【ファンクマスターズのライヴを勝本氏とミスター・ブラウンに見せる】

供養。

前日(4月19日)の勝本氏死去の衝撃からまださめやらず、それ以前からライヴ鑑賞予定だったファンク・マスターズに行った。彼らは1960年代後期から1970年代初期にかけて、ジェームス・ブラウンのバックバンドのメンバーだったクライド、ジャボが始めたファンク・バンド。そこに同じくブラウンのバックバンドだったJBズのリーダー、フレッド・ウェスリーをいれた編成になった。

セットリストは、主として彼らの最新作『カム・ゲット・サム・ディス』からのものとジェームス・ブラウンのヒット、JBズのヒット。

同行ソウルメートであるハセヤンが昼間電話してきて、「勝本さんとジェームス・ブラウンが一緒に映ってる写真とかないの? それ持ってきなよ」と言う。そこで、古い写真ファイルをひっぱりだして、いろいろ探したところ、1995年4月に撮影した写真がでてきた。ミスター・ブラウンと勝本さんとその横に僕が3人で映っている写真だ。二人ともいい表情をしていたので、近くの写真屋さんに行って僕の部分をトリミングして、ツーショットの写真をA4サイズに引き伸ばし、簡単な額装を施した。

ちょっとばかり恥ずかしかったが、テーブルの上にミスター・ブラウン&勝本氏のその額をステージに向けて置いた。ジェームス・ブラウンの曲、JBズの曲、たっぷり聴いてください、勝本さん、そして、ミスター・ブラウン、ご一緒に。ライヴのほうは、年齢が行ってるだけあってか、かなりゆるいが。(笑) やはり、ミスター・ブラウンのバンドマスターとしての統率力みたいなものを改めて感じさせられた。あたかも、両親が外出している間に子供たちが留守の家で好き勝手にやっている、といった感じだ。

ハセヤンがライヴが終わった後言った。「俺たち(ハセヤンと僕)が高校生の頃から、通っていたディスコ(六本木のエンバシー)のマスターだった勝本さんがいて、勝本さんが大好きだったジェームス・ブラウンがいた。もちろん、俺たちもJB大好きだった。勝本さんとJBはマブダチになった。それでジェームス・ブラウンが去年逝ってしまって、その後を追うように勝本さんも逝った。しかも、ちょうどフレッド・ウェスリーやこのクライドたちが来てる週に亡くなってしまうっていうのも、何かの縁だよ。だから、これは俺たちの自己満足かもしれないけど、ジェームス・ブラウンと勝本さんが一緒に映ってる写真を持って、彼らふたりにこのJBズの演奏を聴かせるってことで、俺たち二人の勝本さんに対する供養みたいなものができると思うんだ。さっき、昼間、電話して、まさか吉岡がこんなに額装までしてくると思わなかった。俺は病院には行けなかったけど、みなそれぞれのやり方で供養できるんだと思う。これでね、これを一緒にやったことで、別の意味で俺たちの30年以上の絆っていうのも、より強くなったと思うよ」

僕はうなずくしかなかった。ハセヤンが最後に勝本氏を見たのは、昨年のジェームス・ブラウンのライヴ・ステージでのことだったという。

ライヴ中、ハセヤンがこの額持って二人で写真を撮ろうと言い出した。ライヴ終わってからにしようよ、と言ったが撮ろう撮ろうというので、結局写真を撮っていたら、案の定、お店の人がやってきて止められた。(笑) 

勝本&ブラウンの写真は、後でダンステリア(勝本氏の店)や三宿のソウルナッツ(マイケル鶴岡氏がいる店)にも持って行こうと思う。

■過去関連記事

August 02, 2006
Masters Of Groove Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/001183.html

■FunkMasters 最新CD
Come Get Summa This
http://cdbaby.com/cd/funkmasters2

■Setlist : FunkMasters featuring JAB’O STARKS, CLYDE STUBBLEFIELD & FRED WESLEY @ Cotton Club, April 20, 2007
セットリスト : ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー
(transcribed by yoshioka.masaharu)

show started 21:34
01. Intro - Pass The Peas
02. Cold Sweat
03. House Party (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
04. I Feel Good
05. Papa’s Got A Brand New Bag
06. Never Make Your Move Too Soon  (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
07. Mustang Sally (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
08. Breakin’ Bread
09. Come Get Summa This (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
Enc1. Let’s Stay Together (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
Enc2. Doing It To Death
show ended 22:53

(2007年4月20日金曜、丸の内コットンクラブ=ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Funk Masters Featuring Jabo Starks, Clyde Stubblefield, Fred Wesley
2007-50
【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出〜パート1】

自宅訪問。

勝本さんとは、ジェームス・ブラウンが来ると必ずブラウンを追っかけて、あちこちに行った。だが、「勝本・ブラウン話」で僕にとって一番思い出深いのは、日本ではない。1996年1月、ジェームス・ブラウンの当時の奥さんだったエイドリアンさんが亡くなった時に、勝本さんと二人で葬儀に出席するためにはるばるオーガスタまで行った時のことだ。ミスター・ブラウン死去の時に書こうと思っていたが、この機会に記憶を整理して書いてみることにする。

奥さんが亡くなってすぐに勝本さんが「吉岡くん、一緒に行こう」と言って、有無を言わさずあっという間に航空券やホテルなどを手配した。たぶん、死去を知って翌日か2日後くらいにオーガスタ行きを決めていた、と思う。あの時、葬儀の日程などどうやって調べたんだろう。僕がダニー・レイかなんかに国際電話でもしたのかな。よく覚えていない。

成田→ロスアンジェルス→アトランタ→オーガスタ。けっこう時間がかかる。オーガスタと言えば、ゴルフのマスターズが有名だが、東京からは遠いのだ。

アトランタからオーガスタは、20人も乗れないようなすごく小さな飛行機だったと記憶する。オーガスタの飛行場はとても小さく、着陸した地点からメインビルまで普通に歩いた。LAには朝に着いたが、オーガスタに着いたのは時差がLAとは3時間あるが、夜遅くなっていた。

