A Happy New Year! 

2004年1月1日

賀正。

新年おめでとうございます。みなさまも昨年にも増して、2004年、いい音楽やいい人物に出会えることを願っています。

ちょうど一年前、ここで日記はどこまで続くかわかりませんが、行けるところまで行ってみましょう、と書きました。その結果、まる一年、一日も欠かさず書くことができました。また、来年もそう書けるようにがんばってみます。

日記が毎日更新される以外、なかなか新しいことができませんが、今年こそはなにかちょっと違うことをやってみたいと思います。あくまでここはあらゆることの実験台にしてみたいと思っています。

本年もよろしくお願いいたします。

The Soul Searcher


困難。

おせち料理などを食べながら、テレビのリモコンをかちゃかちゃやっているとノーベル賞受賞者である利根川教授のインタヴューがNHKで放送されていた。作家の村上龍氏が聴き手で、とてもおもしろいインタヴューだった。その中で自分が高校に入ったときだったか、初めて自分より頭がいい奴がたくさんいることを知って驚いた、という話がでてきた。ほんの二日前に中学時代の同級生たちと食事をしたときにまったく同じ話題になったので、おもしろかった。それはさておき、そんな頭がいい連中の中で自分がなにか成果をだすには他の人と同じことをやっていてはダメだと思ったという。その結果、クラスのほとんどは東大に行くのに、彼は京大に進む。その後いろいろあって最終的にノーベル賞を受賞するわけだが、そういう学生を育てるのにどういう環境がいいか、みたいな話になった。

利根川教授は、学生たちに好き勝手にやらせている、という。クリエイティヴな部分を伸ばすにはこれが一番。多くの学生を見てきて、何かを成し遂げる人物というのは、もともとの頭の良さだけではない、ということを感じているという。彼より頭がいい連中というのは確かにたくさんいた。だが、いくつかの点で違っていた。彼は言う。「それにはいくつかの要素があるんですよ。例えば、質問ができることとかね。多くの人は質問さえわからないんだ。それから、めげないこと、とかね」 そういう要素が組み合わさって、他の誰もができない研究が完成するわけだ。

利根川教授は言う。人間が充実しているのは、何か目的を持って、それにまい進している時だ。ひとたび目的を達成してしまうと、次の目的を見つけないと、だめになってしまう、というようなことを指摘していた。そして、人間がハッピーであることを感じるのは、その目的へまい進している途中にこそある、という。

インタヴューの中で、彼の子供が作文の課題を書いたときの話もおもしろかった。アメリカと日本で同じような内容の作文を書いた。それは「すきやき」というタイトルで、「自分はすきやきが大好き。特に肉が大好きだ・・・」といったもので、それに対するそれぞれの先生のコメントが象徴的だった。アメリカの先生はその作文を読んで、「すきやきっていうのは食べたことがないけれど、おいしそうだ、ぜひ、今度おいしいすきやきの作り方をおしえてくれ」と書いていた。一方日本の先生は、「健康のためには、肉だけではなく、野菜も食べましょう」というものだった。 思わずその話を聞いて僕は笑ってしまった。これは日米おもしろい違いだった。

この利根川教授の後、日産のカルロス・ゴーン氏がでてきて、再生の話を中心にしていたが、これもなかなかおもしろかった。伸びる人の条件というのは、1にやる気がある人。どんなに頭がよくてもやる気がない人は結局は結果をだせない、という。そして2番目があきらめない、ということ。困難とは、避けるものではなく、解決するもの、という言葉に彼の強い意志を感じた。僕なんかも、避けちゃうからねえ。

今年は、困難を解決していきましょう。困難を解決すると、成長する。(←自分への戒めです)

((2004年1月1日=『NHKスペシャル・村上龍とリーダーたちの対話』)
英語版。

去年3月に書いた『ブエノスアイレス、午前8時』の英語ヴァージョンを作ってみました。英語はむずかしいので、何か間違いなど、あるいはこういう表現のほうがもっといいなど、ありましたら、お知らせください。今回は、原文に加え、今回のライヴを見た「彼」の言葉が数行追記されています。また全行を正確に一字一句英訳したものではなく、英語の流れで英文を作った部分もあります。

やはり、スティーヴィーのライヴを見てものすごくインスパイアーされて、この好きな物語をもっと多くの人とシェアするのがいいだろうと思って訳してみました。お正月の余興ということで。
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"8 In The Morning, Buenos Aires"
by The Soul Searcher

Memory.

March 1973, Buenos Aires, 8 am in the morning:

13-year-old Japanese boy moved to Buenos Aires, Argentina due to his father’s job. He attend international school there and 8 o’clock every morning chauffeur picked him up to send school. Chauffeur always turned on local radio that played so many American music which captivate his mind.

Everything was so new and was a big culture shock for 13-year-old Japanese boy because this place was his first out of country experience. He couldn’t speak local language nor pick up the word.

One morning, radio played "Summer Breeze" by Seales & Crofts then "Oh Baby, What Would You Say" by one hit wonder Hurricane Smith who once was a engineer for Beatles and produced early Pink Floyd records and then came a song which gave him a quite impact. Medium tempo song leading by light touch electric keyboard first sung by male vocal then into female vocal and came another male vocal. 

He recalled. "I felt so strongly something special happening there. Totally different type of music which I never experienced before was there. I felt something new was beginning to happen. I couldn’t picked up who sings that particular song because of DJ’s Spanish-accent called Castellano not Espagnole (Spanish). DJ might say "something wonderlue" or like that. But I remember that moment very vividly. Air that I breath, smells I felt, temperature, pictures that I saw from the car windows at exactly 8 o’clock in the morning in Buenos Aires. I was 13 and knew nothing about the world. But I felt something from that song. So since then, every time I heard that song that took me to that morning in Buenos Aires. I also remembered DJ played "Stuck In The Middle With You" by the Steelers Wheel after this."

That song was, as you already know, Stevie Wonder’s "You Are The Sunshine Of My Life". He continued. "These flow of four songs made impressed on me but especially the third song. To day, I think it is little bit of funny that 13-year old Japanese boy felt something like that in Buenos Aires of all places. (smile)"

March in Buenos Aires is the season toward to the winter. He said "Gradually it became winter. My family moved to Argentine in that March so that’s the one of the reason I remember that so vividly. Everything was new to me, then." The song "You Are The Sunshine Of My Life" was remembered in his memory with gradually changing season with chilly air.


Bridge.
March 2003, Tokyo, 2 am in the morning:

At one of my regular soul bar (Bar where soul music are played nicely. Unique culture found only in Japan.) in Tokyo. That day there were only me and him as patron at dimly high ceiling bar. It was slow night, so we could make some suggestions to DJ. My company had paper-sleeve, digitally re-mastered version of CD "Fulfillingness’ First Finale" he just bought. He handed it to DJ and said "I love this "Creepin", great song isn’t it? Could you play from track number 5?" While Stevie’s voice was from speakers, as watching the jacket, he begun to talk about this Buenos Aires story.

He remembered. "Back then I only knew about Stevie with "Superstition". So I had no idea about who sung this "You’re The Sunshine Of My Life". Even though later I got to know that was Stevie, it’s hard to believe two singers were same because both songs are totally different."

"First Finale" continues from "You Haven’t Done Nothin’" to "It Ain’t No Use". He said "I love this one, also. This song make me teary, too."

As Stevie sings "We’ve got to say bye... Why’d we say goodbye, I’m crying...Seems that we just don’t want to do it...I guess we ran out of fluid...", even though if you wouldn’t understand the meaning of lyrics (for most of the Japanese people, English lyrics are hard to understand), you would feel the sadness of the song itself. That’s another Stevie’s magic.

"It Ain’t No Use", another killer ballad, closing with the word "bye bye baby". As Stevie sung that word, DJ who must had been listening to our conversation played "You’re The Sunshine Of My Life"! I could easily imagined that moment this keyboard came in the song surely took him to that morning in Buenos Aires . Music between the lines of time and places. Stevie is bridge between those.


