【ルーサー衝撃・続く】
孤独。
ルーサー死去の衝撃は続く。イギリス人のソウル・ミュージック・ジャーナリスト、デイヴィッド・ネイサンが長文の追悼文を書いた。
http://www.soulmusic.com/luthervr.htm
ルーサーはアトランティック・レーベル傘下コティリオン・レーベルからグループ「ルーサー」として76年にデビュー。その時にネイサンがインタヴューをし、それ以来、仕事面でもプライヴェートでも二人は親しくなった。ネイサンがその30年近いルーサーとの思い出を語ったもの。
グループ、「ルーサー」が2枚のアルバムを出した後、契約がなくなり、一時期ネイサンはイギリスのレコード会社にルーサーのデモテープを売り込んだことがある。だが、それを聞いたディレクターは、イギリスのマーケットには「アメリカすぎる」と判断し、売込みを断った。
その後、ロバータ・フラックのツアーで、ロバータのマネージャーと知り合い、その人物がエピックのディレクター、ラーキン・アーノルドを紹介してくれた。アーノルドは、すぐにこのテープを気に入り、契約。そこで『ネヴァー・トゥ・マッチ』が生まれた。ここに収録された「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」を聴かされた時のネイサンの驚きは大変なものだった。ルーサーにとって、ディオンヌ、アレサ、ダイアナ・ロスは3大お気に入りのシンガー。そして、そのうちのひとりディオンヌの作品をカヴァーしたのである。
ルーサーも生涯独身で過ごした。デイヴィッド・ネイサンも独身ということで、人生について、恋について、独身であることについて、パーソナルな会話を何時間もしていたようだ。一時期、偶然にもネイサンとルーサーがニューヨークの同じアパートに住んでいたことも、二人を親しくさせた。
『ネヴァー・トゥ・マッチ』以降、ルーサーはさらに豪華なアパートに引越していったが、新作がでると、まっさきにネイサンに聞かせていた。
ルーサーは、いつでも、生涯のパートナーを見出したいと思っていた、という。つまり、結婚したいと思っていたのだ。彼は、自分の体重(太っていること)が、恋のじゃまになると思っていた。そこで、恋をすると、あるいは、好きな人ができると、痩せる。だが、その恋が成就しないとなると、やけ食いでまた太ってしまうという。その体重の増減は5-60キロあった。それは、彼の歴代のアルバムのジャケットを順に並べてみれば、明らかだ。痩せている時と太っている時が実に極端なのである。
また、彼の兄弟、親ともに、糖尿病を患っていた。糖尿病の家系なのだろう。それと体重も関係していた。そして、そこから心臓への負担があった。
ルーサーにはこんな現実があった。完璧なライヴをやって、何万の人を喜ばせても、ホテルの部屋に戻ってくれば、たったひとりだ。そして、そこで彼を待っているものは食べ物だけ。どうしても食べてしまう。
大学時代、彼はしばしニューヨークを離れミシガン州に行くが、その時も彼は孤独だった。シャイな彼は友達もできずに、いつもヘッドフォーンでレコードばかり聴いていた。その頃聴いていたのが、アレサ・フランクリンであり、ディオンヌだった。同級生がガールフレンドを作ったり、パーティーに興じている頃、彼はレコードを聴いていた。まさにこの頃から彼の人生はヘッドフォーンの中にあった。
孤独というキーワードは、ルーサー・ヴァンドロスの人生の中に常に寄り添っていた。しかし、その孤独さが、体重を増減させ、また、彼の唯一無比の悲恋ソングや叶わぬラヴソングを作る原動力となったにちがいない。
傑作アルバム『ネヴァー・トゥ・マッチ』(1981年)のアナログではB面の最後を飾ったのが、前述の「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」だった。バート・バカラック&ハル・デイヴィッドの名曲だ。恋人が去った後の家は、もう家じゃない、家庭ではない、という歌。「そこに椅子があっても、家ではない。家が(形として)あっても、そこに家庭はない。部屋があっても、しょせん部屋はただの部屋。部屋は家ではなく、家があっても家庭はない・・・」 ルーサーの部屋は、家庭にはならなかった。
+++++
■ルーサー・ヴァンドロスの『ネヴァー・トゥ・マッチ』のライナーノーツを近日中にアップします
■ルーサー・ヴァンドロスに関するソウル・サーチン日記
2003/04/25 (Fri)
Luther Vandross’ Condition Critical, But Stable
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030425.html
倒れた時の第一報。
2003/05/05 (Mon)
Luther Is Still Alive
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030505.html
2003/05/15
Luther Still Unconcious: But Mother Confident of Recovery
ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030515.html
2003/05/22 (Thu)
Aretha sung "Amazing Grace" for Luther
アレサ・フランクリン、「アメージング・グレイス」で全快の祈り 捧げる
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030522.html
2003/05/29 (Thu)
Promotional Talk
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030529.html
2003/06/13 (Fri)
Luther is out of his coma?
昏睡状態から脱す
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030613.html
2003/06/14 (Sat)
Now it’s official: Luther is out of ICU
集中治療室を出る
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030614.html
2003/06/20 (Fri)
Luther’s Album Made No.1 For The First Time In His Life
ルーサーの新作、アルバム・チャートに1位初登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030620.html
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father: Complete Japanese Translate Version
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」完全訳詞
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
NO.326
2003/07/19 (Sat)
The Power Of Love For Luther Vandross
ビデオに友人シンガーたち登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200307/diary20030719.html
2003/08/13 (Wed)
Luther: Because It Has His Soul In His Song
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030813.html
2003/09/05 (Fri)
Luther Live Album Due Next Month
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030905.html
2003/11/18 (Tue)
Luther Vandross’ First Live Album Ever: Love Story For 75 Minutes Long
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200311/diary20031118.html
2004/02/11 (Wed)
Another Side Of "Dance With My Father"
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」もうひとつの物語
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040211.html
July 02, 2005
Luther Vandross Died At 54
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_02.html
July 03, 2005
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_03.html
+++++
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
孤独。
ルーサー死去の衝撃は続く。イギリス人のソウル・ミュージック・ジャーナリスト、デイヴィッド・ネイサンが長文の追悼文を書いた。
http://www.soulmusic.com/luthervr.htm
ルーサーはアトランティック・レーベル傘下コティリオン・レーベルからグループ「ルーサー」として76年にデビュー。その時にネイサンがインタヴューをし、それ以来、仕事面でもプライヴェートでも二人は親しくなった。ネイサンがその30年近いルーサーとの思い出を語ったもの。
グループ、「ルーサー」が2枚のアルバムを出した後、契約がなくなり、一時期ネイサンはイギリスのレコード会社にルーサーのデモテープを売り込んだことがある。だが、それを聞いたディレクターは、イギリスのマーケットには「アメリカすぎる」と判断し、売込みを断った。
その後、ロバータ・フラックのツアーで、ロバータのマネージャーと知り合い、その人物がエピックのディレクター、ラーキン・アーノルドを紹介してくれた。アーノルドは、すぐにこのテープを気に入り、契約。そこで『ネヴァー・トゥ・マッチ』が生まれた。ここに収録された「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」を聴かされた時のネイサンの驚きは大変なものだった。ルーサーにとって、ディオンヌ、アレサ、ダイアナ・ロスは3大お気に入りのシンガー。そして、そのうちのひとりディオンヌの作品をカヴァーしたのである。
ルーサーも生涯独身で過ごした。デイヴィッド・ネイサンも独身ということで、人生について、恋について、独身であることについて、パーソナルな会話を何時間もしていたようだ。一時期、偶然にもネイサンとルーサーがニューヨークの同じアパートに住んでいたことも、二人を親しくさせた。
『ネヴァー・トゥ・マッチ』以降、ルーサーはさらに豪華なアパートに引越していったが、新作がでると、まっさきにネイサンに聞かせていた。
ルーサーは、いつでも、生涯のパートナーを見出したいと思っていた、という。つまり、結婚したいと思っていたのだ。彼は、自分の体重(太っていること)が、恋のじゃまになると思っていた。そこで、恋をすると、あるいは、好きな人ができると、痩せる。だが、その恋が成就しないとなると、やけ食いでまた太ってしまうという。その体重の増減は5-60キロあった。それは、彼の歴代のアルバムのジャケットを順に並べてみれば、明らかだ。痩せている時と太っている時が実に極端なのである。
また、彼の兄弟、親ともに、糖尿病を患っていた。糖尿病の家系なのだろう。それと体重も関係していた。そして、そこから心臓への負担があった。
ルーサーにはこんな現実があった。完璧なライヴをやって、何万の人を喜ばせても、ホテルの部屋に戻ってくれば、たったひとりだ。そして、そこで彼を待っているものは食べ物だけ。どうしても食べてしまう。
大学時代、彼はしばしニューヨークを離れミシガン州に行くが、その時も彼は孤独だった。シャイな彼は友達もできずに、いつもヘッドフォーンでレコードばかり聴いていた。その頃聴いていたのが、アレサ・フランクリンであり、ディオンヌだった。同級生がガールフレンドを作ったり、パーティーに興じている頃、彼はレコードを聴いていた。まさにこの頃から彼の人生はヘッドフォーンの中にあった。
孤独というキーワードは、ルーサー・ヴァンドロスの人生の中に常に寄り添っていた。しかし、その孤独さが、体重を増減させ、また、彼の唯一無比の悲恋ソングや叶わぬラヴソングを作る原動力となったにちがいない。
傑作アルバム『ネヴァー・トゥ・マッチ』(1981年)のアナログではB面の最後を飾ったのが、前述の「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」だった。バート・バカラック&ハル・デイヴィッドの名曲だ。恋人が去った後の家は、もう家じゃない、家庭ではない、という歌。「そこに椅子があっても、家ではない。家が(形として)あっても、そこに家庭はない。部屋があっても、しょせん部屋はただの部屋。部屋は家ではなく、家があっても家庭はない・・・」 ルーサーの部屋は、家庭にはならなかった。
+++++
■ルーサー・ヴァンドロスの『ネヴァー・トゥ・マッチ』のライナーノーツを近日中にアップします
■ルーサー・ヴァンドロスに関するソウル・サーチン日記
2003/04/25 (Fri)
Luther Vandross’ Condition Critical, But Stable
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200304/diary20030425.html
倒れた時の第一報。
2003/05/05 (Mon)
Luther Is Still Alive
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030505.html
2003/05/15
Luther Still Unconcious: But Mother Confident of Recovery
ルーサー、依然 昏睡状態。母親は回復に自信
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030515.html
2003/05/22 (Thu)
Aretha sung "Amazing Grace" for Luther
アレサ・フランクリン、「アメージング・グレイス」で全快の祈り 捧げる
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030522.html
2003/05/29 (Thu)
Promotional Talk
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200305/diary20030529.html
2003/06/13 (Fri)
Luther is out of his coma?
昏睡状態から脱す
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030613.html
2003/06/14 (Sat)
Now it’s official: Luther is out of ICU
集中治療室を出る
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030614.html
2003/06/20 (Fri)
Luther’s Album Made No.1 For The First Time In His Life
ルーサーの新作、アルバム・チャートに1位初登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030620.html
2003/06/21 (Sat)
Dance With My Father: Complete Japanese Translate Version
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」完全訳詞
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200306/diary20030621.html
NO.326
2003/07/19 (Sat)
The Power Of Love For Luther Vandross
ビデオに友人シンガーたち登場
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200307/diary20030719.html
2003/08/13 (Wed)
Luther: Because It Has His Soul In His Song
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200308/diary20030813.html
2003/09/05 (Fri)
Luther Live Album Due Next Month
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200309/diary20030905.html
2003/11/18 (Tue)
Luther Vandross’ First Live Album Ever: Love Story For 75 Minutes Long
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200311/diary20031118.html
2004/02/11 (Wed)
Another Side Of "Dance With My Father"
「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」もうひとつの物語
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200402/diary20040211.html
July 02, 2005
Luther Vandross Died At 54
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_02.html
July 03, 2005
Luther Vandross Died At 54: Reunited After 46 Years With His Father
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_03.html
+++++
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
【フォー・トップスのレナルド・オービー・ベンソン69歳で死去】
死去。
モータウン・レコードでテンプテーションズと並び大きな人気を獲得したR&Bヴォーカル・グループ、フォー・トップスのオリジナル・メンバー4人のひとり、レナルド・オービー・ベンソンが、2005年7月1日(金)、デトロイトの病院で死去した。69歳だった。またフォー・トップスのオリジナル・メンバーのひとり、ロウレンス・ペイトンは、97年6月20日59歳で癌のために亡くなっている。
これによって、フォー・トップスのオリジナル・メンバーは二人になった。他の二人はリード・シンガーのリーヴァイ・スタッブスと、アブドゥール・デューク・ファキール。現在リーヴァイも体調を崩してツアーなど表立った活動はしておらず、グループはデューク・ファキールを中心に別メンバー(セオ・ピープルスとロニー・マクネアー)を加え3人で活動している。ペイトンが97年に死去してからしばらくは、グループはその名を「フォー・トップス」からシンプルに「トップス」に変えていた。
フォー・トップスは、デトロイトのハイスクール仲間だった4人(リーヴァイ、オービー、デューク、ロウレンス)によって1954年頃に結成された。当初はフォー・エイムスと名乗り、シカゴのチェス・レコードと契約。ヒットは生まれなかったが、まもなくフォー・トップスとなり、1963年に同じくデトロイトのモータウン・レコードに入社。64年同社から「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラヴィン」がヒットしたのを機に次々とヒットを放ち、テンプテーションズと並んでモータウンの二大大黒柱となった。
ヒット曲の多くは、リーヴァイ・スタッブスの張りのある声がリードをとっていたが、3人のコーラスも定評があった。彼ら4人は、1954年のグループ結成から一度もメンバー・チェンジをすることなく、1997年のロウレンス・ペイトンの死去までともに活動を続けた。テンプテーションズが頻繁にメンバーチェンジをしていたのと比べると、43年間の4人の絆には固いものがあった。
映画『永遠のモータウン』の原題「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン」は、フォー・トップスの66年12月からのヒット「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・ラヴ」から取られている。他に「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」、「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」などヒット多数。
またオービー・ベンソンはソングライターとしてもいくつか曲を書いている。「ホエン・トゥナイツ・ミーツ・トゥモロウ」「ターン・オン・ザ・ライト・オブ・ユア・ラヴ」などがあるが、友人のアル・クリーヴランドと1曲したためる。
オービーは、69年か70年頃、サンフランシスコで警官が反戦運動をしていた子供を殴りつけているところを目撃する。その子供は特に何をするでもなかったので、オービーは衝撃を受けた。この事件をきっかけに、彼は反戦運動、とりわけヴェトナム戦争について思いを寄せるようになった。なぜ民主主義の名の元に、黒人、白人、十代の若者、貧乏な連中が戦場に送られなければならなかったのか。そこで、クリーヴランドとともに、そうしたテーマをもった曲を作る。このメッセージソングをモータウンのアーティストに録音してもらおうと聞かせたが誰も録音しようとしなかった。彼が在籍していたフォー・トップスのメンバーさえも、メッセージ色が強すぎるとして、録音を見送った。
だが、一人だけ、この曲に大いなる興味をもったシンガーがいた。それがマーヴィン・ゲイだ。マーヴィンは彼の甥が1968年、ヴェトナムで戦死。またマーヴィンの弟が3回ヴェトナムに赴き、そこで目撃した戦争の悲惨さをマーヴィンに語っていた。マーヴィンは、この曲のイメージに共感、さらに曲に手を加え、録音。だが、やはりモータウン社長ベリー・ゴーディーは、この曲のメッセージの強さゆえリリースに反対した。それが「ホワッツ・ゴーイング・オン」だった。結局、マーヴィンの熱心な説得で、ゴーディーは仕方なくリリース。しかし、リリースされるや大ヒットになったのはご存知の通りだ。
フォー・トップスは、1990年に「ロックンロール殿堂」入りを果たしている。
(「ホワッツ・ゴーイング・オン」の部分、加筆。情報提供・守島さんに感謝です)
+++++
http://music.yahoo.com/read/news/21307459
’Obie’ Benson, of Four Tops, Dies at 69
07/01/2005 6:42 PM, AP
Mike Householder
Renaldo "Obie" Benson, a member of the legendary Motown singing group the Four Tops, died Friday. He was 69.
