Purple Pain

2003年4月11日
殿下。

美智子妃殿下の実家である正田邸が取り壊されていますが、海の向こうのミネアポリスでは2週間ほど前に殿下ことプリンスの有名な「パープル・ハウス」が取り壊されました。ミネアポリスにあるプリンスが広大な敷地に建てた家です。

プリンス・ファンはみな、一度、ここに「巡礼」に行きます。(笑) 僕も86年に行きました。といっても、もちろん、中には入れないので、家の前まで行って、フェンス越しに遠めにそのパープル・ハウスを眺めるだけです。写真とったんですけど、いいカメラではなかったので、現像したら家が小さくしか映ってなくて、使えませんでした。

フェンスの向こうに、小さくですが、確かにパープルの家がありました。しかし、本当にパープルの色の家なんですよねえ。後にも先にもパープルの家を見たのは、それっきりです。(笑) 

ここにはずっとプリンスのお父さんが住んでいたそうです。お父さんは2001年8月に亡くなられています。そして、お母さんも2002年2月に死去しています。そんなことも、古い家を取り壊すことへの布石になっているのかもしれません。正確なことはわかりませんが。

この敷地自体は、依然プリンスのものだそうで、新しく家を建て直すのではないか、ともいわれています。

このニュースソースはイギリスの音楽誌ニュー・ミュージカル・エキスプレスでした。

http://www.nme.com/news/story.htm?ID=104728

記事は、パープル・ハウスが取り壊されてファンが抗議している、というもの。記事タイトル「パープル・ペイン(パープルの痛み)」がうまいですね。

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さて、昨日のクイズの正解は・・・

キャメオCameoです。ラリー・ブラックモン率いるファンク・バンドです。keikoさん、おめでとうございます。よくそんなこと知ってますねえ。見事に正解です。morishimaさん、残念。SOUL OZさん、まにあいました。正解です。


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Manhattan, New York

2003年4月10日
摩天楼。

松井関連で、マンハッタンのことを思い浮かべつつ昨日の日記を書いたら、なんと初めてのホームゲームでいきなり満塁ホームランだって。なにか、そこしれぬ強運を持っていますね、彼は。

そんな前置きはおいといて、ニューヨークつながりで肝心なグループを忘れていることに気がつきました。マンハッタンズです。スイートソウルのグループとして、日本でもかなりの人気を獲得しているR&Bヴォーカル・グループです。何度も来日していますが、彼らの大ヒットと言えば、「キス・アンド・セイ・グッドバイ」と「シャイニング・スター」です。リード・シンガーは、ジェラルド・アルストン。サム・クックの流れをくむ正統派シンガーです。

ポップの分野ではマンハッタン・トランスファーがいますね。多数のアルバムをだしているアカペラも歌うグループです。さらに、一発ヒットですが、ニューヨーク・シティーというグループがいます。曲は「アイム・ドゥーイン・ファイン・ナウ」。フィラデルフィア・サウンドのポップな曲で、73年にヒットしました。

それではここで問題です。ニューヨークやマンハッタンといった言葉を使ったグループはいくつかありますが、74年頃のバンド結成当初「ニューヨーク・シティー・プレイヤーズ」と名乗っていたグループがいます。このグループはレコードデビューまでには、その名前を変更し、数多くのヒットを放つようになります。さて、そのグループとはなんでしょうか。(正解は明日)

PS:

kさん。僕が知っていることでしたら、いくらでも、お教えします。疑問があればいつでもどうぞ。

雪。

テレビのニュースが、ヤンキーズに行った松井選手のニューヨーク・デビュー戦が雪のため延期になったと伝えています。4月に雪ですか・・・。となると思い浮かぶ曲は、プリンスの「サムタイムス・イット・スノウズ・イン・エイプリル」(ときには4月に雪が降ることもある)。彼のアルバム『パレード』(86年)に収められている秀逸な一曲。昨年11月のプリンス来日のときも、確か1日だけライヴでやってくれたスロー・バラードです。ミラーボールに当たった照明が客席に降り注いで、まるで武道館に雪が降っているかのでようでした。松井の映像、4月の雪のニューヨークのバックに、この曲が流れたら最高にセンスいいのにね。まだ見てません、そんな映像。

New York State Of Mind by Billy Joel

まあ、プリンスを上級編としたら、中級編はこのあたりでしょうか。ご存知ビリー・ジョエルの76年のアルバム『ターンスタイルス』(邦題、ニューヨーク物語)収録の一曲。これも多くのシンガーにカヴァーされています。

「休暇にニューヨークを出たいと思う連中もいる。飛行機でマイアミやハリウッドに行く連中。でも、オレが行くならグレイハウンドでハドソン・リヴァーを渡りたい。なぜって、オレの心はいつもニューヨークにあるからさ」

ニューヨークを愛するニューヨーカー、ビリー・ジョエルのニューヨークへの愛情がほとばしりでた名曲です。グレイハウンドは、ご存知かと思いますが、全米をくまなく結ぶ長距離バスです。飛行機で旅にでるのでは、ニューヨークから瞬時に離れてしまいます。でも、バスならば、マンハッタンと隣の州を分かつハドソン河を渡るとき、ゆっくりとマンハッタンの摩天楼が小さくなっていきます。そこにニューヨークへの別れを惜しむ旅情がかもし出されます。このあたりの描き方が抜群に上手ですね。

New York, New York by Frank Sinatra

ま、ニューヨークの映像にもっともBGMとして使われるのが、これでしょう。フランク・シナトラの「ニューヨーク、ニューヨーク」。

「この街で成功すれば、世界中のどこでも成功できる。それは自分次第。僕は決して眠らない街で、朝起きてみたいんだ。そう、ニューヨークの一部になりたいんだ」

これも実にカヴァーが多いですが、ソウル系ではオリータ・アダムスがカヴァーしています。それとバーブラ・ストライサンドのヴァージョンも見事ですね。

New York, New York by Grand Master Flash

そして、絶対かからないであろう曲が、ラッパー、グランド・マスター・フラッシュのこれ。83年のスマッシュヒットです。やっぱりソウル・サーチャーとしては、フランク・シナトラで終わるわけにいきません。

というわけで、ニューヨークつながりで、4曲続けてご紹介しました。あなたの気持ちはマンハッタンに飛びましたか? 

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Marvin’s Influence

2003年4月8日
離婚。

マーヴィン・ゲイに影響を受けたシンガーってたくさん、いますね。歌唱法、声の出し方など、さまざまな曲を聴くとき、ふと、マーヴィンが頭をよぎることはよくあることです。

そんなシンガーのひとりに、ブライアン・マクナイトがいます。ブライアンの新作『U Turn(ユーターン)』の中に「バックシート」という曲があります。この曲では存分にマーヴィン節がでています。

飛行機でロスに戻ってくる彼女を待っている男。月曜まで休みで金曜夜から月曜日までべったり彼女と過ごすことができる男。それが主人公です。う〜ん、モントレーまでドライヴして、週末旅行ですか。海岸沿いのパシフィック・コースト・ハイウエイをポルシェでも飛ばしていくのでしょうか。うらやまし。

ここで歌われる「バックシート」は車のバックシートのこと。「僕たちは会ったらすぐに車のバックシートで愛し合うことだってできる」というわけです。

ところで、このアルバム、やたら未練たらたらの曲が多いな、と感じたのです。続く「シュッダ・ウッダ・クッダ」なども、「僕たちがもうだめだということはわかっている。でも君が行ってしまう前に、どうしても知って欲しいことがある。僕はもっといい男であるべきだった」と告白。「ソー・ソーリー」(僕の個人的お気に入り)も、「今までのあやまち、すべてごめんなさい」と謝ります。タイトルソング「ユーターン・ガール」に至っては、「僕が探しているのはユーターン・ガール。つまり、別れてももう一度またよりを戻せるガールがいいんだ」とまでいいきります。