そこからシェラトン・ホテルにチェックインするが、ここはミスター・ブラウンのオフィースのすぐ隣で、ブラウン関係者もよく打ちあわせなどで訪れる。そして、メインのレストランの一角には、ジェームス・ブラウン専用の席があった。いつも彼はここに来ると、必ずここに座るという。他の人は座れないらしい。で、メニューにはジェームス・ブラウンの大好物のサラダ(たぶん、シーザー・サラダみたいなものだったと思う)があった。メニューに「ジェームス・ブラウン・サラダ」と書いてあったかどうかは、ちょっとはっきりしない。メニューには「シーザー・サラダ」と書いてあり、通称が「ジェームス・ブラウン・サラダ」だったか、はっきりしない。その日は、ぐったり疲れたので、即就寝した。

葬儀は到着した翌日に、市の公会堂のようなところで行われたが、ずっとダニー・レイが僕たちふたりの面倒を見てくれた。葬儀会場に行くのも、ダニーがホテルまで迎えに来てくれ、つれていってくれた。この会場には一般の人も入れた。ゴスペルのシンガーたちが何曲も歌ったり、スピーチがされたりしていた。ミスター・ブラウンはずっと棺のそばに立っていた。僕たちも順に従って献花した。この会場で、ハリー・ワインガー(ジェームス・ブラウンのボックスセットを作ったポリグラム・レコードのディレクター)とばったり会い、このためにわざわざ日本から来たというと彼はあきれたように驚いていた。

約1時間半だろうか、その儀式が終わると遺体の入ったカスケット(棺)が外の車に乗せられ、墓地に向かった。その車列は何十台も連なっていた。その連なり方が映画のようで壮観だった。墓地につくと、また儀式があって、お祈りや歌があった。そして、牧師の声とともにその棺が地中に下ろされた。アメリカでは荼毘(だび)にふすということをしないらしい。このあたりで、ボビー・バードや、マーヴァ・ホイットニー、マーサ・ハイ、フレッド・トーマスらJBズの面々に会った。みな、カラフルなスーツを着ていてドレスアップしている。

僕はアメリカでの葬儀というのに初めて出席したが、日本のように黒一色ではないのが自然らしい。お別れというより、神の元への旅立ち、セレブレーションだという認識のほうが強いからという説明を受けた。

その後、シェラトンに戻り、ミスター・ブラウンが関係者に食事を振舞った。70−100人くらいはいたのではないだろうか。広いレストランがブラウン関係者で埋め尽くされた。このレストランに戻ってきた頃にはブラウンもかなり元気になっていた。おそらく古い仲間と再会できたことがうれしかったのだろう。

ミスター・ブラウンは、まめにあちこちのテーブルに出向き、挨拶をしていた。そして、勝本さんのところに来て、ブラウンが「今日はごたごたしてゆっくり話せない。明日、時間はあるのか。私のうちに来なさい」というようなことを言った。勝本さんは、その前年、一度ブラウンの自宅に招かれていたので、今度が二度目になるが、僕はまったくの初めて。恐れ多かった。

そして、その翌日、勝本さんと僕がミスター・ブラウンの自宅に招かれたのだ。ホテルに迎えに来てくれたのは、もちろんダニー・レイだった。

ホテルからミスター・ブラウンのうちまでは、約20分。シェラトンから広い国道か州道を走っていく。まもなく、大きな川があり、そこの大きな橋を渡ると、ジョージア州がサウス・キャロライナ州になった。川が州境だったのだ。サウス・キャロライナはこんなに近かったんだ、と思った。

「そうか、たったこれだけの距離でも、州境を越えたカーチェースをすれば、管轄は地元警察ではなく、FBI(連邦警察)になるんだ。きっとミスター・ブラウンは、この橋でも渡ったんじゃないだろうか」などと考えてしまった。

ほとんど対向車もなく、しばらく行くと、ダニーが横道に入っていった。横道といっても、狭くない。そして、ちょっとした一角に車を進めた。ちょうど、扉のない大きな門柱のようなものの横を通って中に入ったのだ。そこからジェームス・ブラウン邸の敷地内にはいったのだ。

(この項続く)

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25
(お知らせ:【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出〜パート2】 は明日以降にお送りします)

【いい観客が作るいいライヴ・パフォーマンス】

オーディエンス。

ジェームス・ブラウンの屋台骨、まさにバックボーンとなったドラマー、クライド・スタッブルフィールドとジャボ・スタークス、そしてファンキー・トロンボーン奏者、フレッド・ウェスリー、3人あわせてファンク・マスターズが『ソウル・ブレンズ』にゲストでやってきた。日曜のファーストステージは5時から始まるので、番組冒頭ほんの15分弱しか出演できなかったが、もりあがったトークでプロモーションをしていった。

出番が終わって、彼らがスタジオを出ようとした時、スタジオ内にあったドラムセットにクライドが座って、叩き出した。ところが番組ではすぐに次のコーナーになるので、スタッフが「はやく、はやく(出て)」と大慌てになったのがおもしろかった。

さて、そのプロモーションのせいか日曜のセカンドショーは満員に。ということで、この日はかなりミュージシャンたちもやる気満々になっていた。特に印象的だったのは、彼らがやることは基本的にはいつも同じなのに、この日は彼らのことを本当に見たい、好きな人たちがたくさん来ていたために、ミュージシャンたちがその観客のリアクションに反応していたことだ。最初から観客は、リズムに踊り、アンコールの「ドゥーイン・イット・トゥ・デス」では、ほぼ総立ちになった。

また「パス・ザ・ピーズ!」とふれば、観客は「パス・ザ・ピーズ!」と歌う。少しもたつき気味の「セックス・マシン」でも、「ライド・オン・ライド・オン」と観客が歌う。観客はかなり若く、20代から30代、しかも渋谷でマンハッタンのレコード袋持ってます的な男性が多く見受けられた。おそらく90年代以降のレア・グルーヴのブームでJBズ、あるいは、フレッド・ウェスリー、ジャボ、クライドらの音楽に接したファンが来ていたのだろう。もちろん、昔からのジェームス・ブラウン・ファンもいた。結局、そのアーティストの音楽を知っているファンをたくさん動員できれば、ミュージシャンも喜んでいい演奏を見せることになるわけだ。

