●吉川茂昭さん(元エピック・ソニー、マイケル・ジャクソン担当)を偲ぶ会
2011年11月8日 音楽●吉川茂昭さん(元エピック・ソニー、マイケル・ジャクソン担当)を偲ぶ会
【A Tribute To Mr. Yoshikawa Shigeaki】
偲ぶ。
しばらく前に、元CBSソニーの野中さんのブログで死去を知った吉川茂昭さんを偲ぶ会が、2011年11月6日(日曜)青山のイヴェントスペース、モーダポリティカで行われた。
吉川さんは、2011年8月末に釣りに行ったところで事故死したという。詳しい状況はよくわからないそうだ。60歳だった。
吉川さんは、1951年(昭和26年)4月23日生まれ。CBSソニー、エピック・ソニー、ソニー・コンピューターを経て、VR1、プラスなどの会社を渡り歩いた。エピック時代には、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』、ジャクソンズの『ヴィクトリー』などのほかに、ノーランズ、ジョージ・デューク、ルーサー・ヴァンドロスなどを担当。その後、ソネットではポストペットを世に送り出す力となった。
僕と吉川さんは、1979年に『オフ・ザ・ウォール』のときに知り合った。あのときは、一度夏に出た『オフ・ザ・ウォール』を半年か一年後かに、再度プロモーションするという異例の宣伝を行い、結局、ディスコだけでなく、洋楽シーンでヒット。さらにその流れでジャクソンズの『トライアンフ』へつなげ、『スリラー』の下地を作った。
僕が1983年8月5日にマイケル・ジャクソンのエンシノの自宅に行けたのも、吉川さんのおかげだ。吉川さんに、ジャクソンズのインタヴューをしたいと申し出たら、快くアレンジしてくれた。結局、ジャッキー・ジャクソンとのインタヴューが取れることになり、行ってみたら、そこがマイケルの自宅だったという話は何度もした。これには僕自身がものすごく驚いたが、帰国して写真を持って吉川さんのところに報告に行くと、彼も事の外驚き、大喜びしてくれた。すでにマイケルがメディアとインタヴューをしなくなっていた時期だけに、貴重な接点となり、あちこちの雑誌や媒体を紹介してくれ、その話をたくさん書いた。
それらが結局『ヴィクトリー』の下地になり、僕は詳細な『ヴィクトリー』のアルバム・ライナーを書き、それを後に西寺郷太くんが読んで、マイケル道に走ることになるのだから、世の中すべてつながっている。
そして、1984年7月の『ヴィクトリー・ツアー』もカンサスで見せていただいた。そのライヴがあまりに衝撃的だったので、同年12月にロスアンジェルスでもう一度見ることにして、そのとき、高校からの同級生で盟友、大のソウル好きハセヤン(長谷川康之トレイン社長)を誘った。これはきっと彼も感激するだろうと思ったからだ。そうしたら感激どこから、彼はいまだに自分が何百本と見たライヴの中で生涯最高のライヴが、『ヴィクトリー・ツアー』のライヴだと、言ってくれている。
吉川さんからは、ルーサー・ヴァンドロスのライナーノーツも頼まれ、『ヴィクトリー』級の詳細なライナーを書いた。これは後に松尾潔さんが、ぼろぼろになるまで何度も読んだそうで、彼はルーサー好きが転じて、自身の制作会社の名前に「ネヴァー・トゥ・マッチ・プロダクション」と名付けている。まあ、そういう意味でいけば、これも間接的には吉川さんのおかげだ。
レコード業界を離れてからは、さすがに接点がなくなったが、その後どこかでばったり会ったり、風の噂で「ポストペット」をやって大成功した、と聞いた。また、たまたま僕の友人が勤めていた会社に吉川さんが入り、その友人から突然電話が来て、「ちょっとおもしろい人物に代わるから」と電話が渡され、出てきたのが吉川さんで、びっくりしたこともあった。
最後に話をしたのは、マイケル死去のニュースが流れた2009年6月26日のこと。吉川さんから電話がかかってきて、しばし、マイケル話をした。
この偲ぶ会にはあまりレコード音楽関係の人はいなくて、エピック・ソニー時代の方々が数名いらしていただけ。ただ、その人たちには久々にお会いできてよかった。各業界のみなさんのあいさつの中で、「彼は朝会社に来ない。相当自由にやりたい放題やっている。でも、売り上げがあがるから、みんな文句を言えない」といったことが異口同音に語られ、どこでも相当自由にやられていたんだなと思った。