というところで、ふと、思いつくことがありました。昨年のブライアンのライヴのときの「僕は、今、シングル(独身)だからね」という一言。そうか、離婚していたんですか。知りませんでした。そして、このアルバムは、まさに別れた彼女へのアルバム、もしくはそのことを歌った作品集のように思えてならないのです。

そういう点で、まさに、アルバム自体がマーヴィン・ゲイの『離婚伝説(ヒア・マイ・ディア)』を彷彿とさせるような作品でもあるわけです。ブライアンとマーヴィンを結びつけたときに、ふとそんなことがわかったのです。ブライアン本人は否定するかもしれませんが、マーヴィンから歌唱だけ影響を受けたのではなく、アルバム・コンセプト自体、『離婚伝説』の影響にあるといえるのかもしれません。


Talk About Diana

2003年4月7日
心機一転。

昨日の『ソウルブレンズ』(インターFM、毎週日曜午後4時〜6時)内「山野ミュージック・ジャム」は、ダイアナ・ロスでした。コーナーの時間が先週までの1時半から4時半へと後ろにずれましたが、昨日はみんなテンション高かったですねえ。同録を聞いたところ、いつもながら、話したいことがたくさんあると、本当に早口になってしまいますねえ。

ま、それでも、いろんな話題が出ました。ぜんぜん予期していなかったのですが、ダイアナの「ザッツ・ホワイ・アイ・コール・ユー・マイ・フレンド」は、日本でもテレビドラマの主題曲になり、ヒットしましたが、これは日本人作曲家、日向敏文さんの作品。なぜ日本人アーティストの作品がダイアナというアメリカのビッグスターによって歌われたのかとか、映画『レディー・シングス・ザ・ブルーズ』の話など、そこからダイアナ・バッシングの話、さらに、黒人俳優がなかなかオスカーを取れずに、やっと昨年ハル・ベイリーがオスカーを獲得したといった話まで、めちゃくちゃ話が飛んでしまいました。

ベリー・ゴーディーとダイアナの関係なども、非常におもしろい話でしたね。さすがに昨日は、時間が足りなかったです。まあ、また機会があったらやりましょう。

『ソウルブレンズ』は、徐々に4月からマイナーチェンジしていきます。ご期待ください。今年のモットーはTalk With Contents、内容のあるしゃべり、です。
再会。

エドウィン・スターの急死やニューオーリンズ話で若干横道にそれてしまったんですが、「しずおか屋」さんに行った後の話の続きがあるんです。

帰り道、細い下北の道を走っていると、Soul & Funk Bar: Dukeの名前が。これはなんだ、と車を横に止め、さっそく入口を見てみると、なかなかよさそうなので、はいってみました。

黒基調のアメリカンスタイルのバー。カウンターの中に、ターンテーブル2台とCDプレイヤーが1台。かけているレコードのジャケットをカウンターの前に飾ります。そのDJブース前のカウンターに座りました。若い人がまわしていました。79年生まれの23歳。「いつくらいのレコードが多いんですか」 「70年代から80年代のソウル系ですかねえ。なにかリクエストがあれば、おかけしますよ」 

しばし考えて、彼がかける曲を聴きながら思いました。23歳にしてはずいぶん古い曲をかけるのです。「けっこう古いの知ってるのねえ」 「ええ、自分はちょっとギター、弾くんで」 「じゃあ、ダニー・ハザウエイのライヴある?」 「ありますよ」 「『ホワッツ・ゴーイング・オン』でもお願いします」

そして、取り出されたるジャケット! うぉ、すご。ジャケットの3方が茶色のガムテープで補強されてる。もう一方は出し入れするところだから、ガムテ貼ってません。当たり前ですが。原型とどめてないでしょう。端っこの文字なんか読めません。ジャケットの紙自体もなんか薄くなっているような、そんなヨレヨレ感が漂います。ダンステリアのジャケットもかなりヨレヨレですが、ここのダニー・ハザウエイ『ライヴ』のはすごいな。これは。年季が入ってるというか。今まで見た中でも、「もっともヨレヨレのおんぼろジャケット賞」をさしあげたい。そういうジャケット写真ばっかり集めても、おもしろいだろうな。

「『ホワッツ・ゴーイング・オン』ってマーヴィン以外のありますか」「え〜、クインシー・ジョーンズとオハイオ・プレイヤーズがありますよ」と店のマスター、甲賀さん。「ほ〜〜、オハイオ・プレイヤーズですか。じゃあ、それ、お願いします」

オハイオ・プレイヤーズのヴァージョンは『クライマックス』のアルバムに入っていました。74年秋リリースのアルバムで、彼らがマーキュリーに移籍して「ファイアー」などの大ヒットを飛ばす以前の作品です。帰宅してチェックしたら、しっかり持ってました。でもすっかり忘れてましたねえ。少しまったりした感じの「ホワッツ・ゴーイング・オン」が約6分。それでも、マーヴィンのとは一味違ったファンク風の香りも漂わせています。

このアルバムにはもう一曲、CCR、アイク&ティナ・ターナーでおなじみの「プラウド・メアリー」も収録されています。かなり遅いテンポのブルージーなアレンジです。「ファイアー」などの洗練されたファンクのイメージからすると、かなり泥臭いアーシーな感じです。

ま、ソウルバーなどに行くとすっかり忘れていた昔のアルバムなどに再会できて、それはそれでまたうれしいですね。昔のアルバムの中にシングルヒット以外の曲で何がはいっていたかなんて、やっぱり忘れてしまうものですからねえ。最近つくづくそれを感じます。(笑) 



Plants at New Orleans 

2003年4月5日
植物。

一昨日(3日)の深夜フジテレビ系で「ルーツ・オブ・ミュージック、ヴォリューム4」という番組をやっていました。ヴォリューム4ということは、3までがあったんですねえ。ぜんぜん知らなかった。途中から見たのですが、今回カメラはニューオーリンズを取材していました。

僕はこの地は行ったことがなくて、一度なんとしてでも訪れたいと思っています。番組には、アラン・トゥーサン、ネヴィル・ブラザース、ワイルド・マグノリアス、そしてそのバンドマスターこと我が山岸潤史などなどが登場。ライヴハウスでのライヴの様子や、各ミュージシャンのインタヴューなどをまとめていました。

ニューオーリンズというと、一般的には「ジャズの発祥地」みたいに捉えられていますが、もちろんそれも正しいのですが、僕なんかはブルーズ、リズム&ブルーズなどの発祥地のように感じてしまいます。ミーターズ、ネヴィルズ、ワイルド・マグノリアスなどのいわゆるニューオーリンズ・サウンドと呼ばれる独特のリズムは、非常にオリジナリティーが高いものです。グリッティーな(脂っこい、べとっとした)サウンドです。

山岸さんと最後に会ったのは、2年ぐらい前かな。誰のライヴについてきたのだろうか。ワイルド・マグノリアスだったか。番組内の彼のインタヴューは、相変わらずとてもハッピーなキャラを映し出していました。

番組最後に、いろいろなアーティストに「ニューオーリンズの街とは」と質問し、それぞれが答えたのですが、アラン・トゥーサンのまとめの言葉がかっこよかった。彼はこう言いました。

「ニューオーリンズは、私にとってはすばらしい庭(ファビュラス・ガーデン)のようなものだ。そして、私はニューオーリンズの庭に咲く植物(プランツ)だ」

うまいですね。いかなるミュージシャンも、庭の植物。ひょっとしてDJなんかも、庭の植物ですね。ディスコという庭にぱっと咲いて、人々をなごませ、ときには盛り上げる。うむ、そうなると植物というより、ガーデナ(庭師)のほうが、あってるかな。ニューオーリンズというすばらしい庭には、すばらしい植物がたくさん咲いています。その植物をもっともっと輝かせる素敵な庭師もいます。

