ダイアモンド。
いやあめちゃくちゃよかった。始まって5分もしないうちに、これはすごいと思った。驚いた。今年見た数あるライヴの中で、個人的に今のところ1位かもしれない。西アフリカ、ナイジェリアのフェミ・クティと彼のバンド、ポジティヴ・フォースのライヴだ。フェミはやはりアフリカ音楽の巨匠とも言えるフェラ・クティーの息子。
ドラマーがいい、ベースがいい、ギターがいい。ホーンセクションがいい。セクシーなダンサーが、これまたいい。パーカッションがいい。このリズムにやられた。祭りであり、エンタテインメントであり、もちろん、リアル・ミュージック・バイ・リアル・ミュージシャン。こんなに楽しく、しかも、演奏がしっかりしているバンドなんてなかなかお目にかかれない。
バンド演奏が始まり、パープルの上下のアフリカ風衣装に身を包んだフェミがステージに上がると、彼は丁寧に両手をあわせ、ゆっくり深々とお辞儀をした。何か神聖な儀式が始まるかのようだ。床に置かれていた3本のペットボトルの横に、まだほとんど汗をぬぐっていないタオルをきっちりと置いた。彼の几帳面さを垣間見て、血液型がA型じゃないかと思った。(笑)
バックバンド、ダンサー、フェミ本人を加えオンステージには総勢15名。所狭しと踊り、演奏し、歌う。強烈なカーニヴァルがそこで繰り広げられた。
その中におそらく7−8歳と思われる子どもが、これまたかわいらしい小さなパーカッション(太鼓は2つだけ)を懸命に叩いていた。一曲目を終えたところで、フェミが紹介した。「僕の息子です。彼は3歳半の時に、トランペットで遊んでいて『ブアーン』という音を鳴らしたんです。それ以来、祖母は彼にドラムスを叩かせなさいと言い続けるようになりました。そして、(腕と指で彼を紹介する仕草)。父親であることと、こうして仕事として一緒にステージに立つことを両立するのはちょっとむずかしいですが・・・」
一曲目を演奏している時にはちょっとばかり険しい表情だったフェミが、「僕の息子です」と紹介した時、その顔は瞬時に父親の顔になっていた。その息子はいつも、父親の方を見ながらスティックを叩く。フェミ・クティー自身はまだ始めて2年というトランペットや、やはり始めて3年というキーボードなども使い、バンド演奏をリードする。彼はサックスと歌がもっとも得意だ。
それにしても、目の前で徹底して腰を振るこの女性ダンサーたちのハッピーでセクシーなことよ。なんであんなに腰を早く動かせるのか。アフリカ風の化粧とその激しいダンスは、それだけで観客を興奮のるつぼに陥れる。Shake Your Booty: 彼女らはThe Greatest Booty Shakers In The World.
強烈なリズム隊にホーンセクション。アフリカのファンクは、もはやアフリカだけにとどまらない。彼らの音楽性の中にアフリカの要素はあるものの、アメリカのソウル、R&Bのファンクと、根っこで同じだということが感じられる。フェミの音楽のルーツを求めて地球を下に掘って掘っていくと、ジェームス・ブラウンのルーツを掘ってたどり着くところと同じ地点にたどりつく。こういうライヴを見ると、一日も早くアフリカの地を訪れたいと痛感する。
後半、上半身裸になったフェミの背中や頭から汗が滴り落ちるようになった。時間の経過とともに二の腕あたりの血管が浮き出てくる。頭をちょっと左右に動かすだけで、汗が飛び散る。客席に背中を見せるとそこは全身汗できらきらと光る。褐色の肌に光るこの美しき汗はいい音楽を作り出すときに生まれた光り輝くダイアモンドだ。
1時間40分の情熱の爆発と野性の躍動。最後の曲が終わった後、観客席からはアンコールを求める拍手が5分以上続いた。珍しい。あまりに多くの見るべきもの、聞くべきものがあり、まだあと2−3回味わいたいが、昨日のショウで帰国してしまう。来年、またぜひ。
(2003年7月31日水曜・東京ブルーノート・セカンド=フェミ・クティ&ザ・ポジティヴ・フォース)
ブルーノートの紹介ページ
http://www.bluenote.co.jp/art/20030727.html
いやあめちゃくちゃよかった。始まって5分もしないうちに、これはすごいと思った。驚いた。今年見た数あるライヴの中で、個人的に今のところ1位かもしれない。西アフリカ、ナイジェリアのフェミ・クティと彼のバンド、ポジティヴ・フォースのライヴだ。フェミはやはりアフリカ音楽の巨匠とも言えるフェラ・クティーの息子。
ドラマーがいい、ベースがいい、ギターがいい。ホーンセクションがいい。セクシーなダンサーが、これまたいい。パーカッションがいい。このリズムにやられた。祭りであり、エンタテインメントであり、もちろん、リアル・ミュージック・バイ・リアル・ミュージシャン。こんなに楽しく、しかも、演奏がしっかりしているバンドなんてなかなかお目にかかれない。
バンド演奏が始まり、パープルの上下のアフリカ風衣装に身を包んだフェミがステージに上がると、彼は丁寧に両手をあわせ、ゆっくり深々とお辞儀をした。何か神聖な儀式が始まるかのようだ。床に置かれていた3本のペットボトルの横に、まだほとんど汗をぬぐっていないタオルをきっちりと置いた。彼の几帳面さを垣間見て、血液型がA型じゃないかと思った。(笑)
バックバンド、ダンサー、フェミ本人を加えオンステージには総勢15名。所狭しと踊り、演奏し、歌う。強烈なカーニヴァルがそこで繰り広げられた。
その中におそらく7−8歳と思われる子どもが、これまたかわいらしい小さなパーカッション(太鼓は2つだけ)を懸命に叩いていた。一曲目を終えたところで、フェミが紹介した。「僕の息子です。彼は3歳半の時に、トランペットで遊んでいて『ブアーン』という音を鳴らしたんです。それ以来、祖母は彼にドラムスを叩かせなさいと言い続けるようになりました。そして、(腕と指で彼を紹介する仕草)。父親であることと、こうして仕事として一緒にステージに立つことを両立するのはちょっとむずかしいですが・・・」
一曲目を演奏している時にはちょっとばかり険しい表情だったフェミが、「僕の息子です」と紹介した時、その顔は瞬時に父親の顔になっていた。その息子はいつも、父親の方を見ながらスティックを叩く。フェミ・クティー自身はまだ始めて2年というトランペットや、やはり始めて3年というキーボードなども使い、バンド演奏をリードする。彼はサックスと歌がもっとも得意だ。
それにしても、目の前で徹底して腰を振るこの女性ダンサーたちのハッピーでセクシーなことよ。なんであんなに腰を早く動かせるのか。アフリカ風の化粧とその激しいダンスは、それだけで観客を興奮のるつぼに陥れる。Shake Your Booty: 彼女らはThe Greatest Booty Shakers In The World.
強烈なリズム隊にホーンセクション。アフリカのファンクは、もはやアフリカだけにとどまらない。彼らの音楽性の中にアフリカの要素はあるものの、アメリカのソウル、R&Bのファンクと、根っこで同じだということが感じられる。フェミの音楽のルーツを求めて地球を下に掘って掘っていくと、ジェームス・ブラウンのルーツを掘ってたどり着くところと同じ地点にたどりつく。こういうライヴを見ると、一日も早くアフリカの地を訪れたいと痛感する。
後半、上半身裸になったフェミの背中や頭から汗が滴り落ちるようになった。時間の経過とともに二の腕あたりの血管が浮き出てくる。頭をちょっと左右に動かすだけで、汗が飛び散る。客席に背中を見せるとそこは全身汗できらきらと光る。褐色の肌に光るこの美しき汗はいい音楽を作り出すときに生まれた光り輝くダイアモンドだ。
1時間40分の情熱の爆発と野性の躍動。最後の曲が終わった後、観客席からはアンコールを求める拍手が5分以上続いた。珍しい。あまりに多くの見るべきもの、聞くべきものがあり、まだあと2−3回味わいたいが、昨日のショウで帰国してしまう。来年、またぜひ。
(2003年7月31日水曜・東京ブルーノート・セカンド=フェミ・クティ&ザ・ポジティヴ・フォース)
ブルーノートの紹介ページ
http://www.bluenote.co.jp/art/20030727.html
クリスタル。
アーロン・ネヴィルの新譜『ゴスペル・ルーツ』(東芝EMI=8月6日発売)という作品が届けられた。彼はEMIとソロ・シンガーとしての契約を結んでいて、これまでに2枚のアルバム『デヴォーション』(2000年)と『ビリーヴ』(2003年)を出しているが、この新譜はそれら2枚のアルバムからの作品と初公開曲1曲を含む作品。
ところが不覚にもその2枚の作品を未チェックで聴いていなかった。なのでほとんど初めて聴く曲だった。冒頭「アヴェ・マリア」は、以前A&Mからの作品に収録されていて、また日本でもコマーシャルに使われておなじみの曲。初公開曲は、ビートルズの「レット・イット・ビー」。
今回特に胸を打たれたのが、意外な選曲キャット・スティーヴンスの作品「モーニング・ハズ・ブロークン」と、これはいかにも歌いそうなサム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」。それにしても「モーニング・・・」は、完璧にはまっている。これはシングルカットいけたでしょう。でも、されなかったのかな。まるでアーロンのために書かれたようなヴァージョンにしあがった。
CDの帯には、シルキー・ヴォイスと書いてあるが、むしろこの透明感あふれる声はクリスタル・ヴォイスという感じだ。う〜〜ん、この声は、人間国宝と言ってもいい。
スピーカーの前の聴き手はその声にひれ伏す。彼の声を浴びると、時の流れが今ここに瞬間冷凍されるような気持ちになる。時間を止める声。The Voice Freeze The Time. そして、その声は長き時の試練に耐え、いつまでも輝きを持ちつづける。The Voice Stands The Time.
+++++
Go For Higher Ground, Crystal
クリスタル。
そして、クリスタル・ケイのライヴをブリッツで見た。彼女のライヴは昨年の渋谷AX以来2度目。しかし、17歳でこれだけのことができるんだから、たいしたものです。まあ、バンドとかバックには細かい点で宿題が多いですが。一点だけ。ドラムがロックのそれで、ソウルのグルーヴがないです。バンド全体にも。CDがかなり作りこんでいるので、下手するとCDのほうがグルーヴ感があったりします。沼澤尚さんあたりを起用してほしいな。そんなこと言っても、クリスタル10年後でもまだ27歳ですから末恐ろしいです。(笑) それにクリスタルの場合、楽曲がいいからねえ。キャッチーで彼女の等身大の作品がうまく作られている。がんばれ、クリちゃん。どんどん高い山、めざせ。
(2003年7月31日木曜・赤坂ブリッツ=クリスタル・ケイ・ライヴ)
アーロン・ネヴィルの新譜『ゴスペル・ルーツ』(東芝EMI=8月6日発売)という作品が届けられた。彼はEMIとソロ・シンガーとしての契約を結んでいて、これまでに2枚のアルバム『デヴォーション』(2000年)と『ビリーヴ』(2003年)を出しているが、この新譜はそれら2枚のアルバムからの作品と初公開曲1曲を含む作品。
ところが不覚にもその2枚の作品を未チェックで聴いていなかった。なのでほとんど初めて聴く曲だった。冒頭「アヴェ・マリア」は、以前A&Mからの作品に収録されていて、また日本でもコマーシャルに使われておなじみの曲。初公開曲は、ビートルズの「レット・イット・ビー」。
今回特に胸を打たれたのが、意外な選曲キャット・スティーヴンスの作品「モーニング・ハズ・ブロークン」と、これはいかにも歌いそうなサム・クックの「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」。それにしても「モーニング・・・」は、完璧にはまっている。これはシングルカットいけたでしょう。でも、されなかったのかな。まるでアーロンのために書かれたようなヴァージョンにしあがった。
CDの帯には、シルキー・ヴォイスと書いてあるが、むしろこの透明感あふれる声はクリスタル・ヴォイスという感じだ。う〜〜ん、この声は、人間国宝と言ってもいい。
スピーカーの前の聴き手はその声にひれ伏す。彼の声を浴びると、時の流れが今ここに瞬間冷凍されるような気持ちになる。時間を止める声。The Voice Freeze The Time. そして、その声は長き時の試練に耐え、いつまでも輝きを持ちつづける。The Voice Stands The Time.
+++++
Go For Higher Ground, Crystal
クリスタル。
そして、クリスタル・ケイのライヴをブリッツで見た。彼女のライヴは昨年の渋谷AX以来2度目。しかし、17歳でこれだけのことができるんだから、たいしたものです。まあ、バンドとかバックには細かい点で宿題が多いですが。一点だけ。ドラムがロックのそれで、ソウルのグルーヴがないです。バンド全体にも。CDがかなり作りこんでいるので、下手するとCDのほうがグルーヴ感があったりします。沼澤尚さんあたりを起用してほしいな。そんなこと言っても、クリスタル10年後でもまだ27歳ですから末恐ろしいです。(笑) それにクリスタルの場合、楽曲がいいからねえ。キャッチーで彼女の等身大の作品がうまく作られている。がんばれ、クリちゃん。どんどん高い山、めざせ。
(2003年7月31日木曜・赤坂ブリッツ=クリスタル・ケイ・ライヴ)
Lady Of Soul Award Nomination
2003年8月3日 候補。
第9回ソウルトレイン・レディー・オブ・ソウル・アワードのノミネートが発表された。これは、ソウルトレイン・ミュージック・アワードから派生した賞。女性シンガー、アーティストだけを対象とする。
ノミネートは次の通り。発表は8月23日、カリフォルニアのパサディナ・シヴィック・オーディトリウムで行われる。ノミネートは9部門。エリカ・バドゥ、インディア・アリーなどのグラミー組もノミネートされている。
The 9th Annual (2003) Soul Train Lady of Soul Awards Nominees
1.Best R&B/Soul Single, Solo
"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
"He Is" Heather Headley
"So Gone" Monica
2.Best R&B/Soul Single, Group, Band or Duo
"I Do (Wanna Get Close To You)" 3LW
"I Still Love You" 702
"Say Yes" Floetry
"Girl Talk" TLC
3.R&B/Soul Album of the Year, Solo
"Love Story" Vivian Green
"This Is Who I Am" Heather Headley
"Just Whitney..." Whitney Houston
"Voyage To India" India.Arie
4.R&B/Soul Album of the Year, Group, Band or Duo
"Star" 702
"Floetic" Floetry
"3D" TLC
"The Tortoise & The Hare" The Jazzyfatnastees
5.R&B/Soul or Rap Song of the Year
"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Full Moon" Brandy
"Work It" Missy "Misdemeanor" Elliott
"Floetic" Floetry
6.Best R&B/Soul or Rap New Artist, Solo
"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
"He Is" Heather Headley
"Nothin’s Free" Oobie Featuring Lil Jon & The East Side Boyz
"Angel" Amanda Perez
7.Best R&B/Soul or Rap New Artist, Group, Band or Duo
"Say Yes" Floetry
"How It’s Gonna Be" LovHer
"Virginity" TG4
8.Best R&B/Soul or Rap Music Video
"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykay Badu Featuring Common
"Work It’ Missy "Misdemeanor" Elliott
"The Jump Off" Lil’ Kim Featuring Mr. Cheeks
"Feelin’ You (Part II)" Solange Featuring N.O.R.E.
9.Best Gospel Album
"Dorinda Clark-Cole" Dorinda Clark-Cole
"Incredible" Mary Mary
"Churchin’ With Dottie" Dottie Peoples
"Determined" Angela Spivey
第9回ソウルトレイン・レディー・オブ・ソウル・アワードのノミネートが発表された。これは、ソウルトレイン・ミュージック・アワードから派生した賞。女性シンガー、アーティストだけを対象とする。
ノミネートは次の通り。発表は8月23日、カリフォルニアのパサディナ・シヴィック・オーディトリウムで行われる。ノミネートは9部門。エリカ・バドゥ、インディア・アリーなどのグラミー組もノミネートされている。
The 9th Annual (2003) Soul Train Lady of Soul Awards Nominees
1.Best R&B/Soul Single, Solo
"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
"He Is" Heather Headley
"So Gone" Monica
2.Best R&B/Soul Single, Group, Band or Duo
"I Do (Wanna Get Close To You)" 3LW
"I Still Love You" 702
"Say Yes" Floetry
"Girl Talk" TLC
3.R&B/Soul Album of the Year, Solo
"Love Story" Vivian Green
"This Is Who I Am" Heather Headley
"Just Whitney..." Whitney Houston
"Voyage To India" India.Arie
4.R&B/Soul Album of the Year, Group, Band or Duo
"Star" 702
"Floetic" Floetry
"3D" TLC
"The Tortoise & The Hare" The Jazzyfatnastees
5.R&B/Soul or Rap Song of the Year
"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Full Moon" Brandy
"Work It" Missy "Misdemeanor" Elliott
"Floetic" Floetry
6.Best R&B/Soul or Rap New Artist, Solo
"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
"He Is" Heather Headley
"Nothin’s Free" Oobie Featuring Lil Jon & The East Side Boyz
"Angel" Amanda Perez
7.Best R&B/Soul or Rap New Artist, Group, Band or Duo
"Say Yes" Floetry
"How It’s Gonna Be" LovHer
"Virginity" TG4
8.Best R&B/Soul or Rap Music Video
"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykay Badu Featuring Common
"Work It’ Missy "Misdemeanor" Elliott
"The Jump Off" Lil’ Kim Featuring Mr. Cheeks
"Feelin’ You (Part II)" Solange Featuring N.O.R.E.
