●R&Bシンガー、ハワード・テイト72歳で死去

【R&B Singer Howard Tate Dies At 72】

訃報。

1960年代にフィラデルフィアをベースに活躍したR&B、ソウル・シンガー、ハワード・テイトが2011年12月2日死去した。72歳。多発性骨髄腫と白血病のためだという。このところずっと体調が悪かった。60年代に「エイント・ノーバディー・ホーム」などのヒットを出したが、80年代から音楽活動から事実上引退。2001年、復活ライヴを行い、2003年アルバムをリリースしカンバック。ジャニス・ジョプリンが「ゲット・イット・ホワイル・ユー・キャン」、ジミ・ヘンドリックスが「ストップ」をカヴァーしている。ソウルフルな歌声が魅力的な素晴らしいソウル・シンガーの一人だった。

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評伝。

ハワード・テイトは、1939年8月14日ジョージア州メイコン近くの生まれ。父が牧師だったことから子供の頃より教会でゴスペルを歌っていた。1940年代にフィラデルフィアに移住。当時の彼にとってのお気に入りは、ディキシー・ハミングバーズ、ソウル・スターラーズといったゴスペル界のスターたち。8歳の頃、父親の勧めで教会で歌い始める。十代になると、後にR&Bシンガーとして名を成すガーネット・ミムズらと知り合い、ガーネットと組んだヴォーカル・グループでは、マーキュリー、キャメオ・レコードでレコーディングも経験。その後、ハワードはビル・ドゲットのツアーに出た。

ガーネットと組んだジ・エンチャンターズは、フィラデルフィアのプロデューサー、ジェリー・ラゴヴォイの元でレコーディング。ヴァーヴからリリースされた作品群は、ニューヨークで録音され、リチャード・ティー、エリック・ゲイル、チャック・レイニーらが参加している。「エイント・ノーバディー・ホーム」(1966年)、「ルック・アット・グラニー・ラン・ラン」(1966年)、「ストップ」(1968年)などがヒット。一時期はオーティス・レディング、サム・クックらの後継とも騒がれたほどの実力派シンガーだった。ただ、ジェリーとの作品はどれも素晴らしかったが、お金の面でちょっとしたトラブルがあった。

■エイント・ノーバディー・ホーム
http://youtu.be/sYWJczQ-5QU



ジャニス・ジョプリンが「ゲット・イット・ホワイル・ユー・キャン」を録音。その後、ハワードはターンテーブル、アトランティック、エピックなどで作品を残したがR&B部門ではそこそこのヒットにはなり、評論家筋から高い評価を得るものの、一般的な大ヒットには恵まれなかった。

どん底。

彼はいくつかのレコード会社を転々とするが、1969年、ハロルド・ローガンという人物が経営するターンテーブル・レコードと契約。これが彼のつまづきの第一歩だった。ハワードは、「人生最悪の決断だった」とこの時代を振り返る。レコードの印税ももらえないだけでなく、彼らがギャングスターたちと関係していたことから、「悪い連中」とのつきあいが始まってしまったのだ。

そして、それに比べれば、ジェリーとの些細な金銭問題など大事ではなかった。彼らと手を切り、またハワードはジェリーとともにレコードを作るようになる。

しかし、それでもヒットには恵まれず、さらに、1976年、彼に悲劇が起こる。自宅が火事になり彼や他のファミリーは難を逃れたが13歳の娘を失うのだ。

ハワードは70年代後期から、歌手活動を諦め、ニュージャージー、フィラデルフィア近辺で家族を養うためプルーデンシャル社の保険販売員などの仕事をして、音楽業界から消えた。彼は過去のシンガーとしてのキャリアについて一切人に言うことなく、普通に仕事をしていた。しかし、1981年には離婚。娘を失ったこと、離婚などのために、自暴自棄になり、ドラッグにはまり、仕事も失い、ホームレス同様になってしまう。

まさに彼の人生はどん底だった。

ところが、1994年のある日、彼は神の声を聞く。「汝に私の声を人々に伝えて欲しい」と。それは彼にとっての神の声だった。ずっとゴスペルを歌い、神のメッセージを聞いてきた彼はその声に耳を傾け、心を入れ替え、人生をやり直す。なんと今度は牧師となり、ドラッグ中毒者などにアドヴァイスをするようになった。

再発見。

生活を180度変えたハワードの人生は、徐々に良い方向に向かい始めていた。

その声を聞いてから6年ほど経った2000年頃、ニュージャージーのラジオDJでハワードのファンだったフィル・キャスデンが、ハワードの古い作品をかけながら、「このスターはどこに行ったか、情報を持っている方はお寄せください」と行方を捜していた。すると、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのメンバー、ロン・ケネディーがニュージャージー州ウィリングボローのスーパーマーケットでハワードと遭遇。「どこにいるのだ」と聞くと「どこにもいない」と答え、DJが君を捜しているという話になり、連絡先を交換した。これが2001年1月1日のことだったという。

一方、プロデューサーのジェリー・ラゴヴォイは1990年頃から世界中からハワード・テイトの消息について問い合わせを受けるようになっていた。ジェリーもハワードのことを捜すが、まったく探し出すことが出来ず、彼が死んだものと思っていた。そんなとき、ロンドンのジャーナリスト、ポール・ムーニーがハワードについて質問をしてきた。ジェリーは「もう10年以上も会っていない。消息が不明だ」というと、そのジャーナリストは「前日に電話で話した」という。そこで電話番号をもらい、ジェリーは早速、ハワードに連絡を取った。やはり、2001年頃のことだ。20年ぶりくらいの再会は感動的だったという。

ポールがインターネットで「ハワード・テイトを発見」と流したところ、ヨーロッパ中のブッキング・エージェントなどから電話やインタヴューの申し込みが殺到した。

そして、それからわずか6ヵ月後に、ハワードは何十年ぶりにニューヨークのライヴ・ハウスで人前で歌った。さらに、かつてのプロデューサー、ジェリー・ラゴヴォイと手を組み、レコーディングを開始、これが2003年暮れにリリースされた。

そのタイトルは『リディスカヴァード』(再発見)。まさに再発見された。ここで、自身のヒット「ゲット・イット・ホワイル・ユー・キャン」をセルフカヴァー。その歌声は20年近く実際にプロとして歌ってこなかったシンガーとは思えぬほど、はつらつとしたものだった。

以後はコンスタントにライヴ活動、レコーディングなどをしていた。

2003年12月、東京・新宿のパークタワー・ブルーズ・フェスティヴァル出演で来日。これが唯一の来日。

ハワードのプロデューサー、ジェリー・ラゴヴォイは2011年7月13日80歳で逝去。ジェリーのわずか5ヶ月後、ハワードは後を追うように亡くなったことになる。

ハワードのストーリーもまさにソウル・サーチンの連続だ。

■ハワード・テイトが静かに熱く歌う「ルイジアナ1927」

2005年に行われた「第26回ロングビーチ・ブルーズ・フェスティヴァル」でのライヴ。ハリケーン・カントリーナの犠牲者へ捧げたライヴ・パフォーマンス。オリジナルはランディ・ニューマン。本当に、引退していたとは思えない素晴らしい感動的歌声だ。

http://youtu.be/uZ9UO-Er_bw



■エイント・ガット・ノーバディー (エピックからでた作品。個人的にともて好きな曲)

http://youtu.be/LZjeUNYS27k



■奇跡のカンバック作『リディスカヴァード』(2003年作品)

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OBITUARY>Tate, Howard (August 14, 1939 – December 2, 2011, 72 year old)