そして、番組進行のナレーション、誰かと思ったら、谷啓だったんですね。では、ワイルド・マグノリアスでもひっぱりだそうかな。



Edwin Starr Dies At 61

2003年4月4日
エドウィン・スター死去

AP、ロイター電などによると、「ウォー(邦題、黒い戦争)」などのヒットで知られるソウル・シンガー、エドウィン・スターが4月2日(水曜)、イギリス・ノッティンガムの自宅で心臓発作のため死去した。61歳だった。エドウィン・スターは前週末、ドイツでテレビ番組用収録のライヴを行ったばかりだった。

エドウィン・スターは、1942年1月21日テネシー州ナッシュヴィル生まれ。本名チャールズ・ハッチャー。弟のロジャー・ハッチャーもソウル・シンガー。57年、自己のグループ、フューチャー・トーンズを結成、その後、3年間の兵役後、65年本拠をデトロイトに移し、同地のインディ・レーベル、リック・ティックと契約。リック・ティックから65年に発売された「エージェント・ダブル・オー・ソウル」がソウル・チャートで8位を記録するヒットになり、一躍人気ソウル・シンガーの仲間入りを果たした。(「エージェント・ダブル・オー・ソウル」は、「エージェント・ダブル・オー・セヴン(007のこと)」のもじり)

その後、リック・ティックがベリー・ゴーディーのモータウン・レコードに買収され、自動的にモータウン入り。69年「トゥエンティー・ファイヴ・マイルス」がソウルで6位を記録。いずれも、パンチのある男性的な歌唱で人気を集めた。

ヴェトナム戦争真っ只中の70年、モータウンのプロデューサー、ノーマン・ウィットフィールドとバレット・ストロングが書いた作品「ウォー」が全米ポップチャートでナンバーワンを記録。これは彼の代表曲となるだけでなく、数ある反戦歌の中でももっとも象徴的な作品になった。この曲は元々は、テンプテーションズ用に書かれ、提供されたが、その反戦的な内容がソフト路線を目指すグループに適さないとのレコード会社の判断で、エドウィン・スターにまわされた。その後もノーマンが推し進めるファンク路線の作品を歌った。

75年インディのグラナイト・レーベルに移籍、さらに、77年20世紀レーベルへ移籍。ここではディスコ路線になり、「コンタクト」(79年)、「ハッピー・レイディオ」(79年)などのヒットを放った。最近では、オールディーズを歌うショウなどに登場、また、イギリス、ヨーロッパで人気が高かったため、イギリスに本拠をおいていた。70年代に一度来日している。

また、彼の「ウォー」は、85年9月、ブルース・スプリングスティーンがライヴでカヴァーし、翌86年にヒットを記録。スプリングスティーンは今回の開戦後に行われたライヴで、この曲をコンサートの一曲目に歌った。

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戦争。

エドウィン・スターが「ウォー」を歌ったのは、1970年、ヴェトナム戦争が激化している頃のことでした。いわゆる反戦ムードが盛り上がり、さまざまなアーティストが反戦歌を歌っていました。

それから33年たった今、再びアメリカは戦争をしています。開戦のときに、さまざまな反戦歌が話題になりましたが、それらは、みな60年代から70年代の作品ばかりでした。「ウォー」はまっさきに注目された一曲です。

考えてみると、では、なぜ今のアーティストは反戦歌を歌わないのでしょうか。シンガーたちに主張がなくなったのか。アカデミー賞授賞式でドキュメンタリー部門を受賞したマイケル・ムーアがブッシュに対して、「恥を知れ!」といい放ったシーンは、痛快でした。そういうガッツがある歌手はどこへ行ったのでしょうか。

そして、エドウィン・スターが他界したことによって、再び「ウォー」がたくさんかかるようになり、それが反戦ムードを盛り上げることにでもなれば、彼が歌った「戦争なんてまったく意味がない」というメッセージが30年の月日を経て、人々に到達することになります。エドウィン・スターが自らの死をかけて、「ウォー」のメッセージを広めることになれば、その死もさらに尊いものになります。戦争中にエドウィン・スターが他界するというところが運命的なのかもしれません。

スターには一度来日したときに会った記憶があります。70年代だったはずですが、今、正確な年月が思い出せずにいます。少し調べてみたんですが、資料がでてきませんでした。どこかにあるはずなんですが。すごくやさしい人だったような気がします。「ウォー」のヒット、あるいは、「ヘル・アップ・イン・ザ・ハーレム」の怖い印象とはまったく違っていたのです。

「ウォー」に続くエドウィン・スターのヒットは、「ストップ・ザ・ウォー(戦争をやめろ)」という曲でした。2曲続けてかけてご冥福をお祈りします。

As the boy, so the man

2003年4月3日
おでん。

用事があり下北沢に行ったので、帰りに先月(2003年3月)「しずおか屋」になった元ソウルバー「エクセロ」に足を運びました。「エクセロ」は古いソウルファンなら誰でも知っているかなり老舗のソウルバーでした。昔(70年代)は方南町にあり、その後、下北沢に移ってずっと渋いディープソウルをかけてきた店です。新しいソウルバー・ファンには、「リトル・ソウル・カフェ」の向かいのお店ということでも知られています。

オウナーは富田さん。ソウル一筋30年余。渋めのソウルアーティストのライヴでもよく顔を合わせます。その昔、鈴木雅之さんらが方南町時代にはよく通ったというお店ですが、この3月からおでんやさんになりました。奥様が代田の方で同名のおでんやさんをやっていて、それがこちらに引越してきた感じです。出身が静岡ということで、静岡風のおでんを供します。

初めて食べましたが、おつゆがすごく濃いのですが、味は意外とあっさり。なかなかです。そして、バックで流れている音楽は、やはりソウルでした。いろんな曲がかかるので、尋ねてみると、珍しいソウルのシングルなどをCD−Rに焼いてそれをかけているそうです。さすがです。

年季の入った店のあちこちにふるいR&Bシンガーの写真やポスター、日本でのコンサートのチケットなどが額縁に飾られています。なんだか、タイムスリップしたかのようです。ファッツ・ドミノなんて来てたんですね、そう言えば。チケットが飾ってありました。

後ろに座っていた中年サラリーマン風。「今日は、ソウルばっかりだなあ。エルヴィスもかけてよ〜〜」と富田さんにぶつぶつ言ってます。すると「ちゃんとあとで、エルヴィスもかかりますから。ロックもかけますから。今、たまたまソウルなんですよ〜〜」と答えます。へえ〜〜。最近はジャンル広げたんだ。満点の20へえです。

しかしながら、僕がお店にいる間、結局ずっとソウル、それもかなりのディープソウルばっかりで、ロックのロの字もでてこなければ、エルヴィスのエの字も出てこなかった。(笑) (よかった! やっぱりねえ!)

