Aretha’s Last Tour: Is It True?
2003年5月1日最後。
アレサ・フランクリンが全米ツアーにでます。そして、これがこの規模のツアーとしては最後のものになると言っています。4月15日に配信されたニュースです。
アレサは極度な飛行機嫌いで知られます。現在はデトロイトに住んでいますが、ロスやニューヨークでライヴをやるときには、バスなど車で移動します。ですから、大変です。めったにライヴやりません。
僕が個人的にソウル系のアーティストで80年代後期からどうしてもライヴを見たかったアーティストが二人います。そのうちの一人がアレサでした。もう一人は、今危篤のルーサー・ヴァンドロス。二人の共通点は、極度な飛行機嫌いということです。だから、日本なんかやってきてくれません。彼らを見ようと思ったら、こちらから出向かないと。
だから、アレサは出向きました。ルーサーはチャンスがなくて実現してません。ルーサーはかなり日本の人でも見た人がたくさんいるようですが、アレサを見たという人はさすがに少ないですね。ルーサーは彼が完全復活したら、絶対に見に行きましょう。そう心に決めました。だから死なないでね、ルーサー様。
あと最近だと、バーブラ・ストライサンドのライヴを一度見たい。これも数年に一度しかしないから、かなり叶わぬ夢です。しかもチケット超高額にかかわらず即完(即・完売)です。
さて、このニュースだと今回のツアーがこの規模としては最後になる、と言ってますが。この「最後のツアー」というキャッチフレーズが、大物ヴェテラン・アーティストのツアーの冠につくようになったのは、80年代後期のマイケルジャクソンからですねえ。ゆゆしき問題です。(笑) マイケル、ストーンズ、ポール・マッカトニー、そして、今度はアレサですか。
最後だから、みんな来てね、みんな見逃すなよ、ということなんですね。でも、数年たったら、またやる。「最後だよ〜〜、最後だよ〜〜」というこの狼少年の叫びはなんとかならないものでしょうかねえ。
ちなみに、アレサの場合は、6月5日からヴァージニア州ヴィエナ(ウィーン)から始まり、約10回、秋までつづく、とのことです。タイトルは『アレサ・シングス・ハー・ミュージカル・ヒストリー』。
アレサ・フランクリンが全米ツアーにでます。そして、これがこの規模のツアーとしては最後のものになると言っています。4月15日に配信されたニュースです。
アレサは極度な飛行機嫌いで知られます。現在はデトロイトに住んでいますが、ロスやニューヨークでライヴをやるときには、バスなど車で移動します。ですから、大変です。めったにライヴやりません。
僕が個人的にソウル系のアーティストで80年代後期からどうしてもライヴを見たかったアーティストが二人います。そのうちの一人がアレサでした。もう一人は、今危篤のルーサー・ヴァンドロス。二人の共通点は、極度な飛行機嫌いということです。だから、日本なんかやってきてくれません。彼らを見ようと思ったら、こちらから出向かないと。
だから、アレサは出向きました。ルーサーはチャンスがなくて実現してません。ルーサーはかなり日本の人でも見た人がたくさんいるようですが、アレサを見たという人はさすがに少ないですね。ルーサーは彼が完全復活したら、絶対に見に行きましょう。そう心に決めました。だから死なないでね、ルーサー様。
あと最近だと、バーブラ・ストライサンドのライヴを一度見たい。これも数年に一度しかしないから、かなり叶わぬ夢です。しかもチケット超高額にかかわらず即完(即・完売)です。
さて、このニュースだと今回のツアーがこの規模としては最後になる、と言ってますが。この「最後のツアー」というキャッチフレーズが、大物ヴェテラン・アーティストのツアーの冠につくようになったのは、80年代後期のマイケルジャクソンからですねえ。ゆゆしき問題です。(笑) マイケル、ストーンズ、ポール・マッカトニー、そして、今度はアレサですか。
最後だから、みんな来てね、みんな見逃すなよ、ということなんですね。でも、数年たったら、またやる。「最後だよ〜〜、最後だよ〜〜」というこの狼少年の叫びはなんとかならないものでしょうかねえ。
ちなみに、アレサの場合は、6月5日からヴァージニア州ヴィエナ(ウィーン)から始まり、約10回、秋までつづく、とのことです。タイトルは『アレサ・シングス・ハー・ミュージカル・ヒストリー』。
Knocking on Father’s Door
2003年4月30日扉。
春眠暁を覚えず・・・。昼間も眠いし、夜も眠い。さすがゴールデンウィークです。いい天気です。さてそんな前置きはおいといて。この日記では、自分が日々ソウルを捜し求めて探したものについて書いたり、ニュースでこれはというものを書いたりしていますが、今日はしばらく前からずっと書きたいと思っていたこんなネタを。
レイラ・ハザウェイがこのところ、ダニー・ハザウェイのアンソロジーのアルバムを聴きまくっているらしい。このアンソロジーはまもなく発売されるもので、35曲ほどダニーの作品が収録されているもの。未発表曲なども収録されている、という。
そして、このアドヴァンス・コピーを手に入れたレイラはずっと聴いている、という。レイラは自らのホームページで、このアルバムを熱心に聴き、父親のことを誇りに思い、これまでに聴いたどのアルバムよりもすばらしいものだ、としています。
http://www.lalahhathaway.com/cgi-bin/viewmessage.cgi?r=15639&l=level2
レイラのオフィシャルホームページのGumboというコラムの4月17日付にのっています。
そして、なんと、その次の4月27日付けでは、最近の自分のトップ10アルバムも発表してます。ほかにも、トップ10映画とか、いろいろあっておもしろい。
http://www.lalahhathaway.com/cgi-bin/viewmessage.cgi?r=15642&l=level2
ベスト10は以下の通り。
I reserve the right to change it tomorrow!!!!
1. Donny Hathaway- Extensions of a Man (original version)
2. Donny Hathaway ・The Anthology
3. Miles Davis ・Kind of Blue
4. Donald Fagan ・The Nightfly
5. John Scofield ・Still Warm
6. Joni Mitchell ・Mingus
7. Michael Franks ・Passionfruit
8. Stevie Wonder ・Innervisions
9. Shirley Horn ・Here’s to Life
10.John Coltrane ・Ballads
彼女も、明日には変わるかもしれません、と但し書きつけています。
で、これだけですと、ただのウエッブ紹介で終わってしまうので、そこに僕なりの味付けをしたいわけです。
レイラには90年6月と2000年11月の2度インタヴューしたことがあります。その後者で、「ナタリー・コールは父親とのゴーストデュエットを録音しました。あなたもそのような曲を作ることはあるでしょうか」と質問しました。ファンならレイラが歌う父親ダニーの「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」とか、「ゲットー」、「リトル・ゲトー・ボーイ」、「ラヴ・ラヴ・ラヴ」などをデュエットで聴いてみたいと思うのは当然です。
そうしたら、「いや、私はやらない。(absolutely not)。 もちろん、ナタリーはすばらしい仕事をしたと思うわ。でも、私の声と父の声がデュエットするのは、しっくりこないわ」と答えました。もちろん、ライヴなどで父親の曲を一曲くらい歌うことはあるかもしれないが、フルアルバムを作ることはしない、と断言したんです。「アブソルートゥリー・ノット」はずいぶんと強い調子の否定でした。
そのとき僕は思いました。「まだもう少し時間がかかるみたいだな」と。ナタリーも、父の曲をやるまでにデビューから16年もかかっているんですね。「アンフォーゲッタブル」を録音したのは、ナタリーが41歳のとき。ナタリーも最初は、父親を、父親の音楽を拒絶するところから、自らのキャリアをスタートさせたわけです。ところが、様々な浮き沈みを経て、彼女がたどり着いたのは父親の音楽だった。レイラは90年デビュー。ナタリーと同じく16年かかるとしたら、2006年くらいに、父親の曲ばかりを歌うアルバムを出すのではないか。41歳だったら2009年でしょうか。だから、まだ時期尚早なのかもしれない、と感じたわけです。
でも、僕は絶対彼女は、そういうアルバムを作るのではないだろうかと、そのとき確信しました。理由はありません。ただ彼女と面と向かって話をして、そう感じたのです。彼女は2000年の時点ではまだその気持ちができていないが、なにかあれば、いずれそうなるだろう、と。
その最大の根拠は、彼女が父親ダニー・ハザウエイの音楽を否定していない、ということでした。彼女が、もし父親の音楽が大嫌いだったら、それをカヴァーすることなどありえないでしょう。しかし、彼女はダニーの音楽が好きなようでした。ただ、彼女が現時点で彼女が歌っているタイプの音楽と、ダニーの音楽に接点が少ない、もしくは、彼女が父の歌を歌う整合性がない、と感じている、と僕は思ったのです。だから、そこに整合性がでれば、あるいは、そんなこと、どうでもよくなれば、一気にダムは崩壊するだろう、というわけです。
しかし、そこまでに行くのに時間がかかるのは充分理解できます。機が熟さなければそうした動きは起こりません。
なんといっても、誰もがダニーの音楽はすばらしいと感じている。誰もが少しはそのダニーの曲を歌ってみたいと思う。そして、そのダニーが自分の父親だったら、他のシンガーが歌うのをただ指をくわえてみている場合じゃないでしょう。灯台下暗しの状況で、下を照らした瞬間、灯台の本当の価値を知るのではないでしょうか。
そんな前提があって、この書きこみが飛びこんできたのですから、すわ、いよいよか、と期待が膨らんだとしても、おかしくありません。どうでしょう。では、彼女にどの曲を歌ってもらいたいか。勝手にリストを作りましょう。
Flying Easy, Ghetto, Giving Up, Hey Girl, I Believe In Music, Little Ghetto Boy, Love, Love, Love, Someday We’ll All Be Free, To Be Young Gifted & Black, Valdes In The Country, Voices Inside, What’s Going On, Where Is The Love, You’ve Got A Friend, Back Together Again, You Are My Heaven, Only Heaven Can Wait, This Christmas, etc.
まあ、ゴーストデュエットはともかく、レイラの歌によるダニーの歌の数々は、聴いてみたいですねえ。きっと、そのアルバムは彼女にとっての最大のヒット作になるでしょうね。彼女のBBSにでも書きこんでみましょうか、リクエスト曲を。
彼女が父親の扉をノックし、父へ一歩一歩静かに歩み寄っていく音が聞こえてきます。
+++
春眠暁を覚えず・・・。昼間も眠いし、夜も眠い。さすがゴールデンウィークです。いい天気です。さてそんな前置きはおいといて。この日記では、自分が日々ソウルを捜し求めて探したものについて書いたり、ニュースでこれはというものを書いたりしていますが、今日はしばらく前からずっと書きたいと思っていたこんなネタを。
レイラ・ハザウェイがこのところ、ダニー・ハザウェイのアンソロジーのアルバムを聴きまくっているらしい。このアンソロジーはまもなく発売されるもので、35曲ほどダニーの作品が収録されているもの。未発表曲なども収録されている、という。
そして、このアドヴァンス・コピーを手に入れたレイラはずっと聴いている、という。レイラは自らのホームページで、このアルバムを熱心に聴き、父親のことを誇りに思い、これまでに聴いたどのアルバムよりもすばらしいものだ、としています。
http://www.lalahhathaway.com/cgi-bin/viewmessage.cgi?r=15639&l=level2
レイラのオフィシャルホームページのGumboというコラムの4月17日付にのっています。
そして、なんと、その次の4月27日付けでは、最近の自分のトップ10アルバムも発表してます。ほかにも、トップ10映画とか、いろいろあっておもしろい。
http://www.lalahhathaway.com/cgi-bin/viewmessage.cgi?r=15642&l=level2
ベスト10は以下の通り。
I reserve the right to change it tomorrow!!!!
1. Donny Hathaway- Extensions of a Man (original version)
2. Donny Hathaway ・The Anthology
3. Miles Davis ・Kind of Blue
4. Donald Fagan ・The Nightfly
5. John Scofield ・Still Warm
6. Joni Mitchell ・Mingus
7. Michael Franks ・Passionfruit
8. Stevie Wonder ・Innervisions
9. Shirley Horn ・Here’s to Life
10.John Coltrane ・Ballads
彼女も、明日には変わるかもしれません、と但し書きつけています。
で、これだけですと、ただのウエッブ紹介で終わってしまうので、そこに僕なりの味付けをしたいわけです。
レイラには90年6月と2000年11月の2度インタヴューしたことがあります。その後者で、「ナタリー・コールは父親とのゴーストデュエットを録音しました。あなたもそのような曲を作ることはあるでしょうか」と質問しました。ファンならレイラが歌う父親ダニーの「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」とか、「ゲットー」、「リトル・ゲトー・ボーイ」、「ラヴ・ラヴ・ラヴ」などをデュエットで聴いてみたいと思うのは当然です。
そうしたら、「いや、私はやらない。(absolutely not)。 もちろん、ナタリーはすばらしい仕事をしたと思うわ。でも、私の声と父の声がデュエットするのは、しっくりこないわ」と答えました。もちろん、ライヴなどで父親の曲を一曲くらい歌うことはあるかもしれないが、フルアルバムを作ることはしない、と断言したんです。「アブソルートゥリー・ノット」はずいぶんと強い調子の否定でした。
そのとき僕は思いました。「まだもう少し時間がかかるみたいだな」と。ナタリーも、父の曲をやるまでにデビューから16年もかかっているんですね。「アンフォーゲッタブル」を録音したのは、ナタリーが41歳のとき。ナタリーも最初は、父親を、父親の音楽を拒絶するところから、自らのキャリアをスタートさせたわけです。ところが、様々な浮き沈みを経て、彼女がたどり着いたのは父親の音楽だった。レイラは90年デビュー。ナタリーと同じく16年かかるとしたら、2006年くらいに、父親の曲ばかりを歌うアルバムを出すのではないか。41歳だったら2009年でしょうか。だから、まだ時期尚早なのかもしれない、と感じたわけです。
でも、僕は絶対彼女は、そういうアルバムを作るのではないだろうかと、そのとき確信しました。理由はありません。ただ彼女と面と向かって話をして、そう感じたのです。彼女は2000年の時点ではまだその気持ちができていないが、なにかあれば、いずれそうなるだろう、と。
その最大の根拠は、彼女が父親ダニー・ハザウエイの音楽を否定していない、ということでした。彼女が、もし父親の音楽が大嫌いだったら、それをカヴァーすることなどありえないでしょう。しかし、彼女はダニーの音楽が好きなようでした。ただ、彼女が現時点で彼女が歌っているタイプの音楽と、ダニーの音楽に接点が少ない、もしくは、彼女が父の歌を歌う整合性がない、と感じている、と僕は思ったのです。だから、そこに整合性がでれば、あるいは、そんなこと、どうでもよくなれば、一気にダムは崩壊するだろう、というわけです。
しかし、そこまでに行くのに時間がかかるのは充分理解できます。機が熟さなければそうした動きは起こりません。
なんといっても、誰もがダニーの音楽はすばらしいと感じている。誰もが少しはそのダニーの曲を歌ってみたいと思う。そして、そのダニーが自分の父親だったら、他のシンガーが歌うのをただ指をくわえてみている場合じゃないでしょう。灯台下暗しの状況で、下を照らした瞬間、灯台の本当の価値を知るのではないでしょうか。
そんな前提があって、この書きこみが飛びこんできたのですから、すわ、いよいよか、と期待が膨らんだとしても、おかしくありません。どうでしょう。では、彼女にどの曲を歌ってもらいたいか。勝手にリストを作りましょう。
Flying Easy, Ghetto, Giving Up, Hey Girl, I Believe In Music, Little Ghetto Boy, Love, Love, Love, Someday We’ll All Be Free, To Be Young Gifted & Black, Valdes In The Country, Voices Inside, What’s Going On, Where Is The Love, You’ve Got A Friend, Back Together Again, You Are My Heaven, Only Heaven Can Wait, This Christmas, etc.
