必修科目。

もう一回だけDJネタ行きましょうか。ケイさんもBBSで書かれていたジム・ピュ−ター・ショウ。これは、オールディーズの番組でしたよね。30分番組だったか。ひたすら、ソウル、ロックを問わずオールディーズがかかっていました。まさにウルフマンの時代です。1955年から60年代までのヒット曲。これもよかったなあ。僕はこの番組で、オールディーズをけっこう覚えましたよ。この番組の雰囲気はまさに『アメリカン・グラフィティー』でした。

それと、もうひとり、これはロックのDJなんですが、今名前が思い出せない。夜中の4時〜5時だったか。彼はロックグループ、「シカゴ」のことを「チカゴ」としゃれて発音していました。でも、何度かそう発音していたので、ひょっとしたら、彼独特のなまりだったのかもしれない。

シカゴとかBSTとかよくかかっていました。彼のショウのテーマがA.Bスカイというグループの「キャメルバック」という曲で、それがめちゃくちゃかっこよかったので、輸入盤を探しまくりましたね。トランペットがアップテンポでイントロを奏でる曲です。らくだの背中っていう意味ですね。
http://www.allmusic.com/cg/amg.dllp=amg&;uid=CASS80305190557&sql=Amroibkd96ak0

それとFENだとローカル(東京)制作の番組も若干ありました。夕方4時から6時くらいまでの番組は、アメリカ本国から送られてくる録音番組ではなく、こちらで生放送されていました。DJの名前が思い出せませんが、やはりヒット曲がどんどんかかるので、よく聴いていました。その中のコーナーで日本人女性の窪田ひろこさんの「リトル・ランゲージ・ゴーズ・ア・ロング・ウェイ」という3分くらいのコーナーはおもしろかった。

要はアメリカ人に簡単な日本語を教えるというコーナー。グッドモーニングだったら、「おはようございます」というのを教える。これがちょっとした言い回しをいろいろ紹介していて、逆に英語の勉強になりました。

そして、FENで決定的に覚えているのが、『ケイシー・ケイスンのアメリカン・トップ40』です。たしか、僕の記憶が正しければ、FENでは72年4月から放送が始まりました。このときは、土曜の昼間の1時05分から2時まで。「トップ40」と言っても、一番最後の55分間、つまり、下からカウントダウンしてきて、最後の12位か13位くらいから1位までを紹介していました。

それから、半年後の72年10月から、これがラジオ関東(当時=現在のラジオ日本)で、湯川れい子先生の解説つきで、土曜夜10時から3時間にわたって放送され始めました。そのときはまだFENで上位13曲程度だったのが、40位からカウントダウンするので、超びっくり。毎週ノート片手に聴いたものでした。

徐々にFENも、放送時間を1時間から2時間、3時間に伸ばしました。そうすると、『アメリカン・トップ40』を原語ですべて聴けるようになったわけです。これはめちゃくちゃ楽しかったですね。もちろん、その頃は英語が全部わかったわけではなかったですが。そうは言っても、ケイシー・ケイスンの英語はかなりわかりやすかった。はっきりした発音、それほど速くないしゃべりかた。そして、このオリジナル・ヴァージョンには実に豊富な情報がはいっていました。どうしても日本語版だと、たくさんのことが省略されてしまいますから。昼間FENで聞いて、夜ラジオ関東を聴く、なんてことが当たり前になりました。

いわゆるポップス、洋楽の基礎はかなりこの番組で教わりました。FENと『アメリカン・トップ40』。これは、当時の洋楽好きの必修科目だったかもしれませんね。

(明日こそ、8月28日とキング牧師の話を書きましょう)


閉め言葉。

しかし、糸居五郎さんからウルフマン・ジャック、ドン・トレイシー、ローランド・バイナムまでDJネタがこんなに盛り上がるとは。(笑) いいですね。FENは、70年代には無くては欠かせないものでした。

70年代のFENには、毎日2本のソウル番組がありました。ひとつが昨日ご紹介した『ドン・トレイシー・ショウ』、もうひとつが、『ローランド・バイナム・ショウ』です。これは、確か昼の2時くらいから1時間(正確には頭5分にニュースがあるので、55分)だったように思います。夜か夜中にも再放送があったかもしれません。(夜11時くらいだったか)

で、ドン・トレイシーのほうが、比較的若者向け、シングルヒット中心、バイナムのほうが、LPからの曲もかけたり、トーク自体も落ち着いた今で言うFM風という感じで、そのスタイルは極めて対照的でした。僕は両方好きでしたね。そして、なんと言ってもこのバイナム・ショウの最大のキャッチはテーマ曲です。彼はオープニングとエンディングに同じ曲を使っていました。ギター中心のインストゥルメンタルのゆったりしたウォーキングテンポの曲、そう、デイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイング・オン」です。

2時5分、デイヴィッド・Tの「ホワッツ・ゴーイング・オン」が流れてきたら、もはやソウルの世界にようこそ、です。この曲を聴くだけで、もう反射的にローランド・バイナムの声がよみがえります。最初のうちは、誰がやってるかわからなかったんですが、何かのひょうしにわかって、すぐ買いましたね。これは、ほんと、CD化しないとね。(笑)

ローランド・バイナムもロスを本拠にしたブラックDJです。KJLHとかKGFJなどあちこちでDJをしていました。愛称「ソウルフィンガー」っていうんですね。その名前の由来とかは知らないんですが。そして、70年代のソウル系のレコードの裏にときどきライナーノーツを書いていました。何を書いていたのか覚えてなかったんですが、ウィスパーズあたりかと思ったら、ヤングハーツでした。

ヤングハ−ツの68年のアルバム『スイート・ソウル・シェーキン』(ミニット) http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&;uid=CASS80305190557&sql=Ahajgtq8z9u43 でした。裏ジャケットの中央にハートのマークがかたどられ、ローランドの文章がそのハートの中に書かれています。文章の段落の間には、なんとハートマークが。最近の携帯メールも真っ青です。 (笑)  内容はヤングハーツの紹介ですが、この頃はアメリカのLPにもライナーノーツがけっこうついていましたね。

今発見したんですが、横のミュージシャンクレジットのギターのところに、デイヴィッド・T・ウォーカーの名前があるではありませんか。へええ。ドラムはポール・ハンフリー。

バイナムは今でも現役でDJをしているのかな。KJLHあたりで。ちなみに、7月のバリー・ホワイトのお葬式では、MCをやったそうです。きっと親交があったんでしょうね。

バイナムの番組のエンディング(閉め言葉)はいつも決り文句でした。bop-gunさんもご指摘の通り、「グッド・バイナム」です。かっこいいったらありゃしない。「グッド・バイナム」と言った瞬間またまたかかるのが後テーマ、デイヴィッド・Tの「ホワッツ・ゴーイング・オン」!