それにしてもフレッド・ウェスリーのトロンボーンというのは、一瞬にしてフレッドとわかる。かっこいいなあ。

この日のファンクマスターたちは、のりが違うパフォーマンスになり、結果、金曜より10分以上長くなった。あたりまえなのだが、改めてライヴはオーディエンスとミュージシャンが一緒に作るものだなあということを痛切に感じた。観客に拍手。

■Setlist : FunkMasters featuring JAB’O STARKS, CLYDE STUBBLEFIELD & FRED WESLEY @ Cotton Club, April 20, 2007
セットリスト : ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー
(transcribed by yoshioka.masaharu)

show started 20:02
01. Intro - Pass The Peas
02. Cold Sweat (Clyde)
03. Stormy Monday (Jabo)
04. Sex Machine (Clyde)
05. Never Make Your Move Too Soon (Jabo) (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
06. I Feel Good (Clyde)
07. Papa’s Got A Brand New Bag (Clyde)
08. House Party (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
09. Breakin’ Bread (Fred)
10. Come Get Summa This (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
11. Let’s Stay Together (Clyde) (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
12. Mustang Sally (Jabo) (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")
Enc. Doing It To Death
show ended 21:35

(2007年4月22日日曜、丸の内コットンクラブ=ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Funk Masters Featuring Jabo Starks, Clyde Stubblefield, Fred Wesley
2007-51
【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出〜パート2】

(勝本氏と僕は、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀に出席するためにオーガスタに旅立った。そこでわれわれを迎えてくれたのはダニー・レイ、そして、ミスター・ブラウンだった)(2007年4月22日付日記の続き)

豪邸。

門は特別閉まっていたわけでもなく、すんなり、中に入った。するとすぐに道の横に立て看板が見えた。よく道路などにある標識だ。そこには、こう書かれていた。James Brown Boulevard(ジェームス・ブラウン大通り)。 それを見た瞬間は度肝を抜かれたが、後になってオーガスタにジェームス・ブラウン・ブルヴァードができたと聞いて納得した。

ゆるやかなカーヴになり若干坂を下がる感じで車が進むと右手に小さな池が見えた。そしてさらに進むと大きな母屋(おもや)があり、その左側に車庫が見えた。そこには、たくさんの高級車が止まっていた。正確には覚えていないが、ロールス・ロイス、何台かのメルセデス、ジャグワーもあったような気がする。楽に10台以上あっただろう。

僕はダニー・レイに尋ねた。「あれ、今日はパーティーでもやってるの?」 勝本さんや僕が呼ばれたのは、パーティーでもやってて、それで呼ばれたのかと思ったのだ。ダニーは答えた。「ノー、ノー、あれはみんなミスター・ブラウンの車だ」 「ひえ〜〜、まじで」 ダニーが続けた。「ミスター・ブラウンはとても気前がいいんだ。たくさん車を持っているので、スタッフなどにも時々、車をあげてしまうんだよ」

ダニーは勝手知ってる家と言う感じで、母屋の前に車を止めると、われわれを家のほうに案内した。玄関のようなところでしばらく待っていると、お手伝いさんのような人がでてきて、居間に通された。

そこにはミスター・ブラウンが大きな椅子に座ってヘアメイクの人に、髪の毛をいろいろやってもらっていた。「おお、ようこそ、座ってくれ。何を飲む? 何でも言ってくれ」と聞かれた。勝本さんと目を合わせ、何にしようか迷っているとミスター・ブラウンに言われた。「コーヒー、オア、コーク?(コーヒーかコーラか?)」 なんで、コーヒーかコーラなんだろう、と思いつつも、コーラと答えた。ひょっとすると、「氷もいるか」と聞かれたかもしれないが、記憶は定かではない。

しばらくして、お手伝いさんがコーラを二人分持ってきた。乾杯したか、ありがとうと言ったのか、いずれにせよ、僕も勝本さんもそのコーラに口をつけた。僕はかなり興奮していて、どんな話をしたかよく覚えていない。たぶん、時候の挨拶でもして、昨日の葬儀はお疲れ様といったような話を少ししたのだと思う。ミスター・ブラウンは、奥さんの死について、医学的な説明を少ししてくれたような記憶があるが、さすがに医学用語の単語はわからなかった。

それからちょっとビジネスっぽい話になった。確か、その頃、ミスター・ブラウンは娘のヤマ・ブラウンを売り出そうとしていた。ミスター・ブラウンは僕と勝本さんの両方の目を交互に見て話す。目線があっているときは、やはり緊張する。これはいつものことだ。

はっきりは覚えていないのだが、ヤマ・ブラウンは自分の娘で今売り出そうとしている、CDシングルかなにかがあって、アルバムを作る(あるいはすでにアルバムはできていたかも)、それをアメリカでは自分のレーベルから出すが、日本でリリースしてくれるところを探してくれ、といった話だったと思う。とりあえず、CDを受け取って、聞いて日本のレコード会社に聞いてみるといった感じだった。

そのとき、ミスター・ブラウンは、勝本さんに向かって「君のためなら、なんでもするから、何でも言ってくれ」と言った。これは、ヤマのリリースのためなら何でも協力する、という意味と、文字通り、勝本さんが必要なことがあればなんでも力になる、ということを意味していた。「俺たちは知り合って何年だ? 20年以上だな。初めて日本に行った時にとった写真を飾ってるんだ」 以後、この話は彼が日本に来て会った時など幾度となく繰り返された。(笑) まさに話題のループ状態だ。そして、ミスター・ブラウンは「お前は俺の日本の息子のようなものだ」とも言う。

ミスター・ブラウンは、ファミリー、親しい者、仲間をひじょうに大切にする。仲間のために最大級の気遣いと施しをする。もっともヤマ・ブラウンのレコードに関しては、日本に帰って聞いたところ、日本のレコード会社でのリリースはむずかしく、立ち消えになった。その後、ヤマはドクター(医師)になったのは、ファンの方ならご存知かもしれない。

