Gimme Some More About James Brown
2006年12月30日【再びオーガスタに戻るジェームス・ブラウン】
帰郷。
1956年、23歳だった若者は、黒人の夢だったニューヨーク・ハーレムにあるアポロ・シアターのステージに初めて立った。ジェームス・ブラウン。
彼はその後、この聖地に何度も足を運び、ステージで激しく動き、シャウトし、語り、歌い黒人の夢となった。ジェームス・ブラウン。
ステージ狭しと動いた彼は、今、同じアポロのステージで棺に静かに横たわり、動かず、踊らず、語らず、歌わない。ジェームス・ブラウン。
何万人という多くのファンの弔問を受けたジェームス・ブラウンは、土曜日再び故郷オーガスタ・ジョージアに戻る。なんという忙しいスケジュールか。最後の最後まで、「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショー・ビジネス(ショービジネス界でもっとも働く男)」だ。
アル・シャープトン師は木曜日(28日)棺の傍らで語った。「この人物は、常に何かに対して立ち上がっていた。この人物は、我々一般人のために立ち上がっていた。彼が作り出したビートは、ヒップ・ホップ、ファンク、ディスコ、ラップなどあらゆる音楽に影響を与えた。彼が発明したリズムをみな真似した。そして、彼が『セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド(黒人であることを声高に言え、黒人でそれを誇りに思っている、と』と歌った時、たった一曲のその歌のおかげで、我々のヴォキャブラリー(語彙)の中から『ニグロ』という言葉が消滅したのだ」
そして、いつもジェームス・ブラウンにどこまで列が連なっているかを報告していたシャープトンは、アポロがある125丁目を棺とともに行進しているとき、ブラウンに語りかけた。「ミスター・ブラウン、列ははるかかなたの130丁目まで伸びていますよ」
JBズでの長年のベース奏者、フレッド・トーマスは、棺を持つ役のひとりとなったが、彼は「他に何があっても、(キャンセルして)その仕事は引き受けたよ」と語った。
ニューヨークでの一般弔問の後、ゴッドファーザーは再びオーガスタに戻り、土曜日に同地の教会でプライヴェートなセレモニーを行い、さらに、オーガスタの「ジェームス・ブラウン・アリーナ」で地元の人たちの一般弔問を受けることになっている、という。
黒人の星であり、希望であり、夢であった男。ジェームス・ブラウン。
ソウル・ミュージックのゴッドファーザーだった男。ジェームス・ブラウン。
ファンキー・プレジデント(大統領)だった男。ジェームス・ブラウン。
ステージに立った1956年からちょうど半世紀。その日から50年の月日を数えた2006年。ジェームス・ブラウンはアポロに戻った。ブラウンがアポロの歴史を作り、アポロがブラウンの歴史を作った。そして、その歴史的劇場の舞台に横たわった。ブルーのスーツ、白い手袋、そして銀色の靴を履いて。
ハーレムのアポロ・シアターからは姿を消すが、これからは天国のアポロ・シアターに連日、出演だ。そして、そこでも付き人に尋ねることだろう。「行列はどこまで並んでいる?」と。
+++++
■ジェームス・ブラウン過去記事(第2弾)
2002/12/15 (Sun)
Enseigned’angle Where the soul coffee is
自由が丘のおしゃれな珈琲屋アンセーニュダングルのマスターのジェームス・ブラウンとの出会い。こんな風に影響を受けた人が世界中にいるはずです。
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200212/diary20021215.html
2003/01/23 (Thu)
What will happen to false James Brown
映画『ゲロッパ』について
http://www.soulsearchin.com//entertainment/movie/review/diary20030123.html
『人生でもっとも驚いた瞬間』【2003年2月12日】
ブラン・ニュー・ヘヴィーズ(ヤン・キンケード)インタヴュー。
ヤンとブラウンの遭遇は。
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/brand20030212.html
ジェームス・ブラウン・ライヴ評
『動から静への瞬間移動』
【2002年3月22日金曜・東京国際フォーラム、ホールA】
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/brown20020322.html
2003/12/23 (Tue)
From King To King
キング・オブ・ポップからキング・オブ・ソウルへ手渡されたもの
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20031223.html
++++++
ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)
帰郷。
1956年、23歳だった若者は、黒人の夢だったニューヨーク・ハーレムにあるアポロ・シアターのステージに初めて立った。ジェームス・ブラウン。
彼はその後、この聖地に何度も足を運び、ステージで激しく動き、シャウトし、語り、歌い黒人の夢となった。ジェームス・ブラウン。
ステージ狭しと動いた彼は、今、同じアポロのステージで棺に静かに横たわり、動かず、踊らず、語らず、歌わない。ジェームス・ブラウン。
何万人という多くのファンの弔問を受けたジェームス・ブラウンは、土曜日再び故郷オーガスタ・ジョージアに戻る。なんという忙しいスケジュールか。最後の最後まで、「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショー・ビジネス(ショービジネス界でもっとも働く男)」だ。
アル・シャープトン師は木曜日(28日)棺の傍らで語った。「この人物は、常に何かに対して立ち上がっていた。この人物は、我々一般人のために立ち上がっていた。彼が作り出したビートは、ヒップ・ホップ、ファンク、ディスコ、ラップなどあらゆる音楽に影響を与えた。彼が発明したリズムをみな真似した。そして、彼が『セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド(黒人であることを声高に言え、黒人でそれを誇りに思っている、と』と歌った時、たった一曲のその歌のおかげで、我々のヴォキャブラリー(語彙)の中から『ニグロ』という言葉が消滅したのだ」
そして、いつもジェームス・ブラウンにどこまで列が連なっているかを報告していたシャープトンは、アポロがある125丁目を棺とともに行進しているとき、ブラウンに語りかけた。「ミスター・ブラウン、列ははるかかなたの130丁目まで伸びていますよ」
JBズでの長年のベース奏者、フレッド・トーマスは、棺を持つ役のひとりとなったが、彼は「他に何があっても、(キャンセルして)その仕事は引き受けたよ」と語った。
ニューヨークでの一般弔問の後、ゴッドファーザーは再びオーガスタに戻り、土曜日に同地の教会でプライヴェートなセレモニーを行い、さらに、オーガスタの「ジェームス・ブラウン・アリーナ」で地元の人たちの一般弔問を受けることになっている、という。
黒人の星であり、希望であり、夢であった男。ジェームス・ブラウン。
ソウル・ミュージックのゴッドファーザーだった男。ジェームス・ブラウン。
ファンキー・プレジデント(大統領)だった男。ジェームス・ブラウン。
ステージに立った1956年からちょうど半世紀。その日から50年の月日を数えた2006年。ジェームス・ブラウンはアポロに戻った。ブラウンがアポロの歴史を作り、アポロがブラウンの歴史を作った。そして、その歴史的劇場の舞台に横たわった。ブルーのスーツ、白い手袋、そして銀色の靴を履いて。
ハーレムのアポロ・シアターからは姿を消すが、これからは天国のアポロ・シアターに連日、出演だ。そして、そこでも付き人に尋ねることだろう。「行列はどこまで並んでいる?」と。
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■ジェームス・ブラウン過去記事(第2弾)
2002/12/15 (Sun)
Enseigned’angle Where the soul coffee is
自由が丘のおしゃれな珈琲屋アンセーニュダングルのマスターのジェームス・ブラウンとの出会い。こんな風に影響を受けた人が世界中にいるはずです。
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200212/diary20021215.html
2003/01/23 (Thu)
What will happen to false James Brown
映画『ゲロッパ』について
http://www.soulsearchin.com//entertainment/movie/review/diary20030123.html
『人生でもっとも驚いた瞬間』【2003年2月12日】
ブラン・ニュー・ヘヴィーズ(ヤン・キンケード)インタヴュー。
ヤンとブラウンの遭遇は。
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/brand20030212.html
ジェームス・ブラウン・ライヴ評
『動から静への瞬間移動』
【2002年3月22日金曜・東京国際フォーラム、ホールA】
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/brown20020322.html
2003/12/23 (Tue)
From King To King
キング・オブ・ポップからキング・オブ・ソウルへ手渡されたもの
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20031223.html
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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)
【ジェームス・ブラウン、アポロ・シアターに戻る】
帰還。
12月25日クリスマスの日に亡くなった「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」ことジェームス・ブラウンの遺体が故郷オーガスタから、陸路でブラウンが愛したもうひとつのふるさと、ニューヨークのアポロ・シアターに運ばれ、アポロで一般客の弔問を受けることになった。すでにこの話を聞きつけた一般のファンが、木曜の朝からアポロの周囲に並び始めている。棺はオーガスタを水曜の夜に出発し、約12時間をかけて陸路でニューヨーク入りする。飛行機で移動しなかったのは、単純に飛行機の最終便に間に合わなかったためという。
棺は30日土曜日の午後までに一般に公開される予定で、人々とジェームス・ブラウンとの最後のお別れとなる。
ジェームス・ブラウンのアルバムで初めて大ヒットとなったのが、1963年発売の『ライヴ・アット・ジ・アポロ』というアルバム。これはその前年1962年10月24日にアポロ劇場で録音されたもので、63年6月からヒット。アルバム・チャートで2位を記録、彼のまさに出世作となった。このアルバムは、ブラウンがレコード会社の反対を押し切ってリリースさせたもので、この成功が後のブラウンのキャリアに大きな影響を与えたエポック・メイキングな作品ともなった。アポロは、ブラウンにとっての、真の意味での出発点だ。ブラウンは、長い旅を経て今、その出発点、ルーツに戻る。
また、ニューヨークでは棺を馬車に乗せ、ハーレムの街角をアポロまで行進し、3日間の通夜を行う。この3日間におよぶ通夜は、通常、皇室・王族のみに対して行われる。
「彼は黒人たちに、黒人であることを誇りに思わせ、私たちのルーツ(祖先)を大事に親しむべきだと教えてくれました。私たちに何も目標がなかった時代、尊敬すべき人物がいなかった時代、私たちに唯一あったのが(ブラウンの)音楽でした。ジェームス・ブラウンは私たちに力を与えてくれた人物の一人です」 こうチャンネル11に答えたのは、夜明け前からアポロで並び始めたアミノ・ハイマンさん。
「ハーレムにおけるロイヤル・デイ(王者の日)になるだろう」とブラウンの親友でもあり、棺の乗ったヴァンに同乗したアル・シャープトン師は語った。アル・シャープトンは、ブラウンの妻エイドリアンが死去した1996年1月の葬儀の時、またブラウンの母親が亡くなった時も葬儀の指揮を取ったが、まさかブラウン本人の葬儀を取り仕切るとは夢にも思わなかったようだ。シャープトンは「ハーレムのコミュニティーにとって長い間ほとんどなかったような凱旋になることを約束する」という。また「夜通しのドライヴになろうが、そんなことはかまわない」とも語った。
アポロ劇場は、多くの人の参列のために、列の仕切り線などの準備に追われている。シャープトンによれば、「ブラウンは、(自分のショーを見るために)アポロの外に人が並んでいるのがとても好きだった。アポロでやるたびに、彼は言っていた。『外にはどれくらい人がいるんだ』 そこで、私は『そこの角くらいだ』とか、『2ブロック先まで』なんて答えてた。私の夢は、こう言えることだ。『ミスター・ブラウン、みんなあなたのために、最後の行列をしていますよ』とね」
ブラウンの遺体は、1956年に立ったステージと同じ舞台に木曜日の午後1時から8時の間に通夜のために安置される。そこで、彼の音楽だけが流される。午後6時から6時半まで、家族と親しい友人たちが参列、この様子はメディアも見守る。
アポロ劇場の歴史に詳しい歴史家のビリー・ミッチェルによると、ジェームス・ブラウンは、アポロが1934年にオープンして以来、累計でもっとも多くの観客を集めたアーティストだという。
アポロで葬儀が行われたことはあるが、それまではいずれもアポロの従業員だけだった。また一般弔問を受け付けたのは、1992年8月、アポロ劇場の『アマチュア・ナイト』創始者ラルフ・クーパーの葬儀の例がある程度だという。
アポロでの葬儀が決まったのは、2006年の『アマチュア・ナイト』の決勝戦が行われたまさにその夜(水曜)のことだった。
アポロの入口上に飾られるマーキー(表看板)には次のように書かれる。"Rest in Peace Apollo Legend The Godfather of Soul James Brown, 1933-2006." 同時に歴史的作品『ライヴ・アット・ジ・アポロ』のアルバムがそのマーキーのスピーカーから流れる予定だ。
近くに住む現在はフィットネス・クラブのオウナー、バリー・ハモンズ氏は、かつてアポロの「アマチュア・ナイト」で3回優勝し、ブラウンに一度会ったことがある。その時彼はこう言われたそうだ。「これが、君のやりたいことなら、オーディエンスと真剣に交われ。そして、やり続けることだ」
大晦日にBBキングのブルース・クラブに出演する予定だったジェームス・ブラウンの代役には、シャカ・カーンが決まった。
http://www.cnn.com/2006/SHOWBIZ/Music/12/28/jamesbrown.funeral.ap/index.html?section=cnn_latest
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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)
帰還。
12月25日クリスマスの日に亡くなった「ゴッド・ファーザー・オブ・ソウル」ことジェームス・ブラウンの遺体が故郷オーガスタから、陸路でブラウンが愛したもうひとつのふるさと、ニューヨークのアポロ・シアターに運ばれ、アポロで一般客の弔問を受けることになった。すでにこの話を聞きつけた一般のファンが、木曜の朝からアポロの周囲に並び始めている。棺はオーガスタを水曜の夜に出発し、約12時間をかけて陸路でニューヨーク入りする。飛行機で移動しなかったのは、単純に飛行機の最終便に間に合わなかったためという。
棺は30日土曜日の午後までに一般に公開される予定で、人々とジェームス・ブラウンとの最後のお別れとなる。
ジェームス・ブラウンのアルバムで初めて大ヒットとなったのが、1963年発売の『ライヴ・アット・ジ・アポロ』というアルバム。これはその前年1962年10月24日にアポロ劇場で録音されたもので、63年6月からヒット。アルバム・チャートで2位を記録、彼のまさに出世作となった。このアルバムは、ブラウンがレコード会社の反対を押し切ってリリースさせたもので、この成功が後のブラウンのキャリアに大きな影響を与えたエポック・メイキングな作品ともなった。アポロは、ブラウンにとっての、真の意味での出発点だ。ブラウンは、長い旅を経て今、その出発点、ルーツに戻る。
また、ニューヨークでは棺を馬車に乗せ、ハーレムの街角をアポロまで行進し、3日間の通夜を行う。この3日間におよぶ通夜は、通常、皇室・王族のみに対して行われる。
「彼は黒人たちに、黒人であることを誇りに思わせ、私たちのルーツ(祖先)を大事に親しむべきだと教えてくれました。私たちに何も目標がなかった時代、尊敬すべき人物がいなかった時代、私たちに唯一あったのが(ブラウンの)音楽でした。ジェームス・ブラウンは私たちに力を与えてくれた人物の一人です」 こうチャンネル11に答えたのは、夜明け前からアポロで並び始めたアミノ・ハイマンさん。
「ハーレムにおけるロイヤル・デイ(王者の日)になるだろう」とブラウンの親友でもあり、棺の乗ったヴァンに同乗したアル・シャープトン師は語った。アル・シャープトンは、ブラウンの妻エイドリアンが死去した1996年1月の葬儀の時、またブラウンの母親が亡くなった時も葬儀の指揮を取ったが、まさかブラウン本人の葬儀を取り仕切るとは夢にも思わなかったようだ。シャープトンは「ハーレムのコミュニティーにとって長い間ほとんどなかったような凱旋になることを約束する」という。また「夜通しのドライヴになろうが、そんなことはかまわない」とも語った。
アポロ劇場は、多くの人の参列のために、列の仕切り線などの準備に追われている。シャープトンによれば、「ブラウンは、(自分のショーを見るために)アポロの外に人が並んでいるのがとても好きだった。アポロでやるたびに、彼は言っていた。『外にはどれくらい人がいるんだ』 そこで、私は『そこの角くらいだ』とか、『2ブロック先まで』なんて答えてた。私の夢は、こう言えることだ。『ミスター・ブラウン、みんなあなたのために、最後の行列をしていますよ』とね」
ブラウンの遺体は、1956年に立ったステージと同じ舞台に木曜日の午後1時から8時の間に通夜のために安置される。そこで、彼の音楽だけが流される。午後6時から6時半まで、家族と親しい友人たちが参列、この様子はメディアも見守る。
アポロ劇場の歴史に詳しい歴史家のビリー・ミッチェルによると、ジェームス・ブラウンは、アポロが1934年にオープンして以来、累計でもっとも多くの観客を集めたアーティストだという。
アポロで葬儀が行われたことはあるが、それまではいずれもアポロの従業員だけだった。また一般弔問を受け付けたのは、1992年8月、アポロ劇場の『アマチュア・ナイト』創始者ラルフ・クーパーの葬儀の例がある程度だという。
アポロでの葬儀が決まったのは、2006年の『アマチュア・ナイト』の決勝戦が行われたまさにその夜(水曜)のことだった。
アポロの入口上に飾られるマーキー(表看板)には次のように書かれる。"Rest in Peace Apollo Legend The Godfather of Soul James Brown, 1933-2006." 同時に歴史的作品『ライヴ・アット・ジ・アポロ』のアルバムがそのマーキーのスピーカーから流れる予定だ。
近くに住む現在はフィットネス・クラブのオウナー、バリー・ハモンズ氏は、かつてアポロの「アマチュア・ナイト」で3回優勝し、ブラウンに一度会ったことがある。その時彼はこう言われたそうだ。「これが、君のやりたいことなら、オーディエンスと真剣に交われ。そして、やり続けることだ」
大晦日にBBキングのブルース・クラブに出演する予定だったジェームス・ブラウンの代役には、シャカ・カーンが決まった。
http://www.cnn.com/2006/SHOWBIZ/Music/12/28/jamesbrown.funeral.ap/index.html?section=cnn_latest
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掲示板を再開
2006年12月28日お知らせ
長らくお待たせしました。とりあえず、掲示板(BBS)を再開しました。ブログへの感想などご自由にお書きください。
http://www.soulsearchin.com/soul-bbs2/petit.cgi
長らくお待たせしました。とりあえず、掲示板(BBS)を再開しました。ブログへの感想などご自由にお書きください。
http://www.soulsearchin.com/soul-bbs2/petit.cgi
【メロー・ライダーズ第4回〜ジェームス・ブラウン・トリビュート】
初。
「今年初めてのメロー・ライダーズへようこそ、いらっしゃいました!」 村上ルイカがそう宣言して、第4回メロー・ライダーズのDJイヴェントが始まった。12月27日、暮れも押し迫ったこんな時期に、今年初。無事に、2006年内に開催にこぎつけて、よかったですね。(笑) 昨年は3回もやったのにね。
さて、相変わらずの三者三様ぶりのDJ。僕は、今回は少しメロー・ライダーズっぽい選曲を1ヶ月ほど前までは考えていました。しかし、25日の衝撃のニュースで、2セットすべてジェームス・ブラウン・トリビュートにすることにしました。
それにしてもカバンいっぱいのジェームス・ブラウンのCDを持っていきましたが、いくらでも出来ますね。ブラウンのレコードには、こういう踊らせるクラブ曲が無尽蔵にありますね。
ルイカ氏が持ってきたゴールドのチェーンを、その場でやっているDJが首にかけるということになり、DJ交代時にチェーンの首渡しの儀式がおごそかに行われておもしろかった。LLクールJがやっていそうな、チェーンのネックレス。まさにこれぞDJバトンだ。
メロー・ライダーズ、ご来場されたかた、ありがとうございました。また、来年もどこかの時期で開催されることでしょう。
Mellow Ridaz Vol.4 : DJs
DJ Yamaki
DJ Nami
DJ Osshy
DJ Murakami Ruika
DJ Yoshioka Masaharu
Scheduled Time Table
2000 yamaki
2100 nami
2200 yoshioka
2245 ruika
2345 osshy
2445 yoshioka
130 ruika
230 osshy
330 nami
430 end
Setlist (Yoshioka) @ Luther December 27, 2006