まあ、ゴーストデュエットはともかく、レイラの歌によるダニーの歌の数々は、聴いてみたいですねえ。きっと、そのアルバムは彼女にとっての最大のヒット作になるでしょうね。彼女のBBSにでも書きこんでみましょうか、リクエスト曲を。
彼女が父親の扉をノックし、父へ一歩一歩静かに歩み寄っていく音が聞こえてきます。
+++
Funk Brothers Live
2003年4月29日スポットライト。
「赤いジャケットに身を包んだ6人の男たちが、金曜夜、ハマーステイン・ボールルームに現れた。だが彼らはヒットメイカーであったにもかかわらず、これまで決してスポットライトを浴びたことはない男たちだった・・・」
ドキュメンタリー映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン』が去る11月に公開されたファンク・ブラザースが、4月11日にニューヨークでライヴを行いました。そのレポートが4月15日付けニューヨークタイムス紙に掲載されています。その書き出しが冒頭の文です。
http://www.nytimes.com/2003/04/15/arts/music/15FUNK.htmlex=1051539748&;ei=1&en=2733ebbbbdcc537a
ポイントは、ファンク・ブラザースというモータウン・サウンドを支えたミュージシャンたちが、30年以上もの年月を経て注目を集めている、ということでしょう。ファンク・ブラザースをバックに、ゲストのマキシ・プリーストや、ジョーン・オズボーンやダーレン・ラヴなどがマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、テンプテーションズなどでヒットした作品を次々歌いました。
ファンク・ブラザースの面々は、デトロイトで数々のモータウンのヒット曲のバックを勤めました。よって、様々なモータウン・アーティストの裏話を知っています。ステージではそんな話がいくつか語られたようです。
パーカッション奏者のジャック・アシュフォードは、ある時、偶然マーヴィン・ゲイの靴箱をひっくり返してしまったら、そこには山ほどマリファナがはいっていた、という秘話を紹介しました。
モータウンのプロデューサーで、マーヴィンの「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン(悲しい噂)」などのヒットを作ったノーマン・ウィットフィールドは彼らを評価してこう言ったそうです。「君らのビートなら、その上に鳥の鳴き声をのっけるだけでも、ヒット曲になるだろう」と。少々誉め過ぎの感もありますが、つまり、それほど、彼らのビートはすばらしかったという意味です。
はやいところ、映画も見たいし、ライヴも見れるものなら見たいですねえ。スポットライトが当たらなかった人々にスポットライトを当てる、というところが、とても僕好みです。そうですね、これを機に彼らの新録などが作られたらいいですね。
+++++
「赤いジャケットに身を包んだ6人の男たちが、金曜夜、ハマーステイン・ボールルームに現れた。だが彼らはヒットメイカーであったにもかかわらず、これまで決してスポットライトを浴びたことはない男たちだった・・・」
ドキュメンタリー映画『スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン』が去る11月に公開されたファンク・ブラザースが、4月11日にニューヨークでライヴを行いました。そのレポートが4月15日付けニューヨークタイムス紙に掲載されています。その書き出しが冒頭の文です。
http://www.nytimes.com/2003/04/15/arts/music/15FUNK.htmlex=1051539748&;ei=1&en=2733ebbbbdcc537a
ポイントは、ファンク・ブラザースというモータウン・サウンドを支えたミュージシャンたちが、30年以上もの年月を経て注目を集めている、ということでしょう。ファンク・ブラザースをバックに、ゲストのマキシ・プリーストや、ジョーン・オズボーンやダーレン・ラヴなどがマーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス、テンプテーションズなどでヒットした作品を次々歌いました。
ファンク・ブラザースの面々は、デトロイトで数々のモータウンのヒット曲のバックを勤めました。よって、様々なモータウン・アーティストの裏話を知っています。ステージではそんな話がいくつか語られたようです。
パーカッション奏者のジャック・アシュフォードは、ある時、偶然マーヴィン・ゲイの靴箱をひっくり返してしまったら、そこには山ほどマリファナがはいっていた、という秘話を紹介しました。
モータウンのプロデューサーで、マーヴィンの「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン(悲しい噂)」などのヒットを作ったノーマン・ウィットフィールドは彼らを評価してこう言ったそうです。「君らのビートなら、その上に鳥の鳴き声をのっけるだけでも、ヒット曲になるだろう」と。少々誉め過ぎの感もありますが、つまり、それほど、彼らのビートはすばらしかったという意味です。
はやいところ、映画も見たいし、ライヴも見れるものなら見たいですねえ。スポットライトが当たらなかった人々にスポットライトを当てる、というところが、とても僕好みです。そうですね、これを機に彼らの新録などが作られたらいいですね。
+++++
(映画『アバウト・シュミット』についての感想文です。それほど大々的ではありませんが、若干、ネタばれがありますので、これからご覧になる方で、中身を絶対に知りたくないかたは、充分ご注意ください)
+++
孤独。
66歳の男が一流の保険会社で定年を迎えた。細かい点では気に入らないこともあるが妻もいて、娘もいる一見幸せそうな男。だが、ひとたび定年になると、自分で何をしていいかわからない。主人公はジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミット。会社に行っても、邪魔者扱いされ、家でも小言を言われ尊敬されず、結婚間近の娘からも煙たがられる。八方塞のシュミットは、そんなとき、テレビの宣伝で知ったフォスターペアレンツ(毎月一定の額を支払い、孤児の親代わりになるというシステム)になることを決意する。
淡々と進む日常で、妻が急死。自らの定年、妻との別れ、娘の結婚という激動が襲う中、彼は大型トレーラーで自分を見つめ直す旅にでる。妻の死後、遺品の中からシュミットの親友だった男と妻が20年以上前のことだったが、関係を持っていたことを知り激怒、待ち伏せしてパンチを食らわす。旅の途中、公衆電話からその親友のもとに電話をかけるが、相手は留守番電話だった。
シュミットはテープに吹き込む。「いろんなことがあって、今、私はソウル・サーチンの旅にでているんだ。あの件は、もう許すよ。20年以上も昔のことだからな。じゃあ、元気でな」
字幕では「いろいろ考えているんだ」というような雰囲気だったと思うが、ニコルソンの口から「ソウル・サーチン」の言葉がでてきたときには、驚いた。それまで映画のストーリーを追っているときに、「ああー、これもソウル・サーチンだなあ、まさに」と思っていたところだったので、どんぴしゃのタイミングだった。
シュミットが、養子にした子供へ手紙を出しに行く途中、ファーストフードの店にはいるシーンがある。注文をするときに、バックで流れていたのが、ホット・チョコレートの「ユー・セクシー・シング」。ほんの数十秒で、しかも、バックにかすかだったが、聞きとれた。
娘が結婚する男の母親役にキャシー・ベイツ。これがまた、個性的。
この映画『アバウト・シュミット』は、66歳の定年後、妻と死別後、娘が結婚し離れていくというあらゆる点で孤独になっていく男のソウル・サーチンの物語だ。後半じわっときて、後に深い味わいが残る映画だ。エンディング・シーンも見事にうまくまとめた。
アメリカ人は、ソウル・サーチンの意味を知っている。日本ではまだなじみがない。なんとか広めたい。でも、この言葉に「自分探し」という訳がつくのは、死ぬほどいやだ。近いニュアンスなんだが、どうも、その響きがねえ。「ソウル・サーチン」は、「ソウル・サーチン」でその意味を知ってもらいたい。
(2003年5月から全国東宝洋画系にてロードショウ)
+++
孤独。
66歳の男が一流の保険会社で定年を迎えた。細かい点では気に入らないこともあるが妻もいて、娘もいる一見幸せそうな男。だが、ひとたび定年になると、自分で何をしていいかわからない。主人公はジャック・ニコルソン演じるウォーレン・シュミット。会社に行っても、邪魔者扱いされ、家でも小言を言われ尊敬されず、結婚間近の娘からも煙たがられる。八方塞のシュミットは、そんなとき、テレビの宣伝で知ったフォスターペアレンツ(毎月一定の額を支払い、孤児の親代わりになるというシステム)になることを決意する。
淡々と進む日常で、妻が急死。自らの定年、妻との別れ、娘の結婚という激動が襲う中、彼は大型トレーラーで自分を見つめ直す旅にでる。妻の死後、遺品の中からシュミットの親友だった男と妻が20年以上前のことだったが、関係を持っていたことを知り激怒、待ち伏せしてパンチを食らわす。旅の途中、公衆電話からその親友のもとに電話をかけるが、相手は留守番電話だった。
シュミットはテープに吹き込む。「いろんなことがあって、今、私はソウル・サーチンの旅にでているんだ。あの件は、もう許すよ。20年以上も昔のことだからな。じゃあ、元気でな」
字幕では「いろいろ考えているんだ」というような雰囲気だったと思うが、ニコルソンの口から「ソウル・サーチン」の言葉がでてきたときには、驚いた。それまで映画のストーリーを追っているときに、「ああー、これもソウル・サーチンだなあ、まさに」と思っていたところだったので、どんぴしゃのタイミングだった。
シュミットが、養子にした子供へ手紙を出しに行く途中、ファーストフードの店にはいるシーンがある。注文をするときに、バックで流れていたのが、ホット・チョコレートの「ユー・セクシー・シング」。ほんの数十秒で、しかも、バックにかすかだったが、聞きとれた。
娘が結婚する男の母親役にキャシー・ベイツ。これがまた、個性的。
この映画『アバウト・シュミット』は、66歳の定年後、妻と死別後、娘が結婚し離れていくというあらゆる点で孤独になっていく男のソウル・サーチンの物語だ。後半じわっときて、後に深い味わいが残る映画だ。エンディング・シーンも見事にうまくまとめた。
アメリカ人は、ソウル・サーチンの意味を知っている。日本ではまだなじみがない。なんとか広めたい。でも、この言葉に「自分探し」という訳がつくのは、死ぬほどいやだ。近いニュアンスなんだが、どうも、その響きがねえ。「ソウル・サーチン」は、「ソウル・サーチン」でその意味を知ってもらいたい。
(2003年5月から全国東宝洋画系にてロードショウ)
About good at piano
2003年4月27日上手。
ピアノがうまいということについて。それは一体どういうことなんでしょう。上手に弾けました、と人が言うとき、それは何を基準に上手に弾けた、というのでしょうか。別の人より上手に弾けた、さっきの演奏より上手に弾けた、ってこと?
まあ、一般的には練習の積み重ねによって「滑らかに弾けた」とか「指がひっかからずに弾けた」とか、「感情がよくこもっていました」とか、「ミスタッチがなかった」という状態になると、だいたいの場合「うまく弾けた」ってことなんでしょうね。
ふと、深町純さんのピアノを聞いていて、そんなことを考えてしまいました。というのは、彼の演奏は常に「即興演奏」なんですね。だから次にどんな音が出るのか、だれにも予想はできない。楽譜などもなければ、その曲を「練習」するなんてことは絶対にできない。
彼に、「即興演奏って、どうやって練習するんですか」と聞いた人がいるという笑えるようで笑えない話がある。まあ、せいぜい、指の動きを、運動選手がアップするように、準備運動するとか、スケールをちょこっと練習するとか、基本的な練習というか、そういうようなものはあるでしょう。しかし、即興演奏は、練習できない。練習したら、もう即興ではないわけですから。これができるできないは、本当に彼が言うとおりセンスですね。
で、なんでそんなことを思ったかというと、深町さんが楽譜におこした彼自身の古いオリジナル曲を演奏したのを聞いたからなんですね。もう20年前くらいの時代劇のテーマ曲ということだったんですが、それを聞いていて、「深町さん、ピアノうまいなあ」なんて思ったんです。(すいません、ばかなこと感じて。プロのピアニストに対して失礼ですが)
自分でも、なんでそう思ったのかがよくわからない。彼の場合は非常に特殊で、即興演奏ありきで、そういうのばかり、僕たちは聞かされている。そこにぽっと楽譜曲、既存曲を演奏されると、なにか違うものが生まれる。というか、感じられる。やはり、うまいという概念は、なにか自分(聞き手)が知っているものと比べて、それより上手にできるとうまい、とか考えるのでしょうか。でも、その曲は僕は初めて聞いたんですけどね。あるいは弾き手も何度も弾いていて、あるいは「練習」していて、完成度が高かったのでしょうか。
彼の即興演奏を聞いていて、上手とか、もちろん時にはそう思うこともありますが、あんまり感じない。それ以上に感じるのは、すごい、とか、イマジネーションを広げてくれる演奏だ、とか、そのときの、こちらの感情とか、あるいは弾き手の感情なんかが伝わってきます。それは悲しみであったり、怒りであったり、遊びだったり、あらゆる種類の感情のような気がする。
もちろん、彼が「喜び」を感じながら弾いているメロディーを、聞き手が「悲しみ」を感じながら聞くことだってあるかもしれない。それはそれでまったく自由だ。ひとつだけ確実なことは、彼のピアノには聞き手のイマジネーションをくすぐる、刺激する「余白」が非常に多い、ということです。CDになっているような既存曲にはなかなかそうした「余白」がない。
ところが既存曲を弾いていた彼を見て、聞いて、ああプロの職業ピアニストだな、と感じた。うまいな、と思った。当たり前といえば当たり前ですか。何をいまさら、ですかね。
深町さん本人も「即興と楽譜のある曲は、何か違うよね」と言っています。違うんですよねえ。何が違うんでしょう。
楽譜を見ながら弾いているところを見て、僕が驚いちゃったのかな。やはり既存の枠の中で弾いていると、うまい下手というのが、感じられるのかな。いつも知らない即興曲を聴いているからうまいか、下手かなんて感じないのだろうか。よく知ってる曲を弾かれたら、あ〜うまい〜〜なんて思うのでしょうか。うまいって一体何? あ〜よくわからなくなってきた・・・。
今日はまとまりません。
ピアノがうまいということについて。それは一体どういうことなんでしょう。上手に弾けました、と人が言うとき、それは何を基準に上手に弾けた、というのでしょうか。別の人より上手に弾けた、さっきの演奏より上手に弾けた、ってこと?