僕はミスター・ブラウンに行きがけに見た敷地内の池について尋ねた。「ミスター・ブラウン、あなたは釣りがお好きなのですか」 「いやあ、釣りをする暇はほとんどないんだ。今は、池にどんどん鱒(マス=だったと思う)を放ってるところだな」 釣るんじゃなくて、池にどんどん放し飼いにするんだ、と思って、またまた度肝を抜かれた。

ブラウン邸には小一時間いたのだろうか。外までミスター・ブラウンは見送ってくれた。そして再び、ダニー・レイの車に乗って僕たちはホテルに戻った。そのとき、僕はブラウン邸の全貌を見たわけではないが、ダニー・レイがその敷地がものすごく広く、かなり大きな豪邸だと教えてくれた。

ブラウンが昨年(2006年)亡くなり、その遺体が敷地内に埋葬されるかもしれない、というニュースを見たとき、なるほど、あれだけ広い敷地だったら、どこにでもお墓は作れると思ったものだ。

(この項続く)

なお、訃報のお知らせです。

++++

              訃 報

ドン勝本こと勝本謙次(57才)は病気治療中のところ薬石の効もなく、平成19年4月 19日永眠致しました。

謹んでお知らせいたします

生前、音楽プロデューサー、全国ディスコ協会、グループKING OF SOULなど幅広い精力的な活動は多くの皆様より熱いご支持を賜りました。また、あのジェームス・ブラウンが「心のブラザー」と慕う唯一の日本人としても有名でした。

なお、通夜及び告別式は下記の通り執り行なわれます。

                         ドン勝本・葬儀委員会


               記

日時  通 夜 2007年4月25日(水曜) 午後6時〜7時
    告別式 2007年4月26日(木曜) 午前11時〜12時

場所  臨海斎場
     〒143-0001 大田区東海1-3-1(駐車場完備)
     TEL 03-5755-2833
http://www.rinkaisaijo.or.jp/

喪主  勝本有輝(長男)
     港区白金1-29-13 BF ダンステリア 03-3444-0097

献花受付:TEL 03-3751-0166 FAX 03-3752-8244

+++++

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)
【チャーリー・ウィルソン・ライヴ】

熱圧。

ギャップ・バンドのリードシンガー、チャーリー・ウィルソンのソロ・ライヴ。調べてみると、ギャップ・バンドとしては、70年代に横浜のディスコ出演、1990年7月の汐留パックス・シアター、さらに1995年日比谷野外音楽堂の『レッツ・グルーヴ』でも来日している。80年代、渋谷のライヴ・インにも来日したのかな。(記憶が確かでない) それでも、12年ぶりか。チャーリーには84年12月と90年7月にインタヴューもしていた。チャーリーのソロとしては、初になりそう。

さて、初日にもかかわらず、チャーリーは全力疾走、エンタテインメント大爆発だった。おそらく1952年ごろの生まれなので、すでに55歳。おそるべし、現役だ。激しく踊り、歌い、中のシャツ、ジャケットは汗びっしょり。ダンサー4人を従えての踊りは、ハイエナジーで圧巻だ。時にマイケル・ジャクソン、時にモリス・デイ、一瞬ジェームス・ブラウンの動きも見せる。そして、バラードでは徹底的にセクシーに。ここまでエロエロでやってくれれば、マーヴィン・ゲイ〜テディー・ペンダグラス路線もあり。ライヴとしては、かなりよかった。

途中で、よく口笛のような「ヒューッ」という音が入っていたが、チャーリーが口でやっていたようだ。彼のヴォーカルは、ゴスペルをベースにしているだけあって、実に熱く、そして太く、音圧がある。やはり下記セットリスト6から9のギャップ・バンド時代のヒットメドレーは圧巻だ。

バンドは、ドラムス、キーボード2人、電気パッド、ギター、コーラス3人、ダンサー4人の編成。ベースの部分はキーボードがベースシンセサイザーを出していたようだ。みな、白いスーツに帽子に赤いネクタイというおしゃれないでたち。ヴィジュアルもいける。

チャーリーは徹底的に観客を巻き込もうとする。初日でこれだけやってくれれば、週末になって観客ののりがよくなれば、もっと熱いステージになりそうだ。コン・ファンク・シャン、バーケイズ並みの力で押しまくるファンク・ライヴだ。

■ベストアルバム

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000E6G4I2/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■コットンクラブ 
http://www.cottonclubjapan.co.jp/jp/index.html
チャーリー・ウィルソンのライヴは24日(土曜)まで。

■メンバー

チャーリー・ウィルソン・オブ・ザ・ギャップ・バンド
Charlie Wilson(vo), Waymon Starks(program,back vo), Cordell Walton(MD,key), Armad Davis(key), Michael Anderson(g), Derrick Sorrell(ds), Audra Alexander(back vo), Victoria Vaughn(back vo), Aubrey Swann(back vo), Patricia Dukes(dancer), Danielle Brown(dancer), Lamont Toliver(dancer), Alecia Fears(dancer)

■Setlist : Charlie Wilson of The Gap Band: Cotton Club, April 24, 2007
セットリスト チャーリー・ウィルソン・オブ・ザ・ギャップ・バンド 
(transcribed by yoshioka.masaharu)

show started 21:31
01. So Hot
02. Asking Questions
03. Burn Rubber (Why You Wanna Hurt Me)
04. Let’s Chill
05. Floatin’
06. Outstanding
07. You Dropped A Bomb On Me
08. Early In The Morning
09. Party Train
10. Magic
11. Charlie, Last Name Wilson
show ended 22:44

(2007年4月24日火曜、コットンクラブ=チャーリー・ウィルソン・オブ・ザ・ギャップ・バンド)
ENT>MUSIC>LIVE>Wilson, Charlie of The Gap Band
2007-52
【ドン勝本氏、お通夜】

献花。

2007年4月19日(木)に逝去したドン勝本さんのお通夜が、25日18時から都内の臨海斎場でしめやかに盛大に行われた。勝本さんを知る人が多数つめかけ、最後のお別れをした。

