(バーケイズ・ライヴ=パート2=昨日からのつづき)
【バーケイズ・ライヴ(パート2)〜ファンク大爆発の夜】
オールドスクール。
特別のゲストが来ていて、ドラマーが交代した。そして、流れてきた「パープル・レイン」。すると、そのドラマーを見たソウルメイト、ハセヤンが言った。「おおっ、あれ、ニューヨークで見たプリンスのときのドラマーじゃないか?」「ええっ、なんで日本にいるの?」 よくわからない。プリンスといえば、ツナさんである。そこでさっそく彼に問い合わせメール。「プリンスのドラマーは?」「今はCCダナムという女性です」「男で直近は? 誰か来日してます?」「前ドラマー、ジョン・ブラックウェルが来日中です」 それだ! 「ダブルのタカコで来てるはずです。それ、吉岡先生から教えてもらった情報ですよ」 が〜〜ん忘れてた。(笑)
なんと、メンバーのエマニュエルに代わってドラムスの席についたのは、元プリンスのドラマー、ジョン・ブラックウェルだったのだ。ギターのトニーが、まるでプリンスの如く歌い、プリンス・バンドのジョンがドラムを叩いた「パープル・レイン」はフルサイズ10分以上になり、やんやの大喝采を集めた。それは手馴れたはずだ。いやあ、スローなのに盛り上がった。いいドラマーだ。
メンバーが彼を紹介する。「ジョン・ブラックウェル!!」 拍手の中、いったんステージ横に退出。そして、今度は何をするかと思ったら、ベース奏者のジェームス・アレキサンダーが前に進み出た。MCによって、「われわれはグループを結成して40周年になる。(筆者注、初ヒットからはすでに41年、結成からは42年) 以前、オーティス・レディングのバックをつとめていた」と紹介され、怒涛のオーティス・メドレーが始まった。しわがれ声のジェームスの歌声は、オーティスを真似たものか。なんと渋い声。いっきにコットンクラブが1960年代のR&Bワールドにワープした。
オーティスのバックを務めたバーケイズが、しかも、実際にオーティスの後ろでベースを弾いたジェームス・アレキサンダーがそのオーティスの曲を歌う。「オーティス・レディング!! ウイ・ミス・ユー!!」とジェームスが叫ぶ。感動だ! 忌野清志郎さんに見せたかったな。「アイ・キャント・ターン・ユー・ルーズ」から始まり、ノンストップで「トライ・ア・リトル・テンダーネス」に。ここからリードがラリーに変わる。これは最近は映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でも、コーヒーショップ、スターバックスでもかかっていて、ちょっとしたブームだ。さらに「サティスファクション」。ストーンズのカヴァーをオーティスがやったヴァージョン。そして、そのまま「ドック・オブ・ザ・ベイ」だ。途中のサビの部分を、ラリーはマイクを観客に向け歌わせようとしたが、ちょっと歌詞部分がわからず、あまり歌えなかった。でも、口笛の部分はみんながなんとかやった。「ドック・オブ・ザ・ベイ」の歌詞は基礎教養として覚えておかないとだめか。(笑) このオーティス・メドレーは前回になかったので、定番にすればいいのにと思った。
そして、アーチー・ラヴが再度登場し、彼の持ち歌「トゥルー・ラヴ」を披露。さらにもう1曲マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」をダレルが。この時点で、もう20%増量なんてものではなく、50%増量くらいになっているのではないか。そして、これを終えて、バーケイズ・ショウへ戻る。「ホーリー・ゴースト」だ。なんと、この「ホーリー・ゴースト」では客席にいたジェイ公山さん、ステージに上げられ、熱唱! なんという増量。(笑) グッドジョブ! ジェイさんはバーケイズと一緒にレコーディングもしているわけだし、ステージにあがってもなんら違和感なしだ。そして、ノンストップで「フリーク・ショウ」。これで一度本編を終わり、アンコールに「ユア・プレイス・オア・マイン」。
「You Ready Go Home? (家に帰りたいか?)」 「ノ〜〜〜〜」
なんとこのアンコールでは、キーボード、エズラとカートのソロがあり、その後にジョンがドラム・ソロに再突入。これがすごかった。ドラム・ソロをやっている間、メンバーはドラマーを見つつ、手で仰ぐしぐさ。そして、ジョンのドラム・ソロ。あいた口がふさがらないとはこのこと。元ドラマー、ハセヤンも「これはすごいわ」とえらく感激。
そして、ジョンがドラムに入ったことから、バンドの本来のドラマー、エマニュエルがあぶれたと思いきや、ジェームスが彼を手招きし、エマニュエルにベースを手渡すではないか。彼もかなり巨漢なので、ベースが小さく見えるが、いきなりバチバチものすごいソロを叩く。チョッパーだ。ええっ、彼はベースもできるんだ。みな、器用。しかも、ドラムスとベース(実際はドラマー)のインタープレイがまたまたおもしろい。これが結局15分近くになるロング・ヴァージョンで大団円となった。
しかし、エネルギッシュですごい。50%大増量のライヴであった。しかも、よくセットリストを見ればわかるように、スライ、マーヴィン、オーティスまで、ある意味「オールド・スクール・ソウル」のデパートではないか。
ライヴが終わると、DJアトムが手招き。すでに目もうつろ状態。相当よっぱらっている様子。聴けばファーストとセカンドを通しで見て、前日も見たという。都合3回見て「僕は1回しか見てない」というと、「(オレは)3回で、吉岡くんに勝ったよ」と自慢げ。ジェイさんに「グッド・ジョブ」と声をかけると、「今日はただの客ですから」。そして、『ソウル・トレイン』のDJリュウが。「今、ジョン・ブラックウェルのめんどうみてるんですよ、今回だけですけどね」と。あ〜〜なるほど、それで。「今回のバンマスはキーボードの学史だよ」 ああ、なるほど。それはすごいや。あさって(31日・木曜)ダブルやるから来てくださいと、ということで急遽行くことに。
ライヴ後、汗を拭くまもなくメンバーはサイン会にでてくる。何人かと話したことをまとめてみる。
ステージ向かって左のスキンヘッドのキーボード、エズラ。右側のキーボードもスキンヘッド。右がカート・クレイトン。これまでにも何度も来ている、愛称KC。ヴォーカル・ダレルとドラムス、エマニュエルは兄弟で、ダレルが兄。エマニュエルは3年ほど前にバーケイズに入ったが、前回来日時(2006年)は別の仕事が先に入っていてバーケイズの一員としては来日できなかった、という。最初3年前にバーケイズ入りしたときは、キーボード奏者として入ったそうだ。ということは彼はドラムス、キーボード、そして、ベースも弾くのか。まさにマルチ・プレイヤーではないか。
アーチーは先に述べたとおり、南部メンフィスを中心に活躍するヴェテラン。1958年11月23日シカゴ生まれ。スタックス周辺で活躍し、ソウル・チルドレンらと関係のある仕事をしてきた。最近ではJブラックフットの最新作『イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー』やソウル・チルドレンの『スティル・スタディー』などに曲提供したりプロデュースをしていたりする。レニー・ウィリアムスとJブラックフットのデュエットをプロデュースしたのは書いた。
キーボードのエズラは3年ほどバーケイズに在籍。Jブラックフットなどとも仕事をしてきた。ワーナーから1995年に出たRAWというグループにもいたという。オリジナル・メンバー、ジェームス・アレキサンダーは「足ががくがくするよ」と言ってぼやく。誕生日はと訊くと「1月19日」。「年号は?」「1950年、58歳だ、もうオールドだよ」との答え。資料によっては1948年生まれ説もあるが、果たして。
それにしても、これだけ熱いファンクを聴かせてくれるバーケイズ。おそらく日本のファンのリアクションも十分楽しんでいるようだ。いいミュージシャンといいファンのいい関係ができて、いいライヴが行われる。最高に素敵だ。今回彼らに新たな名前を授けたい。「キング・オブ・オールド・スクール・ソウル」。
(セットリスト、メンバー表は昨日付けの日記に)
(2008年07月29日火曜、丸の内コットンクラブ=バーケイズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Bar Kays
2008-129
【バーケイズ・ライヴ(パート2)〜ファンク大爆発の夜】
オールドスクール。
特別のゲストが来ていて、ドラマーが交代した。そして、流れてきた「パープル・レイン」。すると、そのドラマーを見たソウルメイト、ハセヤンが言った。「おおっ、あれ、ニューヨークで見たプリンスのときのドラマーじゃないか?」「ええっ、なんで日本にいるの?」 よくわからない。プリンスといえば、ツナさんである。そこでさっそく彼に問い合わせメール。「プリンスのドラマーは?」「今はCCダナムという女性です」「男で直近は? 誰か来日してます?」「前ドラマー、ジョン・ブラックウェルが来日中です」 それだ! 「ダブルのタカコで来てるはずです。それ、吉岡先生から教えてもらった情報ですよ」 が〜〜ん忘れてた。(笑)
なんと、メンバーのエマニュエルに代わってドラムスの席についたのは、元プリンスのドラマー、ジョン・ブラックウェルだったのだ。ギターのトニーが、まるでプリンスの如く歌い、プリンス・バンドのジョンがドラムを叩いた「パープル・レイン」はフルサイズ10分以上になり、やんやの大喝采を集めた。それは手馴れたはずだ。いやあ、スローなのに盛り上がった。いいドラマーだ。
メンバーが彼を紹介する。「ジョン・ブラックウェル!!」 拍手の中、いったんステージ横に退出。そして、今度は何をするかと思ったら、ベース奏者のジェームス・アレキサンダーが前に進み出た。MCによって、「われわれはグループを結成して40周年になる。(筆者注、初ヒットからはすでに41年、結成からは42年) 以前、オーティス・レディングのバックをつとめていた」と紹介され、怒涛のオーティス・メドレーが始まった。しわがれ声のジェームスの歌声は、オーティスを真似たものか。なんと渋い声。いっきにコットンクラブが1960年代のR&Bワールドにワープした。
オーティスのバックを務めたバーケイズが、しかも、実際にオーティスの後ろでベースを弾いたジェームス・アレキサンダーがそのオーティスの曲を歌う。「オーティス・レディング!! ウイ・ミス・ユー!!」とジェームスが叫ぶ。感動だ! 忌野清志郎さんに見せたかったな。「アイ・キャント・ターン・ユー・ルーズ」から始まり、ノンストップで「トライ・ア・リトル・テンダーネス」に。ここからリードがラリーに変わる。これは最近は映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でも、コーヒーショップ、スターバックスでもかかっていて、ちょっとしたブームだ。さらに「サティスファクション」。ストーンズのカヴァーをオーティスがやったヴァージョン。そして、そのまま「ドック・オブ・ザ・ベイ」だ。途中のサビの部分を、ラリーはマイクを観客に向け歌わせようとしたが、ちょっと歌詞部分がわからず、あまり歌えなかった。でも、口笛の部分はみんながなんとかやった。「ドック・オブ・ザ・ベイ」の歌詞は基礎教養として覚えておかないとだめか。(笑) このオーティス・メドレーは前回になかったので、定番にすればいいのにと思った。
そして、アーチー・ラヴが再度登場し、彼の持ち歌「トゥルー・ラヴ」を披露。さらにもう1曲マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」をダレルが。この時点で、もう20%増量なんてものではなく、50%増量くらいになっているのではないか。そして、これを終えて、バーケイズ・ショウへ戻る。「ホーリー・ゴースト」だ。なんと、この「ホーリー・ゴースト」では客席にいたジェイ公山さん、ステージに上げられ、熱唱! なんという増量。(笑) グッドジョブ! ジェイさんはバーケイズと一緒にレコーディングもしているわけだし、ステージにあがってもなんら違和感なしだ。そして、ノンストップで「フリーク・ショウ」。これで一度本編を終わり、アンコールに「ユア・プレイス・オア・マイン」。
「You Ready Go Home? (家に帰りたいか?)」 「ノ〜〜〜〜」
なんとこのアンコールでは、キーボード、エズラとカートのソロがあり、その後にジョンがドラム・ソロに再突入。これがすごかった。ドラム・ソロをやっている間、メンバーはドラマーを見つつ、手で仰ぐしぐさ。そして、ジョンのドラム・ソロ。あいた口がふさがらないとはこのこと。元ドラマー、ハセヤンも「これはすごいわ」とえらく感激。
そして、ジョンがドラムに入ったことから、バンドの本来のドラマー、エマニュエルがあぶれたと思いきや、ジェームスが彼を手招きし、エマニュエルにベースを手渡すではないか。彼もかなり巨漢なので、ベースが小さく見えるが、いきなりバチバチものすごいソロを叩く。チョッパーだ。ええっ、彼はベースもできるんだ。みな、器用。しかも、ドラムスとベース(実際はドラマー)のインタープレイがまたまたおもしろい。これが結局15分近くになるロング・ヴァージョンで大団円となった。
しかし、エネルギッシュですごい。50%大増量のライヴであった。しかも、よくセットリストを見ればわかるように、スライ、マーヴィン、オーティスまで、ある意味「オールド・スクール・ソウル」のデパートではないか。
ライヴが終わると、DJアトムが手招き。すでに目もうつろ状態。相当よっぱらっている様子。聴けばファーストとセカンドを通しで見て、前日も見たという。都合3回見て「僕は1回しか見てない」というと、「(オレは)3回で、吉岡くんに勝ったよ」と自慢げ。ジェイさんに「グッド・ジョブ」と声をかけると、「今日はただの客ですから」。そして、『ソウル・トレイン』のDJリュウが。「今、ジョン・ブラックウェルのめんどうみてるんですよ、今回だけですけどね」と。あ〜〜なるほど、それで。「今回のバンマスはキーボードの学史だよ」 ああ、なるほど。それはすごいや。あさって(31日・木曜)ダブルやるから来てくださいと、ということで急遽行くことに。
ライヴ後、汗を拭くまもなくメンバーはサイン会にでてくる。何人かと話したことをまとめてみる。
ステージ向かって左のスキンヘッドのキーボード、エズラ。右側のキーボードもスキンヘッド。右がカート・クレイトン。これまでにも何度も来ている、愛称KC。ヴォーカル・ダレルとドラムス、エマニュエルは兄弟で、ダレルが兄。エマニュエルは3年ほど前にバーケイズに入ったが、前回来日時(2006年)は別の仕事が先に入っていてバーケイズの一員としては来日できなかった、という。最初3年前にバーケイズ入りしたときは、キーボード奏者として入ったそうだ。ということは彼はドラムス、キーボード、そして、ベースも弾くのか。まさにマルチ・プレイヤーではないか。
アーチーは先に述べたとおり、南部メンフィスを中心に活躍するヴェテラン。1958年11月23日シカゴ生まれ。スタックス周辺で活躍し、ソウル・チルドレンらと関係のある仕事をしてきた。最近ではJブラックフットの最新作『イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー』やソウル・チルドレンの『スティル・スタディー』などに曲提供したりプロデュースをしていたりする。レニー・ウィリアムスとJブラックフットのデュエットをプロデュースしたのは書いた。
キーボードのエズラは3年ほどバーケイズに在籍。Jブラックフットなどとも仕事をしてきた。ワーナーから1995年に出たRAWというグループにもいたという。オリジナル・メンバー、ジェームス・アレキサンダーは「足ががくがくするよ」と言ってぼやく。誕生日はと訊くと「1月19日」。「年号は?」「1950年、58歳だ、もうオールドだよ」との答え。資料によっては1948年生まれ説もあるが、果たして。
それにしても、これだけ熱いファンクを聴かせてくれるバーケイズ。おそらく日本のファンのリアクションも十分楽しんでいるようだ。いいミュージシャンといいファンのいい関係ができて、いいライヴが行われる。最高に素敵だ。今回彼らに新たな名前を授けたい。「キング・オブ・オールド・スクール・ソウル」。
(セットリスト、メンバー表は昨日付けの日記に)
(2008年07月29日火曜、丸の内コットンクラブ=バーケイズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Bar Kays
2008-129
●Double “We R&B” Live
2008年8月2日【ダブル・スタジオ・コースト・ライヴ】
超満員。
バーケイズでジョン・ブラックウェルのドラムを見たおかげで、新木場スタジオ・コーストで行われたダブルのイヴェント・ライヴへ。うわさには聞いていたが、圧倒的に観客は女性が多かった。最初9−1くらいかと思ったら、7−3くらいか。新木場スタジオ・コーストは1階の立見席は立錐の余地もないほどの超満員。2階席も立ち見が多数でて身動きが取れなかった。何度も衣装チェンジがあり、さすがに女性ファンが多いだけはある。今回のイヴェントのテーマは、「ウィ・R&B」。「私たち〜R&B」という意味か。
ダブルのタカコは、もはや20代のファッション・カリスマ的存在のような感じさえうかがえる。いいR&B風楽曲がうまく現代風にプロデュースされ、ファッションを含めたアーティスト・イメージが実にうまく形作られ、一挙にブレイクした総合プロデュースの勝利という印象を持った。「見せ方」が実にうまいと思った。その点で、初期のメアリー・J・ブライジ的なイメージかもしれない。ダブル・サウンドのようなものが完成したところが、イメージ作りの大きな土台になっているのだろう。
この日はフル・オブ・ハーモニー(FOH)や女性ラッパー、アクセント(アーティスト表記は、Ak’Sent)などのゲストがたくさんでてきた。中でももっとも観客が沸いたのは、アンコール1曲目で安室奈美恵がでてきた瞬間。会場の温度が一気に3度は上がった。2人で軽い振り付けをあわせて踊って可愛かった。アンコールで流れた「残り火」、さすがにいい曲を最後に持ってくるなあ、と思ったら、これ、「月ユニ」で松尾さんが思い切りかけまくっていて、自動的に(僕に)刷り込まれていたものでした。(笑)改めていい曲だと思いました、ハイ。
バンドは、ドラムス、ベース、キーボード2にコーラス2。さらにダンサーが4人+1(サルサ・ダンサー)。バンド・マスターが、本ブログに何度も登場している学史こと藤川学史くんだ。バンドをまとめてファンキーなサウンドを作り上げた。タカコ自身は年間何十本もライヴをやって来ているようには見えないので、観客とのやりとりなどぎこちない部分もあるが、一生懸命歌と踊りを練習して、満員の観客の前で披露したという感じだ。おつかれさまでした。ハイ。
■メンバー
Members:
Fujikawa Gakushi : Keyboards & Vocoder, Musical Director
John Blackwell : Drums
Hiro : Bass
Makoto : Keyboards
Yurai : Chorus
Asiah : Chorus
Dancers: Li’ Miho, Nanako, Miho Brown, ,Chiyuki, Yuuki (Salsa)
Guests: Full Of Harmony、Ak’Sent、ZEEBRA、VERBAL(m-flo)、安室奈美恵
■セットリスト ダブル@スタジオ・コースト、2008年7月31日木曜
Setlist : Double @ Studio Coast, Shinkiba
01. Opening
02. Wonderful
03. Destiny
04. Driving All Night
05. You Got To
06. U
07. Handle
08. We International 〜 Ak’Sent (Original song)
09. Arabian Dream
10. Reflex
11. Souljah