"Tribute To James Brown"
DJ play started 22:07
01. What’s Going On / David T Walker
02. Funky Drummer / James Brown
03. It’s A New Day / James Brown
04. Super Bad / James Brown
05. Get On The Good Foot / James Brown
06. Hot Pants / James Brown
07. Living In America / James Brown
08. Get Up Offa That Thing / James Brown
09. Sex Machine / James Brown
DJ ended 22:56
Second Set
DJ play started 0:48
01. Chicken / James Brown
02. Pass The Peas / Fred Wesley & The JB’s
03. Doing It To Death / Fred Wesley & The JB’s
04. Damn Right I’m Somebody / Fred Wesley & The JB’s
05. Think / Lynn Collins
06. Rock Me Again And Again And Again And Again And Again And Again / Lynn Collins
07. Soul Power / Maceo & The Macks
08. Ain’t It Funky Now / James Brown
09. I Need Help / Bobby Byrd
10. There Was A Time / James Brown
11. It’s A Man’s World (Live) / James Brown
DJ play ended 1:47
(2006年12月27日水曜、横浜・ルーサー=メロー・ライダーズVOL.4)
ENT>MUSIC>EVENT>Mellow Ridaz Vol.4
初。
「今年初めてのメロー・ライダーズへようこそ、いらっしゃいました!」 村上ルイカがそう宣言して、第4回メロー・ライダーズのDJイヴェントが始まった。12月27日、暮れも押し迫ったこんな時期に、今年初。無事に、2006年内に開催にこぎつけて、よかったですね。(笑) 昨年は3回もやったのにね。
さて、相変わらずの三者三様ぶりのDJ。僕は、今回は少しメロー・ライダーズっぽい選曲を1ヶ月ほど前までは考えていました。しかし、25日の衝撃のニュースで、2セットすべてジェームス・ブラウン・トリビュートにすることにしました。
それにしてもカバンいっぱいのジェームス・ブラウンのCDを持っていきましたが、いくらでも出来ますね。ブラウンのレコードには、こういう踊らせるクラブ曲が無尽蔵にありますね。
ルイカ氏が持ってきたゴールドのチェーンを、その場でやっているDJが首にかけるということになり、DJ交代時にチェーンの首渡しの儀式がおごそかに行われておもしろかった。LLクールJがやっていそうな、チェーンのネックレス。まさにこれぞDJバトンだ。
メロー・ライダーズ、ご来場されたかた、ありがとうございました。また、来年もどこかの時期で開催されることでしょう。
Mellow Ridaz Vol.4 : DJs
DJ Yamaki
DJ Nami
DJ Osshy
DJ Murakami Ruika
DJ Yoshioka Masaharu
Scheduled Time Table
2000 yamaki
2100 nami
2200 yoshioka
2245 ruika
2345 osshy
2445 yoshioka
130 ruika
230 osshy
330 nami
430 end
Setlist (Yoshioka) @ Luther December 27, 2006
"Tribute To James Brown"
DJ play started 22:07
01. What’s Going On / David T Walker
02. Funky Drummer / James Brown
03. It’s A New Day / James Brown
04. Super Bad / James Brown
05. Get On The Good Foot / James Brown
06. Hot Pants / James Brown
07. Living In America / James Brown
08. Get Up Offa That Thing / James Brown
09. Sex Machine / James Brown
DJ ended 22:56
Second Set
DJ play started 0:48
01. Chicken / James Brown
02. Pass The Peas / Fred Wesley & The JB’s
03. Doing It To Death / Fred Wesley & The JB’s
04. Damn Right I’m Somebody / Fred Wesley & The JB’s
05. Think / Lynn Collins
06. Rock Me Again And Again And Again And Again And Again And Again / Lynn Collins
07. Soul Power / Maceo & The Macks
08. Ain’t It Funky Now / James Brown
09. I Need Help / Bobby Byrd
10. There Was A Time / James Brown
11. It’s A Man’s World (Live) / James Brown
DJ play ended 1:47
(2006年12月27日水曜、横浜・ルーサー=メロー・ライダーズVOL.4)
ENT>MUSIC>EVENT>Mellow Ridaz Vol.4
【ジェームス・ブラウン死去・続報〜3日前までチャリティーに出席】
最期。
ジェームス・ブラウンは、亡くなる3日前の金曜、地元オーガスタでの子供たちにおもちゃをクリスマス・プレゼントとしてあげるチャリティー・イヴェントに参加していた。その映像が、地元テレビ局のニュースなどで報じられている。ブラウンは、過去15年、毎年このイヴェントに参加していた。そこには、息子やダニー・レイなどの姿も映っていた。またブラウンは入院する前日に、歯医者に行き、歯の治療を受けたが、そのとき、かなり咳き込んでいたと担当の歯科医が証言している。
ただ、この時点で翌週のライヴもあり、また年末にはBBキングのハウス・オブ・ブルースでのライヴが控えていて、そこで歌う予定になっていた。日曜に入院した時点で、医者とブラウンは、週半ばの2回のコンサートはキャンセルするが、週末土曜日(30日)のライヴと、31日のニューヨーク・マンハッタンのBBキングのライヴハウスでのライヴは行うつもりだった。入院先で、ブラウンはマネージャーのフランク・コップサイダに31日の大晦日のライヴについて「俺は行くよ、なにしろ、ショービジネス界で一番の働き者だからな」と言っていた。
フランク・コップサイダは記者会見で、ブラウンの最後のオフィシャルな登場はイギリスのホール・オブ・フェイムの席だった、ジェームス・ブラウンは、過去リチャード・ニクソンから現ブッシュ大統領まですべての大統領の前で演奏した、そしてそのことを誇りに思っている、などとも述べた。
40年来の友人でもあるチャールズ・バビットは、ブラウンと最期の言葉を交わした人物。記者会見でその模様を述べた。ベッドサイドで、ブラウンはバビットに「今夜、私は旅立つよ(I’m going away, tonight)」と言ったという。バビットは「そんなばかな、信じないよ」と答えた。その後、ブラウンは目を閉じ、亡くなった。
バビットは語った。「きっと、ミスター・ブラウンは天国でこう言ってるに違いありません。メリー・クリスマス、あなたの左隣の人に『アイ・ラヴ・ユー』と言いなさい、そして、右隣の人に『アイ・ラヴ・ユー』と言いなさい。私は、みんなを愛してるよ、メリー・クリスマス! とね」
すでに各界から弔辞が届いている。
「ジェームス・ブラウンが音楽界、ソウルとヒップヒップ、ラップ、あらゆるものに対して成し遂げたことは、クラシック・ミュージックの世界でバッハが成し遂げたことと同等のものがある。この人物はまさに文字通り、音楽業界を変えた人物だ。あらゆる人間をあらゆるビート、違ったタイプの音楽の上に載せた。彼はまさにその点においてパイオニアだ」(アル・シャープトン師)
「彼はイノヴェーターであり、解放者であり、オリジネーターであった。ラップにしろなんにしろ、すべてのものはジェームス・ブラウンから始まっている」(リトル・リチャード)
「傷ついている。俺のゴッドファーザーだった。俺のソウルのインスピレーションだった。あらゆる時代を超えて、ショービジネス界の最大の働き者だった。彼はいなくなったが、彼の音楽やレガシーはずっと自分の中に留まる。あらゆる点において。ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン、寂しいよ、ジェームス・ブラウン」(スヌープ・ドッグ)
「彼はエネルギーと正確さの旋風のような人物だった。彼はストーンズの初期の時代から僕にはいつも親切だった。パフォーマーとして、またバンド・リーダーとして彼を常に尊敬していた。彼の死去は音楽界にとって大きな喪失だ」(ミック・ジャガー)
「あらゆるタイプの人生を歩み、様々なバックグラウンドを持つ人々をファンとするアメリカのオリジナル。ジェームス・ブラウンのファミリーと友人たちは私たちの心の中にいます。クリスマスにお祈りを」(ブッシュ大統領)
「人々は彼の歴史は知っているでしょう。私がここで申しあげたいのは、彼はステージからいつも愛を説いていたということです。彼は常々言っていました。『私は嫌いな人間には会ったことがないんだ』 彼は真の人道主義者で、母国を愛していました」 (チャールズ・バビット=最期を看取った40年来の友人)
Quotes about the death of James Brown
http://news.yahoo.com/s/ap/20061226/ap_on_en_mu/james_brown_quotes_3
+++++
Shocked To Death
衝撃。
あまりの衝撃に、言葉もない。まだ自分の言葉で語れるほどすべてが整理ができていない。入ってくる外電をまとめるだけでいっぱいいっぱいだ。過去記事をとりあえず、まとめてピックアップしておきたい。98年12月のブリッツでのライヴレポート、「ジェームス・ブラウンとチキンを食べた!(パート1&パート2)」、そして「来日は最後か」の記事は、自分でも読み返して胸を熱くしてしまった。ジェームス・ブラウン関連記事はまだ続きます。自分の言葉で語るジェームス・ブラウンについてはしばらくお時間をください。また、25日当日、メールやお電話をいただいた方、ありがとうございます。すべてにお返事ができていないかもしれませんが、もうしわけありません。しばらくブログのコメント欄に書き込みができるようにしておきます。
■ジェームス・ブラウン過去関連記事〜ジェームス・ブラウンの思い出を
FM FAN誌JB来日レポート(完全版)(’99/5/30)(98年12月赤坂ブリッツでのライヴ詳細レポートがJB愛好家佐藤氏のウェッブに掲載されています)
http://jb-escape.web.infoseek.co.jp/jbinfo/19990530.html
2003/10/02 (Thu)
James Brown Live @ News Station: Show Me Your Foot
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200310/diary20031002.html
2003/10/03 (Fri)
James Brown Live At Budoukan: Papa’s Got A Brand New Stick (3年前の来日)
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200310/diary20031003.html
2003/10/04 (Sat)
James Brown Live At Budoukan, Day 2: "A" Sign Song
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200310/diary20031004.html
2003/10/06 (Mon)
I Ate Chicken With James Brown (Part 1)
ジェームス・ブラウンとチキンを食べた! 最高の思い出のひとつ
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/diary20031006.html
2003/10/07 (Tue)
I Ate Chicken With James Brown (Part 2)
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/diary20031007.html
March 05, 2006
James Brown: After Technical Difficulties, Godfather Thanked For Engineers
【ジェームス・ブラウン・ライヴ】 (最後の来日、2006年3月)
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200603/2006_03_05.html
March 06, 2006
James Brown: ”I Love You, I Love You, And I Love Me"
【ジェームス・ブラウン・ライヴ】
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_03_06.html
March 12, 2006
Was This James Brown’s Final Japanese Tour?
【ジェームス・ブラウンの今回の日本ツアーは最後だったのか】 (明かされた衝撃の新事実。これが現実になってしまいました)
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200603/2006_03_12.html
ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)
最期。
ジェームス・ブラウンは、亡くなる3日前の金曜、地元オーガスタでの子供たちにおもちゃをクリスマス・プレゼントとしてあげるチャリティー・イヴェントに参加していた。その映像が、地元テレビ局のニュースなどで報じられている。ブラウンは、過去15年、毎年このイヴェントに参加していた。そこには、息子やダニー・レイなどの姿も映っていた。またブラウンは入院する前日に、歯医者に行き、歯の治療を受けたが、そのとき、かなり咳き込んでいたと担当の歯科医が証言している。
ただ、この時点で翌週のライヴもあり、また年末にはBBキングのハウス・オブ・ブルースでのライヴが控えていて、そこで歌う予定になっていた。日曜に入院した時点で、医者とブラウンは、週半ばの2回のコンサートはキャンセルするが、週末土曜日(30日)のライヴと、31日のニューヨーク・マンハッタンのBBキングのライヴハウスでのライヴは行うつもりだった。入院先で、ブラウンはマネージャーのフランク・コップサイダに31日の大晦日のライヴについて「俺は行くよ、なにしろ、ショービジネス界で一番の働き者だからな」と言っていた。
フランク・コップサイダは記者会見で、ブラウンの最後のオフィシャルな登場はイギリスのホール・オブ・フェイムの席だった、ジェームス・ブラウンは、過去リチャード・ニクソンから現ブッシュ大統領まですべての大統領の前で演奏した、そしてそのことを誇りに思っている、などとも述べた。
40年来の友人でもあるチャールズ・バビットは、ブラウンと最期の言葉を交わした人物。記者会見でその模様を述べた。ベッドサイドで、ブラウンはバビットに「今夜、私は旅立つよ(I’m going away, tonight)」と言ったという。バビットは「そんなばかな、信じないよ」と答えた。その後、ブラウンは目を閉じ、亡くなった。
バビットは語った。「きっと、ミスター・ブラウンは天国でこう言ってるに違いありません。メリー・クリスマス、あなたの左隣の人に『アイ・ラヴ・ユー』と言いなさい、そして、右隣の人に『アイ・ラヴ・ユー』と言いなさい。私は、みんなを愛してるよ、メリー・クリスマス! とね」
すでに各界から弔辞が届いている。
「ジェームス・ブラウンが音楽界、ソウルとヒップヒップ、ラップ、あらゆるものに対して成し遂げたことは、クラシック・ミュージックの世界でバッハが成し遂げたことと同等のものがある。この人物はまさに文字通り、音楽業界を変えた人物だ。あらゆる人間をあらゆるビート、違ったタイプの音楽の上に載せた。彼はまさにその点においてパイオニアだ」(アル・シャープトン師)
「彼はイノヴェーターであり、解放者であり、オリジネーターであった。ラップにしろなんにしろ、すべてのものはジェームス・ブラウンから始まっている」(リトル・リチャード)
「傷ついている。俺のゴッドファーザーだった。俺のソウルのインスピレーションだった。あらゆる時代を超えて、ショービジネス界の最大の働き者だった。彼はいなくなったが、彼の音楽やレガシーはずっと自分の中に留まる。あらゆる点において。ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン、寂しいよ、ジェームス・ブラウン」(スヌープ・ドッグ)
「彼はエネルギーと正確さの旋風のような人物だった。彼はストーンズの初期の時代から僕にはいつも親切だった。パフォーマーとして、またバンド・リーダーとして彼を常に尊敬していた。彼の死去は音楽界にとって大きな喪失だ」(ミック・ジャガー)
「あらゆるタイプの人生を歩み、様々なバックグラウンドを持つ人々をファンとするアメリカのオリジナル。ジェームス・ブラウンのファミリーと友人たちは私たちの心の中にいます。クリスマスにお祈りを」(ブッシュ大統領)
「人々は彼の歴史は知っているでしょう。私がここで申しあげたいのは、彼はステージからいつも愛を説いていたということです。彼は常々言っていました。『私は嫌いな人間には会ったことがないんだ』 彼は真の人道主義者で、母国を愛していました」 (チャールズ・バビット=最期を看取った40年来の友人)
Quotes about the death of James Brown
http://news.yahoo.com/s/ap/20061226/ap_on_en_mu/james_brown_quotes_3
+++++
Shocked To Death
衝撃。
あまりの衝撃に、言葉もない。まだ自分の言葉で語れるほどすべてが整理ができていない。入ってくる外電をまとめるだけでいっぱいいっぱいだ。過去記事をとりあえず、まとめてピックアップしておきたい。98年12月のブリッツでのライヴレポート、「ジェームス・ブラウンとチキンを食べた!(パート1&パート2)」、そして「来日は最後か」の記事は、自分でも読み返して胸を熱くしてしまった。ジェームス・ブラウン関連記事はまだ続きます。自分の言葉で語るジェームス・ブラウンについてはしばらくお時間をください。また、25日当日、メールやお電話をいただいた方、ありがとうございます。すべてにお返事ができていないかもしれませんが、もうしわけありません。しばらくブログのコメント欄に書き込みができるようにしておきます。
■ジェームス・ブラウン過去関連記事〜ジェームス・ブラウンの思い出を
FM FAN誌JB来日レポート(完全版)(’99/5/30)(98年12月赤坂ブリッツでのライヴ詳細レポートがJB愛好家佐藤氏のウェッブに掲載されています)
http://jb-escape.web.infoseek.co.jp/jbinfo/19990530.html
2003/10/02 (Thu)
James Brown Live @ News Station: Show Me Your Foot
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200310/diary20031002.html
2003/10/03 (Fri)
James Brown Live At Budoukan: Papa’s Got A Brand New Stick (3年前の来日)
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200310/diary20031003.html
2003/10/04 (Sat)
James Brown Live At Budoukan, Day 2: "A" Sign Song
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200310/diary20031004.html
2003/10/06 (Mon)
I Ate Chicken With James Brown (Part 1)
ジェームス・ブラウンとチキンを食べた! 最高の思い出のひとつ
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/diary20031006.html
2003/10/07 (Tue)
I Ate Chicken With James Brown (Part 2)
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/interview/diary20031007.html
March 05, 2006
James Brown: After Technical Difficulties, Godfather Thanked For Engineers
【ジェームス・ブラウン・ライヴ】 (最後の来日、2006年3月)
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200603/2006_03_05.html
March 06, 2006
James Brown: ”I Love You, I Love You, And I Love Me"
【ジェームス・ブラウン・ライヴ】
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_03_06.html
March 12, 2006
Was This James Brown’s Final Japanese Tour?