式は18時過ぎから斎場内に入れないほどの人の前で、まず黙祷を捧げてから、ジェームス・ブラウンの「トライ・ミー」(インストゥルメンタル)を聞いて始まった。無宗教とのことで、祭壇には多くの花が飾られ、その中央に在りし日の勝本さんの写真が飾られた。斎場中央に棺が置かれ、勝本さんはその中に自らのグループ「キング・オブ・ソウル」の一員として着ていた赤のスーツをまとい横たわっていた。その前に献花台が置かれ、まず一本だけ花が置かれていた。

そして、「キング・オブ・ソウル」のメンバー、ニック岡井さんとマイケル鶴岡さんがそれぞれマイクに向かった。先にマイクを握ったニックの言葉は「長い間、ソウル、ディスコの業界でお疲れ様。ジェームス・ブラウンとゆっくりしてください」といった内容の短い言葉だったが、ほとんど震えていた。マイケルも、「長い間、お疲れ様。今日は、勝本さん、おなじみの赤いスーツで3人揃ってますよ。キング・オブ・ソウル、ドン勝本、最後のステージ、みんなにお別れしてください」と振り絞って言葉を送った。

棺を中央に、向かって左にマイケル、ニック、江守さん、矢作さんら。そして、向かって右に息子さん、お兄様、お母様ら親族。この後、弔問客が次々と献花をした。

後追い。

奇しくも、僕が座った席が献花の一番最初の席ということで、最初の献花をさせていただくことになった。ゆっくり献花したかったが、さすがにそれはかなわず、両サイドに挨拶をし、出口に進んだ。ひじょうにシンプルな式だった。出口に出ると、まだ受付を済ませていない人たちが大変な数いらした。さすがにソウル界のドンだ。その人たちの熱気で、暑かった。なんでも、お通夜には400人以上の人が集まったらしい。

献花後、二階の部屋に移ると、そこもものすごい人になっていた。その部屋の一番奥に、昔の勝本さんの写真がたくさん飾られていた。その前に、色紙があり、すでに何人かの人がメッセージを寄せていた。江守さんから、「明日、棺にいれるから、なにか書いてよ」と言われ、何か書こうと思って、他の人のメッセージを読んだ。みな、勝本さんへのお礼が書かれていた。

そんな中、僕の目をぱっと引いたのが江守さんの一言だった。もちろん、いつもの江守さんのおなじみのファンキーなイラストの横にシンプルにこう書かれていたのだ。「カツ、bye bye」。江守さんは、いつも彼のことを「カツ」と呼んでいた。江守さんらしい、いい言葉だ。胸が熱くなった。僕もなんて書こうか、ずいぶんと迷ったが、結局こう書いた。「勝本さん、ミスター・ブラウンとファンキー・ダンス!」 

ミスター・ブラウンの逝去から4ヶ月もしないうちの旅立ち。あるゆる点で、いつもミスター・ブラウンの後を追っていた勝本さんらしい後追いだ。

■今日、大田区・臨海斎場で午前11時から告別式。

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)
【ドン勝本、ミスター・ブラウンと永遠のブラザーに】

別れ。

4月26日午前11時、さわやかな春の日差しが、徐々に強くなってきた快晴の大田区臨海斎場。ドン勝本氏の告別式には、前日の通夜同様多くの人が訪れた。

最初に江守さんが弔辞を述べた。彼はあまりに早すぎる死を残念がり、こうも語った。「3年前、僕は、後追いでカツと同じ病気になった。そこでカツからいろいろ聞いて適切な処置をしたおかげで今日、こうして生きていられる。今、僕がこうして生きていられるのは、カツがいてくれたからだ。本当にありがとう。そして、本当にさようなら」 参列者からのすすり泣きが絶え間なく続く。

棺には、赤のスーツを着た勝本さん。帽子。昨年発売された『オール・アバウト・ソウル・ディスコ・ダンス』の本、そして、ジェームス・ブラウンの1971年のアポロ劇場でのライヴを収録したアルバム『レヴォリューション・オブ・ザ・マインド』のヴァイナル盤もいれられていた。そして、参列者が次々と花を中にいれていく。

その花をいれ終わったところで、勝本さんが発掘し、メジャーからデビューしたシンガー、AI(アイ)が、お別れの歌を歌った。僕もAIとは、デビュー前から勝本さんを通じて何度も会っていたから、まさにファミリーだ。勝本さんがいたから日本でシンガーとして歩み始めることができたのだから、ある意味大恩人である。そんなAIだから、歌う前からもう顔がくしゃくしゃになっている。先週の病院でも何度も会っていた。夜中、いや朝方まで、彼女やそのスタッフもつめていた。

前日、AIの事務所社長から明日AIが歌うんだけど、何がいいと思う、と聞かれ、軽く「アメイジング・グレイスとか、いいんじゃない」と言ったら、果たして、AIはその「アメイジング・グレイス」を棺のまん前でアカペラで歌い始めた。AIは、途中泣くのをこらえて必死だ。それでも、途中から転調し、声を張り上げ、見事に「アメイジング・グレイス」を歌いきった。

こういうとき、拍手ってどうなんだろう。やはり、拍手するところではなかったようで、拍手は巻き起こらなかった。日本の葬儀だからかな。ジェームス・ブラウンの葬儀でのライヴは、まるでコンサートのように、拍手や掛け声が起こっていたのだが。お国が違えば、風習も違う。僕は、心の中で精一杯の拍手喝采をAIに送った。「よく歌った! よくやった!」 

そして、ふたが閉められ、出棺し、火葬場へと移動。最後のお別れをして、棺は火葬台の中にはいっていった。1時間弱が過ぎて、遺骨を骨壷にいれた。

再会。

思えば、14日(土)に連絡があり、15日(日)の『ソウル・ブレンズ』の前にお見舞いに行った時にはまだ話ができた。その時点で医者から「あと一ヶ月以内」と言われていたので、勝本さんの誕生日の5月20日まではどうだろう、なんとかもたないかなあ、と心の中で祈った。しかし、水曜には個室に移り、水曜深夜にお見舞いにかけつけても、話はできなかった。木曜午後人工呼吸器がつけられたと言われ、かけつけると、息苦しそうだった。だが、脈は安定していたので、そんなにすぐに何かあるとは思えなかった。しかし、医者は「いつ何が起こってもおかしくありません」と言っていた。みんなが集まっていた待合室に行ってしばらくすると、DJアトムが「今、息を引き取られたそうです」と言った。すぐに病室に戻ったが、すでに看護婦さんが呼吸器をはずし始めていた。