12. Summer Time
13. Piano Solo
14. Spring Love
15. Breath Again
16. Okaeri
17. プラチナム・デート
18. Crystal Clear (Interlude)
19. Free Style (Interlude)
20. Little Things You Do (Remix) 〜Make Me Happy
21. Sweet Time (Soulive Remix) (Introducing Members)
22. Shake
23. Angel
24. D-O-U-B-L-E (Intro)
25. Call Me
26. Emotions
27. Rock The Party
Enc.1. Black Diamond (Featuring Amuro Namie)
Enc.2. Rollin’ On
Enc.3. Who’s That Girl
Enc.4. Bed 〜 残り火 〜 Eternal Bed
Show ended 22:18
(2008年7月31日木曜、新木場スタジオ・コースト=ダブル・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Double
2008-130
超満員。
バーケイズでジョン・ブラックウェルのドラムを見たおかげで、新木場スタジオ・コーストで行われたダブルのイヴェント・ライヴへ。うわさには聞いていたが、圧倒的に観客は女性が多かった。最初9−1くらいかと思ったら、7−3くらいか。新木場スタジオ・コーストは1階の立見席は立錐の余地もないほどの超満員。2階席も立ち見が多数でて身動きが取れなかった。何度も衣装チェンジがあり、さすがに女性ファンが多いだけはある。今回のイヴェントのテーマは、「ウィ・R&B」。「私たち〜R&B」という意味か。
ダブルのタカコは、もはや20代のファッション・カリスマ的存在のような感じさえうかがえる。いいR&B風楽曲がうまく現代風にプロデュースされ、ファッションを含めたアーティスト・イメージが実にうまく形作られ、一挙にブレイクした総合プロデュースの勝利という印象を持った。「見せ方」が実にうまいと思った。その点で、初期のメアリー・J・ブライジ的なイメージかもしれない。ダブル・サウンドのようなものが完成したところが、イメージ作りの大きな土台になっているのだろう。
この日はフル・オブ・ハーモニー(FOH)や女性ラッパー、アクセント(アーティスト表記は、Ak’Sent)などのゲストがたくさんでてきた。中でももっとも観客が沸いたのは、アンコール1曲目で安室奈美恵がでてきた瞬間。会場の温度が一気に3度は上がった。2人で軽い振り付けをあわせて踊って可愛かった。アンコールで流れた「残り火」、さすがにいい曲を最後に持ってくるなあ、と思ったら、これ、「月ユニ」で松尾さんが思い切りかけまくっていて、自動的に(僕に)刷り込まれていたものでした。(笑)改めていい曲だと思いました、ハイ。
バンドは、ドラムス、ベース、キーボード2にコーラス2。さらにダンサーが4人+1(サルサ・ダンサー)。バンド・マスターが、本ブログに何度も登場している学史こと藤川学史くんだ。バンドをまとめてファンキーなサウンドを作り上げた。タカコ自身は年間何十本もライヴをやって来ているようには見えないので、観客とのやりとりなどぎこちない部分もあるが、一生懸命歌と踊りを練習して、満員の観客の前で披露したという感じだ。おつかれさまでした。ハイ。
■メンバー
Members:
Fujikawa Gakushi : Keyboards & Vocoder, Musical Director
John Blackwell : Drums
Hiro : Bass
Makoto : Keyboards
Yurai : Chorus
Asiah : Chorus
Dancers: Li’ Miho, Nanako, Miho Brown, ,Chiyuki, Yuuki (Salsa)
Guests: Full Of Harmony、Ak’Sent、ZEEBRA、VERBAL(m-flo)、安室奈美恵
■セットリスト ダブル@スタジオ・コースト、2008年7月31日木曜
Setlist : Double @ Studio Coast, Shinkiba
01. Opening
02. Wonderful
03. Destiny
04. Driving All Night
05. You Got To
06. U
07. Handle
08. We International 〜 Ak’Sent (Original song)
09. Arabian Dream
10. Reflex
11. Souljah
12. Summer Time
13. Piano Solo
14. Spring Love
15. Breath Again
16. Okaeri
17. プラチナム・デート
18. Crystal Clear (Interlude)
19. Free Style (Interlude)
20. Little Things You Do (Remix) 〜Make Me Happy
21. Sweet Time (Soulive Remix) (Introducing Members)
22. Shake
23. Angel
24. D-O-U-B-L-E (Intro)
25. Call Me
26. Emotions
27. Rock The Party
Enc.1. Black Diamond (Featuring Amuro Namie)
Enc.2. Rollin’ On
Enc.3. Who’s That Girl
Enc.4. Bed 〜 残り火 〜 Eternal Bed
Show ended 22:18
(2008年7月31日木曜、新木場スタジオ・コースト=ダブル・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Double
2008-130
【ジョー・サンプル&ランディー・クロフォード新作9月に】
再会。
金曜日の朝、ジョー・サンプルに電話インタヴュー。ジョー・サンプルが2006年にリリースしたアルバム『フィーリング・グッド』に続く新作『ノー・リグレッツ』を9月24日発売するが、それに関するもの。リリースまでだいぶあるが、内容がひじょうによかったので先行して書いてしまう。
この新作は、なんと前作同様ジョー・サンプルとランディー・クロフォードのコラボが再現されるものだ。ジョーが、1作だけでなく2作連続で同じシンガーと手を組むのも前代未聞で、よほどランディーとの共演が気に入っているものとみえる。プロデュースはこれも前作同様巨匠トミー・リピューマ。
バックを務めるのは、ドラムス・スティーヴ・ガッド、ベース・クリスチャン・マクブライド、ジョーのトリオ。これも前作の基本メンバー。「勝っているときには、チームを動かすな」 これは鉄則だ。このメンバーにギター、サックス、フルーゲル・ホーンなどで客演がある。
前作が大変評判が高く、支持されたために、ほぼ同一コンセプトでの第2作ということになる。日本でも昨年この2人は東京ジャズで共演を見せた。同じメンバーたちが約2年ぶりに再会し、トミー、ジョー、ランディーらは5-60曲の候補から今回13曲を選んだ。そして、その選曲のバランスが見事だ。ソウル、ジャズ、R&B、ゴスペル、ブルーズ、カントリー、そして、ヨーロッパ楽曲まで、実にアメリカ・ポピュラー音楽を俯瞰した選曲になっている。
アルバム・タイトル曲となる『ノー・リグレッツ』は、もともと1961年にフランスのエディット・ピアフがレコーディングしてヒットさせた曲。また、カントリー曲、ブルーズ曲もランディーが歌うことによって、そんな出所を忘れさせられてしまう。すばらしい。
ジョーは、いずれの作品も当時自分がその曲をアレンジしたら、どうアレンジしただろう、ということを考えながらアレンジして作りあげたという。
この中で僕が個人的にひじょうに嬉しかった選曲が1972年のメンフィスのメル&ティムの大ヒット「スターティング・オール・オーヴァー・アゲイン」。ジョーのピアノのイントロから始まり、ランディーの歌声がからんでくる。オリジナルは男性のデュエットだが、ここではランディー1人で歌う。
ジョーは言う。「昨年11月にモスクワでフィルハーモニック・オーケストラとともにランディーが歌った。そのときのブルーズ・シンガーとしての魅力が存分に出て、それはそれは素晴らしい夜になった。ブルーズ・シンガー、ソウル・シンガー、としての魅力が輝いていた。そのとき、ランディーとそんな彼女のブルーズ・シンガーとしての顔を見せたアルバムを作ってみようという気になったんだ」
そして、1曲目は「エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルーズ」。これは、ジョーが10代だったころ、よく聴いていて気に入っていた曲だという。そんな曲を50年以上経た今レコーディングする。再び、この最新作は、ジョーの音楽歴史を振り返る傑作となった。
■ジョー・サンプル&ランディー・クロフォード
Joe Sample & Randy Crawford : No Regrets
(ビデオアーツVACM-1359 2940円税込み)(2008年9月24日日本先行発売)
Track List :
( ) indicates original acts or act who made it hit and hit year
01. Everyday I Have The Blues (Count Basie / Joe Williams 1956)
02. Just One Smile (Dusty Springfield 1969)
03. Respect Yourself (Staple Singers 1971)
04. Angel (Sara McLachlan 1997)
05. Me, Myself & I (Billie Holiday 1937)
06. Today I Sing The Blues (Aretha Franklin 1960)
07. Don’t Pull All Your Eggs In One Basket (Ray Charles circa 1946)
08. This Bitter Earth (Dinah Washington 1960)
09. Starting All Over Again (Mel & Tim 1972)
10. No Regrets (Edith Piaf 1961)
11. Lead Me On (Bobby Blue Bland 1961)
12. Angel Of The Morning (Eavie Sands 1967)
13. Choices (George Jones 1999)
■
September 22, 2007
Tokyo Jazz 2007: Joe Sample & Randy Crawford, Candy, Etc.
http://blog.soulsearchin.com/archives/002038.html
2007年9月、ジョー&ランディーのライヴ
ENT>ARTIST>Sample, Joe & Crawford, Randy
再会。
金曜日の朝、ジョー・サンプルに電話インタヴュー。ジョー・サンプルが2006年にリリースしたアルバム『フィーリング・グッド』に続く新作『ノー・リグレッツ』を9月24日発売するが、それに関するもの。リリースまでだいぶあるが、内容がひじょうによかったので先行して書いてしまう。
この新作は、なんと前作同様ジョー・サンプルとランディー・クロフォードのコラボが再現されるものだ。ジョーが、1作だけでなく2作連続で同じシンガーと手を組むのも前代未聞で、よほどランディーとの共演が気に入っているものとみえる。プロデュースはこれも前作同様巨匠トミー・リピューマ。
バックを務めるのは、ドラムス・スティーヴ・ガッド、ベース・クリスチャン・マクブライド、ジョーのトリオ。これも前作の基本メンバー。「勝っているときには、チームを動かすな」 これは鉄則だ。このメンバーにギター、サックス、フルーゲル・ホーンなどで客演がある。
前作が大変評判が高く、支持されたために、ほぼ同一コンセプトでの第2作ということになる。日本でも昨年この2人は東京ジャズで共演を見せた。同じメンバーたちが約2年ぶりに再会し、トミー、ジョー、ランディーらは5-60曲の候補から今回13曲を選んだ。そして、その選曲のバランスが見事だ。ソウル、ジャズ、R&B、ゴスペル、ブルーズ、カントリー、そして、ヨーロッパ楽曲まで、実にアメリカ・ポピュラー音楽を俯瞰した選曲になっている。
アルバム・タイトル曲となる『ノー・リグレッツ』は、もともと1961年にフランスのエディット・ピアフがレコーディングしてヒットさせた曲。また、カントリー曲、ブルーズ曲もランディーが歌うことによって、そんな出所を忘れさせられてしまう。すばらしい。
ジョーは、いずれの作品も当時自分がその曲をアレンジしたら、どうアレンジしただろう、ということを考えながらアレンジして作りあげたという。
この中で僕が個人的にひじょうに嬉しかった選曲が1972年のメンフィスのメル&ティムの大ヒット「スターティング・オール・オーヴァー・アゲイン」。ジョーのピアノのイントロから始まり、ランディーの歌声がからんでくる。オリジナルは男性のデュエットだが、ここではランディー1人で歌う。
ジョーは言う。「昨年11月にモスクワでフィルハーモニック・オーケストラとともにランディーが歌った。そのときのブルーズ・シンガーとしての魅力が存分に出て、それはそれは素晴らしい夜になった。ブルーズ・シンガー、ソウル・シンガー、としての魅力が輝いていた。そのとき、ランディーとそんな彼女のブルーズ・シンガーとしての顔を見せたアルバムを作ってみようという気になったんだ」
そして、1曲目は「エヴリデイ・アイ・ハヴ・ザ・ブルーズ」。これは、ジョーが10代だったころ、よく聴いていて気に入っていた曲だという。そんな曲を50年以上経た今レコーディングする。再び、この最新作は、ジョーの音楽歴史を振り返る傑作となった。
■ジョー・サンプル&ランディー・クロフォード
Joe Sample & Randy Crawford : No Regrets
(ビデオアーツVACM-1359 2940円税込み)(2008年9月24日日本先行発売)
Track List :
( ) indicates original acts or act who made it hit and hit year
01. Everyday I Have The Blues (Count Basie / Joe Williams 1956)
02. Just One Smile (Dusty Springfield 1969)
03. Respect Yourself (Staple Singers 1971)
04. Angel (Sara McLachlan 1997)
05. Me, Myself & I (Billie Holiday 1937)
06. Today I Sing The Blues (Aretha Franklin 1960)
07. Don’t Pull All Your Eggs In One Basket (Ray Charles circa 1946)
08. This Bitter Earth (Dinah Washington 1960)
09. Starting All Over Again (Mel & Tim 1972)
10. No Regrets (Edith Piaf 1961)
11. Lead Me On (Bobby Blue Bland 1961)
12. Angel Of The Morning (Eavie Sands 1967)
13. Choices (George Jones 1999)
■
September 22, 2007
Tokyo Jazz 2007: Joe Sample & Randy Crawford, Candy, Etc.
http://blog.soulsearchin.com/archives/002038.html
2007年9月、ジョー&ランディーのライヴ
ENT>ARTIST>Sample, Joe & Crawford, Randy
【ニューヨーク・タイムス紙ハイラムの死去を報道】
報道。
ニューヨーク・タイムス紙が7月31日付けでハイラム・ブロックの死去を報じた。約700ワード弱の同記事では死因はまだ特定できないが、16年間同居していたパートナーのジェニファー・アームストロングの言葉として、ハイラムが舌癌だったことを明かしている。
Hiram Bullock, 52, Soulful Guitarist, Dies
http://www.nytimes.com/2008/07/31/arts/music/31bullock.html
また、ハイラムがビリー・ジョエルの『ストレンジャー』のアルバム、スティーリー・ダンの『ガウチョ』、スティングの『ナッシング・ライク・ザ・サン』などの大ヒットアルバムでもプレイしている、と書き、さらに、ハイラムには2人の義理の息子、4人の兄弟が残されているとしている。
音楽業界誌ビルボードは依然ハイラム死去のニュースを報じていない。
なお、本人のウェッブサイトも、やっと本人死去の情報をアップした。また同サイト内にある掲示板にも多くのお悔やみの言葉が寄せられている。
http://www.hirambullock.com/
http://www.hirambullock.com/lounge.html
■関連記事
July 30, 2008
Hiram Bullock Dies At 52
http://blog.soulsearchin.com/archives/002624.html
July 27, 2008
(Bulletin) Hiram Bullock Dies At 52 ??
http://blog.soulsearchin.com/archives/002620.html
+++++
ENT>OBITUARY>Bullock, Hiram (September 11, 1955 - July 25, 2008 = 52)
報道。
ニューヨーク・タイムス紙が7月31日付けでハイラム・ブロックの死去を報じた。約700ワード弱の同記事では死因はまだ特定できないが、16年間同居していたパートナーのジェニファー・アームストロングの言葉として、ハイラムが舌癌だったことを明かしている。
Hiram Bullock, 52, Soulful Guitarist, Dies
http://www.nytimes.com/2008/07/31/arts/music/31bullock.html
また、ハイラムがビリー・ジョエルの『ストレンジャー』のアルバム、スティーリー・ダンの『ガウチョ』、スティングの『ナッシング・ライク・ザ・サン』などの大ヒットアルバムでもプレイしている、と書き、さらに、ハイラムには2人の義理の息子、4人の兄弟が残されているとしている。
音楽業界誌ビルボードは依然ハイラム死去のニュースを報じていない。
なお、本人のウェッブサイトも、やっと本人死去の情報をアップした。また同サイト内にある掲示板にも多くのお悔やみの言葉が寄せられている。
http://www.hirambullock.com/
http://www.hirambullock.com/lounge.html
■関連記事
July 30, 2008
Hiram Bullock Dies At 52
http://blog.soulsearchin.com/archives/002624.html
July 27, 2008
(Bulletin) Hiram Bullock Dies At 52 ??
