Gregory Hines Dies at 57
2003年8月12日グレゴリー・ハインズ癌で死去.
タップダンサーとして人気の高かったグレゴリー・ハインズが9日(土曜日)、ロスアンジェルスの病院で癌のために死去した。57歳だった。
ハインズは、1992年、ミュージカル『ジェリーズ・ラスト・ジャム』でトニー賞を獲得している。ハインズは、もともと兄とともに二人組のダンスデュオとして売り出し、78年、映画『ユービー』で一躍脚光を集めた。さらに、ブロードウェイの『ソフィスティケーテッド・レイディー』、さらに84年、映画『コットン・クラブ』などで人気を決定づけている。
85年、ロシアのダンサー、ミハエル・バリシニコフと共演した映画『ホワイト・ナイツ』では俳優としても注目された。
グレゴリー・ハインズは、1946年2月14日ニューヨーク生まれ。母親が兄と彼にタップダンスをするように強く勧めたという。それは、ダンスで成功し、一家でゲットーを抜け出したいと考えたからだ。グレゴリーが5歳のときから踊りだし、6歳のときには、アポロ劇場に2週間連続で出場し、8歳でブロードウェイ・ミュージカルに出演した。十代の頃は、「ハインズ・ハインズ・アンド・ダッド」というグループ名で、兄弟二人と父でステージを見せていた。
+++++
粋。
今、今日の日記を書こうとしたら、グレゴリー・ハインズ死去のニュースが飛び込んできたので、急遽、彼について書くことにした。
グレゴリー・ハインズで僕がまずよく覚えているのが、85年の映画『ホワイト・ナイツ』http://www.stingray-jp.com/allcinema/prog/show_c.php3?num_c=00021781だ。ライオネル・リッチーが歌うテーマ曲「セイ・ユー、セイ・ミー」の歌声とともに大ヒットした映画である。アメリカに亡命したロシア人ダンサー(バリシニコフ)が、飛行機の不慮の事故でロシア領内に不時着することによって始まる手に汗握る物語で、二人のダンサーの友情が徐々に芽生えていくところなどが、なかなかいい作品だった。
その後86年、彼はルーサー・ヴァンドロスとデュエット曲「ゼアリズ・ナッシング・ベター・ザン・ラヴ」を録音する。これは、ブラックチャートでナンバーワンを記録。初めてグレゴリーの歌を聞いた。意外といい声で、ルーサーとの相性もよかった。二人とも生粋のニューヨーカー。
そして、90年代に入ってグレゴリー・ハインズが来日して、その公演を渋谷のパルコシアターで見た。パルコシアターは小さくて、あの時は前から何番目かのけっこういい席だった。その目の前であのグレゴリーがタップダンスを踊る。生のタップダンスを見たのはあの時が初めてだった。圧倒された。真っ暗な広いステージに彼だけがぽつりと立っている。そこに一本のスポットライトがあたっている。そしておもむろに踊りだす。
最初、どうしてあんなにかっこいい音が出るのか不思議だったが、床にマイクが仕込んであると後から聞いて納得した。タップを踊る靴、タップシューズが時々照明に当たって、その反射した光が一瞬僕の目に入った。グレゴリーのタップは、「粋」そのものだった。つまり、まったくなんら難しそうになく、軽くタップをやってしまうのだ。優雅で洗練されていた。たかがタップだけで、これだけ人の目を惹きつけることのすごさを思い知らされた。
今年見た『ブリング・ダ・ノイズ』でも、かなり圧倒されたが、その出演者たちも、グレゴリーにはリスペクトの気持ちを表していた。
今、ルーサーとのデュエット曲を聴いている。そして、ライオネルの「セイ・ユー、セイ・ミー」を聴いて、彼に追悼の意を表しよう。
今日書こうと思った、映画「スタンド・マイ・ミー」の話、シンガー、AI(アイ)の話はまた明日以降に。
ENT>OBITUARY>HINES, GREGORY