9.Best Gospel Album
"Dorinda Clark-Cole" Dorinda Clark-Cole
"Incredible" Mary Mary
"Churchin’ With Dottie" Dottie Peoples
"Determined" Angela Spivey
スタックス・オープニング・イヴェントのライヴを放映。
2003年4月30日にメンフィスで行われたスタックス・ミュージアムのオープン記念イヴェントのライヴ模様が、アメリカPBSで8月9日に放送される。正式な番組タイトルは『ソウル・カムズ・ホーム: ア・スタックス・レコーズ・アンド・メンフィス・ソウル・ミュージック』。
出演アーティストは、ソロモン・バーク、アル・グリーン、エディー・フロイド、カーラ・トーマス、マイケル・マクドナルド、レンス・アレン、ジミー・ヴォーン、ウィリアム・ベル、リトル・ミルトン、メヴィス・ステイプルスなど。
PBSでは、この模様を収めたCDとDVDを2004年1月の一般発売に先がけて発売する。番組のエグゼクティヴ・プロデューサー、マーク・クロスビーは、「モータウンを思うとき、人々はデトロイトを連想する。このライヴを見る視聴者にも、同じようにスタックスとメンフィスのつながりを感じてもらえればと思う」という。
クロスビーは、この番組とは別にスタックス・レコードのドキュメンタリー番組も制作中だという。
一方、UPNは、今年7月3日から5日までニューオーリンズのスーパードームで行われた『ザ・2003・エッセンス・ミュージック・フェスティヴァル』の模様を2時間にまとめて放送する。登場アーティストは、アシャンテ、エリカ・バドゥ、フェイス・エヴァンス、ジャヒーム、パティー・ラベール、ジェラルド・リヴァート、LLクールJ、シャカ・カーン、タミア、アッシャー、スティーヴィー・ワンダーなど。放映は9月12日、午後8時(東部時間、西部時間とも)から。
+++
ライヴ。
アメリカで、ソウルファンの気になるライヴ映像があいついで放映される。一本がスタックス・ミュージアムのオープンを記念して行われたイヴェントのライヴ、もう一本が今年のエッセンス・ミュージック・フェスティヴァルのライヴだ。
どちらも、実際に行けなかったライヴ。これは、映像でいいからはやいところみたいもの。出演アーティストがなかなか気になるところがたくさんでている。後者は、DVDにでもなるのだろうか。
2003年4月30日にメンフィスで行われたスタックス・ミュージアムのオープン記念イヴェントのライヴ模様が、アメリカPBSで8月9日に放送される。正式な番組タイトルは『ソウル・カムズ・ホーム: ア・スタックス・レコーズ・アンド・メンフィス・ソウル・ミュージック』。
出演アーティストは、ソロモン・バーク、アル・グリーン、エディー・フロイド、カーラ・トーマス、マイケル・マクドナルド、レンス・アレン、ジミー・ヴォーン、ウィリアム・ベル、リトル・ミルトン、メヴィス・ステイプルスなど。
PBSでは、この模様を収めたCDとDVDを2004年1月の一般発売に先がけて発売する。番組のエグゼクティヴ・プロデューサー、マーク・クロスビーは、「モータウンを思うとき、人々はデトロイトを連想する。このライヴを見る視聴者にも、同じようにスタックスとメンフィスのつながりを感じてもらえればと思う」という。
クロスビーは、この番組とは別にスタックス・レコードのドキュメンタリー番組も制作中だという。
一方、UPNは、今年7月3日から5日までニューオーリンズのスーパードームで行われた『ザ・2003・エッセンス・ミュージック・フェスティヴァル』の模様を2時間にまとめて放送する。登場アーティストは、アシャンテ、エリカ・バドゥ、フェイス・エヴァンス、ジャヒーム、パティー・ラベール、ジェラルド・リヴァート、LLクールJ、シャカ・カーン、タミア、アッシャー、スティーヴィー・ワンダーなど。放映は9月12日、午後8時(東部時間、西部時間とも)から。
+++
ライヴ。
アメリカで、ソウルファンの気になるライヴ映像があいついで放映される。一本がスタックス・ミュージアムのオープンを記念して行われたイヴェントのライヴ、もう一本が今年のエッセンス・ミュージック・フェスティヴァルのライヴだ。
どちらも、実際に行けなかったライヴ。これは、映像でいいからはやいところみたいもの。出演アーティストがなかなか気になるところがたくさんでている。後者は、DVDにでもなるのだろうか。
Whitney Will Turn 40
2003年8月5日誕生日。
昨日のWBLSの「サンデイ・クラシック」(107.5Mhz-New York=http://www.wbls.com/)では、さかんにホイットニー・ヒューストンがかかっている。と思ったら、そう、ホイットニーは8月9日が誕生日なんですね。ちなみに生まれは1963年、昭和で言えば38年、ということはウサギ年です。
ホイットニーはデビュー前から注目されてました。83年、ポール・ジャバラ(今は亡き)のアルバムで、一曲「エターナティー」という曲をフィーチャード・シンガーとして歌うんですが、これがけっこういい曲でした。そのあと、当時の先鋭的なジャズ・ファンク・グループ、マテリアルでも一曲歌ってました。そして、翌年84年、テディー・ペンダグラスとのデュエット「ホールド・ミー」のヒットです。
84年7月に彼女に会いました。デビュー前です。ニューヨークのお隣コネチカット州にあるプロデューサー、カシーフの家に遊びに行ったときにたまたま彼女が来てたんですね。そのとき彼女が「私、日本に行ったことあるのよ。なにかの音楽祭で母親について」というのでびっくりしました。それが、ヤマハの音楽祭ですね。シシーのバックで、当時16歳のホイットニーが来ていたわけです。
この時期になると、アメリカの業界内ではかなり話題になってましたね。そして、85年2月、満を持してデビューですね。これは衝撃的でした。だけど、日本ではぜんぜん注目されなかったんですよ。日本盤が85年5月くらいにでたのかな。発売当初は。確か、デビュー・アルバムの初回出荷は2000枚程度だったはずです。
その日本盤のジャケットは、アメリカ盤と違っています。84年暮れに日本の雑誌マリークレールがいち早く現地取材をしたのですが、そのときに撮影した水着の写真をジャケットにしました。この頃、よくアメリカ盤ジャケットと日本盤のそれを変更することがありましたから、その流れですね。アメリカ盤のがホイットニーの顔のアップであんまり日本人受けしないと思ったのでしょう。
最初のシングル「ユー・ギヴ・グッド・ラヴ」は、日本ではぜんぜん話題にならず、そして、続く「セイヴィング・オール・マイ・ラヴ」がアメリカで大ヒットしたあたりから火が徐々につき始めました。そして、「ハウ・ウィル・アイ・ノウ」、「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」で完全に大ブレイクですね。
その後は、もはや歴史です。85年夏、ホイットニーのライヴをニューヘヴンだったかで見ました。ジェフリー・オズボーンの前座でした。短かったですが、まあ、よかったです。その後、ライヴ・ショウはどんどんよくなっていきますね。先の「エタニティー」という曲、彼女の初来日時にはステージで歌っていました。
ちょっと最近のホイットニーは、見るのが辛いですねえ。先日ドラッグから立ち直ったっていう告白をしたそうですが、はやく元気のいいディーヴァに戻って欲しいものです。ホイットニー今年の誕生日で、ちょうど40歳。まだ、40歳なんですからもう一花もふた花も咲かせてください。
昨日のWBLSの「サンデイ・クラシック」(107.5Mhz-New York=http://www.wbls.com/)では、さかんにホイットニー・ヒューストンがかかっている。と思ったら、そう、ホイットニーは8月9日が誕生日なんですね。ちなみに生まれは1963年、昭和で言えば38年、ということはウサギ年です。
ホイットニーはデビュー前から注目されてました。83年、ポール・ジャバラ(今は亡き)のアルバムで、一曲「エターナティー」という曲をフィーチャード・シンガーとして歌うんですが、これがけっこういい曲でした。そのあと、当時の先鋭的なジャズ・ファンク・グループ、マテリアルでも一曲歌ってました。そして、翌年84年、テディー・ペンダグラスとのデュエット「ホールド・ミー」のヒットです。
84年7月に彼女に会いました。デビュー前です。ニューヨークのお隣コネチカット州にあるプロデューサー、カシーフの家に遊びに行ったときにたまたま彼女が来てたんですね。そのとき彼女が「私、日本に行ったことあるのよ。なにかの音楽祭で母親について」というのでびっくりしました。それが、ヤマハの音楽祭ですね。シシーのバックで、当時16歳のホイットニーが来ていたわけです。
この時期になると、アメリカの業界内ではかなり話題になってましたね。そして、85年2月、満を持してデビューですね。これは衝撃的でした。だけど、日本ではぜんぜん注目されなかったんですよ。日本盤が85年5月くらいにでたのかな。発売当初は。確か、デビュー・アルバムの初回出荷は2000枚程度だったはずです。
その日本盤のジャケットは、アメリカ盤と違っています。84年暮れに日本の雑誌マリークレールがいち早く現地取材をしたのですが、そのときに撮影した水着の写真をジャケットにしました。この頃、よくアメリカ盤ジャケットと日本盤のそれを変更することがありましたから、その流れですね。アメリカ盤のがホイットニーの顔のアップであんまり日本人受けしないと思ったのでしょう。
最初のシングル「ユー・ギヴ・グッド・ラヴ」は、日本ではぜんぜん話題にならず、そして、続く「セイヴィング・オール・マイ・ラヴ」がアメリカで大ヒットしたあたりから火が徐々につき始めました。そして、「ハウ・ウィル・アイ・ノウ」、「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」で完全に大ブレイクですね。
その後は、もはや歴史です。85年夏、ホイットニーのライヴをニューヘヴンだったかで見ました。ジェフリー・オズボーンの前座でした。短かったですが、まあ、よかったです。その後、ライヴ・ショウはどんどんよくなっていきますね。先の「エタニティー」という曲、彼女の初来日時にはステージで歌っていました。
ちょっと最近のホイットニーは、見るのが辛いですねえ。先日ドラッグから立ち直ったっていう告白をしたそうですが、はやく元気のいいディーヴァに戻って欲しいものです。ホイットニー今年の誕生日で、ちょうど40歳。まだ、40歳なんですからもう一花もふた花も咲かせてください。
謎。
「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」、そんな昔から2ヴァージョンあったんですか。知りませんでした。いやあ、びっくり。NHK「ソウル・ミュージック」のBBSで、ホイットニーのファーストアルバムについての話題がでていて、そこで知りました。
アメリカ盤のデビュー・アルバム『ホイットニー』http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&uid=CASS80305190557&sql=Amzaqoarabijzのジャケットはオレンジ色を基調とした髪の毛も非常に短いかなりエキゾチックなホイットニーの顔のアップの写真が使われています。日本盤は、海辺の水着を着たホイットニーの姿になっています。
当時ジャケットを変えたのは、アメリカ盤がかなりエキゾチックで日本人受けしそうにない、というためだと担当のディレクターから聞きました。
僕はずっとこの日本盤しか聴いていなかったので、その「グレイテスト・ラヴ・・・」に2ヴァージョンあるとは夢にも思っていませんでした。日本盤の同曲はイントロがアコースティック・ピアノで弾かれ、アメリカ盤はエレキピアノで弾かれているとの指摘でした。確かに日本盤はアコースティックピアノです。輸入盤(アメリカ盤)もどこかにあるんですが、ちょっと探したところ見当たりませんでした。
もっとも、2000年5月にホイットニーの『グレイテスト・ヒッツ』というCD2枚組がでましたが、このときの「グレイテスト・・・」のイントロがエレキピアノなんで、ちょっと「あれ?」と思ったんです。なんか音違うなあ、などと思ったのですが、リマスターかリミックスでもしたのか、くらいにしかあんまり気にもとめなかったんですね。この『グレイテスト・ヒッツ』用にね。
しかし今回改めて聞くと、当初の日本盤ヴァイナルはアコースティックピアノです。で、その『グレイテスト・ヒッツ』のははっきりエレピ。録音が違う。イントロの長さも違う。でもヴォーカルは同じです。
でも、よく考えるとちょっとおかしいですよねえ。なんでアメリカ盤がエレキピアノヴァージョンに差し変わってるのでしょう。謎です。最初に出たのがエレキピアノヴァージョンで、日本盤が後から出たときに、アコースティックヴァージョンに差し替えられた。となると、話のつじつまが合わない。これはありえなさそうです。
こう考えられるのではないでしょうか。最初は、アメリカも日本もアコースティックヴァージョンだった。あるいは最初にマスターが日本に来たときにはアコースティックだった。しかし、後に、アメリカでこれをシングルカットするときかなにかに、エレキピアノヴァージョンを録音しなおした。それをアルバムにいれたか、あるいはシングルとしてリリース。アルバムのほうも、それに差し替えた。しかし、日本盤はもうすでに、旧ヴァージョンでプレスが進んでいたので、差し替えることなく昔のままのヴァージョンが残った。そして、アメリカ盤はエレキヴァージョン、日本盤にはアコースティックヴァージョンが残った。
もし仮にこうだとすると、アメリカの初期のプレスにはアコースティックヴァージョンが残っていることになりますね。そうなるとこれは、超レアものになります。一挙にヴァリューがあがるんじゃないでしょうか。しかしジャケットだけからでは初期のプレスかどうかなんてわからない。それとも最初のプレスからエレキピアノだったのでしょうか。
この「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」にはもうひとつ謎というかミステリーがあります。それは、ホイットニーの最初のヒット「ユー・ギヴ・グッド・ラヴ(そよ風の贈りもの)」のシングルのB面に収録されているのです。そして、それからおよそ1年後の86年3月、この曲はこんどはA面扱いで、改めてシングル「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」としてリリースされるのです。このときのシングル盤を持っているかというと、持ってないような気がします。これらのシングル・ヴァージョンはどっちなのでしょう。最初のB面のがアコースティックで、86年に出たシングルがエレピだったりするのでしょうか。これは両方ともシングルを聴いてみたい。
もっとも、当初「グレイテスト・・・」がシングルのB面になったのは、彼女がこれほどまでのスーパースターになるとは予想できなかったためなのです。この曲をシングルにする予定はなかったのです。しかし次々ヒットをだし、アルバムからできるだけ多くのシングルを切りたいと考えたとき、後になってこの曲はいいので、B面で一度使っていたものの改めてシングルカットしたわけです。
アルバム自体はアメリカ盤は85年2月14日発売、日本盤は4月1日発売でした。
ホイットニーのマニアの人たちは、このことを知っているんでしょうか。この謎の答をおもちの方はぜひ教えてください。
早急にどこかに埋もれているアメリカ盤を探さないことには、気になって夜も寝れなくなります。(笑)
「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」、そんな昔から2ヴァージョンあったんですか。知りませんでした。いやあ、びっくり。NHK「ソウル・ミュージック」のBBSで、ホイットニーのファーストアルバムについての話題がでていて、そこで知りました。
アメリカ盤のデビュー・アルバム『ホイットニー』http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&uid=CASS80305190557&sql=Amzaqoarabijzのジャケットはオレンジ色を基調とした髪の毛も非常に短いかなりエキゾチックなホイットニーの顔のアップの写真が使われています。日本盤は、海辺の水着を着たホイットニーの姿になっています。
当時ジャケットを変えたのは、アメリカ盤がかなりエキゾチックで日本人受けしそうにない、というためだと担当のディレクターから聞きました。
僕はずっとこの日本盤しか聴いていなかったので、その「グレイテスト・ラヴ・・・」に2ヴァージョンあるとは夢にも思っていませんでした。日本盤の同曲はイントロがアコースティック・ピアノで弾かれ、アメリカ盤はエレキピアノで弾かれているとの指摘でした。確かに日本盤はアコースティックピアノです。輸入盤(アメリカ盤)もどこかにあるんですが、ちょっと探したところ見当たりませんでした。
もっとも、2000年5月にホイットニーの『グレイテスト・ヒッツ』というCD2枚組がでましたが、このときの「グレイテスト・・・」のイントロがエレキピアノなんで、ちょっと「あれ?」と思ったんです。なんか音違うなあ、などと思ったのですが、リマスターかリミックスでもしたのか、くらいにしかあんまり気にもとめなかったんですね。この『グレイテスト・ヒッツ』用にね。
しかし今回改めて聞くと、当初の日本盤ヴァイナルはアコースティックピアノです。で、その『グレイテスト・ヒッツ』のははっきりエレピ。録音が違う。イントロの長さも違う。でもヴォーカルは同じです。
でも、よく考えるとちょっとおかしいですよねえ。なんでアメリカ盤がエレキピアノヴァージョンに差し変わってるのでしょう。謎です。最初に出たのがエレキピアノヴァージョンで、日本盤が後から出たときに、アコースティックヴァージョンに差し替えられた。となると、話のつじつまが合わない。これはありえなさそうです。
