リアル。

「シルキー藤野! ジェイ公山! ルーサー市村! そして、ブラザートム! われわれがオデッセイ! (会場爆笑) なんでもいいんです。知られてない名前なら(さらに爆笑)」  一瞬にして会場の空気をがっちりつかんだブラザー・トムさんの軽妙絶妙トーク。今回のイヴェントが、ホンダの新車オデッセイの発表会ということで、リアル・ブラッドではなく、オデッセイ! とシャウトアウトです。

リアル・ブラッドのライヴは前回9月のフル・ショウのショートヴァージョンです。しかし、しっかりディスコDJのパートはそのまま入っています。ブラザー・トムさんがディスコDJになって、次々とメドレーでディスコヒットを紹介するというコーナーです。DJがはいったり、針が飛んだり、レコードの回転数を間違えたり、ま、いろいろあります。

それにしても、何度見てもこの約20分のパートはすばらしい。もっともっとやって、アポロに行きましょう。世界一厳しいアポロの聴衆がどういう反応をするのかなんとしても見てみたい。

シルキー藤野さんのファルセットは、ほんとに強力です。あの力強いファルセットの秘密はなんなんでしょう。ショウが終ったあと楽屋へ。シルキーさんに聞きました。「う〜〜ん、そうですねえ。よく寝ることでしょうか。あ、水分はよくとりますよ」 「タバコは吸われます?」 「ええ、へヴィースモーカーじゃないけど、ちょっと吸います」 ホントですか。びっくりです。それにしても、強力です、と言うと「ありがとうございます」。

一方、どうも心ここにあらずの感のジェイ公山さん。その理由はただひとつ。ちょうどこの時間にやっていた日本シリーズの結果が気になって気になって仕方がなかったのです。(笑) ライヴが始まる前まで、5−0だったらしいのですが、この時、6−2で阪神が負けたということを知ると、一挙に落ち込みまくりました。ブラザー・トムさん。「オレたちの歌の力が(阪神まで)届かなかったかあ。でもな、ということは、オレたちが歌っている間、2点はいったってことだよな。う〜〜ん、で、もう1点も取られたってことか」 

黒光りする日本一のスキンヘッド、ルーサー市村さん。マイケル・ジャクソンより黒い。みなさんも疑問をお持ちだと思うので、ずばり尋ねました。「あのお、ルーサーさん、日本人ですよね。純粋の100%、日本人。まざってないですよねえ」 「はい、日本人です」とルーサーさん。あ〜、すっきり。周りでは、絶対ハーフだよ、とか、ブラザーの血はいってるよ、とかうわさでてたんで、確かめました。(笑)

「何か告知、ありませんか?」 ブラザー・トムさんずばり「ありません。ライヴ、ないです」(笑) 来年になってからのようです。

あ、そうそう。彼らはバンドもリアル・ブラッドの4人も全部、すべて全曲その場で歌って演奏してますよ。(笑) That’s real music by real musician. でも、日本シリーズ途中でよかったなあ。もし、阪神負けてからライヴになってたら、ジェイさん、相当へろへろになって歌ったんだろうなあ。


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セットリスト
20時15分スタート

1.恋はジョージョー(オリジナル)
2.ディスコメドレー 
   ハッスル〜レッツ・グルーヴ〜ファンキー・スタッフ〜
サンシャインデイ〜ザッツ・ザ・ウェイ〜ブギーナイト〜
ユール・ネヴァー・ファインド・アナザー・ラヴ・ライク・マイン〜
イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ〜ジャングル・ブギー〜
セックス・マシーン〜レッツ・グルーヴ
3. サンキュー(オリジナル)

20時56分終了
(2003年10月27日・月 六本木ヴェルファーレ=リアル・ブラッド・ライヴ)

(明日はアーマッド・ジャマルのライヴ感想文です)
マイム。

昨年一度来日しライヴをやったものの、広く一般に知らされたライヴではなかったために、今回の来日公演が実質的な初来日コンサートとなるアシャンティ。国際フォーラムAを2日、ほぼ9割方埋めた。日本でも2枚のアルバムが好調で、新しい時代の新しいスターになりつつある。露出的には、ビヨンセ/デスティニー・チャイルドに勝るとも劣らぬほどだが、さてライヴは・・・。

全23曲、次々と曲がテンポよく歌われていく。観客の大半は20代の女性。ざっと見たところ7−3くらいで女性の方が多いような感じがした。しかも典型的なBガール風でもなく、みんなおしゃれでいい感じだ。普通に見ている分には、曲が次々歌われるので、飽きない。風船や銀色の帯状の紙が天井から落ちてきたり、演出もある。観客は立ったままでアシャンティに答える。みな楽しんでいるようだ。

さて、バックバンドはドラムス、ギター、ベース、キーボード2台、コーラス3人、ダンサー2-3人。彼らの大半は六本木のライヴハウスの箱バンドのメンバーだという。つまり、バンドメンバーをアメリカから連れてきていない。となると、果たして実際に演奏しているのか、歌っているのかという疑問が生じる。そこで、じっくり目をこらすことになる。彼らは本当に演奏しているのか、アシャンティは歌っているのか。

例えばドラムだけ事前打ち込みで、ギターあるいはベースだけがそこで生演奏された場合、なかなか区別はつかない。テープあるいはキーボードから事前に打ち込まれたサウンドを出されたものと、いくつかの楽器を生で演奏したものをミックスした場合、どれが実際の生演奏で、どれが打ち込みかはさすがに区別つかない。それを前提にさてどこまでが生演奏かを判断するのは、様々なところを総合的に判断する以外ない。全体的なサウンドは妙にとても各楽器のバランスがきれいに整っている。

しかし全23曲でこれは絶対に生演奏でやっていると確信できたところが一箇所あった。バンドメンバーの紹介のところだ。「フィール・ソー・グッド」が演奏され、ギタリスト、ドラマー、ベース奏者のそれぞれのソロとDJプレイが披露された。これは本当にやっていた。それまでのリズム隊の音と微妙にバランスが違い、かなりワイルドな感じになっていたのだ。

また、新曲でちょっとバラード調の「レイン・オン・ミー」は実際に歌っているように思えた。「ブレイク・アップ・トゥ・メイクアップ」も歌っていると思う。また、最後のアンコール曲「ドリームス」もアカペラで歌われただけに、これは実際に歌っていただろう。

前半10曲くらいまでは、演奏、歌ともCDのように聞こえた。曲間のトークはマイクをオンにするが、それ以外のところはオフにするのだろうか。その切り替えがあるとするなら、それは極めてうまい。普通にコンビニの弁当しか食べない子が聴いていれば、本当に歌っているかいないかは、まずわからないだろう。

「フーリッシュ」のあたりで彼女は話した。「今日はここに来てくれてありがとう。私は過去にジャイヴ・レコード、エピック・レコードと契約したけれども、その9年間何も起こらなかった。でも、私はずっと自分の夢を信じていた。だから、みなさんも、自分の夢をあきらめずに追い続けてほしい」  いいメッセージだ。

確かに実際に歌おうが歌うまいが、バンドが演奏しようがしまいが、アシャンティという一人の人間がそのステージに上がって、腰を振り、踊っていて、適度に観客に話しかければ、それはそれでひとつ仕事が完結しているのかもしれない。ファンが歓声をあげ、踊り、満足すれば、それはそれで存在意義もあるということになる。もしこれが自分のバンドで、すべて実際にやっていたなら、まあいいでしょう。しかし、「マイム」と「ライヴ」というものは、どうしても「出し物」としての質が違うということをまず前提としてはっきりさせておかなければならない。「マイム」のパフォーマンスとしては90点なのかもしれない。だが、「ライヴ」の評価基準は違うのだ。

デスチャがどこまでリアルに歌っているかは今判断できないが、しかし、全体的な演出力、プレゼンテーションという点では、アシャンティはまだまだデスチャたちの一段階下という感じがした。もっとも今回ライヴかマイムかをチェックしようとしたのは、最初からそういうつもりで見ていたからだ。一般の人はそんなことをする必要はない。

全曲ミュージシャン全員が演奏し、本人がすべての曲を歌ったいたということが証明されるのなら、この日記は潔く撤回します。(笑) アシャンティは2枚ともCDはグッドだし、かわいいから好きです。

(2003年10月26日・日曜・東京国際フォーラム・ホールA=アシャンティ・ライヴ)

(明日はリアル・ブラッドのライヴの感想文です)
生放送。

久々にゴスペラーズの番組『フィールン・ソウル』が生放送でした。おつかれさまです。あっという間に終わりました。(笑) 最後のジョーの「ノーワン・エルス・カムズ・クロース」を5人+キーボード、ギターで歌いきります。この曲、バックストリート・ボーイズもカヴァーしてるんですねえ。生放送で、そのまま生で歌うわけですから緊張します。その前のリスナーの人との電話がちょっと伸び、若干時間が押し気味になって、後枠が少なくなってしまいました。このリスナーの人、しっかりしていましたねえ。感心です。

ガラスのこちら側で見ていると、黒沢さんが歌いながら、何かを探している風に見えた。どうしたのかと思ったら「いや、歌詞は全部覚えていたんだけど、途中でなんか不安になっちゃって。見えるところに置いとこうかと思った」とのこと。まあ聴いてる分にはぜんぜん大丈夫でしたが。

確か生放送は3回目だと思いますが、とにかくファクスがものすごいんですね。東京FMでは8台くらいのファクスマシンが動いているのですが、もう全部止まらずにカタカタ紙を吐き出してきます。それをさっと見て、名前などに赤ペンでサインをつけていくだけでも大変です。

安岡さんへの早口言葉リクエストはものすごい数です。よく知られたものから、非常に独創的なオリジナルまで、下手したらレギュラー化しそうです。そんなことを言うと「やめてくださいよ〜。イジメですよ、イジメ(笑)」と安岡さん。今日は、「作者、釈さん、車掌さん」というのをみんなでやりました。釈由美子さんが「車掌さん」という本を書いた、という意味でやってくれ、とのことでした。

それにしても、生放送はバタバタしますねえ。でも、きっちり時間通りに終わるからいいといえばいいです。終わった後、みんなどっと疲れました。(笑) 

(明日はアシャンティのライヴ感想文です)

嘆きの壁。

代官山の天井の高いおしゃれなバー。グランドピアノに向かって大柄のブラザーが歌っている。ケイリブ・ジェームスhttp://members.aol.com/kayshp/index.htm。日本にやってきて13年。すっかり日本の音楽シーンでも知られる黒人のキーボード奏者、ヴォーカリストだ。彼が最近週に1-2日代官山と愛宕タワーのバーで弾き語りをしているというので、顔をだしてみた。