December 2003, Saitama Arena 6 pm in the evening:

I and he and other "soul-mates" were among 20,000 attendees of Stevie’s live in Saitama Arena. 30 years after he was shocked by "You’re The Sunshine Of My Life" in a place of more than 7,000 miles away from home, he saw Stevie in live for the first time ever. 13-year-old boy then is now 43-year-old-man and couldn’t express how he was impressed by his all time idol’s live performance. He didn’t hesitate to hide tears when Stevie was singing his favorite songs, and of course he sung "You’re The Sunshine Of My Life" along with Stevie when he let audience sung. He said "I felt in him something big like universe and Thank God that I’m alive". I agreed.


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勇気。

人々が落ち込んだ時、悲しい時、あるいは、何かにがんばることをあきらめようかと思った時、もうだめかと思った時、そんな時に勇気を与えるのは、音楽だけではありません。例えば、それは映画であったり、小説であったり、あるいはドキュメンタリーであったり、ものすごい生き様のひとりの人間であったり、あるいはそれはほんの一言、誰かがかけてくれた言葉かもしれませんし、どこかで読んだ詞の一遍かもしれません。

スティーヴィーに勇気ややる気をもらったという人が多くいたので、ふとこんなものを思い出しました。スティーヴィーとも非常に深いつながりがあるモータウン・レコード創始者ベリー・ゴーディーの自伝の中にある一遍の詩です。そのタイトルは「イフ(もしも)」というもので、この詩自体はラドヤード・キプリング(1865〜1936)というイギリスの作家が書いたものなのですが、ゴーディーはこれを姉から「読んでおくといいわよ」と言われて、初めて目にします。そして、普段はほとんど本など読まないのに、なぜかこの詩だけは目を通し、その内容に感銘を受け、以後暗記するほど気に入ったのです。

一番のポイントはこのあたりに集約されます。

「もしも、お前が自分の気力と神経と体力がなくなってしまった後も、それらを振り絞ることができるのであれば、 そして、それらに『頑張れ!』と言っている意志以外何もないお前が、頑張ることができるのであれば、(中略) もしも、過ちの許されざる厳しい1分を、60秒間の全力疾走で長距離走の如く見事に完走できるのであれば、 地球はお前のものだ。そして、その中にあるすべてのものも。 そして、お前は男になるのだ、私の息子よ! 」

つまり、最後の最後、もう力尽きたとしても、さらにもし、そこでもうひとふんばりすれば、地球はお前のものになる、お前は男になる、というかなりの勇気付けの言葉です。

ゴーディーは、この後、一時期ボクサーとして活躍しますが、初めての試合の時だったか、たった3分をものすごく長く感じました。そして、もう負けそうだと思った時、もう体が一歩も動きそうにないと思った瞬間、この暗記していた「もしも」の詩を思い出すのです。

このもうひとふんばりというのは、あらゆる面で言えます。今やっている仕事がうまくいかない、人間関係がうまくいかない、やることなすことうまくいかない、スポーツなどで試合をしていて負けそうだ、そんな時、この「もしも」です。

全文をご紹介しておきます。そうそう、詩は書いた人のものではない、それを必要とする人間のもの、でしたね。

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「イフ(もしも)」 (ラドヤード・キプリング)


もしも、誰かに非難されたお前が、冷静さを失いそうなときにも、冷静でいられれば、
もしも、すべての人間がお前を疑っているときにも、自分自身を信じることができ、お前を疑った連中を許すことができるのなら、

もしも、お前が待つことに飽くことなく、待てるのなら、
あるいは嘘をつかれても、嘘とかかわらなければ、
あるいは、人に憎まれても、人を憎まなければ、
そして、あまり気取らず、知ったかぶりをしなければ、

もしも、お前が、夢を見ることができ、そして、その夢に支配されることがなければ、
もしも、お前が自分自身で考えることができ、そして、考えることが目的とならなければ、
もしも、お前が栄光と惨劇という名の虚像と遭遇でき、そのはかなき虚像を同じように扱えるのなら、

もしも、お前が話してきた真実を、悪者が、愚か者をわなにかけるために、ねじ曲げて語るのを聞くことに我慢できるのであれば、
あるいは、お前が自らの人生を賭けて作りあげてきたものが壊されるのを見たとき、身をかがめてそれらを使い古した道具で作り直すことができるのであれば、

もしも、お前が、膨大な勝利の積み重ねをたった一回のコイン・トスの結果と引き換えるというリスクを背負うことができるなら、
そして、それに負けて、その負けについて一言も不満を漏らさず、まったく最初からやり直すことができるのであれば、
もしも、お前が自分の気力と神経と体力がなくなってしまった後も、それらを振り絞ることができるのであれば、
そして、それらに『頑張れ!』と言っている意志以外何もないお前が、頑張ることができるのであれば、

もしも、お前が自分の美徳を保ちつつ、民衆と話をすることができるのあれば、
あるいは、庶民の感覚を失うことなく、王様とともに道を歩むことができるのであれば、
もしも、お前の敵と愛する友人のどちらもが、お前のことを傷つけることがないのであれば、
もしも、お前にとって、あらゆる男が価値があり、重要であり、しかし、重要すぎるということがなければ、

もしも、過ちの許されざる厳しい1分を、60秒間の全力疾走で長距離走の如く見事に完走できるのであれば、

地球はお前のものだ。そして、その中にあるすべてのものも
そして、お前は男になるのだ、私の息子よ!
              
(『モータウン、わが愛と夢』=ベリー・ゴーディー著・東京FM出版、38ページより)

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では、この詩を、この詩を必要とする人に捧げましょう。


環境。

年越し蕎麦を食べ終え、うちに帰る途中友人からメールが入った。「OXのうちのカウントダウンのホームパーティーに行かない?」というものだった。まあ、特にすることもないので、あまり乗り気ではなかったが、行くことにした。

その家の主はスウェーデン人。すでに人が集まっていた。全部で4-50人はいただろうか。そして、ずいぶんと外人比率が高いホームパーティーだった。

音楽が流れ、映画のDVDが音を出さずに映像だけモニターから映し出されていた。会話の喧騒の中で、甚平のような着物を着た短髪の丸刈りの男の子がいた。十代に見える彼は、床にほぼ正座していた。その髪の色がちょっと茶髪っぽかったことと容姿からハーフのように見えた。

カウントダウンが進む。「5・・4・・3・・2・・1」 「ハッピーニューイヤー!」 自分でもなぜそこにいるのかよくわからなかったが、ぼーとしていると、大きな音で「ハッピーニューイヤー」という曲がかかった。ポップでわかりやすいメロディー。一体だれだろう。僕は初めて聴いた。今年はどんな年になるのだろうかと思いながら、中二階から階下の人たちをぼんやり眺めていた。

一段落してから、その彼と話す機会が訪れた。「学生?」 「え〜」 「いくつ?」 「16です」 「ええええっ?」 十代とは思ったが、その若さにまず驚いた。彼はその日、そこへやってきた経緯を簡単に説明してくれた。大阪の友人に誘われこのパーティーに来たこと、もちろんこのようなパーティーは初めてだということなど。その話し振りはとても、今時の16歳とは思えなかった。しっかりした、きちんとした日本語でしかも敬語もできていて、眼をつぶって聴いていると30代か40代くらいの人と話をしているのではないかと錯覚してしまうほどだった。彼は自分のことを「僕」や「オレ」ではなく、「私(わたし)」というのだ。話し振りが落ち着いていて、そのことにも驚いた。

BGMは、いつの間にかアフターアワーズ系のスローっぽい曲になっていた。「将来、何をしたいの?」と僕は訊いた。「将来、自分の名前のついた番組をやって、いろんな人をゲストに迎えて、お話したいんです。トーク番組をやってみたいんです。で、そのためには歌をやったり、演技なんかもやってみたいと思っています」 しっかりとした口調で彼は自分の明確な目標を語った。

今まで、関西のほうにいたが、この12月から東京にいる母親のところに戻って、一緒に暮らしているという。そして、彼のそれまでの人生を聴いて、僕はまたまた驚いた。16歳だが、すでに語るべきストーリーを持っていたのだ。「すばらしいストーリーだねえ」と言うと「ストーリーですか?」と彼は笑った。

