◎カーキ・キング・ライヴ

【Petit Kaki King’s Unique Performance】

プティト。

熱心なギター・マニアが集まった感じのライヴ。カーキ・キングはアーティストとしては今回で4回目の来日というカーキのコットン・クラブでのライヴ。
(ちなみに2005年、2008年は確認できたが、もう一度が不明。ご存知の方いたら教えてください)僕は2005年に横浜で見て以来なので、6年ぶりの観戦となった。前回はブルーノートで2008年5月。

ショートヘアでボーイッシュ。ほぼ1曲ごとにギターを変え、ステージには4本ほどギターが並び、今回は8本くらい持ってきているという。

「日本のサイズが気に入っているの。私は、ごらんのように小柄(プティト)でしょ。だから、日本のサイズがとってもいいの」

「この前、秋葉原に行って、メイドカフェに行ったの。あそこは何なの? (笑) 別に彼女たちと何をするわけでもなく、ただ話をするのかしら。そして、あのコスチューム。なんのために行くのかしら。でもかわいいからおもしろいけど。(笑)」

「まだ2-3日いるので、東京のどこに行ったらいいか、教えて欲しい」

一台のギターを自由自在にプレイし、まさに10本の指と、2本の足、体全体を使って、音を出す。

彼女のギターを聴いていて、前日に見たトゥー・チェロズと共演させてもおもしろいな、と思った。

曲がすべてインストのため、曲名がまったくわからなかったので、カーキについているギター・テックのアンナにセットリストを尋ねたら、親切に教えてくれた。ちなみに彼女は初来日とのこと。前回のブルーノートなどは来ていない、という。この2-3年、カーキについているとのこと。彼女も小柄だ。

■前回ライヴ評

2005/03/26 (Sat)
Kaki "Oyster" King; So Charming Lady Said Welcome To My Room
牡蠣王。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200503/diary20050326.html

■アンコール曲「アウヴァティー」収録

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000G2YCR4/soulsearchiho-22/ref=nosim/


■7曲目「カーマイン・ストリート」収録

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00008V5TI/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

■セットリスト:カーキ・キング、コットン・クラブ、2011年10月28日(金)
setlist: Kaki King, At Cotton Club, October 28,2011
Very special thanks to Anna Morsett

show started 19:01
01.Bone Chaos In The Castle
02.Goby
03.Ingots
04.Brazilian
05.Andecy
06.Fences
07.Carmine St.
08.Doing The Wrong Thing
09.Playing With Pink Noise
10.Neanderthal
11.Night After Sidewalk
12.Magazine
Enc. Ahuvati
Enc. Irish/Grayphon
Show ended 20:14

(2011年10月28日金曜、コットン・クラブ、カーキ・キング・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>King, Kaki
2011-



○■「ビッグ・スペシャル」で4日間フィリー・ソウル特集~11月14日から

【Big Special: Features The Sound Of Philadelphia】

大特集。

しばらく前に「モータウン大特集」をお送りした東京FM系列・JFNネットで毎日深夜放送している「ビッグ・スペシャル」(毎週月曜~木曜深夜25時から28時まで)の11月3週目の枠で、「フィラデルフィア・サウンド大特集」を担当することになった。

11月14日(月)深夜25時(正確には15日午前1時)から17日(木)深夜まで4夜連続。月から水の3日分は選曲・構成で参加し、木曜日にゲストで生出演する。

今回はこの「ソウル・サーチン・ブログ」と連動して、毎日午前0時01分に更新される当日のブログに、その日の選曲に応じたフィラデルフィア・サウンド・ストーリー的なエントリーを書き、アップする予定だ。初めての試みなのでどういう形になるかまだ分からないが、できるだけ番組で連動するようにがんばってみたい。番組を聴く上でのメモ代わり、テキスト的なものになればいいと思っている。

現在のところ大まかで決まっているのが次のような形だ。

第一日(2011年11月14日・月曜)深夜25時~

フィラデルフィア・サウンドとは。その誕生と背景。

ヒット・プロデューサー、トム・ベルを中心に。トム・ベル・ストーリー。

トム・ベルとその作詞パートナー、リンダ・クリードが作り出す独特のブラックな世界。

第二日(11月15日・火曜)深夜25時~

ケニー・ギャンブル&リオン・ハフ・ストーリー。

彼らが作り出したフィラデルフィア・インターナショナル・レコードについて。シグマ・サウンド・スタジオについて。

ギャンブル&ハフの輩下から登場した新世代のミュージシャン、アレンジャー、プロデューサー、ソングライターたち。

第三日(11月16日・水)深夜25時~

ベイカー・ハリス・ヤングが設立したゴールド・マイン・レーベルを中心に。ボビー・マーティン、ベイカー・ハリス・ヤング、ボビー・イーライなどのプロデュース作品。そのほか、フィリーのインディ・レーベル作品など。

第4日(11月17日・木)深夜25時~

フィラデルフィア・サウンド・ストーリー。その誕生、歴史総括。1970年代、フィラデルフィア・サウンドの拡散。その特徴、アーティストたち秘話。楽曲誕生秘話など。吉岡正晴・生出演。

+++++

『ビッグ・スペシャル~フィラデルフィア・サウンド特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。

2011年11月15日(火)~11月18日(金)午前1時~4時生放送(11月14日深夜から17日深夜まで)
関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT

関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT

この『ビッグ・スペシャル』は、毎週火曜から金曜まで午前1時から午前4時まで生放送しているもので、約30以上の局でネットされる。(番組ホームページでは35局のネット局名が出ている)
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm

毎日生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けています。

ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。

東京FM #tfm ビッグ・スペシャル #bigsp 

■ラヴ・トレイン~ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア(輸入盤)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001F290GM/soulsearchiho-22/ref=nosim/


ENT>ANNOUNCEMENT>Big Special
RADIO>Big Special>Philly Soul Special


◎グリニス・マーティン・ライヴ、豪華に

【Glynis Martin Live】

久々。

日本在住のソウル・シンガー、グリニス・マーティンの久々のソロ・ライヴが2011年10月29日土曜、目黒のブルース・アレイで行われた。ドラムス、ギター、ベースに2人のキーボードという編成で、なんとステージ中央からせり出し舞台を作り、前にでてきて歌ったりした。この日は記録用に3台のビデオカメラが入って収録。グリニスは、2007年10月、メトロ・銀座駅で行われた「フィリー・ソウル・サーチャーズ」のライヴでも歌ってくれた。

コーラスの音が入っていたのだが、ペニーKさんに聞いたところ、最初はコーラスを3人か4人いれたいと言っていたが、予算の関係でむずかしくなり、グリニスがペニーさん宅に来て、すべてのコーラスを重ね録音していった、という。それを現場で出したので、ハーモニーは相当きれいになっていたはず、とのこと。ガクシ、ペニーK、ジェイ、マサコハマ、滝元さんらのバンドもきっちり、しっかり。ガクシもペニーKも最近はキーボードを客席に見せるよう斜めに置いていて、これがかっこいい。

そのほか、ダンサー(4人)や、三味線(スティーヴィーの「オール・アイ・ドゥー」)なども入るにぎやかで豪華なセットになった。

オープニングは、バンドがイントロを演奏する間、大きな毛皮のコートを羽織り、ステッキを持ち、サングラスをかけて、ステージにゆっくり登場。ロナルド・アイズレイばりのクール・ガイだ。この様がかっこよく決まるシンガーはなかなかいない。

グリニスは、やはりいい雰囲気のシンガーで、ベイビーフェイスやエリック・ベネイ、ジョーなどの楽曲が実によく似合う。ニーヨ、ミント・コンディションの作品などが生で聴けるというのは嬉しいところ。そして、エリック・ベネイの「スペンド・マイ・ライフ」では、アージー・パインとのデュエットを見事に聴かせた。いつもながらに息はぴったりだ。

○ 過去関連記事

2004/11/19 (Fri)
Night I Saw Donny Hathaway At Yotsuya
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200411/diary20041119.html

August 09, 2005
5 Request Songs Were Too Much?
http://blog.soulsearchin.com/archives/000439.html

March 31, 2006
Philip, Hank, Glynis Trio Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/000923.html

April 10, 2006
Glynis "Bone" Martin & Argie Phine Live
http://blog.soulsearchin.com/archives/000944.html

February 01, 2007
Philip Trio With Glynis, Hankoya
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200702/2007_02_01.html

2007年10月06日(土)
超超満員
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20071006.html

■メンバー

Glynis Martin Presents LOVE NIGHT!

(Vo)Glynis Martin (Key)Penny-K (G)マサ小浜 (B)滝元堅志 (Key)Gakushi (Ds)Jay Stixx
Special Guest (Vo)Argie Phine
ダンス=松本茉里南(まつもと・まりな)、松原梨乃(まつばら・りの)、町田啓允(まちだ・けいん)、高梨光(たかなし・ひかる)
ダンス=ボビー・ディッカーソン(Bobby Dickerson)
三味線=金埈浩(キム・チュノ[ジュノ]、Kim Junho)

■セットリスト
Setlist: Glynis Martin @ Blues Alley, October 29, 2011

Show started 19:47
00.Intro
01.All Because Of You (Ne-Yo)
02.What Kind Of Man (Mint Condition)
03.Yearning For Your Love (Gap Band)
04.All The Things (Joe)
05.Spend My Life With You (Eric Benet) (+Argie)
06.All I Do (Stevie Wonder) (+Kim on Shamisen)
07.Don’t You Forget It (Glen Lewis)
08.Got Us Falling In Love (Usher) (+ 4 Dancers)
Show ended 20:46

2nd set
show started 21:19
01.Spend The Night (Rashaan Patterson) ~ A riff of “Between The Sheets”
02.Mamacita (+Bobby)
03.Miss You (Musiqsoulschild)
04.Right Here (Richard Marx)
05.Sumthing Sumthing (Maxwell)
06.Never Too Much (Luther Vandross)
07.Let It Go (Ray J)
08.Dance With Me (Lemar)
Enc. Quiet Time (Glynis Martin)
Enc. Them Changes (Ledisi)
Show ended

(2011年10月29日土曜、目黒・ブルース・アレイ、グリニス・マーティン・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Martin, Glynis
2011-

◎マイケル・ジャクソン・トリビュート・ダンス・オーディション~武道館に宿るマイケルのレガシー

【Michael Jackson Dance Audition】

熱気。

マイケル・ジャクソンが遺したもの。マイケルのレガシーがこの日、この武道館にあった。

2011年12月13日、14日、国立代々木体育館で行われる『マイケル・ジャクソン・トリビュート・イヴェント』のステージでマイケル楽曲を踊るダンサーたちの公開オーディションの東京の部が11月2日(水)、東京・武道館で行われた。

ケント・モリがオーディションをしてダンサーを選び、リハーサルをつけ、本番のステージで踊ることになる。

普段、武道館はコンサートでしか来たことがない。アリーナの床が普通の木のフローリングでとても斬新だった。そして、360度座席が見えて、全体照明も明るい。しかし、天井中央から吊るされている日の丸はいつもと変わらない。ふだんは暗くなっているのと、アリーナの床はビニール・シートなどが敷かれているので、相当イメージが違う。

この日は、キッズの部と大人の部で分けられ、総勢700名近くが来場。16時からは、一般公開され、広い武道館のアリーナ部分で何百人が同時に踊ったりした。3次審査まで行い、最後にファイナルとセミ・ファイナルが選ばれた。

オーディションというのは、皆が競いあう場所ではあるが、そこに来る人々は全員がみな大きな目的を持っていて、そのエネルギーの集合体というものは、やはりすごいものがあった。

ケント・モリは、最後のあいさつで、「実は僕はオーディションというのが嫌いなんですが、どうしても選ばなければならないので選びます。オーディションというのは、誰にでも公平にチャンスが与えられるものです。でも、入らなかったからといっても、全然気にしないで、またチャンスがあるから、またやってください」といった趣旨を述べた。

それにしても、日本で行われるオーディションでこれだけの「熱」が感じられるのだから、マイケル本人と踊る『ディス・イズ・イット』ツアーのオーディションの「熱」は、もっとすごかったのだろうと感じた。

そして、誰もがひとつのことに向かってイメージを共有し、突き進んでいく姿というのは、洋の東西を問わず、これは感動できるものだ。そして、これだけの数の人が同時に同じダンスをするという絵は圧巻だ。

この日は東京だったが、大阪でも11月6日(日)約400人をあつめてオーディションが行われる。

キッズでは、ファイナルに約30人弱、セミ・ファイナルに40人弱が選ばれ、大人部門では4人がファイナル、数人がセミ・ファイナルとして選ばれた。大阪でも何人かが選ばれ、そのメンバーから最終的にステージに上がるダンサーが決まる。

ちょっと不思議だったのは、大人のファイナルが選ばれた瞬間、選ばれたダンサーは手を上げるなり、喜びの歓声をあげるのかなと思ったら、誰もそうしなかった。アメリカだったら、そこで狂喜乱舞で大喜びするのだが。ひょっとして、ケント・モリの番号の呼び出しが聴こえなかったのか、早口だったせいで、歓声をあげるヒマがなかったのか。選抜された番号の読み上げはもう少しゆっくり、はっきり発音するといいと思う。ちょっと早口で、次々と番号が呼ばれてしまったので、その数字を追うので大変だった。

キッズの発表で、番号が次々呼ばれると、僕の後ろの方で、おかあさんたちが、「やった、やった」と歓喜の声をあげていたのが印象的だった。

これらのファイナリストから11月7日(月)以降に、最終合格者が決まり、合格者に連絡が行く。

マイケル死して2年余。まちがいなく、マイケルがいたからこそ、こんな大規模なオーディションが行われる。これは、まさにマイケルのレガシー(遺産)だ。

■関連記事

2011年10月30日(日)
マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ、追加出演日本人アーティスト第一弾発表~
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11062495012.html

2011年10月11日(火)
マイケル・ジャクソン・トリビュート・イヴェント記者会見
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11043624106.html

2011年09月27日(火)
マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ12月に大々的に開催
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20110927.html

2010年11月30日(火)
(速報)☆ジャクソンズ再結成コンサート2011年秋、東京で開催
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20101130.html
今回のライヴに関する第一報。

■ 公演概要

【公 演 名】MICHAEL JACKSON TRIBUTE LIVE(マイケル・ジャクソン トリビュート・ライヴ)
【開 催 日】2011年12月13日(火) / 14日(水)(各日共 開場17:00 開演19:00 終演21:00それぞれ予定)
【出  演】THE JACKSONS, AI, JUDITH HILL, KENTO MORI, TRAVIS PAYNE、他
【場  所】東京 国立代々木競技場第一体育館
【一般発売】2011年10月29日(土) 10:00~一般発売開始
【料  金】前売券 各日S席11,000円 A席9,000円(指定席・税込)※未就学児童は入場無料、但しお席が必要な場合は有料
【公式WEB】http://www.mjtribute.jp/
【クレジット】主催:(株)ミュージック・オン・ティーヴィ、(株)ソニー・ミュージックエンタテインメント、(株)キョードー東京
後援: J-WAVE、FM802協賛:アメリカン航空協力: EMI Music Japan
企画制作: (株)ミュージック・オン・ティーヴィ、(株)トゥーフェイス、NOSCO USA Inc.運営: (株)キョードー東京
【イヴェントに関するお問い合わせ先】キョードー東京 電話:0570-064-708

■「イモータル」初回限定盤、発売決定

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005SUI4O6/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

通常盤

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005SUI4ZU/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

MICHAEL JACKSON>Tribute Concert>

■ハル・ジャクソン(WBLSの伝説のDJ)96歳の誕生日

【Legendary DJ, Hal Jackson Turns 96】

伝説。

ニューヨークの人気ブラック・ステーション、WBLS(107.5mhz)のDJハル・ジャクソンが2011年11月3日で、96歳になった。ハル・ジャクソンは長くラジオ業界で活躍、現在でもWBLSの日曜の人気番組「サンデイ・クラシック」のDJの一人としてオンエアを続けている。「サンデイ・クラシック」は、ソウル、R&B、若干のジャズ/フュージョンをまぜた過去のヒット曲をかける番組。日曜の午後だけに、あまりうるさい曲はかからず、静か目の作品が中心。ただ、夜の時間帯の「クワイエット・ストーム」ほど、バラード中心ではない。ここで、メインDJのデビー・ディーとクレイ・ベリーの合間に、ときどき声を出す。デビー・ディーは、ハルの23年におよぶ妻。

彼はラジオ業界のさまざまな賞などを獲得しているが、ハルに対して表彰などを贈った大統領は、ハリー・トルーマンから、アイゼンハワー、ジョン・F・ケネディーなどがいる。まさにその歴史の長さを感じさせる。

また、1995年に、黒人(有色人種)として初めて、National Association of Broadcasters Hall of Fame を受賞した。同年、ラジオ・ホール・オブ・フェーム(ラジオ殿堂)入りを果たしている。

さらに、マーティン・ルーサー・キングの誕生日を国の休日にしようという運動を始めたのもハル・ジャクソンで、これに呼応し、スティーヴィー・ワンダーが「ハッピー・バースデイ」を作り、その運動をサポートした。当初、ハル・ジャクソンの呼びかけで600万人以上の署名が集まったという。

ハル・ジャクソンは1915年(大正4年)11月3日サウス・キャロライナ州チャールストン生まれ。十代の頃は同地で靴磨きをしていた。ワシントンDCのハワード大学に進学。その後初の黒人スポーツ・ラジオ・アナウンサーになり、当時はまだメジャーではなかった黒人の「ニグロ・リーグ野球」の実況中継をしていた。1939年からワシントンDCのWINXでインタヴュー番組を開始。この年をラジオ業界デビューの年としているようだ。1954年(38~39歳)にニューヨークに移住。1971年、当時のWLIB局を買収、これがのちにWBLSとなり、このメインDJとなった。72年間にわたって活躍を続けている。若い時期には、ニューヨークの別の3局で毎日違う時間帯に帯番組を持つほどの売れっ子だった。まさに、伝説のDJである。

+++++

エアチェック。

ハル・ジャクソンといえば、WBLSの「サンデイ・クラシック」。かつて、ニューヨークに住む友人が何本ものカセット、CDRを送ってくれ、本当によく聞いていた。このプログラムが本当によくてねえ。お気に入りだった。最近は、もうリアル・タイムでインターネットで聴けるので、CDを送ってもらう必要もない。今は、日曜午後3時から6時までの3時間の生放送。ただ時差の関係で、ニューヨーク日曜午後3時は、日本時間月曜朝5時だ。さすがになかなか聴けない。ちなみに、この「サンデイ・クラシック」は以前は朝8時から夕方4時まで8時間の生放送だった。夏時間であれば、日本でも夜9時から、これが聴けた。

かなり年なのだろうとは思っていたが、まさか、今年で96歳とは思わなかった。すごい。たまたまフェイスブックでニューヨークの友人、ケヴィンがハルに誕生日メッセージを送っていたので、知った。ハルのキャリアの歴史で、一時期、毎日3局で3本の生放送というのは、みのもんたもびっくりである。

でも、96歳で23年以上の妻って書いたが、じゃあ、73歳くらいで結婚したのか? いや、これもあらためてびっくりである。

少なくとも100歳まではがんばって欲しい。

RADIO DJ>Jackson, Hal





◎フェイト、サユリー・ライヴ

【Kaleb James’s Phate & Sayulee Live】

多彩。

われらがソウル・サーチャーズのケイリブ・ジェームスは実に多彩な男だ。「ソウル・サーチン」のホストバンド、ソウル・サーチャーズを率いるときは、実にそのアーティストを研究し、さまざまなアレンジで独特のアプローチを見せる。それはソウルであれ、ジャズであれ、フュージョンであれ、R&Bであれ、同じだ。日本人シンガーのバックをやるときは、そのアーティストの楽曲を研究する。

彼の自身のバンドでのリハーサルは、ノンストップ。ほとんど歌詞は覚えていて、曲の構成、進行、アレンジなども覚えている。その場でちょっとしたアイデアを思いつき、変更をしても、バンドメンバーはそれについていくために、メモをするが、ケイリブはほとんどメモをしない。抜群の記憶力があるのか、天才なのかもしれない。