ブライアン・マクナイトに続いて、シンプリー・レッドの「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」を歌う。そして、次に歌われた作品はゆったりとしっとりとしたバラードだった。同行のソウルメイトUが「あれえ、これ、なんだっけ、なんだっけ」と頭を抱えている。ダニー・ハザウェイ? ノー。スティーヴィー? ノー。ブライアン・マクナイト? ノー。僕はわからなかった。曲も半ばになってソウルメイトひざをたたく。「あああっ、わかった! トッド・ラングレンだ。『ウエイリング・ウォール』だ!」 ケイのヴァージョンは実にソウルフルだ。

へえ、トッド・ラングレンかあ。いい曲だなあ。30分ほど歌ってケイリブが僕たちの席にやってきた。「3曲目、トッド・ラングレンでしょ。いい曲だね」とU。「おお、知ってるのか」とケイリブが身を乗り出してこの曲への思いを語り始めた。「トッドはね、1990年頃にものすごくよく聴いて研究したんだ。それまでまったく彼のことを知らなくてね。なんかで知ってCDをいろいろ聴いた。彼は、いまだに、ミュージシャンを全部ひとところに集めて、一斉に録音するんだよ。もし誰かが間違えたら、もう一度最初からやり直しだ。その録音の模様をファンに見せることにしたんだが、それは奇妙なレコーディング・セッションだったらしいよ。ライヴなのに、観客は曲が始まり、終わるまで拍手をしてはいけないんだ。(笑) なにしろ、レコーディングだからだよ。いまどき、オーヴァーダビングが当たり前だろう。そんな中で、そういうアナログ的なところが大好きだな。しかも、彼はものすごくすばらしいソングライターだ。この『ウエイリング・ウォール』もすばらしい歌詞を持っているだろう。(といって歌詞をさらさらと暗誦し、説明する)」

「海を渡る高貴な老女がいる。それを見て僕はあの物語を思い出す。夜明けから日暮れまで、彼女の叫びが聞こえる。嘆きの壁の前で」 「ウエイリング・ウォール」は嘆きの壁、あるいは、泣き叫ぶ壁のことだ。ただ泣くのではなく、泣き叫ぶ、う〜〜とうなって泣いたりするニュアンスだ。ピアノをバックに歌われるこの曲はトッドの1971年発売のアルバム『ラント〜ザ・バラッド・オブ・トッド・ラングレン』に収録されているが、シングルカットはされておらずヒットチャートには入っていない。しかし、トッドのファンはこの名曲をみな知っているようだ。

ケイが言う。「泣くことって、別に悪いことじゃないと思うんだ。誰かが泣いていると、みんなすぐ『もう泣くなよ』って言って泣くのを止めるだろう。でも、泣くのって、すごくストレスの発散になるし、体にもいいと思う。泣きたい時は泣けばいいんだよ。だから、この『ウエイリング・ウォール』の歌詞にはものすごく感銘したんだ」

「去年(トッドが)日本に来ただろう。見に行ったよ。すごくファンがいたんで、話はできなかったけど、彼ともし一緒にプレイできるなら、ノーギャラでもいいとさえ思う。つまり彼と一緒にプレイできるということは、それだけであるレヴェル以上のミュージシャンだということになるからね。とてもクリエイティヴなアーティストだ。尊敬に値する人物だよ」

ケイリブはそのトッドの音楽を知ってから9年を経た99年、マンデイ満ちるのバックバンドの仕事でヨーロッパに行った。いくつかヨーロッパの国を周り、数日オフを取りロンドンに向かう。ロンドンの友人と共に、彼はエルサレムに小旅行へ行った。特に深い理由はなかった。ロンドンあたりからだとちょうどいい距離の旅行だった。

そして、エルサレムの友人が彼らをとあるところに連れて行った。そこは大きな本当に大きな壁だった。そして、人々が皆その壁に向かって、叫び、泣いていたのだ。ケイは、それまでそんな壁があることさえ知らなかった。それを見た瞬間彼は叫んだ。「ウエイリング・ウォール(嘆きの壁)だ!!」 それまで何度となく聴き、口ずさんでいた「ウエイリング・ウォール」が目前にあった。「もう、なんと言ったらいいか、わからなかったよ。感激したね。トッドがこの壁に来たことがあって、曲を書いたのかどうかは知らない。来たことがあるのかもしれないし、ないかもしれないけど、何かで読んだりして書いたのかもしれない」 だが、その壁の前でケイリブの脳裏にはトッドの透明感のある歌声がめぐっていた。

トッド・ラングレンはフィラデルフィア出身だ。ケイが言う。「ダリル・ホールの歌を聞いたときに、なんとなくトッドに似ているなあって思っていたことがあってね。そしたら、あのホール&オーツたちは、トッドのバックコーラスをやっていたこともあるんだ。同じフィリー出身だからね」 Uが付け加える。「じゃあ、この曲のニック・デカロのヴァージョンは知ってるかい?」 「ニック誰? 知らないなあ」 「70年代に活躍したアレンジャーで、シンガー・ソングライターといったところかな。74年のアルバム『イタリアン・グラフィティー』の中でカヴァーしてるんだ。それにはデイヴィッドTなんかもギターではいってるよ」 「へえ、それは聴いてみなきゃ」

フィラデルフィアで生まれた曲が、エルサレムを経て代官山までやってきた。僕まで32年かかってたどり着いたその曲「ウエイリング・ウォール」をリピートで何度も何度も聴いている。新たなる名曲の出会いに感謝。


(2003年10月23日代官山・XEX(ゼクス)・The BAR)

(明日は「フィールン・ソウル」のお話です)
光影。

う〜ん、ドキュメンタリーでこんなに感動するとは・・・。予想外の展開だった。そこにはアンサング・ヒーローたちそれぞれのドラマがあった。ドキュメンタリー映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン』だ。

シネカノンで2004年2月頃の公開が予定されている。そして、その字幕付き試写を見た。前に一度少しだけ書いたが、DVDを入手したものの、リージョンコード1のため、テレビにつけているDVDプレイヤーでは見られず、未見だった。ただパソコンでは見られたのだが、小さい画面で見るのもなんなんでほっておいたら、試写の案内がきたので喜び勇んで飛んでいった。

すべてはヒッツヴィルから始まった。ヒッツヴィルとは、モータウン・レコードの本社があったデトロイトのその建物の愛称だ。そのヒッツヴィルの建物は、実際に行ってみると郊外のどこにでもあるような何の変哲もない実に小さな一軒家である。60年代、ここでは昼夜問わずレコーディング・セッションが繰り広げられ、そこからは次々とアメリカを、世界を揺るがすヒット曲が生まれていった。

映画は「エルヴィス、ビーチボーイズ、ストーンズ、そして、ビートルズ。彼らが獲得したナンバーワンをすべて合計しても、彼らにはかなわない。だが、その彼らの名前を知るものはいない・・・」という字幕で始まる。彼らとは「ファンク・ブラザース」。60年代に大活躍したモータウン・レコードのすべてのヒット曲のバックをつけていたスタジオ・ミュージシャンたちのことだ。彼らがかかわった全米ナンバーワン・ソングの数は、確かに前述のアーティストたちの合計をも超えるだろう。しかし、彼らに脚光が浴びることはなかった。

この『スタンディング…』はそうしたアンサング・ヒーローへスポットをあて、彼らの物語を浮かび上がらせる。元はドクター・リックスが書いた同名の著作(全米では89年に発売)を映画化したもので、映画版もドクター・リックスが深くかかわっている。同本は『伝説のモータウン・ベース、ジェームス・ジェマーソン』(リットーミュージック)として日本でも96年に発売されている。この本で紹介されるエピソードなどが、登場する本人たちの生の声で語られる。そして、映画版の製作企画は89年から始まり13年の期間を経て完成をみた。実際の撮影は2000年冬に約6週間で行われ、2002年11月に公開された。

その中心は伝説のベース奏者ジェームス・ジェマーソン。天才ベース奏者の破天荒な生き様が仲間のミュージシャンたちに、面白おかしく、ときに悲しく語られる。そのエピソードの豊潤なこと。彼のベースには「命」が吹き込まれているんだという息子ジェームス・ジェマーソン・ジュニアの説明には実に納得した。

映画の前半は少々ゆったりしたところがあるが、後半は一気にくる。ギタリストで故人となったロバート・ホワイト、彼についてドクター・リックスが語る。「私がロバートと(LAで)レストランに入った時のことだ。ちょうどその時、『マイ・ガール』(テンプテーションズの大ヒット。あの有名なイントロのギター・リフはこのロバートが作り、プレイしたものだ)がかかった。彼はちょうどそこにいた給仕に『なあ、この曲・・・』と言いかけて、止めてしまった。私は訊いた。『どうした、何を言おうとしたんだ』 彼は言ったよ。『この曲のギターはオレが作ったんだ、と言おうと思ったが、どうせ、そんなことを言ってもおいぼれのたわ言にしか聞こえないだろうと思って、言うのを止めたんだ』」 世界中の誰もが知っているであろうあのギターリフの作者のそのときの気持ちはいくばくのものか。彼もまたスポットの当たらなかったアンサング・ヒーローのひとりだ。思わずぐっときた。

様々なエピソードが実におもしろい。初めて知った話もいくつもある。マイケル・ジャクソンが「ムーンウォーク」を初めて世界に披露したことで有名になったモータウン・レコードの創立25周年イヴェント『モータウン25』の会場に、ジェームス・ジェマーソンは人知れずチケットを買って、入場していた。

このドキュメンタリーでは若干の再現シーンもある。また、最近のアーティストたちが現存するファンク・ブラザースをバックに彼らの代表曲を歌うシーンがいくつかでてくる。その模様は、CD盤のサウンドトラックでも聴ける。http://www.allmusic.com/cg/amg.dll?p=amg&;uid=CASS80305190557&sql=Ao1r67ub030jf 

マーキー(ライヴハウスなどで歩道につきでている看板)に「FUNK BROTHERS」の文字が浮かび上がっている。今夜は彼らが今のシンガーたちとともにライヴをする特別な日だ。イントロで、ファンク・ブラザースの面々がひとりひとりMCに紹介されてステージに登場する。そのとき、彼らはすでに故人となったメンバーの写真を持って、椅子に立てかけていく。こうして舞台には今も現役で活躍する老齢なファンク・ブラザースの面々と故人となったメンバーが勢ぞろいする。そして、そのファンク・ブラザースをバックにシャカ・カーンとモンテル・ジョーダンが「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」を歌う。マーヴィンとタミー・テレルで、さらにダイアナ・ロスでも大ヒットになった名曲である。このシーンにもこみあげるものがあった。