今日の教訓: 『三つ子の魂(ソウル)百まで』
意味: 『3歳の時に聞いたソウルミュージックの魅力には100歳までとりつかれる。営業とはいえ、おいそれと、ロックなんかに趣味を変えることはできない』

これを英語で言うとどうなるか。調べてみました。

What is learnt in the cradle lasts to the tomb.(ゆりかごで習ったことは、墓場まで忘れない) あるいは、As the boy, so the man.(子供の如く、大人もまたしかり=子供の頃に学んだことは、結局、大人になってもそれを受け継ぐ。子供も大人もやることは同じ) な〜〜るほどね。

帰り際、懐かしい曲がかかりました。インスト曲でBPMで130くらいのファンキーなギターとオルガンをフィーチャーした曲です。ブッカーT&MGズをもう少し洗練させたような曲。昔よく聴いた曲でした。でも、アーティスト名とタイトルがどうしても思い出せません。「なんだっけ、なんだっけ」と一人言をこぼし、がまんできずに富田さんに尋ねました。「これなんでしたっけ」 「ポール・ハンフリー! 懐かしいね」 「そうだ、『クール・エイド』だ!」

「クール・エイド(Cool-Aid)」は、本当は「Kool-Aid」なんですね。これは、いわゆる粉末ジュースのこと。固有名詞です。でも、「Kool-Aid」と曲名を表記すると、ジュースの発売元フィリップモリスから訴えられてしまうかもしれないので、KをCにしたわけです。ジュースのイメージなのかな。71年のヒット曲でした。

さて、かなり古めのソウルばっかりかかっていた「しずおか屋」。ソウルコーヒーもあれば、ソウル焼き鳥もあるのだから、やっぱり、ソウルおでん、ですね。(謎)

性。

こんな日記でも読まれている方が何人かいらっしゃいます。そうした方の日記を僕も読ませていただきますが、その中のひとりの方が先日バーバラ・メイソンの「ミー&ミスター・ジョーンズ」のことに触れられ、それで正しいの、と書かれていました。インターFM『バーバーショップ』(最終回)でケイ・グラントさん(鈴木雅之のダニー・レイ!)のリクエストで放送された曲です。普通は「ミー&ミセス・ジョーンズ」ですよね。

結論から言えば、正しいです。同じような疑問を持たれる方もいらっしゃると思うので、なぜ「ミー&ミセス・ジョーンズ」が「ミー&ミスター・ジョーンズ」になるかを簡単に説明しましょう。

ビリー・ポールの元歌「ミー&ミセス・ジョーンズ」は、不倫の歌なんです。歌っているのが男性シンガーなので、「私とジョーンズ夫人」の間の関係を歌うわけです。「私とジョーンズ夫人は、毎日6時半にいつものカフェで落ち合う。手を握り締め、さまざまな計画を練る。誰も、私たちがそこで逢っている事を知らない。僕たちは二人ともそれが悪いことだとはわかっているけれど、止められない。私とジョーンズ夫人」 一人の男(ミー=私)と、別の男(ジョーンズ氏)と結婚しているジョーンズ夫人の不倫です。

そして、女性シンガー、バーバラ・メイソンが歌うときには、今度は不倫の相手は男になるので、「私と(男の)ジョーンズ氏」となるわけです。

アメリカの歌の世界では、男性歌手と女性歌手の歌の立場がはっきりしています。男の歌手が女の歌、女の気持ち、女の目線での歌は決して歌いません。その逆もです。だから、その曲が「曲の性」を持っている場合、必ず「歌手の性」と一致させます。というわけで、冒頭の「性」という単語、ジェンダーの性です。セックスの性ではありません。

このほかの例ですと、キャロル・キング作、アレサ・フランクリンなどの歌で有名な「ユー・メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ナチュラル・ウーマン」(あなたは私をナチュラルな女に感じさせてくれる=あなたといると、自然な女になれるわ)があります。これを男性シンガー、ジェームス・イングラムが歌うとどうなるか。「ユー・メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ナチュラル・マン」になるわけです。「ウーマン」が「マン」に変化するわけです。

もう一例。ボズ・スキャッグスが歌う「ホワット・ドゥ・ユー・ウォント・ザ・ガール・トゥ・ドゥ」(君はガールに何をして欲しいんだい?)を女性のボニー・レイットが歌うとどうなるでしょう。「ホワット・ドゥ・ユー・ウォント・ザ・ボーイ・トゥ・ドゥ」(あなたはボーイに何をして欲しいの?)となるわけです。「ガール」が「ボーイ」に変化です。

日本の演歌は、そのアメリカ的スタンダード(基準)からすると、とても異様です。なぜなら、男の歌手が女の気持ちを歌った作品を歌うことが多いからです。男が男の歌を歌い、女が女の歌を歌うというのが、確かにあるべき姿なのですが。ただし、男が女の気持ちを歌うというものが、日本独自の文化のひとつと考えればそれもよしということになりますが。歌舞伎や宝塚も、男性が女性役をやったり、女性が男性役をやったりするわけですからね。

というわけで、「ミスター」と「ミセス」の変化についてのお話でした。

命日。

4月1日は、エイプリル・フールですが、ソウル・ファンにとっては、何をおいても、マーヴィン・ゲイの命日ということで記憶されます。マーヴィンの誕生日は1939年4月2日。命日は1984年4月1日。45歳の誕生日を翌日に控えての他界だったわけです。悪夢のエイプリル・フールです。

そのニュースを知ったのは、日本時間で4月2日の午後ということになります。ちょうど、その日から、テレビ朝日がCNNと提携して番組を放送するようになったんですね。それで、そのニュースで見ました。ですから、僕にはCNNの日本での放送開始と、マーヴィン死去のニュースがいつもワンセットで記憶にあります。それはびっくりでした。

マーヴィンのライヴは、79年9月に来日したときに武道館で2度見ました。これも衝撃だったですが、その後、83年8月にロスアンジェルスのグリークシアターで見ることができて、それも生涯忘れられないライヴのひとつです。8月だというのに、オープンエアの会場は、けっこう寒かったです。ライヴ後、バックステージに行ったら、めちゃくちゃたくさん人がいて、アメリカのコンサートのバックステージはいつもこんなに混んでるのかと思いました。日本のは、そんなでもないんで。

その日はけっこうバックステージにいたので、帰り際駐車場まで行く道が、もうほとんど人がいなくて、暗くて、かなり怖かったのを覚えています。

その前、83年5月に放送されたあの伝説のライヴ『モータウン25』でマーヴィンがピアノの弾き語りで「ホワッツ・ゴーイン・オン」を歌ったのは、今でも強烈な印象があります。

来年は没後20周年になるんですねえ。そうかあ。(しみじみ) ニュースを知ったときには、ロスで見たライヴが最後になってしまったのか、もう永遠にマーヴィンのライヴを見ることができないのか、と思うと、いてもたってもいられなくなりました。

死後19年たった今も、マーヴィンのソウルは、生きています。

その時の朝日新聞の記事の切り抜きがあります。今読み返すと、う〜む、と思ったので、ちょっとこのことにも触れちゃいましょう。20行余の共同通信からの配信記事です。間違い探しの例題ということで、記事を転載します。(1984年4月2日付け)

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米のソウル歌手、マービン・ゲイ氏 撃たれて死ぬ

【ニューヨーク1日=共同】 米ロサンゼルス市警察は1日午後、米国の人気ソウル歌手マービン・ゲイ氏(44)=写真=が、同市内の実家で撃たれ、収容先の病院でまもなく死亡した、と発表した。警察は父親から事情を聴いている。

ゲイ氏は1940年ワシントンに生まれ、3歳で教会に立ち、61年にデビュー。「ホワッツ・ゴーイング・オン」(69年)の大ヒットで一躍、スターの地位を確立した。

83年には「セクシャル・ヒーリング」でグラミー賞を受賞。二度目の夫人ジェニス・ハンターさんと別れた後、ハワイで麻薬自殺しようとしたことがあると、語ったことがある。誕生日を翌日に控えての死だった。

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さて、上記記事にいくつ間違いがあるでしょうか。答えはほぼ2つ(ほんとは3つだと思う)、表記として1つあります。

まず、決定的なのが生年。1939年生まれを40年生まれとしてしまっています。一番最後に「誕生日を翌日に控えて」としているのに、間違えてしまった。( )内の年齢は44歳であっているのに、きっと、記者は計算違いしたのでしょう。

