイビー・ホワット・ユー・ウォント・ミー・トゥ」(1960年R&Bで10位)。達郎さん、かなりギター弾きまくり、歌います。そして、続いてはなんとラスカルズの作品「シンギン・ザ・ブルース・トゥ・ロング」。これは68年のアルバム『ワンス・アポン・ア・タイム』に収録されている一曲。彼の透き通った声と、このブルージーな曲のバランスが実にユニークです。彼のブルースは初めて聴いた。とはいうものの、このどちらも曲名はわからず、ショウが終わった後、楽屋に行って達郎さん本人に曲名を尋ねたんですが。
そして、今日のゲスト全員をあげて「ホワッツ・ゴーイング・オン」を合唱。なかなかなものです。こういうジャムセッションは、きっとやっている本人たちが一番楽しいんだろうな、と思いました。もちろん、聴く側のこっちも楽しいんですが、やっている人たちの楽しさが伝わってきます。
達郎氏がブルーズを歌い、プレイし、エミリーと楠木勇有行氏はソウルを歌った。ブルーズ&ソウルな夜でした。いやあ、なんかものすごく得したような一夜でした。
(2003年9月22日月セカンド・目黒・ブルースアレイ・ジャパン=ジュン&アキオ・ライヴ)
先日のジャム&ルイスのパーティーで会ったエミリちゃんとそのお父さん楠木勇有行(くすのき・ゆうこう)氏が、友人のジャムセッションで歌うというので、目黒のブルースアレーに行きました。この日のイヴェントのタイトルは、『ジュン&アキオ、ブルース...アレ!』というもの。基本的にはミュージシャン仲間が好きなブルースを楽しくやろうというもの。メンバーは青山純(ドラムス)、鈴木明男(サックス)(この二人がジュン&アキオですね)、佐々木久美子(キーボード)、種子田健(ベース)、西山史翁(ギター)の5人。ここに様々なゲストがはいるわけです。
時間の都合で2部から見たのですが、「ブルース・フォー・ショーティー・ビル」(メイシオ・パーカーの曲かな? 確信なし)でいきなりブルージーにスタート。そして、2曲目で楠木勇有行氏が登場し、ダニー・ハザウェイの「リトル・ゲットー・ボーイ」を熱唱します。ダニー好きとは聞いていましたが、なるほど、これは聴きこんでいるというか、歌いこんでいるというか。この曲自体をライヴで見るのは初めてでしたが、きっとダニーもこうやってエンジョイしながら歌っていたんじゃないかなあ、などと想像しながら聴きました。楠木さんは、「柳ジョージ&レイニーウッド」の柳ジョージの後釜にはいった人、という知られざるエピソードをステージでちらっと明かしていました。(60へぇ〜〜くらい)
そして、彼が「15歳の女の子を紹介します。実は娘なんですが・・・」という紹介で、黒の衣装に身を包んだエミリーちゃん登場。まずは「アイル・ビー・ゼア」。しいていえば、ジャクソン・ファイヴというより、マライア・キャリー・ヴァージョンでしょうか。ちょっと出だしが硬かった感じもなくはなかったですが、高音の伸びの部分あたりは、なかなかです。そして、アリシア・キーズの「フォーリン」。ジェームス・ブラウン・マナーのあの重厚な曲です。こんな曲をカヴァーするというだけでいい意味で大胆不敵。そして、ピンクの「ミザリー」。このあたりになると、すっかりステージに慣れたのか、歌いっぷりも堂々としたものです。
途中のトークで、楠木氏「今度のデビュー・アルバムで、エミリーが全曲、詞を書いているんですよ」と説明。すると、横の長年の友人でもある鈴木明男氏「じゃあ、曲は?」と尋ねると、楠木氏「あ、僕」。すると、鈴木氏ちょっと首を振り「それはどうなんだ」と言わんばかりのジェスチャーをみせます。楠木氏すかさず、「今まで書きためた曲から、いい曲ばかりを選抜してるんだから」と切り返し。「選抜!」 いい言葉です。
ライヴパフォーマンスは今15歳ということを考えると、将来性というか、伸びる余地というのは、ものすごいものがありますね。もっともっといろいろなことを経験し、歌にドラマと深みを持たせるようになれば、鬼に金棒でしょうね。言ってみればダイアモンドの原石か。第一、あなたが15歳の時、人前でバンドをバックにこんなに歌を堂々と歌えたでしょうか。声が伸びていくところが、特にいいですね。あとは場数でしょうね。本当にエイジ・エイント・ナッシング・バット・ザ・ナンバーです。
そして、キーボードの佐々木さんが「おそうじオバチャン」を歌います。憂歌団の作品。いやあ、実は僕はこの曲初めて聴いたんですが、これ、いいですねえ。ブルーズで。よく出来てる曲です。最初聴いているときは、「シングルヒット、いけるのでは」なんて勝手に思ってしまいましたが、もう昔話題になっていたんですね。バンドもけっこうタイトで、ブルージーでいい感じです。
一旦全員がはけると、拍手がなかなかやみませんが、スタッフの人がギター・アンプをもう一台ステージに準備し始めました。しばらくして、明男さんがステージにあがり、「もう一台アンプが用意されたということは、ここに誰かが来るということですね。(ひと息あって) 来てくれないかと思っていましたが、本当に来てくれました。山下達郎!!」 観客席から一斉に「おおおおっ」という声と大拍手。超びっくりしました。いやあ、今までもいろんな飛び入りに遭遇してきましたが、久々に背筋がぞくぞくとくる飛び入りでしたねえ。見事なサプライズ。ドラムの青山氏が達郎氏のドラムをずっとやっているつながりでしょう。
達郎氏はブルーズをやりにきました。アンコールの一曲目はジミー・リードの「ベイビー・ホワット・ユー・ウォント・ミー・トゥ」(1960年R&Bで10位)。達郎さん、かなりギター弾きまくり、歌います。そして、続いてはなんとラスカルズの作品「シンギン・ザ・ブルース・トゥ・ロング」。これは68年のアルバム『ワンス・アポン・ア・タイム』に収録されている一曲。彼の透き通った声と、このブルージーな曲のバランスが実にユニークです。彼のブルースは初めて聴いた。とはいうものの、このどちらも曲名はわからず、ショウが終わった後、楽屋に行って達郎さん本人に曲名を尋ねたんですが。