【ジェームス・ブラウンの今回の日本ツアーは最後だったのか】 (明かされた衝撃の新事実。これが現実になってしまいました)
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ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25 (73)
James Brown Dies At 73
2006年12月26日【ジェームス・ブラウン73歳で死去】
急死。
「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネームを持つジェームス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去した。73歳だった。死因はまだ発表されていないが、入院したときにはすでに肺炎になっていた、という。すでにアメリカでもCNNを始めテレビ、メディアが大々的に報じており、レイ・チャールズ以来の報道量になっている。
先週金曜(22日)には地元でおもちゃを子供たちに配るイヴェントに出演していた。また日曜に入院し、また今週のいくつかのライヴをキャンセルしたが、週末のものはキャンセルしていなかったので、本人は直るつもりだったのだろう。急死という印象が強い。
その死について、50年代からの友人で元大統領候補だったジェシー・ジャクソン師は、「彼は最後までドラマティックだった。なにしろ、クリスマスの日に死ぬなんて。彼のニュースは、今日一日中、世界中で話題になるだろう」と語った。
ジェームス・ブラウンは1933年5月3日サウス・キャロライナ州バーンウェル生まれ。現在はジョージア州オウガスタ郊外に住んでいる。少年院を経て、かつて歌っていたゴスペルのグループに参加。徐々に頭角をあらわし、1956年「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が初ヒットとなり、以後多数のヒットを放った。
これまでに「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」「ファンキー・プレジデント」「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショービジネス」など多数のニックネームを持つ。
レイ・チャールズ同様ゴスペル、ブルースなどを混ぜ合わせ、ソウル・ミュージックの確立に大きく寄与、さらに1965年に発表した「パパズ・ガット・ア・ブラニュー・バッグ」、「アウト・オブ・サイト」などの作品でいわゆる「ファンク」の原型を作り出した。ファンクのオリジネーターといってもいい。このファンクの要素は、これ以降のブラック・ミュージックのアーティストはもとより、白人のロック・アーティストにも多大な影響を与えた。影響を受けたアーティストとしては、マイケル・ジャクソン、プリンス、ミック・ジャガー、デイヴィッド・ボウイなど枚挙にいとまない。
1968年4月、キング牧師がメンフィスで暗殺され、黒人運動、公民権運動が高まりをみせると、ブラウンも積極的に先導に立ち、そうした黒人の代表的な行動をとるようになり、多くの若手から年齢層の高い人たちまで支持を集めた。
音楽的には、ファンクの誕生があるが、その他にもシンガー、ミュージシャンたちにスポットを当てられるようなパッケージ・ショーのスタイルを確立。ここからリン・コリンズ、マーヴァ・ホイットニー、メイシオ・パーカー、フレッド・ウェスリー、ブッチーズ・ラバー・バンドなど多数を輩出した。またバンドに対しては規律が厳しく、遅刻厳禁、ライヴでの曲間違いなどに罰金が課せられた。しかし、自分と同じ考え方をもつ者、同胞などにはやさしく、カリスマ的な人気を獲得していた。
ジェームス・ブラウンが作り出したリズムは唯一無二で、90年代に入って「モースト・サンプリング・アーティスト」(もっともサンプリングされるアーティストと呼ばれるようになった。そうした、サンプリングという手法で、若いヒップホップ世代からも熱い支持を集めている。
1992年にグラミー賞で「生涯功労賞」を受賞。また、この他にもドメスティック・ヴァイオレンスなど、逮捕歴も複数回あり、破天荒な人生を送った。
現在までのところ最新作は、2002年の『ザ・ネクスト・ステップ』。
葬儀の予定など未定。
(この項目・続く)
ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25
急死。
「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネームを持つジェームス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去した。73歳だった。死因はまだ発表されていないが、入院したときにはすでに肺炎になっていた、という。すでにアメリカでもCNNを始めテレビ、メディアが大々的に報じており、レイ・チャールズ以来の報道量になっている。
先週金曜(22日)には地元でおもちゃを子供たちに配るイヴェントに出演していた。また日曜に入院し、また今週のいくつかのライヴをキャンセルしたが、週末のものはキャンセルしていなかったので、本人は直るつもりだったのだろう。急死という印象が強い。
その死について、50年代からの友人で元大統領候補だったジェシー・ジャクソン師は、「彼は最後までドラマティックだった。なにしろ、クリスマスの日に死ぬなんて。彼のニュースは、今日一日中、世界中で話題になるだろう」と語った。
ジェームス・ブラウンは1933年5月3日サウス・キャロライナ州バーンウェル生まれ。現在はジョージア州オウガスタ郊外に住んでいる。少年院を経て、かつて歌っていたゴスペルのグループに参加。徐々に頭角をあらわし、1956年「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が初ヒットとなり、以後多数のヒットを放った。
これまでに「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバー・ワン」「ファンキー・プレジデント」「ハーデスト・ワーキング・マン・イン・ショービジネス」など多数のニックネームを持つ。
レイ・チャールズ同様ゴスペル、ブルースなどを混ぜ合わせ、ソウル・ミュージックの確立に大きく寄与、さらに1965年に発表した「パパズ・ガット・ア・ブラニュー・バッグ」、「アウト・オブ・サイト」などの作品でいわゆる「ファンク」の原型を作り出した。ファンクのオリジネーターといってもいい。このファンクの要素は、これ以降のブラック・ミュージックのアーティストはもとより、白人のロック・アーティストにも多大な影響を与えた。影響を受けたアーティストとしては、マイケル・ジャクソン、プリンス、ミック・ジャガー、デイヴィッド・ボウイなど枚挙にいとまない。
1968年4月、キング牧師がメンフィスで暗殺され、黒人運動、公民権運動が高まりをみせると、ブラウンも積極的に先導に立ち、そうした黒人の代表的な行動をとるようになり、多くの若手から年齢層の高い人たちまで支持を集めた。
音楽的には、ファンクの誕生があるが、その他にもシンガー、ミュージシャンたちにスポットを当てられるようなパッケージ・ショーのスタイルを確立。ここからリン・コリンズ、マーヴァ・ホイットニー、メイシオ・パーカー、フレッド・ウェスリー、ブッチーズ・ラバー・バンドなど多数を輩出した。またバンドに対しては規律が厳しく、遅刻厳禁、ライヴでの曲間違いなどに罰金が課せられた。しかし、自分と同じ考え方をもつ者、同胞などにはやさしく、カリスマ的な人気を獲得していた。
ジェームス・ブラウンが作り出したリズムは唯一無二で、90年代に入って「モースト・サンプリング・アーティスト」(もっともサンプリングされるアーティストと呼ばれるようになった。そうした、サンプリングという手法で、若いヒップホップ世代からも熱い支持を集めている。
1992年にグラミー賞で「生涯功労賞」を受賞。また、この他にもドメスティック・ヴァイオレンスなど、逮捕歴も複数回あり、破天荒な人生を送った。
現在までのところ最新作は、2002年の『ザ・ネクスト・ステップ』。
葬儀の予定など未定。
(この項目・続く)
ENT>OBITUARY>Brown, James 1933.5.3 - 2006.12.25
【速報・ジェームス・ブラウン73歳で死去】
「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネームを持つジェームス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去した。73歳だった。
(詳細は後ほど)
「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」などさまざまなニックネームを持つジェームス・ブラウンが去る2006年12月25日午前1時45分(日本時間25日15時45分)、アトランタのエモリー・クロフォード・ロング・ホスピタルで死去した。73歳だった。
(詳細は後ほど)
After Johnny Gill; Japanese Soul Men Summit
2006年12月25日【ソウル談義〜恵比寿の夜は更けて】
一気通貫。
ジョニー・ギルのライヴを黒沢さんと一緒に見に行ったのだが、ショーが始まる前に、なんと松尾潔さんが山下達郎さんと来ていた。近くで食事をしていて、ウィスパーズかジョニー・ギルを見に行こうという話になり、達郎さんがウィスパーズは見たことがあったので、ジョニー・ギルにやってきたという。ライヴ後、どこかへ行きましょうということになった。
さらにショーが終わるとブラック系のライターでもある林剛さんが元ワーナーの湯山さんといらしていて、達郎さんたちと話していた。そこで、みんなで恵比寿のソウルバー「アリオリ」に行くことになった。階段を上がって外にでると、そこにジャズ界の重鎮、伊藤八十八さんが通りかかり、松尾さんが「今から恵比寿で飲むんですけど、一緒にいかがですか」と誘ったところ、即OK。車3台に分乗し移動した。すごい成り行き。いいね、こういうの。黒沢さんは翌日、横浜でライヴだが「達郎さんに誘われたら、行かないわけにいかないでしょう!」と半ば苦笑しながら覚悟を決めた様子。
アリオリに入るや否や、達郎さん、「ここは80年代はかかるけど、サザン系がかからないんだよなあ」と宣言。それを受けて、マスター小野寺さん、いきなりジャッキー・ムーアのケイヴェット盤『メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ウーマン』をかける。(笑)
ジョニー・ギル談義は、ライヴ自体が短かったこともあり、あっさり終わり来年1月9日に目黒のブルースアレーでやるディーヴァ・グレイ・ショーの話になった。ニューヨークのトップ・スタジオ・セッション・シンガーで、自分名義のアルバムも出してるんですよ、と説明すると、ふと思い出したように、「ああ、それ、俺、持ってるよ!」と。おおっ、さすが。あのアルバムを持ってる人はなかなかいない。そしてちょうどできたばかりのフライヤーを渡す。ぜひ遊びにいらしてください、と言うと「行く、行く」。
林さんとは初対面。お互いに名前は知っていた。前日の映画『ドリームガールズ』を林さんも見ており誰が誰かという話になった。そこで、僕がジェイミー・フォックスがベリー・ゴーディーで、エディー・マーフィーがジャッキー・ウィルソンで、ビヨンセはダイアナ・ロスで〜〜みたいな話をしたところ、ほぼすべて意見が一致した。林さんは、最後のシーンでの「ドリームスは4人組でした」というところがデスティニーズ・チャイルドを想起させると言い、僕もえらく納得。下記日記でのその部分の(C)(著作権)は、林さんです。(笑)
December 22, 2006
"Dreamgirls"(Part 2) : Between Fiction And Non-Fiction
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_12_22.html
一方で黒沢さんは達郎さんと、達郎さんのアルバムの話をしている。黒沢さんからすると達郎さんは大先輩で、『フォー・ユー』のアルバムは、3枚持ってるとか、『オン・ザ・ストリート・コーナー』は4枚持っているとか、すごい話が続々でてきた。なんで、そんなになるかというと、アナログ・アルバムでまず買い、普通のCDが出て買い、デジタル・リマスターのCDが出て買いとかでどんどん増えてしまったそうだ。
そうこうするうちに、松尾さんが携帯で話をしながら、誰かを迎えにちょっとだけ店を出た。そして、戻ってくるや、誰を連れてきたかというとなんと、久保田利伸さん。いやあ、びっくり。やはり近くで食事をしていたとかで、松尾さんの誘いに乗ってやってきたみたいだ。
しかし、山下達郎→久保田利伸→黒沢薫→松尾潔とまさに日本のソウル・ミュージックという役で一気通貫ではないか! 達郎さんは、久保田さんに「で、あなたは誰が一番好きなの?」と質問。この質問もすごい質問だが、「いやあ、よく聴かれるんですが、誰ひとりって絞れないんですよ。あるときはこの人が好きだったり、別のときは、違うシンガーが一番だったり。いっぱいいすぎて答えられなくないですか。達郎さんはそういう風に聞かれたらなんて答えるんですか」と逆質問。すると達郎さん「俺は、ジェームス・ブラウンだよ。みんなあの人をそういう風には評価しないけど、何がなんでも歌が一番うまいね」
達郎さんのジェームス・ブラウン好きは以前から知っていたが、そこまでとは思わなかった。原盤のシングルも200枚以上持っているそうだ。「僕がね、自分で作った歌のうまいジェームス・ブラウンのコンピレーションCDあるから、今度あなたに焼いてあげるよ」と久保田さんに言っていた。
達郎さんは「俺はもともとドゥワップ(が好きで)で、ソウルばっかりだった。ドゥワップもラップも、同じだよ。ドゥワップが今だったら、ラップになってるんだ。そう言っても僕の世代の仲間は誰も理解してくれないんだけどね」と言う。まさにその通り。以前どこかに同じことを僕も書いたが、ドゥワップもラップも黒人のストリート・カルチャーで同じなのだ。
何がきっかけでソウルの道に入ったか、という話になり、久保田さんは「テレビでナタリー・コールの『ミスター・メロディー』や、マリリン・マックー&ビリー・デイヴィスの『星空のふたり』あたりを聴いてから」という。なるほど、75年から76年にかけてのことだ。達郎さんと久保田さんの話を聞いていた黒沢さんは、「もう、目の前でこんな放談を聴けるだけで大感激ですよ、僕は」と感動中。
達郎さんは1953年生まれ、久保田さんは1962年生まれ、そして黒沢さんは1971年生まれ。きっちり9年ごとに誕生している。となると、次代の日本のソウルシーンをになうのは1980年生まれ、さらに1989年生まれになるのか。ソウルシンガー9年周期誕生説? 80年生まれと言えばマル、89年生まれと言えば、我らが木下航志くん。
思わぬソウル・サミット・イン・エビスであった。ジョニー・ギルのライヴより、こっちのほうが強烈なインパクトがあったりして。(笑) 全部録音しておきたかったなあ。(笑) それにしても、こんなメンツを集める松尾潔氏、おそるべし! さすが、大プロデューサー! いよっ。楽しい夜をありがとう。
■ソウルバー・アリ・オリ
August 24, 2005
Soul Bar Searchin’ : Bar "Ali Ollie"
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_24.html
ENT>ESSAY>
ENT>SOULBARS>Ali Ollie
一気通貫。
ジョニー・ギルのライヴを黒沢さんと一緒に見に行ったのだが、ショーが始まる前に、なんと松尾潔さんが山下達郎さんと来ていた。近くで食事をしていて、ウィスパーズかジョニー・ギルを見に行こうという話になり、達郎さんがウィスパーズは見たことがあったので、ジョニー・ギルにやってきたという。ライヴ後、どこかへ行きましょうということになった。
さらにショーが終わるとブラック系のライターでもある林剛さんが元ワーナーの湯山さんといらしていて、達郎さんたちと話していた。そこで、みんなで恵比寿のソウルバー「アリオリ」に行くことになった。階段を上がって外にでると、そこにジャズ界の重鎮、伊藤八十八さんが通りかかり、松尾さんが「今から恵比寿で飲むんですけど、一緒にいかがですか」と誘ったところ、即OK。車3台に分乗し移動した。すごい成り行き。いいね、こういうの。黒沢さんは翌日、横浜でライヴだが「達郎さんに誘われたら、行かないわけにいかないでしょう!」と半ば苦笑しながら覚悟を決めた様子。
アリオリに入るや否や、達郎さん、「ここは80年代はかかるけど、サザン系がかからないんだよなあ」と宣言。それを受けて、マスター小野寺さん、いきなりジャッキー・ムーアのケイヴェット盤『メイク・ミー・フィール・ライク・ア・ウーマン』をかける。(笑)
ジョニー・ギル談義は、ライヴ自体が短かったこともあり、あっさり終わり来年1月9日に目黒のブルースアレーでやるディーヴァ・グレイ・ショーの話になった。ニューヨークのトップ・スタジオ・セッション・シンガーで、自分名義のアルバムも出してるんですよ、と説明すると、ふと思い出したように、「ああ、それ、俺、持ってるよ!」と。おおっ、さすが。あのアルバムを持ってる人はなかなかいない。そしてちょうどできたばかりのフライヤーを渡す。ぜひ遊びにいらしてください、と言うと「行く、行く」。
