● ボビー・スミス(スピナーズ・リード・シンガー)76歳で死去
2013年3月19日 音楽●ボビー・スミス(スピナーズ・リード・シンガー)76歳で死去
【Bobby Smith Dies At 76】
訃報。
デトロイトの高校時代の同級生で結成したR&Bヴォーカル・グループ、スピナーズのリード・シンガーだったボビー・スミスが2013年3月16日、フロリダ州オーランドーで死去した。76歳。しばらくN1H1ウィルス(インフルエンザ)に感染しており、肺炎を併発した。また、スミスは昨年11月、肺がんになっていた。死去は16日午後1時55分のこと。家族が確認した。死去に関してはニューヨークのブラック専門放送局WBLSやデトロイトのMix92.3局が報じた。ボビー・スミスのスペルは Bobby Smith, Bobbie Smith どちらもある。
スピナーズの主要メンバーでは、ビリー・ヘンダーソン(1939年8月9日生まれ)が2007年2月2日、パーヴィス・ジャクソン(1938年5月17日生まれ)が2008年8月18日、フィリッペ・ウィン(1941年4月3日生まれ)が1984年7月14日、43歳で死去している。オリジナル・メンバーでは、ヘンリー・ファンブロー(1938年5月10日生まれ)が健在だ。またフィリッペの後任として参加し30年以上スピナーズの一員だったジョン・エドワーズも車椅子ながら健在。
スピナーズはデトロイトのグループで当初モータウンで「イッツ・ア・シェーム」などをヒットさせたが、その後1972年にアトランティックに移籍。フィラデルフィアでトム・ベルのプロデュースのもと「アイル・ビー・アラウンド」「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」などの「フィラデルフィア・ソウル」で大ヒットを多数放ち人気ヴォーカル・グループとなった。
ボビーは多くのヒットのリードを取ったいわばスピナーズの顔ともいうべき存在。1970年代の一時期、ソフトなヴォーカルを聴かせるフィリッペ・ウィンとともにツー・トップのリード・シンガーとなった。
彼らはデトロイトのグループだが、大ヒットした作品の多くがいわゆる「フィリー・サウンド」だったために、フィラデルフィアのグループと思われることもあったが、ソウル史上に残る名ヴォーカル・グループであることはまちがいない。
(なお、Philippéは、eの上に「´」アキュート・アクセント・マークがついているが、これによりフィリップではなくフィリッペと発音・表記する)
評伝。
ボビー・スミスは1936年4月10日デトロイト生まれ。高校時代に学校の仲間とR&Bヴォーカル・グループ、ドミンゴスを結成。当初は遊び半分でパーティーや街角でドゥーワップを歌っていたが、徐々に本気になり、1960年、ベリー・ゴーディーの姉グエンを通じて当時人気のドゥーワップ・グループ、ムーングロウズのリーダー、ハーヴィー・フークワと出会う。ハーヴィーが彼らのことを気に入り、彼のレーベル、トライファイと契約。それまでドミンゴスと名乗っていたが、このときにスピナーズと改名。「ザッツ・ホワット・ア・ガールズ・アー・メイド・フォー」を1961年にリリース。リード・シンガーはボビー・スミス。以後、基本的にはずっとリードはボビーとなった。これが見事にヒット。またこの曲では当時新生ムーングロウズの一員となっていたハーヴィーにあこがれていたマーヴィン・ゲイがドラムスを叩いている。この当時のメンバーは、ボビー・スミス、ビリー・ヘンダーソン、ヘンリー・ファンブロー、パーヴィス・ジャクソン、エドガー・チコ・エドワーズ。
以後、ハーヴィーは彼らをマネージ。トライファイがモータウンに買収されその傘下になったため、彼らもモータウン契約アーティストに。1967年、チコ・エドワーズにかわりGCキャメロンが参加。ここで「イッツ・ア・シェーム」(スティーヴィー・ワンダー作品)などのヒットが生まれた。しかし、モータウンでは他に多くの男性R&Bヴォーカル・グループがいたことから、なかなか重要視されず、売れなかった。一時期はベリー・ゴーディーの運転手やモータウンの他のアーティストの運転手、雑用などもしていたという。
その後1972年、アリーサ・フランクリンの推薦でアトランティックに移籍。このときGCはモータウンとの契約があったこと、またGCがベリー・ゴーディーの姉グエンとつきあっていたことから、アトランティックに移籍できず、GCのいとこフィリッペ・ウィンを推薦、フィリッペがスピナーズ入り。アトランティック移籍後、スピナーズは次々とヒットを放ち、70年代を代表するアメリカのソウル・ヴォーカル・グループとなった。
ボビー・スミスがリードを取る「アイル・ビー・アラウンド」がミリオン・セラーとなり、スピナーズは人気グループに。1973年の「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」(ボビー・スミス・リード)、「ワン・オブ・ア・カインド」(フィリッペ・リード)など多数のヒットが生まれる。
Spinners - I’ll Be Around
軽快にリードを取るのがボビー・スミス
http://youtu.be/AMVSiLfJdmw
The spinners - could it be i’m falling in love
http://youtu.be/7DbcOUEgHso
GAMES PEOPLE PLAY (they just cant stop it) by Spinners.mpeg