そんな彼がロックをやるバンドがフェイト。その久々のライヴ。これもケイリブとギターのディッキーが中心となったユニットだが、彼らのもうひとつのグループ、ニューヨーク・ミニットはファンク、ソウル、R&Bばかりをやるユニットで、このフェイトはロックをやるバンドと色分けがされている。

セットリストの曲名の後ろにオリジナル・アーティストの名前をいれたが、これらのロック・グループの名前を見ると、このフェイトが目指すところがおぼろげにわかるだろう。

僕が気に入ったのは、クラプトンの「リヴァー・オブ・ティアーズ」で、これはアル・グリーンの「ゴッド・ブレス・アワ・ラヴ」的な南部ソウルの味わいがあるバラードだった。おそらく、クラプトンが南部ソウルをやろうと思ってやった曲なのだろう。同じくクラプトン曲で、サユリーを迎えて歌った「ワンダフル・トゥナイト」も印象に残った。ニルヴァーナは大胆なアレンジだ。

ちょうど、ケイリブに関する記事が載ったのでご紹介。
Musician Kaleb James makes it happen
By Chris Betros
Japan Today Web Site:
ARTS & CULTURE NOV. 04, 2011 - 11:36PM JST
http://www.japantoday.com/category/arts-culture/view/musician-kaleb-james-makes-it-happen

カマサミ・コングさん主催の『メットポッド』の映画コメンテイターとしておなじみのクリス・ビートロスさんがインタヴューして記事にまとめたもの。

ケイリブ・ジェームスのホームページ
http://www.kalebjames.com/
(ほとんど更新されないので、最新情報はあまりない(苦笑))

■フェイト(Phate)オフィシャルウェッブ
http://www.phate.jp/index_e.html歌詞および訳詞も。

■関連過去記事

June 22, 2006
Phate Live At Thumbs Up: Love Them or Like Them?
http://blog.soulsearchin.com/archives/001090.html

July 23, 2005
Phate: New Acts of R&A, Stands For Rhythm & Alternative
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200507/2005_07_23.html

September 17, 2005
Kaleb James’s Own Group Phate
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200509/2005_09_17.html

+++

◎サユリー、渋谷の老舗ライヴハウス「クロコダイル」でケイリブのオープニングを飾る

継続。

2011年11月2日、渋谷のクロコダイルで、ケイリブ・ジェームスのロック・バンド、フェイトのライヴがあったが、急遽、その前座にサユリーが参加することになった。フェイトを見ることになっていたので、ラッキーにもサユリーのライヴを見ることができた。

オープニングのサユリーは、ソウル・サーチンでも歌ってくれたが、元々一人か二人でライヴができるシンガー、ソングライター。2008年11月にケイリブがマルターノでライヴをやったときに紹介された。それから早くも丸3年。

全曲、ネイティヴ英語に日本語をまぜたオリジナルを聞かせるが、曲もしっかりしており、なによりパフォーマンスが堂々としてきた感があり、以前よりもぐっと安定してきた。フォーク・ロック系でソウル系ではないが、日本のローラ・ニーロやジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、ダイアン・バーチ路線をいける感じがする。ノラ・ジョーンズとはちょっと違う感じ。ダイアン・バーチかな。

彼女の声は、意外と太くしっかりしている。ずっと歌い続けてきて、声が強くなったのだろうか。最近では、いろいろなシンガーのバックコーラスもやっていて、日本に来て3年半ですっかり日本の音楽業界になじんでいるようだ。

サユリーは、今、2011年7月の末から、毎日ユーチューブに何かを歌ってアップするのを365日続けようということにチャレンジしている。11月4日にちょうど100日になった。ギター片手、あるいはキーボード弾き語りでオリジナルやカヴァーを歌って、編集し、ユーチューブにアップしている。この連続してやるところ、毎日こつこつやって継続しているところがすごい。すべて自分で歌と演奏やって、編集までやり、アップするんだから、これはすごいわ。このチャレンジはマルターノの大西さんのフェースブックで知って、さっそく見てみたが、大西さんも、「ビデオ、毎日はほんと大変ですよ。100日も続けてるというのはやはりすごい」と高く評価していた。ちなみにこの「ソウル・サーチン」ブログも、2002年10月6日から、エントリーの長短はあれ一日も欠かしていないので、よく続いてるとは思うが、文字とビデオだと時間のかかり方が相当違う。(笑) 継続は力なり。

ちなみに、このライヴ・ハウス、クロコダイルのステージ・バックの壁に描かれている絵に「21st Century」と描かれているのだが、これは映画会社「20th Century」をもじったもの。前から、21世紀だっただろうか、ひょっとして2001年に書き直したのかとふと疑問に思い、オーナーに尋ねたら、「ここは1976年にオープンしたんですが、そのときから、21世紀って描いてありました。あのときは、(店が)そんなに続くとは思ってなかったんですよ(笑)」と教えてくれた。76年開店、ということは今年で35年だ。ライヴ・ハウス一筋で35年。継続は力なり。

このクロコダイルは地下一階にあるが、階段を下りると煙草の煙がしみついたような独特のにおいがする。それこそ、35年間分のミュージシャンたちの地と汗と涙と煙草の煙が凝縮されている。

(ケイリブのフェイトのライヴ評は明日)

■サユリー、ブログ
http://ameblo.jp/sayulee/

■サユリー・ユーチューブ、100日目(サユリー・チャンネル)
http://www.youtube.com/user/SayuleeMusic
100日目
http://www.youtube.com/watch?v=r9ZSvFcpFfY

■過去記事、サユリー初登場のときのケイリブとのギグ

2008年11月04日(火)
ケイリブ・ジェームス&フレンズ・ライヴ・アット・マルターノ
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20081104.html
このとき、サユリーはケイリブとボニー・レイットの「ユー」を一緒に歌い、ほかにオリジナル曲を披露していた。

■サユリー・メンバー

サユリー(ヴォーカル、ギター)
ユウシ・オオツカ(カホーン)

■セットリスト サユリー、クロコダイル渋谷
Setlist: Sayulee, November 2, 2011/11/05

show started 19:31
01.Shine
02.Kiss Me
03.Crazy In Love (Beyonce)
04.おかえり
05.Love Me Like This
06.Slowly
Show ended 20:06

(2011年11月2日水曜、渋谷クロコダイル、サユリー・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Sayulee
2011-

+++++

■フェイト・メンバー

ケイリブ・ジェームス(キーボード、ヴォーカル) Kaleb James
ディッキー・フクダ(ギター)Dicky Fukuda
クリフ・アーチャー(ベース) Cliff Archer
シンイチ・クサマ 草間信一(キーボード)Kusama Shinichi
アーミン・武士・リンツビヒラ (ドラムス)  Armin T. Linzbichler

ゲスト・サユリー Sayulee

==セットリスト
Setlist : Phate, November 2, 2011 at Crocodile, Shibuya

Show started 20:39
01.Grey Street (Dave Matthews Band)
02.Drive (Incubus)
03.Smells Like Teen Spirit (Nirvana)
04.River Of Tears (Eric Clapton)
05.Iris (Goo Goo Dolls)
06.Wonderful Tonight (Eric Clapton) (+Sayulee)
07.The Game Of Love (Santana) (+Sayulee)
08.Something’s Missing (John Mayer)
09.Sometimes (Phate original)
10.Shake Me Like A Monkey (Dave Matthews Band)
Enc. Sunday Morning (Maroon 5)
Show ended 22:01

(2011年11月3日木曜、渋谷クロコダイル、サユリー・ライヴ、フェイト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Sayulee
ENT>MUSIC>LIVE>Phate



◎ケイリブ・ジェームスのロック・バンド、フェイト・ライヴ

【Kaleb James’s Phate Live Report】

多彩。

われらがソウル・サーチャーズのケイリブ・ジェームスは実に多彩な男だ。「ソウル・サーチン」のホストバンド、ソウル・サーチャーズを率いるときは、実にそのアーティストを研究し、さまざまなアレンジで独特のアプローチを見せる。それはソウルであれ、ジャズであれ、フュージョンであれ、R&Bであれ、同じだ。日本人シンガーのバックをやるときは、そのアーティストの楽曲を研究する。

彼の自身のバンドでのリハーサルは、ノンストップ。ほとんど歌詞は覚えていて、曲の構成、進行、アレンジなども覚えている。その場でちょっとしたアイデアを思いつき、変更をしても、バンドメンバーはそれについていくために、メモをするが、ケイリブはほとんどメモをしない。抜群の記憶力があるのか、天才なのかもしれない。

そんな彼がロックをやるバンドがフェイト。その久々のライヴ。これもケイリブとギターのディッキーが中心となったユニットだが、彼らのもうひとつのグループ、ニューヨーク・ミニットはファンク、ソウル、R&Bばかりをやるユニットで、このフェイトはロックをやるバンドと色分けがされている。

セットリストの曲名の後ろにオリジナル・アーティストの名前をいれたが、これらのロック・グループの名前を見ると、このフェイトが目指すところがおぼろげにわかるだろう。

僕が気に入ったのは、クラプトンの「リヴァー・オブ・ティアーズ」で、これはアル・グリーンの「ゴッド・ブレス・アワ・ラヴ」的な南部ソウルの味わいがあるバラードだった。おそらく、クラプトンが南部ソウルをやろうと思ってやった曲なのだろう。同じくクラプトン曲で、サユリーを迎えて歌った「ワンダフル・トゥナイト」も印象に残った。ニルヴァーナは大胆なアレンジだ。

ちょうど、ケイリブに関する記事が載ったのでご紹介。

Musician Kaleb James makes it happen
By Chris Betros
Japan Today Web Site:
ARTS & CULTURE NOV. 04, 2011 - 11:36PM JST
http://www.japantoday.com/category/arts-culture/view/musician-kaleb-james-makes-it-happen

カマサミ・コングさん主催の『メットポッド』の映画コメンテイターとしておなじみのクリス・ビートロスさんがインタヴューして記事にまとめたもの。

ケイリブ・ジェームスのホームページ
http://www.kalebjames.com/
(ほとんど更新されないので、最新情報はあまりない(苦笑))

ケイリブは、2011年12月13日(火曜)、14日(水曜)に行われる「マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ」の日本人シンガーのバンドの音楽ディレクターを担当する。

フェイトはこの10月からベース奏者に、元アトランティック・スターのクリフ・アーチャーが正式加入した。

■ケイリブの今後のライヴ

2012年1月6日(木)、中目黒・楽屋(らくや)、アコースティック・ライヴ

2012年2月3日(金)、目黒・ブルース・アレイ、バンドでのライヴ
Kaleb’s W.T.F. Bunch
(Key/Vo)Kaleb James (G)マサ小浜 (B)日野JINO賢二 (Ds)Jay Stixx (Sax)Andy Wulf and more

■フェイト・ウェッブ
http://www.phate.jp/

■関連過去記事 (フェイト関連のみ)(ケイリブはほかに「ソウル・サーチン」のハウスバンド、ソウル・サーチャーズの音楽ディレクター、ニューヨーク・ミニット、そのた多くのセッションに参加。

June 22, 2006
Phate Live At Thumbs Up: Love Them or Like Them?
http://blog.soulsearchin.com/archives/001090.html

July 23, 2005
Phate: New Acts of R&A, Stands For Rhythm & Alternative
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200507/2005_07_23.html

September 17, 2005
Kaleb James’s Own Group Phate
http://www.soulsearchin.com//soul-diary/archive/200509/2005_09_17.html

2008年11月04日(火)
ケイリブ・ジェームス&フレンズ・ライヴ・アット・マルターノ
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20081104.html
このとき、サユリーはケイリブとボニー・レイットの「ユー」を一緒に歌い、ほかにオリジナル曲を披露していた。

■フェイト・メンバー

ケイリブ・ジェームス(キーボード、ヴォーカル) Kaleb James
ディッキー・フクダ(ギター)Dicky Fukuda
クリフ・アーチャー(ベース) Cliff Archer
アーミン・武士・リンツビヒラ (ドラムス)  Armin T. Linzbichler

シンイチ・クサマ 草間信一(キーボード)Kusama Shinichi (サポートメンバー)

ゲスト・サユリー Sayulee

==セットリスト
Setlist : Phate, November 2, 2011 at Crocodile, Shibuya

Show started 20:39
01.Grey Street (Dave Matthews Band)
02.Drive (Incubus)
03.Smells Like Teen Spirit (Nirvana)
04.River Of Tears (Eric Clapton)
05.Iris (Goo Goo Dolls)
06.Wonderful Tonight (Eric Clapton) (+Sayulee)
07.The Game Of Love (Santana) (+Sayulee)
08.Something’s Missing (John Mayer)
09.Sometimes (Phate original)
10.Shake Me Like A Monkey (Dave Matthews Band)
Enc. Sunday Morning (Maroon 5)
Show ended 22:01

(2011年11月3日木曜、渋谷クロコダイル、サユリー・ライヴ、フェイト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Sayulee
ENT>MUSIC>LIVE>Phate



●吉川茂昭さん(元エピック・ソニー、マイケル・ジャクソン担当)を偲ぶ会

【A Tribute To Mr. Yoshikawa Shigeaki】

偲ぶ。

しばらく前に、元CBSソニーの野中さんのブログで死去を知った吉川茂昭さんを偲ぶ会が、2011年11月6日(日曜)青山のイヴェントスペース、モーダポリティカで行われた。

吉川さんは、2011年8月末に釣りに行ったところで事故死したという。詳しい状況はよくわからないそうだ。60歳だった。

吉川さんは、1951年(昭和26年)4月23日生まれ。CBSソニー、エピック・ソニー、ソニー・コンピューターを経て、VR1、プラスなどの会社を渡り歩いた。エピック時代には、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』、ジャクソンズの『ヴィクトリー』などのほかに、ノーランズ、ジョージ・デューク、ルーサー・ヴァンドロスなどを担当。その後、ソネットではポストペットを世に送り出す力となった。

僕と吉川さんは、1979年に『オフ・ザ・ウォール』のときに知り合った。あのときは、一度夏に出た『オフ・ザ・ウォール』を半年か一年後かに、再度プロモーションするという異例の宣伝を行い、結局、ディスコだけでなく、洋楽シーンでヒット。さらにその流れでジャクソンズの『トライアンフ』へつなげ、『スリラー』の下地を作った。

僕が1983年8月5日にマイケル・ジャクソンのエンシノの自宅に行けたのも、吉川さんのおかげだ。吉川さんに、ジャクソンズのインタヴューをしたいと申し出たら、快くアレンジしてくれた。結局、ジャッキー・ジャクソンとのインタヴューが取れることになり、行ってみたら、そこがマイケルの自宅だったという話は何度もした。これには僕自身がものすごく驚いたが、帰国して写真を持って吉川さんのところに報告に行くと、彼も事の外驚き、大喜びしてくれた。すでにマイケルがメディアとインタヴューをしなくなっていた時期だけに、貴重な接点となり、あちこちの雑誌や媒体を紹介してくれ、その話をたくさん書いた。

それらが結局『ヴィクトリー』の下地になり、僕は詳細な『ヴィクトリー』のアルバム・ライナーを書き、それを後に西寺郷太くんが読んで、マイケル道に走ることになるのだから、世の中すべてつながっている。

そして、1984年7月の『ヴィクトリー・ツアー』もカンサスで見せていただいた。そのライヴがあまりに衝撃的だったので、同年12月にロスアンジェルスでもう一度見ることにして、そのとき、高校からの同級生で盟友、大のソウル好きハセヤン(長谷川康之トレイン社長)を誘った。これはきっと彼も感激するだろうと思ったからだ。そうしたら感激どこから、彼はいまだに自分が何百本と見たライヴの中で生涯最高のライヴが、『ヴィクトリー・ツアー』のライヴだと、言ってくれている。

吉川さんからは、ルーサー・ヴァンドロスのライナーノーツも頼まれ、『ヴィクトリー』級の詳細なライナーを書いた。これは後に松尾潔さんが、ぼろぼろになるまで何度も読んだそうで、彼はルーサー好きが転じて、自身の制作会社の名前に「ネヴァー・トゥ・マッチ・プロダクション」と名付けている。まあ、そういう意味でいけば、これも間接的には吉川さんのおかげだ。

レコード業界を離れてからは、さすがに接点がなくなったが、その後どこかでばったり会ったり、風の噂で「ポストペット」をやって大成功した、と聞いた。また、たまたま僕の友人が勤めていた会社に吉川さんが入り、その友人から突然電話が来て、「ちょっとおもしろい人物に代わるから」と電話が渡され、出てきたのが吉川さんで、びっくりしたこともあった。

最後に話をしたのは、マイケル死去のニュースが流れた2009年6月26日のこと。吉川さんから電話がかかってきて、しばし、マイケル話をした。

この偲ぶ会にはあまりレコード音楽関係の人はいなくて、エピック・ソニー時代の方々が数名いらしていただけ。ただ、その人たちには久々にお会いできてよかった。各業界のみなさんのあいさつの中で、「彼は朝会社に来ない。相当自由にやりたい放題やっている。でも、売り上げがあがるから、みんな文句を言えない」といったことが異口同音に語られ、どこでも相当自由にやられていたんだなと思った。

音楽業界には破天荒な名物ディレクターが1970年代には多くいたものだが、吉川さんはそんな最後のディレクターだったのではないか、と当時の上司だった野中さんはおっしゃっていた。野中さんは、「(上司だから)勤務評定っていうのをするんだけど、日常の勤務態度というところは最低なんだけど、その他の売り上げとか、いろんな項目でみんないいから、結局トータルでいいってことになるんだよね。会社としては、貴重な存在だった」と苦笑していた。

僕も知り合った当初、黒のタキシードにネクタイという『オフ・ザ・ウォール』のマイケル姿でプロモーションしていて、度肝を抜かれたことを思い出す。なにより、アイデアマンで、行動力があったから、あそこまでの実績を残したのだろう。そういえば、シャーデーを最初に担当し、全米でブレイクする前に、来日させインクスティックかどこかでショーケースっぽいライヴをやったのも吉川さんだった。それと、ノーランズ、キャンディー・ポップ、ワムも。洋楽ディレクターとしては大変な実績だ。

偲ぶ会の最後に、吉川さんが月刊「ポストペット」に1998年6月から2001年2月まで掲載した自身のキャリアを振り返る「私の楽歴書」という連載記事が小冊子にまとめられ、参加者におみやげとして配られた。これがなかなかおもしろい読み物だ。最近ウェッブにアップされたので、誰でも読める。エピック・ソニー時代の話が、いろいろと知っているだけにとてもおもしろい。

http://gakurekisho.blogspot.com/2011/11/1.html

マイケルのくだり、ジョージ・デューク、スタンリー・クラーク、シャーデーとの話など洋楽ファンとしてはたまらない。彼がビル・ウィザースに面会していたとは知らなかった。

ご冥福をお祈りしたい。

OBITUARY>Yoshikawa, Shigeaki (April 23, 1951 – August, 2011, 60 year old)


☆マイケル・ジャクソン元・専属医に有罪の評決

【Michael Jackson’s Doctor Conrad Murray Convicted】

評決。

2009年6月に死去したマイケル・ジャクソンの元専属医コンラッド・マレー(58) が殺人などの罪に問われていた裁判で、2011年11月7日(月)、12人の陪審員は全員一致で有罪の評決を下した。これを元に、11月29日に量刑(有罪か無罪か、有罪の場合懲役年月、執行猶予など)が言い渡される。最大で4年の懲役になる可能性がある。また執行猶予の可能性もある。

6週間のおよぶ公判後、陪審員は9時間審議しこの結論に達した。罪は、involuntary manslaughter日本語の専門用語では「非故意故殺」、日本では一般的には「過失致死」にちかい。陪審員は男性7人、女性5人。12人のうち5人がラテン系で、ほかに1人スペイン生まれの人物がいるという。

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すでに多くの報道がされているので、詳しくはそうした報道をごらんください。下記にいくつかリンクをつけた。

■陪審員有罪評決・関連記事 すぐにリンクが切れる可能性がありますので、お早めにごらんください)

マイケル・ジャクソンさん元専属医に有罪評決、遺族からも喜びのコメント
2011年11月8日 19時17分
http://www.cinematoday.jp/page/N0036815

故マイケル・ジャクソンさんの専属医師に有罪評決〔AFP=時事〕(2011/11/08-11:30)
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20111108027875a

http://jen.jiji.com/jc/eng_afp?k=20111108027875a

マイケルさん急死、元専属医に有罪評決(2011年11月8日11時22分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111108-OYT1T00147.htm?from=main8