実にいいインタヴューぶりを見せていたミッシェル・ウンデゲオチェロが声をかぶせる。「ヒッツヴィルは、結局、建物ではなかったのです。ヒッツヴィルはその中にいる人々だったのです」 その通り! すばらしい締めの言葉だ。

誰もがスティーヴィー・ワンダーを知っている。マーヴィン・ゲイを知っている。ダイアナ・ロスを知っている。テンプテーションズを知っている。フォー・トップスを知っている。だが、彼らファンク・ブラザースを知っている人はほとんどいない。それは音楽に潜む光と影だ。そして、この映画は正にその「影」に「光」を与えたのである。

これは、絶対にたくさんの人に広めないといけないと思った。ソウル好きの人、モータウンの音楽で育った人は必見です。

映画『モータウン(仮題)』(シネカノンで2004年2月公開予定)

(明日は「ウエイリング・ウォール」という曲のお話です)

レッドゾーン。

最近オールドスクール系の座って見るライヴが続いていたせいか(笑)、久々に若くて、めちゃくちゃ勢いのあるアーティストのライヴを見た感じがする。キーボード3人、ギター、ドラムスにコーラス3人といういかにも現代風のバンドを従え、真っ白な上下(ちょっとジャージ風に見えたが)で颯爽(さっそう)と登場したのはクレイグ・デイヴィッド。

いきなり「スリッカー・ザン・ユア・アヴェレージ」で、あげあげ。さらに「7デイズ」「タイム・トゥ・パーティー」へ。お台場ゼップの一階は、まさに立錐(りっすい)の余地がないほどの超満員。僕は二階で見ていたが、バンドが繰り広げる大音量に思わず圧倒されそう。キーワードを挙げれば、「勢い」「旬」「かっこいい」「何をやっても様になる」といったところ。まさにその勢いはレッドゾーンを超えている。

例えば、ボビー・ブラウンが人気爆発していた頃、あるいは最近だとデスティニー・チャイルドの天下無敵のライヴなどと同質の「勢い」を感じた。特徴的だったのは、演奏各曲が皆短いということ。だいたい3-4分で終わるから次々とプログラムが進む。これはいい。僕の個人的な一番のお気に入り曲「ヒドゥン・アジェンダ」では、ドラムス、ギター、ベースを軸にいい感じでしあげていた。アコースティックのギターもいい雰囲気。すべてがいかにもUKソウルな雰囲気だ。

5曲目の「ラスト・ナイト」でバックコーラスのひとりの女性シンガーが歌った。これがうまいの、迫力あるの、びっくり。その名をプリシラ・ジョーンズという。彼女はもう一曲「ユー・ノウ・ザット」でもフィーチャーされた。

ちょっとバックステージに行き、彼女がいたので話してみた。「すごい声ですね。びっくりしました。クレイグとは何年くらい?」 「3年くらいかな」 「その前は?」「90年代に、ニュー・カラーズ(Nu Colours)というグループにいたの。『スペシャル・カインド・オブ・ラヴァー』(96年のヒット)とか『デザイアー』なんて曲がヒットしたわ。その後、ミュージカル『ママ・アイ・ウォント・トゥ・シング』のアンダースタディー(代役)でいろんな役をやったわ」 「なんかあなたはチャカ・カーンを思わせますよ」 「あら、それはありがとう。チャカのバックもやったことあるわ。彼女がイギリスに来たときに」

その後クレイグと軽く面会。すると彼が「上のほう(2階)に座っていただろう。見えたよ」と言う。確かに、2階の一番端っこではあったが一番前ではありました。客席を照らす時があり、そういうときに見えるのかもしれない。レコード会社の人が10万枚のセールスを記念したゴールドディスクを授与。「今回は一回だけの公演でしたが、次回はもっと大々的にツアーをやってください」との日本側の挨拶に「もちろん、次はもっとやりたい」とのコメント。クレイグは言う。「『スパニッシュ』の時、客がものすごくエキサイトしていただろう。すごいね」 彼はかなり早口でまくしたてる。彼の楽屋にはプレステーション2のモニターがあり、CDプレイヤーではマイティー・クラウンの新譜が大音量で流れていた。

今回の来日は、アジアツアーの一環で行われた。元々予定されていた韓国あたりの日程がキャンセルとなったために急遽日本での公演が決定した、という。韓国に感謝だが、次回はじっくり日本ツアーをしてもらおう。ライヴはアンコールを含めて71分。テンポがはやく、曲が短いからこんな時間なのだろう。だがそれほど短いとは思わなかった。なんと言ってもクレイグのライヴは、レッドゾーンを超えたヤバ〜イライヴだった。

Setlist 2003.10.22 Live at Zepp Tokyo

show starts 19:37

1. Slicker Than Your Average
2. 7 Days
3. Time To Party
4. What’s Your Flava
5. Last Night
6. Eenie Meenie
7. Hidden Agenda
8. You Don’ Miss Your Water
9. World Filled With Love
10. You Know What
11. Walking Away
12. Spanish
13. Rise & Fall
14. Fill Me In

Enc. Rendezvous
Enc. Rewind

show ends 20.48

(2003年10月22日水・お台場ゼップ東京=クレイグ・デイヴィッド・ライヴ)

(明日はモータウンのバックミュージシャンを描いたドキュメンタリー映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン』のお話です)


紙ジャケ。

アースの紙ジャケが2003年10月22日に5作発売されました。『太陽の化身』『暗黒への挑戦』『灼熱の狂宴』『魂』『太陽神』です。この中で『灼熱…』は、オリジナルがリリースされたときは、いわゆる2枚組のアルバムでした。それが今ではシンプルに1枚のCDに収まります。ボーナストラックもはいっていずれも1890円(税込み)ですから、非常に買いやすい値段ですね。

今ちょうど『暗黒への挑戦(That’s The Way Of The World)』(1975年)を聴きながら書いていますが、やはりいいアルバムですねえ。

なんだかこの紙ジャケっていうのは、ミニチュア・カーみたいでかわいいですねえ。オリジナルが30センチ四方の大きさなのに比べ、これは13.5センチ四方に収まっている。しかも、『暗黒…』などは、ダブルジャケットになっています。

紙ジャケはプラスチックケースと比べると薄いので場所も取らないし。みんな紙ジャケになったら、収納スペースも3分の1でよくなるかなあ。最近はCDの整理をどうするかが世界的規模の大問題となっているので、たとえ1ミリでも薄いジャケットは大歓迎です。(笑) じゃあ、全部プラケースをはずして、ヴィニールの特製ジャケットに入れかえればいいじゃないか、と言われるのですが、なかなかそれがめんどくさくてできません。(笑) ただし、紙ジャケはプラケースと違って、上のほうにどんどん積み重ねられないですねえ。これは困ったもんだ。

もうひとつ、紙ジャケだと帯をどうするかっていうのが地球的規模の問題ですね。プラケースならその中にしっかりはいるからいいが、紙ジャケの場合外側のヴィニール袋と一緒にいれておかないとうまくない。このヴィニール袋というのが、CDを取り出すときにけっこうやっかいです。糊が微妙にくっついたりしてね。じゃあ、それも特製のCDケースのヴィニール袋に詰め替えろ、って? う〜ん、それもめんどくさいですねえ。(笑) う〜〜ん、一長一短、これぞ帯に短し襷(たすき)に長しだ。(!)

おっと、話がそれました。今年はジェームスブラウン関係の紙ジャケもものすごく点数がでて話題ですが、これからなんでも紙ジャケになっていくのかな。書いているうちにCDは、『太陽神』になりました。これも傑作です。

(明日はクレイグ・デイヴィッドのライヴ感想文です)

I’m In A Koop Mood 

2003年10月22日
クープ。

スウェーデン出身のグループ、クープのライヴ。いわゆるDJ系、クラブ系のサウンドでした。イギリスのDJジャイルス・ピーターソンに認められて世界に飛び出したという。クープのスペルは、Koopだが、元々はCooperation、協力を意味し、しゃれでCをKにしたわけです。

ドラム、ベース、キーボード、ヴォーカルなどオンステージには6人。なんとリードヴォーカルの女性ユキミ・ナガノは、日系の2世シンガーだという。見た目には、普通の日本人のように見えます。

個々のミュージシャンの力というより、クープとしての空間の音感、スペースの質感などがうまく形作られているという雰囲気。要はクラブ系、ちょっとおしゃれ系の雰囲気があるというライヴだった。

ものすごく印象的だったのは、バックに映し出していた映像。その場のライヴを何台かのカメラで撮影していたものを流していたが、照明の関係で全体的にモノクロの映像がスクリーンに映し出されました。そこに、真正面にリードシンガー、ナガノが赤い洋服を着ていたので、モノクロに赤だけが彩りを生み出していた。その真っ黒の中の赤を見て、かつてのコッポラの映画『ランブルフィッシュ』を思い出した。あの映画は、全編モノクロ。だが、ランブルフィッシュ(魚)だけが、赤く映っていたのだ。それは非常にインパクトのある絵だったんです。

たしかに、クープな気分になりました。

(2003年10月20日月曜・東京ブルーノート・ファースト=クープ・ライヴ)

クープ・ブルーノートのページ
http://www.bluenote.co.jp/art/20031020.html

クープ・オフィシャル・HP
http://www.dieselmusic.se/koop/

(明日はアース・ウィンド&ファイアーの紙ジャケットのお話です)

一度。

マイケル・ジャクソンが来月新作を出します。といっても、これまでのヒット曲を集めた『ナンバー・ワンズ』というベスト物。これに一曲だけ新曲がはいります。それが、「ワン・モア・チャンス」というR.ケリーがプロデュースした作品です。全世界で10月20日解禁ということなので、今日からFMなどでかかり始めるでしょう。

R.ケリーはかつてマイケルに「ユー・アー・ノット・アローン」を提供して大ヒットさせました。その夢よもう一度という感じでしょうか。いかにもR.ケリーらしいソウルバラードです。

つくづくマイケルはこうしたバラードがうまいな、と改めて感心してしまいます。僕はマイケルが『オフ・ザ・ウォール』のようなリアル・ミュージシャンを中心にした、打ち込みを前面にださないアルバム、あるいは、アンプラグドな作品で、彼の歌をじっくり聴かせるアルバムを作れば、絶対また爆発的ヒットになると思っているんですけどね。

「ユー・アー・ノット・アローン」なんてものすごくいい例ですよね。だから、今度の新曲にもちょっと期待しています。前作は全米一位初登場になっていましたが、これはどうでしょうね。楽曲的には、「ユー・アー・・・」のほうが強い感じはしますが。もちろん一位初登場になったところで驚きません。

