誕生前。

仕事が11時過ぎに終わり、夜ご飯をまだ食べていなかったので、一人でどうしようかと思案したわけですね。途中でラーメンでも食べようか、と考えたのですが、恵比寿のソウルバー、ブラウンシュガーのDJ恵子ちゃんに「そこって食べるものあったっけ」とメール。「ご飯、スパゲッティー、ピザなどいろいろあります」との返事。で、軽くブラウンにて食べることにしたわけです。

雨のキラー通りをひた走り、到着。トランクに載っていた荷物から、CDを3枚だけ抜いたのですが、それは、ジェームス・ブラウンのインストの曲を集めたCD『ソウル・プライド(インストゥルメンタル60〜69)』とアレキサンダー・オニールの『ラヴ・メイクス・ノー・センス』とサム・ディーズの『シークレット・アドミラー』。前2枚が93年、3枚目が90年にそれぞれ日本発売されています。とはいうものの、いわゆる新譜扱いの作品はアレキサンダーだけ。この3枚を抜いた理由は特になし。ただそれぞれに聞きたい曲があったというだけです。

中にはいると、お店には2人組と1人しかいませんでした。マスターが言います。「夕方から雨だったでしょう。こういう日はだめですねえ」 そこでいつものDJブースの前に座り、さっそく食べ物を注文。「え〜と、じゃこ飯と〜〜」 「あ、すいません、今日、それないんです」 「おっと、じゃあ、チキンライスと、ジンのジャエール割りで・・・」

そのときはクール&ギャングの『グッドタイムス』のアルバムやら、キャメオやら、比較的ファンキー系でまとめていました。そこで、しばらく様子をみつつ、そっとジェームス・ブラウンのインストから「チキン」をリクエスト。最近では、あのニューオーリーンズのピアニスト、Sayaもカヴァーしているファンキーな一曲。

しばらくしてから、少し流れが変わり、今度はアレキサンダー・オニールのアルバムからサッチモでおなじみの大ヒット「ホワット・ア・ワンダーフル・ワールド」とマーヴィン&タミーで有名な「ユア・プレシャス・ラヴ」をリクエスト。アレキサンダーのサッチモのカヴァー曲は、いわゆるボーナストラック。やたらなごむ。マスター「これは、そっくりですねえ」 「ホワット・ア・ワンダフル・・・」がかかっている時に、友人M氏から電話。武蔵小山のソウルバーに行きたいので正確な場所を教えて、という。しかし、電話が途切れ途切れでなかなか話がつながらない。

そこで、今ちょうど恵比寿にいるから、こちらにいかが、と誘う。約30分後M氏登場。DJ恵子ちゃん、マスター白川さんを紹介。そのころ、別のお客さんがきていくつかリクエストが入っていた。それらをさばいた後あたりから、DJ恵子本領発揮し始めます。(笑) スイート・ソウル系が多くなり始め、ブレンダ&タブュレーションズ、モーメンツ、エイス・デイ、アナコスティアなど続々、とろとろ。

アナコスティアときたところで、M氏たまらず、「次に5−10−15−20・・・を聞きたいなあ」と言うと、DJ恵子、「次かけようと思ってました」。「じゃあ、そのあとはモーメンツの『ラヴ・オン・ア・トゥ・ウエイ・ストリート』でしょう」と僕。

さらにエイス・デイときたところで、M氏我慢できず「次、スミス・コネクションある?」といよいよ椅子から立ち上がりだします。さらに、DJ恵子、ファンタスティック・フォーの『ナイト・ピープル』からB面4曲目をかけると、「このアルバムはなんと言っても、この曲だよ!」 

「しかし、あなたいくつ?」とM氏。「27です。76年2月生まれ」 「おかしいよ。なんでホットワックス、インヴィクタスがこんなにかかるわけよ」とあきれるやら、びっくりするやら。そう実際、この時間帯かかっていた曲はみな彼女が生まれる前のヒット曲ばかりです。以前恵子ちゃんの話はちらっとM氏にしたのだが、「それにしても、すごいねえ」。

う〜む強力です。恵比寿ブラウンシュガー、DJ恵子ちゃん。恐るべし。彼女の出番は毎週火曜から木曜。


バリー・ホワイト、脳梗塞(のうこうそく)

ビルボード電子版が5月19日報じたところによると、ソウル・シンガー、バリー・ホワイトが最近脳梗塞を起こした。ホワイトの娘、シャヒーラによると、バリーは昨秋から腎臓疾患をわずらっており、去る5月1日、脳梗塞を起こし、言語障害になっているという。

そのため、現在右半身が麻痺しているが、精神的には問題はなく、腎臓移植ができるための健康状態の回復を待っている。

バリー・ホワイトの所属レーベル、デフ・ジャム・グループによると、バリーは昨秋以来、高血圧による腎臓機能の低下により人工透析を受けていた。5月1日、腕にカテーテルを注入する手術を受けたが、脳梗塞を起こしたという。

ただし、これは小さなもので、復活し、歌うことに問題はない、としている。

一方、ロスアンジェルス市はサウスパーク地区のリクリエーションセンターに「バリー・ホワイト」の名前を冠することを決めた。これは、彼が同地区で育ったことにちなんでのもの。

+++++

低音。

バリー・ホワイトと言えば、その低音の声が最大の魅力。コンサートでは70年代中期に一度来日している。1944年9月生まれということで、現在58歳。最近ではテレビ・ドラマ「アリー・マイ・ラヴ」の中で彼の作品が使われたり、実際彼が番組に登場したりして、人気復活しているところ。

彼の音楽をさして、英語でget-it-on musicと表記する。直訳すれば「やるときの音楽」。なるほど。今回初めてこの表現を知った。確かに、彼のセクシーでセンシュアルな音楽は、まさにベッドタイム・ミュージック。ほかにもget-it-on musicといえば、マーヴィン・ゲイ、テディー・ペンダーグラス、アイズレー・ブラザースなどなど、いろいろある。

僕が彼の中で非常に好きなのが、ビリー・ジョエルの「ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー」。バリーが歌っているヴァージョンはイントロに彼独特のナレーションをいれて、情感豊かに歌う。アルバム・ヴァージョンが長くて、とてもいい。シングル・ヴァージョンはちょっと短くなっていて、物足りない。

そのほかでは、最近だとクインシー・ジョーンズの「シークレット・ガーデン」でのバリーの声も印象的だった。早期回復を祈りたい。


+++


日付け。

アトランティック・スターは78年に「スタンダップ」の大ヒット以来、コンスタントにヒットを放ってきたグループです。もう25年くらいたつんですねえ。昨日、彼等のことをいろいろ調べていたんですが、このグループの中心はウェインとデイヴィッドのルイス兄弟なんですね。で、どっちが兄かがわからなかった。会って話したことあるんですが、どっちだったか忘れてしまった。ネットとか調べてみたんですが、でてない。

それで最終的に、ライナーにあたったんですね。Yさんの。89年の「ムーヴィング・アップ」のアルバムのライナー。ちゃんとでてました。ウェインが57年4月13日うまれ、デイヴィッドが58年9月8日うまれ。年子だ。最初からそれを調べればいいのにねえ。(笑) そのライナー読んだら、彼等が85年8月に横田ベースに来て、その後、87年12月の横浜ベイサイドクラブのこけら落としで来日していることもわかりました。

このあたりっておぼろげには覚えているんですが、正確な年月となると、さすがに情報のダブルチェックが必要になります。そして、そんなことが書いてある資料とかほとんどないんですね。貴重ですねえ。こういうライナー。(笑)