http://blog.soulsearchin.com/archives/002620.html
+++++
ENT>OBITUARY>Bullock, Hiram (September 11, 1955 - July 25, 2008 = 52)
【ユリ、ブルース・アレー単独ソロ名義で初登場】
四季。
久保田利伸やAIのバック・コーラスをつとめたり、『ソウル・サーチン:ザ・セッション』でも歌声を聴かせてくれているアジア一のR&B歌姫ユリが、ブルース・アレーに自己名義で初登場、堂々たるライヴを見せた。ユリ自身の単独ライヴは2007年8月9日の渋谷JZブラット以来2度目。
メンバーは昨年とほぼ同メンバー、コーラスに盟友有坂美香さんがいないくらいか。全15曲。カヴァーありオリジナルありのヴァラエティーに富んだ構成だ。バンドはそれにしてもプロにして強力。特に最初からベース奏者ジーノの音の響きが抜群だった。ジーノの音はここブルース・アレーで聴くと他とかなり違っていい音がする。
ローズ・ロイスのオリジナルでフェイス・エヴァンスもカヴァーした「ラヴ・ドント・リヴ・ヒア・エニモア」から「メモリー・レーン」へメドレーにしてスタート。また『ピアノ・ダンス』というハウス系のコンピでラヴ・ディヴィニティーという名前で歌っていることを明かし、その曲を歌った。普通のソウル・バラードから、こうしたクラブ系の曲までなんなく歌うが、ドラムスのジェイ・スティックスもいつもながら控えめに、違ったタイプの曲を実にいい感じでサポートする。あまりでしゃばらないいいドラマーだ。また「ロック・ステディー」などでの柿崎さんのハモンド・オルガンのソロなど最高だ。そして、ファーストの圧巻はブライアン・マクナイトの「ネヴァー・フェルト・ディス・ウェイ」。彼と2人だけで聴かせ、「声と歌で観客を掴めるシンガー」ということを強くアピールした。曲も実に彼女にあっていた。久保田さんがユリを「アジア一うまいシンガー」というのもうなずける。この日は彼も仕事を抜け出し、ファーストからユリのライヴを観戦。
セカンドは、ダンサー兼シンガーのワーナーとのデュエットから。さらに「バタフライズ」のような難しい曲をさらりと歌ってみせる。4曲目からしばらくスローが続いたが、ちょっとスローが続きすぎたかなあ。ま、曲順をうまく入れ替えればいいのではないだろうか。アップ、ミディアム、スローのバランス、セットリスト=曲順はとても大事です。
ときにフェイス・エヴァンス、ときにフローエトリー風、そしてこの日感じたのが、ちょっとミディアム・スローの作品でかのデニース・ウィリアムス的なかわいい声の歌い方が印象に残った。ユリはその声で四季のごとくさまざまな声の表情を見せる。そして、なによりも難しい曲を簡単に上手に歌えてしまうので、余計、たとえば簡単な曲を1曲でもセットリストにいれると、メリハリがついていいと思った。ので、ライヴ後彼女に直接言った。
それにしても、普通に聴いていると、当たり前にブラックかアメリカのシンガーのライヴを見ているような気になる。MCが日本語になるので、そのときだけ、ああ、彼女は日本人だと思う。
驚いたのは、彼女のバークリー時代の先生だったというサックス奏者兼ヴォーカルのウォルター・ビーズレーの作品を歌ったこと。これもなかなかいい曲だったが調べてみると1995年のウォルターのアルバム『プライヴェート・タイム』に収録されていた。ユリはウォルターがカヴァーした「エヴリシング・アイ・ミス・アット・ホーム」(シェレールのヒット)で、バック・コーラスをしているそうだ。ユリもこういう曲や、ミニー・リパートン、あるいはフェイス・エヴァンス、フローエトリーといった1990年代R&Bアーティストの曲調はじつにはまる。アンコール2曲目ルーファス&シャカの「ユー・ガット・ザ・ラヴ」あたりも、すっかり自分の持ち歌のように歌いこなしていた。年一ライヴではなく、年4回くらい四季ごとにお願いします。(笑)
■ 過去関連記事
August 10, 2007
Yuri’s First Her Own Live:
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200708/2007_08_10.html
前回ライヴ評。ここに過去関連記事一覧。
■メンバー
YURI LIVE08:IN THE ORCHID ROOM
(Vo)YURI (Key)柿崎洋一郎 (B)日野JINO賢二 (G)馬谷勇 (Ds)Jay Stixx
(Guest Vocal) Warner (Guest Rap) Chiharu
■セットリスト ユリ
Setlist : Yuri @ Blues Alley, August 4, 2008
1st
Show started 19:42
01. Love Don’t Live Here Anymore [Rose Royce, Faith Evans]
02. Memory Lane [Minnie Riperton]
03. Sweet Surrender [Original]
04. Stranger Than B4 [Original]
05. Never Felt This Way [Brian McKnight]
06. Rock Steady [Aretha Franklin]
Show ended 20:29
2nd
show started 21:06
01. You’ve Changed [Keyshia Cole](Duet With Warner)
02. Butterfly [Floetry]
03. Music Is My Life [Original]
04. ノイズの向こう [Original] (+Chiharu on rap)
05. ラブ・ストーリー [Original]
06. I Will Be The One [Walter Beasley]
07. Again [Faith Evans]
Enc. Make Me Whole [Amel Larrieux]
Enc. You Got The Love [Rufus/Chaka Khan]
Show ended 22:16
(2008年8月4日月曜、目黒・ブルース・アレー=ユリ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Yuri
2008-131
四季。
久保田利伸やAIのバック・コーラスをつとめたり、『ソウル・サーチン:ザ・セッション』でも歌声を聴かせてくれているアジア一のR&B歌姫ユリが、ブルース・アレーに自己名義で初登場、堂々たるライヴを見せた。ユリ自身の単独ライヴは2007年8月9日の渋谷JZブラット以来2度目。
メンバーは昨年とほぼ同メンバー、コーラスに盟友有坂美香さんがいないくらいか。全15曲。カヴァーありオリジナルありのヴァラエティーに富んだ構成だ。バンドはそれにしてもプロにして強力。特に最初からベース奏者ジーノの音の響きが抜群だった。ジーノの音はここブルース・アレーで聴くと他とかなり違っていい音がする。
ローズ・ロイスのオリジナルでフェイス・エヴァンスもカヴァーした「ラヴ・ドント・リヴ・ヒア・エニモア」から「メモリー・レーン」へメドレーにしてスタート。また『ピアノ・ダンス』というハウス系のコンピでラヴ・ディヴィニティーという名前で歌っていることを明かし、その曲を歌った。普通のソウル・バラードから、こうしたクラブ系の曲までなんなく歌うが、ドラムスのジェイ・スティックスもいつもながら控えめに、違ったタイプの曲を実にいい感じでサポートする。あまりでしゃばらないいいドラマーだ。また「ロック・ステディー」などでの柿崎さんのハモンド・オルガンのソロなど最高だ。そして、ファーストの圧巻はブライアン・マクナイトの「ネヴァー・フェルト・ディス・ウェイ」。彼と2人だけで聴かせ、「声と歌で観客を掴めるシンガー」ということを強くアピールした。曲も実に彼女にあっていた。久保田さんがユリを「アジア一うまいシンガー」というのもうなずける。この日は彼も仕事を抜け出し、ファーストからユリのライヴを観戦。
セカンドは、ダンサー兼シンガーのワーナーとのデュエットから。さらに「バタフライズ」のような難しい曲をさらりと歌ってみせる。4曲目からしばらくスローが続いたが、ちょっとスローが続きすぎたかなあ。ま、曲順をうまく入れ替えればいいのではないだろうか。アップ、ミディアム、スローのバランス、セットリスト=曲順はとても大事です。
ときにフェイス・エヴァンス、ときにフローエトリー風、そしてこの日感じたのが、ちょっとミディアム・スローの作品でかのデニース・ウィリアムス的なかわいい声の歌い方が印象に残った。ユリはその声で四季のごとくさまざまな声の表情を見せる。そして、なによりも難しい曲を簡単に上手に歌えてしまうので、余計、たとえば簡単な曲を1曲でもセットリストにいれると、メリハリがついていいと思った。ので、ライヴ後彼女に直接言った。
それにしても、普通に聴いていると、当たり前にブラックかアメリカのシンガーのライヴを見ているような気になる。MCが日本語になるので、そのときだけ、ああ、彼女は日本人だと思う。
驚いたのは、彼女のバークリー時代の先生だったというサックス奏者兼ヴォーカルのウォルター・ビーズレーの作品を歌ったこと。これもなかなかいい曲だったが調べてみると1995年のウォルターのアルバム『プライヴェート・タイム』に収録されていた。ユリはウォルターがカヴァーした「エヴリシング・アイ・ミス・アット・ホーム」(シェレールのヒット)で、バック・コーラスをしているそうだ。ユリもこういう曲や、ミニー・リパートン、あるいはフェイス・エヴァンス、フローエトリーといった1990年代R&Bアーティストの曲調はじつにはまる。アンコール2曲目ルーファス&シャカの「ユー・ガット・ザ・ラヴ」あたりも、すっかり自分の持ち歌のように歌いこなしていた。年一ライヴではなく、年4回くらい四季ごとにお願いします。(笑)
■ 過去関連記事
August 10, 2007
Yuri’s First Her Own Live:
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200708/2007_08_10.html
前回ライヴ評。ここに過去関連記事一覧。
■メンバー
YURI LIVE08:IN THE ORCHID ROOM
(Vo)YURI (Key)柿崎洋一郎 (B)日野JINO賢二 (G)馬谷勇 (Ds)Jay Stixx
(Guest Vocal) Warner (Guest Rap) Chiharu
■セットリスト ユリ
Setlist : Yuri @ Blues Alley, August 4, 2008
1st
Show started 19:42
01. Love Don’t Live Here Anymore [Rose Royce, Faith Evans]
02. Memory Lane [Minnie Riperton]
03. Sweet Surrender [Original]
04. Stranger Than B4 [Original]
05. Never Felt This Way [Brian McKnight]
06. Rock Steady [Aretha Franklin]
Show ended 20:29
2nd
show started 21:06
01. You’ve Changed [Keyshia Cole](Duet With Warner)
02. Butterfly [Floetry]
03. Music Is My Life [Original]
04. ノイズの向こう [Original] (+Chiharu on rap)
05. ラブ・ストーリー [Original]
06. I Will Be The One [Walter Beasley]
07. Again [Faith Evans]
Enc. Make Me Whole [Amel Larrieux]
Enc. You Got The Love [Rufus/Chaka Khan]
Show ended 22:16
(2008年8月4日月曜、目黒・ブルース・アレー=ユリ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Yuri
2008-131
【93分、汗だくファンクの真髄】
汗だく。
「トウキョー! パーティーの準備はいいかあ!」 ファンク・バンド、ギャップ・バンドのリード・ヴォーカル、チャーリー・ウィルソンの2007年4月以来、約1年4ヶ月ぶりの来日ライヴ。2日目セカンドはほぼ満員。
バンド編成などほぼ前回と同じ、そのエネルギーの爆発ぶりも同様。1曲目からいきなり観客は総立ち、ディスコ状態になった。ダンサー4人も実に激しく踊るので、熱い暑い。もちろんチャーリーのヴォーカルも熱くて厚くて暑苦しくなるほど。冒頭のにわとりの鳴き声から始まる「アーリー・イン・ザ・モーニング」は後半などチャーリーのシャウトとバック・コーラスのからみがこれでもかと盛り上げる。すべてこの調子だ。いけいけゴーゴー。
かと思えば、キーボードの弾き語りをしっとりと聴かせたRケリー作品「ノー・ワーズ」などはゴスペルで鍛えた歌声をじっくり聴かせて魅せる。
最初からチャーリーは汗だく。バンドメンバーは白一色のパンツとシャツ、さらに色違いのネクタイ。そしてところどころにほんのちょっとした小芝居が入ってエンタテインメントとして観客を飽きさせない。あちこちにはさまれる口笛のピューという音が心地よいアクセントに。チャーリーは1953年1月29日生まれ、ということで、現在55歳だ。それにしてもよく動き、踊る恐るべきおん年ゴーゴー。
ダンサーの激しいダンスも見所だが、例えば、7曲目タイムのカヴァー「クール」などは、まるでチャーリー・ウィルソンがタイムのモリス・デイになったかのよう。全身が映る鏡を持ち出し、自分を映し出すところなどはモリス・デイそっくりだ。そのダンサーを、彼は「チャーリーズ・エンジェル」と呼んだ。「このタオル、欲しいか?」と客に尋ねる。「イエ〜〜」、そして、客席に投げ入れた。
ニュー・ジャック・スイングのガイの大ヒット「レッツ・チル」をチャーリーがここでカヴァー。そして、ギャップ・バンドのヒットでガイがカヴァーした「イヤーニング・フォー・ユア・ラヴ」をチャーリーが歌う。ガイつながりだ。
アンコールでは、真夏なのに、真冬なみの白い長いコート風の衣装で登場、これみよがしに「どうだ」というポーズをとり、受けていた。そして、セクシーさを思い切り出す。ブラックネス!
「次の機会まで、ピース!」と言った後、「ホワッツ・マイ・ネーム?」と叫んだ。リアクションは「チャーリー!」。すべてが汗どろどろのブラック・エンタテインメントの真髄、真髄。「汗なしファンクにソウルなし」の堂々たる証明だ。93分に及んだライヴは前回よりも長くなっていた。そして、セカンドはライヴ後にサイン会。
なお、バック・コーラス真ん中の女性、オードラ・アレクサンダーは、コンテポラリーなゴスペル・グループで2002年にアルバム『パム&ドディー』を出したパム&ドディーのドディーであった。このライヴのキーボード、コーデル・ウォルトンのプロデュースで初のソロ・アルバムを出すところだという。
いやあ、それにしても濃いソウル・ライヴだ。満足、満足。そんな後はソウル・バーにでもゴーゴー。
(ライヴ後、ソウル談義については明日へ続く)
■ 過去記事
April 25, 2007
Charlie Wilson: Hi Energy Live
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200704/2007_04_25.html
■ メンバー
チャーリー・ウィルソン / Charlie Wilson(Vocals)
コーデル・ウォルトン / Cordell Walton(Keyboards)
ローレンス・ワシントン / Lawrence Washington(Keyboards)
マイケル・アンダーソン / Michael Anderson(Guitar)
マーキス・ジョンソン / Marquis Johnson(Drums)
ヴィクトリア・ヴォーン / Victoria Vaughn(Background Vocals)
オードラ・アレクサンダー / Audra Alexander(Background Vocals)
オーブリー・スワン / Aubrey Swan(Background Vocals)
ダニエル・ブラウン / Danielle Brown(Dancer)
パトリシア・デュークス / Patricia Dukes(Dancer)
アリシア・フィアーズ / Alecia Fears(Dancer)
ラモント・トリヴァー / Lamont Tolliver(Dancer)
■ セットリスト
Setlist : Charlie Wilson Of The Gap Band @ Billboard Live, August 5th, 2008
Show started 21:37
01. Intro
02. Beautiful [Snoop Dogg Featuring Pharrell, Uncle Charlie Wilson]
03. Early In The Morning 〜 Signs [Snoop Dogg Featuring Charlie Wilson, Justin Timberlake]
04. No Words [R.Kelly]
05. Burn Rubber (Why You Wanna Hurt Me)
06. Cool [The Time]
07. Let’s Chill [Guy]
08. Yearning For Your Love 〜 A Riff Of “Joy & Pain” 〜 “Between The Sheets” 〜 Yearning For Your Love
09. Outstanding
Enc. Magic [R.Kelly]
Enc. Supa Sexy (new)
Enc. Charlie, Last Name Wilson [R.Kelly]
Show ended 23:10
(2008年8月5日火曜、ビルボード・ライヴ=チャーリー・ウィルソン・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Wilson, Charlie
2008-132
汗だく。
「トウキョー! パーティーの準備はいいかあ!」 ファンク・バンド、ギャップ・バンドのリード・ヴォーカル、チャーリー・ウィルソンの2007年4月以来、約1年4ヶ月ぶりの来日ライヴ。2日目セカンドはほぼ満員。
バンド編成などほぼ前回と同じ、そのエネルギーの爆発ぶりも同様。1曲目からいきなり観客は総立ち、ディスコ状態になった。ダンサー4人も実に激しく踊るので、熱い暑い。もちろんチャーリーのヴォーカルも熱くて厚くて暑苦しくなるほど。冒頭のにわとりの鳴き声から始まる「アーリー・イン・ザ・モーニング」は後半などチャーリーのシャウトとバック・コーラスのからみがこれでもかと盛り上げる。すべてこの調子だ。いけいけゴーゴー。
かと思えば、キーボードの弾き語りをしっとりと聴かせたRケリー作品「ノー・ワーズ」などはゴスペルで鍛えた歌声をじっくり聴かせて魅せる。
最初からチャーリーは汗だく。バンドメンバーは白一色のパンツとシャツ、さらに色違いのネクタイ。そしてところどころにほんのちょっとした小芝居が入ってエンタテインメントとして観客を飽きさせない。あちこちにはさまれる口笛のピューという音が心地よいアクセントに。チャーリーは1953年1月29日生まれ、ということで、現在55歳だ。それにしてもよく動き、踊る恐るべきおん年ゴーゴー。
ダンサーの激しいダンスも見所だが、例えば、7曲目タイムのカヴァー「クール」などは、まるでチャーリー・ウィルソンがタイムのモリス・デイになったかのよう。全身が映る鏡を持ち出し、自分を映し出すところなどはモリス・デイそっくりだ。そのダンサーを、彼は「チャーリーズ・エンジェル」と呼んだ。「このタオル、欲しいか?」と客に尋ねる。「イエ〜〜」、そして、客席に投げ入れた。
ニュー・ジャック・スイングのガイの大ヒット「レッツ・チル」をチャーリーがここでカヴァー。そして、ギャップ・バンドのヒットでガイがカヴァーした「イヤーニング・フォー・ユア・ラヴ」をチャーリーが歌う。ガイつながりだ。
アンコールでは、真夏なのに、真冬なみの白い長いコート風の衣装で登場、これみよがしに「どうだ」というポーズをとり、受けていた。そして、セクシーさを思い切り出す。ブラックネス!
「次の機会まで、ピース!」と言った後、「ホワッツ・マイ・ネーム?」と叫んだ。リアクションは「チャーリー!」。すべてが汗どろどろのブラック・エンタテインメントの真髄、真髄。「汗なしファンクにソウルなし」の堂々たる証明だ。93分に及んだライヴは前回よりも長くなっていた。そして、セカンドはライヴ後にサイン会。
なお、バック・コーラス真ん中の女性、オードラ・アレクサンダーは、コンテポラリーなゴスペル・グループで2002年にアルバム『パム&ドディー』を出したパム&ドディーのドディーであった。このライヴのキーボード、コーデル・ウォルトンのプロデュースで初のソロ・アルバムを出すところだという。
いやあ、それにしても濃いソウル・ライヴだ。満足、満足。そんな後はソウル・バーにでもゴーゴー。
(ライヴ後、ソウル談義については明日へ続く)
■ 過去記事
April 25, 2007
Charlie Wilson: Hi Energy Live
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200704/2007_04_25.html
■ メンバー
チャーリー・ウィルソン / Charlie Wilson(Vocals)
コーデル・ウォルトン / Cordell Walton(Keyboards)
ローレンス・ワシントン / Lawrence Washington(Keyboards)
マイケル・アンダーソン / Michael Anderson(Guitar)
マーキス・ジョンソン / Marquis Johnson(Drums)
ヴィクトリア・ヴォーン / Victoria Vaughn(Background Vocals)
オードラ・アレクサンダー / Audra Alexander(Background Vocals)
オーブリー・スワン / Aubrey Swan(Background Vocals)
ダニエル・ブラウン / Danielle Brown(Dancer)
パトリシア・デュークス / Patricia Dukes(Dancer)
アリシア・フィアーズ / Alecia Fears(Dancer)
ラモント・トリヴァー / Lamont Tolliver(Dancer)
■ セットリスト
Setlist : Charlie Wilson Of The Gap Band @ Billboard Live, August 5th, 2008
Show started 21:37
01. Intro
02. Beautiful [Snoop Dogg Featuring Pharrell, Uncle Charlie Wilson]
03. Early In The Morning 〜 Signs [Snoop Dogg Featuring Charlie Wilson, Justin Timberlake]
04. No Words [R.Kelly]
05. Burn Rubber (Why You Wanna Hurt Me)
06. Cool [The Time]
07. Let’s Chill [Guy]
08. Yearning For Your Love 〜 A Riff Of “Joy & Pain” 〜 “Between The Sheets” 〜 Yearning For Your Love
09. Outstanding
Enc. Magic [R.Kelly]
Enc. Supa Sexy (new)
Enc. Charlie, Last Name Wilson [R.Kelly]
Show ended 23:10
(2008年8月5日火曜、ビルボード・ライヴ=チャーリー・ウィルソン・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Wilson, Charlie
2008-132
【ソウルバーにてソウル族集合す】
SOUL族。
というわけで、チャーリー・ウィルソンのライヴは熱く暑く燃えたのだが、こうなってしまっては、まっすぐ家に帰るわけにもいくまい。ほてった体を少しさますということで、同行ソウルメイト、松尾潔さんとソウルバーでも行きましょう、ということに。いろいろ考えたあげく、久しく行ってなかった恵比寿のアリ・オリに行くことに。前回『ユニヴァース』のトークイヴェントで行って以来。
六本木通りから駒沢通りへ入るあたりで松尾氏お店に電話。「今から大丈夫ですか? あ、大丈夫。すいてる、はい、あ、10分くらいで着きます〜〜」 そして、アリ・オリの扉を開けて、中に入って我々が見たものは!?!?
