【「ライオンは寝ている」のメンバー、ハンク・メドレス死去】
ライオン。
1960年代に活躍した白人ヴォーカル・グループ、トーケンズのメンバーで後にプロデューサーとなったハンク・メドレスが2007年6月18日(月曜)ニューヨーク・マンハッタンの自宅で肺がんのため死去した。68歳だった。
ハンク・メドレスは1938年11月19日ニューヨーク・ブルックリン生まれ。彼は地元ブルックリンのリンカーン・ハイスクール生だった十代の1955年、友人で同級生のニール・セダカらとともに「リンク・トーンズ」という5人組ヴォーカル・グループを結成。当時ニューヨークでは多くの若者が、街角で歌うストリート・コーナー・シンフォニーを作り、明日への成功を夢みていた。ニール・セダカはソロになるために1958年グループを脱退するが、4人でグループを継続、若干のメンバーチェンジを経て「トーケンズ」となった。
1961年トーケンズは、1952年にウィーヴァーズというグループがヒットさせた「ウイモエー」という曲を「ライオン・スリープス・トゥナイト」と改題し世に送り出し、1962年初頭から大ヒット。ただしここでハイヴォイスを聞かせるのはリード・シンガー、ジェイ・シーゲル。「ライオン・・・」は、アカペラ、ドゥー・ワップなどの愛好者からもっとも愛されている作品のひとつで、最初にヴォーカル・グループをやろうとするときに基本として練習するようなクラシックになった。
トーケンズはその後小ヒットを出すが、メドレスらは若手育成に力を注ぎ、ガール・グループ、シフォンズをてがけ、彼女たちの「ヒーズ・ソー・ファイン」(1963年2月からヒット、全米ナンバーワン)、「ワン・ファイン・デイ」(1963年6月からヒット、全米5位)などが大ヒットした。これを機にメドレスの興味は自分が表だって歌うのではなく、裏方でヒットを作るほうへ移っていったといわれる。
メドレスは、パートナーのデイヴ・アッペルとともに1970年代に入ってトニー・オーランドー&ザ・ドーンをプロデュース。ドーンは「キャンディダ」(1970年7月、全米3位)、「ノック・スリー・タイムス」(1970年11月からヒット、全米1位)、「タイ・ア・イエロー・リボン・ラウンド・ジ・オール・オーク・トゥリー(邦題、幸せの黄色いリボン)」(1973年2月からヒット、全米1位)などポップな大ヒットを放つ。この「幸せの黄色いリボン」は、実話を元にした歌詞で、そのストーリーに感銘を受けた山田洋次監督が日本で『幸せの黄色いハンカチ』と改題し映画化、ヒットした。「キャンディダ」でバックコーラスをつけていたひとりは、「ライオン」のリード・シンガー、ジェイ・シーゲルだそうだ。
1980年代には、ニューヨーク・ドールズのシンガー、デイヴィッド・ヨハンセンをプロデュースしたりしていた。
1990年から1992年までカナダのEMI音楽出版の社長に就任、ニューヨークに戻ってからはライヴハウス「ボトム・ライン」が始めた「ボトム・ライン・レコード」をてがけていた。
メドレスは、4人の子供、2人の孫によって送られた。
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ニュース。
このハンク・メドレス死去のニュースは昨日日曜(1日)の山下達郎さんの『サンデイ・ソング・ブック』を聞いていて知った。あわてて調べると、もう2週間前に亡くなっているではないか。気が付かなかった。そこで、さっそく調べて訃報記事を書いたのが上記のもの。
で、いろいろ調べていたら、けっこうおもしろいことがわかった。メドレスについては、僕は最初はドーンのプロデューサーとして知った。1970年頃だ。いわゆる「バブルガム・ポップ」のプロデューサーという認識だった。その後、トーケンズのメンバーだったことを知る。だが、それ以降はすっかり意識もしていなかった。
今回調べて、トーケンズの前身にニール・セダカがいたとか、ドーンの「キャンディダ」のバックにトーケンズのリードシンガー、ジェイがはいっていたとか、また、例の「幸せの黄色いリボン」の誕生秘話の詳しいヴァージョンなどを知った。「黄色いリボン」は、コラムニスト、ピート・ハミルのコラム原稿から始まったのかと思っていたが、どうもそれ以前にストーリーがあったらしい。
そのあたりについては明日、書いてみたい。
ENT>OBITUARY>Medress, Hank (November 19, 1938 - June 18, 2007, 68 years old)
