Groovin In The Midnight

2003年8月21日
深夜放送。

ではせっかくですので、糸居五郎さんのお話でも。糸居さんの『オールナイト・ニッポン』は、毎週月曜日だったように記憶しています。67年10月から始まったそうです。月曜深夜1時。今風に言うなら月曜25時から、29時(朝5時まで)。もうひたすら音楽ばかりかかるんで、かなり異色でした。それから1時〜3時に短くなったのかな。で、3時〜5時に移動だったか。糸居さん以外の曜日も聴いてましたね。60年代後期から70年代初期の頃のことです。『オールナイト・ニッポン』の頭のナレーション、今でも覚えてます。

他の深夜放送がみなおしゃべり中心で、1時間にせいぜい3-6曲くらいしかかからないときでしたから、ノンストップで音楽が流れている糸居さんの番組は貴重でした。彼は自分がしゃべるときもなにかBGMをひいてましたね。ジャズっぽいインストものだったようです。よく考えると、ああいうBGMもしっかり選曲してたんですよねえ。元々糸居さんはジャズ好きでいらしたし。他のDJは、素でしゃべっていた。そうそう、これは確かじゃないんですけど、糸居さんの時はターンテーブルを3台にしてやっていたって聞いたような気がする。普通にかける2台に、もう1台BGM用というわけですね。他の曜日だったら、ターンテーブル1台でもやってけますけどね。(笑) 

そして、この『オールナイト・ニッポン』と別に73年から始めたのが『ソウル・フリーク』という番組でした。これは確か日曜の夜11時台とか12時過ぎの30分番組だったように記憶しています。ちょうど、スリー・ディグリーズなんかがでてきたり、ジェームス・ブラウンが来日したりで、いわゆるソウル・ミュージックがちょっとした動きを見せ始めたので、ソウルの専門番組をやろう、ということで始まったときいています。

日曜夜は確かTBSテレビの『ソウルトレイン』があったので、『ソウルトレイン』、『ソウル・フリーク』という流れがあったような気がします。『ソウル・フリーク』では、糸居さんがアーティストにインタヴューしてましたね。なぜかよく覚えているのがブラザース・ジョンソン。たださすがに話の内容は覚えてませんが。

糸居さんは、イントロにのせてアーティスト紹介、曲紹介をするかなり初期のDJだったと思います。当時だと八木誠さんが同じようにイントロにのせて紹介していました。糸居さんのあの独特の節は、『糸居節』と呼ぶにふさわしいですねえ。

「夜更けの音楽ファン、こんばんは! 朝方近くの音楽ファン、おはようございます! ・・・ ゴーゴーゴー、アンド、ゴーズ・オン!」  英語なら簡単にのりがだせますが、日本語ではなかなかイントロに乗せるリズムが生まれない。それを糸居さんは試行錯誤して考えました。体言止め。いつでも、曲紹介が終われるように、かっちり単語を切っていくんですね。ワンセンテンスが短い。当時の同録でもあったら、また、聴きたいなあ。今でこそ、そういうことを考えるDJがいなくもありませんが、言ってみれば糸居さんは日本で一番最初にグルーヴを考えたDJかもしれません。その頃、グルーヴなんて言葉は市民権を得てなかったですが。

もっとも糸居さんで僕が個人的に覚えているというか、最大の思い出は僕の友人夫婦の結婚式の司会を糸居さんにお願いしたということですね。80年くらいだったかな。快く引き受けてくださいました。で、なにがぶったまげたかというと、まあ、通常の司会が進んではいたのですが、途中で、大きなラジカセを取り出して、その音楽にあわせてDJを始めだしちゃったんです。ちゃんと、曲のイントロでしゃべるときは、曲のヴォリュームさげて、紹介終わると、がっとあげて、歌がガツンとはいる。もう、ラジオのDJそのものです。あれには、びっくりしましたね。で、何をかけたんだろうか、今思い出せないのがはがゆい。(笑) しかしねえ、DJ入りの結婚式の披露宴っていうのは、初めてでしたねえ。