The Day I Made Radio Debut

2003年8月28日

DJ。

ドン・トレイシーのことを覚えてらっしゃる方がいましたか。そうでしたねえ。朝方だったですね、放送時間。ただ放送時間はずいぶん、昼夜変更になりました。ドンと僕が親しくなったのは、80年前後だったか、彼が日本にやってきて、そのときどこかのフリーペーパー用にインタヴューしたのがきっかけでした。話もおもしろく、まあ、意気投合したというか。その取材の後も東京を案内したりして、親しくなりました。

その後彼が1−2度来日したような記憶があります。いつも赤坂東急ホテルに滞在していました。そして、僕がロスに行ったときなど、まあ一回は会う感じになりました。彼が当時DJをやっていたKDAYというのは、AM局なんですが、いわゆるブラック、ソウル、R&Bのステーション。しかも、AMなのに、ロスでかなり初期からラップをたくさんかけていたぎんぎんに黒いラジオ局でした。その後フォーマットがカントリーかなにかに変わってしまい、今はブラックではないはずです。

ドン・トレイシーはFENのソウルショウのDJを何年も勤めました。彼の番組の場合テーマ曲は、なし。いきなり一曲目から始まります。しかしエンディングテーマがありました。 later lovers! (じゃあね、みんな) と言って毎日かかるのが、リズムヘリテージのインスト曲「シーム・フロム・SWAT(スワットのテーマ)」でした。

東京のFENで放送されていた番組は、なんとテープではなく、番組が録音されプレスされた30センチのLPだったのです。これを初めて知ったときには、びっくりしました。時々、レコード盤なので、番組の針が飛ぶのです。普通の曲がかかっている時に飛べば、ああ、レコードが飛んだな、ということがわかりますが、実はDJのしゃべりも何度も同じところが繰り返されたりしたこともあるんです。声が何度も同じことを言って、飛んでるのには笑いました。そして、その頃、東京のFENを見学に行く機会があり、そこで番組はほとんどLPになって送られてきている、という説明を受けました。よって、ドン・トレイシーのDJ自体そのものが、ターンテーブル(The Wheels Of Steel)の上にあったわけです。

さて、東京のFENには、毎週5枚の30センチアルバムが本部から送られてきます。片面に約27-8分、番組が録音されたLPです。表と裏で55分の番組がパッケージになっています。たしか、ある日の前半でかかる曲が7曲あるとすると、その同じ曲が翌日の後半にそっくりそのままかかっていました。最初は気がつかなかったのですが、自分でこの番組でかかる曲目をノートに書き写すようになって、ふと前日の前半と次の日の後半が同じ選曲だということに気が付いたのです。あれはいつまでそうだったかなあ。大好きな番組だったから、かかさず聞いていました。

ドンはあの番組を週に一回、ハリウッドにあったモータウンが入っていたビルと同じビルの中にあるスタジオで録音していました。一回で5本分だったと思う。その録音スタジオにも遊びに行きました。小さなスタジオで、エンジニア一人とドンの二人ですべてをやっていました。レコードは、ドンが自分でターンテーブルを回していました。そのマスターテープを米軍に納品し、そこで、世界各国用にLP盤がプレスされ、配られ、そして、世界各国でオンエアされていたわけです。

ドンは家の倉庫に、自分の番組のレコード盤を全部とってありました。1日1枚で数年分あったので、千枚単位だったと思う。ものすごい量でした。たしか記念に1枚もらったような気がしますが、はたして、どこに行ったのか。かなり貴重ですね。

ドン・トレイシーのDJは、AM系、のりのいいブラザー系のDJでした。そして、FENにはもうひとり対照的な実に渋いソウルDJがいました。ローランド・バイナムです。バイナムの話は、また明日にしましょうか。




勝者。

第9回ソウルトレイン・レディー・オブ・ソウル・アワードが去る23日(日本時間24日)カリフォルニア州パサディナのパサディナ・シヴィック・オーディトリゥムで発表された。ネオ・ソウルのデュオ、フローエトリー、ラッパー、ミッシー・エリオットなどが受賞した。

フローエトリーは、シングル、アルバム、さらに新人賞と3部門を独占。この夜の話題をさらった。一方、ミッシーはベストソングと、ビデオ賞の2部門を獲得。

また、エリカ・バドゥが「ベスト・ソウル・ソング」部門を獲得。彼女はまた、アレサ・フランクリン・エンタテイナー・オブ・ジ・イヤー賞も獲得、さらにヴィヴィアン・フォックスがリナ・ホーン賞を獲得した。

司会は、アイシャ・タイラー、アルシニオ・ホール、ヘザー・ヘドリー、タイリースら。

ノミネートと勝者は次の通り。+++で示されたのが勝者。


The 9th Annual (2003) Soul Train Lady of Soul Awards Winners

(winners are indicate with +++)

CATEGORY TITLE ARTIST

Best R&B/Soul Single, Solo

+++"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
"He Is" Heather Headley
"So Gone" Monica


Best R&B/Soul Single, Group, Band or Duo

"I Do (Wanna Get Close To You)" 3LW
"I Still Love You" 702
+++"Say Yes" Floetry
"Girl Talk" TLC

R&B/Soul Album of the Year, Solo

"Love Story" Vivian Green
+++"This Is Who I Am" Heather Headley
"Just Whitney..." Whitney Houston
"Voyage To India" India.Arie

R&B/Soul Album of the Year, Group, Band or Duo

"Star" 702
+++"Floetic" Floetry
"3D" TLC
"The Tortoise & The Hare" The Jazzyfatnastees

R&B/Soul or Rap Song of the Year

"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
"Full Moon" Brandy
+++"Work It" Missy "Misdemeanor" Elliott
"Floetic" Floetry

Best R&B/Soul or Rap New Artist, Solo

"Emotional Rollercoaster" Vivian Green
+++"He Is" Heather Headley
"Nothin’s Free" Oobie Featuring Lil Jon & The East Side Boyz
"Angel" Amanda Perez

Best R&B/Soul or Rap New Artist, Group, Band or Duo

+++"Say Yes" Floetry
"How It’s Gonna Be" LovHer
"Virginity" TG4

Best R&B/Soul or Rap Music Video

"Love Of My Life (An Ode To Hip Hop)" Erykah Badu Featuring Common
+++"Work It’ Missy "Misdemeanor" Elliott
"The Jump Off" *Lil’ Kim Featuring Mr. Cheeks
"Feelin’ You (Part II)" Solange Featuring N.O.R.E.

Best Gospel Album

+++"Dorinda Clark-Cole" Dorinda Clark-Cole
"Incredible" Mary Mary
"Churchin’ With Dottie" Dottie Peoples
"Determined" Angela Spivey




ネーミング。

階段を降りて扉を開けるとそこはソウルバーだった。(「雪国」風に) その名は「ルート158」。横浜体育館のまん前。地下一階。カウンター8席に、丸テーブルが6人がけと4人がけ程度。計18席。こじんまりとしたお店です。アルバムはアナログが約1000枚。80年代を中心に、70年代少々、90年代も少々、新譜も少々。まあ幅広くそろえています。

オウナー兼DJ兼バーテンダーを兼ねるのは鈴木誠一さん。これまで、シュガーシャック6年、テンプス8年とまさにソウルバーの保守本流を歩んできて、いよいよ独立した期待の星といったところでしょうか。このお店、ソウルバー巡りのプロ、高畠さんに教わりました。

アニタ・ベイカー、ポール・ジャクソン、リヴァート、キース・スウェットあたりが、うまく流れが作られてかかっていました。一応CDプレイヤーも一台あるそうです。

店自体は、以前はダーツバーだったところを少し改造して、ソウルバーにしました。いわゆる「居抜き」です。オープンは2003年2月17日。ちょうど半年たちました。えらいのは、日曜日も休まず、週7日間営業しています。体大丈夫ですか。心配です。(笑) 

さて、『ルート158』って、そのネーミングの由来は? 「ええ、実はここの住所が1の5の8なんです」と鈴木さんが説明してくれました。なるほど。お近くにおよりの際はぜひ。


ルート158
Soul Bar Route 158
神奈川県横浜市中区翁町1-5-8
地下1階
電話 045-663-1580
営業時間 20時〜4時
休業日 なし
ドリンク500円〜
フード軽めのもの500円〜
チャージ500円


未発表。

モータウンからいわゆる「デラックス・エディション」の新作がでました。今回はマーヴィン・ゲイの『アイ・ウォント・ユー』、リック・ジェームスの『ストリート・ソングス』などに加えてダイアナ・ロスの80年の大ヒット作『ダイアナ』がでました。シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズがプロデュースした作品です。