こう考えられるのではないでしょうか。最初は、アメリカも日本もアコースティックヴァージョンだった。あるいは最初にマスターが日本に来たときにはアコースティックだった。しかし、後に、アメリカでこれをシングルカットするときかなにかに、エレキピアノヴァージョンを録音しなおした。それをアルバムにいれたか、あるいはシングルとしてリリース。アルバムのほうも、それに差し替えた。しかし、日本盤はもうすでに、旧ヴァージョンでプレスが進んでいたので、差し替えることなく昔のままのヴァージョンが残った。そして、アメリカ盤はエレキヴァージョン、日本盤にはアコースティックヴァージョンが残った。
もし仮にこうだとすると、アメリカの初期のプレスにはアコースティックヴァージョンが残っていることになりますね。そうなるとこれは、超レアものになります。一挙にヴァリューがあがるんじゃないでしょうか。しかしジャケットだけからでは初期のプレスかどうかなんてわからない。それとも最初のプレスからエレキピアノだったのでしょうか。
この「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」にはもうひとつ謎というかミステリーがあります。それは、ホイットニーの最初のヒット「ユー・ギヴ・グッド・ラヴ(そよ風の贈りもの)」のシングルのB面に収録されているのです。そして、それからおよそ1年後の86年3月、この曲はこんどはA面扱いで、改めてシングル「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」としてリリースされるのです。このときのシングル盤を持っているかというと、持ってないような気がします。これらのシングル・ヴァージョンはどっちなのでしょう。最初のB面のがアコースティックで、86年に出たシングルがエレピだったりするのでしょうか。これは両方ともシングルを聴いてみたい。
もっとも、当初「グレイテスト・・・」がシングルのB面になったのは、彼女がこれほどまでのスーパースターになるとは予想できなかったためなのです。この曲をシングルにする予定はなかったのです。しかし次々ヒットをだし、アルバムからできるだけ多くのシングルを切りたいと考えたとき、後になってこの曲はいいので、B面で一度使っていたものの改めてシングルカットしたわけです。
アルバム自体はアメリカ盤は85年2月14日発売、日本盤は4月1日発売でした。
ホイットニーのマニアの人たちは、このことを知っているんでしょうか。この謎の答をおもちの方はぜひ教えてください。
早急にどこかに埋もれているアメリカ盤を探さないことには、気になって夜も寝れなくなります。(笑)
New Edition Live At AX
2003年8月7日王道。
淡いブルー系のスーツに身を包んだ5人がステージに登場すると、いきなりそこには光が広がった。5人組R&Bヴォーカル・グループ、ニュー・エディションの初来日コンサート。メンバーは、ジョニー・ギル、ラルフ・トレスヴァント、リッキー・ベル、マイケル・ビヴィンズ、ロニー・デヴォー。
彼らは、これまでに日本でもジョニー、ラルフはそれぞれソロ・ライヴを行ったことがあり、また、後者3人もベル・ビヴ・デヴォーとしてライヴをやっている。しかし、彼らがまとまって登場するのは今度が初めてということになる。おしむらくは、もうひとりのリード・シンガー、ボビー・ブラウンが一緒に来日すれば、という感じはある。
しかし、全体的には典型的なR&Bヴォーカル・グループの系譜をしっかりと歩んできた姿を見せてくれた。たとえば、そこにはテンプテーションズの粋があり、ジャクソン・ファイヴの香りが漂い、マンハッタンズの洗練がにじみ出ていた。一番感心したのは、かなり多くの曲にしっかりした振り付け(コレオグラフィー)がなされているという点。70年代風というか、一昔前風という感じはするのだが、いかにもヴォーカル・グループはこう踊るんです、という王道を行っている。この踊り、振り付けはなんと言っても最高だ。
全体的な構成は、最近のニュー・エディションのヒット、初期のヒット、ジョニーのソロ、ラルフのソロ、ベル・ビヴ・デヴォーとしてのパート、といったところで、さすがにボビー・ブラウンのソロ・ヒット・パートはなかったが、まあ、だいたいのところはすべて網羅した感じ。
おもしろいことに、10数年前のあのニュー・ジャック・スゥイング系のヒットが歌われると、時代が古く感じられる。さすがに、あれほどの大ブームだと、ある時期に特化して記憶が焼き付けられるのだろう。
選曲はヒット曲を網羅しているのでファンにとってはだいたいいいと思うが、個人的には彼ら自身もヒットさせた「アース・エンジェル」「ティアーズ・オン・マイ・ピロウ」あたりのドゥワップ・ソングをさりげなくいれて欲しかった。
さて、一番個人的に盛り上がったのは、ジョニー・ギルのソロパート。「マイ・マイ・マイ」を約10分に渡り、赤いバラを配りながら歌った。驚いたのは、彼が途中でギターを持ってそれを弾いたところ。前回の時もこんなシーンはあったっけ。覚えてない。いつからギター弾くようになったんだろう。サビの「マイ、マイ、マイ・・・」というところは、観客が大合唱する。こういうのは気持ちいいだろうな。
やはり、ジョニーとラルフがシンガーとしては一歩抜き出ている感じ。観客層はちょっと年齢層高く、いかにも10年前ニュー・ジャック・スゥイングで踊り倒しました風の人も多かったように思える。ただし、急な来日ということもあり、客の入りは半分より少々多い程度でした。ちょっとかつて、BBDやラルフの単独ショウを見た今は亡き有明MZAのすきすきライヴを思い出した。大雨の中出向いた1時間31分のライヴ、外に出ると雨は小ぶりになっていた。
(2003年8月5日火曜・渋谷AX=ニュー・エディション・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>NEW EDITION
淡いブルー系のスーツに身を包んだ5人がステージに登場すると、いきなりそこには光が広がった。5人組R&Bヴォーカル・グループ、ニュー・エディションの初来日コンサート。メンバーは、ジョニー・ギル、ラルフ・トレスヴァント、リッキー・ベル、マイケル・ビヴィンズ、ロニー・デヴォー。
彼らは、これまでに日本でもジョニー、ラルフはそれぞれソロ・ライヴを行ったことがあり、また、後者3人もベル・ビヴ・デヴォーとしてライヴをやっている。しかし、彼らがまとまって登場するのは今度が初めてということになる。おしむらくは、もうひとりのリード・シンガー、ボビー・ブラウンが一緒に来日すれば、という感じはある。
しかし、全体的には典型的なR&Bヴォーカル・グループの系譜をしっかりと歩んできた姿を見せてくれた。たとえば、そこにはテンプテーションズの粋があり、ジャクソン・ファイヴの香りが漂い、マンハッタンズの洗練がにじみ出ていた。一番感心したのは、かなり多くの曲にしっかりした振り付け(コレオグラフィー)がなされているという点。70年代風というか、一昔前風という感じはするのだが、いかにもヴォーカル・グループはこう踊るんです、という王道を行っている。この踊り、振り付けはなんと言っても最高だ。
全体的な構成は、最近のニュー・エディションのヒット、初期のヒット、ジョニーのソロ、ラルフのソロ、ベル・ビヴ・デヴォーとしてのパート、といったところで、さすがにボビー・ブラウンのソロ・ヒット・パートはなかったが、まあ、だいたいのところはすべて網羅した感じ。
おもしろいことに、10数年前のあのニュー・ジャック・スゥイング系のヒットが歌われると、時代が古く感じられる。さすがに、あれほどの大ブームだと、ある時期に特化して記憶が焼き付けられるのだろう。
選曲はヒット曲を網羅しているのでファンにとってはだいたいいいと思うが、個人的には彼ら自身もヒットさせた「アース・エンジェル」「ティアーズ・オン・マイ・ピロウ」あたりのドゥワップ・ソングをさりげなくいれて欲しかった。
さて、一番個人的に盛り上がったのは、ジョニー・ギルのソロパート。「マイ・マイ・マイ」を約10分に渡り、赤いバラを配りながら歌った。驚いたのは、彼が途中でギターを持ってそれを弾いたところ。前回の時もこんなシーンはあったっけ。覚えてない。いつからギター弾くようになったんだろう。サビの「マイ、マイ、マイ・・・」というところは、観客が大合唱する。こういうのは気持ちいいだろうな。
やはり、ジョニーとラルフがシンガーとしては一歩抜き出ている感じ。観客層はちょっと年齢層高く、いかにも10年前ニュー・ジャック・スゥイングで踊り倒しました風の人も多かったように思える。ただし、急な来日ということもあり、客の入りは半分より少々多い程度でした。ちょっとかつて、BBDやラルフの単独ショウを見た今は亡き有明MZAのすきすきライヴを思い出した。大雨の中出向いた1時間31分のライヴ、外に出ると雨は小ぶりになっていた。
(2003年8月5日火曜・渋谷AX=ニュー・エディション・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>NEW EDITION
全身全霊。
ニュー・エディション、二日目。前日よりお客さんの数が多い。7時24分、真っ暗になったステージにバンドメンバー4名が登場。白いスーツを着た5人がまもなくステージに現れ、マイクを握る。一曲目の「N.E.ハートブレイク」ですでに会場から「ジョニー! ジョニー!」の掛け声がかかる。会場が熱気にあふれている。「ボーイズ・トゥ・メン」ではすでに前面にジョニー・ギルがでて歌う。
レコーディングのスケジュールがうまくあき、突然来られることになったゴスペラーズの黒沢氏、始まる前から「ジョニー、何歌うの? はやくジョニー、見たいなあ」と、すっかりジョニー熱にうなされていたが、会場の多くの人も同じだったようだ。なぜか「ラルフ〜〜〜」の声はかからないが、「ジョニー、ジョニー」の掛け声はあちこちでかかる。恐るべし、ジョニー人気。
「ハードコアなニュー・エディション・ファンにお送りしよう」と言って歌い始めたのが、83年彼らの初ヒット「キャンディ・ガール」から始まるヒットメドレー。「ミスター・テレフォン・マン」「クール・イット・ナウ」など、83年から85年にかけての大ヒットが次々と飛び出す。当時を知る人にとっては、もうたまらない怒涛の選曲だ。
「ロスト・イン・ラヴ」はジョニーがリードを取るが、"stay with me tonight"のトゥナイトというところを、ジョニーはあのジョニー節で伸ばす。もうそれだけで、会場がジョニーのものになる。観客の手渡すハンカチで汗をぬぐい、それをまた返すというサーヴィスも忘れない。
基本的にはラルフがソロ・リードを取ることが多いが、BBDの3人、ジョニーにもしっかり出番がある。「イズ・ディス・ジ・エンド」は、舞台右手で椅子のうえに4人が座り、その前にラルフがひざまずいて歌う。ティーン(当時)の失恋ソングをこうやってサーティー(30代)になっても歌えるというあたりが、ラヴソングの普遍性か。もっとも恋や愛に10代も20代もないが。70超えて父親になる役者もいるわけだから。
ニュー・エディション・メドレーが終わると、ロニーが一人ひとりメンバー紹介して、ジョニーのパートへ。「ラブ・ユー・ザ・ライト・ウェイ」でいきなり全開モード。ジョニーの歌いっぷりはいつものことながら、なんでまた、あんなに弾けているのだろう。全身全霊で、自分が出せる最大の声と、自分が動かせる最大の体の動きを見せる。どちらも自分のマックスで勝負という感じで、余裕を持ってなんてことはしない。一言で言えば、熱い。
「ラブ・ユー・・・」が終わると、「さあ、どうだ」と言わんばかりに、両手を広げる。う〜〜ん、まさに「ジョニー・ウィズ・アティテュード(Johnny with attitude)」。しばし拍手の嵐が続き、その中で次の曲のイントロが始まる。イントロだけで、観客はその曲を知る。お待ちかねの「マイ・マイ・マイ」だ。こんなスローバラードなのに、めちゃくちゃ熱い。このライヴでの燃え滾る(たぎる)ジョニーを見ると、レコーディングのとき、どうやってその欲情を抑えていたのだろうかとふと疑問に思う。
そして、今度はベル・ビヴ・デヴォーの時間。「ドゥ・ミー」「ポイズン」・・・。「ドゥ・ミー」はそんなに今回はいやらしさを感じさせなかった。リッキーのソロで「スマイル・アゲイン」(BBDのCD『ポイズン』収録)、さらに続いてはラルフのソロ「センシティヴィティー」へ。この間ジョニーは、後ろでギターを弾いている。まあ、シンガー多数いれど、あのジョニー・ギルをバックコーラスやバックのギターで使うことができるグループはこのニュー・エディションだけだ。
彼らの振り付け(コレオグラフィー)には、大変感心した。どの曲にも徹底して振り付けが決まっている。どの曲もなかなかだったが、最後から一曲前の「イフ・イット・イズント・ラヴ」の振り付けは、最高だ。何度も見たくなる、やりたくなるような、振り付けで、実によくできている。こうした決まった振り付けで満たされた王道のR&Bライヴをみていると、いつしか渋谷のAXがニューヨーク125丁目のアポロシアターになったかのような錯覚に陥る。
ライヴ終了後、黒沢氏、酒井氏らと楽屋におもむく。汗を拭き、着替えてやってきたメンバーの中で、ジョニーはちょっと小柄。頭にターバンのようなものを巻いてサングラスをしていたので、最初ちょっとわからなかった。楽屋には昨日も来ていたFM『ソウル・トレイン』のリュウ夫妻もまた来てた。「優子がこんなにきれいなアルバム、持ってるんで、サインもらうんだ」と2枚のアルバムを見せてくれた。確かに、ジャケットは傷もなくきれい。中古レコードのレーティングで言えば、「ミント・コンディション」だ。
黒沢氏がジョニーに言う。「大ファンで、あなたの歌もラジオの番組で歌いました」 ジョニー。「おおお、それはありがとう」 そして、サインをもらう。もってきたCDは、88年の『ハートブレイク』。ライヴのオープニングで歌われた「N.E.ハートブレイク」「イフ・イット・イズント・ラヴ」なども収録されているアルバムだ。「ほら、これ、(ボビーが抜けて)ジョニーがリードになった作品だから。完璧でしょ」と解説。とはいうもののちょっと上がり気味か。
石島さんは、ジョニーに「3G」のグループの謎を尋ねている。結局、この「3G」はジョニー・ギルではないと言われたらしい。酒井氏はその間もにこにこしている。みんなでジョニー、ラルフと写真をとったあたりで、メンバーはもう帰るというので、他の3人とゆっくりしゃべることもできずに解散となってしまった。ジョニーに、いつからギターを弾き出したのか聞くのを忘れた。
前日より、曲目は同じなのにショウは10分も長く、のりもよかった。「昨日は、昨日着いたばかりのメンバーもいたんで、やっぱり疲れてたんじゃないでしょうか」と、スタッフの人が言った。とはいうものの、やっぱりこういう王道のR&Bヴォーカル・グループは、いい。
(2003年8月6日水曜・渋谷AX=ニュー・エディション・ライヴ)
ニュー・エディション、二日目。前日よりお客さんの数が多い。7時24分、真っ暗になったステージにバンドメンバー4名が登場。白いスーツを着た5人がまもなくステージに現れ、マイクを握る。一曲目の「N.E.ハートブレイク」ですでに会場から「ジョニー! ジョニー!」の掛け声がかかる。会場が熱気にあふれている。「ボーイズ・トゥ・メン」ではすでに前面にジョニー・ギルがでて歌う。
レコーディングのスケジュールがうまくあき、突然来られることになったゴスペラーズの黒沢氏、始まる前から「ジョニー、何歌うの? はやくジョニー、見たいなあ」と、すっかりジョニー熱にうなされていたが、会場の多くの人も同じだったようだ。なぜか「ラルフ〜〜〜」の声はかからないが、「ジョニー、ジョニー」の掛け声はあちこちでかかる。恐るべし、ジョニー人気。
「ハードコアなニュー・エディション・ファンにお送りしよう」と言って歌い始めたのが、83年彼らの初ヒット「キャンディ・ガール」から始まるヒットメドレー。「ミスター・テレフォン・マン」「クール・イット・ナウ」など、83年から85年にかけての大ヒットが次々と飛び出す。当時を知る人にとっては、もうたまらない怒涛の選曲だ。
「ロスト・イン・ラヴ」はジョニーがリードを取るが、"stay with me tonight"のトゥナイトというところを、ジョニーはあのジョニー節で伸ばす。もうそれだけで、会場がジョニーのものになる。観客の手渡すハンカチで汗をぬぐい、それをまた返すというサーヴィスも忘れない。
基本的にはラルフがソロ・リードを取ることが多いが、BBDの3人、ジョニーにもしっかり出番がある。「イズ・ディス・ジ・エンド」は、舞台右手で椅子のうえに4人が座り、その前にラルフがひざまずいて歌う。ティーン(当時)の失恋ソングをこうやってサーティー(30代)になっても歌えるというあたりが、ラヴソングの普遍性か。もっとも恋や愛に10代も20代もないが。70超えて父親になる役者もいるわけだから。
ニュー・エディション・メドレーが終わると、ロニーが一人ひとりメンバー紹介して、ジョニーのパートへ。「ラブ・ユー・ザ・ライト・ウェイ」でいきなり全開モード。ジョニーの歌いっぷりはいつものことながら、なんでまた、あんなに弾けているのだろう。全身全霊で、自分が出せる最大の声と、自分が動かせる最大の体の動きを見せる。どちらも自分のマックスで勝負という感じで、余裕を持ってなんてことはしない。一言で言えば、熱い。
「ラブ・ユー・・・」が終わると、「さあ、どうだ」と言わんばかりに、両手を広げる。う〜〜ん、まさに「ジョニー・ウィズ・アティテュード(Johnny with attitude)」。しばし拍手の嵐が続き、その中で次の曲のイントロが始まる。イントロだけで、観客はその曲を知る。お待ちかねの「マイ・マイ・マイ」だ。こんなスローバラードなのに、めちゃくちゃ熱い。このライヴでの燃え滾る(たぎる)ジョニーを見ると、レコーディングのとき、どうやってその欲情を抑えていたのだろうかとふと疑問に思う。
そして、今度はベル・ビヴ・デヴォーの時間。「ドゥ・ミー」「ポイズン」・・・。「ドゥ・ミー」はそんなに今回はいやらしさを感じさせなかった。リッキーのソロで「スマイル・アゲイン」(BBDのCD『ポイズン』収録)、さらに続いてはラルフのソロ「センシティヴィティー」へ。この間ジョニーは、後ろでギターを弾いている。まあ、シンガー多数いれど、あのジョニー・ギルをバックコーラスやバックのギターで使うことができるグループはこのニュー・エディションだけだ。