たぶん、ライナーを88年とかに書くと、ふつうは「先日、来日した」みたいな書き方をする人が大半なんです。それで、ライナーを書いた日付けが最後に記されていればまだいいんです。88年に書かれたライナーに「先日、来日した」とあれば、ああ、87年あたりだったか、ってわかるから。でも、ライナーを書いた日付けがないと、もう話にならないわけです。その時はいいんですが、後になると「先日、来日した」、その先日っていつだよ、ってことになるわけです。でも、書いてる方の意識は「先日」なんだから、考えずに「先日」って書いちゃうわけですね。

最近だと、CDの発売日がちゃんと外に書いてあるから、けっこう助かりますが。それでも再発ものとかになると、また話は別。以前はレコードの発売日とか、レコード盤にもジャケットにも書かれていなかったのが大半なんで、やはりライナーを書いた日付けというのは、基本情報として、重要なんですね。だから、ライナー書く人にお願いします。ライナー書いたら、書いた日付けをいれてください。最低、何年何月だけでも頼みます。

あれ、アトランティック・スターの話しから全然、方向逸れてしまいました。脱線、脱線。




エッセンス。

今年で早くも9回目を迎えるエッセンス・ミュージック・フェスティヴァルが、来る7月3日から5日までニューオーリンズで行われる。登場アーティストが続々と決定しつつある。

登場予定のアーティストは、スティーヴィー・ワンダー、エリカ・バドゥ、ベイビーフェイス、Pディディ・ファミリー、シャカ・カーン、ジャヒーム、メイズ、アニタ・ベイカー、スモーキー・ロビンソン、ミュージック、キース・スウエット、ウィル・ダウニングなど。予定されていたルーサー・ヴァンドロスの出演は、キャンセルになった。

詳しくは、同フェス公式ページに。

http://www.essence.com/essence/emf/home_2003.htm

また、ニューオーリンズのサイトでも紹介されている。

http://www.satchmo.com/nolavl/essencefest03.html

チケットは、各日35ドルから125ドル。このホームページにチケットマスターへのリンクが張られている。ここには、大まかな座席情報もあり、チケットを条件をいれて探すと、ある場合そのチケットをそのまま購入できる。

+++

95年から行われているエッセンス・ミュージック・フェスティヴァルは、ニューオーリンズにおける音楽フェスの中でも徐々に知名度をあげている。日程的にはモントリオール・ミュージック・フェスティヴァルなどとも重なるが、このフェスはソウル、R&B、ブルーズ、ジャズなどに特化していて注目だ。

チケットマスターのサイトを少しのぞいたが、非常にわかりやすい。日本だとどこの席を購入したのかさえわからないことがあるが、ここだと席までわかる。ここの席をいくらで売ります、ということがはっきりしているから、非常にフェアだ。日本のシステムも、こういうふうにガラス張りになってほしいところ。



復活。

アースの新作「プロミス」の話題がにぎわっています。このアルバム、制作にずいぶんと時間がかかったようです。詳細なクレジットを見ていると、いろいろなことがわかります。

6曲目のWhere Do We Go From Hereと19曲目のDirtyは、1978年アルバム「アイ・アム」制作時の作品だといいます。そう言われて聞いてみると、そんな感じもしなくもありません。(笑) 13曲目のSuppose You Like Meは途中にハーモニカがはいっていますが、これが一瞬スティーヴィー・ワンダーだという説が流れました。クレジットにはトーラック・オレスタッドという名が記されています。ちょっとスティーヴィー風ではあるんですが、たぶん、違います。

個人的に一番気に入っているのは9曲目のNeverと12曲目のSoulという曲です。前者は、ミディアム調でちょっと宇宙のファンタジー的な雰囲気の曲で、途中の ジエラルド・オルブライトのサックスが非常に印象的です。もう一曲はどこかタワー・オブ・パワーを思わせるファンキーな作品。いいリズムです。ちょっとスライ風とも言えるかな。やっぱり、リアルミュージシャンの響きはいいですね。

さて、いったいこの新作アースのファンからはどのように受け入れられるのでしょうか。

Thanks For Your Message

2003年5月17日
感想感謝。

昨日のルーサーの日記についていくつかのご感想ありがとうございます。当初は外電だけをそのまま載せようかと思ったのですが、それではなんだし、まあ、ちょっと何か書きたかったので、ちょうど、アレサが歌うという記事を読んで、これだと思い、一挙に書いてみました。

ルーサーは、個人的にも76年のグループ、ルーサーからリアルタイムでずっとフォローしてきただけに、ものすごく思い入れがあるシンガーのひとりです。『ネヴァー・トゥ・マッチ』は、80年代を代表するブラックアルバムの一枚といえます。

ルーサーにとって最大のアイドルは、アレサ、ディオンヌ、そして、ダイアナの3人の女性シンガーです。中でもクイーン・オブ・ソウルことアレサへの思いはただならぬものがあります。そこで、そのアレサがデトロイトの教会で「アメイジング・グレイス」を歌うというニュースを聞いて、ルーサーの歴史がフラッシュバックしたんです。

確かに、アレサが、ファーストネームの「ルーサー」と呼ばずに、「ヴァンドロス」と呼ぶところに、親しき中にも礼儀ありというようなリスペクト感が感じられますね。

あと、マーカス・ミラーとルーサーの出会いなども、ちょっとおもしろい感じです。このところ、かなりへヴィーな日記が続いたので、今日は軽めで。(笑)


ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信

4月16日、ニューヨークの自宅で倒れたルーサー・ヴァンドロスは、その後も意識を回復せずに依然昏睡状態が続いている。いくつか外電が入っているので、まとめて紹介しよう。

ルーサー・ヴァンドロスの母親、メアリー・アイダ・ヴァンドロスが12日(月曜)にステートメントを発表した。「息子は必ず回復します。回復すべきなのです。彼は、私が持っている最後の宝物だから。彼は、唯一生き残っている子供なのです」

母は、2ー3日おきにルーサーを見舞い、手を握り、彼が好きなアレサ・フランクリンやディオンヌ・ワーウィック、彼自身のレコードをかけている、という。ルーサーが倒れた直後はかなり危険な状態が続いたが、以後は危険ながらも安定した状態になっている。現在は器官切開し人口呼吸器が呼吸を助けている。「息子がよくなるのは時間の問題だと思う。ただし、ゆっくりなペースですが」と母は言う。

ルーサーの新作アルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』は、全米で6月10日に発売が予定されているが、この曲は亡き父、メアリーの夫に捧げられたもので、母はこれを聞いて涙したという。母はルーサーの状態いかんにかかわらず発売を遅らせないで欲しいという。「きっと息子も、予定通りリリースされることを願っていると思う。彼自身、このアルバムを大変気に入っていましたから。カンバックした際には、奇跡の復活物語として語られてほしいわ」という。

一方、ルーサーが80年代に2枚のアルバムをプロデュースし、元々ルーサーのあこがれのシンガーのひとりであったアレサ・フランクリンは、地元デトロイトの教会で、徹夜の祈りを捧げる。ここには仲間でもあるフォー・トップス、アレサの息子たちエディー、キーカーフなども参加する予定。


+++++

Wake Up, Vandross

夢。

ルーサーは、1951年4月20日ニューヨークに4人兄弟の末っ子として生まれた。上に姉2人、兄がいた。母のコメントから、すでに3人の子供たちは他界していることになる。父親はルーサーが8歳の頃(1959年頃)死去。

13歳の時に、ブルックリン・フォックス・シアターでディオンヌ・ワーウィックのショウを見て感激し、シンガーになる決意をした。ルーサーは言う。「(ステージで)ディオンヌが赤いシフォンのドレスに身を包み、歩きながら『エニワン・フー・ハド・ア・ハート』を歌った。その時のことを今でも覚えている。彼女は僕の前を横切って歩いた。その瞬間僕は音楽で一生暮らしていきたいと思ったんだ」