有罪評決のマイケル元専属医、刑務所過密で数カ月後釈放も
2011年 11月 8日 17:36 JST
http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-24046220111108

マイケルさん元専属医に過失致死で有罪評決 ファンらが歓声
2011.11.08 Tue posted at: 09:25 JST
http://www.cnn.co.jp/showbiz/30004505.html

M・ジャクソン元専属医に有罪評決、兄「正義果たされた」
2011年 11月 8日 09:37 JST
http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-24031920111108

2011-11-08
マイケル元専属医に有罪評決 遺族がコメントを発表
http://www.mtvjapan.com/news/celebrity/19878

Doctor Is Guilty in Michael Jackson’s Death
By JENNIFER MEDINA
Published: November 7, 2011
http://www.nytimes.com/2011/11/08/us/doctor-found-guilty-in-michael-jacksons-death.html?_r=1

Michael Jackson’s doctor guilty of manslaughter
By Alex Dobuzinskis
LOS ANGELES | Mon Nov 7, 2011 10:50pm EST
http://www.reuters.com/article/2011/11/08/us-michaeljackson-idUSTRE79I6AG20111108

Michael Jackson’s doctor convicted of involuntary manslaughter
Nov. 8, 2011
http://www.freep.com/article/20111108/NEWS07/111080398/Michael-Jackson-s-doctor-convicted-involuntary-manslaughter

MICHAEL JACKSON>Murray Trial
●ヘヴィーD、ジョー・フレイジャー、ノーマン・ダーラムら死去

訃報。

ラッパー、俳優としても活躍していたヘヴィーDが、2011年11月8日、ロスアンジェルスのシーダス・サイナイ病院で肺炎のため急死した。ビヴァリーヒルズの自宅で息苦しくなり、午前11時半(日本時間9日午前4時半)頃救急車が呼ばれ病院に搬送されたが、まもなく死去が確認された。44歳。

ヘヴィーDは、本名ドワイト・アーリントン・マイヤーズ。1967年5月24日ジャマイカ生まれ。幼少の頃、家族でニューヨークのマウント・ヴァーノンに引越し、そこで育った。Gウィズ、Tロイ、エディーFらとともに、ヘヴィーD&ザ・ボーイズを結成。1986年に黒人起業家アンドレ・ハレルが設立したアップタウン・レコードと契約。同レーベルの成功とともに、彼らもビッグになった。1986年12月から「ミスター・ビッグ・スタッフ」(ジーン・ナイトのヒットのカヴァー)がヒット。さらに1987年、デビュー・アルバム『リヴィング・ラージ』(でっかく生きる。スケール大きく生きることと、彼自身の体が大きいことをかけている)がヒット。

さらに、1989年の2作目『ビッグ・タイム』はR&Bアルバムチャートで1位。しかし、その後1990年7月15日、インディアナポリスでボーイズのメンバー、Tロイが22歳で事故死。3作目『ピースフル・ジャーニー』をTロイへのトリビュート作品にした。同アルバムのトップを飾る「ナウ・ザット・ウィ・ファウンド・ラヴ」(オージェイズのヒットを「ニュー・ジャック・スウィング」のサウンドでカヴァー。リードはアーロン・ホール)ブラック・チャートで5位を記録、ゴールド・ディスクになり、大ブレイク。一足先に、同じMCAから登場したガイのテディー・ライリーが開発した「ニュー・ジャック・スウィング」で大ヒットさせ、メロディーのあるラップ作品を作り支持を集めた。

ラップ、ヒップ・ホップとメロディーのあるR&Bを融合することに成功、この流れは同じアップタウンでメアリーJブライジに受け継がれる。また、アップタウンからは、ショーン・パフィー・コムスが登場し、一大勢力となった。パフィーは、ヘヴィーDのおかげで音楽業界入りできたと語る。彼の口利きでアップタウン・レコードでインターンとして働き始めたのだ。

http://youtu.be/NNEgUPKxk7A



ヘヴィーDはテレビ番組『イン・リヴィング・カラー』のテーマ曲を担当、出演したり、映画にも出るようになった。また巨漢ながらそのキャラクターが大変印象的で愛され、多くのアーティストからもプロモ・ビデオへのラップ出演が舞い込み、ジャネット・ジャクソンの「オールライト」、マイケル・ジャクソンの「ジャム」などに客演。

1996年、クインシー・ジョーンズに呼ばれ彼の最新作でブランディーとともにマイケル・ジャクソンの「ロック・ウィズ・ユー」をカヴァー。

2011年10月20日、BETヒップ・ホップ・アワードに登場、パフォーマンスは15年ぶりだったが、その後2011年10月8日、イギリス・カーディフで行われた「マイケル・ジャクソン・トリビュート・ライヴ」に出演、マイケルの姉ラトーヤと「ジャム」を歌った。

また、ヘヴィーDは約17万人のフォロワーがいる自身のツイートで2011年11月7日21時19分(現地時間)に「スモーキン・ジョー・フレイジャーRIP」とツイート。次のツイート(現地7日22時29分=日本時間11月8日15時29分)で、「BE INSPIRED!」と書いている。「元気をくれ!」「インスパイアーされなさい(元気を得なさい、刺激を受けなさい)」「息をさせてくれ」といった意味。これが最後のツイートとなったが、ある意味大変予言的なツイートになった。前夜から息苦しかったのだろうか。

ヘヴィーDのツイッター・アカウントは、@heavyd 。

■ヘヴィーD&ザ・ボーイズ

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002OGP/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ News Sources

http://moviesblog.mtv.com/2011/11/08/heavy-d-dead-movies/

http://www.seattlepi.com/entertainment/article/Heavy-D-dies-at-44-after-collapsing-outside-home-2258891.php

http://www.soultracks.com/story-heavy-d-dies

http://www.tmz.com/2011/11/08/heavy-d-dead/#.Trny7_SF-31

OBITUARY> Myers, Dwight Arrington (May 24, 1967 – November 8, 2011, 44 year old),

●ジョー・フレイジャー死去~モハメド・アリを倒したヒーロー

【Joe Fraizer Dies At 67】

肝臓癌。

1970年代に当時無敵だったボクサー、モハメド・アリを初めて倒してヒーローになったジョー・フレイジャーが、2011年11月7日死去した。肝臓癌だった。67歳。「スモーキン・ジョー」のニックネームで知られていた。

1964年東京オリンピックでアマチュアとして金メダル獲得、1965年プロに転向。1970年ヘヴィー級チャンピョン。37戦32勝(ノックアウト勝ち27)4敗1分。

OBITUARY>Fraizer, Joe (January 12, 1944 – November 7, 2011, 67 year old)

●クリアーのベース奏者、ノーマン・ダーラム59歳で死去

【Norman Durham, Kleeer Member, Dies At 59】

一酸化炭素中毒。

70年代に活躍したファンク、ディスコ・グループ、クリアー(Kleeer)のベース奏者、ノーマン・ダーラムが2011年11月2日、ニューヨーク郊外チェスナット・リッジの自宅で死去した。59歳。このところの寒波で、自家発電で暖房をしていたが、その自家発電機による一酸化炭素中毒で死去した模様。この地域は、前の週末から嵐で停電していた。

クリアーは元々1972年に結成された「ザ・ジャム・バンド」と名乗るファンク・5人組グループが前身。その後、1975年に「パイプライン」となり、このグループではロックを演奏、コロンビアからシングル1枚を出した。その後、1976年に、ディスコ・バンド「ジ・ユニヴァーサル・ロボット・バンド」となり、パトリック・アダムス、グレッグ・カーマイケルのプロデュースで1977年、「ダンス・アンド・シェイク・ユア・タンバリン」のディスコ・ヒットを生み出す。ここには、プロデューサーのパトリック・アダムスつながりでリロイ・バージェスもゲスト・ヴォーカルではいっていた。そして、1978年、グループ名をクリアーに変更。1979年アトランティックと契約、その後7枚のアルバムと12曲のソウル・ヒットを放った。1981年の「ゲット・タフ」が最大のヒット。

その後、ヒップ・ホップのラッパーたちが、さかんにクリアーの音をサンプリング。2パック、スヌープ・ドッグ、DJクイック、リル・ジョンらがサンプリングで使用している。

■クリアー、ベスト

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B002F3BP0O/soulsearchiho-22/ref=nosim/

メンバーのウーディー・カニンガム(ドラムス)も2010年1月9日、死去している。Woody Cunningham: born 8th July 1948, Baltimore, Maryland, U.S.A. died 9th January 2010, Bowie, Maryland, U.S.A.

OBITUARY> Durham, Norman (Born circa 1952 – November 2, 2011, 59 year old)
OBITUARY>Fraizer, Joe (January 12, 1944 – November 7, 2011, 67 year old)
OBITUARY> Myers, Dwight Arrington (May 24, 1967 – November 8, 2011, 44 year old),

○ フィリップ・ウー、ラルフ・ロール、マイケル・ディスタシオ、アキコ@メットポッド・セッション

【Philip Woo & Ralph Roll On Metpod】

メットポッド。

毎週DJカマサミ・コングさんが収録し、ポッドキャストにあげているMetpodの収録に現在久保田利伸ツアーで来日中のラルフ・ロールとフィリップ・ウーが登場。彼らが11月24日(木)に目黒ブルース・アレイで行う「ニューヨーク・オールスターズ」のライヴについて話した。

この日はほかに、ユニヴァーサル所属のシンガー、アキコさん、「ロック・チャレンジ」というイヴェントを行っているマイケル・J・ディスタシオさんがやってきた。

http://metropolis.co.jp/podcast/

まず、フィリップ、ラルフらのニューヨーク・オールスターズのライヴ告知。これは、現在久保田利伸ツアーでニューヨークからやってきているメンバーを中心にしたライヴ。これまでにも久保田ツアーの合間をぬって、ソウル・ミュージックを楽しむ会として行われてきた。今回はニューヨークからラルフ・ロール(シック・ナイル・ロジャーズのドラマーとしても有名)、シンガー、タイ・スティーヴンス、フェリシア・グラハム、フィリップ・ウーに加え、ジーノ、マサコハマと強力なラインアップで、スティーヴィー、ダニーなどの70年代ソウルを含めたブラック・ミュージックを奏でる。

(下記に前回のニューヨーク・オールスターズのライヴ評)

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レッスン。

また、ラルフ・ロールは現在来日中の空いた時間に、ドラム・クリニックを高輪のスタジオ・ベイドで行っている。ラルフは、ドラムの技術的なことはもちろんのこと、エモーショナルな部分、心構えといったものを教える、という。

フライヤー

開催時期:2011年9月~2012年2月
開催場所:東京都港区高輪台・スタジオ・ベイド
価格: 1時間8000円~
予約・問い合わせ: Ralph.drumlesson@gmail.com

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クッキー。

ラルフは、ドラマーの顔ともうひとつ、ブラック・アントレプレナー(黒人起業家)としての顔を持つ。なんと、ファミリー代々のレシピーでクッキーを作ったところ友人たちの間で評判となり、会社にし、ショップで売り始め、そのショップが現在ではニューヨークで62店舗にもなった。1996年からビジネスを始めた。「ニューヨークではスーパー・ビジーなんだよ」とラルフは笑う。ネットで販売し、日本にも送ってくれるそう。

www.soulsnacksnyc.com

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アキコ。

アキコさんは、おなじみのジャズ・シンガー。2011年11月16日にビートルズの作品ばかりを録音したカヴァー・アルバムをリリースする。そのプロモーションでやってきた。(今回はメットポッドではなく、カマサミの別の番組用にインタヴューを収録)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005KLA9HI/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

ライヴ=AKIKO

2011年12月20日(火曜)、東京品川・キリスト品川教会・グローリア・チャペル 18時30分オープン、19時開演
5000円。当日券5500円。
2011年11月12日(土)から一般発売
主催・キャピタルヴィレッジ/ability muse 問い合わせ・キャピタルヴィレッジ03-3478-9999

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ロック・チャレンジ・ジャパン。

マイケルさんは、「ロック・チャレンジ・ジャパン」というイヴェントの告知。もともとオーストラリアで始まったイヴェントを日本でもやりだして、今回は2012年2月3日、新宿文化センターで行われる。入場無料。

このイヴェントは、学生、若い世代にダンスなどのパフォーマンスのチャンスを大きなステージで与えるもの。ダンス、マイム、演技、ミュージカルの要素をツールにして、テーマやストーリーを作りパフォーマンスする。音源は参加者が8分以内で編集する。スポンサーにより参加費、入場料は無料。一般の人はなかなかステージで照明や音響を使ったものができないため、貴重な体験になる。世界的に見ても他に類を見ない、大変ユニークなパフォーミングアート、とのこと。

www.rockchallenge.jp

http://www.resultdns.com/?tmp=redir_bho_bing&prt=RsltdnsNN&keywords=www.rockchallenge+jp

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■フィリップ・ウー・ウィズ・ニューヨーク・オールスターズ
Philip Woo with The N.Y. All Stars 2011

日時・2011年11月24日(木) 午後7時半~ 
料金・4000円、4500円(当日)
会場・目黒ブルース・アレイ
http://www.bluesalley.co.jp/
東京都目黒区目黒1-3-14ホテルウィング・インターナショナル目黒B1F
電話 03-5496-4381

メンバー=
Philip Woo (Pf/HAMMOND B-3/Fender Rhodes/Synth)
Ralph Rolle (Ds/Vo)
Ty Stevens、Felicia Graham (Vo)
マサ小浜(G)
Hino Jino Kenji(B)

○ ニューヨーク・オールスターズ過去記事

July 21, 2006
Philip Woo & New York Allstars: Don’t Leave Me This Way (Japanese Version)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200607/2006_07_21.html

(English version of above)
http://blog.soulsearchin.com/archives/2006_07_20.html

August 03, 2006
Tonight Is Ty Night: Philip Woo & New York All Stars Final
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_03.html

+++++

RADIO>Metpod
ANNOUNCEMENT>New York All Stars

◎ウィリー・ナガサキ&フレンズ・ライヴ~ようこそ楽園へ

【Sasaki Makoto/Willie Nagasaki Session】

楽園。

来週の「フィリー・ソウル大特集」の選曲作業に没頭していたが、120曲以上を選曲し、一段落。そこで、ちょっと息抜きに。ライヴって行かないと中毒症状が出てくるんですね。(笑)

以前ゴスペラーズの北山陽一さんに紹介されたラテン系ヴォーカルの佐々木誠さん。何度かライヴにお誘いいただいていたのだが、やっとタイミングがあって、深夜のアムリタへ。この日も、ラテン系好きなファンたちが集まっていた。

僕はラテン、サルサ系の音楽はまったく知識がないのだが、こういう場所で生演奏で楽しめるというのは実にいい。

ヴォーカル、パーカッションの佐々木さんを中心に、キーボード、ベース、さらに2人のパーカッションという基本5人編成。メンバー表を見ればわかるように、それぞれあちこちで活躍しているメンバー。今回は、ティンバレスのウィリー・ナガサキさんの元に集まった。ウィリーさんは、ニューヨークのティト・プエンテ直系のお弟子さんだそう。

ラテンといえば、パーカッション。これが、ラテン・グルーヴを生み出す。なんで、ただ物を叩くだけなのに、あんなに「ノリ」で出るんだろう。



「ようこそ楽園へ!」 まさにラテンの楽園。特にパーカッション3人がそれぞれプレイし、バトルするところなど、それだけで熱くなってくる。

昨年見た『ハヴァナ・ラカタン』の興奮を思い出した。

2010年08月11日(水)
ハヴァナ・ラカタン~灼熱の音楽とダンスが爆発
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10613292309.html?

佐々木さんのブログ。マコト日記。
http://chekere.exblog.jp/

なんと2001年3月以来10年以上毎年キューバを訪れているそう。

来年も「トローバ国際音楽祭」から招待状が来て、キューバに行くそうだ。

その後、佐々木さんから詳細なセットリストをいただいたので、そのまま掲載いたします。彼のライヴなどは、上記ブログにて。

サル~~。

■ ウィリー・ナガサキさん・ウェッブ
http://bronx.cup.com/index.html

■ メンバー

Willie Nagasaki;ウィリー ナガサキ (松岡直也グループ) timbales(ティンバレス)
渋谷 和利;しぶや かずとし (オルケスタ・デ・ラ・ルス) baby bass(ベイビー・ベース)
齋藤 崇也;さいとう たかや (オルケスタ・デ・ラ・ルス) Rhodes
伊波 淑;いば よし(熱帯JAZZ楽団)congas
Makoto vo ,bongo,and minor perc.

ゲスト二階堂貴文

■セットリスト (解説は佐々木さんからいただきました。感謝)
Willie Nagasaki & Friends @Amrta, November 11, 2011

show started 2:01
1.Cachita;カチータ (Rafael Hernandez;ラファエル エルナンデス。プエルトリコの作曲家で、キューバのポピュラー音楽‘SON;ソン’のスタイル他とにかく多作。キューバでもその楽曲の数々は今も演奏され非常に人気。)

2.Masacote;マサコーテ  (作曲者なし。ラテンでいうセッション=‘デスカルガ’を行う際に用いるリズムとベース・パターンを仮に昨日はそう呼びました。強いていえばウィリー氏オリジナル。)

3.シリ・ピリカ  (ピアノ;齋藤 崇也のオリジナル。)

4.Contigo en la distancia;コンティーゴ・エン・ラ・ディスタンシア (Cesar Portillo de la Luz;セサル・ポルティージョ・デ・ラ・ルス。キューバのフィーリンというジャンルのシンガーソングライター。作曲数は少ないながら、そのどれもがヒットソングで、キューバで最も愛されるシンガーソングライターの一人。昨日はセカンド・セットで唯一ボレロ=バラードとして採上げました。)

5.El cuarto de Tula;エル・クアルト・デ・トゥーラ (Gonzales Y Siaba Sergio Eulogio;ゴンサーレス&シアバ・セルヒオ・エウロヒオ) 映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』と同名のCD発売でその収録曲として今迄以上に世の中に知られることになったキューバのポピュラー音楽ジャンル‘SON;ソン’の一曲。

6.Manbo Inn;マンボ・イン (Mario Bauza;マリオ バウサ)ラテン・ジャズで最も日本で演奏される機会の多い一曲を、昨夜は敢えて最後に選びました。

アンコール;Dscarga C7;C7のデスカルガ (作曲者なし。僕がコール&レスポンスを即興し、その場にいたミュージシャン全員でセッションになりました。)

(2011年11月10日木曜、アムリタ、ウィリー・ナガサキ&フレンズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE> Willie Nagasaki & Friends
2011-
#「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリー~「グレイト・ソング・ストーリー」(名曲物語)

【”Betcha By Golly, Wow” Story 】

(不定期でその曲の誕生秘話などをご紹介している「グレイト・ソング・ストーリー」(名曲物語)。今回は、スタイリスティックスでおなじみのフィリー・ソウル・クラシック「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」をご紹介します。この模様は、今日の「ソウル・サーチン」[インターFM76.1mhzで日曜午後2時半~]でもご紹介します)

ACT 1: 入魂の1曲

流行語。

「フィラデルフィア・ソウル」「フィリー・ソウル」の人気グループ、スタイリスティックスの大ヒット曲のひとつ「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」。1972年に大ヒットした名曲。スタイリスティックスのデビュー・アルバム『スタイリスティックス登場』に収録されている。

これを書いているのが、そのプロデューサー、トム・ベルと作詞家リンダ・クリードのコンビだ。スタイリスティックスで大ヒットし、その後、カヴァーが生まれた。有名なのは、フィリス・ハイマン、そして、プリンス、アーロン・ネヴィルなど。そのほかにもジャズの分野も含めて多数のカヴァーがある。

ところが、スタイリスティックスがレコーディングして有名にしたこの曲、実は、スタイリスティックより前に、録音されていたことを最近知った。なんと、1960年代に活躍した女優兼歌手のコニー・スティーヴンスが、1970年にレコーディングしていたのだ。しかし、そのときのタイトルは、「キープ・グロウイング・ストロングKeep Growing Strong」。そう、サビの繰り返しの部分だ。いくら「ベッチャ・バイ~」で検索してもでてこない。