このアルバムからは、「アップサイド・ダウン」と「アイム・カミングアウト」の大ヒットが生まれ、ダイアナは久々にチャートのトップに踊りでました。ところが、このアルバム、元々のミックスをモータウンのラス・テラーナがミックスし直してリリースしたという作品なんですね。このあたりの話は『ソウル・サーチン』の第4章「シック」に書いたのですが、今度でた『デラックス・エディション』にその日の目をみていなかったシックがミックスしたオリジナル・ミックス・ヴァージョンが収録されているのです。

これは、おもしろい。ここにはどちらも8曲ずつ収録。つまり、シックが録音し、ミックスしモータウンに渡したファイナルミックスと、その後新たに手を加えられ、世に出された、つまり僕たちが聞き親しんだヴァージョンの両方が聞き比べられるのです。

早速、オリジナルの「アップサイド・ダウン」「テンダネス」「アイム・カミング・アウト」「マイ・オールド・ピアノ」の4曲をリリース・ヴァージョンとオリジナル未発表ヴァージョンを聞き比べました。

なるほど、こうなっていたのかあ。全体的にはオリジナルのほうが長いんですね。「アイム・カミング・アウト」なんかオリジナルは6分01秒あって、発売されたヴァージョンは5分25秒しかない。よって後半の演奏部分がとっても新鮮。それとヴォーカルも違う部分があるみたいですね。これらのミックス違いを文字で表現するのは至難の業です。

たとえば、「アイム・カミング・アウト」だとオリジナルのほうが、ナイルのギターがちょっと前にでてるような感じがします。一方、テラーナ・ミックスは、ドラムスの音をかなり派手に作っています。そして、ヴォーカルがさらに一歩でてる感じかな。
「マイ・オールド・ピアノ」はテラーナ・ミックスのほうがいいですね。イントロとかも作ったんですね。オリジナルはイントロなしでいきなり歌がはいります。

まあ、微妙には違いますが、シックのミックスが世に出たらヒットしなかったのでしょうか。いいえ、きっとヒットはしたでしょう。音楽の本質的には変わらないですから。結果的には、なんとも言えませんが。でも、23年を経て埋もれていた音が聴けるんですから、これは非常に興味深かったです。




猪突猛進。

映画『アメリカン・グラフィティー』を近くのツタヤでDVDを借りて、見た。この映画は、何度もテレビなどでも放映されているだろうが、まあ、改めて見ても、なかなかいい映画だなと思う。ちょうど、しばらく前に紹介した『スタンド・バイ・ミー』とちょっと似たような香りがある。時代的にもほぼ同じだし。

『アメリカン・グラフィティー』で一番好きなシーンは、東部の大学への奨学金を獲得したカートが、DJウルフマン・ジャックのスタジオに行くところ。車を放送局のところにつけると、そこには高いアンテナが立っている。カメラはそのアンテナを下からずっとなめる。アメリカの放送局は必ずそういうアンテナが立っている。

深夜の生放送のスタジオは、男がひとりだけ。ポプシクルというアイスキャンディーをなめながら、彼はDJをしていた。だが、突然の訪問者にDJは、自分はウルフマンジャックではないと正体を隠す。カートは一瞬街で見かけた美女ともう一度連絡を取りたくて、ウルフマンに頼みに来る。

彼女に、電話をしてくれるよう、ウルフマンに放送でしゃべってもらいたいのだ。そして、彼はカートに、そんなにご執心なら、きっとウルフマンならこう言うだろう、と言ってアドヴァイスする。「Get your ass and gear」 ケツに蹴りでもいれて、突き進め、っていうあたりが直訳なのかな。うまく訳せないが、たとえば「猪突猛進(ちょとつもうしん)で行けよ」ってなかんじだろうか。

そして、カートが「明日、東部の大学に行ってしまうから」と言うと、ウルフマンはこうもらす。「There’s a great big world out there」(外の世界はすばらしいぞ) この映画も西部カリフォルニアあたりのどこか小さな田舎町を舞台にしているので、そういう小さな街からすると、外の世界、大きな都市なんかは、本当に輝くところなんだと思う。この田舎対大都市っていうのは、アメリカのいつの時代でも、日本でも同じかな、いいテーマだ。ウルフマンがもらすこのセリフはいい。

「あなたも行けばいいじゃない」とカートが言うとウルフマンは、「もう若くないからな」と情けないことを言う。でも彼は今の自分の仕事がとても気に入っているのだ。そのDJは、「じゃあ、これをウルフマンに伝えておくよ」と言ってカートと別れるが、帰り際、そのDJが実はウルフマンジャックだったことを知る。このあたりのやりとりは、なかなかいい感じだ。

ウルフマンジャックは、70年代初期に日本のFENでも番組が放送されていた。アメリカから録音されたものが毎週送られてきて、それがオンエアされていたのだが、よく聴いたものだ。糸居さんも伝説のDJなら、ウルフマンジャックもまさしく伝説のDJである。


+++++

はにゃさん

今週末、マウントフジですか。ぜひエンジョイしてきてください。リズライト、僕のをきっかけにいかれることになったのですか。なんだか責任重大ですね。(笑) 今後もよろしく。
舞。

「いつから電子ヴァイブラフォンを使ってるかって? 70−71年頃からだよ。オレは一番最初の頃から、電子ヴァイブを使ってるんだ。でもな、初期の頃のは、音はひどいし、すぐ壊れるし、使い物にならなかった。今は、フランスのマッサー社のものをよく使ってる。全部で8台持ってる。本物(アコースティック)もあるよ。オレはものすごくハードに叩くんだ。だから、機材のあちこちを糊なんかで張り付けたりして補強しておかないとだめなんだ。ゲイリー・バートン、ライオネル・ハンプトン、いろんなヴァイブ奏者がいるけど、オレが一番ハードに叩くよ」

またまた立て板に水のミュージシャンでした。まあ、もっとも激しくアドレナリンのでるライヴの後に楽屋に行けば、みんなこうなっているのかもしれません。(笑) 今回が11回目の来日(本人・談)というヴァイブラフォン奏者、ロイ・エアーズです。

ドラム、ベース、キーボードにボーカル2人、そして、ロイ本人の計6人がオンステージ。しっかりしたリズムにグルーヴのあるヴァイブラフォンの演奏が響きます。ヴァイブラフォン、わかりやすく言えば、鉄琴ですね。日本では「ビブラホン」と発音されることもあるようですね。

鉄琴を叩く棒のことをマレットと言います。モーションブルーのフライヤーに「至高のヴァイブ奏者による華麗なマレットの舞が極上のグルーヴを弾き出す」とありますが、その通りでした。音楽性は、一言で言えばレコード、CDで聞かれるような70年代風ジャズファンク。

ロイは4本のマレットを同時に操っていました。その早業は、目にもとまりません。なかなかかっこいいです。時々音色やなにかを調整しているようです。76年のヒット「エヴリバディー・ラヴズ・サンシャイン」などは、クラブで人気があるせいか、観客からもかなりの拍手喝采を浴びていました。

「私は、これまでに88枚のLPやCDを出してきました。まあ、ほんの少しだけどね」とMCで言うのですが、88枚もでてたら、ねえ、すごい数です。どういう数え方したのかわかりませんけど。(笑)

「11回も日本に来ているんですか。じゃあ初めて日本に来たのは?」と尋ねると即座に「チコ・ハミルトンと来た。66年だった。オレがまだ26歳でね。今、オレは62なんだが。まだまだ若かったよ。ははは」と答えてくれた。「62ですかあ。もっと若く見えますよ」というと、きっぱりこう答えてくれました。「ははは、サンキュー、music makes me young 音楽がオレを若くしてくれるんだよ」  その通り。おっしゃる通りです。確かに音楽をやっている人なんかは若く見えます。ところで、なぜ、音楽は人を若くしつづけてくれるんでしょうねえ。

