ドラマ。
武道館が暗転した。すると、前方のスクリーンにヴィデオが映し出された。会議室。そこでメアリーJをいかにして売るかの会議が侃々諤々(かんかんがくがく)行われている。メアリーはスタッフたちの「商品として売れなきゃだめだ」と言わんばかりの発言と、いかにして金儲けをするかの話し合いに嫌気がさし、会議を退席する。男が追っていく。「いいか、メアリー。金がなけりゃ音楽は作れないんだ。これは、ビジネスなんだよ」 メアリーが反論する。「ちょっと、覚えておいてよ。私がここにいるのは、お金のためじゃないわよ。ファンのためにいるのよ。ファンが存在するからこそ、私がいるんだから」
そして、会議室を飛び出してやってきた本物のメアリーが武道館の中央に登場。音が鳴り響き、「ユー・リマインド・ミー」が始まった。ドラマ仕立てのオープニングである。
「こんばんは、東京! 今日は私の過去、現在、未来、すべてをみせるわ!」 一挙に4曲目の「ラヴ・ノー・リミット」までノンストップで歌ったメアリーJブライジは、そう宣言した。
前回来日(2002年3月)からおよそ2年2ヶ月ぶり。現在全米でも進行中の「ラヴ&ライフ・ツアー」の日本での公演。すっかり「クイーン・オブ・ヒップホップ」としての風格を漂わせ、今回のライヴは前回同様、彼女のふっきれた部分が全面にでて、しかも大仕掛けなセット、ヴィデオとのリンクなどで一大エンタテインメントショウになっていた。
80分のショウを前回同様、3つのパートにわけて、次々と曲を歌う。下記セットリストで、1曲目から7曲目までが第一部、8曲目から14曲目までが第二部、最後が第三部と仮にここでは名づけておこう。ちょうど、その合間にドレスチェンジをしている。一部と三部は一曲あたり2分程度で、ヒット曲を次々と歌い、展開が実にはやい。もっとも驚かされたのがヴィデオとのリンクと寸劇なども含めた演出。半分以上の作品にヴィデオが付随するので、視覚的にもかなりくる。しかも、曲間がほとんどなく、次々と流れていくので、まったく飽きがこない。
前回のツアーも三部構成で、第二部に70年代のソウルヒットメドレーをいれかなり入魂の歌を聞かせたが、今回は自身の作品をじっくり歌い、聴かせた。彼女が3つの部の中でここにもっとも力をいれていることがよくわかった。歌を聴かせるという点においてもっとも顕著だ。時間もここが43分近くあった。つまり半分以上だ。それは、ヒップホップのクイーンからソウル、R&Bのクイーンへ向かうという彼女の大いなる宣言でもある。彼女は、今、一番何がやりたいのかといえば、歌を聴かせたいのだろうと痛感した。それも、自身で書いた自身の分身である作品を。
二部の途中で彼女は、「私は今、自分が好き。私はメアリーJブライジが大好き」と宣言した。前回も同じように発言していたが、本当にふっきれている様子がわかり、嬉しく思う。
プロモヴィデオを始め、数々のヴィデオとのリンクがじつにうまくできている。この構成はかなり緻密によくできていた。前回よりさらにスケールアップしたショウと言っていいだろう。ただし観客の入りは、2階、3階はかなり空席あり。1時間20分ちょうど。「ファミリー・アフェアー」が終ると、アンコールなしで、いきなり客電がつきショウに終止符が打たれた。
一言で言えばドラマティックなショウだった。More Drama On The Showといったところ。
関連記事。
メアリー・J・ブライジ・ライヴ 『抑圧からの解放』 (2002年3月)
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/live/mary20020313.html
Setlist
show started 19.26
01. You Remind Me (Remix)
02. You Don’t Have To Worry/Real Love (Remix)
03. Happy
04. Love No Limit
05. My Love
06. I’m The Only Woman
07. I Can Love You
08. Message In Our Music (Interlude/Summer Madness)
09. Children Of The Ghetto
10. My Life
11. Your Child
12. The Love I Never Had
13. Not Gon’ Cry
14. It’s A Wrap
15. I Want To Be Free (Interlude)
16. No More Drama
17. Love At First Sight
18. Oohh
19. You Are Everything
20. Not Today (Vibe) With Rap
21. Family Affair
show ended 20.46
(2004年5月31日月曜、日本武道館=メアリーJブライジ・ライヴ)
武道館が暗転した。すると、前方のスクリーンにヴィデオが映し出された。会議室。そこでメアリーJをいかにして売るかの会議が侃々諤々(かんかんがくがく)行われている。メアリーはスタッフたちの「商品として売れなきゃだめだ」と言わんばかりの発言と、いかにして金儲けをするかの話し合いに嫌気がさし、会議を退席する。男が追っていく。「いいか、メアリー。金がなけりゃ音楽は作れないんだ。これは、ビジネスなんだよ」 メアリーが反論する。「ちょっと、覚えておいてよ。私がここにいるのは、お金のためじゃないわよ。ファンのためにいるのよ。ファンが存在するからこそ、私がいるんだから」
そして、会議室を飛び出してやってきた本物のメアリーが武道館の中央に登場。音が鳴り響き、「ユー・リマインド・ミー」が始まった。ドラマ仕立てのオープニングである。
「こんばんは、東京! 今日は私の過去、現在、未来、すべてをみせるわ!」 一挙に4曲目の「ラヴ・ノー・リミット」までノンストップで歌ったメアリーJブライジは、そう宣言した。
前回来日(2002年3月)からおよそ2年2ヶ月ぶり。現在全米でも進行中の「ラヴ&ライフ・ツアー」の日本での公演。すっかり「クイーン・オブ・ヒップホップ」としての風格を漂わせ、今回のライヴは前回同様、彼女のふっきれた部分が全面にでて、しかも大仕掛けなセット、ヴィデオとのリンクなどで一大エンタテインメントショウになっていた。
80分のショウを前回同様、3つのパートにわけて、次々と曲を歌う。下記セットリストで、1曲目から7曲目までが第一部、8曲目から14曲目までが第二部、最後が第三部と仮にここでは名づけておこう。ちょうど、その合間にドレスチェンジをしている。一部と三部は一曲あたり2分程度で、ヒット曲を次々と歌い、展開が実にはやい。もっとも驚かされたのがヴィデオとのリンクと寸劇なども含めた演出。半分以上の作品にヴィデオが付随するので、視覚的にもかなりくる。しかも、曲間がほとんどなく、次々と流れていくので、まったく飽きがこない。
前回のツアーも三部構成で、第二部に70年代のソウルヒットメドレーをいれかなり入魂の歌を聞かせたが、今回は自身の作品をじっくり歌い、聴かせた。彼女が3つの部の中でここにもっとも力をいれていることがよくわかった。歌を聴かせるという点においてもっとも顕著だ。時間もここが43分近くあった。つまり半分以上だ。それは、ヒップホップのクイーンからソウル、R&Bのクイーンへ向かうという彼女の大いなる宣言でもある。彼女は、今、一番何がやりたいのかといえば、歌を聴かせたいのだろうと痛感した。それも、自身で書いた自身の分身である作品を。
二部の途中で彼女は、「私は今、自分が好き。私はメアリーJブライジが大好き」と宣言した。前回も同じように発言していたが、本当にふっきれている様子がわかり、嬉しく思う。
プロモヴィデオを始め、数々のヴィデオとのリンクがじつにうまくできている。この構成はかなり緻密によくできていた。前回よりさらにスケールアップしたショウと言っていいだろう。ただし観客の入りは、2階、3階はかなり空席あり。1時間20分ちょうど。「ファミリー・アフェアー」が終ると、アンコールなしで、いきなり客電がつきショウに終止符が打たれた。
一言で言えばドラマティックなショウだった。More Drama On The Showといったところ。
関連記事。
メアリー・J・ブライジ・ライヴ 『抑圧からの解放』 (2002年3月)
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/live/mary20020313.html
Setlist
show started 19.26
01. You Remind Me (Remix)
02. You Don’t Have To Worry/Real Love (Remix)
03. Happy
04. Love No Limit
05. My Love
06. I’m The Only Woman
07. I Can Love You
08. Message In Our Music (Interlude/Summer Madness)
09. Children Of The Ghetto
10. My Life
11. Your Child
12. The Love I Never Had
13. Not Gon’ Cry
14. It’s A Wrap
15. I Want To Be Free (Interlude)
16. No More Drama
17. Love At First Sight
18. Oohh
19. You Are Everything
20. Not Today (Vibe) With Rap
21. Family Affair
show ended 20.46
(2004年5月31日月曜、日本武道館=メアリーJブライジ・ライヴ)
雑談。
『フィールン・ソウル』の収録が終った後、オッシーと青山に軽くゴハンを食べに行った。店のドアを開けると中は超満員。お店の人に、「空いたら電話ください」と言ってでようとしたら、一人で来ていたお客さんが食べ終わって「今、でるよ」と言ってくれ、そこに座ることになった。そしたら、横の席にいた某レコード会社のディレクターG氏に「ヨシオカさん!」と声をかけられた。「おおおっ、お久しぶり」 もちろん、オッシーも知っていて、妙に音楽話で花が咲いた。
G氏、担当アーティストのミックスでよくミネアポリスに行くということで、プリンスやタイムやミネアポリス話がど〜と盛り上がる。G氏「ミネアポリスって、ミシシッピ川が走ってるんですよね。ミシシッピ川っていうと、南部っていうイメージでしょ。ミネアポリスのような北に通ってるって知らなくて。で、南のデルタブルーズのような土臭いものがシカゴや、もっと北に行くにつれて、どんどん洗練されてくるんですよね。なんか、そういうことが、あの土地に行って初めてわかった気がしましたね」 あ〜、な〜るほど。そういう見方もありますねえ。基本的には、北に行けば都会になり、物事は洗練されていく、という状況はあります。
「僕も、ミネアポリス、86年かな初めて行って以来、何回か行った。あそこって黒人人口が数パーセントしかないのね。だから、基本的にはロックの街なんですよね。ブラックステーションとかもひとつくらいしかないし。それと冬がめちゃくちゃ寒くて雪で閉ざされるから、冬はすごくみんな引きこもるんですよね」と僕。「そうそう、だから宅録みたいのが多くなるんですよね」とG氏。僕。「プリンスのデビューとかは、ひとりスティーヴィー・ワンダーだからね。(全楽器ほとんどプリンス一人でやって録音した) でも、プリンスの場合、レヴォリューションあたりから、ミュージシャンと一緒に音楽を作ることをすごくやり始めたわけでしょ。それが、特に最近は顕著になってるのね。そのあたりがすごいよね」
その後、ジャム&ルイスに日本人として初めてインタヴューした話や、アレキサンダー・オニール運転のBMWで、お隣のセントポールのライヴハウスまで行った話とか、G氏がミュージシャンのヨットでミネトンカ湖(だったかな)でクルージングしていたら、そのミュージシャンが湖に沿ったところにある豪邸をさして、「あれがジミー・ジャムの豪邸だよ」と教えられた話などがぽんぽん飛び出してきた。いやあ、ミネアポリス話したら、ミネアポリスにまた行きたくなってしまった。(笑)
ちなみに、食べたのはカレーうどんでした。「ここで、そのカレーうどんは東京一ですよねえ。それ頼んだら、最後に白いゴハン頼んで、そんなかにいれて食べないと」とG氏がうんちく。 「えええ〜っ、知らなかったよ、その技」とオッシー。二人で白ゴハンをひとつ頼み、分けてカレーの中にいれて食した。オッシー曰く「うまいっすねえ。これからは、必ずこうします」 カレーうどんとミネアポリス談義で更けていく青山の夜。
『フィールン・ソウル』の収録が終った後、オッシーと青山に軽くゴハンを食べに行った。店のドアを開けると中は超満員。お店の人に、「空いたら電話ください」と言ってでようとしたら、一人で来ていたお客さんが食べ終わって「今、でるよ」と言ってくれ、そこに座ることになった。そしたら、横の席にいた某レコード会社のディレクターG氏に「ヨシオカさん!」と声をかけられた。「おおおっ、お久しぶり」 もちろん、オッシーも知っていて、妙に音楽話で花が咲いた。
G氏、担当アーティストのミックスでよくミネアポリスに行くということで、プリンスやタイムやミネアポリス話がど〜と盛り上がる。G氏「ミネアポリスって、ミシシッピ川が走ってるんですよね。ミシシッピ川っていうと、南部っていうイメージでしょ。ミネアポリスのような北に通ってるって知らなくて。で、南のデルタブルーズのような土臭いものがシカゴや、もっと北に行くにつれて、どんどん洗練されてくるんですよね。なんか、そういうことが、あの土地に行って初めてわかった気がしましたね」 あ〜、な〜るほど。そういう見方もありますねえ。基本的には、北に行けば都会になり、物事は洗練されていく、という状況はあります。
「僕も、ミネアポリス、86年かな初めて行って以来、何回か行った。あそこって黒人人口が数パーセントしかないのね。だから、基本的にはロックの街なんですよね。ブラックステーションとかもひとつくらいしかないし。それと冬がめちゃくちゃ寒くて雪で閉ざされるから、冬はすごくみんな引きこもるんですよね」と僕。「そうそう、だから宅録みたいのが多くなるんですよね」とG氏。僕。「プリンスのデビューとかは、ひとりスティーヴィー・ワンダーだからね。(全楽器ほとんどプリンス一人でやって録音した) でも、プリンスの場合、レヴォリューションあたりから、ミュージシャンと一緒に音楽を作ることをすごくやり始めたわけでしょ。それが、特に最近は顕著になってるのね。そのあたりがすごいよね」
その後、ジャム&ルイスに日本人として初めてインタヴューした話や、アレキサンダー・オニール運転のBMWで、お隣のセントポールのライヴハウスまで行った話とか、G氏がミュージシャンのヨットでミネトンカ湖(だったかな)でクルージングしていたら、そのミュージシャンが湖に沿ったところにある豪邸をさして、「あれがジミー・ジャムの豪邸だよ」と教えられた話などがぽんぽん飛び出してきた。いやあ、ミネアポリス話したら、ミネアポリスにまた行きたくなってしまった。(笑)
ちなみに、食べたのはカレーうどんでした。「ここで、そのカレーうどんは東京一ですよねえ。それ頼んだら、最後に白いゴハン頼んで、そんなかにいれて食べないと」とG氏がうんちく。 「えええ〜っ、知らなかったよ、その技」とオッシー。二人で白ゴハンをひとつ頼み、分けてカレーの中にいれて食した。オッシー曰く「うまいっすねえ。これからは、必ずこうします」 カレーうどんとミネアポリス談義で更けていく青山の夜。
Jebel Bar: Soul Bar In Honmoku
2004年6月3日本牧。
本牧っていうところは、横浜の中でも特に独特の雰囲気のある場所だ。その昔は米軍基地があったため、かなりアメリカナイズされた街並になっていた。今は、そこにはマイカル本牧など日本のものができているが、それでも、広い道やフラットな建物などは、まだまだアメリカを思わせるところがある。
今日はそんな横浜・本牧のジェベル・バーというソウルバーに行った。マーチンさんの番組『ミッドナイト・ラヴ』の中のコーナー、「ミッドナイト・ソウルバー」で紹介するためだ。この店は、もうできて12年。僕も以前一度来たことがある。今日久々に来てみて、なんで、その後リピートしなかったのか、とても不思議に思った。ターンテーブル2台と、CDプレイヤー。レコードも、CDもどちらも対応。とても照明が暗い店で、いい感じでソウルが流れている。お酒の種類もかなりある。
4人が座れる広めのテーブル席が5つ。カウンターが約8席。そして、これが強力なのだが、6〜8人くらいが入れるVIPルームがある。ここは大きな水槽とおしゃれなグラスの棚があり、かなりのセレブ気分になれるかも。(笑) しかも、特に呼び出しがないかぎり、お店のスタッフが扉を開けることはないという。何かを注文したい時には、リモコンの呼び鈴でスタッフを呼ぶ。ただしここはひとり1500円のチャージがかかる。
オープンしたのは、92年6月28日だそうで、今月まさに12周年の記念イヴェントでもやろうか、と企画中だそうだ。休みは無し、毎日夜7時から朝5時まで営業している。チャージは500円で、食べ物もたくさん種類がある。休みがないというところがまたいい。カウンターは12年ということでかなり年季がはいっている。
マーチンさん曰く「これは、使えるソウルバーということで・・・」。おっしゃる通りだ。(笑) 場所は、元町タワーレコード先のトンネルをひたすらまっすぐ進み、山手警察もこえ、マイカル本牧もすぎて、右手にデニーズが見えたら、その向かい側。ビルの3階。
スペシャル・カクテルの中には、「スロー・ダンサー」や、なんとブランデーベースの「セクシュアル・ヒーリング」なるものもある。「ジェベル・バー」、略すとJBか・・・。おおっ。
この模様は6月19日(土曜)深夜1時半、FM横浜『ミッドナイト・ラヴ』で。
ジェベル・バー
Jebel Bar
神奈川県横浜市中区本牧間門1-2
前川ビル3F
電話045-622-6608
http://www.jebel.jp
営業時間 19時から5時
年中無休
チャージ500円、ドリンク500円〜
本牧っていうところは、横浜の中でも特に独特の雰囲気のある場所だ。その昔は米軍基地があったため、かなりアメリカナイズされた街並になっていた。今は、そこにはマイカル本牧など日本のものができているが、それでも、広い道やフラットな建物などは、まだまだアメリカを思わせるところがある。
今日はそんな横浜・本牧のジェベル・バーというソウルバーに行った。マーチンさんの番組『ミッドナイト・ラヴ』の中のコーナー、「ミッドナイト・ソウルバー」で紹介するためだ。この店は、もうできて12年。僕も以前一度来たことがある。今日久々に来てみて、なんで、その後リピートしなかったのか、とても不思議に思った。ターンテーブル2台と、CDプレイヤー。レコードも、CDもどちらも対応。とても照明が暗い店で、いい感じでソウルが流れている。お酒の種類もかなりある。
4人が座れる広めのテーブル席が5つ。カウンターが約8席。そして、これが強力なのだが、6〜8人くらいが入れるVIPルームがある。ここは大きな水槽とおしゃれなグラスの棚があり、かなりのセレブ気分になれるかも。(笑) しかも、特に呼び出しがないかぎり、お店のスタッフが扉を開けることはないという。何かを注文したい時には、リモコンの呼び鈴でスタッフを呼ぶ。ただしここはひとり1500円のチャージがかかる。
オープンしたのは、92年6月28日だそうで、今月まさに12周年の記念イヴェントでもやろうか、と企画中だそうだ。休みは無し、毎日夜7時から朝5時まで営業している。チャージは500円で、食べ物もたくさん種類がある。休みがないというところがまたいい。カウンターは12年ということでかなり年季がはいっている。
マーチンさん曰く「これは、使えるソウルバーということで・・・」。おっしゃる通りだ。(笑) 場所は、元町タワーレコード先のトンネルをひたすらまっすぐ進み、山手警察もこえ、マイカル本牧もすぎて、右手にデニーズが見えたら、その向かい側。ビルの3階。