Benson died at a Detroit hospital, said the group’s road manager, Fred Bridges. His death also was confirmed by Craig Hankenson, president of Producers Inc., one of the agencies that books dates for the Four Tops.
"It was not unexpected. He has been ill," Hankenson said.
The Four Tops sold more than 50 million records and recorded hit songs such as "Baby I Need Your Loving," "Reach Out (I’ll be There)," "I Can’t Help Myself" and "Standing in the Shadows of Love."
Benson’s death leaves two surviving members of the original group: Levi Stubbs and Abdul "Duke" Fakir. The fourth original Top, Lawrence Payton, died of liver cancer in 1997.
They are members of the Rock and Roll Hall of Fame.
The Four Tops began singing together in the 1950s under the name the Four Aims and signed a deal with Chess Records. They later changed their names to the Four Tops.
The group signed with Motown Records in 1963 and produced a string of hits over the next decade, making music history with the other acts in Berry Gordy’s Motown lineup.
+++++
ENT>MUSIC>OBITUARY>Benson, "Obie", Renaldo>2005.07.01(69)
死去。
モータウン・レコードでテンプテーションズと並び大きな人気を獲得したR&Bヴォーカル・グループ、フォー・トップスのオリジナル・メンバー4人のひとり、レナルド・オービー・ベンソンが、2005年7月1日(金)、デトロイトの病院で死去した。69歳だった。またフォー・トップスのオリジナル・メンバーのひとり、ロウレンス・ペイトンは、97年6月20日59歳で癌のために亡くなっている。
これによって、フォー・トップスのオリジナル・メンバーは二人になった。他の二人はリード・シンガーのリーヴァイ・スタッブスと、アブドゥール・デューク・ファキール。現在リーヴァイも体調を崩してツアーなど表立った活動はしておらず、グループはデューク・ファキールを中心に別メンバー(セオ・ピープルスとロニー・マクネアー)を加え3人で活動している。ペイトンが97年に死去してからしばらくは、グループはその名を「フォー・トップス」からシンプルに「トップス」に変えていた。
フォー・トップスは、デトロイトのハイスクール仲間だった4人(リーヴァイ、オービー、デューク、ロウレンス)によって1954年頃に結成された。当初はフォー・エイムスと名乗り、シカゴのチェス・レコードと契約。ヒットは生まれなかったが、まもなくフォー・トップスとなり、1963年に同じくデトロイトのモータウン・レコードに入社。64年同社から「ベイビー・アイ・ニード・ユア・ラヴィン」がヒットしたのを機に次々とヒットを放ち、テンプテーションズと並んでモータウンの二大大黒柱となった。
ヒット曲の多くは、リーヴァイ・スタッブスの張りのある声がリードをとっていたが、3人のコーラスも定評があった。彼ら4人は、1954年のグループ結成から一度もメンバー・チェンジをすることなく、1997年のロウレンス・ペイトンの死去までともに活動を続けた。テンプテーションズが頻繁にメンバーチェンジをしていたのと比べると、43年間の4人の絆には固いものがあった。
映画『永遠のモータウン』の原題「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・モータウン」は、フォー・トップスの66年12月からのヒット「スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オブ・ラヴ」から取られている。他に「アイ・キャント・ヘルプ・マイセルフ」、「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」などヒット多数。
またオービー・ベンソンはソングライターとしてもいくつか曲を書いている。「ホエン・トゥナイツ・ミーツ・トゥモロウ」「ターン・オン・ザ・ライト・オブ・ユア・ラヴ」などがあるが、友人のアル・クリーヴランドと1曲したためる。
オービーは、69年か70年頃、サンフランシスコで警官が反戦運動をしていた子供を殴りつけているところを目撃する。その子供は特に何をするでもなかったので、オービーは衝撃を受けた。この事件をきっかけに、彼は反戦運動、とりわけヴェトナム戦争について思いを寄せるようになった。なぜ民主主義の名の元に、黒人、白人、十代の若者、貧乏な連中が戦場に送られなければならなかったのか。そこで、クリーヴランドとともに、そうしたテーマをもった曲を作る。このメッセージソングをモータウンのアーティストに録音してもらおうと聞かせたが誰も録音しようとしなかった。彼が在籍していたフォー・トップスのメンバーさえも、メッセージ色が強すぎるとして、録音を見送った。
だが、一人だけ、この曲に大いなる興味をもったシンガーがいた。それがマーヴィン・ゲイだ。マーヴィンは彼の甥が1968年、ヴェトナムで戦死。またマーヴィンの弟が3回ヴェトナムに赴き、そこで目撃した戦争の悲惨さをマーヴィンに語っていた。マーヴィンは、この曲のイメージに共感、さらに曲に手を加え、録音。だが、やはりモータウン社長ベリー・ゴーディーは、この曲のメッセージの強さゆえリリースに反対した。それが「ホワッツ・ゴーイング・オン」だった。結局、マーヴィンの熱心な説得で、ゴーディーは仕方なくリリース。しかし、リリースされるや大ヒットになったのはご存知の通りだ。
フォー・トップスは、1990年に「ロックンロール殿堂」入りを果たしている。
(「ホワッツ・ゴーイング・オン」の部分、加筆。情報提供・守島さんに感謝です)
+++++
http://music.yahoo.com/read/news/21307459
’Obie’ Benson, of Four Tops, Dies at 69
07/01/2005 6:42 PM, AP
Mike Householder
Renaldo "Obie" Benson, a member of the legendary Motown singing group the Four Tops, died Friday. He was 69.
Benson died at a Detroit hospital, said the group’s road manager, Fred Bridges. His death also was confirmed by Craig Hankenson, president of Producers Inc., one of the agencies that books dates for the Four Tops.
"It was not unexpected. He has been ill," Hankenson said.
The Four Tops sold more than 50 million records and recorded hit songs such as "Baby I Need Your Loving," "Reach Out (I’ll be There)," "I Can’t Help Myself" and "Standing in the Shadows of Love."
Benson’s death leaves two surviving members of the original group: Levi Stubbs and Abdul "Duke" Fakir. The fourth original Top, Lawrence Payton, died of liver cancer in 1997.
They are members of the Rock and Roll Hall of Fame.
The Four Tops began singing together in the 1950s under the name the Four Aims and signed a deal with Chess Records. They later changed their names to the Four Tops.
The group signed with Motown Records in 1963 and produced a string of hits over the next decade, making music history with the other acts in Berry Gordy’s Motown lineup.
+++++
ENT>MUSIC>OBITUARY>Benson, "Obie", Renaldo>2005.07.01(69)
【ルーサー・ヴァンドロス54歳で死去】
奇蹟。
ルーサー・ヴァンドロスの死去に関し、多くのエンタテインメント界からおくやみのメッセージがヴァンドロスの元に届いていている。クインシー・ジョーンズ、アレサ・フランクリン、スティーヴィー・ワンダー、ロバータ・フラックなどなどで、これ以後も多くの人々からおくやみが届いているだろう。
ヴァンドロスは、2003年4月16日にニューヨーク・マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ、数時間発見されずに倒れていたという。発見後すぐに病院に運ばれ緊急手術が行われたが、長く集中治療室にとどまったため、身体に麻痺が残った。生命を救うため、喉からチューブが挿入されたが、シンガーとしての命、声帯に傷をつけないよう最大級の注意が払われた。
6月18日、担当医はルーサーのリハビリテーション・センターへの移動のための退院を許可。ルーサーは、毎日5時間、エクソサイズ、車椅子の乗り降りの練習を続けた。当初、回復は劇的だったという。
そんなある日、ルーサーは母親に電話をかけてこう言った。「1曲、あなたのために歌いたいんだ」 「なんですって?」 母は驚いた。「『ソー・アメイジング』を歌いたいんだ」 これは母アイーダのお気に入りだった。
アイーダが言う。「この曲には私にとってとっても深い意味があるの。というのは、ルーサーがこれを姪の結婚式で歌ったから。彼はその姪をずっと可愛がっていて、育てるのを手伝った。そして、この曲を歌い終えて、彼が姪に向かって『アイ・ラヴ・ユー』と言った瞬間、彼女は泣き崩れた。その場にいたみんなが号泣したのよ」。生涯独身で子供がいなかったルーサーは、ことのほか姪や甥を可愛がったという。
ルーサーが歌おうとする前に、母アイーダは、「一緒に歌いましょうか」と尋ねた。記憶喪失が見られたルーサーが歌うのを手助けしようという心遣いだった。ルーサーは「ママ、ママが歌う前にはたくさん練習してもらわないとだめだ」と言って電話越しで歌い始めた。そして、ルーサーはその「ソー・アメイジング」を一字一句間違えずに最初から最後まで歌いきったのである。
同年5月からアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がキャリア中最大のヒットへなっていく。これは、彼自身が「シグネチャー・ソング(代表曲)」「キャリア・ソング(キャリアを代表する曲)」になったと大きな自信を持って世に送り出した作品だった。これはルーサーが8歳の時に死去した父親へ捧げた作品。母親は、これを聴いた時、たった8歳までの記憶しかないルーサー・ジュニアがよくこれほどまでの曲が書けたものだと驚嘆し、涙を流した作品でもあった。
このシングル・ヒットのおかげで、同アルバムは、彼の25年を越えるキャリアの中で初のアルバム・チャート1位を獲得。さらに、秋には、2003年2月のヴァレンタイン・デイに行われたライヴの模様を収めたライヴ・アルバムもリリース。
そして2004年2月、グラミー賞授賞式でビデオでメッセージを寄せ、受賞に大きな花を添えた。回復しなかった中での、ビデオメッセージは、今となっては奇蹟の声だったのかもしれない。
二人の姉、兄ひとりが先に旅立ち、ルーサーはアイーダに残された最後の子供だった。4人の子供を自分の死より以前に見送る母親の心境やいかなるものか。ファミリーのメンバーは、みな糖尿病をわずらっていたという。ルーサーもそうした家系の影響があったのだろう。体重の劇的な増減、糖尿病からくる心臓への負担、そうしたものが彼の命を短いものにした。
+++++
Chasing The Dream, Not Give Up
再会。
ルーサーは母親っ子だった。彼は4人兄弟の末っ子だったが、13歳の時、母と二人でブロンクスに引越し、生活を始めた。父親は既に他界、上の兄弟は独立していたので、母子の生活が始まった。ルーサーは、学校の親友フォンジ・ソーントンとバンドを組み、音楽活動を始める。彼の記憶では4回ほどアポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」に挑戦しているが、いずれも優勝にはいたっていない。だが、彼はまったくそのことにくじけることはなかった。
高校卒業後ルーサーは、ウエスタン・ミシガン大学に進学するが、友人もできず、音楽だけに没頭していた。結局、大学生活に嫌気がさした彼は、ドロップアウトを決意する。その時医学を目指していたルームメイトが大学に留まるように説得したが、これはこう宣言してミシガンを後にした。「なあ、君が医者になり、病気にかかった時には、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げ出すんじゃない。自分の夢を追いかけるんだ」。
彼のキャリアのターニング・ポイントはいくつもある。そのうちのひとつがロバータ・フラックとの出会いだ。ルーサーは、80年のロバータの全米ツアーにバックコーラスのひとりとして起用された。そして、そのバンド・メンバーに誰あろうニューヨークのベース奏者マーカス・ミラーがいたのだ。マーカスとルーサーは意気投合。「いつか何か一緒にやろう」ということになった。そして、これが81年の『ネヴァー・トゥ・マッチ』につながっていく。
マーカスとともに作ったデモ・テープの「ネヴァー・トゥ・マッチ」をルーサーがロバータに聞かせたところ、ロバータは涙を浮かべ、「もうあなたは、バックグラウンド(・シンガー)に甘んじていることはないわ。私が、あなたのキャリアをスタートさせるための人物を紹介しましょう」と言ったほどだった。
そして、81年7月、『ネヴァー・トゥ・マッチ』は満を持してリリースされ、大ヒットになる。以後、彼の作品は出せばヒットになっていった。彼は徐々に「ソングスタイリスト」としての名声を確立。他の誰もが真似できないスタイルを築いた。
果たして、彼が自宅で倒れた時、大学時代のルームメイトの元にリムジンを乗りつけることはなかったが、ルーサーはその時の夢を実現させたのである。
スモーキー・ロビンソンがかつてこう言った。「ヴォーカリスト数あれど、ルーサー・ヴァンドロスはただひとり。ルーサーの中に品格が光る。(There are vocalists, and then there’s Luther. Luther’s in a class by himself)」
8歳の時、父と別れたルーサー・ヴァンドロス・ジュニアは、46年ぶりに今、父ルーサー・ヴァンドロス・シニアと再会を果たしていることだろう。手土産は、もちろん、「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」のCD。父親が息子に言っている言葉が聞こえるかのようだ。「よく来たな。いい曲を書いてくれてありがとう」。今、天国で二人のルーサーの熱いハグ・・・。
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
奇蹟。