彼は高校を卒業するとウエスタン・ミシガン大学に入学。しかし、大学生活は孤独で、退屈だった。友人もほとんどなく、ガールフレンドもなく、スポーツに熱中することもなく、彼の人生は音楽だけだった。ルーサーの人生はヘッドフォンの中にあった。ヘッドフォンから流れてくるアレサやディオンヌの歌声だけが彼の友人だった。

大学をドロップアウトするとき、彼は医学を志していたルームメートに告げた。ルームメートは「君が大学を逃げ出すなんて信じられないな」と言った。ルーサーは答えた。「なあ、君が医者になり、僕が病気になったら、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げだすんじゃない。僕は自分の夢を追いかけるんだ」

その後、彼はセッションシンガーとして人気となり、自身のグループのアルバムも発表、81年にソロ第1弾『ネヴァー・トゥ・マッチ』をだし、以後大ヒットを続出、80年代にもっとも人気のソウル、R&Bシンガーとなった。そして、人気シンガー、プロデューサーともなったルーサーの元にあるシンガーのプロデュースの仕事の依頼がくる。誰あろう、彼の幼い頃からの大アイドル、アレサ・フランクリンだった。

ルーサーがそのときのことを興奮気味に話す。「僕が子供の頃、もしアレサがレストランで食事をしていたら、きっと頭に血が上って、彼女が食べてるスペアリブでもなんでもいいからサインしてくれ、って頼んだと思う。彼女をプロデュースしないかと頼まれたときのショックを想像してみてよ。81年のことだった。僕は覚えてる。椅子に座って彼女がドアから入って来るのを待っていたとき、僕の心臓は止まったよ。彼女は僕を見るなり、『ヴァンドロス』と言った。彼女はいつも僕を『ヴァンドロス』と呼ぶ。それ以外呼んだことがない。彼女は言った。『私は「ジャンプ・トゥ・イット」が気に入ったよ。やりたいようにやって、終わったら教えておくれ』」

このアルバムは、アレサにとっても久々の大ヒットとなる。そして、それから22年余。2003年5月、アレサ・フランクリンは、一月以上昏睡状態の親友ヴァンドロスのために、教会で祈りを捧げる。彼女は「アメージング・グレイス」を歌う。アレサは、ヘッドフォンの中に生きていた少年時代のルーサーに生きる喜びと意味を与えた。そして、今再び、彼に第二の命を授けようとしている。アレサのソウルは叫ぶだろう。「Wake Up, Vandross(ウェイク・アップ、ヴァンドロス=起きろ、ヴァンドロス)」 届け、その叫びよ、ヴァンドロスへ。




とどめ。

「パリ、フランスのあちこちの街、イタリア、オーストリア、スペイン、オランダ・・・。どこへ行ってもこの曲をみんなが歌ってくれます。みなさんにもぜひ一緒に歌ってほしいと思います」  こう言ってパティーが観客に「タイム・アフター・タイム」の歌い方を教えます。観客を3つのパートに分けて、それぞれのコーラスを教え、最後に一緒に歌わせ観客と一体となった「タイム・アフター・タイム」が完成です。毎度のことですが、素敵な瞬間です。いつも彼らのライヴには心暖まります。

その「タイム・アフター・タイム」に続いて「歌うことが私の生命線」と歌う「ライフライン」を終えたタックとパティーと、今回だけ特別に参加しているキーボード奏者のフランクが横に一列に並び手をつなぎ、お辞儀をしました。続く拍手。アンコールはないのでしょうか。

パティーがマイクを取りました。「今日は特別なEメールをもらいました。彼はとある曲をリクエストしてきました。ひょっとしたら彼は恋をしているのかもしれません。その曲を歌います。『ホワット・ア・ワンダーフル・ワールド』。(名前を呼んで)これをあなたのために」

「わお! やったあ」 一緒にいたM氏とY氏とNさんが僕を見る。本当は手をあげようと思ったのだが、「恋してるかもしれない」なんて言われたら、シャイな僕はとうていあげられません。前回だったかその前だったか、パティーがステージで「何かリクエストがあったら、私たちのウェッブからEメールをください。できればそんなリクエストを歌ってみたいと思うわ」と言っていたのを覚えていたのです。

そこで、僕はその日彼らに「僕は、長年のあなたたちのファンです。今日ブルーノートにショウを見に行きます。ぜひサム・クックの『ワンダフル・ワールド』を歌ってください」とメールしていたんです。ライヴの間にはすっかりリクエストしたことを忘れるほどショウを「集中して」見ていたんですが、最後の「ライフライン」を歌い終わった後に、「あ〜、そういえばリクエスト、歌ってくれなかったなあ」などと思っていたわけです。

そんなときに、パティーが「ワンダフル・ワールド」を歌い始めたので、かなり感激しましたよ。彼女が歌っている間なんだか体が熱くなりました。この曲は彼らの94年のアルバム『ラーニング・ハウ・トゥ・フライ』の日本盤のボーナストラックとして収録されている曲です。初めてこの彼らのヴァージョンを聴いたとき、「なんでこれがボーナストラックなのか」と思いました。そんな、もったいない。宝物は世界でシェアしなきゃ。彼らの中で一曲選べと言えば、間違いなく僕はこれを選びます。サム・クックのオリジナルも素晴らしいのはもちろんのことですが、このタック&パティーのヴァージョンもすっかりパティー節になっていて心に響きます。彼らも本当に音楽の理解度(理解の度合い)がすばらしい。他人の曲をすっかり自分のものに消化してるわけです。

「歴史も、生物学も、科学の本もわからない。でも、あなたを愛しているということだけはわかっている。もし、あなたも私のことを愛してくれるなら、最高に素敵な世界になるのに。自分は秀才なんかじゃないけれど、でも、努力している。だってもし秀才になったら、あなたの愛を勝ち取れるかもしれないから」 男性シンガーが歌っても、女性シンガーが歌っても、文句なし。名曲は時代を超えます。

タックがギターを弾きパティーが歌っていた約4分間は僕にとっては天国にいるような至福の瞬間でした。リクエストしてみるものですねえ。(笑) 

お礼を言いに、ちょっとだけ楽屋におじゃましました。「『ワンダフル・ワールド』歌ってくれてありがとう」 「メールありがとう」とパティー。「これは最近はあんまり歌わないのですか」 「以前は何度かやってたと思うけど、最近はしばらくやっていなかったよ」とタックが言います。「ところで、もう日本に何回来たか、勘定できないでしょう」と言うとタックが「22回かな、今回が23回めかな」と答えます。そ、そ、そんなに。親日派もいいところですね。

いつ聴いても音のいいタックのギターは、1949年製のギブソンだそうです。パティーのマイクの手元に小さな箱がついています。あれは、モニターアンプで、ギターの音と彼女の声、今回の場合はピアノなどの音も耳元のイアフォーンに伝えるボックスです。同様にタックも耳元でモニターが聴こえるようになっています。二人とも髪の毛で見えませんが、イアフォーンをしているわけです。この仕組みはもうすでに20年くらい使っているとのこと。音をモニターして、イアフォーンで聴くシステムは、スティーヴィーがかなり昔から使っていて、それを開発した人と同じ人がタックたちのも作っているそうです。「出ている音がきっちり聞こえているほうがいいからね」と説明されました。

彼らのウエッブはhttp://www.tuckandpatti.com/index.shtml ここから彼らにメールを送ることができます。必ずしも返事が来るとは限りませんが、すべてのメールには目を通しているそうです。