彼らの振り付け(コレオグラフィー)には、大変感心した。どの曲にも徹底して振り付けが決まっている。どの曲もなかなかだったが、最後から一曲前の「イフ・イット・イズント・ラヴ」の振り付けは、最高だ。何度も見たくなる、やりたくなるような、振り付けで、実によくできている。こうした決まった振り付けで満たされた王道のR&Bライヴをみていると、いつしか渋谷のAXがニューヨーク125丁目のアポロシアターになったかのような錯覚に陥る。
ライヴ終了後、黒沢氏、酒井氏らと楽屋におもむく。汗を拭き、着替えてやってきたメンバーの中で、ジョニーはちょっと小柄。頭にターバンのようなものを巻いてサングラスをしていたので、最初ちょっとわからなかった。楽屋には昨日も来ていたFM『ソウル・トレイン』のリュウ夫妻もまた来てた。「優子がこんなにきれいなアルバム、持ってるんで、サインもらうんだ」と2枚のアルバムを見せてくれた。確かに、ジャケットは傷もなくきれい。中古レコードのレーティングで言えば、「ミント・コンディション」だ。
黒沢氏がジョニーに言う。「大ファンで、あなたの歌もラジオの番組で歌いました」 ジョニー。「おおお、それはありがとう」 そして、サインをもらう。もってきたCDは、88年の『ハートブレイク』。ライヴのオープニングで歌われた「N.E.ハートブレイク」「イフ・イット・イズント・ラヴ」なども収録されているアルバムだ。「ほら、これ、(ボビーが抜けて)ジョニーがリードになった作品だから。完璧でしょ」と解説。とはいうもののちょっと上がり気味か。
石島さんは、ジョニーに「3G」のグループの謎を尋ねている。結局、この「3G」はジョニー・ギルではないと言われたらしい。酒井氏はその間もにこにこしている。みんなでジョニー、ラルフと写真をとったあたりで、メンバーはもう帰るというので、他の3人とゆっくりしゃべることもできずに解散となってしまった。ジョニーに、いつからギターを弾き出したのか聞くのを忘れた。
前日より、曲目は同じなのにショウは10分も長く、のりもよかった。「昨日は、昨日着いたばかりのメンバーもいたんで、やっぱり疲れてたんじゃないでしょうか」と、スタッフの人が言った。とはいうものの、やっぱりこういう王道のR&Bヴォーカル・グループは、いい。
(2003年8月6日水曜・渋谷AX=ニュー・エディション・ライヴ)
魔術師。
前回ブルーノートで見たのは2001年5月なので、2年以上前のことになる。そのときは多数のパーカッション奏者を並べた非常にユニークな実験的な演奏だったのでよく覚えている。それがキップ・ハンラハンの「ディープルンバ」の公演だった。
今回はキップ・ハンラハンの「コンジュアー」としての公演。キップは、言ってみればバンドマスターで、様々なメンバーを集めて、違うユニットを組む。これもそのひとつということになる。
「コンジュア」とは、まじない、魔法、呪文といったような意味。「コンジュラー」は、まじないをする人、魔術師、といった意味になる。
キップ・ハンラハンという人物はものすごく異端だ。今回のこのユニットの最大の目玉は「ポエトリー・リーディング」、つまり詩の朗読だ。先鋭的な黒人詩人、イシュメール・リードの詩作の朗読に、音楽をつけたりしている。
ブルーノートの階段を降りていくと、すでにライヴはスタートしていて、誰かが歌っているのが聴こえた。ヴォーカルがいるとは思っていなかったので、少し驚いた。そして、まもなくリードの詩の朗読が始まった。音楽をバックに読む。
「戦争という状況の中では、そんなことが起こる・・・」というサビが何度も繰り返され、戦争が起こるときの悲惨な例が次々と紹介される。すべてを聞き取ることはできなかったが、なにかを言ったあと、ヴォーカルのアルヴィン・ヤングブラッドが「戦争という状況の中では、そんなことが起こる・・・」というセリフを繰り返しているのが非常に印象に残った。まさにコール&レスポンスの世界だ。
これを聴きながら、以前ニューヨークのカフェかどこかで体験したポエトリー・リーディングを思い出した。まさに、Sooooo New Yorkな空気がぷんぷんしていた。しかも、アップタウンではなく、ダウンタウンのヴィレッジあたりのヒッピー、モッズ風のカフェだ。ニューヨークのポエトリー・リーディングの会って、聴いてる人は聴いているけど、聴いてない人は自分たちで勝手にしゃべってるので、けっこう騒々しい。もちろん、シーンとしてるのもあるのかもしれないが。
英語の詩は、たぶん、かなりわかりにくいと思うが、一遍日本語の詩を作って読んでいた。それが「アザブ・カフェ」というタイトルの詩だ。「麻布喫茶店、毎晩ここに座る。ゴハンは、タバコ。水はウイスキー。(あなたに)手紙を書きます」 これを英語、日本語で繰り返す。最初日本語がよくわからなかったが、何度か繰り返されるうちに意味がわかった。全体的には、非常にカルチャー的におもしろいライヴだった。でも、きっと、来ているお客さんの8割は、なんなんだろう、これは、と思っていたのではないだろうか。なんとなく、キップ・ハンラハンを見にきたというより、ブルーノートにやってきました、という人が多かったのではないだろうか。(笑) 逆にいえば、なかなか滅多に見られないソ〜〜〜・ニューヨークのキップ・ハンラハンのライヴを東京で見られるのだから、ラッキーだ。コンジュアー、まさに、呪文、魔術。そのグループ名が音楽を表していた。
ライヴが終わったあと、ヴァイオリン奏者のビリー・バングという人物がたまたま近くに来てはなすことになった。「日本に初めて来たのは81年。キップとは昔からの知り合いだ。彼はオレと同じブロンクス生まれだからね。日本には3−4回目かな。ヨコハマ知ってるぞ。ヨコハマギンバエ知ってるんだ」
なぜ横浜の話になったか、思い出せないが、まあ、とにかく横浜の話になった。「な、な、なんで横浜銀蝿なんて知ってるの?」と尋ねると、そのいきさつをこう説明してくれた。「初めて来日したとき、なぜかどこかでスーツケースがなくなってしまったんだ。で、着るものなんかなくなって途方にくれていたんだが、みんながいろんなTシャツとかをたくさんくれたんだよ。そんな中に、一枚のTシャツがあって、気に入って着ていた。そこに書かれていたのが、ヨコハマギンバエって字だったんだよ。日本のロックンロール・グループなんだろ。聴いたことはないんだけどね。(笑) ギンバエってどういう意味なんだ?」
「シルヴァー(銀)・フライ(蝿)かな。ぶ〜〜ん、て飛ぶような」 「ほんとか?」 「ほんとだよ。で、あなたはいつもヴァイオリンを弾いてるの」と尋ねると、一言「サムタイムス(時々な)」(笑)。「サムタイムスかあ。ははは」 「彼はミスター・サカイ、彼はシンガーなんだ。彼のグループは、100万枚も日本でCDが売れるんだよ」 「ワオ! それじゃ、オレは彼のグループでプレイしなきゃ。(笑)。グループの名前はなんていうんだ?」 「ゴスペラーズっていうんだよ」 「何だって? オレは歌ってたよ、子どもの頃」 「いや、そうじゃなくて、彼のグループの名前がゴスペラーズっていうんだ」 ビリーはものすごく驚いた顔を見せて、「なんでそんな名前をつけたんだ?」 「僕たちゴスペルが大好きで、テイク6というグループが大好きだったからんなんですよ」とミスター・サカイが答える。 「へえ、君の音楽は今、もってないのかい?」 「今は、ないなあ」 「じゃあ、ぜひ送ってくれ」と言って彼が名刺を出してきた。
そして、話はポエトリー・リーディングになり、「君は、こういうのに興味があるのか」とビリーが尋ねてくる。「あるよ。でも、よくわからないんだ。英語だから。(笑)。しかし、今日のライヴはものすごくニューヨークを思わせたよ」 ミスター・サカイも言う。「僕も、そう思った」 僕が続けた。「しかも、1969年くらいのニューヨークのヴィレッジって感じだ」「ははは、それは、おもしろいな。そう思ったか」 「ちょうど、ブラックパワーの頃、セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウドの頃を思わせたよ」 「あんた、おもしろいな。ははは、ジェームス・ブラウンだな。じゃあ、アミリ・バラカって知ってるか。彼はこの前の911の事件についての詩を書いたんだが、ユダヤ人たちからものすごく反発をくらってるんだよ。ああ、このアミリは、昔リロイ・ジョーンズっていう名前だった男だよ。みんな、ムスリムで名前を変えるんだ」 「カシアス・クレイがモハメド・アリになったみたいに?」 「そうだ、そうだ」といいながら、彼がなぜヴァイオリン奏者になったのか話始めた。
とにかくこのビリー、よくしゃべる。年の頃、40代後半か50代前半のアフリカン・アメリカンと思って調べたら、1947年9月20日アラバマ州モービル生まれ。55歳だ。昭和22年生まれ、いのしし年です。
つい先月はカナダのモントリオール・ジャズ・フェスティヴァルに出演してきた、という。「生まれはモービル・アラバマだけど、すぐにニューヨークに移り住んだ。オレの名前はもともとビリー・ウォーカーだったんだけど、政府がオレのウォーカーって名前をどこかに捨ててきやがってな。オレのパスポートにはウォーカーって名前がないのさ。オレは昔はバイオリンなんて、大嫌いだった。だってとても男がやるようなものじゃないだろう。途中でパーカッションをやったこともあるんだ。子どもの頃はゴスペルだな」
このあたりで、スタッフが彼らミュージシャンたちを呼びにきた。帰りのバスの用意ができたのだ。「そうかあ、もう、行かなきゃならんのだ。オレたちは、この話の続きをせにゃあかんなあ。今週、また来ないのか。あるいは、ホテルのほうに来て貰ってもいいぞ。お茶でもしながら話をしよう。we should finish this conversation」
何がなんだかわからないうちに、というか、嵐が去るようにビリーは出て行った。で、なんで、彼はヴァイオリンを弾いているのか。その話は、トゥ・ビー・コンティニュードだ。あああ。謎はそのまま残った。Mystery still remains...
ニュー・エディションはアップタウンのアポロ劇場から、そして、このハンラハンはダウンタウン・ヴィレッジのカフェ。この日は一日でニューヨークのアップタウンとダウンタウンを経験してしまった。
(2003年8月6日水曜・東京ブルーノート・セカンド=キップ・ハンラハンズ・コンジュア)
前回ブルーノートで見たのは2001年5月なので、2年以上前のことになる。そのときは多数のパーカッション奏者を並べた非常にユニークな実験的な演奏だったのでよく覚えている。それがキップ・ハンラハンの「ディープルンバ」の公演だった。
今回はキップ・ハンラハンの「コンジュアー」としての公演。キップは、言ってみればバンドマスターで、様々なメンバーを集めて、違うユニットを組む。これもそのひとつということになる。
「コンジュア」とは、まじない、魔法、呪文といったような意味。「コンジュラー」は、まじないをする人、魔術師、といった意味になる。
キップ・ハンラハンという人物はものすごく異端だ。今回のこのユニットの最大の目玉は「ポエトリー・リーディング」、つまり詩の朗読だ。先鋭的な黒人詩人、イシュメール・リードの詩作の朗読に、音楽をつけたりしている。
ブルーノートの階段を降りていくと、すでにライヴはスタートしていて、誰かが歌っているのが聴こえた。ヴォーカルがいるとは思っていなかったので、少し驚いた。そして、まもなくリードの詩の朗読が始まった。音楽をバックに読む。
「戦争という状況の中では、そんなことが起こる・・・」というサビが何度も繰り返され、戦争が起こるときの悲惨な例が次々と紹介される。すべてを聞き取ることはできなかったが、なにかを言ったあと、ヴォーカルのアルヴィン・ヤングブラッドが「戦争という状況の中では、そんなことが起こる・・・」というセリフを繰り返しているのが非常に印象に残った。まさにコール&レスポンスの世界だ。
これを聴きながら、以前ニューヨークのカフェかどこかで体験したポエトリー・リーディングを思い出した。まさに、Sooooo New Yorkな空気がぷんぷんしていた。しかも、アップタウンではなく、ダウンタウンのヴィレッジあたりのヒッピー、モッズ風のカフェだ。ニューヨークのポエトリー・リーディングの会って、聴いてる人は聴いているけど、聴いてない人は自分たちで勝手にしゃべってるので、けっこう騒々しい。もちろん、シーンとしてるのもあるのかもしれないが。
英語の詩は、たぶん、かなりわかりにくいと思うが、一遍日本語の詩を作って読んでいた。それが「アザブ・カフェ」というタイトルの詩だ。「麻布喫茶店、毎晩ここに座る。ゴハンは、タバコ。水はウイスキー。(あなたに)手紙を書きます」 これを英語、日本語で繰り返す。最初日本語がよくわからなかったが、何度か繰り返されるうちに意味がわかった。全体的には、非常にカルチャー的におもしろいライヴだった。でも、きっと、来ているお客さんの8割は、なんなんだろう、これは、と思っていたのではないだろうか。なんとなく、キップ・ハンラハンを見にきたというより、ブルーノートにやってきました、という人が多かったのではないだろうか。(笑) 逆にいえば、なかなか滅多に見られないソ〜〜〜・ニューヨークのキップ・ハンラハンのライヴを東京で見られるのだから、ラッキーだ。コンジュアー、まさに、呪文、魔術。そのグループ名が音楽を表していた。
ライヴが終わったあと、ヴァイオリン奏者のビリー・バングという人物がたまたま近くに来てはなすことになった。「日本に初めて来たのは81年。キップとは昔からの知り合いだ。彼はオレと同じブロンクス生まれだからね。日本には3−4回目かな。ヨコハマ知ってるぞ。ヨコハマギンバエ知ってるんだ」
なぜ横浜の話になったか、思い出せないが、まあ、とにかく横浜の話になった。「な、な、なんで横浜銀蝿なんて知ってるの?」と尋ねると、そのいきさつをこう説明してくれた。「初めて来日したとき、なぜかどこかでスーツケースがなくなってしまったんだ。で、着るものなんかなくなって途方にくれていたんだが、みんながいろんなTシャツとかをたくさんくれたんだよ。そんな中に、一枚のTシャツがあって、気に入って着ていた。そこに書かれていたのが、ヨコハマギンバエって字だったんだよ。日本のロックンロール・グループなんだろ。聴いたことはないんだけどね。(笑) ギンバエってどういう意味なんだ?」
「シルヴァー(銀)・フライ(蝿)かな。ぶ〜〜ん、て飛ぶような」 「ほんとか?」 「ほんとだよ。で、あなたはいつもヴァイオリンを弾いてるの」と尋ねると、一言「サムタイムス(時々な)」(笑)。「サムタイムスかあ。ははは」 「彼はミスター・サカイ、彼はシンガーなんだ。彼のグループは、100万枚も日本でCDが売れるんだよ」 「ワオ! それじゃ、オレは彼のグループでプレイしなきゃ。(笑)。グループの名前はなんていうんだ?」 「ゴスペラーズっていうんだよ」 「何だって? オレは歌ってたよ、子どもの頃」 「いや、そうじゃなくて、彼のグループの名前がゴスペラーズっていうんだ」 ビリーはものすごく驚いた顔を見せて、「なんでそんな名前をつけたんだ?」 「僕たちゴスペルが大好きで、テイク6というグループが大好きだったからんなんですよ」とミスター・サカイが答える。 「へえ、君の音楽は今、もってないのかい?」 「今は、ないなあ」 「じゃあ、ぜひ送ってくれ」と言って彼が名刺を出してきた。
そして、話はポエトリー・リーディングになり、「君は、こういうのに興味があるのか」とビリーが尋ねてくる。「あるよ。でも、よくわからないんだ。英語だから。(笑)。しかし、今日のライヴはものすごくニューヨークを思わせたよ」 ミスター・サカイも言う。「僕も、そう思った」 僕が続けた。「しかも、1969年くらいのニューヨークのヴィレッジって感じだ」「ははは、それは、おもしろいな。そう思ったか」 「ちょうど、ブラックパワーの頃、セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウドの頃を思わせたよ」 「あんた、おもしろいな。ははは、ジェームス・ブラウンだな。じゃあ、アミリ・バラカって知ってるか。彼はこの前の911の事件についての詩を書いたんだが、ユダヤ人たちからものすごく反発をくらってるんだよ。ああ、このアミリは、昔リロイ・ジョーンズっていう名前だった男だよ。みんな、ムスリムで名前を変えるんだ」 「カシアス・クレイがモハメド・アリになったみたいに?」 「そうだ、そうだ」といいながら、彼がなぜヴァイオリン奏者になったのか話始めた。
とにかくこのビリー、よくしゃべる。年の頃、40代後半か50代前半のアフリカン・アメリカンと思って調べたら、1947年9月20日アラバマ州モービル生まれ。55歳だ。昭和22年生まれ、いのしし年です。
つい先月はカナダのモントリオール・ジャズ・フェスティヴァルに出演してきた、という。「生まれはモービル・アラバマだけど、すぐにニューヨークに移り住んだ。オレの名前はもともとビリー・ウォーカーだったんだけど、政府がオレのウォーカーって名前をどこかに捨ててきやがってな。オレのパスポートにはウォーカーって名前がないのさ。オレは昔はバイオリンなんて、大嫌いだった。だってとても男がやるようなものじゃないだろう。途中でパーカッションをやったこともあるんだ。子どもの頃はゴスペルだな」
このあたりで、スタッフが彼らミュージシャンたちを呼びにきた。帰りのバスの用意ができたのだ。「そうかあ、もう、行かなきゃならんのだ。オレたちは、この話の続きをせにゃあかんなあ。今週、また来ないのか。あるいは、ホテルのほうに来て貰ってもいいぞ。お茶でもしながら話をしよう。we should finish this conversation」
何がなんだかわからないうちに、というか、嵐が去るようにビリーは出て行った。で、なんで、彼はヴァイオリンを弾いているのか。その話は、トゥ・ビー・コンティニュードだ。あああ。謎はそのまま残った。Mystery still remains...
ニュー・エディションはアップタウンのアポロ劇場から、そして、このハンラハンはダウンタウン・ヴィレッジのカフェ。この日は一日でニューヨークのアップタウンとダウンタウンを経験してしまった。
(2003年8月6日水曜・東京ブルーノート・セカンド=キップ・ハンラハンズ・コンジュア)
レイ・チャールズ、53年のライヴ人生で初めてツアーをキャンセル.