紙コップが散らかり、けだるい空気が漂うなか彼は語り始めた。彼の名は、ここでは仮に次郎君としよう。次郎君は1987年、ブラジルに生まれた。3人兄弟の真中。上に兄と下に妹がいる。彼の母親は日系ブラジル人。つまり、血筋は日本人だ。だが、彼は父親を知らない。会ったことがないという。イギリス系ブラジル人らしい。4歳の時、日本にやってきた。

次郎君の母親のお父さん、つまり次郎君の母方の祖父は彼が生まれる前に亡くなっていた。そしてその祖母が再婚することになるのだが、祖母が再婚した翌日、次郎君が生まれた。その新しく再婚した相手は、現地でお寺を営むお坊さんだった。

母親は来日し、都内に住み、朝から夜遅くまで仕事をして、3人の子供の生活を支えていた。3人の兄弟のうち、次郎君だけが、いかにも外人風の容姿をしていた。そのことが理由となってか、まもなく兄の壮絶ないじめが始まった。2つ上の兄の暴力には耐えがたいものがあったが、昼間は母親がいないので、どうしようもなかった。母親が朝早くから仕事にでるため、朝御飯や、晩御飯は幼い妹が作っていた。

次郎君が小学校2年頃のこと。8歳くらいか。母親は彼に、その出生の秘密を打ち明けた。彼がなぜ他の二人と容姿が違うのか。実は、母親が一晩限りの相手をしてできた子供が次郎君だったのだ。そして、3人とも父親が違うということで、母の両親は、母親のことを決してよく言わなかった。「あんなあばずれ・・・」

小学校2年でそんなことを打ち明けられて、理解できるのだろうか。「え〜、淡々と聴いていました。ああ、そうかって感じで」と彼は言う。そして彼が中学に進学する時、お寺に修行に行かないかという話が持ち上がった。再婚した祖父がお坊さんだったこと、その再婚した翌日に次郎君が生まれたことで、祖父は次郎君に運命的なものを感じ、ぜひ寺を継がせたいと願い次郎君にお坊さんになってほしいと思ったのだ。

小学校6年、次郎君は考えた。「ここのうちから出て、お寺に修行にでれば、おじいさんの期待にもこたえられる。それから兄の暴力から逃げられる。つまり厳しい現実から逃避できる。そして、自分がこの家から出て行くことによって、家計が少しでも楽になれば母親にとってもいいだろう」 こうして、彼は関西のお寺に修行にでる決意をした。中学一年になる前の決断だ。

お寺の修行は厳しい。毎朝3時半起き。朝のお勤めなどをして、掃除、お経読みなど夕方までいろいろな仕事がある。そして、夕方から夜学の中学に通う。帰ってきたら即就寝だ。お寺にはテレビもなければラジオもない。新聞もないし、携帯電話もない。もっとも携帯は最近は隠れて持っているものもいるようだが、原則禁止だ。インターネットなどあるわけがない。ただ学校に行けば、学校の友達との会話で世間で何が起きているか、少しは知ることができるが、テレビの話題などにはついていけない。

彼が入った年、その寺には中学生が20人以上いたが、徐々に減り3年経つと半分以下に減っていた。彼が生活をする部屋の同居人は40代と50代の人だった。そのため彼の言葉は、そうした人たちの影響を受けることになった。16歳の彼の言葉が非常に落ち着いたしっかりした日本語だったのは、そういう理由だったのだ。

3年間の修行はやはり厳しかった。また、その間、お坊さんの世界と言えども、どろどろとしたものを見ることになった。一番学んだことは何、と尋ねると、「人間関係でしょうか」と彼は答えた。繰り返すが彼は16歳である。夜間高校へ進む頃になると、彼は自分がしたいことが徐々におぼろげながら、わかり始めてきた。そこで意を決し、お坊さんの道をあきらめ、東京に戻って自分の夢を追求することにした。学校の先生、そしてお寺の人に相談し、了解を得て、11月一杯でお寺を辞め、東京の母親のもとにやってきたのだ。

そしてこの日、友人に誘われて、パーティーにやってきていた。「これから、いろいろな人に会って、いろんなことをやりたいんです。私は、いろいろな人に会って話をするのが好きなんです。ですから、自分のやりたいことができるようにがんばっていきます」 彼はしっかりとした口調で、言う。

彼は父親に会ったことがない、と言った。「お父さんに会ってみたいと思わない?」と訊いた。「いや、私は今の生活がとても気に入っていて、満足しているので、別に会いたいとは思いません」 なるほど。では、もしお父さんの方が君に会いたいと言ってきたら? 「ああ、それは喜んで会いますよ。会いたいなんて言っていただけるなら、私は光栄です。嬉しいです」 「言っていただけるなら・・・」というくだりに、僕はちょっと感動して胸が一杯になった。

彼の話は、かつてテレビでやっていたご対面番組『嗚呼! ばら色の珍生』を思わせた。

(Part 2へ続く)
彼の話は、かつてテレビでやっていたご対面番組『嗚呼! ばら色の珍生』を思わせた。もし彼が父親と会う日がいつか来るのであれば、その場に立ち会いたいと思った。母親はその父親の連絡先を持っていないらしいが、母の姉、つまり次郎君のおば、そして、祖母は持っているらしい。彼はまだ未成年の16歳だが、その精神は36歳のようにも思えた。大人なのだ。人間とは環境にものすごく影響を受ける動物だという。彼の16年の人生はまだ短いが、非常に密度が濃い。そして彼のような真っ当な人間が育ったということは、結果としてその劣悪な環境もよかったのかもしれない。ものは考え様だ。

僕が自分の16歳の頃を振り返ったら、彼ほど何も考えていなかったと思う。彼にはしっかり目的を持って、つき進んで行って有意義な人生を送ってほしいと思った。僕にできることなら応援しよう。

バックでは小さな音でビヨンセが流れていた。たくさん灯っていたろうそくがほとんど消えようとしていた。ちょうど家の主がやってきた。僕は彼に尋ねた。「ねえ、あの、さっきの『ハッピー・ニュー・イヤー』って曲、誰が歌っているの?」 「あれ、あれはアバだよ〜〜! 当たり前じゃない!」  そうだったか。そういえば彼のお国の大スターだった。CDプレイヤーの前に散らかっていたCDを見ると、そこには数枚のアバのほかにエイス・オブ・ベースのCDもあった。

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タイトル『大晦日に会った少年』

New Year Resolution

2004年1月6日
目標。

一年の計は元旦にあり、とはよくいったものです。元旦にその一年何をするか考える。ほとんど、考えてないんですが、いやあ、これはよくないかもしれない、と最近思いますねえ。(笑) やっぱり、ひとつの目標を設定し、そこにまい進していくという責めの姿勢が大事ですね。

今年の目標というか、公約というかしっかりリストアップしてみましょう。このリストアップするという作業が意外と重要だったりするんですね。アメリカの文房具屋さんのどこでも売ってるThings To Doリストのメモパッド。あれを一時期使っていた時期もあるんですが、なくなってからずいぶん補充していません。

去年成し遂げたことは、そうだなあ、この日記を一日も欠かさず書いたことですかねえ。天声人語よりも、回数多く書いたことになります。天声人語は、年6回(?)お休みですからねえ。(笑) 

昨年はあまり映画を見ることができなかったので、もう少し映画を見たいです。50本くらいは見たいかな。ライヴ100本、映画50本、本50冊なんてのはどうでしょう。去年、何本見たのでしょうね。勘定してみないと。50-50-50なんていうのが達成できるとなんとなくかっこいいですねえ。ライヴは50は行くでしょうが。あとは果たしてどうなるか・・・。一番難しいのは本ですねえ。

さて、あなたの新年の誓いは?