ここ2週間くらいのことが、一気にフラッシュバックした。それだけでなく、過去30年以上の勝本さんとのさまざまなことが思い出された。

葬儀場を出た頃にはすでに2時半をまわっていた。車に戻ると、太陽の光に熱せられた車の中は灼熱地獄さながらの暑さだった。扉を全開にして、しばらく放置し、やっと車に乗った。春の暖かさは、初夏の香りを漂わせていた。

勝本さん、天国でミスター・ブラウンに言ってください。「また、あなたの後を追って、すぐにきてしまいました(笑)」 きっとブラウンは言うだろう。「おお、そうか、ちょっとはやすぎないか。でも、まあいいだろう。はははは。で、俺たちの付き合いは何年だ? 30年以上だよな。おまえ、初めて会ったときは、大きなアフロヘアだったな。ははは」 

勝本さんとミスター・ブラウンは再会し、永遠の親友、ブラザーになった。

■お知らせ

来る2007年5月20日(日)(ドン勝本の誕生日)、白金ダンステリアでドン勝本さんを偲ぶ会が行われることになりました。ふるってご参加ください。詳細については、また後日お知らせします。

http://www1.ocn.ne.jp/~danteri/main.htm
DANCETERIA
〒108-0072
東京都港区白金1-29-13 白金ビレッヂB1
TEL:ダンステリア専用) 03-3444-0097

■過去関連記事

(下記は勝本氏が「ミスター・ブラウンの後を追っている」と言って、ブラウンに大受けした時の話です)

2003/10/06 (Mon)
I Ate Chicken With James Brown (Part 1)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031006.html

2003/10/07 (Tue)
I Ate Chicken With James Brown (Part 2)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200310/diary20031007.html

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)
【日米の「キング・オブ・ソウル」】

認知。

勝本さんが、「キング・オブ・ソウル」という踊りメインのグループを、盟友ニック岡井さんとマイケル鶴岡さんとともに結成したのは1990年のこと。最初は、ちょっとしたイヴェントなどで、ジェームス・ブラウンのステップや音楽をやろうということから始まったらしいが、だんだんと本格的になり、イヴェントやアーティストのライヴの前座などをやるうちに、メジャーのレコード会社と契約。CDを出すまでにいたった。

そして、あちこちのイヴェントなどで踊っている姿をビデオなどに収録するようになり、「キング・オブ・ソウル」というグループは、日本のクラブ、ソウル・シーンでちょっとした話題になっていく。ライヴ自体も60分から90分くらいまでできるようになり、ツアーも可能になった。

そんなキング・オブ・ソウルのライヴ映像を、勝本さんは、ジェームス・ブラウンに見せようと決意する。そして、それが実現化するのが1995年4月のことだ。ミスター・ブラウンがこの時は横浜文化体育館でショーを行った。この時は、ぼくもけっこうべったりついていて、文体でのリハーサルの模様もみることができた。そして、ライヴ後、彼の滞在していたホテルに一緒に行くことになった。

ミスター・ブラウンはホテルのスイートルームに滞在していて、我々を招き入れてくれた。そこで、しばし、談笑しつつ、勝本さんが持ってきたビデオを部屋で見ることになったのだ。

ソファに座ってキング・オブ・ソウルのライヴを見るミスター・ブラウン。そして、その様子をこわごわ、そして、照れくさそうに見つめるドン勝本。さすがの勝本さんも、いったいどんな反応を見せるのか、緊張していたようだ。

しかし、心配はいらなかった。勝本さんがジェームス・ブラウンのような横につつつっ〜〜と動くステップをすると、ミスター・ブラウンは大いにはしゃぎ、手を叩き、笑い声をあげた。大喜びしたのだ。そして、勝本氏の一挙手一投足にいちいち喝采を浴びせた。

そして、二人でテレビの前で、同じステップを一緒にやってみせたのだ。完全に勝本さんが、ミスター・ブラウンに認められた瞬間だった。

(ただ、記憶がちょっとあいまいなのだが、これより前に勝本さんはビデオをアメリカのミスター・ブラウンに送っていて、一足先に一度見ていた可能性もある。だが、いずれにせよ、勝本氏がそこにいて、ミスター・ブラウンの前でビデオを一緒に見て、大いに盛り上がったのは、このときのことだ)

後に、ジェームス・ブラウンは、自らのショーの中で、その時に勝本さんが来ていれば、1曲彼に躍らせるようになる。そして、ミスター・ブラウン自らが「キング・オブ・ソウル、ドン勝本〜〜」と紹介するのだ。

初めて彼がステージに上がったのが、いつだったのか、記憶が定かではない。2002年10月の来日時には上っていた。それより前はどうだったか。いずれにせよ、その後、2006年3月のミスター・ブラウン最後のライヴでも彼は東京2回、ステージに上った。

ドン勝本がステージでジェームス・ブラウン・ステップを踊ると、ブラウンは「どうだ、すごいだろ、こいつは」といったような嬉しそうな表情で勝本さんをオーディエンスに紹介する。

2006年3月のジェームス・ブラウンのステージは、ミスター・ブラウンと勝本さんが共に上った最後のステージになってしまった。ほぼ1年後に二人ともいなくなるなどとは、夢にも思わなかった。アメリカのキング・オブ・ソウルと日本のキング・オブ・ソウル。二人とも現世でのお仕事、おつかれさま。それにしても、ミスター・ブラウンより16年も後に生まれた勝本さんが、ブラウン旅立ち後わずか4ヵ月で後を追うとは・・・。

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)
ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)
【深町純第76回〜深町さんが歌う】