スペシャル・カクテルの中には、「スロー・ダンサー」や、なんとブランデーベースの「セクシュアル・ヒーリング」なるものもある。「ジェベル・バー」、略すとJBか・・・。おおっ。
この模様は6月19日(土曜)深夜1時半、FM横浜『ミッドナイト・ラヴ』で。
ジェベル・バー
Jebel Bar
神奈川県横浜市中区本牧間門1-2
前川ビル3F
電話045-622-6608
http://www.jebel.jp
営業時間 19時から5時
年中無休
チャージ500円、ドリンク500円〜
(衝撃のナチュラリー7のライヴについては、少し押さえてからじっくり明日書きます。一日おまちください)
++++++++++++++++++++
Soul Of The Guitar: Sugimoto Atsuhiko Band Live
道。
ジャズ風でもなく、ロック風でもなく、ソウル風に弾くギターをめざす杉本篤彦さんのバンドがソウル・ヒットのカヴァーばかりをやるライヴと、若干のトークがはいるイヴェントが、3日、原宿ブルージェイウェイで行われました。
時折見せるジョージ・ベンソン風、ウェス・モンゴメリー風、そして、目指せデイヴィッドTウォーカー風! どれも、なじみのソウルヒットばかり。セットリストをごらんいただけば、この流れ、イメージがおわかりになるだろう。
僕のリクエストとしては、ルーサーの「ネヴァー・トゥ・マッチ」と、マーヴィンの大ヒット「ホワッツ・ゴーイン・オン」のデイヴィッドTウォーカー・ヴァージョン。「ネヴァー・トゥ・マッチ」は、マーカス・ミラーのベースとギターのコンビネーションがものすごくいい曲なので、ギター・リードのインストにしてもおもしろいかな、と思ったのですが、みなさんどうだったでしょうね。
一番効果的だったのは、デイヴィッドTヴァージョンの「ホワッツ・ゴーイン・オン」。杉本さんがこの音源をお持ちでなかったので、先週土曜日に渡して、急遽やっていただいたものです。これを「マーシー・マーシー・ミー」とつないだところなど、ながれとしてはひじょうによかったと思います。そして、二部の「TSOP」では、サックスの三四郎さんが飛び入り参加。なかなかいいソロ演奏でした。
そして、最後は「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」。今、この曲を聴くと、『永遠のモータウン』のエンディングがパブロフの犬のように思い浮かびます。杉本さんの、曲やコードに関する解説はなかなかおもしろいですよねえ。「ホワッツ・ゴーイン・オン」に関する話など、へえって思いました。会場のブルージェイウェイの音は、確かにデッド(音があまり響かない)で、スタジオでバンドを聴いているような感じがしました。これはこれで、いい音してましたね。デイヴィッドTへの道をどんどん突き進んでください。(笑) それは、ソウル・ギター道。
Setlist
First Set
show started 19.44
1. TSOP
2. Le Freak
MC
3. La La Means I Love You
4. Betcha By Golly Wow
5. If You Don’t Know Me By Now
MC
6. Sir Duke
7. It’s A Shame
show ended 20.32
Second Set
show started 20.51
MC
1. Never Too Much
2. Got To Be Real
MC
3. Sweet Sticky Thing
4. Feel Like Making Love
5. What’s Going On〜Mercy Mercy Me
MC
6. Little Ghetto Boy
7. TSOP (with Sanshiro on Sax)
Encore Ain’t No Mountain High Enough
show ended 22.12
(2004年6月3日木曜、原宿ブルージェイウェイ=杉本篤彦バンド・ライヴ)
++++++++++++++++++++
Soul Of The Guitar: Sugimoto Atsuhiko Band Live
道。
ジャズ風でもなく、ロック風でもなく、ソウル風に弾くギターをめざす杉本篤彦さんのバンドがソウル・ヒットのカヴァーばかりをやるライヴと、若干のトークがはいるイヴェントが、3日、原宿ブルージェイウェイで行われました。
時折見せるジョージ・ベンソン風、ウェス・モンゴメリー風、そして、目指せデイヴィッドTウォーカー風! どれも、なじみのソウルヒットばかり。セットリストをごらんいただけば、この流れ、イメージがおわかりになるだろう。
僕のリクエストとしては、ルーサーの「ネヴァー・トゥ・マッチ」と、マーヴィンの大ヒット「ホワッツ・ゴーイン・オン」のデイヴィッドTウォーカー・ヴァージョン。「ネヴァー・トゥ・マッチ」は、マーカス・ミラーのベースとギターのコンビネーションがものすごくいい曲なので、ギター・リードのインストにしてもおもしろいかな、と思ったのですが、みなさんどうだったでしょうね。
一番効果的だったのは、デイヴィッドTヴァージョンの「ホワッツ・ゴーイン・オン」。杉本さんがこの音源をお持ちでなかったので、先週土曜日に渡して、急遽やっていただいたものです。これを「マーシー・マーシー・ミー」とつないだところなど、ながれとしてはひじょうによかったと思います。そして、二部の「TSOP」では、サックスの三四郎さんが飛び入り参加。なかなかいいソロ演奏でした。
そして、最後は「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」。今、この曲を聴くと、『永遠のモータウン』のエンディングがパブロフの犬のように思い浮かびます。杉本さんの、曲やコードに関する解説はなかなかおもしろいですよねえ。「ホワッツ・ゴーイン・オン」に関する話など、へえって思いました。会場のブルージェイウェイの音は、確かにデッド(音があまり響かない)で、スタジオでバンドを聴いているような感じがしました。これはこれで、いい音してましたね。デイヴィッドTへの道をどんどん突き進んでください。(笑) それは、ソウル・ギター道。
Setlist
First Set
show started 19.44
1. TSOP
2. Le Freak
MC
3. La La Means I Love You
4. Betcha By Golly Wow
5. If You Don’t Know Me By Now
MC
6. Sir Duke
7. It’s A Shame
show ended 20.32
Second Set
show started 20.51
MC
1. Never Too Much
2. Got To Be Real
MC
3. Sweet Sticky Thing
4. Feel Like Making Love
5. What’s Going On〜Mercy Mercy Me
MC
6. Little Ghetto Boy
7. TSOP (with Sanshiro on Sax)
Encore Ain’t No Mountain High Enough
show ended 22.12
(2004年6月3日木曜、原宿ブルージェイウェイ=杉本篤彦バンド・ライヴ)
進化論。
どこから書いていいものか。ナチュラリー7というグループ。あまりのすごさに言葉を失った。でてくるのは「ありえない、ありえない」ばかり。最初CDが到着していた時は、ジャケットを見て「あ、またヴォーカルグループか・・・」くらいにしか思ってなかった。5月23日にBBSにビズモさんの書き込みがあって、「ああ、きてたなあ」と思ってCDを聴いてみた。その時の感想は、「お、テイク6のフォロワーか・・・。でも楽器使ってるんだあ・・・。リズムボックスの使い方とか一昔前のブラコンみたいだなあ。ははは」というもの。
そして、書き込みの返事を書くために、ナチュラリー7のサイトなどをチェックし、いろいろ読んだりしているうちに、事の重大さに徐々に気付くようになる。改めてライナーノーツを見ると、すべての音が声で作られている、という。え、あのギターの音も? キーボードの音も? ヒューマンビートボックスはわかるが・・・。え〜〜、このギターのひずみ、なんなの? 聴けば聴くほど、次々と疑問符が浮かび上がってくる。そして、改めて集中して聴いてみると・・・。このベースの音、なに。バスドラの音、なに。キーボードの音、何。「ありえな〜〜い」
火曜日(1日)、『フィールン・ソウル』収録。リクエストでナチュラリー7が来ていて、さっそくかけることにした。黒沢氏に「新しいア・カペラグループなんですよ」と一言説明してリクエスト曲「ゴーン・ウィズ・ザ・ウインド」(3曲目)他を聴いてもらう。黒沢さん、「あ〜、楽器も使ってるんですね」。「いやいやいやいや、実はこれぜ〜〜〜んぶ口なんですよ〜〜〜」 「えええっ? うそでしょう。だって、ギターとかはいってるよ」 「クレジットみてみてください。で、レコード会社の担当者がニューヨークで見たらしいんだけど、ほんとに全部口でやってるらしいんですよ」 「ええ?」とまだ信じられない様子。そして、もう一度、CDを聴く。「でも、何か使ってるでしょう」 「こんどの3日にショーケース・ライヴがあるんで、確かめてきますよ」 もちろん、黒沢さんも3日あいていたらどうかと誘ったが、別の仕事がはいっていて時間がとれないので、ひじょうに残念ながら、このライヴにはこれなかった。
何度も、CDを聴いて、まさにここのところの僕のヘヴィー・ローテーションになったわけですが、がぜんこのナチュラリー7に興味を持ったので、インタヴューをオファーして、土曜日(5日)に少し時間をいただき話をすることになった。何を聞こうかな。聞く事たくさんありすぎ。
さて、このナチュラリー7のことを伝えなければならない人物がいることを思い出した。そう、あの「テイク6ジャンキー」ことソウルメイト、ミチコだ。テイク6のライヴにこれまでに200回以上行っている世界一のテイク6ジャンキーに「ナチュラリー7って知ってる?」とメールすると、「ファーストが何年か前にでて、テイク6ファンの間でもちょっと話題になりました。でも、それほどでもなくて、そのCDも、誰かに貸して、今手元にない・・・」みたいな返事が。ファーストのことを知ってるあたりがさすがだ。で、早速この『ホワット・イズ・イット』のことを伝え、すぐに聴くようにと言った。
翌日あたり店頭からメールが。「今、試聴機で聞いてます。楽器は使ってるんですね」と。そこで、また同じ説明を。(笑) ひとしきりびっくりして、とにかくショーケースを見にくるように言う。
6月3日木曜。午後、僕は原宿ブルージェイウェイからリハが終ったあと、7時15分に戻ることででてくる。午後6時。渋谷DUO。ミチコが席をとっておいてくれた。ほぼまん前のセンター。最高の位置。やった。なんと彼女が友達と来ていた。すると、その友達も「テイク6ジャンキー」。ミチコの200回には及ばないものの、な、な、なんと100回以上ライヴに行っているという。二人以上あわせて300回以上か。「君たち、ギネスブックに申請しなさい。テイク6のライヴ通い、世界記録ってことで」みたいな、バカ話はどうでもいいが、なかなか始まらない。セットリストをもらったときに、聞くとライヴ自体は1時間弱らしい。いつもは、別に始まり時間がいくら押しても気にしない僕だが、この日はさすがに、じりじりした。
普段楽器が所狭しと置かれているステージに何もない。こんなにステージって広いんだ。ミネラルウォーターのペットボトルが14本。2本ずつタオルとともに舞台奥に置かれ、今夜のスターたちの登場を静かに待っている。
6時15分すぎ。まず司会のDJタロー氏登場。ひとしきりあおりと説明があって、6時17分、ひとりひとりが順番に声を出しながら登場してきた。それぞれの声の役割がCDのジャケットに書かれているが、ワイアレスマイクを持って、声を出して歩きながら登場。一人、また一人。声がひとつ、二つと徐々に厚みを増していく。
う〜ん、確かにあのベースの音、高いフルートの音、トランペット、スクラッチ、DJ、そして、ギターの音などが次々とでてくる。「なんだ、これは・・・」 あいた口がふさがらないとはこのこと。しかも、激しく踊りながら、それぞれの楽器を演奏するふりをしながらのパフォーマンス。一体何種類の楽器が、一体いくつの音の種類がでてくるのか。「ありえない・・・」
ギターをやっているのは、赤い帽子を被っていたジェイだった。ギターの弾きマネをしながら、マイクを口のところに持っていって、ずっとギターの音をだしていた。まいった! ダツボーです!
「ドンチュー・ウォーリー・バウト・ア・シング」を歌い始めた。さらに「7ミニッツ」と題されたところでは、それぞれがソロを取った。これがまた圧巻。みな、芸達者。僕もいままでいろいろなアカペラグループ、ヒューマンビートボックスを見てきたが、彼らのプレゼンテーションはこれまで見た中で最高のものだった。
次々と驚嘆の瞬間が続いたが、一番驚いたのは、ジェームス・ブラウンの「アイ・フィール・グッド」をやるところ。レコードボックスからレコードを取り出し、ターンテーブルの上に乗せ、針を乗っける・・・ふりをする。(このあたりは、リアルブラッドのライヴでもありましたね!) すると、あのレコードの上を針が走るチリチリいうスクラッチ音をやったのだ! 思わず「おおおおおっ」と声をあげた。そして、「アイ・フィール・グ〜〜〜ド」をスクラッチいりでやる。信じられない。「ありえない」
ヒップホップ調の曲をやるときは、まさにBボーイ風にふりをつけ、コミカルな展開ではそうした動きも見せる。見ていても、7人がステージで動き、止まり、そして、また動くと実に飽きない。ヴィジュアルのプレゼンテーションもこれまでのア・カペラ・グループの中では抜群の出来だ。
ライヴを見て、やっと100パーセント、信じた。あのCDで聴かれる音は本当にすべて口でやっているんだ、ということを。これは、奇跡としかいいようがない。僕はこれまでテイク6を世界一のヴォーカルグループだと思っていた。だが、このナチュラリー7は、テイク6を越えたと思った。「テイク6以来の衝撃」である。テイク6を知ったのが88年のことだから、16年ぶりの衝撃ということになる。新たな21世紀のアカペラグループのスタンダードは、このナチュラリー7から始まる。今、日本中に数多くあるアカペラグループが、最高峰とテイク6を仰いでいるだろうが、これからは少なくとも、ナチュラリー7とともに東・西の横綱になるだろう。そんなすごさは、一足先にミチコがBBSに書き込んだ。(part 2に続く)
どこから書いていいものか。ナチュラリー7というグループ。あまりのすごさに言葉を失った。でてくるのは「ありえない、ありえない」ばかり。最初CDが到着していた時は、ジャケットを見て「あ、またヴォーカルグループか・・・」くらいにしか思ってなかった。5月23日にBBSにビズモさんの書き込みがあって、「ああ、きてたなあ」と思ってCDを聴いてみた。その時の感想は、「お、テイク6のフォロワーか・・・。でも楽器使ってるんだあ・・・。リズムボックスの使い方とか一昔前のブラコンみたいだなあ。ははは」というもの。
そして、書き込みの返事を書くために、ナチュラリー7のサイトなどをチェックし、いろいろ読んだりしているうちに、事の重大さに徐々に気付くようになる。改めてライナーノーツを見ると、すべての音が声で作られている、という。え、あのギターの音も? キーボードの音も? ヒューマンビートボックスはわかるが・・・。え〜〜、このギターのひずみ、なんなの? 聴けば聴くほど、次々と疑問符が浮かび上がってくる。そして、改めて集中して聴いてみると・・・。このベースの音、なに。バスドラの音、なに。キーボードの音、何。「ありえな〜〜い」
火曜日(1日)、『フィールン・ソウル』収録。リクエストでナチュラリー7が来ていて、さっそくかけることにした。黒沢氏に「新しいア・カペラグループなんですよ」と一言説明してリクエスト曲「ゴーン・ウィズ・ザ・ウインド」(3曲目)他を聴いてもらう。黒沢さん、「あ〜、楽器も使ってるんですね」。「いやいやいやいや、実はこれぜ〜〜〜んぶ口なんですよ〜〜〜」 「えええっ? うそでしょう。だって、ギターとかはいってるよ」 「クレジットみてみてください。で、レコード会社の担当者がニューヨークで見たらしいんだけど、ほんとに全部口でやってるらしいんですよ」 「ええ?」とまだ信じられない様子。そして、もう一度、CDを聴く。「でも、何か使ってるでしょう」 「こんどの3日にショーケース・ライヴがあるんで、確かめてきますよ」 もちろん、黒沢さんも3日あいていたらどうかと誘ったが、別の仕事がはいっていて時間がとれないので、ひじょうに残念ながら、このライヴにはこれなかった。
何度も、CDを聴いて、まさにここのところの僕のヘヴィー・ローテーションになったわけですが、がぜんこのナチュラリー7に興味を持ったので、インタヴューをオファーして、土曜日(5日)に少し時間をいただき話をすることになった。何を聞こうかな。聞く事たくさんありすぎ。
さて、このナチュラリー7のことを伝えなければならない人物がいることを思い出した。そう、あの「テイク6ジャンキー」ことソウルメイト、ミチコだ。テイク6のライヴにこれまでに200回以上行っている世界一のテイク6ジャンキーに「ナチュラリー7って知ってる?」とメールすると、「ファーストが何年か前にでて、テイク6ファンの間でもちょっと話題になりました。でも、それほどでもなくて、そのCDも、誰かに貸して、今手元にない・・・」みたいな返事が。ファーストのことを知ってるあたりがさすがだ。で、早速この『ホワット・イズ・イット』のことを伝え、すぐに聴くようにと言った。
翌日あたり店頭からメールが。「今、試聴機で聞いてます。楽器は使ってるんですね」と。そこで、また同じ説明を。(笑) ひとしきりびっくりして、とにかくショーケースを見にくるように言う。
6月3日木曜。午後、僕は原宿ブルージェイウェイからリハが終ったあと、7時15分に戻ることででてくる。午後6時。渋谷DUO。ミチコが席をとっておいてくれた。ほぼまん前のセンター。最高の位置。やった。なんと彼女が友達と来ていた。すると、その友達も「テイク6ジャンキー」。ミチコの200回には及ばないものの、な、な、なんと100回以上ライヴに行っているという。二人以上あわせて300回以上か。「君たち、ギネスブックに申請しなさい。テイク6のライヴ通い、世界記録ってことで」みたいな、バカ話はどうでもいいが、なかなか始まらない。セットリストをもらったときに、聞くとライヴ自体は1時間弱らしい。いつもは、別に始まり時間がいくら押しても気にしない僕だが、この日はさすがに、じりじりした。
普段楽器が所狭しと置かれているステージに何もない。こんなにステージって広いんだ。ミネラルウォーターのペットボトルが14本。2本ずつタオルとともに舞台奥に置かれ、今夜のスターたちの登場を静かに待っている。
6時15分すぎ。まず司会のDJタロー氏登場。ひとしきりあおりと説明があって、6時17分、ひとりひとりが順番に声を出しながら登場してきた。それぞれの声の役割がCDのジャケットに書かれているが、ワイアレスマイクを持って、声を出して歩きながら登場。一人、また一人。声がひとつ、二つと徐々に厚みを増していく。
う〜ん、確かにあのベースの音、高いフルートの音、トランペット、スクラッチ、DJ、そして、ギターの音などが次々とでてくる。「なんだ、これは・・・」 あいた口がふさがらないとはこのこと。しかも、激しく踊りながら、それぞれの楽器を演奏するふりをしながらのパフォーマンス。一体何種類の楽器が、一体いくつの音の種類がでてくるのか。「ありえない・・・」
ギターをやっているのは、赤い帽子を被っていたジェイだった。ギターの弾きマネをしながら、マイクを口のところに持っていって、ずっとギターの音をだしていた。まいった! ダツボーです!