そして、今日のゲスト全員をあげて「ホワッツ・ゴーイング・オン」を合唱。なかなかなものです。こういうジャムセッションは、きっとやっている本人たちが一番楽しいんだろうな、と思いました。もちろん、聴く側のこっちも楽しいんですが、やっている人たちの楽しさが伝わってきます。
達郎氏がブルーズを歌い、プレイし、エミリーと楠木勇有行氏はソウルを歌った。ブルーズ&ソウルな夜でした。いやあ、なんかものすごく得したような一夜でした。
(2003年9月22日月セカンド・目黒・ブルースアレイ・ジャパン=ジュン&アキオ・ライヴ)
Soul Synchronicity: R&B Connect With Jaco
2003年9月23日偶然。
超強力フュージョン・バンド、ウェザー・リポートのベース奏者としても名を馳せたジャコ・パストリアス。そのジャコの記念すべきデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアス』は76年6月に全米発売されています。後に名盤の誉れを獲得する作品です。
僕はこのアルバムを76年6月28日に入手しました。この頃は買ったレコードを全部ノートにつけていたので、その同じ日に入手したレコードのリストが残っています。同日に手に入れたのは、コモドアーズの『ホット・オン・ザ・トラックス』、キャンディ・ステイトンの『ヤング・ハーツ・ラン・フリー』、グラハム・セントラル・ステーションの『ミラー』、ジョニー・ギター・ワトソンの『エイント・ザット・ア・ビッチ』、LTDの『ラヴ・トゥ・ザ・ワールド』、ラロ・シフリンの『ブラック・ウィドウ』、インディヴィジュアルズの『トゥゲザー』などなどです。ペン書きの横に鉛筆書きの小さな字で266とあります。この年に買った266枚目だったんですね。あの頃はよく買ってました。(笑)
当時は基本的には僕が買っていたのはソウル、R&B系のアルバムで、いわゆるジャズ、フュージョンものはあまり買っていませんでした。ではなぜ、ジャコのファーストをリリースと同時に買ったのか。その時点では、僕はジャコのことはほとんど知りませんでした。ウェザー・リポートの『ブラック・マーケット』は、同年4月1日に入手していましたが、ほとんど知識はなかった。そんな中でジャコのソロ・アルバムを手に入れたのは単純な理由です。2曲目「カムオン・カムオーヴァー」でゲストに60年代に大活躍したソウルメン、サム&デイヴが入っていたからです。レコードを買う動機なんて、そんなものです。
この曲じつにかっこいいでしょう。ホーンセクションも、すごくいい。今聴くと、やはりベースがしっかり立ってるんですね。ベース奏者のアルバムなんだから、当たり前と言えば当たり前ですが。
ジャコは、フィラデルフィア生まれですが、マイアミ育ち。そして、そのジャコが初めてレコーディングらしいレコーディングに参加したのが、マイアミ・サウンドのクリエイターのひとり、リトル・ビーヴァーの「パーティー・ダウン」(74年8月のヒット)の収録されたアルバム『パーティー・ダウン』(75年1月18日に入手)でした。このアルバムには、ベース奏者がジョージ・ペリー、ネルソン・ジョッコ(Jocko)・パドロン、ロン・ボグドン、ウィリー・ヘイルと4名が記されています。なので、シングルヒットした「パーティー・ダウン」がジャコかどうか、ちょっと微妙なんですが。
アルバムをひっぱりだして改めて聴いてみました。A面3曲目の「マネー・ヴァイブレーション」、B面1曲目の「アイ・キャン・ディッグ・イット・ベイビー」あたりが、ちょっとジャコぽいと言えば言えるかもしれません。後者は、ちょっとジョージ・マクレイの「ロック・ユア・ベイビー」風のフレーズもある超マイアミな曲です。後者がジャコなのかな。ちょっとジャコのディスコグラフィーなどを調べてみたんですが、どこにも書いてありませんでした。もっと、ディープなディスコグラフィーに遭遇すればわかるのかもしれませんが。
ジャコは無名時代のバンドでアレサやウィルソン・ピケット、ジェームス・ブラウンなどのコピーをやっていて、かなりのソウル好きでした。彼の有名な作品に「チキン」があります。ジェームス・ブラウンの曲ですが、この曲はブラウンの69年5月リリースのシングル「ポップコーン」の裏面に収録されているもの。ジャコはこれを69年にはすでに、ホームレコーディングで試し録音しているんですね。いかにマニアックだったか。
さて、それはさておき日曜日ミーティングを終え、帰ろうとしたところ、 そこでばったりピーター・バラカン氏に遭遇。「今日、ジャコやったんですよ」というと「『ポートレート・オブ・ジャコ』?」と聞かれたので、「いえ、ファーストです」と答えました。しばし、ジャコ話があり、ピーター氏。「イギリスの16歳の新人、ジョス・ストーンっていうの聴いた? ヴァージン傘下のレーベルからでた新人でその社長っていうのが、大のソウル好きで、プロデュースにマイアミのベティー・ライトとか、リトル・ビーヴァーとか、ラティモアとかその一派がはいってるんですよ。白人なんだけど、かなりいいですよ。線はちょっと細いんだけど、16歳とは思えない・・・」 「マイアミで録音されたんですか」 「そう、(マイアミの)クライテリア(・スタジオ)と、ルーツなんかもかかわってるんで、フィラデルフィアと、あとニューヨークもあったかな。みんな、ソウルのカヴァー。ハーラン・ハワードの『チョーキン・カインド』とか。」 「あ、ジョー・サイモンとかやってる曲ですね」 「そう、いろんな人たちがカヴァーしてる。アイズレーの『フォー・ザ・ラヴ・オブ・ユー』とかも・・・。あと、今日ね、グルーポ・デル・クアレイムっていうのかけますよ。これね、『アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー』。ジャコがやった曲で、これはウルグアイのグループで、ここではジャコの息子がベースやってるんだ」 「ええ? ということは、トレイシーとの間に生まれた子かな」 「いや、二度目の結婚のほうの双子のほう」 「待ってください。ジャコのこと、今日はお任せください。(笑) (といって資料を出す) あ、これだ。82年にイングリッドとの間に生まれた双子。ということは、21歳ですか、今」