林さんとは初対面。お互いに名前は知っていた。前日の映画『ドリームガールズ』を林さんも見ており誰が誰かという話になった。そこで、僕がジェイミー・フォックスがベリー・ゴーディーで、エディー・マーフィーがジャッキー・ウィルソンで、ビヨンセはダイアナ・ロスで〜〜みたいな話をしたところ、ほぼすべて意見が一致した。林さんは、最後のシーンでの「ドリームスは4人組でした」というところがデスティニーズ・チャイルドを想起させると言い、僕もえらく納得。下記日記でのその部分の(C)(著作権)は、林さんです。(笑)
December 22, 2006
"Dreamgirls"(Part 2) : Between Fiction And Non-Fiction
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_12_22.html
一方で黒沢さんは達郎さんと、達郎さんのアルバムの話をしている。黒沢さんからすると達郎さんは大先輩で、『フォー・ユー』のアルバムは、3枚持ってるとか、『オン・ザ・ストリート・コーナー』は4枚持っているとか、すごい話が続々でてきた。なんで、そんなになるかというと、アナログ・アルバムでまず買い、普通のCDが出て買い、デジタル・リマスターのCDが出て買いとかでどんどん増えてしまったそうだ。
そうこうするうちに、松尾さんが携帯で話をしながら、誰かを迎えにちょっとだけ店を出た。そして、戻ってくるや、誰を連れてきたかというとなんと、久保田利伸さん。いやあ、びっくり。やはり近くで食事をしていたとかで、松尾さんの誘いに乗ってやってきたみたいだ。
しかし、山下達郎→久保田利伸→黒沢薫→松尾潔とまさに日本のソウル・ミュージックという役で一気通貫ではないか! 達郎さんは、久保田さんに「で、あなたは誰が一番好きなの?」と質問。この質問もすごい質問だが、「いやあ、よく聴かれるんですが、誰ひとりって絞れないんですよ。あるときはこの人が好きだったり、別のときは、違うシンガーが一番だったり。いっぱいいすぎて答えられなくないですか。達郎さんはそういう風に聞かれたらなんて答えるんですか」と逆質問。すると達郎さん「俺は、ジェームス・ブラウンだよ。みんなあの人をそういう風には評価しないけど、何がなんでも歌が一番うまいね」
達郎さんのジェームス・ブラウン好きは以前から知っていたが、そこまでとは思わなかった。原盤のシングルも200枚以上持っているそうだ。「僕がね、自分で作った歌のうまいジェームス・ブラウンのコンピレーションCDあるから、今度あなたに焼いてあげるよ」と久保田さんに言っていた。
達郎さんは「俺はもともとドゥワップ(が好きで)で、ソウルばっかりだった。ドゥワップもラップも、同じだよ。ドゥワップが今だったら、ラップになってるんだ。そう言っても僕の世代の仲間は誰も理解してくれないんだけどね」と言う。まさにその通り。以前どこかに同じことを僕も書いたが、ドゥワップもラップも黒人のストリート・カルチャーで同じなのだ。
何がきっかけでソウルの道に入ったか、という話になり、久保田さんは「テレビでナタリー・コールの『ミスター・メロディー』や、マリリン・マックー&ビリー・デイヴィスの『星空のふたり』あたりを聴いてから」という。なるほど、75年から76年にかけてのことだ。達郎さんと久保田さんの話を聞いていた黒沢さんは、「もう、目の前でこんな放談を聴けるだけで大感激ですよ、僕は」と感動中。
達郎さんは1953年生まれ、久保田さんは1962年生まれ、そして黒沢さんは1971年生まれ。きっちり9年ごとに誕生している。となると、次代の日本のソウルシーンをになうのは1980年生まれ、さらに1989年生まれになるのか。ソウルシンガー9年周期誕生説? 80年生まれと言えばマル、89年生まれと言えば、我らが木下航志くん。
思わぬソウル・サミット・イン・エビスであった。ジョニー・ギルのライヴより、こっちのほうが強烈なインパクトがあったりして。(笑) 全部録音しておきたかったなあ。(笑) それにしても、こんなメンツを集める松尾潔氏、おそるべし! さすが、大プロデューサー! いよっ。楽しい夜をありがとう。
■ソウルバー・アリ・オリ
August 24, 2005
Soul Bar Searchin’ : Bar "Ali Ollie"
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_08_24.html
ENT>ESSAY>
ENT>SOULBARS>Ali Ollie
(「妹尾武・ライヴ」〜昨日の続き)
【品川教会と父〜もうひとつのクリスマス・プレゼント】
礼拝堂。
この品川教会というのは、僕には個人的にちょっと接点があった。別に僕はキリスト教徒でもないし、一般的には無宗教の人間だが、とはいうものの、一応お墓参りは欠かさない普通の人だ。そう、クリスマスも祝いつつ、お盆に迎え火と送り火をしたり、何か困ったことがあると「神様〜〜」と叫んだりと、宗教観に整合性などまったくないような人間である。そうキリスト教ではないが、ゴスペル・ミュージックは大好きというあたりも整合性はない。(笑)
僕の今は亡き父親も、宗教観に関しては、ジャンルで言えば無宗教だが、両親の墓参りは欠かさず、家には仏壇があり、そういうことはきちんとしていた。そんな父の大学時代の友人というのが、品川教会の佐伯神父という方だ。僕は子供の頃会ったことがあるような気がするが、はっきり覚えていない。以前聴いた時は、すでに一年の半分以上は外国に住んでいるとかで、あまり日本にはいらっしゃらないらしい。
父親はいつの頃からか、週に一回品川教会に通いだすようになった。その頃の品川教会は、今のように立派な建物ではなかった。すわ、キリスト教にでも転じたか、などと家族は思ったが、そんなことはまったくなく、何か思うところあって、通い始めるようになったらしい。
通い始めて何をしているのかというと、ただ神父さんの説教を聴いていたり、聖書を読んだりしていただけらしい。僕を含めた子供や母親が、「お前たちも教会に一緒に行け」などと言われたことは一度もない。おそらく僕はきっと長い間、父が品川教会に通っていたことさえ知らなかったのだと思う。佐伯神父に会って昔話でもしていたのか(おそらくお茶でもしていたのだろう)、説教を聴きながら人生を考えていたのか、教会の礼拝堂の荘厳な空気、雰囲気が好きだったのか、何か助けを求めてそこに行ったのか、まったくわからない。
僕が父と教会の接点を知ったのが、年に一度教会で行われるバザーに、家にあるいらないものを出品するために、それらを車で運んでくれと頼まれた時だった。「お前も捨てる物があれば、持っていけ」と言われたことは覚えている。父が教会に行くことに「へ〜〜、なんでまた」などとも思ったが、深くは考えなかった。何年か、そんな荷物の運び屋をやった。うちからは車で5分もあれば着く。車に乗せた荷物をバザーの何日か前までに事務所に運んだ。それで僕の仕事はおしまいだ。バザー当日もそれほど興味もなかったので、僕は行ったことはなかった。
だが、いつだったか、特に理由もなく初めてそのバザー当日に会場をのぞいたことがあった。確か父親が1枚100円だかのバザーの入場券をみんなにくれたので行ったような気がする。1990年代の初期のことだったと思う。建物は、現在の立派なものになっていた。あちこちでいろいろな物を売っていた。売上は全部教会への寄付になる。いわゆるバザー。父親も何か、店番のようなことをしていた。その時の様子を見てどうやら父はけっこう教会関係者・スタッフの間では人望が厚いような感じがした。父親もすべてそういったことをヴォランティアでやっていたので、スタッフからは感謝されたのだろう。父はその後もヴォランティア活動に興味を持ち、積極的にそういう活動をしていた。
金曜日(12月22日)に妹尾武コンサートを聴くために入った礼拝堂は、僕の昔の記憶とはちょっと違っていた。改装したのか、それとも僕の記憶があいまいなのか。ひょっとして新しく建物ができる前のものを記憶していたのか定かではない。
教会の礼拝堂の前には、大きなリースが飾られ、クリスマスの雰囲気を盛り上げていた。中に入ると教会独特の木の椅子が置かれていて、すでにほぼ満席になっていた。正面の十字架とパイプオルガンのパイプが目についた。そしてグランドピアノと何本かのマイクスタンド。
この礼拝堂は、父親が毎週日曜日朝に通っていた礼拝堂だ。父親が通っていた頃には僕は一度たりとも足を踏み入れたことがなかった場所である。別に行かないと決めていたわけでもない、ただその機会がなかっただけだ。ひょっとしたら父はここで何らかのソウル(魂)を探していたのかもしれない。そして不肖の息子はもっと早くここに来るべきだったのかもしれない。僕のソウルを探すためにも。父が通っていた頃からすでに十数年、いや二十年以上経っているはずだ。そんな場所に遂に僕を連れてきてくれた妹尾さんに感謝。この礼拝堂に足を踏み入れられたこと自体が、僕にとっての最高のクリスマス・プレゼントだ。来年は母親でも連れてくるかな。
ENT>MUSIC>LIVE>Senoo, Takeshi
ENT>ESSAY>Shinagawa Gloria Chapel
【品川教会と父〜もうひとつのクリスマス・プレゼント】
礼拝堂。
この品川教会というのは、僕には個人的にちょっと接点があった。別に僕はキリスト教徒でもないし、一般的には無宗教の人間だが、とはいうものの、一応お墓参りは欠かさない普通の人だ。そう、クリスマスも祝いつつ、お盆に迎え火と送り火をしたり、何か困ったことがあると「神様〜〜」と叫んだりと、宗教観に整合性などまったくないような人間である。そうキリスト教ではないが、ゴスペル・ミュージックは大好きというあたりも整合性はない。(笑)
僕の今は亡き父親も、宗教観に関しては、ジャンルで言えば無宗教だが、両親の墓参りは欠かさず、家には仏壇があり、そういうことはきちんとしていた。そんな父の大学時代の友人というのが、品川教会の佐伯神父という方だ。僕は子供の頃会ったことがあるような気がするが、はっきり覚えていない。以前聴いた時は、すでに一年の半分以上は外国に住んでいるとかで、あまり日本にはいらっしゃらないらしい。
父親はいつの頃からか、週に一回品川教会に通いだすようになった。その頃の品川教会は、今のように立派な建物ではなかった。すわ、キリスト教にでも転じたか、などと家族は思ったが、そんなことはまったくなく、何か思うところあって、通い始めるようになったらしい。
通い始めて何をしているのかというと、ただ神父さんの説教を聴いていたり、聖書を読んだりしていただけらしい。僕を含めた子供や母親が、「お前たちも教会に一緒に行け」などと言われたことは一度もない。おそらく僕はきっと長い間、父が品川教会に通っていたことさえ知らなかったのだと思う。佐伯神父に会って昔話でもしていたのか(おそらくお茶でもしていたのだろう)、説教を聴きながら人生を考えていたのか、教会の礼拝堂の荘厳な空気、雰囲気が好きだったのか、何か助けを求めてそこに行ったのか、まったくわからない。
僕が父と教会の接点を知ったのが、年に一度教会で行われるバザーに、家にあるいらないものを出品するために、それらを車で運んでくれと頼まれた時だった。「お前も捨てる物があれば、持っていけ」と言われたことは覚えている。父が教会に行くことに「へ〜〜、なんでまた」などとも思ったが、深くは考えなかった。何年か、そんな荷物の運び屋をやった。うちからは車で5分もあれば着く。車に乗せた荷物をバザーの何日か前までに事務所に運んだ。それで僕の仕事はおしまいだ。バザー当日もそれほど興味もなかったので、僕は行ったことはなかった。
だが、いつだったか、特に理由もなく初めてそのバザー当日に会場をのぞいたことがあった。確か父親が1枚100円だかのバザーの入場券をみんなにくれたので行ったような気がする。1990年代の初期のことだったと思う。建物は、現在の立派なものになっていた。あちこちでいろいろな物を売っていた。売上は全部教会への寄付になる。いわゆるバザー。父親も何か、店番のようなことをしていた。その時の様子を見てどうやら父はけっこう教会関係者・スタッフの間では人望が厚いような感じがした。父親もすべてそういったことをヴォランティアでやっていたので、スタッフからは感謝されたのだろう。父はその後もヴォランティア活動に興味を持ち、積極的にそういう活動をしていた。
金曜日(12月22日)に妹尾武コンサートを聴くために入った礼拝堂は、僕の昔の記憶とはちょっと違っていた。改装したのか、それとも僕の記憶があいまいなのか。ひょっとして新しく建物ができる前のものを記憶していたのか定かではない。
教会の礼拝堂の前には、大きなリースが飾られ、クリスマスの雰囲気を盛り上げていた。中に入ると教会独特の木の椅子が置かれていて、すでにほぼ満席になっていた。正面の十字架とパイプオルガンのパイプが目についた。そしてグランドピアノと何本かのマイクスタンド。
この礼拝堂は、父親が毎週日曜日朝に通っていた礼拝堂だ。父親が通っていた頃には僕は一度たりとも足を踏み入れたことがなかった場所である。別に行かないと決めていたわけでもない、ただその機会がなかっただけだ。ひょっとしたら父はここで何らかのソウル(魂)を探していたのかもしれない。そして不肖の息子はもっと早くここに来るべきだったのかもしれない。僕のソウルを探すためにも。父が通っていた頃からすでに十数年、いや二十年以上経っているはずだ。そんな場所に遂に僕を連れてきてくれた妹尾さんに感謝。この礼拝堂に足を踏み入れられたこと自体が、僕にとっての最高のクリスマス・プレゼントだ。来年は母親でも連れてくるかな。
ENT>MUSIC>LIVE>Senoo, Takeshi
ENT>ESSAY>Shinagawa Gloria Chapel
【一年分の垢を落としてくれる心の掃除機・妹尾ピアノ】
誠実。
品川教会で行われるようになって今年で3回目を迎えるピアニスト妹尾武(せのう・たけし)チャペルコンサート。過去2回どうしても行けず涙を飲んだが、遂に今年見ることができた。
礼拝堂の中央には大きな十字架、その両脇にはパイプオルガンのパイプが鎮座している。会場そのものからして荘厳な雰囲気だ。僕は普段、ライヴの時は携帯電話は「マナーモード」にするが、この日ばかりは「マナー」でもブルブルした音が外に響きそうで、電源を切った。僕にとっては久々の妹尾さんのライヴ。
2部構成で多彩なゲストを迎え、ヴァリエーションあるサウンドを聴かせた。緊張し張りつめた空気の中で、誠実で真摯な妹尾ピアノがおごそかに鳴り響く。あの鍵盤をやさしくなめるような妹尾タッチが完成している。教会に響く音色に身を委ねていると、この一年間自分に付着した垢や汚れのようなものを総てとり払ってくれる気持ちにさえなってくる。妹尾ピアノは、心の掃除機だ。
驚いたのは、第二部での「即興大会」。観客から事前にアンケートをもらっていて、それを箱から不作為に抽出し、その紙に書かれたリクエストを即興でやるのだ。リクエストは言葉だったり、何小節かの音符だったりする。深町純さんばりではないか。すばらしい。特に二曲目に演奏した曲は、観客のリクエストが何小節か音符が書いてあったのか、そこから広げて見事だった。
この二時間余、まさに妹尾ワールドが全開。彼のピアノを聴いていて日本のテレビや映画音楽ももちろんだが、これは次はハリウッド映画だろう、と思った。妹尾ピアノをピアノ好きのクリント・イーストウッドに売り込みたい。イーストウッドの映画に使ってもらいたいと痛烈に感じた。彼が作るストーリー性の高い小品に、妹尾さんのピアノがからんだらこれは最高に素敵だ。あの『マディソン群の橋』の映画でもピアノが流れていたが、あんなイメージだ。
12月22日、最低あと10年は続けていただいて、冬の品川教会の風物詩にしてもらいたい。
どこを切っても、妹尾タッチがある。それは真摯と誠実が鍵盤から浮かび上がる紳士・妹尾武の世界。そして、世界に羽ばたけ、妹尾武。
■妹尾さんに関する過去記事一覧
2004/01/15 (Thu)
The Beach In Winter, The Beach In The End Of Summer: That’s What Sensitive Piano Man Senoo Takeshi Portrays
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/artist/diary20040115.html
2004/01/31 (Sat)
It’s Only A Piano, But There’s A Biggest Luxury
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20040131.html
2004/05/16 (Sun)
Every Seat Is Good Seat, Every Moment Has Good Tension, Every Song Has Its Own Colour
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20040516.html
■妹尾武アコースティック・ピアノ・ナイト
東京クリスマス2006
Setlist Senoo Takeshi
First Set
show started 19:08
01. サンタクロウスの空
02. Lately
03. Platinum Kiss