生涯初。
ヴェテラン・ソウル・シンガー、レイ・チャールズがプロとして歌いだし53年のキャリアの中で初めて体調不良のためにコンサート・ツアーをキャンセルした。チャールズは7月29日のヴァージニア州アレキサンドリアで行われたショウを最後に、以後のツアーを約2週間分キャンセルしていたが、そのキャンセルが今年いっぱいまで続くことになった。彼は急性の股関節障害がでてその治療をしている。
「本当に残念で心が痛む。私の人生は、ツアーをし、パフォーマンスを見せるためのものだったから。それが私がすべきことだからだ。だが、医師がしばらくは休息し、治療に専念しなさいと言うので、それに従うことにした」という声明を発表した。
現在72歳のレイ・チャールズは、過去53年間のライヴ人生でツアーをキャンセルしたことは一度もなかった。去る5月には通算10000万回目のショウを行っていた。
医師は休むよう言っているが、レイは事務的な仕事は依然こなしている、という。
+++
基本。
ソウル・ミュージックの誕生を語るときにはずせないのが、レイ・チャールズ。たまたま出向いたソウル・バー、ミッドナイト・アワーでレイ・チャールズの作品が何曲かかかった。
そんな中に『星空』という1965年の映画のサントラがあった。原題は『バラード・イン・ブルー』。そこにあったのは、なんと日本盤でその解説を読むと、映画がおもしろそうなのだ。アルバムとしてはそれまでのレイのヒット曲などがけっこう入っていて、映画と関係なくとも、ベストアルバムの一枚としても捉えられる一作。
映画の内容は、レイ・チャールズがロンドン公演に出向いたとき、そこでつい最近盲目になってしまった少年と仲良くなる。レイはパリの眼科専門の先生を紹介する。少年に目が見えるようになるための手術をしてもらうよう、取り計らう。手術の成功率は100分の1。親は反対するが、周囲の説得もあって、その手術を受けることになるのだが・・・。というもの。
そのライナーノーツには、当然ストーリーは途中までしか書いていない。で、それを読んでいたらなかなかいい話そうに思えて、先が知りたくなってしまったほどだった。だが、その映画、今ビデオで入手可能なのかどうか、わからない。さっと見たところ、やはり現状、日本では無理のようだ。あとは、アメリカからVHSでも取り寄せるという手くらいしかない。
レイのヒット曲を聴いていると、本当に「ソウルの基本」という感じがしてくる。改めて例のボックスセットでも聴いてみるとしますか。
それと、早く元気になって欲しいところです。
生涯初。
ヴェテラン・ソウル・シンガー、レイ・チャールズがプロとして歌いだし53年のキャリアの中で初めて体調不良のためにコンサート・ツアーをキャンセルした。チャールズは7月29日のヴァージニア州アレキサンドリアで行われたショウを最後に、以後のツアーを約2週間分キャンセルしていたが、そのキャンセルが今年いっぱいまで続くことになった。彼は急性の股関節障害がでてその治療をしている。
「本当に残念で心が痛む。私の人生は、ツアーをし、パフォーマンスを見せるためのものだったから。それが私がすべきことだからだ。だが、医師がしばらくは休息し、治療に専念しなさいと言うので、それに従うことにした」という声明を発表した。
現在72歳のレイ・チャールズは、過去53年間のライヴ人生でツアーをキャンセルしたことは一度もなかった。去る5月には通算10000万回目のショウを行っていた。
医師は休むよう言っているが、レイは事務的な仕事は依然こなしている、という。
+++
基本。
ソウル・ミュージックの誕生を語るときにはずせないのが、レイ・チャールズ。たまたま出向いたソウル・バー、ミッドナイト・アワーでレイ・チャールズの作品が何曲かかかった。
そんな中に『星空』という1965年の映画のサントラがあった。原題は『バラード・イン・ブルー』。そこにあったのは、なんと日本盤でその解説を読むと、映画がおもしろそうなのだ。アルバムとしてはそれまでのレイのヒット曲などがけっこう入っていて、映画と関係なくとも、ベストアルバムの一枚としても捉えられる一作。
映画の内容は、レイ・チャールズがロンドン公演に出向いたとき、そこでつい最近盲目になってしまった少年と仲良くなる。レイはパリの眼科専門の先生を紹介する。少年に目が見えるようになるための手術をしてもらうよう、取り計らう。手術の成功率は100分の1。親は反対するが、周囲の説得もあって、その手術を受けることになるのだが・・・。というもの。
そのライナーノーツには、当然ストーリーは途中までしか書いていない。で、それを読んでいたらなかなかいい話そうに思えて、先が知りたくなってしまったほどだった。だが、その映画、今ビデオで入手可能なのかどうか、わからない。さっと見たところ、やはり現状、日本では無理のようだ。あとは、アメリカからVHSでも取り寄せるという手くらいしかない。
レイのヒット曲を聴いていると、本当に「ソウルの基本」という感じがしてくる。改めて例のボックスセットでも聴いてみるとしますか。
それと、早く元気になって欲しいところです。
チキン。
「ヘイ、ユーアー・チキン」といえば、「おまえ、弱虫!」っていう感じですが、ジェームス・ブラウン・ファンにとって「チキン」といえば、彼のインストゥルメンタル曲「チキン」ですね。シングルとしては69年5月にでた同じくインスト曲「ザ・ポップコーン」のB面に収録されていました。その後、ジャコ・パストリアスがカヴァーしたりして、隠れた人気曲になっています。
で、この曲、南部のミュージシャンたちは誰でもプレイするそうです。ちょっとしたリハーサルや遊びのセッションで「軽く調整」するときなんかにみんなで演奏するというわけです。つまり、みんな誰もが知っていて、しかも、のりがいいから、いい練習曲になるんですね。
ところが、ウエストコーストのミュージシャンとかは、意外とこの曲をやらないらしい。というような話を教えてくれたのが、ニューオーリンズのファンクバンド、ネヴィル・ブラザースのキーボード奏者としてツアーにでていたサヤ(Saya)です。そして、彼女はこの「チキン」を堂々と自分でも演奏します。
彼女の日本での1作目『ダンス・ユア・ハート』(2001年7月)に、その「チキン」は収録されています。初めて聴いたときには、かなりびっくりしました。なかなかこのグルーヴをピアノで表現するのはむずかしいのですが、よくやっています。
ちょうど、日本での3作目『ビューティフル・デイ』の新作発売と関連したツアーの最終日が渋谷JZ Brat(ジェイジー・ブラット)で行われました。そのセカンドショウの最後の曲が「チキン」だった。アコースティックのベース奏者(魚谷のぶまさ)のベースののりもいい感じ。っていうか、この「チキン」をレパートリーにいれるっていうだけで、拍手ものですよね。いつもだいたいこの曲で彼女はメンバー紹介をします。
ちなみに、アンコールは新作『ビューティフル・デイ』の中で、僕が一番気に入った「モー・ベター・ブルーズ」。なんかいいんだよねえ、これ。あと、新作ではマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」もやっています。これは、エレキ・ピアノで軽いタッチのウエスト・コーストサウンド。ちょうどクルセイダーズあたりのサウンドを軽くしたような感じです。
サヤ、10月再び来日して、横浜モーション・ブルーに10月1日、2日と登場。さらに、関西圏のブルーノートにも登場です。一度、チャンスがあったら、CD聴いてみてください。サヤ本人のサイトで試聴できます。
サヤがチキンかって? ぜんぜんそんなこと、ありません。強いです。(笑) ちなみに、タイトルChickは、「いい女」の意味です。
(2003年8月8日渋谷ジェイジーブラット、セカンドショウ=サヤ・ライヴ)
サヤのオフィシャルサイト
http://www.saya.com/
「ヘイ、ユーアー・チキン」といえば、「おまえ、弱虫!」っていう感じですが、ジェームス・ブラウン・ファンにとって「チキン」といえば、彼のインストゥルメンタル曲「チキン」ですね。シングルとしては69年5月にでた同じくインスト曲「ザ・ポップコーン」のB面に収録されていました。その後、ジャコ・パストリアスがカヴァーしたりして、隠れた人気曲になっています。
で、この曲、南部のミュージシャンたちは誰でもプレイするそうです。ちょっとしたリハーサルや遊びのセッションで「軽く調整」するときなんかにみんなで演奏するというわけです。つまり、みんな誰もが知っていて、しかも、のりがいいから、いい練習曲になるんですね。
ところが、ウエストコーストのミュージシャンとかは、意外とこの曲をやらないらしい。というような話を教えてくれたのが、ニューオーリンズのファンクバンド、ネヴィル・ブラザースのキーボード奏者としてツアーにでていたサヤ(Saya)です。そして、彼女はこの「チキン」を堂々と自分でも演奏します。
彼女の日本での1作目『ダンス・ユア・ハート』(2001年7月)に、その「チキン」は収録されています。初めて聴いたときには、かなりびっくりしました。なかなかこのグルーヴをピアノで表現するのはむずかしいのですが、よくやっています。
ちょうど、日本での3作目『ビューティフル・デイ』の新作発売と関連したツアーの最終日が渋谷JZ Brat(ジェイジー・ブラット)で行われました。そのセカンドショウの最後の曲が「チキン」だった。アコースティックのベース奏者(魚谷のぶまさ)のベースののりもいい感じ。っていうか、この「チキン」をレパートリーにいれるっていうだけで、拍手ものですよね。いつもだいたいこの曲で彼女はメンバー紹介をします。
ちなみに、アンコールは新作『ビューティフル・デイ』の中で、僕が一番気に入った「モー・ベター・ブルーズ」。なんかいいんだよねえ、これ。あと、新作ではマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」もやっています。これは、エレキ・ピアノで軽いタッチのウエスト・コーストサウンド。ちょうどクルセイダーズあたりのサウンドを軽くしたような感じです。
サヤ、10月再び来日して、横浜モーション・ブルーに10月1日、2日と登場。さらに、関西圏のブルーノートにも登場です。一度、チャンスがあったら、CD聴いてみてください。サヤ本人のサイトで試聴できます。
サヤがチキンかって? ぜんぜんそんなこと、ありません。強いです。(笑) ちなみに、タイトルChickは、「いい女」の意味です。
(2003年8月8日渋谷ジェイジーブラット、セカンドショウ=サヤ・ライヴ)
サヤのオフィシャルサイト
http://www.saya.com/
Gregory Hines Dies at 57
2003年8月12日グレゴリー・ハインズ癌で死去.
タップダンサーとして人気の高かったグレゴリー・ハインズが9日(土曜日)、ロスアンジェルスの病院で癌のために死去した。57歳だった。
ハインズは、1992年、ミュージカル『ジェリーズ・ラスト・ジャム』でトニー賞を獲得している。ハインズは、もともと兄とともに二人組のダンスデュオとして売り出し、78年、映画『ユービー』で一躍脚光を集めた。さらに、ブロードウェイの『ソフィスティケーテッド・レイディー』、さらに84年、映画『コットン・クラブ』などで人気を決定づけている。
85年、ロシアのダンサー、ミハエル・バリシニコフと共演した映画『ホワイト・ナイツ』では俳優としても注目された。
グレゴリー・ハインズは、1946年2月14日ニューヨーク生まれ。母親が兄と彼にタップダンスをするように強く勧めたという。それは、ダンスで成功し、一家でゲットーを抜け出したいと考えたからだ。グレゴリーが5歳のときから踊りだし、6歳のときには、アポロ劇場に2週間連続で出場し、8歳でブロードウェイ・ミュージカルに出演した。十代の頃は、「ハインズ・ハインズ・アンド・ダッド」というグループ名で、兄弟二人と父でステージを見せていた。
+++++
粋。
今、今日の日記を書こうとしたら、グレゴリー・ハインズ死去のニュースが飛び込んできたので、急遽、彼について書くことにした。
グレゴリー・ハインズで僕がまずよく覚えているのが、85年の映画『ホワイト・ナイツ』http://www.stingray-jp.com/allcinema/prog/show_c.php3?num_c=00021781だ。ライオネル・リッチーが歌うテーマ曲「セイ・ユー、セイ・ミー」の歌声とともに大ヒットした映画である。アメリカに亡命したロシア人ダンサー(バリシニコフ)が、飛行機の不慮の事故でロシア領内に不時着することによって始まる手に汗握る物語で、二人のダンサーの友情が徐々に芽生えていくところなどが、なかなかいい作品だった。
その後86年、彼はルーサー・ヴァンドロスとデュエット曲「ゼアリズ・ナッシング・ベター・ザン・ラヴ」を録音する。これは、ブラックチャートでナンバーワンを記録。初めてグレゴリーの歌を聞いた。意外といい声で、ルーサーとの相性もよかった。二人とも生粋のニューヨーカー。
そして、90年代に入ってグレゴリー・ハインズが来日して、その公演を渋谷のパルコシアターで見た。パルコシアターは小さくて、あの時は前から何番目かのけっこういい席だった。その目の前であのグレゴリーがタップダンスを踊る。生のタップダンスを見たのはあの時が初めてだった。圧倒された。真っ暗な広いステージに彼だけがぽつりと立っている。そこに一本のスポットライトがあたっている。そしておもむろに踊りだす。
最初、どうしてあんなにかっこいい音が出るのか不思議だったが、床にマイクが仕込んであると後から聞いて納得した。タップを踊る靴、タップシューズが時々照明に当たって、その反射した光が一瞬僕の目に入った。グレゴリーのタップは、「粋」そのものだった。つまり、まったくなんら難しそうになく、軽くタップをやってしまうのだ。優雅で洗練されていた。たかがタップだけで、これだけ人の目を惹きつけることのすごさを思い知らされた。
今年見た『ブリング・ダ・ノイズ』でも、かなり圧倒されたが、その出演者たちも、グレゴリーにはリスペクトの気持ちを表していた。
今、ルーサーとのデュエット曲を聴いている。そして、ライオネルの「セイ・ユー、セイ・ミー」を聴いて、彼に追悼の意を表しよう。
今日書こうと思った、映画「スタンド・マイ・ミー」の話、シンガー、AI(アイ)の話はまた明日以降に。
ENT>OBITUARY>HINES, GREGORY
タップダンサーとして人気の高かったグレゴリー・ハインズが9日(土曜日)、ロスアンジェルスの病院で癌のために死去した。57歳だった。
ハインズは、1992年、ミュージカル『ジェリーズ・ラスト・ジャム』でトニー賞を獲得している。ハインズは、もともと兄とともに二人組のダンスデュオとして売り出し、78年、映画『ユービー』で一躍脚光を集めた。さらに、ブロードウェイの『ソフィスティケーテッド・レイディー』、さらに84年、映画『コットン・クラブ』などで人気を決定づけている。
85年、ロシアのダンサー、ミハエル・バリシニコフと共演した映画『ホワイト・ナイツ』では俳優としても注目された。
グレゴリー・ハインズは、1946年2月14日ニューヨーク生まれ。母親が兄と彼にタップダンスをするように強く勧めたという。それは、ダンスで成功し、一家でゲットーを抜け出したいと考えたからだ。グレゴリーが5歳のときから踊りだし、6歳のときには、アポロ劇場に2週間連続で出場し、8歳でブロードウェイ・ミュージカルに出演した。十代の頃は、「ハインズ・ハインズ・アンド・ダッド」というグループ名で、兄弟二人と父でステージを見せていた。
+++++
粋。
今、今日の日記を書こうとしたら、グレゴリー・ハインズ死去のニュースが飛び込んできたので、急遽、彼について書くことにした。
グレゴリー・ハインズで僕がまずよく覚えているのが、85年の映画『ホワイト・ナイツ』http://www.stingray-jp.com/allcinema/prog/show_c.php3?num_c=00021781だ。ライオネル・リッチーが歌うテーマ曲「セイ・ユー、セイ・ミー」の歌声とともに大ヒットした映画である。アメリカに亡命したロシア人ダンサー(バリシニコフ)が、飛行機の不慮の事故でロシア領内に不時着することによって始まる手に汗握る物語で、二人のダンサーの友情が徐々に芽生えていくところなどが、なかなかいい作品だった。
その後86年、彼はルーサー・ヴァンドロスとデュエット曲「ゼアリズ・ナッシング・ベター・ザン・ラヴ」を録音する。これは、ブラックチャートでナンバーワンを記録。初めてグレゴリーの歌を聞いた。意外といい声で、ルーサーとの相性もよかった。二人とも生粋のニューヨーカー。
そして、90年代に入ってグレゴリー・ハインズが来日して、その公演を渋谷のパルコシアターで見た。パルコシアターは小さくて、あの時は前から何番目かのけっこういい席だった。その目の前であのグレゴリーがタップダンスを踊る。生のタップダンスを見たのはあの時が初めてだった。圧倒された。真っ暗な広いステージに彼だけがぽつりと立っている。そこに一本のスポットライトがあたっている。そしておもむろに踊りだす。
最初、どうしてあんなにかっこいい音が出るのか不思議だったが、床にマイクが仕込んであると後から聞いて納得した。タップを踊る靴、タップシューズが時々照明に当たって、その反射した光が一瞬僕の目に入った。グレゴリーのタップは、「粋」そのものだった。つまり、まったくなんら難しそうになく、軽くタップをやってしまうのだ。優雅で洗練されていた。たかがタップだけで、これだけ人の目を惹きつけることのすごさを思い知らされた。
今年見た『ブリング・ダ・ノイズ』でも、かなり圧倒されたが、その出演者たちも、グレゴリーにはリスペクトの気持ちを表していた。
今、ルーサーとのデュエット曲を聴いている。そして、ライオネルの「セイ・ユー、セイ・ミー」を聴いて、彼に追悼の意を表しよう。
今日書こうと思った、映画「スタンド・マイ・ミー」の話、シンガー、AI(アイ)の話はまた明日以降に。
ENT>OBITUARY>HINES, GREGORY
友情。
オレゴン州キャッスルロック、人口1281人。物語は、1985年9月4日付けの地元の新聞が座席に置かれた車内から始まる。そこには、ある弁護士が些細な喧嘩の仲裁に入ったことで、喧嘩をしていた連中にナイフで殺されたと書かれていた。その弁護士は、運転席で呆然としている主人公の親友だった。彼は26年前のことを回想し始めた。
1959年、彼らは12歳。その夏休みのことだった。主人公ゴーディーのほか、クリス、テディー、ヴァーンは仲良し4人組。とある高校生が汽車にはねられ死んだという情報をつかんだ彼らは、32キロ先の現場にその死体を見に行くことにする。一泊二日の大冒険が始まった。
ベストセラー作家スティーヴン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』(1986年)の冒頭のシーンだ。DVDを借りてきて再度見た。やはり、いい物語だ。