ルーサー・ヴァンドロスの死去に関し、多くのエンタテインメント界からおくやみのメッセージがヴァンドロスの元に届いていている。クインシー・ジョーンズ、アレサ・フランクリン、スティーヴィー・ワンダー、ロバータ・フラックなどなどで、これ以後も多くの人々からおくやみが届いているだろう。
ヴァンドロスは、2003年4月16日にニューヨーク・マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ、数時間発見されずに倒れていたという。発見後すぐに病院に運ばれ緊急手術が行われたが、長く集中治療室にとどまったため、身体に麻痺が残った。生命を救うため、喉からチューブが挿入されたが、シンガーとしての命、声帯に傷をつけないよう最大級の注意が払われた。
6月18日、担当医はルーサーのリハビリテーション・センターへの移動のための退院を許可。ルーサーは、毎日5時間、エクソサイズ、車椅子の乗り降りの練習を続けた。当初、回復は劇的だったという。
そんなある日、ルーサーは母親に電話をかけてこう言った。「1曲、あなたのために歌いたいんだ」 「なんですって?」 母は驚いた。「『ソー・アメイジング』を歌いたいんだ」 これは母アイーダのお気に入りだった。
アイーダが言う。「この曲には私にとってとっても深い意味があるの。というのは、ルーサーがこれを姪の結婚式で歌ったから。彼はその姪をずっと可愛がっていて、育てるのを手伝った。そして、この曲を歌い終えて、彼が姪に向かって『アイ・ラヴ・ユー』と言った瞬間、彼女は泣き崩れた。その場にいたみんなが号泣したのよ」。生涯独身で子供がいなかったルーサーは、ことのほか姪や甥を可愛がったという。
ルーサーが歌おうとする前に、母アイーダは、「一緒に歌いましょうか」と尋ねた。記憶喪失が見られたルーサーが歌うのを手助けしようという心遣いだった。ルーサーは「ママ、ママが歌う前にはたくさん練習してもらわないとだめだ」と言って電話越しで歌い始めた。そして、ルーサーはその「ソー・アメイジング」を一字一句間違えずに最初から最後まで歌いきったのである。
同年5月からアルバム『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がキャリア中最大のヒットへなっていく。これは、彼自身が「シグネチャー・ソング(代表曲)」「キャリア・ソング(キャリアを代表する曲)」になったと大きな自信を持って世に送り出した作品だった。これはルーサーが8歳の時に死去した父親へ捧げた作品。母親は、これを聴いた時、たった8歳までの記憶しかないルーサー・ジュニアがよくこれほどまでの曲が書けたものだと驚嘆し、涙を流した作品でもあった。
このシングル・ヒットのおかげで、同アルバムは、彼の25年を越えるキャリアの中で初のアルバム・チャート1位を獲得。さらに、秋には、2003年2月のヴァレンタイン・デイに行われたライヴの模様を収めたライヴ・アルバムもリリース。
そして2004年2月、グラミー賞授賞式でビデオでメッセージを寄せ、受賞に大きな花を添えた。回復しなかった中での、ビデオメッセージは、今となっては奇蹟の声だったのかもしれない。
二人の姉、兄ひとりが先に旅立ち、ルーサーはアイーダに残された最後の子供だった。4人の子供を自分の死より以前に見送る母親の心境やいかなるものか。ファミリーのメンバーは、みな糖尿病をわずらっていたという。ルーサーもそうした家系の影響があったのだろう。体重の劇的な増減、糖尿病からくる心臓への負担、そうしたものが彼の命を短いものにした。
+++++
Chasing The Dream, Not Give Up
再会。
ルーサーは母親っ子だった。彼は4人兄弟の末っ子だったが、13歳の時、母と二人でブロンクスに引越し、生活を始めた。父親は既に他界、上の兄弟は独立していたので、母子の生活が始まった。ルーサーは、学校の親友フォンジ・ソーントンとバンドを組み、音楽活動を始める。彼の記憶では4回ほどアポロ・シアターの「アマチュア・ナイト」に挑戦しているが、いずれも優勝にはいたっていない。だが、彼はまったくそのことにくじけることはなかった。
高校卒業後ルーサーは、ウエスタン・ミシガン大学に進学するが、友人もできず、音楽だけに没頭していた。結局、大学生活に嫌気がさした彼は、ドロップアウトを決意する。その時医学を目指していたルームメイトが大学に留まるように説得したが、これはこう宣言してミシガンを後にした。「なあ、君が医者になり、病気にかかった時には、僕は君のところにリムジンで乗りつけよう。僕は逃げ出すんじゃない。自分の夢を追いかけるんだ」。
彼のキャリアのターニング・ポイントはいくつもある。そのうちのひとつがロバータ・フラックとの出会いだ。ルーサーは、80年のロバータの全米ツアーにバックコーラスのひとりとして起用された。そして、そのバンド・メンバーに誰あろうニューヨークのベース奏者マーカス・ミラーがいたのだ。マーカスとルーサーは意気投合。「いつか何か一緒にやろう」ということになった。そして、これが81年の『ネヴァー・トゥ・マッチ』につながっていく。
マーカスとともに作ったデモ・テープの「ネヴァー・トゥ・マッチ」をルーサーがロバータに聞かせたところ、ロバータは涙を浮かべ、「もうあなたは、バックグラウンド(・シンガー)に甘んじていることはないわ。私が、あなたのキャリアをスタートさせるための人物を紹介しましょう」と言ったほどだった。
そして、81年7月、『ネヴァー・トゥ・マッチ』は満を持してリリースされ、大ヒットになる。以後、彼の作品は出せばヒットになっていった。彼は徐々に「ソングスタイリスト」としての名声を確立。他の誰もが真似できないスタイルを築いた。
果たして、彼が自宅で倒れた時、大学時代のルームメイトの元にリムジンを乗りつけることはなかったが、ルーサーはその時の夢を実現させたのである。
スモーキー・ロビンソンがかつてこう言った。「ヴォーカリスト数あれど、ルーサー・ヴァンドロスはただひとり。ルーサーの中に品格が光る。(There are vocalists, and then there’s Luther. Luther’s in a class by himself)」
8歳の時、父と別れたルーサー・ヴァンドロス・ジュニアは、46年ぶりに今、父ルーサー・ヴァンドロス・シニアと再会を果たしていることだろう。手土産は、もちろん、「ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー」のCD。父親が息子に言っている言葉が聞こえるかのようだ。「よく来たな。いい曲を書いてくれてありがとう」。今、天国で二人のルーサーの熱いハグ・・・。
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
(速報)ルーサー・ヴァンドロス死去
2005年7月2日(速報)ルーサー・ヴァンドロス死去
Luther Vandross Died At 54
繊細。
R&Bシンガーとして、70年代から活躍し、80年代に入り爆発的人気を獲得したルーサー・ヴァンドロスが、2005年7月1日(金)夜(日本時間2日午前)、ニュージャージー州エディソンのジョン・F・ケネディー病院で家族、友人に見守られながら静かに死去した。54歳だった。
ヴァンドロスは、2003年4月16日、マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ病院に運ばれ緊急手術をし、その後リハビリをしていた。ヴァンドロスが倒れた後、その直前までレコーディングしていた『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がリリースされ、大ヒット。同曲はグラミー賞「ソング・オブ・ジ・イヤー」などを獲得。2004年2月のそのグラミー賞授賞式では、ビデオテープでメッセージを寄せた。
そのメッセージは、弱々しかったが、声はあのルーサー節だった。彼は"Remember, when I say goodbye it’s never for long, Because ... I believe in the power of love.(万一、僕がさよならを言っても、覚えておいてくれ。僕は愛の力を信じている)"という彼の大ヒット「パワー・オブ・ラヴ」の一節を歌った。
声明を発表した医師によると、倒れた後、ルーサーはほとんど回復しなかったという。
ルーサー・ヴァンドロスは1951年4月20日ニューヨークのマンハッタン、ローワー・イーストサイド生まれ。ルーサー・ロンゾーニ・ヴァンドロス・ジュニア。74年、デイヴィッド・ボウイのバックコーラスとして抜擢され、ボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』(75年3月全米発売)に登場。以後、音楽シーンで徐々に頭角をあらわすようになった。76年、グループ「ルーサー」を結成、アルバム2枚を出しヒットを出すが、レーベルが自然消滅し、81年9月、ソロ・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスとして『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再出発。以後、出すアルバムをすべてヒットさせ、80年代から90年代を代表するR&Bシンガー、ヴォーカリストとなった。
ルーサーは、それまでの男性R&Bシンガーが、男らしさを強調するスタイルが主流だったのに対し、男性でも弱さがあること、時には女々しいとされることなどを実に繊細に歌に託し、女性ファンからも、また男性ファンからも圧倒的な支持を受けた。また、その瞬間でわかる独特のクラス(品)のある声と歌唱は、多くのルーサー・フォロワーを生み出した。
20年以上の親交があり、現在日本ツアー中のロバータ・フラックは、「彼は持っているものすべてをさらけだして、与えてくれるシンガーです。彼は本当に音楽をするために生まれてきたような人物でした」と述べた。
ルーサーの母、メアリー・ヴァンドロスにとって、ルーサーは4人の子供の末っ子。そして、上3人がすでに他界しており、ルーサーは「最後に残された子供」だった。
+++++
(詳細はまた後ほど)
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
Luther Vandross Died At 54
繊細。
R&Bシンガーとして、70年代から活躍し、80年代に入り爆発的人気を獲得したルーサー・ヴァンドロスが、2005年7月1日(金)夜(日本時間2日午前)、ニュージャージー州エディソンのジョン・F・ケネディー病院で家族、友人に見守られながら静かに死去した。54歳だった。
ヴァンドロスは、2003年4月16日、マンハッタンの自宅で脳梗塞で倒れ病院に運ばれ緊急手術をし、その後リハビリをしていた。ヴァンドロスが倒れた後、その直前までレコーディングしていた『ダンス・ウィズ・マイ・ファーザー』がリリースされ、大ヒット。同曲はグラミー賞「ソング・オブ・ジ・イヤー」などを獲得。2004年2月のそのグラミー賞授賞式では、ビデオテープでメッセージを寄せた。
そのメッセージは、弱々しかったが、声はあのルーサー節だった。彼は"Remember, when I say goodbye it’s never for long, Because ... I believe in the power of love.(万一、僕がさよならを言っても、覚えておいてくれ。僕は愛の力を信じている)"という彼の大ヒット「パワー・オブ・ラヴ」の一節を歌った。
声明を発表した医師によると、倒れた後、ルーサーはほとんど回復しなかったという。
ルーサー・ヴァンドロスは1951年4月20日ニューヨークのマンハッタン、ローワー・イーストサイド生まれ。ルーサー・ロンゾーニ・ヴァンドロス・ジュニア。74年、デイヴィッド・ボウイのバックコーラスとして抜擢され、ボウイのアルバム『ヤング・アメリカンズ』(75年3月全米発売)に登場。以後、音楽シーンで徐々に頭角をあらわすようになった。76年、グループ「ルーサー」を結成、アルバム2枚を出しヒットを出すが、レーベルが自然消滅し、81年9月、ソロ・シンガー、ルーサー・ヴァンドロスとして『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再出発。以後、出すアルバムをすべてヒットさせ、80年代から90年代を代表するR&Bシンガー、ヴォーカリストとなった。
ルーサーは、それまでの男性R&Bシンガーが、男らしさを強調するスタイルが主流だったのに対し、男性でも弱さがあること、時には女々しいとされることなどを実に繊細に歌に託し、女性ファンからも、また男性ファンからも圧倒的な支持を受けた。また、その瞬間でわかる独特のクラス(品)のある声と歌唱は、多くのルーサー・フォロワーを生み出した。
20年以上の親交があり、現在日本ツアー中のロバータ・フラックは、「彼は持っているものすべてをさらけだして、与えてくれるシンガーです。彼は本当に音楽をするために生まれてきたような人物でした」と述べた。
ルーサーの母、メアリー・ヴァンドロスにとって、ルーサーは4人の子供の末っ子。そして、上3人がすでに他界しており、ルーサーは「最後に残された子供」だった。
+++++
(詳細はまた後ほど)
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
【「何と書いたら」その6】
才能。
盲目であることは、ハンディ(障害)か。この一週間、そのこと、正確には航志くんのことばかり考えている。レイ・チャールズが成し遂げたこと、スティーヴィーが成し遂げていること、そして航志くんがこれから成し遂げるであろうこと。それらに思いを馳せるとき、盲目であることにさほど意味を見出さない。
逆に前向きに捉えれば、盲目であるがゆえにその他の五感が発達し、耳がよくなり、音楽の才能を伸ばす助けになったとも言えるだろう。盲目だったゆえに、音楽の才能の開花が他の人より早くなることもある。
ある人は絵を描く才能がある。ある人はスポーツをする才能がある。ある人は歌を歌う才能がある。だが、別の面での才能が欠けている人もいるかもしれない。絵は天才肌だが、社会的常識に欠け、待ち合わせに時間どおりに来ないとか。それは、常識を守る才能が欠けているからかもしれない。ある人は100メートルを10秒で走る才能を持っているかもしれないが、別の人はまったく絵が描けないかもしれない。
人はそれぞれ、さまざまな才能を持っている。すべてを兼ね備えている人は稀だ。何かの才能を持っている人は、別の才能がないことが多い。それが普通なのだ。
例えば、航志くんの場合、音楽の才能がずばぬけてある。だが、視力という才能が少し欠けている。視力0.01の近眼の人と比べて、彼の視力は0.0かもしれない。しかし、それとてわずか0.01の差なのだ。僕は音楽を聴く才能はあるかもしれないが、演奏したり歌ったりする才能はまったくない。僕の音楽の才能を1.0とすれば、航志くんの才能など10.0以上あるだろう。つまりその個人に何かの才能があるか、ないかというだけの話だ。
視力がないというのは、視力という才能が他の人より少ないだけのこと。耳もあれば、手足もあり、声という才能もある。したがって視力の才能がないことを「障害」と表現するのは、あたらない。腕がないということは、腕を動かす才能が他の人より少ないだけのことだ。仮にカラオケで音楽の才能がないために音痴でも、音楽の才能が少ないとはいえるかもしれないが、それを「音楽才能の障害」とは言わない。
仮に視力という才能がひとつなくても、他に多くの才能があれば、なんら問題はない。視力という才能があっても、注意力を持って歩かなければ、段差があるところで転ぶ。視力という才能がなくても、注意力を持って歩けば、段差があるところで、転ばずにすむ。ただそれだけのことだ。
人間のできること、人間の才能には多くの種類がある。しかし、その才能の多さ少なさにはでこぼこがある。ある人には、ある才能がたくさんあるが、別の才能はない。しかし、別の人には、また違った才能がある。人間は、各自の才能にでこぼこがあるから、個性が生まれる。皆と違うから個性が生まれる。全員が同じ才能のレベルだったら、クローン人間、ロボットのようでおもしろくないはずだ。そしてまた、ある特定の才能がずばぬけてある人に対して、その才能がない人があこがれるのも、自然な流れだ。
そして、もっと言えば、最近の言葉で紹介した千住明さんのこんな言葉が思い出される。「人間が持って生まれてくる元々の才能の差なんて、微々たるもの。だが、そこに(本人の)努力という掛け算をすると、とても大きな差になる」。
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_22.html
ひとつずば抜けた才能があれば、それだけで、素晴らしいことである。そんな一粒の才能が、本人の努力という掛け算をすることによって、はるか彼方への太く光り輝く栄光の道を作り出す。航志くん、迷うことはない。自信を持って、その栄光の道へ歩み出せ。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