その後、ピーターさんの番組で、ジョス・ストーンの「チョーキン・カインド」とグルーポ・デル・クアレイムのその曲を聴きました。ジョス・ストーンは、すごいわ。これ。16歳? 26歳といっても通用する。36歳でもいいかもしれない。輸入盤、もうあるみたいなので、チェックしにいこう。http://www.s-curverecords.com/joss/ 白人なんですが、けっこうソウルです。最近は本当に年齢関係ないですね。マイアミオールスターを従えて、すでにニューヨークでライヴやったみたいですね。声は、メイシー・グレイほど野太くはありませんが、かなり円熟味を感じさせる声、歌唱です。
上記サイトを見ると、元々オリジナル・アルバムを録音することになっていたが、ベティー・ライトと知り合ったことで、ちょこっとサイドプロジェクトとしてカヴァー・アルバムを作ろうということで、ベティー・ライトの人脈で、アルバムがたったの4日でできちゃったんですね。こういうのが、けっこう、ど〜〜んと売れちゃうんですよ。(笑)
そして、話はジャコに戻ります。結局、リトル・ビーヴァーのアルバムでやっていたのは「アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー」だったんですね。ジャコとマイアミの話をし、そして、ピーターさんが、まさにそのマイアミつながりの新人ジョス・ストーンと、ジャコつながりのグルーポの「アイ・キャン・・・」をかける。シンクロニシティー(同時性、偶然)とはこのことでしょうか。9月21日は、ジャコの命日です。
R&B Connectな今日この頃・・・。
超強力フュージョン・バンド、ウェザー・リポートのベース奏者としても名を馳せたジャコ・パストリアス。そのジャコの記念すべきデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアス』は76年6月に全米発売されています。後に名盤の誉れを獲得する作品です。
僕はこのアルバムを76年6月28日に入手しました。この頃は買ったレコードを全部ノートにつけていたので、その同じ日に入手したレコードのリストが残っています。同日に手に入れたのは、コモドアーズの『ホット・オン・ザ・トラックス』、キャンディ・ステイトンの『ヤング・ハーツ・ラン・フリー』、グラハム・セントラル・ステーションの『ミラー』、ジョニー・ギター・ワトソンの『エイント・ザット・ア・ビッチ』、LTDの『ラヴ・トゥ・ザ・ワールド』、ラロ・シフリンの『ブラック・ウィドウ』、インディヴィジュアルズの『トゥゲザー』などなどです。ペン書きの横に鉛筆書きの小さな字で266とあります。この年に買った266枚目だったんですね。あの頃はよく買ってました。(笑)
当時は基本的には僕が買っていたのはソウル、R&B系のアルバムで、いわゆるジャズ、フュージョンものはあまり買っていませんでした。ではなぜ、ジャコのファーストをリリースと同時に買ったのか。その時点では、僕はジャコのことはほとんど知りませんでした。ウェザー・リポートの『ブラック・マーケット』は、同年4月1日に入手していましたが、ほとんど知識はなかった。そんな中でジャコのソロ・アルバムを手に入れたのは単純な理由です。2曲目「カムオン・カムオーヴァー」でゲストに60年代に大活躍したソウルメン、サム&デイヴが入っていたからです。レコードを買う動機なんて、そんなものです。
この曲じつにかっこいいでしょう。ホーンセクションも、すごくいい。今聴くと、やはりベースがしっかり立ってるんですね。ベース奏者のアルバムなんだから、当たり前と言えば当たり前ですが。
ジャコは、フィラデルフィア生まれですが、マイアミ育ち。そして、そのジャコが初めてレコーディングらしいレコーディングに参加したのが、マイアミ・サウンドのクリエイターのひとり、リトル・ビーヴァーの「パーティー・ダウン」(74年8月のヒット)の収録されたアルバム『パーティー・ダウン』(75年1月18日に入手)でした。このアルバムには、ベース奏者がジョージ・ペリー、ネルソン・ジョッコ(Jocko)・パドロン、ロン・ボグドン、ウィリー・ヘイルと4名が記されています。なので、シングルヒットした「パーティー・ダウン」がジャコかどうか、ちょっと微妙なんですが。
アルバムをひっぱりだして改めて聴いてみました。A面3曲目の「マネー・ヴァイブレーション」、B面1曲目の「アイ・キャン・ディッグ・イット・ベイビー」あたりが、ちょっとジャコぽいと言えば言えるかもしれません。後者は、ちょっとジョージ・マクレイの「ロック・ユア・ベイビー」風のフレーズもある超マイアミな曲です。後者がジャコなのかな。ちょっとジャコのディスコグラフィーなどを調べてみたんですが、どこにも書いてありませんでした。もっと、ディープなディスコグラフィーに遭遇すればわかるのかもしれませんが。
ジャコは無名時代のバンドでアレサやウィルソン・ピケット、ジェームス・ブラウンなどのコピーをやっていて、かなりのソウル好きでした。彼の有名な作品に「チキン」があります。ジェームス・ブラウンの曲ですが、この曲はブラウンの69年5月リリースのシングル「ポップコーン」の裏面に収録されているもの。ジャコはこれを69年にはすでに、ホームレコーディングで試し録音しているんですね。いかにマニアックだったか。