コニー・スティーヴンスは1938年8月8日生まれ(現在73歳)で、1959年から始まったテレビ・シリーズ『ハワイアン・アイ』で人気となった。ほぼ同じ頃からシンガーとしての活動も開始。女優兼歌手として活躍していた。1959年4月からエディー・バーンズとのデュエットで「クーキー・クーキー」という曲が全米ポップチャートで4位、ゴールド・ディスクに輝いている。ただこれは、聴くとわかるが、歌というより、ラップというかナレーションというか、ちょっと冗談ぽいノヴェルティー・ソングだ。アイドル・タレントというところといえそう。

(一応参考までに、その楽曲映像↓)
http://youtu.be/3gDT2Xk5-Oo

さて、コニーの「キープ・グロウイング・ストロング」が録音されたのは、1970年。これも、プロデュース、コンダクト、アレンジがトム・ベル本人。シングルは、ベル・レコードからリリース。どのような経緯で当時はまだ無名だったトム・ベルがコニーの曲をプロデュースすることになったかはわからない。ひょっとすると、デルフォニックスの作品を出していたフィリー・グルーヴ・レコードを配給していたのが、ベル・レコードだったから、その線でトム・ベルに話が行ったのかもしれない。とりあえず、シングルを1枚作ろうということで出来たようだ。

サウンド的には、初期のデルフォニックスのサウンドに近い。ちょっと荒削りな音だが、ちゃんとストリングスも入っているところが、トム・ベルらしい。残念ながらこのヴァージョン「Keep Growing Strong / Tick-Tock」(Bell 922)はヒットしなかった。今では、このオリジナルのシングル盤にはオークションで300ドル以上ついたりするという。ちなみに、シングルB面の「ティック・トック」は、ミディアム調のフィリー風ダンス曲。これは、2011年5月29日(日)に山下達郎さんの『サンデイ・ソングブック』(東京FM系列全国ネット)で、オンエアされた。たぶん日本で唯一のオンエアだ。達郎さんはこのシングルをその頃入手したそうだ。シングルは1970年の9月から10月頃のリリースと思われる。(ちなみに、Bellのディスコグラフィーをあたると、Bell 910 パートリッジ・ファミリーの「I Think I Love You」が1970年10月、Bell 913 フィフス・ディメンションの「On The Beach」が1970年8月、Bell 938 ドーンの「ノックは3回(Knock Three Times)」が1970年11月のリリースで、若干の前後することもあるが、922はその間あたりのリリースと見られる)

■コニー・スティーヴンスの「キープ・グロウイング・ストロング」
Connie Stevens : Keep Growing Strong
http://youtu.be/uTokIbPQyB0


(動画ではありませんが、曲は聴けます)

(ちなみにこの曲は、今では下記掲載のコンピレーションで安価に入手できる。今日「ソウル・ブレンズ~ソウル・サーチン」でかけるのもこのCDから。また、訳詞が下にあります)

ACT 2: タイトルを変えて再録音

マジック。

ヒットはしなかったが、しかし、トム・ベルもリンダ・クリードもこの曲が気に入っていた。入魂の1曲だった。そして、これをほぼ同じ頃、ちょうどトム・ベルがプロデュースを頼まれたフィラデルフィア出身の無名の新人グループのデビュー・アルバムで再度録音する。おそらく1970年暮れか1971年初頭にかけてのことだ。

しかし、彼らはタイトルを「キープ・グロウイング・ストロング」からそのサビがくる少し前のフレーズに変更した。そう、「ベッチャバイ・ゴーリー・ワウ」という当時の流行り言葉にしたのだ。そしてそれをアルバムに入れた。新人グループはスタイリスティックスといった。このヴァージョンは、コニーのポップな感じとはまったく違い、まるで女性が歌っているかのようなソフトなファルセット(裏声)で歌われ、流麗なオーケストラのサウンドで出来ていた。

「Betcha / By Golly / Wow」は当時ブラックの間で流行っていた言い回しで、あえて今風の日本語にすると「驚いたなあ、マジ・すげえなあ」「ぶっとんだぜ~」と言った驚きを表現する言葉だった。Betcha はYou bet(その通り、マジに、もちろん、絶対!), by golly は by godで、これも「本当に! まったくその通り! おや、まあ」といった意味、そしてWowも驚きの感嘆詞。全部同じような単語が並ぶ。「ほんと、マジ、驚く、ワオ」とか、「びっくりしたなあ、モウ」とか、あるいは、少し意訳すれば、「がちょ~~ん」なんかもあるかもしれない。いわば旬の単語をそのままタイトルにしたのがこれだ。21世紀の今では誰も使わない言葉だという70年代初期の黒人間の「流行語」だった。

ここは推測だが、元々トム・ベルたちは、「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」のタイトルで曲を作ったが、これが黒人スラングで、白人のコニーにはそぐわないということで、わかりやすく「キープ・グロウイング・ストロング」にしたのかもしれない。そして、黒人のスタイリスティックスで録音するときに、黒人たちにはわかりやすい元のタイトルに戻した可能性もある。

もちろん、「キープ・グロウイング・ストロング」(愛はどんどんと強くなっていく)というタイトルのほうが一般的にはなじみやすいのだが、あえて当時の流行語で、タイトルとしては意外な「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」を全面に押し出したところがよかったのだろう。

この曲はスタイリスティックスのデビュー作『スタイリスティックス』に収められ、「ユー・アー・エヴリシング」に続いて同アルバムからは4枚目のシングルとしてカット。瞬く間にラジオ局でのエア・プレイを得る。1972年3月からヒットし始め、ソウル・チャートで2位、ポップ・チャートで3位を記録する大ヒットになる。下記の歌詞・訳詞をみていただくとよくわかるが、リンダ・クリードが生み出した不思議なラヴ・ソングの世界がとても魅力的だ。それが、スタイリスティックスのリード・シンガー、ラッセル・トンプキンスの声とからみあい、独自のスタイリスティックス・ワールドを作り出した。まさに、マジックが生まれたと言っていいだろう。

■スタイリスティックス:ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ

http://youtu.be/MUKilZ58wYY


(動画ではありませんが、曲は聴けます)

トム・ベルは、自分の自信作となると、何度でも録音を試みる。この「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」も、コニーで録音し、再度スタイリスティックスで録音。またトムは1973年、やはりヴェテラン・シンガー、ジョニー・マティスをプロデュースするが、ここでは「ライフ・イズ・ア・ソング・ワース・シンギン」と「ベイビー・ビー・マイン」を録音している。

前者はそれから4年後の1977年、ご存知テディー・ペンダーグラスが録音し、アルバム・タイトル曲にしてヒット。後者は17年後の1990年、ジェームス・イングラムがアルバムで録音、シングル・カットされている。いい曲は、タイミングとアレンジなどで、最初ヒットしなくても、のちにヒットすることがあるといういい例だ。

ACT 3: 多数のカヴァーが生まれスタンダードに

下積み。

「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」のカヴァーで特筆すべき出来のものは、やはりフィラデルフィア出身のフィリス・ハイマンのものと、プリンスのものがある。フィリスは、彼女がノーマン・コナーズのゲスト・シンガーとしてレコーディングしたものが話題となった。そのほかに、グラント・グリーン、タック・アンドレス、スモーキー・ロビンソン、アーロン・ネヴィルなど多くがカヴァー。

プリンスのものは、1996年の3枚組アルバム『エマンシペーション』に収録されている。(正確にはこの時点ではアーティスト表記は、プリンスではなく、発音不能のシンボル・マークの時代) ここには、「ベッチャ・・・」のほかにフィリー・ソウル・クラシック「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」も収録されているが、「ベッチャ・・・」は、シングルとして当時のプリンスの妻、マイテの23回目の誕生日(1996年11月12日)にリリースされ、マイテが登場するプロモーション・ビデオも制作された。

プリンスの瞳の中にカメラが入っていくところから始まるが、これは歌詞の冒頭にあわせたもの。ここではマイテがプリンスに妊娠したことを報告するというストーリーになっており、実生活そのままになっている。妊娠を知り、ますます君への愛が強くなった、といった意味で、プリンスの気持ちとこの作品が完全に一体化している。ちなみに、彼らは1996年4月ごろ妊娠を知るが、残念なことにそのベイビーは誕生後1週間でパイフェル症候群のため死去している。

Betcha By Golly Wow by Prince
http://youtu.be/lnAQkc0GuK0


日本のテレビで放映されたPV。

「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」は、スタイリスティックスで大ヒットし、その後多数のカヴァーが生まれ、40年以上を経て、文字通りスタンダードになった。おそらく、プリンスのようにこの曲を自身の人生のサウンドトラックとした人も多くいたに違いない。そういう意味で、ウエディング・ソングとして、ラヴ・ソングとしても、秀逸の1曲だ。きっとこれからもまだまだカヴァーされるだろう。

トム・ベルたちが、コニーでヒットしなかったところであきらめて、スタイリスティックスで再度録音しなければ、この曲は誰も知ることなく終わっていた。彼らがこの曲に執着し再度録音したからこそ、スタンダードになった。

歴史とは現在に至るたった一本の道筋を描くものだ。しかし、その道の途中には、いくつもの分岐点がある。過去、別の道を行ったらどうなったか、ということは誰にもわからない。だが今日ある姿は、今まで来た道が、結局はそれしかなかった、あるいは正解だった、あるいは必然のように思える道だったとしかいいようがない。そして、ソングライターは本当にいい作品なら、一度ヒットしなかったからと言って自らが生み出した子供のような楽曲を諦めることはない。楽曲にも「下積み」の時代があるものなのだ。コニーの「キープ・グロウイング・ストロング」は、そんな「下積み」時代の名曲だ。その下積みの楽曲は、時を経てどんどんと強くなっていった(keep growing strong)のである。

■今日の「ソウル・ブレンズ」(日曜午後1時~3時、インターFM76.1mhz)内「ソウル・サーチン」(午後2時半~)で、この「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリーを紹介して、コニー・スティーヴンス・ヴァージョンをかけます。関東地区の方は、ネットを通じてラジコで聴けます。

http://radiko.jp/player/player.html#INT

■過去の名曲物語(訳詞つき)

http://ameblo.jp/soulsearchin/theme-10017696659.html
このジャンルにまとめておいてあります。

Rapper’s Delight : Sugarhill Gang (これは訳詞はありません…)
Time After Time: Cindy Lauper
He Ain’t Heavy, He’s My Brother : Hollies
Smoke Gets In Your Eyes :Platters

New York State Of Mind: Billy Joel
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040322-1.html
Golden Lady: Stevie Woner
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040318-1.html
Dance With My Father : Luther Vandross
http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/song/diary20040211.html

+++++

『ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワオ』(訳詞)
(トム・ベル作曲、リンダ・クリード作詞)
スタイリスティックスでヒット

君の瞳には恋の火花が散っている
君が微笑むたびに、甘くとろけるようなキャンディーの街が現れる
そんな御伽噺が現実になるなんて夢にも思わなかった
でも、君の傍らにいると、本当に御伽噺の主人公みたいな感じなんだ
君は変装した精霊(ジーニー)だね
謎と驚きにあふれてる

なんてすごいことなんだ、ワオ
君こそ、僕がずっと探し求めていた女(ひと)
君への愛はどんどん大きくなっていく
どんどん大きくなっていく

もし僕が流れ星を捕まえられるなら、
その星で君を照らそう
そうすれば、君の居所がわかるから
虹を君の好きな形にオーダーしよう
大空に君の名前を書いて
君への思いと愛を見せよう
君がして欲しいと思うことは何でもやってみよう

だって、君の存在は、本当にすごいことなんだから、ワオ
君こそ、僕がずっと探し求めていた女(ひと)
君への愛はどんどん大きくなっていく
どんどん大きくなっていく

本当にすごいことだよ、ワオ
君こそ、僕がずっと探し求めていた女(ひと)
君への愛はどんどん大きくなっていく
どんどん大きくなっていく

君はずっと僕が探し続けてきた女(ひと)
君への愛を永遠に

(訳詞・ザ・ソウル・サーチャー)

++++

Betcha By Golly, Wow
(written by Thom Bell, Linda Creed)

There’s a spark of magic in your eyes
Candyland appears each time you smile
Never thought that fairy tales came true
But they come true when I’m near you
You’re a genie in disguise
Full of wonder and surprise

And betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you keep growin’ strong
Keep growin’ strong

If I could I’d catch a falling star
To shine on you so I’ll know where you are
Order rainbows in your favorite shade
To show I love you, thinking of you
Write your name across the sky
Anything you ask I’ll try, `cause

Betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you keep growin’ strong
Keep growin’ strong

Betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you keep growin’ strong
Keep growin’ strong

Betcha by golly, wow
You’re the one that I’ve been waiting for forever
And ever will my love for you

■スタイリスティックス 名盤 『スタイリスティックス登場』(紙ジャケ)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0018OFGO2/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■ コニー・スティーヴンス・ヴァージョンが入っているコンピ。(これ、けっこうおもしろい選曲で楽しめます)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000GDIC3S/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

■フィリス・ハイマン・ヴァージョン

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005EHP6/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■プリンス・ヴァージョン

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002UJC/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■アーロン・ネヴィル 『グランド・トゥアー』

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000002G1A/soulsearchiho-22/ref=nosim/

GREAT SONG STORY>Betcha By Golly Wow, Keep Growing Strong

■フィラデルフィア・サウンド(TSOP)ストーリー (パート1)

【Roundup For The Sound Of Philadelphia】

TSOP。

今週は、月曜深夜からJFN系全国ネットの『ビッグ・スペシャル』(深夜1時~4時。関東地区は東京FM、全国30局以上ネット)でフィラデルフィア・ソウル特集をお送りします。そこで、この「ソウル・サーチン・ブログ」でも番組と連動して、「フィラデルフィア・ソウル」について、月曜から金曜までまとめてご紹介します。

まず、今日は「フィラデルフィア・ソウル」の全体像をご紹介します。

ACT 1 : フィラデルフィア・ソウル前夜

まず、いわゆる「フィラデルフィア・サウンド」「フィラデルフィア・ソウル」「フィリー・ソウル」というと、1960年代後期から1970年代にかけてのフィラデルフィアで録音されたソウル・ミュージックを指します。具体的には、デルフォニックス、スタイリスティックス、イントゥルーダーズ、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツなどのサウンドです。「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィアThe Sound Of Philadelphia」は、その頭文字を取って、「TSOP」とも略されます。

特徴は、踊り易いグルーヴのわかりやすいリズムと、流麗なストリングス、ブラス・セクションが入ったリッチなオーケストレーションのサウンドでにソウルフルで迫力のあるソウル・ヴォーカルがからみます。たとえば、南部のソウル・ミュージックが泥臭いと言うのであれば、フィラデルフィア・サウンドはひじょうに都会的に洗練されたものです。

また、独特のドラムスによるグルーヴ、のりのあるリズムの強いサウンドは、70年代中期から大きなブームとなる「ディスコ・サウンド」の元にもなり、さらにその後の「ハウス・ミュージック」の原形にもなっていきます。

これらの「フィラデルフィア・ソウル」略して「フィリー・ソウル」の立役者となったのが、トム・ベル、ケニー・ギャンブル&レオン・ハフの3人です。彼らはフィラデルフィアで多くの若手アーティストをてがけ、スターにしていきます。

そんな彼らが活躍を始めるのは1960年代後期からですが、そうした「フィラデルフィア・ソウル」隆盛の前夜とも言うべき時代があります。それが1950年代から1960年代初期までの間、このフィラデルフィアという土地が、「音楽都市」として大きな注目を集めることになったのです。

その大きな要因が、テレビ音楽番組『アメリカン・バンドスタンド』です。これは、そのときのヒット曲をかけ、一般試聴者がそれにあわせて踊るところを見せる、というシンプルな番組です。これが、1952年9月から始まり、1989年9月まで続くことになります。この収録スタジオがフィラデルフィアにあり、当初はローカル番組でしたが、1957年10月から全米にネットワークされることになり、これを機に番組の人気が一挙に爆発します。多くのアーティストが出演するために、フィラデルフィアにやってきました。また、ロックンロールの登場とともに大変人気が高くなりますが、当然地元フィラデルフィア出身のアーティストは、こぞってこの番組に出ようとしたので、街自体が音楽で盛り上がり始めました。後に1970年代に登場する『ソウル・トレイン』のプロトタイプとなったのが、この『アメリカン・バンドスタンド』です。

この番組からは、多くのヒットが生まれましたが、その多くは白人のヒットでした。また、フィラデルフィアにも多くのインディ・レーベルが生まれました。キャメオ/パークウェイ、ジェイミー・ガイデン、フィラ・オブ・ソウルなどなどです。

そんなインディ・レーベルのキャメオ/パークウェイから、チャビー・チェッカーという黒人シンガーの「ツイスト」という曲がヒットします。これは、当時ヒットしていた「ツイスト」というダンスについて歌ったもので、その「ツイスト」用の曲として1960年8月から大ヒット、全米ナンバー1を記録しました。

これは、70年代のいわゆる「フィラデルフィア・ソウル」のジャンルには入りませんが、「フィラデルフィア・ソウル」の前夜の動きとして、頭の片隅にいれておいてもよいでしょう。

このキャメオ/パークウェイからは、女性R&B歌手のディー・ディー・シャープの「マッシュポテト・タイム」という曲が1962年に大ヒット(ソウル・チャート1位、ポップ・チャート2位)します。これも「マッシュポテト」という当時流行ったダンスをテーマにした曲です。このディー・ディー・シャープは、後にフィリー・ソウルの立役者となるケニー・ギャンブル夫人となります。いずれも『アメリカン・バンドスタンド』から出た数少ない黒人によるヒットです。

またフィラデルフィアは、南部からの黒人が多く移り住んでいたために、黒人人口が高く、そのためゴスペル音楽も盛んで多くのゴスペル・シンガーがいました。これも、ソウル・ミュージックが盛んになる大きな下地となっていました。

ACT 2 : トム・ベル、ギャンブル&ハフの登場

トム・ベルについては明日、ギャンブル&ハフについてはあさってのこのブログで詳しくご紹介しますが、この3人がフィラデルフィア・ソウルのシーンを引っ張っていくことになります。

トム・ベルは前述のチャビー・チェッカーのツアー用バンドの音楽ディレクター(コンダクター)の仕事を得て、フィラデルフィアの音楽シーンで頭角を現し始め、ギャンブル&ハフも同じようにフィラデルフィアでバンド活動を始めるうちに力を見せ始めます。

ギャンブル&ハフは1966年、イントゥルーダーズのヒットを出し、ジェリー・バトラーなどのプロデュースをしたり、トム・ベルは1968年、デルフォニックスの「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」でヒットを出し、それぞれヒット・プロデューサー、注目のプロデューサーになっていきます。単発的には、クリフ・ノーブルスのインスト・ヒット「ホース」(1968年6月からヒット、ソウル、ポップで2位)、ファンタスティック・ジョニーCの「ブーガルー・ダウン・ブロードウェイ」(1967年10月からヒット、ソウルで5位、ポップで7位)(いずれも、フィラオブ・ソウル・レーベルからのヒット)、エディー・ホールマンの「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」(1969年12月からヒット、ソウルで4位、ポップで2位、ゴールド・ディスク)などが出て、徐々にソウル・ヒットを生み出すフィラデルフィアという雰囲気が盛り上がり始めます。

そんな中、「フィラデルフィア・ソウル」の歴史の中で、大きなターニング・ポイントが訪れます。

1971年、当時メジャー・レコード会社のCBSコロンビアのヘッド、クライヴ・デイヴィスが、ブラック・ミュージックの販売に力をいれようと、ギャンブル&ハフに資金を提供し、彼らにフィリー・ソウルのレコード会社「フィラデルフィア・インターナショナル・レコード」の設立を促すのです。

クライヴ・デイヴィスはCBSですでにスライ&ファミリー・ストーンなどの新しいブラック・ミュージックを売り出すことを成功させていました。また、モータウン・レコードやスタックス・レコードの隆盛、フィラデルフィアからぽつぽつ出てきたヒットなどを見て、ソウル・ミュージックに大きな流れが来ていることを感じ取って、ギャンブル&ハフに注目していたのです。