才能。
盲目であることは、ハンディ(障害)か。この一週間、そのこと、正確には航志くんのことばかり考えている。レイ・チャールズが成し遂げたこと、スティーヴィーが成し遂げていること、そして航志くんがこれから成し遂げるであろうこと。それらに思いを馳せるとき、盲目であることにさほど意味を見出さない。
逆に前向きに捉えれば、盲目であるがゆえにその他の五感が発達し、耳がよくなり、音楽の才能を伸ばす助けになったとも言えるだろう。盲目だったゆえに、音楽の才能の開花が他の人より早くなることもある。
ある人は絵を描く才能がある。ある人はスポーツをする才能がある。ある人は歌を歌う才能がある。だが、別の面での才能が欠けている人もいるかもしれない。絵は天才肌だが、社会的常識に欠け、待ち合わせに時間どおりに来ないとか。それは、常識を守る才能が欠けているからかもしれない。ある人は100メートルを10秒で走る才能を持っているかもしれないが、別の人はまったく絵が描けないかもしれない。
人はそれぞれ、さまざまな才能を持っている。すべてを兼ね備えている人は稀だ。何かの才能を持っている人は、別の才能がないことが多い。それが普通なのだ。
例えば、航志くんの場合、音楽の才能がずばぬけてある。だが、視力という才能が少し欠けている。視力0.01の近眼の人と比べて、彼の視力は0.0かもしれない。しかし、それとてわずか0.01の差なのだ。僕は音楽を聴く才能はあるかもしれないが、演奏したり歌ったりする才能はまったくない。僕の音楽の才能を1.0とすれば、航志くんの才能など10.0以上あるだろう。つまりその個人に何かの才能があるか、ないかというだけの話だ。
視力がないというのは、視力という才能が他の人より少ないだけのこと。耳もあれば、手足もあり、声という才能もある。したがって視力の才能がないことを「障害」と表現するのは、あたらない。腕がないということは、腕を動かす才能が他の人より少ないだけのことだ。仮にカラオケで音楽の才能がないために音痴でも、音楽の才能が少ないとはいえるかもしれないが、それを「音楽才能の障害」とは言わない。
仮に視力という才能がひとつなくても、他に多くの才能があれば、なんら問題はない。視力という才能があっても、注意力を持って歩かなければ、段差があるところで転ぶ。視力という才能がなくても、注意力を持って歩けば、段差があるところで、転ばずにすむ。ただそれだけのことだ。
人間のできること、人間の才能には多くの種類がある。しかし、その才能の多さ少なさにはでこぼこがある。ある人には、ある才能がたくさんあるが、別の才能はない。しかし、別の人には、また違った才能がある。人間は、各自の才能にでこぼこがあるから、個性が生まれる。皆と違うから個性が生まれる。全員が同じ才能のレベルだったら、クローン人間、ロボットのようでおもしろくないはずだ。そしてまた、ある特定の才能がずばぬけてある人に対して、その才能がない人があこがれるのも、自然な流れだ。
そして、もっと言えば、最近の言葉で紹介した千住明さんのこんな言葉が思い出される。「人間が持って生まれてくる元々の才能の差なんて、微々たるもの。だが、そこに(本人の)努力という掛け算をすると、とても大きな差になる」。
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_05_22.html
ひとつずば抜けた才能があれば、それだけで、素晴らしいことである。そんな一粒の才能が、本人の努力という掛け算をすることによって、はるか彼方への太く光り輝く栄光の道を作り出す。航志くん、迷うことはない。自信を持って、その栄光の道へ歩み出せ。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
【「何と書いたら」その5】
必然の神。
2003年12月に埼玉アリーナのスティーヴィー・ワンダーのコンサート。その客席で見かけた十代の少年はスティーヴィーのように首を振りながら、聴いていた。「アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー」を一字一句同じように歌っていたが、ふと首を振った瞬間、彼が盲目であることに気づいた。
それから4ヵ月後、NHKのドキュメンタリーで鹿児島出身の歌を歌うシンガー・ソングライターであるその少年のことを知った。そこで、彼はスティーヴィーを歌い、ダニー・ハザウェイを歌っていた。「アメイジング・グレイス」の変貌に、そして、「ユーヴ・ガット・フレンド」の歌に驚嘆した。その映像の中で、少年と一緒に映っているプロデューサーの永島氏を発見した。彼のことは20年以上前から知っていたが、新しい会社に移ってからの連絡先は知らなかったので、必死に調べ、メールを送った。
その後、ライヴを2度見る機会を得た。その中で彼は「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌っていた。見た後、楽屋に行き握手をした。木下航志くんとの初めての接触だった。ライヴは、何でも歌えるその音楽的許容量の広さと、何でも吸収してしまう吸収力、成長力に驚かされた。彼が学生で、音楽活動は週末と夏休みなどに限られていること、ふだんは鹿児島にいることを知っていたので、まさか『ソウル・サーチン・トーキング』にでてもらえるなどとは夢にも思っていなかった。しかし、いろいろな話をするうちに彼がでてくれることになった。
一方、2001年4月から始まったラジオ番組『フィールン・ソウル』で、そのDJであるゴスペラーズの黒沢さんとは個人的にも仲良くさせていただくようになった。たまたまゴスペラーズが6月から比較的オフ気味なゆったりなスケジュールになること、こんなイヴェントをやっていて、レイ・チャールズをとりあげることを言ったら、ぜひ歌いたいということになった。レイ・チャールズの自伝『わが心のジョージア〜レイ・チャールズ物語』を3日で読破した黒沢さんである。
黒沢さんが来てくれることを航志くんに伝えると、彼は大喜びしたという。お母さんもゴスペラーズのファンであるとか、彼がゴスペラーズの鹿児島でのコンサートに行っていたことを知るのは、イヴェント当日のことである。
もし、スティーヴィーのコンサートで、僕が彼の斜め後ろの席に座らなければ、おそらく、彼のことを知るのはずっと後のことになっただろう。NHKの番組を見る機会もなかったかもしれない。もし、番組を見なければ、僕はそこに永島氏がいることを知らないのだから、接点は生まれなかっただろう。そして、僕がこの日記に航志くんのことを書かなければ、それを航志くんが読むこともなかっただろう。だが、すべて起こった。
もし、僕が番組の構成という仕事をしていなければ、黒沢さんを呼ぶこともできなかっただろう。彼ほどの多忙な売れっ子ミュージシャンが、たまたまスケジュールがオフ気味になっていなければ、絶対に1日この日のために時間を割いてくれることなど不可能だったろう。また、東京ほど多くのアーティストがライヴに訪れることもない鹿児島にやってきたゴスペラーズを見ていた航志くん親子。その2者がまったく予期せぬところで接点を持った。
スティーヴィーで出会った航志くんと、ソウル・サーチン・ギャングと黒沢さん、他のミュージシャンを結びつけたのは、他ならぬレイ・チャールズである。スティーヴィー、航志くん、レイ・チャールズ。見事なトライアングルがつながった。
本当に人と人との出会いは面白い。人と人がどんどんリンクしていく。そして、航志くんにはこれからもっともっと新たな出会いが訪れる航志くんを軸とするリンクの輪は、どんどんと増殖していくだろう。すべては、必然で動いている。起こることはすべて必然だ。航志くんには「音楽の神」が宿っているが、今回の『ソウル・サーチン・トーキング』には、そんな「必然の神」が宿ったのかもしれない。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
必然の神。
2003年12月に埼玉アリーナのスティーヴィー・ワンダーのコンサート。その客席で見かけた十代の少年はスティーヴィーのように首を振りながら、聴いていた。「アイ・ジャスト・コール・トゥ・セイ・アイ・ラヴ・ユー」を一字一句同じように歌っていたが、ふと首を振った瞬間、彼が盲目であることに気づいた。
それから4ヵ月後、NHKのドキュメンタリーで鹿児島出身の歌を歌うシンガー・ソングライターであるその少年のことを知った。そこで、彼はスティーヴィーを歌い、ダニー・ハザウェイを歌っていた。「アメイジング・グレイス」の変貌に、そして、「ユーヴ・ガット・フレンド」の歌に驚嘆した。その映像の中で、少年と一緒に映っているプロデューサーの永島氏を発見した。彼のことは20年以上前から知っていたが、新しい会社に移ってからの連絡先は知らなかったので、必死に調べ、メールを送った。
その後、ライヴを2度見る機会を得た。その中で彼は「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌っていた。見た後、楽屋に行き握手をした。木下航志くんとの初めての接触だった。ライヴは、何でも歌えるその音楽的許容量の広さと、何でも吸収してしまう吸収力、成長力に驚かされた。彼が学生で、音楽活動は週末と夏休みなどに限られていること、ふだんは鹿児島にいることを知っていたので、まさか『ソウル・サーチン・トーキング』にでてもらえるなどとは夢にも思っていなかった。しかし、いろいろな話をするうちに彼がでてくれることになった。
一方、2001年4月から始まったラジオ番組『フィールン・ソウル』で、そのDJであるゴスペラーズの黒沢さんとは個人的にも仲良くさせていただくようになった。たまたまゴスペラーズが6月から比較的オフ気味なゆったりなスケジュールになること、こんなイヴェントをやっていて、レイ・チャールズをとりあげることを言ったら、ぜひ歌いたいということになった。レイ・チャールズの自伝『わが心のジョージア〜レイ・チャールズ物語』を3日で読破した黒沢さんである。
黒沢さんが来てくれることを航志くんに伝えると、彼は大喜びしたという。お母さんもゴスペラーズのファンであるとか、彼がゴスペラーズの鹿児島でのコンサートに行っていたことを知るのは、イヴェント当日のことである。
もし、スティーヴィーのコンサートで、僕が彼の斜め後ろの席に座らなければ、おそらく、彼のことを知るのはずっと後のことになっただろう。NHKの番組を見る機会もなかったかもしれない。もし、番組を見なければ、僕はそこに永島氏がいることを知らないのだから、接点は生まれなかっただろう。そして、僕がこの日記に航志くんのことを書かなければ、それを航志くんが読むこともなかっただろう。だが、すべて起こった。
もし、僕が番組の構成という仕事をしていなければ、黒沢さんを呼ぶこともできなかっただろう。彼ほどの多忙な売れっ子ミュージシャンが、たまたまスケジュールがオフ気味になっていなければ、絶対に1日この日のために時間を割いてくれることなど不可能だったろう。また、東京ほど多くのアーティストがライヴに訪れることもない鹿児島にやってきたゴスペラーズを見ていた航志くん親子。その2者がまったく予期せぬところで接点を持った。
スティーヴィーで出会った航志くんと、ソウル・サーチン・ギャングと黒沢さん、他のミュージシャンを結びつけたのは、他ならぬレイ・チャールズである。スティーヴィー、航志くん、レイ・チャールズ。見事なトライアングルがつながった。
本当に人と人との出会いは面白い。人と人がどんどんリンクしていく。そして、航志くんにはこれからもっともっと新たな出会いが訪れる航志くんを軸とするリンクの輪は、どんどんと増殖していくだろう。すべては、必然で動いている。起こることはすべて必然だ。航志くんには「音楽の神」が宿っているが、今回の『ソウル・サーチン・トーキング』には、そんな「必然の神」が宿ったのかもしれない。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
【「何と書いたら」その4】
創造。
航志くんには、まずかつてライヴで聴いていた「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌ってもらいたかった。そして、もう1曲くらいレイの歌を歌ってもらえればなあ、と相談するが、時間的にまったくゼロから新曲を練習する時間はないという。そこで浮上したのが、レイも歌っているカヴァー曲からビートルズの「イエスタデイ」という曲。すぐにレイのCDを送って聴いてもらうが、航志くんはこの曲をすでに、ダニー・ハザウェイ・ヴァージョンで覚えていた。
そして、彼側からオリジナルを1曲披露したいということで、オリジナルが歌われることになった。こうして、「ジョージア」〜「オリジナル」〜「イエスタデイ」という3曲が決まった。
一方、黒沢さんは、のりのいい「アンチェイン・マイ・ハート」を希望。その中で、黒沢さんと航志くんのデュエットというのはあり得るのかというアイデアが浮上してきた。一期一会、どうなるか。まず航志くんが「喜んで」ということに。黒沢さんも、スケジュール的に自分もすでに歌える曲でデュエット曲がいいと快諾。そこで黒沢さんに選ばれた曲がスティーヴィーの「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」だった。
ところが、その後黒沢さんが航志くんのビデオを見たところ、そこで彼が歌っていた「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」がいいのでは、と提案され再度航志くんに尋ねると、まったく問題なしとの答えで、二人曲が「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」になった。
曲順、出番などを決め、第一部で航志くんが3曲。黒沢さんは、第二部で1曲歌い、その後航志くんを呼び込み二人で1曲(デュエット)ということになった。
そして、「アンチェイン・マイ・ハート」(黒沢さん)、「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」(デュエット)が終った後、航志くんがいきなり、「ここで、ジョイントを・・・」と言って、「誓い」が突然歌われたのだ。航志くんは地元の鹿児島でゴスペラーズのライヴに行っていて、CDもよく聴いていた。
しかし、航志くんは「誓い」も「永遠に」も、人前でやったことはなかった。ぶっつけ本番だ。当日夕方、全員が会って軽く流れの打ち合わせをしている時に、航志くんに「ゴスの曲なにか、歌えるの?」と尋ねるとその2曲は歌えると言っていた。だがその場では「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」を歌った後、最後の曲「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」になる予定だった。
それにしても突然で僕も驚いたし、誰よりも黒沢さんが驚いた。ベースの名村さんもあっけにとられている。完璧に航志くんがステージを支配した。こういうのを「ショウを盗む(steal the show)」というのだろう。そして、ローズの音の響きに彼が歌い始めると、まもなく黒沢さんが歌い始める。もちろん、リハなどなし。どっちがどこを歌うなどということも決めていない。しかし、見事なデュエットになっていく。こういう即興性が、ライヴの醍醐味だ。黒沢さんが一体どういう風に終えるのだろうかと何度も航志くんのほうを見るが、もちろん、航志くんは気がつかない。最後は航志くんが歌詞を引き取って無事終えた。しかし、よくこんなにうまくできちゃうものだ。この二人のデュエットを聴いていて胸が一杯になった。
よくミュージシャンたちは、何百回の練習よりも、1回の本番のほうが力がつく、という。航志くんの音に対する感性はずばぬけている。家で何度か歌っていたかもしれない「誓い」も、この日たった1回大勢の人前でやったことによって、彼はきっとこの曲を自分のものにしたはずだ。ひょっとしたらもっと練習して彼自身のライヴで歌うかもしれない。
そして、アンコールで全員で歌った「ホワッド・アイ・セイ」も、彼はこの日初めて人前でやったのだ。一週間ほどまえに、「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」と「ホワッド・アイ・セイ」を全員で歌うことにしたので、コーラスかサビのところだけ覚えておいてもらえればいいですよ、基本的には全部ケイリブが歌うから、と伝えておいた。サビのところだけなら、練習する必要もないので、忙しい彼に負担にならないだろうと考えたのだ。
だが、彼はこの2曲のCDを何度か聴いていて、すぐに覚えた。しかも、「ホワッド・アイ・セイ」に至っては、彼のローズの音から始まることになったのだ。これには僕もたまげた。しかも、途中でケイリブが「航志くん、プレイ・サム」と言われて、キーボードのソロまで披露したではないか。一体どうなってるんだ?
