John Whitehead Shot Dead
2004年5月13日ジョン・ホワイトヘッド(マクファーデン&ホワイトヘッドの片割れ)殺害される
フィラデルフィアのデュオで、ソングライター、プロデューサーとしても多数のヒットを持つマクファーデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドが去る5月11日夕方、フィラデルフィアの自宅前で銃を持った複数の暴漢に撃たれ死亡した。55歳だった。ホワイトヘッドと同じ現場にいた甥のオーメッド・ジャクソン(20)も撃たれたが命に別状はない模様。銃声はかなりの数したという。男たちはオーメッドを狙っていたのではないかとの観測もある。犯人は捕まっていない。ホワイトヘッドは、4年前、自宅に強盗が押し入り、ジョンの兄弟ケヴィンを縛り上げ、宝石や現金が奪われていた。
娘のドーン・ホワイトヘッド(33)は、「なぜ父に彼らはこんなことをするの。昨日、話したばかりなのに」と呆然とした。音楽パートナーであるジーン・マクファーデンはこのニュースを聞き、ダラス・ストリートの自宅前の現場に急行、やはり立ちすくんだという。
12日に警察が記者会見したところによると、単なる物取りではなく、おそらく犯人と甥の間になんらかのトラブルがあったものと見られている。状況から犯人たちはジャクソンを狙い撃ちしたらしい。そのあおりでホワイトヘッドが死亡した。
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フィラデルフィアのトップ・プロデューサー、デュオ。
ジョン・ホワイトヘッドは、1947年7月10日フィラデルフィア生まれ。小学校時代の友人ジーン・マクファーデンとともにヴォーカル・グループを結成。エプシロンズという名で活躍している60年代中期にオーティス・レディングに認められ、彼のツアーに参加。オーティスの67年12月10日の飛行機事故による急死を受け、地元で活躍するようになり、同地のプロデューサー、ギャンブル&ハフに認められ、彼らのレコード会社に入社する。
グループ名をトーク・オブ・ザ・タウンと変えシングルをリリースするがヒットにはいたらなかった。その後、雑用などをしていたが、曲作りを覚え、初めて書いた作品が「バック・スタバーズ」で、72年これをオージェイズが歌い大ヒットになった。以後、二人のコンビで多数の作品を書き、プロデュースもし、フィラデルフィアのホットなプロデューサー・チームとなった。
オージェイズだけでなく、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、テディー・ペンダグラス、イントゥルーダーズなどに多数のヒットを提供。その後、自らマクファーデン&ホワイトヘッドとして79年再デビュー。この時だした「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が大ヒットし、彼らはアーティストとしてもブレイクした。この曲はその後もサンプリング、カヴァーなどもされ、ダンスクラシックとなっている。
ジョンは1983年ソロアルバムを一枚だすが、思ったほどの成功は収めなかった。最近でもジーンとともに、時折ライヴ・パフォーマンスなどを見せていたという。
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衝撃。
ブルーノートで、レイラ・ハザウェイとフランク・マッコムのライヴをひじょうに楽しんで帰ってきて、その感想文でも書こうとコンピューターを立ち上げたら、とんでもないニュースが飛び込んできた。ジョン・ホワイトヘッド死去のニュースだ。このところ、本当に訃報が多いが、これにはまいった。しかも、暴漢に襲われての死亡だ。状況からすると巻き添え的に殺された感が強い。
ご存知の方も多いだろうが、僕が「ソウル・サーチン」という言葉を教わったのが、このジョン・ホワイトヘッドからである。88年3月、ニューヨークで彼に会い、インタヴューし、その中で彼は自身のソウル・サーチンの物語を語ってくれた。あの時の彼の表情や、雰囲気は今でも思い起こすことができる。彼と会わなければ、僕の著作『ソウル・サーチン』も生まれていない。そして、僕がThe Soul Searcherと名乗ることもなかった。その意味で、僕にとってはジョン・ホワイトヘッドこそ、ソウル・サーチンのオリジネイターなのである。88年以来再会できていなかったが、絶対にまた会ってゆっくり話をしたいと思っていた人物のひとりである。このニュースを聞いて、本当に残念でならない。
彼は快活で、明るい、笑いが絶えない人物だった。今回の事件に関して彼を知る人物がみなジョンのことを「いい奴で、おもしろい奴だった」というコメントをしているが、本当にその通りだった。しかも、彼の話がなんといってもおもしろい。見事な語り部だった。インタヴュー・テープをただそのまま起こせば、それだけで充分なストーリーになっていた。
あのインタヴューは僕がてがけたインタヴューの中でも3本の指に入るいいものだった。彼がオーティス・レディングに弟子入りしていたことなども初めて知った。「バック・スタバーズ」の誕生秘話もおもしろかった。彼らが裏方から表舞台にでて「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」をやっとの思いで録音することができたという話。そして、大ヒットがたくさんでて、ジョンが脱税で刑務所に入ってしまうという話。彼がどん底にいたときに手を差し伸べてくれた友人。そこで体験した彼自身のソウル・サーチン。たった一時間のインタヴューで僕はエンタテインメントの映画一本分を見たような満足感を得た。彼以後も多数の人にインタヴューをしているが、彼ほど話をおもしろおかしく、しかもときに悲しく、メリハリをつけ、起承転結をうまく話す人物を知らない。
Rest In Peace, John Whitehead!