「ドンチュー・ウォーリー・バウト・ア・シング」を歌い始めた。さらに「7ミニッツ」と題されたところでは、それぞれがソロを取った。これがまた圧巻。みな、芸達者。僕もいままでいろいろなアカペラグループ、ヒューマンビートボックスを見てきたが、彼らのプレゼンテーションはこれまで見た中で最高のものだった。
次々と驚嘆の瞬間が続いたが、一番驚いたのは、ジェームス・ブラウンの「アイ・フィール・グッド」をやるところ。レコードボックスからレコードを取り出し、ターンテーブルの上に乗せ、針を乗っける・・・ふりをする。(このあたりは、リアルブラッドのライヴでもありましたね!) すると、あのレコードの上を針が走るチリチリいうスクラッチ音をやったのだ! 思わず「おおおおおっ」と声をあげた。そして、「アイ・フィール・グ〜〜〜ド」をスクラッチいりでやる。信じられない。「ありえない」
ヒップホップ調の曲をやるときは、まさにBボーイ風にふりをつけ、コミカルな展開ではそうした動きも見せる。見ていても、7人がステージで動き、止まり、そして、また動くと実に飽きない。ヴィジュアルのプレゼンテーションもこれまでのア・カペラ・グループの中では抜群の出来だ。
ライヴを見て、やっと100パーセント、信じた。あのCDで聴かれる音は本当にすべて口でやっているんだ、ということを。これは、奇跡としかいいようがない。僕はこれまでテイク6を世界一のヴォーカルグループだと思っていた。だが、このナチュラリー7は、テイク6を越えたと思った。「テイク6以来の衝撃」である。テイク6を知ったのが88年のことだから、16年ぶりの衝撃ということになる。新たな21世紀のアカペラグループのスタンダードは、このナチュラリー7から始まる。今、日本中に数多くあるアカペラグループが、最高峰とテイク6を仰いでいるだろうが、これからは少なくとも、ナチュラリー7とともに東・西の横綱になるだろう。そんなすごさは、一足先にミチコがBBSに書き込んだ。(part 2に続く)
(part 1からのつづき=下のパート1からお読みください)
テイク6とナチュラリー7の大きな違いは、後者がひじょうにストリートな感覚があるという点だ。そして、メンバーがニューヨークという都会育ちというところも大きな違いだ。テイク6は南部の信心深い環境に育っている。だから、アカペラ・ゴスペルとしての立ち位置がしっかりしている。ナチュラリー7たちがやるようなヒップホップ的なものはテイク6は絶対にやらない。これはかなりの違いだ。
50年代のドゥワップから、60年代のソウル・ヴォーカル・グループ、70年代のア・カペラ・グループ。黒人ヴォーカル・グループは、時代とともにスタイルを変えていく。それは、変化とも呼べるし、進化とも言える。88年、シーンにテイク6が登場して、ア・カペラの歴史を劇的に変えた。これ以上のグループはもう決して登場しないだろうと思われた。しかしそれから16年、今、彼らを越えるグループが登場したのだ。ナチュラリー7は言ってみれば、テイク6の進化形である。彼らは、テイク6という偉大なグループがあったからこそ、今、この形のグループが出来、成り立っている。100メートル走の記録が10秒を切っていくように、棒高跳びの記録が少しずつ高くなっていくように、つまり、人類に進化論があるように、ア・カペラ・グループの歴史の中にも進化論があるのだ。ナチュラリー7は「ア・カペラ進化論」を見事に証明している。しかも、彼ら7人はそれを自然に(naturally)にやってのけた。アル・ジャロウ、ボビー・マクファーリン、そして、ボーイズ・トゥ・メン、テイク6が束になってひとつのグループになってしまった。そんな衝撃だ。
人間は、頭で考えたことがいずれ実際にできるようになるという。かつて美しい満月を見た人間は、あの月に行ってみたいと考えた。そして、人類は月に行った。普段の生活の中で聴こえてくる音、その音すべてを人間の口で再現しようと考えた人がいたとしてもおかしくない。今、彼らの口によってそれが現実のものとなった。大変、はるばる、遠くまでやってきてしまったのだ。
6月3日、その進化が見事に僕の記憶に刻まれた。この日のことは決して忘れない。帰り道、空には白い大きな満月が輝いていた。人が月に到達することが出来たように、ナチュラリー7は、ア・カペラの極地に到達している。
Setlist
1. Sit Back Relax
2. BMG
3. Don’t You Worry ’Bout A Thing
4. 7 Minutes (Medley of Songs Each Members Sung)
--What A Wonderful World (Garfield)
--You’re The Sunshine Of My Life
--I Love The Way You Move
--I Feel Good
--Time After Time
5. Another You
6. What Is It? (Including "Human Nature")
Interview
7. Broken Wings
8. Say You Love Me
9. Amazing Grace
10. Have I Told You
Encore Sukiyaki
Encore Gone With The Wind
(2004年6月3日木曜、渋谷DUO=ナチュラリー7・ライヴ)
テイク6とナチュラリー7の大きな違いは、後者がひじょうにストリートな感覚があるという点だ。そして、メンバーがニューヨークという都会育ちというところも大きな違いだ。テイク6は南部の信心深い環境に育っている。だから、アカペラ・ゴスペルとしての立ち位置がしっかりしている。ナチュラリー7たちがやるようなヒップホップ的なものはテイク6は絶対にやらない。これはかなりの違いだ。
50年代のドゥワップから、60年代のソウル・ヴォーカル・グループ、70年代のア・カペラ・グループ。黒人ヴォーカル・グループは、時代とともにスタイルを変えていく。それは、変化とも呼べるし、進化とも言える。88年、シーンにテイク6が登場して、ア・カペラの歴史を劇的に変えた。これ以上のグループはもう決して登場しないだろうと思われた。しかしそれから16年、今、彼らを越えるグループが登場したのだ。ナチュラリー7は言ってみれば、テイク6の進化形である。彼らは、テイク6という偉大なグループがあったからこそ、今、この形のグループが出来、成り立っている。100メートル走の記録が10秒を切っていくように、棒高跳びの記録が少しずつ高くなっていくように、つまり、人類に進化論があるように、ア・カペラ・グループの歴史の中にも進化論があるのだ。ナチュラリー7は「ア・カペラ進化論」を見事に証明している。しかも、彼ら7人はそれを自然に(naturally)にやってのけた。アル・ジャロウ、ボビー・マクファーリン、そして、ボーイズ・トゥ・メン、テイク6が束になってひとつのグループになってしまった。そんな衝撃だ。
人間は、頭で考えたことがいずれ実際にできるようになるという。かつて美しい満月を見た人間は、あの月に行ってみたいと考えた。そして、人類は月に行った。普段の生活の中で聴こえてくる音、その音すべてを人間の口で再現しようと考えた人がいたとしてもおかしくない。今、彼らの口によってそれが現実のものとなった。大変、はるばる、遠くまでやってきてしまったのだ。
6月3日、その進化が見事に僕の記憶に刻まれた。この日のことは決して忘れない。帰り道、空には白い大きな満月が輝いていた。人が月に到達することが出来たように、ナチュラリー7は、ア・カペラの極地に到達している。
Setlist
1. Sit Back Relax
2. BMG
3. Don’t You Worry ’Bout A Thing
4. 7 Minutes (Medley of Songs Each Members Sung)
--What A Wonderful World (Garfield)
--You’re The Sunshine Of My Life
--I Love The Way You Move
--I Feel Good
--Time After Time
5. Another You
6. What Is It? (Including "Human Nature")
Interview
7. Broken Wings
8. Say You Love Me
9. Amazing Grace
10. Have I Told You
Encore Sukiyaki
Encore Gone With The Wind
(2004年6月3日木曜、渋谷DUO=ナチュラリー7・ライヴ)
特権。
ライヴの興奮もまだ冷めやらず、一体何から訊くか。とはいうものの、7人がレコード会社の会議室に勢ぞろいするとさすがに圧巻だ。1対7というのは、ひょっとしたら、初めてのことかもしれない。テイク6だって、相手は6人だし。(笑) それぞれに名前とパートを言ってもらい、話は始まったナチュラリー7のインタヴュー。
ライヴで一番驚いたのが、レコードの針を乗せて音が出るまでのしばらくチリチリいう音。これをやるのがロッド・エルドリッジ。一体どうやってあんなことができるようになったのか。「これは偶然できちゃったんだよ。針をのっける音とかやってるうちにね。誰かがこれ(チリチリ音)は絶対にできないな、とか言ってたんだよ。それで、逆にやってみた」と説明して、口でそのままチリチリ音をやってくれた。ライヴでやったときよりも、少し長く。おおおおっ。あたかもそこにターンテーブルがあるみたいだ。すご〜〜い。
そして、リーダー格のロジャー・トーマスが、「(弟の)ウォーレンは、ディストーション(歪のかかった)・ギターもやるんだよ」と指差す。ウォーレンが、なんのてらいもなく、ギターを「弾く」。そ、そ、それがディストーションがかかった音ででてくるのだ!
ウォーレン・トーマスが説明する。「もちろん、僕も少しギターを弾く。それでディストーションをかけたみたり、ワウワウの音を実際にだしてみたりして、それをよ〜く聴くんだ」
「CDでは、ディストーションとかディレイとかそういう若干の電気的な技術を使っているかと思ったのですが」とふると、ロジャーが答えた。「基本的には全部口でやっている。ただ、最終的なミックスの時に、若干の作業は加えることがある。でも、ライヴで見られるように、基本的にはみんな口だよ」 ライヴではディストーションなどはかけていないようだ。またまたため息。
これだけありとあらゆる楽器ができると、できない楽器などないのではないかと思ってしまう。何か、まだ口でできない楽器はありますか、と尋ねた。ロジャー。「う〜〜ん、そうだなあ・・・。ああ、ピアノとギター、アコースティックのものができないな。アコースティックのピアノ・・・。人間の口が温かすぎるんだと思う。アタックのある音がむずかしい。アコースティックのギターもまだできない。でも、チャレンジするよ」
ウォーレンのディストーション・ギターも、最初は普通のギターだったという。それが徐々に今のように変化してきて、今の形になるまで約4年かかっている、という。
ロジャーが言う。「最初、僕たちはバンド付きのヴォーカル・グループだった。だが、徐々にバンドが必要なくなった。最初はラスト・アピールという名前で活動していた。最初は3-4人で始めて、徐々にひとりずつ増えていった。そして、98年に7人になったころ、『7』というグループ名で活動を始めた。そうしたら、まもなく、同じ『7』という名のグループがいることがわかってね。彼らは3人組なんだけどね。(笑) で、僕たちはとても自然に(ナチュラリー)ヴォーカルを聞かせるということで、ナチュラリー7という名前にしたんだ。ナチュラリー7としてスタートしたのは、99年の8月か9月くらいだったと思う。そして、ファーストアルバム『ノン・フィクション』を自分たちで作ってインディで出した。ライヴで売ったりしてね。それでも2万枚くらい売れたんじゃないかな。その後、2003年1月から9月にかけて、この『ホワット・イズ・イット』を作ってリリースした」
ロッドが加える。「このアルバムには16-7曲はいっているが、僕たちは30曲以上録音した。一曲に一週間くらいかかることもある。一日8時間はスタジオにいてね。それはそれは、疲れるよ(笑)」 ロジャーが言う。「とにかくいろいろやってみる。最初デモテープを作る時は、若干の本物の楽器を使う。人前でできるほどの腕前ではないが、曲作りをする程度でキーボードやギターを使う。僕たちにとって、一番重要なことは、楽曲だ。いかにいい楽曲を作ることができるか」 ウォーレンがはいる。「そして、メッセージね。どれだけのメッセージを込められるか」
7人の中でもっともよくしゃべるのが、ロジャー・トーマス。彼がリーダーでスポークスパーソンだ。次がロッド・エルドリッジ。見た目の印象では、一番背が高いジャマール(最年少)はシャイな人物のように見受けられた。
全員が教会でゴスペルを歌ってきた。99年にア・カペラ・コンテストで優勝して以来、ライヴの数が徐々に増え、最近では年間200本くらいやっている、という。ニューヨークだけでなく、全米、ヨーロッパなどだ。200本もやれば、進化する。
アルバムのタイトルは、『ホワット・イズ・イット』。いってみれば、「これは、なんだ?」というニュアンス。彼らにナチュラリー7って、何? と尋ねてみた。ロジャーが「僕たちはヴォーカル・バンドだよ」ときっぱり。つまり、ヴォーカルだけでできるバンドですね。わかりやすい!
最後に、『ソウルブレンズ』用にいわゆるIDをもらった。全員がやってくれた。7人全員で簡単な文章を読むのだが、それでもカウントをいれて、あうようにやってくれたので、ちょっと感動した。次回来日時にはぜひ番組に来てもらいましょう。
インタヴューが終わり、片付けて外にでると、マーカスが何か探してる風に道を歩いていた。「どうしたの?」と訊くと「ATMを探してるんだ。近くにないか?」というので、「ワンブロック先に銀行があるよ。乗ってく?」と言うと「サンキュー」。無事、お金をおろしホテルに戻るわずかな時間にちょっとした会話。「今日は仕事は終わり?」 「ああ、終わりだよ。まあ、あとで軽くリハーサルでもやるのかな」 「へえ、どこで? スタジオでも行くの?」 「いや、ホテルの誰かの部屋に集まるだけだよ」 「ああ、そうかあ、あなたたちは、いつでも、どこでも、ただ集まるだけでリハーサルできるもんね」 「ああ、そうだよ(笑)」
ア・カペラ・グループは、手ぶらで人々を感動させることができる特権をもっている。いつでも、どこでも。
ライヴの興奮もまだ冷めやらず、一体何から訊くか。とはいうものの、7人がレコード会社の会議室に勢ぞろいするとさすがに圧巻だ。1対7というのは、ひょっとしたら、初めてのことかもしれない。テイク6だって、相手は6人だし。(笑) それぞれに名前とパートを言ってもらい、話は始まったナチュラリー7のインタヴュー。
ライヴで一番驚いたのが、レコードの針を乗せて音が出るまでのしばらくチリチリいう音。これをやるのがロッド・エルドリッジ。一体どうやってあんなことができるようになったのか。「これは偶然できちゃったんだよ。針をのっける音とかやってるうちにね。誰かがこれ(チリチリ音)は絶対にできないな、とか言ってたんだよ。それで、逆にやってみた」と説明して、口でそのままチリチリ音をやってくれた。ライヴでやったときよりも、少し長く。おおおおっ。あたかもそこにターンテーブルがあるみたいだ。すご〜〜い。
そして、リーダー格のロジャー・トーマスが、「(弟の)ウォーレンは、ディストーション(歪のかかった)・ギターもやるんだよ」と指差す。ウォーレンが、なんのてらいもなく、ギターを「弾く」。そ、そ、それがディストーションがかかった音ででてくるのだ!
ウォーレン・トーマスが説明する。「もちろん、僕も少しギターを弾く。それでディストーションをかけたみたり、ワウワウの音を実際にだしてみたりして、それをよ〜く聴くんだ」
「CDでは、ディストーションとかディレイとかそういう若干の電気的な技術を使っているかと思ったのですが」とふると、ロジャーが答えた。「基本的には全部口でやっている。ただ、最終的なミックスの時に、若干の作業は加えることがある。でも、ライヴで見られるように、基本的にはみんな口だよ」 ライヴではディストーションなどはかけていないようだ。またまたため息。
これだけありとあらゆる楽器ができると、できない楽器などないのではないかと思ってしまう。何か、まだ口でできない楽器はありますか、と尋ねた。ロジャー。「う〜〜ん、そうだなあ・・・。ああ、ピアノとギター、アコースティックのものができないな。アコースティックのピアノ・・・。人間の口が温かすぎるんだと思う。アタックのある音がむずかしい。アコースティックのギターもまだできない。でも、チャレンジするよ」
ウォーレンのディストーション・ギターも、最初は普通のギターだったという。それが徐々に今のように変化してきて、今の形になるまで約4年かかっている、という。
ロジャーが言う。「最初、僕たちはバンド付きのヴォーカル・グループだった。だが、徐々にバンドが必要なくなった。最初はラスト・アピールという名前で活動していた。最初は3-4人で始めて、徐々にひとりずつ増えていった。そして、98年に7人になったころ、『7』というグループ名で活動を始めた。そうしたら、まもなく、同じ『7』という名のグループがいることがわかってね。彼らは3人組なんだけどね。(笑) で、僕たちはとても自然に(ナチュラリー)ヴォーカルを聞かせるということで、ナチュラリー7という名前にしたんだ。ナチュラリー7としてスタートしたのは、99年の8月か9月くらいだったと思う。そして、ファーストアルバム『ノン・フィクション』を自分たちで作ってインディで出した。ライヴで売ったりしてね。それでも2万枚くらい売れたんじゃないかな。その後、2003年1月から9月にかけて、この『ホワット・イズ・イット』を作ってリリースした」
ロッドが加える。「このアルバムには16-7曲はいっているが、僕たちは30曲以上録音した。一曲に一週間くらいかかることもある。一日8時間はスタジオにいてね。それはそれは、疲れるよ(笑)」 ロジャーが言う。「とにかくいろいろやってみる。最初デモテープを作る時は、若干の本物の楽器を使う。人前でできるほどの腕前ではないが、曲作りをする程度でキーボードやギターを使う。僕たちにとって、一番重要なことは、楽曲だ。いかにいい楽曲を作ることができるか」 ウォーレンがはいる。「そして、メッセージね。どれだけのメッセージを込められるか」
7人の中でもっともよくしゃべるのが、ロジャー・トーマス。彼がリーダーでスポークスパーソンだ。次がロッド・エルドリッジ。見た目の印象では、一番背が高いジャマール(最年少)はシャイな人物のように見受けられた。
全員が教会でゴスペルを歌ってきた。99年にア・カペラ・コンテストで優勝して以来、ライヴの数が徐々に増え、最近では年間200本くらいやっている、という。ニューヨークだけでなく、全米、ヨーロッパなどだ。200本もやれば、進化する。
アルバムのタイトルは、『ホワット・イズ・イット』。いってみれば、「これは、なんだ?」というニュアンス。彼らにナチュラリー7って、何? と尋ねてみた。ロジャーが「僕たちはヴォーカル・バンドだよ」ときっぱり。つまり、ヴォーカルだけでできるバンドですね。わかりやすい!