今ステレオからリピートで何度もかかっているのは彼らのCDで「ワンダフル・ワールド」。なんと素敵な世界なのでしょうか。次のリクエストはアル・グリーンの「レッツ・ステイ・トゥゲザー」あたりか。(笑) いやあ、今夜はタック&パティーにとどめをさされました。ぐさって感じです。

(タック&パティー、東京ブルーノート、5月12日・月曜から17日・土曜まで)

ブルーノートのHP
http://www.bluenote.co.jp/


『手渡されたバトン』(Part 2 of 2 parts)

(パート1からの続き)

            +++

40年間。


46年の歴史を刻むこの店の最大の人気メニューはタンメンだという。ランチタイムの注文の9割方はタンメンというから大変な人気だ。いつも、他のラーメンなどのメニューにも目が行くのだが、どうしてもチャーハンを注文してしまう。次回は意を決してタンメンにチャレンジするか。そして、やはり9割方が常連さんだとも付け加えた。常連で持つ店は、地域密着の店ということ。そして、味が安定していることの証だ。

主人が打ち明けた。「父の代から40年間毎日うちのタンメンを食べにきてくれたタクシーの運転手さんがいらっしゃってね。毎日、毎日です。ここでタンメン食べて、また仕事にでられるんです。(今は土日・祝日休業だが) 以前は5人でやってましてね。両親と僕たちとおばさんがいて、日曜だけ休みだったんです」

ざっと勘定してもその運転手さんは12000食タンメンを食べたことになる。「今でも?」と聞いた。「いえ、その方3年ほどまえに亡くなられて、今はもう・・・」 ということは、その運転手さんは30年ほど先代のタンメンを食べ、10年ほどその息子さんである現在の主人のタンメンを食べてきたことになる。これはすごい。日曜日は、一体、その人は何を食べていたのだろう。妙に気になった。

「たぶん、僕の(タンメン)は、最初のうちけっこう我慢して食べられていたんじゃないでしょうかねえ。(笑) いろいろ味については言われて、でも、とっても助かりましたよ。勉強になったっていうか」 父親は厳しく、最初のうちはスープも触らせてもらえず、ひたすら洗い物ばかりさせられた。だが、料理をまともに教わる前に、父は他界してしまった。だから彼の料理は父親のものを見よう見真似で覚えたものだ。それでも、子供の頃から父のものをずっと食べ続けていたので、その味はある程度、体で、いや、舌で覚えていたと思う、と彼は告白する。

30年間毎日父親のタンメンを食べ続けたひとりの客が、続く10年で二代目の息子にその味を教える。先代の味に徐々に近づいていく二代目の味。まさに、店は客が作るのだ。

13年前、父親の代から彼の代になったときには、けっこうお客さんが離れていってしまった、という。「でも、最近そういう方たちが戻られてくるようになったんです」 

「それは、お父さんの味に近づいたということなんでしょうか」と僕は尋ねた。「さあ、わからないですね。そうだったらいいんですけど」 彼は少しはにかみながら答えた。

歴史のバトンは、見事に次のランナーに手渡されたのだ。

「じゃあ、これからもおいしいチャーハンとタンメンを作ってください」 「ありがとうございま〜す」 再び主人の甲高い声が響いた。

扉を閉めて外にでると、時計の針はいつのまにか11時を回っていた。夜風が冷たかった。だが、美味なチャーハンと餃子以上のおいしい話に、身も心も満腹になった。


+++++

(文字数が多かったため、1日分で入りきらずやむおえず2日にわけました)


『手渡されたバトン』〜Part 1 of 2 parts


一見(いちげん)。


「いらっしゃいませ〜〜〜」 引き戸を開けると、甲高い声が狭い店内に響いた。なんの変哲もない普通の中華料理店、いや、ラーメン屋といったらいいか。ほぼ毎日のように通る国道1号線沿い、古川橋近くにある店で、しばらく前から明るい看板がなにやら、僕に「おいでおいで」をしているような感じがしていた。深い意味はない。ただそう感じただけだ。

そして、意を決して、ある日初めて店内に足を踏み入れた。僕はただの一見の客だ。もう何ヶ月か前のことだった。店内にはそれほど客はいなかった。カウンターが約10席、テーブル席が約6席。つめれば、もう少し座れるそんな店だ。主人が中華なべを手際よくつかみ勢いよく前後に動かし、もう一人の女性が水を運んだり、注文を取ったりする。空いていたカウンターの一番端に座った。

壁に貼られたメニューを見ると、ラーメン600円、タンメン750円、ワンタン750円、餃子600円などの横にチャーハン1100円とあった。しかも、その横には「ランチタイムにはチャーハンはできません」と書いてある。他の品と比べて、このチャーハンの値段だけずば抜けて高かった。「一体なんなんだろう。なんで、これだけこんなに高いの。ランチタイムに作らないというのは、めんどくさいからか」とふと思った。そして逆に興味がわいた。この値段とランチタイムにやらないという言葉で、僕はチャーハンを注文、そして、餃子も頼んだ。

しばらくして、餃子がでてきた。よく焼けている。そして、まもなくチャーハンがでてきた。カニがたっぷりはいっている。つい今まで大きな中華なべの中で右に左に、上に下に動いていたゴハンと具が、お皿の上できれいに円錐形に置かれ、しかもスープからはちょっとだけ湯気がでている。スープを飲んでから一口食べると、熱々のゴハンと玉子、その他の具がうまく混ざり合う。水っぽくなく、かといってぱさぱさでもない。「こ、これは・・・。実にうまい」 思わず心の中で叫んだ。

すでに主人は黙々と次の料理を作っている。女性は、帰った客の食器を下げ、洗い場に移している。完全にルティーンワークになっていた。

1100円に納得した。街場のラーメン店でのチャーハンだったら600円から700円が妥当なところだろう。しかし、このときは、2000円近くもする下手な高級中華料理店のチャーハンなんかよりも断然いいと感じた。そして、それ以来この前を通るときには、いつも行こうと思うのだが、けっこう店が閉まっていることが多い。深山亭にしろ、何度か足を運び、閉まっていてふられるような店のほうがいいのかもしれない、と思った。

休みは土日、祝日、営業時間はランチが12時から2時、夜は7時半から10時。10時までにはいればいいのだが、麺がなくなったりすると、9時台にのれんをさげることもある。だが、平日でもやっていなかったことが、1度や2度ではなかった。僕が店の前を通る時間が遅いのか。それでもその後何度かこの店のチャーハンと餃子を食べることができた。そのたびに感心し、一体この主人はどういう人なのだろうかと興味がわいてきた。


最後の客。


その日、帰り道にふと見ると、10時過ぎだというのにまだのれんがでていて営業しているようだった。中に入るとなんと満員だった。この店が満員だったのは初めて見た。何人かは食べ終わっていたが、まだ注文したものが来ていない客が何人かいた。しばらく入口で立ったまま待った。やがて一人帰り、二人帰り、いつも通りチャーハンと餃子を注文し、テーブル席でタクシーの運転手さんらしき人と相席になった。

まもなくカウンターもあき、僕は一人でいつもの一番端の席に移った。さすがに注文をこなすのに時間がかかり、僕のチャーハンが来て食べ始める頃には、先のタクシー運転手風と二人になっていた。彼は一足先に食べ終え、すぐに勘定をすませ出ていった。僕は計らずも最後の客になっていた。

主人はなべやかまなどを一生懸命洗っている。奥さんと思われる女性はのれんを下げ、残った食器を次々と片付け、テーブルを拭いたりしている。僕のいつもの好奇心がむくむくと頭をもたげてでてきた。ちょっと躊躇したが、それでも声をかけてみた。