(2003年8月20日水セカンド・横浜モーションブルー=ロイ・エアーズ・ライヴ)


Groovin In The Midnight

2003年8月21日
深夜放送。

ではせっかくですので、糸居五郎さんのお話でも。糸居さんの『オールナイト・ニッポン』は、毎週月曜日だったように記憶しています。67年10月から始まったそうです。月曜深夜1時。今風に言うなら月曜25時から、29時(朝5時まで)。もうひたすら音楽ばかりかかるんで、かなり異色でした。それから1時〜3時に短くなったのかな。で、3時〜5時に移動だったか。糸居さん以外の曜日も聴いてましたね。60年代後期から70年代初期の頃のことです。『オールナイト・ニッポン』の頭のナレーション、今でも覚えてます。

他の深夜放送がみなおしゃべり中心で、1時間にせいぜい3-6曲くらいしかかからないときでしたから、ノンストップで音楽が流れている糸居さんの番組は貴重でした。彼は自分がしゃべるときもなにかBGMをひいてましたね。ジャズっぽいインストものだったようです。よく考えると、ああいうBGMもしっかり選曲してたんですよねえ。元々糸居さんはジャズ好きでいらしたし。他のDJは、素でしゃべっていた。そうそう、これは確かじゃないんですけど、糸居さんの時はターンテーブルを3台にしてやっていたって聞いたような気がする。普通にかける2台に、もう1台BGM用というわけですね。他の曜日だったら、ターンテーブル1台でもやってけますけどね。(笑) 

そして、この『オールナイト・ニッポン』と別に73年から始めたのが『ソウル・フリーク』という番組でした。これは確か日曜の夜11時台とか12時過ぎの30分番組だったように記憶しています。ちょうど、スリー・ディグリーズなんかがでてきたり、ジェームス・ブラウンが来日したりで、いわゆるソウル・ミュージックがちょっとした動きを見せ始めたので、ソウルの専門番組をやろう、ということで始まったときいています。

日曜夜は確かTBSテレビの『ソウルトレイン』があったので、『ソウルトレイン』、『ソウル・フリーク』という流れがあったような気がします。『ソウル・フリーク』では、糸居さんがアーティストにインタヴューしてましたね。なぜかよく覚えているのがブラザース・ジョンソン。たださすがに話の内容は覚えてませんが。

糸居さんは、イントロにのせてアーティスト紹介、曲紹介をするかなり初期のDJだったと思います。当時だと八木誠さんが同じようにイントロにのせて紹介していました。糸居さんのあの独特の節は、『糸居節』と呼ぶにふさわしいですねえ。

「夜更けの音楽ファン、こんばんは! 朝方近くの音楽ファン、おはようございます! ・・・ ゴーゴーゴー、アンド、ゴーズ・オン!」  英語なら簡単にのりがだせますが、日本語ではなかなかイントロに乗せるリズムが生まれない。それを糸居さんは試行錯誤して考えました。体言止め。いつでも、曲紹介が終われるように、かっちり単語を切っていくんですね。ワンセンテンスが短い。当時の同録でもあったら、また、聴きたいなあ。今でこそ、そういうことを考えるDJがいなくもありませんが、言ってみれば糸居さんは日本で一番最初にグルーヴを考えたDJかもしれません。その頃、グルーヴなんて言葉は市民権を得てなかったですが。

もっとも糸居さんで僕が個人的に覚えているというか、最大の思い出は僕の友人夫婦の結婚式の司会を糸居さんにお願いしたということですね。80年くらいだったかな。快く引き受けてくださいました。で、なにがぶったまげたかというと、まあ、通常の司会が進んではいたのですが、途中で、大きなラジカセを取り出して、その音楽にあわせてDJを始めだしちゃったんです。ちゃんと、曲のイントロでしゃべるときは、曲のヴォリュームさげて、紹介終わると、がっとあげて、歌がガツンとはいる。もう、ラジオのDJそのものです。あれには、びっくりしましたね。で、何をかけたんだろうか、今思い出せないのがはがゆい。(笑) しかしねえ、DJ入りの結婚式の披露宴っていうのは、初めてでしたねえ。

ヘイ、ミスターDJ、あなたは、真夜中のグルーヴDJ。




影。

今回のライヴは、選曲がいい。マーカス・ミラー、レイラ・ハザウェイ、そしてテイク6。マーカス・グループが約50分ほど演奏した後、レイラはいきなり、すたすたと舞台に登場。その一曲目はなんと「ジェラス・ガイ」だった。う〜〜ん、そうきたか。

ジョン・レノン作、ダニー・ハザウエイのライヴ盤で歌われる佳曲である。やはり、
ダニーで聴きなれた作品をその娘で聴くというのは、感情的になるものだ。はっきり言ってレイラのこの一曲だけでも、聴きにきた甲斐はあったとさえいえる。そして、続いて歌われたのが、なんと、アレサの大ヒット「デイドリーミン」。わお! なんでまた、こんな曲を! ほんとに、レイラの声は低くて太くて、いい。こういう曲にもぴったりだ。

そして、テイク6の登場。マーカス、レイラ、テイク6は、それまでにも充分なつながりがあって、もはやファミリーみたいなものだから、コンビネーションとか文句ない。「メリー・ドンチュ−・ウィ−プ」(トラディショナル)、「グランドマズ・ハンズ」(ビル・ウィザース)、さらに「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ」(スティーヴィー・ワンダー)と続く。このあたりは、いつもの感じだが、なんと言ってもバックにマーカス&ヒズ・グループがいて、相当タイトな演奏をつけるので、かっこいい。

テイク6ヴァージョンも見事な「ピープル・ゲット・レディー」(カーティス・メイフィールド&インプレッションズ)、「テイキン・イット・トゥ・ザ・ストリート」(ドゥービー・ブラザース)と続く。「ピープル・ゲット・レディー」なんか、完全にテイク6のものになっている。後者は、途中からゴスペル調になっていく。そこにはテイク6の声が圧倒的にうずまく。それはまさに至福の声の洪水だ。途中から入るバンド一無愛想なサックス奏者ロジャー・バイアムの職人的サックスソロが実にクールだ。彼はいい味だしている。もちろんオマー・ハキムのドラムスも最高、ギターのディーン・ブラウンもいい。完璧なバンドである。

いったんはけた後アンコールの1曲目。なんと、「イフ・オンリー・フォー・ワン・ナイト」と来た! ブレンダ・ラッセル作のルーサー・ヴァンドロス歌の名作である。マーカスはここでクラリネットよりもさらに長い初めて見るような管楽器を使っていた。途中でクラリネットに持ち替えるが、そこで、トランペットのマイケル・スチュワートとちょっとしたバトルを繰り広げる。そして、曲が終わりマーカスが「ルーサーの歌で知られる『イフ・オンリー・フォー・ナイト』、彼に捧げます・・・」とアナウンスした。さらっとした紹介だけにじわんとくる。

ルーサーがブレイクしたきっかけが『ネヴァー・トゥ・マッチ』(81年)、それをプロデュースしたのが、誰あろうマーカス・ミラーである。マーカスがやるルーサーの曲というところに大いなる意義がある。そして、アンコール2曲目はレイラが前にでてきて「ホエン・ライフ・ワォズ・ロウ」。あのジョー・サンプルのアルバム『ソング・リヴズ・オン』に入っている名曲だ。CDもよかったが生歌も何度聴いてもいい。本当にレイラは自分の道を見つけたとつくづく思う。