「えええっ、なんでなんで? いつから?」と叫ぶ松尾氏。なんとカウンターの中にいたのは、あの渡辺祐氏ではないか。「今日は、本物のマスターが体調くずして休んでるんで、私が一日店長、オウナーとしてやらせていただいております」 ついに、いつかはやるとは聞いていたが、いきなり恵比寿のソウルバーの店長か! 祐さんとは当日昼間メールのやりとりで、チャーリー・ウィルソンのファーストに行くということだったが、どうやら、チャーリー→ちょっとお食事(おでんや)→ちょっと一杯(バー・アリオリ)のコースらしい。
しばし、その日の雑談に花が咲き、誰もオーダーを取ろうとしない。(笑) 「オーダーは何にいたしましょう」と祐さん。「でも、こちらの若林のほうに言ってください」とオーダーを振る。「僕、ここに立ってても、何もできないんでね。飲むくらいしか、できないんで」 ちょうど、僕たちが入ったときは他にお客さんはおらず貸切状態。お店のマスターはずっと立ちっぱなしで我々の相手をしてくれる。そのうち、マスター用にさっきオーダーしていたソーセージ登場。なんで、マスターがカウンター内側にてソーセージをつまむか。
そうこうするうちに、お客さんご来店で、何もしないでただ飲むだけの祐オウナーと、ボックス席へ移動。ここからがまた絶好調。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、松尾さんは一時期祐さんの事務所に所属していたことがある。祐さんが初めて松尾氏を知ったときのことを振り返る。
「ある朝、車乗ってたんですよ。そしたら、朝っぱらから、こゆ〜〜いブラック・ミュージックがかかってるんですよ。まるっきり朝には似あいもしない。夜にかかりそうな美メロがね。誰だあ、朝っぱらからこんな曲かける奴は、と思ってたんです。ベイFMでした。そしたら、DJが松尾潔です、っていうんだよね。あ〜〜、あのBMRとかに書いてる松尾さん、(ラジオで)しゃべってるんだあ、と思って。それで、知り合いの編集者に電話番号聞いてかけたんですよ。そしたら、何に驚いたって、(僕より)年下だったってことですよ。(笑) 絶対自分より上か同じくらいだと思ってた」松尾氏は祐氏より9歳年下。
今、祐さんはJウェイヴで毎週土曜の朝8時から正午までの生番組を担当している。そこで、どうしても寝過ごせないので毎週金曜は六本木のホテルに宿を取り、(ホテルに宿を取り、という表現はおかしいな、ま、おいといて)5時半に起きて7時までには歩いて局入りする、という。
「いやあ、土曜朝6時の六本木の交差点ってみなさん、行ったことあります? もうすごいですよ、とんでもない多国籍企業で。中東系、韓国系、お姉ちゃん系、クラブ帰りの若者系、アフリカ系、もうほんとどろどろの種々雑多、老若男女。ガラが悪いというか、まともなのは、ワタシだけですよ」
「(六本木のホテル)アイビス芸人っていうのがいてね、知ってます? 吉本の芸人で大阪から来る連中でまだ(東京で)売れてないのは、ホテルに泊められるんですね。それで、そこそこ関東エリアで売れると、晴れてこっち(東京)に部屋とかマンションとかを借りられる。だから、アイビス芸人を卒業できるっていうのは、ひとつ出世らしいんですけどね。あ、でも、僕は、アイビス芸人じゃあありません。違うホテルです。万一寝坊しても歩いて行ける距離ってことで、(Jウェイヴに)近いところに泊まってるんです。グランド・ハイアットにお泊り? なわけないでしょ。(ビシッ←頭叩く音)(ホテル代)自腹なんですから。ハイ」
話はノンストップ! 話題は縦横無尽。文壇バー、落語の話、おでんやさんの話などをはさみつつソウル・バー・トーキングは終演を知らない。そうこうしているうちに、アリ・オリ名物焼きそば登場。どうやら前回アリ・オリ来日時、まだご本人はこの焼きそばを食べていないらしい。若林さんによると「うちの焼きそば勧めたら、このあとミラクル行って食べるから〜」と遠慮されたそうで。(笑)
「僕なんかけっこういいかげんですから」と祐さんが言うと松尾さん、「いやあ、こん中で一番ちゃんとしてますよ。僕たちなんかサラリーマンやったことないんだから」。「いや、でもね、吉岡さんとか松尾さんたちが、どうやってソウル業界で30年やってきたかなんて話を対談でやったら絶対おもしろいと思うよ。細かいソウルネタいれて対談やってよ」「僕、30年はやってないなあ…(苦笑)」と松尾氏。「ほら、あなたがた、いろんなアーティストともたくさん会って話ししてるわけじゃない。そういうのを好き勝手に対談すれば、きっと読者もおもしろがると思うんだよね、その現場感覚のものって、レコード聴いてああだ、こうだって言ってるのと違うんだから」 どんどんアイデアが膨らむ祐さん。さすが、名ライターにして名編集者である。編集者ってこうやって人を乗せることが仕事なんですね、流れる石、ガーサスです。
「吉岡さんのブログには、とうていかないませんよ。だから(自分が)ライヴ見て感想ちらっと書いても、後はこちらへ、ってリンクはってお終しまい。(笑) あれだけの量を、いいかげんじゃなくて、きちんと正確に、音楽評論家として書いてるっていうのに頭が下がります」「ありがとうございます!」
「で、(松尾さんに向かって)、本はどうなったの、いつ出るの?」 松尾さんが今、書き下ろしているという本についての質問だ。「いやあ、書いてるんですけど…。なかなか進まなくて…」 さあムラムラと編集者ダマシイに火が点くか??
ところで、同行Sちゃん、初めて会った祐さんを「はい、よくテレビでお見かけします」と言ったはいいが、なんと、山田五郎さんと勘違いしてたらしい。恵比寿ソウル族の夜は更ける…。
■ 小気味良いテンポで進む祐さんの人気ブログ
2008-8-6
[MIF通信]恵比寿深夜SOUL族の夜
http://d.hatena.ne.jp/dothemonkey/20080806
上記記事内リンクから再びソウル・サーチンへお戻りくださるようお願い申し上げます。ソウル・サーチン→MIF→ソウル・サーチン→MIFの無限ループへどうぞ。
ENT>MUSIC>ESSAY>
SOUL族。
というわけで、チャーリー・ウィルソンのライヴは熱く暑く燃えたのだが、こうなってしまっては、まっすぐ家に帰るわけにもいくまい。ほてった体を少しさますということで、同行ソウルメイト、松尾潔さんとソウルバーでも行きましょう、ということに。いろいろ考えたあげく、久しく行ってなかった恵比寿のアリ・オリに行くことに。前回『ユニヴァース』のトークイヴェントで行って以来。
六本木通りから駒沢通りへ入るあたりで松尾氏お店に電話。「今から大丈夫ですか? あ、大丈夫。すいてる、はい、あ、10分くらいで着きます〜〜」 そして、アリ・オリの扉を開けて、中に入って我々が見たものは!?!?
「えええっ、なんでなんで? いつから?」と叫ぶ松尾氏。なんとカウンターの中にいたのは、あの渡辺祐氏ではないか。「今日は、本物のマスターが体調くずして休んでるんで、私が一日店長、オウナーとしてやらせていただいております」 ついに、いつかはやるとは聞いていたが、いきなり恵比寿のソウルバーの店長か! 祐さんとは当日昼間メールのやりとりで、チャーリー・ウィルソンのファーストに行くということだったが、どうやら、チャーリー→ちょっとお食事(おでんや)→ちょっと一杯(バー・アリオリ)のコースらしい。
しばし、その日の雑談に花が咲き、誰もオーダーを取ろうとしない。(笑) 「オーダーは何にいたしましょう」と祐さん。「でも、こちらの若林のほうに言ってください」とオーダーを振る。「僕、ここに立ってても、何もできないんでね。飲むくらいしか、できないんで」 ちょうど、僕たちが入ったときは他にお客さんはおらず貸切状態。お店のマスターはずっと立ちっぱなしで我々の相手をしてくれる。そのうち、マスター用にさっきオーダーしていたソーセージ登場。なんで、マスターがカウンター内側にてソーセージをつまむか。
そうこうするうちに、お客さんご来店で、何もしないでただ飲むだけの祐オウナーと、ボックス席へ移動。ここからがまた絶好調。ご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、松尾さんは一時期祐さんの事務所に所属していたことがある。祐さんが初めて松尾氏を知ったときのことを振り返る。
「ある朝、車乗ってたんですよ。そしたら、朝っぱらから、こゆ〜〜いブラック・ミュージックがかかってるんですよ。まるっきり朝には似あいもしない。夜にかかりそうな美メロがね。誰だあ、朝っぱらからこんな曲かける奴は、と思ってたんです。ベイFMでした。そしたら、DJが松尾潔です、っていうんだよね。あ〜〜、あのBMRとかに書いてる松尾さん、(ラジオで)しゃべってるんだあ、と思って。それで、知り合いの編集者に電話番号聞いてかけたんですよ。そしたら、何に驚いたって、(僕より)年下だったってことですよ。(笑) 絶対自分より上か同じくらいだと思ってた」松尾氏は祐氏より9歳年下。
今、祐さんはJウェイヴで毎週土曜の朝8時から正午までの生番組を担当している。そこで、どうしても寝過ごせないので毎週金曜は六本木のホテルに宿を取り、(ホテルに宿を取り、という表現はおかしいな、ま、おいといて)5時半に起きて7時までには歩いて局入りする、という。
「いやあ、土曜朝6時の六本木の交差点ってみなさん、行ったことあります? もうすごいですよ、とんでもない多国籍企業で。中東系、韓国系、お姉ちゃん系、クラブ帰りの若者系、アフリカ系、もうほんとどろどろの種々雑多、老若男女。ガラが悪いというか、まともなのは、ワタシだけですよ」
「(六本木のホテル)アイビス芸人っていうのがいてね、知ってます? 吉本の芸人で大阪から来る連中でまだ(東京で)売れてないのは、ホテルに泊められるんですね。それで、そこそこ関東エリアで売れると、晴れてこっち(東京)に部屋とかマンションとかを借りられる。だから、アイビス芸人を卒業できるっていうのは、ひとつ出世らしいんですけどね。あ、でも、僕は、アイビス芸人じゃあありません。違うホテルです。万一寝坊しても歩いて行ける距離ってことで、(Jウェイヴに)近いところに泊まってるんです。グランド・ハイアットにお泊り? なわけないでしょ。(ビシッ←頭叩く音)(ホテル代)自腹なんですから。ハイ」
話はノンストップ! 話題は縦横無尽。文壇バー、落語の話、おでんやさんの話などをはさみつつソウル・バー・トーキングは終演を知らない。そうこうしているうちに、アリ・オリ名物焼きそば登場。どうやら前回アリ・オリ来日時、まだご本人はこの焼きそばを食べていないらしい。若林さんによると「うちの焼きそば勧めたら、このあとミラクル行って食べるから〜」と遠慮されたそうで。(笑)
「僕なんかけっこういいかげんですから」と祐さんが言うと松尾さん、「いやあ、こん中で一番ちゃんとしてますよ。僕たちなんかサラリーマンやったことないんだから」。「いや、でもね、吉岡さんとか松尾さんたちが、どうやってソウル業界で30年やってきたかなんて話を対談でやったら絶対おもしろいと思うよ。細かいソウルネタいれて対談やってよ」「僕、30年はやってないなあ…(苦笑)」と松尾氏。「ほら、あなたがた、いろんなアーティストともたくさん会って話ししてるわけじゃない。そういうのを好き勝手に対談すれば、きっと読者もおもしろがると思うんだよね、その現場感覚のものって、レコード聴いてああだ、こうだって言ってるのと違うんだから」 どんどんアイデアが膨らむ祐さん。さすが、名ライターにして名編集者である。編集者ってこうやって人を乗せることが仕事なんですね、流れる石、ガーサスです。
「吉岡さんのブログには、とうていかないませんよ。だから(自分が)ライヴ見て感想ちらっと書いても、後はこちらへ、ってリンクはってお終しまい。(笑) あれだけの量を、いいかげんじゃなくて、きちんと正確に、音楽評論家として書いてるっていうのに頭が下がります」「ありがとうございます!」
「で、(松尾さんに向かって)、本はどうなったの、いつ出るの?」 松尾さんが今、書き下ろしているという本についての質問だ。「いやあ、書いてるんですけど…。なかなか進まなくて…」 さあムラムラと編集者ダマシイに火が点くか??
ところで、同行Sちゃん、初めて会った祐さんを「はい、よくテレビでお見かけします」と言ったはいいが、なんと、山田五郎さんと勘違いしてたらしい。恵比寿ソウル族の夜は更ける…。
■ 小気味良いテンポで進む祐さんの人気ブログ
2008-8-6
[MIF通信]恵比寿深夜SOUL族の夜
http://d.hatena.ne.jp/dothemonkey/20080806
上記記事内リンクから再びソウル・サーチンへお戻りくださるようお願い申し上げます。ソウル・サーチン→MIF→ソウル・サーチン→MIFの無限ループへどうぞ。
ENT>MUSIC>ESSAY>
【タモリの弔辞】
弔辞。
すでに報じられている通り、漫画家の赤塚不二夫さんが2008年8月2日、肺炎のため72歳で死去した。その葬儀が7日午前東京都中野区の宝仙寺で行われ、タモリさんが弔辞を読んだ。その弔辞全文(約1800字、約8分)に感銘を受けた。特に最後の「私もあなたの数多くの作品の一つです」には、感動した。タモリさんがゆっくりと遺影に語りかけていた姿がひじょうに印象的だった。
この中で語られる「これでいいのだ」は赤塚さんの人生訓とも言えるだろうが、今の時代、納得いかないことにも、「これでいいのだ」で済ませられれば、どれだけ楽になるか、と思う。もちろん済ませられない理不尽なことも多々あるだろうが。このニュアンスを英語で言うとなるとどうなるのだろうか。「This is right, This is good, This is how it should be」 何かいいアイデアがあれば、お知らせください。
タモリさんは次のように語った。
「弔辞。8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
十代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライヴみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。『赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている』 この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こう言いました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日、新宿の『ひとみ寿司』というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私にとって金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『この野郎、逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさしていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」
ENT>OBITUARY>Akatsuka, Fujio (September 14, 1935 - Aug 2, 2008, 72)
弔辞。
すでに報じられている通り、漫画家の赤塚不二夫さんが2008年8月2日、肺炎のため72歳で死去した。その葬儀が7日午前東京都中野区の宝仙寺で行われ、タモリさんが弔辞を読んだ。その弔辞全文(約1800字、約8分)に感銘を受けた。特に最後の「私もあなたの数多くの作品の一つです」には、感動した。タモリさんがゆっくりと遺影に語りかけていた姿がひじょうに印象的だった。
この中で語られる「これでいいのだ」は赤塚さんの人生訓とも言えるだろうが、今の時代、納得いかないことにも、「これでいいのだ」で済ませられれば、どれだけ楽になるか、と思う。もちろん済ませられない理不尽なことも多々あるだろうが。このニュアンスを英語で言うとなるとどうなるのだろうか。「This is right, This is good, This is how it should be」 何かいいアイデアがあれば、お知らせください。
タモリさんは次のように語った。
「弔辞。8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
十代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライヴみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。『赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている』 この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ』と、こう言いました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日、新宿の『ひとみ寿司』というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私にとって金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『この野郎、逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさしていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。平成20年8月7日、森田一義」
ENT>OBITUARY>Akatsuka, Fujio (September 14, 1935 - Aug 2, 2008, 72)
【ウィル・カフーンはリズムのデパート】
デパート。
「キープ・サポーティング・ライヴ・ミュージック(keep supporting live music)」 ウィル・カフーン(カルホーン)はそう言った。同じ言葉を何度もケイリブ・ジェームスから聞いていた。そのケイリブから緊急連絡で、「とにかく、これは見たほうがいいよ」という強力なお勧めがあり、訪横(横浜モーション・ブルー訪問のこと)。
ウィル・カフーンは1990年代にシーンに登場して大きな話題を集めたブラック・ロック・グループ、リヴィング・カラーのドラマー。Calhounのhはサイレント音(音読しない)なので、音読みはカフーンとなるそうだ。のでソウル・サーチンではカフーンを使用します。ケイリブはニューヨーク時代からの仲間で、ブロック・パーティーやらなんやらでよく一緒にプレイしていた、という。ロック好きのケイリブらしい。
それにしても、このドラムは実に強力だ。もちろん各個人のミュージシャンとしての力量が素晴らしいこともあるが、インストゥルメンタルだけで、ここまでの集中はお見事。ウィルは世界各地を訪問し、そこにしばらく滞在したりして、各地のルーツ・ミュージックを研究し、それを自らの音楽の中に取り入れている。
例えば、ひじょうに興味深いと思ったのが、楕円形のギターの形をしたような手で叩いて音を出すパーカッションの楽器、これはウドゥー(UDU)というそうだ。ウィルによれば、ナイジェリアで入手した。
ライヴはいきなり「アフロ・ブルー」を各メンバーのソロをいれて30分の長尺で。「アフロ・ブルー」の歌がいまにも浮かび上がりそうな熱の入ったパフォーマンスだ。
ウィルはドラマーなのだが、ウドゥーなどのパーカッションもやり、しかもさまざまなヴァリエーションのリズムを見せ、まるで「リズムのデパート」の趣すらある。「80分間世界一周Around The World In 80 Minutes」だ。
それぞれのミュージシャンは頭ではなく、体で、いや音楽が染みこんだそのDNAで音楽をやっている。
スタンリー・ジョーダンは、ピックを使わず、指を短い間隔で使う独特の奏法でユニークな奏者。素晴らしい。彼がウィル・カフーンを紹介するとき、マイクにむかって「・・・・」と口だけ動かし、声は出さない、セルフ・ミュートで紹介した。僕も含めて多くの人はマイクが切れていたと思ったはず。(笑)
ベース奏者マーク・ケリーは調べていたら、ミッシェル・ウンデゲオチェロで来日していた。このグループは、ルーツ・ミュージックをベースに、ジャズ、ファンク、ブルーズなども包括しながら、しかも、クラブ系のサウンドもいれて形作る。かなり音楽的にはメルティング・ポット的なサウンド。
ライヴ後、メンバーは自分たちのCDを売りながら、サイン会。そのとき、ケイリブがウィルたちを紹介してくれた。リヴィング・カラーで2度ほど来日し、その他TMスティーヴンスなどで何回か来ているそうだ。
しかし、この日一番ぶったまげたニュースは、なんと我らがケイリブ秋からの某有名グループのツアーに参加することになったそうだ。ぎょええっ。東京ドームとか、そういう大きなところばっかりだそうで。音楽監督ではないが、8人程度のバンドの一員になる。「さすがにドームは日本では今までで一番大きいなあ」と言っている。
昨日はオリンピックの開会式だったが、すっかりそんなことは忘れてこのライヴにうつつを抜かしてしまった。
別件ですが、昨日ご紹介したタモリ弔辞全文、あれ、タモリさんは白紙を読んでいたんですか。つまり、アドリブ。そういううわさが錯綜しています。確認は取れていませんが。それが本当ならまたまたすごい。
■メンバー
ウィル・カフーン(ドラムス)Will Calhoun(ds)
スタンリー・ジョーダン(ギター) Stanley Jordan(g)
コーリー・ウィルクス(トランペット)Corey Wilkes(tp)
マーク・キャリー(ピアノ) Marc Cary (p, effects)
マーク・ケリー(ベース)Mark Kelley (b)
■セットリスト
Setlist : Will Calhoun & Stanley Jorday at Motion Blue, 8/8/2008
Show started 21:35
01. Afro Blue
02. A Long Walk Home
03. Umoja (Unity) (including Martin Luther King’s “Peace”)
04. Dorita
05. Forest Flower (Stanley solo)
06. Pyramids
Enc. Drum solo, Passion Dance-(McCoy Tyner), Bulls on Parade-(Rage Against The Machine)...played in succession....(Putting McCoy Tyner and Rage Against the Machine together is called a "Mash-Up")
Show ended 23:14
(註)アンコールのドラム・ソロに続く、「パッション・ダンス」と「ブールズ・オン・パレード」は、2曲をミックスして演奏する「マッシュ・アップ」という手法で演奏。この「マッシュ・アップ」という手法は、ロンドンやアメリカのDJが考え出したもので、それをウィルはライヴ、生演奏で試みた。
Special thanks to Will Calhoun for making complete setlist.