ヘイ、ミスターDJ、あなたは、真夜中のグルーヴDJ。




舞。

「いつから電子ヴァイブラフォンを使ってるかって? 70−71年頃からだよ。オレは一番最初の頃から、電子ヴァイブを使ってるんだ。でもな、初期の頃のは、音はひどいし、すぐ壊れるし、使い物にならなかった。今は、フランスのマッサー社のものをよく使ってる。全部で8台持ってる。本物(アコースティック)もあるよ。オレはものすごくハードに叩くんだ。だから、機材のあちこちを糊なんかで張り付けたりして補強しておかないとだめなんだ。ゲイリー・バートン、ライオネル・ハンプトン、いろんなヴァイブ奏者がいるけど、オレが一番ハードに叩くよ」

またまた立て板に水のミュージシャンでした。まあ、もっとも激しくアドレナリンのでるライヴの後に楽屋に行けば、みんなこうなっているのかもしれません。(笑) 今回が11回目の来日(本人・談)というヴァイブラフォン奏者、ロイ・エアーズです。

ドラム、ベース、キーボードにボーカル2人、そして、ロイ本人の計6人がオンステージ。しっかりしたリズムにグルーヴのあるヴァイブラフォンの演奏が響きます。ヴァイブラフォン、わかりやすく言えば、鉄琴ですね。日本では「ビブラホン」と発音されることもあるようですね。

鉄琴を叩く棒のことをマレットと言います。モーションブルーのフライヤーに「至高のヴァイブ奏者による華麗なマレットの舞が極上のグルーヴを弾き出す」とありますが、その通りでした。音楽性は、一言で言えばレコード、CDで聞かれるような70年代風ジャズファンク。

ロイは4本のマレットを同時に操っていました。その早業は、目にもとまりません。なかなかかっこいいです。時々音色やなにかを調整しているようです。76年のヒット「エヴリバディー・ラヴズ・サンシャイン」などは、クラブで人気があるせいか、観客からもかなりの拍手喝采を浴びていました。

「私は、これまでに88枚のLPやCDを出してきました。まあ、ほんの少しだけどね」とMCで言うのですが、88枚もでてたら、ねえ、すごい数です。どういう数え方したのかわかりませんけど。(笑)

「11回も日本に来ているんですか。じゃあ初めて日本に来たのは?」と尋ねると即座に「チコ・ハミルトンと来た。66年だった。オレがまだ26歳でね。今、オレは62なんだが。まだまだ若かったよ。ははは」と答えてくれた。「62ですかあ。もっと若く見えますよ」というと、きっぱりこう答えてくれました。「ははは、サンキュー、music makes me young 音楽がオレを若くしてくれるんだよ」  その通り。おっしゃる通りです。確かに音楽をやっている人なんかは若く見えます。ところで、なぜ、音楽は人を若くしつづけてくれるんでしょうねえ。

(2003年8月20日水セカンド・横浜モーションブルー=ロイ・エアーズ・ライヴ)


猪突猛進。

映画『アメリカン・グラフィティー』を近くのツタヤでDVDを借りて、見た。この映画は、何度もテレビなどでも放映されているだろうが、まあ、改めて見ても、なかなかいい映画だなと思う。ちょうど、しばらく前に紹介した『スタンド・バイ・ミー』とちょっと似たような香りがある。時代的にもほぼ同じだし。

『アメリカン・グラフィティー』で一番好きなシーンは、東部の大学への奨学金を獲得したカートが、DJウルフマン・ジャックのスタジオに行くところ。車を放送局のところにつけると、そこには高いアンテナが立っている。カメラはそのアンテナを下からずっとなめる。アメリカの放送局は必ずそういうアンテナが立っている。

深夜の生放送のスタジオは、男がひとりだけ。ポプシクルというアイスキャンディーをなめながら、彼はDJをしていた。だが、突然の訪問者にDJは、自分はウルフマンジャックではないと正体を隠す。カートは一瞬街で見かけた美女ともう一度連絡を取りたくて、ウルフマンに頼みに来る。