61年にデビュー、という表記。確かにマーヴィンは61年にシングルを出していますが、ヒットには至っていません。彼の最初のヒット曲「スタバン・カインド・オブ・フェロウ」は62年なんですね。この記者がその61年発売のヒットしなかったシングル盤を知っているとは思えないので、どうも怪しい。こういうときは、「62年に『スタバン・・・』が初ヒット」という表記をするのが、一番無難なんですね。

そして、「ホワッツ・・・」(69年)。これは、ないでしょう、いくらなんでも。69年ってどこからでてくるの。正解は71年です。このあたりに本記事のクレディビリティー(信頼性)のなさが現れているので、61年デビューというのも、本当は62年デビューと書きたいところを間違えたのではないかと推測されるわけです。

二度目の夫人、ジェニス。う〜ん、これは発音表記の問題なんですが、原語はJanisなんですね。だから、新聞用語的にはジャニスになるんですよ。こんなに短い記事に、これだけ間違いがあっていいんでしょうか。(笑) ま、もう20年近くも前のことなんで、時効にしてあげてもいいですが。でも、新聞とか活字って怖いですね。こうやって、19年後にも文句つけられちゃったりするんですから。あ〜〜こわ。文字を書くって、本当に後に残ることだから、正確に書かないとね。(これを他山の石としましょう)




迷路。

ハ〜イ、ワン・ポイント・イングリッシュ・レッスン・バイ・ソウル・ミュージックの時間で〜す。いま思いついてコーナー作りました。

今日のタイトルは「バック・イン・ストライド」。歌っているのはフラキー・ベヴァリー&メイズ。85年のヒットです。

踊りながら、マーヴィンが説明します。「つまり、今まで順調に走ってきたとするでしょう。それが、だんだん疲れてきて走るスピードがよれよれになって遅くなる。それでも、またがんばって、前と同じ歩幅で走るようになる。それが、バック・イン・ストライドなんだよ」

ストライドは、走るとき、歩く時の歩幅のこと。「バック・イン・ストライド」は、元の歩幅に戻る、という意味なのです。元の調子に戻る、といった前向きなニュアンスですね。僕は、「バック・イン・ストライド」って、後ろ向きに歩くのか、と思っていた。確か、プロモーション用ビデオも、後ろ向きに歩いてる映像だったような。

メイズとは、日本語では「迷路」のこと。彼らのジャケットは、いつも迷路がデザインされていました。そうだ、確かあのジャケットは、長岡秀世だったんじゃないかな。いいグループです。日本には二度来ているかな。一度、青山のスパイラル・ビルの上でライヴを見た記憶があります。典型的なセルフ・コンテインド・グループでした。よかったですよ。

たとえば、毎日日記を書いていた。でも、何日か怠けて書かなかった。それでまた心を入れ直して毎日書くようになった。これ、バック・イン・ストライドですね。

曲のタイトルから覚える英語の言いまわしってけっこうありますね。これも、そんな一曲でした。

年季。

DJブースの上と下のほうにあるアナログ・ディスクのジャケットは、もうぼろぼろです。ジャケットのはじっこがよれよれになっているくらいなら、まだまし。もう3から5センチくらい切れていて、原型をとどめないものさえあります。中にはアナログ年齢40歳を超えるものもありそうです。30歳代はいくらでも。

かなり年季の入ったテクニクスのターンテーブルにクール&ギャングの「ファンキー・スタッフ」を乗せました。バリー・ホワイトの「キャント・ゲット・イナフ・オブ・ユア・ラヴ」がフェードアウトしてきたので、がつんと、「ファンキー・スタッフ」を送り出しました。イントロのホイッスルの音がダンスフロアに鳴り響きます。

し、し、しかし。そのホイッスル音、本当ならがつ〜んと「ピ〜〜〜」となるはずなんですが、なにせ、何千回とかけたレコードゆえに、溝がすれていて、音まで薄くなっています。もちろん、途中の曲の間も、チリチリした音がかぶさり、しかも、低音も気持ち「はり」がないように思えます。それほど、かけたレコードという意味です。すごいなあ。

「ファンキー・スタッフ」は73年のヒットなので、このレコードも30歳か。レコード自体を買いなおしていれば、ちょっと違いますが。さて、次に「モア・ファンキー・スタッフ」をつなげようかとも思いましたが、ここは、少しテンポを変えて同じクールたちを「ジャングル・ブギー」で、ダブルプレイすることにしました。タランティーノが映画『パルプ・フィクション』でも使った曲ですね。これだけステップがそろって踊られるという場所は、世界中どこを探しても、この店と数軒しかないでしょう。

この日は、前のDJがMFSBの「TSOP」で交代したので、僕はそれに続ける曲としてハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの「バッド・ラック」を一曲目にもってきました。クールたちは、1時間のDJタイムですでに中盤です。なぜかアースの「シャイニング・スター」があまり人気がなかったので、マーヴィンの「ホワッツ・ゴーイン・オン」で、客足(!)を再度つかみ、同系統のブラックバーズの「ウォーキング・イン・リズム」をはさんで、ブルーノーツの「ラヴ・アイ・ロスト」でしめてみました。結果、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの「バッド・ラック」で始まり、同グループの「ラヴ・アイ・ロスト」で終わるというよくできた締めになりました。

70年代に一世を風靡した六本木のディスコ「エンバシー」にちなんだ「エンバシー・ナイト」というイヴェントでした。

そこでDJをやるのは、僕は初めてだったので、前のDJの方が横についてレコードを探すのを手伝ってくださいました。それがエモリ・アイ氏です。観客のみなさんは、びしっとステップを踊り続けてくれました。ミラーボールに、赤、青、緑などの照明の点滅。鏡に映る自分の姿を見ながらみなと同じステップを踊る10代から50代まで人々。髪がグレイになった人が汗を拭きながら、戻ってきます。10代の子は、ミネラル・ウォーターのペットボトルを手に取ります。こうして、白金「ダンステリア」の夜はいつもと同じように更けていきました。

ソウルの元に年代を超えてワンネーション。

同時通訳。

このところ、家にいるときは、CNNのWar in Iraqを見ています。そんな中で、何に気が行くって、同時通訳に耳が行っちゃうのです。CNNにひとり、異様にうまい人がいます。開戦以来、その彼女の同時通訳ぶりに感心して、すごく気になっていて、ずっと名前がわからなかったんです。というのは、同時通訳者の名前って、ほんの始めにちょろっとしかでないでしょう。だから、なかなかわからないんです。そうしたら、今日、ついにわかりました。その人の名前は松浦世紀子さんといいます。読み方わかりません。せきこさんか、よりこさんか。

数ある同時通訳者の中で、彼女は群をぬいてうまい。何がいいって、日本語がしっかりしているところがすばらしい。同時通訳者は、NHKがやはり比較的安定してますが、他は、だいたい「う〜〜ん」って感じなんですが、この松浦さんは、見事です。彼女はだいたい、午前11時すぎくらいから、5時くらいまでやってるのかな。よくわからないですが。

他の同時通訳者の何がだめか。日本語がだめ。日本語の発音がだめ。かつぜつがだめ。これは、偏見と受け取ってもらってもいいけど、ニュースを訳すわけでしょう。きちんとした標準語で日本語、しゃべってもらいたい。訛りがある人は、まず、はずせ。それから、なんか妙な英語訛りの日本語しゃべる帰国子女系しゃべりの人もはずせ。基本的に、きちんとした日本語のしゃべりを勉強してもらいたい。やっぱり、ニュースは訛りがあったら、だめよ。花粉症も、できればはずせ。(笑) 