引き出し。

いきなり曲目不明の新曲らしき作品から始まった大阪公演初日。ゆったりとしたスロー系の作品は最初パーカッションだけから始まり、徐々にビルドアップする感じの作品だった。マイナー調のコードが続く中、女性コーラスがyour heart is just caught up in the moon blue と歌っていたように聞こえた。「ムーンブルー」という曲名だろうか。

この日はスティーヴィーの調子がけっこういいように感じた。観客の反応もまずまず、音響も悪くない。左横サイドから見ていたが、よく聞こえた。

その新曲「ムーンブルー」を10分近く演奏してから、続けて「ゴールデン・レディー」へ。以後はこれまでの流れと同様、「マスターブラスター」、「ハイヤー・グラウンド」、「オール・アイ・ドゥ」と続く。ここでジェリー・ブラウンが一度「ザット・ガール」のイントロを弾きだすが、スティーヴィーが「君はわかってないな・・・」と言って、アコースティック・ピアノ・セクションに突入。

なんとこの日は『ファースト・フィナーレ』からyou make me smile〜から始まる名曲「トゥ・シャイ・トゥ・セイ」! わお! なんという選曲、これもめったに聞けない一曲だ。そして、次に何がくるかと思えば『キー・オブ・ライフ』から「イズント・シー・ラヴリー」の次にかかる「ジョイ・インサイド・マイ・ティアーズ」がきた。このセクションは本当にいつも選曲がすばらしい。そして、「オーヴァージョイド」「リボン・イン・ザ・スカイ」まで4曲17分は、まさに至福の瞬間だった。

このあと「ドンチュー」にはいり、ここでドラムソロを披露。このところドラムソロは2回に一回くらいはやってくれるようだ。このあとがおもしろかった。なんとジェームス・ブラウンの「コールド・スウエット」をちょっとばかり歌って演奏したのだ。スティーヴィー、以前、「セックスマシン」をやろうとしたが、ミュージシャンがついてこなかったこともあったっけ。ブラウンの曲、けっこう好きなんですね。

そして、この日のもうひとつのサプライズが「スーパースティション」の後の「メイビー・ユア・ベイビー」。『トーキング・ブック』からのファンキーな一曲。これもめったに聞けない一曲だ。「スーパースティション」との並びでのプレイは曲調から納得した。

さらに、「アイ・ジャスト・コールド・・・」でいったんさよならをした後、アンコールに戻ってきた。「ここでは、僕と君とピアノで一曲歌おう」と言って始まったのが、「マイ・シェリー・アモール」のピアノ・アコースティック・ヴァージョン。そうきたか!
これはすばらしい。本当にいろいろアイデアをだしてくる。

そして、世界の現状を憂いたメッセージを語った。「次に歌う曲は、もうずいんぶん前に作られた曲だけど、そのメッセージは今も有効です。とてもシンプルなメッセージです。僕は、いつか人々がユナイト(一緒に)し、世界もひとつに(ユナイト)なる日がくると信じています。世界のリーダーたちにそれを知らせなければなりません。僕が今夜のことを覚えているように、あなたがたも今夜のことを忘れずにいてくれたらと希望します」

そして、僕はここで「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ」かと思った。だが、ちがった。な、な、なんとジョン・レノンの「ギヴ・ピース・ア・チャンス」だったのだ。このあたりが、本当にすごいな、と思う。またまたやられた。そして、これに続いて「アズ」、ここでおわるかと思ったら、さらに「アナザー・スター」まで。全2時間10分。非常に密度の濃い充実したライヴだった。

スティーヴィーは、楽器で遊ぶ。ありとあらゆる楽器を自由自在にこなし、それを自分のものにして、遊ぶ。そしてその遊ぶ様が、すでに人々の心を打つ。

スティーヴィーは、楽曲で遊ぶ。自分の作品はもちろんのこと、他のアーティストの作品でも、自分がやりたい曲だったらやるし、主張したいメッセージが同じだったら歌う。なにか究極の「音楽人」という感を強くした。彼のミュージシャンとしての引き出しの多さ、広さに改めて感銘を受けた次第だ。

(2004年1月6日大阪城ホール、スティーヴィー・ワンダー・ライヴ)
最長。

今回の日本ツアー最終日。前日同様7時半スタート。7時半から始まるのが定刻なんですね。(笑) 「ブルー・ムーン」ではなく、「ムーン・ブルー」でした。パーカッションから始まる不思議な感じの曲。2度しか聴いたことがないのに、your heart is just caught up in the moon blueという繰り返しのフレーズが妙に頭に残る。シングルヒット向きとは思えないが、アルバムの中の一曲としては充分いけるでしょう。これは新曲でした。そして、次のアルバムに入るかもしれない一曲とのことです。

この日、途中のハーモニカの部分が機械の不調のせいかなかなか思った音がでなかったようで、手間取り、その結果、この曲は17分近くの演奏になりました。途中、スティーヴィーとサックス奏者とのインタープレイがあって、これはなかなか迫力あり。しかも最後の部分の「サークル・ブリージング(循環ブリージング=息を延々と続けてプレイする奏法)」如きのやりとりはすごかった。ハーモニカのソロ部分で「サマータイム」のフレーズを吹いていました。このあたりの遊び感覚も、スティーヴィーならではです。ジャズ・ミュージシャン的な素養を感じるところです。

そして、今回のトップ曲「ゴールデン・レイディー」へ。これは、しかし、いいオープニングだなあ。「オール・アイ・ドゥ」まで一挙に行って、さて、アコースティック・セクション、何が来るか。またまた初登場、『ホッター・ザン・ジュライ』から「ロケット・ラヴ」! このセクションで歌える曲は最低10曲以上、20曲近くあるんじゃないだろうか。そして、「レイトリー」「リボン」は、まさにゴールデン・メドレーだ。「リボン」の後半は少しアップテンポにして、なかなか遊んでいます。

「ドント・ユー・ウォーリー・・・」では、ドラムソロの後、前日はジェームス・ブラウンの「コールド・スゥエット」を演奏したのを、この日はそれを間にはさむ形でまた「ドント・ユー・・・」に戻りました。なるほど、日々これ変化、進化といったところか。確かにこのほうがいい。「コールド・スゥエット」はあまり日本では知られてないような感じですねえ。「セックス・マシン」のほうがいいかもしれません。いずれにせよ、バンドがファンクに追いつかないと。(笑) 

おもしろい選曲は、「スーパースティション」の後、この日は『トーキング・ブック』からの「ビッグ・ブラザー」を1分少々でしたが、やったあたり。なかなか聴けない曲でした。もうちょっと聴きたかった。そして、前日に引き続き「メイビー・ユア・ベイビー」へ。これはかなりしっかり歌ってくれました。

アンコールは3曲。しかし、このアコースティックの「マイ・シェリー・アモール」は本当にいいですねえ。こういう感じだと、前半のアコースティック・セクションにもいれられますね。そして、「アズ」ではなんと、バックコーラス4人全員のソロの歌を紹介しました。パンジー・ジョンソンのソロが印象に残りました。もちろん、みんないいですけどね。(笑) そして、「アナザー・スター」で幕を閉じました。

前日との違いは、「ユーアー・ザ・サンシャイン・・・」がなぜかなかったこと。忘れたのかもしれません。それでも最長2時間21分。たっぷりごちそうさまでした。

さて、今回のツアーをまとめると、次のアルバムに入るかもしれない新曲が計4曲披露されました。"What The Fuss", "True Love", "I Can’t Imagine Love Without You", そして、"The Blue Moon"。果たして何曲はいるのでしょうか。

そして、アコースティック・セクションでは毎回違った曲の組合せが聴かれました。徐々にスティーヴィーもライヴに慣れて、どんどんミュージシャンとのやりとりもスムーズになり、音楽的自由度が高まってきたように思えます。ジェームス・ブラウンやプリンスのライヴも、次の曲がわからないためにミュージシャンたちは緊張しなければなりませんが、スティーヴィーのバンドメンバーも、スティーヴィーのその時の思いつきに即座に対応しなければなりません。やはり6-70曲はレパートリーにしているのでしょう。やはり彼の音楽的多様性のすごさに改めて感嘆しました。なによりも、2時間があっという間にすぎると同時に、この瞬間が終わらなければいいのにと何度も思ったわけです。行ってよかった。