彼女に、電話をしてくれるよう、ウルフマンに放送でしゃべってもらいたいのだ。そして、彼はカートに、そんなにご執心なら、きっとウルフマンならこう言うだろう、と言ってアドヴァイスする。「Get your ass and gear」 ケツに蹴りでもいれて、突き進め、っていうあたりが直訳なのかな。うまく訳せないが、たとえば「猪突猛進(ちょとつもうしん)で行けよ」ってなかんじだろうか。

そして、カートが「明日、東部の大学に行ってしまうから」と言うと、ウルフマンはこうもらす。「There’s a great big world out there」(外の世界はすばらしいぞ) この映画も西部カリフォルニアあたりのどこか小さな田舎町を舞台にしているので、そういう小さな街からすると、外の世界、大きな都市なんかは、本当に輝くところなんだと思う。この田舎対大都市っていうのは、アメリカのいつの時代でも、日本でも同じかな、いいテーマだ。ウルフマンがもらすこのセリフはいい。

「あなたも行けばいいじゃない」とカートが言うとウルフマンは、「もう若くないからな」と情けないことを言う。でも彼は今の自分の仕事がとても気に入っているのだ。そのDJは、「じゃあ、これをウルフマンに伝えておくよ」と言ってカートと別れるが、帰り際、そのDJが実はウルフマンジャックだったことを知る。このあたりのやりとりは、なかなかいい感じだ。

ウルフマンジャックは、70年代初期に日本のFENでも番組が放送されていた。アメリカから録音されたものが毎週送られてきて、それがオンエアされていたのだが、よく聴いたものだ。糸居さんも伝説のDJなら、ウルフマンジャックもまさしく伝説のDJである。


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はにゃさん

今週末、マウントフジですか。ぜひエンジョイしてきてください。リズライト、僕のをきっかけにいかれることになったのですか。なんだか責任重大ですね。(笑) 今後もよろしく。
未発表。

モータウンからいわゆる「デラックス・エディション」の新作がでました。今回はマーヴィン・ゲイの『アイ・ウォント・ユー』、リック・ジェームスの『ストリート・ソングス』などに加えてダイアナ・ロスの80年の大ヒット作『ダイアナ』がでました。シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズがプロデュースした作品です。

このアルバムからは、「アップサイド・ダウン」と「アイム・カミングアウト」の大ヒットが生まれ、ダイアナは久々にチャートのトップに踊りでました。ところが、このアルバム、元々のミックスをモータウンのラス・テラーナがミックスし直してリリースしたという作品なんですね。このあたりの話は『ソウル・サーチン』の第4章「シック」に書いたのですが、今度でた『デラックス・エディション』にその日の目をみていなかったシックがミックスしたオリジナル・ミックス・ヴァージョンが収録されているのです。

これは、おもしろい。ここにはどちらも8曲ずつ収録。つまり、シックが録音し、ミックスしモータウンに渡したファイナルミックスと、その後新たに手を加えられ、世に出された、つまり僕たちが聞き親しんだヴァージョンの両方が聞き比べられるのです。

早速、オリジナルの「アップサイド・ダウン」「テンダネス」「アイム・カミング・アウト」「マイ・オールド・ピアノ」の4曲をリリース・ヴァージョンとオリジナル未発表ヴァージョンを聞き比べました。

なるほど、こうなっていたのかあ。全体的にはオリジナルのほうが長いんですね。「アイム・カミング・アウト」なんかオリジナルは6分01秒あって、発売されたヴァージョンは5分25秒しかない。よって後半の演奏部分がとっても新鮮。それとヴォーカルも違う部分があるみたいですね。これらのミックス違いを文字で表現するのは至難の業です。