音楽業界には破天荒な名物ディレクターが1970年代には多くいたものだが、吉川さんはそんな最後のディレクターだったのではないか、と当時の上司だった野中さんはおっしゃっていた。野中さんは、「(上司だから)勤務評定っていうのをするんだけど、日常の勤務態度というところは最低なんだけど、その他の売り上げとか、いろんな項目でみんないいから、結局トータルでいいってことになるんだよね。会社としては、貴重な存在だった」と苦笑していた。
僕も知り合った当初、黒のタキシードにネクタイという『オフ・ザ・ウォール』のマイケル姿でプロモーションしていて、度肝を抜かれたことを思い出す。なにより、アイデアマンで、行動力があったから、あそこまでの実績を残したのだろう。そういえば、シャーデーを最初に担当し、全米でブレイクする前に、来日させインクスティックかどこかでショーケースっぽいライヴをやったのも吉川さんだった。それと、ノーランズ、キャンディー・ポップ、ワムも。洋楽ディレクターとしては大変な実績だ。
偲ぶ会の最後に、吉川さんが月刊「ポストペット」に1998年6月から2001年2月まで掲載した自身のキャリアを振り返る「私の楽歴書」という連載記事が小冊子にまとめられ、参加者におみやげとして配られた。これがなかなかおもしろい読み物だ。最近ウェッブにアップされたので、誰でも読める。エピック・ソニー時代の話が、いろいろと知っているだけにとてもおもしろい。
http://gakurekisho.blogspot.com/2011/11/1.html
マイケルのくだり、ジョージ・デューク、スタンリー・クラーク、シャーデーとの話など洋楽ファンとしてはたまらない。彼がビル・ウィザースに面会していたとは知らなかった。
ご冥福をお祈りしたい。
OBITUARY>Yoshikawa, Shigeaki (April 23, 1951 – August, 2011, 60 year old)
【A Tribute To Mr. Yoshikawa Shigeaki】
偲ぶ。
しばらく前に、元CBSソニーの野中さんのブログで死去を知った吉川茂昭さんを偲ぶ会が、2011年11月6日(日曜)青山のイヴェントスペース、モーダポリティカで行われた。
吉川さんは、2011年8月末に釣りに行ったところで事故死したという。詳しい状況はよくわからないそうだ。60歳だった。
吉川さんは、1951年(昭和26年)4月23日生まれ。CBSソニー、エピック・ソニー、ソニー・コンピューターを経て、VR1、プラスなどの会社を渡り歩いた。エピック時代には、マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』、ジャクソンズの『ヴィクトリー』などのほかに、ノーランズ、ジョージ・デューク、ルーサー・ヴァンドロスなどを担当。その後、ソネットではポストペットを世に送り出す力となった。
僕と吉川さんは、1979年に『オフ・ザ・ウォール』のときに知り合った。あのときは、一度夏に出た『オフ・ザ・ウォール』を半年か一年後かに、再度プロモーションするという異例の宣伝を行い、結局、ディスコだけでなく、洋楽シーンでヒット。さらにその流れでジャクソンズの『トライアンフ』へつなげ、『スリラー』の下地を作った。
僕が1983年8月5日にマイケル・ジャクソンのエンシノの自宅に行けたのも、吉川さんのおかげだ。吉川さんに、ジャクソンズのインタヴューをしたいと申し出たら、快くアレンジしてくれた。結局、ジャッキー・ジャクソンとのインタヴューが取れることになり、行ってみたら、そこがマイケルの自宅だったという話は何度もした。これには僕自身がものすごく驚いたが、帰国して写真を持って吉川さんのところに報告に行くと、彼も事の外驚き、大喜びしてくれた。すでにマイケルがメディアとインタヴューをしなくなっていた時期だけに、貴重な接点となり、あちこちの雑誌や媒体を紹介してくれ、その話をたくさん書いた。