04. Have Yourself A Merry Little Christmas (Senoo Takeshi on vocal)
05. White Christmas (Featuring 関根奈緒)
06. ひまわり (Featuring 関根奈緒)
07. 初恋
08. 冬物語
show ended 19:56
Second Set
show started 20:09
01. The Christmas Song (Featuring Baby Boo)
02. Bridge Over Troubled Water (明日に架ける橋)(Featuring Baby Boo)
03. We Are〜僕らはここにいる(Featuring Baby Boo)
04. クリスマス即興大会 其の壱
05. クリスマス即興大会 其の弐
06. 碧のノクターン (Featuring 古川展生)
07. Julie-O (Mark Summer) (古川展生・ソロ)
08. 君と出逢ってから (Featuring 古川展生)
09. Snow (Featuring 古川展生)
10. 蒼茫 (Featuring 古川展生)
11. River Of Dreams - Christmas Version
Enc.1. 永遠に
Enc.2. 星霜
show ended
(2006年12月22日金、キリスト品川教会=妹尾武ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Senoo, Takeshi
2006-232
誠実。
品川教会で行われるようになって今年で3回目を迎えるピアニスト妹尾武(せのう・たけし)チャペルコンサート。過去2回どうしても行けず涙を飲んだが、遂に今年見ることができた。
礼拝堂の中央には大きな十字架、その両脇にはパイプオルガンのパイプが鎮座している。会場そのものからして荘厳な雰囲気だ。僕は普段、ライヴの時は携帯電話は「マナーモード」にするが、この日ばかりは「マナー」でもブルブルした音が外に響きそうで、電源を切った。僕にとっては久々の妹尾さんのライヴ。
2部構成で多彩なゲストを迎え、ヴァリエーションあるサウンドを聴かせた。緊張し張りつめた空気の中で、誠実で真摯な妹尾ピアノがおごそかに鳴り響く。あの鍵盤をやさしくなめるような妹尾タッチが完成している。教会に響く音色に身を委ねていると、この一年間自分に付着した垢や汚れのようなものを総てとり払ってくれる気持ちにさえなってくる。妹尾ピアノは、心の掃除機だ。
驚いたのは、第二部での「即興大会」。観客から事前にアンケートをもらっていて、それを箱から不作為に抽出し、その紙に書かれたリクエストを即興でやるのだ。リクエストは言葉だったり、何小節かの音符だったりする。深町純さんばりではないか。すばらしい。特に二曲目に演奏した曲は、観客のリクエストが何小節か音符が書いてあったのか、そこから広げて見事だった。
この二時間余、まさに妹尾ワールドが全開。彼のピアノを聴いていて日本のテレビや映画音楽ももちろんだが、これは次はハリウッド映画だろう、と思った。妹尾ピアノをピアノ好きのクリント・イーストウッドに売り込みたい。イーストウッドの映画に使ってもらいたいと痛烈に感じた。彼が作るストーリー性の高い小品に、妹尾さんのピアノがからんだらこれは最高に素敵だ。あの『マディソン群の橋』の映画でもピアノが流れていたが、あんなイメージだ。
12月22日、最低あと10年は続けていただいて、冬の品川教会の風物詩にしてもらいたい。
どこを切っても、妹尾タッチがある。それは真摯と誠実が鍵盤から浮かび上がる紳士・妹尾武の世界。そして、世界に羽ばたけ、妹尾武。
■妹尾さんに関する過去記事一覧
2004/01/15 (Thu)
The Beach In Winter, The Beach In The End Of Summer: That’s What Sensitive Piano Man Senoo Takeshi Portrays
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/artist/diary20040115.html
2004/01/31 (Sat)
It’s Only A Piano, But There’s A Biggest Luxury
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20040131.html
2004/05/16 (Sun)
Every Seat Is Good Seat, Every Moment Has Good Tension, Every Song Has Its Own Colour
http://www.soulsearchin.com//entertainment/music/live/diary20040516.html
■妹尾武アコースティック・ピアノ・ナイト
東京クリスマス2006
Setlist Senoo Takeshi
First Set
show started 19:08
01. サンタクロウスの空
02. Lately
03. Platinum Kiss
04. Have Yourself A Merry Little Christmas (Senoo Takeshi on vocal)
05. White Christmas (Featuring 関根奈緒)
06. ひまわり (Featuring 関根奈緒)
07. 初恋
08. 冬物語
show ended 19:56
Second Set
show started 20:09
01. The Christmas Song (Featuring Baby Boo)
02. Bridge Over Troubled Water (明日に架ける橋)(Featuring Baby Boo)
03. We Are〜僕らはここにいる(Featuring Baby Boo)
04. クリスマス即興大会 其の壱
05. クリスマス即興大会 其の弐
06. 碧のノクターン (Featuring 古川展生)
07. Julie-O (Mark Summer) (古川展生・ソロ)
08. 君と出逢ってから (Featuring 古川展生)
09. Snow (Featuring 古川展生)
10. 蒼茫 (Featuring 古川展生)
11. River Of Dreams - Christmas Version
Enc.1. 永遠に
Enc.2. 星霜
show ended
(2006年12月22日金、キリスト品川教会=妹尾武ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Senoo, Takeshi
2006-232
(12月20日付け日記の続き)
【フィクションとノンフィクションの間で】
誰。
ミュージカル『ドリームガールズ』は、1981年発表当初、ダイアナ・ロスとシュープリームスをモデルに描かれたと言われ、実際それが大きな話題となった。ダイアナ・ロスは、本ミュージカルの話の内容が気に入らず、見なかったという。ストーリーを見ると、明らかにダイアナたちをモデルにしていることがわかる。となると、どの役が実際の誰かという推測をしたくなるのが人の常。映画を見ながらいろいろ考えてみた。
まず、『ドリームガールズ』での配役。
エフィー・ホワイト(映画上の役名) (ジェニファー・ハドソン=演じる俳優)=ドリーメッツ
ローレル・ロビンソン (アニカ・ノニ・ローズ)=ドリーメッツ
ディーナ・ジョーンズ (ビヨンセ・ノウルズ)=ドリーメッツ
ジェームス・サンダー・アーリー (エディー・マーフィー)=往年の人気男性シンガー
カーティス・テイラー・ジュニア (ジェイミー・フォックス)=ドリーメッツを売り出すレコード会社社長
CC(キース・ロビンソン)=エフィーの弟で作曲家
マーティー・マディソン (ダニー・グローヴァー)=アーリーを育てた古株のマネージャー
まず、ビヨンセがダイアナ・ロスに相当する。そして、エフィーは、シュプリームスのメリー・ウイルソン、あるいはわがままなところなどがフローレンス・バラードとかぶっているのかもしれない。
カーティス(ジェイミー・フォックス)、これはベリー・ゴーディー・モータウン社長でまちがいない。しっかり、ビヨンセ(ダイアナ)と出来てしまうところなどもそっくりだ。そして、往年のR&Bシンガー、アーリー(エディー・マーフィー)だが、これはやはりデトロイトを本拠に活躍したR&Bシンガー、ジャッキー・ウィルソンあたりに相当するだろう。43歳で死去するという紹介があったが、ジャッキーの享年は49、ただ同じデトロイト・モータウンの男性スーパースター、マーヴィン・ゲイの享年44とも近い。
またエフィーの弟、CCはいろいろなキャラクターのコンビネーションだと思うが、スモーキー・ロビンソン、あるいは、ホランド・ドジャー・ホランドのひとりあたりかもしれない。
また、ドリーメッツという名前だが、シュープリームスは元々プライメッツと言っていた。ドリーメッツは後にドリームスになるが、プライメッツの仲間グループにプライムスという男性グループがいた。
そして、最後の部分で「実はドリーメッツは4人でした」というくだりがあるが、これはビヨンセのデスティニーズ・チャイルドを彷彿とさせる。実際、最初は4人で、3人になり大ブレイクした。
さらに、途中で男の子5人組がでてくるが、まさにこれはジャクソン・ファイヴそのもの。子供のリードシンガーは、マイケル・ジャクソンだ。
一度しか見ていないので、もう少し細かいところで、おもしろいコネタがあるかもしれないが、どの役が誰に相当するのか、など、フィクションとノンフィクションの間を考えながら見るのもとてもおもしろいのではないだろうか。
+++++
映画『ドリームガールズ』、2007年2月17日日劇などで公開予定。
映画『ドリームガールズ』公式ページ(英語)
http://www.dreamgirlsmovie.com/
映画『ドリームガールズ』公式ページ(日本語)
http://www.dreamgirls-movie.jp
ENT>MOVIES>Dreamgirls
【フィクションとノンフィクションの間で】
誰。
ミュージカル『ドリームガールズ』は、1981年発表当初、ダイアナ・ロスとシュープリームスをモデルに描かれたと言われ、実際それが大きな話題となった。ダイアナ・ロスは、本ミュージカルの話の内容が気に入らず、見なかったという。ストーリーを見ると、明らかにダイアナたちをモデルにしていることがわかる。となると、どの役が実際の誰かという推測をしたくなるのが人の常。映画を見ながらいろいろ考えてみた。
まず、『ドリームガールズ』での配役。
エフィー・ホワイト(映画上の役名) (ジェニファー・ハドソン=演じる俳優)=ドリーメッツ
ローレル・ロビンソン (アニカ・ノニ・ローズ)=ドリーメッツ
ディーナ・ジョーンズ (ビヨンセ・ノウルズ)=ドリーメッツ
ジェームス・サンダー・アーリー (エディー・マーフィー)=往年の人気男性シンガー
カーティス・テイラー・ジュニア (ジェイミー・フォックス)=ドリーメッツを売り出すレコード会社社長
CC(キース・ロビンソン)=エフィーの弟で作曲家
マーティー・マディソン (ダニー・グローヴァー)=アーリーを育てた古株のマネージャー
まず、ビヨンセがダイアナ・ロスに相当する。そして、エフィーは、シュプリームスのメリー・ウイルソン、あるいはわがままなところなどがフローレンス・バラードとかぶっているのかもしれない。
カーティス(ジェイミー・フォックス)、これはベリー・ゴーディー・モータウン社長でまちがいない。しっかり、ビヨンセ(ダイアナ)と出来てしまうところなどもそっくりだ。そして、往年のR&Bシンガー、アーリー(エディー・マーフィー)だが、これはやはりデトロイトを本拠に活躍したR&Bシンガー、ジャッキー・ウィルソンあたりに相当するだろう。43歳で死去するという紹介があったが、ジャッキーの享年は49、ただ同じデトロイト・モータウンの男性スーパースター、マーヴィン・ゲイの享年44とも近い。
またエフィーの弟、CCはいろいろなキャラクターのコンビネーションだと思うが、スモーキー・ロビンソン、あるいは、ホランド・ドジャー・ホランドのひとりあたりかもしれない。
また、ドリーメッツという名前だが、シュープリームスは元々プライメッツと言っていた。ドリーメッツは後にドリームスになるが、プライメッツの仲間グループにプライムスという男性グループがいた。
そして、最後の部分で「実はドリーメッツは4人でした」というくだりがあるが、これはビヨンセのデスティニーズ・チャイルドを彷彿とさせる。実際、最初は4人で、3人になり大ブレイクした。
さらに、途中で男の子5人組がでてくるが、まさにこれはジャクソン・ファイヴそのもの。子供のリードシンガーは、マイケル・ジャクソンだ。
一度しか見ていないので、もう少し細かいところで、おもしろいコネタがあるかもしれないが、どの役が誰に相当するのか、など、フィクションとノンフィクションの間を考えながら見るのもとてもおもしろいのではないだろうか。
+++++
映画『ドリームガールズ』、2007年2月17日日劇などで公開予定。
映画『ドリームガールズ』公式ページ(英語)
http://www.dreamgirlsmovie.com/
映画『ドリームガールズ』公式ページ(日本語)
http://www.dreamgirls-movie.jp
ENT>MOVIES>Dreamgirls
Johnny Gill: 56 Minutes Of Erotic Soul
2006年12月21日【ジョニー・ギル〜56分間のエロティック・ソウル】
汗。
いきなりエネルギー全開。弾ける、跳ねる、腰振りまくる。熱血ソウルマン、ジョニー・ギルのブルーノート初登場公演。初来日は1991年9月渋谷公会堂、その後何度か来て、東京の直近ライヴでは2003年8月のニュー・エディションの一員として。1966年5月22日ワシントンDC生まれということで、現在ちょうど40歳。油のってる。
ちょっと驚くのがバンドが3人ということ。ドラムス、キーボード、ベースだけという編成で、ベース奏者は少しキーボードもやる。というわけで、ギターもいなければ、コーラスもいないという省エネ、経済的バンドだ。しかし、ギターの音も、女性コーラスの音もしっかり出てくるので、ちょっとびっくり。こういうのがあると、すわジョニーも口パクかと思ってしまうが、さすがにそんなことはないようで。(当たり前か) まあ、別にバンド演奏を聴きに行くのではなく、ジョニーの歌声を聴きにきたので、いいんだが。『日本からオファーがあったから、ちょっと軽くバンド組んで出稼ぎにいくか』っていうところか。リアルなコーラス、ギター、そして、できればブラスセクションも欲しいかもしれない。
さて、やはりそんなお気楽ライヴのなかでも圧巻はスロー。「レッツ・ゲット・ザ・ムード・ライト」でかなり雰囲気を作り、さらに1曲はさんでバラード・メドレーに突入した。「何人もの友人がこのところ亡くなっている。僕は、そのレガシーを残していきたい。その彼は、きっと今日、上のほう(天国)で聞いているにちがいない」 こんなことをジョニーが言いながら、なんとルーサー・ヴァンドロス・メドレーを歌い始めた。
「アンティル・・・」のイントロから「スーパースター」へ。CDと同じ流れだ。途中、「ママママママ〜〜、ウゥ〜〜〜〜〜、あ〜〜」などを挟み込み、さらにルーサー大得意の低いところから高いところまで一気に駆け上がる「ウォウォウォウォ〜〜」も披露。ジョニー・ギルがシーンに登場した頃、ルーサー・フォロワーとして注目されただけのことはある。さすがに、声質、歌唱などルーサーを彷彿とさせるものがある。まさか、ジョニー・ギルの歌で「ルーサー・メドレー」が聴けるとは思わなかったので、ひじょうに嬉しかった。
そして、ショーが始まってまだ37分のところで早くも「マイ・マイ・マイ」が。ちょっと早くないか、と思いつつ、CDではゆったりしたバラードをここでは思い切り、熱く歌いこむ。スローなのに、グルーヴがあり、のり抜群の曲に仕上がっていく。彼の声が低音から発せられる時、まさにスピーカーはハウリングを起こしそうなほどだ。それだけ厚みがあるということか。これほど肉厚のあるジューシーな「マイ・マイ・マイ」はない。こってり、油っこい。すでにシャツだけでなく、ジャケットの背中も汗でぬれている。そして、大ヒットでアップテンポの「ラブ・ユー・ザ・ライト・ウェイ」を10分以上歌い、22時26分終了、アンコールなし。56分、ちょっと短すぎ。(笑) 曲すくない。
やはり圧巻はルーサーメドレーに尽きる。しかし、なぜジェラルド・リヴァートへのトリビュートはないのか。クリスマス・ソングは? デュエット曲はコーラスがいないから出来ないのか。ステーシー・ラティソウとのデュエット曲やシャニースとのデュエットなど。
それにしても、「マイ・マイ・マイ」やルーサー・メドレーなどのスロー系でのジョニーのエロ度の全開ぶりはお見事。この暑苦しくもあり、エロティックでセンシュアルなヴォーカルは他の追従を許さない。ただし、バンドはかなりラフ、ライヴは短い、アップテンポでの歌はかなり荒っぽいのでそのあたり最初に心しておいたほうがいいかもしれない。
いや、「ママママママ〜〜」と「ウォオウォウォウォウォ〜〜〜」と「高音でううううっ〜〜〜〜」と歌うだけで金が取れるシンガーというのはすごい。
ところで、このジョニー・ギルを一緒に黒沢さんと見たのだが、同じ会場に松尾潔さんが山下達郎さんと来ていた。ということで、ライヴ後に場所を変えて飲むことになった。その話はまた後日。