たとえば、「アイム・カミング・アウト」だとオリジナルのほうが、ナイルのギターがちょっと前にでてるような感じがします。一方、テラーナ・ミックスは、ドラムスの音をかなり派手に作っています。そして、ヴォーカルがさらに一歩でてる感じかな。
「マイ・オールド・ピアノ」はテラーナ・ミックスのほうがいいですね。イントロとかも作ったんですね。オリジナルはイントロなしでいきなり歌がはいります。

まあ、微妙には違いますが、シックのミックスが世に出たらヒットしなかったのでしょうか。いいえ、きっとヒットはしたでしょう。音楽の本質的には変わらないですから。結果的には、なんとも言えませんが。でも、23年を経て埋もれていた音が聴けるんですから、これは非常に興味深かったです。




ネーミング。

階段を降りて扉を開けるとそこはソウルバーだった。(「雪国」風に) その名は「ルート158」。横浜体育館のまん前。地下一階。カウンター8席に、丸テーブルが6人がけと4人がけ程度。計18席。こじんまりとしたお店です。アルバムはアナログが約1000枚。80年代を中心に、70年代少々、90年代も少々、新譜も少々。まあ幅広くそろえています。

オウナー兼DJ兼バーテンダーを兼ねるのは鈴木誠一さん。これまで、シュガーシャック6年、テンプス8年とまさにソウルバーの保守本流を歩んできて、いよいよ独立した期待の星といったところでしょうか。このお店、ソウルバー巡りのプロ、高畠さんに教わりました。

アニタ・ベイカー、ポール・ジャクソン、リヴァート、キース・スウェットあたりが、うまく流れが作られてかかっていました。一応CDプレイヤーも一台あるそうです。

店自体は、以前はダーツバーだったところを少し改造して、ソウルバーにしました。いわゆる「居抜き」です。オープンは2003年2月17日。ちょうど半年たちました。えらいのは、日曜日も休まず、週7日間営業しています。体大丈夫ですか。心配です。(笑) 

さて、『ルート158』って、そのネーミングの由来は? 「ええ、実はここの住所が1の5の8なんです」と鈴木さんが説明してくれました。なるほど。お近くにおよりの際はぜひ。


ルート158
Soul Bar Route 158
神奈川県横浜市中区翁町1-5-8
地下1階
電話 045-663-1580
営業時間 20時〜4時
休業日 なし
ドリンク500円〜
フード軽めのもの500円〜
チャージ500円


勝者。

第9回ソウルトレイン・レディー・オブ・ソウル・アワードが去る23日(日本時間24日)カリフォルニア州パサディナのパサディナ・シヴィック・オーディトリゥムで発表された。ネオ・ソウルのデュオ、フローエトリー、ラッパー、ミッシー・エリオットなどが受賞した。

フローエトリーは、シングル、アルバム、さらに新人賞と3部門を独占。この夜の話題をさらった。一方、ミッシーはベストソングと、ビデオ賞の2部門を獲得。

また、エリカ・バドゥが「ベスト・ソウル・ソング」部門を獲得。彼女はまた、アレサ・フランクリン・エンタテイナー・オブ・ジ・イヤー賞も獲得、さらにヴィヴィアン・フォックスがリナ・ホーン賞を獲得した。

司会は、アイシャ・タイラー、アルシニオ・ホール、ヘザー・ヘドリー、タイリースら。

ノミネートと勝者は次の通り。+++で示されたのが勝者。


The 9th Annual (2003) Soul Train Lady of Soul Awards Winners

(winners are indicate with +++)

CATEGORY TITLE ARTIST

Best R&B/Soul Single, Solo

+++"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
"He Is" Heather Headley
"So Gone" Monica


Best R&B/Soul Single, Group, Band or Duo

"I Do (Wanna Get Close To You)" 3LW
"I Still Love You" 702
+++"Say Yes" Floetry
"Girl Talk" TLC

R&B/Soul Album of the Year, Solo

"Love Story" Vivian Green
+++"This Is Who I Am" Heather Headley
"Just Whitney..." Whitney Houston
"Voyage To India" India.Arie