ライオン。
1960年代に活躍した白人ヴォーカル・グループ、トーケンズのメンバーで後にプロデューサーとなったハンク・メドレスが2007年6月18日(月曜)ニューヨーク・マンハッタンの自宅で肺がんのため死去した。68歳だった。
ハンク・メドレスは1938年11月19日ニューヨーク・ブルックリン生まれ。彼は地元ブルックリンのリンカーン・ハイスクール生だった十代の1955年、友人で同級生のニール・セダカらとともに「リンク・トーンズ」という5人組ヴォーカル・グループを結成。当時ニューヨークでは多くの若者が、街角で歌うストリート・コーナー・シンフォニーを作り、明日への成功を夢みていた。ニール・セダカはソロになるために1958年グループを脱退するが、4人でグループを継続、若干のメンバーチェンジを経て「トーケンズ」となった。
1961年トーケンズは、1952年にウィーヴァーズというグループがヒットさせた「ウイモエー」という曲を「ライオン・スリープス・トゥナイト」と改題し世に送り出し、1962年初頭から大ヒット。ただしここでハイヴォイスを聞かせるのはリード・シンガー、ジェイ・シーゲル。「ライオン・・・」は、アカペラ、ドゥー・ワップなどの愛好者からもっとも愛されている作品のひとつで、最初にヴォーカル・グループをやろうとするときに基本として練習するようなクラシックになった。
トーケンズはその後小ヒットを出すが、メドレスらは若手育成に力を注ぎ、ガール・グループ、シフォンズをてがけ、彼女たちの「ヒーズ・ソー・ファイン」(1963年2月からヒット、全米ナンバーワン)、「ワン・ファイン・デイ」(1963年6月からヒット、全米5位)などが大ヒットした。これを機にメドレスの興味は自分が表だって歌うのではなく、裏方でヒットを作るほうへ移っていったといわれる。
メドレスは、パートナーのデイヴ・アッペルとともに1970年代に入ってトニー・オーランドー&ザ・ドーンをプロデュース。ドーンは「キャンディダ」(1970年7月、全米3位)、「ノック・スリー・タイムス」(1970年11月からヒット、全米1位)、「タイ・ア・イエロー・リボン・ラウンド・ジ・オール・オーク・トゥリー(邦題、幸せの黄色いリボン)」(1973年2月からヒット、全米1位)などポップな大ヒットを放つ。この「幸せの黄色いリボン」は、実話を元にした歌詞で、そのストーリーに感銘を受けた山田洋次監督が日本で『幸せの黄色いハンカチ』と改題し映画化、ヒットした。「キャンディダ」でバックコーラスをつけていたひとりは、「ライオン」のリード・シンガー、ジェイ・シーゲルだそうだ。
1980年代には、ニューヨーク・ドールズのシンガー、デイヴィッド・ヨハンセンをプロデュースしたりしていた。
1990年から1992年までカナダのEMI音楽出版の社長に就任、ニューヨークに戻ってからはライヴハウス「ボトム・ライン」が始めた「ボトム・ライン・レコード」をてがけていた。
メドレスは、4人の子供、2人の孫によって送られた。
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ニュース。
このハンク・メドレス死去のニュースは昨日日曜(1日)の山下達郎さんの『サンデイ・ソング・ブック』を聞いていて知った。あわてて調べると、もう2週間前に亡くなっているではないか。気が付かなかった。そこで、さっそく調べて訃報記事を書いたのが上記のもの。
で、いろいろ調べていたら、けっこうおもしろいことがわかった。メドレスについては、僕は最初はドーンのプロデューサーとして知った。1970年頃だ。いわゆる「バブルガム・ポップ」のプロデューサーという認識だった。その後、トーケンズのメンバーだったことを知る。だが、それ以降はすっかり意識もしていなかった。
今回調べて、トーケンズの前身にニール・セダカがいたとか、ドーンの「キャンディダ」のバックにトーケンズのリードシンガー、ジェイがはいっていたとか、また、例の「幸せの黄色いリボン」の誕生秘話の詳しいヴァージョンなどを知った。「黄色いリボン」は、コラムニスト、ピート・ハミルのコラム原稿から始まったのかと思っていたが、どうもそれ以前にストーリーがあったらしい。
そのあたりについては明日、書いてみたい。
ENT>OBITUARY>Medress, Hank (November 19, 1938 - June 18, 2007, 68 years old)