マイケルは、ひょっとするとこのアルバムで現在のレコード会社ソニーとの契約が切れるはずです。最後の花道を飾ることができるか。「ワン・モア・チャンス」は、もう一度、ということですね。この曲がマイケルにとってもう一度のチャンスになるか。注目です。

(明日はクープのライヴ感想文です)


レジェンド。

サム・クックのDVD『レジェンド』を見ました。なるほど、おもしろい。そういえば、今まであまりサムが話すところとか、歌うところの映像なんてほとんど見たことがなかった。それがふんだんにでてきます。ソウル、R&Bの世界での初ヒット「ユー・センド・ミー」が57年、そして、64年12月の死まで彼の作品がヒットしたのは、だいたいこの7年間の間のことです。R&Bの歴史の中でもっとも重要な一ページをしめるひとりでもあります。

レイ・チャールズ、サム・クック、オーティス・レディング、マーヴィン・ゲイ、ジェームス・ブラウン、ダニー・ハザウェイ、 スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリンなどなど、多くのジャイアントがいますが、サムはその中でも特別です。歴史はその7年間に凝縮されています。

ゴスペル時代から、すでにハンサムで洋服のセンスがおしゃれで、頭が切れて、歌がうまかった。よってその頃からいつも女の子にもてもてだった。その彼がゴスペルの世界からポップなR&Bの世界に進んだら、大スター間違いなしです。

このドキュメンタリーは、彼の生涯を作家ピーター・グラルニックの構成・台本で描いたもの。多くのアーティストもインタヴューに答えます。中でも、ルー・ロウルズ(相変わらず低音がかっこいい)、ボビー・ウーマック、アレサ・フランクリンなどのインタヴューは実におもしろい。

アレサとサムがあるとき、ホテルの部屋でいいムードになったら、そこにアレサを探す父親の大きな声が聞こえて、アレサはそれにびっくりして、すぐさま父親にばれないように自室に戻った、という。もし、サムとアレサが結婚でもして、子どもが生まれていたら、これ以上のサラブレッドはいないでしょう。どんな子どもになっていたんでしょうね。アレサとサムの子どもなんて、想像しただけで、ソウルフルです。

このドキュメンタリーは元々2001年アメリカのケーブルテレビで放送されました。それを元にDVDを制作したものです。このDVDでは本編(約70分)で使われなかったアーティストたちのインタヴュー素材がふんだんに別チャプターで収録されています。長さにして約120分。これはすごい。まだこちらのほうは、全部は見てませんが、ここがDVDの情報量のすごさですね。

ウーマック&ウーマックのリンダ・ウーマック・クック(今は名前をゼリイヤに変えています)も登場。非常に勉強になります。新しく知ったことばかりですが、サムはものすごい読書家だったんですね。「とにかく、本を読め。そうすれば、いい詞が書ける」とボビー・ウーマックに言ったりしてた。「誰にでもわかる言葉で、はっきりした発音で歌え。そうすれば、メッセージは伝わる」など、重要なことが次々と語られます。ボビーはもごもご歌っていると怒られたそうです。日本の歌手なんて、サムからしたらみんなもごもご歌ってるって感じてしまうでしょうね。サザンなんか完璧にダメだしされるでしょう。(笑)

南部での人種差別のことなんかも事細かにでてきます。そして2度出演したニューヨークの一流クラブ「コパカバーナ」のことなども紹介されます。

こういう良質のドキュメンタリーは、ぜひNHKあたりでオンエアして欲しいですね。DVDお勧めです。アメリカ盤も日本語字幕入りでOKですし、日本盤も秋には発売される予定です。


(明日はマイケル・ジャクソンの新曲「ワン・モア・チャンス」についてです)
呪い。

クレメンスとマルティネス。大リーグを代表するもっとも強力な二人のピッチャーの対決は、かなりの接戦が予想された。どちらの投手からもなかなか点など取れそうもないからだ。ニューヨーク・ヤンキーズがリーグ優勝シリーズでゲーム7(第7ゲーム)までもつれたのは46年ぶりだという。特にゲーム6を松井のまずい守備をきっかけに落として3勝3敗になった時には流れはボストン・レッドソックスに傾きかけていたかのようだった。ゲーム7は明日なき戦いだ。明日以降があるのは、どちらかの勝利チームだけだ。

接戦の予想に反して、ゲーム7は4回を終了してなんとボストンの4−0となった。ボストンは、リーグ優勝ペナントに片手をかけていた。ニューヨークはジアンビーの2連続本塁打で4−2としたものの、8回一死からリリーフのウェルスがさらに1点を取られ5−2。2点差ならともかく、残り2イニングで3点差は、相手がマルティネスだけにかなり敗色濃厚になってきた。ニューヨークはウェルスへの交代が失敗に思えた。

8回裏マルティネスは1死をとる。3点差、あとアウト5つでワールド・シリーズへの扉が開く。だが続くジーターが2塁打で出塁、すぐにウィリアムスのヒットでホームに戻り5−3。それでも2点差。ここでボストンのリトル監督がマウンドのマルティネスのもとに進む。監督はマルティネスに尋ねた。「奴を退けるだけの弾はまだあるか」 マルティネスは答えた。「あるよ」 「オレは絶対に、ノーと言わないんだ」 マルティネスはここまで115球を投げていた。彼は振り返る。「監督を責める理由なんて何にもない。彼がプレイしてるんじゃないからな。プレイしてるのはオレなんだからね。アンタがオレを判断したり、非難したり、あるいは、呪ってみたり、まあ、なんでもいい、オレは甘んじて受けよう。すべてオレの責任だからな」 

監督はベンチに戻り、マウンドにはマルティネスが残った。監督は言う。「マルティネスは一年を通して我がチームの主役なんだ。こういうピンチの時こそ、ブルペンの誰よりも彼にマウンドに立っていてもらいたいんだ。それにポサダにはいいピッチングをしていたしね。実際、(ポサダは)差し込まれていただろう」 続投の決断が下された。続いて松井。2−0から松井は強烈な打球をライト線に放つ。しかし、クッションボールが観客に当たり、ウィリアムスは3塁ストップ、松井は2塁で止まった。そして、マルティネスの運命の123球目、続くポサダの打球はマルティネスの球威に押されるものの2塁、ショート、センターの間にぽとりと落ちるヒットとなり、2人が帰りついに同点となった。すべては振り出しにもどった。マルティネスはマウンドを下りた。

ニューヨークは投手交代をして過ちを犯した。ボストンは交代せずに過ちを犯したのだ。同点の殊勲打を放ったポサダにピンチランナーが送られた。アラン・ブーンだ。

ニューヨークは9回表から押さえの絶対的切り札リヴェラを送る。息をのむような延長戦、ボストンは10回裏からこのシリーズで第1戦と第4戦の勝利投手となっているウェークフィールドを送りだした。彼のナックルボールにヤンキーズはてこずっていた。ボストンからすれば彼の活躍なしに、このゲーム7の舞台はなかったのだ。リヴェラ対ウェークフィールドは、クレメンス対マルティネスに勝るとも劣らぬエース対決の第二幕だった。それはまさに「明日なき戦い」にふさわしいガップリ四つの決戦だった。リヴェラは完璧なピッチングで11回表を終えた。彼が3イニングを投げるのは非常に珍しいことだった。

11回裏、8回にピンチランナーで入っていたアラン・ブーンにこの試合初打席が回ってきた。7月31日にシンシナティーから移籍してきたばかりの選手で兄のブレット・ブーンは、イチローでおなじみシアトル・マリナーズの2塁手。ブーンのポストシーズンの成績は16打数2安打。とても何かが起こるとは思えなかった。ウェークフィールドが投げた初球、ブーンはバットを振った。ボールは大きく伸びてレフトスタンドに突き刺さった。劇的な幕切れとなった。2勝していても、たった1球で地獄に落ちたウェークフィールド。ほとんどヒットのなかったブーンは、たった1球で大ヒーローへ。あまりの明暗だ。

奇しくも対するナショナル・リーグ、シカゴ・カブスもゲーム6で、あと5つアウトを取ればワールド・シリーズというところまでこぎつけていた。だが、ほとんどアウトにしていたファールボールをファンがもぎとったことをきっかけに、その試合は大逆転負け、さらにゲーム7も落とし、ワールド・シリーズを逃した。今年はあと5つのアウトのところに、大きな鬼門があったようだ。

この日のヒーロー、アラン・ブーンの兄ブレット・ブーンは同じスタジアムのFOXテレビの中継ブースでこの瞬間を見ていた。

1920年ボストン・レッドソックスは金銭で大打者ベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースに売り渡す。それ以来、ヤンキースは26回のワールド・チャンピョンに輝き、レッドソックスは1度たりともその栄光をものにしていない。そして、人々はそれを「バンビーノ(ベーブ・ルースの愛称)の呪い」と呼び、この2チームの因縁となっている。ブーンのサヨナラホームランは、80年以上続くバンビーノの呪いの仕業だったのかもしれない。もっともボストンの選手は皆、それを否定するのだが・・・。

そして、ヤンキーズに再びワールド・シリーズへの扉が開いた。ヤンキーズには明日がやってくる。

(2003年10月16日・メジャーリーグ・ベースボール・ア・リーグ優勝決定戦・第7戦。ニューヨーク・ヤンキース対ボストン・レッドソックス)

(明日はサム・クックのDVD『レジェンド』をご紹介します)

Soul Train Site Starts

2003年10月18日
ソウルトレイン着信メロディー・サイト・オープン

10月6日から、「ソウル・トレイン」の着信メロディー・サイトがオープンしています。これは、アメリカのテレビ番組『ソウル・トレイン』と提携したサイトで、日本のJウエイヴのラジオ番組『ソウル・トレイン』とも連動しています。約1000曲の新旧ソウル、R&Bのヒット曲が登録されており、毎月新曲も追加されます。

さらに、最新情報、新譜情報、来日アーティスト情報、ソウルバー情報、DJリューのコラムなども掲載されています。これは有料のサイトで購読料は毎月300円。これで月15曲までダウンロードできます。

アドレスは、http://www.soultrain.jp 携帯電話各種からアクセスできます。一般のインターネットからはアクセスできません。

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ソウルトレイン。

テレビ番組の『ソウル・トレイン』は1970年、アメリカのシカゴで始まったローカル番組でした。ドン・コーネリアスが司会、制作を担当し、徐々に全国ネットに広がっていきました。今では『ソウル・トレイン』は、ソウル、R&Bのアーティストにとっては出演したい番組のナンバーワンにまで登りつめています。日本でも、以前はTBSで日曜深夜に放送されたり、90年代にはNHK−BSで70年代の番組が放送されました。

今ではプロモーション・ビデオ・クリップというものがありますが、70年代にはあまりそうしたものがなかったので、動いているアーティストの姿が見られるだけで、当初は涙ものでした。70年代には家庭用ビデオもなかったので、その新しい踊りを覚えるにはリアルタイムで一回限りで覚えなければならなかったので、大変だったわけです。

着メロサイト、さっそく僕も登録してみました。最近のヒットも、昔の曲もいろいろあります。16和音なので、けっこうおもしろいです。みなさんも、試してみられてはいかが? 