夢。

今日とあと5月だけ、2回だけになった恵比寿アートカフェでの深町純・全曲即興ピアノ・パーティー、第76回。いよいよ来月は最終回だ。ラスマイくらいになると、やはり、深町さんも妙に湿っぽくなるのか。(笑) 

深町さんが言う。「不思議なんだけど、毎回この会では3分の1から半分が初めて来る人なんですね。でも、決して、(アートカフェにはいるための)行列が恵比寿の駅のほうまで伸びていたりすることがない。なんでなんだろう。いつもちょうどほどよく、収まってます。過去に3回ほど、ものすごく満員になって酸欠になり倒れて救急車で運ばれた人がいましたが、まあ、だいたいこんな感じでね。一度でいいから行列が並んでいるのを見るのが、僕の人生の夢です。(笑)」 

今回は、いきなりノー・トークで3曲、約34分連続演奏! 聴く側の集中も高まる。この日は、夕方降った雨のせいか、最初、音が曇り気味だったような気がした。湿っぽい音というか。からっとしていないというか。

ファーストセットでのおなじみの「お題拝借」3曲目では、なんと、即興で歌う歌う友利宇景という方と深町さんが、即興コラボレーション。友利さんが、「初めてきたのですが、大変感動しました。自分も老人ホームなどで即興の歌を歌っていたりするんですが・・・」というと深町さんすかさず「じゃあ、歌ってよ」 「ええっ・・・」ということで、始まった。最初、歌が自由に出てきて、まもなく、深町さんがピアノで追いかけ始め、徐々に曲の形になっていった。これは、お見事、背筋ぞくぞくものだった。

歌とピアノが終わって、深町さんが言った。「まあ、これが即興のすばらしさということでしょうか」 

歌力。

第二部にスペシャルがあった。実は深町ピアノが大好きだったジェームス・マクダネルさんという方がいた。ほとんど毎回のようにこの会にきていたが、昨年(2006年)11月29日、突然の事故で急逝したのだ。僕自身も彼とこのアートカフェで話をしたこともあった。また、昨年6月頃には、深町さんのライヴ・パフォーマンスをイギリスで行うための企画書を書いてくれと深町さんに頼まれ、その英語版を彼が作ってくれたりしていて、打ち合わせやメールのやりとりもしていた。そして、この日、初めて彼の奥さんがアートカフェにやってきたのだ。

そこで、深町さんは彼女のために、ジェームスさんが大好きだった深町さん作品「誕生日」という曲をプレイすることにした。これは深町さんの傑作で、いろいろな人が歌っている。有名なのは森山良子さんのヴァージョンか。ところが、今日は深町さんはここにちょっとした施しをした。

この「誕生日」という曲、ジェームスさんが大好きで、元の日本語の歌に勝手に彼が英語詞をつけていたのだ。そして、その英語詞を、ジェームスさん同様この深町ピアノ会の大常連であるトーマスさんが、ピアノに乗せて朗読することになった。しかも、それだけではない。なんと、深町さん本人がこの曲を歌ったのである。

「僕はこう見えて、1972年に『ある若者の肖像』というアルバムでデビューしたんですが、そこでは歌を歌ってるんです。そういえば、このアルバムと次のアルバム『ハロー』を、ユニバーサルというレコード会社がCDで再発したいといってきたんで、何ヶ月かすると、CD屋さんに並ぶと思います」 (『ある若者・・・』は調べると、正確には1971年11月発売でした)

ピアノ→深町ヴォーカル→トーマスの英語詞朗読→深町ヴォーカル→ピアノという流れで、「誕生日」が約10分近く続いた。決して上手とは言えない深町ヴォーカルだが、実に胸を打つ。ジェームスさんへ捧げるというサイド・ストーリーがあるからか。いや、それだけではあるまい。真後ろで聞いていた奥さんが、それまでずっと楽しそうに微笑んだいたのに、いつしかハンカチで涙を拭いている。人を感動させる歌とは、別にうまくなくてもいいのかもしれない。味があるというか、魂がこもっているというか。やはり、言葉、歌詞の持つ力は、音楽の力を倍増させる。

「(歌詞の最後の部分)・・・笑いあえる日を僕は信じてる。大切な思い出を、君にありがとう・・・。ジェームス!」 演奏が終わって、深町さんとトーマスが奥さんのところに歩み寄った。歌力が感動を巻き起こした瞬間だった。

深町純、恵比寿アートカフェでのピアノ・パーティーはあと1回だけ。5月26日(土曜)だ。なお、その後は祐天寺の深町さんの店「FJ’s」で毎月最終土曜日に即興演奏会を続けることになった。

■アートカフェ・オフィシャル・ウェッブ
http://artcafe1107.com/

深町純オフィシャル・ウェッブ
http://www.bekkoame.ne.jp/~cisum/

■Setlist: Fukamachi Jun @ Art Cafe, Ebisu
April 28, 2007 (Saturday)
セットリスト 深町純 

1st Set

show started 19:46
01. 2007年4月28日19時46分の作品 (10.50)
02. 2007年4月28日19時57分の作品 (10.52)
03. 2007年4月28日20時08分の作品 (10.57)
04. 2007年4月28日御題拝借作品1. (2.26) 
05. 2007年4月28日御題拝借作品2. (1.32) (Erika’s Melody)
06. 2007年4月28日御題拝借作品3. (1.51) (improvisation with Yuuri Ukei on vocal)
show ended 20:45
(approximately performing time 40 minutes 28 seconds of 59 minutes show)(.6858)

2nd Set

show started 21.10
01. 誕生日(ジェームス・マクダネルへ捧げる)(9.52)
02. 2007年4月28日21時32分の作品 (9.09)
03. 2007年4月28日21時54分の作品 (7.43)
04. 2007年4月28日22時08分の作品 (10.29)
show ended 22:05
(approximately performing time: 37.13 of 55 minutes show)(.6766)

■過去の音楽比率(ライヴ全体の中での音楽の割合を表します)(単位は%)