(2004年1月7日大阪城ホール、スティーヴィー・ワンダー・ライヴ)


Set list Stevie Wonder
2004.1.7 (Wednesday) At Osakajo Hall
Capacity 12000


Show starts at 19:30

01. (Your Heart Is Just Caught Up In) The Moon Blue (new song)
02. Golden Lady
03. If You Really Love Me
04. Master Blaster
05. Higher Ground
06. All I Do

07. Rocket Love (Hotter Than July)
08. Lately (Hotter Than July)
09. Overjoyed
10. Ribbon In The Sky

11. Don’t You Worry ’Bout A Thing (including drum solo)
〜Cold Sweat (James Brown)〜Don’t You Worry ’Bout A Thing
12. Signed Sealed Delivered & I’m Yours
13. Sir Duke
14. I Wish
15. Isn’t She Lovely
16. Part Time Lover

17. Superstition
18. Big Brother (Talking Book)
19. Maybe Your Baby (Talking Book)
20. I Just Called To Say I Love You (21.16)

encore
21. My Cherie Amour (accoustic piano version)
22. As (Kim-solo, Lynn-solo, Keith-solo, Ponsy-solo)
23. Another Star


Show ends 21:51
不確定。

大阪二日目のショウが始まるのを待っているとミルトンが歩いているのを見つけた。ミルトンはスティーヴィーの兄。そこでちょっと話をする。ロンドンで会ったことを告げるがどうも覚えていないらしい。まあ、94年12月のことだから、もう9年も前のことになる。覚えていなくても当然でしょう。いずれにせよ、彼からバックステージパスをもらいました。

ライヴは今ツアー最長の長さとなり、盛り上がった中で終了。その後、バックステージへ。するとものすごい人。これは一体何、と思ったら、どうもスティーヴィーと写真をとることになっているらしい。「事前にお渡しした番号札のグループ順に写真撮影をしていただきます。ルールにしたがってお願いいたします」といったようなアナウンスがされている。十数人まとめてスティーヴィーを囲んで撮影するというシステムです。

いやあ、びっくりしました。これ毎日やってたんでしょうか。(笑) すごいね、これ。とてもではないが、本人とは話すチャンスはなかった。そこで、ミルトンに訊いた。「今回やった新曲は新作にはいるんでしょうか」「はいるかもしれないし、はいらないかもしれない」「アルバムはいつでるのでしょう」「君は僕にインタヴューするつもりかい? (笑) いえるのは、今年ということかな。それ以外はなんともいえないな」「レコード会社は2月3月にリリースデートを設定してるようですが」「それに関してはノーコメントだ。(笑) もうしゃべらないよ。(笑) ノーコメントがコメントだ(笑)」 

「今年」ですかあ? お願いしますよ、スティーヴィーさん。下手すると、日本に来たからレコーディングが遅れたなんて言われるかもしれませんねえ。(笑) というわけで、僕の感触としては、少なくとも2月3月のリリースはないというところです。ただかなり完成に近いニュアンスは受けます。夏あるいは秋あたりまでには出るのではないでしょうか。9月一杯に出れば一応次のグラミーのノミネートにはいります。

日本で披露された4曲。果たして入るのか、どうか。ただし、「ホワット・ザ・ファス」に関してはスティーヴィーは「次のアルバムからのシングルだ」と言っていました。今のところ、これが最初のシングルになるということなのでしょう。とはいっても、これさえも、スティーヴィーの気が変われば変更になります。スティーヴィーの「新作がでるぞ〜」は狼少年と一緒です。(笑) 

さて、彼の新作はいつ出るのか、という設問ですが、毎度のことながら、「出てみなければわからない」としか答えようがないのです。日本のレコード会社にマスターテープが届いたら、その時は発売が確定したと言ってもいいでしょう。今日現在、もちろん、まだ届いていません。不確定ということだけが確定しているのです。


ファンクバー。

スティーヴィーの大阪二日目、バックステージでの写真撮影会が終わって、今回の大阪のチケットなどもろもろの手配をしてくれたソウルメイトU君とともに、ソウルバーへ繰り出すことにした。事前にソウルバーの達人高畠さんに聞いていくつか推薦していただいた。しかし結局時間も遅くなっていたので一番近いZIP(ジップ)という店に決めた。

そうそう、その前に、楽屋での話。どこかで見たことがあるブラザーがいるなと思ったら、ジェフリー・ダニエルズだった。元シャラマーのメンバー。ダンサー。昔、六本木で会ったことがあった。ジョージだったか。それより前、彼が唯一だして売れなかったソロアルバムの記憶がある。札幌でDJをしたり、日本で振り付けの仕事などをしていると風のうわさに聞いていたが、大阪にいるとは知らなかった。とはいうものの、もうみんな帰るところで話すきっかけを失ってしまった。

さて、出向いたZIPだが、大阪の地理はまったく詳しくないので、説明できないが、東急ホテルのすぐ近く、新御堂筋からちょっと入ったところ。もともと16-7年ほど前に別の場所でオープンしたソウルバー。つい1年ほど前にこの地に移動した。マスターによれば、前の場所の環境が悪くなったので引っ越してきた、という。

外観はきれいでおしゃれなバーという感じ。そして中に入るとカウンターとテーブル席あわせて約25席。黒が基調でいかにもソウルバーらしい。レコード棚があり、そこには何枚かのジャケットが飾られている。かのJB人形も置いてある。この日はオウナー兼DJ兼バーテンダーである山本さんがすべてをひとりでこなす。

「どのあたりがお好きなのですか?」と尋ねると、物腰の柔らかそうなマスターは「ファンクですね。Pファンク、JB、ザップ・・・あたりです」との答え。なるほど。飾られたジャケットは、かなりファンク度が高い。

アナログ3000枚以上はあると思われるが、ターンテーブル2台のほかCDJも2台あり、どちらもプレイできる。週末にはDJがはいる。

ふと天井を見上げると、もちろん、ミラーボールがあった。大阪ファンクな夜に酔いしれたければ、ぜひ。

Zip 〜 Zappy Funk Bar
〒530-0014 大阪市北区鶴野町2−5
電話 06-6371-0099
http://www.zippy1.net
年中無休
営業時間 19時〜2時
日曜・祝日 19時〜0時
チャージあり

ENT>SOULBARS>ZIP


富士山。

大阪からの帰り、新幹線の車内アナウンスが流れた。「みなさま、進行方向左手をご覧ください。本日、富士山が大変美しくごらんいただけます」 ほんとだ。富士山は、日本で一番きれいな山。

それにしても、この形は美しい。人間はなんで美しいがわかるか、っていうのはまた別の話題なので、今日はおいといて。しかし、この美しい山も何度世界遺産への登録を申請しても却下されるという。実際、山の中にはいると様々な汚染があるためだ。

ちょっと調べてみたら、富士山近辺へは、年間5000万人の人がやってくる。5合目までが500万人、山頂までが30万人も行くという。年間30万人と言っても、実際山頂に上れる期間は非常に限られているから、その間はラッシュアワー並になるわけだ。

これではゴミ問題やその他の諸問題が、文字通り「山積み」になる。日本にもいくつか世界遺産に指定されているところがあるが、 屋久島や白神山地などは、圧倒的にそこに来る人が少ないために、自然が残っているという。富士山は人気一番だけにたくさんの人が来る。たくさんの人が来るから世界遺産になれない、という悪循環が起こる。

東京からでも、見える富士山。さいたまからでも見える富士山。どこからでも見える富士山。やはり、最終的には入山制限とかになってしまうのだろうか。富士山をきれいにしようというNPOまであることを知った。

http://www.fujisan.or.jp/

富士山を世界遺産にするとなると、10年くらいのプロジェクトを作らないとだめのようだ。誰か命かけてやってくれないかな。途中にどんなに高い山があろうが、途中にどんな深い谷があろうが、がんばって最後までやりとげてもらいましょう。これはやりがいがあるでしょうね。そして、スティーヴィー・ワンダーに「フジサン」という歌を作ってもらいましょう。スティーヴィーが作る「フジサン」もしくは「フジヤマ」という曲なら、世界的にアピールできます。(結局は、またそこかって(笑)) 