タップダンサーとして人気の高かったグレゴリー・ハインズが9日(土曜日)、ロスアンジェルスの病院で癌のために死去した。57歳だった。
ハインズは、1992年、ミュージカル『ジェリーズ・ラスト・ジャム』でトニー賞を獲得している。ハインズは、もともと兄とともに二人組のダンスデュオとして売り出し、78年、映画『ユービー』で一躍脚光を集めた。さらに、ブロードウェイの『ソフィスティケーテッド・レイディー』、さらに84年、映画『コットン・クラブ』などで人気を決定づけている。
85年、ロシアのダンサー、ミハエル・バリシニコフと共演した映画『ホワイト・ナイツ』では俳優としても注目された。
グレゴリー・ハインズは、1946年2月14日ニューヨーク生まれ。母親が兄と彼にタップダンスをするように強く勧めたという。それは、ダンスで成功し、一家でゲットーを抜け出したいと考えたからだ。グレゴリーが5歳のときから踊りだし、6歳のときには、アポロ劇場に2週間連続で出場し、8歳でブロードウェイ・ミュージカルに出演した。十代の頃は、「ハインズ・ハインズ・アンド・ダッド」というグループ名で、兄弟二人と父でステージを見せていた。
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粋。
今、今日の日記を書こうとしたら、グレゴリー・ハインズ死去のニュースが飛び込んできたので、急遽、彼について書くことにした。
グレゴリー・ハインズで僕がまずよく覚えているのが、85年の映画『ホワイト・ナイツ』http://www.stingray-jp.com/allcinema/prog/show_c.php3?num_c=00021781だ。ライオネル・リッチーが歌うテーマ曲「セイ・ユー、セイ・ミー」の歌声とともに大ヒットした映画である。アメリカに亡命したロシア人ダンサー(バリシニコフ)が、飛行機の不慮の事故でロシア領内に不時着することによって始まる手に汗握る物語で、二人のダンサーの友情が徐々に芽生えていくところなどが、なかなかいい作品だった。
その後86年、彼はルーサー・ヴァンドロスとデュエット曲「ゼアリズ・ナッシング・ベター・ザン・ラヴ」を録音する。これは、ブラックチャートでナンバーワンを記録。初めてグレゴリーの歌を聞いた。意外といい声で、ルーサーとの相性もよかった。二人とも生粋のニューヨーカー。
そして、90年代に入ってグレゴリー・ハインズが来日して、その公演を渋谷のパルコシアターで見た。パルコシアターは小さくて、あの時は前から何番目かのけっこういい席だった。その目の前であのグレゴリーがタップダンスを踊る。生のタップダンスを見たのはあの時が初めてだった。圧倒された。真っ暗な広いステージに彼だけがぽつりと立っている。そこに一本のスポットライトがあたっている。そしておもむろに踊りだす。
最初、どうしてあんなにかっこいい音が出るのか不思議だったが、床にマイクが仕込んであると後から聞いて納得した。タップを踊る靴、タップシューズが時々照明に当たって、その反射した光が一瞬僕の目に入った。グレゴリーのタップは、「粋」そのものだった。つまり、まったくなんら難しそうになく、軽くタップをやってしまうのだ。優雅で洗練されていた。たかがタップだけで、これだけ人の目を惹きつけることのすごさを思い知らされた。
今年見た『ブリング・ダ・ノイズ』でも、かなり圧倒されたが、その出演者たちも、グレゴリーにはリスペクトの気持ちを表していた。
今、ルーサーとのデュエット曲を聴いている。そして、ライオネルの「セイ・ユー、セイ・ミー」を聴いて、彼に追悼の意を表しよう。
今日書こうと思った、映画「スタンド・マイ・ミー」の話、シンガー、AI(アイ)の話はまた明日以降に。
ENT>OBITUARY>HINES, GREGORY