最後に、『ソウルブレンズ』用にいわゆるIDをもらった。全員がやってくれた。7人全員で簡単な文章を読むのだが、それでもカウントをいれて、あうようにやってくれたので、ちょっと感動した。次回来日時にはぜひ番組に来てもらいましょう。
インタヴューが終わり、片付けて外にでると、マーカスが何か探してる風に道を歩いていた。「どうしたの?」と訊くと「ATMを探してるんだ。近くにないか?」というので、「ワンブロック先に銀行があるよ。乗ってく?」と言うと「サンキュー」。無事、お金をおろしホテルに戻るわずかな時間にちょっとした会話。「今日は仕事は終わり?」 「ああ、終わりだよ。まあ、あとで軽くリハーサルでもやるのかな」 「へえ、どこで? スタジオでも行くの?」 「いや、ホテルの誰かの部屋に集まるだけだよ」 「ああ、そうかあ、あなたたちは、いつでも、どこでも、ただ集まるだけでリハーサルできるもんね」 「ああ、そうだよ(笑)」
ア・カペラ・グループは、手ぶらで人々を感動させることができる特権をもっている。いつでも、どこでも。
新テーマ。
日曜日。何が話題って、ナチュラリー7。汐留、お台場でごらんになった方、すっかりナチュラリー7のマジックにかかっていますね。一度ライヴ見れば、あれは、誰しもが驚きます。それにしても、すごいですねえ。僕は日曜のフリーライヴはインターの『ソウル・ブレンズ』のために見に行くことはできませんでしたが、大盛況だったようです。
さて、『ソウル・ブレンズ』内「ソウル・サーチン」のコーナーのテーマ曲を今日からデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイン・オン」にしてみました。しばらくこれで試してみます。この日記の読者の方であれば、以前、FENのソウルショウのネタでしばし盛り上がったことを覚えていられるのではないかと思います。70年代、FENで放送されていたソウル・ショウ『ローランド・バイナム・ショウ』のテーマだった曲です。
http://diarynote.jp/d/32970/20030829.html
最初、スタッフのDJオッシー、DJナミたちからは「ジングルとあわない」「テンポが遅すぎる」などと否定的なご意見がでてきまして。「ま、とりあえず、一回やってみましょうか」ということでやってみました。今日の「ソウル・サーチン」で紹介したのは、D12(ディー・トゥエルヴ)でした。
そうしたら、「ホワッツ・ゴーイン・オン」がかなりスムース&メローなことから、僕のしゃべりがゆっくり落ち着いたらしく、「意外といいじゃん」みたいなことになり、しばらくテーマ曲としてやっていくことになりました。きっと、このテーマ曲が流れてくると、ローランド・バイナムのことを思い出す人が、関東近辺に1000人くらいはいるような気がするんですけどね。(笑) バイナムの名前は思い出さなくても、FENでやっていたソウルショウのことを思い浮かべる人がね。
そして、これをやっているデイヴィッド・T・ウォーカーは日本でも大変隠れファンの多いギタリストです。しかも、日本の歌手のバックなどにも呼ばれたりしています。で、このデイヴィッド・Tの世界唯一の非公式サイトがあります。デイヴィッドのファンの植山さんが開いているサイト。
http://homepage2.nifty.com/ueb/davidt/index.html
これは、デイヴィッドのリーダーアルバムだけでなく、デイヴィッドがセッションで参加した作品をすべて網羅しようという壮大な計画のもとに作られているサイトで僕も前から存じ上げていました。そして、先日の日本のデイヴィッド・Tをめざす杉本さんのライヴの折に、植山さんがいらっしゃって、お会いすることができました。植山さん、杉本ヴァージョンの「ホワッツ・ゴーイン・オン」気に入っていただけたみたいで嬉しかったです。植山さんのサイトは、かなり充実しています。デイヴィッド・T本人とのインタヴューによるバイオグラフィーなどひじょうに資料的にもすばらしい。デイヴィッド・Tつながりということでしょうか。(笑)
僕は「ソウル・サーチン」のテーマでデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイン・オン」を使って、それが浸透したら、いつかデイヴィッド・T本人にゲストできてもらって、これを生で弾いてもらえたりなんかしたら、超嬉しいですね。この前、ナイル・ロジャースが生ギターを披露したようにね。
さて、番組が終わり、急いで渋谷に移動して某アーティストのライヴを見たのですが、大変失望したので、日記のライヴ評としては書くのやめました。(笑) コーラス2人、キーボード、サックス兼フルート、そして、本人の歌とキーボード。72年に大ヒットがある人ですが、その曲は僕も大好きでそれを一度聴いてもいいかなと思って。ライヴ・パフォーマンスは終ってます。(笑) その時代で、時の流れが止まってるんですね。なんで、ドラムいない、なんでギターがいない、なんでベースがいない。なんか、そこらへんのデモテープ作りのセッションみたいでした。日本をなめてるのかなあ。人柄自体は、素朴ですごくよさそうですけどね。
ちょうど、その頃、メールで汐留、お台場のライヴを見たというレポートが来て、またまた興奮。そして、うちに戻ると、なんとテニスのフレンチオープンの男子決勝戦をやっている。これは、ライヴの失望分を取り返してお釣りがくらい久々に感動した。このお話は長くなりそうなのでまた明日。
日曜日。何が話題って、ナチュラリー7。汐留、お台場でごらんになった方、すっかりナチュラリー7のマジックにかかっていますね。一度ライヴ見れば、あれは、誰しもが驚きます。それにしても、すごいですねえ。僕は日曜のフリーライヴはインターの『ソウル・ブレンズ』のために見に行くことはできませんでしたが、大盛況だったようです。
さて、『ソウル・ブレンズ』内「ソウル・サーチン」のコーナーのテーマ曲を今日からデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイン・オン」にしてみました。しばらくこれで試してみます。この日記の読者の方であれば、以前、FENのソウルショウのネタでしばし盛り上がったことを覚えていられるのではないかと思います。70年代、FENで放送されていたソウル・ショウ『ローランド・バイナム・ショウ』のテーマだった曲です。
http://diarynote.jp/d/32970/20030829.html
最初、スタッフのDJオッシー、DJナミたちからは「ジングルとあわない」「テンポが遅すぎる」などと否定的なご意見がでてきまして。「ま、とりあえず、一回やってみましょうか」ということでやってみました。今日の「ソウル・サーチン」で紹介したのは、D12(ディー・トゥエルヴ)でした。
そうしたら、「ホワッツ・ゴーイン・オン」がかなりスムース&メローなことから、僕のしゃべりがゆっくり落ち着いたらしく、「意外といいじゃん」みたいなことになり、しばらくテーマ曲としてやっていくことになりました。きっと、このテーマ曲が流れてくると、ローランド・バイナムのことを思い出す人が、関東近辺に1000人くらいはいるような気がするんですけどね。(笑) バイナムの名前は思い出さなくても、FENでやっていたソウルショウのことを思い浮かべる人がね。
そして、これをやっているデイヴィッド・T・ウォーカーは日本でも大変隠れファンの多いギタリストです。しかも、日本の歌手のバックなどにも呼ばれたりしています。で、このデイヴィッド・Tの世界唯一の非公式サイトがあります。デイヴィッドのファンの植山さんが開いているサイト。
http://homepage2.nifty.com/ueb/davidt/index.html
これは、デイヴィッドのリーダーアルバムだけでなく、デイヴィッドがセッションで参加した作品をすべて網羅しようという壮大な計画のもとに作られているサイトで僕も前から存じ上げていました。そして、先日の日本のデイヴィッド・Tをめざす杉本さんのライヴの折に、植山さんがいらっしゃって、お会いすることができました。植山さん、杉本ヴァージョンの「ホワッツ・ゴーイン・オン」気に入っていただけたみたいで嬉しかったです。植山さんのサイトは、かなり充実しています。デイヴィッド・T本人とのインタヴューによるバイオグラフィーなどひじょうに資料的にもすばらしい。デイヴィッド・Tつながりということでしょうか。(笑)
僕は「ソウル・サーチン」のテーマでデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイン・オン」を使って、それが浸透したら、いつかデイヴィッド・T本人にゲストできてもらって、これを生で弾いてもらえたりなんかしたら、超嬉しいですね。この前、ナイル・ロジャースが生ギターを披露したようにね。
さて、番組が終わり、急いで渋谷に移動して某アーティストのライヴを見たのですが、大変失望したので、日記のライヴ評としては書くのやめました。(笑) コーラス2人、キーボード、サックス兼フルート、そして、本人の歌とキーボード。72年に大ヒットがある人ですが、その曲は僕も大好きでそれを一度聴いてもいいかなと思って。ライヴ・パフォーマンスは終ってます。(笑) その時代で、時の流れが止まってるんですね。なんで、ドラムいない、なんでギターがいない、なんでベースがいない。なんか、そこらへんのデモテープ作りのセッションみたいでした。日本をなめてるのかなあ。人柄自体は、素朴ですごくよさそうですけどね。
ちょうど、その頃、メールで汐留、お台場のライヴを見たというレポートが来て、またまた興奮。そして、うちに戻ると、なんとテニスのフレンチオープンの男子決勝戦をやっている。これは、ライヴの失望分を取り返してお釣りがくらい久々に感動した。このお話は長くなりそうなのでまた明日。
このところテレビを見る時間がなくて、今回のフレンチオープン・テニスもそれほど見てなかったんですが、コリアの試合は一度見ていました。えらく強いな、とは思ってたんですが。決勝はアルゼンチン同士の戦い。第3シード、コリアとなんとノーシードからの勝ちあがりガウディオ。どちらが勝ってもアルゼンチンに優勝が行きますが、これは77年のギレルモ・ヴィラス以来27年ぶりのことだそうです。
当然、僕はコリアが勝つと思った。セットカウント・コリア2−0で、第3セット・4−4のあたりで「やはり」と思って、このまま行くのかな、と。そしたら、ちょうどこの時、コリアの足が痙攣(けいれん)したらしいんですね。コリアの動きが極端に悪くなった。結局、第3、第4とガウディオが取り、勝負は第5セットにもつれこむ。第4セットの途中で、コリアはトレーナーを呼んでいる。流れはガウディオへ。
第5セットはまさに死闘ですね。奇跡的にコリアが徐々にまた盛り返してくる。これには驚いた。第3、第4で完全に流れがガウディオに行っていて、動きも全然違う。このまま押し切っていきそうな気配だったのに。
第5セット。一進一退の5−5からコリアがガウディオのサーヴィスをブレイク。コリアの6−5でサーヴィスゲームへ。あと4ポイントで念願のフレンチオープン優勝。一体、日曜日、ローラン・ギャロスで何が起こったのか。二人の選手の脳裏に去来したものは---。『勝利の女神の優柔不断』第二弾。
+++++++++++++++++++++++++++
『勝利の女神の優柔不断・Vol.2』
〜魂の戦いのゆくえ〜
あこがれ。
フレンチオープン、男子決勝戦。のぞんだのは第3シードのコリアとノーシードで勝ち上がってきたガウディオ。二人ともアルゼンチン出身のテニスプレイヤーだ。どちらが勝っても、アルゼンチン出身としては77年のギレルモ・ヴィラス以来、27年ぶりということになる。アルゼンチンは大騒ぎになっていることだろう。ヴィラスが77年フレンチオープンに、79年オーストラリアオープンに優勝したとき、コリアはまだこの世に生を受けていない。ガウディオでさえ、まだ0歳だ。しかし、二人とも幼少の頃からアルゼンチンのスター・テニス・プレイヤー、ヴィラスにあこがれてテニスを始めた。
一人は、どんどんと強くなり、世界ランクもベスト10にはいる。だが、2001年、彼はドーピング疑惑で6ヶ月間の出場停止となる。この期間は、彼にとってまさにソウル・サーチンの日々だった。トレーナーに勧められるがままに飲んでいたヴィタミン剤に禁止された薬品がはいっていた。検出されたものはしかたがない。そのどん底の日々に、彼は「必ずグランドスラムを取り、自分は無実だということを世界に宣言する」と誓ったのだ。
もう一人は少しずつランクは上がっていくもののなかなかベスト10にははいれず、グランドスラム大会もこれまで4回戦まで行ったのが最高だった男。トーナメント・プロに若干の自信を失い、ここ1年はスポーツ心理カウンセラーとともにスランプ脱出を試みていた。前者は、若き22歳、その名前をヒーローからもらったギレルモ・コリア、後者はギャストン・ガウディオ25歳。
下馬評。
試合前の下馬評は、圧倒的にコリアだった。コリア(1982年1月13日アルゼンチン・ラフィーノ生まれ)は前年(2003年)ローランギャロス(フレンチオープン)で、準決勝に進出している今大会第3シード。今年は一歩進み決勝までやってきた。2週間前フレンチオープンが始まるまで今年は28勝6敗の成績を残し、世界ランクも生涯最高の3位という絶好調ぶりを見せていた。しかも過去1年、クレイコートではたった2度しか負けていないという。
一方、ガウディオ(1978年12月9日アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ)は、世界ランキング44位。グランドスラムでも最高が4回戦に進んだことが一度あるだけ。今年の成績も15勝13敗で、特筆されるものはなかった。もちろん、決勝まで進んできたということは、ラッキーだけではない。しっかりと実力を持ち、自ら最高のパフォーマンスをしてきたからこそ、この舞台に上ることができたのだが・・・。
試合は、大方の予想通り、圧倒的にコリア有利に進んだ。最初の2セットをコリアがわずか61分でとり、2−0となった。ある意味、力の差は歴然だった。このままコリアが押し切りあと30分で試合も終るかと思われた。第3セット、ガウディオ4−3で、ガウディオがサーヴィスゲームを失い4−4となり、大きく流れがコリア優勝に傾いた。勝利の女神がコリアの肩をそっと叩いていた。だが、ここで異変が起きた。
ターニングポイント。
コリアが振り返る。「僕は(第3セットで)、以前(僕に)ヴィタミン剤を飲ませた連中のことを思い出していた。で、すこしナーヴァスになってしまった。僕は自分の心の奥底にあるものをすべて忘れ去るためにも、この試合にどうしても勝ちたかった。僕は連中に復讐したかったんだ」 彼は、セットカウント2−0、第3セット4−4の自らのサーヴィスゲームで40−0となったときに、はっきりと優勝を意識した、という。
しかしそこで、コリアの足に痙攣(けいれん)が起こったのだ。急速にコリアの動きが悪くなる。必死にボールを追いかけるが、最初の2セットの動きとはまったく違った展開になってしまった。
ガウディオはまた別の意味でターニングポイントを感じていた。「ターニングポイントは、第3セット、4−3から僕がサーヴィスゲームを失ったときに、ウェイヴが起こったことだ。僕も(それまで)プレッシャーがあった。それまでボールをうまく捉えることができないでいた。そこまではテニスをまったく楽しめないでいた。だが、あれを見て、試合を楽しめるようになったんだ」 ガウディオはそのウェイヴを自分への応援と感じた。
コリアは、過去3年間の様々なことが脳裏をかすめ、それがプレッシャーとなり、体に異変を起こしていた。ガウディオは、それまでのプレッシャーが観客のウェイヴひとつでふっきれ、体の動きがみちがえるようになったのだ。
53分かかったこのセットは結局、ガウディオが6−4で取った。勝利の女神が少し迷いを見せ始めていた。
続く第4セット1−1のところで、コリアはトレーナーを呼びマッサージを受ける。このとき、薬をもらう。トレーナーは「15分程度で薬が効いてくるだろう」と言った。コリアは第4セットをあまりボールをおいかけず、体力を温存し、復活を待った。容赦なくたたみかけ、勢いづいたガウディオは第4セットもあっさり6−1で取り、セットカウント2−2に追いついた。
この時点で、圧倒的にガウディオ有利に試合は傾いた。コリアの動きは精彩を欠き、ガウディオのミスは少なくなっていた。今度はこのままガウディオが押し切るかにみえた。勝利の女神は、ガウディオのコートに佇んでいた。
しかし、ここでまた奇跡が起こる。コリアの動きが徐々に復活してきたのだ。タイブレイクなしのファイナルセットは、コリアの奇跡の復活とともに一進一退となった。お互いがサーヴィスをブレイクし、それぞれがどうしてもあと一歩とどめを刺すことができず、10ゲームまでで5−5のがっぷりよつの戦いになった。
(Part 2へ続く)
当然、僕はコリアが勝つと思った。セットカウント・コリア2−0で、第3セット・4−4のあたりで「やはり」と思って、このまま行くのかな、と。そしたら、ちょうどこの時、コリアの足が痙攣(けいれん)したらしいんですね。コリアの動きが極端に悪くなった。結局、第3、第4とガウディオが取り、勝負は第5セットにもつれこむ。第4セットの途中で、コリアはトレーナーを呼んでいる。流れはガウディオへ。
第5セットはまさに死闘ですね。奇跡的にコリアが徐々にまた盛り返してくる。これには驚いた。第3、第4で完全に流れがガウディオに行っていて、動きも全然違う。このまま押し切っていきそうな気配だったのに。
第5セット。一進一退の5−5からコリアがガウディオのサーヴィスをブレイク。コリアの6−5でサーヴィスゲームへ。あと4ポイントで念願のフレンチオープン優勝。一体、日曜日、ローラン・ギャロスで何が起こったのか。二人の選手の脳裏に去来したものは---。『勝利の女神の優柔不断』第二弾。
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『勝利の女神の優柔不断・Vol.2』
〜魂の戦いのゆくえ〜
あこがれ。
フレンチオープン、男子決勝戦。のぞんだのは第3シードのコリアとノーシードで勝ち上がってきたガウディオ。二人ともアルゼンチン出身のテニスプレイヤーだ。どちらが勝っても、アルゼンチン出身としては77年のギレルモ・ヴィラス以来、27年ぶりということになる。アルゼンチンは大騒ぎになっていることだろう。ヴィラスが77年フレンチオープンに、79年オーストラリアオープンに優勝したとき、コリアはまだこの世に生を受けていない。ガウディオでさえ、まだ0歳だ。しかし、二人とも幼少の頃からアルゼンチンのスター・テニス・プレイヤー、ヴィラスにあこがれてテニスを始めた。
一人は、どんどんと強くなり、世界ランクもベスト10にはいる。だが、2001年、彼はドーピング疑惑で6ヶ月間の出場停止となる。この期間は、彼にとってまさにソウル・サーチンの日々だった。トレーナーに勧められるがままに飲んでいたヴィタミン剤に禁止された薬品がはいっていた。検出されたものはしかたがない。そのどん底の日々に、彼は「必ずグランドスラムを取り、自分は無実だということを世界に宣言する」と誓ったのだ。
もう一人は少しずつランクは上がっていくもののなかなかベスト10にははいれず、グランドスラム大会もこれまで4回戦まで行ったのが最高だった男。トーナメント・プロに若干の自信を失い、ここ1年はスポーツ心理カウンセラーとともにスランプ脱出を試みていた。前者は、若き22歳、その名前をヒーローからもらったギレルモ・コリア、後者はギャストン・ガウディオ25歳。
下馬評。
試合前の下馬評は、圧倒的にコリアだった。コリア(1982年1月13日アルゼンチン・ラフィーノ生まれ)は前年(2003年)ローランギャロス(フレンチオープン)で、準決勝に進出している今大会第3シード。今年は一歩進み決勝までやってきた。2週間前フレンチオープンが始まるまで今年は28勝6敗の成績を残し、世界ランクも生涯最高の3位という絶好調ぶりを見せていた。しかも過去1年、クレイコートではたった2度しか負けていないという。
一方、ガウディオ(1978年12月9日アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ)は、世界ランキング44位。グランドスラムでも最高が4回戦に進んだことが一度あるだけ。今年の成績も15勝13敗で、特筆されるものはなかった。もちろん、決勝まで進んできたということは、ラッキーだけではない。しっかりと実力を持ち、自ら最高のパフォーマンスをしてきたからこそ、この舞台に上ることができたのだが・・・。
試合は、大方の予想通り、圧倒的にコリア有利に進んだ。最初の2セットをコリアがわずか61分でとり、2−0となった。ある意味、力の差は歴然だった。このままコリアが押し切りあと30分で試合も終るかと思われた。第3セット、ガウディオ4−3で、ガウディオがサーヴィスゲームを失い4−4となり、大きく流れがコリア優勝に傾いた。勝利の女神がコリアの肩をそっと叩いていた。だが、ここで異変が起きた。
ターニングポイント。
コリアが振り返る。「僕は(第3セットで)、以前(僕に)ヴィタミン剤を飲ませた連中のことを思い出していた。で、すこしナーヴァスになってしまった。僕は自分の心の奥底にあるものをすべて忘れ去るためにも、この試合にどうしても勝ちたかった。僕は連中に復讐したかったんだ」 彼は、セットカウント2−0、第3セット4−4の自らのサーヴィスゲームで40−0となったときに、はっきりと優勝を意識した、という。
しかしそこで、コリアの足に痙攣(けいれん)が起こったのだ。急速にコリアの動きが悪くなる。必死にボールを追いかけるが、最初の2セットの動きとはまったく違った展開になってしまった。
ガウディオはまた別の意味でターニングポイントを感じていた。「ターニングポイントは、第3セット、4−3から僕がサーヴィスゲームを失ったときに、ウェイヴが起こったことだ。僕も(それまで)プレッシャーがあった。それまでボールをうまく捉えることができないでいた。そこまではテニスをまったく楽しめないでいた。だが、あれを見て、試合を楽しめるようになったんだ」 ガウディオはそのウェイヴを自分への応援と感じた。