ミラーボール。

階段を上がって扉を開けると、そこはソウルバーだった。(「雪国」風に) その名は「スタイル(Style)」。中野の駅から中野ブロードウェイにアーケードを歩き、中野ブロードウェイのすぐ手前を右折、しばらく行った左側、中華料理店の2階がその店だ。店内に入るとちょうどロナルド・アイズレーのバート・バカラック作品集のCDが小さな音で流れていた。

その昔、ライヴが行われる会場というと新宿厚生年金ホールか中野サンプラザという時期があった。中野サンプラでは、クール&ザ・ギャング、バリー・ホワイト、グラディス・ナイトなどそれぞれの初来日コンサートを見た。80年だったかのマンハッタンズの時は一番前の列で見た記憶もある。クルセイダーズのランディー・クロフォード入りもサンプラだったか。

そんな中野にしばらく前にソウルバーが出来たときいていた。前から行ってみたいと思っていたのだが、やっとの思いで足を運ぶことができた。マスター兼オウナー、今井さんは、80年から82年にかけて六本木の老舗ディスコ、エンバシーにいた方。その後サンバクラブなどを経て、2003年5月20日、この中野にソウルバーをオープンした。カウンター8席、ボックス4席、テーブル3席の計15席。アナログ1500枚、CD1000枚ほどの中から選曲。個人的にはヴォーカル・グループ、とりわけスイート・ソウル系が大好きだそうだが、ダンス・クラシック、古めのR&Bなどもかかる。

黒を基調とし、嬉しいことにボックス席の色は赤。黒と赤というソウルバーの王道を行く。普段満席になることはあまりないが、と前置きして今井さんが言う。「実は昨年、テレビの『アドマチック天国』に紹介していただいて、その時はしばらくものすごくお客さんにいらっしゃっていただきました。だいたい地元の方が多いです。いつも一人で(DJもバーテンも)やっているので、満席になったりすると、ちょっと待っていただくしかありませんね。(笑) で、今度その『アドマチック』が(1月)23日(金曜)に再放送されるんですよ。今から心の準備をしておかないと(笑)。」

ずっとかかっているロナルド・アイズレーが歌うバカラック作品の数々は、実にすばらしい。http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&;uid=UIDMISS70311061515161479&sql=A7cdayl14xpmb  「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」や「エニワン・フー・ハド・ア・ハート」は、ルーサー・ヴァンドロスもカヴァーしている。方向性は同じだが、でてくる味わいはまったく違うので、聞き比べるのも実におもしろい。

「あそこのブラックライトは、『しずおか屋』の富田さんからいただいんたですよ」と今井さんが教えてくれた。サンプラのライヴ帰りには、ぜひお勧めの落ち着いた大人の雰囲気のバー。カウンターの横で今時珍しいフットボール型のミラーボールがゆっくり回転していた。


バー・スタイル
Bar Style
住所 〒164-0001 東京都中野区中野5-55-17 
トリハラビル2階
電話 03-3389-6603
営業時間 午後8時から午前4時
定休 月曜日
チャージ 300円
ドリンク 400円〜
おつまみ 500円〜


ENT>SOULBARS>STYLE


成熟。

今年は2004年である。だが、今ここで聴いているCDは、あたかも70年代に存在していたかのようなソウルのレコードだ。しかも、南部の香りがするレディー・ソウル。ちょっとディープソウルと言ってもいい。一体誰のCDかといえば、ジョス・ストーンという新人のデビュー・アルバム『ジョス・ストーン/ザ・ソウル・セッションズ』(東芝EMI)である。

この驚異的な新人については、その出会いをちらっと書いた。http://diary.note.ne.jp/32970/20030923あれから4ヶ月。じっくりとアルバムを聴いている。日本盤が1月16日にでる。

何より驚くのが、この成熟した歌声だ。オーティス・レディングの早熟さ、ジャニス・ジョプリンのディープさ、アレサ・フランクリンのエモーショナルさを兼ね備えたシンガー。そして、彼女は1987年4月11日生まれのまだ16歳。今年の4月でやっと17歳。高校生で言えば2年生だ。さらに、彼女はイギリス出身の白人である。音楽を肌の色で聴く必要はないが、それでもこれは白人ばなれした、黒人のような声だ。とんでもない才能がでてきたものだ。

こんなアルバムを作り出したのは、なんとマイアミのベティー・ライト。このジョスを見出したSカーヴレコードのスティーヴン・グリーンバーグという社長が、彼女の作品をベティー・ライトにプロデュースしてほしいと考えたところからこのプロジェクトが進んだ。元々、ジョスと契約しオリジナルアルバムの制作になるところだったが、途中で一曲吹き込んだソウルのカヴァー(カーラ・トーマスの「アイヴ・フォーリン・イン・ラヴ・ウィズ・ユー」)の出来がすばらしかったので、そうした作品ばかりを録音しよう、ということになり、急遽完成したのがこのアルバムだ。

全曲ソウルのカヴァー集。しかも、選曲が実にマニア好み。もうたまらない。いきなり、ジョー・サイモンの「チョーキン・カインド」と来た! さらに2曲目はシュガー・ビリーの「スーパー・デューパー・ラヴ」だ! 日本盤でてません。輸入盤で当時よく売れました。先週、偶然武蔵小山のゲッコーで聴きました。こんな曲、普通誰も知らない。

なぜこんな『フィールン・ソウル・新春放談』並みのマニア度の高いアルバムができたかというと、これをてがけたそのスティーヴン・グリーンバーグという人物ゆえだ。彼は、なんとこれまでにスタックスのあのボックスセット(膨大な仕事だ)、シュガーヒル・レーベルのボックスなどをてがけてきたいわば筋金入りの「ソウル、R&B研究家」なのだ。彼が一般市場のことなどまったく考えずに、ほぼ完全に自分たちの趣味でいい音楽を作ろうとして作った作品と言っても過言ではない。

そして、やはりこれまた驚嘆するが、全曲、ジョス・ストーンが生まれる前の作品、ヒット曲なのである。しかし、彼女の出身地、属性など、そんなことを知らずとも、このソウルあふれるアルバムは、すばらしい。まさに、ソウルはここにあり。はやくも今年上半期ベスト3間違いなしのソウルアルバムだ。

声。

今、何度も繰り返してジョス・ストーンのアルバムを聴いています。このディープな声には本当にノックダウンさせられます。声だけでいけば、初めてメーシー・グレイを聴いたときと同じくらい、いやそれ以上の衝撃です。ジャニスより黒く、ティーナ・マリーよりもさらにディープ、テヴィン・キャンベルより早熟。形容する言葉はいくらでもでてきます。

しかし、キーワードはサザンソウルっていうあたりでしょうか。いろいろジョスの記事を読んでいるところですが、彼女がブリットニーやアギレラなんかのポップな音楽について、聴くことは聴くと前置きして、「いいのもあるけど、くずも多いわよね」と言い放つのは痛快です。そして、彼女がなぜこれほどディープな音楽を作れるのか、というと彼女自身が先達のシンガーを聴く時に、なにより「声」を聴いているからです。彼女はソウルシンガーの声が好きなのです。これは、僕も同じです。いいシンガーになればなるほど、その楽曲ではなく、そのシンガーの声を聴いてしまうのです。そして、その声に惚れこんで行く。もちろん、その声をよりよく聴かせるいい楽曲というのは必要です。むしろそのいい楽曲がなければ、いいシンガーの魅力は際立ちません。どちらがいい悪いというのではないのですが、まあ、いずれにせよ、僕もソウルシンガーの声が、人間の声が好きなんですね。

彼女を獲得したSカーヴレコードのCEOスティーヴ・グリーンバーグは、最初彼女がオーディションにやってきて、信じられなくて笑ってしまったほどだといいます。「ひょっとしてテープレコーダーでも隠し持ってるんじゃないかと思った。とてもこの声が、このイギリスの14歳の白人の女の子からでてくるとは思えなかった」 