たまたま座った席が一番前だった。そこで、なぜかレイラとものすごくたくさん目があったような気がした。というか、レイラが僕の目を見て歌っているような気になった。目があっていたのは確かな事実だ。彼女は半分は僕のほうを見て、半分は逆側を見る。なんでずっと見つめられるのだろうか。ひょっとして彼女は僕に気でもあるのだろうかと思ってどきどきした。(このあたりが単純というか=苦笑) しかし女性歌手にしっかり目を見られて歌われたことはなかったように思う。よく男性シンガーが女性に向かって歌うシーンは目撃するが。レイラはいつもどこかに焦点を定めて歌うのかな。それとも僕を知っていたから見ていたのか。ただ誰でもよかったのか。確かめないと・・・(笑) 

それはさておき、その次に歌われた曲に完璧にノックアウトさせられた。バックバンドのイントロだけで、ぐわ〜〜と来た。ステージにはもちろんテイク6もいる。レイラがステージ中央でマイクを持っている。イントロから最初のフレーズへ。「hang on to the world...」だ。もうこれだけで胸一杯である。その曲は「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」である。もちろん、ダニー・ハザウェイの名曲中の名曲だ。ほんとだったら泣いてもいいシーンだ。

しかし、この日はライヴが始まったのが午後1時。急遽決まった追加公演。しかも日曜日なので僕は個人的には、このあとすぐ次に行かなければならない。よってあんまり落ち着いていられないのだ。それと、会場が寒かったせいか、あるいは、睡眠不足のせいか体調は万全ではなかった。まあ、言ってみれば、ふだんナイターばかりに出向いているのに、この日はデーゲームなので調子よくないのだ。やっぱりライヴはナイターに限る。そう、ナイターのホームゲームがいいな。昼の1時からライヴなんて、オープンエアのレゲエのライヴだったらいいのだが。というわけで泣くまでにはいたらなかったが、これが万全の調子で超集中して聴いていたら、どうなったか保証できない。

というわけで、「サムデイ・・・」に泣くことはなかったが、かなりくるものはあった。レイラはいつの日にか(サムデイ)父の曲にチャレンジするだろうと、99年、2000年に彼女のライヴを見たときに確信というか期待をもっていた。このことは以前別のところに書いた。それから3年。いよいよかな、という思いがこみ上げてきた。

レイラは、やっている音楽こそちょっと違うが、歩み方にナタリーと似ている部分がある。ナタリーがついに「アンフォーゲッタブル」をやったように、レイラがついに「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」を歌ったのだ。しかもコーラスが、バックコーラスがテイク6にマーカスである。こんなぜいたくがあるだろうか。

これ一曲だけでも、この日のライヴの価値はあった。(っていうのが、もう2曲目です)     そして、もう一曲テイク6が「ドント・ギヴ・アップ」(ピーター・ゲイブリエル)を歌う。ここではトーキングベース、アルヴィン・チアとマーカスのエレキベースの壮絶なバトルが繰り広げられた。これも見ものだ。

ショウが終わってすぐに僕は会場を後にした。本当はもっと余韻を楽しみたかったのだがしょうがない。今年見たライヴの中で1曲を選べといわれたら、レイラのこの日の「サムデイ・ウィル・ビー・オール・フリー」にするだろう。レイラの次のアルバムは一体どうなろうのだろうか。きっと彼女のキャリアを決定付ける「キャリア・アルバム」になるのではないだろうか。そんな予感が強く強くしてくる。レイラがついにダニーの影に足を乗せている。レガシーの影の上に、そっと片足を乗せている・・・。そして、今回レイラがこれを歌うところを見る人たちは、同時進行のドキュメントの、歴史の目撃者だ。


(2003年8月17日・日曜ファースト・東京国際フォーラム・ホールB7=マーカス・ミラー、レイラ・ハザウェイ、テイク6)


(このほかショウは8月18日から20日まで。ただしテイク6がでるのは18日と20日。レイラはすべてに出演。19日はケニー・ギャレットが出演。また週末にはマウント・フジ・ジャズ・フェスにもでます)




訂正。

昨日は、ボブ・マーリーをご紹介したのですが、間違いがふたつ。BBSでも指摘されましたが、まず、ローリン・ヒルと結婚したボブ・マーリーの息子はジギ−ではなく、ローハン・マーリーという人でした。そして、「ノー・ウーマン・ノー・クライ」のタイトルの意味を「女の人がいなければ、失恋しなくてもすむので、悲しまなくていい、涙がいらない」というニュアンスをお伝えしたのですが、歌詞をじっくり読むと、違いました。お詫びして訂正です。陳謝。

ボブの息子が何人いるのか、ちょっと調べていたのですが、わかりませんでした。(笑) 最低6人くらいはいるようです。そのローハンの名前はリストの中にはありませんでした。

「ノー・ウーマン・ノー・クライ」は、「ノー・ペイン、ノー・ゲイン」と同じニュアンスの言い回しかと思ったのですね。つまり、「痛みなければ、得るものなし」 すなわち、苦労なくして成果は得られない、という意味です。「ノー・ウーマンなら、ノー・クライ」というわけです。

しかし歌詞の流れからすると、泣かないで、ウーマン、泣かないで、という意味のようですね。ただちょっと僕自身、この歌詞からは、ストーリーの全体像がつかめないので、まだ訳せないです。全体的にボブ・マーリーの歌詞は難しい。彼を取り巻く様々なことを知らないと歌詞の意味がわかりません。

+++

Real James Brown: He’s Real

ファミリー。

さて、ボブ・マーリー終わったあとのドン勝本氏のゲストは、めちゃくちゃおもしろかったですね。当初は20分くらいの予定だったんですが、話がはずんでしまったので、40分近くになってしまいました。(笑)  勝本氏とジェームス・ブラウン話をすると止まりません。勝本氏が73年初めて会ったときの話。その後、姫路でリムジンに乗った話。自宅を訪れ、ブラウン自らがいろいろなところを案内してくれた話。リハーサルの時の話。マントをもらったときの話。Ain’t No Stoppin’ Us Nowって感じですね。(笑) それにしても、ミスター・ブラウンはファミリーというものを大事にします。

残念だったのは、井筒監督に出演をお願いしていたのですが、さすがに土曜日公開初日ということでかなりスケジュールがタイトでご出演願えませんでしたが、また、近いうちにチャンスはあるでしょう。金曜日だったか、BSフジの『ロングインタヴュー』(司会テリー伊藤、小島奈津子)という90分番組で井筒さんがいろいろお話してました。たまたま途中から見たんですが、なかなかおもしろかったです。まだ再放送があるようですので、チェックしてみてください。

http://www.bsfuji.tv/top/pub/interview.html
http://www.bsfuji.tv/top/recommend/rcm_variety.html#interview

マーヴィンが言ってましたが、確かにジェームス・ブラウンは「リアル(本物)」ですね。追加公演10月3日(金曜)、武道館です。東京2デイズ、ソウルの神様の元気をもらいましょう。


Ed Townsend Died At 74

2003年8月18日
エド・タウンゼント死去。

急死。

50年代から活躍してきたヴェテラン・R&Bプロデューサー、ソングライター、シンガー、エド・タウンゼントが8月13日水曜日、カリフォルニア州サンシティーで急死した。74歳だった。

エド・タウンゼントは、1929年4月16日テネシー州フェイエットヴィルの生まれ。本名エドワード・デイヴィッド・タウンゼント。父親が牧師だったことから幼少からゴスペルを歌っていた。アメリカ海軍に入り、朝鮮戦争に従軍。その後、58年、自ら書いて歌った「フォー・ユア・ラヴ」がポップでも13位まで行くヒットになり注目されるようになった。その後は主としてソングライター、プロデューサーとして活躍。

最大のヒット作は、マーヴィン・ゲイの73年の「レッツ・ゲット・イット・オン」。これがエドの作品でプロデュースでもあった。この曲は最近、ヴァイヴ・マガジンから「オールタイム・ナンバー・ワン・ラヴ・ソング」に選ばれていた。