『ソウル・サーチン』
http://www.soulsearchin.com/soulsearchin/index.html
フィラデルフィアのデュオで、ソングライター、プロデューサーとしても多数のヒットを持つマクファーデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドが去る5月11日夕方、フィラデルフィアの自宅前で銃を持った複数の暴漢に撃たれ死亡した。55歳だった。ホワイトヘッドと同じ現場にいた甥のオーメッド・ジャクソン(20)も撃たれたが命に別状はない模様。銃声はかなりの数したという。男たちはオーメッドを狙っていたのではないかとの観測もある。犯人は捕まっていない。ホワイトヘッドは、4年前、自宅に強盗が押し入り、ジョンの兄弟ケヴィンを縛り上げ、宝石や現金が奪われていた。
娘のドーン・ホワイトヘッド(33)は、「なぜ父に彼らはこんなことをするの。昨日、話したばかりなのに」と呆然とした。音楽パートナーであるジーン・マクファーデンはこのニュースを聞き、ダラス・ストリートの自宅前の現場に急行、やはり立ちすくんだという。
12日に警察が記者会見したところによると、単なる物取りではなく、おそらく犯人と甥の間になんらかのトラブルがあったものと見られている。状況から犯人たちはジャクソンを狙い撃ちしたらしい。そのあおりでホワイトヘッドが死亡した。
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フィラデルフィアのトップ・プロデューサー、デュオ。
ジョン・ホワイトヘッドは、1947年7月10日フィラデルフィア生まれ。小学校時代の友人ジーン・マクファーデンとともにヴォーカル・グループを結成。エプシロンズという名で活躍している60年代中期にオーティス・レディングに認められ、彼のツアーに参加。オーティスの67年12月10日の飛行機事故による急死を受け、地元で活躍するようになり、同地のプロデューサー、ギャンブル&ハフに認められ、彼らのレコード会社に入社する。
グループ名をトーク・オブ・ザ・タウンと変えシングルをリリースするがヒットにはいたらなかった。その後、雑用などをしていたが、曲作りを覚え、初めて書いた作品が「バック・スタバーズ」で、72年これをオージェイズが歌い大ヒットになった。以後、二人のコンビで多数の作品を書き、プロデュースもし、フィラデルフィアのホットなプロデューサー・チームとなった。
オージェイズだけでなく、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、テディー・ペンダグラス、イントゥルーダーズなどに多数のヒットを提供。その後、自らマクファーデン&ホワイトヘッドとして79年再デビュー。この時だした「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」が大ヒットし、彼らはアーティストとしてもブレイクした。この曲はその後もサンプリング、カヴァーなどもされ、ダンスクラシックとなっている。
ジョンは1983年ソロアルバムを一枚だすが、思ったほどの成功は収めなかった。最近でもジーンとともに、時折ライヴ・パフォーマンスなどを見せていたという。
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衝撃。
ブルーノートで、レイラ・ハザウェイとフランク・マッコムのライヴをひじょうに楽しんで帰ってきて、その感想文でも書こうとコンピューターを立ち上げたら、とんでもないニュースが飛び込んできた。ジョン・ホワイトヘッド死去のニュースだ。このところ、本当に訃報が多いが、これにはまいった。しかも、暴漢に襲われての死亡だ。状況からすると巻き添え的に殺された感が強い。
ご存知の方も多いだろうが、僕が「ソウル・サーチン」という言葉を教わったのが、このジョン・ホワイトヘッドからである。88年3月、ニューヨークで彼に会い、インタヴューし、その中で彼は自身のソウル・サーチンの物語を語ってくれた。あの時の彼の表情や、雰囲気は今でも思い起こすことができる。彼と会わなければ、僕の著作『ソウル・サーチン』も生まれていない。そして、僕がThe Soul Searcherと名乗ることもなかった。その意味で、僕にとってはジョン・ホワイトヘッドこそ、ソウル・サーチンのオリジネイターなのである。88年以来再会できていなかったが、絶対にまた会ってゆっくり話をしたいと思っていた人物のひとりである。このニュースを聞いて、本当に残念でならない。
彼は快活で、明るい、笑いが絶えない人物だった。今回の事件に関して彼を知る人物がみなジョンのことを「いい奴で、おもしろい奴だった」というコメントをしているが、本当にその通りだった。しかも、彼の話がなんといってもおもしろい。見事な語り部だった。インタヴュー・テープをただそのまま起こせば、それだけで充分なストーリーになっていた。
あのインタヴューは僕がてがけたインタヴューの中でも3本の指に入るいいものだった。彼がオーティス・レディングに弟子入りしていたことなども初めて知った。「バック・スタバーズ」の誕生秘話もおもしろかった。彼らが裏方から表舞台にでて「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」をやっとの思いで録音することができたという話。そして、大ヒットがたくさんでて、ジョンが脱税で刑務所に入ってしまうという話。彼がどん底にいたときに手を差し伸べてくれた友人。そこで体験した彼自身のソウル・サーチン。たった一時間のインタヴューで僕はエンタテインメントの映画一本分を見たような満足感を得た。彼以後も多数の人にインタヴューをしているが、彼ほど話をおもしろおかしく、しかもときに悲しく、メリハリをつけ、起承転結をうまく話す人物を知らない。
Rest In Peace, John Whitehead!
『ソウル・サーチン』
http://www.soulsearchin.com/soulsearchin/index.html