さて、それはさておき日曜日ミーティングを終え、帰ろうとしたところ、 そこでばったりピーター・バラカン氏に遭遇。「今日、ジャコやったんですよ」というと「『ポートレート・オブ・ジャコ』?」と聞かれたので、「いえ、ファーストです」と答えました。しばし、ジャコ話があり、ピーター氏。「イギリスの16歳の新人、ジョス・ストーンっていうの聴いた? ヴァージン傘下のレーベルからでた新人でその社長っていうのが、大のソウル好きで、プロデュースにマイアミのベティー・ライトとか、リトル・ビーヴァーとか、ラティモアとかその一派がはいってるんですよ。白人なんだけど、かなりいいですよ。線はちょっと細いんだけど、16歳とは思えない・・・」 「マイアミで録音されたんですか」 「そう、(マイアミの)クライテリア(・スタジオ)と、ルーツなんかもかかわってるんで、フィラデルフィアと、あとニューヨークもあったかな。みんな、ソウルのカヴァー。ハーラン・ハワードの『チョーキン・カインド』とか。」 「あ、ジョー・サイモンとかやってる曲ですね」 「そう、いろんな人たちがカヴァーしてる。アイズレーの『フォー・ザ・ラヴ・オブ・ユー』とかも・・・。あと、今日ね、グルーポ・デル・クアレイムっていうのかけますよ。これね、『アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー』。ジャコがやった曲で、これはウルグアイのグループで、ここではジャコの息子がベースやってるんだ」 「ええ? ということは、トレイシーとの間に生まれた子かな」 「いや、二度目の結婚のほうの双子のほう」 「待ってください。ジャコのこと、今日はお任せください。(笑) (といって資料を出す) あ、これだ。82年にイングリッドとの間に生まれた双子。ということは、21歳ですか、今」
その後、ピーターさんの番組で、ジョス・ストーンの「チョーキン・カインド」とグルーポ・デル・クアレイムのその曲を聴きました。ジョス・ストーンは、すごいわ。これ。16歳? 26歳といっても通用する。36歳でもいいかもしれない。輸入盤、もうあるみたいなので、チェックしにいこう。http://www.s-curverecords.com/joss/ 白人なんですが、けっこうソウルです。最近は本当に年齢関係ないですね。マイアミオールスターを従えて、すでにニューヨークでライヴやったみたいですね。声は、メイシー・グレイほど野太くはありませんが、かなり円熟味を感じさせる声、歌唱です。
上記サイトを見ると、元々オリジナル・アルバムを録音することになっていたが、ベティー・ライトと知り合ったことで、ちょこっとサイドプロジェクトとしてカヴァー・アルバムを作ろうということで、ベティー・ライトの人脈で、アルバムがたったの4日でできちゃったんですね。こういうのが、けっこう、ど〜〜んと売れちゃうんですよ。(笑)
そして、話はジャコに戻ります。結局、リトル・ビーヴァーのアルバムでやっていたのは「アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー」だったんですね。ジャコとマイアミの話をし、そして、ピーターさんが、まさにそのマイアミつながりの新人ジョス・ストーンと、ジャコつながりのグルーポの「アイ・キャン・・・」をかける。シンクロニシティー(同時性、偶然)とはこのことでしょうか。9月21日は、ジャコの命日です。
R&B Connectな今日この頃・・・。
How To Give Him/Her A Standing Ovation?
2003年9月22日拍手喝采。
ついでだから、もう少し著作権について書いてみましょう。著作権は英語でcopyrightといいます。そのコピー(もの)の権利、あるいは複製する権利といったところが語源でしょうか。そして、ここ十年くらいでしょうか、アメリカでコピーレフトという考え方がでています。言ってみれば、ライト(右)の反対でレフト(左)としゃれているのですが。しいて訳せば非著作権です。
この言葉を知ったのは、昨日書いたダイソン氏の著作の中ででした。97年の本なので6年前です。著作権という言葉は、それを守るというスタンスの言葉です。著作権を守る、あるいは、著作権を侵害された、とかいった雰囲気です。ところが、コピーレフトの概念は、最初からその著作権を放棄する考え方、著作権フリーと同じニュアンスです。
その言葉を知る前に、『オルタ・カルチャー(インターネット時代全傍流)』(スティーヴン・デイリー、ナサニエル・ワイス著=リブロポート刊=日本版97年発売。現在廃刊)の中で、「デッドヘッズ」というものが紹介されていました。それは、ロックグループ、グレイトフル・デッドの熱心なファンのことです。デッドのライヴでは、ファンの人たちがそのライヴを自由に録音していいのです。そして、それを売ってもよくて、そのために著作権料、原盤使用料を払わなくてもいいというのです。これこそ、究極のコピーレフトの発想です。深町純氏も自分のライヴをいくらでもテープにとってもらっていいと言っています。コピーレフトです。深町さんの即興演奏を撮る、録る人たちを「ジュンヘッズ」とでも名づけましょうか。(笑) これ、いいな。
グレイトフル・デッドは、レコードもそこそこ売れますが、ライヴの動員がものすごいバンドでした。バンド・リーダー、ジェリー・ガルシアは基本的にはファンが録音したものがいくら売れようが、ファンがライヴに来てくれればそれでいい、という考え方のようでした。太っ腹というか、なかなか並みのミュージシャンには真似のできないことでしょう。ファンはライヴに来てこそ、デッドへッズの一員になるのです。そして、デッドへッズは、ライセンス契約されたTシャツやグッズを買い、グレイトフルデッドの元にはその使用料がはいります。Tシャツ、グッズまで海賊版がでていたかどうかは、はっきりわかりませんが。(笑) ここは、しっかりコピーライトなんですね。まあ、出ててもおかしくないですが。