(明日はヤンキース対レッドソックス第7戦のお話です)
偶然。

元マイルス・デイヴィス・グループで、70年代からソロとして頭角を表し始めたキーボード奏者ロニー・リストン・スミスのライヴを見た。ドラムス、べース、パーカッション&ヴォーカルにロニーのキーボードの4人。ファンクののりはあるのだが、なぜか、ものすごく気持ちいい、どちらというと癒し系とさえ思えるほどの心地よさ。クルセイダーズのファンク感とブラックネスと比べると、かなり違った味わいのジャズ・ファンクだった。クルセイダーズより軽いと言ってもいいのかな。サウンドは、コスミック(宇宙)っぽい感じ、でも、ちょっとは踊れるグルーヴのあるのり。

そこから醸し出されるオーラはアルファー波でも出させるのだろうか。リラックスして、思わずちょっとうとうととしてしまった。ロニーの宇宙のオーラか。客層はクラブ世代というか、クラブでジャズを踊ってきたという風な若い人が多いように見受けられた。

ライヴが終わると、本人を含めバンドメンバーがでてきた。何人かがアナログ・アルバムを持ってきていて、皆に順番にサインを始めた。かくいう僕も実は今日はなぜかアナログを2枚ほど持っていったので、列に並んでサインをしてもらった。

持っていたアルバムの1枚は77年の2枚組ライヴ・アルバム。(ちなみにもう1枚はコロンビアからでている『ア・ソング・フォー・ザ・チルドレン』−79年) 他の人もけっこうこれを持ってきていた。同じアルバムを他の2−3人が持っているのを見ると、なんか照れくさいという気持ちと、「お、同じアルバム持ってるのか」とか「基本だよねえ、これ、これでしょう」みたいな、同志的なつながりを感じたりするからおもしろいもの。

スミスさんに聞いた。「これを録音したときのことを覚えていますか?」 「おお、これか。う〜〜ん、あ、そうだ、確か、このジャケットの写真をとったのは日本人だったぞ」 そこでサインをもらった後、クレジットを見ると、cover photograph: k. abeの名前が。すごいね、ちゃんと覚えてるんだ。「日本に初めて来たのはいつだか、覚えていますか?」 「う〜〜ん」 彼は次の人のサインをしながら考えている。「おっと、字を間違えちゃった」と言って、そのところをちょっと書き直した。「あ、すいません。どうぞ、サインに集中してください」 そして、しばしサインをし終えて「覚えてないなあ。3年くらい前に、ブルーノートに来たよ。最初に来たのは、かなり前だろうな」

そして、みんなと一緒に写真もとっていた。すごく気のいいおじさんという感じだった。しばらくしてライヴ会場を出て1階の外にでると、ちょうどでてきたスミス様ご一行とはちあわせた。「ミスター・スミス、ホテルまで歩いていかれるのですか?」 「いや、キャブ(タクシー)がそこまで迎えにきてるはずだ。キャブで帰るよ」 

この後、久々に石川町の「モータウン」に行った。ダニー・ハザウェイのライヴ盤に続いて、なんとロニーのアルバム『エクスパンション』から「エクスパンション」がかかった。マスターの芦田さんに、「今、これ見てきたんですよ」というと、彼がびっくりして、「え、そうなんですか。来てるんですか? ただなんとなく、かけたんですよ」と言った。この次にかけたのがロイ・エヤーズだった。ダニー、ロニー、ロイというのはなかなかいい流れだ。それにしても、「モータウン」でこういうフュージョン系を聴くのは珍しかったので、あまりの偶然に驚きもひとしおだった。僕からロニーの宇宙のオーラでもでていたのだろうか。

【2003年10月15日水曜・セカンド・ステージ・モーションブルー=ロニー・リストン・スミス・ライヴ】

(明日はソウルトレイン・着メロサイト・オープンのおしらせです)
(映画の内容に若干ふれます。ネタばれを好まない方は鑑賞後にどうぞ。ただしネタばれは最小限です)

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服部半蔵。

サニー千葉(千葉真一)がサイコーにおもしろい。
ルーシー・リューの日本語がサイコーに笑える。
ユマ・サーマンの殺陣がサイコーに楽しめる。
栗山千秋がサイコーに怖い。
梶芽衣子の歌「修羅の花」(英語タイトル The Flower Of Carnage )がサイコーに雰囲気を盛り上げる。
クインシー・ジョーンズの「アイアンサイドのテーマ」がサイコーに緊張感を高める。

タランティーノは、映画界サイコーのヒップホップ・アーティストだ。

クエンティン・タランティーノの98年の『ジャッキー・ブラウン』以来5年ぶりの監督作品『キル・ビルVol.1』を見た。主人公ザ・ブライド(ユマ・サーマン)は元殺し屋。仲間から離れ結婚式をあげているところを、殺し屋仲間に襲撃され銃弾を撃ちこまれるが、4年間の昏睡状態を経て奇跡的に一命を取り戻す。生き返ったザ・ブライドは彼女を襲撃した仲間に復讐を始める。仲間のボスの名はビル。したがって、彼女の命題は「キル・ビル(ビルを殺せ)」。さて、その方法は・・・。

それにしても、このテンポ感というかリズム感。さすがですね。これだけ和物が入って冗長になりそうにもかかわらず、まったくスピード感が落ちることがない。「ゲロッパ」がどうしても、歌謡曲のリズムの映画であるのに、この「キル・ビル」は洋楽、それもソウルのリズムだ。

そして、数多くの昔の映画のいいとこ取りをする手法は、ヒップホップのサンプリング手法とまるで同じだ。そこには、彼が大好きなマカロニ・ウェスタン、カンフー映画、日本のアニメ、日本の時代劇などの要素がサンプリングの如くうまくちりばめられている。タランティーノは、その点で充分にオルタナティヴでヒップホップな監督と
いえる。

相変わらず音楽の使い方がうまい。雪の決闘シーンでのサンタ・エスメラルダの「悲しき願い(ドント・レット・ミー・ビー・ミスアンダーストゥード)」、ユマ・サーマンに怒りがこみ上げる瞬間に流れるクインシー・ジョーンズの「アイアンサイドのテーマ」などさすが。「アイアンサイド」を聴いて「新聞によりますと〜」を思い出す人は40代以上、これからはユマ・サーマンを思い浮かべる人が出てくるんでしょう。

細かいところでおもしろくて笑えるところはいくつもあるのだが、一番気に入ったのはサニー千葉とユマ・サーマンの沖縄のすしバーでのやりとり。ユマが主演賞なら千葉に助演賞をあげたいところ。タランティーノが、カメラの後ろで自分自身笑いをこらえながら演出している姿が思い浮かんだ。

なんと撮影を始めたらどんどん長くなってしまって、結局、2部作になってしまったというこの作品。『キル・ビルVol.1』が10月25日日本公開、そして、この続編は来年春の公開になるという。『キル・ビルVol.1』のエンディング・クレジットが出たとき、「あれえ、ここで終わりかよ」と思わずうなった。途中で終わらないでおくれ。3時間一気でもよかったよ。B級映画を超A級映画の予算で撮影して、ヒップ・ホップ的スピリットを持つ超B級の作品にしあげた。

でも、たくさん血飛沫(ちしぶき)が出るので、そういうのがお好きでない方、心拍数が上がることを好まれない方にはお勧めできないかもしれません。(笑)

ザ・ブライド(ユマ・サーマン)が、沖縄のすしバーで主人(千葉)に人を探している、と告げる。主人が訊く。「それは誰かな?」 ザ・ブライドが答える。「ハットリ・ハンゾー・・・」 それはその主人のことだった。

http://www.killbill.jp/

(2003年10月15日・試写会)

映画『キル・ビル(Vol.1)』(配給ギャガ・コミュニケーションズ)
2003年10月25日から公開。

(明日はロニー・リストン・スミスのライヴ感想文です)
固有名詞。

話は変わりますが、「ムーン・リヴァー」という曲はご存知でしょうか。かなり有名なスタンダード曲です。1961年、大作曲家ヘンリー・マンシーニが音楽を作り、大作詞家ジョニー・マーサーが詞を書いた作品で、映画『ティファニーで朝食を』の中でオードリー・ヘップバーンがギター片手に歌って有名になったものです。ヘンリー・マンシーニのヴァージョン、さらにR&Bシンガー、ジェリー・バトラーのものも61年に大ヒットしています。その他に、アンディー・ウィリアムスのヴァージョンが日本ではよく知られています。カヴァーは多数あります。ブラック系で言えば、ルイ・アームストロング、シャーリー・バッシー、ベンEキング、バーバラ・メイソンなどもあります。

さて、この「ムーン・リヴァー」ってどういう意味でしょう。今まで全然知らなかったんですが、ちょっとひょんなことで調べたら、なかなか面白いんですねえ、これが。今までこの歌詞の意味とかあんまり考えたことなかったんです。「月の川」でしょう。「1マイル(1.6キロ)以上の幅がある大きなムーン・リヴァー、いつか私はあなたを優雅に渡ってみせる」と始まるこの曲。実は、作詞家ジョニー・マーサーの故郷ジョージア州サヴァンナの彼の自宅の裏に流れる「バック・リヴァー」という名前の川の愛称なのです。言ってみれば「ムーン・リヴァー」はそういう名前の実在する川なんですね。固有名詞です。なぜ月の川という愛称がついたかは、不明ですが、例えば、ものすごく幅の広い川だから、そこに月が映った場合とても綺麗に見えたりするので、そうなったのかもしれません。

この歌も、小さな田舎町に住む友達が、世界にでていく夢のようなものを描いた作品です。ここで興味深いのが「ユー(あなた)」が実は川を指しているということです。

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ムーン・リヴァー

ムーン・リヴァー、それは1マイル(1.6キロ)以上の幅の大きな川
いつか、優雅にこの川を渡ってみせる
この川のかなたには夢もあれば、失望もある
川の流れのままに、私は身を任せる
二人の漂流者は、世界を見るために川を進んでいく

世界は大きく、見るべきものは数知れない
私たちは同じ虹のかなたを追い求めている
きっとその虹のかなたには成功が待っている
冒険を共にする友達と、ムーン・リヴァーと私

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「ハックルベリー・フレンド」は、マーク・トゥエインの小説「ハックルベリー・フィン」からきています。これは確か黒人と白人の少年二人がミシシッピー川を冒険していくという物語で、危険も共にするような親友同士的な意味合いがあるようです。