僕はプロデューサーの永島さんに尋ねた。「これ、(彼は)いつ練習したの?」 「ここに来る車でずっと聴いてたよ」 「えええっ、天才じゃないの」 「天才だ・・・」
僕はずっとステージの上で彼がローズを弾きながら歌うのを見ていた。ケイリブが歌う「ホワッド・アイ・セイ」は、過去3回の「ソウル・サーチン・トーキング」の彼の歌う作品の中で、一番熱かったのではないか。それは、航志くんの熱も、あるいは、黒沢さんの熱もケイリブに乗り移ったからだろう。これをミュージシャンシップという。
舞台でキーボードを弾きながら歌っている航志くんは、16歳。それを情報として知って、彼の姿を見ていると、16歳なのかと思うが、目をつぶって音だけを聴いていると、とても16歳には思えない。年齢というものがただの数字だということを感じる。一体これから、何が起こるのだろう。彼は絶対に僕らの想像以上のものを創造するに違いない。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
創造。
航志くんには、まずかつてライヴで聴いていた「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌ってもらいたかった。そして、もう1曲くらいレイの歌を歌ってもらえればなあ、と相談するが、時間的にまったくゼロから新曲を練習する時間はないという。そこで浮上したのが、レイも歌っているカヴァー曲からビートルズの「イエスタデイ」という曲。すぐにレイのCDを送って聴いてもらうが、航志くんはこの曲をすでに、ダニー・ハザウェイ・ヴァージョンで覚えていた。
そして、彼側からオリジナルを1曲披露したいということで、オリジナルが歌われることになった。こうして、「ジョージア」〜「オリジナル」〜「イエスタデイ」という3曲が決まった。
一方、黒沢さんは、のりのいい「アンチェイン・マイ・ハート」を希望。その中で、黒沢さんと航志くんのデュエットというのはあり得るのかというアイデアが浮上してきた。一期一会、どうなるか。まず航志くんが「喜んで」ということに。黒沢さんも、スケジュール的に自分もすでに歌える曲でデュエット曲がいいと快諾。そこで黒沢さんに選ばれた曲がスティーヴィーの「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」だった。
ところが、その後黒沢さんが航志くんのビデオを見たところ、そこで彼が歌っていた「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」がいいのでは、と提案され再度航志くんに尋ねると、まったく問題なしとの答えで、二人曲が「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」になった。
曲順、出番などを決め、第一部で航志くんが3曲。黒沢さんは、第二部で1曲歌い、その後航志くんを呼び込み二人で1曲(デュエット)ということになった。
そして、「アンチェイン・マイ・ハート」(黒沢さん)、「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」(デュエット)が終った後、航志くんがいきなり、「ここで、ジョイントを・・・」と言って、「誓い」が突然歌われたのだ。航志くんは地元の鹿児島でゴスペラーズのライヴに行っていて、CDもよく聴いていた。
しかし、航志くんは「誓い」も「永遠に」も、人前でやったことはなかった。ぶっつけ本番だ。当日夕方、全員が会って軽く流れの打ち合わせをしている時に、航志くんに「ゴスの曲なにか、歌えるの?」と尋ねるとその2曲は歌えると言っていた。だがその場では「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」を歌った後、最後の曲「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」になる予定だった。
それにしても突然で僕も驚いたし、誰よりも黒沢さんが驚いた。ベースの名村さんもあっけにとられている。完璧に航志くんがステージを支配した。こういうのを「ショウを盗む(steal the show)」というのだろう。そして、ローズの音の響きに彼が歌い始めると、まもなく黒沢さんが歌い始める。もちろん、リハなどなし。どっちがどこを歌うなどということも決めていない。しかし、見事なデュエットになっていく。こういう即興性が、ライヴの醍醐味だ。黒沢さんが一体どういう風に終えるのだろうかと何度も航志くんのほうを見るが、もちろん、航志くんは気がつかない。最後は航志くんが歌詞を引き取って無事終えた。しかし、よくこんなにうまくできちゃうものだ。この二人のデュエットを聴いていて胸が一杯になった。
よくミュージシャンたちは、何百回の練習よりも、1回の本番のほうが力がつく、という。航志くんの音に対する感性はずばぬけている。家で何度か歌っていたかもしれない「誓い」も、この日たった1回大勢の人前でやったことによって、彼はきっとこの曲を自分のものにしたはずだ。ひょっとしたらもっと練習して彼自身のライヴで歌うかもしれない。
そして、アンコールで全員で歌った「ホワッド・アイ・セイ」も、彼はこの日初めて人前でやったのだ。一週間ほどまえに、「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」と「ホワッド・アイ・セイ」を全員で歌うことにしたので、コーラスかサビのところだけ覚えておいてもらえればいいですよ、基本的には全部ケイリブが歌うから、と伝えておいた。サビのところだけなら、練習する必要もないので、忙しい彼に負担にならないだろうと考えたのだ。
だが、彼はこの2曲のCDを何度か聴いていて、すぐに覚えた。しかも、「ホワッド・アイ・セイ」に至っては、彼のローズの音から始まることになったのだ。これには僕もたまげた。しかも、途中でケイリブが「航志くん、プレイ・サム」と言われて、キーボードのソロまで披露したではないか。一体どうなってるんだ?
僕はプロデューサーの永島さんに尋ねた。「これ、(彼は)いつ練習したの?」 「ここに来る車でずっと聴いてたよ」 「えええっ、天才じゃないの」 「天才だ・・・」
僕はずっとステージの上で彼がローズを弾きながら歌うのを見ていた。ケイリブが歌う「ホワッド・アイ・セイ」は、過去3回の「ソウル・サーチン・トーキング」の彼の歌う作品の中で、一番熱かったのではないか。それは、航志くんの熱も、あるいは、黒沢さんの熱もケイリブに乗り移ったからだろう。これをミュージシャンシップという。
舞台でキーボードを弾きながら歌っている航志くんは、16歳。それを情報として知って、彼の姿を見ていると、16歳なのかと思うが、目をつぶって音だけを聴いていると、とても16歳には思えない。年齢というものがただの数字だということを感じる。一体これから、何が起こるのだろう。彼は絶対に僕らの想像以上のものを創造するに違いない。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
【「何と書いたら」(その3)】
コネクト。
たとえば、いいライヴを見たと思う時。それは、ミュージシャンがものすごく上手で、すばらしいパフォーマンスを見せた時。あるいは、ミュージシャンと観客がその場の同じ空気を吸い、一体感を生み出した時ということもあるでしょう。
「ソウル・サーチン・トーキング」に参加した方々から感想のメールなどをいくつかいただいたのですが、ひじょうに興味深いものがありました。
わかりやすくまとめると、こういうことです。「ソウル・サーチンに参加して、ライヴっていいな、と思いました。もちろん、ライヴがよかったのはもちろんなのですが、それ以上のものが感じられたからです。よく一体感があってよかったというライヴがあります。それは、アーティストと観客がひとつの場所にいて、同じ空気を吸い、アーティストと観客が音楽の元にひとつになる感覚です。ただ、アーティストは舞台の上、観客は観客席にいて、実質的には離れています。でも、アーティストと観客が実際に握手をすれば、手のぬくもりが伝わってきます。温度が感じられます。相手のソウルが手から伝わってきます。昨日のソウル・サーチンのアーティストからは、あたかも実際に握手をされたような、一体感以上のつながりのようなものを感じました。航志くん、黒沢さん、ケイリブ、太田さん、名村さん、みな私の手にぬくもりを残していきました。ありがとうございます」
まさに、アーティストと観客がコネクトした瞬間。R&Bコネクトです。それは、ソウル・トゥ・ソウル(ソウルとソウルのつながり。ソウル同士)の瞬間ともいえますね。以前、ピアニストの上原ひろみさんが、ミュージシャンシップについて、どのようなアーティストとでも、コネクトさえすれば、一緒にライヴをできる、というようなことを明言し、感銘を受けたことがあります。
上原ひろみ・ライヴ評(コネクトすれば、についても)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200312/diary20031202.html
確かに、今回の木下くんのライヴ、最後の「ホワッド・アイ・セイ」の木下くん、黒沢さん、ケイリブたちの掛け合いの部分など、まず、ミュージシャン同士ががっちりコネクトしていました。そして、そのコネクトの塊がおそらく、観客席に次々と投げつけられで、それを観客が受け取ったのでしょう。
「ホワッド・アイ・セイ」は、よく考えてみれば、16歳の木下くんが、イントロを始め、42歳(?)のケイリブがその後を引き受け、30代の太田さん、黒沢さんらが堂々とパフォーマンスを見せたわけです。年齢とか人種とか出身地などまったく関係なく、ひとつのステージでひとつの曲を一緒に楽しみながら演奏する。しかも、その日初めて会った人たちが、音楽という共通言語で、ひとつになる。そして、そのコネクトぶりが、観客に伝わり観客が感動する。これぞ、音楽の力と言えるでしょう。
アーティストと実際に握手をしたような感触を持ったライヴ。これ以上のお褒めの言葉はありません。ありがとうございます。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
コネクト。
たとえば、いいライヴを見たと思う時。それは、ミュージシャンがものすごく上手で、すばらしいパフォーマンスを見せた時。あるいは、ミュージシャンと観客がその場の同じ空気を吸い、一体感を生み出した時ということもあるでしょう。
「ソウル・サーチン・トーキング」に参加した方々から感想のメールなどをいくつかいただいたのですが、ひじょうに興味深いものがありました。
わかりやすくまとめると、こういうことです。「ソウル・サーチンに参加して、ライヴっていいな、と思いました。もちろん、ライヴがよかったのはもちろんなのですが、それ以上のものが感じられたからです。よく一体感があってよかったというライヴがあります。それは、アーティストと観客がひとつの場所にいて、同じ空気を吸い、アーティストと観客が音楽の元にひとつになる感覚です。ただ、アーティストは舞台の上、観客は観客席にいて、実質的には離れています。でも、アーティストと観客が実際に握手をすれば、手のぬくもりが伝わってきます。温度が感じられます。相手のソウルが手から伝わってきます。昨日のソウル・サーチンのアーティストからは、あたかも実際に握手をされたような、一体感以上のつながりのようなものを感じました。航志くん、黒沢さん、ケイリブ、太田さん、名村さん、みな私の手にぬくもりを残していきました。ありがとうございます」
まさに、アーティストと観客がコネクトした瞬間。R&Bコネクトです。それは、ソウル・トゥ・ソウル(ソウルとソウルのつながり。ソウル同士)の瞬間ともいえますね。以前、ピアニストの上原ひろみさんが、ミュージシャンシップについて、どのようなアーティストとでも、コネクトさえすれば、一緒にライヴをできる、というようなことを明言し、感銘を受けたことがあります。
上原ひろみ・ライヴ評(コネクトすれば、についても)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200312/diary20031202.html
確かに、今回の木下くんのライヴ、最後の「ホワッド・アイ・セイ」の木下くん、黒沢さん、ケイリブたちの掛け合いの部分など、まず、ミュージシャン同士ががっちりコネクトしていました。そして、そのコネクトの塊がおそらく、観客席に次々と投げつけられで、それを観客が受け取ったのでしょう。
「ホワッド・アイ・セイ」は、よく考えてみれば、16歳の木下くんが、イントロを始め、42歳(?)のケイリブがその後を引き受け、30代の太田さん、黒沢さんらが堂々とパフォーマンスを見せたわけです。年齢とか人種とか出身地などまったく関係なく、ひとつのステージでひとつの曲を一緒に楽しみながら演奏する。しかも、その日初めて会った人たちが、音楽という共通言語で、ひとつになる。そして、そのコネクトぶりが、観客に伝わり観客が感動する。これぞ、音楽の力と言えるでしょう。
アーティストと実際に握手をしたような感触を持ったライヴ。これ以上のお褒めの言葉はありません。ありがとうございます。
(2005年6月26日日曜、ソウル・サーチン・トーキングVol.4〜レイ・チャールズ=目黒ブルースアレー)
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
【「何と書いたら」その2】
(その1からの続き)
スパーク。
第二部は、ケイリブのソロから始まりました。ケイリブが選んだ曲が、前にも書いた「ベイビー・グランド」。ビリー・ジョエルの曲で、ビリーがレイとデュエットしたものです。ケイリブのピアノの弾き語りにぴったりの作品。この曲、次の「ユー・ドント・ノウ・ミー」もしっとりした曲で、彼がこういうのをやると、ほんとうにうまい。当日は、「白眉ですね」とコメントしてしまった。まさに、ケイリブ、憧れのピアノマンですね。「ベイビー・グランド」は、「ユー・ドント・ノウ・ミー」を元に作ったのではないかと思われるほど曲調が似ています。
「ユー・ドント・ノウ・ミー」は、元々カントリーのシンガー、エディー・アーノルドの1956年のヒットです。レイ自身のものは、62年にヒットし、2004年の遺作『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』では、ダイアナ・クラールとデュエットで再録音しています。また、映画『レイ』の没シーンで、白人の兵隊とレイが一緒に歌い意気投合する「エニータイム」という曲もエディー・アーノルドの持ち歌。
そして、映像で、クリント・イーストウッド監督の『ピアノ・ブルース』の冒頭、映画『ブルース・ブラザース』から「シェイク・ユア・テイル・フェザー」。イーストウッドとレイ・チャールズは同じ年。大のジャズ好き、音楽好きのイーストウッドが自分のあこがれのレイ・チャールズにインタヴューする様子はとてもいい感じ。「シェイク・・・」では、たくさんのダンサーが通りで踊りますが、これを監督したジョン・ランディスはこうした派手なダンスシーンを後にマイケル・ジャクソンの「スリラー」などで再現します。もちろん、もとをたどれば、『ウェストサイド・ストーリー』までさかのぼれますが。
「シェイク・・・」の中では、レイがキーボードの前で弾きながら歌いますが、アップになった時、彼のダークなサングラスに目の前の鍵盤が映りこむシーンが3箇所ほどある。まさに、このシーンこそ、映画『レイ』の冒頭のシーンのヒントとなったところです。(この話はするのを忘れた)
そして、スペシャル・ゲスト第2弾。レイ・チャールズは、ゴスペルとブルース、カントリー、ジャズなどあらゆる音楽をミックスして、独自のソウル・ミュージックというものを作り上げました。日本でゴスペルといえば、その名前をグループ名につけた5人組がいます。(ここで拍手) 昨年10周年をむかえ、もはや円熟味を増してきたゴスペラーズから黒沢薫さん!