このほかにインプレッションズの「ファイナリー・ガット・マイセルフ・トゥゲザー」、ジミー・ホリデイの「ハウ・キャン・アイ・フォーゲット」、セオラ・キルゴアーズの「ザ・ラヴ・オブ・マイ・マン」など多数の作品をだしている。

また、彼は自らが経験したアルコール中毒を克服するためのリハビリテーション・プログラムを、同様の人たちに積極的に薦める運動も行っていた。2001年、彼はリハビリをテーマにしたミュージカル『(リハビリテーション)ビーン・ゼア、ダン・ザット』を制作、発表している。

最近も様々な活動に従事し、新曲「カウント・エヴリ・グレイン・オブ・サンド」を録音、また、エドの人生をテレビ番組にまとめるプロジェクトや、マーヴィン・ゲイの生涯を描いた映画の企画などもあった、という。

彼の息子のひとり、デイヴィッド・タウンゼントは、ソウル・ヴォーカル・グループ、サーフィスのメンバーのひとりで。サーフィスは、89年「シャワー・ミー・ウィズ・ユア・ラヴ」などの大ヒットがある。


ENT>OBITUARY>TOWNSEND, ED



兄。

しばらく前にボビー・へブの「サニー」という曲が話題になりました。たまたまちょっと別の調べ物をしていたところ、この「サニー」の話を知ったので、ちょっとまとめてみようと思います。

ボビー・へブは、1938年7月26日テネシー州ナッシュヴィル生まれ。6歳年上の兄ハル・へブと二人兄弟でした。父はギターやトロンボーンをたしなみ、母はピアノとギターをプレイしていました。兄は一足先にタップダンスを習っていました。ボビーが3歳の誕生日、1941年7月26日にジェリー・ジャクソン・レヴューというヴォードヴィルのステージに、兄に誘われて昇ったのです。3歳ですから、別に歌うというものでもなかったでしょう。適度に音楽にあわせて体を動かした程度だったのでしょう。それでも、3歳のボビーにとっては、初ステージとなりました。

以来、両親とハルとボビーの4人はしばしばステージに立つようになりました。ボビーも徐々に歌とダンスを覚えるようになったのです。

1954年、ボビーはさらに音楽をやりたいとシカゴに行き、チェス・レコード周辺で活動をします。その後、ニューヨークに行くのですが、1963年11月22日、アメリカに運命の銃弾が撃ちこまれます。そう、ジョン・F・ケネディー大統領がダラスで暗殺されるのです。ボビーも、アメリカ国民皆が悲しんでいましたが、悲劇はさらに追い討ちをかけました。ボビーの兄、ハルがその翌日23日に強盗に襲われ帰らぬ人となってしまったのです。31歳くらいだったでしょう。まだこれからというときです。当時25歳のボビーやへブ家にとっては二重の悲しみでした。

そして、ボビーはその亡き兄の思い出を一曲の歌にしたためます。それが、「サニー」という曲になったのです。ボビーはこの曲を66年に録音。6月からヒットし、ソウル・チャートで3位、ポップ・チャートで2位を記録、ミリオン・セラーになりました。

「サニー」は、ボビー・へブにとってのある意味での「キャリア・ソング」だったんですね。自伝的な歌とも言えます。僕はこれは単なるラヴソングかと思っていたんですが、亡き兄を思う歌だったわけです。だから、少し物悲しいんですね。

この曲は、その後200以上のカヴァーがレコーディングされ、真の意味でのスタンダードになりました。そして、ジェームス・ブラウンやマーヴィン・ゲイなどのヴァージョンも生まれ、この「サニー」だけのコンピレーション・アルバムまで制作されています。

このコンピは、ドイツのDJが、パーティーでしばしば「サニー」ばかりいろいろなヴァージョンをかけていたところ、その受けがよく、では「サニー」だけのコンピレーションを作ろうということで作った、ということです。

「サニー」は、ボビーの6歳年上の兄ハル・へブのことなのです。
サニーを異性の恋人ではなく、兄として、訳してみました。

***

「サニー」−ボビー・へブ


サニー、昨日、僕の人生は、大雨に降られたよ
サニー、兄貴が僕に微笑んでくれると、痛みも消えたものだ
兄貴が微笑んでくれると、暗い日が過ぎ去り、明るい日がやってくる
僕の輝く兄貴の微笑みは、純真そのもの
兄貴、本当に愛してるよ

サニー、太陽の花束をありがとう
サニー、兄貴が僕にくれた愛にありがとう
兄貴は、すべてを僕にくれた
兄貴のおかげで、10フィート(3メートル)も背が高くなった気分さ

サニー、僕に見させてくれた真実に感謝
サニー、僕に教えてくれたAからZまでのあらゆることに感謝
今、僕の人生は風に飛ばされる砂のようにこなごなだ
兄貴が僕の手を握ってくれたとき、二人の絆は硬く結ばれた

サニー、兄貴の微笑みよ、ありがとう
サニー、兄貴のその優雅なきらめきよ、ありがとう
兄貴は僕の燃える火の発火材
僕も兄貴みたいになりたいんだ
兄貴、本当に愛してるよ

***

こうやって改めて読んでみると、なるほどねえ、という感じですね。「昨日大雨」ということは、兄が死んだ翌日にこの曲を書いたのか、あるいは、翌日の気分を曲にしたということなのかもしれません。この曲の持つ魅力が、なんとなく少しわかったような気がします。そして、最終的にそういうものは、歌い手にも聴き手にも伝わるのでしょう。だから200人以上ものシンガーやアーティストがこの作品を録音するわけです。




大停電。

CNNなどが、今日、ニューヨークで大停電が起こっているニュースを伝えています。前回の大停電は1977年のことでした。26年前のことですね。今回は昼間に停電が起こったので、とりあえず、皆歩いたりして家路についているようです。

停電っていうのは、いまどき起こったら本当に困りますね。こうしてパソコンも使えなくなるし、ネットにもつなげなくなる。地下鉄に乗っていた人たちが閉じ込められているかもしれないそうです。非常用の電気はつくのでしょうか。

停電になったら、テレビが見られなくなりますね。そうなると、電池で聴けるラジオの出番です。

77年、ニューヨークに大停電が起こった後、ディスコグループ、トランプスが曲を出しました。それが「ザ・ナイト・ザ・ライツ・ウエント・アウト」という曲です。軽快なディスコソングです。同じようなタイトルで、ヴィッキー・ローレンスというシンガーの曲があります。「ザ・ナイト・ザ・ライツ・ウエント・アウト・イン・ジョージア」です。これは73年の全米ナンバー・ワン・ソング。まあ、停電ソングというところでしょうか。

ニューヨークのラジオ局は放送を続けているようです。早いところ回復するといいですね。



視点。

「顔に知性がな〜〜い、1パーセントも。がはは」 感想第一声がこれかよ。(笑) マキシー・プリーストががんがんに盛り上げたあと登場したシャギーを見ての同行ソウルメートAのセリフ。「でも、それがいいのよねえ〜〜〜。えっ、フォローになってない? ありゃあっ」 1人でボケと突っ込みするな。(苦笑)

あるひとつのライヴを見ても、皆見るところ、視点、焦点を絞るところは違います。顔を見る人もいれば、お尻を見る人もいれば、ミュージシャンの手の動きを見る人もいます。声や歌を目をつぶって聴く人もいれば、シンガーの指先だけを見る人もいるでしょう。ライヴには、本当に大量の情報があります。そして、そのどれを入手するかは、行った人間に選択権があります。

もちろん、最大の情報は音楽そのものですが、そこには、ミュージシャンのルックス、着てるものなどのヴィジュアルもあれば、演出上のパフォーマンスや、仕掛けなどもあり、色、空気、匂い、そこにいた観客、会場まですべてがそのライヴを形作る一部です。だから、ライヴのCDとか映像ものは、そのライヴのほんの一部の情報しか捉えていないわけです。