R&B/Soul Album of the Year, Group, Band or Duo

"Star" 702
+++"Floetic" Floetry
"3D" TLC
"The Tortoise & The Hare" The Jazzyfatnastees

R&B/Soul or Rap Song of the Year

"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Full Moon" Brandy
+++"Work It" Missy "Misdemeanor" Elliott
"Floetic" Floetry

Best R&B/Soul or Rap New Artist, Solo

"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
+++"He Is" Heather Headley
"Nothin’s Free" Oobie Featuring Lil Jon & The East Side Boyz
"Angel" Amanda Perez

Best R&B/Soul or Rap New Artist, Group, Band or Duo

+++"Say Yes" Floetry
"How It’s Gonna Be" LovHer
"Virginity" TG4

Best R&B/Soul or Rap Music Video

"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
+++"Work It’ Missy "Misdemeanor" Elliott
"The Jump Off" *Lil’ Kim Featuring Mr. Cheeks
"Feelin’ You (Part II)" Solange Featuring N.O.R.E.

Best Gospel Album

+++"Dorinda Clark-Cole" Dorinda Clark-Cole
"Incredible" Mary Mary
"Churchin’ With Dottie" Dottie Peoples
"Determined" Angela Spivey




DJ。

ドン・トレイシーのことを覚えてらっしゃる方がいましたか。そうでしたねえ。朝方だったですね、放送時間。ただ放送時間はずいぶん、昼夜変更になりました。ドンと僕が親しくなったのは、80年前後だったか、彼が日本にやってきて、そのときどこかのフリーペーパー用にインタヴューしたのがきっかけでした。話もおもしろく、まあ、意気投合したというか。その取材の後も東京を案内したりして、親しくなりました。

その後彼が1−2度来日したような記憶があります。いつも赤坂東急ホテルに滞在していました。そして、僕がロスに行ったときなど、まあ一回は会う感じになりました。彼が当時DJをやっていたKDAYというのは、AM局なんですが、いわゆるブラック、ソウル、R&Bのステーション。しかも、AMなのに、ロスでかなり初期からラップをたくさんかけていたぎんぎんに黒いラジオ局でした。その後フォーマットがカントリーかなにかに変わってしまい、今はブラックではないはずです。

ドン・トレイシーはFENのソウルショウのDJを何年も勤めました。彼の番組の場合テーマ曲は、なし。いきなり一曲目から始まります。しかしエンディングテーマがありました。 later lovers! (じゃあね、みんな) と言って毎日かかるのが、リズムヘリテージのインスト曲「シーム・フロム・SWAT(スワットのテーマ)」でした。

東京のFENで放送されていた番組は、なんとテープではなく、番組が録音されプレスされた30センチのLPだったのです。これを初めて知ったときには、びっくりしました。時々、レコード盤なので、番組の針が飛ぶのです。普通の曲がかかっている時に飛べば、ああ、レコードが飛んだな、ということがわかりますが、実はDJのしゃべりも何度も同じところが繰り返されたりしたこともあるんです。声が何度も同じことを言って、飛んでるのには笑いました。そして、その頃、東京のFENを見学に行く機会があり、そこで番組はほとんどLPになって送られてきている、という説明を受けました。よって、ドン・トレイシーのDJ自体そのものが、ターンテーブル(The Wheels Of Steel)の上にあったわけです。

さて、東京のFENには、毎週5枚の30センチアルバムが本部から送られてきます。片面に約27-8分、番組が録音されたLPです。表と裏で55分の番組がパッケージになっています。たしか、ある日の前半でかかる曲が7曲あるとすると、その同じ曲が翌日の後半にそっくりそのままかかっていました。最初は気がつかなかったのですが、自分でこの番組でかかる曲目をノートに書き写すようになって、ふと前日の前半と次の日の後半が同じ選曲だということに気が付いたのです。あれはいつまでそうだったかなあ。大好きな番組だったから、かかさず聞いていました。