それまで、フィラデルフィアから出てくるソウル・ヒットは、あくまで一ローカル・ヒットがたまたま全国的になるという「単発的」なものでした。ローカルのインディ・レーベルもたくさんありましたが、ローカルでの群雄割拠の様相を呈しており、全国的なうねりにはなっていませんでした。

そこにCBSの大きな資金と、全国的な販売ネットワークが備わることによって、大きなヒットが生まれる可能性がでてきました。

ギャンブル&ハフたちは、豊富な資金をバックに、自分たちが作りたい音楽を積極的に作り出すようになりました。

ACT 3 : シグマ・サウンド・スタジオとフィリーのミュージシャンたち

そんなギャンブル&ハフ、トム・ベルらが積極的に使ったスタジオが、「シグマ・サウンド・スタジオ」です。212ノース・12ス・ストリートにあるスタジオ。1968年、当地のカメオ/パークウェイのチーフ・エンジニアだったジョー・ターシャがそれまでにあったスタジオを買い取り、手作りでいろいろ揃えていったスタジオですが、ここから多くのヒットが生まれるようになります。このスタジオは全米で2番目に「24チャンネル」のマルチ・トラック・レコーダーをいれたスタジオとなりました。フィリー・ソウルの独特のサウンドがこの名エンジニア、ジョー・ターシャの手によるものという点は特筆すべきでしょう。

このシグマ・スタジオを根城にしたミュージシャンたちは多数います。

アール・ヤング(ドラムス)、ノーマン・ハリス(ギター)、ローランド・チェンバース(ギター)、ボビー・イーライ(ギター)、TJティンドール(ギター)、ロニー・ベイカー(ベース)、ヴィンス・モンタナ(ヴァイヴ)、ラリー・ワシントン(パーカッション)、ボブ・バビット(ベース)、レニー・ペキューラ(キーボード)などなど。この他にストリングス・セクション、ブラス・セクション、またアレンジャーが多数います。アレンジャーとしては、ボビー・マーティン、ジャック・フェイス、トニー・ベル、ギャンブル&ハフ、リチャード・ローム、ジョン・デイヴィス、マクファーデン&ホワイトヘッドなどなど。

こうしたミュージシャンたちを、ギャンブル&ハフたちがシンガーのバックバンドとして起用するときに、「MFSB」と名付けるようになりました。しかし、各メンバーはそれぞれフリーのミュージシャンたちですので、ギャンブル&ハフ以外のバンド・マスター、ディレクター、あるいはプロデューサーがそうしたミュージシャンたちを起用することもできます。

そこでヴァイヴ奏者であるヴィンス・モンタナが仕切ってレコーディングするときは、同じメンバーで同じようなサウンドになっても、それは「ヴィンス・モンタナ・オーケストラ」あるいは、「サルソウル・オーケストラ」となったり、ジョン・デイヴィスがやれば「ジョン・デイヴィス&モンスター・オーケストラ」になったり、リチャード・ロームが指揮をすれば「リッチー・ファミリー」となったりします。

いずれにせよ、フィラデルフィアのシグマ・スタジオにはすぐれたミュージシャンが集まっていたので、誰を使ってもクオリティの高い作品が作れました。

ギャンブル&ハフが、当初目指したのが、60年代に多くのヒットを生み出していたモータウンのやり方です。たくさんのすぐれたソングライター、アレンジャー、プロデューサーを揃え、ハウス・バンドを使って次々とレコーディングし、ヒット曲を量産していく方法です。

このシグマ・スタジオは、モータウンの本社スタジオ、MFSBたちミュージシャンたちは、モータウンにおけるファンク・ブラザーズたち、ギャンブル&ハフ、トム・ベルらが、モータウンのベリー・ゴーディーに相当する司令塔という役割です。

ギャンブル&ハフの周辺、その元からも次第に新しい世代が育っていきます。それが、バニー・シグラー、ボビー・マーティン、ベイカー・ハリス・ヤングのトリオ、マクファーデン&ホワイトヘッド、デクスター・ワンゼルなどなどです。

ACT 4 : ヒットに継ぐヒット

1972年頃から、トム・ベルはスタイリスティックスで次々とヒットを出し、さらに、スピナーズでもヒットを量産します。ギャンブル&ハフは、1971年にフィラデルフィア・インターナショナル・レコードがスタートしてから、1972年にオージェイズの「バックスタバーズ」、ビリー・ポールの「ミー&ミセス・ジョーンズ」、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(二人の絆)」などのミリオン・ヒットで、一挙に爆発。「フィラデルフィア・ソウル」がアメリカ音楽業界の中でも、もっとも注目される現象となりました。

こうして、フィラデルフィア・ソウルに注目が集まり、いわゆる白人のロック・アーティストなどもこの地を訪れ、そのサウンドを取り入れようとしました。エルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイなどがその例です。特にデイヴィッド・ボウイの1974年の『ヤング・アメリカン』、エルトン・ジョンの『トム・ベル・セッション』などは、話題になりました。

フィラデルフィア・ソウルで人気のスリー・ディグリーズなどは、日本でも大きな人気を獲得、日本語の楽曲などもレコーディングしました。これらのフィリー・ソウルの大ブームを受けて、日本の歌謡曲界でも、このフィリー・ソウルの影響を受けた作品も出ました。

そんなフィラデルフィア・ソウルでも、プロデューサーによって、少しずつ色合いが違ってきます。

トム・ベルの作る作品は比較的甘いスイート・ソウルが多く、ギャンブル&ハフたちはもう少し硬派の、またメッセージ色の強い作品が多くなっていきます。ギャンブル&ハフの作品群のジャケットにはいつも、「There’s a Message In The Music(音楽の中にはメッセージがあります)」というキャッチフレーズが書かれていました。ボビー・マーティンもオーケストラ・アレンジがうまく、また、それとソウルフルなヴォーカルの組み合わせが大変上手です。バニー・シグラーは、ファンキーなサウンドが得意です。

1972年から1970年代を通して、「フィラデルフィア・ソウル」は大きなブームとなります。しかし、1980年代に入ってからは、徐々にその勢いを失っていきます。ミュージシャン、アレンジャーたちの変化、アーティストたちの変化などもあり、またヒップ・ホップの登場など、時代の流れもあったのでしょう。

「フィラデルフィア・ソウル」がこれほどの隆盛を極めたのは、やはり、トム・ベル、ギャンブル&ハフという「マイティー・スリー」(三巨頭)がリーダーシップを取ってフィラデルフィア・サウンドを盛り上げていったこと、その周辺に優れたミュージシャン、シンガー、ソングライターたちが多数いたためです。

しかし、大きな流れもいつかは終わりがきます。1984年、CBSとフィラデルフィア・インターナショナル・レコードの配給契約が終了し、ひとつの時代にピリオドが打たれました。その後、フィラデルフィア・インターは、EMIが配給するようになり、2007年、再びソニーが全カタログの発売権を獲得し直しています。各国で過去カタログの再発売などの作業が続いています。

2010年2月、フィラデルフィア・インターナショナルのオフィースが放火され、幸いけが人などは出ませんでしたが、多くのマスターテープなどが消失しました。

また2011年8月、フィラデルフィア・インター設立40周年を記念して、TSOP Soul Radio というインターネット・ラジオ局を開始しています。ここでは、24時間、フィリー・ソウル・ヒットが流れています。

http://media.streamads.com/playersdk/v2/widgets/webplayer/arplayer/player.html?pid=0&sid=162536

1970年代から80年代初期に多くのヒットを放った「フィラデルフィア・ソウル」「フィラデルフィア・サウンド」は、黒人のソウル・ミュージックをもっとも美しい姿で映し出した作品群の数々です。そして、それぞれに歌のうまい情感あふれるシンガーたちが熱いソウルを歌いました。モータウンのヒットの数々も、スタックスのヒットの数々も、素晴らしいのと同様に、フィラデルフィア・ソウルのヒットの数々もその時代のブラックたちだけでなく、世界中の人々の人生のサウンドトラックとなり、賛歌となったのです。

(今週のブログは、「フィラデルフィア・サウンド」特集。明日は、トム・ベル・ストーリー、リンダ・クリード・ストーリーをお送りします。あさってはギャンブル&ハフ・ストーリーです)

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JFN系列、2011年11月14日(月)から17日(木)深夜25時~28時 『ビッグ・スペシャル』~「フィラデルフィア・ソウル大特集」をお送りします。17日(木曜)深夜は、吉岡正晴も生出演します。

『ビッグ・スペシャル~フィラデルフィア・サウンド特集』(東京FM・JFN系列全国ネット)。

関東地区は、関東のラジコで。その他の地区は各地区のラジコでも聞けます。
関東用のラジコ↓
http://radiko.jp/player/player.html#FMT

番組ホームページ。
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm

毎日生放送ですので、リスナーからのメール、ツイッターでのメッセージなども受け付けています。

ハッシュ・タグは、次のようなものがあります。

東京FM #tfm ビッグ・スペシャル #bigsp 

ネット局:

FM青森 , FM岩手 , FM秋田 , FM山形 , ふくしまFM , RADIO BERRY , FMぐんま , FM-NIIGATA , FM長野 , FMとやま , FM石川 , FM福井 , K-MIX , FM AICHI , Radio80 , レディオキューブ , FM滋賀 , fm osaka , Kiss-FM KOBE , V-air , FM岡山 , HFM , FM山口 , FM徳島 , FM愛媛 , FM高知 , FM香川 , FM大分 , FM佐賀 , FM長崎 , FMK , μ FM , JOY FM , FM沖縄 , TOKYO FM

■4枚組み、フィラデルフィア・サウンドのオムニバス

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001F290GM/soulsearchiho-22/ref=nosim/


ANNOUNCEMENT>Big Special
RADIO>Big Special





■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル』(パート2)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 2】

TSOP。

■ トム・ベル・ストーリー

今日(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りする深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。4日間たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

月曜深夜、火曜朝、第一日目は、フィリー・ソウルの立役者ビッグ・スリーの一人、トム・ベルです。

ACT 1 トム・ベル登場

ジャマイカ。

フィラデルフィア・サウンドを隆盛に導いた3人というと、このトム・ベル、そして、ギャンブル&ハフですが、彼ら3人は60年代から手を組み、さまざまな作品を送り出しています。彼らは3人で「マイティー・スリー」という音楽出版社も持っているほどです。文字通り、強力な3人です。彼ら周辺で制作された「フィラデルフィア・サウンド」の楽曲は3000曲以上あるといわれます。確かに1960年代中期から1980年代中期までの20年間、毎日1曲でも録音されていれば、それくらいの数はいともかんたんにクリアします。

さて、トム・ベルを有名にしたのは、1968年のデルフォニックスの大ヒット「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」です。トム・ベルはこのとき25歳でした。

トム・ベルは、フィリー・ソウルの申し子ですが、生まれたのは1943年(昭和18年)1月26日ジャマイカ・キングストンでした。本名、トーマス・ランドルフ・ベル。現在68歳ということになります。ただ幼少の頃、5歳で両親とともにフィラデルフィアに移り住み、フィラデルフィア育ちと言っていいでしょう。家が裕福だったため、クラシック音楽を勉強、5歳の頃からピアノを習っていました。その頃はクラシックのピアニストか、指揮者を夢見ていました。しかし、まもなく、当時はまだ人種差別が根強く、いから優秀でも黒人が指揮者になることはできませんでした。そこでトム・ベルはクラシックの道は諦めようと考え始めます。

十代の頃にほぼ同年代のケニー・ギャンブル、レオン・ハフ、ダリル・ホールらと知り合い、1959年には、ギャンブルがやっていたソウル・ヴォーカル・グループ、ザ・ロメオスに参加。トム・ベルは音楽的に多感なティーンの16歳でした。このあたりから、興味はクラシックからポピュラーなソウル・ミュージックに移っていきました。

地元でバンド活動をするうちに、ピアノも弾け、楽譜も書けたことから、トム・ベル19歳の1962年には当地の人気アーティスト、チャビー・チェッカーのバンドの音楽ディレクターのような仕事をするようになります。

チャビー・チェッカーは、1941年10月3日、地図で言えばフィラデルフィアより少し下のサウス・キャロライナ州アンドリュース生まれ、フィラデルフィア育ちのR&Bシンガーで、1960年に「ザ・ツイスト」が全米ナンバーワン(ポップ・チャート)になる大ヒットを出し、一躍スターになっていたシンガーです。当時の流行のお尻を振る「ツイスト」というダンスをテーマにした曲で、踊りとともに大ヒットしました。この「ツイスト」を出していたのが、フィラデルフィアの同時はまだ一インディ・レーベルだったキャメオ/パークウェイ・レコードでした。

この大ヒットが出て、チャビーが全米ツアーにでることになり、そのバンドのまとめ役としてトム・ベルが抜擢されたわけです。チャビーのバンドには約2年在籍、その間、音楽を勉強するために一時期ニューヨークにいたこともありました。1963年にフィラデルフィアに戻り、同地を本拠にレコードを出していたキャメオ/パークウェイで、セッション・ピアニストとして稼ぐようになります。

セッション・ピアニストとは、スタジオでレコーディングがある場合、プロデューサーやソングライターに呼ばれて、その曲のレコーディングでピアノを弾く専門家です。キャメオ/パークウェイではたくさんのレコーディング・セッションがあったので、トム・ベルも売れっ子ピアニストになっていきました。トム・ベルは、ただピアノを弾くだけでなく、アレンジもできたため、レコーディング・シーンでは大変重宝され、音楽シーンでも徐々に知られるようになります。

ACT 2 改名させられたデルフォニックス

改名。

この頃、トム・ベルは当時まだザ・ファイヴ・ガイズ(The Five Guys)と名乗っていたヴォーカル・グループと知り合います。彼はこの5人組を3人組にし、名前を変えるよう提案、このトリオはデルフォニックスとなります。

1967年、デルフォニックスのマネージャーだったスタン・ワトソンという人物が、サム・ベルという人物とインディ・レーベル、フィリー・グルーヴを設立。デルフォニックスのレコードをそこから出すことにし、トム・ベルはこのレーベルの制作、A&R、プロデューサーとなりました。もっとも当時はまだA&Rなどという言葉もなく、プロデューサーという言葉でさえもまだまだ浸透はしていなかった時代です。

そして、彼らが1968年2月から「ラ・ラ・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー」という曲をヒットさせます。これが、トム・ベルにとって、そして、デルフォニックスにとっても記念すべき初めての大ヒットとなりました。リッチなオーケストレーション、覚え易いメロディーとサビ。ファルセットのリード・ヴォーカルが大いに受けることになりました。

デルフォニックスとはその後も多くのヒットを生み出します。中でも、1970年1月からヒットした「ディドント・アイ(ブロウ・ユア・マインド)」は、ソウル・チャートで3位ながら、ゴールド・ディスクを獲得。グラミー賞「R&Bヴォーカル・グループ」部門も獲得するという快挙を成し遂げます。

しかし、このグラミー賞授賞式でひと悶着(ひともんちゃく)起こります。当時まだ黒人は、たとえ賞を獲得しても、ステージで受賞することが許されなかったということで、トム・ベルは以来、いかにグラミー賞にノミネートされても、決してその授賞式には顔を出さなかったそうです。ちなみに、トム・ベルは1974年度でグラミー賞が初めて「プロデューサー・オブ・ジ・イヤー」部門を設定しますが、その初回さらに翌年と2年連続で見事に受賞しています。もちろん、授賞式には顔をだしていません。

ちなみに、これらの「ラ・ラ・」や、「ディドント・アイ」はその後も映画などに使われ、すっかりスタンダード化。特に「ディドント・アイ」は、クエンティン・タランティーノの映画『ジャッキー・ブラウン』(1997年)で効果的に使用されていました。


ACT 3 スタイリスティックス登場

第二弾。

トム・ベルがデルフォニックスに続いててがけたのが、やはりフィラデルフィアのソウル・ヴォーカル・グループ、スタイリスティックスでした。

当初、スタイリスティックスは地元のインディ・レーベルでシングル盤「ユー・アー・ビッグ・ガール・ナウ」をリリースしていましたが、地元でヒットし始めたところを、当時のアヴコ・レコードがその権利を買い取り、トム・ベルをプロデューサーとして抜擢し、トム・ベルにスタイリスティックスをプロデュースさせたのです。

そうして出来上がったのが、「ユー・アー・エヴリシング」や「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」などでした。

ちょうどこの頃、トム・ベルは作詞家のリンダ・クリードと知り合い、トムがメロディーとトラックを作り、リンダが作詞をするという作詞・作曲家チームとして活動するようになりました。スタイリスティックスのデビュー作『スタリスティックス』でも、トム・ベル&リンダ・クリードの作品が多数占められています。

リンダ・クリードについては、のちほど、ご紹介しましょう。

トム・ベルは、スタイリスティックスのアルバムを3枚連続でプロデュースしますが、この頃から、超売れっ子のプロデューサーとなり、多くのアーティストからプロデュース依頼が殺到するようになります。

スタイリスティックスのプロデュースをしつつも、トム・ベルはまた別のソウル・ヴォーカル・グループ、スピナーズをてがけます。1972年、アトランティック・レーベルに移籍してきたデトロイトのスピナーズです。

スピナーズは、デトロイトのヴォーカル・グループで、モータウンでちょっとしたヒットを放っていましたが、モータウンの他のアーティストほどの大ヒットはだしていませんでした。会社の力がテンプテーションズや、シュープリームスに向けられていて、なかなかスピナーズまでプロモーションしてもらえなかったからです。そんな彼らに手を差し伸べたのが、アトランティック・レコードでした。彼らはアトランティックに移籍し、その第一弾アルバムのプロデュースに、当時スタイリスティックスで飛ぶ鳥をも落とす勢いになり始めていたトム・ベルを抜擢します。

トム・ベル・プロデュースのスピナーズの「アイル・ビー・アラウンド」は、72年9月から大ヒットし、ソウル・チャートで1位、ポップ・チャートでも最高3位を記録。100万枚を売るゴールド・シングルになりました。これ以後トム・ベル&スピナーズのコンビは数年にわたり、10数曲の大ヒットを生み出します。

ACT 4 リッチなオーケストラ・サウンド

リッチ。

トム・ベルといえば、デルフォニックス、スタイリスティックス、スピナーズということになりますが、そのほかにもいくつかシンガーをてがけています。

たとえば、ジョニー・マティス、ビージーズもてがけました。1980年代に入ってから、モーリス・ホワイトの元でヒットを出しスターになっていた歌姫、デニース・ウィリアムス、フィラデルフィア育ちのシンガー、フィリス・ハイマン、そして、クインシーの秘蔵っ子だったジェームス・イングラムなどです。また、イギリスのエルトン・ジョンに請われて、エルトンの作品もプロデュースしました。

トム・ベルは、70年代後期から喧騒のフィラデルフィアを離れ、本拠をワシントン州シアトルにしています。イチロー選手がいるシアトル・マリナーズでおなじみのシアトルです。ハワイにも家があるようです。現在は8人の子供がいて、どうやら大都会には住みたくないようです。

トム・ベルが作り出すサウンドの最大の特徴は、美しいメロディーに流麗なストリングスが入ったリッチなオーケストラのアレンジがなされていることです。このリッチなオーケストレーションによって、美しいメロディーがひときわ輝くを増すことになります。これは彼がクラシック音楽を勉強した経験が役に立っているのでしょう。

そして、リンダ・クリードが作り出すブラックの生活に根付いた歌詞、女性の視点ならではのインテリジェンスとストリート感覚にあふれた詞が、多くの黒人たちの支持を集める大きな要因となりました。

トム・ベルのプロデュース作品は、70年代の作品であるにもかかわらず、21世紀の今でも、さかんにカヴァーされ、歌われ続けています。

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ACT 5 リンダ・クリード・ストーリー

作詞家。

フィリー・ソウルの立役者となったプロデューサー、トム・ベルと手を組み、数多くの作詞をてがけたリンダ・クリードは、1949年12月6日、フィラデルフィアに生まれました。トム・ベルより6歳年下ということになります。

十代の頃から書くことが好きだったリンダは、よくノートに詩を書いていました。ソングライターとして、曲を書いたり、ローカル・バンドに参加したり、音楽活動を続けていました。ハイスクール卒業後、彼女は成功を求めてニューヨークに出ますが、なかなかチャンスは巡ってきませんでした。8ヶ月ほど、かの地でがんばりましたが、きっかけをつかめず、故郷フィラデルフィアに戻ります。このときの心境を描いたのが、後にジョニー・マティスなどによってレコーディングされる「アイム・カミング・ホーム」(うちに帰るわ)です。