(2008年8月8日金曜、横浜モーション・ブルー=ウィル・カフーン&スタンリー・ジョーダン・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Calhoun, Will & Jordan, Stanley
デパート。
「キープ・サポーティング・ライヴ・ミュージック(keep supporting live music)」 ウィル・カフーン(カルホーン)はそう言った。同じ言葉を何度もケイリブ・ジェームスから聞いていた。そのケイリブから緊急連絡で、「とにかく、これは見たほうがいいよ」という強力なお勧めがあり、訪横(横浜モーション・ブルー訪問のこと)。
ウィル・カフーンは1990年代にシーンに登場して大きな話題を集めたブラック・ロック・グループ、リヴィング・カラーのドラマー。Calhounのhはサイレント音(音読しない)なので、音読みはカフーンとなるそうだ。のでソウル・サーチンではカフーンを使用します。ケイリブはニューヨーク時代からの仲間で、ブロック・パーティーやらなんやらでよく一緒にプレイしていた、という。ロック好きのケイリブらしい。
それにしても、このドラムは実に強力だ。もちろん各個人のミュージシャンとしての力量が素晴らしいこともあるが、インストゥルメンタルだけで、ここまでの集中はお見事。ウィルは世界各地を訪問し、そこにしばらく滞在したりして、各地のルーツ・ミュージックを研究し、それを自らの音楽の中に取り入れている。
例えば、ひじょうに興味深いと思ったのが、楕円形のギターの形をしたような手で叩いて音を出すパーカッションの楽器、これはウドゥー(UDU)というそうだ。ウィルによれば、ナイジェリアで入手した。
ライヴはいきなり「アフロ・ブルー」を各メンバーのソロをいれて30分の長尺で。「アフロ・ブルー」の歌がいまにも浮かび上がりそうな熱の入ったパフォーマンスだ。
ウィルはドラマーなのだが、ウドゥーなどのパーカッションもやり、しかもさまざまなヴァリエーションのリズムを見せ、まるで「リズムのデパート」の趣すらある。「80分間世界一周Around The World In 80 Minutes」だ。
それぞれのミュージシャンは頭ではなく、体で、いや音楽が染みこんだそのDNAで音楽をやっている。
スタンリー・ジョーダンは、ピックを使わず、指を短い間隔で使う独特の奏法でユニークな奏者。素晴らしい。彼がウィル・カフーンを紹介するとき、マイクにむかって「・・・・」と口だけ動かし、声は出さない、セルフ・ミュートで紹介した。僕も含めて多くの人はマイクが切れていたと思ったはず。(笑)
ベース奏者マーク・ケリーは調べていたら、ミッシェル・ウンデゲオチェロで来日していた。このグループは、ルーツ・ミュージックをベースに、ジャズ、ファンク、ブルーズなども包括しながら、しかも、クラブ系のサウンドもいれて形作る。かなり音楽的にはメルティング・ポット的なサウンド。
ライヴ後、メンバーは自分たちのCDを売りながら、サイン会。そのとき、ケイリブがウィルたちを紹介してくれた。リヴィング・カラーで2度ほど来日し、その他TMスティーヴンスなどで何回か来ているそうだ。
しかし、この日一番ぶったまげたニュースは、なんと我らがケイリブ秋からの某有名グループのツアーに参加することになったそうだ。ぎょええっ。東京ドームとか、そういう大きなところばっかりだそうで。音楽監督ではないが、8人程度のバンドの一員になる。「さすがにドームは日本では今までで一番大きいなあ」と言っている。
昨日はオリンピックの開会式だったが、すっかりそんなことは忘れてこのライヴにうつつを抜かしてしまった。
別件ですが、昨日ご紹介したタモリ弔辞全文、あれ、タモリさんは白紙を読んでいたんですか。つまり、アドリブ。そういううわさが錯綜しています。確認は取れていませんが。それが本当ならまたまたすごい。
■メンバー
ウィル・カフーン(ドラムス)Will Calhoun(ds)
スタンリー・ジョーダン(ギター) Stanley Jordan(g)
コーリー・ウィルクス(トランペット)Corey Wilkes(tp)
マーク・キャリー(ピアノ) Marc Cary (p, effects)
マーク・ケリー(ベース)Mark Kelley (b)
■セットリスト
Setlist : Will Calhoun & Stanley Jorday at Motion Blue, 8/8/2008
Show started 21:35
01. Afro Blue
02. A Long Walk Home
03. Umoja (Unity) (including Martin Luther King’s “Peace”)
04. Dorita
05. Forest Flower (Stanley solo)
06. Pyramids
Enc. Drum solo, Passion Dance-(McCoy Tyner), Bulls on Parade-(Rage Against The Machine)...played in succession....(Putting McCoy Tyner and Rage Against the Machine together is called a "Mash-Up")
Show ended 23:14
(註)アンコールのドラム・ソロに続く、「パッション・ダンス」と「ブールズ・オン・パレード」は、2曲をミックスして演奏する「マッシュ・アップ」という手法で演奏。この「マッシュ・アップ」という手法は、ロンドンやアメリカのDJが考え出したもので、それをウィルはライヴ、生演奏で試みた。
Special thanks to Will Calhoun for making complete setlist.
(2008年8月8日金曜、横浜モーション・ブルー=ウィル・カフーン&スタンリー・ジョーダン・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Calhoun, Will & Jordan, Stanley
【オリンピック・メダル予想】
4年。
2008年8月8日、北京でオリンピックの開会式が行われた。今回はダンス・クラシックのDJはいなかったが。前回アテネ・オリンピックからはや4年。そういえば、前回初めてメダル予想というのをやってみた。そこで、予想好きソウル・サーチャー、今回も日本がいくつのメダルを取れるかやってみることにする。今回もまたスポーツイラストレーテッド誌の予想を参考にしてみる。
その前に前回のおさらい。数字は左から金・銀・銅・合計
SSソウルサーチャーの予想 10-9-5 24
SIスポーツイラストレーテッド誌の予想 8-12-4 24
実績 16-9-12 37
そう、前回は予想以上のメダル獲得だったのだ。さて、今回。
SI誌予想 ? -? -12 26(合計26)
SS予想 12-11-10 33
前回とほぼ同じにしてみました。スポーツ・イラステレーテッド誌は金・銀は予想していませんが、トータルで26個の予想。26と37の中間だと31くらいかということも考えられます。僕も前回よりは減るかなと思いますが、そこは期待もこめて多めにしてみた。
ちなみにSI誌の主な国の予想は次の通り。左から国、金予想、銀予想、銅予想、下段2004年実績。アメリカは45の金、44の銀、32の銅計121のメダル予想。前回実績は102、という感じ。これによると、今回は中国の飛躍的な伸びが期待されている。金メダルでは49でアメリカの45を上回るという予想だ。
僕がこのオリンピックで懸念するのは、審判が中国寄りのジャッジをしないか、ということ。あと、周辺でのテロかなあ。無事に終了してくれるのを祈っています。
スポーツイラストレーテッド誌の2008オリンピック・メダル予想
U.S. 45 44 32 =121
(2004=36-39-27=102)
CHINA 49 28 25 = 102
(2004=32-17-14=63)
RUSSIA 25 28 22 = 75
(2004=27-27-38=92)
AUSTRALIA 22 14 18 = 54
(2004=17-16-16=49)
JAPAN ?-?- 12 =26
(2004=16-9-12=37)
GERMANY 15 16 17 =48
(2004=13-16-20=49)
FRANCE 12 ? 17 =38
(2004=11-9-13=33)
GREAT BRITAIN 12 15 =35
(2004=9-9-12=30)
CUBA 11 13 =29
NETHERLANDS 16 =28
ITALY 11 =27
(2004=10-11-11=32)
さらに、ヘルシンキ・オリンピック以来過去の日本のメダル数。(金・銀・銅・合計)あなたは東京以降の夏のオリンピック開催地を言えますか? 僕はなぜかオリンピックが近づくと、記憶しなおしてソラで言えるように努力します。したところで、どうってことないんですが。ま、夏の頭の体操かなあ。(笑)
アテネ2004 16-9-12=37
シドニー2000 5-8-5=18
アトランタ1996 3-6-5=14
バルセロナ 1992 3-8-11=22
ソウル 1988 4-3-7-=14
ロス 1984 10-8-14=32
モスクワ 1980 不参加
モントリオール 1976 9-6-10=25
ミュンヘン 1972 13-8-8=29
メキシコ 1968 11-7-7-=25
東京 1964 16-5-8=29
ローマ 1960 4-7-7=18
メルボルン 1956 4-10-5=19
ヘルシンキ 1952 1-6-2=9
ロンドン 1948
ロンドン 1944 中止
さて、今年の夏はさらに暑くなるか。
SPORTS>Olympic>2008
4年。
2008年8月8日、北京でオリンピックの開会式が行われた。今回はダンス・クラシックのDJはいなかったが。前回アテネ・オリンピックからはや4年。そういえば、前回初めてメダル予想というのをやってみた。そこで、予想好きソウル・サーチャー、今回も日本がいくつのメダルを取れるかやってみることにする。今回もまたスポーツイラストレーテッド誌の予想を参考にしてみる。
その前に前回のおさらい。数字は左から金・銀・銅・合計
SSソウルサーチャーの予想 10-9-5 24
SIスポーツイラストレーテッド誌の予想 8-12-4 24
実績 16-9-12 37
そう、前回は予想以上のメダル獲得だったのだ。さて、今回。
SI誌予想 ? -? -12 26(合計26)
SS予想 12-11-10 33
前回とほぼ同じにしてみました。スポーツ・イラステレーテッド誌は金・銀は予想していませんが、トータルで26個の予想。26と37の中間だと31くらいかということも考えられます。僕も前回よりは減るかなと思いますが、そこは期待もこめて多めにしてみた。
ちなみにSI誌の主な国の予想は次の通り。左から国、金予想、銀予想、銅予想、下段2004年実績。アメリカは45の金、44の銀、32の銅計121のメダル予想。前回実績は102、という感じ。これによると、今回は中国の飛躍的な伸びが期待されている。金メダルでは49でアメリカの45を上回るという予想だ。
僕がこのオリンピックで懸念するのは、審判が中国寄りのジャッジをしないか、ということ。あと、周辺でのテロかなあ。無事に終了してくれるのを祈っています。
スポーツイラストレーテッド誌の2008オリンピック・メダル予想
U.S. 45 44 32 =121
(2004=36-39-27=102)
CHINA 49 28 25 = 102
(2004=32-17-14=63)
RUSSIA 25 28 22 = 75
(2004=27-27-38=92)
AUSTRALIA 22 14 18 = 54
(2004=17-16-16=49)
JAPAN ?-?- 12 =26
(2004=16-9-12=37)
GERMANY 15 16 17 =48
(2004=13-16-20=49)
FRANCE 12 ? 17 =38
(2004=11-9-13=33)
GREAT BRITAIN 12 15 =35
(2004=9-9-12=30)
CUBA 11 13 =29
NETHERLANDS 16 =28
ITALY 11 =27
(2004=10-11-11=32)
さらに、ヘルシンキ・オリンピック以来過去の日本のメダル数。(金・銀・銅・合計)あなたは東京以降の夏のオリンピック開催地を言えますか? 僕はなぜかオリンピックが近づくと、記憶しなおしてソラで言えるように努力します。したところで、どうってことないんですが。ま、夏の頭の体操かなあ。(笑)
アテネ2004 16-9-12=37
シドニー2000 5-8-5=18
アトランタ1996 3-6-5=14
バルセロナ 1992 3-8-11=22
ソウル 1988 4-3-7-=14
ロス 1984 10-8-14=32
モスクワ 1980 不参加
モントリオール 1976 9-6-10=25
ミュンヘン 1972 13-8-8=29
メキシコ 1968 11-7-7-=25
東京 1964 16-5-8=29
ローマ 1960 4-7-7=18
メルボルン 1956 4-10-5=19
ヘルシンキ 1952 1-6-2=9
ロンドン 1948
ロンドン 1944 中止
さて、今年の夏はさらに暑くなるか。
SPORTS>Olympic>2008
【マッシュ・アップを生ミュージシャンで】
解説。
モーション・ブルーで見たウィル・カフーンのライヴ。セットリストの一部がわからなかったので、本人にメールで尋ねたら、親切に返事をいただいた。すでに当日分ブログのセットリストは修正したが、その中でひじょうに面白いと思ったのが、アンコールの部分だ。
このときは、ドラム・ソロから入り、すぐにマッコイ・タイナーの「パッション・ダンス」とロック・グループ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの「ブールズ・オン・パレード」の2曲に進んだ。ここで彼はこの2曲を「マッシュ・アップ」という手法でひとつの楽曲にして演奏したのだ。
この「マッシュ・アップ」という手法は、イギリスやアメリカのクラブDJがやり始めた手法で、まったく関係のない2曲を同時にうまくミックスしてかけてオーディエンスを楽しませるもの。関係ない2曲でもリズム・パターンが似ていたり、コード・シンガーが似ているとミックスしても意外とおもしろい効果が表れる。あるいは、インストゥルメンタルのトラックに、別のヴォーカルものを抜き出してミックスしたりするものもある。
いつ頃から始まったか定かではないが、2000年前後からその名前が普及したのではないか、と言われる。ただし、ある曲のインストゥルメンタルや曲の一部をループにして、そこに別のヴォーカルや楽曲を重ねるという手法は1980年代からサンプリングの手法の発展とともに生まれてきた。
ウィル・カフーンのひじょうにユニークなところは、そんなDJ的手法のマッシュ・アップを生身のミュージシャンのライヴ演奏でやっているところだ。このあたりが、ウィルのクリエイティヴィティが抜群なところだ。
■ ウィル・カフーン・ライヴ評
August 09, 2008
Will Calhoun & Stanley Jordan And More Department Store Of Rhythm
http://blog.soulsearchin.com/archives/002634.html
ENT>MUSIC>LIVE>Calhoun, Will
解説。
モーション・ブルーで見たウィル・カフーンのライヴ。セットリストの一部がわからなかったので、本人にメールで尋ねたら、親切に返事をいただいた。すでに当日分ブログのセットリストは修正したが、その中でひじょうに面白いと思ったのが、アンコールの部分だ。
このときは、ドラム・ソロから入り、すぐにマッコイ・タイナーの「パッション・ダンス」とロック・グループ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの「ブールズ・オン・パレード」の2曲に進んだ。ここで彼はこの2曲を「マッシュ・アップ」という手法でひとつの楽曲にして演奏したのだ。
この「マッシュ・アップ」という手法は、イギリスやアメリカのクラブDJがやり始めた手法で、まったく関係のない2曲を同時にうまくミックスしてかけてオーディエンスを楽しませるもの。関係ない2曲でもリズム・パターンが似ていたり、コード・シンガーが似ているとミックスしても意外とおもしろい効果が表れる。あるいは、インストゥルメンタルのトラックに、別のヴォーカルものを抜き出してミックスしたりするものもある。
いつ頃から始まったか定かではないが、2000年前後からその名前が普及したのではないか、と言われる。ただし、ある曲のインストゥルメンタルや曲の一部をループにして、そこに別のヴォーカルや楽曲を重ねるという手法は1980年代からサンプリングの手法の発展とともに生まれてきた。
ウィル・カフーンのひじょうにユニークなところは、そんなDJ的手法のマッシュ・アップを生身のミュージシャンのライヴ演奏でやっているところだ。このあたりが、ウィルのクリエイティヴィティが抜群なところだ。
■ ウィル・カフーン・ライヴ評
August 09, 2008
Will Calhoun & Stanley Jordan And More Department Store Of Rhythm
http://blog.soulsearchin.com/archives/002634.html
ENT>MUSIC>LIVE>Calhoun, Will
△(Bulletin) Isaac Hayes Dies At 65
2008年8月11日【(速報)ソウル・レジェンド、アイザック・へイズ死去】
訃報。
メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)メンフィスの自宅で倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、心臓発作で倒れていた。
ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。1971年の「シャフトのテーマ」が自身の最大のヒットだが、スタックス・レコードで多くのヒット曲を書き、プロデュースしている。
ロイター通信のニュース
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
(詳細は後ほど)
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)
訃報。
メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)メンフィスの自宅で倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、心臓発作で倒れていた。
ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。1971年の「シャフトのテーマ」が自身の最大のヒットだが、スタックス・レコードで多くのヒット曲を書き、プロデュースしている。
ロイター通信のニュース
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
(詳細は後ほど)
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)
△“Black Moses” Isaac Hayes Dies At 65
2008年8月12日【ソウル・レジェンド、アイザック・へイズ死去】
訃報。
メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)午後1時過ぎ(現地時間)、メンフィスの自宅地下のトレーニング・マシンのところで倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、脳梗塞で倒れていた。
ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。母親がアイザックが18ヶ月の時に死去、父が失踪したために姉とともに祖父母に育てられた。生活は貧しく、高校を中退。幼少のころから教会でゴスペルを歌い音楽に親しんできたが、ピアノなどを独学でマスター。その頃のアイドルは、ナット・キング・コールだった。1960年代初期からメンフィス近辺で音楽活動を始め、1963年までにはメンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードのスタッフ・ソングライターとなる。ここで、パートナーとなるデイヴィッド・ポーターと出会い、彼とのコンビで多くの作品を生み出す。大ヒットとなった作品には、サム&デイヴの「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミング」「ホエン・サムシングス・ロング・ウィズ・マイ・ベイビー(僕のベイビーに何か)」など多くあり、スタックスの重要なソングライターとなり、2人の作品は200曲近くになる。
1967年、ジャジーでアダルトなムードあふれるアルバム『プレゼンティング・アイザック・ヘイズ』でアーティスト・デビュー。これは売れなかったが、1969年リリースの『ホット・バタード・ソウル』が爆発的に売れ、いっきに注目のシンガー・ソングライターとなった。これは、リッチなオーケストラ・サウンドとヘイズの低音の魅力が出た作品でそのセクシーな歌声ともナレーションともとれるパフォーマンスが、唯一無比で一世を風靡した。ここには当時のアナログで4曲しか入っていなかったが、いずれもが長尺の作品で、そうした作りも当時としては斬新だった。
その後、2枚のアルバムを出した1971年、いわゆるブラック・ムーヴィーとして注目を集める映画『シャフト』の音楽を担当。ここから「シャフトのテーマ」が全米ナンバーワンになる大ヒットを記録。アイザック・ヘイズは押しも押されぬ大スターになった。しかも、この曲はグラミー賞だけでなく、オスカーも獲得。
1972年、スタックスが社運をかけて行った大イヴェント『ワッツタックス』に登場。その派手さから、彼は「ブラック・モーゼ」の異名を取るようになる。
さらに、スタックスが1975年に倒産後は自身のレーベル、ホット・バタード・ソウルを設立、コンスタントにアルバムを出すが、同レーベルも行き詰まる。