ドンはあの番組を週に一回、ハリウッドにあったモータウンが入っていたビルと同じビルの中にあるスタジオで録音していました。一回で5本分だったと思う。その録音スタジオにも遊びに行きました。小さなスタジオで、エンジニア一人とドンの二人ですべてをやっていました。レコードは、ドンが自分でターンテーブルを回していました。そのマスターテープを米軍に納品し、そこで、世界各国用にLP盤がプレスされ、配られ、そして、世界各国でオンエアされていたわけです。

ドンは家の倉庫に、自分の番組のレコード盤を全部とってありました。1日1枚で数年分あったので、千枚単位だったと思う。ものすごい量でした。たしか記念に1枚もらったような気がしますが、はたして、どこに行ったのか。かなり貴重ですね。

ドン・トレイシーのDJは、AM系、のりのいいブラザー系のDJでした。そして、FENにはもうひとり対照的な実に渋いソウルDJがいました。ローランド・バイナムです。バイナムの話は、また明日にしましょうか。




The Day I Made Radio Debut

2003年8月28日

閉め言葉。

しかし、糸居五郎さんからウルフマン・ジャック、ドン・トレイシー、ローランド・バイナムまでDJネタがこんなに盛り上がるとは。(笑) いいですね。FENは、70年代には無くては欠かせないものでした。

70年代のFENには、毎日2本のソウル番組がありました。ひとつが昨日ご紹介した『ドン・トレイシー・ショウ』、もうひとつが、『ローランド・バイナム・ショウ』です。これは、確か昼の2時くらいから1時間(正確には頭5分にニュースがあるので、55分)だったように思います。夜か夜中にも再放送があったかもしれません。(夜11時くらいだったか)

で、ドン・トレイシーのほうが、比較的若者向け、シングルヒット中心、バイナムのほうが、LPからの曲もかけたり、トーク自体も落ち着いた今で言うFM風という感じで、そのスタイルは極めて対照的でした。僕は両方好きでしたね。そして、なんと言ってもこのバイナム・ショウの最大のキャッチはテーマ曲です。彼はオープニングとエンディングに同じ曲を使っていました。ギター中心のインストゥルメンタルのゆったりしたウォーキングテンポの曲、そう、デイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイング・オン」です。

2時5分、デイヴィッド・Tの「ホワッツ・ゴーイング・オン」が流れてきたら、もはやソウルの世界にようこそ、です。この曲を聴くだけで、もう反射的にローランド・バイナムの声がよみがえります。最初のうちは、誰がやってるかわからなかったんですが、何かのひょうしにわかって、すぐ買いましたね。これは、ほんと、CD化しないとね。(笑)

ローランド・バイナムもロスを本拠にしたブラックDJです。KJLHとかKGFJなどあちこちでDJをしていました。愛称「ソウルフィンガー」っていうんですね。その名前の由来とかは知らないんですが。そして、70年代のソウル系のレコードの裏にときどきライナーノーツを書いていました。何を書いていたのか覚えてなかったんですが、ウィスパーズあたりかと思ったら、ヤングハーツでした。

ヤングハ−ツの68年のアルバム『スイート・ソウル・シェーキン』(ミニット) http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&;uid=CASS80305190557&sql=Ahajgtq8z9u43 でした。裏ジャケットの中央にハートのマークがかたどられ、ローランドの文章がそのハートの中に書かれています。文章の段落の間には、なんとハートマークが。最近の携帯メールも真っ青です。 (笑)  内容はヤングハーツの紹介ですが、この頃はアメリカのLPにもライナーノーツがけっこうついていましたね。

今発見したんですが、横のミュージシャンクレジットのギターのところに、デイヴィッド・T・ウォーカーの名前があるではありませんか。へええ。ドラムはポール・ハンフリー。

バイナムは今でも現役でDJをしているのかな。KJLHあたりで。ちなみに、7月のバリー・ホワイトのお葬式では、MCをやったそうです。きっと親交があったんでしょうね。

バイナムの番組のエンディング(閉め言葉)はいつも決り文句でした。bop-gunさんもご指摘の通り、「グッド・バイナム」です。かっこいいったらありゃしない。「グッド・バイナム」と言った瞬間またまたかかるのが後テーマ、デイヴィッド・Tの「ホワッツ・ゴーイング・オン」!