元々、音楽というのは一度限りの生演奏、しかも、時には即興演奏だったわけです。徐々に楽譜に書き記して同じ曲を演奏することができるようになった。その楽譜を複製して売るあたりから著作権の概念がでてきます。同時に、エジソンが蓄音機を発明し、レコード盤というものが生まれる。すると同じ演奏が複製されるようになり、そこにも著作権、さらには原盤権の概念が生まれます。
それからわずか100年で、同じものの複製がいとも簡単にできるようになり、著作権の概念の土台が揺らぎ始めているわけです。長いスタンスで音楽と著作権というものを見た場合、元々なかったコピーライトなどというものは、一時的な「バブル」のようなものと言えるのかもしれません。このような考え方は、かなり現状では異端であるかもしれませんが、そういう考え方もできる、ということです。
とはいうものの、この経済社会において、ミュージシャンや作家やあるいはゲームクリエイターたちが精魂こめて作ったものをただで享受しようというのは、今度はそれを受け取る側の倫理として、よろしくありません。今度は、倫理、マナー、礼儀といった類の問題になってくるのです。
そこで、前にも一度引用しましたが、『翼にのったソウルメイト』(リチャード・バック著・1984年・日本版93年5月マガジンハウス刊)の一文にいきつくわけです。それは---
「芸術、本、映画、ダンスにおける栄光の瞬間は、その鏡の中に自分自身を見るから甘美なのだ。本やチケットを買うことですばらしい仕事に対してお礼の拍手をすることができる」(飯田 昌夫 ・翻訳)
何かいいものを作る人がいて、それを見たり聴いたりして感動したら、お礼の拍手喝采をしたほうがよいでしょう。そして、それは法律で強制されるものではなく、自主的にそうなるほうが美しいのです。そして、その拍手喝采の方法は千差万別です。
ついでだから、もう少し著作権について書いてみましょう。著作権は英語でcopyrightといいます。そのコピー(もの)の権利、あるいは複製する権利といったところが語源でしょうか。そして、ここ十年くらいでしょうか、アメリカでコピーレフトという考え方がでています。言ってみれば、ライト(右)の反対でレフト(左)としゃれているのですが。しいて訳せば非著作権です。
この言葉を知ったのは、昨日書いたダイソン氏の著作の中ででした。97年の本なので6年前です。著作権という言葉は、それを守るというスタンスの言葉です。著作権を守る、あるいは、著作権を侵害された、とかいった雰囲気です。ところが、コピーレフトの概念は、最初からその著作権を放棄する考え方、著作権フリーと同じニュアンスです。
その言葉を知る前に、『オルタ・カルチャー(インターネット時代全傍流)』(スティーヴン・デイリー、ナサニエル・ワイス著=リブロポート刊=日本版97年発売。現在廃刊)の中で、「デッドヘッズ」というものが紹介されていました。それは、ロックグループ、グレイトフル・デッドの熱心なファンのことです。デッドのライヴでは、ファンの人たちがそのライヴを自由に録音していいのです。そして、それを売ってもよくて、そのために著作権料、原盤使用料を払わなくてもいいというのです。これこそ、究極のコピーレフトの発想です。深町純氏も自分のライヴをいくらでもテープにとってもらっていいと言っています。コピーレフトです。深町さんの即興演奏を撮る、録る人たちを「ジュンヘッズ」とでも名づけましょうか。(笑) これ、いいな。
グレイトフル・デッドは、レコードもそこそこ売れますが、ライヴの動員がものすごいバンドでした。バンド・リーダー、ジェリー・ガルシアは基本的にはファンが録音したものがいくら売れようが、ファンがライヴに来てくれればそれでいい、という考え方のようでした。太っ腹というか、なかなか並みのミュージシャンには真似のできないことでしょう。ファンはライヴに来てこそ、デッドへッズの一員になるのです。そして、デッドへッズは、ライセンス契約されたTシャツやグッズを買い、グレイトフルデッドの元にはその使用料がはいります。Tシャツ、グッズまで海賊版がでていたかどうかは、はっきりわかりませんが。(笑) ここは、しっかりコピーライトなんですね。まあ、出ててもおかしくないですが。
元々、音楽というのは一度限りの生演奏、しかも、時には即興演奏だったわけです。徐々に楽譜に書き記して同じ曲を演奏することができるようになった。その楽譜を複製して売るあたりから著作権の概念がでてきます。同時に、エジソンが蓄音機を発明し、レコード盤というものが生まれる。すると同じ演奏が複製されるようになり、そこにも著作権、さらには原盤権の概念が生まれます。
それからわずか100年で、同じものの複製がいとも簡単にできるようになり、著作権の概念の土台が揺らぎ始めているわけです。長いスタンスで音楽と著作権というものを見た場合、元々なかったコピーライトなどというものは、一時的な「バブル」のようなものと言えるのかもしれません。このような考え方は、かなり現状では異端であるかもしれませんが、そういう考え方もできる、ということです。
とはいうものの、この経済社会において、ミュージシャンや作家やあるいはゲームクリエイターたちが精魂こめて作ったものをただで享受しようというのは、今度はそれを受け取る側の倫理として、よろしくありません。今度は、倫理、マナー、礼儀といった類の問題になってくるのです。
そこで、前にも一度引用しましたが、『翼にのったソウルメイト』(リチャード・バック著・1984年・日本版93年5月マガジンハウス刊)の一文にいきつくわけです。それは---