Setlist: Johnny Gill @ Blue Note, 12/20/2006
セットリスト ジョニー・ギル
show started 21:30
01. Fairweather Friend (1990) including a riff of Caught Up
02. Slow & Sexy (Shaba Ranks - 1992)
03. Let’s Get The Mood Right (1996)
04. There U Go (From Soundtrack "Boomerang" - 1992)
05. Luther Vandross Tribute: (Medley)
a) Until You Come Back To Me
b) Superstar
c) A House Is Not A Home
d) Never Too Much
06. My, My, My (1990)
07. Rub You The Right Way (1990)
show ended 22:26
(2006年12月20日水曜、東京ブルーノート=ジョニー・ギル・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Gill, Johnny
2006-231
汗。
いきなりエネルギー全開。弾ける、跳ねる、腰振りまくる。熱血ソウルマン、ジョニー・ギルのブルーノート初登場公演。初来日は1991年9月渋谷公会堂、その後何度か来て、東京の直近ライヴでは2003年8月のニュー・エディションの一員として。1966年5月22日ワシントンDC生まれということで、現在ちょうど40歳。油のってる。
ちょっと驚くのがバンドが3人ということ。ドラムス、キーボード、ベースだけという編成で、ベース奏者は少しキーボードもやる。というわけで、ギターもいなければ、コーラスもいないという省エネ、経済的バンドだ。しかし、ギターの音も、女性コーラスの音もしっかり出てくるので、ちょっとびっくり。こういうのがあると、すわジョニーも口パクかと思ってしまうが、さすがにそんなことはないようで。(当たり前か) まあ、別にバンド演奏を聴きに行くのではなく、ジョニーの歌声を聴きにきたので、いいんだが。『日本からオファーがあったから、ちょっと軽くバンド組んで出稼ぎにいくか』っていうところか。リアルなコーラス、ギター、そして、できればブラスセクションも欲しいかもしれない。
さて、やはりそんなお気楽ライヴのなかでも圧巻はスロー。「レッツ・ゲット・ザ・ムード・ライト」でかなり雰囲気を作り、さらに1曲はさんでバラード・メドレーに突入した。「何人もの友人がこのところ亡くなっている。僕は、そのレガシーを残していきたい。その彼は、きっと今日、上のほう(天国)で聞いているにちがいない」 こんなことをジョニーが言いながら、なんとルーサー・ヴァンドロス・メドレーを歌い始めた。
「アンティル・・・」のイントロから「スーパースター」へ。CDと同じ流れだ。途中、「ママママママ〜〜、ウゥ〜〜〜〜〜、あ〜〜」などを挟み込み、さらにルーサー大得意の低いところから高いところまで一気に駆け上がる「ウォウォウォウォ〜〜」も披露。ジョニー・ギルがシーンに登場した頃、ルーサー・フォロワーとして注目されただけのことはある。さすがに、声質、歌唱などルーサーを彷彿とさせるものがある。まさか、ジョニー・ギルの歌で「ルーサー・メドレー」が聴けるとは思わなかったので、ひじょうに嬉しかった。
そして、ショーが始まってまだ37分のところで早くも「マイ・マイ・マイ」が。ちょっと早くないか、と思いつつ、CDではゆったりしたバラードをここでは思い切り、熱く歌いこむ。スローなのに、グルーヴがあり、のり抜群の曲に仕上がっていく。彼の声が低音から発せられる時、まさにスピーカーはハウリングを起こしそうなほどだ。それだけ厚みがあるということか。これほど肉厚のあるジューシーな「マイ・マイ・マイ」はない。こってり、油っこい。すでにシャツだけでなく、ジャケットの背中も汗でぬれている。そして、大ヒットでアップテンポの「ラブ・ユー・ザ・ライト・ウェイ」を10分以上歌い、22時26分終了、アンコールなし。56分、ちょっと短すぎ。(笑) 曲すくない。
やはり圧巻はルーサーメドレーに尽きる。しかし、なぜジェラルド・リヴァートへのトリビュートはないのか。クリスマス・ソングは? デュエット曲はコーラスがいないから出来ないのか。ステーシー・ラティソウとのデュエット曲やシャニースとのデュエットなど。
それにしても、「マイ・マイ・マイ」やルーサー・メドレーなどのスロー系でのジョニーのエロ度の全開ぶりはお見事。この暑苦しくもあり、エロティックでセンシュアルなヴォーカルは他の追従を許さない。ただし、バンドはかなりラフ、ライヴは短い、アップテンポでの歌はかなり荒っぽいのでそのあたり最初に心しておいたほうがいいかもしれない。
いや、「ママママママ〜〜」と「ウォオウォウォウォウォ〜〜〜」と「高音でううううっ〜〜〜〜」と歌うだけで金が取れるシンガーというのはすごい。
ところで、このジョニー・ギルを一緒に黒沢さんと見たのだが、同じ会場に松尾潔さんが山下達郎さんと来ていた。ということで、ライヴ後に場所を変えて飲むことになった。その話はまた後日。
Setlist: Johnny Gill @ Blue Note, 12/20/2006
セットリスト ジョニー・ギル
show started 21:30
01. Fairweather Friend (1990) including a riff of Caught Up
02. Slow & Sexy (Shaba Ranks - 1992)
03. Let’s Get The Mood Right (1996)
04. There U Go (From Soundtrack "Boomerang" - 1992)
05. Luther Vandross Tribute: (Medley)
a) Until You Come Back To Me
b) Superstar
c) A House Is Not A Home
d) Never Too Much
06. My, My, My (1990)
07. Rub You The Right Way (1990)
show ended 22:26
(2006年12月20日水曜、東京ブルーノート=ジョニー・ギル・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Gill, Johnny
2006-231
Musical Movie "Dreamgirls": Born In 1981
2006年12月20日【映画『ドリームガールズ』〜1981年に生まれて】
夢。
1981年12月ブロードウェイで公開され大ヒットしたミュージカル『ドリームガールズ』。主演のジェニファー・ホリデイは、挿入歌の「アンド・アイム・テリン・ユー・・・」の大ヒットで一躍ヒットチャートでも人気となった。その『ドリームガールズ』が登場から四半世紀を経て、映画化された。日本でもこの映画ヴァージョンが2007年2月に公開される。その試写を見た。
『ドリームガールズ』は、歌手としての成功を夢見る3人の若い女性シンガーのグループ、ドリーメッツと彼女たちを取り巻く人たちの物語だ。舞台は1962年のデトロイト。ドリーメッツの当初のリードは歌が抜群にうまいエフィー(ジェニファー・ハドソン)、しかし、敏腕プロデューサーのカーティス・テイラー(ジェイミー・フォックス)が彼女たちの売り出しにかかり、リードをよりルックスのいいディーナ・ジョーンズ(ビヨンセ・ノウルズ)に変えた。もうひとりのローレル・ロビンソン(アニカ・ノニ・ローズ)は、しばらく前まで人気絶頂だった男性R&Bシンガー、ジェームス・アーリー(エディー・マーフィー)と付き合い始める。
リードの座を降ろされたエフィーとグループ、プロデューサーの確執、また、落ちぶれ始めたジェームス・アーリーと彼を育てた古株のプロデューサー、マーティー・マディソン(ダニー・グローヴァー)との確執、ヒット曲を生み出すための泥仕合や様々な人間模様が描かれる。
この映画からは、黒人が作り黒人が歌った作品は、なかなか白人に受け入れられず、白人がカヴァーするとすぐにヒットするというアメリカ音楽業界の厳しい現実が明らかにされる。
音楽的なハイライトは、エフィーが歌う「アンド・アイム・テリング・ユー・アイム・ノット・ゴーイング」と「アイム・チェンジン」、そして、ビヨンセが歌う「ハード・トゥ・セイ・グッドバイ」。前2曲はオリジナル・ミュージカルでは、ジェニファー・ホリデイが歌い大喝采を浴びたシーンだ。さすがにストーリーの流れとともに、完璧な作品である。音楽的主役は、エフィーがもっていきそうな勢いだ。
ある程度、アメリカのソウル・ミュージックやR&Bが好きで、そうした音楽業界のことなどを基礎知識として持っていると、とてもエンジョイできる映画ではないだろうか。よってそんな業界の流れを事前に知らせておくのがいいのかもしれない。音楽好き、ソウル好き、ミュージカル好きの人たちはすぐに食いつけるだろうが、音楽に興味のない人は厳しいかも。
ストーリーとしては、いろいろな物語があり、特にカーティス(ジェイミー・フォックス)の強引とも言えるやり方がひじょうにおもしろかった。同時に演技としては、老練マネジャー役のダニー・グローヴァーがいい味をだしている。
なお、日本では1986年伊勢丹創業100年記念のイヴェントで、『ドリームガールズ』のアメリカ版ミュージカルが新宿厚生年金ホールで公演された。
もうひとつ特筆すべきは、このミュージカルが誕生した1981年という年はビヨンセがこの世に生まれた年でもある。ビヨンセが生まれた年に誕生したミュージカルをその25年後に、ビヨンセが演じるという歴史も大きな話題といっていい。
(この『ドリームガールズ』の項、続く)
映画『ドリームガールズ』、2007年2月17日日劇などで公開予定。
映画『ドリームガールズ』公式ページ(英語)
http://www.dreamgirlsmovie.com/
映画『ドリームガールズ』公式ページ(日本語)
http://www.dreamgirls-movie.jp
ENT>MOVIES>Dreamgirls
夢。
1981年12月ブロードウェイで公開され大ヒットしたミュージカル『ドリームガールズ』。主演のジェニファー・ホリデイは、挿入歌の「アンド・アイム・テリン・ユー・・・」の大ヒットで一躍ヒットチャートでも人気となった。その『ドリームガールズ』が登場から四半世紀を経て、映画化された。日本でもこの映画ヴァージョンが2007年2月に公開される。その試写を見た。
『ドリームガールズ』は、歌手としての成功を夢見る3人の若い女性シンガーのグループ、ドリーメッツと彼女たちを取り巻く人たちの物語だ。舞台は1962年のデトロイト。ドリーメッツの当初のリードは歌が抜群にうまいエフィー(ジェニファー・ハドソン)、しかし、敏腕プロデューサーのカーティス・テイラー(ジェイミー・フォックス)が彼女たちの売り出しにかかり、リードをよりルックスのいいディーナ・ジョーンズ(ビヨンセ・ノウルズ)に変えた。もうひとりのローレル・ロビンソン(アニカ・ノニ・ローズ)は、しばらく前まで人気絶頂だった男性R&Bシンガー、ジェームス・アーリー(エディー・マーフィー)と付き合い始める。
リードの座を降ろされたエフィーとグループ、プロデューサーの確執、また、落ちぶれ始めたジェームス・アーリーと彼を育てた古株のプロデューサー、マーティー・マディソン(ダニー・グローヴァー)との確執、ヒット曲を生み出すための泥仕合や様々な人間模様が描かれる。
この映画からは、黒人が作り黒人が歌った作品は、なかなか白人に受け入れられず、白人がカヴァーするとすぐにヒットするというアメリカ音楽業界の厳しい現実が明らかにされる。
音楽的なハイライトは、エフィーが歌う「アンド・アイム・テリング・ユー・アイム・ノット・ゴーイング」と「アイム・チェンジン」、そして、ビヨンセが歌う「ハード・トゥ・セイ・グッドバイ」。前2曲はオリジナル・ミュージカルでは、ジェニファー・ホリデイが歌い大喝采を浴びたシーンだ。さすがにストーリーの流れとともに、完璧な作品である。音楽的主役は、エフィーがもっていきそうな勢いだ。
ある程度、アメリカのソウル・ミュージックやR&Bが好きで、そうした音楽業界のことなどを基礎知識として持っていると、とてもエンジョイできる映画ではないだろうか。よってそんな業界の流れを事前に知らせておくのがいいのかもしれない。音楽好き、ソウル好き、ミュージカル好きの人たちはすぐに食いつけるだろうが、音楽に興味のない人は厳しいかも。
ストーリーとしては、いろいろな物語があり、特にカーティス(ジェイミー・フォックス)の強引とも言えるやり方がひじょうにおもしろかった。同時に演技としては、老練マネジャー役のダニー・グローヴァーがいい味をだしている。
なお、日本では1986年伊勢丹創業100年記念のイヴェントで、『ドリームガールズ』のアメリカ版ミュージカルが新宿厚生年金ホールで公演された。
もうひとつ特筆すべきは、このミュージカルが誕生した1981年という年はビヨンセがこの世に生まれた年でもある。ビヨンセが生まれた年に誕生したミュージカルをその25年後に、ビヨンセが演じるという歴史も大きな話題といっていい。
(この『ドリームガールズ』の項、続く)
映画『ドリームガールズ』、2007年2月17日日劇などで公開予定。
映画『ドリームガールズ』公式ページ(英語)
http://www.dreamgirlsmovie.com/
映画『ドリームガールズ』公式ページ(日本語)
http://www.dreamgirls-movie.jp
ENT>MOVIES>Dreamgirls
【ブラックバード・マクナイト・ギター・パフォーマンス】
弾きまくり。
元ハービー・ハンコックのヘッドハンターズのメンバーであり、ジョージ・クリントンのPファンク(パーラメント、ファンカデリック)のメンバーでもあるギタリスト、ブラックバード・マクナイトが、東京・恵比寿のソウルバー「ブラウン・シュガー」で懇親会を開いた。サインをしたり、お話をしたり、写真を撮ったり、そして、若干のギター演奏を披露したりした。
だがそのパフォーマンスで、彼は死ぬほどギターを弾きまくった。この日は、彼が現在制作中のアルバムに収録される候補曲4曲と、クリスマス・メドレーをプレイした。バックトラックは、事前に彼が自分で作ったものをアイポッドにいれ、それを再生しギター演奏を生で披露した。
完全にブラック・ロック、ジミ・ヘンドリックスという趣。息つく暇もなくギター音が炸裂した。これは、ギター・フリークたちなら大喜びでしょう。次回はギターが大好きな人たちに告知するといいのでは?
ところで、ライヴが始まる前に少しマクナイトと軽く話をした。彼によれば、現在作っているアルバムは、彼にとっての初のソロ・アルバムになる。ほとんど自分で打ち込みで作り、若干の友人のミュージシャンの手助けを得ている、という。とりあえず、メジャーではなく、自身でインディで制作、プレス、配給をしようと考えている。現時点で20曲くらいはあって、そこから8曲くらいに絞りたいとのこと。「CDは長いのが多いからね。僕はせいぜい45分くらいに収めたい」と言う。
この日のイヴェント、Tシャツ販売担当員はソウルバー知り尽くしナンバーワンの高畠さん、さらに受け付けはPファンク知り尽くしナンバーワンの河地依子さんと豪華ラインアップでした。
Setlist; Blackbyrd McKnight @ Brown Sugar, Ebisu, 12/18/2006
セットリスト ブラックバード・マクナイト
performance started 19.25
00. Happy Birthday (To Soulmoon)
01. Maggot Brain
02. Flyon
03. #3
04. Funkarockaholic
05. Christmas Medley (Little Drummer Boy / Jingle Bell / Rudolf The Red Noised Reindeer, etc)
performance ended 20:08
(2006年12月18日月曜、恵比寿ブラウン・シュガー=ブラックバード・マクナイト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>McKnight, Blackbyrd
2006-230
弾きまくり。
元ハービー・ハンコックのヘッドハンターズのメンバーであり、ジョージ・クリントンのPファンク(パーラメント、ファンカデリック)のメンバーでもあるギタリスト、ブラックバード・マクナイトが、東京・恵比寿のソウルバー「ブラウン・シュガー」で懇親会を開いた。サインをしたり、お話をしたり、写真を撮ったり、そして、若干のギター演奏を披露したりした。
だがそのパフォーマンスで、彼は死ぬほどギターを弾きまくった。この日は、彼が現在制作中のアルバムに収録される候補曲4曲と、クリスマス・メドレーをプレイした。バックトラックは、事前に彼が自分で作ったものをアイポッドにいれ、それを再生しギター演奏を生で披露した。
完全にブラック・ロック、ジミ・ヘンドリックスという趣。息つく暇もなくギター音が炸裂した。これは、ギター・フリークたちなら大喜びでしょう。次回はギターが大好きな人たちに告知するといいのでは?