フィラデルフィアでも音楽活動は続けましたが、ギャンブル&ハフ、トム・ベルが設立した出版社『マイティー・スリー・ミュージック』に出入りするようになり、そのスタッフであるギャンブル&ハフ、トム・ベルらと知り合い、トム・ベルはリンダの作詞の才能を買い、一緒に曲を書くようになります。

トム・ベルとリンダ・クリードが初めて手を組んだ曲は、1970年4月にシングルがリリースされた「アイ・ウォナ・ビー・ア・フリー・ガール」という曲でしたが、これを機に、彼らは数多くの作品を共作していくようになります。

そして、1970年暮れからは、トム・ベルがスタイリスティックスのプロジェクトを始めることになり、それにともないスタイリスティックスのための楽曲を共作するようになります。

1972年にリリースされるスタイリスティックスのデビュー・アルバムでは1曲、トム・ベルがてがける以前にレコーディングされた曲以外、すべてトム・ベル&リンダ・クリードによって書かれています。

ここに収められた「ストップ・ルック・リッスン」「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」「ユー・アー・エヴリシング」「ピープル・メイク・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド」などでリンダはヴィヴィッドにブラックの世界を描いています。

たとえば、普遍的なラヴ・ソングだけでなく、ブラック・ストリートを見据えた作品、たとえば、「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」や「ゲットー・チャイルド」などには、黒人の共感を得るキーワードがしたためられています。物語の起承転結の表現が実に上手です。

(「チルドレン・オブ・ザ・ナイト」「ゲットー・チャイルド」の訳詞は下記に)

リンダは1972年にステファン・リー・エプスタインと結婚しますが、そのときの気持ちを描いたのが「ユー・メイク・ミー・フィール・ブラン・ニュー(あなたは、わたしをまったく新しい気分にさせてくれる)」で、スタイリスティックスの名唱で歌われ、大ヒットします。

ACT 6 売れっ子作詞家へ

ブレイク。

そうした作詞家としての才能が認められ、リンダ・クリードはトム・ベル以外からも作詞のオファーを得るようになります。そんな中、作曲家でプロデューサーであるマイケル・マッサーがリンダの才能にほれ込み、いくつか一緒に曲を書いています。

1976年、彼女は一家でカリフォルニアに移住。しかし、この頃彼女の体に癌が発症。最初の除去手術を受けますが、ちょうどその頃、ボクサー、モハメド・アリの自伝映画『モハメド・アリ~ザ・グレイテスト』のテーマ曲をマイケル・マッサーが依頼され、リンダはマイケルとともに「何よりも素晴らしい愛」をテーマに書き始めます。

自分が癌になり、周囲の家族友人の愛によって、見守られている、自分は愛されているということをしたためたのが、「ザ・グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」でした。これは、マイケル・マッサー自身の人生の葛藤とともに、二人の悩みが同時に1曲の中に結実しました。このテーマは、ジョージ・ベンソンによって歌われ、ヒットします。

作曲家、プロデューサー、マイケル・マッサーにとっては、1973年のダイアナ・ロスのヒット「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」で業界内での知名度を上げていましたが、このジョージ・ベンソンの「ザ・グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」で、さらに知名度をあげることになりました。これは、マイケル・マッサー/リンダ・クリード作品の中でも白眉の出来で、最高傑作のひとつです。しかし、この曲の魅力を世界的に知らしめたのは、ジョージ・ベンソンではなく、当時はまだ無名だった一人の新人女性シンガーでした。それが、ホイットニー・ヒューストンです。ホイットニーのヴァージョンは、オリジナル以上のヒットにしており、多くの方はホイットニーのものでご存知でしょう。

ホイットニーのヴァージョンは1986年4月からチャート入りし、ヒットし始めますが、ヒットしてまもなくの1986年4月10日、リンダは乳がんで、36歳という若さで亡くなってしまいます。ちょうど、この「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」が全米ナンバーワンに輝いたのは5月19日から6月6日までのことでした。リンダはこの曲がナンバーワンになるところは見ることができませんでした。

リンダは26歳のときに、癌が発症。以来、ずっと癌と闘い続け、結局10年間、サヴァイヴ(生き延びた)ということになります。リンダは、病気のために仕事に穴をあけることを嫌い、最後まで仕事に没頭していたそうです。

なお、彼女はたくさんのソウル・ヒットを放っていますが、彼女自身は白人です。

リンダ・クリードは、1992年に、ソングライター殿堂入りを果たしています。

また、彼女が乳がんで亡くなったことで、「リンダ・クリード乳がん基金」という基金が設立され、乳がん撲滅の運動に一役買っています。

■リンダ・クリード関連記事

November 09, 2006
Top 15 Linda Creed Songs Selected By The Soul Searcher
http://blog.soulsearchin.com/archives/001382.html

November 10, 2006
The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness
http://blog.soulsearchin.com/archives/001383.html

2011年11月13日(日)
「ベッチャ・バイ・ゴーリー・ワウ」ストーリー(訳詞付き)~名曲物語
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20111113.html

■リンダ・クリードの作品、2例

Children Of The Night
(Thom Bell / Linda Creed)

チルドレン・オブ・ザ・ナイト

The Stylistics - 1972 アルバム『ラウンド2』
Also recorded by: The Jones Girls

夜遅く、世界が夢に包まれ心配事など何もないとき、
僕は歩道の影を歩く
深夜、僕のソウルが空っぽになり、寂しくなる

そんな時、僕は夜の闇へ向かう
たった一人で、僕と同じような寂しい人間に
出会うまでストリートを彷徨う
誰か、仲間がいないかと。

夜の申し子・・・

深夜、不安な気持ちが僕を襲う
どうにもならない
深夜、僕と似た人間にいて欲しい
この気持ちを理解して欲しい

再び僕は夜の闇を探しにでかける
たった一人で、同類に出会うまで、
あらゆるストリートを彷徨う
同じ仲間を探して

夜の申し子・・・

ナナナナ~

【訳詞=ザ・ソウル・サーチャー】

+++++

Ghetto Child
(Thom Bell / Linda Creed)

Artist: Spinners
アルバム『ニュー・アンド・インプルーヴド』

17の時、家出した
それまでの全てから逃げ出した
僕は人生に疲れきっていた
憎しみと狭い心に溢れる都会に住むことにも
飽き飽きしていた

みんなが僕のことをあざ笑っていた

子供たちが僕を呼ぶ時、僕はどこかに逃げ隠れた
この世に生まれてきたことさえ恥じたものだ
僕は自分がやっていない罪で罰せられた
ついてない男だった

ゲットーに生まれると
人生は易しくない
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない

僕のパパは考えられる限りそんなゲットー・ライフを
うまく切り抜けたってことを誰もわかっていない

子供は過ちから厳しい現実を知っていく
夢のようなおとぎ話は、金持ちだけに訪れる物語
今や、子供時代の夢はいまだに実現すると
思う振りをするだけ

あちこちの街を旅しながら僕は考える
一つの街に留まるのは、自分のスタイルじゃない
なぜゲットーの子供は、辱められ、いじめられ、
あざけり笑われなければならないのか
僕たちは、みな同じ人間なのに

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (僕が証人さ)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (オー、イエー)

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (人生は荒れていく)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (どんどん泥沼にはまっていく)

ゲットーに生まれると
人生は易しくない (何かを変えなければ)
ゲットーに育つと
人生は簡単ではない (何かを変えなければ)

【訳詞=ザ・ソウル・サーチャー】

■同曲収録『ラウンド2』

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000K2VGBU/soulsearchiho-22/ref=nosim/

■「ゲットー・チャイルド」収録

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B004YSCZ2U/soulsearchiho-22/ref=nosim/

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Children Of The Night
(Thom Bell / Linda Creed)
By The Stylistics
1972

Late at night
When all the world is safe within their dreams
I walk the shadows
Late at night
An empty feeling creeps within my soul
I feel so lonely

So I go into the darkness of the night
All alone I walk the streets until I find
Someone who is just like me
Looking for some company

Children of the night

Late at night
A restless feeling takes control of me
And I can’t fight it
Late at night
I feel the need for someone who like me
Needs understanding

So once again I’ll search the darkness of the night
All alone I’ll walk each street until I find
Someone who is just like me
Looking for some company, no, yeah, hea

Children of the night

So once again I’ll search the darkness of the night
All alone I’ll walk each street until I find
Someone who is just like me
Looking for some company, no, yeah, hea

Children of the night
Children of the night
Children of the night

Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na

Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na
Na, na, na, na, na, na, na, na

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Ghetto Child
(Thom Bell / Linda Creed )
By The Spinners
1973

When I was 17
I ran away from home
And from everything
I had ever known
I was sick and tired
Living in a town
Filled with narrow minds
And hate

They used to laugh at me
The children called me names
I would ran and hide
Feelin’ so ashamed
Just for being born
I was just a boy
Punished for a crime
That was not mine

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Oh, baby)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child

No one tried to understand
Papa did the best a man could do

A child reality
Is paid for by his faults
Fancy fairy tales
Are born and sold by those
Who can well afford
Time to make believe
Childhood dreams can still come true
Uh, huh, huh, huh

So I’ve been wandering
Traveling all around
Guess it ain’t my style
To live in just one town
Still I’ll never know
Why a child is blamed
Ridiculed and shamed
We’re all the same

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (I’m a witness, baby)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Yeah...)

Ooh...ooh...yeah...

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Oh, baby)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child

Life ain’t so easy (Yeah...hey...hey...)
When you’re a ghetto child (Life can be rough)
Life ain’t so easy (The going gets tough)
When you’re a ghetto child (Yeah...but remember)

Life ain’t so easy (Things gotta change)
When you’re a ghetto child (Things gotta change, gotta change, yeah, yeah)
Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child (Whoa...oh...oh...whoa...oh...oh...I’m a ghetto boy)

Life ain’t so easy
When you’re a ghetto child

ENT>MUSIC>SONGS>Child Of The Night
ENT>MUSIC>SONGS>Ghetto Child
FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special

■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート3)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 3】

TSOP。

昨日(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

番組ホームページ。
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番組ツイッター
https://twitter.com/#!/bigsp_staff
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関東地区のラジコ。http://bit.ly/tRLmkk 
なお、これは関東地区のラジコで全国のラジコは、各地の放送局のホームページなどでご確認ください。

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

■ギャンブル&ハフ・ストーリー

ACT 1 二人の出会い

出会い。

今日、第二日目は、フィラデルフィア・サウンドのビッグ・スリーのうち、トム・ベルと並ぶケニー・ギャンブルとレオン・ハフ・ストーリーです。ちなみにもうひとりは、昨日ご紹介したトム・ベルです。

ケニー・ギャンブルは、1943年8月11日、フィラデルフィア生まれ。レオン・ハフは1942年4月8日フィラデルフィア生まれ。それぞれ68歳、69歳。

ふたりで「ギャンブル&ハフ」として知られるプロデューサー、ソングライター・コンビです。特に1960年代後期から1970年代にかけて、たくさんのヒット曲を生みだし、フィラデルフィア・サウンド、フィラデルフィア・ソウル、フィリー・ソウルの隆盛の大原動力となったチームです。

ケニー・ギャンブルは子供の頃から音楽の世界で何かをやろうと思い、地元のソウル・ラジオ局WDASに出入りし、当地の人気DJジョージ・ウッズやジミー・ビショップらにコーヒーを運んだりしていました。歌も好きで、ゲームセンターにある簡易録音マシンで、アセテート盤を作ったりしていました。今でいうカラオケで録音して、それをCDに焼くようなものです。レコード店でバイトもしたりしていました。

ギャンブルが17歳のとき、1960年頃、地元のジェリー・ロスというマネージャーがギャンブルの面倒をみるようになり、しばらく手を組んで仕事をするようになります。この頃、彼らは「ギャンブル&ロス」というわけでした。

一方、この頃、レオン・ハフはフィラデルフィアのシューベルト劇場にオフィースを構えます。すると偶然にもケニーも同じビルにオフィースを構えていたのです。ケニーは6階、レオンは2階でした。彼らはお互いエレヴェーターなどですれ違って顔は知っていましたが、何をする人物かは知りませんでした。

そんな中、彼らはとあるレコーディング・セッションで偶然顔をあわせるのです。

それが、地元のキャンディー&ザ・キッセスというグループの「ザ・81(The 81)」という曲のレコーディングで、1964年のことでした。

一方ジェリー・ロスは、一足先に、1963年、ギャンブルをソロ・シンガーとしてコロンビア・レコードに売り込むことに成功「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ユー・ガット・アンティル・ユー・ルーズ(You Don’t Know What You Got Until You Lose It)」という曲をレコーディング。

ケニー・ギャンブルはほかにも「エイント・イット・ベイビー(パート1)Ain’t It Baby, Pt. 1」 (Arctic 114)という曲もフィラデルフィアのインディ・レーベル、アークティックにレコーディングしています。1965年のことです。

そして、彼らはロメオズというグループとしても活動。このロメオズには、トム・ベルやローランド・チェンバーズ(ギター)、レオン・ハフも在籍していました。レオン・ハフとギャンブルは、二人とも曲を書くことに大変興味があり、一緒に曲作りをするようになります。二人が初めて曲作りをしたときに、一気に10曲ほど書いたというほどです。

ギャンブルとハフ、そして、ジェリー・ロスの3人は、"I’m Gonna Make You Love Me"を共作、これは、ディー・ディー・ワーウィック(ディオンヌ・ワーウィックの妹)によってレコーディングされ、1966年12月からシングルヒットします。そして、この曲はその2年後、1968年12月からダイアナ・ロス&ザ・シュープリームス&ザ・テンプテーションズによって、リメイクされ、ソウル・チャートで2位まで行く大ヒットを記録。ソングライターとしての名声を高めていきます。

ACT 2 レオン・ハフ~クラシック・ピアノを学んで

スタジオ。

少しレオン・ハフのキャリアを振り返りましょう。レオンは前述のように1942年生まれ。ギャンブルより1歳年上です。

レオン・ハフは、クラシック・ピアノを習い、ピアノをマスター。ハイスクール卒業後は、地元のクラブなどでプレイするようになりますが、フィラデルフィアだけでは飽き足らず、グレイハウンドのバスにのって、しばしばニューヨークまで足をのばし、ニューヨークのスタジオで仕事をするようになります。クラシック・ピアノからスタートしているところが、トム・ベルと同じです。

ニューヨークの有名な音楽ビル、ブリル・ビルディング(たくさんの音楽出版社が入っていたビル。多くのソングライターたちがここから育っていった)に通い、リーバー&ストーラー、フィル・スペクターらと知り合い、彼らのレコーディング・セッションでピアノを弾くようになります。この頃、レオンが一緒に仕事をしたのは、ジェフ・バリー、エリー・グリーンウィッチ、キャロル・キングなどそうそうたるメンバーでした。フィル・スペクターがプロデュースしたロネッツのクリスマス・アルバムやヒット曲「ベイビー・アイ・ラヴ・ユー」で、レオンはピアノを弾いているそうです。ほかにもアドリブスの「ボー・フロム・ニューヨーク・シティ」のピアノもレオンです。

この頃からレオン・ハフも曲を書くようになります。彼にとっての初のメジャーヒットは、パティー&ジ・エンブレムスの「ミックスド・アップ、シュック・アップ・ガール(Mixed Up, Shook Up Girl)」 [Herald 590]でした。

ニューヨークでの仕事も精力的にこなしながらも、地元フィラデルフィアでもセッションやライヴ・ハウスでプレイし、レオンの名は東海岸一帯で知られる存在となっていきました。

ACT 3 「エクセル」「ギャンブル」レーベル設立

レーベル設立。

そんなレオンとギャンブルは、前述のように意気投合。ただソングライター、プロデューサー、一ミュージシャンとしてだけでなく、小さくともレコード会社を作って運営し、ヒットを出そうと考えます。これは、かつて、モータウンを始めたベリー・ゴーディーも同様でした。

こうして、ギャンブル&ハフは1965年には、フィラデルフィアで「エクセル・レコード」をスタート。まもなく、このレーベルはその名前を「ギャンブル・レコード」に変更。1966年には、フィラデルフィアのソウル・グループ、イントゥルーダーズの「ウイル・ビー・ユナイテッド」が初ヒットに輝きます。彼らはこれと並行して、外部アーティストのプロデュースもてがけ、1967年には、ソウル・サヴァイヴァーズの「エクスプレス・ウェイ・トゥ・ユア・ハート」のヒットを生み出します。

ヒットが出ている間はよいのですが、ちょっとヒットが出なくなると苦しくなるのが、インディ・レーベルの宿命。彼らはインディペンデント・レーベルとしての限界も感じながら、ソングライター/プロデューサー・チームとしても発展していくことを考え、アトランティックやマーキュリーといったメジャー・レコード会社に売り込み、アトランティック・レコードで、アーチー・ベル&ザ・ドレルス、ウィルソン・ピケット、ダスティ・スプリングフィールドなど、マーキュリーでジェリー・バトラーなど多くのアーティストをプロデュースします。それまでインプレッションズのメンバーからソロに転じ、「フォー・ユア・プレシャス・ラヴ」が50年代にヒットしてからしばらくヒットとご無沙汰だったジェリー・バトラーは1967年、「オンリー・ザ・ストロング・サヴァイヴ」で見事にカンバック。ソロ・シンガーとしてその寿命を延ばします。

ギャンブル・レコードからは1968年3月、イントゥルーダーズの放った「カウボーイズ・トゥ・ガールズ」が初のミリオン・セラーとなり、プロデューサーとしても、レコード会社としても成功するようになりました。このレーベルでは、他にビリー・ポール、白人のジャガーズなどを出しますが、いずれもヒットには至りません。ジャガーズはその後レーベルを移籍して、1970年に「ザ・ラッパー」のヒットを出します。

1969年、彼らは別のレーベル、ネプチューンを立ち上げ、オージェイズと契約、これはチェス・レコードによって配給されますが、ここでもそれほどの大きな成功は得ていません。しいていえば、オージェイズの「ワン・ナイト・アフェア」「ルーキー・ルーキー」といった作品が小ヒットを記録した程度でした。

■イントゥルーダーズ=初期作品ベスト

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ACT 4 CBSからの誘い~フィラデルフィア・インターナショナル誕生

チャンス。

そんな彼らにさらなる大きなチャンスがやってきました。1971年、当時のCBSコロンビア・レコードの制作ディレクターだったクライヴ・デイヴィスが、資金を提供するのでCBSの元でレーベルを作り、作品をどんどん作ってくれといってきたのです。

それまでは、一インディ・レーベルを運営していたプロデューサーだった彼らでしたが、大きな予算を得て、いい作品を作ることに専念することができるようなりました。しかも、インディ・レーベルとして苦労してきたレコードの発送、集金などの雑事一般から解放され、クリエイティヴに没頭できるのは大きな意味を持っていました。

彼らはフィラデルフィアにジョー・ターシャというエンジニアが作り上げた「シグマ・サウンド・スタジオ」で、次々とレコーディング。ここから、ヒットが生まれるようになって、この「シグマ・サウンド・スタジオ」はフィラデルフィア・サウンドのメッカとなっていきます。

ギャンブル&ハフの夢を乗せたフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは1971年4月、ギデオン・スミスというシンガーの「アーカンソー・ライフ/ホエン・トゥ・ワールズ・キャン・セクセスフリー・コリド(Arkansas Life" / "When Two Worlds Can Successfully Collide)」(PIR 3501)、さらに、ジョニー・ウィリアムスの「イッツ・ソー・ワンダフル/ラヴ・ドント・ラブ・オフ(It’s So Wonderful" / "Love Don’t Rub Off)」(PIR 3502)を出しますが、これらはヒットせず、3枚目のシングルでやったヒットが出ます。それが、エボニーズの「ユーアー・ザ・リーズン・ホワイ (You’re The Reason Why)」でした。これは5月からソウル・チャート入りし、トップ10を記録。彼らは女性一人のリードと3人の男性グループで、いわば、グラディス・ナイト&ザ・ピップスと同じ編成で、フィラデルフィア版グラディス・ナイト&ザ・ピップスを狙っていました。