「芸術、本、映画、ダンスにおける栄光の瞬間は、その鏡の中に自分自身を見るから甘美なのだ。本やチケットを買うことですばらしい仕事に対してお礼の拍手をすることができる」(飯田 昌夫 ・翻訳)
何かいいものを作る人がいて、それを見たり聴いたりして感動したら、お礼の拍手喝采をしたほうがよいでしょう。そして、それは法律で強制されるものではなく、自主的にそうなるほうが美しいのです。そして、その拍手喝采の方法は千差万別です。
著作権。
歌、とくに流行歌というものは、まず第一にはレコード、現在はCDが売れてなんぼのものです。そして、次にはあちこちでかかって、たくさんの人に聴かれ、あるいは、歌われて、その価値がでます。ある人にとって、そのヒット曲は特別の歌になるかもしれませんし、別の人にとっては同じ曲が悲しい思い出になるかもしれません。
では、その歌は一体だれのものなのでしょう。しばらく前に歌詞の引用についてちょっと触れました。以前から考えていたことをもう少し詳しくお話しようかと思います。著作権の問題ともからんできます。
これだけデジタルの技術が発展してくると、あらゆるデジタル情報は簡単にコピーができるようになります。CDであれ、DVDであれ、数分もあれば、同じものが同じクオリティーでコピーできてしまいます。インターネット創世記からの識者であるエスター・ダイソン氏は、今から6年前の97年の著作『未来地球からのメール』の中で「デジタル情報の価値は、無限に安くなる」と言っています。
現実に、そうなっています。ではその場合、その著作者、なにか新しいものを作った人はどのように経済的な利益を得ればいいのでしょうか。ダイソン氏はさまざまなモデルが考えられるが、そのひとつの方法として単なる情報以上の付加価値をつけて売ればいい、といいます。音楽家の場合で言えば、いいCDを作って、それがヒットしたら、いいライヴをたくさんすればいいのです。いいライヴをすれば、お客さんがお客さんを呼び、たくさんの人々が集まるようになります。ライヴには、CDにはない付加価値が存分にあります。ライヴは、コピーできないのです。もちろんライヴCDやライヴDVDを発売することはできますが、それはライヴそのものではありません。
こういう言い方もできます。CDやレコードは、版画やポスターのようなもの。一方、ライヴは一点ものの絵画。その場合どちらが価値があるかというのは自明です。では、CDをたくさん売って儲けるというビジネスモデルがもはや破綻しつつあるのか、と言われれば、徐々にそうなるかもしれないが、絶対になくなることもない、といったところでしょう。コピーコントロールをつけたところで、何の問題の解決にもなりません。デジタル情報は結局は、簡単にコピーできるのですから。
そして、歌詞ですが、歌詞というものは、もうすでにパブリック・ドメイン(公共物)になっていると言っていいでしょう。もちろん、歌詞を書いた人には著作権者がいるので、その歌詞を複製して販売するには著作者の許可がいります。そして販売したときにはその利益の一部を配分しなければなりません。それはカラオケで歌ったときも、誰か別の歌手がそのソングライターの作品を大勢の前で歌ったときも、同じです。
数年前一本の映画を見ていて、これだ、と思ったセリフがありました。映画は『イル・ポスティーノ』(95年・イタリア)というもの。地中海の美しい小島を舞台にした20世紀を代表する偉大な詩人ネルーダとそこに毎日郵便を配達する青年マリオの交流の話です。詩人は、文字も書けないようなその青年に詩のイロハから教えていくのですが、あるときちょっとした討論になり、その青年が詩人に向かってこういうのです。
「詩は書いた人間のものではない。それを必要とする人間のものだ」
思わずテレビ画面に向かって拍手してしまいました。流行歌などというものは、ひとたびヒットしてしまったら、作者の元から一人歩きを始めるのです。そして、「歌は、その時点ではもはや書いた人間のものではない。歌を必要とする人間のものだ」ということになっていくのです。これは、もう自然の流れなんですね。
では著作権なんてものはなくなるのか。いや、当分はなくなりません。当然既得権を確保しようとする動きが強いですから。でも、歌詞をウエッブに載せる程度のことなど、上記の言葉があれば、なんら問題にもならないということです。デジタル技術の発展はありとあらゆる点で、著作権という概念の土台を揺らし始めているのです。著作権者は、自分の著作物に何らかの付加価値をつけて売らなければならない時代がやってきたわけです。
CDをコピーしていい、と言っているのではありません。だめだと言って禁止したところで、結局はコピーされてしまいます。それだったらコピーされた後、どうしたらいいかを前向きに考えなければなりません。
結論は、その歌を必要とする人間をたくさん作らなければならないのです。その歌を必要とする人間がたくさん増えれば、結局はその歌を作った人、歌った人に最終的に経済的利益はもたらされるはずです。そして、歌はやはりそれを必要とする人々のものになっていきます。
歌、とくに流行歌というものは、まず第一にはレコード、現在はCDが売れてなんぼのものです。そして、次にはあちこちでかかって、たくさんの人に聴かれ、あるいは、歌われて、その価値がでます。ある人にとって、そのヒット曲は特別の歌になるかもしれませんし、別の人にとっては同じ曲が悲しい思い出になるかもしれません。
では、その歌は一体だれのものなのでしょう。しばらく前に歌詞の引用についてちょっと触れました。以前から考えていたことをもう少し詳しくお話しようかと思います。著作権の問題ともからんできます。