僕なんか、ライヴ行ったらできる限りたくさんの情報を入手しよう、というか、まあ、楽しもうと思うわけですが、一回だけで理解できないほどの大量の情報があるライヴも時としてあるわけです。まあ、見所満載っていうやつでしょうか。そういうのは、見てても楽しいですね。

で、マキシーは何度も見てるので、簡単に触れると、相変わらず元気。のりのり、そして、知ってるおなじみの曲ばかりで、1曲目から観客を立たせ、レゲエパーティーを盛り上げてくれました。しかも、ドラムが叩くリズムはレゲエというより、ポップ、R&B系に近い。

そして、シャギーは最初サングラスをかけてて、ちょっと最近のベイビーフェイス風、マックスウェル風でかっこよかった。で、サングラス取ったら、冒頭の発言が飛び出す始末です。でも、悪い意味じゃないんです。(なんで僕がフォローするんだ) 何も考えずに超楽しめますよ、これは。このライヴ見に来た人はみんな満足して帰るでしょう。

大体ジャマイカでは物事を深く考えたりしません。マキシはちょっと苦労の跡が顔にでているが、シャギーは苦労もなさそう。(マキシはロンドンが長いからだろう)(どういう理屈だ?)  ほんとうにハッピーゴーラッキーで、仲良くなったら絶対楽しそう。悩みなんかぶっとぶに違いない。

暑い国に哲学者は生まれるのだろうか。暑い国で自殺者はいるのか。地球温暖化が進むと、全世界がジャマイカ化するのか。それは果たしていいとこなのか。いいことです。きっと、そうしたら戦争なくなるかも。(なわけないな。アフリカで戦争あるもんなあ)

大ヒット「イット・ウォズント・ミー」は、最高! お笑いレゲエです。「女の子とバスルームでタオル一丁でいたら、彼女がやってきて目を丸くしてる。そうだ、彼女に合鍵渡したの忘れてた。俺じゃない、俺じゃない」っていう浮気現場を目撃された歌。これをシャギーと一緒に歌ったちょっと小柄なシンガー、テヴィン・キャンべルに顔も声も似てた。同行ソウルメートB曰く「あの彼、前来た時は、腕折ってて、包帯でつってたんだよ。直ったんだね」。へえええ〜〜。(トリヴィア風) Aは顔を見て、Bは腕を見てたわけだ。音楽聴いてるの僕だけか? ってこんなこと、ジャマイカじゃ誰も考えない…。

それにしても「知性がない」なんて言ったのは、僕じゃないよ。It Wasn’t Me! Shaggy!

(2003年8月13日水曜ブルーノート東京・ファースト=マキシ・プリースト、シャギー・ライヴ)


魂。

こんなメールをいただきました。

「実は、私の友人が最近自分でいろいろな曲を集めたオムニバスのCDを焼いてくれて、そのトップにルーサー・ヴァンドロスの『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』という曲が入っていました。で、なんどもそのCDを聴いているうちに、なぜかわからないのですが、この曲がものすごく物悲しくせつないなあ、って感じがしてきたんです。

私はこのルーサーというシンガーを知らなかったのですが、そのCDには3曲ルーサーの歌が入っていて、とてもお気に入りになりました。でも、他の2曲(『ザ・クローサー・アイ・ゲット・トゥ・ユー』と『シンス・アイ・ロスト・マイ・ベイビー』)はもちろんいいことはいいんですが、『ダンス…』ほどのせつなさや、悲しさは感じないんです。同じシンガーの歌なのにね。

いつもうちで、比較的大きな音でそのCDをかけていたら、母まで『この曲はせつないわねえ』なんて言いだすんです。もちろん、母はルーサーなんて知らないし、母も私も、それほど歌詞の意味とかはわからないんですが。で、なんでこの曲はこんなにせつないんだろう、ってずっと疑問に思っていたんです。

そうしたらたまたま友人がこのホームページのことを教えてくれて、そこにルーサーのことが詳しく書かれていて、それを読んだら、すべてが超納得いったんです。歌詞を読み、その背景を知って、なるほど、って。それにしても、他の曲には感じない何かってなんなんでしょうね。音楽ってすごいですね。ルーサーのこと、教えていただいてありがとうございます」

すごいですねえ。やはり、ルーサー本人の自分の父、母に対する思いが込められているから、それが結局伝わるんでしょうね。もちろん、ルーサーは歌はうまい。でも、この「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」には、うまい以上の、ルーサーの思いいれ、魂、ソウルがはいってるんでしょうね。それを感じられる感性というのもすごい。

こういうキャリアソングを、一生に一曲でいいから作れたら、本当にシンガー冥利につきますね。つくづく思います。真の意味で魂が入った曲、これはなかなかめぐりあえません。


友情。

オレゴン州キャッスルロック、人口1281人。物語は、1985年9月4日付けの地元の新聞が座席に置かれた車内から始まる。そこには、ある弁護士が些細な喧嘩の仲裁に入ったことで、喧嘩をしていた連中にナイフで殺されたと書かれていた。その弁護士は、運転席で呆然としている主人公の親友だった。彼は26年前のことを回想し始めた。

1959年、彼らは12歳。その夏休みのことだった。主人公ゴーディーのほか、クリス、テディー、ヴァーンは仲良し4人組。とある高校生が汽車にはねられ死んだという情報をつかんだ彼らは、32キロ先の現場にその死体を見に行くことにする。一泊二日の大冒険が始まった。

ベストセラー作家スティーヴン・キング原作の映画『スタンド・バイ・ミー』(1986年)の冒頭のシーンだ。DVDを借りてきて再度見た。やはり、いい物語だ。

スティーヴン・キングは、1947年9月生まれ。だから、59年には12歳になっている。まあ、正確には59年の夏休みは11歳だが、細かいことは言わないことにしよう。(笑) 彼の自伝的物語である。映画は、少年の頃から物語を書くのが好きだったゴーディーが回想するスタイルで進んでいく。ただ小説はクリスの回想で話は進む。

冒険の途中でゴーディーが、大食い競争の話を友達に聞かせるところで、彼らから「そのエンディングじゃつまらないよ」という意見がでてくる。ゴーディー(すなわちスティーヴン・キング)はきょとんとするが、ひょっとしたらこのあたりで、ゴーディーは、ストーリーの組み立て方のちょっとしたコツを学んだのかもしれない。

そして、12歳の彼が書くストーリーに両親はまったく気にもとめないが、兄貴だけはちゃんと読んで「おもしろかったぜ」と感想を言ってくれる。その兄は弟思いで、兄が大事にしていたニューヨーク・ヤンキーズの帽子を釣りに行く弟にくれる。ところが両親の関心は優秀な兄にばかりいく。

舞台は本当に小さな街、そこでは、誰もが誰もを知っていて、秘密などない。たぶんこの街に生まれた人のほとんどは、一生をこの街か近くのもう少し大きな街で過ごして終わるのだろう。彼らにとっては、その街をでるということがものすごく大きな意味を持つ。そして、12歳の少年にとっても、この冒険はそんな街を初めて出るというところに意義があるのだ。

この小さな冒険の途中で、4人それぞれが持つ悩みが明かされる。危険を伴う冒険を共有することによって深まっていく4人の友情の絆。最後、その後の3人のことが少し語られ、85年に戻ったところで、作家になったゴーディーは、ワープロに向かってエンディングを打つ。「あの時のような友達を持つことは、二度とできないだろう」

画面がフェードアウトして流れ出てくる曲が、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」。元々は恋人である君が横にいてくれれば、どれほど心強いかというラヴソングだが、ここでは、友人たち、親友たちが横にいてくれればどれほど素敵かという普遍的な友情ソングになっている。まさにこの映画のテーマに完璧な一曲だ。