最後の部分の訳がちょっとこなれていませんが、ある意味でムーン・リヴァーは世界にでていく夢の象徴のようなものになっています。この二人は男同士の親友でもよさそうですし、また、恋人同士でもいいのでしょう。映画『スタンド・バイ・ミー』の4人は、まさに「ハックルベリー・フレンド」同士と言えるわけですね。川を渡ってみせる、というのは、この小さな町からでて成功してみせる、という意味ですね。ハックルベリー・フレンドとともにね。そして、作詞家のジョニー・マーサーは、まさにこの川を
渡り、虹のかなたの成功を手に入れたわけですね。

こんな短く、一見単純に見える歌詞なのに、いろいろと物語があるんですねえ。「ムーン・リヴァーは、ジョージア州サヴァンナに実在する川である」  さて、何ヘェーくらいでしょう。


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Moon River
Words by Johnny Mercer
Music by Henry Mancini

Moon river wider than a mile
I’m crossing you in style some day
Oh dream maker you heart breaker
Wherever you’re going I’m going your way
Two drifters off to see the world

There’s such a lot of world to see
We’re after that same rainbow’s end
Waiting round the bend
My Huckleberry friend, Moon River and me

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(明日は映画『キル・ビル(VOL.1)』の感想文です)

消費財。

しばらく前に著作権の話がでました。それと別件で、昨日、5.1チャンネルのいい音でサム・クックを聴いたという話がありました。このふたつの話と関連したお話をしてみたいと思います。

それは、いいオーディオ装置で音楽を聴くと、音楽を聴く姿勢というものが変わるのではないか、ということです。

実は昨年亡くなった叔父が立派なオーディオ装置をもっていて、それを3ヶ月ほど前に譲り受けるという幸運に恵まれました。マッキントッシュというメーカーのものです。以来、これまでに持っていたCDをけっこう聴きなおしたり、新しいCDなどもそのマッキントッシュで聴くようになったのですが、その音が実にすばらしい。そして、今まで何度も聴いた作品を改めてこれで聴くとさらに新しい発見などがあるのです。「あれ、こんな音あったっけ」とか「この音がとてもよく聴こえる」とか、音楽自体を聴くことがめちゃくちゃ楽しくなったのです。

今までは、普通のコンポや車の中などで聴いているときというのは、何かしながら聴くことが多かった。家では原稿を書きながら聴くとか、新譜をまとめて聴くときには、それこそ飛ばし飛ばし聴くとか。ゆっくりアルバムを聴くためだけにスピーカーの前に座るなどということは、まずありませんでした。このマッキントッシュのおかげで、アルバムを聴くことに集中したくなったのです。映画を見るように、アルバム1枚をじっくり聴きたい、そういう時間を作りたいと思うようになったのです。

クインシーの『ベスト』、マーヴィンの『ホワッツ・ゴーイング・オン』、ダニー・ハザウェイの『ライヴ』、スティーヴィーの『キー・オブ・ライフ』、ジョージ・ベンソンの『ブリージン』などなど。今まで忘れていたような楽器の音が、聴こえてきます。

ふと、一体これはどういうことなのだろうか、って考えるようになりました。かつては、買ったレコードはじっくりよく聴いていた。あんまりレコードはたくさん買えなかったので、数少ないレコードを何度も何度もていねいに聴いた。30年前と比べて、今はレコード、CDは非常に買いやすい状況になっています。30年前に2000円だったレコードが、今ではCDで2000円を切って入手できます。物価上昇から比べれば、格段の安さになっています。

そして、ステレオの前に座って、大きな30センチ四方のジャケットをじっくり眺めながら、あるいは、中のライナーノーツを読んだり、ミュージシャンクレジットを見ながら聴いたものです。座って20分も経てば、A面からB面にひっくり返す作業をしなければなりません。レコードには指紋や傷がつかないようにていねいに扱っていました。

今は、CDになって、まあ、指紋がついたところで拭けばいいし、仮に落としたとしても、まず傷がついたりすることはありません。レコードを扱うほどの真剣さを持って、CDを取り扱うことはありません。レコードは貴重品でした。しかし、今、CDはそれほどの貴重品ではありません。これはしばらく前から常々感じていたことですが、今、CDは、まさに消費財になってしまったのです。このことが音楽自体に最大の影響を与えていると考えるようになりました。

ヒット曲、しかもメガヒットが生まれ、それがものすごいスピードで次々と消費されていく。そこから長い時間を経て残っていくものがあるのだろうか、と思うこともしばしばです。では何が音楽を消費財にした張本人なのでしょう。

と考えてみると、思い当たる節があります。それは、79年のウォークマン発売と82年のCDの登場です。

ウォークマンが登場したときにはものすごいものがでてきたと思いました。一言で言えば、音楽が、ひとつのクローズドな空間から一挙に解放されたと感じました。つまりそれまでは音楽は、ステレオ装置の前にいなければ聴けませんでした。それが、ウォークマンの登場で、歩いているとき、公園で、星空の下で、どこでも、音楽を聴くことができるようになったのです。車に乗ってウォークマンで音楽を聴けば、カーステレオで聴く以上に、車の窓から見える風景は映画になりました。音楽を聴く場所がもはや限定されなくなったのです。これは革命です。音楽を狭いリスニング・ルームから解放したのです。

そして、CDが登場します。CDがでてきたときは、音がレコードほどじゃない、とか、でも、便利だとか、いろいろな意見がでてきました。僕も音というよりも、便利さ、使いやすさが気に入りました。しかし、CDというメディア自体がその後20年間に音楽界に与える影響の大きさなど知る由もありませんでした。

今、過去20年を振り返ると、CDは劇的にミュージック・ライフに変化を与えました。まず、便利さ、手軽さ。そして、コピーのしやすさ。収録時間も長くなりました。レコードは20分程度でひっくりかえさなければなりませんでしたが、CDだと70分以上、そのままプレイできます。

1曲目を聴いて、いまひとつだったら、リモコンで2曲目に飛ばせます。アーティストが意図した曲順ではない曲順に並べ替えることもできます。好きな曲ばかりを何度でもリピートできます。以前はアルバムから好きな曲ばかりを繰り返しかけようとしたら、ターンテーブルにはりついていなければなりませんでした。アルバムは、片面20分ですから、じっくり20分聴こうと思えば聴けました。しかし、いまどき60分近く、スピーカーの前に座って音楽を聴くなんてことができるでしょうか。

CDというメディアが誕生して、音楽がどうなったか。結局、みんなフルでアルバムをじっくり聴き込むなんてことをしなくなったのです。いや、私はちゃんと70分じっくり聴いている、という人がいらっしゃったら、ごめんなさい。あなたは、すばらしい尊敬すべき音楽リスナーです。一般的には、そして、かなり大多数の人は、音楽を聴くためだけに聴くということはしなくなりました。言ってみれば、音楽があらゆるところで、あらゆる意味で、BGM(バックグラウンド・ミュージック)化しているわけです。

CDの誕生で音楽が手軽になり、ウォークマンで音楽がたくさん消費されるようになりました。もちろん、それだけ音楽が一部の人だけでなく、幅広く多くの人に到達するようになったという功もあります。音楽がどこでも、いつでも、まあ、そこそこの安価で手に入る。そして、どこでも音楽が聴ける。部屋でも、電車の中でも。街中でも。

これらのことを総称して、一言で言えば、音楽が過去20年で「コンビニ化」したと言えます。そして、コンビニ化した音楽は圧倒的に消費されています。とにかく、音楽が便利で、お手軽になりました。そして、ある意味で音楽がなくてはならなくなった人たちも増えました。それも、功の部分です。

しかしコンビニのお弁当ばかりでいいのか、という問いが必ずでてきます。ちゃんとした料理人が作った食事、あるいは、最近のはやりの言葉で言えば、しっかりした食材を使ったスローフードのほうが体にいいのではないか。今の音楽の消費の仕方は、まさにコンビニ弁当が毎日入荷し、それを消費しているようなものではないでしょうか。

そうして、消費される音楽ばかりがでてくると、今度はその音楽を作る側にも、そうした意識が芽生えてくるかもしれません。実際、音楽を作る力、ミュージシャンの音楽力が落ちてくるわけです。それは消費者がお手軽なコンビニ弁当を好むようになったために、作る側もお手軽な安易な音楽を作るようになるわけです。ミュージシャン、アーティストはリスナーが育てる、と僕は思うわけですが、そういう構図がもはや成り立ちにくくなっているわけですね。

CDが売れなくなって音楽業界は危機感を強めています。もちろん、CDのコピーや無法ダウンロードによって売上が下がっていることも事実でしょう。かなり影響があることは否定できません。しかし、もっとも根本的なことは、音楽自体の力が弱まっているということなのです。音楽も、ミュージシャンの力も弱まっているのです。それは、今挙げたような要素が複合的に絡みあって、そういう悲劇的な事態になってしまったのです。

とは言っても、技術の革新を妨げる必要などありません。CDが生まれなければよかったのか、そんなことはありません。何が必要かといえば、音楽に対峙する確固たる姿勢を持つということです。そして、音楽を作る側は、決して自分の音楽をコンビニ化させないことです。聴く側も、音楽をコンビニを使うように聴かないことです。常に音楽家と聴く側の間に適度な緊張感があれば、その音楽には力が生まれてきます。

きしくもオーディオ雑誌の編集の方が言いました。「今の人は生まれた時からCDやカセットをヘッドフォン・ステレオや小さなコンポなどで聴いてきたから、いい音で音楽を聴くということ自体を知らないんですよ。昔はそれこそ、ロック喫茶、ジャズ喫茶なんかがあって、そういうところでは少なくともちょっとはいい音に触れることができた。でも、今はそうしたことができない。知らないから興味がわかない。よって音にこだわるリスナーは少なくなったんですよ」 なるほど。

何がラジオスターを殺したか。79年、バグルスは「ヴィデオ・キルド・ザ・レイディオ・スター」(ヴィデオがラジオスターを殺した)と歌いました。CDやウォークマン(ヘッドフォンステレオ)も、ラジオスターを殺したのでしょうか。CDやウォークマンが育てた部分も必ずあるんでしょうが。どうなんでしょう。とりあえず、仮説という感じで書いてみました。

(明日は「ムーン・リヴァー」という曲のお話です)
SACD。

オーディオ雑誌Beat Soundから、今度発売されたサム・クックのSACDと5.1チャンネルの新作を特集するというので、その音を聴いて何か書いてくれ、という依頼がきた。で、うちには5.1チャンネルもSACDの再生機もないので、編集部のリスニングルームに出向いて、さんざん試聴してきた。