必修科目。

もう一回だけDJネタ行きましょうか。ケイさんもBBSで書かれていたジム・ピュ−ター・ショウ。これは、オールディーズの番組でしたよね。30分番組だったか。ひたすら、ソウル、ロックを問わずオールディーズがかかっていました。まさにウルフマンの時代です。1955年から60年代までのヒット曲。これもよかったなあ。僕はこの番組で、オールディーズをけっこう覚えましたよ。この番組の雰囲気はまさに『アメリカン・グラフィティー』でした。

それと、もうひとり、これはロックのDJなんですが、今名前が思い出せない。夜中の4時〜5時だったか。彼はロックグループ、「シカゴ」のことを「チカゴ」としゃれて発音していました。でも、何度かそう発音していたので、ひょっとしたら、彼独特のなまりだったのかもしれない。

シカゴとかBSTとかよくかかっていました。彼のショウのテーマがA.Bスカイというグループの「キャメルバック」という曲で、それがめちゃくちゃかっこよかったので、輸入盤を探しまくりましたね。トランペットがアップテンポでイントロを奏でる曲です。らくだの背中っていう意味ですね。
http://www.allmusic.com/cg/amg.dllp=amg&;uid=CASS80305190557&sql=Amroibkd96ak0

それとFENだとローカル(東京)制作の番組も若干ありました。夕方4時から6時くらいまでの番組は、アメリカ本国から送られてくる録音番組ではなく、こちらで生放送されていました。DJの名前が思い出せませんが、やはりヒット曲がどんどんかかるので、よく聴いていました。その中のコーナーで日本人女性の窪田ひろこさんの「リトル・ランゲージ・ゴーズ・ア・ロング・ウェイ」という3分くらいのコーナーはおもしろかった。

要はアメリカ人に簡単な日本語を教えるというコーナー。グッドモーニングだったら、「おはようございます」というのを教える。これがちょっとした言い回しをいろいろ紹介していて、逆に英語の勉強になりました。

そして、FENで決定的に覚えているのが、『ケイシー・ケイスンのアメリカン・トップ40』です。たしか、僕の記憶が正しければ、FENでは72年4月から放送が始まりました。このときは、土曜の昼間の1時05分から2時まで。「トップ40」と言っても、一番最後の55分間、つまり、下からカウントダウンしてきて、最後の12位か13位くらいから1位までを紹介していました。

それから、半年後の72年10月から、これがラジオ関東(当時=現在のラジオ日本)で、湯川れい子先生の解説つきで、土曜夜10時から3時間にわたって放送され始めました。そのときはまだFENで上位13曲程度だったのが、40位からカウントダウンするので、超びっくり。毎週ノート片手に聴いたものでした。

徐々にFENも、放送時間を1時間から2時間、3時間に伸ばしました。そうすると、『アメリカン・トップ40』を原語ですべて聴けるようになったわけです。これはめちゃくちゃ楽しかったですね。もちろん、その頃は英語が全部わかったわけではなかったですが。そうは言っても、ケイシー・ケイスンの英語はかなりわかりやすかった。はっきりした発音、それほど速くないしゃべりかた。そして、このオリジナル・ヴァージョンには実に豊富な情報がはいっていました。どうしても日本語版だと、たくさんのことが省略されてしまいますから。昼間FENで聞いて、夜ラジオ関東を聴く、なんてことが当たり前になりました。

いわゆるポップス、洋楽の基礎はかなりこの番組で教わりました。FENと『アメリカン・トップ40』。これは、当時の洋楽好きの必修科目だったかもしれませんね。

(明日こそ、8月28日とキング牧師の話を書きましょう)