まあ、一般的には練習の積み重ねによって「滑らかに弾けた」とか「指がひっかからずに弾けた」とか、「感情がよくこもっていました」とか、「ミスタッチがなかった」という状態になると、だいたいの場合「うまく弾けた」ってことなんでしょうね。
ふと、深町純さんのピアノを聞いていて、そんなことを考えてしまいました。というのは、彼の演奏は常に「即興演奏」なんですね。だから次にどんな音が出るのか、だれにも予想はできない。楽譜などもなければ、その曲を「練習」するなんてことは絶対にできない。
彼に、「即興演奏って、どうやって練習するんですか」と聞いた人がいるという笑えるようで笑えない話がある。まあ、せいぜい、指の動きを、運動選手がアップするように、準備運動するとか、スケールをちょこっと練習するとか、基本的な練習というか、そういうようなものはあるでしょう。しかし、即興演奏は、練習できない。練習したら、もう即興ではないわけですから。これができるできないは、本当に彼が言うとおりセンスですね。
で、なんでそんなことを思ったかというと、深町さんが楽譜におこした彼自身の古いオリジナル曲を演奏したのを聞いたからなんですね。もう20年前くらいの時代劇のテーマ曲ということだったんですが、それを聞いていて、「深町さん、ピアノうまいなあ」なんて思ったんです。(すいません、ばかなこと感じて。プロのピアニストに対して失礼ですが)
自分でも、なんでそう思ったのかがよくわからない。彼の場合は非常に特殊で、即興演奏ありきで、そういうのばかり、僕たちは聞かされている。そこにぽっと楽譜曲、既存曲を演奏されると、なにか違うものが生まれる。というか、感じられる。やはり、うまいという概念は、なにか自分(聞き手)が知っているものと比べて、それより上手にできるとうまい、とか考えるのでしょうか。でも、その曲は僕は初めて聞いたんですけどね。あるいは弾き手も何度も弾いていて、あるいは「練習」していて、完成度が高かったのでしょうか。
彼の即興演奏を聞いていて、上手とか、もちろん時にはそう思うこともありますが、あんまり感じない。それ以上に感じるのは、すごい、とか、イマジネーションを広げてくれる演奏だ、とか、そのときの、こちらの感情とか、あるいは弾き手の感情なんかが伝わってきます。それは悲しみであったり、怒りであったり、遊びだったり、あらゆる種類の感情のような気がする。
もちろん、彼が「喜び」を感じながら弾いているメロディーを、聞き手が「悲しみ」を感じながら聞くことだってあるかもしれない。それはそれでまったく自由だ。ひとつだけ確実なことは、彼のピアノには聞き手のイマジネーションをくすぐる、刺激する「余白」が非常に多い、ということです。CDになっているような既存曲にはなかなかそうした「余白」がない。
ところが既存曲を弾いていた彼を見て、聞いて、ああプロの職業ピアニストだな、と感じた。うまいな、と思った。当たり前といえば当たり前ですか。何をいまさら、ですかね。
深町さん本人も「即興と楽譜のある曲は、何か違うよね」と言っています。違うんですよねえ。何が違うんでしょう。
楽譜を見ながら弾いているところを見て、僕が驚いちゃったのかな。やはり既存の枠の中で弾いていると、うまい下手というのが、感じられるのかな。いつも知らない即興曲を聴いているからうまいか、下手かなんて感じないのだろうか。よく知ってる曲を弾かれたら、あ〜うまい〜〜なんて思うのでしょうか。うまいって一体何? あ〜よくわからなくなってきた・・・。
今日はまとまりません。
Sydney Harbor at 5 AM
2003年4月26日『シドニー・ハーバー午前5時。』
誕生日。
深夜、その薄暗い六本木のバーに、彼は一人でやってきた。DJや客と顔見知りらしく、挨拶をしながらカウンターに座った。
突然スティーヴィー・ワンダーの「ハッピー・バースデイ」が流れた。そのカウンターの友人たちが、サビの部分を大合唱した。その日は彼の誕生日だったのだ。そして、まもなくDJは彼のたってのリクエスト曲をかけた。アニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」だった。彼にとって、この「スイート・ラヴ」は特別の思い出がある曲だった。
この曲が流れると、彼はグラス片手に話し始めた。それはオーストラリア、シドニーのオーシャンフロントのアパートの話だった。
1988年6月シドニー。
その大きな一枚ガラスの窓の向こうには左手にシドニー・タワー、右手手前にオペラハウス、そしてその向こうにハーバーブリッジが見えた。それほど広くはないオーシャンフロントのアパート。シャワーひとつしかない4階の部屋。彼がオーストラリアにやってきて借りたところだ。
目指す大学に三浪していた彼を見かねた父親が言った。「これからは、英語だろう。三浪してても次に入れる保証なんてないんだから、外国にでも行って(英語でも)勉強してきたらどうだ」 父の友人がシドニーで日本食レストランを開いていたので、英語を覚えるため、社会勉強、修行のつもりで、彼はこの地にやってきた。
2週間で家賃110ドルというその部屋からは、かもめやアホウドリなど様々な海の鳥が飛ぶのが見えた。一枚ガラスの大きな窓を開けると、海の香りがしてきた。夜はライトアップされ、見事なハーバーライトが瞬いた。
仕事が終わったり、休みの日になにげなくつけていたMTVから、そのゆったりしたミディアム調の少しジャズ風の曲は突然流れてきた。何かしていて初めてこの曲が流れてきたとき、思わず引きつけられ、背中がぞくっとした。テレビの画面に映し出されていたのは女性シンガーのプロモーション・ビデオだった。だが、そのときは誰のなんという歌かを見逃してしまった。何日かして、また、同じ曲がかかったとき、今度はしっかりと曲名とアーティスト名を書きとめた。
それがアニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」だった。彼はすぐにレコード店に買いに走った。当時あまりお金がなかったので、その曲の入ったアルバム『ラプチャー』を、レコード盤より少しだけ安いカセットで買った。
そして、以来この曲はその部屋に幾度となく流れた。シドニー港のさわやかな朝も、太陽が輝く昼も、そして、星とネオンライトが光る夜も、「スイート・ラヴ」はその風景のサウンドトラックになった。
「しいて言えば、夜明けのイメージかなあ。一人で窓際に座ってそれは綺麗な夜景を見ながら、酒を飲んでいるときなんか、アニタの歌声にはやられました。特にこの『スイート・ラヴ』は聴いていると、どんどん曲の中に入ってっちゃうんですよ」と彼は言う。
1989年4月24日シドニー。
シドニーに来て10ヶ月。仕事も慣れ、職場の連中とも仲良くなった時期だ。4月24日の彼の誕生日を仲間たちが祝ってくれることになった。ちょうど、その頃、ちょっとばかり気になっていたゲイルというかわいい女の子がいた。店が終わり、仲間内で「ハッピーバースデイ」が歌われた。なんとゲイルがショートケーキを手作りしてくれた。みんなが酒を飲み、おいしいものを食べ、話ははずみ、パーティーは続いた。
ゲイルもずいぶんと酔っ払ってしまった。ゲイルは本来なら車を自分で運転して帰ることになっていた。だが彼は言った。「そんなに酔っ払っていたら、運転は危ないから、うちにおいでよ」 彼のアパートは、歩いてすぐのところだった。ゲイルは彼のアパートにやってきた。二人ともかなり酔っ払っていた。彼はいつものカセットをかけた。アニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」が、美しい夜景が広がる暗い部屋に鳴り響いた。
「心から愛してるわ。ベイビー、一緒にいればわかるはず。私の腕があなたを抱きしめるのよ。甘い、とろけるような恋に夢中。大声であなたを呼んでも恥ずかしくない。甘く、とろけるようなスイートな恋に夢中なの」
惹かれあう男と女のサウンドトラックとしては完璧だった。
彼はグリーンカード(永住権)が取れるまでの2年間は最低シドニーにいるつもりだった。ところが、その途中の89年暮れ、東京から連絡が入った。父親が癌で大きな手術をするから帰って来い、とのことだった。あと半年いれば、永住権というところまで来ていたが、彼は日本に帰った。
父親は癌になってから2年ほど存命した。
2003年4月24日東京六本木。
そんな話を聴いたDJが「スイート・ラヴ」を再びかけた。
「この曲を聴くと、本当にあのシドニーのアパートからの風景がよみがえりますねえ。あの夜中のハーバーライトが見える夜景やなんかが」と彼は振りかえる。
シドニー・タワー、オペラ・ハウス、シドニー・ハーバー・ブリッジ、帆を揺らすヨット、大きな軍艦・・・。彼の心は、そのとき「スイート・ラヴ」とともに夜明けのシドニー・ハーバー午前5時に飛んでいた。
Music: Between The Lines Of Time
誕生日。
深夜、その薄暗い六本木のバーに、彼は一人でやってきた。DJや客と顔見知りらしく、挨拶をしながらカウンターに座った。
突然スティーヴィー・ワンダーの「ハッピー・バースデイ」が流れた。そのカウンターの友人たちが、サビの部分を大合唱した。その日は彼の誕生日だったのだ。そして、まもなくDJは彼のたってのリクエスト曲をかけた。アニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」だった。彼にとって、この「スイート・ラヴ」は特別の思い出がある曲だった。
この曲が流れると、彼はグラス片手に話し始めた。それはオーストラリア、シドニーのオーシャンフロントのアパートの話だった。
1988年6月シドニー。
その大きな一枚ガラスの窓の向こうには左手にシドニー・タワー、右手手前にオペラハウス、そしてその向こうにハーバーブリッジが見えた。それほど広くはないオーシャンフロントのアパート。シャワーひとつしかない4階の部屋。彼がオーストラリアにやってきて借りたところだ。
目指す大学に三浪していた彼を見かねた父親が言った。「これからは、英語だろう。三浪してても次に入れる保証なんてないんだから、外国にでも行って(英語でも)勉強してきたらどうだ」 父の友人がシドニーで日本食レストランを開いていたので、英語を覚えるため、社会勉強、修行のつもりで、彼はこの地にやってきた。
2週間で家賃110ドルというその部屋からは、かもめやアホウドリなど様々な海の鳥が飛ぶのが見えた。一枚ガラスの大きな窓を開けると、海の香りがしてきた。夜はライトアップされ、見事なハーバーライトが瞬いた。
仕事が終わったり、休みの日になにげなくつけていたMTVから、そのゆったりしたミディアム調の少しジャズ風の曲は突然流れてきた。何かしていて初めてこの曲が流れてきたとき、思わず引きつけられ、背中がぞくっとした。テレビの画面に映し出されていたのは女性シンガーのプロモーション・ビデオだった。だが、そのときは誰のなんという歌かを見逃してしまった。何日かして、また、同じ曲がかかったとき、今度はしっかりと曲名とアーティスト名を書きとめた。
それがアニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」だった。彼はすぐにレコード店に買いに走った。当時あまりお金がなかったので、その曲の入ったアルバム『ラプチャー』を、レコード盤より少しだけ安いカセットで買った。
そして、以来この曲はその部屋に幾度となく流れた。シドニー港のさわやかな朝も、太陽が輝く昼も、そして、星とネオンライトが光る夜も、「スイート・ラヴ」はその風景のサウンドトラックになった。
「しいて言えば、夜明けのイメージかなあ。一人で窓際に座ってそれは綺麗な夜景を見ながら、酒を飲んでいるときなんか、アニタの歌声にはやられました。特にこの『スイート・ラヴ』は聴いていると、どんどん曲の中に入ってっちゃうんですよ」と彼は言う。
1989年4月24日シドニー。
シドニーに来て10ヶ月。仕事も慣れ、職場の連中とも仲良くなった時期だ。4月24日の彼の誕生日を仲間たちが祝ってくれることになった。ちょうど、その頃、ちょっとばかり気になっていたゲイルというかわいい女の子がいた。店が終わり、仲間内で「ハッピーバースデイ」が歌われた。なんとゲイルがショートケーキを手作りしてくれた。みんなが酒を飲み、おいしいものを食べ、話ははずみ、パーティーは続いた。
ゲイルもずいぶんと酔っ払ってしまった。ゲイルは本来なら車を自分で運転して帰ることになっていた。だが彼は言った。「そんなに酔っ払っていたら、運転は危ないから、うちにおいでよ」 彼のアパートは、歩いてすぐのところだった。ゲイルは彼のアパートにやってきた。二人ともかなり酔っ払っていた。彼はいつものカセットをかけた。アニタ・ベイカーの「スイート・ラヴ」が、美しい夜景が広がる暗い部屋に鳴り響いた。
「心から愛してるわ。ベイビー、一緒にいればわかるはず。私の腕があなたを抱きしめるのよ。甘い、とろけるような恋に夢中。大声であなたを呼んでも恥ずかしくない。甘く、とろけるようなスイートな恋に夢中なの」
惹かれあう男と女のサウンドトラックとしては完璧だった。
彼はグリーンカード(永住権)が取れるまでの2年間は最低シドニーにいるつもりだった。ところが、その途中の89年暮れ、東京から連絡が入った。父親が癌で大きな手術をするから帰って来い、とのことだった。あと半年いれば、永住権というところまで来ていたが、彼は日本に帰った。
父親は癌になってから2年ほど存命した。
2003年4月24日東京六本木。
そんな話を聴いたDJが「スイート・ラヴ」を再びかけた。
「この曲を聴くと、本当にあのシドニーのアパートからの風景がよみがえりますねえ。あの夜中のハーバーライトが見える夜景やなんかが」と彼は振りかえる。
シドニー・タワー、オペラ・ハウス、シドニー・ハーバー・ブリッジ、帆を揺らすヨット、大きな軍艦・・・。彼の心は、そのとき「スイート・ラヴ」とともに夜明けのシドニー・ハーバー午前5時に飛んでいた。
Music: Between The Lines Of Time
ルーサー・ヴァンドロスが危篤に。
外電などを総合すると、ソウル・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスが16日(水)、心臓発作を起こしニューヨークのウェイル・コーネル・メディカル・センターに運ばれた。22日現在、同病院によると「危篤ではあるが、安定した状態」と発表されている。ヴァンドロスは20日(日)に52歳になった。
ヴァンドロスは長い間体重の増減を繰り返しており、若干糖尿病気味だった、という。身長約187センチながら体重が150キロから85キロくらいまでの間を行き来していた。
2001年に新作『ルーサー・ヴァンドロス』を出したときは、約100キロだった。その頃、ヴァンドロスはテレビ番組『オプラ・ウィンフリー・ショウ』に出演した際、およそ55キロの流動食ダイエットの成功を祝っていた。
ヴァンドロスは、6月17日にジェイ・レコードから新作『ダンス・ウィズ・マイ・ファザー』をリリースする予定になっている。このアルバムには、ビヨンセ(デスティニー・チャイルド)、クイーン・ラティーファ、スティーヴィー・ワンダーなど豪華ゲストが参加している。また、5月22日、23日、25日、26日の4日間ロングアイランドで行われるウェストバリー・ミュージック・フェアに出演することになっていた。
外電などを総合すると、ソウル・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスが16日(水)、心臓発作を起こしニューヨークのウェイル・コーネル・メディカル・センターに運ばれた。22日現在、同病院によると「危篤ではあるが、安定した状態」と発表されている。ヴァンドロスは20日(日)に52歳になった。
ヴァンドロスは長い間体重の増減を繰り返しており、若干糖尿病気味だった、という。身長約187センチながら体重が150キロから85キロくらいまでの間を行き来していた。
2001年に新作『ルーサー・ヴァンドロス』を出したときは、約100キロだった。その頃、ヴァンドロスはテレビ番組『オプラ・ウィンフリー・ショウ』に出演した際、およそ55キロの流動食ダイエットの成功を祝っていた。
ヴァンドロスは、6月17日にジェイ・レコードから新作『ダンス・ウィズ・マイ・ファザー』をリリースする予定になっている。このアルバムには、ビヨンセ(デスティニー・チャイルド)、クイーン・ラティーファ、スティーヴィー・ワンダーなど豪華ゲストが参加している。また、5月22日、23日、25日、26日の4日間ロングアイランドで行われるウェストバリー・ミュージック・フェアに出演することになっていた。
Nina Simone Dies At 70
2003年4月24日ニーナ・シモン、南フランスで死去。