コリアは、過去3年間の様々なことが脳裏をかすめ、それがプレッシャーとなり、体に異変を起こしていた。ガウディオは、それまでのプレッシャーが観客のウェイヴひとつでふっきれ、体の動きがみちがえるようになったのだ。
53分かかったこのセットは結局、ガウディオが6−4で取った。勝利の女神が少し迷いを見せ始めていた。
続く第4セット1−1のところで、コリアはトレーナーを呼びマッサージを受ける。このとき、薬をもらう。トレーナーは「15分程度で薬が効いてくるだろう」と言った。コリアは第4セットをあまりボールをおいかけず、体力を温存し、復活を待った。容赦なくたたみかけ、勢いづいたガウディオは第4セットもあっさり6−1で取り、セットカウント2−2に追いついた。
この時点で、圧倒的にガウディオ有利に試合は傾いた。コリアの動きは精彩を欠き、ガウディオのミスは少なくなっていた。今度はこのままガウディオが押し切るかにみえた。勝利の女神は、ガウディオのコートに佇んでいた。
しかし、ここでまた奇跡が起こる。コリアの動きが徐々に復活してきたのだ。タイブレイクなしのファイナルセットは、コリアの奇跡の復活とともに一進一退となった。お互いがサーヴィスをブレイクし、それぞれがどうしてもあと一歩とどめを刺すことができず、10ゲームまでで5−5のがっぷりよつの戦いになった。
(Part 2へ続く)
(Part 2、パート1からお読みください)
死闘。
きわどいボールが赤土に映える白いライン上の粉を巻き上げる。第11ゲーム、ガウディオのサーヴィスゲームを再びコリアがブレイクし、コリアの6−5。コリアのサーヴィン・フォー・ザ・チャンピョンシップ。次にコリアがサーヴィスをキープすれば優勝だ。一ポイントごとに観客が固唾をのんで見守る。コリアは、足にトラブルがあることなど忘れて無我夢中でボールにくらいつく。超人的なパフォーマンスで、得意のダウンザラインを決め、コリアはついにチャンピョンシップ・ポイントを握る。あと一ポイントで優勝。トロフィーに片手がかかった。
チャンピョンシップ・ポイント一度目。ガウディオはこの瞬間、負けを覚悟したという。しかし、ガウディオにかわされデュース。もう一度コリアがポイントを取り、2度目のチャンピョンシップ・ポイント。しかし、再び、ガウディオが執念でポイントを取る。今度はガウディオがデュースから2ポイント連取し、ガウディオはこのゲームをブレイクして取り返し、6−6と試合を振り出しに戻したのだ。
解説の松岡修造が静かに言った。「もう、心技体といったものを超越してますね。そんなものは関係ない。魂と魂の戦いです」 その通りだった。出せる力をお互いが最大限出し切ったところで、ぶつかりあうソウルとソウルの戦い。まさに死闘だ。これは見ごたえがある。そして、今、勝利の女神はどちらに転ぶかまだ迷っているのだ。いつしか、観客もその瞬間に負けそうな方を、応援するようになっていた。
ファイナルはタイブレイクがないため、どちらかが必ず相手ゲームをブレイクしなければならない。第13ゲーム、ガウディオが40−15からポイントを決め、キープ、7−6。しかし、今度はコリアのサーヴィスゲーム。15−30から一ポイント取られ、15−40。しばらく前に自分が握ったチャンピョンシップ・ポイントをこんどは逆に相手に握られた。そして、最後、コリアが力尽きた。ガウディオが見事この3時間31分の死闘を制した。勝利の女神は、最後にガウディオに微笑んだ。
無欲。
ローランギャロスの歴史の中で、マッチポイントを握られてから逆転優勝したのは、1934年以来70年ぶりのことだという。つまりこうした大舞台では、最初にマッチポイントを握ったほうが、ほとんど勝つということだ。
ガウディオは言う。「子供の頃、いつかここに立って試合に勝てればいいと思っていた。だが、まさかグランドスラム(の決勝戦)にきて勝てるなどとは思ってもみなかった。自分(のテニススタイル)をどれほど変えたかもうわからないほどだ。何を一番変えたかさえも覚えてない。だが今、僕がわかっていることは、グランドスラムに勝ったということだけだ。たしかに、メンタル(精神的)な部分は多いに変えた。だからといって、グランドスラムに勝てるとは思わなかった」
一方のコリアは言う。「このフレンチオープンに優勝することをずっと夢見ていた。第3セットでものすごくナーヴァスになった。なぜなら、(あとワンセットとれば優勝ということを)今まで経験したことがなかったからだ。ここでの優勝は僕の人生の最大の夢だったんだ。だから、僕は最後まで戦った」
ガウディオはこの戦いをしてこう言った。「まるで、映画のようだったね」 ガウディオの勝利は、無欲の勝利だった。
超越。
表彰式。優勝トロフィー授与は、あのマッケンロー、そして、27年前アルゼンチンに優勝トロフィーを持ち帰ったヴィラスという粋な演出となった。コリアはずっと下を見たままじっと唇をかみしめている。言葉もでない。まず準優勝の盾がギレルモ・ヴィラスからギレルモ・コリアに渡された。ギレルモからギレルモへ。負けた者に渡される準優勝の盾。コリアはスピーチをするが、その言葉にはもはや魂ははいっていなかった。すべてを出し切り、体の中のソウルはローランギャロスの空の彼方に行っていたのだろう。一方、ガウディオはトロフィーを持ちながら「ヴィラスがいたから、僕はテニスを始めた」とスピーチをする中で、両親への感謝を口にしたときに、思わずこみあげ、タオルで目をぬぐった。そのとき、アルゼンチンの国民的ヒーロー、テニスの大先輩であるそのギレルモ・ヴィラスがやさしく彼の肩を抱いた。
アルゼンチンの国歌が流れ、国旗が真っ青な空に上がるところに、コリアの空虚な表情が映し出された。第3セットで勝てると思った彼。第4セットを終えた時、確信はなくなっていたかもしれない。しかし、マッチポイントを握った時に、再び勝てると思ったかもしれない。一方、ガウディオは決勝まで来たことさえ夢のようだった。ガウディオは言う。「まさか勝てるとは思わなかったけど、これからはもう少し自分を信じることができると思う」 彼はこの優勝で、次週のランキングが44位から一挙にベスト10、第10位になる。もちろん、生涯最高のランキングだ。
ヴィラスにあこがれテニスに打ち込んだ二人。その二人が最高の舞台で最高のパフォーマンスを見せ、そのあこがれの人物からトロフィーと盾を授与された。その意味では二人とも勝者といってもいい。そこに生まれたのは、まさに心技体を超越したソウルとソウルの熱き戦いだった。勝利の女神は本当に優柔不断だ。コリアには来年、優勝してもらおう。そして、そのときこそ、彼のソウル・サーチンの答えがでる瞬間だ。
(2004年6月6日日曜、ローランギャロス=フレンチオープン・男子シングルス決勝戦=コリア対ガウディオ)
『勝利の女神の優柔不断』(VOL.1)
http://www.soulsearchin.com/sports/french199906.html
死闘。
きわどいボールが赤土に映える白いライン上の粉を巻き上げる。第11ゲーム、ガウディオのサーヴィスゲームを再びコリアがブレイクし、コリアの6−5。コリアのサーヴィン・フォー・ザ・チャンピョンシップ。次にコリアがサーヴィスをキープすれば優勝だ。一ポイントごとに観客が固唾をのんで見守る。コリアは、足にトラブルがあることなど忘れて無我夢中でボールにくらいつく。超人的なパフォーマンスで、得意のダウンザラインを決め、コリアはついにチャンピョンシップ・ポイントを握る。あと一ポイントで優勝。トロフィーに片手がかかった。
チャンピョンシップ・ポイント一度目。ガウディオはこの瞬間、負けを覚悟したという。しかし、ガウディオにかわされデュース。もう一度コリアがポイントを取り、2度目のチャンピョンシップ・ポイント。しかし、再び、ガウディオが執念でポイントを取る。今度はガウディオがデュースから2ポイント連取し、ガウディオはこのゲームをブレイクして取り返し、6−6と試合を振り出しに戻したのだ。
解説の松岡修造が静かに言った。「もう、心技体といったものを超越してますね。そんなものは関係ない。魂と魂の戦いです」 その通りだった。出せる力をお互いが最大限出し切ったところで、ぶつかりあうソウルとソウルの戦い。まさに死闘だ。これは見ごたえがある。そして、今、勝利の女神はどちらに転ぶかまだ迷っているのだ。いつしか、観客もその瞬間に負けそうな方を、応援するようになっていた。
ファイナルはタイブレイクがないため、どちらかが必ず相手ゲームをブレイクしなければならない。第13ゲーム、ガウディオが40−15からポイントを決め、キープ、7−6。しかし、今度はコリアのサーヴィスゲーム。15−30から一ポイント取られ、15−40。しばらく前に自分が握ったチャンピョンシップ・ポイントをこんどは逆に相手に握られた。そして、最後、コリアが力尽きた。ガウディオが見事この3時間31分の死闘を制した。勝利の女神は、最後にガウディオに微笑んだ。
無欲。
ローランギャロスの歴史の中で、マッチポイントを握られてから逆転優勝したのは、1934年以来70年ぶりのことだという。つまりこうした大舞台では、最初にマッチポイントを握ったほうが、ほとんど勝つということだ。
ガウディオは言う。「子供の頃、いつかここに立って試合に勝てればいいと思っていた。だが、まさかグランドスラム(の決勝戦)にきて勝てるなどとは思ってもみなかった。自分(のテニススタイル)をどれほど変えたかもうわからないほどだ。何を一番変えたかさえも覚えてない。だが今、僕がわかっていることは、グランドスラムに勝ったということだけだ。たしかに、メンタル(精神的)な部分は多いに変えた。だからといって、グランドスラムに勝てるとは思わなかった」
一方のコリアは言う。「このフレンチオープンに優勝することをずっと夢見ていた。第3セットでものすごくナーヴァスになった。なぜなら、(あとワンセットとれば優勝ということを)今まで経験したことがなかったからだ。ここでの優勝は僕の人生の最大の夢だったんだ。だから、僕は最後まで戦った」
ガウディオはこの戦いをしてこう言った。「まるで、映画のようだったね」 ガウディオの勝利は、無欲の勝利だった。
超越。
表彰式。優勝トロフィー授与は、あのマッケンロー、そして、27年前アルゼンチンに優勝トロフィーを持ち帰ったヴィラスという粋な演出となった。コリアはずっと下を見たままじっと唇をかみしめている。言葉もでない。まず準優勝の盾がギレルモ・ヴィラスからギレルモ・コリアに渡された。ギレルモからギレルモへ。負けた者に渡される準優勝の盾。コリアはスピーチをするが、その言葉にはもはや魂ははいっていなかった。すべてを出し切り、体の中のソウルはローランギャロスの空の彼方に行っていたのだろう。一方、ガウディオはトロフィーを持ちながら「ヴィラスがいたから、僕はテニスを始めた」とスピーチをする中で、両親への感謝を口にしたときに、思わずこみあげ、タオルで目をぬぐった。そのとき、アルゼンチンの国民的ヒーロー、テニスの大先輩であるそのギレルモ・ヴィラスがやさしく彼の肩を抱いた。
アルゼンチンの国歌が流れ、国旗が真っ青な空に上がるところに、コリアの空虚な表情が映し出された。第3セットで勝てると思った彼。第4セットを終えた時、確信はなくなっていたかもしれない。しかし、マッチポイントを握った時に、再び勝てると思ったかもしれない。一方、ガウディオは決勝まで来たことさえ夢のようだった。ガウディオは言う。「まさか勝てるとは思わなかったけど、これからはもう少し自分を信じることができると思う」 彼はこの優勝で、次週のランキングが44位から一挙にベスト10、第10位になる。もちろん、生涯最高のランキングだ。
ヴィラスにあこがれテニスに打ち込んだ二人。その二人が最高の舞台で最高のパフォーマンスを見せ、そのあこがれの人物からトロフィーと盾を授与された。その意味では二人とも勝者といってもいい。そこに生まれたのは、まさに心技体を超越したソウルとソウルの熱き戦いだった。勝利の女神は本当に優柔不断だ。コリアには来年、優勝してもらおう。そして、そのときこそ、彼のソウル・サーチンの答えがでる瞬間だ。
(2004年6月6日日曜、ローランギャロス=フレンチオープン・男子シングルス決勝戦=コリア対ガウディオ)
『勝利の女神の優柔不断』(VOL.1)
http://www.soulsearchin.com/sports/french199906.html
生生粋粋。
舞台中央と右手に新しいハモンドのオルガンが2台。左手に旧式のハモンドが1台。3台がど〜んとおいてある。新しいものは、最新式だそう。まず登場したのが、ドラムスとギターと一番目のオルガン奏者、ジョーイ・デフランセスコ。白人の大柄なジョーイは、アニメのキャラクターにでもなりそうなほど。ブルースブラザースとか、ZZトップとか、なんかそんな南部のロッカーのような雰囲気。
いきなり中央のハモンドの前に座って演奏を始める。いい感じのファンキーだ。途中ドラムソロなどをはさみ長い一曲。その間、ジョーイのオルガンプレイが存分に。やはりオルガンの音がいい。
次に登場したのが、黒人のルーベン・ウィルソン。今までジョーイが座っていた同じオルガンに座る。サックスのメルヴィン・バトラーが加わる。そして、指が鍵盤に触れた瞬間、驚いた。これまでと同じオルガンを弾いたのに、なにかまったく違う音が飛び出してきたのだ。スイッチを変えて、音質を変えた、とかそういう類のことではない。触れた音が違うのだ。不思議。設定とか音源とかを変えるのかなあ。いや、そんなことは関係ないんだろうな。
今までも、同じ楽器を違うミュージシャンがやって、その音の違いに驚いたことはあった。ギターやピアノでそんなことを見てきた。しかし、このオルガンでもそういうことが起こるんだ。まあ、最初の数秒、ほんとにびっくりした。一体なんなんだろう。結局、音楽は楽器ではなく、ミュージシャンということなんでしょう。
ルーベンのオルガンは、一番ファンキーで、しかも生き生きしてて、しかも、粋粋してる。(冒頭の四文字熟語は、これからとりました。イキイキイキイキ、と読んでください) かっこいいなあ。
この2曲目が終ったところで、22時15分。ほぼ43分経過。一曲、長い。でも、全然飽きない。演奏力があるから、ずんずんこっちにくる。そして、いよいよ本日のメインイヴェント、ジミー・マグリフ! スタッフに抱えられて、舞台左手の旧式ハモンドオルガンまで座らされる。かなり足が弱っているようだ。
だが、指先の動きはしっかりしていた。ルーベンほどの速さと切れはなかったが、十分にファンキーで、洗練されていた。ここからは、3人がオルガンを弾く。3人のインタープレイは、誰がどの音をだしているかわからなくなるほど。これにサックス・ソロまではいる。サックスもオールドファッションで、しかし、いかにもジャズミュージシャンというびしっと決まったスーツでかっこいい。
しかし、このオルガン奏者を3人も集めるなんて企画、一体誰が考えたんですか。まいった。やはり、ミュージシャン力があるミュージシャンたちの生演奏は、まちがいない。
アンコールが終わり照明がついた。ジミーが又スタッフに抱えられて、ステージを下りようとしていた。ふと見るとその先は、車椅子に乗って店内を移動していた。ジミーは車椅子のオルガン奏者だったんだ。彼は68歳。リューベンは69歳で実は元気なルーベンの方が年はひとつ上ということになる。すごいな、車椅子に乗って、世界中演奏し歩くんだ。車椅子のミュージシャンでも、ソ〜〜〜〜・ファンキーに演奏できるわけです。
Setlist (曲名はブルーノートのウェッブより)
show started 21.32
1. TAKE THE COLTRANE (From Joey DeFrancesco CD "Ballads and Blues" - 2002)
2. DR. NO SHUFFLE (From Masters of Groove CD "Masters of Groove Meet Dr. No" - 2001)
3. GIRL TALK (From Jimmy McGriff Album "The Worm" -1968)
4. SLOW BLUES
5. I’VE GOT A WOMAN (From Jimmy McGriff Album "I’ve Got a Woman" - 1963
show ended 22.51
関連ページ。
http://www.bluenote.co.jp/art/20040607.html
(2004年6月7日月曜、ブルーノート東京セカンド=オルガン・サミット、ジミー・マグリフ、ルーベン・ウィルソン、ジョーイ・デフランセスコ・ライヴ)
舞台中央と右手に新しいハモンドのオルガンが2台。左手に旧式のハモンドが1台。3台がど〜んとおいてある。新しいものは、最新式だそう。まず登場したのが、ドラムスとギターと一番目のオルガン奏者、ジョーイ・デフランセスコ。白人の大柄なジョーイは、アニメのキャラクターにでもなりそうなほど。ブルースブラザースとか、ZZトップとか、なんかそんな南部のロッカーのような雰囲気。
いきなり中央のハモンドの前に座って演奏を始める。いい感じのファンキーだ。途中ドラムソロなどをはさみ長い一曲。その間、ジョーイのオルガンプレイが存分に。やはりオルガンの音がいい。
次に登場したのが、黒人のルーベン・ウィルソン。今までジョーイが座っていた同じオルガンに座る。サックスのメルヴィン・バトラーが加わる。そして、指が鍵盤に触れた瞬間、驚いた。これまでと同じオルガンを弾いたのに、なにかまったく違う音が飛び出してきたのだ。スイッチを変えて、音質を変えた、とかそういう類のことではない。触れた音が違うのだ。不思議。設定とか音源とかを変えるのかなあ。いや、そんなことは関係ないんだろうな。
今までも、同じ楽器を違うミュージシャンがやって、その音の違いに驚いたことはあった。ギターやピアノでそんなことを見てきた。しかし、このオルガンでもそういうことが起こるんだ。まあ、最初の数秒、ほんとにびっくりした。一体なんなんだろう。結局、音楽は楽器ではなく、ミュージシャンということなんでしょう。
ルーベンのオルガンは、一番ファンキーで、しかも生き生きしてて、しかも、粋粋してる。(冒頭の四文字熟語は、これからとりました。イキイキイキイキ、と読んでください) かっこいいなあ。
この2曲目が終ったところで、22時15分。ほぼ43分経過。一曲、長い。でも、全然飽きない。演奏力があるから、ずんずんこっちにくる。そして、いよいよ本日のメインイヴェント、ジミー・マグリフ! スタッフに抱えられて、舞台左手の旧式ハモンドオルガンまで座らされる。かなり足が弱っているようだ。
だが、指先の動きはしっかりしていた。ルーベンほどの速さと切れはなかったが、十分にファンキーで、洗練されていた。ここからは、3人がオルガンを弾く。3人のインタープレイは、誰がどの音をだしているかわからなくなるほど。これにサックス・ソロまではいる。サックスもオールドファッションで、しかし、いかにもジャズミュージシャンというびしっと決まったスーツでかっこいい。
しかし、このオルガン奏者を3人も集めるなんて企画、一体誰が考えたんですか。まいった。やはり、ミュージシャン力があるミュージシャンたちの生演奏は、まちがいない。
アンコールが終わり照明がついた。ジミーが又スタッフに抱えられて、ステージを下りようとしていた。ふと見るとその先は、車椅子に乗って店内を移動していた。ジミーは車椅子のオルガン奏者だったんだ。彼は68歳。リューベンは69歳で実は元気なルーベンの方が年はひとつ上ということになる。すごいな、車椅子に乗って、世界中演奏し歩くんだ。車椅子のミュージシャンでも、ソ〜〜〜〜・ファンキーに演奏できるわけです。
Setlist (曲名はブルーノートのウェッブより)
show started 21.32
1. TAKE THE COLTRANE (From Joey DeFrancesco CD "Ballads and Blues" - 2002)
2. DR. NO SHUFFLE (From Masters of Groove CD "Masters of Groove Meet Dr. No" - 2001)
3. GIRL TALK (From Jimmy McGriff Album "The Worm" -1968)
4. SLOW BLUES
5. I’VE GOT A WOMAN (From Jimmy McGriff Album "I’ve Got a Woman" - 1963
show ended 22.51
関連ページ。
http://www.bluenote.co.jp/art/20040607.html
(2004年6月7日月曜、ブルーノート東京セカンド=オルガン・サミット、ジミー・マグリフ、ルーベン・ウィルソン、ジョーイ・デフランセスコ・ライヴ)
未発表曲。
いよいよダニー・ハザウェイの未発表作品を含むアルバムがリリースされる。全米で6月8日に発売された『ディーズ・ソングス・フォー・ユー・ライヴ』がそれ。トラックリストは次の通り。日本発売は未定。
このライヴは、72年のアルバム『ライヴ』と80年の『イン・パーソン』からの作品に未発表作品を加え編纂した。
ダニーのライヴ盤はすでに名盤として知られているが、ここには過去のライヴ盤に収録されていないヴァージョンが6曲収録されている。中でも注目されるのは、スティーヴィー・ワンダーの作品「スーパーウーマン」。ダニーがスティーヴィーの作品を録音しているという点でも興味深い。このほかにビートルズの「イエスタデイ」、ホリーズの「ヒー・エイント・ヘヴィー・・・」などのカヴァーも収録される。また、一番最後にダニーのインタヴューも収録されているが、これは、1973年にニューヨークのラジオ局WBLSで行われたものから。
また、ダニーの作品に関しては、このライヴ同様に未発表音源を含む『アンソロジー』の編纂がほぼ終了しているが、いくつかの理由によって発売が延期されている。その理由のひとつが、ロバータ・フラックからのアプルーヴ(許可)が取れないことらしい。
Donny Hathaway : These Songs For You, Live!