名演説。

今からちょうど40年前、1963年8月28日、マーチン・ルーサー・キング牧師はワシントンDCで演説をしました。それが後世に残る名演説『アイ・ハヴ・ア・ドリーム(私には夢がある)』です。今年はそれからちょうど40周年。これを記念して去る土曜日(23日)ワシントンDCのリンカーン・メモリアル公園に、多くの人が集まりました。

同様の集会は、過去1983年、1993年に行われ、今年は3回目。この『アイ・ハヴ・ア・ドリーム』は、非暴力による公民権運動の盛り上がりに大きく貢献しました。なにより象徴的だったのは、63年このスピーチを聞いた25万人の人々のうち5分の1は白人だったということです。

この全文をじっくり読んだことはなかったのですが、ネットで探したら、原文がありました。また一部訳ですが、それもありました。キング牧師の本などを購入すれば、全文なども載っているでしょう。

これを読んでいると、まるで、歌詞のような、そして、彼の演説を聞いたりすると、まるで質のいいラップを聴いているかのように錯覚します。話のもってき方が実にうまい。教会の牧師の話、説教も非常に陶酔性があるように思いますが、もともと牧師で話のうまいキング牧師が、ソウルを込めて語る演説は圧巻です。

一部訳がでている「私には夢がある・・・」以降、さらに「ニューハンプシャーの豊穣な丘の上から,自由の鐘を鳴らそうではないか」のライン、その繰り返しはすごいですね。これをその現場で聞いていたら、間違いなく気持ちが高揚してくるでしょう。

キング牧師は、68年4月4日、メンフィスで暗殺されます。80年10月、スティーヴィー・ワンダーがアルバム『ホッター・ザン・ジュライ』を発表。そこに、キング牧師の誕生日を国民の休日にするための応援歌「ハッピー・バースデイ」が収録されました。そして、1983年、キング牧師の誕生日が国民の休日に決定。86年から実施されることになりました。

今、1月の第3月曜日はキング牧師誕生日の祝日です。それにしても、この『アイ・ハヴ・ア・ドリーム』というフレーズは、今でも有効な普遍的な言葉です。

++++++

上記スピーチ全文の一部に関する翻訳が下記サイトにありました。

http://www.labo-global.co.jp/spc-o-word/wordpro/king/king.html

私には夢がある。いつの日にか,ジョージアの赤土の丘の上で,かつて奴隷であった者たちの子孫と,かつて奴隷主であった者たちの子孫が,兄弟として同じテーブルに向かい腰掛けるときがくるという夢を。

私には夢がある。いつの日にか,私の4人の幼い子供たちが肌の色によってではなく,人となりそのものによって評価される国に住むときが来るという夢を。私の父が死んだ土地で,メイフラワーの清教徒達が誇りとした土地で,すべての山やまから自由の鐘を鳴らそうではないか。もしアメリカが偉大な国であるのなら,これは実現されなければならない。

ニューハンプシャーの豊穣な丘の上から,自由の鐘を鳴らそうではないか。
ニューヨークの稜々たる山やまから,自由の鐘を鳴らそうではないか。
ペンシルベニアのアルゲニー高原から,自由の鐘を鳴らそうではないか。
コロラドの雪を頂いたロッキー山脈から,自由の鐘を鳴らそうではないか。
カリフォルニアの曲線の美しい丘から,自由の鐘を鳴らそうではないか。
それらばかりではない。ジョージアの石ころだらけの山,テネシーの望楼のような山,そして,ミシシッピーの全ての丘から,自由の鐘を鳴らそうではないか!
すべての山々から,自由の鐘を鳴らそうではないか! 

そして私たちが自由の鐘を鳴らす時,私たちがアメリカの全ての村,すべての教会,全ての州,全ての街から自由の鐘を鳴らすその時,全ての神の子,白人も黒人も,ユダヤ人も非ユダヤ人も,新教徒もカソリック教徒も,皆互いに手を取って古くからの黒人霊歌を歌うことができる日が近づくだろう。

 「自由だ,ついに自由だ,全能の神よ,感謝します。ついに我々は自由になったのだ」と


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