ジャズ・シンガー、ニーナ・シモンが21日(月曜)現在本拠としている南フランスの自宅で死去した。70歳だった。死因は発表されていないが、長い間癌をわずらっていた。シモンは、娘のリサによって召される。
「ジャズ・グレイト」として高い評価を得ているニーナ・シモンは、1933年2月21日サウスキャロライナ州トライオンという街の生まれ。本名ユニース・カサリーン・ウエイモン。ピアニスト、シンガー、ソングライター。シモンは、もともとニューヨークの名門大学ジュリアード音楽院でクラシックを学び、クラシックのピアニストを目指した。生活を支えるために、クラブなどでピアノを弾いたり、ピアノを教えたりしていたが、あるとき、歌も歌えれば仕事があるといわれたことを機に弾き語りをするようになった。以後、1950年代からソウル、ジャズ、ポップ、ゴスペルなどひとつのジャンルにとらわれずあらゆるタイプの音楽に挑戦するようになった。したがって、「ジャズ・グレイト」とひとつの枠に入れられて評されることも彼女は嫌がるだろう。
1958年頃、キング・レコード傘下のベツレヘム・レコードと契約。59年にジョージ・ガーシュウィンの名作「アイ・ラヴ・ユー・ポーギー」を録音したところ、これがR&Bの部門で大ヒット。R&Bチャートで2位を記録し、一躍メジャーな存在になった。
ところが、彼女はこのシングルヒット路線を追及することはなかった。以後もジャズ、フォーク、スピリチュアル、ゴスペルなど様々なタイプの音楽を歌い、シングルではなく、むしろ「アルバム・アーティスト」としての地位を確立していく。当時の黒人女性シンガーとしては極めて珍しかった。
60年代に入ると、彼女は積極的に公民権運動などに参加、黒人としてのプライドを声だかに主張するようになった。そうした主張は、「オールド・ジム・クロウ」、「ミッシシッピー・ゴッダム」といった自作自演曲に如実に現れている。
シモンが70年に発表した「トゥ・ビー・ヤング・ギフテッド&ブラック」は、アレサ・フランクリン、ダニー・ハザウエイなどによってカヴァーされ、高く評価されている。
70年代、80年代もコンスタントに活動はしていたが、決して恵まれている状況ではなかった。ただそうした中でも、87年イギリスで、彼女の作品「マイ・ベイビー・ジャスト・ケア・フォー・ミー」がシャネルのコマーシャルに使われて大ヒットした。
70年代にアメリカを離れ、フランス、アフリカなどを転々とし、現在はフランスに住んでいた。気難しく、扱いにくい人という評判もあったが、最近ではフィオナ・アップル、ジェフ・バックリー、ノラ・ジョーンズなどに影響を与えたシンガーとして再評価されていた。91年に自伝『アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー』を発表している。同タイトルは65年の彼女のアルバム・タイトルでありヒット作品から取っている。
APニュース
かなり詳しい評伝を掲載しています。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/ap/20030422/ap_on_en_mu/obit_nina_simone_36
ジャズ・シンガー、ニーナ・シモンが21日(月曜)現在本拠としている南フランスの自宅で死去した。70歳だった。死因は発表されていないが、長い間癌をわずらっていた。シモンは、娘のリサによって召される。
「ジャズ・グレイト」として高い評価を得ているニーナ・シモンは、1933年2月21日サウスキャロライナ州トライオンという街の生まれ。本名ユニース・カサリーン・ウエイモン。ピアニスト、シンガー、ソングライター。シモンは、もともとニューヨークの名門大学ジュリアード音楽院でクラシックを学び、クラシックのピアニストを目指した。生活を支えるために、クラブなどでピアノを弾いたり、ピアノを教えたりしていたが、あるとき、歌も歌えれば仕事があるといわれたことを機に弾き語りをするようになった。以後、1950年代からソウル、ジャズ、ポップ、ゴスペルなどひとつのジャンルにとらわれずあらゆるタイプの音楽に挑戦するようになった。したがって、「ジャズ・グレイト」とひとつの枠に入れられて評されることも彼女は嫌がるだろう。
1958年頃、キング・レコード傘下のベツレヘム・レコードと契約。59年にジョージ・ガーシュウィンの名作「アイ・ラヴ・ユー・ポーギー」を録音したところ、これがR&Bの部門で大ヒット。R&Bチャートで2位を記録し、一躍メジャーな存在になった。
ところが、彼女はこのシングルヒット路線を追及することはなかった。以後もジャズ、フォーク、スピリチュアル、ゴスペルなど様々なタイプの音楽を歌い、シングルではなく、むしろ「アルバム・アーティスト」としての地位を確立していく。当時の黒人女性シンガーとしては極めて珍しかった。
60年代に入ると、彼女は積極的に公民権運動などに参加、黒人としてのプライドを声だかに主張するようになった。そうした主張は、「オールド・ジム・クロウ」、「ミッシシッピー・ゴッダム」といった自作自演曲に如実に現れている。
シモンが70年に発表した「トゥ・ビー・ヤング・ギフテッド&ブラック」は、アレサ・フランクリン、ダニー・ハザウエイなどによってカヴァーされ、高く評価されている。
70年代、80年代もコンスタントに活動はしていたが、決して恵まれている状況ではなかった。ただそうした中でも、87年イギリスで、彼女の作品「マイ・ベイビー・ジャスト・ケア・フォー・ミー」がシャネルのコマーシャルに使われて大ヒットした。
70年代にアメリカを離れ、フランス、アフリカなどを転々とし、現在はフランスに住んでいた。気難しく、扱いにくい人という評判もあったが、最近ではフィオナ・アップル、ジェフ・バックリー、ノラ・ジョーンズなどに影響を与えたシンガーとして再評価されていた。91年に自伝『アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー』を発表している。同タイトルは65年の彼女のアルバム・タイトルでありヒット作品から取っている。
APニュース
かなり詳しい評伝を掲載しています。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/ap/20030422/ap_on_en_mu/obit_nina_simone_36
Tears of God
2003年4月23日夜行バス。
今日ライヴがあるので行こう、と友人に誘われて足を運んだ西麻布アムリタ。月曜なのにけっこう混んでいた。まあ、そのライヴはうるさくて心地よくなかったのだが、そこでボストン生まれのシンガーという23歳の男性を紹介された。日本人だが母国語が英語だという。
マーヴィン・ゲイとかスティーヴィー・ワンダーが好きだというので、カウンターの前で立ち話になった。「やっぱり、ホワッツ・ゴーイング・オンとかね。(自分も)歌いますけど、マーヴィンみたいにはとうてい歌えないですよ。ええ、ダニー(・ハザウエイ)のライヴ盤はすごいですよね。ダニーも大好きです。あの曲は、マーヴィン以外だとダニーくらいでしょうか。あのライヴの『ユーヴ・ガッタ・ア・フレンド』ね、すごいですねえ」
マーヴィン→ホワッツ・ゴーイング・オン→ダニー・ライヴという話の流れは、もう完璧に定番だ。どこでも誰でも、初対面でも、ある程度聞いてる人だとこうなる。それは話の共通項。
彼は他にもたくさん好きな曲があるが、スティーヴィーの「アズ」が好きだと言った。いずれも彼が生まれる前の作品ばかりだ。そんな彼に、曲を聴いたときの風景が記憶にある曲はないか、尋ねた。するとこんな話をしてくれた。
ちょうど彼がボストンに住んでいる頃のことだった。友人を訪ねてニューヨークに行こうとしていた。そのときは、飛行機ではなく、往復約60ドルのグレイハウンド・バスでニューヨークに向かった。飛行機だと高いので学生の彼がバスで行くのは珍しいことではなかった。
彼はCDウォークマンにスティーヴィーのアルバム『ソングス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』をいれていた。2枚組みのCDで、そのときはディスク2がかかっていた。1曲目の「イズント・シー・ラヴリー」が流れた。ニューヨークまで夜行バスでおよそ4時間半の旅。ボストンの街からバスが遠ざかっていくと、ちょうど街の光が地平線と重なるあたりで、ぼんやりとろうそくのように見えた。まさにそのときかかったのが、2曲目の「ジョイ・インサイド・マイ・ティアーズ」だった。
それまでにも何度かアルバムは聴いていたが、真剣に集中して聴いたのはこのときが初めてだった。「イズント・・」がカットアウトで終わり、すぐに「ジョイ・・・」の重厚なイントロが始まる。なんとも言えぬ感情が彼の中に巻き起こった。バスのエンジン音もほとんど聞こえず、ヘッドフォーンからスティーヴィーの声が直接彼の耳元にささやいた。夜の国道を走るバスは一定のリズムを刻み続け、少しだけ彼の体に振動を与えていた。
曲が流れる間、彼は無意識のうちに右手も左手もきつく握りこぶしを作っていた。車窓の向こうに見えるろうそくのような光がゆらゆらと揺れる。6分29秒の夢のような曲が終わって手を開いてみると、じっとりと汗をかいていた。一体何が起こったのか、彼にはわからなかった。だが、そのときの光の風景と「ジョイ・インサイド・マイ・ティアーズ」は見事に融合していた。
「『イズント・シー・ラヴリー』は、僕はまだ子供もいないので、それほど感じるものはなかったんです。でも、この『ジョイ…』はものすごく衝撃でしたねえ。あの時の景色は今でもよく覚えていますよ」
スティーヴィー・エイス・ワンダーはこう歌う。「『でもね』という言葉は、なにかとても大事なことを言うための言い訳だと思うんだ。だから僕はできるだけ、『でもね』とは言わないようにしている。でもね、僕の心の中に今思っていることはなんとしてでも君に知ってもらわないと。ベイビー、君が僕の人生に歴史を与えてくれたんだ。君は、僕の涙の中に喜びをもたらしてくれる。君は誰もが不可能だと思ったことを成し遂げたんだよ。つまり、僕の涙に喜びを与えてくれたんだ」
「明日という日は、昨日という日が足かせになっている人のためにある。永遠の瞬間は、はるかかなたから、しかも、めったに訪れない。だから君がもたらしてくれたその喜びについて君にはっきり言っておかなければならない。君こそが僕の人生に歴史を与えてくれた、僕の涙に喜びをもたらしてくれたから」
この曲を聴いて、彼は何を感じたのだろうか。バンドが出す雑音の中でしばらく考えてこう言った。「神は女性だってことでしょうか。すべて。子供を産むこと、母としての役目、やさしく人を包み込むということ。神は女性なんだな、と思いました」
雑音と神の音の話。そのあまりの落差が妙に印象に残った。
ひょっとしたらボストンからの夜行バスの中で、神の声がスティーヴィーを媒介として、彼の元に届いたのかもしれない。両手の握りこぶしの汗は、神の汗だったのか。あるいは神の嬉し涙だったのか。
+++++
PS: Kさん、「シェイク・ユア・ブーティー」と男に言われたら大喜びですかあ。男たち、どんどん言ってみよう。
今日ライヴがあるので行こう、と友人に誘われて足を運んだ西麻布アムリタ。月曜なのにけっこう混んでいた。まあ、そのライヴはうるさくて心地よくなかったのだが、そこでボストン生まれのシンガーという23歳の男性を紹介された。日本人だが母国語が英語だという。
マーヴィン・ゲイとかスティーヴィー・ワンダーが好きだというので、カウンターの前で立ち話になった。「やっぱり、ホワッツ・ゴーイング・オンとかね。(自分も)歌いますけど、マーヴィンみたいにはとうてい歌えないですよ。ええ、ダニー(・ハザウエイ)のライヴ盤はすごいですよね。ダニーも大好きです。あの曲は、マーヴィン以外だとダニーくらいでしょうか。あのライヴの『ユーヴ・ガッタ・ア・フレンド』ね、すごいですねえ」
マーヴィン→ホワッツ・ゴーイング・オン→ダニー・ライヴという話の流れは、もう完璧に定番だ。どこでも誰でも、初対面でも、ある程度聞いてる人だとこうなる。それは話の共通項。
彼は他にもたくさん好きな曲があるが、スティーヴィーの「アズ」が好きだと言った。いずれも彼が生まれる前の作品ばかりだ。そんな彼に、曲を聴いたときの風景が記憶にある曲はないか、尋ねた。するとこんな話をしてくれた。
ちょうど彼がボストンに住んでいる頃のことだった。友人を訪ねてニューヨークに行こうとしていた。そのときは、飛行機ではなく、往復約60ドルのグレイハウンド・バスでニューヨークに向かった。飛行機だと高いので学生の彼がバスで行くのは珍しいことではなかった。
彼はCDウォークマンにスティーヴィーのアルバム『ソングス・イン・ザ・キー・オブ・ライフ』をいれていた。2枚組みのCDで、そのときはディスク2がかかっていた。1曲目の「イズント・シー・ラヴリー」が流れた。ニューヨークまで夜行バスでおよそ4時間半の旅。ボストンの街からバスが遠ざかっていくと、ちょうど街の光が地平線と重なるあたりで、ぼんやりとろうそくのように見えた。まさにそのときかかったのが、2曲目の「ジョイ・インサイド・マイ・ティアーズ」だった。
それまでにも何度かアルバムは聴いていたが、真剣に集中して聴いたのはこのときが初めてだった。「イズント・・」がカットアウトで終わり、すぐに「ジョイ・・・」の重厚なイントロが始まる。なんとも言えぬ感情が彼の中に巻き起こった。バスのエンジン音もほとんど聞こえず、ヘッドフォーンからスティーヴィーの声が直接彼の耳元にささやいた。夜の国道を走るバスは一定のリズムを刻み続け、少しだけ彼の体に振動を与えていた。
曲が流れる間、彼は無意識のうちに右手も左手もきつく握りこぶしを作っていた。車窓の向こうに見えるろうそくのような光がゆらゆらと揺れる。6分29秒の夢のような曲が終わって手を開いてみると、じっとりと汗をかいていた。一体何が起こったのか、彼にはわからなかった。だが、そのときの光の風景と「ジョイ・インサイド・マイ・ティアーズ」は見事に融合していた。
「『イズント・シー・ラヴリー』は、僕はまだ子供もいないので、それほど感じるものはなかったんです。でも、この『ジョイ…』はものすごく衝撃でしたねえ。あの時の景色は今でもよく覚えていますよ」
スティーヴィー・エイス・ワンダーはこう歌う。「『でもね』という言葉は、なにかとても大事なことを言うための言い訳だと思うんだ。だから僕はできるだけ、『でもね』とは言わないようにしている。でもね、僕の心の中に今思っていることはなんとしてでも君に知ってもらわないと。ベイビー、君が僕の人生に歴史を与えてくれたんだ。君は、僕の涙の中に喜びをもたらしてくれる。君は誰もが不可能だと思ったことを成し遂げたんだよ。つまり、僕の涙に喜びを与えてくれたんだ」
「明日という日は、昨日という日が足かせになっている人のためにある。永遠の瞬間は、はるかかなたから、しかも、めったに訪れない。だから君がもたらしてくれたその喜びについて君にはっきり言っておかなければならない。君こそが僕の人生に歴史を与えてくれた、僕の涙に喜びをもたらしてくれたから」
この曲を聴いて、彼は何を感じたのだろうか。バンドが出す雑音の中でしばらく考えてこう言った。「神は女性だってことでしょうか。すべて。子供を産むこと、母としての役目、やさしく人を包み込むということ。神は女性なんだな、と思いました」
雑音と神の音の話。そのあまりの落差が妙に印象に残った。
ひょっとしたらボストンからの夜行バスの中で、神の声がスティーヴィーを媒介として、彼の元に届いたのかもしれない。両手の握りこぶしの汗は、神の汗だったのか。あるいは神の嬉し涙だったのか。
+++++
PS: Kさん、「シェイク・ユア・ブーティー」と男に言われたら大喜びですかあ。男たち、どんどん言ってみよう。
Charles "Cholly" Atkins Dead At 89
2003年4月22日チョリー・アトキンス死去。
モータウン・レコードをはじめ多くのソウル系アーティストの振り付けをしてきたダンサー、コレオグラファー(振り付け師)の第一人者、チョリー・アトキンスが4月19日ラスヴェガスの病院で死去した。89歳だった。
チョリー・アトキンスは、本名チャールズ・アトキンソン、1913年(大正2年)9月30日アラバマ州プラットシティー生まれ。10歳のときに、チャールストンのコンテストで優勝したことをきっかけにタップダンサーとしての道を歩み始める。