Act 5 ミリオン・セラー続出。

現象。

そして、同年7月にリリースされた17枚目のシングルで遂にフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは初めてのミリオン・セラーを生み出します。それが、長年、プロデュースしてきたオージェイズの「バックスタバーズ」でした。

さらに、10月にはハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ(邦題、二人の絆)」、ビリー・ポールの「ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ」と連続でミリオン・セラーが誕生。「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア」とギャンブル&ハフ、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードが一挙に注目を集めるようになりました。

以後もギャンブル&ハフは、オージェイズ、スリー・ディグリーズ、イントゥルーダーズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツなど多くのアーティストを世に送り出し、次々とヒットを出していきます。

1971年の設立から3年もしないうちに、ギャンブル&ハフのフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルは、全米で第二位の黒人所有の会社となったのです。もちろん、このランクの1位は長くモータウン・レコードです。

■フィリー・ソウル、ひじょうに便利な4枚組。初期から中期にかけてのフィリー・ソウル・ヒットをかなり網羅。今回もたくさんお世話になっています

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ACT 6 MFSB~フィラデルフィアのミュージシャンの集合体

集合体。

これらすべてのヒットのバック演奏をしているのが、シグマ・サウンド・スタジオを本拠とする地元のミュージシャンたちでした。ギャンブル&ハフは彼らを実にうまく起用し、独特のサウンドを作り上げることに成功しました。

これらのミュージシャンは多くのセッションで顔をあわせます。初期のだいたいのメンバーは、ドラムス、アール・ヤング、ベースにロニー・ベイカー、ギターにローランド・チェンバーズ、ノーマン・ハリス、ボビー・イーライ、パーカッションにラリー・ワシントン、ヴァイブにヴィンセント・モンタナ、キーボードにレオン・ハフ、ロン・カーシー、レニー・パクーラ。そして、ストリングスがドン・レナルドの指揮といったメンバーでした。

アレンジャーはボビー・マーティン、ジョン・カック・フェイス、デクスター・ワンゼル、バニー・シグラー、ミュージシャンでもあるノーマン・ハリス、レニー・パクーラもアレンジもやりました。このうちのベースのロン・ベイカー、ギターのノーマン・ハリス、ドラムスのアール・ヤングは、「ベイカー・ハリス・ヤング」というトリオで、プロデュース活動も始めます。ちょうど、フィラデルフィアがモデルとしたモータウン・レコードのヒット曲製造工場における人気プロデューサー・チーム、「ホランド・ドジャー・ホランド」的な存在になっていきます。

モータウンも何人かのすぐれたミュージシャンが、スタジオのハウス・バンドとなり、モータウンの多数のシンガーたちのバックをつけ、独特のサウンドを作り出しました。彼らは後に「ファンク・ブラザース」となり、脚光を浴びることになりますが、このフィラデルフィアのミュージシャンの集合体は、ギャンブル&ハフが「MFSB」と名付けました。

この「MFSB」は、「マザー・ファーザー・シスター・ブラザー(母・父・姉妹・兄弟)」の略です。そして彼らはフィラデルフィア・インターナショナルのアーティストだけでなく、シグマ・サウンド・スタジオにやってくる多くのソウル・シンガー、アーティストたちのバックもつけるようになり、フィラデルフィア・サウンドは一挙に世界中に広がっていきます。

そして、このMFSBは、1974年、ヴォーカルにスリー・ディグリーズを従え「TSOP」というヒットを生み出します。「TSOP」は、「ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア」の略。この曲は人気テレビ番組『ソウル・トレイン』のテーマ曲として作られ、見事に大ヒットしました。テレビ番組も人気を獲得、このテーマも毎週番組でかかることから大ヒットしました。

ギャンブル&ハフはその成功を元に、フィラデルフィア・インターの傘下に、1974年「TSOPレコード」、1975年にベイカー・ハリス・ヤングたちが作った「ゴールデン・フリース・レコード」、さらにトム・ベルが設立した「サウンダー・レコード」を配し、一大フィラデルフィア・サウンド・ブームを作り上げていきます。

■MFSB

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ACT 7 新しい世代が登場し、徐々に変化するサウンド

変化。

そんなフィリー・ソウルを特色付けていたのが、華麗なストリングスを含むオーケストラとともに、フィリー・ソウル初期から作られていたドラマー、アール・ヤングが生み出したハイファットがパシャパシャなる独特のサウンドです。これは、当時大きな現象となってきていたディスコティックで大いにプレイされ人気となりました。ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「ザ・ラヴ・アイ・ロスト」などその典型的なサウンドで、ディスコでも大いに受けました。そして、これらのサウンドは、後の「ハウス・ミュージック」の原型ともなりました。

ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツからはリード・シンガーのテディー・ペンダーグラスが1977年ソロに転じ、さらにビッグスターに。オージェイズは軽いタッチのサウンドで「シー・ユースタ・ビー・マイ・ガール」のヒットを生み出し、デクスター・ワンゼル、マクファーデン&ホワイトヘッド、ジーン・カーン、ジョーンズ・ガールズといった新人たちが登場してきます。

70年代中期から後期になると、徐々に新しいフィリーのミュージシャンたちが育ってきて、サウンドも少しずつ変化を見せ始めます。

しかし、1980年代中期になると、なかなかヒットが出なくなり、1986年にはフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルはその配給元をCBSからEMI・マンハッタンに変更。その後、1991年BMGに変わり、現在に至っています。

ACT 8 メッセージ、主張、活動

メッセージ。

ギャンブル&ハフ・サウンドの特徴は、トム・ベル同様、リッチなストリングス、ブラス・セクションを従えた壮大なオーケストラ・サウンドです。そして、歌詞の面で、黒人であることを強く意識した社会性のあるメッセージが強い作品が多いことも特徴です。

オージェイズの大ヒット「ラヴ・トレイン」や、アルバム『シップ・アホイ』、ビリー・ポールの「アム・アイ・ブラック・イナフ・フォー・ユー」などは、そうしたメッセージ性のよく出た作品です。前者は普遍の愛が世界中に必要だと歌い、アルバム『シップ・アホイ』はかつて黒人が連れてこられた奴隷船をテーマにしています。

ギャンブル&ハフのアルバムには、必ずジャケットに「There’s a message in the music」という文句が書かれています。これは、音楽の中にはメッセージがある、という彼らの主張を端的に表わしています。

ギャンブルは黒人解放運動や、人権運動、チャリティーなどにも積極的に参加しています。そうした社会活動のなかでは、1977年、彼らが全社をあげて行った「クリーン・アップ・ゲットー」キャンペーンがあります。これはその名の通り、汚れたゲットーを掃除して綺麗にしよう、壊れて放置されたままの建物などを直し、みんなできちんと仕事ができるようにしよう、というキャンペーンで、そのテーマ曲をフィラデルフィア・インターのオールスターたちが歌いました。若者はゴミを拾い、グラフィティーで落書きされた壁を綺麗にし、散らかった道を掃除したのです。当初フィラデルフィアで始まったこの運動は、徐々にシカゴ、ロスアンジェルス、メンフィスなど全米に広がりました。これは、ひとつにはケニー・ギャンブルの生まれ育ったサウス・フィラデルフィアはゲットーでいつも街が汚れていたので、ここを綺麗にし、街自体をリノヴェーションしようというケニー自身の夢でもありました。

1990年、彼らはそれまでに何度もノミネートはされてきたものの、獲得できなかったグラミーを獲得。これはシンプリー・レッドがブルーノーツの曲をカヴァーし、その「イフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウ」が「ベストR&Bソング」を獲得したものです。彼らはこれまでに3000曲以上の作品を世に送り出したといいます。

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(明日は、ギャンブル&ハフの周辺のアレンジャー、ミュージシャン、プロデューサー、また、ユニークなサルソウル・レーベルなどを紹介します)

FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special

■JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート4)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 4】

TSOP。

月曜深夜(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。

番組ホームページ
http://www2.jfn.co.jp/big/
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
番組ツイッター
bigsp_staff
ハッシュ・タグ
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
メール用フォーム・アドレス
http://site.jfn.co.jp/big/mailform/94
関東地区のラジコ。http://bit.ly/tRLmkk 
なお、これは関東地区のラジコで全国のラジコは、各地の放送局のホームページなどでご確認ください

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてます。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

初日は、スタイリスティックス、デルフォニックスを世に送り出したプロデューサー、トム・ベルとスタイリスティックス、リンダ・クリード・ストーリー。2日目は、フィラデルフィア・サウンドを一大勢力にしたケニー・ギャンブル&レオン・ハフのコンビ、通称、ギャンブル&ハフ・ストーリー。3日目は、フィラデルフィア・ソウルのヒットを多く出したニューヨークのユニークなレーベル、サルソウル・レコードと、フィリー・ソウルを作ったギャンブル&ハフの元から巣立った、あるいは周辺のアレンジャー、ソングライターたちにスポットをあてます。4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろお話をします。

■フィラデルフィア・サウンドを送り出すレーベルとミュージシャンたち

ACT 1 インディ・レーベルとサルソウル・レコード

サルソウル。

1960年代からフィラデルフィアには多くのインディ・レーベルやプロダクションがありました。フランク・ヴァーチューのスタジオ、ダイナ・ダイナミック・プロダクション、元々は白人レーベルとして始まったキャメオ/パークウェイ・レコード、アークティック・レコード、レッド・トップ・レコード、ブルーベルズ・レコード、フィラ・オブ・ソウル、ジェイミー・ガイデンといったレコード会社です。

そして、ギャンブル・レコード、フィリー・グルーヴ・レコード、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードなどが登場します。

そんなシーンに、1974年、ニューヨークでサルソウル・レコードというレコード会社がスタートします。

サルソウル・レコードは、正確に言うとニューヨークに本社がありフィラデルフィアのレコード会社ではありません。ただフィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオで多くのレコーディングをしたり、シグマがニューヨークに支店スタジオを出すと、そこを使用したりして、多くのフィラデルフィア・ミュージシャンを起用することで、フィラデルフィア・サウンドのエッセンスを多く含んだレーベルとなり、かなり多くのフィリー・サウンドの作品を出し、成功を収めたレーベルとなりました。1970年代のフィラデルフィア・サウンドを語る上でギャンブル&ハフ関連以外でもっとも重要なレーベルといえるかもしれません。そこで、3日目の今日は、このサルソウル・レーベルとその周辺のプロデューサー、アレンジャー、ミュージシャンたちにスポットをあててみます。

このサルソウル・レコードは、1974年、既にジャズ、ラテン音楽業界で成功を収めていたジョー、ケン、スタンリーのキャリー兄弟が、ニューヨークで始めた新しいレコード会社です。彼らのアイデアは、当時人気を集め始めていた「サルサ」と「ソウル」をあわせた音楽を作ることでした。そこで、新しいレーベルの名前を「サルソウル」としたわけです。「サルソウル・レコード」の誕生です。

ACT 2 12インチシングルの初の一般発売

12インチ。

サルソウルは、ラテン系人気ミュージシャン、ジョー・バターンのレコードを出した後、フィラデルフィアのアレンジャー、ヴァイブ奏者ヴィンス・モンタナのアイデアで、ディスコを狙ったダンサブルな作品を出します。それは先にヒットを放っていたMFSBというフィラデルフィアのミュージシャンの集合体にならい、独自のオーケストラを作るということでした。それがサルソウル・オーケストラの「サルソウル・ハッスル」で、1975年8月のことでした。その後1976年5月にリリースしたのが、フィラデルフィアのソウル・ヴォーカル・グループ、ダブル・エクスポージャーの「テン・パーセント」です。

この頃、アメリカのディスコでは、多くのソウル・ヒットがプレイされ、人々を躍らせていました。その中でも特にフィリー・ソウルのものは、踊るためのリズム、テンポもよく、ディスコDJに大変好まれていました。そこで、初期のディスコでは、フィリー・ソウルのダンス・ソングが人気となっていました。
 
サルソウル・オーケストラ、ダブル・エクスポージャー以後、サルソウル・レコードからは次々とダンサブルなヒットが続出しました。特にサルソウル・レコードは、それまで多くのレコード会社がプロモーション用だけに制作していたディスコ用の音がいい12インチ・シングルを初めて一般発売したことでも有名になりました。サルソウル・オーケストラの「サルソウル・ハッスル」やダブル・エクスポージャーなどです。これ以後、ディスコ用12インチ・シングルの一般発売が加速し、ディスコ市場は一挙に12インチ自体が盛り上がるようになりました。

ロリータ・ハロウェイ、インスタント・ファンク、ファースト・チョイス、エディー・ホールマンなどいずれもフィリー出身もしくは、フィリーでレコーディングされた作品を出しました。そうしたダンサブルなヒット曲の数々は、いまだにクラブ、ディスコ、そしてラジオでかかります。

サルソウル系では、ヴィンス・モンタナのほかに、フィリーのロン・ベイカー/ノーマン・ハリス/アール・ヤング(通称「ベイカー・ハリス・ヤング」=B-H-Yとも略されます)のトリオが多くの作品をプロデュースしています。

ACT 3 ヴィンス・モンタナ

ヴィンス。

そのサルソウル・レコードでもっとも活躍したのが、ヴィンス・モンタナとベイカー・ハリス・ヤングのトリオでした。

ヴィンス・モンタナは、1928年2月12日生まれ。フィラデルフィアで活躍していたヴァイブ奏者です。古くは1959年のフランキー・アヴァロンの大ヒット「ヴィーナス」でヴァイブをプレイしていました。その後、フィラデルフィアの音楽シーンでプレイヤーとして活動。ソウル・サヴァイヴァーズの「エクスプレスウェイ・トゥ・ユア・ハート」、クリフ・ノーブルスの「ザ・ホース」、エディー・ホールマンの「ヘイ・ゼア・ロンリー・ガール」、イントゥルーダーズの各ヒット曲、そのほか多くのヒットでプレイしています。以前から楽譜が書けたことから、アレンジャーとしても活躍、サルソウル・レコードでオーケストラを作ります。それが、ヴィンスのMFSB的存在となる、サルソウル・オーケストラとなります。

ヴィンス・モンタナは、このサルソウル・オーケストラのほか、ザ・モンタナ・オーケストラ、グッディー・グッディー名義でもディスコ・レコードを出しています。ちなみに、モンタナのレコーディングで核となったのは、アール・ヤング(ドラムス)、ロニー・ベイカー(ベース)、ラリー・ワシントン(パーカッション)、ジョン・ボニー(サックス)、ロニー・ジェームス(ギター)といった面々です。

ACT 4 B-H-Y

B-H-Y。

さて、ベイカー・ハリス・ヤングは、自らトランプスというグループの一角としても活動、また、「ベイカー・ハリス・ヤング」名義のアルバムもリリース。ファースト・チョイス、ロリータ・ハロウェイ、ラヴ・コミティー、エグゼクティヴ・スイート、ウイスパーズなど多くの作品をプロデュースしています。

ベースのロニー・ベイカーは、1947年生まれで、1977年には30歳くらいということになりますが、1990年、43歳くらいで死去しています。テディー・ペンダグラスの「ゲット・アップ、ゲット・ダウン…」、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツの「バッド・ラック」などの生き生きとしたベースラインが印象的です。

また、ギターのノーマン・ハリスも1947年10月14日フィラデルフィア生まれですが、1987年3月20日、わずか39歳という若さで死去しています。デルフォニックスの元リード・シンガーで、後にソロとなったメジャー・ハリスは、ノーマン・ハリスのいとこです。

ドラムスのアール・ヤングは、今でも現役で、元気にやっています。フィリー・サウンドの独特のドラミングを開発しました。また、彼はなかなかいい声の持ち主で、自身メンバーでもあるトランプスでコーラスを担当したり、ときどき、低音で聞かせます。彼らの大ヒット「ジング・ウェント・ザ・ストリングス・オブ・マイ・ハート」の魅力的な低音は、アール・ヤングです。日本で言えば、シャネルズの佐藤善雄さん、ゴスペラーズの北山陽一さんみたいな存在です。

■トランプス 伝説のジング・アルバム(ちょっと値段が高くなってます)

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ゴールデン・フリースから出た紙ジャケット

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ACT 5 ボビー・マーティン

BM。

さて、フィリー・サウンドの立役者の一人で見逃すことができないのがヴェテランのアレンジャー、ボビー・マーティンです。

ボビー・マーティンは1933年頃ニューヨーク生まれ。最初は、ヴィンス・モンタナ同様ヴァイヴを演奏するようになり、1950年代に、ニューヨークでライオネル・ハンプトンと共演したこともあるといいます。1947年に、パサディナ・キャリフォルニア・アンバサダー・オーディトリウムで行われたライヴで「スターダスト」を録音もしたそうです。

1951年、フィラデルフィアのレン・ホープ・オーケストラに招かれ、フィラデルフィアにやってきたボビーは、以後、同地をベースに活動。ここで、さらにアレンジ、プロデュースなどを覚えていきます。

トム・ベルとも盟友で、マーティン&ベル・プロダクションズという会社をやっていたこともあります。

ボビーがてがけたもので一番古い作品は、1961年のもので、ドリーム・ラヴァーズというグループの「ホエン・ウィ・ゲット・マリード」という曲をプロデュースとアレンジを担当。これが、ポップ・チャートで10位を記録する大ヒットとなったのです。その後、1962年から63年にかけて、パティー・ラベール&ザ・ブルーベルズの「アイ・ソールド・マイ・ハート・トゥ・ザ・ジャンク・マン」「ダウン・ザ・ウィル」などをプロデュース。

彼らは、1969年、アーチー・ベル&ドレルスの「ヒア・アイ・ゴー・アゲイン」、ダスティー・スプリングフィールドの「ア・ブランユー・ミー」などのアレンジを担当、地元でその名声を確立していきます。

アレンジャーとして活躍するのと同時に、プロデュースも始めます。大きな転機となったのが1973年リリースのマンハッタンズのCBS移籍第一弾アルバムでした。最初の数枚をボビーがプロデュースしますが、ここからは1976年、「キス・アンド・セイ・グッドバイ」がプラチナム・シングル(200万枚)のセールスを記録する大ヒットへ。その後、フィラデルフィア・インターでも多数の作品をアレンジ、プロデュースをてがけます。ルー・ロウルズ、オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツなどなど。一時期、ギャンブル&ハフ作品で、もっともアレンジを担当していたのが、このボビー・マーティンでした。

それらのフィラデルフィアでの仕事で名前が売れた彼の元には次々とあちこちから声がかかり、ラリー・グラハム、LTD、ビージーズなどもてがけるようなりました。

1975年から1981年の間、A&Mレコードでプロデューサーとしての仕事もしています。この時期に、ニューヨークのアトランティック・スター、LTDなどのプロデュースをてがけました。

■マンハッタンズCBS第一弾

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MFSB

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ACT 6 デクスター・ワンゼル

ワンゼル。

デクスター・ワンゼルは、1950年8月22日フィラデルフィア生まれ。キーボード奏者。12歳の頃から、地元のアップタウン・シアターで雑用のアルバイトを始めます。元々自分たちでイエロー・サンシャインというグループをやっていました。ここには、ローランド・チェンバース(1944年3月9日生まれ~2002年5月8日死去)というギタリストがいました。ギャンブル&ハフの元で活躍するようになり、売れっ子アレンジャー、キーボード奏者となり、フィリス・ハイマン、ジャクソンズ、ルー・ロウルズ、テディー・ペンダグラス、パティー・ラベール、ジーン・カーンなどの作品のアレンジ、プロデュースするようになります。

ジョーンズ・ガールズの1981年のヒット「ナイツ・オーヴァー・エジプト」、1984年のパティー・ラベールのヒット「イフ・オンリ・ユー・ニュー」なども共作しています。デクスター・ワンゼル名義でもアルバム『ライフ・オン・マーズ』を出しています。ジャクソンズのエピックでの2枚のアルバムでもアンレジなどを担当しています。