アイザック・ヘイズ自身はアーティストとして、また映画俳優として、少しずつ活動の幅を広げていく。テレビ映画『ロックフォード・ファイル(ロックフォードの事件メモ)』『マイアミ・ヴァイス』などにゲスト出演。映画俳優としては、1981年の『エスケープ・フロム・ニューヨーク』での演技が高く評価された。シンガーとしては、1977年、ポリドールに移籍、ディスコ調のヒットをいくつか出した。
ヘイズはその後、1990年代に入ってニューヨークのラジオ(KISS=FM)でDJを担当したり、1997年からは人気テレビシリーズ『サウス・パーク』でシェフ役の声を担当するなど活躍していた。しかし、彼がサイエントロジーの宗教を信仰し、そのことを扱ったエピソードがあり、それに不満を表明し、2006年になって『サウス・パーク』を降板した。
音楽的には、多くのヒップホップ・アーティストや若いシンガーからサンプリングされるようになり、改めて注目を集めるようになった。中でも、アリシア・キーズはアイザック・ヘイズの影響を語っている。彼女によれば、自分の「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」が6分以上になるのも、アイザックの作品が平気で10分を超える長尺のものが多々あったからだ、と述べる。つまりシングル用に3分程度の曲が一般的だった頃、アイザック・ヘイズはそうした常識に囚われず長い曲を録音していた。
しばらく前にリリースされたドキュメンタリー映画『オンリー・ザ・ストロンゴ・サヴァイヴ(ソウル・サヴァイヴァー)』でも、元気な姿が映っていた。
最近は、2008年11月公開予定の映画『ソウル・メン』の撮影に入っていた、という。この映画ではサミュエル・ジャクソン、また、同週(2008年8月9日)に死去した黒人コメディアン、ベニー・マンらと共演していた。彼の撮影は終了していたという情報もある。その場合、映画は無事公開され、ベニーとともに遺作となる。ヘイズは約60本近くの映画に出演した。また彼は、昨年再開したスタックス・レコードと契約を結び、1995年の『ロウ・アンド・リファインド』以来の新作アルバムの制作にも入っていたという。
2007年1月、ヘイズは脳梗塞で倒れ、その後自宅で療養。2008年8月10日、自宅で倒れ、バプティスト・メモリアル病院に運ばれたが、午後2時過ぎ死亡が確認された。
アイザックには現在の妻、3人の元妻、12人の子供、14人の孫、1人のひ孫が残った。現在との妻には2歳になる子供が1人いる。
(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きます)
■ アイザック・ヘイズ シャフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006BH2P/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ 関連記事
AP通信の記事
http://ap.google.com/article/ALeqM5gsCUwiqAHCNIbxD6oePjCg1RToZQD92FOTRO0
ロイター通信の記事
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
ビルボード誌の記事
http://www.billboard.com/bbcom/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1003837514
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)
訃報。
メンフィス・スタックス・レコードの重鎮のひとりでもあったアイザック・ヘイズが2008年8月10日(日曜)午後1時過ぎ(現地時間)、メンフィスの自宅地下のトレーニング・マシンのところで倒れているところを発見され、まもなく近くの病院に運ばれたが死去していた。65歳だった。ヘイズは2007年の初め、脳梗塞で倒れていた。
ヘイズは1942年8月20日、テネシー州コーヴィントン生まれ。来週66歳の誕生日を迎えるところだった。母親がアイザックが18ヶ月の時に死去、父が失踪したために姉とともに祖父母に育てられた。生活は貧しく、高校を中退。幼少のころから教会でゴスペルを歌い音楽に親しんできたが、ピアノなどを独学でマスター。その頃のアイドルは、ナット・キング・コールだった。1960年代初期からメンフィス近辺で音楽活動を始め、1963年までにはメンフィスの名門ソウル・レーベル、スタックス・レコードのスタッフ・ソングライターとなる。ここで、パートナーとなるデイヴィッド・ポーターと出会い、彼とのコンビで多くの作品を生み出す。大ヒットとなった作品には、サム&デイヴの「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミング」「ホエン・サムシングス・ロング・ウィズ・マイ・ベイビー(僕のベイビーに何か)」など多くあり、スタックスの重要なソングライターとなり、2人の作品は200曲近くになる。
1967年、ジャジーでアダルトなムードあふれるアルバム『プレゼンティング・アイザック・ヘイズ』でアーティスト・デビュー。これは売れなかったが、1969年リリースの『ホット・バタード・ソウル』が爆発的に売れ、いっきに注目のシンガー・ソングライターとなった。これは、リッチなオーケストラ・サウンドとヘイズの低音の魅力が出た作品でそのセクシーな歌声ともナレーションともとれるパフォーマンスが、唯一無比で一世を風靡した。ここには当時のアナログで4曲しか入っていなかったが、いずれもが長尺の作品で、そうした作りも当時としては斬新だった。
その後、2枚のアルバムを出した1971年、いわゆるブラック・ムーヴィーとして注目を集める映画『シャフト』の音楽を担当。ここから「シャフトのテーマ」が全米ナンバーワンになる大ヒットを記録。アイザック・ヘイズは押しも押されぬ大スターになった。しかも、この曲はグラミー賞だけでなく、オスカーも獲得。
1972年、スタックスが社運をかけて行った大イヴェント『ワッツタックス』に登場。その派手さから、彼は「ブラック・モーゼ」の異名を取るようになる。
さらに、スタックスが1975年に倒産後は自身のレーベル、ホット・バタード・ソウルを設立、コンスタントにアルバムを出すが、同レーベルも行き詰まる。
アイザック・ヘイズ自身はアーティストとして、また映画俳優として、少しずつ活動の幅を広げていく。テレビ映画『ロックフォード・ファイル(ロックフォードの事件メモ)』『マイアミ・ヴァイス』などにゲスト出演。映画俳優としては、1981年の『エスケープ・フロム・ニューヨーク』での演技が高く評価された。シンガーとしては、1977年、ポリドールに移籍、ディスコ調のヒットをいくつか出した。
ヘイズはその後、1990年代に入ってニューヨークのラジオ(KISS=FM)でDJを担当したり、1997年からは人気テレビシリーズ『サウス・パーク』でシェフ役の声を担当するなど活躍していた。しかし、彼がサイエントロジーの宗教を信仰し、そのことを扱ったエピソードがあり、それに不満を表明し、2006年になって『サウス・パーク』を降板した。
音楽的には、多くのヒップホップ・アーティストや若いシンガーからサンプリングされるようになり、改めて注目を集めるようになった。中でも、アリシア・キーズはアイザック・ヘイズの影響を語っている。彼女によれば、自分の「ユー・ドント・ノウ・マイ・ネーム」が6分以上になるのも、アイザックの作品が平気で10分を超える長尺のものが多々あったからだ、と述べる。つまりシングル用に3分程度の曲が一般的だった頃、アイザック・ヘイズはそうした常識に囚われず長い曲を録音していた。
しばらく前にリリースされたドキュメンタリー映画『オンリー・ザ・ストロンゴ・サヴァイヴ(ソウル・サヴァイヴァー)』でも、元気な姿が映っていた。
最近は、2008年11月公開予定の映画『ソウル・メン』の撮影に入っていた、という。この映画ではサミュエル・ジャクソン、また、同週(2008年8月9日)に死去した黒人コメディアン、ベニー・マンらと共演していた。彼の撮影は終了していたという情報もある。その場合、映画は無事公開され、ベニーとともに遺作となる。ヘイズは約60本近くの映画に出演した。また彼は、昨年再開したスタックス・レコードと契約を結び、1995年の『ロウ・アンド・リファインド』以来の新作アルバムの制作にも入っていたという。
2007年1月、ヘイズは脳梗塞で倒れ、その後自宅で療養。2008年8月10日、自宅で倒れ、バプティスト・メモリアル病院に運ばれたが、午後2時過ぎ死亡が確認された。
アイザックには現在の妻、3人の元妻、12人の子供、14人の孫、1人のひ孫が残った。現在との妻には2歳になる子供が1人いる。
(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きます)
■ アイザック・ヘイズ シャフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006BH2P/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■ 関連記事
AP通信の記事
http://ap.google.com/article/ALeqM5gsCUwiqAHCNIbxD6oePjCg1RToZQD92FOTRO0
ロイター通信の記事
http://www.reuters.com/article/newsOne/idUSN1029123920080810?pageNumber=1&virtualBrandChannel=0
ビルボード誌の記事
http://www.billboard.com/bbcom/news/article_display.jsp?vnu_content_id=1003837514
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 – August 10, 2008, 65)
【映画『ソウル・メン』に出演〜アイザック・ヘイズとバーニー・マック】
偶然。
スタックス・レコード、いや、メンフィス・サウンドの重鎮でもあったソングライター、プロデューサー、シンガー、アイザック・ヘイズ。8月10日にメンフィスで65歳で亡くなった。その前日、8月9日スタンダップ・コメディ出身の黒人俳優、バーニー・マックがシカゴで50歳という若さで亡くなった。そして、この2人が11月14日に公開される映画、その名も『ソウル・メン』で共演している。
『ソウル・メン』は、マルコム・D・リー監督の作品で、20数年前に一緒にバンド活動をしていた2人がひさびさに再会。そのバンド・リーダーが亡くなり、トリビュート・ライヴをニューヨークのアポロ・シアターでやるために、再結成しようという物語。この2人が、バーニー・マックとサミュエル・ジャクソン。彼らが「ソウル・メン」だ。もちろん、イメージとしてはスタックスの最強力デュエット、サム・アンド・デイヴだが、彼らのヒット曲「ソウル・マン」を書いたのが、アイザック・ヘイズというわけである。アイザック・ヘイズは、本人自身で映画に登場するという。ソングライターかもしくはシンガー、あるいはプロデューサーか。またどのような役かはわからないが、ジョン・レジェンドも出演している。
1986年に『ソウル・マン』という映画があったが、それとはまったく関係ない。
このマルコム・リーは、あのスパイク・リーのいとこだという。撮影自体は4月に終了、またほとんど編集も終わっていた、という。ただし、出演者が2人、急遽死去したことで、リー監督は、この映画を彼ら2人に捧げるために、若干の手直しをする。
バーニーは撮影終了後、リー監督に、「いい映画を作ってくれよ、man」と言ったと伝えられている。バーニーはスタンダップ・コメディ出身で、1992年の映画『モー・マネー』以来、『ハウス・パーティー』、『ゲット・オン・ザ・バス』、『オーシャンズ・イレヴン』『同12』『同13』などにも出演している人気俳優。また、今回サミュエルとバーニーが歌手役となるが、バーニーはファルセットを使った歌声を披露しているという。
3人(バーニー、アイザック、サミュエル)が映った写真があるが、内2人が2日続けて亡くなるというのは、一体どういうことなのだろうか。偶然というか。この映画がヒットすることを祈りたい。
アイザック・へイズの葬儀は次の通り。一般向け葬儀は2008年8月18日、月曜朝11時からテネシー州コルドーヴァの次の教会にて行われる。
Hope Presbyterian Church, located at 8500 Walnut Grove Road in Cordova, TN.
(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きそうです)
ENT>OBITUARY
偶然。
スタックス・レコード、いや、メンフィス・サウンドの重鎮でもあったソングライター、プロデューサー、シンガー、アイザック・ヘイズ。8月10日にメンフィスで65歳で亡くなった。その前日、8月9日スタンダップ・コメディ出身の黒人俳優、バーニー・マックがシカゴで50歳という若さで亡くなった。そして、この2人が11月14日に公開される映画、その名も『ソウル・メン』で共演している。
『ソウル・メン』は、マルコム・D・リー監督の作品で、20数年前に一緒にバンド活動をしていた2人がひさびさに再会。そのバンド・リーダーが亡くなり、トリビュート・ライヴをニューヨークのアポロ・シアターでやるために、再結成しようという物語。この2人が、バーニー・マックとサミュエル・ジャクソン。彼らが「ソウル・メン」だ。もちろん、イメージとしてはスタックスの最強力デュエット、サム・アンド・デイヴだが、彼らのヒット曲「ソウル・マン」を書いたのが、アイザック・ヘイズというわけである。アイザック・ヘイズは、本人自身で映画に登場するという。ソングライターかもしくはシンガー、あるいはプロデューサーか。またどのような役かはわからないが、ジョン・レジェンドも出演している。
1986年に『ソウル・マン』という映画があったが、それとはまったく関係ない。
このマルコム・リーは、あのスパイク・リーのいとこだという。撮影自体は4月に終了、またほとんど編集も終わっていた、という。ただし、出演者が2人、急遽死去したことで、リー監督は、この映画を彼ら2人に捧げるために、若干の手直しをする。
バーニーは撮影終了後、リー監督に、「いい映画を作ってくれよ、man」と言ったと伝えられている。バーニーはスタンダップ・コメディ出身で、1992年の映画『モー・マネー』以来、『ハウス・パーティー』、『ゲット・オン・ザ・バス』、『オーシャンズ・イレヴン』『同12』『同13』などにも出演している人気俳優。また、今回サミュエルとバーニーが歌手役となるが、バーニーはファルセットを使った歌声を披露しているという。
3人(バーニー、アイザック、サミュエル)が映った写真があるが、内2人が2日続けて亡くなるというのは、一体どういうことなのだろうか。偶然というか。この映画がヒットすることを祈りたい。
アイザック・へイズの葬儀は次の通り。一般向け葬儀は2008年8月18日、月曜朝11時からテネシー州コルドーヴァの次の教会にて行われる。
Hope Presbyterian Church, located at 8500 Walnut Grove Road in Cordova, TN.
(アイザック・ヘイズについては、もう少し続きそうです)
ENT>OBITUARY
【ソウル・ジャイアンツ、ブラック・モーゼ、アイザック・ヘイズ(パート3)】
ジャイアンツ。
まさに彼は「ソウル・ジャイアンツ」だ。自らもヒットを出したが、ソングライターとして「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミン」などの大ヒットも生み出した。アイザック・ヘイズを初めて知ったのは、僕も「シャフト」だと思う。1971年の暮れからの大ヒットだからその頃だろう。そのかっこよさは初めて聴いたときから印象に残っていた。それは映画『黒いジャガーのテーマ(Theme From Shaft)』のテーマだったが、その映画自体を見るのは、ずっと後だったと思う。当時ブラック・ムーヴィーなど今ほど日本ではすぐには公開されなかった。
「シャフト」はアップテンポで、いかにも刑事物映画のテーマにふさわしい楽曲だったが、彼のアルバムは一風変わっていた。なによりも驚かされたのが、リリースは「シャフト」以前だったが、後から買った『ホット・バタード・ソウル』だ。なにしろ、アルバムに4曲しかはいってないのだ。「ウォーク・オン・バイ」は12分、「恋はフェニックス」は18分を超える。しかも、「シャフト」のかっこよさとは違って、静かにムード音楽が漂っていた。当時の僕は全然気に入らなかった。かったるいのだ。同じスタックスのオーティスやサム&デイヴ、ジョニー・テイラーのほうが断然いいと思った。
さて、『シャフト』のアルバムは、けっこう気に入った。この中に入っている「ドゥ・ユア・シング」という曲があるのだが、ゆったりしたダウン・トゥ・アースなソウルフルな曲で、実に渋かった。ちょうど僕が出入りし始めた六本木のディスコ「エンバシー」の店長をしていたドン勝本氏がこの曲をものすごく気に入っていて、彼がDJブースに入ると、必ずこれをかけていた。僕の中では「ドゥ・ユア・シング」イコール勝本氏なのだ。たしか、一時期FENの何かの番組の後テーマになっていたような記憶がおぼろげにしている。なんだったか。
そして、一番度肝を抜かれたのが、映画『ワッツタックス』でのアイザックの登場である。この『ワッツタックス』自体がすごいのだが、ここに出てくるアイザック・ヘイズにはやられた。その存在感たるや。恐れ入った。
それからしばらくして、バリー・ホワイトというシンガーが登場した。アイザック・ヘイズ同様低音の魅力で売り出し始めたシンガーである。バリーが登場したとき、まさに第二のアイザック・ヘイズと思ったものだ。バリーは、よりポップな路線に進み、一世を風靡する大スターとなる。アイザックのほうは、所属していたスタックス・レコードが倒産したり、若干不遇の時代をすごすが、自身のレーベルを経て、ポリドールへ移籍、これまた方向性をディスコにしたアルバムなどを出し、ヒットを生む。ポリドール時代の作品のアルバム・ライナーを何枚か書いたが、日本ではぜんぜん売れなかった。
アイザック・ヘイズを次に見るのは映画『エスケープ・フロム・ニューヨーク』だ。これで、俳優アイザック・ヘイズにまたまた驚かされた。実にいい雰囲気、味をだしていた。
アイザックの死去に伴い、音楽業界からすでに多くのお悔やみのコメントが寄せられている。ディオンヌ・ワーウィック、アレサ・フランクリン、リオン・ウエア、オージェイズ、ブルー・マジック、サイーダ・ギャレットなどなど。
ところで30年前にそれほど気に入らなかったアイザック・ヘイズのアルバムだが、20年くらい前だったか、いわゆる「クワイエット・ストーム」のフォーマットが出て、それにともないアイザック・ヘイズのレコードがかかるようになり、けっこういいではないかと思い始めるようになった。聴く側、僕の好みも変わったということだろう。今、ちょうどこの原稿を書きながら聴いているのはアルバム『トゥ・ビー・コンティニュード』(1971年)だ。ここにも、「ルック・オブ・ラヴ」11分12秒、「アイクス・ムード〜ユーヴ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリン」15分30秒などの長尺ムード・ソウルが入っている。しかし、なんでここまで長い曲をレコーディングしたのだろう。しかもリッチなオーケストラがついている。
今回の死去に伴いいろいろと記事を読んだが、彼がガーナに学校を建設するために尽力したとか、昔からそうした慈善事業的なことに興味を持っていたということがわかった。
アイザック・ヘイズの音楽は、『To Be Continued』。ご冥福をお祈りしたい。
■ トゥ・ビー・コンティニュード
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005F295/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■デイヴィッド・ネイサンのソウルミュージック・ホームページ
アイザック・ヘイズ・トリビュート・ページ
http://www.soulmusic.com/isaachayes.html
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 - August 10, 2008, 65)
ジャイアンツ。
まさに彼は「ソウル・ジャイアンツ」だ。自らもヒットを出したが、ソングライターとして「ソウル・マン」「ホールド・オン・アイム・カミン」などの大ヒットも生み出した。アイザック・ヘイズを初めて知ったのは、僕も「シャフト」だと思う。1971年の暮れからの大ヒットだからその頃だろう。そのかっこよさは初めて聴いたときから印象に残っていた。それは映画『黒いジャガーのテーマ(Theme From Shaft)』のテーマだったが、その映画自体を見るのは、ずっと後だったと思う。当時ブラック・ムーヴィーなど今ほど日本ではすぐには公開されなかった。
「シャフト」はアップテンポで、いかにも刑事物映画のテーマにふさわしい楽曲だったが、彼のアルバムは一風変わっていた。なによりも驚かされたのが、リリースは「シャフト」以前だったが、後から買った『ホット・バタード・ソウル』だ。なにしろ、アルバムに4曲しかはいってないのだ。「ウォーク・オン・バイ」は12分、「恋はフェニックス」は18分を超える。しかも、「シャフト」のかっこよさとは違って、静かにムード音楽が漂っていた。当時の僕は全然気に入らなかった。かったるいのだ。同じスタックスのオーティスやサム&デイヴ、ジョニー・テイラーのほうが断然いいと思った。
さて、『シャフト』のアルバムは、けっこう気に入った。この中に入っている「ドゥ・ユア・シング」という曲があるのだが、ゆったりしたダウン・トゥ・アースなソウルフルな曲で、実に渋かった。ちょうど僕が出入りし始めた六本木のディスコ「エンバシー」の店長をしていたドン勝本氏がこの曲をものすごく気に入っていて、彼がDJブースに入ると、必ずこれをかけていた。僕の中では「ドゥ・ユア・シング」イコール勝本氏なのだ。たしか、一時期FENの何かの番組の後テーマになっていたような記憶がおぼろげにしている。なんだったか。
そして、一番度肝を抜かれたのが、映画『ワッツタックス』でのアイザックの登場である。この『ワッツタックス』自体がすごいのだが、ここに出てくるアイザック・ヘイズにはやられた。その存在感たるや。恐れ入った。