これだけデジタルの技術が発展してくると、あらゆるデジタル情報は簡単にコピーができるようになります。CDであれ、DVDであれ、数分もあれば、同じものが同じクオリティーでコピーできてしまいます。インターネット創世記からの識者であるエスター・ダイソン氏は、今から6年前の97年の著作『未来地球からのメール』の中で「デジタル情報の価値は、無限に安くなる」と言っています。
現実に、そうなっています。ではその場合、その著作者、なにか新しいものを作った人はどのように経済的な利益を得ればいいのでしょうか。ダイソン氏はさまざまなモデルが考えられるが、そのひとつの方法として単なる情報以上の付加価値をつけて売ればいい、といいます。音楽家の場合で言えば、いいCDを作って、それがヒットしたら、いいライヴをたくさんすればいいのです。いいライヴをすれば、お客さんがお客さんを呼び、たくさんの人々が集まるようになります。ライヴには、CDにはない付加価値が存分にあります。ライヴは、コピーできないのです。もちろんライヴCDやライヴDVDを発売することはできますが、それはライヴそのものではありません。
こういう言い方もできます。CDやレコードは、版画やポスターのようなもの。一方、ライヴは一点ものの絵画。その場合どちらが価値があるかというのは自明です。では、CDをたくさん売って儲けるというビジネスモデルがもはや破綻しつつあるのか、と言われれば、徐々にそうなるかもしれないが、絶対になくなることもない、といったところでしょう。コピーコントロールをつけたところで、何の問題の解決にもなりません。デジタル情報は結局は、簡単にコピーできるのですから。
そして、歌詞ですが、歌詞というものは、もうすでにパブリック・ドメイン(公共物)になっていると言っていいでしょう。もちろん、歌詞を書いた人には著作権者がいるので、その歌詞を複製して販売するには著作者の許可がいります。そして販売したときにはその利益の一部を配分しなければなりません。それはカラオケで歌ったときも、誰か別の歌手がそのソングライターの作品を大勢の前で歌ったときも、同じです。
数年前一本の映画を見ていて、これだ、と思ったセリフがありました。映画は『イル・ポスティーノ』(95年・イタリア)というもの。地中海の美しい小島を舞台にした20世紀を代表する偉大な詩人ネルーダとそこに毎日郵便を配達する青年マリオの交流の話です。詩人は、文字も書けないようなその青年に詩のイロハから教えていくのですが、あるときちょっとした討論になり、その青年が詩人に向かってこういうのです。
「詩は書いた人間のものではない。それを必要とする人間のものだ」
思わずテレビ画面に向かって拍手してしまいました。流行歌などというものは、ひとたびヒットしてしまったら、作者の元から一人歩きを始めるのです。そして、「歌は、その時点ではもはや書いた人間のものではない。歌を必要とする人間のものだ」ということになっていくのです。これは、もう自然の流れなんですね。
では著作権なんてものはなくなるのか。いや、当分はなくなりません。当然既得権を確保しようとする動きが強いですから。でも、歌詞をウエッブに載せる程度のことなど、上記の言葉があれば、なんら問題にもならないということです。デジタル技術の発展はありとあらゆる点で、著作権という概念の土台を揺らし始めているのです。著作権者は、自分の著作物に何らかの付加価値をつけて売らなければならない時代がやってきたわけです。
CDをコピーしていい、と言っているのではありません。だめだと言って禁止したところで、結局はコピーされてしまいます。それだったらコピーされた後、どうしたらいいかを前向きに考えなければなりません。
結論は、その歌を必要とする人間をたくさん作らなければならないのです。その歌を必要とする人間がたくさん増えれば、結局はその歌を作った人、歌った人に最終的に経済的利益はもたらされるはずです。そして、歌はやはりそれを必要とする人々のものになっていきます。
A Crescent Moon Behind Liz
2003年9月20日月。
今夜のスターが登場する前、誰もいないステージ中央にぽつんと立っていたマイク・スタンド。そのマイクの位置がずいぶんと高い。「あれが、リズのマイクだろうか・・・」 もし、そうだとすると、リズはかなり背の高い女性ということになる。前回のジョー・サンプルの時に見ているはずだが、果たして、こんなに大女だっただろうか。今年初のソロ作品『ソルト』を出した、リズ・ライトのリズ・ライトとして初のライヴである。
ジョー・コーハード(ピアノ)、ダグ・ワイス(ベース)、EJストリックランド(ベース)のトリオがまず一曲ウォームアップ曲を演奏した。そして、拍手にうながされてリズが登場。マイクの前に立つリズは、やはり大きかった。しかし、顔が小さいから、モデルみたいだ。一体何等身なんだろう。アルバム未収録曲を歌いだした。彼女のCDジャケットはセピア色で彩られている。そして、そのリズの歌声は単色のセピア色そのものだった。
ジェニュイン(純粋)で、無垢で、素朴で、汚されていなくて、誠実で、シンプルで。こうした単語以外の他に形容の言葉が浮かばない。彼女には七色のカラーはいらない。アンコールを含めてリズは1時間15分にわたってモノトーンの9曲を歌った。カサンドラ・ウィルソン、ダイアン・リーヴスなどと共通する匂いが漂う。彼女は太陽ではなく、月だ。
体が大きいので、歌いながら動かす腕ひとつで、ヴィジュアル的にもリズの世界を作り出す。存在感が生まれる。若干、曲調が単調なために、一本調子になるところはあるが、シンガーとしてはしっかりと地に足がついていることがわかる。スタンダードの一曲「ネイチャー・ボーイ」を歌っていたが、なかなかいい雰囲気だった。
ライヴが終わった後、ちょっとだけ楽屋に行った。リズは大きなりんごを丸ごとかじっていた。「あ、ごめんなさい。こんな姿で」 「りんごが好きなんですね」 安定した歌声はどのように維持しているのか。「2−3日前までずっと咳がでててね。でも、直っちゃったわ。特にこれと言って、何かをするということはないわね」 「一部と二部では曲は変えるの?」 「変えるわ。ちょっとだけ。そのときの気分で」