彼はシンシア・ビッグス、バニー・シグラー、T・ライフらと多く共作しています。

■デクスター・ワンゼル

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ACT 7 ボビー・イーライ 

イーライ。

フィラデルフィア生まれのボビー・イーライも、ギタリストとして、MFSBの一員として、また、プロデューサーとしても活動しています。おそらく1940年代初期の頃の生まれでしょう。オージェイズ、テディー・ペンダグラスなど多くのギャンブル&ハフのレコーディング・セッションに参加。ソングライターとしても、メジャー・ハリスの「ラヴ・ウォント・レット・ミー・ウェイト」、ブルー・マジックの「サイドショー」、「スリー・リング・サーカス」、メイン・イングレディエントの「ジャスト・ドント・ウォント・トゥ・ビー・ロンリー」、ジャッキー・ムーアの「ディス・タイム・ベイビー」などを書いています。アトランティック・スターの2枚のアルバム、デニース・ウィリアムスの『ラヴ・ニーシー・スタイル』、TUMEなど数多くてがけています。

ボビー・イーライは、1974年、ザ・ソンズ・オブ・ロビン・ストーン、デイモン・ハリスのインパクトなどをてがけています。

■ブルー・マジック 「サイドショー」収録。スイートソウルの決定盤。名盤です。

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■メジャー・ハリス『マイ・ウェイ』(「ラヴ・ウォント・レット・ミー・ウェイト」収録)

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このほかにもまだまだたくさんのミュージシャン、アレンジャーらがいます。そうした人たちはまた別の機会にご紹介しましょう。

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明日は、吉岡正晴が生出演し、ここでお話できなかったエピソードなどもお話できるかもしれません。吉岡正晴のツイッターや、番組ホームページからお便りなどお寄せください。https://twitter.com/soulsearcher216


FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special
■ JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート5)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 5】

TSOP。

月曜深夜(2011年11月15日)からJFN系列局(東京FMをはじめ全国30局以上)でお送りしている深夜の本格音楽スペシャル・プログラム、『ビッグ・スペシャル』。今週は、フィラデルフィア・ソウル特集。題して「フィラデルフィア・サウンドが踊った70年代」。たっぷりフィラデルフィア・ソウルをお楽しみください。今日は4日目ということで最終回。吉岡正晴が午前1時から生放送で登場します。リクエスト、質問、ご意見などありましたら、下記のメールホームからお寄せください。ツイッターでもOKです。

メール用フォーム・アドレス
http://site.jfn.co.jp/big/mailform/94
吉岡正晴ツイッター
https://twitter.com/soulsearcher216
番組ツイッター
https://twitter.com/ bigsp_staff
番組ホームページ
http://www2.jfn.co.jp/big/
http://www.fmsounds.co.jp/production/program_detail.php?b=1&p=62&PHPSESSID=vvnqkbcm
ハッシュ・タグ
ビッグ・スペシャル #bigsp 東京FM #tfm
パソコンで聴けるラジコ(関東地区)
http://bit.ly/tRLmkk
なお、これは関東地区のラジコ・アドレスで、全国のラジコは各地の放送局のホームページなどでご確認ください

最初の3日間では、フィラデルフィア・ソウルとは何か、フィラデルフィア・ソウルを成功させたプロデューサー、アーティストにスポットをあてました。「フィラデルフィア・ソウル」、略して「フィリー・ソウル」は、1970年代初期から全米の音楽シーンを席巻した独特のサウンドを持ったソウル・ミュージックのひとつです。

今日4日目(木曜深夜)には、吉岡正晴が番組に登場し、いろいろな細かなエピソードをお話をします。

ただ、今日はこれから生放送ですので、放送終了しての感想などは、明日以降のブログで書く予定です。

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3日目まで。

さて、3日まで終えて、4日目に行く前に書いているが、ここ1-2週間、フィリー関係のCDざっと200枚くらい目を通したというか、聴いたというか、した。最終的には3日で86曲かかって、たぶん4日目も20曲はかかると思うので、100曲以上は選んだ勘定になる。しかし、ギャンブル&ハフ関連だけで、トータル3000曲以上がレコーディングされたというから、30分の1にも満たない。しかも、ギャンブル&ハフ以外のものも勘定すればもっとになるだろう。確かに1日1曲としても年間365曲、それが20年続けば7000曲を超えることになる。60年代後期から80年代中期までは、フィラデルフィア・サウンドは次々とあらゆるものがレコーディングされていたにちがいない。改めて、膨大な数のレコーディングが行われたんだなあ、と思った。

だから、アーティスト名、ミュージシャン名、アレンジャー名などを横軸に、楽曲名を縦軸にしたエクセルで超すごいデータベースかなんかできれば、すごく楽しくて便利だろうな、と思った。

フィラデルフィア・サウンドがこれほど現象的な人気を得たのは、たくさんの才能あるミュージシャン、ソングライター、プロデューサー、アレンジャーらがいたからに他ならない。

しかし、フィラデルフィア・ソウルには、当たり前だがいい曲が多い。

なお、初日から3日目まで、「フィリー・ソウル特集」でプレイした曲のリストをお送りします。

PLAY LIST: TSOP The Sound Of Philadelphia

DAY ONE 11/15/2011 Tuesday 1:00am to 3:30am

1st Hour

M01Can’t Give You Anything – Stylistics (1975)

Thom Bell Story

M02La-La (Means I Love You) - The Delfonics (3:20) (1968)
M03Ready or Not Here I Come (Can’t Hide from Love) - The Delfonics (2:00) (1968)
M04Brand New Me -- Dusty Springfield (2:24)(1969)
M05Help Me Find A Way – Little Anthony & Imperials (3:03) (1970)
M06I’ll Be Around – Spinners (3:10)(1972)
M07Could It Be I’m Falling in Love - The Spinners (4:12)(1972)
M08Life Is A Song Worth Singing – Johnny Mathis (6:03)(1973)
M09It’s Gonna Take a Miracle - Deniece Williams (4:11) (1982)
M10I Don’t Have The Heart – James Ingram (4:15)(1990)
M11Baby Is Gone – James Ingram (5:01) (1990)

2nd Hour: Stylistics Story~ World Of Linda Creed

M12Betcha by Golly, Wow - The Stylistics (3:45)(1972)
M13People Make the World Go Round - The Stylistics (3:29)(1972)
M14I’m Stone In Love With You - The Stylistics (3:19)(1972)

M15Break Up To Make Up - The Stylistics (3:58)(1973)
M16You Make Me Feel Brand New- The Stylistics (5:27)(1974)
M17Rockin’ Roll Baby – The Stylistics (3:32)(1974)

>リンダ・クリードが描く独特のブラックとラヴの世界

M18Betcha By Golly Wow – Prince 3:31(1996)

>マイケル・マッサー作品2曲(ちなみに、どちらもフィリー・ソウルではありません)

M19Touch Me In The Morning – Diana Ross 3:27 (1973)
M20Greatest Love Of All – George Benson 3:30 (1977)

>リンダ・クリードの世界、訳詞が火曜のブログに

M21Ghetto Child – Spinners (3:47) (1973)
M22Children Of The Night – Stylistics (6:52)(1972)

3rd Hours : Quiet Storm

M23Quiet Storm – Smokey Robinson [Theme](1975)
M24Didn’t Anyone Ever Tell You I Love You – Philly Devotions (2:54) (1974)
M25You Make Me Feel So Good Baby – Temprees (3:15) (1972)
M26 Do You Remember Yesterday -- New York City (4:38) (1973)
M27I’m Not In Love -- Dee Dee Sharp (5:14) (1975)
M28You’re My Latest, My Greatest Inspiration -- Teddy Pendergrass (5:22)(1981)
M29Time -- Lou Rawls (2:53)(1976)

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DAY TWO 11/16/2011

1st Hour Gamble & Huff Story

M01I’m Gonna Make You Love Me – Diana Ross & Supremes & The Temptations (3:06) (1968)
M02Together – Intruders (2:58), (1967)
M03Expressway To Your Heart -- The Soul Survivors (2:19)(1967)
M04Cowboys To Girls– Intruders (2:39) (1968)
M05Hey, Western Union Man – Jerry Butler (2:39)(1968)
M06Only The Strong Survive - Jerry Butler (2:35)(1969)
M07One Night Love Affair – O’Jays (2:19)(1969)
M08Don’t Let The Green Grass Fool You - Wilson Pickett (2:47)(1971)
M09You’re The Reason Why – Ebonys (3:03)(1971)
M10Drowning In The Sea Of Love – Joe Simon (3:20)(1971)
M11Backstabbers – O’Jays (3:06)(1972)
M12If You Don’t Know Me By Now – Harold Melvin & The Bluenotes, (3:26)(1972)
M13Me & Mrs. Jones – Billy Paul (4:46)(1972)
M14I Wanna Know Your Name – Intruders (5:49)(1973)

2nd hour Gamble & Huff And More

M15I’ll Be Around – Hall & The Oates 4:02 (Spinners)(2004)
M16If You Don’t Know Me By Now – Simply Red (3:23)(1989)
M17Love T.K.O. – Regina Belle 5:02 (1995)

>Philly’s obscure groups

M18I’m Hopelessly In Love With You – Modulations (3:11) (1975)
M19The Way Of Woman – Futures (2:49) (1978)
M20Come And Get Your Love – The Temprees (3:15) (1973)

M21I’m Going Through Changes Now – Brown Sugar (2:47) (Capitol-1975) (Vince Montana)
M22Ain’t Got Nobody To Give It To – Howard Tate(3:42) (1974) (Jerry Ragovoy)
M23One Girl Too Late- Brenda & The Tabulations(3:05) (1973) (Van McCoy)
M24Ain’t No Stoppin’ Us Now – McFadden & Whitehead, (7:01)(1979)
M25Love Train – Bunny Sigler (7:02)(1974)

3rd hour : Quiet Storm

M26Quiet Storm – Smokey Robinson [Theme]
M27Just You And Me Baby - Spinners (3:02) (1972)
M28The Common Broken Heart - Lou Courtney (5:39) (1973)
M29Close The Door - Teddy Pendergrass (5:25) (1978)
M30I Believe And Have Not Seen - Barbara Mason(4:35) (1973)
M31You’re All That Matters - Deniece Williams (5:17) (1982)

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DAY THREE 11/17/2011

1st Hour Salsoul Records

M01Ten Percent – Double Exposure (3:05)(1976)
M02Nice & Nasty – Salsoul Orch (3:48)(1976)
M03Salsoul Hustle – Salsoul Orch (3:28)(1975)
M04Hit & Run – Loleatta Holloway (3:39)(1977)
M05 Runaway – Loleatta Holloway & Salsoul Orch (4:41)(1977)
M06 Dr. Love – First Choice (2:55)(1977)
M07This Will Be A Night To Remember – Eddie Holman (5:47)(1977)
M08Cheaters Never Win – Love Committee (3:55)(1977)
M09You’re So Much A Part Of Me – Carol Williams (3:49)(1977)
M10Love Is Finally Coming My Way – True Example (6:18) (1978)

2nd hour Bobby Martin

M11Love Is the Message – MFSB featuring Three Degrees (6:36) (1974)
M12There’s No Me Without You – Manhattans (3:37)(1973)
M13Dirty Ol’ Man – Three Degrees (3:04)(1973)

2)Baker-Harris-Young (モータウンでいえばホランド・ドジャー・ホランドみたいなプロデューサーチーム) Ron Baker, Norman Harris Young, Earl Young

M14Love Epidemic Trammps (4:47)(1973)
M15Love Won’t Let Me Wait -- Major Harris (3:49)(1975)
M16Bingo -- Whispers (5:12)(1974)

3)Bobby Eli (ギタリストでアレンジャー、プロデューサー)

M17Sweet Charlie Baby --Jackie Moore (2:37) (1973)
M18Sideshow -- Blue Magic (4:06) (1974)
M19Let’s Get Together Now – Aristocrats (3:06) (1976)

4)Dexter Wansel (キーボード奏者、プロデューサー)

M20Hurry Up This Way Again – Stylistics (3:35) (1980)

3rd Hour Quiet Storm Day Three

M21Quiet Storm [Theme]
M22Hurt / Manhattans (3:01)(1973)
M23Wake Up Everybody / Harold Melvin & Blue Notes (7:30)(1975)
M24Let’s Live In Peace / Temptations (4:17) (1976)
M25Stairway To Heaven / O’Jays (6:18)(1976)
M26Sadie / Spinners (5:29)(1975)

フィリー・ソウルが手軽に楽しめる4枚組み

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FEATURE>The Sound Of Philadelphia
RADIO>Big Special

■ JFN『ビッグ・スペシャル』~『フィラデルフィア・ソウル(TSOP)』(パート6)

【The Sound Of Philadelphia Story Part 6】

TSOP。

今週月曜から木曜まで4日間連続で、深夜JFN系列全国ネットでお送りした『ビッグ・スペシャル』~フィラデルフィア・ソウル大特集。いかがでしたでしょうか。木曜深夜、生放送を3時間ほどしました。

今回ちょっと驚いたのが、前回のモータウン特集と比べ、「フィリー・ソウル」とか「フィラデルフィア・サウンド」「フィラデルフィア・ソウル」とか、そういう言葉、ジャンル自体が一般的に圧倒的に知名度がなかったということ。「モータウンっていうのは、なんとなく雰囲気でわかるけど、フィリー・ソウルってジャンル自体も初めて知った」といったおたよりもいただきました。

確かにそうなのかもしれません。「フラデルフア」「フリーソウル」といった単語が届いていたそうだ。もちろん、「フィラデルフィア・ソウル」がまったく知名度がないので、ギャンブル&ハフ、トム・ベルといった固有名詞は、もっと一部の音楽ファンだけしか知らないということになります。そのあたりをどう説明していくか、解説していくかは、これからの課題かなあ、と思いました。

また、フィリー楽曲が3000曲以上あるということで、完全データベースが欲しいと思いました。(笑) 誰か作ってください。今回選んでみて、アナログしかなくてかけられなかったものもありました。また、フィリー関係は登場人物があまりに多く、そうした人たちに一人一人スポットをあてていっても、大変です。

作品はまだまだあるので、僕的には第二弾、第三弾もできるかなあ、などと思いました。その前に、「フィリー・ソウル」の知名度を上げないと…。(笑) 

番組中、ツイッターなどでメール、メッセージをお送りいただきありがとうございます。

(初日から3日目までのリストは昨日のブログに掲載してあります)

■プレイリスト
JFN ビッグ・スペシャル「フィリー・ソウル特集」~
2011年11月15日~18日

25:00—

M01When Will I See You Again -- Three Degrees 2:59

1)フィラデルフィア・サウンド前夜

M02. Twist -- Chubby Checker 1960
M03. Mash Potato Time -- Dee Dee Sharpe 1962
M04The Horse -- Cliff Norbles 1968

ここでは、フィラデルフィア・ソウルが大爆発する以前のフィラデルフィアの音楽都市としてのお話。

2)トム・ベル、ギャンブル&ハフの登場

M05We’ll Be United -- Intruders: 1966 (2:53)
M06Didn’t I (Blow Your Mind This Time) -- Delfonics (3:22) 1970
M07You’re Everything – Stylistics 2:55 1971
M08Armed And Extremely Dangerous – First Choice 2:50 1973
M09I Wouldn’t Give You Up -- Ecstasy Passion & Pain (3:24) 1974

フィリーのミュージシャンの中で抜け出てきたギャンブル&ハフとトム・ベルの話。

3)PIRフィラデルフィアインターナショナル・設立~TSOP(フィラデルフィア・サウンド)の全盛

M10It’s Forever -- Ebonys: (4:30) 1973
M11Slow Motion -- Johnny Williams:2:57 1972

ギャンブル&ハフがフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを設立していよいよ快進撃が始まるという話。

26:00――

M12TSOP -- MFSB 3:42 1974
M13Nigai Namida -- Three Degrees: (3:52) 1975
M14Best Disco In Town -- Richie Family:6:30 1976
M15I Just Can’t Say Goodbye -- Philly Devotions:3:11 1975
M16Young Americans -- David Bowie 1975
M17Zing Went The Strings Of My Heart -- Trammps: 4:53 1972
M18Don’t Leave Me This Way -- Harold Melvin & The Blue Notes: (6:04) 1975
M19Good For The Gander -- Jermain Jackson 4:18 (1976) (previously unreleased material)
M20Show You The Way To Go -- Jacksons 5:291977

たくさんのアーティストがフィラデルフィア詣でをするようになり、フィラデルフィア・サウンドがアメリカで最大の盛り上がりを持ち始めた話。

27:00—

4) 新しいフィラデルフィア・サウンド

M21(They Just Can’t Stop It) Games People Play -- Spinners: 4:37 1975
M22You’ll Never Find Another Love Like Mine -- Lou Rawls: (4:26) 1976
M23Close The Door -- Teddy Pendergrass:3:35 1978
M24Useta Be My Girl -- O’Jays ( 3:24) 1978
M25If Only You Knew -- Patti LaBelle: (4:45) 1983

70年代後半からは、徐々にそれまで下積みだったアーティストたちが陽の目をみるようになった話。

27:30—

5)個人的に好きなレア・フィリー・グループ

M26Look On The Good Side -- Invitations: (3:22) 1974
M27Whisper A Love Chant – Ambition (3:38)『ソウルギャラクシー』から 1978
M28I Can Testify (Good Things Come To Those Who Wait) -- Richmond Extention: (4:43) 1975  『ソウルギャラクシー』から
M29Samson -- Ebony, Ivory & Jade 2:52 1974
M30 They Say The Girl’s Crazy -- Invitations: (2:51) 1973

僕が好きな、または珍しい作品をピックアップ。

■ フィリー・ソウル入門編のお薦めアルバム

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☆今日はマイケル・ジャクソン『イモータル』~「ソウル・サーチン」(午後2時半から)

【”Immpoetal Megamix” Will Be On Soul Searchin】

不滅。

ダンス・カンパニー「シルク・ド・ソレイユ」が、マイケル・ジャクソン楽曲ばかりを使用して作り上げたエンタテインメント・ショー『イモータル』が2011年10月2日からカナダ・モントリオールで始まったが、そのショーで使われる音源のサウンドトラック的存在のアルバム、その名も『イモータル』が2011年11月23日日本発売される。

シルク・ド・ソレイユ予告編

http://youtu.be/x5kPTl4jEFo



これに伴い、今日の『ソウル・ブレンズ』(関東地区・インターFM、76.1mhz、毎週日曜午後1時~3時)内「ソウル・サーチン」(午後2時半~)のコーナーで、ご紹介する。また、12月13日、14日に行われる「マイケル・ジャクソン・トリビュート・イヴェント」のことも少し紹介できるかと思う。

インターFMは、関東地区にお住まいの方は、パソコンでラジコにアクセスすると聴ける。また、他にAUの携帯電話をお持ちの方は、有料だが、申し込めば全国のFMラジオを聴ける。そのほか、衛星テレビ放送、スカパーと契約している方も、ラジオチャンネルで聴ける。

ラジコはこちら。
http://radiko.jp/player/player.html#INT

(なお、ラジコは現在のところアクセス者にエリア制限をかけているために、基本的には関東地区の方しか聴けません。それ以外の方は、AUもしくは、スカパーなどでお聴きください。この両者を使えば日本全国で聴けます)

今回アルバム『イモータル』を紹介するのだが、音源に関しては厳しい解禁日設定があり、アルバム全曲の解禁は日本では発売日11月23日の午前0時。それまでは、先にデジタル配信となった「イモータル・メガミックス」のみ。アルバム・ヴァージョンは9分08秒、シングルは4分54秒で、「ソウル・サーチン」では、長いヴァージョンをノーカットでオンエアする。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005SUI4O6/soulsearchiho-22/ref=nosim/"

このロング・ヴァージョンには、次のような曲がうまくマッシュアップされている。

Can You Feel It / Don’t Stop Till You Get Enough / Billie Jean / Black Or White

番組では、マッシュアップとは何か、などについてもお話する予定。

■マイケル・ジャクソン最近のブログ・エントリー~『イモータル』について

2011年10月05日(水)
サウンドトラック盤『イモータル』2種類で発売~ケヴィン・アンテューンズが音楽デザイナー
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11037930579.html

2011年10月04日(火)
マイケル・ジャクソン~シルク・ド・ソレイユのショーモントリオールから始まる
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11037189225.html

2011年10月28日(金)
物故者(デッド・セレブ)長者番付2011~マイケル・ジャクソン2年連続1位
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11060239931.html

MICHAEL JACKSON>Immortal


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