1929年までにアトキンスはバッファローのカフェなどで「シンギング・ウエイター」として評判を得るようになり、いくつかのダンスユニットなどを結成。1940年代から50年代にかけて「コールス&アトキンス」というダンサーとして活躍、ライヴショウ、映画、テレビなどで一世を風靡。彼らはカウント・ベイシー、キャブ・キャロウエイ、ルイ・アームストロングなどのバンドで踊った。ミュージカル『紳士は金髪がお好き(ジェントルメン・プリファー・ブロンズ)』(1949年)では彼らのダンスが大々的にフィーチャーされ、オリジナル・サウンドトラックでも歌っている。このミュージカルは2年にわたるロングランとなり、彼らの名声も決定的になる。
彼ら二人は「クラス・アクト(上品なダンサー)」と呼ばれた。これは彼らの動きが優雅で洗練され、二人が同じ動きをして、あたかも一人で踊っているように見えたためである。
その後彼はダンススクールでダンスを教えたりしていたが、ドゥワップグループ、キャデラックス(1956年『スピードー』の大ヒットで有名に)の振り付けをてがけたことを機に、R&B系のアーティストの振り付けを担当することになる。それまで彼は、主としてクラシック、ジャズなど歌のない作品で踊ったり振り付けをしていたが、キャデラックスへの振り付けは「ヴォーカル・コレオグラフィー」というまったく新しいジャンルを開拓。以後のR&Bグループの振り付けの基盤となった。
65年頃から72年頃まで、モータウンのスタッフ・コレオグラファーとなり、同社のアーティストの振り付けを多数担当。彼が振り付けをてがけたアーティストは、グラディス・ナイト&ピップス、コントゥアーズ、テンプテーションズ、フォー・トップス、マーサ&ヴァンデラス、スプリームス、マーヴィン・ゲイ、ミラクルズなど数え切れない。その後もフィラデルフィア・インター・レーベルのオージェイズなどの振り付けを担当した。中でもテンプスの「マイ・ガール」などは特に有名。
長年の功績に対し様々な賞を獲得しているが、1989年には振り付けを担当したミュージカル『ブラック&ブルー』でトニー賞を受賞している。
多くのタップダンサー、ダンサーに影響を与えているが、『ブリング・ダ・ノイズ、ブリング・ダ・ファンク』を生み出したダンサー、サヴィアン・グローヴァーもその一人。
+++
振り付け。
96年、デトロイトにモータウン・ミュージアムを訪ねたことがあった。そのときはたまたま近くのフォード・ミュージアム(自動車のフォード社の博物館)でも、『モータウン特集』のような形で、モータウンの展覧会をやっていて、それも見ることができた。
その中で、テンプテーションズのモノクロの「マイ・ガール」にあわせてみんなで踊ろうという教則ビデオのようなものが流れていた。この振り付けをしていたのが、チョリーである。比較的簡単で、でも、かっこいい。そのビデオの前で、一般の人々が「マイ・ガール」の振り付けを踊ろうとしていたのが、とても印象に残っている。
黒人R&Bヴォーカルグループといえば、振り付けも大きな魅力のひとつだが、それをほとんど一手に引きうけていたのが、このチョリーだ。動きが優雅でかっこよく品があるというのが特徴。その洗練された動きは、恐らく、ジャズ、クラシックの素養から生まれたものだろう。いわゆるストリートから生まれたものではないように思える。
昨年もオージェイズに振り付けをしていたというニュースが伝わっていたので、最後まで現役のコレオグラファーだった。お葬式には錚々たるメンバーが集まるのではないだろうか。それこそ、ソウルミュージック界のフーズフーが集合だろう。
ご冥福をお祈りしたい。
+++
(参考資料=チョリー・アトキンスについて)
http://www.asha.com/Articles/cholly.asp
モータウン・レコードをはじめ多くのソウル系アーティストの振り付けをしてきたダンサー、コレオグラファー(振り付け師)の第一人者、チョリー・アトキンスが4月19日ラスヴェガスの病院で死去した。89歳だった。
チョリー・アトキンスは、本名チャールズ・アトキンソン、1913年(大正2年)9月30日アラバマ州プラットシティー生まれ。10歳のときに、チャールストンのコンテストで優勝したことをきっかけにタップダンサーとしての道を歩み始める。
1929年までにアトキンスはバッファローのカフェなどで「シンギング・ウエイター」として評判を得るようになり、いくつかのダンスユニットなどを結成。1940年代から50年代にかけて「コールス&アトキンス」というダンサーとして活躍、ライヴショウ、映画、テレビなどで一世を風靡。彼らはカウント・ベイシー、キャブ・キャロウエイ、ルイ・アームストロングなどのバンドで踊った。ミュージカル『紳士は金髪がお好き(ジェントルメン・プリファー・ブロンズ)』(1949年)では彼らのダンスが大々的にフィーチャーされ、オリジナル・サウンドトラックでも歌っている。このミュージカルは2年にわたるロングランとなり、彼らの名声も決定的になる。
彼ら二人は「クラス・アクト(上品なダンサー)」と呼ばれた。これは彼らの動きが優雅で洗練され、二人が同じ動きをして、あたかも一人で踊っているように見えたためである。
その後彼はダンススクールでダンスを教えたりしていたが、ドゥワップグループ、キャデラックス(1956年『スピードー』の大ヒットで有名に)の振り付けをてがけたことを機に、R&B系のアーティストの振り付けを担当することになる。それまで彼は、主としてクラシック、ジャズなど歌のない作品で踊ったり振り付けをしていたが、キャデラックスへの振り付けは「ヴォーカル・コレオグラフィー」というまったく新しいジャンルを開拓。以後のR&Bグループの振り付けの基盤となった。
65年頃から72年頃まで、モータウンのスタッフ・コレオグラファーとなり、同社のアーティストの振り付けを多数担当。彼が振り付けをてがけたアーティストは、グラディス・ナイト&ピップス、コントゥアーズ、テンプテーションズ、フォー・トップス、マーサ&ヴァンデラス、スプリームス、マーヴィン・ゲイ、ミラクルズなど数え切れない。その後もフィラデルフィア・インター・レーベルのオージェイズなどの振り付けを担当した。中でもテンプスの「マイ・ガール」などは特に有名。
長年の功績に対し様々な賞を獲得しているが、1989年には振り付けを担当したミュージカル『ブラック&ブルー』でトニー賞を受賞している。
多くのタップダンサー、ダンサーに影響を与えているが、『ブリング・ダ・ノイズ、ブリング・ダ・ファンク』を生み出したダンサー、サヴィアン・グローヴァーもその一人。
+++
振り付け。
96年、デトロイトにモータウン・ミュージアムを訪ねたことがあった。そのときはたまたま近くのフォード・ミュージアム(自動車のフォード社の博物館)でも、『モータウン特集』のような形で、モータウンの展覧会をやっていて、それも見ることができた。
その中で、テンプテーションズのモノクロの「マイ・ガール」にあわせてみんなで踊ろうという教則ビデオのようなものが流れていた。この振り付けをしていたのが、チョリーである。比較的簡単で、でも、かっこいい。そのビデオの前で、一般の人々が「マイ・ガール」の振り付けを踊ろうとしていたのが、とても印象に残っている。
黒人R&Bヴォーカルグループといえば、振り付けも大きな魅力のひとつだが、それをほとんど一手に引きうけていたのが、このチョリーだ。動きが優雅でかっこよく品があるというのが特徴。その洗練された動きは、恐らく、ジャズ、クラシックの素養から生まれたものだろう。いわゆるストリートから生まれたものではないように思える。
昨年もオージェイズに振り付けをしていたというニュースが伝わっていたので、最後まで現役のコレオグラファーだった。お葬式には錚々たるメンバーが集まるのではないだろうか。それこそ、ソウルミュージック界のフーズフーが集合だろう。
ご冥福をお祈りしたい。
+++
(参考資料=チョリー・アトキンスについて)
http://www.asha.com/Articles/cholly.asp
"Shake Your Booty" in Vulgar Way
2003年4月21日お下品。
KC&サンシャイン・バンドの大ヒットのひとつ「シェイク・ユア・ブーティ」を直訳すると、「振って、振って、お尻を振って」ということになります。その旨を紹介したら、お上品なシロガネーゼのリスナーからメールが来ました。
「あんまり、お下品な放送、なさらないで」
そ〜〜んなこと、言われてもねえ、マーヴィン。そういう風に歌っているのは、KCたちですからねえ。僕たちは彼らが歌っていることを、忠実にみなさんにお知らせしているだけなんですよ。ま、言ってみれば、ただの媒介者にすぎないわけですよね。(笑) 「シェイク・ユア・ブーティー」と言ってるのは、KCであって、僕たちではない・・・。
「ゲット・ダウン・トゥナイト」は、直訳すると、「今夜、盛り上がろうぜ」とか「今夜、はじけようぜ」、「今夜ぱっとやろうぜ」といったところですね。「ザッツ・ザ・ウエイ」は、「そんな感じが好きなのさ」といった意味ですね。これは性的な意味合いも含みます。しかしまあ、どれをとっても、たいして深い意味はありません。どれをとっても同じようなものです。そこが、マイアミ一(いち)底抜け能天気なパーティー・バンドたる所以であります。頭使っちゃあいけません。頭使わず、腰使う音楽です。
思わず、シロガネーゼにメールを返してしまいました。「リスナーのレヴェルにあわせてるんです」 そしたら、速攻返ってきました。「マーヴィンと、君のレヴェルでしょ」って。ひえ〜〜〜。次回からお上品な紹介を心がけましょう。元々僕は、お上品ですから。
Shake Your Booty in Elegant Wayってな感じでね。しかし、シェイク・ユア・ブーティーのどこがお上品にできるんでしょうか。(苦笑) 無理だ。やっぱりKCって腰で聴く音楽なんですよねえ。どこをどう切っても。で、そこがいいんじゃないねえ。文句あっか。(笑)
KC&サンシャイン・バンドの大ヒットのひとつ「シェイク・ユア・ブーティ」を直訳すると、「振って、振って、お尻を振って」ということになります。その旨を紹介したら、お上品なシロガネーゼのリスナーからメールが来ました。
「あんまり、お下品な放送、なさらないで」
そ〜〜んなこと、言われてもねえ、マーヴィン。そういう風に歌っているのは、KCたちですからねえ。僕たちは彼らが歌っていることを、忠実にみなさんにお知らせしているだけなんですよ。ま、言ってみれば、ただの媒介者にすぎないわけですよね。(笑) 「シェイク・ユア・ブーティー」と言ってるのは、KCであって、僕たちではない・・・。
「ゲット・ダウン・トゥナイト」は、直訳すると、「今夜、盛り上がろうぜ」とか「今夜、はじけようぜ」、「今夜ぱっとやろうぜ」といったところですね。「ザッツ・ザ・ウエイ」は、「そんな感じが好きなのさ」といった意味ですね。これは性的な意味合いも含みます。しかしまあ、どれをとっても、たいして深い意味はありません。どれをとっても同じようなものです。そこが、マイアミ一(いち)底抜け能天気なパーティー・バンドたる所以であります。頭使っちゃあいけません。頭使わず、腰使う音楽です。
思わず、シロガネーゼにメールを返してしまいました。「リスナーのレヴェルにあわせてるんです」 そしたら、速攻返ってきました。「マーヴィンと、君のレヴェルでしょ」って。ひえ〜〜〜。次回からお上品な紹介を心がけましょう。元々僕は、お上品ですから。
Shake Your Booty in Elegant Wayってな感じでね。しかし、シェイク・ユア・ブーティーのどこがお上品にできるんでしょうか。(苦笑) 無理だ。やっぱりKCって腰で聴く音楽なんですよねえ。どこをどう切っても。で、そこがいいんじゃないねえ。文句あっか。(笑)
Rainbow
2003年4月20日虹。
昨日、夕方、虹を見ました。いつぶりでしょう。去年一度初夏にあったような気がします。雨がさっと降って、太陽が残っていると虹ができるんですね。
虹といえば、『レインボウ・チルドレン』でしょうか。プリンスの昨年のアルバムですね。アルバムタイトル曲は10分を超える大作です。最高にかっこいい曲です。
クラシックに「オーヴァー・ザ・レインボウ(邦題、虹のかなたに)」がありますね。いろんな人がやっています。100や200はありそうですね。ジュディー・ガーランドのものが一番有名なのでしょうか。ピアニスト、サヤもインディで98年に出した『シンプル・ポエム』の中でカヴァーしています。
マライア・キャリーも『レインボウ』というアルバムを99年にだしてました。ジャケットも虹色がアピールされてましたね。
ジョー・サンプルのアルバム『レインボウ・シーカー』は強力でした。あの名曲「メロディーズ・オブ・ラヴ」がはいっている78年のアルバムです。全曲インストゥルメンタルですが、曲タイトルが、全体的なストーリー風のものをもっています。タイトル曲は、虹を探す者、ということになりますね。
そのアルバムにはジョーが書いたちょっとした詩のようなものがあります。全文を訳すと長くなってしまいますが、最後の一文はシンプルです。「生涯、愛の翼で空を飛ぶ。それが続く限り、私はレインボウ・シーカー。もし、あなたが虹を探すなら、きっとみつかる」
緑色のジャケットに映るジョー・サンプルの姿の縁取りが虹色になっています。
虹は、さまざまな曲の題材にできるかっこうの素材です。
昨日、夕方、虹を見ました。いつぶりでしょう。去年一度初夏にあったような気がします。雨がさっと降って、太陽が残っていると虹ができるんですね。
虹といえば、『レインボウ・チルドレン』でしょうか。プリンスの昨年のアルバムですね。アルバムタイトル曲は10分を超える大作です。最高にかっこいい曲です。
クラシックに「オーヴァー・ザ・レインボウ(邦題、虹のかなたに)」がありますね。いろんな人がやっています。100や200はありそうですね。ジュディー・ガーランドのものが一番有名なのでしょうか。ピアニスト、サヤもインディで98年に出した『シンプル・ポエム』の中でカヴァーしています。
マライア・キャリーも『レインボウ』というアルバムを99年にだしてました。ジャケットも虹色がアピールされてましたね。
ジョー・サンプルのアルバム『レインボウ・シーカー』は強力でした。あの名曲「メロディーズ・オブ・ラヴ」がはいっている78年のアルバムです。全曲インストゥルメンタルですが、曲タイトルが、全体的なストーリー風のものをもっています。タイトル曲は、虹を探す者、ということになりますね。
そのアルバムにはジョーが書いたちょっとした詩のようなものがあります。全文を訳すと長くなってしまいますが、最後の一文はシンプルです。「生涯、愛の翼で空を飛ぶ。それが続く限り、私はレインボウ・シーカー。もし、あなたが虹を探すなら、きっとみつかる」
緑色のジャケットに映るジョー・サンプルの姿の縁取りが虹色になっています。
虹は、さまざまな曲の題材にできるかっこうの素材です。
Back Chorus on Midnight Train To Georgia
2003年4月19日バックコーラス。
バックコーラスというのは、ソウル、R&Bの世界では特に魅力的なもののひとつです。一人のリードシンガーのバックを3ー4人のコーラス隊が歌ってひきたてる。コーラスがかっこよければ、リードも当然引き立ちます。特にドゥワップの時代からブラック・ミュージックのコーラスは、聞き逃せません。
そんなバックコーラスが見事な曲の一例として、73年のグラディス・ナイト&ピップスの大ヒット「ミッドナイト・トレイン・トゥ・ジョージア(邦題、夜汽車よジョージアへ)」があります。で、このコーラスがどうなっているか、ちょっと研究してみましょう。
この歌詞を探したんですねえ。すると、グラディスが歌ってる部分が書かれている歌詞はいくらでもでてくるんですが、ピップスのコーラス部分も含めた歌詞カードはなかなかでてこないですねえ。でも、探しました。
http://www.angelfire.com/tv2/mwsounds/mttg.html
+++
"Midnight Train To Georgia" by Gladys Knight & Pips
(written by James D Weatherly)
L.A. proved too much for the man
ロスは男にとっては、あまりに荷が重過ぎた
(too much for the man) (he couldn’t make it)
(男には重すぎた、彼は成功できなかった)
So he’s leaving the life he’s come to know
厳しい現実を知った今、彼はロスの生活をあきらめる
(he said he’s going)
He said he’s going back to find
(going back to find)
Oooo, what’s left of his world
彼は言う。彼の世界に残されたものを探しに戻る、と。
The world he left behind
Not so long ago.