それらが結局『ヴィクトリー』の下地になり、僕は詳細な『ヴィクトリー』のアルバム・ライナーを書き、それを後に西寺郷太くんが読んで、マイケル道に走ることになるのだから、世の中すべてつながっている。
そして、1984年7月の『ヴィクトリー・ツアー』もカンサスで見せていただいた。そのライヴがあまりに衝撃的だったので、同年12月にロスアンジェルスでもう一度見ることにして、そのとき、高校からの同級生で盟友、大のソウル好きハセヤン(長谷川康之トレイン社長)を誘った。これはきっと彼も感激するだろうと思ったからだ。そうしたら感激どこから、彼はいまだに自分が何百本と見たライヴの中で生涯最高のライヴが、『ヴィクトリー・ツアー』のライヴだと、言ってくれている。
吉川さんからは、ルーサー・ヴァンドロスのライナーノーツも頼まれ、『ヴィクトリー』級の詳細なライナーを書いた。これは後に松尾潔さんが、ぼろぼろになるまで何度も読んだそうで、彼はルーサー好きが転じて、自身の制作会社の名前に「ネヴァー・トゥ・マッチ・プロダクション」と名付けている。まあ、そういう意味でいけば、これも間接的には吉川さんのおかげだ。
レコード業界を離れてからは、さすがに接点がなくなったが、その後どこかでばったり会ったり、風の噂で「ポストペット」をやって大成功した、と聞いた。また、たまたま僕の友人が勤めていた会社に吉川さんが入り、その友人から突然電話が来て、「ちょっとおもしろい人物に代わるから」と電話が渡され、出てきたのが吉川さんで、びっくりしたこともあった。
最後に話をしたのは、マイケル死去のニュースが流れた2009年6月26日のこと。吉川さんから電話がかかってきて、しばし、マイケル話をした。
この偲ぶ会にはあまりレコード音楽関係の人はいなくて、エピック・ソニー時代の方々が数名いらしていただけ。ただ、その人たちには久々にお会いできてよかった。各業界のみなさんのあいさつの中で、「彼は朝会社に来ない。相当自由にやりたい放題やっている。でも、売り上げがあがるから、みんな文句を言えない」といったことが異口同音に語られ、どこでも相当自由にやられていたんだなと思った。
音楽業界には破天荒な名物ディレクターが1970年代には多くいたものだが、吉川さんはそんな最後のディレクターだったのではないか、と当時の上司だった野中さんはおっしゃっていた。野中さんは、「(上司だから)勤務評定っていうのをするんだけど、日常の勤務態度というところは最低なんだけど、その他の売り上げとか、いろんな項目でみんないいから、結局トータルでいいってことになるんだよね。会社としては、貴重な存在だった」と苦笑していた。
僕も知り合った当初、黒のタキシードにネクタイという『オフ・ザ・ウォール』のマイケル姿でプロモーションしていて、度肝を抜かれたことを思い出す。なにより、アイデアマンで、行動力があったから、あそこまでの実績を残したのだろう。そういえば、シャーデーを最初に担当し、全米でブレイクする前に、来日させインクスティックかどこかでショーケースっぽいライヴをやったのも吉川さんだった。それと、ノーランズ、キャンディー・ポップ、ワムも。洋楽ディレクターとしては大変な実績だ。
偲ぶ会の最後に、吉川さんが月刊「ポストペット」に1998年6月から2001年2月まで掲載した自身のキャリアを振り返る「私の楽歴書」という連載記事が小冊子にまとめられ、参加者におみやげとして配られた。これがなかなかおもしろい読み物だ。最近ウェッブにアップされたので、誰でも読める。エピック・ソニー時代の話が、いろいろと知っているだけにとてもおもしろい。
http://gakurekisho.blogspot.com/2011/11/1.html
マイケルのくだり、ジョージ・デューク、スタンリー・クラーク、シャーデーとの話など洋楽ファンとしてはたまらない。彼がビル・ウィザースに面会していたとは知らなかった。
ご冥福をお祈りしたい。
OBITUARY>Yoshikawa, Shigeaki (April 23, 1951 – August, 2011, 60 year old)