ジョニ・ミッチェルの「フィドル・アンド・ドラム」を、やらなかった。なぜ。「ああ、あの曲ね。別に理由はないわ。できるわ。でも、あの曲は、今、アメリカではちょっと歌いにくいわね」 「ではなぜ、録音したの?」 「プロデューサーが録音して欲しいって言ったから(笑)」 アメリカでちょっと歌いにくいというのは、歌詞のニュアンスがちょっと反戦歌的なところがあるからだ。
繊細で几帳面風な人物に見受けられた。淡くライトアップされた人影のないモーションブルーを出て車を走らせていると、横の歩道を大柄な女性が、それほど大柄ではない男性と歩いていた。なんとリズ・ライトとミュージシャンのひとりだった。ホテルまで歩いて帰っているところだった。リズ・ライト、ホテルまで徒歩で帰る・・・。まあもちろん、車も用意されているのだろうが、本人が歩いて帰りたいと言ったのだろう。そのあたりが、素朴な23歳なのかもしれない。
夜風は涼しく、大きな観覧車のライトは消え、時刻を表す数字だけが光っていた。そして、リズの後ろには三日月が浮いていた。
(2003年9月18日木セカンド・横浜モーションブルー=リズ・ライト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>WRIGHT, LIZ
残るリズ・ライトのライヴは20日(土)横浜モーションブルーで。
ただし、満員。立ち見なら可能かもしれません。
+++++
リズ・ライト・ライヴ
2003年9月17日〜20日 横浜モーションブルー
モーションブルーのサイト(日本語)
http://www.motionblue.co.jp/schedule/index.html
今夜のスターが登場する前、誰もいないステージ中央にぽつんと立っていたマイク・スタンド。そのマイクの位置がずいぶんと高い。「あれが、リズのマイクだろうか・・・」 もし、そうだとすると、リズはかなり背の高い女性ということになる。前回のジョー・サンプルの時に見ているはずだが、果たして、こんなに大女だっただろうか。今年初のソロ作品『ソルト』を出した、リズ・ライトのリズ・ライトとして初のライヴである。
ジョー・コーハード(ピアノ)、ダグ・ワイス(ベース)、EJストリックランド(ベース)のトリオがまず一曲ウォームアップ曲を演奏した。そして、拍手にうながされてリズが登場。マイクの前に立つリズは、やはり大きかった。しかし、顔が小さいから、モデルみたいだ。一体何等身なんだろう。アルバム未収録曲を歌いだした。彼女のCDジャケットはセピア色で彩られている。そして、そのリズの歌声は単色のセピア色そのものだった。
ジェニュイン(純粋)で、無垢で、素朴で、汚されていなくて、誠実で、シンプルで。こうした単語以外の他に形容の言葉が浮かばない。彼女には七色のカラーはいらない。アンコールを含めてリズは1時間15分にわたってモノトーンの9曲を歌った。カサンドラ・ウィルソン、ダイアン・リーヴスなどと共通する匂いが漂う。彼女は太陽ではなく、月だ。
体が大きいので、歌いながら動かす腕ひとつで、ヴィジュアル的にもリズの世界を作り出す。存在感が生まれる。若干、曲調が単調なために、一本調子になるところはあるが、シンガーとしてはしっかりと地に足がついていることがわかる。スタンダードの一曲「ネイチャー・ボーイ」を歌っていたが、なかなかいい雰囲気だった。
ライヴが終わった後、ちょっとだけ楽屋に行った。リズは大きなりんごを丸ごとかじっていた。「あ、ごめんなさい。こんな姿で」 「りんごが好きなんですね」 安定した歌声はどのように維持しているのか。「2−3日前までずっと咳がでててね。でも、直っちゃったわ。特にこれと言って、何かをするということはないわね」 「一部と二部では曲は変えるの?」 「変えるわ。ちょっとだけ。そのときの気分で」
ジョニ・ミッチェルの「フィドル・アンド・ドラム」を、やらなかった。なぜ。「ああ、あの曲ね。別に理由はないわ。できるわ。でも、あの曲は、今、アメリカではちょっと歌いにくいわね」 「ではなぜ、録音したの?」 「プロデューサーが録音して欲しいって言ったから(笑)」 アメリカでちょっと歌いにくいというのは、歌詞のニュアンスがちょっと反戦歌的なところがあるからだ。
繊細で几帳面風な人物に見受けられた。淡くライトアップされた人影のないモーションブルーを出て車を走らせていると、横の歩道を大柄な女性が、それほど大柄ではない男性と歩いていた。なんとリズ・ライトとミュージシャンのひとりだった。ホテルまで歩いて帰っているところだった。リズ・ライト、ホテルまで徒歩で帰る・・・。まあもちろん、車も用意されているのだろうが、本人が歩いて帰りたいと言ったのだろう。そのあたりが、素朴な23歳なのかもしれない。
夜風は涼しく、大きな観覧車のライトは消え、時刻を表す数字だけが光っていた。そして、リズの後ろには三日月が浮いていた。
(2003年9月18日木セカンド・横浜モーションブルー=リズ・ライト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>WRIGHT, LIZ
残るリズ・ライトのライヴは20日(土)横浜モーションブルーで。
ただし、満員。立ち見なら可能かもしれません。
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リズ・ライト・ライヴ
2003年9月17日〜20日 横浜モーションブルー
モーションブルーのサイト(日本語)
http://www.motionblue.co.jp/schedule/index.html