ついしばらく前まで彼がいた世界
He’s leaving (leaving)
On that midnight train to Georgia
彼は、真夜中のジョージア行きの列車に乗って、去っていく。
(leaving on the midnight train)
(真夜中の列車で去っていく)
Yes, said he’s going back (going back to find)
To a simpler place and time
彼は都会よりもっとシンプルで、ゆったりと時が流れる
場所に戻ると言った
(and when he takes that ride)
(彼がその夜汽車に乗る時)
Oh yes he is (guess who’s gonna be right by his side)
(彼の傍らには、誰がいると思う?)
And I’ll be with him (I know you will)
私は、彼と一緒に行くわ。(君はそうするさ)
On that midnight train to Georgia
(leaving on that midnight train to Georgia, whoo whoo)
(ジョージア行きの夜汽車に乗って去る)
I’d rather live in his world (live in his world)
Than live without him in mine
私は、彼なしの自分の世界よりも、彼の世界に住みたいの
(her, world is his, his and hers alone)
(彼女の世界は彼のもの、彼と彼女だけのもの)
He kept dreaming (dreaming)
Ooo, that someday he’d be a star
彼はいつかスターになることを夢見ていた
(夢、夢)
(a superstar but he didn’t get far)
(スーパースターへの夢、でもそれは叶わなかった)
But he sure found out the hard way
That dreams don’t always come true
彼はその道が厳しいものだとわかった。
夢は必ずしも叶うものではないと知った。
(dreams don’t always come true)
oh no (uh uh) uh uh (no uh uh)
(夢はいつも叶うもとは限らない)
So he burned all his hopes (woo, woo, woo)
だから彼は希望をすべて燃やし尽くした
(ウー、ウー、ウー)
And he even sold his own car (woo, woo, woo)
車も売り払った
(ウー、ウー、ウー)
Bought a one way ticket back
To the life he once knew
Oh yes he did, he said he would
彼はかつて知っていた昔の人生に戻るため、
片道切符を買った
+++
この曲は、グラディスが歌うリードの歌詞の一部をうまくコーラスにして重ねるのですね。たとえば、
L.A. proved too much for the man
(too much for the man) (he couldn’t make it)
( )内がコーラスです。he couldn’t make itも、うまく歌詞に沿ったバックコーラスになっています。グラディスの歌詞をなぞって、コーラスをいれるパターンもあれば、独自の歌詞をいれるときもあります。そして、コーラスは男声で来るので、ちょうど男と女がかけあいをしているように聞こえます。
ある種コーラスバトルが見られるところが、またこの曲の最大の魅力です。
I’ll be with him (I know you will)
ここでは I’ll be with him がグラディス、(I know you will)が男声コーラスになっています。「私は彼と行くわ」と女性のグラディスが歌うと、「君が行くことはわかってるよ」と男声が相槌を打ちます。男女のデュエットさながらです。
バックコーラスの素敵な部分は、ただ「う〜〜」とか、「あ〜〜」とかつけるのではなく、歌詞に沿ったコーラスが歌われる、という点にあります。その点、この曲は見事なコーラスがついているのです。
さあ、あなたもピップスのコーラスを真似してみましょう。
バックコーラスというのは、ソウル、R&Bの世界では特に魅力的なもののひとつです。一人のリードシンガーのバックを3ー4人のコーラス隊が歌ってひきたてる。コーラスがかっこよければ、リードも当然引き立ちます。特にドゥワップの時代からブラック・ミュージックのコーラスは、聞き逃せません。
そんなバックコーラスが見事な曲の一例として、73年のグラディス・ナイト&ピップスの大ヒット「ミッドナイト・トレイン・トゥ・ジョージア(邦題、夜汽車よジョージアへ)」があります。で、このコーラスがどうなっているか、ちょっと研究してみましょう。
この歌詞を探したんですねえ。すると、グラディスが歌ってる部分が書かれている歌詞はいくらでもでてくるんですが、ピップスのコーラス部分も含めた歌詞カードはなかなかでてこないですねえ。でも、探しました。
http://www.angelfire.com/tv2/mwsounds/mttg.html
+++
"Midnight Train To Georgia" by Gladys Knight & Pips
(written by James D Weatherly)
L.A. proved too much for the man
ロスは男にとっては、あまりに荷が重過ぎた
(too much for the man) (he couldn’t make it)
(男には重すぎた、彼は成功できなかった)
So he’s leaving the life he’s come to know
厳しい現実を知った今、彼はロスの生活をあきらめる
(he said he’s going)
He said he’s going back to find
(going back to find)
Oooo, what’s left of his world
彼は言う。彼の世界に残されたものを探しに戻る、と。
The world he left behind
Not so long ago.
ついしばらく前まで彼がいた世界
He’s leaving (leaving)
On that midnight train to Georgia
彼は、真夜中のジョージア行きの列車に乗って、去っていく。
(leaving on the midnight train)
(真夜中の列車で去っていく)
Yes, said he’s going back (going back to find)
To a simpler place and time
彼は都会よりもっとシンプルで、ゆったりと時が流れる
場所に戻ると言った
(and when he takes that ride)
(彼がその夜汽車に乗る時)
Oh yes he is (guess who’s gonna be right by his side)
(彼の傍らには、誰がいると思う?)
And I’ll be with him (I know you will)
私は、彼と一緒に行くわ。(君はそうするさ)
On that midnight train to Georgia
(leaving on that midnight train to Georgia, whoo whoo)
(ジョージア行きの夜汽車に乗って去る)
I’d rather live in his world (live in his world)
Than live without him in mine
私は、彼なしの自分の世界よりも、彼の世界に住みたいの
(her, world is his, his and hers alone)
(彼女の世界は彼のもの、彼と彼女だけのもの)
He kept dreaming (dreaming)
Ooo, that someday he’d be a star
彼はいつかスターになることを夢見ていた
(夢、夢)
(a superstar but he didn’t get far)
(スーパースターへの夢、でもそれは叶わなかった)
But he sure found out the hard way
That dreams don’t always come true
彼はその道が厳しいものだとわかった。
夢は必ずしも叶うものではないと知った。
(dreams don’t always come true)
oh no (uh uh) uh uh (no uh uh)
(夢はいつも叶うもとは限らない)
So he burned all his hopes (woo, woo, woo)
だから彼は希望をすべて燃やし尽くした
(ウー、ウー、ウー)
And he even sold his own car (woo, woo, woo)
車も売り払った
(ウー、ウー、ウー)
Bought a one way ticket back
To the life he once knew
Oh yes he did, he said he would
彼はかつて知っていた昔の人生に戻るため、
片道切符を買った
+++
この曲は、グラディスが歌うリードの歌詞の一部をうまくコーラスにして重ねるのですね。たとえば、
L.A. proved too much for the man
(too much for the man) (he couldn’t make it)
( )内がコーラスです。he couldn’t make itも、うまく歌詞に沿ったバックコーラスになっています。グラディスの歌詞をなぞって、コーラスをいれるパターンもあれば、独自の歌詞をいれるときもあります。そして、コーラスは男声で来るので、ちょうど男と女がかけあいをしているように聞こえます。
ある種コーラスバトルが見られるところが、またこの曲の最大の魅力です。
I’ll be with him (I know you will)
ここでは I’ll be with him がグラディス、(I know you will)が男声コーラスになっています。「私は彼と行くわ」と女性のグラディスが歌うと、「君が行くことはわかってるよ」と男声が相槌を打ちます。男女のデュエットさながらです。
バックコーラスの素敵な部分は、ただ「う〜〜」とか、「あ〜〜」とかつけるのではなく、歌詞に沿ったコーラスが歌われる、という点にあります。その点、この曲は見事なコーラスがついているのです。
さあ、あなたもピップスのコーラスを真似してみましょう。
Finally "Jan" was heard
2003年4月18日ジャン。
結局、前日「ブラウンシュガー」で「ジャン」を聴けなかった僕と、U田氏はそれぞれ自宅に戻り自分のレコードで、マーヴィンの「ジャン」をかけて気を紛らわせたわけです。
しかし、それでは、まあ、今ひとつ納得しないわけでして。(笑) 昨日は、月曜日のシックのライヴがよかったので、再度見に行きました。月曜日はそこそこ席が空いていたのに、この日は超満員で立ち見まででていました。週末に向かってどんどんお客さんが来ている感じです。
ブルーノートでは10年ぶりの友達とばったり会ったり、なんか、この日はやたら知り合いに会いました。みんなこのシックとか、ちょうど青春時代だったからかな。
そのシックが終わった後、「ブラウンシュガー」に出向いたわけです。「ジャン・リヴェンジ」ですね。ここもけっこう混んでました。DJ恵子さん、今日はわざわざ『マーヴィン・ゲイ・ライヴ』を持ってきていました。「イントゥルーダーズ先にかけて、そのあとにマーヴィンの『ジャン』をよろしく」と伝えます。
何曲かかかって、いよいよイントゥルーダーズ登場。そして、続いてマーヴィン登場。いやいややっと聴けました、お店で。
マーヴィンはイントロでこう語っています。「みなさん、僕が書いた新曲です。本当にすばらしい女の子の歌です。どうも。彼女が僕にこの曲を書いてくれと頼んできました。書くって約束しました。それがこんな曲です」
そして、「ジャニス・イズ・マイ・ガール(ジャニスは僕の彼女)」と歌い始めるわけです。なんとストレートな表現でしょうか。
そして、この「ジャン」の次にかかったのが、コモドアーズの「ナイトシフト」。マーヴィンへのトリビュートソングですね。なるほど。さらに、USAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」と来ました。
この日は家にあった7インチ・シングルを適当に見繕って持っていきました。エグゼクティヴ・スイートとかウィンディー・シティーとか。自分でも覚えてなくて。それにしても、選曲の流れを作る技がなかなかのものです。ダニー・ハザウエイの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」のライヴをリクエストしたら、それをかける前にダニー&ロバータの「ホエア・イズ・ラヴ」かけてから、その曲に進むのですね。
帰り際、オウナーの白川さんに言われました。「濃い二日間でしたね」 たしかに。
結局、前日「ブラウンシュガー」で「ジャン」を聴けなかった僕と、U田氏はそれぞれ自宅に戻り自分のレコードで、マーヴィンの「ジャン」をかけて気を紛らわせたわけです。
しかし、それでは、まあ、今ひとつ納得しないわけでして。(笑) 昨日は、月曜日のシックのライヴがよかったので、再度見に行きました。月曜日はそこそこ席が空いていたのに、この日は超満員で立ち見まででていました。週末に向かってどんどんお客さんが来ている感じです。
ブルーノートでは10年ぶりの友達とばったり会ったり、なんか、この日はやたら知り合いに会いました。みんなこのシックとか、ちょうど青春時代だったからかな。
そのシックが終わった後、「ブラウンシュガー」に出向いたわけです。「ジャン・リヴェンジ」ですね。ここもけっこう混んでました。DJ恵子さん、今日はわざわざ『マーヴィン・ゲイ・ライヴ』を持ってきていました。「イントゥルーダーズ先にかけて、そのあとにマーヴィンの『ジャン』をよろしく」と伝えます。
何曲かかかって、いよいよイントゥルーダーズ登場。そして、続いてマーヴィン登場。いやいややっと聴けました、お店で。
マーヴィンはイントロでこう語っています。「みなさん、僕が書いた新曲です。本当にすばらしい女の子の歌です。どうも。彼女が僕にこの曲を書いてくれと頼んできました。書くって約束しました。それがこんな曲です」
そして、「ジャニス・イズ・マイ・ガール(ジャニスは僕の彼女)」と歌い始めるわけです。なんとストレートな表現でしょうか。
そして、この「ジャン」の次にかかったのが、コモドアーズの「ナイトシフト」。マーヴィンへのトリビュートソングですね。なるほど。さらに、USAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」と来ました。
この日は家にあった7インチ・シングルを適当に見繕って持っていきました。エグゼクティヴ・スイートとかウィンディー・シティーとか。自分でも覚えてなくて。それにしても、選曲の流れを作る技がなかなかのものです。ダニー・ハザウエイの「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」のライヴをリクエストしたら、それをかける前にダニー&ロバータの「ホエア・イズ・ラヴ」かけてから、その曲に進むのですね。
帰り際、オウナーの白川さんに言われました。「濃い二日間でしたね」 たしかに。
Looking for "Jan", All The Way
2003年4月17日濃縮還元。
渋谷の小さなライヴハウスでで某ミュージシャンの仲間が一堂に会した集いがあり行ってみました。いやあ、一言で言って楽器ができるっていいな、歌が上手に歌えるっていいな、ってことに尽きますね。軽いパーティーっていう感じで次から次へといろいろな人がでてきて。
中でも印象に残ったのが、今出宏さんがバンドを従えてやった「ホワッツ・ゴーイング・オン」。彼はハーモニカも吹くんですが、「こういうご時世でもあるんで、今日は『ホワッツ・ゴーイング・オン』でもやろうと思います。みなさんも、我と思わん方は、ぜひ。みなさんも、トゥゲザ〜で・・・」といいながら、かなりいい感じで歌ってくれました。途中のハーモニカがいいですね。この曲にハーモニカをいれるというアイデアは、すばらしい。ちょっとスティーヴィー風というか、トゥーツ・シールマンス風というか。後半どんどんのりがよくなっていって。
Adya(アディア)さんは、ボニー・レイットの「アイ・キャント・メイク・ユー・ラヴ・ミー」を、新人の朝比奈亜希さんは、スティーヴィーの「アイ・ウィッシュ」を、そして、リリコさんはホイットニーの「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」を熱唱。一青窈(ひととよう)さんも登場して「もらい泣き」を篠原ともえさんなんかも含めて大合唱。みながみな、好き好きにエンジョイして音楽をやっている、という感じでした。
その後、まだ果てしなく続きそうなジャムセッションに後ろ髪を引かれつつ上大崎の「ミッドナイトアワー」に移動。ここでイントゥルーダースのアルバム『エナジー・オブ・ラヴ』がかかっていました。そして、流れてきたのが「ジャン」という曲。名曲です。大好きな曲でもあります。これは元々、マーヴィン・ゲイが74年1月のライヴで歌った曲で、マーヴィンの新しい恋人ジャニス・ハンターのことを歌い、捧げたもの。
当時、マーヴィンは書類上はモータウン・レコード社長ベリー・ゴーディーの姉アンナ・ゴーディーと結婚していたのですが、もうすでに心はジャニスのほうに行っていました。ゴーディー社長は、この曲に激怒し、モータウンはシングル発売はおろか、アルバムの中の一曲としてもリリースすることを許さなかった、といういわくつきの作品なのです。そこで、この曲はライヴで歌われただけとなり、いわゆるスタジオレコーディングのヴァージョンは世にでていないのです。
イントゥルーダーズは、その「ジャン」をカヴァーしていたのです。これを聴いたら、当然、マーヴィンのライヴ・ヴァージョンも聴きたくなるのが、世の常、人の常、ソウルマンの常。マスターに「マーヴィンのライヴはありますか?」と尋ねると、「う〜ん、ないんですよ〜〜」との答え。う〜む、残念。まもなく閉店となったので、ソウルマンU田氏ともう一軒行ってマーヴィンの「ジャン」を聴こうということになったわけです。
行きついた先は、恵比寿の「ブラウンシュガー」。入るなり、オウナー白川さんから「どうもどうも」とお声がけをいただくのもつかのま、ドリンクの注文もせずにいきなり「マーヴィンのライヴある?」。「あ〜〜ないんですよ、今日は。うちから持ってきてないんですよ〜」と残念そうなDJ恵子さん。ソウルマンU田氏「こりゃあ、マーヴィンの『ジャン』を求めて3000里ですかあ」と一言。
マーヴィンはなかったんですが、恵子さんのDJ、すごい選曲です。オスカー・トニー、サム&デイヴ、オーティス、サム・クック、アーサー・コンレー、ボビー・ウーマック、テンプリーズ、フリームーヴメント、キャンディ・ステイトン・・・(順不同)。聞きしに勝るDJぶりですねえ。ソウルマンU田氏、おもわずこぼしました。「おやじ殺しの選曲だなあ」
こちらも、車に載せていたCDを持ってきてしまいましたよ。トータス、マーヴ・ジョンソン、ガーネット・ミムズ、ファイヴ・キーズなんかをかけてもらっちゃいました。そして、最後に、サヤの「ホワッツ・ゴーイング・オン」を流してもらいました。なんだかえらく音楽的に濃い1日でした。濃縮還元ミュージカルライフでした。はい、すばらしい音楽を提供してくれたミュージシャン、シンガー、DJのみなさんに感謝です。サンキュー! ゴッドブレスユ〜〜!!