で、先のCNNの松浦さん。日本語、しっかりしています。かつぜつもいいです。標準語です。声も安定していて、聞きやすいです。これは言いすぎ、誉めすぎですが、日本語のニュースを聞いてるようです。(ちょっとオーヴァー) 声の良さは、非常に重要です。どんなに上手でも、声が悪いと残念ながらだめです。

究極の同時通訳というのは、今言ったように、日本語のニュースを聞いているように聞ける、というものだと思うのです。うまい人のを聞いていると、すっと頭に入ってくる。でも、下手な人のだと、ぜんぜんはいってこない。もちろん、これはかなり高度な要求だと思う。

だいたい英語の通訳ができる人が1万人いたら、同時通訳できる人は100人もいないでしょう。通訳と同時通訳はまったく別の技術ですからねえ。同時通訳の中でも抜群にうまい人ってきっと、その100の中のひとりかふたりのような気がします。

つまり、すばらしい同時通訳の条件はこうだ。

1)英語が完璧に理解できる
2)日本語が完璧に理解できる
3)英語→日本語の通訳ができる
  4)日本語→英語の通訳ができる
5)英語→日本語の同時通訳ができる
  6)日本語→英語の同時通訳ができる
7)日本語を、きちんと日本人がしゃべるように標準語で話すことができる
8)日本語を、アナウンサーが話すようにきちんとした発音イントネーションで、安定した速度でしゃべることができる
9)声が良い

今回(英語から日本語へ)は、4)と6)以外で、上記9条件をクリアしなければなりません。
だいたいの同時通訳が5)止まりなんですね。ちゃんとした日本語を話す人も多いのですが、いわゆる同時通訳者独特の日本語をしゃべる人が多いのです。それは帰国系のしゃべり方、というか。9)は生まれながらのものだから、これは努力とかそういうものではありませんね。

まあねえ、結局は才能なのかなあ。でも、これは才能プラス努力だと思うなあ。とてつもない、努力が必要な職業だと思う。5)までの人でも、大変な訓練をして、努力していると思う。でも、21世紀の同時通訳は、さらにレベルアップをお願いしたい。

前にも書いたかもしれないですが、WOWOWのグラミー賞、アカデミー賞の同時通訳がほんとにひどいんです。ないほうがいいくらい耳障り。ちょっとだけ日本語ができる外人を使ったりして。結局、上記で言えば5どまりなわけね。いや、下手すると5まで行ってないかもしれません。

それから、あまり指摘されませんが、話すスピードの安定感は大事です。同時通訳は、どうしても後半はしょるから早口になる。これを、堂々と同じスピードでやると、すごいと思う。当然、次の会話にかぶりますが、それも同時に並行して遅れていけばいいと思うのです。速度を一定にするだけで、ずいぶんと聴きやすくなります。まあ、原語より遅くなっていったら、どんどん遅れてしまって、訳せなくなったら、これはこれで、だめなんですが。

最近実験的に、同時字幕通訳みたいのがでてきたけど、これは意外といいかもしれません。これなら、声質、訛りなんか関係ないですからね。

The Soul Searcher@同時通訳評論家。



号泣。

先日の「サンダーストーム」番組内のコーナーテーマで「これを聴いて泣いた曲」というのを、それぞれが持ち寄ったわけです。グループ、ソウル・ボサ・トリオの主宰者であり、スタジオのオウナー社長ゴンザレス鈴木さん。彼の場合は、自分の作品のレコーディングで、トゥーツ・シールマンスにハーモニカを吹いてもらったときの話でした。

彼は、その曲にトゥーツのハーモニカをいれるために、ベルギーに約1週間ほど滞在しました。スタジオは本当に小さなスタジオでした。ドラムスは、マイケル・ホワイト、ベースがエイブ・ラボリエル、彼らはすでにロスで録音をすませていました。そして、ハーモニカにトゥーツ・シールマンス、プロデュースがゴンザレスさん、ということで、ロス、ベルギー、東京とまさにマルチナショナルなプロジェクトなわけです。

楽譜を事前に用意して、ゴンザレスさんが、その曲の雰囲気とか、感じを説明しようとしたところ、トゥーツは楽譜を見るなり、一言「アイ・ノウ(わかってるよ)」と言ったそうです。そして、テープが回され、そのマスターテープに、トゥーツのハーモニカの音が録音されました。ワンテイクで、当然OKです。ゴンザレスさんは、「もう、そりゃ、ベルギーの人間国宝みたいな人に、もう一度お願いします、なんて言えないですよ(笑)」と振りかえります。

そして、そのマスターを持って東京に戻り、ミックスダウンのために、それをスタジオでかけたとき、ゴンザレスさんは号泣したそうです。

わかるなあ。自分のプロジェクト、作品に、あのトゥーツのハーモニカをいれることができるなんて、夢のようなことですもんねえ。トゥーツは言いました。「このスタジオにクインシーも来たんだよ」 ゴンザレスさんは、そのスタジオで、クインシーやトゥーツあるいは、もっと多くの伝説の空気に触れたわけです。うらやましい限りです。トゥーツ、まさに生きる伝説ですね。


ラウンジ。

昼下がり。ときどき行く駒沢の駒沢公園のすぐ隣のカフェに出向いてみました。絵を描くオウナーのセンスの良い趣味が反映したカフェで、まさに、カフェという感じのお店。木漏れ日の中で、外でもお茶ができるようになっています。まだちょっと寒いのでそれぞれの椅子にブランケットが置かれています。カフェの外側だけでなく内側もペット同伴可のお店なので、多くのワンチャンがやってきています。

ただし、ここは朝7時から夕方7時くらいまでしかやっていないので、なかなか僕のような夜型人間は行けないんですねえ。遊歩道ではジョギングしている人、散歩している人などが公園の午後を思い思いにすごしています。

このカフェではたいがいアナログのLPがかかっています。ジャズ系、ボサ系のようなものが多いのですが、そんな中に、聞いたことがある曲が流れてきました。「マッカーサー・パーク」でした。元々68年にリチャード・ハリスで全米2位、その後78年にドナ・サマーで全米1位になった曲です。最近、小柳ゆきがカヴァーしてるね。もう一曲知らない曲をはさんで、また知ってる曲が流れてきました。「シャフトのテーマだ・・・。う? でもアイザック・ヘイズじゃないなあ。誰だろう」 ずいぶん、軽い感じのアレンジ。早速お店の人に、ジャケットを見せてもらいました。シャフトは大好きだし。

おおおおおっ。なるほど〜〜〜。そうかあ、あった、あった、こんなアルバム。持ってたかなあ。いやあ、持ってないだろうな。CDあるかなあ、アナログだけかなあ。誰だと思いますか? 