オーディオに詳しい方ならすでにご存知かと思うが、SACDというのは、スーパーオーディオCDの略で、まあ超簡単に言えば、従来のCDより音がいいというCD。この方式で『サム・クック・リマスタード・シリーズ』と題され、アメリカ・アヴコから発売されたものが、日本でも輸入盤に日本語解説・歌詞などがつけられ発売された。発売されたタイトルは、『エイント・ザット・グッド・ニュース』『トリビュート・トゥ・ザ・レイディー〜ビリー・ホリデイに捧ぐ』『ポートレイト・オブ・レジェンド』『キープ・ムーヴィング・オン』そして、『ライヴ・アット・ザ・コパ』。さらに今秋『サー・レコーズ・ストーリー』も出る。この中で、『ライヴ…』が5.1チャンネルでのリマスターになる。これに加え、すでに本ホームページでも話題になったサム・クックのDVDも発売されることになっている。(これは発売が延期になっている)

さて、通常のCDとSACDを比べると、SACDのほうが一言で言えば音に広がりがある。通常左右のスピーカーの真中に座って音楽を聴くと、左右の感覚というものはわかりやすいが、このSACDだと、左右も微妙な左右の感覚の違いがわかる。ギターの位置が左から少しセンター寄りとか、ドラムスが中央にいながら、ハイファットの音が移動したり、とか。さらに、前後の感覚もよくわかる。奥行きがどーんと出る。さらに、今回驚いたのは上下の感覚も時としてわかるという点だ。目をつぶってサム・クックのCDを聴いていると、本当に目の前でサムが歌っているように思えてくるほどリアルだ。

ちなみにこれらサムのSACDは、通常のCDプレイヤーでもかけられるようになっている。仕組みは、SACD用の音のデータと通常のCDプレイヤー用の音データがふたつ入っていて、それをプレイする機械に応じて、自動的に再生されることになっている。さて、SACDのよさはとりあえずわかった。そこで、最後に5.1チャンネルの『ライヴ・アット・ザ・コパ』を試聴したのだが・・・

簡単に5.1チャンネルを説明すると、スピーカーは6本。左右2本、その中間のセンターに1本、背後に左右2本、そして、適当なところに低音専用のウーハーという種類のスピーカーの計6本を置く。それら6本のスピーカー中央で聴くので、360度音に囲まれることになる。

この『ライヴ・アット・ザ・コパ』はアナログ時代に何度も聴いていた。しかし、この5.1チャンネルで聴いて、ぶっとんだ。驚きました。リスニング・ルーム、完璧にライヴハウスだ。目の前でサム・クックが生き返った。歌ってる、サムがすぐそこで。拍手や食器などのかちゃかちゃいう音が実にうまくその会場の雰囲気を再現する。これは、すごいわ。どうなってるの? って感じだ。元のテープはおそらく2チャンネルか、あっても3チャンネル。それがなんで、5.1になるんだろうか。(笑)  というか、そういうことが技術的にできるようになり、その高度な技術を持ったエンジニアがその奇跡を起こしたということなんですね。

1964年6月7日、8日にニューヨークの有名なクラブ、コパカバーナで行われたライヴだが、2003年の今日、瞬時にニューヨークという場所と、1964年の時代にトリップさせてくれた。サムの歌も、なんかこう直接はいってくる。もうありとあらゆるライヴ・アルバム、5.1チャンネルにして欲しいと思った。

これは元が2か3チャンネルからここまで出来てしまうわけだから、最初から5.1で録音するつもりだったら、もうライヴそのままを記録できてしまう。恐るべし。秋葉原のオーディオ・ショップなどに行けば聴けると思うので、ぜひ一度お試しあれ。音楽に対する価値観が変わるかもしれない。

(明日は何が音楽を消費財にしたのか、誰がラジオスターを殺したのか、ということへの仮説を書いてみます)


唯一無比。

今年夏の東京ジャズでのピンチヒッター出演を見逃した者としては、ちょっと久々のシャカ・カーンだったので期待しました。全9曲のコンパクトなライヴ。第一印象は、まあ、それにしてもよく声がでてる、ということ。声の状態は完璧ですね。ルーファス時代の作品を4曲もやったのは意外かも。「ユーヴ・ガット・ザ・ラヴ」「テル・ミー・サムシング・グッド」「ハリウッド」「スイート・シング」といずれもいい曲ばかり。

ベース奏者がまるで若かった頃のルイス・ジョンソンみたいでかっこよかった。シャカの弟マーク・スティーヴンスの演奏もなかなか。バックバンドはしっかりしている。なにより面白かったのが、バックコーラスの4人の女性シンガー。どこかしら皆シャカ・カーン風なのだ。かつて、シャカのバックコーラスをやっていてその後ソロに転じたヴェスタ・ウィリアムスもレコードではずいぶんとシャカっぽいところをだしていたが、この日のバックコーラスもそうだった。やはり、シャカのバックをやるとシャカに似てしまうのかな。それだけ、シャカの影響が強いということでしょうね。

シャカのライヴは70年代の初来日から見ているが、この人は一時期、ライヴが良いときと悪いときの差がめちゃくちゃ激しかった。ものすごく良かったのは、90年代初期の横浜の今はなきアポロシアターで見たときのもの。もう完璧に最高で、以来シャカが来たら必ず見に行こうと決意をさせられたライヴだった。最悪だったのは、80年代のどこか、場所も思い出せないほど。途中ででようかと思ったくらいだ。だが、90年代後半以降は、非常に安定していて、いい声を出している。

今日も、声はよくでているし、歌もうまいし、文句ない。だが、アンコール予定曲(「エイント・ノーバーディ−」)はやらないし、9曲目に予定されていた「スーパーライフ」というのもやらなかったような気がする。なんかちょっとだけやった曲があったんだけど、あれかな。よくわからない。調子悪かったのか、ご機嫌悪かったのかなあ。

ちなみにアリーナ席は全部ブロック制のスタンディング。けっこうぎゅう詰でした。

今回印象に残ったのは、スティーヴィーの作品でアレサ・フランクリンの持ち歌で知られる「アンティル・ユー・カンバック・トゥ・ミー」。これをギター一本のバックで熱唱した。これは、いい。スティーヴィーの曲とシャカの歌は本当によくあう。というわけで、これに続いて歌われたのはやはりスティーヴィーの作品でルーファスとしての実質的な初の大ヒット「テル・ミー・サムシング・グッド」でした。

シャカ、今残念ながらレコード会社の契約がないそうです。そんな、信じられないですねえ。でも、彼女はワン&オンリーなシンガーです。日本語に直すなら唯一無比でしょうか。

Setlist

show starts 20.15

1. I Feel For You
2. Whatcha Gonna Do For Me
3. You’ve Got The Love
4. Until You Come Back To Me
5. Tell Me Something Good
6. Hollywood
7. Sweet Thing
8. My Funny Valentine
9. (Whip In The House?) I’m Every Woman

show ends 21.14

【2003年10月10日金曜・日本武道館=シャカ・カーン・ライヴ】

(明日は、サム・クックのSACD、5.1チャンネルのお話です)

Reunion With Old Friends

2003年10月11日
再会。

昨日のライヴの続き。大げさに言えばあまりにファンクなライヴだったので、見終わった後、脱力した、と言っても過言ではないほどだった。そこでこれは、ジョーやレイに会ってなにか話したいと思った。

レイは昨年インタヴューしているし、ジョーはその前の年あたりかインタヴューしたので、まあ、なじみはあるのだが。楽屋に行くとまずレイと目があった。「どうですか。このクルセイダーズの面々と一緒に演奏するのは?」 「おお、すばらしいよ。彼らとはもう何十年って知ってるからね。70年代からかな。彼らとはレコードでもライヴでもよくやってたよ」

「『ゴーストバスターズ』を『クルセイダーズ』に変えてやるアイデアは誰のもの?」 「あ、僕だよ。だって、なんたってクルセイダーズだからね!(笑)」 

フェルダーさん登場。「最初にあなたが吹いた瞬間、もうウィルトン・フェルダーだと思って、感激しましたよ」 「それはありがとう」 「疲れてますか?」 「いやあ、大丈夫だよ。でも、一日2セットはなかなか大変だよ。1セット目はどうしても後のことを考えてしまうね」 「ジョーと同じステージでやるのはいつぶりくらいになるんですか」 「10年ぶりくらいかなあ。このツアーは10月一杯続くんだ。一緒にやること? 昔と変わらず、全然問題ないな」 「しかし、それにしても、ジョーさんはよくしゃべりますね」 「そうか、そうだな。昔はウェイン(・ヘンダーソン)がしゃべり役だったんだがな(笑)」とフェルダー。すると、それを聴いたレイが「へえ、そうなんだ。僕はいつでもしゃべってるよ(笑)」 フェルダー「オレはしゃべらん」と言って首を振る。もっぱら、クルセイダーズのスポークスパーソンは今はジョー・サンプルということになっているらしい。

そして、そこにジョーさん登場。「すばらしいショウでした。ところで、今日はなんでアコースティック・ピアノがなかったんですか」 「でかすぎるからだよ。この人数でアコースティック・ピアノは置けない」 またレイが割り込む。「僕たちが立つところがなくなっちゃうじゃないか。なんだ、隅っこで小さくなってやれっていうのか(笑)」 確かにレイはおしゃべり好きだ。そして、いつもにこにこしている。

レイには兄弟がいて、レイは最初サックスをやっていたが、兄(?)がサックスを取ったので、自分はギターに転向した、という。また今回の来日では自転車を持ってきてホテル周辺を自転車で走り回っているそうだ。ブルーノートにも自転車でやってきたこともあるという。レイ・パーカー、自転車でライヴハウスまで通う! 約20−30分らしいが「楽勝だよ」と。

ジョーと奥さんはテキサスでもかなり田舎に住んでいる。奥さんが言う。「自宅から車で1時間かけて小さな飛行場に行くの。そこで小さな飛行機にのって1時間、それでテキサス・インターナショナル・エアポートに着く。それからロスまで4時間、ロスから11−12時間かしら。遠いわ。ヒューストンは大きいのよ」 またまたレイが参加。「ここ日本では建物はどんどん上に伸びていくだろう。アメリカではどんどん横に伸びていくんだ。だから、いつもフラットなのさ。建物も、みんなせいぜい二階建てさ」 「そういえば、しばらく前だったかな、九州の福岡から北海道までひたすら列車で移動したことがあったな。九州はあったかかったけど、北海道は雪かなんかでめちゃくちゃ寒かったよ。そういえば、この前、北海道で地震があっただろう」 するとそこでレイと話していた女性「ええっ? わたし、知らない」 レイ「何、知らないの? アメリカでもどのチャンネルでもニュースやってたよ。2週間くらい前かな」 「うっそ〜〜」 「彼女は新聞を取っていないし、テレビも見ないらしいよ」 「ホントか? アメリカにいる僕が北海道の地震のことを知っていて、日本にいる君が知らないのか・・・(笑)」 