「ここは、いつ頃からあるんですか?」 僕は勝手にここ数年のうちにできた店かと思っていた。主人は推定で30代後半か行ってても40代前半のように見えたこと、看板が比較的新しかったことなどからだ。

洗い物の手を休めず主人は答えた。「昭和32年からでね。最初父がやっていて、僕は二代目なんですよ。昔はもう少し川のほうでやってたんですけど、東京オリンピックの年に、高速ができるんで、こっちに移ってきたんです。動いたのは、ちょっとだけですけどね」 

僕は驚いた。すでに46年の歴史を持つ店なのか。「僕は、平成になってからですけどね」と主人は言う。それでも、15年になる。なんで今まで気がつかなかったのだろう。看板が新しくなったから気がついたのだろうか。

ずばり直球で尋ねた。「ここのチャーハン、すごくおいしいんですけど、何か秘密でもあるんですか?」 だが、これはあまりいい質問ではない。こんな質問には答えようがないからだ。言いたくない秘密だったら、言わないだろうし。だが、なんとなくそう聞いてみたくなったのだ。

「そうですか、ありがとうございます。いやあ、別にないですけど。父のを見よう見真似で作ってるんですけどね。僕がここに来て、わりとすぐに父と母が他界しましてね。13年前ですけど」 彼は依然手を休めずに、僕の質問に答える。

「それまではどこに?」 どこか他の中華料理店にいたものと思っていた。すると予期せぬ答えが返ってきた。「銀座のソニービルの下にあるマキシムっていうフレンチにいたんです」 マキシムといえば、フレンチの超有名店ではないか。果たして、彼が作るチャーハンにフレンチの要素はあるのか。僕にはわからない。そして、彼もわからない、と言った。だが高級フレンチから街場の中華ラーメン店への転身は意外だった。

僕はここの店に初めて来て以来ずっと持ち続けている疑問を主人にぶつけた。「チャーハンがものすごくおいしいんですけど、これって他のメニューと比べるとちょっと高いでしょう。これはなんでなんですか。めんどくさいんですか、作るの、やっぱり」

「え〜、めんどくさいんで。(笑) できるだけ作りたくないんですよ。高くすれば少しは注文も減るかと思って(苦笑)」

「ああ、やっぱりねえ。だからランチタイムはやらないんだ」 とはいうものの、若干このやりとりは僕の誘導尋問に彼がひっかかった風でもあった。すると、食器を洗っていた奥さんらしき人が笑いながら口をはさんだ。「いやあ、めんどくさいというのは冗談なんですけど、カニがたくさんはいってるんでねえ・・・」 

彼女は、そんなこと言っちゃだめでしょう、とたしなめるかのように彼の言葉をサポートした。でも、それはとても感じのいいほほえましいものだった。僕はおそらくこの夫婦は姉さん女房だと思う。


(Part 2に続く)

ソウル声。

昨日は母の日でした。『ソウル・ブレンズ』のオープニングはジュニアの82年のヒット、「ママ・ユースド・トゥ・セイ」でした。今、WBLSの「サンデイ・クラシック」は、そのジュニアとボーイズ・トゥ・メンの「ママズ・ソング」をメドレーでかけています。どこでもかける曲は一緒です。

ちなみに、この僕の愛聴番組「サンデイ・クラシック」は今年20周年を迎えるそうです。1983年に始まったということですね。いやあ、そんな長寿番組だとは知りませんでした。

さて、昨日の番組にゲストが二組登場したのですが、そのうちの一人、ガッツTKBショウ(これがアーティスト名です)が、アコースティック・ギター一本で一曲歌ってくれたのですねえ。それが、なんとカーティス・メイフィールドの「ピープル・ゲット・レディー」でした。

ゆっくりとしたテンポのギターの調べに、ソウルフルなガッツの声が「people get ready, there’s a train comin’ 」と歌い始めます。いやあ、なかなかいいですね。ガッツは日本人のシンガーの中では、珍しく、声そのものがソウルフルなんですね。この声自体がソウルフルな人って実は、あまり日本人にはいないんですよ。たくさんの日本人歌手がサウンドだけは、R&B風にしたり、歌いまわしだけソウルフルにして出てくるんですが、実は声自体にソウルがあるかどうかというと、まあ、ほとんどないんですね。

これは、練習とかそういう次元ではなく、持って生まれたものだから、どうしようもないんです。黒人の歌手の声は99パーセント、ソウルフルですね。でも、日本人歌手でソウルフルな声の持ち主って5パーセントもいないんじゃないでしょうか。僕も、なかなか思い浮かびません。

ガッツによると英語の曲のレパートリーは100曲くらいあるそうです。これは、ぜひソウルのカヴァーだけで、一晩やってほしいですね。

WBLS、今、デルズの「ギヴ・ユア・ベイビー・ア・スタンディング・オヴェーション」をかけています。クラシックですね。ガッツの声は、少しばかり、このデルズのリード、マーヴィン・ジュニア系の声に似ています。誉め過ぎか? (笑) でも、ソウル顔って言うでしょう。それと同じで、ソウル声っていうのは確かにあります。で、ガッツはそのジャンルに入るような気がしますね。後は、この声にあう楽曲をうまく選ぶことです。
朝日。

マンハッタン44丁目。フィフス・アヴェニューとシックスス・アヴェニュー(アメリカズ・アヴェニュー)の間にあるのが、1902年にオープンし、ドロシー・パーカーなど数多くの作家たちを惹きつけた魅力的な名門ホテル「アルゴンキン・ホテル」です。10年以上前に、一度滞在したことがありますが、そのときはかなり重厚な、そして、伝統的なホテル、でもちょっと古臭いという印象でした。98年に大改装をしたそうですが、それは見ていません。

アルゴンキンの中にあるバーは、「ブルー・バー」。かつて多くの文士たちがここや、レストラン、スイートルームに夜な夜な集っていたそうです。日本で言えば「山の上ホテル」みたいなものでしょうか。

そのアルゴンキンの名前を冠したバーが下北沢にあると聞き探しに行きました。正確に言えば代沢、茶沢通り沿い。ローソンの斜め前あたり。小さな扉を開けると、かなり暗めのカウンター8席だけのバーがありました。ほんの2ー3日前に噂を聞いたのですが、なんとお店の創業は89年頃とのこと。

オープン当初は、ピチカート・ファイヴの小西さんの弟さんがやっていましたが、96年暮れから現在の保(たもつ)さんが、引き継いで経営をしています。

「ソウル・バーということで、いいんですか」と訪ねると、マスターの保さんは、「ええ」と答えます。バーの壁約半分がお酒、半分がアナログのレコード棚。およそ2000枚程度のアルバム、12インチと若干のCDがあります。かけるのは、ターンテーブル2台とCDプレイヤー。基本的には、70年代のソウル・ヴォーカル・グループが大好きということで、そうしたスロー・ジャム系が中心で、次々とメローで、ジェントル、とろとろのとろけスイート・ソウルが、これでもかこれでもかと惜しげもなくかかります。僕もすっかり骨抜きにされてしまいました。

週7日営業で休みなし。営業時間は夜8時から原則朝4時まで。ただし、お客さんが残っていれば、続けます。年に一度くらい1ヶ月か2ヶ月まとめてお休みをいただくこともあります。先日はタイに2ヶ月ほど行ってきたそうです。

「イン・ザ・レイン」がかかりました。しかし、ドラマティックスではありません。「う〜〜ん、誰だ、これ」 「オリジナルと関連のある人です」と彼がヒントをくれました。「わかった! ウィ・ジーだ!」 「はい、正解です」 カルトクイズ、スイートソウルの巻。なんと元ドラマティックスのウィ・ジーでした。

ハイ・ファイヴ(無名なほうのハイ・ファイヴ)の「レッツ・ゴー・オール・ザ・ウエイ」、ヴァン・ジョーンズ、スパイス、アートワーク、そして、J.R.ベイリーの「シー・コールド・ミー・ベイビー」がかかります。さらに「シュー・シュー・シャイン」が流れてきました。しかし、オリジナルのダイナミック・スペリアーズではなくて・・・。そう、センターホールド! 