2005年11月 第一部 41.70 第二部 51.82
2005年12月 第一部 39.86 第二部 58.91
2006年01月 第一部 58.81 第二部 67.23
2006年02月 第一部 38.4  第二部 49.7
2006年03月 第一部 50.9  第二部 92.7
2006年04月 第一部 53.1   第二部 57.3
2006年05月 第一部 45.15 第二部 82.08
2006年06月 第一部 52.16 第二部 59.02
2006年09月 第一部 47.77 第二部 77.63
2007年01月 第一部 65.53 第二部 54.97
2007年02月 第一部 53.88 第二部 49.33
2007年04月 第一部 65.26 第二部 68.58

(2007年4月27日土曜、恵比寿アートカフェ=深町純ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Fukamachi, Jun
2007-53
(昨日からのつづき)

【深町純・語録】

知的刺激。

深町語録は、いつも知的刺激がいいいいっぱいある。4月28日のトークからいくつか抜粋します。

「ここ(恵比寿のアートカフェでの即興ライヴ)では、僕は常に冒険しようと思っています。即興というのは、うまくいくこともあれば、だめなときもある。即興とは冒険だと思っています。冒険は失敗がつきものです。失敗を恐れてはいけません。だから演奏がだめなときは、拍手をしてはいけません。無意味な拍手は良心的な演奏家をだめにする。だから、だめなときはだめと言ってあげなければならない」

「昔、バンド活動をしていたとき、やはり、調子が悪いときもあるんですね。演奏を終わって楽屋で『今日は、なんでだろう、調子悪かったね』なんて言ってるときに、楽屋にやってきた女の子が『今日のは最高でしたっ』なんて言われると、「おまえ、何聞いてるんだ」ってことになる。そういうのが度重なると、ばかばかしくなってくる。だからどんな演奏でもスタンディング・オヴェーションするのは、アホです。まあ、半数以上の人は、『スタンディング・オヴェーションをしたくて、コンサートに行く』んでしょうけど、そういう姿勢は、演奏家をだめにする。みんながそれぞれ、みんなの耳で、判断しなければなりません。そういうとね、『私、音楽、よくわからないんで』という人がいる。でも、関係ないんです。あなたが、自分が聴いておもしろいと思えば、喝采すればいい。つまらないと思ったら、拍手しないということです。自分の判断に正しく従うということが、すごく重要なんです」

「もうひとつ、言おうと思ってることがあります。『あなたは音楽が好きですか』と聞かれると、『音楽、大好きです』とほとんどの人が答えます。でも、最近感じた、僕なりの結論はこうです。そういわれて『音楽、好きです』と答えた人の半分は、『音楽を好きって言うことが好きな人』たちなんです」 (観客から笑い)

「例えばこの深町純のライヴにも、わけのわからないおじさんが来ることがある。なんで来たんだろう、寝てたりもするわけでね。で、そういうおじさんっていうのは、翌日会社に行って『昨日、深町純のコンサート行ってさあ』とか言って、『へえ、課長、深町純、知ってるんですか』みたいな会話になるんですね。そうすると、なんとなく、音楽的素養があるように見える。そういうために、同じようにストーンズのコンサートに行く人が、きっと、半分はいると思う。音楽が好きというより、その音楽会に行くことが好きなんだ。そこは、十分注意しないといけない。そういうのは、ひるがえれば、ブランドのバッグを持ったり、新丸ビルでおいしいものを食べたりと同じことなんですよ。いいかげん、そういうことから解放されなければならない、ということです。音楽が好きなのではなく、音楽会に行くのが好きな人たちというのは、多いですよ。だいたい音楽好きっていうと、いい趣味みたいに聞こえるでしょう。AV好きとか、ストリップ好きとか言うより素敵そうで、いい。(笑) そういう人は、断じている。そういう人と本当に音楽が好きな人は、きちっと区別したいなあ、と思う」

「ここでのライヴは来月で終わってしまいます。で、僕も、ここからタクシーでワンメーターくらいの祐天寺というところに、お店を作りました。それで、不思議なんだけど、ここに来た人にDMを送っても、誰一人として僕の店には来ないんだよね。(笑) いや、つまり、それは、ここ(恵比寿アートカフェ)という空間が好きで、愛していて、ここで聴く僕の音楽が好きということなんだろうね。場が大事というかね」

「僕は、僕がピアノ弾くんだから、ここに来てる人はみんな(祐天寺の)自分の店に来ると思っていた。甘かったです。(笑) やはり、この場所、この空間がいいんだね」

「僕は、自分のピアノを聴いて何人かの人が泣いていることを知っています。でも、僕は一度も人を泣かせようと思って、ピアノを弾いたことはありません。いつも、ちょっと意地悪く言うのは、聴いている人が勝手に泣いている、僕とは関係ない、ということです。だから、涙を流して僕に『深町さん、ありがとう』と言ってくれる人にいつもこう言っています。『それは、あなたにそういう能力があるんです』ってね。つまり僕のピアノを聴いて、何かを心に思い浮かべて、何かを感じて、涙を流せる、それはあなたの能力なんです。僕はそういうことを信じている。それはつまり、音楽の力です」

「僕たちミュージシャンは、じゃあ何をしているかというと、そういうすばらしい音楽というものを、汚(けが)れなく、間違いなく、再現するのが僕の仕事で、僕が、もしうまく音楽を再現することさえできれば、それはきっと聴いている人の心の中に何かを残してくれるのだろうと思う。だから、僕が何かをしているわけではないんです」

「例えば、今度くるロシアのグリーシャっていうアーティストなんかね、よく言うんです。『ジュン、音楽は神様が降ってくるんだよ』って本気で言うんですね。僕が上手に即興演奏ができたりすると、『ジュン、それは神様が弾かせてくれてるんだよ』って言うんですね。そういうことを言うミュージシャンは日本には少ない。グリーシャなんか、その演奏する姿勢がすばらしい。彼らは音楽に対してひじょうに誠実です」

深町さんが言ったことを、ただ文字に起こすだけで、これだけのものができるんだから、ほんと、たいしたものです。すごい。感謝。尊敬。

■4月27日のセットリストなどは、昨日付け日記にあります。

(2007年4月27日土曜、恵比寿アートカフェ=深町純ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Fukamachi, Jun
2007-53

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