ところで、ライヴが始まる前に少しマクナイトと軽く話をした。彼によれば、現在作っているアルバムは、彼にとっての初のソロ・アルバムになる。ほとんど自分で打ち込みで作り、若干の友人のミュージシャンの手助けを得ている、という。とりあえず、メジャーではなく、自身でインディで制作、プレス、配給をしようと考えている。現時点で20曲くらいはあって、そこから8曲くらいに絞りたいとのこと。「CDは長いのが多いからね。僕はせいぜい45分くらいに収めたい」と言う。
この日のイヴェント、Tシャツ販売担当員はソウルバー知り尽くしナンバーワンの高畠さん、さらに受け付けはPファンク知り尽くしナンバーワンの河地依子さんと豪華ラインアップでした。
Setlist; Blackbyrd McKnight @ Brown Sugar, Ebisu, 12/18/2006
セットリスト ブラックバード・マクナイト
performance started 19.25
00. Happy Birthday (To Soulmoon)
01. Maggot Brain
02. Flyon
03. #3
04. Funkarockaholic
05. Christmas Medley (Little Drummer Boy / Jingle Bell / Rudolf The Red Noised Reindeer, etc)
performance ended 20:08
(2006年12月18日月曜、恵比寿ブラウン・シュガー=ブラックバード・マクナイト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>McKnight, Blackbyrd
2006-230
【ウィスパーズ・ライヴ〜ヴォーカルグループの粋】
粋。
魅惑のR&Bコーラス・グループ、ウィスパーズの1年ぶりのコットンクラブでのライヴ。昨年は、日程があわずに行けなかったが今年は万難を排して参上。ウィスパーズの初来日は1988年3月だから、18年も前のことになる。その時は横浜の今はなきベイサイドクラブの柿落としだった。まだマーカスがいた5人組の頃だったと記憶する。その後、1999年5月チョコレートクリーム・プロダクションの招聘で渋谷オンエアでのライヴがあり久々に見て、感激新たにした。
いわゆるR&B系ヴォーカル・グループとしては、まさにメインストリームを行くグループ。まったく心配することなどない、安心して見ていられるライヴだ。バンドメンバーもかなり長くやっていて、タイトで見事。曲によっては、ウィスパーズのメンバーと同じように後ろで振りをつけるものだから、ステージが一挙に華やかになる。こういう伝統芸、形式美のものは何度見ても、いつ見てもいい。
2曲のバンド演奏などでウォームアップしてから本人登場。この日はコットンクラブのホームページにでているアーティスト写真と同じブルーのスーツで姿を現した彼らは、最初の「イッツ・ア・ラヴ・シング」から激しく歌って踊って見せた。
さて、このマリオ兄弟、いや、ザ・タッチ、いや双子のスコット兄弟、ステージ向かって左、片耳にピアスをしていたほうが2分兄のウォルター・スコット、向かって右がスコッティ・スコット。ライヴで見ていても、どっちがどっちだか、やっぱりわからなくなります。目をつぶって聴いてもやはり、どっちの声か判別不能。(笑) 髭がニコラス・コルドゥエル、そして、昔はアフロだったが今はスキンヘッドになったのがリヴェイル・ディグリー。彼らはすぐわかる。(当たり前か) 兄弟は背が低いがニックとリヴェイルが背が高い。
12月ならではのクリスマス・ソング・ダブル。「ディス・クリスマス」と「クリスマス・ソング」。特に1曲目はショート・ヴァージョンになっていたが、最後終わるところ、ウォルター、リヴェイル、スコッティ、ニコラスと並びリヴェイルがスコッティの肩に手をかけ、ちょうどその4人を後ろからスポットライトを当て、曲をぴたっと終えたところが見事だった。かっこいいったらありゃしない。左から背が低い、高い、低い、高いと実にうまくきれいに並んだ。
MC(司会)はウォルターが担当する。「もう20年以上前のことになる。ある人物がオーディションにやってきて、『ウィスパーズのために曲を書いた。あなたたちは、これを絶対にレコーディングするべきだ』と言って本人が歌っていた曲を聞かせてくれた。その曲がとてもよかったので、レコーディングしたんだが、今日はそれを作曲者本人に歌ってもらおう」 こうしてキーボードのグレイディー・ウィルキンスがステージ前に登場し、「ウェルカム・イントゥ・マイ・ドリーム」という曲を歌った。途中からメンバーが引き継いだが、なかなかいい曲だ。
おなじみのダンスナンバーから、ゆったりミディアム、スローバラードまでバランスよく配置し、まったく飽きさせない。相変わらず粋で品があってお見事な90分だった。しかし、もっともっと聴きたい曲が残っている。
■ライヴは、12月20日(水)まで。コットン・クラブ。
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/schedule/#12
■メンバー
ザ・ウィスパーズ
Walter Scott(vo), Wallace “Scotty” Scott(vo), Nicholas Caldwell(vo), Leaveil Degree(vo),
ウィスパーズ・バンド
John Valentino(sax),Dewayne Sweet(key), Percy Scott(key), Grady Wilkins(key), Reggie Rugley(key), Emilio Conesa(g), Jamie Brewer(b), Dante’ Roberson(ds), Tracy Hudson (Vocal), Nicole Pearson?(vocal)
(コットンクラブのホームページにでているメンバーよりも、実際ステージに立ったメンバーは多くなっています)
■Setlist: Whispers @ Cotton Club, 12/17/2006 , Second Show
ウィスパーズ セットリスト コットンクラブ
( )は、歌ったシンガー、オリジナルなど。(From " ")は、その曲の入ったウィスパーズのオリジナル・アルバム、発表年。
show started 20:01
01. What You Won’t Do For Love (Tracy) (Bobby Caldwell)
02. Mr. Magic (Instrumental) (Grover Washington Jr.)
--. Intro
03. It’s A Love Thing (From "Imagination" - 1981)
04. (Let’s Go) All The Way (From "Headlights" - 1978)
05. In The Raw (From "Love Is Where You Find It" - 1982)
06. (Olivia) Lost And Turned Out (From "Headlights" - 1978)
07. Butta (From the latest CD "For Your Ears Only" - 2006)
08. And The Beat Goes On (From "The Whispers" - 1979)
09. Welcome Into My Dream (Grady Wilkins) (From "The Whispers" - 1979)
10. Are You Going My Way (From "So Good" - 1984)
11. Lady (From "The Whispers" - 1979)
12. This Christmas (From "Happy Holidays To You" - 1979)
13. The Christmas Song (Chestnuts Roasting On An Open Fire) (From "Happy Holidays To You" - 1979)
14. Keep On Lovin’ Me (From "Love For Love" - 1983)
15. Say Yes (From "Love Is Where You Find It" - 1982) 〜 A Riff Of "Just My Imagination" (Nicole Pearson?)
Enc. Rock Steady (From "Just Gets Better With Time" - 1987)
show ended 21:29
(2006年12月17日・日曜、丸の内コットン・クラブ=ウィスパーズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Whispers
2006-229
粋。
魅惑のR&Bコーラス・グループ、ウィスパーズの1年ぶりのコットンクラブでのライヴ。昨年は、日程があわずに行けなかったが今年は万難を排して参上。ウィスパーズの初来日は1988年3月だから、18年も前のことになる。その時は横浜の今はなきベイサイドクラブの柿落としだった。まだマーカスがいた5人組の頃だったと記憶する。その後、1999年5月チョコレートクリーム・プロダクションの招聘で渋谷オンエアでのライヴがあり久々に見て、感激新たにした。
いわゆるR&B系ヴォーカル・グループとしては、まさにメインストリームを行くグループ。まったく心配することなどない、安心して見ていられるライヴだ。バンドメンバーもかなり長くやっていて、タイトで見事。曲によっては、ウィスパーズのメンバーと同じように後ろで振りをつけるものだから、ステージが一挙に華やかになる。こういう伝統芸、形式美のものは何度見ても、いつ見てもいい。
2曲のバンド演奏などでウォームアップしてから本人登場。この日はコットンクラブのホームページにでているアーティスト写真と同じブルーのスーツで姿を現した彼らは、最初の「イッツ・ア・ラヴ・シング」から激しく歌って踊って見せた。
さて、このマリオ兄弟、いや、ザ・タッチ、いや双子のスコット兄弟、ステージ向かって左、片耳にピアスをしていたほうが2分兄のウォルター・スコット、向かって右がスコッティ・スコット。ライヴで見ていても、どっちがどっちだか、やっぱりわからなくなります。目をつぶって聴いてもやはり、どっちの声か判別不能。(笑) 髭がニコラス・コルドゥエル、そして、昔はアフロだったが今はスキンヘッドになったのがリヴェイル・ディグリー。彼らはすぐわかる。(当たり前か) 兄弟は背が低いがニックとリヴェイルが背が高い。
12月ならではのクリスマス・ソング・ダブル。「ディス・クリスマス」と「クリスマス・ソング」。特に1曲目はショート・ヴァージョンになっていたが、最後終わるところ、ウォルター、リヴェイル、スコッティ、ニコラスと並びリヴェイルがスコッティの肩に手をかけ、ちょうどその4人を後ろからスポットライトを当て、曲をぴたっと終えたところが見事だった。かっこいいったらありゃしない。左から背が低い、高い、低い、高いと実にうまくきれいに並んだ。
MC(司会)はウォルターが担当する。「もう20年以上前のことになる。ある人物がオーディションにやってきて、『ウィスパーズのために曲を書いた。あなたたちは、これを絶対にレコーディングするべきだ』と言って本人が歌っていた曲を聞かせてくれた。その曲がとてもよかったので、レコーディングしたんだが、今日はそれを作曲者本人に歌ってもらおう」 こうしてキーボードのグレイディー・ウィルキンスがステージ前に登場し、「ウェルカム・イントゥ・マイ・ドリーム」という曲を歌った。途中からメンバーが引き継いだが、なかなかいい曲だ。
おなじみのダンスナンバーから、ゆったりミディアム、スローバラードまでバランスよく配置し、まったく飽きさせない。相変わらず粋で品があってお見事な90分だった。しかし、もっともっと聴きたい曲が残っている。
■ライヴは、12月20日(水)まで。コットン・クラブ。
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/schedule/#12
■メンバー
ザ・ウィスパーズ
Walter Scott(vo), Wallace “Scotty” Scott(vo), Nicholas Caldwell(vo), Leaveil Degree(vo),
ウィスパーズ・バンド
John Valentino(sax),Dewayne Sweet(key), Percy Scott(key), Grady Wilkins(key), Reggie Rugley(key), Emilio Conesa(g), Jamie Brewer(b), Dante’ Roberson(ds), Tracy Hudson (Vocal), Nicole Pearson?(vocal)
(コットンクラブのホームページにでているメンバーよりも、実際ステージに立ったメンバーは多くなっています)
■Setlist: Whispers @ Cotton Club, 12/17/2006 , Second Show
ウィスパーズ セットリスト コットンクラブ
( )は、歌ったシンガー、オリジナルなど。(From " ")は、その曲の入ったウィスパーズのオリジナル・アルバム、発表年。
show started 20:01
01. What You Won’t Do For Love (Tracy) (Bobby Caldwell)
02. Mr. Magic (Instrumental) (Grover Washington Jr.)
--. Intro
03. It’s A Love Thing (From "Imagination" - 1981)
04. (Let’s Go) All The Way (From "Headlights" - 1978)
05. In The Raw (From "Love Is Where You Find It" - 1982)
06. (Olivia) Lost And Turned Out (From "Headlights" - 1978)
07. Butta (From the latest CD "For Your Ears Only" - 2006)
08. And The Beat Goes On (From "The Whispers" - 1979)
09. Welcome Into My Dream (Grady Wilkins) (From "The Whispers" - 1979)
10. Are You Going My Way (From "So Good" - 1984)
11. Lady (From "The Whispers" - 1979)
12. This Christmas (From "Happy Holidays To You" - 1979)
13. The Christmas Song (Chestnuts Roasting On An Open Fire) (From "Happy Holidays To You" - 1979)
14. Keep On Lovin’ Me (From "Love For Love" - 1983)
15. Say Yes (From "Love Is Where You Find It" - 1982) 〜 A Riff Of "Just My Imagination" (Nicole Pearson?)
Enc. Rock Steady (From "Just Gets Better With Time" - 1987)
show ended 21:29
(2006年12月17日・日曜、丸の内コットン・クラブ=ウィスパーズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Whispers
2006-229
【スティーヴィー、次作のタイトルを語る】
次作。
スティーヴィー・ワンダーが、12月14日(木)朝、ロスアンジェルスの自身が持つラジオ局KJLHに出演し、次のアルバムのタイトルを述べた。彼によると、現在スティーヴィーがてがけている作品タイトルは、『ゴスペル・インスパイアード・バイ・ルーラThe Gospel Inspired By Lula.』というもの。ルーラは今年他界した実母ルーラ・ハーダウェイのことで、ルーラにインスパイアー(影響)されたゴスペル、という意味。
スティーヴィーは、以前から「いずれゴスペル・アルバムをリリースしたい」ということを述べていたが、ひょっとすると、徐々にその構想が固まってきているのかもしれない。
また、彼にとってはこのところ、近親者、また仲のよいミュージシャンが次々と亡くなっていることも、ゴスペルへ向かわせるに充分な環境となっている。
例えば、2004年6月10日のレイ・チャールズ、7月のシリータ、2005年7月1日のルーサー・ヴァンドロス、そして、今年のルーラ・ハーダウェイ、ジェラルド・リヴァートなど、その度に心を痛めてきた。レイ・チャールズなどの葬儀では、ゴスペル曲を歌っている。
スティーヴィーは気が向くと、ロスアンジェルスのKJLHに登場し、その時々のトピックを語り、レコードをかけている。
ただ、ここでアルバムのタイトルを語ったからと言って、すぐにアルバムが発売されることは、まずない。現在のところ最新作の『タイム・トゥ・ラヴ』も10年がかりのリリースとなったからだ。おそらく、スティーヴィーの頭の中には、構想ができているアルバムの3枚や4枚はあるだろう。
とはいっても、来年2月の来日時にスティーヴィーによるゴスペル曲が聴かれる可能性は高い。<
ENT>MUSIC>ARTIST>Wonder, Stevie
次作。
スティーヴィー・ワンダーが、12月14日(木)朝、ロスアンジェルスの自身が持つラジオ局KJLHに出演し、次のアルバムのタイトルを述べた。彼によると、現在スティーヴィーがてがけている作品タイトルは、『ゴスペル・インスパイアード・バイ・ルーラThe Gospel Inspired By Lula.』というもの。ルーラは今年他界した実母ルーラ・ハーダウェイのことで、ルーラにインスパイアー(影響)されたゴスペル、という意味。
スティーヴィーは、以前から「いずれゴスペル・アルバムをリリースしたい」ということを述べていたが、ひょっとすると、徐々にその構想が固まってきているのかもしれない。
また、彼にとってはこのところ、近親者、また仲のよいミュージシャンが次々と亡くなっていることも、ゴスペルへ向かわせるに充分な環境となっている。
例えば、2004年6月10日のレイ・チャールズ、7月のシリータ、2005年7月1日のルーサー・ヴァンドロス、そして、今年のルーラ・ハーダウェイ、ジェラルド・リヴァートなど、その度に心を痛めてきた。レイ・チャールズなどの葬儀では、ゴスペル曲を歌っている。
スティーヴィーは気が向くと、ロスアンジェルスのKJLHに登場し、その時々のトピックを語り、レコードをかけている。
ただ、ここでアルバムのタイトルを語ったからと言って、すぐにアルバムが発売されることは、まずない。現在のところ最新作の『タイム・トゥ・ラヴ』も10年がかりのリリースとなったからだ。おそらく、スティーヴィーの頭の中には、構想ができているアルバムの3枚や4枚はあるだろう。
とはいっても、来年2月の来日時にスティーヴィーによるゴスペル曲が聴かれる可能性は高い。<
ENT>MUSIC>ARTIST>Wonder, Stevie
Atlantic Founder Ahmet Ertegun Dies At 83
2006年12月16日【アトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガン死去】
創始者。
インディ・レーベルからスタートしメジャーへと成長したレーベル、アトランティックの創始者のひとり、アーメット・アーティガンが去る2006年12月14日(木曜)ニューヨークで死去した。83歳だった。
アーティガンは、1923年7月31日トルコ・インスタンブール生まれ。その後ニューヨークに移り住み1947年、友人のハーブ・エイブラムソンとともにアトランティック・レコードを設立。元々好きだったジャズ、R&B、ブルースを録音、発売。すぐに人気レーベルとなる。1950年代に入ると、兄のネスヒ・アーティガン(1917年11月26日生まれ、1989年4月15日死去)、後に敏腕プロデューサーとして活躍するジェリー・ウェクスラー、同じくトルコ出身のアリフ・マーディンなどが参加。ネスヒは1955年以降、チャーリー・ミンガス、ジョン・コルトレーンなど多くのジャズ・アーティストと契約、多数の傑作アルバムを世に送り出した。
また、アトランティックからはルース・ブラウン、レイ・チャールズ、ドリフターズ、ベンEキングなどのR&B、ソウルの基礎となるアーティストが続々と登場。60年代に入ると、南部のソウル・レーベル、スタックス・レコードを配給しオーティス・レディングなどを次々とヒットさせ黒人音楽の発展に大きく寄与した。60年代後期には、ポップ、ロックの分野にも進出。