な、な、なんと歌っていたのは、サミー・デイヴィス・ジュニア。アルバム・タイトルは「サミー・デイヴィス・ジュニア・ナウ」。1972年の作品です。サミーは、72年3月から「キャンディ・マン」という曲を全米1位に大ヒットさせていましたが、このアルバムは、そのヒットを受けて即席で作ったアルバムです。アルバムとしてはたいしたことありません。(きっぱり) ぜんぜんソウルっぽくないし、ま、イージー・リスニングみたいなもんですね。

http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&;uid=11:37:33|AM&sql=A96bsa9lgy23s

30年前にはとても聞かなかったようなアルバムですが、今時にはちょうどいいかも。カフェ系BGM、ラウンジ系BGMとして。昔はそんな環境はなかったですからねえ。うちに帰って調べたら、やっぱり持ってませんでした。どこかで安かったら買おうっと。


癒し。

エディ・マーフィー、オウエン・ウィルソン主演の映画『アイ・スパイ』の試写を見ました。

ケリー・ロビンソン(エディ)は連戦連勝中の超人気ボクサー。アレックス・スコット(オウエン)は国家保安局のスペシャル・エージェント。アメリカ空軍から、最新鋭のレーダーにも映らず、実際に視認もできない戦闘機が盗まれ、それを奪還するという任務が生まれました。盗まれた戦闘機はブダペストの武器商人の手に渡り、最高価格を入札した相手に売ることになっています。その入札が行われる派手なパーティーに入り込むためには、有名人ケリーの知名度が必要になり、彼をアレックスの相棒に抜擢するのですが、やたら目立ちたがり屋、プライドの高いケリーとアレックスがうまくやっていけ、果たして、彼らはその戦闘機を奪還できるのか。

実にテンポのいい、OO7のミニ版みたいな1時間36分の痛快なアクション映画。ブダペストの街がふんだんに登場します。で、この映画の中で、おもしろかったのが、アレックスが同僚の美人エージェント、レイチェル(ファムケ・ヤンセン)を口説こうとするときに、ケリーの手助けを借りるところ。

ケリーはアレックスに、口説き文句を耳元にうめこんだ無線機を通じて、伝授する。それがこんなせりふです。

Baby I got sick this morning. A sea was storming inside of me. Baby I think I’m capsizing. The waves are rising, rising. And when I get that feeling,

(今朝、病気になってしまったよ。僕の中の海原は嵐だ。もうおぼれてしまいそう。波は高く、高く。そんな気分になったときには…)

ここまではなんとか、アレックスも言えるのですが、次の一行がどうしても言えないのです。

I want sexual healing.
(僕には性的な癒しが必要なんだ)

ケリーがこのせりふを言うと、アレックスは躊躇します。というシーンなんですが、そう、ご存知、あのマーヴィン・ゲイの大ヒット「セクシュアル・ヒーリング」の歌詞の一部を彼は語っていたわけです。

そうかあ。口説くときにも使われている「セクシュアル・ヒーリング」なんですね。昨日、この曲の話を書いて、その翌日にこのシーンに遭遇したのでびっくりしたわけでした。

(2003年4月26日からロードショウ予定)

"Music: Between The Lines Of Time And Place"
〜"First Class Ticket To Burbank"

電撃。

1982年10月、ロス郊外バーバンク、トルーカ・レイク。

その朝、ロスの大学に留学していた彼女は、トルーカ・レイクという静かな住宅街にある一軒家のキッチンにおいてあったラジカセをいつものようにつけた。ダイニング・テーブルの上に置いたラジカセの反対側には、大きな窓があり、そこからは外の木々や隣家の垣根が見えた。彼女が姉とロスに住んだ6年間で一番気に入った家がここだった。

あわただしく学校に行く準備をしていると、その曲がラジオから流れてきた。「まさに、体の中に電流が走った感じ。体に雷が落ちたような、そんな感じだった。もっとも雷が落ちた経験はないんだけどね」と彼女は振り返る。鳥肌が立ち、涙目になり、ちょっとしたパニック状態になった。彼女はしばし、「一体これはなんなの?」という面持ちで、その小さなラジカセに見入ってしまった。

初めて聴く曲だったにもかかわらず、あたかもデジャヴーの如く、昔、どこかで聴いたことがあるように無性に懐かしく感じられた。その曲を長い間ずっと待ち焦がれていたような錯覚にさえ襲われた。本当はもう学校に行かなければならない時刻だったが、曲名とアーティスト名を聞き逃すわけにはいかなかった。DJの曲紹介が待ちきれなかった。

曲がフェードアウトされDJが言った。「『セクシュアル・ヒーリング』、マーヴィン・ゲイの新曲です!」

彼女にとっては衝撃だった。「ホワッツ・ゴーイン・オン」は知っていたが、そのマーヴィンとこの歌手が同一とは思えなかったのだ。彼女は心の中でつぶやいた。「お帰りなさい! 待ってたよ!」

遅れそうな学校に飛んでいった彼女はクラスメートに、開口一番興奮しながら尋ねた。「ねえ、聴いた? 今朝のマーヴィンの新曲?」  以後、彼女はこの曲を聴くたびに、胸がキュンと締め付けられるような思いになった。何か特別なものがあるのか、まるで黙示録の如く。

1982年10月、東京・市ヶ谷。

その曲をどこで初めて聴いたのか。それを思い出せる曲は限られる。しかし、いくつかの曲は、その曲を聴いた場所、情景を思い出すことができる。

マーヴィン・ゲイの「セクシュアル・ヒーリング」を僕が初めて聴いたのは、82年10月、市ヶ谷のCBSソニーのオフィースだった。たぶん、そのときのマーヴィンの担当者のところに行ったときに、カセットか7インチ・シングルで聞かされたのだと思う。1メートル40センチくらいの高さのロッカーの上に、普通のステレオコンポがあって、そこでプレイされた。初めて聴いたときは、「これ、デモ・テープ?」って思った。あまりに音がチープだったからだ。「いや、本物のマスターですよ」というような返事がきたと記憶する。だが、その声は紛れもなく、マーヴィンの声だった。すでに、同曲はビルボードのソウル・チャートを急上昇中だった。たぶん、登場1週目か2週目だった。瞬く間にナンバー・ワンになった。

1984年4月1日。ロスアンジェルス。

運命の日。マーヴィン、父親の銃弾に倒れ死去。享年44。翌日が45歳の誕生日だった。

彼女は、今、この「セクシュアル・ヒーリング」を聴くとき、嬉しさと同時に悲しさも感じる。彼女は言う。「マーヴィンには極めて世俗的な世界と、神聖な世界の狭間で苦しんだ人というイメージを持ってしまうの。そして、まちがいなく宇宙規模的な天才ね」。彼女は、マーヴィンのあの空虚な目を見つめていると、「自分の死をずっと昔から見据えていたのかな」とも思ってしまう。

マーヴィンがこの曲を歌うとき、彼女は映画『グレン・ミラー物語』のラスト・シーンと同じように、いつも感動するという。そして、マーヴィンの「ゲッタップ・ゲッタップ…」という歌声が、ラジオからでも、歩道からでも、どこかの店からでも流れてくると、今だにバーバンクの家のあの朝の情景が走馬灯のように脳裏に浮かぶ。マーヴィンのこの歌声は、彼女をいつどんなときでも、瞬時にバーバンクへ旅させることができるファースト・クラスのチケットなのだ。そのチケットはまた、彼女を1982年という年にも連れていく。

音楽は時と場所の架け橋。

Music: Between The Lines Of Time And Place.

Singer’s choice

2003年3月23日
総合商社。

「こういう小さな会場でライヴができるといい。お客さんに近くて、あなたたちの匂いをかげ、そして、あなたたちに触れることができる」 アル・ジャロウはそんな話をしながら、次々と歌います。

ヴェテラン・シンガー、アル・ジャロウは声のデパート、いや、声の総合商社(!)です。およそ人間の声とは思えないほどさまざまな声を出します。今でこそ、ヒップホップ系のユニットには「ヒューマン・ビート・ボックス」という担当者がいますが、アル・ジャロウは76年にデビューしたときから「ヒューマン・ビート・ボックス」でした。

楽器が買えない黒人たちは、ア・カペラで歌い、足を踏み鳴らし、手を叩いて音楽を作り出しました。アル・ジャロウは、自分の声の可能性を自ら知り、それを無限大に広げました。

事前に歌う曲を決めず、その場の雰囲気で次々と歌う曲を自由自在に変えていくアルのそのスタイルは、ライヴたたき上げ、ステージたたき上げのヴェテランならではの味わいです。アルのトークから、じゃあ、この曲をやろうと言ったとき、それについていくことができるミュージシャンたち。あうんの呼吸とはまさにこれ。