(メンバー自己紹介あり)
http://youtu.be/Q7oZJkH8zgc
フィリッペのヴォーカルはソフトで甘い感じだが、ボビーはパンチのあるソウルフルな歌声で対照的。とはいうものの、声質はよく似ているので区別をつけ辛い。
ゴムバンドを使って遊びながら歌う「ラバーバッドマン」のリードをフィリッペが初めて全面にでてリードを取り、これが大ヒット。
1977年、リードを取り人気が上がってきたフィリッペが自身の名前をグループ名(フィリッペ&スピナーズなど)につけるよう要求、認められず脱退、ジョン・エドワーズに交代。リードはボビーとジョンの二人体制になった。フィリッペはその後、スピナーズ参加以前に知己を得ていたPファンク(ジョージ・クリントン)に戻り、ソロ・アルバムもリリースしたがスピナーズ時代ほどの成功は得られなかった。フィリッペのスピナーズ在籍期間はしたがって1972年から1977年初頭まで約5年ということになる。
1977年5月、スピナーズはジョン・エドワーズを含んで初来日。(フィリッペは帯同せず)来日は1990年代にもあるがそのときはボビーは病気のため帯同していなかった。
ジョン・エドワーズがスタジオでサム・クックの曲を遊びで歌っていたら、周囲から「すごくいい」と言われ、サム・クックの「キューピッド」を録音。ヒットに。
スピナーズは1999年、ヴォーカル・グループ殿堂入り。
2000年頃、ジョン・エドワーズが発作のため車椅子状態になったため、2000年から2002年にかけてGCキャメロンが復帰、その後フランク・ワシントン、チャールトン・ワシントンと入れ替わっている。
2004年、ビリー・ヘンダーソンが脱退、ハロルド・ボンハートへ交代。ヘンダーソンは2007年2月2日、糖尿病が元で67歳で死去。初期メンバーのCPスペンサーも2004年10月20日、心臓発作で死去。一時期メンバーになっていたというジョージ・ディクソンも2005年に死去。オリジナル・メンバー、パーヴィス・ジャクソンは2008年8月18日癌のため死去。初期オリジナル・メンバー、エドガー・チコ・エドワーズも2011年12月3日死去。その後もジェシー・ロバート・ペック、マーヴィン・テイラー、ハロルド・スパイク・ボンハート(1961年生まれ)などの新メンバーを加え活動を続けていた。
2011年9月、スピナーズはロックンロール殿堂にノミネートされた。
彼らはイギリスでは、イギリスに「スピナーズ」という白人のグループがいたことから「デトロイト・スピナーズ」と呼ばれる。
(修正)3月19日午前2時半。死去した場所をデトロイトからフロリダ州オーランドーに訂正、死因にインフルエンザからの肺炎、また昨年11月に肺癌になっていたことを追記しました。
■過去関連記事
November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
【リンダ・クリードの描くブラックの世界】
スピナーズの「ゲットー・チャイルド」の訳詞
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_11_10.html
2003/01/18 (Sat)
Games People Play
バーバーショップ。
スピナーズの「ゲームス・ピープル・プレイ」における「12:45」と歌うパーヴィスについて
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200301/diary20030118.html
■アンサング~スピナーズ
http://www.dailymotion.com/video/xv6rhf_unsung-documentary-the-spinners-generation-soul-disco-funk_music
Unsung (Documentary) - The Spinners... 投稿者 GENERATIONDISCOFUNK
これを見ると最後にでてくるジョン・エドワーズのコメントに泣けてくる。彼がスピナーズ入りしたときは、それまでにアトランタのアウェアから出していたソロ・アルバムがものすごくよかったので、日本の熱心なソウル・ファンが狂喜乱舞したものだった。しかしそのソロはアメリカではほとんど売れておらず、ジョン本人はスピナーズという大グループの一員であることをずっと誇りに思っていた。1977年にスピナーズに入って以来30年以上、スピナーズの一員なのだから自身の人生はほとんどスピナーズとともにあったと言っていいだろう。
OBITUARY>Smith, Bobby (April 10, 1936 – March 16, 2013 – 76 year old)
■スピナーズ・アトランティック時代作品、5枚はいって2637円(輸入盤) (1枚あたり500円強)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003097BAK/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■2013年3月20日、日本盤1枚・1000円でリリース
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00AY1NW3W/soulsearchiho-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B008PVD9PO/soulsearchiho-22/ref=nosim/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B008PVD98G/soulsearchiho-22/ref=nosim/