オーディションでジョスが歌ったのはグラディス・ナイトの「夜汽車よ、ジョージアへ」、オーティス・レディングの「ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ」、アレサ・フランクリンの「ア・ナチュラル・ウーマン」。グリーンバーグはもう、「夜汽車」を聴いただけで、契約することを決意したようです。

スター誕生a star is bornです、まぎれもなく。しかし、これは誕生というよりも、むしろ、誰かかつてのソウルシンガーがre-born生まれ変わったのではないかとさえ思えます。学校に戻っても、なかなか彼女がレコード契約をものにしたことを信じない人や先生もいるということです。「イギリスのこんな片田舎からでたシンガーが、スターになるだって? ありえない」と思っているそうです。

アレサ・フランクリンとアル・グリーンが大好きな16歳の少女は、学校の友達とは音楽の話ではまったくあわないといいます。

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ジョスについては、近いうちにこれまでの歩みをまとめてみます。


自由度。

基本的にはソウルばっかり聴いて、毎日ソウルをサーチンしているのですが、実はピアノのCDかなんかを聴いて安らぐ時もあります。最近ちょっと疲れた時に聴くのが妹尾武(せのう・たけし)さんのピアノのアルバムです。タイトルは『シーズンズ』(ポリスター)。去年の11月にリリースされています。これは彼のピアノだけ、その他の楽器は何もなし、という超シンプルな作品。極端な話、ピアノと彼さえいれば、どこでもできるアルバムです。そして、そのアルバムのトラック1、5、6の3曲をリピートにして、聴いたりしてます。3曲で7分強のイメージの世界。

1は「The Season Comes」、5は「材木座海岸」という曲で、両方彼のオリジナル。前者は36秒ほどの短い小品なんですが、後者は3分10秒ほどの実にメロディーが美しい、心が洗われるような一曲です。タイトルの「材木座海岸」というのは、僕もよく覚えている場所なので、このタイトルに妙にやられました。そして自分勝手に、この曲を聴くと冬の材木座を思い出してしまうのです。夏ではありません、ほとんど人もいないような冬なんです。妹尾さんによると、「自分なりの材木座海岸のイメージ」ということです。

そして、これに続いてでてくるのが、ミッシェル・ルグラン作の名曲「サマー・ノウズ」(3分25秒)。映画『サマー・オブ・42(思い出の夏)』のテーマ曲です。これは、物悲しいメロディーなんですが、今度は夏の終わりのイメージなんですね。どこかの海岸でもいいかもしれません。ちょっとは人がいて、ゆったり散歩しているイメージ。まあ、これは映画の残り香みたいなものがあってそういうイメージを持つのかもしれませんが。

どうも僕は妹尾メロディーと相性がいいようです。おととしのリリコさんのライヴで印象に残った「キセキノハナ」という歌があったのですが、これが妹尾さんの曲ということを後で知りました。(2002/12/24 付け日記) ゴスペラーズの「永遠に」は彼の最大のヒットです。そして、今度のマーチンさんの新作『Shh...』(2月25日発売予定)の一番最後に入っている「君の未来、僕の想い」という曲がアルバムを通してもっとも僕にコネクトしたのですが、なんとこれが再び妹尾さんの作品でした。またまたびっくり。この曲はタイアップとれたらオリコン・ベスト10間違いなしです。とれなくても、いけるかも。(笑) 

彼のピアノを聴いていると、いろんな古き良き時代の映画のワンシーンがふと立ち込めてくるような雰囲気になるのです。繊細なピアノ演奏からイメージが膨らんでいきます。言葉がない分、聴く者により多くの自由度を与える。そして、イメージ創造に火をつけてくれる彼の自由度の高いメロディーには、自分なりに映像をつけてみたくなります。メロディーメイカーとして、そうですね例えば、日本のヘンリー・マンシーニを目指してください。僕が映画監督だったら、絶対に彼の作品を使いますね。

一人のピアニストが、同じ88の鍵盤を使って、夏の終わりの海辺と冬の海辺を描き分けます。彼は四季をそれぞれに奏でるピアニスト。


妹尾さんのオフィシャルホームページ

http://home10.highway.ne.jp/senoo/index2.html
ディグ。

いわゆる一発ヒット屋というのは、それこそ星の数ほどいます。今日ここでご紹介するのは、シュガー・ビリーというシンガー。1975年にシングル、アルバム『スーパー・デューパー・ラヴ』がちょっとだけヒットしたシンガー。シングルヒットが2曲、アルバム1枚で消えました。経歴、その他、まったく謎です。「ブラック・ミュージック・ディスク・ガイド」で鈴木啓志さんは、デトロイトでビリー・ガーナー名義で何枚かシングルをだしていた人物と同じではないか、と推察されていますが、どうなのでしょう。

最初のシングル「スーパー・デューパー・ラヴ」は、74年12月にリリースされ75年1月からヒット。ソウルチャートで7位を記録。その後75年3月にアルバムがリリースされ、さらに5月に同アルバムから第二弾シングル「シュガーパイ」がリリースされ、ソウルチャートで43位を記録しました。

彼のアルバムは、こんな感じ。↓

http://www.vinyl.com/product_id/LPFTRA601?PHPSESSID=5de4942d6b866d5bc02b5e2719cceef6

アルバムのジャケットには各ミュージシャンのクレジットがのっていますが、リズム・アレンジメントのシュガー・ビリーの横にレオナード・ジョーンズという名前がかかれています。これは、シュガー・ビリー・イコール・レオナードなのか、シュガーとレオナードは別人で二人でリズムアレンジをしたのか、はっきりしません。まあ、ウィリーはニックネームでビリーになりますからねえ。

いずれにせよ、シュガー・ビリーはギターを弾きます。そして、そのギターの音色はかなりファンキーです。当時のブラックスプロイテーション映画にでてきそうな大きなコートに、クールな帽子を被った写真がダブルホールドのジャケットの中に映っています。

全体的な曲調は、当時のジェームス・ブラウン風ファンクを、一歩洗練させたようなタイプの、基本的にはリズムがはっきりした作品群でまとめられています。声がシャウト系で、はりがあって、印象的。ヴォーカルスタイルは、ミニ・ジェームス・ブラウンといったところでしょうか。

たまたま先週武蔵小山のソウルバーでこのアルバムを20年以上ぶりに聴いたと書きましたが、その「スーパー・デューパー・ラヴ」がいきなり脚光を浴びているわけです。曲タイトルの意味は、「すっごい愛だぜ、お前はオレのことが気に入ってるか?」といったところでしょうか。duperはsuperとの語呂で、深い意味はありません。しいて言えば「強意」でしょうか。意味を強くする、感じ。例のジョス・ストーンのアルバムの2曲目にはいっています。しかし、よくこんな曲、掘り起してきましたねえ。それだけで拍手です。宝物は掘らなければでてこない。You have to dig. まさにジョスとプロデューサーのスティーヴ・グリーンバーグはdigしてます。ジョスのヴァージョンもオリジナルに負けないほどかっこいい。


猛獣使い。

実はエスカレーターズ時代のCDもこっそり持ってたりするんです。それから、Zooco(ズーコ)のソロアルバムなんかもCD棚にはいってるんですね。なにしろ、彼女の声がねえ、いいんですよね。その頃は本人と接点を持つなんて夢にも思わなかったですからね。そんな彼女と最近はお話することもできるわけですが、Zooco率いるソイソウルのライヴを見ました。彼女のライヴを見るのは初めて。

ソイソウルのCDは、一足先に昨年でていて、いかにも昔風のR&Bバンドという感じで好感度を持って聴いていたわけですが、なにしろ11人編成の大所帯。こわもての男子10人(男子十人楽坊)プラスZoocoですからねえ。なんたって迫力あります。こういうバンドは、維持が大変ですが、絶対続けてね。

それにしても、いいバンドです。きっちりしたドラム、ベース、ギター、キーボード。しっかりしてます。ファンク、ロック、ソウル、いい音してる。クアトロって改装して、音響よくなったんですかねえ。バンドがいいのか。(笑) 

僕が彼らにもったイメージは、70年代初期のルーファス・フィーチャリング・チャカ・カーンです。まだ、ただ単にルーファスだったころ。75年くらいまでのルーファス。基本はファンク、ソウルなんですが、そこに当時としては斬新なロックの要素もあったという感じ。リヴィング・カラーほどロックに行ってないちょうどいいバランスのところです。ルーファスの例えば「テル・ミー・サムシング・グッド」とか「メイビー・ユア・ベイビー」とか、カヴァーでやってみたらどうでしょう。重いファンクで、そして、ちょっとだけロックの要素もあって充分ソウルフル。(おっと、どっちもスティーヴィーの楽曲だ)

そういうスタンスだと、Zoocoは、チャカ・カーン的立ち位置になる。これはこれですごくいい感じになるのではないでしょうか。ファンク、ソウルを歌いつつ、ソロでやる時はジャズやスタンダードなんかも歌っちゃう。日本のチャカ・カーン目指したらどうでしょうか。ゴスペルも歌えるZooco。ヴァーサタイルなシンガー、Zooco! 