それからしばらくして、バリー・ホワイトというシンガーが登場した。アイザック・ヘイズ同様低音の魅力で売り出し始めたシンガーである。バリーが登場したとき、まさに第二のアイザック・ヘイズと思ったものだ。バリーは、よりポップな路線に進み、一世を風靡する大スターとなる。アイザックのほうは、所属していたスタックス・レコードが倒産したり、若干不遇の時代をすごすが、自身のレーベルを経て、ポリドールへ移籍、これまた方向性をディスコにしたアルバムなどを出し、ヒットを生む。ポリドール時代の作品のアルバム・ライナーを何枚か書いたが、日本ではぜんぜん売れなかった。
アイザック・ヘイズを次に見るのは映画『エスケープ・フロム・ニューヨーク』だ。これで、俳優アイザック・ヘイズにまたまた驚かされた。実にいい雰囲気、味をだしていた。
アイザックの死去に伴い、音楽業界からすでに多くのお悔やみのコメントが寄せられている。ディオンヌ・ワーウィック、アレサ・フランクリン、リオン・ウエア、オージェイズ、ブルー・マジック、サイーダ・ギャレットなどなど。
ところで30年前にそれほど気に入らなかったアイザック・ヘイズのアルバムだが、20年くらい前だったか、いわゆる「クワイエット・ストーム」のフォーマットが出て、それにともないアイザック・ヘイズのレコードがかかるようになり、けっこういいではないかと思い始めるようになった。聴く側、僕の好みも変わったということだろう。今、ちょうどこの原稿を書きながら聴いているのはアルバム『トゥ・ビー・コンティニュード』(1971年)だ。ここにも、「ルック・オブ・ラヴ」11分12秒、「アイクス・ムード〜ユーヴ・ロスト・ザット・ラヴィン・フィーリン」15分30秒などの長尺ムード・ソウルが入っている。しかし、なんでここまで長い曲をレコーディングしたのだろう。しかもリッチなオーケストラがついている。
今回の死去に伴いいろいろと記事を読んだが、彼がガーナに学校を建設するために尽力したとか、昔からそうした慈善事業的なことに興味を持っていたということがわかった。
アイザック・ヘイズの音楽は、『To Be Continued』。ご冥福をお祈りしたい。
■ トゥ・ビー・コンティニュード
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005F295/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■デイヴィッド・ネイサンのソウルミュージック・ホームページ
アイザック・ヘイズ・トリビュート・ページ
http://www.soulmusic.com/isaachayes.html
ENT>OBITUARY>Hayes, Isaac (August 20, 1942 - August 10, 2008, 65)
■“Soul Power 2008” Booklet And More…
2008年8月15日【「ソウル・パワー2008」ブックレット制作進行中】
追い込み。
今年も「ソウル・パワー」の時期がやってきた。2006年から始まって今年で3回目。マーチン曰く、2年前始めたとき、「絶対に3回はやりたい、3回やれば、恒例の、っていえるようになるから」という強い決意のもと、その3回目が来月行われる。
年々、新しいアーティストたちとのコラボも活発化し、今年も初登場組が数組いる。もちろん、正式発表されていない「シークレット・ゲスト」もいる。
その「ソウル・パワー」のブックレット制作が、お盆休みなどまったく無関係に、進行中だ。で、そのためのインタヴュー、原稿書きで、この1週間くらい缶詰でほとんどライヴにも行けない状態が続いている。
すでに、マーチンのインタヴュー(複数回)、ゴスペラーズ・インタヴュー、スクープ・オン・サムバディー・インタヴュー、ゴスペラッツ・インタヴューをすませ、原稿書きに明け暮れている。今回も昨年に勝るとも劣らぬ強力な内容になるので、ぜひとも会場で手にとっていただきたい。
というわけで、本当だったら見に行くつもりだった、ガッツ(Gatz)のライヴや、ネヴィル関係ライヴも断念。キャンディ・ダルファー、デオダート、ソウル・エキスプレス(@スター・パイン・カフェ=15日)、TOKUあたりのライヴも行けるかどうか、微妙な情勢。
+++++
高校野球。
とはいうものの、原稿を書きつつもオリンピックはテレビで流れてたり。北島の金に感動したり、ほとんど初めて見るフェンシングが斬新だったり。それよりも、生まれて初めて自分の意思で高校野球を見てる自分にびっくり。母校が北神奈川で3回戦突破、88年ぶりのベスト8入りだそうで。だいたい夏の甲子園にでるのが46年ぶりだとか。そりゃあ、生まれて初めて見るわけだ。勝って校歌が流れてたが、あんまり覚えてない。(苦笑) 「若き血」は覚えていたが。
+++++
■テンプテーションズ・レヴュー再来日決定
コットンにまたまたテンプテーションズ・レヴュー来日決定。デニス・エドワーズのテンプス・レビュー。去年大評判を得たもの。メンバーはデニス、アリ・オリ、デイヴィッド・シーまでが確定。今年最後12月を締める。2008年12月26日〜31日(29日を除く)。
◎詳細はこちら↓
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/schedule/index.php?yr=2008&;mn=12#319
◎昨年のライヴ評
November 26, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 1)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200711/2007_11_26.html
11月26日付けから29日付けまでパート4まで。総力レポート。
+++++
■コールド・ブラッド再来日
同じくコットンには、8月21日から23日までベイエリア・ファンクのコールド・ブラッドが再来日。タワー・オブ・パワー好きの人、スライ&ファミリー・ストーンに行こうと思っている人など、同じベイエリア・ファンクとして、コールド・ブラッドもごらんになるといいと思う。
◎ 前回来日ライヴ評
April 15, 2007
Cold Blood Live: First Ever In Japan〜Another Soul Survivor
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200704/2007_04_15.html
詳細はこちら↓
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/schedule/#
+++++
ENT>LIVE>ANNOUNCEMENT
追い込み。
今年も「ソウル・パワー」の時期がやってきた。2006年から始まって今年で3回目。マーチン曰く、2年前始めたとき、「絶対に3回はやりたい、3回やれば、恒例の、っていえるようになるから」という強い決意のもと、その3回目が来月行われる。
年々、新しいアーティストたちとのコラボも活発化し、今年も初登場組が数組いる。もちろん、正式発表されていない「シークレット・ゲスト」もいる。
その「ソウル・パワー」のブックレット制作が、お盆休みなどまったく無関係に、進行中だ。で、そのためのインタヴュー、原稿書きで、この1週間くらい缶詰でほとんどライヴにも行けない状態が続いている。
すでに、マーチンのインタヴュー(複数回)、ゴスペラーズ・インタヴュー、スクープ・オン・サムバディー・インタヴュー、ゴスペラッツ・インタヴューをすませ、原稿書きに明け暮れている。今回も昨年に勝るとも劣らぬ強力な内容になるので、ぜひとも会場で手にとっていただきたい。
というわけで、本当だったら見に行くつもりだった、ガッツ(Gatz)のライヴや、ネヴィル関係ライヴも断念。キャンディ・ダルファー、デオダート、ソウル・エキスプレス(@スター・パイン・カフェ=15日)、TOKUあたりのライヴも行けるかどうか、微妙な情勢。
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高校野球。
とはいうものの、原稿を書きつつもオリンピックはテレビで流れてたり。北島の金に感動したり、ほとんど初めて見るフェンシングが斬新だったり。それよりも、生まれて初めて自分の意思で高校野球を見てる自分にびっくり。母校が北神奈川で3回戦突破、88年ぶりのベスト8入りだそうで。だいたい夏の甲子園にでるのが46年ぶりだとか。そりゃあ、生まれて初めて見るわけだ。勝って校歌が流れてたが、あんまり覚えてない。(苦笑) 「若き血」は覚えていたが。
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■テンプテーションズ・レヴュー再来日決定
コットンにまたまたテンプテーションズ・レヴュー来日決定。デニス・エドワーズのテンプス・レビュー。去年大評判を得たもの。メンバーはデニス、アリ・オリ、デイヴィッド・シーまでが確定。今年最後12月を締める。2008年12月26日〜31日(29日を除く)。
◎詳細はこちら↓
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/schedule/index.php?yr=2008&;mn=12#319
◎昨年のライヴ評
November 26, 2007
It’s The Temptations’ Week With The Temptation Walk (Part 1)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200711/2007_11_26.html
11月26日付けから29日付けまでパート4まで。総力レポート。
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■コールド・ブラッド再来日
同じくコットンには、8月21日から23日までベイエリア・ファンクのコールド・ブラッドが再来日。タワー・オブ・パワー好きの人、スライ&ファミリー・ストーンに行こうと思っている人など、同じベイエリア・ファンクとして、コールド・ブラッドもごらんになるといいと思う。
◎ 前回来日ライヴ評
April 15, 2007
Cold Blood Live: First Ever In Japan〜Another Soul Survivor
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200704/2007_04_15.html
詳細はこちら↓
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/schedule/#
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ENT>LIVE>ANNOUNCEMENT
【「R&B」生みの親〜ジェリー・ウェクスラー死去(パート1)】
訃報。
R&Bのレコード・プロデューサーとして1950年代から多くのアーティストとかかわり、多数のヒット曲を生み出したジェリー・ウェクスラーが2008年8月15日午前3時45分、フロリダ州サラソータの自宅で心臓疾患のため死去した。91歳だった。ここ数年、心臓を患っていた。
ジェリー・ウェクスラーは、本名ジェラルド・ウェクスラー。1907年1月10日ニューヨークに生まれた。父はポーランドからの移民、母親はジェリーに作家になって欲しいと思っていた。教育熱心な母親の勧めで彼は南部のカンサス州立大学へ。そこで彼はブルーズに接する。一時期戦争に従軍するが、戦後、大学に戻り、その後1949年までにニューヨークに戻った。ここで、音楽業界誌ビルボードに入社。ビルボードにはいくつものチャートがあったが、いわゆる黒人音楽のヒットチャートは当時は「ベスト・セリング・リテイル・レイス・レコーズ」と呼ばれていた。ブラック・ミュージックをレイス・ミュージック(人種のレコード)と言っていた。だがこの表現は若干差別的で問題があるということで、ビルボードは新しい名前に変更しようとする。そしてそのときのスタッフの一人だったジェリー・ウェクスラーが提案した「リズム・アンド・ブルーズ(R&B)」という言葉が採用され、1949年6月25日付けビルボードから「レイス・ミュージック」の名前が「リズム・アンド・ブルーズ」となった。ジェリーは、その意味で「R&B」という言葉の生みの親だ。ビルボードでジェリーは記事を書くレポーターとなるが、ある意味で、原稿を書く点では母親の希望だった作家(ライター)になったわけだ。
ビルボードでの仕事ぶりを認められたジェリーはアトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガンに誘われ、1953年アトランティック入り。ここでレコード宣伝、レコード制作に携わるようになる。このころ、ジェリーが売り出したのが、ドリフターズ、コースターズ、レイ・チャールズといった黒人アーティストだった。当時のレコード・マンは、自分でアーティストを見つけ、レコーディングし、ラジオ局のDJに売り込み、宣伝をし、ときにはアーティストのツアーの手助けもして、ヒットを作るという作業をすべてやった。
ウェクスラーはより南部の泥臭いソウル、R&Bに傾注するようになる。オーティス・レディングが在籍していたメンフィスのソウルの名門レーベル、スタックスをアトランティック傘下に置き、積極的にソウル、R&Bを売り出した。中でも、ちょうどコロンビア・レコードとの契約が切れたシンガー、アレサ・フランクリンを自社に引き抜き、アレサを南部のスタジオに連れて行きレコーディング。それまでのジャジーでブルージーなサウンドからパンチの効いたリズムの強いR&B曲を出したところ、瞬く間に大ヒットとなり、以来、アレサは次々と大ヒットを放つようになる。ジェリーはプロデューサーとしてアレサと14枚のアルバムで手を組み、アレサの黄金期を形成した。
アトランティックでは、1975年に同社を去るまで、アレサのほかに、レイ・チャールズ、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジなど多数の作品をてがけた。また、アーメット、ネスヒ・アーティガンとともに、一インディ・レーベルだったアトランティック・レーベルを世界的な大レーベルに育て上げた立役者でもある。アトランティックで、彼は「R&B」「ソウル」を世に送り出し、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリンやレッド・ゼッペリンやオールマン・ブラザースを世界的スターにした。20世紀を代表するレコード・プロデューサー/レコード・エグゼクティヴの一人と言っても過言ではない。
ジェリー・ウェクスラー本人は自らの肩書きで一番気に入っているものは、レコード・プロデューサーや、宣伝マンなどではなく、「レコード・コレクター」(レコード収集家)だと言うそうだ。
ローリング・ストーン誌が数年前に、ジェリー本人によるお気に入り自作曲ベスト20のリストを掲載した。その20曲は次の通り。まさにアメリカ・ブラック・ミュージックの歴史を作り上げたアーティスト群だ。
Jerry Wexler’s Own Favorite Tracks
1. Professor Longhair -- "Tipitina" (1953)
2. Ray Charles -- "I Got a Woman" (1954)
3. Big Joe Turner -- "Shake, Rattle and Roll" (1954)
4. LaVern Baker -- "Tweedlee Dee" (1954)
5. Champion Jack Dupree -- "Junker’s Blues" (1958)
6. The Drifters -- "There Goes My Baby" (1959)
7. Ray Charles -- "What I’d Say" (1959)
8. Solomon Burke -- "If You Need Me" (1963)
9. Booker T. & the MG’s -- "Green Onions" (1962)
10. Wilson Pickett -- "In the Midnight Hour" (1965)
11. Aretha Franklin -- "Respect" (1967)
12. Dusty Springfield -- "Son of a Preacher Man" (1969)
13. Dr. John -- "Iko Iko" (1972)
14. Doug Sahm -- "(Is Anybody Going to) San Antone" (1973)
15. Willie Nelson -- "Bloody Mary Morning" (1974)
16. The Sanford/Townsend Band -- "Smoke From a Distant Fire" (1977)
17. James Booker -- "Winin’ Boy Blues" (1978)
18. Etta James -- "Take It to the Limit" (1978)
19. Dire Straits -- "Lady Writer" (1979)
20. Bob Dylan -- "Gotta Serve Somebody" (1979)
(ジェリー・ウェクスラーについては続きます)
■ 訃報記事
http://www.nytimes.com/2008/08/16/arts/music/16wexler.html?_r=1&pagewanted=2&partner=rssnyt&emc=rss&oref=slogin
http://voices.washingtonpost.com/postrock/2008/08/rip_jerry_wexler.html?hpid=topnews
http://www.rollingstone.com/news/story/22595667/the_record_collector_jerry_wexler_dies_at_age_91
ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 – August 15, 2008, 91)
訃報。
R&Bのレコード・プロデューサーとして1950年代から多くのアーティストとかかわり、多数のヒット曲を生み出したジェリー・ウェクスラーが2008年8月15日午前3時45分、フロリダ州サラソータの自宅で心臓疾患のため死去した。91歳だった。ここ数年、心臓を患っていた。
ジェリー・ウェクスラーは、本名ジェラルド・ウェクスラー。1907年1月10日ニューヨークに生まれた。父はポーランドからの移民、母親はジェリーに作家になって欲しいと思っていた。教育熱心な母親の勧めで彼は南部のカンサス州立大学へ。そこで彼はブルーズに接する。一時期戦争に従軍するが、戦後、大学に戻り、その後1949年までにニューヨークに戻った。ここで、音楽業界誌ビルボードに入社。ビルボードにはいくつものチャートがあったが、いわゆる黒人音楽のヒットチャートは当時は「ベスト・セリング・リテイル・レイス・レコーズ」と呼ばれていた。ブラック・ミュージックをレイス・ミュージック(人種のレコード)と言っていた。だがこの表現は若干差別的で問題があるということで、ビルボードは新しい名前に変更しようとする。そしてそのときのスタッフの一人だったジェリー・ウェクスラーが提案した「リズム・アンド・ブルーズ(R&B)」という言葉が採用され、1949年6月25日付けビルボードから「レイス・ミュージック」の名前が「リズム・アンド・ブルーズ」となった。ジェリーは、その意味で「R&B」という言葉の生みの親だ。ビルボードでジェリーは記事を書くレポーターとなるが、ある意味で、原稿を書く点では母親の希望だった作家(ライター)になったわけだ。
ビルボードでの仕事ぶりを認められたジェリーはアトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガンに誘われ、1953年アトランティック入り。ここでレコード宣伝、レコード制作に携わるようになる。このころ、ジェリーが売り出したのが、ドリフターズ、コースターズ、レイ・チャールズといった黒人アーティストだった。当時のレコード・マンは、自分でアーティストを見つけ、レコーディングし、ラジオ局のDJに売り込み、宣伝をし、ときにはアーティストのツアーの手助けもして、ヒットを作るという作業をすべてやった。
ウェクスラーはより南部の泥臭いソウル、R&Bに傾注するようになる。オーティス・レディングが在籍していたメンフィスのソウルの名門レーベル、スタックスをアトランティック傘下に置き、積極的にソウル、R&Bを売り出した。中でも、ちょうどコロンビア・レコードとの契約が切れたシンガー、アレサ・フランクリンを自社に引き抜き、アレサを南部のスタジオに連れて行きレコーディング。それまでのジャジーでブルージーなサウンドからパンチの効いたリズムの強いR&B曲を出したところ、瞬く間に大ヒットとなり、以来、アレサは次々と大ヒットを放つようになる。ジェリーはプロデューサーとしてアレサと14枚のアルバムで手を組み、アレサの黄金期を形成した。
アトランティックでは、1975年に同社を去るまで、アレサのほかに、レイ・チャールズ、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジなど多数の作品をてがけた。また、アーメット、ネスヒ・アーティガンとともに、一インディ・レーベルだったアトランティック・レーベルを世界的な大レーベルに育て上げた立役者でもある。アトランティックで、彼は「R&B」「ソウル」を世に送り出し、レイ・チャールズ、アレサ・フランクリンやレッド・ゼッペリンやオールマン・ブラザースを世界的スターにした。20世紀を代表するレコード・プロデューサー/レコード・エグゼクティヴの一人と言っても過言ではない。
ジェリー・ウェクスラー本人は自らの肩書きで一番気に入っているものは、レコード・プロデューサーや、宣伝マンなどではなく、「レコード・コレクター」(レコード収集家)だと言うそうだ。
ローリング・ストーン誌が数年前に、ジェリー本人によるお気に入り自作曲ベスト20のリストを掲載した。その20曲は次の通り。まさにアメリカ・ブラック・ミュージックの歴史を作り上げたアーティスト群だ。