マニアックだ。インディだ。レアものだ。知らないのが次々かかる。思わず車に乗っていた数枚のシングルとアルバムをお持込。次から次へ、「これは?」 「これ、なんですか?」の質問。メモ、メモ。

「いやあ、最近はそんなに音楽聞いてる人いないから、そういうときは、もう自分で焼いたCDRかけっぱなしの時もあるんですけどね。今日はやりがいがあるなあ(笑)」と保さん。

しばし、これでもか、これでもかのソウル・バトルの趣です。いいですねえ。お店は、お客さんが作るんです。(笑) はい。「DJやる気」に火をつけたようです。

僕を含めて5人で乗りこんだこのアルゴンキン。いやあ、気に入りました。いろんな話をしていて、ふと気がついたらもう5時。外にでたら、な、な、なんと明るくなって太陽がでているではありませんか。またまたドーン・ウィズ・フェヴァリット・ソングでした。

「徹夜明けの朝日がまぶしい・・・」(刑事コジャックのオープニング・ナレーション)。真っ赤で大きな朝日がまぶしかった。


アルゴンキンズ
〒155-0032 東京都世田谷区代沢5-6-14
電話 03-3412-6942
休業・基本的になし。午後8時から午前4時。
チャージ300円、ドリンク600円〜



筋肉。

そのキーワードは、肉体、汗、物量、限界への挑戦、頭脳、非物語、そして、無限。

TBSのアクトシアターで行われているミュージカル『マッスル・ミュージカル』を見ながら様々なことが思い浮かびました。しかし、こんなミュージカル見たことありません。音楽に合わせて、人間の体の可能な限りの限界に挑戦しています。そして、次々と考えも及ばないようなアイデアが飛び出します。

一番感心したのは、圧倒的な物量作戦ということ。50名以上のダンサーたちが一挙に同時に踊ったり、体を動かしたりすれば、それだけで美しい。2人より5人、5人より15人、15人より30人・・・。多ければ多いほど、あらゆる点で迫力があってすばらしい。

そして、人間の体の無限の可能性を感じます。体はなんでもできる、どうにでも動けるんだな、と思わされます。さらに、さまざまなアイデアを生み出す頭脳も無限の可能性があります。総じて、この「マッスル・ミュージカル」は人間の無限の可能性を見せ付けます。

透明人間にたたかれるようなパフォーマンス、かなりの笑いを取る人間ピアノ、迫力一杯の空中ダンス、床と天井とで繰り広げられるトランポリン、柔道着で踊るタンゴ、壁を昇る側転・・・。斬新なパフォーマンスが次々と登場して、見るものを飽きさせません。

このミュージカルの最大の美しさは、人間の肉体であると同時に、まったくストーリーというものがないにもかかわらず、観客をくぎ付けにできるパフォーマンスそのものです。ストーリーがないだけに、そこで行われるパフォーマンスに意味を見出す必要がない。まったく無意味なことを、ここまで徹底してやりとげるというところが、美しく、すばらしい。限りなく究極に無意味なものに対して、没頭する。それがすごい。

ストーリーがあれば、それゆえ、パフォーマンスにストーリーの意味を持たせることになるが、この「マッスル・ミュージカル」には、ストーリーがないから、パフォーマンス自体に意味がない。だからパフォーマンスそのものが観客にストレートに訴えるのです。「こんなことやって、何になるの」というようなことを、思いきり、練習して、技術を高め、高度なレベルでやって見せるわけです。

エンタテインメントなんて、衣食住と違ってもともとなくても生活には困らないもの。そして、この「マッスル・ミュージカル」は、それが徹底しているところがすごい。各シーンは、それぞれが独立しているから、それぞれの出し物の順番を変えても関係ない。言ってみれば肉体的パフォーマンスのオムニバスがこのミュージカルということになるのでしょう。しいて言えば、こういう動きをしたら、見る人が面白いのではないか。そんな動きを徹底して集めたわけです。

ぜひ、これをニューヨークのブロードウェイあたりでかけてもらいたい。言葉が必要ないのだから、アメリカ人がどのように受け止めるか、ものすごく興味がある。思わぬ超ロングヒット・ミュージカルになるかもしれません。

ひとつだけ注文があるとすればこうです。現在は途中15分の休憩をいれて、トータル2時間10分くらいだったが、休憩をなくして1時間45分くらいにまとめたら、もっと密度が濃くなるのではないでしょうか。第二部の方が第一部に比べて、若干物足りなく感じました。

(4月26日から5月11日まで、赤坂ACTシアター)
新規一転。

「昔の名前で出ていません!!」 

六本木のソウルバー「テンプス」が2002年12月で閉店して以来、同店オウナーの川畑さんが次に出す店が注目されていましたが、去る4月25日、赤坂に新しい店、その名も「ミラクル」が開店しました。冒頭のキャッチは、その新しいお店のフライヤー。

「一から出直そうと思って」と川畑さんが言います。30坪ほどあったテンプスから20坪のミラクルへ。若干こぶりになったミラクルはこじんまりと、インティメートな雰囲気になりました。約40席のお店は、業界用語でいう「居抜き」。つまり、前にやっていたお店の椅子や内装をそのまま使って、新しい店を営業するスタイル。

どうやら、以前はカラオケかなんかがあって女の子がいるお店だったようです。そこにDJブースを備え付け、内装に若干手をいれ、あっという間にソウルバーになりました。大きなファンカデリックのボードがソウル度を高めます。

当分は川畑さんを含め3人+DJの態勢で行くそうです。ほぼ1万枚近いレコードはなんとか棚を作って、収めました。昔の名前で出てはいませんが、ドリンクの下に置かれたコースターはテンプスのもの。このあたりに、歴史を感じる人もいるかもしれません。

「ピープル・ゲット・レディー」(インプレッションズ)から、キャンディ・ステイトン、ドロシー・ムーア、OVライトの「ザッツ・ザ・ウェイ・アイ・フィール・アバウチャ」、「ミー&ミセス・ジョーンズ」、モジュレーションズなど、じっくり、しっとり、とろけさせてくれたのは、レギュラーDJキヨミさんでした。

トイレにびったり貼られたモノクロのノーマン・シーフなどの写真を見ると、ソウルアーティストは、モノクロのほうが映えるかななどとも思ってしまいます。で、ふと気づいたのが、テンプスの天井を飾っていたレコードジャケットがふんだんに印刷されたパネルがないということ。

あれ、どうしたんですか? 「(テンプスに)置いてきちゃいました」と川畑さん。「えええ?? うっそ〜〜〜。もったいない。欲しいなあ」 「みんなに言われるんですよ」

ラヴィン・パワー、テンプス1、テンプス2、下北テンプス、ヒップホップなどを経て登場したミラクル。川畑さんのソウル店の歴史の新たなる1ページが開かれました。


ミラクル
2003年4月25日オープン
港区赤坂2−14−12
赤坂井上第一ビル2階
03-3589-5014
8時から朝5時まで
日曜定休・祝日は営業
チャージ500円、ドリンク700円〜