スティーヴン・キングは、1947年9月生まれ。だから、59年には12歳になっている。まあ、正確には59年の夏休みは11歳だが、細かいことは言わないことにしよう。(笑) 彼の自伝的物語である。映画は、少年の頃から物語を書くのが好きだったゴーディーが回想するスタイルで進んでいく。ただ小説はクリスの回想で話は進む。
冒険の途中でゴーディーが、大食い競争の話を友達に聞かせるところで、彼らから「そのエンディングじゃつまらないよ」という意見がでてくる。ゴーディー(すなわちスティーヴン・キング)はきょとんとするが、ひょっとしたらこのあたりで、ゴーディーは、ストーリーの組み立て方のちょっとしたコツを学んだのかもしれない。
そして、12歳の彼が書くストーリーに両親はまったく気にもとめないが、兄貴だけはちゃんと読んで「おもしろかったぜ」と感想を言ってくれる。その兄は弟思いで、兄が大事にしていたニューヨーク・ヤンキーズの帽子を釣りに行く弟にくれる。ところが両親の関心は優秀な兄にばかりいく。
舞台は本当に小さな街、そこでは、誰もが誰もを知っていて、秘密などない。たぶんこの街に生まれた人のほとんどは、一生をこの街か近くのもう少し大きな街で過ごして終わるのだろう。彼らにとっては、その街をでるということがものすごく大きな意味を持つ。そして、12歳の少年にとっても、この冒険はそんな街を初めて出るというところに意義があるのだ。
この小さな冒険の途中で、4人それぞれが持つ悩みが明かされる。危険を伴う冒険を共有することによって深まっていく4人の友情の絆。最後、その後の3人のことが少し語られ、85年に戻ったところで、作家になったゴーディーは、ワープロに向かってエンディングを打つ。「あの時のような友達を持つことは、二度とできないだろう」
画面がフェードアウトして流れ出てくる曲が、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。元々は恋人である君が横にいてくれれば、どれほど心強いかというラヴソングだが、ここでは、友人たち、親友たちが横にいてくれればどれほど素敵かという普遍的な友情ソングになっている。まさにこの映画のテーマに完璧な一曲だ。
***
「スタンド・バイ・ミー」
闇が訪れ、地が漆黒になるとき、月明かりだけが唯一の頼り
そんなときでも、君が傍らにいてくれれば、何も怖くはない
ダーリン、僕の横にいておくれ
万一見上げる星空が落ちてきて、山が海の中に沈んでしまっても
君が傍らにいてくれさえすれば、僕は絶対に泣かない
ダーリン、僕の横にいておくれ
君に何か嫌なことでもあったら、いつでも僕の横においでよ
僕のとなりにおいで
***
この物語の後に、この曲が流れてきては、涙を抑えるのに苦労する人も多いだろう。原作者のスティーヴン・キングでさえ、映画を見て泣いたという逸話があるのもうなずける。こんなに物語と曲のテーマが一致する例というのも珍しい。しかも、既存曲でありながら。サウンドトラックがゴールドディスクになるのも納得だ。
昔の歌詞はシンプルだ。昔のメロディーもシンプルだ。そして、昔の生活もシンプルだった。携帯がなくても、電子メールがなくても、厚い友情は、培われた。
オレゴン州キャッスルロック、人口1281人。物語は、1985年9月4日付けの地元の新聞が座席に置かれた車内から始まる。そこには、ある弁護士が些細な喧嘩の仲裁に入ったことで、喧嘩をしていた連中にナイフで殺されたと書かれていた。その弁護士は、運転席で呆然としている主人公の親友だった。彼は26年前のことを回想し始めた。
1959年、彼らは12歳。その夏休みのことだった。主人公ゴーディーのほか、クリス、テディー、ヴァーンは仲良し4人組。とある高校生が汽車にはねられ死んだという情報をつかんだ彼らは、32キロ先の現場にその死体を見に行くことにする。一泊二日の大冒険が始まった。
ベストセラー作家スティーヴン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』(1986年)の冒頭のシーンだ。DVDを借りてきて再度見た。やはり、いい物語だ。
スティーヴン・キングは、1947年9月生まれ。だから、59年には12歳になっている。まあ、正確には59年の夏休みは11歳だが、細かいことは言わないことにしよう。(笑) 彼の自伝的物語である。映画は、少年の頃から物語を書くのが好きだったゴーディーが回想するスタイルで進んでいく。ただ小説はクリスの回想で話は進む。
冒険の途中でゴーディーが、大食い競争の話を友達に聞かせるところで、彼らから「そのエンディングじゃつまらないよ」という意見がでてくる。ゴーディー(すなわちスティーヴン・キング)はきょとんとするが、ひょっとしたらこのあたりで、ゴーディーは、ストーリーの組み立て方のちょっとしたコツを学んだのかもしれない。
そして、12歳の彼が書くストーリーに両親はまったく気にもとめないが、兄貴だけはちゃんと読んで「おもしろかったぜ」と感想を言ってくれる。その兄は弟思いで、兄が大事にしていたニューヨーク・ヤンキーズの帽子を釣りに行く弟にくれる。ところが両親の関心は優秀な兄にばかりいく。
舞台は本当に小さな街、そこでは、誰もが誰もを知っていて、秘密などない。たぶんこの街に生まれた人のほとんどは、一生をこの街か近くのもう少し大きな街で過ごして終わるのだろう。彼らにとっては、その街をでるということがものすごく大きな意味を持つ。そして、12歳の少年にとっても、この冒険はそんな街を初めて出るというところに意義があるのだ。
この小さな冒険の途中で、4人それぞれが持つ悩みが明かされる。危険を伴う冒険を共有することによって深まっていく4人の友情の絆。最後、その後の3人のことが少し語られ、85年に戻ったところで、作家になったゴーディーは、ワープロに向かってエンディングを打つ。「あの時のような友達を持つことは、二度とできないだろう」
画面がフェードアウトして流れ出てくる曲が、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。元々は恋人である君が横にいてくれれば、どれほど心強いかというラヴソングだが、ここでは、友人たち、親友たちが横にいてくれればどれほど素敵かという普遍的な友情ソングになっている。まさにこの映画のテーマに完璧な一曲だ。
***
「スタンド・バイ・ミー」
闇が訪れ、地が漆黒になるとき、月明かりだけが唯一の頼り
そんなときでも、君が傍らにいてくれれば、何も怖くはない
ダーリン、僕の横にいておくれ
万一見上げる星空が落ちてきて、山が海の中に沈んでしまっても
君が傍らにいてくれさえすれば、僕は絶対に泣かない
ダーリン、僕の横にいておくれ
君に何か嫌なことでもあったら、いつでも僕の横においでよ
僕のとなりにおいで
***
この物語の後に、この曲が流れてきては、涙を抑えるのに苦労する人も多いだろう。原作者のスティーヴン・キングでさえ、映画を見て泣いたという逸話があるのもうなずける。こんなに物語と曲のテーマが一致する例というのも珍しい。しかも、既存曲でありながら。サウンドトラックがゴールドディスクになるのも納得だ。
昔の歌詞はシンプルだ。昔のメロディーもシンプルだ。そして、昔の生活もシンプルだった。携帯がなくても、電子メールがなくても、厚い友情は、培われた。
魂。
こんなメールをいただきました。
「実は、私の友人が最近自分でいろいろな曲を集めたオムニバスのCDを焼いてくれて、そのトップにルーサー・ヴァンドロスの『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』という曲が入っていました。で、なんどもそのCDを聴いているうちに、なぜかわからないのですが、この曲がものすごく物悲しくせつないなあ、って感じがしてきたんです。
私はこのルーサーというシンガーを知らなかったのですが、そのCDには3曲ルーサーの歌が入っていて、とてもお気に入りになりました。でも、他の2曲(『ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー』と『シンス・アイ・ロスト・マイ・ベイビー』)はもちろんいいことはいいんですが、『ダンス…』ほどのせつなさや、悲しさは感じないんです。同じシンガーの歌なのにね。
いつもうちで、比較的大きな音でそのCDをかけていたら、母まで『この曲はせつないわねえ』なんて言いだすんです。もちろん、母はルーサーなんて知らないし、母も私も、それほど歌詞の意味とかはわからないんですが。で、なんでこの曲はこんなにせつないんだろう、ってずっと疑問に思っていたんです。
そうしたらたまたま友人がこのホームページのことを教えてくれて、そこにルーサーのことが詳しく書かれていて、それを読んだら、すべてが超納得いったんです。歌詞を読み、その背景を知って、なるほど、って。それにしても、他の曲には感じない何かってなんなんでしょうね。音楽ってすごいですね。ルーサーのこと、教えていただいてありがとうございます」
すごいですねえ。やはり、ルーサー本人の自分の父、母に対する思いが込められているから、それが結局伝わるんでしょうね。もちろん、ルーサーは歌はうまい。でも、この「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」には、うまい以上の、ルーサーの思いいれ、魂、ソウルがはいってるんでしょうね。それを感じられる感性というのもすごい。
こういうキャリアソングを、一生に一曲でいいから作れたら、本当にシンガー冥利につきますね。つくづく思います。真の意味で魂が入った曲、これはなかなかめぐりあえません。
こんなメールをいただきました。
「実は、私の友人が最近自分でいろいろな曲を集めたオムニバスのCDを焼いてくれて、そのトップにルーサー・ヴァンドロスの『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』という曲が入っていました。で、なんどもそのCDを聴いているうちに、なぜかわからないのですが、この曲がものすごく物悲しくせつないなあ、って感じがしてきたんです。
私はこのルーサーというシンガーを知らなかったのですが、そのCDには3曲ルーサーの歌が入っていて、とてもお気に入りになりました。でも、他の2曲(『ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー』と『シンス・アイ・ロスト・マイ・ベイビー』)はもちろんいいことはいいんですが、『ダンス…』ほどのせつなさや、悲しさは感じないんです。同じシンガーの歌なのにね。
いつもうちで、比較的大きな音でそのCDをかけていたら、母まで『この曲はせつないわねえ』なんて言いだすんです。もちろん、母はルーサーなんて知らないし、母も私も、それほど歌詞の意味とかはわからないんですが。で、なんでこの曲はこんなにせつないんだろう、ってずっと疑問に思っていたんです。
そうしたらたまたま友人がこのホームページのことを教えてくれて、そこにルーサーのことが詳しく書かれていて、それを読んだら、すべてが超納得いったんです。歌詞を読み、その背景を知って、なるほど、って。それにしても、他の曲には感じない何かってなんなんでしょうね。音楽ってすごいですね。ルーサーのこと、教えていただいてありがとうございます」
すごいですねえ。やはり、ルーサー本人の自分の父、母に対する思いが込められているから、それが結局伝わるんでしょうね。もちろん、ルーサーは歌はうまい。でも、この「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」には、うまい以上の、ルーサーの思いいれ、魂、ソウルがはいってるんでしょうね。それを感じられる感性というのもすごい。
こういうキャリアソングを、一生に一曲でいいから作れたら、本当にシンガー冥利につきますね。つくづく思います。真の意味で魂が入った曲、これはなかなかめぐりあえません。
It Wasn’t Me Who Said That, Shaggy
2003年8月15日視点。
「顔に知性がな〜〜い、1パーセントも。がはは」 感想第一声がこれかよ。(笑) マキシー・プリーストががんがんに盛り上げたあと登場したシャギーを見ての同行ソウルメートAのセリフ。「でも、それがいいのよねえ〜〜〜。えっ、フォローになってない? ありゃあっ」 1人でボケと突っ込みするな。(苦笑)
あるひとつのライヴを見ても、皆見るところ、視点、焦点を絞るところは違います。顔を見る人もいれば、お尻を見る人もいれば、ミュージシャンの手の動きを見る人もいます。声や歌を目をつぶって聴く人もいれば、シンガーの指先だけを見る人もいるでしょう。ライヴには、本当に大量の情報があります。そして、そのどれを入手するかは、行った人間に選択権があります。
もちろん、最大の情報は音楽そのものですが、そこには、ミュージシャンのルックス、着てるものなどのヴィジュアルもあれば、演出上のパフォーマンスや、仕掛けなどもあり、色、空気、匂い、そこにいた観客、会場まですべてがそのライヴを形作る一部です。だから、ライヴのCDとか映像ものは、そのライヴのほんの一部の情報しか捉えていないわけです。
僕なんか、ライヴ行ったらできる限りたくさんの情報を入手しよう、というか、まあ、楽しもうと思うわけですが、一回だけで理解できないほどの大量の情報があるライヴも時としてあるわけです。まあ、見所満載っていうやつでしょうか。そういうのは、見てても楽しいですね。
で、マキシーは何度も見てるので、簡単に触れると、相変わらず元気。のりのり、そして、知ってるおなじみの曲ばかりで、1曲目から観客を立たせ、レゲエパーティーを盛り上げてくれました。しかも、ドラムが叩くリズムはレゲエというより、ポップ、R&B系に近い。
そして、シャギーは最初サングラスをかけてて、ちょっと最近のベイビーフェイス風、マックスウェル風でかっこよかった。で、サングラス取ったら、冒頭の発言が飛び出す始末です。でも、悪い意味じゃないんです。(なんで僕がフォローするんだ) 何も考えずに超楽しめますよ、これは。このライヴ見に来た人はみんな満足して帰るでしょう。
大体ジャマイカでは物事を深く考えたりしません。マキシはちょっと苦労の跡が顔にでているが、シャギーは苦労もなさそう。(マキシはロンドンが長いからだろう)(どういう理屈だ?) ほんとうにハッピーゴーラッキーで、仲良くなったら絶対楽しそう。悩みなんかぶっとぶに違いない。
暑い国に哲学者は生まれるのだろうか。暑い国で自殺者はいるのか。地球温暖化が進むと、全世界がジャマイカ化するのか。それは果たしていいとこなのか。いいことです。きっと、そうしたら戦争なくなるかも。(なわけないな。アフリカで戦争あるもんなあ)
大ヒット「イット・ウォズント・ミー」は、最高! お笑いレゲエです。「女の子とバスルームでタオル一丁でいたら、彼女がやってきて目を丸くしてる。そうだ、彼女に合鍵渡したの忘れてた。俺じゃない、俺じゃない」っていう浮気現場を目撃された歌。これをシャギーと一緒に歌ったちょっと小柄なシンガー、テヴィン・キャンべルに顔も声も似てた。同行ソウルメートB曰く「あの彼、前来た時は、腕折ってて、包帯でつってたんだよ。直ったんだね」。へえええ〜〜。(トリヴィア風) Aは顔を見て、Bは腕を見てたわけだ。音楽聴いてるの僕だけか? ってこんなこと、ジャマイカじゃ誰も考えない…。
それにしても「知性がない」なんて言ったのは、僕じゃないよ。It Wasn’t Me! Shaggy!
(2003年8月13日水曜ブルーノート東京・ファースト=マキシ・プリースト、シャギー・ライヴ)
「顔に知性がな〜〜い、1パーセントも。がはは」 感想第一声がこれかよ。(笑) マキシー・プリーストががんがんに盛り上げたあと登場したシャギーを見ての同行ソウルメートAのセリフ。「でも、それがいいのよねえ〜〜〜。えっ、フォローになってない? ありゃあっ」 1人でボケと突っ込みするな。(苦笑)
あるひとつのライヴを見ても、皆見るところ、視点、焦点を絞るところは違います。顔を見る人もいれば、お尻を見る人もいれば、ミュージシャンの手の動きを見る人もいます。声や歌を目をつぶって聴く人もいれば、シンガーの指先だけを見る人もいるでしょう。ライヴには、本当に大量の情報があります。そして、そのどれを入手するかは、行った人間に選択権があります。
もちろん、最大の情報は音楽そのものですが、そこには、ミュージシャンのルックス、着てるものなどのヴィジュアルもあれば、演出上のパフォーマンスや、仕掛けなどもあり、色、空気、匂い、そこにいた観客、会場まですべてがそのライヴを形作る一部です。だから、ライヴのCDとか映像ものは、そのライヴのほんの一部の情報しか捉えていないわけです。
僕なんか、ライヴ行ったらできる限りたくさんの情報を入手しよう、というか、まあ、楽しもうと思うわけですが、一回だけで理解できないほどの大量の情報があるライヴも時としてあるわけです。まあ、見所満載っていうやつでしょうか。そういうのは、見てても楽しいですね。
で、マキシーは何度も見てるので、簡単に触れると、相変わらず元気。のりのり、そして、知ってるおなじみの曲ばかりで、1曲目から観客を立たせ、レゲエパーティーを盛り上げてくれました。しかも、ドラムが叩くリズムはレゲエというより、ポップ、R&B系に近い。
そして、シャギーは最初サングラスをかけてて、ちょっと最近のベイビーフェイス風、マックスウェル風でかっこよかった。で、サングラス取ったら、冒頭の発言が飛び出す始末です。でも、悪い意味じゃないんです。(なんで僕がフォローするんだ) 何も考えずに超楽しめますよ、これは。このライヴ見に来た人はみんな満足して帰るでしょう。
大体ジャマイカでは物事を深く考えたりしません。マキシはちょっと苦労の跡が顔にでているが、シャギーは苦労もなさそう。(マキシはロンドンが長いからだろう)(どういう理屈だ?) ほんとうにハッピーゴーラッキーで、仲良くなったら絶対楽しそう。悩みなんかぶっとぶに違いない。
暑い国に哲学者は生まれるのだろうか。暑い国で自殺者はいるのか。地球温暖化が進むと、全世界がジャマイカ化するのか。それは果たしていいとこなのか。いいことです。きっと、そうしたら戦争なくなるかも。(なわけないな。アフリカで戦争あるもんなあ)
大ヒット「イット・ウォズント・ミー」は、最高! お笑いレゲエです。「女の子とバスルームでタオル一丁でいたら、彼女がやってきて目を丸くしてる。そうだ、彼女に合鍵渡したの忘れてた。俺じゃない、俺じゃない」っていう浮気現場を目撃された歌。これをシャギーと一緒に歌ったちょっと小柄なシンガー、テヴィン・キャンべルに顔も声も似てた。同行ソウルメートB曰く「あの彼、前来た時は、腕折ってて、包帯でつってたんだよ。直ったんだね」。へえええ〜〜。(トリヴィア風) Aは顔を見て、Bは腕を見てたわけだ。音楽聴いてるの僕だけか? ってこんなこと、ジャマイカじゃ誰も考えない…。
それにしても「知性がない」なんて言ったのは、僕じゃないよ。It Wasn’t Me! Shaggy!