【Bobby Smith Dies At 76】
訃報。
デトロイトの高校時代の同級生で結成したR&Bヴォーカル・グループ、スピナーズのリード・シンガーだったボビー・スミスが2013年3月16日、フロリダ州オーランドーで死去した。76歳。しばらくN1H1ウィルス(インフルエンザ)に感染しており、肺炎を併発した。また、スミスは昨年11月、肺がんになっていた。死去は16日午後1時55分のこと。家族が確認した。死去に関してはニューヨークのブラック専門放送局WBLSやデトロイトのMix92.3局が報じた。ボビー・スミスのスペルは Bobby Smith, Bobbie Smith どちらもある。
スピナーズの主要メンバーでは、ビリー・ヘンダーソン(1939年8月9日生まれ)が2007年2月2日、パーヴィス・ジャクソン(1938年5月17日生まれ)が2008年8月18日、フィリッペ・ウィン(1941年4月3日生まれ)が1984年7月14日、43歳で死去している。オリジナル・メンバーでは、ヘンリー・ファンブロー(1938年5月10日生まれ)が健在だ。またフィリッペの後任として参加し30年以上スピナーズの一員だったジョン・エドワーズも車椅子ながら健在。
スピナーズはデトロイトのグループで当初モータウンで「イッツ・ア・シェーム」などをヒットさせたが、その後1972年にアトランティックに移籍。フィラデルフィアでトム・ベルのプロデュースのもと「アイル・ビー・アラウンド」「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」などの「フィラデルフィア・ソウル」で大ヒットを多数放ち人気ヴォーカル・グループとなった。
ボビーは多くのヒットのリードを取ったいわばスピナーズの顔ともいうべき存在。1970年代の一時期、ソフトなヴォーカルを聴かせるフィリッペ・ウィンとともにツー・トップのリード・シンガーとなった。
彼らはデトロイトのグループだが、大ヒットした作品の多くがいわゆる「フィリー・サウンド」だったために、フィラデルフィアのグループと思われることもあったが、ソウル史上に残る名ヴォーカル・グループであることはまちがいない。
(なお、Philippéは、eの上に「´」アキュート・アクセント・マークがついているが、これによりフィリップではなくフィリッペと発音・表記する)
評伝。
ボビー・スミスは1936年4月10日デトロイト生まれ。高校時代に学校の仲間とR&Bヴォーカル・グループ、ドミンゴスを結成。当初は遊び半分でパーティーや街角でドゥーワップを歌っていたが、徐々に本気になり、1960年、ベリー・ゴーディーの姉グエンを通じて当時人気のドゥーワップ・グループ、ムーングロウズのリーダー、ハーヴィー・フークワと出会う。ハーヴィーが彼らのことを気に入り、彼のレーベル、トライファイと契約。それまでドミンゴスと名乗っていたが、このときにスピナーズと改名。「ザッツ・ホワット・ア・ガールズ・アー・メイド・フォー」を1961年にリリース。リード・シンガーはボビー・スミス。以後、基本的にはずっとリードはボビーとなった。これが見事にヒット。またこの曲では当時新生ムーングロウズの一員となっていたハーヴィーにあこがれていたマーヴィン・ゲイがドラムスを叩いている。この当時のメンバーは、ボビー・スミス、ビリー・ヘンダーソン、ヘンリー・ファンブロー、パーヴィス・ジャクソン、エドガー・チコ・エドワーズ。
以後、ハーヴィーは彼らをマネージ。トライファイがモータウンに買収されその傘下になったため、彼らもモータウン契約アーティストに。1967年、チコ・エドワーズにかわりGCキャメロンが参加。ここで「イッツ・ア・シェーム」(スティーヴィー・ワンダー作品)などのヒットが生まれた。しかし、モータウンでは他に多くの男性R&Bヴォーカル・グループがいたことから、なかなか重要視されず、売れなかった。一時期はベリー・ゴーディーの運転手やモータウンの他のアーティストの運転手、雑用などもしていたという。
その後1972年、アリーサ・フランクリンの推薦でアトランティックに移籍。このときGCはモータウンとの契約があったこと、またGCがベリー・ゴーディーの姉グエンとつきあっていたことから、アトランティックに移籍できず、GCのいとこフィリッペ・ウィンを推薦、フィリッペがスピナーズ入り。アトランティック移籍後、スピナーズは次々とヒットを放ち、70年代を代表するアメリカのソウル・ヴォーカル・グループとなった。
ボビー・スミスがリードを取る「アイル・ビー・アラウンド」がミリオン・セラーとなり、スピナーズは人気グループに。1973年の「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」(ボビー・スミス・リード)、「ワン・オブ・ア・カインド」(フィリッペ・リード)など多数のヒットが生まれる。
Spinners - I’ll Be Around
軽快にリードを取るのがボビー・スミス
http://youtu.be/AMVSiLfJdmw
The spinners - could it be i’m falling in love
http://youtu.be/7DbcOUEgHso