(行き方) TBS前赤阪通りを、外堀通りのほうからきた場合、国際ビルの手前、スターバックスのあたりの道を左折。そのまま行き、突き当たりの道を左折。すぐに左側に車の通れない細い道があります。そこに左折してはいり、つきあたりの右のビルの2階。ちょっとわかりにくいです。


纏綿。

昨日(7日付け)毎日新聞の夕刊特集で、「国語学者の金田一春彦さんを訪ねて〜日本語のこころを聞く」という記事がありました。2面の半分を使ったインタヴュー記事ですが、なかなかおもしろかった。

なにより驚いたのは、金田一先生、1913年4月生まれの90歳ということ。まだ6ー70歳くらいかと思っていた。根拠ないんですけど。で、ばりばりに現役なんですね。

その見だしに使われた言葉なんですが、こうでています。「相手を思いやる表現をたくさん聞いて育つ子は思いやりを持った子になる。子育て世代の親御さんは言葉に敏感になってほしい」

なるほど、って感じですね。毎日新聞のサイトをチェックしたんですが、まだ、この記事はアップされていませんでした。後日でるのかもしれません。

以前、日本語の「侘び寂(わびさび)」をどう英語で表記するかということを書いたことがありましたが、日本語には英語にならないような日本人らしさを表現する言葉がたくさんあるようです。

金田一さんは、いくつかの例をあげていますが、「気」を使った表現が日本人らしさを感じさせるひとつとしてお話されています。

「たとえば、「気がつく」「気にかける」「気に障る」「気をひく」「気を許す」・・・。どれも微妙な心の動きを表しています。」

ふむふむ。最近自分の知らない日本語に興味があってねえ。読めない漢字も。仮に何か覚えても、使えないんですよね。大体そういうのはそういう言葉を使うシチュエーションがないから、使われないんですよねえ。

「纏綿」って、読めますか? 僕は読めませんでした。見たこともない。即gooの辞書にコピペして国語辞典をクリック。読めなくても、コピペでいいんだから、いまどき超便利。昔だったら画数勘定して、漢和辞典でまず読み方を探さなければならない。それだけで一仕事です。もう、やらないですね。そんなこと。でも、今はクリックひとつ。

正解は「てんめん」。同辞書によると、

「まつわりつくこと。からみつくこと。
「憂患の胸間に―するあり/佳人之奇遇(散士)」
(1)まつわりついて離れないさま。
「お前を庇ふ心持が始終自分の心に―としてゐたものだから/疑惑(秋江)」
(2)情愛のこまやかなさま。
「情緒―」」

ほ〜〜〜。今度は「憂患」がわからない。再びコピペ。

ゆうかん
「ひどく心配して悩むこと。
「世の識者の―する所も/文明論之概略(諭吉)」

「庇ふ」がわからない。

たばう
(1)大切にしまっておく。たくわえる。
「君がため―・へる米は/仮名草子・仁勢物語」
(2)他から守る。かばう。
「身を―ひ、命を全くして心をとげたまふべし/曾我 5」

もうひとつ、「艶冶」。見たことないです。(笑) えんやと読みます。

えんや
(女性が)なまめかしく美しい・こと(さま)。
「洗い髪の―な姿態」
[派生] ――さ(名)

艶冶なジェニファーロペスの肢体と憂患な男が纏綿と重なる・・・とかって使うわけでしょうか。むずかし。でも、ちょっとソウルっぽい・・・。強烈なこじつけだ。(笑)

本日は、よくわからない日本語講座でした。
下北。

下北沢のソウルバー「サンシャインヒル」に探検に行きました。オウナーは豪徳寺の「ニュー・ジャック・シティー」と同じだそうで、約1年半前にオープンしたとのこと。店のタイトルは、Soul Cafe。なるほど。お茶だけでもいいのかな。

かなり急な階段を上がって、二階に。左に引く扉をあけて中にはいります。右手にカウンター、左手にテーブル席。真正面にDJブース。DJブースの横に、段ボールに入ったアナログ・アルバムがたくさん置いてありました。

この日は、カウンター内に男の子と女の子がいて、その女の子がドリンク・オーダーの合間をみて独自に焼いたCD−Rを流していました。一曲一曲をかけるのではなく、CD−Rをそのまま流しています。ブラザース・ジョンソンの「ストンプ」からウォーの「ユーヴ・ガット・ザ・パワー」につながるノンストップ・ミックスでした。80年代のダンスクラシック中心でしたが、新しいのもかけるとのことでした。DJが入ることもあるのかな。

カウンターが約8席、他に高めのテーブル席が10席くらい。黒を基調としたお店でした。客層は若い感じがしましたが、下北という街柄のせいでしょうか。

場所は、下北沢駅南口のマックのすぐ裏です。マックまで行けば、その並びに看板がでています。

Soul Cafe サンシャイン・ヒル
〒155-0031 世田谷区北沢2-12-7
電話03-5486-4547
チャージ500円、ドリンク500円〜
朝5時まで営業 
第二第三火曜日・定休
小箱。

ゴールデン・ウィークもあっという間に終わってしまいました。はやいですねえ。

それはさておき、アース・ウィンド&ファイアーが全米ツアーにでます。アースは全米で5月20日に新作アルバム『プロミス』を発表しますが、その発売と関連して約20本のツアーを7月まで行います。ツアーの初日は、フロリダ州ボコ・レイトン。

現在のアースの正式メンバーは、昨年の来日メンバーと同一で、モーリスとヴァーディン・ホワイト、ラルフ・ジョンソン、そして、フィリップ・ベイリーの4人です。このほかに若干の追加メンバーがはいり、ステージにあがります。

『プロミス』は97年の『イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ』以来6年ぶりの新作。

ツアー予定は次のとおりです。

5/11/2003 St. Lucia Jazz Festiva/Pigeon Island Nat’l Park
5/23/2003 Mizner Park Amph., Boca Raton, FL
5/24/2003 Tampa Bay PAC, Tampa, FL
5/25/2003 The House of Blues, Orlando, FL
5/26/2003 Chastain Park Amph., Atlanta, GA
5/29/2003 Next Stage In Grand Prarie, Dallas, TX
5/30/2003 Concrete Street Amph., Corpus Christi, TX
6/1/2003 The Boutwell Mun. Aud., Birmingham, AL
6/3/2003 Wolf Trap, Vienna, Virginia
6/5/2003 The Tower Theatre, Philadelpha, PA
6/6/2003 Fleet Boston Pavilion, Boston, MA
6/7/2003 Oakdale Theatre, Wallingford, CT
6/12/2003 Franklin County Veterans Memorial, Columbus, OH
6/13/2003 Ford Motor Co., Detroit, MI
6/14/2003 Nautica Pavilion, Cleveland, OH
6/15/2003 Pier Six Concert Pavilion, Baltimore, MD
6/18/2003 Orpheum Theatre, Minneapolis, MN
6/20/2003 Star Plaza Theatre, Merrillville, IN
6/21/2003 The Fox Theatre, St. Louis, MO
6/22/2003 Palace Theatre, Louisville, KY
6/26/2003 New Jersey PAC, Newark, NJ
6/27/2003 Hampton Coliseum, Hampton, VA
6/28/2003 The Apollo Theatre, New York, NY
7/2/2003 The Greek Theatre, Los Angeles, CA
7/3/2003 Paramount Theatre, Oakland, CA

これを見て感じるのは、フロリダの「ハウス・オブ・ブルース」や、ニューヨークの「アポロ・シアター」など比較的小さな会場があることです。昨年11月の来日時は東京の国際フォーラムでした。収容人数は5000人。アポロあたりはおそらく2000人弱ではないでしょうか。意外と小箱でやるな、というのが正直な感想です。