レイとは名刺交換になった。「じゃあ、何かあなたのことを書きますよ」 「悪いことは書かないで、いいことを書いてくれよ(笑)」

向こうからひとり男性が声をかけてきた。「ハーイ、ニック・サンプルだ」 「? ひょっとして、ジョーの息子さん?」 「そうだよ」 ステージのメンバーを瞬時に想像するが、確か彼はステージにはいなかったはずだ。彼自身ベースを弾くそうだが、今回は演奏のために来たのではない、という。「実は父親の立派な仕事ぶりを見に来たんだ」 そういわれてみると顔がよく似ている。「他に兄弟とかいますか?」 「いや、いない。僕は一人っ子だよ。実は僕はベースを弾くんだ。昔、ブライアン・オーガーなんかと一緒にやっていた。今、モンローというグループをやっているんだ。ロックだよ」 

さっそく調べてみたら、かっこいい子がリードヴォーカルのグループだ。
http://www.alisonmonro.com/index.htm

ニック・サンプル32歳だという。でも、まったくジョーの音楽とは違うようだ。父親のライヴをじっくり見るのは今度がほとんど初めて。前回父親について来日した時、ジョーが倒れてしまって、3日でアメリカに帰国した、という。

ジョー・サンプル64歳、ウィルトン・フェルダー63歳。レイ・パーカー49歳は、彼らからしてみれば子どものような存在か。レイが彼らと一緒に演奏してはしゃぐのも無理はない。

ライヴ会場ではちょうど隣の席に40代半ばと見られるスーツを着た男性4人組が座った。きっと、学生時代にクルセイダーズなどをよく聴いていたのだろう。学生時代の仲間と20年後にその頃好きだったバンドのライヴにみんなで来られるなんていうのは、なかなかいい。ひょっとしたら何年かぶりの仲良しグループの再会だったのかもしれない。あちこちで復活とか再会劇があるのだろう。歴史の長いクルセイダーズはそんな古い友人たちの再会や思い出のフラッシュバックをも演出している。

レイは依然さっきの女性と話しこんでいる。耳元でささやいているのかな。「A woman needs love just like you do...」って。ふふ。

【2003年10月8日水曜・セカンド・ステージ 東京ブルーノート】


ウォーリッツァー君。

「僕は40歳のウォーリッツァー。本当の歳は知らない。少なくとも40歳以上だ。世界で初めてできたエレクトリック・キーボードのひとつ。1963年にジョー・サンプルという人に買われて以来、ずっと彼に仕えている。今まで僕は彼のテキサスのおうちから外にでたことはなかった。ご主人はいつも自宅で僕を弾いていた。だが、どういうわけか、ご主人様、今回僕を初めて一緒に旅に連れて行ってくれることになった。家を出るのも初めてなら、街を出るのも初めて。見たことない世界ばかりだ。しかも、飛行機に乗って、日本の東京までやってきた。テキサスの田舎と比べるとすべてが新しく現代的で、超新鮮。30時間以上の長旅を経て僕が落ち着いたステージは青山のブルーノート。ものすごくかっこいい空間だ・・・」

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立ち見もでている超満員のブルーノート。客席はいやがおうでも期待が高まっている。照明が落ち、バンドメンバーが続々とステージに上がっていく。皆それぞれの名前で活躍しているヴェテランたちばかりだ。ジョー・サンプルの合図でミュージシャンたちが一斉に音を出し始める。そして、サックスのウィルトン・フェルダーが吹き出した瞬間、もうブルーノートの空間すべてがクルセイダーズになった。

おそらく、フェルダーの生サックスを聴くのは10年ぶり以上だろうと思うが、ほんの1秒で、「おおおおっ、ウィルトン・フェルダー!」と心の中で叫んでしまった。10年以上も会っていない友でもお互いよく知っていれば、その会っていなかった冷凍されていた時間が会った瞬間、解凍される。フェルダーのサックスが吹かれ、そして、ジョー・サンプルのキーボードが前面にでた瞬間、あのクルセイダーズが長い冬眠から21世紀によみがえった。

彼らのようなミュージシャンこそ、まさにReal Music By Real Musicians For Real People!  僕の求めるモットーを具現化してくれる勇士たちだ。そして、クルセイダーズの核となる存在がジョー・サンプルとウィルトン・フェルダーであることが如実に表れたライヴだ。

ジョーが曲間で次の曲の紹介をする。「今ここで使っているキーボードはウォーリッツァー社のものだ。ジュークボックスで有名な会社のエレクトリック・キーボードだ。ジュークボックスはニッケル(5セント硬貨)をいれるとレコードがかかるというものだな。ウォーリッツァー社は初期の電気ピアノを作った会社なんだ。1955年、深夜のテレビ番組『スティーヴ・アレン・ショウ』を見ていると、レイ・チャールズが電気ピアノを弾いていた。今まで私は(電気ピアノを)見たことも聴いたこともなかった。だが私はそれを見て、レイ・チャールズに怒りを覚えた。音が気に入らなかったのだ。(客席から笑い) あれは子ども向けのおもちゃだ、ピアノじゃない、って思ったんだ。レイ・チャールズは『悪い奴(bad man)』だと思った。(客席から笑い) そして、59年か60年頃、同じレイ・チャールズがこんなフレーズを弾くのを聴いた」

ジョーがレイ・チャールズの59年の大ヒット曲「ホワッド・アイ・セイ」のイントロのキーボードのところを弾く。客席から「ウォオ〜〜」という歓声。「それを聴いた瞬間、私はレイ・チャールズのことが大好きになった! (客席から笑い) そして、1963年、私はこのウォーリッツァーを購入した。(また客席から笑い) このキーボードは、今まで自分の家から出たことがない。レコーディング・スタジオにも持っていったことはないんだ。なんたって、貴重なアンティークだからな。(笑) そして、初めて日本にこれをもってきたんだ。(歓声)」

それにしてもしっかりしたリズム隊。ケンドリック・スコットのドラムス、フレディー・ワシントンのベース、レイ・パーカーのギター、そして、トロンボーンにスティーヴ・バクスター。完璧に黒いリズム隊。ゴスペル、ジャズ、R&B、ファンク、ソウル・・・。あらゆる要素がぎゅう詰にされたブラックネスがそこにある。

「諸君は、ニューオーリンズに来たことがあるかな。来たことがない? あそこはとても楽しい街だよ。ここにはヴードゥーのクイーンがいる。その名はマリー・ラヴォーという。ニューオーリンズの墓地にラヴォーの墓がある。彼女は1870年代に死んだ。だが彼女のスピリットはニューオーリンズ中に生きている。だからニューオーリンズに行ったら、諸君はその墓地に行き、白い石でできている彼女の墓に黒のペンかなんかでX印を3つつけなければならない。そうしないと、悪いことが起こるんだよ。(笑) だからマリー・ラヴォーの墓にX印を3つつけ、グッドラックになることを祈るよ。(笑)」 そして後ろにいたレイ・パーカーを紹介する。「レイ・パーカーはブラック・マジック(黒魔術)師だ。デトロイトのフードゥー教だ。(笑)」 レイが魔術師よろしく腕を振る。そして始まった「Xマークス・ザ・スポット」では、レイ→ウィルトン→レイ、これにウィルトンとスティーヴという豪華なソロリレーが見られた。

確かにこのバンドは、ジョー・サンプル主導のバンドだ。ウィルトンはこのバンドの一員という位置付け。そして、アンコールの1曲目は新作『ルーラル・リニューアル』のタイトル曲、さらにそれが終わるとやにわにレイ・パーカーがマイクスタンドをステージ中央の前に持ってきた。何かが起こる気配。

「僕が若かった頃、18歳−19歳くらいだった頃、よくクルセイダーズを聴いていた。だから、今日こうやってクルセイダーズと一緒にステージに立てるなんて本当に光栄だ! (大きい声で) クルセイダーズ! 今日はクルセイダーズの夜だから・・・僕は、「パーティー・ナウ・・・」(節をつけて歌いながら)などは、歌わない。僕は、「ア・ウーマン・ニーズ・ラヴ」も歌わない・・・(拍手) 「ゴーストバスターズ」も歌わない。やるとするなら、僕たちは今日、ジャズ・ヴァージョンでやってみよう。いいか、簡単だよ。Who you gonna call? (誰を呼ぶんだ?) と言ったら、みんなはGhostbusters! じゃなくて、クル・セイダーズ! って叫ぶんだ。いいかな?」

「Who you gonna call?」 観客が「クル・セイダーズ!」 レイはギターで「ゴーストバスターズ」を弾きだした。ブルーノートが昔ながらのディスコになった。

ジョー・サンプルの曲にまつわるストーリーは、その作品への理解を深める上で非常に興味深いものだった。およそ10年ぶりのクルセイダーズ復活のライヴは、古き良き時代を思い起こさせるのと同時に、彼らがまだ現役ばりばりのミュージシャンたちであることを改めて知らしめた。1960年にテキサス州で結成されたグループは今年で43年の歴史を数える。79年日本で『ストリート・ライフ』がヒットしたとき、仮に20歳だった若者たちは今44歳。仕事も油がのりきっているところだろう。この日のブルーノートはいつになくそうした40代から50代の人たちの姿が目立った。彼らは今でも音楽を聴いているのだ。だが、それでも20代と思える若い人たちもいた。なんらかの方法で彼らの音楽を知ったに違いない。43年もやっていれば、ファン層も多岐にわたるようになる。

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「これで今日のお勤めもおしまいだ。ふ〜〜。40歳でも僕の音はまだまだ元気だろう? ご主人様は64歳だからね。最低でもご主人様の年齢くらいまでは音を出しつづけるつもりだ。一日に2ステージもこんなに激しく演奏するのは初めてかもしれない。でも、観客の人たちが毎晩毎晩熱狂的なんで、僕もどんどんいい音を出してしまうんだ。横のフェンダー君は僕より10歳くらい若いからね。でも、彼にはまだまだ負けないよ」

ミュージシャンたちが去った後も、1963年にジョーのものになって以来初めて旅に出たウォーリッツァーのキーボードは、そのステージにしっかり座り、ブルーノートの客たちを見ていた。テキサスの片田舎を初めてでてやってきた外国の地、東京はそのウォーリッツァー君にどう映ったのだろうか。

【2003年10月8日水曜・セカンド・ステージ 東京ブルーノート=クルセイダーズ・ライヴ】


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