GAMES PEOPLE PLAY (they just cant stop it) by Spinners.mpeg
(メンバー自己紹介あり)
http://youtu.be/Q7oZJkH8zgc
フィリッペのヴォーカルはソフトで甘い感じだが、ボビーはパンチのあるソウルフルな歌声で対照的。とはいうものの、声質はよく似ているので区別をつけ辛い。
ゴムバンドを使って遊びながら歌う「ラバーバッドマン」のリードをフィリッペが初めて全面にでてリードを取り、これが大ヒット。
1977年、リードを取り人気が上がってきたフィリッペが自身の名前をグループ名(フィリッペ&スピナーズなど)につけるよう要求、認められず脱退、ジョン・エドワーズに交代。リードはボビーとジョンの二人体制になった。フィリッペはその後、スピナーズ参加以前に知己を得ていたPファンク(ジョージ・クリントン)に戻り、ソロ・アルバムもリリースしたがスピナーズ時代ほどの成功は得られなかった。フィリッペのスピナーズ在籍期間はしたがって1972年から1977年初頭まで約5年ということになる。
1977年5月、スピナーズはジョン・エドワーズを含んで初来日。(フィリッペは帯同せず)来日は1990年代にもあるがそのときはボビーは病気のため帯同していなかった。
ジョン・エドワーズがスタジオでサム・クックの曲を遊びで歌っていたら、周囲から「すごくいい」と言われ、サム・クックの「キューピッド」を録音。ヒットに。
スピナーズは1999年、ヴォーカル・グループ殿堂入り。
2000年頃、ジョン・エドワーズが発作のため車椅子状態になったため、2000年から2002年にかけてGCキャメロンが復帰、その後フランク・ワシントン、チャールトン・ワシントンと入れ替わっている。
2004年、ビリー・ヘンダーソンが脱退、ハロルド・ボンハートへ交代。ヘンダーソンは2007年2月2日、糖尿病が元で67歳で死去。初期メンバーのCPスペンサーも2004年10月20日、心臓発作で死去。一時期メンバーになっていたというジョージ・ディクソンも2005年に死去。オリジナル・メンバー、パーヴィス・ジャクソンは2008年8月18日癌のため死去。初期オリジナル・メンバー、エドガー・チコ・エドワーズも2011年12月3日死去。その後もジェシー・ロバート・ペック、マーヴィン・テイラー、ハロルド・スパイク・ボンハート(1961年生まれ)などの新メンバーを加え活動を続けていた。
2011年9月、スピナーズはロックンロール殿堂にノミネートされた。
彼らはイギリスでは、イギリスに「スピナーズ」という白人のグループがいたことから「デトロイト・スピナーズ」と呼ばれる。
(修正)3月19日午前2時半。死去した場所をデトロイトからフロリダ州オーランドーに訂正、死因にインフルエンザからの肺炎、また昨年11月に肺癌になっていたことを追記しました。
■過去関連記事
November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
【リンダ・クリードの描くブラックの世界】
スピナーズの「ゲットー・チャイルド」の訳詞
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_11_10.html
2003/01/18 (Sat)
Games People Play
バーバーショップ。
スピナーズの「ゲームス・ピープル・プレイ」における「12:45」と歌うパーヴィスについて
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200301/diary20030118.html
■アンサング~スピナーズ
http://www.dailymotion.com/video/xv6rhf_unsung-documentary-the-spinners-generation-soul-disco-funk_music
Unsung (Documentary) - The Spinners... 投稿者 GENERATIONDISCOFUNK
これを見ると最後にでてくるジョン・エドワーズのコメントに泣けてくる。彼がスピナーズ入りしたときは、それまでにアトランタのアウェアから出していたソロ・アルバムがものすごくよかったので、日本の熱心なソウル・ファンが狂喜乱舞したものだった。しかしそのソロはアメリカではほとんど売れておらず、ジョン本人はスピナーズという大グループの一員であることをずっと誇りに思っていた。1977年にスピナーズに入って以来30年以上、スピナーズの一員なのだから自身の人生はほとんどスピナーズとともにあったと言っていいだろう。
OBITUARY>Smith, Bobby (April 10, 1936 – March 16, 2013 – 76 year old)
■スピナーズ・アトランティック時代作品、5枚はいって2637円(輸入盤) (1枚あたり500円強)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003097BAK/soulsearchiho-22/ref=nosim/
■2013年3月20日、日本盤1枚・1000円でリリース
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00AY1NW3W/soulsearchiho-22/ref=nosim/
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