(2003年8月13日水曜ブルーノート東京・ファースト=マキシ・プリースト、シャギー・ライヴ)
大停電。
CNNなどが、今日、ニューヨークで大停電が起こっているニュースを伝えています。前回の大停電は1977年のことでした。26年前のことですね。今回は昼間に停電が起こったので、とりあえず、皆歩いたりして家路についているようです。
停電っていうのは、いまどき起こったら本当に困りますね。こうしてパソコンも使えなくなるし、ネットにもつなげなくなる。地下鉄に乗っていた人たちが閉じ込められているかもしれないそうです。非常用の電気はつくのでしょうか。
停電になったら、テレビが見られなくなりますね。そうなると、電池で聴けるラジオの出番です。
77年、ニューヨークに大停電が起こった後、ディスコグループ、トランプスが曲を出しました。それが「ザ・ナイト・ザ・ライツ・ウエント・アウト」という曲です。軽快なディスコソングです。同じようなタイトルで、ヴィッキー・ローレンスというシンガーの曲があります。「ザ・ナイト・ザ・ライツ・ウエント・アウト・イン・ジョージア」です。これは73年の全米ナンバー・ワン・ソング。まあ、停電ソングというところでしょうか。
ニューヨークのラジオ局は放送を続けているようです。早いところ回復するといいですね。
CNNなどが、今日、ニューヨークで大停電が起こっているニュースを伝えています。前回の大停電は1977年のことでした。26年前のことですね。今回は昼間に停電が起こったので、とりあえず、皆歩いたりして家路についているようです。
停電っていうのは、いまどき起こったら本当に困りますね。こうしてパソコンも使えなくなるし、ネットにもつなげなくなる。地下鉄に乗っていた人たちが閉じ込められているかもしれないそうです。非常用の電気はつくのでしょうか。
停電になったら、テレビが見られなくなりますね。そうなると、電池で聴けるラジオの出番です。
77年、ニューヨークに大停電が起こった後、ディスコグループ、トランプスが曲を出しました。それが「ザ・ナイト・ザ・ライツ・ウエント・アウト」という曲です。軽快なディスコソングです。同じようなタイトルで、ヴィッキー・ローレンスというシンガーの曲があります。「ザ・ナイト・ザ・ライツ・ウエント・アウト・イン・ジョージア」です。これは73年の全米ナンバー・ワン・ソング。まあ、停電ソングというところでしょうか。
ニューヨークのラジオ局は放送を続けているようです。早いところ回復するといいですね。
兄。
しばらく前にボビー・へブの「サニー」という曲が話題になりました。たまたまちょっと別の調べ物をしていたところ、この「サニー」の話を知ったので、ちょっとまとめてみようと思います。
ボビー・へブは、1938年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ。6歳年上の兄ハル・へブと二人兄弟でした。父はギターやトロンボーンをたしなみ、母はピアノとギターをプレイしていました。兄は一足先にタップダンスを習っていました。ボビーが3歳の誕生日、1941年7月26日にジェリー・ジャクソン・レヴューというヴォードヴィルのステージに、兄に誘われて昇ったのです。3歳ですから、別に歌うというものでもなかったでしょう。適度に音楽にあわせて体を動かした程度だったのでしょう。それでも、3歳のボビーにとっては、初ステージとなりました。
以来、両親とハルとボビーの4人はしばしばステージに立つようになりました。ボビーも徐々に歌とダンスを覚えるようになったのです。
1954年、ボビーはさらに音楽をやりたいとシカゴに行き、チェス・レコード周辺で活動をします。その後、ニューヨークに行くのですが、1963年11月22日、アメリカに運命の銃弾が撃ちこまれます。そう、ジョン・F・ケネディー大統領がダラスで暗殺されるのです。ボビーも、アメリカ国民皆が悲しんでいましたが、悲劇はさらに追い討ちをかけました。ボビーの兄、ハルがその翌日23日に強盗に襲われ帰らぬ人となってしまったのです。31歳くらいだったでしょう。まだこれからというときです。当時25歳のボビーやへブ家にとっては二重の悲しみでした。
そして、ボビーはその亡き兄の思い出を一曲の歌にしたためます。それが、「サニー」という曲になったのです。ボビーはこの曲を66年に録音。6月からヒットし、ソウル・チャートで3位、ポップ・チャートで2位を記録、ミリオン・セラーになりました。
「サニー」は、ボビー・へブにとってのある意味での「キャリア・ソング」だったんですね。自伝的な歌とも言えます。僕はこれは単なるラヴソングかと思っていたんですが、亡き兄を思う歌だったわけです。だから、少し物悲しいんですね。
この曲は、その後200以上のカヴァーがレコーディングされ、真の意味でのスタンダードになりました。そして、ジェームス・ブラウンやマーヴィン・ゲイなどのヴァージョンも生まれ、この「サニー」だけのコンピレーション・アルバムまで制作されています。
このコンピは、ドイツのDJが、パーティーでしばしば「サニー」ばかりいろいろなヴァージョンをかけていたところ、その受けがよく、では「サニー」だけのコンピレーションを作ろうということで作った、ということです。
「サニー」は、ボビーの6歳年上の兄ハル・へブのことなのです。
サニーを異性の恋人ではなく、兄として、訳してみました。
***
「サニー」−ボビー・へブ
サニー、昨日、僕の人生は、大雨に降られたよ
サニー、兄貴が僕に微笑んでくれると、痛みも消えたものだ
兄貴が微笑んでくれると、暗い日が過ぎ去り、明るい日がやってくる
僕の輝く兄貴の微笑みは、純真そのもの
兄貴、本当に愛してるよ
サニー、太陽の花束をありがとう
サニー、兄貴が僕にくれた愛にありがとう
兄貴は、すべてを僕にくれた
兄貴のおかげで、10フィート(3メートル)も背が高くなった気分さ
サニー、僕に見させてくれた真実に感謝
サニー、僕に教えてくれたAからZまでのあらゆることに感謝
今、僕の人生は風に飛ばされる砂のようにこなごなだ
兄貴が僕の手を握ってくれたとき、二人の絆は硬く結ばれた
サニー、兄貴の微笑みよ、ありがとう
サニー、兄貴のその優雅なきらめきよ、ありがとう
兄貴は僕の燃える火の発火材
僕も兄貴みたいになりたいんだ
兄貴、本当に愛してるよ
***
こうやって改めて読んでみると、なるほどねえ、という感じですね。「昨日大雨」ということは、兄が死んだ翌日にこの曲を書いたのか、あるいは、翌日の気分を曲にしたということなのかもしれません。この曲の持つ魅力が、なんとなく少しわかったような気がします。そして、最終的にそういうものは、歌い手にも聴き手にも伝わるのでしょう。だから200人以上ものシンガーやアーティストがこの作品を録音するわけです。
しばらく前にボビー・へブの「サニー」という曲が話題になりました。たまたまちょっと別の調べ物をしていたところ、この「サニー」の話を知ったので、ちょっとまとめてみようと思います。
ボビー・へブは、1938年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ。6歳年上の兄ハル・へブと二人兄弟でした。父はギターやトロンボーンをたしなみ、母はピアノとギターをプレイしていました。兄は一足先にタップダンスを習っていました。ボビーが3歳の誕生日、1941年7月26日にジェリー・ジャクソン・レヴューというヴォードヴィルのステージに、兄に誘われて昇ったのです。3歳ですから、別に歌うというものでもなかったでしょう。適度に音楽にあわせて体を動かした程度だったのでしょう。それでも、3歳のボビーにとっては、初ステージとなりました。
以来、両親とハルとボビーの4人はしばしばステージに立つようになりました。ボビーも徐々に歌とダンスを覚えるようになったのです。
1954年、ボビーはさらに音楽をやりたいとシカゴに行き、チェス・レコード周辺で活動をします。その後、ニューヨークに行くのですが、1963年11月22日、アメリカに運命の銃弾が撃ちこまれます。そう、ジョン・F・ケネディー大統領がダラスで暗殺されるのです。ボビーも、アメリカ国民皆が悲しんでいましたが、悲劇はさらに追い討ちをかけました。ボビーの兄、ハルがその翌日23日に強盗に襲われ帰らぬ人となってしまったのです。31歳くらいだったでしょう。まだこれからというときです。当時25歳のボビーやへブ家にとっては二重の悲しみでした。
そして、ボビーはその亡き兄の思い出を一曲の歌にしたためます。それが、「サニー」という曲になったのです。ボビーはこの曲を66年に録音。6月からヒットし、ソウル・チャートで3位、ポップ・チャートで2位を記録、ミリオン・セラーになりました。
「サニー」は、ボビー・へブにとってのある意味での「キャリア・ソング」だったんですね。自伝的な歌とも言えます。僕はこれは単なるラヴソングかと思っていたんですが、亡き兄を思う歌だったわけです。だから、少し物悲しいんですね。
この曲は、その後200以上のカヴァーがレコーディングされ、真の意味でのスタンダードになりました。そして、ジェームス・ブラウンやマーヴィン・ゲイなどのヴァージョンも生まれ、この「サニー」だけのコンピレーション・アルバムまで制作されています。
このコンピは、ドイツのDJが、パーティーでしばしば「サニー」ばかりいろいろなヴァージョンをかけていたところ、その受けがよく、では「サニー」だけのコンピレーションを作ろうということで作った、ということです。
「サニー」は、ボビーの6歳年上の兄ハル・へブのことなのです。
サニーを異性の恋人ではなく、兄として、訳してみました。
***
「サニー」−ボビー・へブ
サニー、昨日、僕の人生は、大雨に降られたよ
サニー、兄貴が僕に微笑んでくれると、痛みも消えたものだ
兄貴が微笑んでくれると、暗い日が過ぎ去り、明るい日がやってくる
僕の輝く兄貴の微笑みは、純真そのもの
兄貴、本当に愛してるよ
サニー、太陽の花束をありがとう
サニー、兄貴が僕にくれた愛にありがとう
兄貴は、すべてを僕にくれた
兄貴のおかげで、10フィート(3メートル)も背が高くなった気分さ
サニー、僕に見させてくれた真実に感謝
サニー、僕に教えてくれたAからZまでのあらゆることに感謝
今、僕の人生は風に飛ばされる砂のようにこなごなだ
兄貴が僕の手を握ってくれたとき、二人の絆は硬く結ばれた
サニー、兄貴の微笑みよ、ありがとう
サニー、兄貴のその優雅なきらめきよ、ありがとう
兄貴は僕の燃える火の発火材
僕も兄貴みたいになりたいんだ
兄貴、本当に愛してるよ
***
こうやって改めて読んでみると、なるほどねえ、という感じですね。「昨日大雨」ということは、兄が死んだ翌日にこの曲を書いたのか、あるいは、翌日の気分を曲にしたということなのかもしれません。この曲の持つ魅力が、なんとなく少しわかったような気がします。そして、最終的にそういうものは、歌い手にも聴き手にも伝わるのでしょう。だから200人以上ものシンガーやアーティストがこの作品を録音するわけです。
Ed Townsend Died At 74
2003年8月18日エド・タウンゼント死去。
急死。
50年代から活躍してきたヴェテラン・R&Bプロデューサー、ソングライター、シンガー、エド・タウンゼントが8月13日水曜日、カリフォルニア州サンシティーで急死した。74歳だった。
エド・タウンゼントは、1929年4月16日テネシー州フェイエットヴィルの生まれ。本名エドワード・デイヴィッド・タウンゼント。父親が牧師だったことから幼少からゴスペルを歌っていた。アメリカ海軍に入り、朝鮮戦争に従軍。その後、58年、自ら書いて歌った「フォー・ユア・ラヴ」がポップでも13位まで行くヒットになり注目されるようになった。その後は主としてソングライター、プロデューサーとして活躍。
最大のヒット作は、マーヴィン・ゲイの73年の「レッツ・ゲット・イット・オン」。これがエドの作品でプロデュースでもあった。この曲は最近、ヴァイヴ・マガジンから「オールタイム・ナンバー・ワン・ラヴ・ソング」に選ばれていた。
このほかにインプレッションズの「ファイナリー・ガット・マイセルフ・トゥゲザー」、ジミー・ホリデイの「ハウ・キャン・アイ・フォーゲット」、セオラ・キルゴアーズの「ザ・ラヴ・オブ・マイ・マン」など多数の作品をだしている。
また、彼は自らが経験したアルコール中毒を克服するためのリハビリテーション・プログラムを、同様の人たちに積極的に薦める運動も行っていた。2001年、彼はリハビリをテーマにしたミュージカル『(リハビリテーション)ビーン・ゼア、ダン・ザット』を制作、発表している。
最近も様々な活動に従事し、新曲「カウント・エヴリ・グレイン・オブ・サンド」を録音、また、エドの人生をテレビ番組にまとめるプロジェクトや、マーヴィン・ゲイの生涯を描いた映画の企画などもあった、という。
彼の息子のひとり、デイヴィッド・タウンゼントは、ソウル・ヴォーカル・グループ、サーフィスのメンバーのひとりで。サーフィスは、89年「シャワー・ミー・ウィズ・ユア・ラヴ」などの大ヒットがある。
ENT>OBITUARY>TOWNSEND, ED
急死。
50年代から活躍してきたヴェテラン・R&Bプロデューサー、ソングライター、シンガー、エド・タウンゼントが8月13日水曜日、カリフォルニア州サンシティーで急死した。74歳だった。
エド・タウンゼントは、1929年4月16日テネシー州フェイエットヴィルの生まれ。本名エドワード・デイヴィッド・タウンゼント。父親が牧師だったことから幼少からゴスペルを歌っていた。アメリカ海軍に入り、朝鮮戦争に従軍。その後、58年、自ら書いて歌った「フォー・ユア・ラヴ」がポップでも13位まで行くヒットになり注目されるようになった。その後は主としてソングライター、プロデューサーとして活躍。
最大のヒット作は、マーヴィン・ゲイの73年の「レッツ・ゲット・イット・オン」。これがエドの作品でプロデュースでもあった。この曲は最近、ヴァイヴ・マガジンから「オールタイム・ナンバー・ワン・ラヴ・ソング」に選ばれていた。
このほかにインプレッションズの「ファイナリー・ガット・マイセルフ・トゥゲザー」、ジミー・ホリデイの「ハウ・キャン・アイ・フォーゲット」、セオラ・キルゴアーズの「ザ・ラヴ・オブ・マイ・マン」など多数の作品をだしている。
また、彼は自らが経験したアルコール中毒を克服するためのリハビリテーション・プログラムを、同様の人たちに積極的に薦める運動も行っていた。2001年、彼はリハビリをテーマにしたミュージカル『(リハビリテーション)ビーン・ゼア、ダン・ザット』を制作、発表している。
最近も様々な活動に従事し、新曲「カウント・エヴリ・グレイン・オブ・サンド」を録音、また、エドの人生をテレビ番組にまとめるプロジェクトや、マーヴィン・ゲイの生涯を描いた映画の企画などもあった、という。
彼の息子のひとり、デイヴィッド・タウンゼントは、ソウル・ヴォーカル・グループ、サーフィスのメンバーのひとりで。サーフィスは、89年「シャワー・ミー・ウィズ・ユア・ラヴ」などの大ヒットがある。
ENT>OBITUARY>TOWNSEND, ED
訂正。
昨日は、ボブ・マーリーをご紹介したのですが、間違いがふたつ。BBSでも指摘されましたが、まず、ローリン・ヒルと結婚したボブ・マーリーの息子はジギ−ではなく、ローハン・マーリーという人でした。そして、「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のタイトルの意味を「女の人がいなければ、失恋しなくてもすむので、悲しまなくていい、涙がいらない」というニュアンスをお伝えしたのですが、歌詞をじっくり読むと、違いました。お詫びして訂正です。陳謝。
ボブの息子が何人いるのか、ちょっと調べていたのですが、わかりませんでした。(笑) 最低6人くらいはいるようです。そのローハンの名前はリストの中にはありませんでした。
「ノー・ウーマン・ノー・クライ」は、「ノー・ペイン、ノー・ゲイン」と同じニュアンスの言い回しかと思ったのですね。つまり、「痛みなければ、得るものなし」 すなわち、苦労なくして成果は得られない、という意味です。「ノー・ウーマンなら、ノー・クライ」というわけです。
しかし歌詞の流れからすると、泣かないで、ウーマン、泣かないで、という意味のようですね。ただちょっと僕自身、この歌詞からは、ストーリーの全体像がつかめないので、まだ訳せないです。全体的にボブ・マーリーの歌詞は難しい。彼を取り巻く様々なことを知らないと歌詞の意味がわかりません。
+++
Real James Brown: He’s Real
ファミリー。
さて、ボブ・マーリー終わったあとのドン勝本氏のゲストは、めちゃくちゃおもしろかったですね。当初は20分くらいの予定だったんですが、話がはずんでしまったので、40分近くになってしまいました。(笑) 勝本氏とジェームス・ブラウン話をすると止まりません。勝本氏が73年初めて会ったときの話。その後、姫路でリムジンに乗った話。自宅を訪れ、ブラウン自らがいろいろなところを案内してくれた話。リハーサルの時の話。マントをもらったときの話。Ain’t No Stoppin’ Us Nowって感じですね。(笑) それにしても、ミスター・ブラウンはファミリーというものを大事にします。
残念だったのは、井筒監督に出演をお願いしていたのですが、さすがに土曜日公開初日ということでかなりスケジュールがタイトでご出演願えませんでしたが、また、近いうちにチャンスはあるでしょう。金曜日だったか、BSフジの『ロングインタヴュー』(司会テリー伊藤、小島奈津子)という90分番組で井筒さんがいろいろお話してました。たまたま途中から見たんですが、なかなかおもしろかったです。まだ再放送があるようですので、チェックしてみてください。
http://www.bsfuji.tv/top/pub/interview.html
http://www.bsfuji.tv/top/recommend/rcm_variety.html#interview