基本的には前回の日本ツアーのショウに新曲を2ー3曲程度加えるものと思われます。モーリスも一応ツアーに行くようです。ということは、モーリスもほぼ完全
復帰なのでしょうか。

新作アルバム、日本でも5月末発売の予定です。


Luther Is Still Alive

2003年5月5日
誤報。

アメリカで一時ルーサー死亡説が流れたようです。

この日記でも、ルーサーが倒れ入院し、危篤だが状態は安定しているとお伝えしましたが、木曜日(1日)に一部のラジオが「ルーサー死亡」のニュースを流したようです。ファンの間で混乱が続いています。

ところが、すぐにその後続報はなく、一般メディアでも、そのようなニュースは伝えられてきていません。一体どうなったんでしょう。不思議ですねえ。

そこでちょっと調べてみました。

どうやら、5月1日(木曜)デトロイトのABC系列のラジオで午後7時ごろ、確かにルーサー死亡のニュースを報じたようです。しかし、11時にはもうすでに、そのニュースは触れられていません。また、同日午後10時、フロリダ州ジャクソンヴィルのラジオ局もこのニュースを報じましたが、その後のフォローアップはありません。

おそらく、こういう推理が成り立ちます。

今、ルーサーは危篤状態、いつ死ぬかわからない。そこで、死亡したときの記事を「予定原稿」として書いておいた。それをどこかの通信社が誤って、流してしまい、それを見たラジオ局が即報じた。しかし、それは誤報だったので、以後のニュースはなく、おそらく訂正放送でも、した。といったところではないでしょうか。

ニューヨーク・タイムス、LAタイムスなど大きなところは全部調べたんですが、やはりルーサー死亡のニュースはまだ5日午前1時現在ないですねえ。もし本当に死亡したのであれば、かなり大きなニュースですから、一斉に報じられるはずです。バリー・ギブ以上の報道がでるものと思われます。

ただこれで安心というわけではありませんね。危篤であることはかわらず、あいかわらず意識はもどっていません。これだけ長期間意識が戻らないのは珍しいとのことです。下手すると、ジャッキー・ウィルソンみたいに植物人間になってしまうかもしれません。

いま、こうしてルーサーは死んでいません、と書いても、明日には亡くなってしまうかもしれません。予断は許さない状況であることには変わらないのです。

全快をお祈りしつつ。


PS: Kさん、おそらくまだルーサーは亡くなっていません。一筋の希望はあります。


そよ風。

土曜の午後。駒沢のカフェN。久々にマスターがいました。彼はかなり年季がはいったキース・ムーンのTシャツを着ています。外にあるテントの席では、犬連れの人たちが思い思いのゆったりした午後を過ごしています。気持ちのいい風が頬にあたってきます。

マスターは、絵が好きで、ここの壁や天井の絵はすべて彼が描いたもの。ちょっとばかり60年代風の面影があり、手作りだが落ちつきます。ここにはなかなか来れませんが、僕の家の近くにあったら、毎日でも行ってしまいたい店ですね。

音楽はラウンジ系をアナログのアルバムでかけます。以前ここで、サミー・デイヴィスの「シャフトのテーマ」を聴いて気に入ったのですが、今日もそれをリクエストしてしまいました。

その後にかかったのが、ルーベン・ウィルソンのアルバム。耳慣れた曲がかかったなと思ったらシャイ・ライツのヒット曲「ストーンド・アウト・オブ・マイ・マインド」のカヴァー。ルーベンは、シカゴのカデット・レーベルのピアニストです。76年頃の作品でした。

こういうのっておもしろいものですねえ。当時はきっと聴いても、ばかにして、一度聴いて終わりだったんでしょうけど、いまどきだと、こういうB級ものでも、カフェではちょうどいいんですね。あるいはTPOかな。

隣のお客さんが犬を2匹連れていました。一匹は2歳でもう一匹は7歳。お店でコーヒーについてくる小さなチョコレートクッキーを犬たちにあげていました。それを見ていると、「ほんとはあげちゃいけないんですけどね」と彼女は笑いながら言いました。2歳の子がやってきたときは、7歳のほうが嫉妬して、若干神経性胃炎になったそうです。

注文したタルトがやってくると、いかにも手作りというそれが来たので、思わずお店の子に尋ねました。「これ、手作り?」 そしたら、その子「いえ、ケーキ屋さんの手作り」と言って苦笑しました。正直に言うか・・・。(笑) 

CDプレイヤーもあるんだっけ、とマスターに尋ねると、「あるんですけど、今、壊れてるんです」。確か、前来たときも、同じようなことを言われたことを思い出しました。そのとき、また、開き放たれていた窓から初夏のそよ風が静かに室内に吹き込んできました。


Jealous Guy

2003年5月3日
嫉妬。

クインシー・ジョーンズの自伝がでたそうですが、はやいところ読みたいですね。著者はクインシー本人でしたか。ついに書いたんですね。

クインシーだったら、何冊書いてもエピソードにはことかかないでしょうね。(笑)

中でも、スティーヴィーとダニーのエピソードは非常に興味深い。ダニーがスティーヴィーばかりがもてはやされることに嫉妬した、というくだり。ダニーは1945年生まれ、スティーヴィーは1950年生まれ。ダニーのほうが5歳年上です。年下の彼が次々とヒットを放っていくことに、嫉妬、焦りなどを感じたとしてもおかしくありません。

スティーヴィーは63年「フィンガーティップス」が大ヒットして、13歳にして一躍スターの座にのぼりつめました。その時点でダニーは、17歳。ダニーに初ヒットが生まれるのは69年2月、23歳でした。その時点でスティーヴィーはすでに17曲のチャートヒットを持っていました。

70年代にはいると、ダニーはロバータ・フラックとともに「ニュー・ソウル」の旗手などとしてもてはやされます。優れたアルバムを発表し、シングルヒットもだし、ダニー自身に大いなる注目が集まるようになります。やっと、ダニーがスティーヴィーに追い付いたかにみえました。ところが、スティーヴィーは同時期、グラミー賞を次々と総なめするようになり、さらに人気格差が拡大してしまうのです。ダニーも実にいい作品をだしていますが、どうしても印象的にスティーヴィーのほうが、インパクトがある、といえば確かにそうです。この人気格差に、自分がいくらやっても、スティーヴィーに追い付けない、というあきらめのような気持ちが生まれたのでしょうか。インテリゆえに、そこが頭で理解できてしまったのかもしれない。感情的には理解できなくとも。

今でこそ、ダニーに対する評価は高いものがありますが、一般的人気という点では確かに、スティーヴィーでした。そして、そこに「なぜスティーヴィーばかりが・・・」という気持ちが芽生えたとしても、まったく不自然ではありません。

73年頃から79年1月13日の自殺の日まで、おそらくダニーには人の想像を絶するようなストレスがあったのでしょう。彼がインテリで頭がよかっただけに、さらにその苦悩は大きかったはずです。その日々は、ダニーにとっての、疑うことのないソウル・サーチンの日々でした。

ダニー最後のアルバム『バック・トゥゲザー・アゲイン』(1980年)には、そのスティーヴィーが書いた作品「ユー・アー・マイ・ヘヴン」が収録されています。気持ちがひとつふっきれたのでしょうか。ダニーが「君は、僕の天国だよ」と歌うとき、それはスティーヴィー本人に対して歌っているのかもしれません。そしてこれを最後に、ダニーがこの世を去りました。ということは、これはひょっとしてダニーの辞世の歌なのでしょうか。

「ジェラウス・ガイ」ダニーよ、安らかに。あなたの音楽は永遠に。



< 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197