レッド・ゼッペリン、ローリング・ストーンズをアトランティックに招き、スターに育てた。その後もロバータ・フラック、ダニー・ハザウェイ、スピナーズ、シックなどのソウル系からシェール、アバなどのポップ勢まで世に送り出した。
アーメット・アーティガンは、1987年、ロックン・ロール殿堂入り。兄ネスヒも4年後に殿堂入りを果たす。
アーメットは、2006年10月29日、ニューヨークで行われていたビル・クリントン元大統領の誕生日パーティーでローリング・ストーンズが演奏していた時に、楽屋で転び、頭を強打し入院していた。しばらくは安定していたが、ここにきて容態が急変、14日にニューヨークのプレスバイテリアン病院で死去した。
葬儀は近親者ですませ、故郷トルコで埋葬される。年が明けて、ニューヨークでメモリアル・サーヴィス(偲ぶ会)が開かれる。
レイ・チャールズの自伝映画『レイ』、ボビー・ダーリンの自伝映画『ビヨンド・ザ・シー』などでも、アーメット・アーティガン役の人物が登場している。アトランティックは来年、創立60周年を迎える。
ENT>OBITUARY>Ertegun, Ahmet / July 31, 1923 -December 14, 2006 (83)
創始者。
インディ・レーベルからスタートしメジャーへと成長したレーベル、アトランティックの創始者のひとり、アーメット・アーティガンが去る2006年12月14日(木曜)ニューヨークで死去した。83歳だった。
アーティガンは、1923年7月31日トルコ・インスタンブール生まれ。その後ニューヨークに移り住み1947年、友人のハーブ・エイブラムソンとともにアトランティック・レコードを設立。元々好きだったジャズ、R&B、ブルースを録音、発売。すぐに人気レーベルとなる。1950年代に入ると、兄のネスヒ・アーティガン(1917年11月26日生まれ、1989年4月15日死去)、後に敏腕プロデューサーとして活躍するジェリー・ウェクスラー、同じくトルコ出身のアリフ・マーディンなどが参加。ネスヒは1955年以降、チャーリー・ミンガス、ジョン・コルトレーンなど多くのジャズ・アーティストと契約、多数の傑作アルバムを世に送り出した。
また、アトランティックからはルース・ブラウン、レイ・チャールズ、ドリフターズ、ベンEキングなどのR&B、ソウルの基礎となるアーティストが続々と登場。60年代に入ると、南部のソウル・レーベル、スタックス・レコードを配給しオーティス・レディングなどを次々とヒットさせ黒人音楽の発展に大きく寄与した。60年代後期には、ポップ、ロックの分野にも進出。
レッド・ゼッペリン、ローリング・ストーンズをアトランティックに招き、スターに育てた。その後もロバータ・フラック、ダニー・ハザウェイ、スピナーズ、シックなどのソウル系からシェール、アバなどのポップ勢まで世に送り出した。
アーメット・アーティガンは、1987年、ロックン・ロール殿堂入り。兄ネスヒも4年後に殿堂入りを果たす。
アーメットは、2006年10月29日、ニューヨークで行われていたビル・クリントン元大統領の誕生日パーティーでローリング・ストーンズが演奏していた時に、楽屋で転び、頭を強打し入院していた。しばらくは安定していたが、ここにきて容態が急変、14日にニューヨークのプレスバイテリアン病院で死去した。
葬儀は近親者ですませ、故郷トルコで埋葬される。年が明けて、ニューヨークでメモリアル・サーヴィス(偲ぶ会)が開かれる。
レイ・チャールズの自伝映画『レイ』、ボビー・ダーリンの自伝映画『ビヨンド・ザ・シー』などでも、アーメット・アーティガン役の人物が登場している。アトランティックは来年、創立60周年を迎える。
ENT>OBITUARY>Ertegun, Ahmet / July 31, 1923 -December 14, 2006 (83)
【ブラックバード・ナイト、恵比寿のブラウンシュガーで開催】
Pファンク。
70年代に、ハービー・ハンコックのヘッドハンターズのセッション、さらにジョージ・クリントン率いるPファンク軍団のギタリストとして活躍してきたブラックバード・マクナイトが来日、来週(12月18日=月曜)、恵比寿のソウルバー、ブラウン・シュガーでイヴェントを行う。当日は、ギターを持ち込み、若干のライヴも披露しつつ、ファンと友好を深める。
イヴェント詳細は次の通り。イヴェントへの入場は予約制となっている。第二部はすでに売り切れとなっており、第一部のみの予約を受け付けている。
+++++
Mrs.McKnight Presents Blackbyrd Night at Brown Sugar
日時:2006年12月18日(月) 第1部−7時〜9時 第2部−9時半開始(ソールドアウト) 入れ替え制
場所:Brown Sugar 東京都渋谷区恵比寿1-22-17 オーワビル3階 電話03-3441-6266
参加費:3,500円(1ドリンク付)
内容は、ブラックバードが現在制作中のアルバム『バウト・ファンキン・タイム』へ収録される予定の作品をコンピューターから音を出し、ギター演奏をその場で披露。他に写真撮影、サイン会など。
ブラックバード・マクナイトについては次のウェッブ(マイ・スペース)で。
http://www.myspace.com/blackbyrdmcknight
また予約など問合せは、次のアドレスへ。予約をする場合、フルネームと連絡先などを明記し、下記アドレスへ。
blackbyrdmcknight@yahoo.co.jp
ENT>MUSIC>EVENT>ANNOUNCEMENT>Blackbyrd Night
Pファンク。
70年代に、ハービー・ハンコックのヘッドハンターズのセッション、さらにジョージ・クリントン率いるPファンク軍団のギタリストとして活躍してきたブラックバード・マクナイトが来日、来週(12月18日=月曜)、恵比寿のソウルバー、ブラウン・シュガーでイヴェントを行う。当日は、ギターを持ち込み、若干のライヴも披露しつつ、ファンと友好を深める。
イヴェント詳細は次の通り。イヴェントへの入場は予約制となっている。第二部はすでに売り切れとなっており、第一部のみの予約を受け付けている。
+++++
Mrs.McKnight Presents Blackbyrd Night at Brown Sugar
日時:2006年12月18日(月) 第1部−7時〜9時 第2部−9時半開始(ソールドアウト) 入れ替え制
場所:Brown Sugar 東京都渋谷区恵比寿1-22-17 オーワビル3階 電話03-3441-6266
参加費:3,500円(1ドリンク付)
内容は、ブラックバードが現在制作中のアルバム『バウト・ファンキン・タイム』へ収録される予定の作品をコンピューターから音を出し、ギター演奏をその場で披露。他に写真撮影、サイン会など。
ブラックバード・マクナイトについては次のウェッブ(マイ・スペース)で。
http://www.myspace.com/blackbyrdmcknight
また予約など問合せは、次のアドレスへ。予約をする場合、フルネームと連絡先などを明記し、下記アドレスへ。
blackbyrdmcknight@yahoo.co.jp
ENT>MUSIC>EVENT>ANNOUNCEMENT>Blackbyrd Night
【AI、次の夢へ向けて突っ走れ】
病み付き。
子供の頃から歌手になるという夢を抱き続け、その夢に向かってただひたすら盲目的に走り続けているAI。ロスからやってきて初めて会ったとき、まだデビューも決まっていなかった彼女は、確固たる目標と、大いなる自信を持っていた。まもなく、彼女はメジャーと契約し、デビュー。そして、この頃から彼女はインタヴューなどで、夢はと聞かれ「グラミー賞を取ること」と答えるようになっていた。
音楽業界の関係者を集めたお披露目ライヴ(ショーケース)は、原宿の小さなライヴハウスだった。そこから着実にクラブツアーをやり、CDを作り、ついには「ストーリー」というヒット曲を出し、紅白にも出場を果たし、先月から全国ツアーを行っていた。そしてそのファイナル、最終日に聖地武道館にやってきた。
AIはさかんに言った。「武道館、やばいね、やばいね。もう泣きそう」 本当に大きくなったものだ。すごい。武道館はシンガーとしてのひとつの夢だ。AIはこの日、歌手としての夢をひとつかなえた。
一ヶ月前の渋谷より、さらにリラックスし、おしゃべりも長くなり、その分ショーも長くなったコンテンツ増量ライヴ。しかも、アンコールでは、CDで「ビューティフル」を一緒に歌っているアメリカのシンガー、トレイ・ソングスがスペシャル・ゲストとして登場した。
ショー全体を見た場合、オープニングの1曲目から6曲目までの30分弱、これが圧巻だ。歌、ダンス、無駄なしの完璧なエンタテインメント。この密度で2時間やられたらAIの前で僕はひれ伏します。
しかし、そこが後半おしゃべりも長くなって間延びして、適度に気が抜けるところが可愛いところ。観客に「マイ・フレンド〜〜」と歌わせるところ、ダンサーやバンドメンバーの紹介などがちょっとだらだらしすぎ。このあたりをばっさり3分の1くらいにするとテンポ感がよくなる。スローも含めてあれだけ歌を聴かせ、しかも踊りも、振り付けも決まっているので、この長すぎるしゃべりは、おもしろいはおもしろいのだが、あまりにもったいない。結局、この武道館は渋谷より30分近く長くなった。ライヴの部分がひじょうに良いだけに、その他の部分がテレビのヴァラエティー番組のようになってしまい残念だ。でも、AIの爆転はおもしろかった。(笑)
このライヴの模様はビデオ撮影され、来年DVDになって発売される予定だ。
「今日、(私のライヴに)初めて来た人(手を挙げて)」 「今まで来たことある人(手を挙げて)」 どちらも、同じくらい手が上がった。AIは叫んだ。「初めてを『病み付き』にさせよう!」
第1の夢、実現。さて、グラミーという第2の夢へ突っ走れ! You can make it!
■ AI過去関連記事
November 16, 2006
AI Tour Begins: The Best Is Yet To Come
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_11_16.html
■AIの最新作についての記事
http://www.aimusic.tv/pc/
http://www.universal-music.co.jp/ai/UPCI-1049.html
AI最新作
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000GUK6CG/soulsearchiho-22/ref=nosim/"
■SETLIST AI 12/13/2006
セットリスト AI 武道館
AI Setlist
show started 19:08
01. I Wanna Know
02. Beautiful (Remix)
03. Too Much (Remix)
04. We Gonna
=Dancer Show Case= (Change Dress #1)
05. Famous
06. Love Is
=MC 1=
07. Go Find Your Way
(Change Dress #2)
08. Believe
=MC2=
09. 最終宣告
(Change Dress #3)
10. E.O.
11. 未来
12. No Way
=メンバー紹介・各ソロ=
(Change Dress #4)
=MC3=
13. My Friend
14. Ooh
=MC4= (Dancer 紹介、各ソロなど)
15. Thank U
16. Music
Encore 1. Story
=MC5=
Encore 2. 戦場のメリークリスマス
=MC6=
Encore 3. Beautiful (With Trey Songz)
=MC7=
Encore 4. Life
show ended 21:58
(2006年12月13日水曜、日本武道館=AI(アイ)ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>AI
2006-227
病み付き。
子供の頃から歌手になるという夢を抱き続け、その夢に向かってただひたすら盲目的に走り続けているAI。ロスからやってきて初めて会ったとき、まだデビューも決まっていなかった彼女は、確固たる目標と、大いなる自信を持っていた。まもなく、彼女はメジャーと契約し、デビュー。そして、この頃から彼女はインタヴューなどで、夢はと聞かれ「グラミー賞を取ること」と答えるようになっていた。
音楽業界の関係者を集めたお披露目ライヴ(ショーケース)は、原宿の小さなライヴハウスだった。そこから着実にクラブツアーをやり、CDを作り、ついには「ストーリー」というヒット曲を出し、紅白にも出場を果たし、先月から全国ツアーを行っていた。そしてそのファイナル、最終日に聖地武道館にやってきた。
AIはさかんに言った。「武道館、やばいね、やばいね。もう泣きそう」 本当に大きくなったものだ。すごい。武道館はシンガーとしてのひとつの夢だ。AIはこの日、歌手としての夢をひとつかなえた。
一ヶ月前の渋谷より、さらにリラックスし、おしゃべりも長くなり、その分ショーも長くなったコンテンツ増量ライヴ。しかも、アンコールでは、CDで「ビューティフル」を一緒に歌っているアメリカのシンガー、トレイ・ソングスがスペシャル・ゲストとして登場した。
ショー全体を見た場合、オープニングの1曲目から6曲目までの30分弱、これが圧巻だ。歌、ダンス、無駄なしの完璧なエンタテインメント。この密度で2時間やられたらAIの前で僕はひれ伏します。
しかし、そこが後半おしゃべりも長くなって間延びして、適度に気が抜けるところが可愛いところ。観客に「マイ・フレンド〜〜」と歌わせるところ、ダンサーやバンドメンバーの紹介などがちょっとだらだらしすぎ。このあたりをばっさり3分の1くらいにするとテンポ感がよくなる。スローも含めてあれだけ歌を聴かせ、しかも踊りも、振り付けも決まっているので、この長すぎるしゃべりは、おもしろいはおもしろいのだが、あまりにもったいない。結局、この武道館は渋谷より30分近く長くなった。ライヴの部分がひじょうに良いだけに、その他の部分がテレビのヴァラエティー番組のようになってしまい残念だ。でも、AIの爆転はおもしろかった。(笑)
このライヴの模様はビデオ撮影され、来年DVDになって発売される予定だ。
「今日、(私のライヴに)初めて来た人(手を挙げて)」 「今まで来たことある人(手を挙げて)」 どちらも、同じくらい手が上がった。AIは叫んだ。「初めてを『病み付き』にさせよう!」
第1の夢、実現。さて、グラミーという第2の夢へ突っ走れ! You can make it!
■ AI過去関連記事
November 16, 2006
AI Tour Begins: The Best Is Yet To Come
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_11_16.html
■AIの最新作についての記事
http://www.aimusic.tv/pc/
http://www.universal-music.co.jp/ai/UPCI-1049.html
AI最新作
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000GUK6CG/soulsearchiho-22/ref=nosim/"
■SETLIST AI 12/13/2006
セットリスト AI 武道館
AI Setlist
show started 19:08
01. I Wanna Know
02. Beautiful (Remix)
03. Too Much (Remix)
04. We Gonna
=Dancer Show Case= (Change Dress #1)
05. Famous
06. Love Is
=MC 1=
07. Go Find Your Way
(Change Dress #2)
08. Believe
=MC2=
09. 最終宣告
(Change Dress #3)
10. E.O.
11. 未来
12. No Way
=メンバー紹介・各ソロ=
(Change Dress #4)
=MC3=
13. My Friend
14. Ooh
=MC4= (Dancer 紹介、各ソロなど)
15. Thank U
16. Music
Encore 1. Story
=MC5=
Encore 2. 戦場のメリークリスマス
=MC6=
Encore 3. Beautiful (With Trey Songz)
=MC7=
Encore 4. Life
show ended 21:58
(2006年12月13日水曜、日本武道館=AI(アイ)ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>AI
2006-227
【深町純、ダイニングバーをオープン】
祐天寺。
毎月恵比寿アートカフェで定例ライヴを開いているピアニスト、深町純さんが2006年12月9日(土)、祐天寺に自身のカフェ・レストラン・バー「FJ’s(エフ・ジェイズ)」をオープンした。
さっそく、行ってみた。駒沢通りを恵比寿駅から環七方面へ向かい、山手通りを越え、しばらくしての左側。駒沢通り沿いにある。中目黒駅から徒歩10分、祐天寺からは約7分という距離。
約23坪で40席ほど。天井が高いせいか、ちょっと広々とした感じ。奥にカウンターがあるが、基本的には椅子とテーブル。入って正面あたりに往年の名器CP80というキーボードがおいてある。その右側の壁には50号の絵と100号の絵、どちらも抽象画が飾られている。これは、なんと深町さんのお父様の作品だそうだ。
営業は午前11時から夜中の2時まで。月曜が定休日。チャージなどはなし。お茶、ランチ、夜ご飯、バー、デザートまで出す。深町さんによるとライヴもやるカフェ、ダイニング・バーという位置付けだそうだ。(食べ物のラストオーダーは10時半くらい)
「今は、この絵(父上の作品)を飾ってるけど、いずれ、これらの壁を作品を発表したい画家などに解放してもいいと思っている」という。音楽は少し大きめの音で出し、「BGMにはしない」とのこと。「僕のライヴも含めて、友人たちのライヴなんかもやっていくつもりだ」。
以前からこのようなお店を出したいって思ってたんですか。「いや、全然」 では急に決まったんですか。「そう、9月くらいに、急にね。それでばたばたいろいろ決めて、やった」 以前はここはモスバーガーがあったところだそうで、モスが別の場所に引っ越すためにここが空くことになり、深町さんがやることになった。
開店のお祝いのお花は、井上陽水、松山千春、沢田研二、森山良子など錚々たるメンバーで、その花を道行く人が興味津々で見ていく。
FJ’s
〒153-0061
東京都目黒区中目黒5-1-20
電話 03-3760-2825
ウェッブ http://fjs.fukamachi-jun.com/
定休・月曜
営業時間 午前11時から深夜2時
チャージなし ドリンク500円から
DINING>RESTAURANTS>FJ’s
祐天寺。
毎月恵比寿アートカフェで定例ライヴを開いているピアニスト、深町純さんが2006年12月9日(土)、祐天寺に自身のカフェ・レストラン・バー「FJ’s(エフ・ジェイズ)」をオープンした。
さっそく、行ってみた。駒沢通りを恵比寿駅から環七方面へ向かい、山手通りを越え、しばらくしての左側。駒沢通り沿いにある。中目黒駅から徒歩10分、祐天寺からは約7分という距離。
約23坪で40席ほど。天井が高いせいか、ちょっと広々とした感じ。奥にカウンターがあるが、基本的には椅子とテーブル。入って正面あたりに往年の名器CP80というキーボードがおいてある。その右側の壁には50号の絵と100号の絵、どちらも抽象画が飾られている。これは、なんと深町さんのお父様の作品だそうだ。
営業は午前11時から夜中の2時まで。月曜が定休日。チャージなどはなし。お茶、ランチ、夜ご飯、バー、デザートまで出す。深町さんによるとライヴもやるカフェ、ダイニング・バーという位置付けだそうだ。(食べ物のラストオーダーは10時半くらい)
「今は、この絵(父上の作品)を飾ってるけど、いずれ、これらの壁を作品を発表したい画家などに解放してもいいと思っている」という。音楽は少し大きめの音で出し、「BGMにはしない」とのこと。「僕のライヴも含めて、友人たちのライヴなんかもやっていくつもりだ」。
以前からこのようなお店を出したいって思ってたんですか。「いや、全然」 では急に決まったんですか。「そう、9月くらいに、急にね。それでばたばたいろいろ決めて、やった」 以前はここはモスバーガーがあったところだそうで、モスが別の場所に引っ越すためにここが空くことになり、深町さんがやることになった。
開店のお祝いのお花は、井上陽水、松山千春、沢田研二、森山良子など錚々たるメンバーで、その花を道行く人が興味津々で見ていく。
FJ’s
〒153-0061
東京都目黒区中目黒5-1-20
電話 03-3760-2825
ウェッブ http://fjs.fukamachi-jun.com/
定休・月曜
営業時間 午前11時から深夜2時
チャージなし ドリンク500円から
DINING>RESTAURANTS>FJ’s