Rhino 78075 / Release June 8, 2004
1. Flying Easy - (previously unreleased)
2. Valdez In The Country - (previously unreleased)
3. Someday We’ll All Be Free - (previously unreleased)
4. You’ve Got A Friend
5. He Ain’t Heavy, He’s My Brother - (previously unreleased)
6. What’s Goin’ On
7. Yesterday - (previously unreleased)
8. Superwoman - (previously unreleased)
9. A Song For You
10. Sack Full Of Dreams
11. Little Ghetto Boy
12. I Love You More Than You’ll Ever Know
13. The Ghetto
14. Interview - (previously unreleased)
http://www.cduniverse.com/productinfo.asp?style=MUSIC&;pid=6737495&cart=187776004
ちなみに、72年発売の『ライヴ』と80年の『イン・パーソン』のトラックリストは次の通り。
Live
1. What’s Going On (Benson/Cleveland/Gaye) - 5:18
2. The Ghetto (Hathaway/Huston) - 12:08
3. Hey Girl (Derouen) - 4:03
4. You’ve Got a Friend (King) - 4:34
5. Little Ghetto Boy (Derouen/Howard) - 4:29
6. We’re Still Friends (Hathaway/Watts) - 5:12
7. Jealous Guy (Lennon) - 3:08
8. Voices Inside (Everything Is Everything) (Evans/Powell/Upchurch) - 13:47
In Performance
1. To Be Young, Gifted and Black (Irvine/Simone) - 8:23
2. A Song for You (Russell) - 5:54
3. Nu-Po (Hathaway) - 7:06
4. I Love You More Than You’ll Ever Know (Kooper) - 5:57
5. We Need You Right Now (Hathaway) - 7:56
6. Sack Full of Dreams (McFarland/Savary) - 5:34
いよいよダニー・ハザウェイの未発表作品を含むアルバムがリリースされる。全米で6月8日に発売された『ディーズ・ソングス・フォー・ユー・ライヴ』がそれ。トラックリストは次の通り。日本発売は未定。
このライヴは、72年のアルバム『ライヴ』と80年の『イン・パーソン』からの作品に未発表作品を加え編纂した。
ダニーのライヴ盤はすでに名盤として知られているが、ここには過去のライヴ盤に収録されていないヴァージョンが6曲収録されている。中でも注目されるのは、スティーヴィー・ワンダーの作品「スーパーウーマン」。ダニーがスティーヴィーの作品を録音しているという点でも興味深い。このほかにビートルズの「イエスタデイ」、ホリーズの「ヒー・エイント・ヘヴィー・・・」などのカヴァーも収録される。また、一番最後にダニーのインタヴューも収録されているが、これは、1973年にニューヨークのラジオ局WBLSで行われたものから。
また、ダニーの作品に関しては、このライヴ同様に未発表音源を含む『アンソロジー』の編纂がほぼ終了しているが、いくつかの理由によって発売が延期されている。その理由のひとつが、ロバータ・フラックからのアプルーヴ(許可)が取れないことらしい。
Donny Hathaway : These Songs For You, Live!
Rhino 78075 / Release June 8, 2004
1. Flying Easy - (previously unreleased)
2. Valdez In The Country - (previously unreleased)
3. Someday We’ll All Be Free - (previously unreleased)
4. You’ve Got A Friend
5. He Ain’t Heavy, He’s My Brother - (previously unreleased)
6. What’s Goin’ On
7. Yesterday - (previously unreleased)
8. Superwoman - (previously unreleased)
9. A Song For You
10. Sack Full Of Dreams
11. Little Ghetto Boy
12. I Love You More Than You’ll Ever Know
13. The Ghetto
14. Interview - (previously unreleased)
http://www.cduniverse.com/productinfo.asp?style=MUSIC&;pid=6737495&cart=187776004
ちなみに、72年発売の『ライヴ』と80年の『イン・パーソン』のトラックリストは次の通り。
Live
1. What’s Going On (Benson/Cleveland/Gaye) - 5:18
2. The Ghetto (Hathaway/Huston) - 12:08
3. Hey Girl (Derouen) - 4:03
4. You’ve Got a Friend (King) - 4:34
5. Little Ghetto Boy (Derouen/Howard) - 4:29
6. We’re Still Friends (Hathaway/Watts) - 5:12
7. Jealous Guy (Lennon) - 3:08
8. Voices Inside (Everything Is Everything) (Evans/Powell/Upchurch) - 13:47
In Performance
1. To Be Young, Gifted and Black (Irvine/Simone) - 8:23
2. A Song for You (Russell) - 5:54
3. Nu-Po (Hathaway) - 7:06
4. I Love You More Than You’ll Ever Know (Kooper) - 5:57
5. We Need You Right Now (Hathaway) - 7:56
6. Sack Full of Dreams (McFarland/Savary) - 5:34
Curry Soul
2004年6月11日カリーソウル。
『フィールン・ソウル』には最近毎週ゲストが来るようになったのですが、先日の収録に登場したのは、カリー番長の水野さん。黒沢さんたっての希望で、4月からずっと出演を依頼していたのですが、まったく連絡つかず、やっと6月19日に登場です。カリー番長というのは、おいしい料理と音楽をお届けするユニット。そのメンバーのひとりが水野さんです。
ま、なんで連絡つかなかったのかといえば、一月ほど、ずっとインドの方にカリー・サーチンの旅に行かれていたそうで。そりゃあ、連絡できないわ。(笑) しかし、改めて思い知らされました。黒沢さんも、水野さんも、ひとつのことを極めるのはすばらしい! マニアックもここまで行けば、立派なもの。マニアもある域に達すると、初心者にもわかりやすくさまざまなことを説明し、しかも、いつのまにか、その世界に入りこみたくなるような気持ちにさせられるというワザをお持ちです。まいりました。
聞き手となった安岡さんも、しきりに感心。僕も、横で「へえええっ〜〜〜」を連発です。カレー奥深いなあ〜〜。収録後、当然近くにカレー食べに行くことになりますわな。
で、水野さん、なんと無類のソウル好きときた。若干ネタばれになりますが、水野さんが選んだ2曲のうち1曲はアル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」。黒沢さん曰く「いやあ、カリーとソウルはあいますよ。特に、こういう軽いのは。他にも、マーヴィン・ゲイとか・・・。あ、ルーサーもあうあう」。
水野さん。「一時期、コンピレーションで『フリー・ソウル』って流行ったでしょう。で、思いついたんですよ。カリーを食べる時にぴったりのソウルを集めたコンピ、『カリー・ソウル』っていうの、作りたいんですよ」 「おおお、それ、いいね、いいね」 『カリー・ソウル』か・・・。いいタイトルだ・・・。黒沢さん「ソウルとカリーはあうんですよ」をさらに力説。ちょうど、そんなところに、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」が、しばらくして、「レッツ・ステイ・トゥゲザー」が店で流れる。話、聞かれてました。(笑) そして、納得。
そして、僕が前々から思っていた疑問を尋ねました。それは、三田・魚藍坂にある「水をださない」ということを売りにしているカレー屋さんのこと。そこはかなり本格的なカレーを出すらしいのですが、主人の方針で水を出さないというんです。それが、表の看板にでてる。で、一度、行ってやろう、と思ってるわけですが・・・。しかし、辛くて水が飲めないとなると・・・と若干躊躇しているわけです。そこで、思いついた。自分でバッグにそっとペットボトルの水を忍ばせて、辛くなったら密かに飲む、と。
「自分で、ペットボトルもってって飲んだら、どうなるんでしょう」と尋ねました。水野さん、「だめでしょう。許されないと思います(笑)」 へえ〜〜。ふ〜〜む。一度、対決に行きたいな。さらに付け加えてこういいます。「食べ終わって、帰るときにも、胃によくないですから、この後しばらく、冷たいもの、お水とかも飲まないでくださいね、って(客に)釘さすんですよ。でもね、その店、カレー出した後に、最後にデザートで冷たいアイスクリームだすんですよ〜〜。おかしくない? (笑)」 「ほおおおお」 ますます興味、わいた。
よし、わかった。絶対、ペットボトル隠し持って行ってやろうじゃないの。(笑) 水飲んだら、「でてけ」とかって言われるのかなあ。で、激しく喧嘩とかになったら、その時、御代はどうなるのだろう。
+++
東京カリー番長のウェッブ。blogにとぶようになっています。
www.tokyo-curry.com
『フィールン・ソウル』には最近毎週ゲストが来るようになったのですが、先日の収録に登場したのは、カリー番長の水野さん。黒沢さんたっての希望で、4月からずっと出演を依頼していたのですが、まったく連絡つかず、やっと6月19日に登場です。カリー番長というのは、おいしい料理と音楽をお届けするユニット。そのメンバーのひとりが水野さんです。
ま、なんで連絡つかなかったのかといえば、一月ほど、ずっとインドの方にカリー・サーチンの旅に行かれていたそうで。そりゃあ、連絡できないわ。(笑) しかし、改めて思い知らされました。黒沢さんも、水野さんも、ひとつのことを極めるのはすばらしい! マニアックもここまで行けば、立派なもの。マニアもある域に達すると、初心者にもわかりやすくさまざまなことを説明し、しかも、いつのまにか、その世界に入りこみたくなるような気持ちにさせられるというワザをお持ちです。まいりました。
聞き手となった安岡さんも、しきりに感心。僕も、横で「へえええっ〜〜〜」を連発です。カレー奥深いなあ〜〜。収録後、当然近くにカレー食べに行くことになりますわな。
で、水野さん、なんと無類のソウル好きときた。若干ネタばれになりますが、水野さんが選んだ2曲のうち1曲はアル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」。黒沢さん曰く「いやあ、カリーとソウルはあいますよ。特に、こういう軽いのは。他にも、マーヴィン・ゲイとか・・・。あ、ルーサーもあうあう」。
水野さん。「一時期、コンピレーションで『フリー・ソウル』って流行ったでしょう。で、思いついたんですよ。カリーを食べる時にぴったりのソウルを集めたコンピ、『カリー・ソウル』っていうの、作りたいんですよ」 「おおお、それ、いいね、いいね」 『カリー・ソウル』か・・・。いいタイトルだ・・・。黒沢さん「ソウルとカリーはあうんですよ」をさらに力説。ちょうど、そんなところに、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」が、しばらくして、「レッツ・ステイ・トゥゲザー」が店で流れる。話、聞かれてました。(笑) そして、納得。
そして、僕が前々から思っていた疑問を尋ねました。それは、三田・魚藍坂にある「水をださない」ということを売りにしているカレー屋さんのこと。そこはかなり本格的なカレーを出すらしいのですが、主人の方針で水を出さないというんです。それが、表の看板にでてる。で、一度、行ってやろう、と思ってるわけですが・・・。しかし、辛くて水が飲めないとなると・・・と若干躊躇しているわけです。そこで、思いついた。自分でバッグにそっとペットボトルの水を忍ばせて、辛くなったら密かに飲む、と。
「自分で、ペットボトルもってって飲んだら、どうなるんでしょう」と尋ねました。水野さん、「だめでしょう。許されないと思います(笑)」 へえ〜〜。ふ〜〜む。一度、対決に行きたいな。さらに付け加えてこういいます。「食べ終わって、帰るときにも、胃によくないですから、この後しばらく、冷たいもの、お水とかも飲まないでくださいね、って(客に)釘さすんですよ。でもね、その店、カレー出した後に、最後にデザートで冷たいアイスクリームだすんですよ〜〜。おかしくない? (笑)」 「ほおおおお」 ますます興味、わいた。
よし、わかった。絶対、ペットボトル隠し持って行ってやろうじゃないの。(笑) 水飲んだら、「でてけ」とかって言われるのかなあ。で、激しく喧嘩とかになったら、その時、御代はどうなるのだろう。
+++
東京カリー番長のウェッブ。blogにとぶようになっています。
www.tokyo-curry.com
(速報)レイ・チャールズ死去
2004年6月11日ソウル、ゴスペル、R&Bシンガーとして50年代から現在まで活躍してきたヴェテラン、レイ・チャールズが6月10日(木曜)、ビヴァリーヒルズの自宅で家族に看取られ、死去した。73歳だった。
詳細は、のちほど。
詳細は、のちほど。
Soul Legend Ray Charles Died At 73
2004年6月12日創始者。
「ソウルのオリジネイター」「ソウルの創始者」など様々な異名を持ち、アメリカの黒人音楽シーンに最大級の影響を与えたヴェテラン・ソウル・シンガー、レイ・チャールズが6月10日(木曜)午前11時35分、カリフォルニア州ビヴァリーヒルズの自宅で家族、親しい友人らに看取られながら肝疾患のため死去した。73歳だった。レイ・チャールズは、2003年7月、過去53年のエンタテイナーとしての歴史の中で体調不良を理由に初めてコンサートをキャンセル。以後、入退院を繰り返していた。同年5月には、10000回目のコンサートを行っていた。http://diarynote.jp/d/32970/20030810.html
レイ・チャールズが最後に表舞台に出たのは去る4月30日、チャールズが40年前に建てたスタジオが、ロスアンジェルスの記念建築物になった式典でのこと。このときは、映画俳優クリント・イーストウッドとともに車椅子で登場した。また、チャールズは、イーストウッドが監督したテレビ・ドキュメンタリー『ピアノ・ブルーズ』http://diarynote.jp/d/32970/20030929.htmlに、イーストウッドと並んで登場している。
現在、レイ・チャールズの生涯を描いた映画『レイ』が製作されており、これは10月頃に公開が予定されている。この主演はジェイミー・フォックス。
レイ・チャールズは今年までレコーディングを続けていた。最新作は8月にリリースされる『ジニアス・ラヴズ・カンパニー(天才は仲間が大好き)』で、ここにはウィリー・ネルソン、ノラ・ジョーンズ、BBキングなどがデュエットで参加している。ネルソンは先月チャールズと、フランク・シナトラのヒットでおなじみの「イット・ウォズ・ア・ヴェリー・グッドイヤー」をレコーディング。「私は最高の親友の一人を失った。彼がしのばれる。(レコーディングの)一日、彼とは本当に楽しいひと時を過ごした」とコメントしている。
+++
レイ・チャールズは、1930年9月23日、アメリカ深南部ジョージア州アルバニー生まれ。7歳で失明、15歳で孤児となり、苦労を重ねミュージシャンとして自立。1949年、18歳のときに自身が組んだ「マキシン・トリオ」としてレコーディングした「コンフェッション・ブルーズ」が初ヒット。その後、55年、レイ・チャールズとして「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」の大ヒットで一躍注目された。以後、「ホワッド・アイ・セイ」(59年)、「ジョージア・オン・マイ・マインド」(60年)、「ヒット・ザ・ロード・ジャック」(61年)、「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」(62年)など多数のヒットを放ち、世界的なスターとなった。
特に黒人教会音楽であるゴスペルと黒人の世俗的音楽であるブルーズを融合させ、新たに「ソウル・ミュージック」と呼ばれる音楽を生み出した最大の功労者でもある。さらに、ひとつのジャンルにとらわれず、ロック、ソウル、カントリー、ジャズ、ビッグバンドなどさまざまなタイプの音楽を、独自の解釈で歌い、レイ・チャールズ節を聴かせファンを魅了した。映画、テレビ出演も多数。特に映画『ブルース・ブラザース』での演奏ぶりは、大きな注目を集めた。年に300本以上のライヴを行っていた時期もあり、ライヴ、レコーディングと休むひまもなく仕事をしていた。60年代には、ドラッグ中毒になりリハビリテーションのため約1年ほど仕事を休止したこともあった。来日も多数。また、89年暮れ日本のCMのために、サザン・オールスターズの大ヒット「いとしのエリー」を英語でカヴァーし、ヒットさせている。
詳しい評伝は、次へ。
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html
+++++
続々と各界からメッセージが届いている。クインシー・ジョーンズ。「レイほど、音楽ジャンルを超越した人物はいない。これからもそのような人物は現れないだろう。彼は、あらゆる意味で私のブラザー(兄弟)だ」
アレサ・フランクリン。「彼の声は生涯の声(Voice Of A Lifetime)。彼はすばらしい人物であり、ユーモアたっぷりで、そしてもちろん、偉大なアーティスト。世俗的なソウルの歌を世界に広めた人物」
ジェームス・ブラウン。「彼は、やさしく、ゴージャスで、すばらしい人物。彼の音楽、人となりを知るあらゆる人にとって、ロールモデル(模範的なモデル)だった。私は天才を尊敬する」
同業のピアノマン、ビリー・ジョエル。「レイ・チャールズは、真のアメリカのオリジナルだった。彼が、リズム&ブルース、ソウル、オーセンティックなロックン・ロールを確立したのだ」
チャールズは、2度離婚、7人以上の女性との間に12人の子供がいる、という。彼は、その12人の子供、20人の孫、5人のひ孫などによって送られる。葬儀は来週、ロスアンジェルスのファーストAME教会で行われ、その後イングルウッド墓地に埋葬される。
レイ・チャールズはかつて自身の音楽についてこう答えた。「私は、人々を楽しませるために音楽をやっている。なぜなら、人々が私の音楽を愛してくれているからだ。彼らが私の音楽に反応してくれ、私もそれが気に入っている。人々が私をハッピーにさせてくれる、だから、私も人々をハッピーにさせるんだ」
(レイ・チャールズに関する個人的な原稿は明日載せます)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
レイ・チャールズ死去の各紙・記事。
http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%a5%ec%a5%a4%a1%a6%a5%c1%a5%e3%a1%bc%a5%eb%a5%ba&to=0&or=0&b=1&st=n&pt=1
毎日新聞記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040611-00001028-mai-peo
レイ・チャールズ・バイオグラフィー(評伝)。DVDソフト『ジーニアス・オブ・ソウル』のライナーノーツ。
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html
レイ・チャールズの曲が使われるショートストーリー。
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray20021122.html
+++
「ソウルのオリジネイター」「ソウルの創始者」など様々な異名を持ち、アメリカの黒人音楽シーンに最大級の影響を与えたヴェテラン・ソウル・シンガー、レイ・チャールズが6月10日(木曜)午前11時35分、カリフォルニア州ビヴァリーヒルズの自宅で家族、親しい友人らに看取られながら肝疾患のため死去した。73歳だった。レイ・チャールズは、2003年7月、過去53年のエンタテイナーとしての歴史の中で体調不良を理由に初めてコンサートをキャンセル。以後、入退院を繰り返していた。同年5月には、10000回目のコンサートを行っていた。http://diarynote.jp/d/32970/20030810.html