    ***

「スタンド・バイ・ミー」

闇が訪れ、地が漆黒になるとき、月明かりだけが唯一の頼り
そんなときでも、君が傍らにいてくれれば、何も怖くはない

ダーリン、僕の横にいておくれ

万一見上げる星空が落ちてきて、山が海の中に沈んでしまっても
君が傍らにいてくれさえすれば、僕は絶対に泣かない

ダーリン、僕の横にいておくれ

君に何か嫌なことでもあったら、いつでも僕の横においでよ
僕のとなりにおいで

    ***

この物語の後に、この曲が流れてきては、涙を抑えるのに苦労する人も多いだろう。原作者のスティーヴン・キングでさえ、映画を見て泣いたという逸話があるのもうなずける。こんなに物語と曲のテーマが一致する例というのも珍しい。しかも、既存曲でありながら。サウンドトラックがゴールドディスクになるのも納得だ。

昔の歌詞はシンプルだ。昔のメロディーもシンプルだ。そして、昔の生活もシンプルだった。携帯がなくても、電子メールがなくても、厚い友情は、培われた。

Gregory Hines Dies at 57

2003年8月12日
グレゴリー・ハインズ癌で死去.

タップダンサーとして人気の高かったグレゴリー・ハインズが9日(土曜日)、ロスアンジェルスの病院で癌のために死去した。57歳だった。


ハインズは、1992年、ミュージカル『ジェリーズ・ラスト・ジャム』でトニー賞を獲得している。ハインズは、もともと兄とともに二人組のダンスデュオとして売り出し、78年、映画『ユービー』で一躍脚光を集めた。さらに、ブロードウェイの『ソフィスティケーテッド・レイディー』、さらに84年、映画『コットン・クラブ』などで人気を決定づけている。


85年、ロシアのダンサー、ミハエル・バリシニコフと共演した映画『ホワイト・ナイツ』では俳優としても注目された。


グレゴリー・ハインズは、1946年2月14日ニューヨーク生まれ。母親が兄と彼にタップダンスをするように強く勧めたという。それは、ダンスで成功し、一家でゲットーを抜け出したいと考えたからだ。グレゴリーが5歳のときから踊りだし、6歳のときには、アポロ劇場に2週間連続で出場し、8歳でブロードウェイ・ミュージカルに出演した。十代の頃は、「ハインズ・ハインズ・アンド・ダッド」というグループ名で、兄弟二人と父でステージを見せていた。


+++++


粋。


今、今日の日記を書こうとしたら、グレゴリー・ハインズ死去のニュースが飛び込んできたので、急遽、彼について書くことにした。


グレゴリー・ハインズで僕がまずよく覚えているのが、85年の映画『ホワイト・ナイツ』http://www.stingray-jp.com/allcinema/prog/show_c.php3?num_c=00021781だ。ライオネル・リッチーが歌うテーマ曲「セイ・ユー、セイ・ミー」の歌声とともに大ヒットした映画である。アメリカに亡命したロシア人ダンサー(バリシニコフ)が、飛行機の不慮の事故でロシア領内に不時着することによって始まる手に汗握る物語で、二人のダンサーの友情が徐々に芽生えていくところなどが、なかなかいい作品だった。


その後86年、彼はルーサー・ヴァンドロスとデュエット曲「ゼアリズ・ナッシング・ベター・ザン・ラヴ」を録音する。これは、ブラックチャートでナンバーワンを記録。初めてグレゴリーの歌を聞いた。意外といい声で、ルーサーとの相性もよかった。二人とも生粋のニューヨーカー。


そして、90年代に入ってグレゴリー・ハインズが来日して、その公演を渋谷のパルコシアターで見た。パルコシアターは小さくて、あの時は前から何番目かのけっこういい席だった。その目の前であのグレゴリーがタップダンスを踊る。生のタップダンスを見たのはあの時が初めてだった。圧倒された。真っ暗な広いステージに彼だけがぽつりと立っている。そこに一本のスポットライトがあたっている。そしておもむろに踊りだす。


最初、どうしてあんなにかっこいい音が出るのか不思議だったが、床にマイクが仕込んであると後から聞いて納得した。タップを踊る靴、タップシューズが時々照明に当たって、その反射した光が一瞬僕の目に入った。グレゴリーのタップは、「粋」そのものだった。つまり、まったくなんら難しそうになく、軽くタップをやってしまうのだ。優雅で洗練されていた。たかがタップだけで、これだけ人の目を惹きつけることのすごさを思い知らされた。


今年見た『ブリング・ダ・ノイズ』でも、かなり圧倒されたが、その出演者たちも、グレゴリーにはリスペクトの気持ちを表していた。


今、ルーサーとのデュエット曲を聴いている。そして、ライオネルの「セイ・ユー、セイ・ミー」を聴いて、彼に追悼の意を表しよう。


今日書こうと思った、映画「スタンド・マイ・ミー」の話、シンガー、AI(アイ)の話はまた明日以降に。


ENT>OBITUARY>HINES, GREGORY


チキン。


「ヘイ、ユーアー・チキン」といえば、「おまえ、弱虫!」っていう感じですが、ジェームス・ブラウン・ファンにとって「チキン」といえば、彼のインストゥルメンタル曲「チキン」ですね。シングルとしては69年5月にでた同じくインスト曲「ザ・ポップコーン」のB面に収録されていました。その後、ジャコ・パストリアスがカヴァーしたりして、隠れた人気曲になっています。


で、この曲、南部のミュージシャンたちは誰でもプレイするそうです。ちょっとしたリハーサルや遊びのセッションで「軽く調整」するときなんかにみんなで演奏するというわけです。つまり、みんな誰もが知っていて、しかも、のりがいいから、いい練習曲になるんですね。


ところが、ウエストコーストのミュージシャンとかは、意外とこの曲をやらないらしい。というような話を教えてくれたのが、ニューオーリンズのファンクバンド、ネヴィル・ブラザースのキーボード奏者としてツアーにでていたサヤ(Saya)です。そして、彼女はこの「チキン」を堂々と自分でも演奏します。


彼女の日本での1作目『ダンス・ユア・ハート』(2001年7月)に、その「チキン」は収録されています。初めて聴いたときには、かなりびっくりしました。なかなかこのグルーヴをピアノで表現するのはむずかしいのですが、よくやっています。


ちょうど、日本での3作目『ビューティフル・デイ』の新作発売と関連したツアーの最終日が渋谷JZ Brat(ジェイジー・ブラット)で行われました。そのセカンドショウの最後の曲が「チキン」だった。アコースティックのベース奏者(魚谷のぶまさ)のベースののりもいい感じ。っていうか、この「チキン」をレパートリーにいれるっていうだけで、拍手ものですよね。いつもだいたいこの曲で彼女はメンバー紹介をします。


ちなみに、アンコールは新作『ビューティフル・デイ』の中で、僕が一番気に入った「モー・ベター・ブルーズ」。なんかいいんだよねえ、これ。あと、新作ではマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」もやっています。これは、エレキ・ピアノで軽いタッチのウエスト・コーストサウンド。ちょうどクルセイダーズあたりのサウンドを軽くしたような感じです。


サヤ、10月再び来日して、横浜モーション・ブルーに10月1日、2日と登場。さらに、関西圏のブルーノートにも登場です。一度、チャンスがあったら、CD聴いてみてください。サヤ本人のサイトで試聴できます。


サヤがチキンかって? ぜんぜんそんなこと、ありません。強いです。(笑)  ちなみに、タイトルChickは、「いい女」の意味です。


(2003年8月8日渋谷ジェイジーブラット、セカンドショウ=サヤ・ライヴ)


サヤのオフィシャルサイト


http://www.saya.com/


< 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 >