これは、僕にとってもかなりサプライズでした。超売れっ子の黒沢さんが実際に来てくれるなんて夢のようです。黒沢さんは、レイ・チャールズの作品から「アンチェイン・マイ・ハート」を選びました。アップテンポで、雰囲気あってます。リハの時からいつになく黒っぽさがでてました。ケイリブのピアノ、サックスの太田剣さんのバックにあわせてファンキーに「アンチェイン・マイ・ハート」。黒沢さんのソウル・カヴァーは『フィール・ン・ソウル』時代でもすっかりおなじみでしたが、レイの曲はそういえば、レパートリーにはなかったように記憶しています。新鮮でした。
黒沢さんが学生時代アルバイトをしていた喫茶店で、ずっとレイ・チャールズがかかっていたという思い出話を披露し、その頃、聴いた1曲ということで、「アンチェイン・マイ・ハート」が選ばれました。
そして、歌い終わったところで黒沢さんが、一部の木下航志くんのことを「すごいねえ」と話し始めました。「じゃあ、二人で何か1曲、やっていただきましょうか」ということで、木下くん再登場。当初、黒沢+木下・デュエット構想は、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」で行こうかということだったのですが、黒沢さんが、木下くんのNHKの番組(『響けぼくの歌 〜木下航志 14歳の旅立ち〜』)を見て、「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」をやりたいと思い、急遽前日に変更になりました。
『響けぼくの歌 〜木下航志 14歳の旅立ち〜』について
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200404/diary20040430.html
木下くんがローズのところに座り、黒沢さんが横に立ち、「僕が女役になってもいいんですが・・・(笑) さきほどの『イエスタデイ』が、航志くんにダニーが降りてきていたので、元々はキャロル・キングが書いた曲を一緒にやろうかと。『ユーヴ・ガット・ア・フレンド』です」(歓声)と説明。
ローズでやる木下くんの、時々でてくる「あ〜〜」とか「う〜」という歌声が、すごい。ソウルの片鱗がある。深みのある声だからかなあ。
「ユーヴ・ガット・・・」を終えて、しばし話していると、木下くんが突然「では〜」と言って割り込んできた。「何、航志くん?」 「せっかくですから、ここでジョイントでも」と言って、彼が「誓い」を歌うと言い出したのです。僕も、黒沢さんも、周囲もびっくり。結局やることになり、木下くんのローズ(エレキ・ピアノ)のシンプルなバックで彼が歌い始め、それに黒沢さんが重なって歌い始めました。ローズのシンプルな響きに、二人の歌声が会場を包み込む。途中、2パートのハーモニーみたいになった。これなど、リハなし。航志くんもこの曲を人前で歌うのは初めてだという。プロデューサーの永島氏も、「たぶん、うちで好きで歌っていたんじゃないか」と推測した。会場の中で、ちょっと泣いている人もいたように見受けられた。マジックだ。
そして、最後の曲「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」を全員で。僕はコメントで「レイ・チャールズの89年のアルバム、Qズ・ジュークジョイント」って言ってしまったのですが、正しくはクインシー・ジョーンズの『Qズ・ジュークジョイント』です。頭の中ではクインシーと言ってるのに、口からはレイ・チャールズって言ってるんですね。困ったもんだ。
挨拶をして、アンコール。これは全員で「ホワッド・アイ・セイ」。ケイリブが歌詞を歌い、コーラス、アドリブをそれぞれがやる。曲の始まりは、航志くんのローズから。いやあ、まいった。ケイリブが「航志くん、プレイ・サム!」と叫ぶと、彼がローズでソロを弾く。また、サビの部分になると、航志くんのアドリブの「あ〜〜」とか、「お〜〜」という掛け声がケイリブにどんどん触発されてか、ソウルフルになっていく。ケイリブが「クロサワ、シング・サム!」、「ズズズ〜、あ〜〜〜、ダバダバ〜〜」と声でアドリブ。最後は、ゴスペルのコール&レスポンスのごとくの掛け合いになりました。ケイリブ、クロサワ、コーシの3人の「イッツ・オールライト」の繰り返し部分は、どんどん高揚していく。
終りそうで、終らない、エキサイトな7分57秒。これはまさに音楽の元にミュージシャンがひとつになり、ミュージシャンシップがスパークした瞬間でした。すごい瞬間に立ち会えてよかった。この瞬間に立ち会えた約130人の人は、かなりラッキーだったように思えます。
参加していただいたミュージシャンのみなさん、観客のみなさん、ありがとうございました。
(続く)
SOUL SEARCHIN’ TALKING VOL.4 2005.06.26 At Blues Alley
Setlist
Part 2=
show started 21:22
M07 Baby Grand (Kaleb solo)
M08 You Don’t Know Me (Kaleb Solo)
Talk
Video (Piano Blues, Blues Brothers: Shake Your Tail Feather)
Talk
M09 Unchain My Heart (Kurosawa Kaoru & Kaleb, Ohta Ken)
M10 You’ve Got A Friend (Kurosawa Kaoru & Kishita Koshi)
Talk
M11 Chikai (Kurosawa Kaoru & Kishita Koshi)
M12 I’ll Be Good To You (All, Kaleb lead, Kurosawa, Kishita, Ohta, …
(その1からの続き)
スパーク。
第二部は、ケイリブのソロから始まりました。ケイリブが選んだ曲が、前にも書いた「ベイビー・グランド」。ビリー・ジョエルの曲で、ビリーがレイとデュエットしたものです。ケイリブのピアノの弾き語りにぴったりの作品。この曲、次の「ユー・ドント・ノウ・ミー」もしっとりした曲で、彼がこういうのをやると、ほんとうにうまい。当日は、「白眉ですね」とコメントしてしまった。まさに、ケイリブ、憧れのピアノマンですね。「ベイビー・グランド」は、「ユー・ドント・ノウ・ミー」を元に作ったのではないかと思われるほど曲調が似ています。
「ユー・ドント・ノウ・ミー」は、元々カントリーのシンガー、エディー・アーノルドの1956年のヒットです。レイ自身のものは、62年にヒットし、2004年の遺作『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』では、ダイアナ・クラールとデュエットで再録音しています。また、映画『レイ』の没シーンで、白人の兵隊とレイが一緒に歌い意気投合する「エニータイム」という曲もエディー・アーノルドの持ち歌。
そして、映像で、クリント・イーストウッド監督の『ピアノ・ブルース』の冒頭、映画『ブルース・ブラザース』から「シェイク・ユア・テイル・フェザー」。イーストウッドとレイ・チャールズは同じ年。大のジャズ好き、音楽好きのイーストウッドが自分のあこがれのレイ・チャールズにインタヴューする様子はとてもいい感じ。「シェイク・・・」では、たくさんのダンサーが通りで踊りますが、これを監督したジョン・ランディスはこうした派手なダンスシーンを後にマイケル・ジャクソンの「スリラー」などで再現します。もちろん、もとをたどれば、『ウェストサイド・ストーリー』までさかのぼれますが。
「シェイク・・・」の中では、レイがキーボードの前で弾きながら歌いますが、アップになった時、彼のダークなサングラスに目の前の鍵盤が映りこむシーンが3箇所ほどある。まさに、このシーンこそ、映画『レイ』の冒頭のシーンのヒントとなったところです。(この話はするのを忘れた)
そして、スペシャル・ゲスト第2弾。レイ・チャールズは、ゴスペルとブルース、カントリー、ジャズなどあらゆる音楽をミックスして、独自のソウル・ミュージックというものを作り上げました。日本でゴスペルといえば、その名前をグループ名につけた5人組がいます。(ここで拍手) 昨年10周年をむかえ、もはや円熟味を増してきたゴスペラーズから黒沢薫さん!