Jerry Wexler’s Own Favorite Tracks
1. Professor Longhair -- "Tipitina" (1953)
2. Ray Charles -- "I Got a Woman" (1954)
3. Big Joe Turner -- "Shake, Rattle and Roll" (1954)
4. LaVern Baker -- "Tweedlee Dee" (1954)
5. Champion Jack Dupree -- "Junker’s Blues" (1958)
6. The Drifters -- "There Goes My Baby" (1959)
7. Ray Charles -- "What I’d Say" (1959)
8. Solomon Burke -- "If You Need Me" (1963)
9. Booker T. & the MG’s -- "Green Onions" (1962)
10. Wilson Pickett -- "In the Midnight Hour" (1965)
11. Aretha Franklin -- "Respect" (1967)
12. Dusty Springfield -- "Son of a Preacher Man" (1969)
13. Dr. John -- "Iko Iko" (1972)
14. Doug Sahm -- "(Is Anybody Going to) San Antone" (1973)
15. Willie Nelson -- "Bloody Mary Morning" (1974)
16. The Sanford/Townsend Band -- "Smoke From a Distant Fire" (1977)
17. James Booker -- "Winin’ Boy Blues" (1978)
18. Etta James -- "Take It to the Limit" (1978)
19. Dire Straits -- "Lady Writer" (1979)
20. Bob Dylan -- "Gotta Serve Somebody" (1979)
(ジェリー・ウェクスラーについては続きます)
■ 訃報記事
http://www.nytimes.com/2008/08/16/arts/music/16wexler.html?_r=1&pagewanted=2&partner=rssnyt&emc=rss&oref=slogin
http://voices.washingtonpost.com/postrock/2008/08/rip_jerry_wexler.html?hpid=topnews
http://www.rollingstone.com/news/story/22595667/the_record_collector_jerry_wexler_dies_at_age_91
ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 – August 15, 2008, 91)
【ジェリー・ウェクスラーの業績】
墓石。
レコード・プロデューサーであり、レコード・エグゼクティヴでもあったジェリー・ウェクスラーが過去半世紀以上にわたって成し遂げてきたことをまとめてみたい。なお、ジェリーはR&B、ブラック・ミュージックの世界で多大な功績を残した人物だが、彼自身はユダヤ系の白人である。
1)「レイス・ミュージック」の呼び名を「リズム・アンド・ブルーズ」にした。
これだけで、彼の音楽業界での評価は十分だ。
2)アレサ・フランクリンをコロンビアから引き抜き、アメリカ1の女性R&Bシンガーに育てた。
これだけでも、プロデューサーとして十分だ。
3)レイ・チャールズ、ソロモン・バーク、コースターズ、多くの黒人アーティストのヒット曲を作った。
レイ・チャールズとジェリーとのやりとりは、レイの自伝映画『レイ』の中でも、少し出てくる。
4)ブラック・アーティストを南部の連れて行き、南部のスタジオで南部のミュージシャンで録音した。
南部のミュージシャンたちは扱いにくかったが、それでもジェリーは彼らのサウンドがベストだと信じて、多くのレコーディングを南部で行った。アラバマ州のマスル・ショールズ、メンフィスのスタックス・スタジオなどをじつにうまく使った。イギリスの白人シンガー、ダスティ・スプリングフィールドをメンフィスに連れてきて、ソウルフルなサウンドでアルバムを作ったりもした。
5)ミュージシャンに黒人、白人の差別をしなかった。
そのマスル・ショールズなどでのミュージシャンは、白人だったが、その泥臭いサウンドは実にソウルフルであり、音楽を作るうえで白人、黒人を分け隔てしなかった。また、彼自身当初は黒人ミュージシャン、シンガーを多くてがけてきたが、1970年代になってからは、多くの白人アーティストもてがけるようになった。ジェリーは南部のミュージシャンが作り出すファンキーなサウンドが好きだった。特にベースの音が前面にでている音が好みだった。彼が作った作品はいずれもベースがいきいきとしている。
6)優れた耳を持ったクリエイティヴなプロデューサーでもあったが、当時に音楽ビジネスの仕組みを熟知したビジネスマンでもあった。
何が流行るか、何が支持されるかを敏感に知っていたが、同時にレコードのプロモーション、マーケティングについても、熟知していた。1950年代には自社作品をプレイしてもらうために、DJに賄賂を贈ったこともあった。また、彼がアトランティック入り際、株式の一部をもらうことを条件にして、アーメット・アーティガンを驚かせたという。結局、アーメットが折れ、一部の株を持った。
7)アトランティック・レコードの傘下にいくつものサブ・レーベルを作ったこと。アトコ、コティリオン、ローリング・ストーンなどなど。
これは1960年代にラジオのDJにプロモーションに行くと、同じレーベルのシングルばかりを持っていくと、1曲はかけてもらえても、同レーベルの別のアーティストのものは「またか」といってかけてもらえなかったため、デザインと名前の違うレーベルを作って、一見別物のように見せた。同じくモータウンも、いくつものサブ・レーベル(傘下のレーベル)を作った。同様の理由による。
8)人生最大の過ち。ジェリーは、1967年、成功を収めていたアトランティック・レコードの株式をワーナー・セヴンシーズ社にわずか1750万ドルで売却してしまう。これは、オウナーであるアーメットとともに、後々大きな後悔として語り継がれる。ただし、2人とも株を売り、オウナーの座からは離れたが、運営には携わった。
9)アーティガンは、ポップで売れるものへ傾注していくが、ジェリーはより南部のピュアな音楽を求めるようになる。そうしたものは多くの場合、あまり売れずに、マニア向けになっていき、二人の間に微妙な溝が生まれる。その結果、1975年にはジェリーはアトランティックを去ることになる。
+++++
2000年、彼に焦点を当てたドキュメンタリーが制作された。そのタイトルは、「イマキュレート・ファンク(純粋なファンク)」。ウェクスラーがしばしば自らのアトランティック・サウンドを評するときに使う言葉だった。
1993年、彼は作家デイヴィッド・リッツとともに、自伝『リズム・アンド・ブルーズRhythm and the Blues : A Life In American Music』を書き、発表した。
ジェリーは3回結婚している。葬儀は3番目の妻と、最初の妻との間に生まれた子供たちによって行われる。最初の結婚で生まれた娘アニタは1989年、エイズで死去している。
ジェリーはドキュメンタリーを作ったトム・サーマン監督に「墓石になんと書いて欲しいか」と尋ねられ、こう答えたという。More Bass (もっとベースをだせ)
しかし、葬儀を取り仕切る息子のポール・ウェクスラーによると、葬儀後の墓石にはこう書かれる予定だという。He Changed The World。
(訂正)昨日(2008年8月16日)付け、本欄でご紹介したジェリー・ウェクスラー自身が選んだベスト20のリストの順位は、年代順でした。必ずしも、好きな順のベスト10ではありませんでした。訂正します。
ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 - August 15, 2008, 91)
墓石。
レコード・プロデューサーであり、レコード・エグゼクティヴでもあったジェリー・ウェクスラーが過去半世紀以上にわたって成し遂げてきたことをまとめてみたい。なお、ジェリーはR&B、ブラック・ミュージックの世界で多大な功績を残した人物だが、彼自身はユダヤ系の白人である。
1)「レイス・ミュージック」の呼び名を「リズム・アンド・ブルーズ」にした。
これだけで、彼の音楽業界での評価は十分だ。
2)アレサ・フランクリンをコロンビアから引き抜き、アメリカ1の女性R&Bシンガーに育てた。
これだけでも、プロデューサーとして十分だ。
3)レイ・チャールズ、ソロモン・バーク、コースターズ、多くの黒人アーティストのヒット曲を作った。
レイ・チャールズとジェリーとのやりとりは、レイの自伝映画『レイ』の中でも、少し出てくる。
4)ブラック・アーティストを南部の連れて行き、南部のスタジオで南部のミュージシャンで録音した。
南部のミュージシャンたちは扱いにくかったが、それでもジェリーは彼らのサウンドがベストだと信じて、多くのレコーディングを南部で行った。アラバマ州のマスル・ショールズ、メンフィスのスタックス・スタジオなどをじつにうまく使った。イギリスの白人シンガー、ダスティ・スプリングフィールドをメンフィスに連れてきて、ソウルフルなサウンドでアルバムを作ったりもした。
5)ミュージシャンに黒人、白人の差別をしなかった。
そのマスル・ショールズなどでのミュージシャンは、白人だったが、その泥臭いサウンドは実にソウルフルであり、音楽を作るうえで白人、黒人を分け隔てしなかった。また、彼自身当初は黒人ミュージシャン、シンガーを多くてがけてきたが、1970年代になってからは、多くの白人アーティストもてがけるようになった。ジェリーは南部のミュージシャンが作り出すファンキーなサウンドが好きだった。特にベースの音が前面にでている音が好みだった。彼が作った作品はいずれもベースがいきいきとしている。
6)優れた耳を持ったクリエイティヴなプロデューサーでもあったが、当時に音楽ビジネスの仕組みを熟知したビジネスマンでもあった。
何が流行るか、何が支持されるかを敏感に知っていたが、同時にレコードのプロモーション、マーケティングについても、熟知していた。1950年代には自社作品をプレイしてもらうために、DJに賄賂を贈ったこともあった。また、彼がアトランティック入り際、株式の一部をもらうことを条件にして、アーメット・アーティガンを驚かせたという。結局、アーメットが折れ、一部の株を持った。
7)アトランティック・レコードの傘下にいくつものサブ・レーベルを作ったこと。アトコ、コティリオン、ローリング・ストーンなどなど。
これは1960年代にラジオのDJにプロモーションに行くと、同じレーベルのシングルばかりを持っていくと、1曲はかけてもらえても、同レーベルの別のアーティストのものは「またか」といってかけてもらえなかったため、デザインと名前の違うレーベルを作って、一見別物のように見せた。同じくモータウンも、いくつものサブ・レーベル(傘下のレーベル)を作った。同様の理由による。
8)人生最大の過ち。ジェリーは、1967年、成功を収めていたアトランティック・レコードの株式をワーナー・セヴンシーズ社にわずか1750万ドルで売却してしまう。これは、オウナーであるアーメットとともに、後々大きな後悔として語り継がれる。ただし、2人とも株を売り、オウナーの座からは離れたが、運営には携わった。
9)アーティガンは、ポップで売れるものへ傾注していくが、ジェリーはより南部のピュアな音楽を求めるようになる。そうしたものは多くの場合、あまり売れずに、マニア向けになっていき、二人の間に微妙な溝が生まれる。その結果、1975年にはジェリーはアトランティックを去ることになる。
+++++
2000年、彼に焦点を当てたドキュメンタリーが制作された。そのタイトルは、「イマキュレート・ファンク(純粋なファンク)」。ウェクスラーがしばしば自らのアトランティック・サウンドを評するときに使う言葉だった。
1993年、彼は作家デイヴィッド・リッツとともに、自伝『リズム・アンド・ブルーズRhythm and the Blues : A Life In American Music』を書き、発表した。
ジェリーは3回結婚している。葬儀は3番目の妻と、最初の妻との間に生まれた子供たちによって行われる。最初の結婚で生まれた娘アニタは1989年、エイズで死去している。
ジェリーはドキュメンタリーを作ったトム・サーマン監督に「墓石になんと書いて欲しいか」と尋ねられ、こう答えたという。More Bass (もっとベースをだせ)
しかし、葬儀を取り仕切る息子のポール・ウェクスラーによると、葬儀後の墓石にはこう書かれる予定だという。He Changed The World。
(訂正)昨日(2008年8月16日)付け、本欄でご紹介したジェリー・ウェクスラー自身が選んだベスト20のリストの順位は、年代順でした。必ずしも、好きな順のベスト10ではありませんでした。訂正します。
ENT>OBITUARY>Wexler, Jerry, (January 10, 1907 - August 15, 2008, 91)
◆Soul Blends ; Live From Fuchu No Mori
2008年8月18日【『ソウル・ブレンズ』、府中の森から入り中】
入り中。
昨日の『ソウル・ブレンズ』内「山野ミュージック・ジャム」のコーナーは、昨年に引き続き、東京・府中の森芸術劇場で行われていた「山野ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト」会場からの中継レポートが入った。もちろん、レポートはオッシー・パパこと、押阪忍さん。
マーヴィン、チーちゃんとともに、オッシー・パパを迎えると、立て板に水状態で、瞬く間に完璧なレポートが送られてきた。曰く、今年の参加者には女性が多くて華やいでいること、いくつかの大学の女性メンバーの人数、いらした方たちの年齢やどんな人たちか、ライヴの音の感想、そして、この模様が放送される放送日時の告知まで。
この短い4分弱の出番で余すことなくすべてをコンパクトに伝えるその様は、もうお見事としかいいようがない。たぶん、いくつかステージを見たり、ロビーでお客さんに声をかけたりして、取材されたのだろう。レポートの見本のようなレポートだった。オッシー・パパ、おつかれさまでした。ありがとうございました。
そして、この日番組内で紹介したビッグバンドのアルバム、参加者の9割近くが、この「山野ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト」出身者。1970年から始まったこのコンテストは、今年で39回目で、来年は40回目となる。大きな節目だ。今年のパンフレットを拝見したが、広告もはいり、本当に立派な小冊子だ。40回も、こういうイヴェントが続いていること時代に感服する。
プログラムに書かれている曲目などを見ると、やはり、その昔のデューク・エリントンなどのスタンダードから、最近のハービー・ハンコックや、はては上原ひろみの作品などもある。本当に時代とともに変化しているのだなあ、と思う。今後もまた40年、100年と続けていって欲しい。
ENT>RADIO>
入り中。
昨日の『ソウル・ブレンズ』内「山野ミュージック・ジャム」のコーナーは、昨年に引き続き、東京・府中の森芸術劇場で行われていた「山野ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト」会場からの中継レポートが入った。もちろん、レポートはオッシー・パパこと、押阪忍さん。
マーヴィン、チーちゃんとともに、オッシー・パパを迎えると、立て板に水状態で、瞬く間に完璧なレポートが送られてきた。曰く、今年の参加者には女性が多くて華やいでいること、いくつかの大学の女性メンバーの人数、いらした方たちの年齢やどんな人たちか、ライヴの音の感想、そして、この模様が放送される放送日時の告知まで。
この短い4分弱の出番で余すことなくすべてをコンパクトに伝えるその様は、もうお見事としかいいようがない。たぶん、いくつかステージを見たり、ロビーでお客さんに声をかけたりして、取材されたのだろう。レポートの見本のようなレポートだった。オッシー・パパ、おつかれさまでした。ありがとうございました。
そして、この日番組内で紹介したビッグバンドのアルバム、参加者の9割近くが、この「山野ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト」出身者。1970年から始まったこのコンテストは、今年で39回目で、来年は40回目となる。大きな節目だ。今年のパンフレットを拝見したが、広告もはいり、本当に立派な小冊子だ。40回も、こういうイヴェントが続いていること時代に感服する。
プログラムに書かれている曲目などを見ると、やはり、その昔のデューク・エリントンなどのスタンダードから、最近のハービー・ハンコックや、はては上原ひろみの作品などもある。本当に時代とともに変化しているのだなあ、と思う。今後もまた40年、100年と続けていって欲しい。
ENT>RADIO>
○“Soul Power” 2008: etc.
2008年8月19日【ソウル・パワー2008ほかいろいろ】
3年目。
ソウル好きが集まる大イヴェント「ソウル・パワー」。鈴木雅之、ゴスペラーズ、スクープ・オン・サンバディーのいわゆる「ソウル・トライアングル」を軸に、新しいアーティストなども含めて年々規模が大きくなっているイヴェントだが、そのパンフレットの制作が進んでいる。メイン記事の原稿の第一稿は終了。直しが戻るのを待ち、最終入稿。つかのまの休息だ。
今年は、マーチンおよびその友人が、昨年亡くなった日本のソウル界の重鎮ふたり、ドン勝本氏とニック岡井氏へのトリビュートを込める。「ソウル・サーチン」読者には、そのトリビュートの部分が気になるかと思われるが、少しずつご紹介できればと思う。
+++++
混乱。
2008年8月10日にメンフィスで65歳で死去したソウル・ジャイアンツのひとり、アイザック・ヘイズの葬儀が18日地元のホープ・プレスバイテリアン教会で行われたが、ここにヘイズが信仰していた宗教サイエントロジーのメンバーの牧師がはいることになり、教会側の人たちからの反発、混乱したという。
+++++
ボーナス。
先に8月3日付けブログでご紹介したジョー・サンプル&ランディ・クロフォードの新譜についての追加情報。
アルバム・タイトル、当初は「リスペクト・ユアセルフ」になる予定だったが、『ノー・リグレッツ』に変更。アメリカ盤は12曲入りだが、日本盤は1曲ボーナス・トラック(「チョイセス」)が入り13曲入り。
August 03, 2008
Joe Sample & Randy Crawford’s New CD Will Be Out On September
http://blog.soulsearchin.com/archives/002628.html
+++++
SATC。
話題の映画『セックス・アンド・ザ・シティ』を鑑賞。おもしろかった。中でも僕的には、キャリーのアシスタントになんと、ジェニファー・ハドソンが出てきたことに驚いた。なかなかいい役。4人の活躍ぶりも適材適所。詳しくは、改めてゆっくり書きます。
+++++
引退。
8月18日清原引退発表。おつかれさま。まちがいなく記憶に残る選手。
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3年目。
ソウル好きが集まる大イヴェント「ソウル・パワー」。鈴木雅之、ゴスペラーズ、スクープ・オン・サンバディーのいわゆる「ソウル・トライアングル」を軸に、新しいアーティストなども含めて年々規模が大きくなっているイヴェントだが、そのパンフレットの制作が進んでいる。メイン記事の原稿の第一稿は終了。直しが戻るのを待ち、最終入稿。つかのまの休息だ。
今年は、マーチンおよびその友人が、昨年亡くなった日本のソウル界の重鎮ふたり、ドン勝本氏とニック岡井氏へのトリビュートを込める。「ソウル・サーチン」読者には、そのトリビュートの部分が気になるかと思われるが、少しずつご紹介できればと思う。
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混乱。
2008年8月10日にメンフィスで65歳で死去したソウル・ジャイアンツのひとり、アイザック・ヘイズの葬儀が18日地元のホープ・プレスバイテリアン教会で行われたが、ここにヘイズが信仰していた宗教サイエントロジーのメンバーの牧師がはいることになり、教会側の人たちからの反発、混乱したという。
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ボーナス。
先に8月3日付けブログでご紹介したジョー・サンプル&ランディ・クロフォードの新譜についての追加情報。
アルバム・タイトル、当初は「リスペクト・ユアセルフ」になる予定だったが、『ノー・リグレッツ』に変更。アメリカ盤は12曲入りだが、日本盤は1曲ボーナス・トラック(「チョイセス」)が入り13曲入り。
August 03, 2008
Joe Sample & Randy Crawford’s New CD Will Be Out On September
http://blog.soulsearchin.com/archives/002628.html
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SATC。
話題の映画『セックス・アンド・ザ・シティ』を鑑賞。おもしろかった。中でも僕的には、キャリーのアシスタントになんと、ジェニファー・ハドソンが出てきたことに驚いた。なかなかいい役。4人の活躍ぶりも適材適所。詳しくは、改めてゆっくり書きます。
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引退。
8月18日清原引退発表。おつかれさま。まちがいなく記憶に残る選手。
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