レイ・チャールズが最後に表舞台に出たのは去る4月30日、チャールズが40年前に建てたスタジオが、ロスアンジェルスの記念建築物になった式典でのこと。このときは、映画俳優クリント・イーストウッドとともに車椅子で登場した。また、チャールズは、イーストウッドが監督したテレビ・ドキュメンタリー『ピアノ・ブルーズ』http://diarynote.jp/d/32970/20030929.htmlに、イーストウッドと並んで登場している。
現在、レイ・チャールズの生涯を描いた映画『レイ』が製作されており、これは10月頃に公開が予定されている。この主演はジェイミー・フォックス。
レイ・チャールズは今年までレコーディングを続けていた。最新作は8月にリリースされる『ジニアス・ラヴズ・カンパニー(天才は仲間が大好き)』で、ここにはウィリー・ネルソン、ノラ・ジョーンズ、BBキングなどがデュエットで参加している。ネルソンは先月チャールズと、フランク・シナトラのヒットでおなじみの「イット・ウォズ・ア・ヴェリー・グッドイヤー」をレコーディング。「私は最高の親友の一人を失った。彼がしのばれる。(レコーディングの)一日、彼とは本当に楽しいひと時を過ごした」とコメントしている。
+++
レイ・チャールズは、1930年9月23日、アメリカ深南部ジョージア州アルバニー生まれ。7歳で失明、15歳で孤児となり、苦労を重ねミュージシャンとして自立。1949年、18歳のときに自身が組んだ「マキシン・トリオ」としてレコーディングした「コンフェッション・ブルーズ」が初ヒット。その後、55年、レイ・チャールズとして「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」の大ヒットで一躍注目された。以後、「ホワッド・アイ・セイ」(59年)、「ジョージア・オン・マイ・マインド」(60年)、「ヒット・ザ・ロード・ジャック」(61年)、「アイ・キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」(62年)など多数のヒットを放ち、世界的なスターとなった。
特に黒人教会音楽であるゴスペルと黒人の世俗的音楽であるブルーズを融合させ、新たに「ソウル・ミュージック」と呼ばれる音楽を生み出した最大の功労者でもある。さらに、ひとつのジャンルにとらわれず、ロック、ソウル、カントリー、ジャズ、ビッグバンドなどさまざまなタイプの音楽を、独自の解釈で歌い、レイ・チャールズ節を聴かせファンを魅了した。映画、テレビ出演も多数。特に映画『ブルース・ブラザース』での演奏ぶりは、大きな注目を集めた。年に300本以上のライヴを行っていた時期もあり、ライヴ、レコーディングと休むひまもなく仕事をしていた。60年代には、ドラッグ中毒になりリハビリテーションのため約1年ほど仕事を休止したこともあった。来日も多数。また、89年暮れ日本のCMのために、サザン・オールスターズの大ヒット「いとしのエリー」を英語でカヴァーし、ヒットさせている。
詳しい評伝は、次へ。
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html
+++++
続々と各界からメッセージが届いている。クインシー・ジョーンズ。「レイほど、音楽ジャンルを超越した人物はいない。これからもそのような人物は現れないだろう。彼は、あらゆる意味で私のブラザー(兄弟)だ」
アレサ・フランクリン。「彼の声は生涯の声(Voice Of A Lifetime)。彼はすばらしい人物であり、ユーモアたっぷりで、そしてもちろん、偉大なアーティスト。世俗的なソウルの歌を世界に広めた人物」
ジェームス・ブラウン。「彼は、やさしく、ゴージャスで、すばらしい人物。彼の音楽、人となりを知るあらゆる人にとって、ロールモデル(模範的なモデル)だった。私は天才を尊敬する」
同業のピアノマン、ビリー・ジョエル。「レイ・チャールズは、真のアメリカのオリジナルだった。彼が、リズム&ブルース、ソウル、オーセンティックなロックン・ロールを確立したのだ」
チャールズは、2度離婚、7人以上の女性との間に12人の子供がいる、という。彼は、その12人の子供、20人の孫、5人のひ孫などによって送られる。葬儀は来週、ロスアンジェルスのファーストAME教会で行われ、その後イングルウッド墓地に埋葬される。
レイ・チャールズはかつて自身の音楽についてこう答えた。「私は、人々を楽しませるために音楽をやっている。なぜなら、人々が私の音楽を愛してくれているからだ。彼らが私の音楽に反応してくれ、私もそれが気に入っている。人々が私をハッピーにさせてくれる、だから、私も人々をハッピーにさせるんだ」
(レイ・チャールズに関する個人的な原稿は明日載せます)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
レイ・チャールズ死去の各紙・記事。
http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%a5%ec%a5%a4%a1%a6%a5%c1%a5%e3%a1%bc%a5%eb%a5%ba&to=0&or=0&b=1&st=n&pt=1
毎日新聞記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040611-00001028-mai-peo
レイ・チャールズ・バイオグラフィー(評伝)。DVDソフト『ジーニアス・オブ・ソウル』のライナーノーツ。
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html
レイ・チャールズの曲が使われるショートストーリー。
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray20021122.html
+++
スタンプ。
映画『ミスティック・リヴァー』の製作の合間をぬって、クリント・イーストウッドはマーティン・スコセッシーの要請で、ブルースの音楽ドキュメント7本のうちの一本『ザ・ピアノ・ブルーズ』を完成させる。このドキュメンタリーのハイライトは、レイ・チャールズだ。http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030928.html
冒頭、イーストウッドがグランドピアノをぽろぽろと弾いている。そこに車から降りて、付き人に手を引かれスタジオ内にレイ・チャールズがやってくる。長身のイーストウッドと比べるとチャールズは、かなり小さく見える。グランドピアノに並んで座り、イーストウッドがインタヴューする。チャールズが昔話を始める。
イーストウッドが「どのようにピアノを始めたのですか」と訊く。レイが答える。「ワシが3歳のときのことだ。近所にいわゆる雑貨店があってな、なんでも売ってるような、そこの主人がピアノを弾いたんだ。で、なぜかわからんが、その彼がピアノを弾くのを見るのが大好きで、ものすごく惹かれたんだ。椅子の上に乗って、なんとか(鍵盤を)叩いたりするんだが、適当にね。するとその主人が『違う、違う。こうやって、こっち(右手)でメロディーを弾くんだ』みたいなことを教えてくれた」 彼の目には、その主人がピアノを弾く姿が鮮明に記憶されている。咳き込みながら、チャールズは語りつづける。(このドキュメンタリーは日本では劇場公開はされませんが、なんらかの形で公開される予定です)
彼はその3歳のとき以来、ずっと70年間、ピアノを弾き続けた。チャールズはしかし、その4年後、緑内障が原因で失明。以来、ずっと暗黒の世界に生きてきた。だが、彼には目が見える人にも見えないものが見えていた。
レイ・チャールズの元で働いていたスタッフがチャールズの自伝『ブラザー・レイ』の著者、デイヴィッド・リッツにこんな話をしている。「(レイ・)チャールズさんに何か話をしなければならないときには、いつも、(話すことを)紙に書いてから行ってました。そうしないと、何も言えなくなってしまうんです。彼が私を見ると、私は固まってしまう。まるで、私のすべてを見透かしているような感じがするのです」
リッツも、盲目の人と話をすることのむずかしさを述べている。つまり、普段僕たちが会話をするときは、相手を見て、口から出る言葉以外のもの、ボディーランゲージであったり、目や顔の表情から得る情報が無意識のうちに役立っているのだ。しかし、チャールズと話すときは、つねに黒光りするサングラス相手なので、どうしてもわからないことが多い、という。(デイヴィッド・リッツと、レイについては http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/interview/ritz19940509.html へ)
レイ・チャールズのライヴは何回か見たことがある。よく覚えているのは89年暮れ新宿厚生年金ホール、ちょうど「いとしのエリー」がCMで使われてヒットした頃のライヴだ。その頃、レイは毎年12月に決まったように来日していた。思ったのは、とても音が小さなライヴだな、ということ。そして、曲が次々と、しかも淡々と歌われるショウだった。ところが、一番最後に「いとしのエリー」をやったときには、なぜか急にぐっときた。それまでの流れでただやってきていたライヴが一瞬にして輝きを見せたのだ。ブラザー・レイは、ほとんど、完璧に自分のものにしていた。おそらくその時点でもたいした回数は歌っていなかったはずなのに。逆にあまり回数歌っていなかったから、新鮮だったのか。
92年2月、レイ・チャールズのドキュメンタリー『ジニアス・オブ・ソウル』の解説を書くために、かなり膨大な資料を読んだ。そのときに、レイ・チャールズの偉大さを改めて知った。これは、その後99年にDVD化されている。(解説は本ウェッブに掲載。内容は、その原稿をじっくりごらんください。http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html ) これを書いた時点では、リッツの書いた『ブラザー・レイ』の本を持っていなかったが、同じ年の10月にようやくソフトカヴァーで入手することができた。DVD化されたときに、原稿を若干加筆訂正したが、それはこの本のおかげもあった。
僕は残念ながらレイ・チャールズにインタヴューしたことがない。最高に接近したのは、たしか目黒のブルースアレーでのこと。来日したときに、何かの記者会見かちょっとしたライヴを見せたときだったと思う。お店が小さかったので、すぐ目の前にブラザー・レイがいたのを強烈に覚えている。確かに、あまり大きくなかった。
その後も、ライヴを多分なんどか見たかもしれないが(やはり、ずっと日記を書いておけばよかったと思う=(笑))、最後に見たのは2000年7月のカナダ・モントリオールだった。やはり、音が小さかった。音が小さいので、集中してしまうのだが。
年に300本もライヴを行うということは、ライヴが人生そのものになっている、と言ってもいい。会場から会場へ。しかし、常に一定の水準のライヴを見せる。そのショウは、職人たちのショウとして完成している。
レイ・チャールズの音楽を聴いてもっとも感じること、それは彼がアーティストとして恐ろしいほどの「柔軟性」「吸収性」を持っているということだ。ブルーズだけにとどまらず、それをゴスペルと融合させたり、カントリーやポップを歌ったり、世界中のあらゆる音楽を自分の音楽の中に吸収しようとした。その貪欲さこそが天才の原点だと思う。しかも、それをほとんどすべて、自分の音楽「レイ・チャールズ・ミュージック」にしてしまう。あらゆる音楽に「レイ・チャールズ」というスタンプを押してしまうのだ。
ブルースとゴスペルをあわせて、当時はまだ名前もジャンルもなかったソウル・ミュージックという名の音楽を作った。音楽ジャンルをひとつ作ってしまったのだから、偉大という言葉以外思いつかない。
彼の体は小さかったが、成し遂げたことはあまりに大きい。失明、孤児、黒人、そして貧困。これ以上の四重苦はない。孤独と絶望の淵から世界の頂上に這い上がったブラザー・レイ。そのバネの強さは尋常ではない。彼が持っていた武器はただひとつ、音楽だ。空気を吸い、水を飲み、食事をするように、彼は音楽を栄養にして成長し、それは彼の体の一部になった。そしてその音楽の力で彼は世界を手にしたのだ。
(Part 2)に続く
映画『ミスティック・リヴァー』の製作の合間をぬって、クリント・イーストウッドはマーティン・スコセッシーの要請で、ブルースの音楽ドキュメント7本のうちの一本『ザ・ピアノ・ブルーズ』を完成させる。このドキュメンタリーのハイライトは、レイ・チャールズだ。http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030928.html
冒頭、イーストウッドがグランドピアノをぽろぽろと弾いている。そこに車から降りて、付き人に手を引かれスタジオ内にレイ・チャールズがやってくる。長身のイーストウッドと比べるとチャールズは、かなり小さく見える。グランドピアノに並んで座り、イーストウッドがインタヴューする。チャールズが昔話を始める。
イーストウッドが「どのようにピアノを始めたのですか」と訊く。レイが答える。「ワシが3歳のときのことだ。近所にいわゆる雑貨店があってな、なんでも売ってるような、そこの主人がピアノを弾いたんだ。で、なぜかわからんが、その彼がピアノを弾くのを見るのが大好きで、ものすごく惹かれたんだ。椅子の上に乗って、なんとか(鍵盤を)叩いたりするんだが、適当にね。するとその主人が『違う、違う。こうやって、こっち(右手)でメロディーを弾くんだ』みたいなことを教えてくれた」 彼の目には、その主人がピアノを弾く姿が鮮明に記憶されている。咳き込みながら、チャールズは語りつづける。(このドキュメンタリーは日本では劇場公開はされませんが、なんらかの形で公開される予定です)
彼はその3歳のとき以来、ずっと70年間、ピアノを弾き続けた。チャールズはしかし、その4年後、緑内障が原因で失明。以来、ずっと暗黒の世界に生きてきた。だが、彼には目が見える人にも見えないものが見えていた。
レイ・チャールズの元で働いていたスタッフがチャールズの自伝『ブラザー・レイ』の著者、デイヴィッド・リッツにこんな話をしている。「(レイ・)チャールズさんに何か話をしなければならないときには、いつも、(話すことを)紙に書いてから行ってました。そうしないと、何も言えなくなってしまうんです。彼が私を見ると、私は固まってしまう。まるで、私のすべてを見透かしているような感じがするのです」
リッツも、盲目の人と話をすることのむずかしさを述べている。つまり、普段僕たちが会話をするときは、相手を見て、口から出る言葉以外のもの、ボディーランゲージであったり、目や顔の表情から得る情報が無意識のうちに役立っているのだ。しかし、チャールズと話すときは、つねに黒光りするサングラス相手なので、どうしてもわからないことが多い、という。(デイヴィッド・リッツと、レイについては http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/interview/ritz19940509.html へ)
レイ・チャールズのライヴは何回か見たことがある。よく覚えているのは89年暮れ新宿厚生年金ホール、ちょうど「いとしのエリー」がCMで使われてヒットした頃のライヴだ。その頃、レイは毎年12月に決まったように来日していた。思ったのは、とても音が小さなライヴだな、ということ。そして、曲が次々と、しかも淡々と歌われるショウだった。ところが、一番最後に「いとしのエリー」をやったときには、なぜか急にぐっときた。それまでの流れでただやってきていたライヴが一瞬にして輝きを見せたのだ。ブラザー・レイは、ほとんど、完璧に自分のものにしていた。おそらくその時点でもたいした回数は歌っていなかったはずなのに。逆にあまり回数歌っていなかったから、新鮮だったのか。
92年2月、レイ・チャールズのドキュメンタリー『ジニアス・オブ・ソウル』の解説を書くために、かなり膨大な資料を読んだ。そのときに、レイ・チャールズの偉大さを改めて知った。これは、その後99年にDVD化されている。(解説は本ウェッブに掲載。内容は、その原稿をじっくりごらんください。http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html ) これを書いた時点では、リッツの書いた『ブラザー・レイ』の本を持っていなかったが、同じ年の10月にようやくソフトカヴァーで入手することができた。DVD化されたときに、原稿を若干加筆訂正したが、それはこの本のおかげもあった。
僕は残念ながらレイ・チャールズにインタヴューしたことがない。最高に接近したのは、たしか目黒のブルースアレーでのこと。来日したときに、何かの記者会見かちょっとしたライヴを見せたときだったと思う。お店が小さかったので、すぐ目の前にブラザー・レイがいたのを強烈に覚えている。確かに、あまり大きくなかった。
その後も、ライヴを多分なんどか見たかもしれないが(やはり、ずっと日記を書いておけばよかったと思う=(笑))、最後に見たのは2000年7月のカナダ・モントリオールだった。やはり、音が小さかった。音が小さいので、集中してしまうのだが。
年に300本もライヴを行うということは、ライヴが人生そのものになっている、と言ってもいい。会場から会場へ。しかし、常に一定の水準のライヴを見せる。そのショウは、職人たちのショウとして完成している。
レイ・チャールズの音楽を聴いてもっとも感じること、それは彼がアーティストとして恐ろしいほどの「柔軟性」「吸収性」を持っているということだ。ブルーズだけにとどまらず、それをゴスペルと融合させたり、カントリーやポップを歌ったり、世界中のあらゆる音楽を自分の音楽の中に吸収しようとした。その貪欲さこそが天才の原点だと思う。しかも、それをほとんどすべて、自分の音楽「レイ・チャールズ・ミュージック」にしてしまう。あらゆる音楽に「レイ・チャールズ」というスタンプを押してしまうのだ。
ブルースとゴスペルをあわせて、当時はまだ名前もジャンルもなかったソウル・ミュージックという名の音楽を作った。音楽ジャンルをひとつ作ってしまったのだから、偉大という言葉以外思いつかない。
彼の体は小さかったが、成し遂げたことはあまりに大きい。失明、孤児、黒人、そして貧困。これ以上の四重苦はない。孤独と絶望の淵から世界の頂上に這い上がったブラザー・レイ。そのバネの強さは尋常ではない。彼が持っていた武器はただひとつ、音楽だ。空気を吸い、水を飲み、食事をするように、彼は音楽を栄養にして成長し、それは彼の体の一部になった。そしてその音楽の力で彼は世界を手にしたのだ。
(Part 2)に続く
(Part 1からお読みください)
ドキュメンタリー『ピアノ・ブルーズ』は、レイ・チャールズが歌う「アメリカ・ザ・ビューティフル」で幕を閉じる。レイ・チャールズ、ユー・アー・ザ・ビューティフル!
クインシー・ジョーンズがレイに会ったのはクインシー14歳、レイ16歳のときのことだった。それ以来の親友同士。そんなクインシーが言った。「レイはもし10セント硬貨を持っていたら、いつでも私に5セントくれる、そんな奴だった。今、その5セントを返すから、レイを(ここに)戻して欲しい。でも、天国のほうが今では彼にとっていいのかもしれないな」
レイ・チャールズ、人々は親しみをこめて彼のことを「ブラザー・レイ」と呼ぶ。
最後に、レイに捧げる詞を記して、ご冥福をお祈りする。タイトルは「ブラザー・レイ・オン・マイ・マインド」。そう、「ジョージア・オン・マイ・マインド」のメロディーで歌ってください。
"Brother Ray On My Mind" (Lyrics to Melody of "Georgia On My Mind")
Brother Ray......Brother Ray..........the whole day through
Just an old sweet song.....keeps Brother Ray on my mind
I said now, Brother Ray.....Brother Ray......a song of you
Comes as sweet and clear.....as moonlight through the pines
Other arms reach out to me.......other eyes smile tenderly
Still in peaceful dreams I see.......the road leads back to you
I said, Brother Ray........ Brother Ray......... no peace I find
Just an old sweet song........keeps Brother Ray on my mind
Other arms reach out to me........other eyes smile tenderly
Still in peaceful dreams I see......the road leads back to you
Now ya know it’s, Brother Ray........ Brother Ray...no peace, no peace I find
Just this old, sweet song......keeps Brother Ray on my mind
Just this old sweet song.......keeps Brother Ray on my mind
『わが心のレイ・チャールズ』
ブラザー・レイ、わが心のレイ・チャールズ、
時の流れがゆっくりと進んでいく
古きよき時代を思わせる甘い歌・・・
そんな歌がいつもレイ・チャールズへの郷愁を誘う
ブラザー・レイ、あなたの歌が、月明かりが木々の隙間から
漏れてくるように、やさしく、心に染みてくる
ブラザー・レイが歌いかけてくる・・・
ブラザー・レイがやさしく微笑む・・・
ブラザー・レイの元には心の安らぐ夢がある
今、ここにある道はレイ・チャールズのところへ戻る道
ブラザー・レイ、ブラザー・レイ・・・
他のところでは心の安らぎを見出せない
古きよき時代を思わせる甘い歌・・・
そんな歌がいつもレイ・チャールズを思い出させる
(訳詞ソウル・サーチャー)
(訳注・「ブラザー・レイ」、「レイ・チャールズ」の部分を「ジョージア」に変えれば、オリジナルの「ジョージア・オン・マイ・マインド」の訳詞になります。また、訳詞は雰囲気、ニュアンスから意訳している部分もあります)
++++
ドキュメンタリー『ピアノ・ブルーズ』は、レイ・チャールズが歌う「アメリカ・ザ・ビューティフル」で幕を閉じる。レイ・チャールズ、ユー・アー・ザ・ビューティフル!