渋谷の小さなライヴハウスでで某ミュージシャンの仲間が一堂に会した集いがあり行ってみました。いやあ、一言で言って楽器ができるっていいな、歌が上手に歌えるっていいな、ってことに尽きますね。軽いパーティーっていう感じで次から次へといろいろな人がでてきて。
中でも印象に残ったのが、今出宏さんがバンドを従えてやった「ホワッツ・ゴーイング・オン」。彼はハーモニカも吹くんですが、「こういうご時世でもあるんで、今日は『ホワッツ・ゴーイング・オン』でもやろうと思います。みなさんも、我と思わん方は、ぜひ。みなさんも、トゥゲザ〜で・・・」といいながら、かなりいい感じで歌ってくれました。途中のハーモニカがいいですね。この曲にハーモニカをいれるというアイデアは、すばらしい。ちょっとスティーヴィー風というか、トゥーツ・シールマンス風というか。後半どんどんのりがよくなっていって。
Adya(アディア)さんは、ボニー・レイットの「アイ・キャント・メイク・ユー・ラヴ・ミー」を、新人の朝比奈亜希さんは、スティーヴィーの「アイ・ウィッシュ」を、そして、リリコさんはホイットニーの「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」を熱唱。一青窈(ひととよう)さんも登場して「もらい泣き」を篠原ともえさんなんかも含めて大合唱。みながみな、好き好きにエンジョイして音楽をやっている、という感じでした。
その後、まだ果てしなく続きそうなジャムセッションに後ろ髪を引かれつつ上大崎の「ミッドナイトアワー」に移動。ここでイントゥルーダースのアルバム『エナジー・オブ・ラヴ』がかかっていました。そして、流れてきたのが「ジャン」という曲。名曲です。大好きな曲でもあります。これは元々、マーヴィン・ゲイが74年1月のライヴで歌った曲で、マーヴィンの新しい恋人ジャニス・ハンターのことを歌い、捧げたもの。
当時、マーヴィンは書類上はモータウン・レコード社長ベリー・ゴーディーの姉アンナ・ゴーディーと結婚していたのですが、もうすでに心はジャニスのほうに行っていました。ゴーディー社長は、この曲に激怒し、モータウンはシングル発売はおろか、アルバムの中の一曲としてもリリースすることを許さなかった、といういわくつきの作品なのです。そこで、この曲はライヴで歌われただけとなり、いわゆるスタジオレコーディングのヴァージョンは世にでていないのです。
イントゥルーダーズは、その「ジャン」をカヴァーしていたのです。これを聴いたら、当然、マーヴィンのライヴ・ヴァージョンも聴きたくなるのが、世の常、人の常、ソウルマンの常。マスターに「マーヴィンのライヴはありますか?」と尋ねると、「う〜ん、ないんですよ〜〜」との答え。う〜む、残念。まもなく閉店となったので、ソウルマンU田氏ともう一軒行ってマーヴィンの「ジャン」を聴こうということになったわけです。
行きついた先は、恵比寿の「ブラウンシュガー」。入るなり、オウナー白川さんから「どうもどうも」とお声がけをいただくのもつかのま、ドリンクの注文もせずにいきなり「マーヴィンのライヴある?」。「あ〜〜ないんですよ、今日は。うちから持ってきてないんですよ〜」と残念そうなDJ恵子さん。ソウルマンU田氏「こりゃあ、マーヴィンの『ジャン』を求めて3000里ですかあ」と一言。
マーヴィンはなかったんですが、恵子さんのDJ、すごい選曲です。オスカー・トニー、サム&デイヴ、オーティス、サム・クック、アーサー・コンレー、ボビー・ウーマック、テンプリーズ、フリームーヴメント、キャンディ・ステイトン・・・(順不同)。聞きしに勝るDJぶりですねえ。ソウルマンU田氏、おもわずこぼしました。「おやじ殺しの選曲だなあ」
こちらも、車に載せていたCDを持ってきてしまいましたよ。トータス、マーヴ・ジョンソン、ガーネット・ミムズ、ファイヴ・キーズなんかをかけてもらっちゃいました。そして、最後に、サヤの「ホワッツ・ゴーイング・オン」を流してもらいました。なんだかえらく音楽的に濃い1日でした。濃縮還元ミュージカルライフでした。はい、すばらしい音楽を提供してくれたミュージシャン、シンガー、DJのみなさんに感謝です。サンキュー! ゴッドブレスユ〜〜!!
Dance, Dance, Dance
2003年4月16日ダンス。
『フラッシュダンス』という映画は、1983年の作品です。ということは、もう20年も前の映画なんですね。久々にビデオで見ました。う〜〜む。一言で言えば、「懐かしい」、そして「古い」。この映画は、やはり青春映画としては、王道を行くストーリー展開ですね。夢を持ち、その夢に向かって途中なんらかの挫折がありながらも進む、というパターン。そこにちょっとラヴ・ストーリーを絡ませて。単純で、話の次の展開さえわかっていても、ぐいぐいとスクリーンに引きこまれてしまう。そんな映画ですね。
この場合、ジェニファー・ビールスという極めて魅力的な女優にそれを負うところが大きいわけですが。ジェニーファー・ビールスは1963年12月19日シカゴ生まれ。83年映画公開時点ではまだ19歳だったんですね。アイヴィー・リーグの名門、エール大学の女子学生。アメリカ文学を学んでいたそうです。頭いいんだあ。(笑)
なんと言っても、映画・映像と音楽が、非常にうまく結びついたのが、この映画の最大の特徴です。「フラッシュダンスのテーマ」、「マニアック」などがかかる部分でのダンスシーン。MTV時代の申し子とも言えるような映画でした。それはまるで、ミュージシャン、シンガーたちのプロモーション・ビデオをオムニバスにしたような映画だったわけです。ただしダンスシーンは、吹き替えだったりしますが。
この『フラッシュダンス』が映画館で初めて見た映画だった人。この映画を見て、ダンサーを志した人。この映画が、『お気に入りナンバーワン映画』の人。このサントラが好きで好きで聴いた人。みんなそれぞれの思いがあるのでしょうね。
夢に向かう青春映画の王道、音楽映画のプロトタイプとなった映画、そんな作品です。そして、こうしたタイプの映画は、手を変え品を変え、いつでもでてきます。
『フラッシュダンス』は、今はDVDで3980円で発売されています。
『フラッシュダンス』という映画は、1983年の作品です。ということは、もう20年も前の映画なんですね。久々にビデオで見ました。う〜〜む。一言で言えば、「懐かしい」、そして「古い」。この映画は、やはり青春映画としては、王道を行くストーリー展開ですね。夢を持ち、その夢に向かって途中なんらかの挫折がありながらも進む、というパターン。そこにちょっとラヴ・ストーリーを絡ませて。単純で、話の次の展開さえわかっていても、ぐいぐいとスクリーンに引きこまれてしまう。そんな映画ですね。
この場合、ジェニファー・ビールスという極めて魅力的な女優にそれを負うところが大きいわけですが。ジェニーファー・ビールスは1963年12月19日シカゴ生まれ。83年映画公開時点ではまだ19歳だったんですね。アイヴィー・リーグの名門、エール大学の女子学生。アメリカ文学を学んでいたそうです。頭いいんだあ。(笑)
なんと言っても、映画・映像と音楽が、非常にうまく結びついたのが、この映画の最大の特徴です。「フラッシュダンスのテーマ」、「マニアック」などがかかる部分でのダンスシーン。MTV時代の申し子とも言えるような映画でした。それはまるで、ミュージシャン、シンガーたちのプロモーション・ビデオをオムニバスにしたような映画だったわけです。ただしダンスシーンは、吹き替えだったりしますが。
この『フラッシュダンス』が映画館で初めて見た映画だった人。この映画を見て、ダンサーを志した人。この映画が、『お気に入りナンバーワン映画』の人。このサントラが好きで好きで聴いた人。みんなそれぞれの思いがあるのでしょうね。
夢に向かう青春映画の王道、音楽映画のプロトタイプとなった映画、そんな作品です。そして、こうしたタイプの映画は、手を変え品を変え、いつでもでてきます。
『フラッシュダンス』は、今はDVDで3980円で発売されています。
Chic Chic Chic
2003年4月15日グッドタイムス。
「オレは東京がファンキーか確かめたいんだ。もしみんなが気持ちよかったら、『ホー』っと言ってくれ!」
ナイル・ロジャースが、叫びます。「セイ・ホ〜〜〜」 「ホ〜〜〜」(観客) 「ブルーノート・イズ・ファンキー!」
今までのどのアーティストよりも、ブルーノートがダンス・クラシックになった夜です。シックのナイル・ロジャースが、仲間のミュージシャンを引き連れてど〜〜んと躍らせるライヴをかましてくれました。ステージにトランペット、サックス、コーラスなどを含めて10名。
いきなり「おしゃれフリーク」で幕をあけたステージは一曲スローの「アット・ラスト・アイム・フリー」(アルバム2作目『セ・シック(邦題、おしゃれフリーク)』に収録)を除いて、ダンスヒットばかり。「セ・シック」では、延々とメンバー紹介をします。バックコーラスは、ひたすら「シック、シック・・・」と歌います。
「テナーサックスは、オハイオ出身のビル! そう、グッドモーニング(オハヨ〜)の国からやってきたんだ。このバンドは、インターナショナルなバンド。ニューヨークからの者、ノース・キャロライナからの者、プエルトリコからの者、そして、彼は〜〜」とビルを指差すと、観客から「オハヨ〜〜」!
「彼とは、もう十代の頃から知ってる」 こう解説しながら紹介したのはドラムスのオマー・ハキム。「彼は、これまでに、マドンナやスティングや、デイヴィッド・ボウイ、ウェザー・リポートなんかと一緒にプレイしてきた。だが、彼が一緒にプレイした最大のスターは・・・」と言って、一息つくと、「ナイル・ロジャースだあ!」と言い放ちます。
そして、ベースのジェリー・バーンズとギターのナイル・ロジャースのバトルは壮絶ですばらしかった。もうちょっと見たかったな。
ダイアナ・ロスでヒットした「アップサイド・ダウン」、「アイム・カミング・アウト」、シスター・スレッジの「ウィ・アー・ファミリー」、「グレイテスト・ダンサー」なども披露し、アンコールでは、「グッドタイムス」の途中に「ラッパーズ・デライト」をいれてラップまでして見せるサーヴィスぶりでした。
ブルーノートがファンクとダンスクラシックに染まったグッドタイムスな92分でした。
(2003年4月14日から19日まで東京ブルーノート)
「オレは東京がファンキーか確かめたいんだ。もしみんなが気持ちよかったら、『ホー』っと言ってくれ!」
ナイル・ロジャースが、叫びます。「セイ・ホ〜〜〜」 「ホ〜〜〜」(観客) 「ブルーノート・イズ・ファンキー!」
今までのどのアーティストよりも、ブルーノートがダンス・クラシックになった夜です。シックのナイル・ロジャースが、仲間のミュージシャンを引き連れてど〜〜んと躍らせるライヴをかましてくれました。ステージにトランペット、サックス、コーラスなどを含めて10名。
いきなり「おしゃれフリーク」で幕をあけたステージは一曲スローの「アット・ラスト・アイム・フリー」(アルバム2作目『セ・シック(邦題、おしゃれフリーク)』に収録)を除いて、ダンスヒットばかり。「セ・シック」では、延々とメンバー紹介をします。バックコーラスは、ひたすら「シック、シック・・・」と歌います。
「テナーサックスは、オハイオ出身のビル! そう、グッドモーニング(オハヨ〜)の国からやってきたんだ。このバンドは、インターナショナルなバンド。ニューヨークからの者、ノース・キャロライナからの者、プエルトリコからの者、そして、彼は〜〜」とビルを指差すと、観客から「オハヨ〜〜」!