これは、僕にとってもかなりサプライズでした。超売れっ子の黒沢さんが実際に来てくれるなんて夢のようです。黒沢さんは、レイ・チャールズの作品から「アンチェイン・マイ・ハート」を選びました。アップテンポで、雰囲気あってます。リハの時からいつになく黒っぽさがでてました。ケイリブのピアノ、サックスの太田剣さんのバックにあわせてファンキーに「アンチェイン・マイ・ハート」。黒沢さんのソウル・カヴァーは『フィール・ン・ソウル』時代でもすっかりおなじみでしたが、レイの曲はそういえば、レパートリーにはなかったように記憶しています。新鮮でした。
黒沢さんが学生時代アルバイトをしていた喫茶店で、ずっとレイ・チャールズがかかっていたという思い出話を披露し、その頃、聴いた1曲ということで、「アンチェイン・マイ・ハート」が選ばれました。
そして、歌い終わったところで黒沢さんが、一部の木下航志くんのことを「すごいねえ」と話し始めました。「じゃあ、二人で何か1曲、やっていただきましょうか」ということで、木下くん再登場。当初、黒沢+木下・デュエット構想は、「ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」で行こうかということだったのですが、黒沢さんが、木下くんのNHKの番組(『響けぼくの歌 〜木下航志 14歳の旅立ち〜』)を見て、「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」をやりたいと思い、急遽前日に変更になりました。
『響けぼくの歌 〜木下航志 14歳の旅立ち〜』について
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200404/diary20040430.html
木下くんがローズのところに座り、黒沢さんが横に立ち、「僕が女役になってもいいんですが・・・(笑) さきほどの『イエスタデイ』が、航志くんにダニーが降りてきていたので、元々はキャロル・キングが書いた曲を一緒にやろうかと。『ユーヴ・ガット・ア・フレンド』です」(歓声)と説明。
ローズでやる木下くんの、時々でてくる「あ〜〜」とか「う〜」という歌声が、すごい。ソウルの片鱗がある。深みのある声だからかなあ。
「ユーヴ・ガット・・・」を終えて、しばし話していると、木下くんが突然「では〜」と言って割り込んできた。「何、航志くん?」 「せっかくですから、ここでジョイントでも」と言って、彼が「誓い」を歌うと言い出したのです。僕も、黒沢さんも、周囲もびっくり。結局やることになり、木下くんのローズ(エレキ・ピアノ)のシンプルなバックで彼が歌い始め、それに黒沢さんが重なって歌い始めました。ローズのシンプルな響きに、二人の歌声が会場を包み込む。途中、2パートのハーモニーみたいになった。これなど、リハなし。航志くんもこの曲を人前で歌うのは初めてだという。プロデューサーの永島氏も、「たぶん、うちで好きで歌っていたんじゃないか」と推測した。会場の中で、ちょっと泣いている人もいたように見受けられた。マジックだ。
そして、最後の曲「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」を全員で。僕はコメントで「レイ・チャールズの89年のアルバム、Qズ・ジュークジョイント」って言ってしまったのですが、正しくはクインシー・ジョーンズの『Qズ・ジュークジョイント』です。頭の中ではクインシーと言ってるのに、口からはレイ・チャールズって言ってるんですね。困ったもんだ。
挨拶をして、アンコール。これは全員で「ホワッド・アイ・セイ」。ケイリブが歌詞を歌い、コーラス、アドリブをそれぞれがやる。曲の始まりは、航志くんのローズから。いやあ、まいった。ケイリブが「航志くん、プレイ・サム!」と叫ぶと、彼がローズでソロを弾く。また、サビの部分になると、航志くんのアドリブの「あ〜〜」とか、「お〜〜」という掛け声がケイリブにどんどん触発されてか、ソウルフルになっていく。ケイリブが「クロサワ、シング・サム!」、「ズズズ〜、あ〜〜〜、ダバダバ〜〜」と声でアドリブ。最後は、ゴスペルのコール&レスポンスのごとくの掛け合いになりました。ケイリブ、クロサワ、コーシの3人の「イッツ・オールライト」の繰り返し部分は、どんどん高揚していく。
終りそうで、終らない、エキサイトな7分57秒。これはまさに音楽の元にミュージシャンがひとつになり、ミュージシャンシップがスパークした瞬間でした。すごい瞬間に立ち会えてよかった。この瞬間に立ち会えた約130人の人は、かなりラッキーだったように思えます。
参加していただいたミュージシャンのみなさん、観客のみなさん、ありがとうございました。
(続く)
SOUL SEARCHIN’ TALKING VOL.4 2005.06.26 At Blues Alley
Setlist
Part 2=
show started 21:22
M07 Baby Grand (Kaleb solo)
M08 You Don’t Know Me (Kaleb Solo)
Talk
Video (Piano Blues, Blues Brothers: Shake Your Tail Feather)
Talk
M09 Unchain My Heart (Kurosawa Kaoru & Kaleb, Ohta Ken)
M10 You’ve Got A Friend (Kurosawa Kaoru & Kishita Koshi)
Talk
M11 Chikai (Kurosawa Kaoru & Kishita Koshi)
M12 I’ll Be Good To You (All, Kaleb lead, Kurosawa, Kishita, Ohta, …
【ソウル・サーチン・トーキング第4回・報告「何と書いたら」その1】
サプライズ。
『ソウル・サーチン・トーキング第4回〜レイ・チャールズ』無事終了しました。ご来場いただいた方、ありがとうございます。そして、ご参加いただいたミュージシャン、アーティストのみなさま、改めて感謝です。回を重ねるごとに規模が大きくなるというか、ゲストも多彩になってきて、ひじょうに充実した内容になりました。
今、いったい何から書いていいか、わからないほど、ちょっと充実していて、放心状態です。(笑) この報告も、タイトル、今決めました。「何と書いたら(その1)」。
今回はまず、ソウル・サーチン・トーキング・レジデント・パーフォーマー、ケイリブ・ジェームスに、サックスの太田剣さんが加わりました。いつもは、ピアノの弾き語りですが、サックスが入るとさすがに雰囲気が変わりますね。
そして、スペシャルゲスト第一弾。実は、ソウル・サーチン、これまでたまたま3回とも木曜日に行っていたんですが、今回は日曜日になりました。これには理由があったのです。このスペシャル・ゲストに来ていただくために、どうしても土日でなければなりませんでした。なぜなら、彼はまだ高校生で月曜から金曜まで学校に行っているからです。しかも、鹿児島の学校に。
はるばる鹿児島からおいでいただきました。木下航志くん! 以前、航志くんのライヴを見た時に、彼が「ジョージア・オン・マインド」をやっていたので、レイのソウル・サーチンをやるという時にぜひお願いしたいな、と思っていたのでした。その相談をプロデューサーの永島さんにしたところ、ぜひやりたいといっていただき実現しました。
僕が、今回日曜にソウル・サーチンを開かなければならなかった理由を説明し、「なぜなら、彼がまだ学生だからです」と言ったら、そこで拍手が来ました。名前を呼び上げると、ひときわ大きな拍手が会場を覆いました。ベースの名村さんに導かれステージにあがるまで、ずっと拍手は続きました。観客の中で、彼のことを知っている人は半分くらいだったようですが、知らない人も、一体ここで何が起こるのかという期待にあふれていたと思います。しかし、航志くんは、リハの時と比べて、ちょっと緊張気味のようでした。「ちょっと充電が切れていて・・・」と言って一気に会場の空気をつかみました。
「ジョージア・オン・マイ・マインド」、それからオリジナル曲「通り雨」、さらにレイ・チャールズも歌っている「イエスタデイ」へ。これを終えて、航志くんは言った。「『イエスタデイ』は、なぜか前回ソウル・サーチンでやったダニー・ハザウェイが降りてきちゃいました」 (受ける) 最近はどうやら、このソウル・サーチン・ダイアリーを毎日のように読んでいるらしい、と聞いたので、そのことを尋ねた。「そうなんですよ。音が出る携帯で見てます。最近の携帯は、お利口さんで・・・(笑) いつも、おもしろいなと思って、ひひひひなんていいながらみてます」とのお答え。いやあ、航志くんのほうがおもしろいよ! (笑)
そして、約20分押して、「ソウル・サーチン・トーキング、その1」は航志フィーヴァーの中、終了。
(その2に続く)
+++++
SOUL SEARCHIN’ TALKING VOL.4 2005.06.26 At Blues Alley
Setlist
Part 1
show started 19:44
Video (CNN News; Ray Charles Died At 73, 2004.6.10)
M01 Hard Times (Kaleb & Ohta Ken)
Talk
M02 Let The Good Times Roll (Kaleb & Ohta Ken)
M03 I’ve Got A Woman (Kaleb & Ohta Ken)
Talk
Video(Awards Video; Golden Glove, Academy, Grammy "Georgia
On My Mind": Alicia Keys & Jamie Fox with Quincy Jones conducting)
Talk
Video [Movie "Ray" Deleted Scene])
M04 Georgia On My Mind (Kishita Kohshi & Namura Takeshi)
M05 Toori Ame (Passing Rain) (Kishita Kohshi & Namura Takeshi)
M06 Yesterday (Kishita Kohshi & Namura Takeshi)
show ended 21:02
=Break=
+++++
木下航志単独ライヴ、東京・大阪で開催
■木下航志・ライヴのお知らせ
「木下航志&His friends Live 2005"Clear Sailing Vol.2"」
【大阪公演】
日 程:2005年8月22日(月)
会 場:学校法人 キャットミュージックカレッジ専門学校
本館CATホール(本館最上階)
住 所:〒564-0062大阪府吹田市垂水町3-29-18
アクセス:地下鉄御堂筋線「江坂」駅A階段1号出口より徒歩3分
開場時間:18:30
開演時間:19:00
前売チケット:お一人様 2000円(税込)
当日チケット:お一人様 2500円(税込)
※ 全席指定席
【東京公演】
日 程:2005年8月24日(水)
会 場:DUO MUSIC EXCHANGE
住 所:東京都渋谷区道玄坂2−14−8
アクセス:渋谷駅ハチ公口より徒歩10分。
SHIBUYA109の左横通り「道玄坂」を直進。
右側角の回転寿司「台所屋」を右折 突き当たりを道なりに右折。
地図はこちらをご参照ください。http://www.duomusicexchange.com/
開場時間:18:00
開演時間:19:00
前売チケット:お一人様 2000円(税込)
当日チケット:お一人様 2500円(税込)
※指定席(指定席が完売となった場合はスタンディング(立ち見)でのご案内とさせていただきます。)
東京公演 一般 発売情報〔インターネット先行予約発売はありません〕
チケットは6月27日〔月〕より下記アドレスで販売開始いたします。
【6/27(月) 10:00AM 〜 受付】
●イープラス http://eee.eplus.co.jp/kishitakohshi/
お問い合わせ:フィルター・インク 03−5456−8088
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
サプライズ。
『ソウル・サーチン・トーキング第4回〜レイ・チャールズ』無事終了しました。ご来場いただいた方、ありがとうございます。そして、ご参加いただいたミュージシャン、アーティストのみなさま、改めて感謝です。回を重ねるごとに規模が大きくなるというか、ゲストも多彩になってきて、ひじょうに充実した内容になりました。
今、いったい何から書いていいか、わからないほど、ちょっと充実していて、放心状態です。(笑) この報告も、タイトル、今決めました。「何と書いたら(その1)」。
今回はまず、ソウル・サーチン・トーキング・レジデント・パーフォーマー、ケイリブ・ジェームスに、サックスの太田剣さんが加わりました。いつもは、ピアノの弾き語りですが、サックスが入るとさすがに雰囲気が変わりますね。
そして、スペシャルゲスト第一弾。実は、ソウル・サーチン、これまでたまたま3回とも木曜日に行っていたんですが、今回は日曜日になりました。これには理由があったのです。このスペシャル・ゲストに来ていただくために、どうしても土日でなければなりませんでした。なぜなら、彼はまだ高校生で月曜から金曜まで学校に行っているからです。しかも、鹿児島の学校に。
はるばる鹿児島からおいでいただきました。木下航志くん! 以前、航志くんのライヴを見た時に、彼が「ジョージア・オン・マインド」をやっていたので、レイのソウル・サーチンをやるという時にぜひお願いしたいな、と思っていたのでした。その相談をプロデューサーの永島さんにしたところ、ぜひやりたいといっていただき実現しました。
僕が、今回日曜にソウル・サーチンを開かなければならなかった理由を説明し、「なぜなら、彼がまだ学生だからです」と言ったら、そこで拍手が来ました。名前を呼び上げると、ひときわ大きな拍手が会場を覆いました。ベースの名村さんに導かれステージにあがるまで、ずっと拍手は続きました。観客の中で、彼のことを知っている人は半分くらいだったようですが、知らない人も、一体ここで何が起こるのかという期待にあふれていたと思います。しかし、航志くんは、リハの時と比べて、ちょっと緊張気味のようでした。「ちょっと充電が切れていて・・・」と言って一気に会場の空気をつかみました。
「ジョージア・オン・マイ・マインド」、それからオリジナル曲「通り雨」、さらにレイ・チャールズも歌っている「イエスタデイ」へ。これを終えて、航志くんは言った。「『イエスタデイ』は、なぜか前回ソウル・サーチンでやったダニー・ハザウェイが降りてきちゃいました」 (受ける) 最近はどうやら、このソウル・サーチン・ダイアリーを毎日のように読んでいるらしい、と聞いたので、そのことを尋ねた。「そうなんですよ。音が出る携帯で見てます。最近の携帯は、お利口さんで・・・(笑) いつも、おもしろいなと思って、ひひひひなんていいながらみてます」とのお答え。いやあ、航志くんのほうがおもしろいよ! (笑)
そして、約20分押して、「ソウル・サーチン・トーキング、その1」は航志フィーヴァーの中、終了。
(その2に続く)
+++++
SOUL SEARCHIN’ TALKING VOL.4 2005.06.26 At Blues Alley
Setlist
Part 1
show started 19:44
Video (CNN News; Ray Charles Died At 73, 2004.6.10)
M01 Hard Times (Kaleb & Ohta Ken)
Talk
M02 Let The Good Times Roll (Kaleb & Ohta Ken)
M03 I’ve Got A Woman (Kaleb & Ohta Ken)
Talk
Video(Awards Video; Golden Glove, Academy, Grammy "Georgia
On My Mind": Alicia Keys & Jamie Fox with Quincy Jones conducting)
Talk
Video [Movie "Ray" Deleted Scene])
M04 Georgia On My Mind (Kishita Kohshi & Namura Takeshi)