クインシー・ジョーンズがレイに会ったのはクインシー14歳、レイ16歳のときのことだった。それ以来の親友同士。そんなクインシーが言った。「レイはもし10セント硬貨を持っていたら、いつでも私に5セントくれる、そんな奴だった。今、その5セントを返すから、レイを(ここに)戻して欲しい。でも、天国のほうが今では彼にとっていいのかもしれないな」
レイ・チャールズ、人々は親しみをこめて彼のことを「ブラザー・レイ」と呼ぶ。
最後に、レイに捧げる詞を記して、ご冥福をお祈りする。タイトルは「ブラザー・レイ・オン・マイ・マインド」。そう、「ジョージア・オン・マイ・マインド」のメロディーで歌ってください。
"Brother Ray On My Mind" (Lyrics to Melody of "Georgia On My Mind")
Brother Ray......Brother Ray..........the whole day through
Just an old sweet song.....keeps Brother Ray on my mind
I said now, Brother Ray.....Brother Ray......a song of you
Comes as sweet and clear.....as moonlight through the pines
Other arms reach out to me.......other eyes smile tenderly
Still in peaceful dreams I see.......the road leads back to you
I said, Brother Ray........ Brother Ray......... no peace I find
Just an old sweet song........keeps Brother Ray on my mind
Other arms reach out to me........other eyes smile tenderly
Still in peaceful dreams I see......the road leads back to you
Now ya know it’s, Brother Ray........ Brother Ray...no peace, no peace I find
Just this old, sweet song......keeps Brother Ray on my mind
Just this old sweet song.......keeps Brother Ray on my mind
『わが心のレイ・チャールズ』
ブラザー・レイ、わが心のレイ・チャールズ、
時の流れがゆっくりと進んでいく
古きよき時代を思わせる甘い歌・・・
そんな歌がいつもレイ・チャールズへの郷愁を誘う
ブラザー・レイ、あなたの歌が、月明かりが木々の隙間から
漏れてくるように、やさしく、心に染みてくる
ブラザー・レイが歌いかけてくる・・・
ブラザー・レイがやさしく微笑む・・・
ブラザー・レイの元には心の安らぐ夢がある
今、ここにある道はレイ・チャールズのところへ戻る道
ブラザー・レイ、ブラザー・レイ・・・
他のところでは心の安らぎを見出せない
古きよき時代を思わせる甘い歌・・・
そんな歌がいつもレイ・チャールズを思い出させる
(訳詞ソウル・サーチャー)
(訳注・「ブラザー・レイ」、「レイ・チャールズ」の部分を「ジョージア」に変えれば、オリジナルの「ジョージア・オン・マイ・マインド」の訳詞になります。また、訳詞は雰囲気、ニュアンスから意訳している部分もあります)
++++
琴線。
まさか自分がキャンディ・ステイトンのアルバムを紹介するとは夢にも思わなかった。(笑) キャンディ・ステイトンは、南部を中心に60年代から70年代に初期に活躍したいわゆる「サザン・ソウルを歌うレディー・ソウル」。「レディー・ソウル」は、女性のソウルシンガーのこと。76年に、「ヤング・ハーツ・ラン・フリー」というディスコヒットがあるが、元々はゴスペルを歌っていた人でサザン・ソウル・シンガーとして知られる人物である。ところが、76年のそのディスコヒット以来、しばらくダンス曲をだしていたが、その後、元のゴスペルに戻り、地味に地元でゴスペルを歌っていた。ただその「ヤング・・・」がクラブなどでリミックスが注目を集めたりしていた。
昨日、「山野ミュージックジャム」で紹介したのは、ステイトンの60年代後期から70年代初期にかけての作品群。この頃、彼女はフェイム・レコードというレコード会社に所属していた。フェイム・レコードは、南部アラバマ州マスルショールズという街にあったレコード会社。元々はフェイム・スタジオをやっていた白人のリック・ホールという人物が、ただスタジオだけやっていてもおもしろくない、というので、有望なシンガーを見つけてはレコーディングして、インディで発売するようになった小さなレコード会社である。キャンディ・ステイトンはそんな中で見出されたシンガーのひとりだった。
キャンディは元々ゴスペルを歌っていたが、実に歌心があるソウルシンガーで、その優しさ、包容力、フレンドリーな態度など好感度の高いシンガーだった。そして、彼女はここフェイムでアルバムを3枚録音し、ヒット曲もだすが、契約の関係で長い間CDが発売されていなかった。70年代に一度、日本のPヴァインからアナログが発売されていた時期があったが、もちろん当時はCDなどというものはなかった。
僕は、ずっと輸入盤のオリジナルで聴いていたが、このところすっかりごぶさたしていた。そのフェイム時代の作品がCD化されなかったのは、原盤の権利所有者であるリック・ホールが許可をださなかったためだといわれる。それは、このフェイム盤はひじょうに人気があり、世界各地で海賊盤が出回り、それに嫌気がさしたホールが正規盤の発売を許可しなかったのではないか、などと言われている。ところが、最近になってホールがその原盤の権利をEMIに売却した。そこで、いよいよ『昔のお宝音源』が日の目を見ることになり、その日本盤が堂々と発売されることになったわけだ。
タイトルは、『ベスト・オブ・キャンディ・ステイトン』(東芝EMI、TOCP66924)。70年代初期のよきサザン・ソウルの響きが伝わってくる。サザン・ソウルは、日本人の心の琴線にもっとも触れる種類のソウル・ミュージックで、それはおそらく日本の演歌などと、一番の奥底でつながっているからなのだろう。生活感にあふれた歌詞、やさしい温かみのあるメロディー。そして、ゴスペルに根ざした熱い歌唱。カントリーのもつ、ほんわかしたところをも内包してしまうサザン・ソウルはやはり、リアル・ミュージックだ。
ちなみに東芝EMIからでた日本盤は、ライナーが最近のインタヴューを中心にした原稿(林剛氏)に、鈴木啓志さんのフェイム以前の詳細なストーリーの2本立て、これにフェイム時代のディスコグラフィー、さらに英文ライナーノーツとその対訳、歌詞およびその対訳と完璧なブックレット(40ぺージ)になっている。最近の日本盤でここまで充実したブックレットは久しぶりに見た。しかも、さらにCCCDでないというところもポイントアップ! もろ手をあげて応援します。(笑)
アル・グリーン、ジョス・ストーン、ハワード・テイト(彼については書こうと思ってますが、まだ書けてませんね)、そして、このキャンディ・ステイトンと、21世紀のサザン・ソウルが揃った。これを機にどんどんこの時代のものが掘り起されるといいですねえ。
レディー・ソウルはあなたの心を直撃し、サザン・ソウルは、あなたのソウルにぐいぐい来ます。
まさか自分がキャンディ・ステイトンのアルバムを紹介するとは夢にも思わなかった。(笑) キャンディ・ステイトンは、南部を中心に60年代から70年代に初期に活躍したいわゆる「サザン・ソウルを歌うレディー・ソウル」。「レディー・ソウル」は、女性のソウルシンガーのこと。76年に、「ヤング・ハーツ・ラン・フリー」というディスコヒットがあるが、元々はゴスペルを歌っていた人でサザン・ソウル・シンガーとして知られる人物である。ところが、76年のそのディスコヒット以来、しばらくダンス曲をだしていたが、その後、元のゴスペルに戻り、地味に地元でゴスペルを歌っていた。ただその「ヤング・・・」がクラブなどでリミックスが注目を集めたりしていた。
昨日、「山野ミュージックジャム」で紹介したのは、ステイトンの60年代後期から70年代初期にかけての作品群。この頃、彼女はフェイム・レコードというレコード会社に所属していた。フェイム・レコードは、南部アラバマ州マスルショールズという街にあったレコード会社。元々はフェイム・スタジオをやっていた白人のリック・ホールという人物が、ただスタジオだけやっていてもおもしろくない、というので、有望なシンガーを見つけてはレコーディングして、インディで発売するようになった小さなレコード会社である。キャンディ・ステイトンはそんな中で見出されたシンガーのひとりだった。
キャンディは元々ゴスペルを歌っていたが、実に歌心があるソウルシンガーで、その優しさ、包容力、フレンドリーな態度など好感度の高いシンガーだった。そして、彼女はここフェイムでアルバムを3枚録音し、ヒット曲もだすが、契約の関係で長い間CDが発売されていなかった。70年代に一度、日本のPヴァインからアナログが発売されていた時期があったが、もちろん当時はCDなどというものはなかった。
僕は、ずっと輸入盤のオリジナルで聴いていたが、このところすっかりごぶさたしていた。そのフェイム時代の作品がCD化されなかったのは、原盤の権利所有者であるリック・ホールが許可をださなかったためだといわれる。それは、このフェイム盤はひじょうに人気があり、世界各地で海賊盤が出回り、それに嫌気がさしたホールが正規盤の発売を許可しなかったのではないか、などと言われている。ところが、最近になってホールがその原盤の権利をEMIに売却した。そこで、いよいよ『昔のお宝音源』が日の目を見ることになり、その日本盤が堂々と発売されることになったわけだ。
タイトルは、『ベスト・オブ・キャンディ・ステイトン』(東芝EMI、TOCP66924)。70年代初期のよきサザン・ソウルの響きが伝わってくる。サザン・ソウルは、日本人の心の琴線にもっとも触れる種類のソウル・ミュージックで、それはおそらく日本の演歌などと、一番の奥底でつながっているからなのだろう。生活感にあふれた歌詞、やさしい温かみのあるメロディー。そして、ゴスペルに根ざした熱い歌唱。カントリーのもつ、ほんわかしたところをも内包してしまうサザン・ソウルはやはり、リアル・ミュージックだ。
ちなみに東芝EMIからでた日本盤は、ライナーが最近のインタヴューを中心にした原稿(林剛氏)に、鈴木啓志さんのフェイム以前の詳細なストーリーの2本立て、これにフェイム時代のディスコグラフィー、さらに英文ライナーノーツとその対訳、歌詞およびその対訳と完璧なブックレット(40ぺージ)になっている。最近の日本盤でここまで充実したブックレットは久しぶりに見た。しかも、さらにCCCDでないというところもポイントアップ! もろ手をあげて応援します。(笑)
アル・グリーン、ジョス・ストーン、ハワード・テイト(彼については書こうと思ってますが、まだ書けてませんね)、そして、このキャンディ・ステイトンと、21世紀のサザン・ソウルが揃った。これを機にどんどんこの時代のものが掘り起されるといいですねえ。
レディー・ソウルはあなたの心を直撃し、サザン・ソウルは、あなたのソウルにぐいぐい来ます。
イヴェント。
プリンス・ファンが集うパーティー・イヴェントです。掲示板で一度紹介しましたが、一応こちらでも。
Tsunaさんらが主催するプリンス誕生パーティーがあります。詳細はこちら。
http://thedigitalgarden.gooside.com/contents.htm
http://thedigitalgarden.gooside.com/news.htm
The Digital Garden Vol.7 : birthday celebration 2004
Saturday June 26 2004 from 22:00 till DAWN at CURRENT Nishi-Shinjuku
2,500yen [1 drink] / 2,000yen [1 drink with flier or coupon printed out]
djs : terry ueda / tuna / kebi / ryouhei
夜10時からドーン(夜明け)まで・西新宿の「カレント」にて。フライアーをプリントアウトして持っていくと500円引きになります。
毎回、プリンスとその関連アーティストの作品ばかりがかけられるおよそ8時間。モニターには、主催者たち秘蔵のヴィデオ映像なども。
ツナさんにかつてこう言ってました。「プリンスのファンって、それをあんまり人に言わないんで、友達がそれほどいないんですよ。(笑) だから、こういうところがあると、みんな友達になれて嬉しいんです」
僕も昨年9月に参加しました。その時の模様が下に。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030907.html
そしてそのツナさんは、今日からミネアポリスへ。複数回プリンスのライヴを見てくるというので、帰国次第レポートを待ちましょう。(笑)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Latin Ratio: Smilin’ Faces Sometimes
「ラテン度数」。
ちょっと締切りが溜まっていて今日は一日中、デスクで作業をしているのですが、さっき珍しく夜テレビをつけていたら、『ヘイ!ヘイ!ヘイ!』(フジテレビ系)にでていたグループ(オレンジ・レンジ=沖縄出身)のメンバーが、「東京のサラリーマンはみんな笑ってないんですよ。沖縄では、もう少し笑ってる」というようなことを言っていた。もうひとりが「スクランブル交差点で人とぶつかっちゃうんですよ」とも。いい観察です。
昨日だったか、これもうろ覚えなんですが、テレビによくでてくる森永卓郎教授が沖縄の「ラテン度数」の話をしていた。「ラテン度数」とは失業率と自殺率の関係なのだが、スペインやアルゼンチンなど失業率がものすごく経済は破綻しているのに、ほとんど自殺する人などいない、という。ところが日本はそこまで行ってないのに、年間3万人もの自殺者がいる。
そこで、失業率が高くても自殺率が低い場合、これを「ラテン度数」が高い、とする。そして、この「ラテン度数」が日本でも県によってけっこう差があるそうだ。で、沖縄はこの「ラテン度数」が1番高いんですよ、という話だった。その話を妙に納得しながら聞いていたんだが、そこにこのオレンジ・レンジの「東京のサラリーマンは、みな同じ顔をしていて、笑っていない」というコメントがでて、さらに納得したのです。
それだけの話なんですが・・・。以前友人たちとキューバの話になったとき、絶対にキューバの人たちって自殺なんかしないよねえ、てな話もでていたような。キューバって、社会的にも、経済的にも厳しいものがあるはずなのに、国民はとっても日々の生活に満足してるんですよね。学校も、病院もお金かからないしね。
東京に住む人、もっと笑わないと・・・。(笑)
++++
プリンス・ファンが集うパーティー・イヴェントです。掲示板で一度紹介しましたが、一応こちらでも。
Tsunaさんらが主催するプリンス誕生パーティーがあります。詳細はこちら。
http://thedigitalgarden.gooside.com/contents.htm
http://thedigitalgarden.gooside.com/news.htm
The Digital Garden Vol.7 : birthday celebration 2004
Saturday June 26 2004 from 22:00 till DAWN at CURRENT Nishi-Shinjuku
2,500yen [1 drink] / 2,000yen [1 drink with flier or coupon printed out]
djs : terry ueda / tuna / kebi / ryouhei
夜10時からドーン(夜明け)まで・西新宿の「カレント」にて。フライアーをプリントアウトして持っていくと500円引きになります。
毎回、プリンスとその関連アーティストの作品ばかりがかけられるおよそ8時間。モニターには、主催者たち秘蔵のヴィデオ映像なども。
ツナさんにかつてこう言ってました。「プリンスのファンって、それをあんまり人に言わないんで、友達がそれほどいないんですよ。(笑) だから、こういうところがあると、みんな友達になれて嬉しいんです」
僕も昨年9月に参加しました。その時の模様が下に。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030907.html
そしてそのツナさんは、今日からミネアポリスへ。複数回プリンスのライヴを見てくるというので、帰国次第レポートを待ちましょう。(笑)
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Latin Ratio: Smilin’ Faces Sometimes
「ラテン度数」。
ちょっと締切りが溜まっていて今日は一日中、デスクで作業をしているのですが、さっき珍しく夜テレビをつけていたら、『ヘイ!ヘイ!ヘイ!』(フジテレビ系)にでていたグループ(オレンジ・レンジ=沖縄出身)のメンバーが、「東京のサラリーマンはみんな笑ってないんですよ。沖縄では、もう少し笑ってる」というようなことを言っていた。もうひとりが「スクランブル交差点で人とぶつかっちゃうんですよ」とも。いい観察です。
昨日だったか、これもうろ覚えなんですが、テレビによくでてくる森永卓郎教授が沖縄の「ラテン度数」の話をしていた。「ラテン度数」とは失業率と自殺率の関係なのだが、スペインやアルゼンチンなど失業率がものすごく経済は破綻しているのに、ほとんど自殺する人などいない、という。ところが日本はそこまで行ってないのに、年間3万人もの自殺者がいる。
そこで、失業率が高くても自殺率が低い場合、これを「ラテン度数」が高い、とする。そして、この「ラテン度数」が日本でも県によってけっこう差があるそうだ。で、沖縄はこの「ラテン度数」が1番高いんですよ、という話だった。その話を妙に納得しながら聞いていたんだが、そこにこのオレンジ・レンジの「東京のサラリーマンは、みな同じ顔をしていて、笑っていない」というコメントがでて、さらに納得したのです。
それだけの話なんですが・・・。以前友人たちとキューバの話になったとき、絶対にキューバの人たちって自殺なんかしないよねえ、てな話もでていたような。キューバって、社会的にも、経済的にも厳しいものがあるはずなのに、国民はとっても日々の生活に満足してるんですよね。学校も、病院もお金かからないしね。
東京に住む人、もっと笑わないと・・・。(笑)
++++
How To Raise Your Latin Ratio
2004年6月16日ラテン系。
「ラテン度数」への反応がけっこうあるので、もうちょっと行きますか。(笑) この概念は、経済学者の森永卓郎さんが彼の著書『年収300万円時代を生き抜く経済学』の中で提言しているものです。とはいうものの、僕はその本、持ってないんですけど。テレビで聞いた話から、ネットで調べた。お気楽で〜す。(←ラテン的)
曰く、こんな感じ。「日本では年間3万人以上の人が自殺しているが、凄惨な経済危機にさらされているアルゼンチンでは、自殺する人がほとんどいない。こうした前向きな楽天性は、日本人が学ぶべき美徳のひとつだと思う」
さらに。「失業が多いのに自殺が少ない県、すなわち『ラテン度指数』が高いのは沖縄県や大阪府(註:1位沖縄県、2位奈良県、3位徳島県、4位大阪府、5位神奈川県)。イタリア人やアルゼンチン人になるのは難しいとしても、沖縄人や大阪人になら、なれる気がしないだろうか」
一番「ラテン度数」が低いのが、秋田県だそうです。沖縄、大阪の上位って、すっごく納得するんですけど。(笑) 神奈川5位ですか。よ〜〜、わからん。ま、いいか。(←ラテン的)
要はいかに人生を楽しくすごすか、がこれからはポイントになるってな話なんですが。ひとつには趣味を持つなんていうのは、いいですね。それもお金のかからない趣味ね。スポーツ観戦とか音楽なんていいかもですね。
で、ここからは本から離れて、これを個人レベルでラテン度が高い、低いってことは言えないでしょうかという提案です。僕もどちらかというと今日明日くらいのことしか考えないタイプで、明日はなんとかなるだろう的発想があるんですよねえ。じゃなきゃ、こんな仕事してないでしょうね。ははは。(←ラテン的)
年収3億でもハッピーでなく、眉間に皺(しわ)寄せて生きている人もいれば、年収300万でもいっつもにこにこしていて楽しそうな人もいる。後者のほうが一見ラテン度は高いですよねえ。では、どうしたらラテン度を上げることができるんでしょう。ラテン音楽聴いて、踊ってれば、いいんでしょうかね。(笑) それもひとつかもしれませんが。
まあ、ひとつには前向きに生きるってことでしょうか。そして、細かいことにくよくよしない、些細(ささい)なことに怒らない、逆にちょっとしたことで笑うってことでしょうか。笑う角には福来るっていうし。(←あ〜〜、ラテン的)
あなたもハーフフルなラテン系(C=つきあかりさん)に。さあ。お勧めラテン的生き方。でも、CD聴くのはソウル系。
「ラテン度数」への反応がけっこうあるので、もうちょっと行きますか。(笑) この概念は、経済学者の森永卓郎さんが彼の著書『年収300万円時代を生き抜く経済学』の中で提言しているものです。とはいうものの、僕はその本、持ってないんですけど。テレビで聞いた話から、ネットで調べた。お気楽で〜す。(←ラテン的)
曰く、こんな感じ。「日本では年間3万人以上の人が自殺しているが、凄惨な経済危機にさらされているアルゼンチンでは、自殺する人がほとんどいない。こうした前向きな楽天性は、日本人が学ぶべき美徳のひとつだと思う」
さらに。「失業が多いのに自殺が少ない県、すなわち『ラテン度指数』が高いのは沖縄県や大阪府(註:1位沖縄県、2位奈良県、3位徳島県、4位大阪府、5位神奈川県)。イタリア人やアルゼンチン人になるのは難しいとしても、沖縄人や大阪人になら、なれる気がしないだろうか」
一番「ラテン度数」が低いのが、秋田県だそうです。沖縄、大阪の上位って、すっごく納得するんですけど。(笑) 神奈川5位ですか。よ〜〜、わからん。ま、いいか。(←ラテン的)
要はいかに人生を楽しくすごすか、がこれからはポイントになるってな話なんですが。ひとつには趣味を持つなんていうのは、いいですね。それもお金のかからない趣味ね。スポーツ観戦とか音楽なんていいかもですね。
で、ここからは本から離れて、これを個人レベルでラテン度が高い、低いってことは言えないでしょうかという提案です。僕もどちらかというと今日明日くらいのことしか考えないタイプで、明日はなんとかなるだろう的発想があるんですよねえ。じゃなきゃ、こんな仕事してないでしょうね。ははは。(←ラテン的)
年収3億でもハッピーでなく、眉間に皺(しわ)寄せて生きている人もいれば、年収300万でもいっつもにこにこしていて楽しそうな人もいる。後者のほうが一見ラテン度は高いですよねえ。では、どうしたらラテン度を上げることができるんでしょう。ラテン音楽聴いて、踊ってれば、いいんでしょうかね。(笑) それもひとつかもしれませんが。
まあ、ひとつには前向きに生きるってことでしょうか。そして、細かいことにくよくよしない、些細(ささい)なことに怒らない、逆にちょっとしたことで笑うってことでしょうか。笑う角には福来るっていうし。(←あ〜〜、ラテン的)
あなたもハーフフルなラテン系(C=つきあかりさん)に。さあ。お勧めラテン的生き方。でも、CD聴くのはソウル系。
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