全体的な流れの中で印象に残ったのは、ジェームス・ブラウンの「ソウル・パワー」から始まって、「タイトゥン・アップ」風、「シャフト」風のアレンジがはいるメドレーのあたり。バンドが力強い。そして、もっとも感心したのが、ゴスペルの名曲「ヒズ・アイ・イズ・オン・ザ・スパロウ」。『天使にラヴソングを〜2』でも歌われていた作品ですが、これをZoocoとケイズの二人で歌った。声、よくでてます。「神様は、すずめのような小さな者にもちゃんと目をかけている」というケイズの曲の解説もあって、なるほどと思って聞き入りました。

やはり管楽器がはいると、生バンドっぽくていいですよね。バンドよし、歌唱よし、ラップよし、キャラクターよし。後は、ソイソウルならこれ、という名刺代わりになる超強力な楽曲です。それがむずかしいんですけどね。「テル・ミー・サムシング・グッド」を日本語にして歌ったっていいんじゃないでしょうか。あと、ルーファスの「ワンス・ユー・ゲット・スターテッド」。これも彼らにはぴったりの曲になるでしょう。あの路線に、ヒントがあるような気がしますね。

男子10人をまとめるZoocoは、大変な猛獣使いと言われているそうです。たしかにねえ。納得したわ。(笑) 

(2004年1月16日金曜・渋谷クワトロ=ソイソウル・ライヴ)
命日。

ちょっとタイミングを逸して申し訳ないのですが、去る1月13日は、かのダニー・ハザウエイの命日でした。79年1月13日からちょうど今年は25周年になります。正直、どうもオーティス、サムクックの命日は、近いせいかよく覚えていて、何日か前からカウントダウン状態にはなるのですが、ダニーの命日はそらで覚えていても、当日忘れてました。すいません。ごめんなさい、です。

以前書きましたが、ずっとペンディングになっているダニー・ハザウエイ・アンソロジー。今年こそは発売されて欲しいですね。ここには、ダニーの未発表曲なども収録されるのですが、その中でももっとも注目されるのは、ダニーのライヴ・ヴァージョンによるスティーヴィー・ワンダーの「スーパーウーマン」でしょう。一体、いつどこで録音されたものか詳細はまだわからないのですが、70年代初期から中期にかけてのものだと思われます。

また、この2枚組CDには、「リトル・ゲットー・ボーイ」のオリジナル・ヴァージョンが収録されるということです。同曲は、彼の『ライヴ・アルバム』で歌われる曲ですが、スタジオ・ヴァージョンはないんですね。もともとこのアルバムは2002年10月頃にいちどリリースされる予定だったんですけどね。諸事情で発売が遅れています。

ダニーは、最後のアルバムでスティーヴィーの「ユー・アー・マイ・ヘヴン」を歌っていますよね。スティーヴィーとダニーという観点からみても興味深い。さらに、彼の未発表曲というだけでも、おもしろい。はやいところ、リリースにこぎつけて欲しいですね。25周年ですし。

娘のレイラが自らのウェブで1月14日に、今年の誓いとともに、25周年の命日についてこんなことを少し書いています。

http://www.lalahhathaway.com/cgi-bin/viewmessage.cgi?r=15647&;l=level2

(以下は一部抜粋です。全文は上記ウエブをごらんください)

「I guess I am a little melancholy today. January 13 marks the 25th anniversary of my fathers untimely death. Amazing how time flies. As a child I wondered if I would remember every year, on the day. I think I probably will. It is etched into my memory. I can only speak for myself, but I want to thank you for your love and support. I think Daddy would be tickled pink to know that people all over the world remember him so lovingly. That I hear his name, or his music almost everyday. That he will never be out of our hearts, minds, and consciousness.

This record........will be the death of me. It’s comin’ along.....it’s on it’s way.......trust me.
I love you guys.
be inspired, and encouraged
lalah 」

ちなみに、ここに書かれている「ディス・レコード」とは、ダニー・ハザウエイのレコードです。アンソロジーを指すものと思われます。つまり「このレコードは私が死んだ時の(葬式でかける)レコードになるでしょう。発売されます。もうでます。信じて。みんな、愛してます。インスパイアーされて、そして、勇気づけられてください」ということです。

軽く訳しておきましょうか。「今日はちょっとメランコリーな感じみたい。1月13日は、父の予期せぬ死からちょうど25周年になります。時が流れるのはなんと早いことでしょう。子供の頃、私は命日を毎年覚えていられるか自信がありませんでした。でも、今はずっと忘れずにいられると思います。父は私の思い出の中に少しずつ刻み込まれているのです。自分のことしかいえませんが、みなさんの愛とサポートに心から感謝を。父は世界中の人が父のことを愛を持って覚えていてくれて、ものすごく喜んでいると思います。彼の名前や音楽は毎日聴かれ、そして父は私たちの心や気持ちや意識の中から決していなくなったりしないわけですから。このレコードは私が死んだ時の(葬式でかける)レコードになるでしょう。発売されます。もうでます。信じて。みんな、愛してます。インスパイアーされて、そして、勇気づけられてください --レイラ」

早いところ、聴きたいアルバムの1枚に間違いありません。




雪。

アメリカと日本の文化の違い。まあ、いろんなところにでますね。今日、「雪だるま」の話になりました。アメリカ人のマーヴィンは、日本の雪だるまが丸が二つなことに驚いた、と言います。アメリカでは必ず三つなんだそうです。まずここで「へええええ」。

なんと、アメリカの雪だるまには頭と体と、あと足がある、ということなんですね。ほ〜〜。「だから、初めて日本の雪だるま見た時、なんで二つしかないのか不思議に思った」そうです。そこで、僕が「だるまだから、足がないんだよ〜〜」ということになったのですが、アメリカでは雪だるまは雪だるまとは言わない。Snowmanというのですね。

雪だるまじゃなくて、雪男。だから足がある! な〜〜るほどね。いやあ、違いがあるんですね、こんなところに。

そして、もうひとつ雪の話題。ソロモン諸島出身の友人が日本にやってきて、グループで長野にスキーに行ったときのことです。そのグループはみなあたかも雪を見るのが初めてという具合に雪ではしゃいでいたそうですが、ひとりソロモン出身の彼だけ雪と遊んでいなかったのです。ソロモンも、赤道直下にあるから、雪を知らないのではないかと思い、なぜ雪で遊ばないのか尋ねた。が、実際はそうではなかった。

彼の国では、雪は「黒いもの」だというのです。つまり、泥だということなんですね。雪と雨が一緒になり、ほとんど泥状のものになる。だから、雪なんかでは遊ばない、というわけです。

確かに、僕らなども、雪は「白いもの」と思い込んでいます。何日も道端に積もった雪が泥だらけになって黒くなっていることもありますが、やはり、雪・イコール・白、という概念があります。それがねえ、所変われば、雪・イコール・黒と思っているところもあるんですね。

足がある雪だるま、いや、スノーマン。黒い雪・・・。雪ひとつでも、世界ではいろいろ違うんですねえ。今日は20へええくらい行きましたよ。

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