「一年ほど前に南アフリカ(長くアパルトヘイトという人種隔離政策がとられていた国)に行ったんだ。そこで、ジャカランダの木とブーゲンビリアの木が一緒に育っているのを見た。まったく違う二つの木が一緒のところに育っていて、黒人も白人も一緒に住めればいいのにと思って作った曲を歌います」と言って歌い始めたのが、彼の現時点の最新作『オール・アイ・ガット』(2002年9月)からの「ジャカランダ・ブーゲンヴィリア」というポップで明るい曲。気に入りました。

アル・ジャロウを見るのは何年振りでしょうか。確か前回のブルーノートの前は、どこかのコンサートホールだったはず。NHKホールか、中野サンプラザか。2000人のコンサートホールで見るのと、300人のブルーノートで見るのでは親近感が圧倒的に違います。

アンコールでステージに戻ってきたアルは、次に何をやるか一生懸命考えています。「さて、何をやろう。歌手の選択(singer’s choice)は…」 後ろのミュージシャンに一言何かを伝えて始まったのは、ジャズのスタンダード曲「テイク5」でした。デイヴ・ブルーベックのヴァージョンで有名なインストゥルメンタルです。これを彼はスキャットで歌います。しかも、曲間に「ミッション・インポシブル(スパイ大作戦)」のフレーズまでいれて。

アル・ジャロウは声が楽器の人です。というより、体が楽器の人でした。いや、人間そのものが楽器の人ですね。


(2003年3月9日から15日、東京ブルーノート)

ビート。

音楽はドラムのリズム、ビートから始まった。そして、太古からドラムが刻むビートは人々を高揚させてきた。ビートに酔いしれ、踊り、歌い、興奮し、ハッピーになった。そして400年余におよぶビートの歴史を2時間に凝縮したこのミュージカル『ノイズ&ファンク』は、恐るべきパワーと知性と肉体の可能性を見せつけた。これを作った男の名はセヴィアン・グローヴァー。

17世紀、アフリカからたくさんの奴隷がアメリカ大陸に連れてこられた。そのときの奴隷船の名前が、次々と連呼される。虐げられた黒人たちは、ドラムが生み出すビート、ビートが生み出す音楽に救いを求める。しかし1739年、サウス・カロライナ州で起こった黒人暴動をきっかけに、ドラムが禁じられた。唯一の娯楽を禁じられた黒人たちは、足を踏み鳴らし、手を叩き、ビートを、リズムを生み出すようになる。これがタップダンスの始まりだ。抑圧、そして、そこからの創造がタップを生む原動力となった。

叩けるものは、なんでも叩いた。フライパンをたくさん集めて、二人で叩けば立派なビートを刻めた。第一部の「パン・ハンドラー」のシーンは、まさにそんな彼らの真骨頂を見せる。

しかし、まだ南部には恐るべき人種差別が残っていた。黒人がリンチされ殺された。南部にはあまり仕事もなく、貧しかったので、人々はみな、景気のいい北部(シカゴ)に向かった。シカゴの工場で働く黒人たち。リズムにのって、仕事が続く。1920年代、景気のよくなった黒人たちは、人種差別はありながらも、「ハーレム・ルネッサンス」と呼ばれる独特の文化を生み出す。ダンス、歌、ジャズ・・・。ありとあらゆるエンタテインメントが生まれ、それを黒人たちも楽しむようになった。

黒人のタップに注目したハリウッドは、タップを映画の中にとりいれようとする。しかし、ハリウッドは、ビートのきいた強烈なタップを受け入れようとせず、笑顔と見栄のいいタップをやらせた。真のタップ・ダンサーにとって、それは『白人向けの骨抜きにされた』タップだった。白人向けに演じて大金持ちになった黒人をセヴィアンは、強烈に批判する。

このシーンは、主人公セヴィアンが本作でもっとも強調したい『黒人対白人』の構図だろう。僕は今まで、黒人のタップと白人のそれが、これほど違うとは知らなかった。それは、ストリートのタップと、ハリウッドのタップが著しく違うということだ。ここでは、付け加えて、白人寄りの黒人への批判も展開する。マイケル・ジャクソンまで槍玉にあがっているのには驚いた。セヴィアンは間違いなく、映画界のスパイク・リーと同様の地点に立っている。

このミュージカルの中で最大のハイライトが、セヴィアン・グローヴァーが尊敬する4人の過去の偉大なタップ・ダンサーに捧げるシーンだ。たった一人でステージ中央に立つセヴィアン。その前に3枚の鏡が置かれ、本物のセヴィアンと鏡に映る3人の彼の計4人が同時にタップをやっているかのように見える。

グリーン、チェイニー、バスター、スライドの4人のそれぞれの特徴を語りながら、彼は鏡の前でひたすらタップを踊る。その瞬間、その瞬間、過去の先達がセヴィアンにのり移ったかのようだ。このシーンを見るだけでも、本作を見る価値があると言ってもいい。言葉は要らない。

時代は流れ、それでも、ビートは続く。ヒップ・ホップが登場し、ストリートでのバケツ叩きがノイズをかもし出す。ノイズはファンク。ファンクはノイズ。ジャレッドとレイモンドのバケツ叩きは、それが単純であるだけに感動的だ。ドラムを禁じられても、そこにバケツがあれば、ビートは生まれる。ビートを作り出すのは、ドラムではない。人間そのものなのだ。そして、その人間の可能性は無限大だ。

最後、バケツ叩き2人と4人のタップダンサーが、よくストリートなどで見られるタップ・バトルを繰り広げる。セヴィンが踊り、ドーメシアが踊り、みな競いあって、我こそ相手を打ち負かそうとタップを踊る。

そして、いかなることがあろうともの後に、[There will always be](いつでも)と大きな文字がでて、画面が変わり[Da Beat](ビートは永遠にありつづける)と映しだされる。この[Da Beat]の文字が浮かびあがったとき、僕は胸が一杯になった。

17世紀にアフリカから奴隷として連れられてきた黒人たちが、一時はドラムを、ビートを禁じられたものの、体を使うことによってビートを生み出す方法を考え出し、そのビートは、今日まで脈々と受け継がれ、そして、これからもずっとあり続けるという事実を目の当たりにしたとき、400年以上もの間刻み続けられているビートのパワーに圧倒させられた。

ビートは人々を高揚させ、戦いを起こさせることにもなりえるだろう。しかし、その同じビートは人々をひとつにまとめ、戦いをやめさせる力にもなりうるだろう。まさに両刃の剣だ。ドラムが禁止された所以だ。

強烈な歴史観と主張。たかがタップ、されどタップ。肉体だけが生み出すことができる主張。言葉ではなく、体から放たれる喜び、怒り、悲しみ、魂の叫び。黒人の尊厳とプライドが、たった二本の足元から発信される。ブルーズ、ゴスペル、ジャズ、ソウル、そして、ダンス。すべてのブラック・カルチャーの要素と歴史をここまで貪欲にこれでもかこれでもかと凝縮したミュージカルを他に知らない。

もっとも、ニューヨークで字幕なしで見たら、恐らくここまで理解できなかっただろう。プログラムの解説と字幕によって、このショウへの理解が深まり、感動できたのだと思う。日本で見ることができて感謝だ。

タップがこれほど力強いものとは思わなかった。セヴィアン・グローヴァーがこれほど黒人意識の強い男ということも知らなかった。そして、僕はミュージカル形式のものを見てこれほど感動したことはなかった。

あらゆる出演者にビッグ・リスペクトを!

ソウルの爆発を体言した夜になった。こんなソウルの爆発はめったに味わえない。再演を望む。


(2003年2月27日から3月23日まで。赤坂ACTシアター。邦題、『ノイズ&ファンク』)

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