「彼とは、もう十代の頃から知ってる」 こう解説しながら紹介したのはドラムスのオマー・ハキム。「彼は、これまでに、マドンナやスティングや、デイヴィッド・ボウイ、ウェザー・リポートなんかと一緒にプレイしてきた。だが、彼が一緒にプレイした最大のスターは・・・」と言って、一息つくと、「ナイル・ロジャースだあ!」と言い放ちます。
そして、ベースのジェリー・バーンズとギターのナイル・ロジャースのバトルは壮絶ですばらしかった。もうちょっと見たかったな。
ダイアナ・ロスでヒットした「アップサイド・ダウン」、「アイム・カミング・アウト」、シスター・スレッジの「ウィ・アー・ファミリー」、「グレイテスト・ダンサー」なども披露し、アンコールでは、「グッドタイムス」の途中に「ラッパーズ・デライト」をいれてラップまでして見せるサーヴィスぶりでした。
ブルーノートがファンクとダンスクラシックに染まったグッドタイムスな92分でした。
(2003年4月14日から19日まで東京ブルーノート)
Dawn with favorite songs
2003年4月14日ドーン(夜明け)。
金曜夜。キーボード奏者、松本圭司さんのライヴを目黒ブルースアレーで見る。ゴスペラーズの黒沢さんがスティーヴィーの「ユー・アンド・アイ」と、ダニーの「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」を歌う。なかなか盛り上がる。松本さんと黒沢さんは、もう息があっているので、安定している。スティーヴィーの作品は「リボン・イン・ザ・スカイ」を以前に聞いているが、これもいい感じ。「ユー・アンド・アイ」は、アルバム『トーキング・ブック』に収録されている。それにしても、松本さんと黒沢さんのトークは、おもしろいなあ。あの松本さんの飄々(ひょうひょう)としたキャラが最高です。
次の渋谷ジェイジー・ブラットのサヤのライヴの時間が迫っていたので、後ろ髪を引かれつつ途中で抜ける。サヤ・トリオは、あいかわらずかな。終わったあと、ジェイジーのハウスDJ、トミーがまわしていて、そこでまずサヤの「リボン・イン・ザ・スカイ」をかける。スティーヴィーをボサっぽくカヴァーした曲とスティーヴィーの「センド・ワン・ユア・ラヴ」のインストの方をかけた。うまい選曲。「スティーヴィー特集、いいねえ」と声をかけると、「わかってくれた?」とトミー。
そのあと、マイケルの「ロック・ウィズ・ユー」の誰かのカヴァーをかけた。誰かと思って訊いたら、ビー・ザ・ヴォイスという日本人二人組みだという。CDを見ると、ソウルボサトリオ・プロダクションとある。ゴンザレスさん絡みなのかな。これ、なかなかよかった。今度、ジェイジーでライヴやるそうだ。チェック。
日本のタック&パティーといわれるフライドプライドみたいだが、それより英語の発音がはっきりしていた。これならよろしい。ミュージシャンとしての力はライヴを見なければわからないが。
その後、中目黒のジャズバー「A列車」に行く。初訪問。78年オープン25年の歴史のあるかなり渋い店だった。ターンテーブル2台とCDプレイヤーがあった。アンプはお約束のマッキントッシュ。ちょうど入ったときには、アーマッド・ジャマルのピアノのCDがかかっていた。店が2時までで、最後に「テイク・ジ・Aトレイン(邦題、A列車で行こう)」がかかった。その後音がなくなった。つまり、この曲が店の営業終了のテーマなんですね。
そういえば、昔、先のトミーが西麻布でやっていたトミーズ・ハウスの営業終了曲は山下達郎の「ラストステップ」だった。(違ったかな) 六本木のディスコ、キサナドゥの終了曲は、ローズロイスの「ラヴ・ドント・リヴ・ヒア・エニモア」だった。DJオッシーは番組最終回の最後の曲はいつもヒートウエイヴの「オールウェイズ&フォーエヴァー」と決めているそうだ。ラストソングは、大事です。
さらに友人M氏と彼の自宅近くのオーズネストにちょっと寄る。ちょうど自分で焼いたコンピCDを持っていたので、かけてもらう。ここのマスターも音楽好きなので、いろいろ話が盛り上がる。OVライトの「プレシャス・プレシャス」のあとに、リフレクションズの「スリー・ステップス・フロム・ラヴ」をいれているのだが、この流れが妙に最高。
外にでると、はやくも少しばかり明るくなっていた。ずいぶんと日が長くなった。フェヴァリットソングで迎えた夜明けか。あ〜〜あ、またやっちゃいました。
金曜夜。キーボード奏者、松本圭司さんのライヴを目黒ブルースアレーで見る。ゴスペラーズの黒沢さんがスティーヴィーの「ユー・アンド・アイ」と、ダニーの「サムデイ・ウィル・オール・ビー・フリー」を歌う。なかなか盛り上がる。松本さんと黒沢さんは、もう息があっているので、安定している。スティーヴィーの作品は「リボン・イン・ザ・スカイ」を以前に聞いているが、これもいい感じ。「ユー・アンド・アイ」は、アルバム『トーキング・ブック』に収録されている。それにしても、松本さんと黒沢さんのトークは、おもしろいなあ。あの松本さんの飄々(ひょうひょう)としたキャラが最高です。
次の渋谷ジェイジー・ブラットのサヤのライヴの時間が迫っていたので、後ろ髪を引かれつつ途中で抜ける。サヤ・トリオは、あいかわらずかな。終わったあと、ジェイジーのハウスDJ、トミーがまわしていて、そこでまずサヤの「リボン・イン・ザ・スカイ」をかける。スティーヴィーをボサっぽくカヴァーした曲とスティーヴィーの「センド・ワン・ユア・ラヴ」のインストの方をかけた。うまい選曲。「スティーヴィー特集、いいねえ」と声をかけると、「わかってくれた?」とトミー。
そのあと、マイケルの「ロック・ウィズ・ユー」の誰かのカヴァーをかけた。誰かと思って訊いたら、ビー・ザ・ヴォイスという日本人二人組みだという。CDを見ると、ソウルボサトリオ・プロダクションとある。ゴンザレスさん絡みなのかな。これ、なかなかよかった。今度、ジェイジーでライヴやるそうだ。チェック。
日本のタック&パティーといわれるフライドプライドみたいだが、それより英語の発音がはっきりしていた。これならよろしい。ミュージシャンとしての力はライヴを見なければわからないが。
その後、中目黒のジャズバー「A列車」に行く。初訪問。78年オープン25年の歴史のあるかなり渋い店だった。ターンテーブル2台とCDプレイヤーがあった。アンプはお約束のマッキントッシュ。ちょうど入ったときには、アーマッド・ジャマルのピアノのCDがかかっていた。店が2時までで、最後に「テイク・ジ・Aトレイン(邦題、A列車で行こう)」がかかった。その後音がなくなった。つまり、この曲が店の営業終了のテーマなんですね。
そういえば、昔、先のトミーが西麻布でやっていたトミーズ・ハウスの営業終了曲は山下達郎の「ラストステップ」だった。(違ったかな) 六本木のディスコ、キサナドゥの終了曲は、ローズロイスの「ラヴ・ドント・リヴ・ヒア・エニモア」だった。DJオッシーは番組最終回の最後の曲はいつもヒートウエイヴの「オールウェイズ&フォーエヴァー」と決めているそうだ。ラストソングは、大事です。
さらに友人M氏と彼の自宅近くのオーズネストにちょっと寄る。ちょうど自分で焼いたコンピCDを持っていたので、かけてもらう。ここのマスターも音楽好きなので、いろいろ話が盛り上がる。OVライトの「プレシャス・プレシャス」のあとに、リフレクションズの「スリー・ステップス・フロム・ラヴ」をいれているのだが、この流れが妙に最高。
外にでると、はやくも少しばかり明るくなっていた。ずいぶんと日が長くなった。フェヴァリットソングで迎えた夜明けか。あ〜〜あ、またやっちゃいました。
Rain & Umbrella
2003年4月13日傘。
昨日(12日)も東京は雨だった〜。よく言われますが、日本人はちょっとした雨でもすぐに傘をさします。でも、アメリカ人やイギリス人はめったなことでは、傘をさしませんよね。霧雨くらいだったら、平気で普通に歩いています。まあ、国民性でしょうか。
日本人には「置き傘」という習慣がありますが、ロスの人にそんな習慣はあるでしょうか。あるわけはありません。だいたい「置き傘」って英語でなんていうんでしょうね。kept umbrellaとか。通じないですよね。南カリフォルニアには雨が降らないので、みんな傘を持ってませんよね。It never rains in southern California.(by Tony! Toni! Tone!)
相合傘なんていう表現も英語にはないでしょうね。辞書引くと、share an umbrella (with)とでています。なるほど。傘をだれそれとシェアする、ってことね。そうか、傘の文化っていうのは、やはり雨がたくさん降る国のものなのね。日本とかイギリスとか。でもイギリスに相合傘とかのコンセプトはあるのだろうか。イギリス事情に詳しい人いたら教えてください。
傘といえば、「シェルブールの雨傘」ですか。傘っていうと、なんとなく、僕はロンドンのイメージかなあ。そうだ、ありましたね、『刑事コロンボ』の初期の作品に「ロンドンの傘」っていうのが。コロンボがロンドンに出張で行く話ですね。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/columbo/col_3/c_3_5.html
これは、傑作でしたねえ。『コロンボ』の中でもおもしろかった一本です。
雨といえば、ドラマティックスの「イン・ザ・レイン」ですね。雨の中で泣けば、涙を流しているのがみんなにはわからない、というわけですね。最近も似たような曲がありました。この手の状況でいろんな失恋ソングがありましたね。雨関連では、レイ・グッドマン&ブラウンの「ヘヴン・イン・ザ・レイン」は、かなりいい曲でした。それに、雨のときに必ずかかるのが、ラヴ・アンリミテッドの「ウォーキング・イン・ザ・レイン(邦題、恋の雨音)」でしょうか。そして、最後は、オラン・ジュース・ジョーンズの「ザ・レイン」。
雨の曲をメドレーでご紹介しました。
昨日(12日)も東京は雨だった〜。よく言われますが、日本人はちょっとした雨でもすぐに傘をさします。でも、アメリカ人やイギリス人はめったなことでは、傘をさしませんよね。霧雨くらいだったら、平気で普通に歩いています。まあ、国民性でしょうか。
日本人には「置き傘」という習慣がありますが、ロスの人にそんな習慣はあるでしょうか。あるわけはありません。だいたい「置き傘」って英語でなんていうんでしょうね。kept umbrellaとか。通じないですよね。南カリフォルニアには雨が降らないので、みんな傘を持ってませんよね。It never rains in southern California.(by Tony! Toni! Tone!)
相合傘なんていう表現も英語にはないでしょうね。辞書引くと、share an umbrella (with)とでています。なるほど。傘をだれそれとシェアする、ってことね。そうか、傘の文化っていうのは、やはり雨がたくさん降る国のものなのね。日本とかイギリスとか。でもイギリスに相合傘とかのコンセプトはあるのだろうか。イギリス事情に詳しい人いたら教えてください。
傘といえば、「シェルブールの雨傘」ですか。傘っていうと、なんとなく、僕はロンドンのイメージかなあ。そうだ、ありましたね、『刑事コロンボ』の初期の作品に「ロンドンの傘」っていうのが。コロンボがロンドンに出張で行く話ですね。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~madison/columbo/col_3/c_3_5.html
これは、傑作でしたねえ。『コロンボ』の中でもおもしろかった一本です。
雨といえば、ドラマティックスの「イン・ザ・レイン」ですね。雨の中で泣けば、涙を流しているのがみんなにはわからない、というわけですね。最近も似たような曲がありました。この手の状況でいろんな失恋ソングがありましたね。雨関連では、レイ・グッドマン&ブラウンの「ヘヴン・イン・ザ・レイン」は、かなりいい曲でした。それに、雨のときに必ずかかるのが、ラヴ・アンリミテッドの「ウォーキング・イン・ザ・レイン(邦題、恋の雨音)」でしょうか。そして、最後は、オラン・ジュース・ジョーンズの「ザ・レイン」。
雨の曲をメドレーでご紹介しました。
Little Eva Dies
2003年4月12日リトル・エヴァ死去。
「ロコモーション」などのヒットでおなじみのシンガー、リトル・エヴァが10日(木曜)ノース・キャロライナ州キンストンで死去した。彼女のフルネームは、エヴァ・ナルシサス・ボイド。長い間闘病生活を送っていたが、病気については発表されていない。彼女は一般的には1943年6月29日ノース・キャロライナ州生まれといわれているので、これが正しければ59歳だったことになる。生年に関しては43年から46年まで諸説ある。
リトル・エヴァは、元々60年代から活躍するソングライター・チーム、キャロル・キング、ジェリー・ゴーフィン夫妻のベイビーシッターだった。キング/ゴーフィンが書いた「ロコモーション」のデモテープで、エヴァに歌ってもらったところ、評判がよかったために、そのままシングル発売。見事なヒットになり、全米ナンバー・ワンを記録、一躍スターダムにのしあがった。
「ロコモーション」は、その後ロック・グループ、グランド・ファンク・レイルロードによって74年にカヴァーされ、再び全米ナンバーワンを記録。さらに、88年にはカイリー・ミノーグもカヴァーした。
彼女は、3人の子供、15人の孫、9人のひ孫たちによって召される。
「ロコモーション」などのヒットでおなじみのシンガー、リトル・エヴァが10日(木曜)ノース・キャロライナ州キンストンで死去した。彼女のフルネームは、エヴァ・ナルシサス・ボイド。長い間闘病生活を送っていたが、病気については発表されていない。彼女は一般的には1943年6月29日ノース・キャロライナ州生まれといわれているので、これが正しければ59歳だったことになる。生年に関しては43年から46年まで諸説ある。
リトル・エヴァは、元々60年代から活躍するソングライター・チーム、キャロル・キング、ジェリー・ゴーフィン夫妻のベイビーシッターだった。キング/ゴーフィンが書いた「ロコモーション」のデモテープで、エヴァに歌ってもらったところ、評判がよかったために、そのままシングル発売。見事なヒットになり、全米ナンバー・ワンを記録、一躍スターダムにのしあがった。
「ロコモーション」は、その後ロック・グループ、グランド・ファンク・レイルロードによって74年にカヴァーされ、再び全米ナンバーワンを記録。さらに、88年にはカイリー・ミノーグもカヴァーした。
彼女は、3人の子供、15人の孫、9人のひ孫たちによって召される。