マーヴィンが言ってましたが、確かにジェームス・ブラウンは「リアル(本物)」ですね。追加公演10月3日(金曜)、武道館です。東京2デイズ、ソウルの神様の元気をもらいましょう。
昨日は、ボブ・マーリーをご紹介したのですが、間違いがふたつ。BBSでも指摘されましたが、まず、ローリン・ヒルと結婚したボブ・マーリーの息子はジギ−ではなく、ローハン・マーリーという人でした。そして、「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のタイトルの意味を「女の人がいなければ、失恋しなくてもすむので、悲しまなくていい、涙がいらない」というニュアンスをお伝えしたのですが、歌詞をじっくり読むと、違いました。お詫びして訂正です。陳謝。
ボブの息子が何人いるのか、ちょっと調べていたのですが、わかりませんでした。(笑) 最低6人くらいはいるようです。そのローハンの名前はリストの中にはありませんでした。
「ノー・ウーマン・ノー・クライ」は、「ノー・ペイン、ノー・ゲイン」と同じニュアンスの言い回しかと思ったのですね。つまり、「痛みなければ、得るものなし」 すなわち、苦労なくして成果は得られない、という意味です。「ノー・ウーマンなら、ノー・クライ」というわけです。
しかし歌詞の流れからすると、泣かないで、ウーマン、泣かないで、という意味のようですね。ただちょっと僕自身、この歌詞からは、ストーリーの全体像がつかめないので、まだ訳せないです。全体的にボブ・マーリーの歌詞は難しい。彼を取り巻く様々なことを知らないと歌詞の意味がわかりません。
+++
Real James Brown: He’s Real
ファミリー。
さて、ボブ・マーリー終わったあとのドン勝本氏のゲストは、めちゃくちゃおもしろかったですね。当初は20分くらいの予定だったんですが、話がはずんでしまったので、40分近くになってしまいました。(笑) 勝本氏とジェームス・ブラウン話をすると止まりません。勝本氏が73年初めて会ったときの話。その後、姫路でリムジンに乗った話。自宅を訪れ、ブラウン自らがいろいろなところを案内してくれた話。リハーサルの時の話。マントをもらったときの話。Ain’t No Stoppin’ Us Nowって感じですね。(笑) それにしても、ミスター・ブラウンはファミリーというものを大事にします。
残念だったのは、井筒監督に出演をお願いしていたのですが、さすがに土曜日公開初日ということでかなりスケジュールがタイトでご出演願えませんでしたが、また、近いうちにチャンスはあるでしょう。金曜日だったか、BSフジの『ロングインタヴュー』(司会テリー伊藤、小島奈津子)という90分番組で井筒さんがいろいろお話してました。たまたま途中から見たんですが、なかなかおもしろかったです。まだ再放送があるようですので、チェックしてみてください。
http://www.bsfuji.tv/top/pub/interview.html
http://www.bsfuji.tv/top/recommend/rcm_variety.html#interview
マーヴィンが言ってましたが、確かにジェームス・ブラウンは「リアル(本物)」ですね。追加公演10月3日(金曜)、武道館です。東京2デイズ、ソウルの神様の元気をもらいましょう。
影。
今回のライヴは、選曲がいい。マーカス・ミラー、レイラ・ハザウェイ、そしてテイク6。マーカス・グループが約50分ほど演奏した後、レイラはいきなり、すたすたと舞台に登場。その一曲目はなんと「ジェラス・ガイ」だった。う〜〜ん、そうきたか。
ジョン・レノン作、ダニー・ハザウエイのライヴ盤で歌われる佳曲である。やはり、
ダニーで聴きなれた作品をその娘で聴くというのは、感情的になるものだ。はっきり言ってレイラのこの一曲だけでも、聴きにきた甲斐はあったとさえいえる。そして、続いて歌われたのが、なんと、アレサの大ヒット「デイドリーミン」。わお! なんでまた、こんな曲を! ほんとに、レイラの声は低くて太くて、いい。こういう曲にもぴったりだ。
そして、テイク6の登場。マーカス、レイラ、テイク6は、それまでにも充分なつながりがあって、もはやファミリーみたいなものだから、コンビネーションとか文句ない。「メリー・ドンチュ−・ウィ−プ」(トラディショナル)、「グランドマズ・ハンズ」(ビル・ウィザース)、さらに「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ」(スティーヴィー・ワンダー)と続く。このあたりは、いつもの感じだが、なんと言ってもバックにマーカス&ヒズ・グループがいて、相当タイトな演奏をつけるので、かっこいい。
テイク6ヴァージョンも見事な「ピープル・ゲット・レディー」(カーティス・メイフィールド&インプレッションズ)、「テイキン・イット・トゥ・ザ・ストリート」(ドゥービー・ブラザース)と続く。「ピープル・ゲット・レディー」なんか、完全にテイク6のものになっている。後者は、途中からゴスペル調になっていく。そこにはテイク6の声が圧倒的にうずまく。それはまさに至福の声の洪水だ。途中から入るバンド一無愛想なサックス奏者ロジャー・バイアムの職人的サックスソロが実にクールだ。彼はいい味だしている。もちろんオマー・ハキムのドラムスも最高、ギターのディーン・ブラウンもいい。完璧なバンドである。
いったんはけた後アンコールの1曲目。なんと、「イフ・オンリー・フォー・ワン・ナイト」と来た! ブレンダ・ラッセル作のルーサー・ヴァンドロス歌の名作である。マーカスはここでクラリネットよりもさらに長い初めて見るような管楽器を使っていた。途中でクラリネットに持ち替えるが、そこで、トランペットのマイケル・スチュワートとちょっとしたバトルを繰り広げる。そして、曲が終わりマーカスが「ルーサーの歌で知られる『イフ・オンリー・フォー・ナイト』、彼に捧げます・・・」とアナウンスした。さらっとした紹介だけにじわんとくる。
ルーサーがブレイクしたきっかけが『ネヴァー・トゥ・マッチ』(81年)、それをプロデュースしたのが、誰あろうマーカス・ミラーである。マーカスがやるルーサーの曲というところに大いなる意義がある。そして、アンコール2曲目はレイラが前にでてきて「ホエン・ライフ・ワォズ・ロウ」。あのジョー・サンプルのアルバム『ソング・リヴズ・オン』に入っている名曲だ。CDもよかったが生歌も何度聴いてもいい。本当にレイラは自分の道を見つけたとつくづく思う。
たまたま座った席が一番前だった。そこで、なぜかレイラとものすごくたくさん目があったような気がした。というか、レイラが僕の目を見て歌っているような気になった。目があっていたのは確かな事実だ。彼女は半分は僕のほうを見て、半分は逆側を見る。なんでずっと見つめられるのだろうか。ひょっとして彼女は僕に気でもあるのだろうかと思ってどきどきした。(このあたりが単純というか=苦笑) しかし女性歌手にしっかり目を見られて歌われたことはなかったように思う。よく男性シンガーが女性に向かって歌うシーンは目撃するが。レイラはいつもどこかに焦点を定めて歌うのかな。それとも僕を知っていたから見ていたのか。ただ誰でもよかったのか。確かめないと・・・(笑)
それはさておき、その次に歌われた曲に完璧にノックアウトさせられた。バックバンドのイントロだけで、ぐわ〜〜と来た。ステージにはもちろんテイク6もいる。レイラがステージ中央でマイクを持っている。イントロから最初のフレーズへ。「hang on to the world...」だ。もうこれだけで胸一杯である。その曲は「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」である。もちろん、ダニー・ハザウェイの名曲中の名曲だ。ほんとだったら泣いてもいいシーンだ。
しかし、この日はライヴが始まったのが午後1時。急遽決まった追加公演。しかも日曜日なので僕は個人的には、このあとすぐ次に行かなければならない。よってあんまり落ち着いていられないのだ。それと、会場が寒かったせいか、あるいは、睡眠不足のせいか体調は万全ではなかった。まあ、言ってみれば、ふだんナイターばかりに出向いているのに、この日はデーゲームなので調子よくないのだ。やっぱりライヴはナイターに限る。そう、ナイターのホームゲームがいいな。昼の1時からライヴなんて、オープンエアのレゲエのライヴだったらいいのだが。というわけで泣くまでにはいたらなかったが、これが万全の調子で超集中して聴いていたら、どうなったか保証できない。
というわけで、「サムデイ・・・」に泣くことはなかったが、かなりくるものはあった。レイラはいつの日にか(サムデイ)父の曲にチャレンジするだろうと、99年、2000年に彼女のライヴを見たときに確信というか期待をもっていた。このことは以前別のところに書いた。それから3年。いよいよかな、という思いがこみ上げてきた。
レイラは、やっている音楽こそちょっと違うが、歩み方にナタリーと似ている部分がある。ナタリーがついに「アンフォーゲッタブル」をやったように、レイラがついに「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」を歌ったのだ。しかもコーラスが、バックコーラスがテイク6にマーカスである。こんなぜいたくがあるだろうか。
これ一曲だけでも、この日のライヴの価値はあった。(っていうのが、もう2曲目です) そして、もう一曲テイク6が「ドント・ギヴ・アップ」(ピーター・ゲイブリエル)を歌う。ここではトーキングベース、アルヴィン・チアとマーカスのエレキベースの壮絶なバトルが繰り広げられた。これも見ものだ。
ショウが終わってすぐに僕は会場を後にした。本当はもっと余韻を楽しみたかったのだがしょうがない。今年見たライヴの中で1曲を選べといわれたら、レイラのこの日の「サムデイ・ウィル・ビー・オール・フリー」にするだろう。レイラの次のアルバムは一体どうなろうのだろうか。きっと彼女のキャリアを決定付ける「キャリア・アルバム」になるのではないだろうか。そんな予感が強く強くしてくる。レイラがついにダニーの影に足を乗せている。レガシーの影の上に、そっと片足を乗せている・・・。そして、今回レイラがこれを歌うところを見る人たちは、同時進行のドキュメントの、歴史の目撃者だ。
(2003年8月17日・日曜ファースト・東京国際フォーラム・ホールB7=マーカス・ミラー、レイラ・ハザウェイ、テイク6)
(このほかショウは8月18日から20日まで。ただしテイク6がでるのは18日と20日。レイラはすべてに出演。19日はケニー・ギャレットが出演。また週末にはマウント・フジ・ジャズ・フェスにもでます)
今回のライヴは、選曲がいい。マーカス・ミラー、レイラ・ハザウェイ、そしてテイク6。マーカス・グループが約50分ほど演奏した後、レイラはいきなり、すたすたと舞台に登場。その一曲目はなんと「ジェラス・ガイ」だった。う〜〜ん、そうきたか。
ジョン・レノン作、ダニー・ハザウエイのライヴ盤で歌われる佳曲である。やはり、
ダニーで聴きなれた作品をその娘で聴くというのは、感情的になるものだ。はっきり言ってレイラのこの一曲だけでも、聴きにきた甲斐はあったとさえいえる。そして、続いて歌われたのが、なんと、アレサの大ヒット「デイドリーミン」。わお! なんでまた、こんな曲を! ほんとに、レイラの声は低くて太くて、いい。こういう曲にもぴったりだ。
そして、テイク6の登場。マーカス、レイラ、テイク6は、それまでにも充分なつながりがあって、もはやファミリーみたいなものだから、コンビネーションとか文句ない。「メリー・ドンチュ−・ウィ−プ」(トラディショナル)、「グランドマズ・ハンズ」(ビル・ウィザース)、さらに「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ」(スティーヴィー・ワンダー)と続く。このあたりは、いつもの感じだが、なんと言ってもバックにマーカス&ヒズ・グループがいて、相当タイトな演奏をつけるので、かっこいい。
テイク6ヴァージョンも見事な「ピープル・ゲット・レディー」(カーティス・メイフィールド&インプレッションズ)、「テイキン・イット・トゥ・ザ・ストリート」(ドゥービー・ブラザース)と続く。「ピープル・ゲット・レディー」なんか、完全にテイク6のものになっている。後者は、途中からゴスペル調になっていく。そこにはテイク6の声が圧倒的にうずまく。それはまさに至福の声の洪水だ。途中から入るバンド一無愛想なサックス奏者ロジャー・バイアムの職人的サックスソロが実にクールだ。彼はいい味だしている。もちろんオマー・ハキムのドラムスも最高、ギターのディーン・ブラウンもいい。完璧なバンドである。
いったんはけた後アンコールの1曲目。なんと、「イフ・オンリー・フォー・ワン・ナイト」と来た! ブレンダ・ラッセル作のルーサー・ヴァンドロス歌の名作である。マーカスはここでクラリネットよりもさらに長い初めて見るような管楽器を使っていた。途中でクラリネットに持ち替えるが、そこで、トランペットのマイケル・スチュワートとちょっとしたバトルを繰り広げる。そして、曲が終わりマーカスが「ルーサーの歌で知られる『イフ・オンリー・フォー・ナイト』、彼に捧げます・・・」とアナウンスした。さらっとした紹介だけにじわんとくる。
ルーサーがブレイクしたきっかけが『ネヴァー・トゥ・マッチ』(81年)、それをプロデュースしたのが、誰あろうマーカス・ミラーである。マーカスがやるルーサーの曲というところに大いなる意義がある。そして、アンコール2曲目はレイラが前にでてきて「ホエン・ライフ・ワォズ・ロウ」。あのジョー・サンプルのアルバム『ソング・リヴズ・オン』に入っている名曲だ。CDもよかったが生歌も何度聴いてもいい。本当にレイラは自分の道を見つけたとつくづく思う。
たまたま座った席が一番前だった。そこで、なぜかレイラとものすごくたくさん目があったような気がした。というか、レイラが僕の目を見て歌っているような気になった。目があっていたのは確かな事実だ。彼女は半分は僕のほうを見て、半分は逆側を見る。なんでずっと見つめられるのだろうか。ひょっとして彼女は僕に気でもあるのだろうかと思ってどきどきした。(このあたりが単純というか=苦笑) しかし女性歌手にしっかり目を見られて歌われたことはなかったように思う。よく男性シンガーが女性に向かって歌うシーンは目撃するが。レイラはいつもどこかに焦点を定めて歌うのかな。それとも僕を知っていたから見ていたのか。ただ誰でもよかったのか。確かめないと・・・(笑)
それはさておき、その次に歌われた曲に完璧にノックアウトさせられた。バックバンドのイントロだけで、ぐわ〜〜と来た。ステージにはもちろんテイク6もいる。レイラがステージ中央でマイクを持っている。イントロから最初のフレーズへ。「hang on to the world...」だ。もうこれだけで胸一杯である。その曲は「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」である。もちろん、ダニー・ハザウェイの名曲中の名曲だ。ほんとだったら泣いてもいいシーンだ。
しかし、この日はライヴが始まったのが午後1時。急遽決まった追加公演。しかも日曜日なので僕は個人的には、このあとすぐ次に行かなければならない。よってあんまり落ち着いていられないのだ。それと、会場が寒かったせいか、あるいは、睡眠不足のせいか体調は万全ではなかった。まあ、言ってみれば、ふだんナイターばかりに出向いているのに、この日はデーゲームなので調子よくないのだ。やっぱりライヴはナイターに限る。そう、ナイターのホームゲームがいいな。昼の1時からライヴなんて、オープンエアのレゲエのライヴだったらいいのだが。というわけで泣くまでにはいたらなかったが、これが万全の調子で超集中して聴いていたら、どうなったか保証できない。
というわけで、「サムデイ・・・」に泣くことはなかったが、かなりくるものはあった。レイラはいつの日にか(サムデイ)父の曲にチャレンジするだろうと、99年、2000年に彼女のライヴを見たときに確信というか期待をもっていた。このことは以前別のところに書いた。それから3年。いよいよかな、という思いがこみ上げてきた。
レイラは、やっている音楽こそちょっと違うが、歩み方にナタリーと似ている部分がある。ナタリーがついに「アンフォーゲッタブル」をやったように、レイラがついに「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」を歌ったのだ。しかもコーラスが、バックコーラスがテイク6にマーカスである。こんなぜいたくがあるだろうか。
これ一曲だけでも、この日のライヴの価値はあった。(っていうのが、もう2曲目です) そして、もう一曲テイク6が「ドント・ギヴ・アップ」(ピーター・ゲイブリエル)を歌う。ここではトーキングベース、アルヴィン・チアとマーカスのエレキベースの壮絶なバトルが繰り広げられた。これも見ものだ。
ショウが終わってすぐに僕は会場を後にした。本当はもっと余韻を楽しみたかったのだがしょうがない。今年見たライヴの中で1曲を選べといわれたら、レイラのこの日の「サムデイ・ウィル・ビー・オール・フリー」にするだろう。レイラの次のアルバムは一体どうなろうのだろうか。きっと彼女のキャリアを決定付ける「キャリア・アルバム」になるのではないだろうか。そんな予感が強く強くしてくる。レイラがついにダニーの影に足を乗せている。レガシーの影の上に、そっと片足を乗せている・・・。そして、今回レイラがこれを歌うところを見る人たちは、同時進行のドキュメントの、歴史の目撃者だ。
(2003年8月17日・日曜ファースト・東京国際フォーラム・ホールB7=マーカス・ミラー、レイラ・ハザウェイ、テイク6)
(このほかショウは8月18日から20日まで。ただしテイク6がでるのは18日と20日。レイラはすべてに出演。19日はケニー・ギャレットが出演。また週末にはマウント・フジ・ジャズ・フェスにもでます)
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