M05 Toori Ame (Passing Rain) (Kishita Kohshi & Namura Takeshi)
M06 Yesterday (Kishita Kohshi & Namura Takeshi)
show ended 21:02
=Break=
+++++
木下航志単独ライヴ、東京・大阪で開催
■木下航志・ライヴのお知らせ
「木下航志&His friends Live 2005"Clear Sailing Vol.2"」
【大阪公演】
日 程:2005年8月22日(月)
会 場:学校法人 キャットミュージックカレッジ専門学校
本館CATホール(本館最上階)
住 所:〒564-0062大阪府吹田市垂水町3-29-18
アクセス:地下鉄御堂筋線「江坂」駅A階段1号出口より徒歩3分
開場時間:18:30
開演時間:19:00
前売チケット:お一人様 2000円(税込)
当日チケット:お一人様 2500円(税込)
※ 全席指定席
【東京公演】
日 程:2005年8月24日(水)
会 場:DUO MUSIC EXCHANGE
住 所:東京都渋谷区道玄坂2−14−8
アクセス:渋谷駅ハチ公口より徒歩10分。
SHIBUYA109の左横通り「道玄坂」を直進。
右側角の回転寿司「台所屋」を右折 突き当たりを道なりに右折。
地図はこちらをご参照ください。http://www.duomusicexchange.com/
開場時間:18:00
開演時間:19:00
前売チケット:お一人様 2000円(税込)
当日チケット:お一人様 2500円(税込)
※指定席(指定席が完売となった場合はスタンディング(立ち見)でのご案内とさせていただきます。)
東京公演 一般 発売情報〔インターネット先行予約発売はありません〕
チケットは6月27日〔月〕より下記アドレスで販売開始いたします。
【6/27(月) 10:00AM 〜 受付】
●イープラス http://eee.eplus.co.jp/kishitakohshi/
お問い合わせ:フィルター・インク 03−5456−8088
ENT>MUSIC>EVENT>Soul Searchin’ Talking Vol.4
【いよいよ今日ソウル・サーチン・トーキングVOL.4】
準備万端。
いよいよ『ソウル・サーチン・トーキングVol.4』が本日行われる。編集したヴィデオ素材、選曲、曲順など、だいたい決まり、台本・進行表もやっとできた。予約で席はだいたいいっぱいになってしまったようだが、目黒のブルースアレーは比較的、立ち見の余裕があるので、まだ来られる方は大丈夫だと思う。
レイ・チャールズというひとりのソウル・シンガーにスポットをあてて、その業績、彼が成し遂げたことなどを簡単に紹介し、彼が作った音楽を現在のミュージシャンが再現する。予約のお問合せの中で、「ソウル・ミュージックのことをよく知らない初心者なのですが」とか「ひとりで行っても大丈夫でしょうか」というものがあった。大丈夫です。まったく問題ありません。
「ソウルミュージック」のことを知らなくても、レイ・チャールズのことを知らなくても、楽しめます。ソウルミュージックの魅力、ソウルミュージックのすばらしさ、ソウルミュージック の力をトークとライヴ音楽でご紹介するイヴェント『ソウル・サーチン・トーキン グ』です。誰ひとりとして、おいてきぼりにしませんから、ご安心ください。
これまでのソウルサーチンは、平日(木曜日)に行ってきた。だが、今回は日曜日になった。初の日曜日、また、前回よりも会場が大きくなっている。一体、どうなるだろうか。僕自身が一番楽しみにしている。参加される方は、ぜひお楽しみください。また、いらっしゃれない方は明日以降のレポートなどをお待ちください。
当日、いらっしゃりたい方は、直接ブルースアレーのほうにお問合せください。
ブルースアレーお店の番号03-5496-4381
詳細は
http://www.soulsearchin.com/event/talking/talking20050626.html
準備万端。
いよいよ『ソウル・サーチン・トーキングVol.4』が本日行われる。編集したヴィデオ素材、選曲、曲順など、だいたい決まり、台本・進行表もやっとできた。予約で席はだいたいいっぱいになってしまったようだが、目黒のブルースアレーは比較的、立ち見の余裕があるので、まだ来られる方は大丈夫だと思う。
レイ・チャールズというひとりのソウル・シンガーにスポットをあてて、その業績、彼が成し遂げたことなどを簡単に紹介し、彼が作った音楽を現在のミュージシャンが再現する。予約のお問合せの中で、「ソウル・ミュージックのことをよく知らない初心者なのですが」とか「ひとりで行っても大丈夫でしょうか」というものがあった。大丈夫です。まったく問題ありません。
「ソウルミュージック」のことを知らなくても、レイ・チャールズのことを知らなくても、楽しめます。ソウルミュージックの魅力、ソウルミュージックのすばらしさ、ソウルミュージック の力をトークとライヴ音楽でご紹介するイヴェント『ソウル・サーチン・トーキン グ』です。誰ひとりとして、おいてきぼりにしませんから、ご安心ください。
これまでのソウルサーチンは、平日(木曜日)に行ってきた。だが、今回は日曜日になった。初の日曜日、また、前回よりも会場が大きくなっている。一体、どうなるだろうか。僕自身が一番楽しみにしている。参加される方は、ぜひお楽しみください。また、いらっしゃれない方は明日以降のレポートなどをお待ちください。
当日、いらっしゃりたい方は、直接ブルースアレーのほうにお問合せください。
ブルースアレーお店の番号03-5496-4381
詳細は
http://www.soulsearchin.com/event/talking/talking20050626.html
It Was A Long Day:
2005年6月25日【密度の濃い1日】
ロングデイ。
昨日はかなりきつい1日だった。まず、雑誌ブリオ用の取材をひとつ。次号で赤坂ムゲンについて書くのだが、その取材の一環で、ゴールデンカップスのマモル・マヌーさんに話をうかがった。場所が赤坂ミラクル。ちょっと緊張した。マモルさんが終った後、川畑さんとしばし雑談。その後すぐに青山のスタジオで、7月から始まる新番組のナレーション録り。それを終えた後、トクの番組の収録。
トクの番組については前にも書いたが、ジャズやAORっぽいもの、スタンダードから古いポップスまで幅広くかけているが、なかなか選曲がいい。で、それが終った後、トクに今日はどこ行くの、と尋ねると、なんと高田馬場のコットンクラブに行くという。前から一度行ってみたいと思っていたので、もう一件用事をすませていこうかな、と考える。
もう一件の用事は、26日のソウル・サーチン・トーキングで使用するヴィデオを編集したものをDVDに焼いてもらっていて、それを受け取るという件。編集は立ち会っていたのだが、焼く時間が足りなくなり、あとでやってもらっていたものだ。そこで、恵比寿で無事それを受け取ったのだが・・・。
恵比寿・金曜夜・・・といえば、はい、キムカツです。ちょうおなかがすいていたので、又、行ってしまいました。すいません。12時過ぎ、並ぶことはなかったが、店内はほぼ満員。オッシー曰く「これね、金・土やってるの知れ渡ったら、絶対、この時間帯でも並びになっちゃうんじゃないですかねえ〜」。
そこに某放送作家K氏より電話。「今どこ? 今から、ラーメン、食べ行こうよ〜」。ちょうどキムカツ食べ終えたところで、「もう食えないよ〜」。そういえば、先週の金曜のこんな時間帯も彼から電話があった。そして、「なんで、(キムカツ)誘ってくんないのよ〜」とどつかれたことを思い出した。
オッシーとは解散し、K氏を誘い、高田馬場へ直行することに。早稲田通り沿いにあるなかなか大きな感じのいい店だった。コットンクラブ。名前がいい。ライヴを見せるのは、地下一階。天井が高くて気持ちいい。この日は、ジャムセッションの日で、ミュージシャンやシンガーが好き好きにセッションに参加していいという。トクが比較的リーダーシップをとって、いろいろやっていた。トクの仲間と、そこに来ている連中が自由気ままにジャムセッションをしている。腕試しするにはとてもいい場所だ。
今度7月にフランクリンでピアノを弾いてくれるジョージ君と、そのジョージ君と別のライヴハウスで一緒に歌って来たという泉さんが仲間と来ていて、僕たちがちょうど店に入っていったら、彼がピアノを弾いていた。彼らが一番前の席に座っていたので、そこに座ってライヴを楽しんだ。
Kが言った。「いやあ、遅れてきた僕のために、みんなでこんなに素晴らしい演奏してくれるなんて、感激したよ〜」 君のためだけにやってるんじゃないっ。すると彼は続けた。「これって、歌とか楽器とか、何でも参加していいんだ。じゃあ、僕はダンスでエントリーしようかな」 ジャズにあわせて、ムーンウォークでもしなさい。なお、彼は熱狂的なマイケル・ジャクソン・ファンである。そして、外に出ると夜は白々としていた。今日は、ロング・デイだった。
ロングデイ。
昨日はかなりきつい1日だった。まず、雑誌ブリオ用の取材をひとつ。次号で赤坂ムゲンについて書くのだが、その取材の一環で、ゴールデンカップスのマモル・マヌーさんに話をうかがった。場所が赤坂ミラクル。ちょっと緊張した。マモルさんが終った後、川畑さんとしばし雑談。その後すぐに青山のスタジオで、7月から始まる新番組のナレーション録り。それを終えた後、トクの番組の収録。
トクの番組については前にも書いたが、ジャズやAORっぽいもの、スタンダードから古いポップスまで幅広くかけているが、なかなか選曲がいい。で、それが終った後、トクに今日はどこ行くの、と尋ねると、なんと高田馬場のコットンクラブに行くという。前から一度行ってみたいと思っていたので、もう一件用事をすませていこうかな、と考える。
もう一件の用事は、26日のソウル・サーチン・トーキングで使用するヴィデオを編集したものをDVDに焼いてもらっていて、それを受け取るという件。編集は立ち会っていたのだが、焼く時間が足りなくなり、あとでやってもらっていたものだ。そこで、恵比寿で無事それを受け取ったのだが・・・。
恵比寿・金曜夜・・・といえば、はい、キムカツです。ちょうおなかがすいていたので、又、行ってしまいました。すいません。12時過ぎ、並ぶことはなかったが、店内はほぼ満員。オッシー曰く「これね、金・土やってるの知れ渡ったら、絶対、この時間帯でも並びになっちゃうんじゃないですかねえ〜」。
そこに某放送作家K氏より電話。「今どこ? 今から、ラーメン、食べ行こうよ〜」。ちょうどキムカツ食べ終えたところで、「もう食えないよ〜」。そういえば、先週の金曜のこんな時間帯も彼から電話があった。そして、「なんで、(キムカツ)誘ってくんないのよ〜」とどつかれたことを思い出した。
オッシーとは解散し、K氏を誘い、高田馬場へ直行することに。早稲田通り沿いにあるなかなか大きな感じのいい店だった。コットンクラブ。名前がいい。ライヴを見せるのは、地下一階。天井が高くて気持ちいい。この日は、ジャムセッションの日で、ミュージシャンやシンガーが好き好きにセッションに参加していいという。トクが比較的リーダーシップをとって、いろいろやっていた。トクの仲間と、そこに来ている連中が自由気ままにジャムセッションをしている。腕試しするにはとてもいい場所だ。
今度7月にフランクリンでピアノを弾いてくれるジョージ君と、そのジョージ君と別のライヴハウスで一緒に歌って来たという泉さんが仲間と来ていて、僕たちがちょうど店に入っていったら、彼がピアノを弾いていた。彼らが一番前の席に座っていたので、そこに座ってライヴを楽しんだ。
Kが言った。「いやあ、遅れてきた僕のために、みんなでこんなに素晴らしい演奏してくれるなんて、感激したよ〜」 君のためだけにやってるんじゃないっ。すると彼は続けた。「これって、歌とか楽器とか、何でも参加していいんだ。じゃあ、僕はダンスでエントリーしようかな」 ジャズにあわせて、ムーンウォークでもしなさい。なお、彼は熱狂的なマイケル・ジャクソン・ファンである。そして、外に出ると夜は白々としていた。今日は、ロング・デイだった。
【ルーサーさんは肉を食べない】
(昨日の続き)
フリーズ。
「ツナさんに誘われてね。いやあ、こういうのって誘われると、普通『行きます』って言っても、なかなかいかないでしょう。で、誘ったほうも来ると思ってない。だから、その裏をかいて、驚かせようと思って来てみました」とますます低音とスキンヘッドに磨きをかけたルーサーさんが事も無げに言った。実際、ルーサーさんがお店に入ってきた時、ツナさんはかなりびっくりしたらしい。
それにしても、彼の低く響く声は美しい。そしてきらきら輝く頭も美しい。「ルーサーさん、その声っていつからですか?」 「小学校6年の時からです。ある朝、起きたら突然、こうなってました。ぜんぜん前兆もなくね。だから、最初は(自分でも)わからなかったんですよ。親に言われて初めて気がついたんです」 「ああ、じゃあバリー・ホワイトと一緒だ」 「あ、そうなんですか」 「バリーもある朝起きたら突然こんな低い声になっていて、どうしたのかびっくりしたそうです」
彼の在籍するリアル・ブラッドは現在ジェイ公山さんがしばし離れているために3人組のグループ、スロットになっている。「どうなるんでしょう」と尋ねると「まだわかりませんが、とりあえず3人で何か録音してみようか」という話をしているそうだ。
最初はジェイさん(バリトン・ボイス)が担当していた部分をリーダーであるブラザー・トムさんがやろうということになっていたが、いつの間にか、ルーサーさん、シルキーさん、トムさんの3人で分担しようということになった。僕が、「それって、ひょっとしてトムさんが、歌詞覚えるのめんどくさくて、3人で分けたんじゃないですか」と尋ねると、「そうかもしれません(苦笑)」との答え。時々、どっちがやるのかわからなくなって、(ステージで)目と目が合って、止まってしまうこともあるという。
ところで、イヴェント会場ネイキッド・ロフトの前に「とんかつ三裕」という看板があり、目に入った。「三裕」といえば、あのキムカツをそもそも始めたとんかつ屋さんだ。だが、新宿にあるとはでていなかった。同名異店、あるいはのれんわけか。(実際はキムカツとは関係ないみたいですね) で、しばしキムカツの話題になり、ル―サーさんに「とんかつとか食べますか」と聞くと、「僕、肉ぜんぜんだめなんです」との意外な答え。その昔、水疱瘡(みずぼうそう)だったかになって、それもかなり重症で、直った後に体質が劇的に変化してしまった、という。それでその病気が直った後に、何も知らずに肉を食べたら、いきなり蕁麻疹(じんましん)がでてしまい、それ以来食べられるなくなった、そうだ。牛も豚も、鳥も、ジンギスカンも、おまけに鯨なんかもだめだそうだ。もちろん、ハンバーグもだめ。ということは、フランクリンのハンバーガーもNGか。
「じゃあ、お肉はお嫌いですか」と尋ねると、これ以上ないといったほど困った顔をして、「大好きなんですよ」との答え。「だから、この辺(やたらと焼肉店などが乱立し、焼肉の匂いが立ち込めているエリア)歩くとつらいんですよ〜〜」 ルーサーさんは、昔このあたりをクラシックを歌いながら流していたという。
ルーサー市村さんのウェッブ
http://www.luther-net.com/
リアル・ブラッドはご存知の通り全国各地を回っているが、都市によってお客さんの反応が違うという話になった。概して大阪、関西全般、九州はのりがいいが、東北がちょっと弱いという。一度、郡山でディナーショウをやった時のことだ。観客はみな食事に夢中で、フルバンドつきのリアル・ブラッドが「見事にBGMになりました」。リアルのショウでは、一旦、途中で観客の反応が悪い時に演出で舞台から帰ってしまうというパフォーマンスを見せるのが常だが、その時ばかりは、舞台をはけるのを止めたという。もし、はけたら、戻って来てくれの拍手もなく、そのままになってしまいそうだったからだ。(笑) 普通、彼らが舞台から姿を消すと、拍手が巻き起こり、盛り上がって、彼らの再登場を観客がうながすのだが、さすがにこの時はあまりに静かでまいったそうだ。まさに郡山で氷ついたというお話だった。
ルーサーさんから名刺をいただいた。そこには、いくつかの肩書きがあったのだが、なんとそのひとつに「東京アナウンス学院・講師」というのを発見。わお! 低音の声の出し方を教えてくれるのだろうか。「あ〜〜〜、う〜〜〜、ボンボンボン・・・」(低い声で)
(2005年6月22日水曜・新宿ネイキッド・ロフト=プリンス・トーク・イヴェント)
ENT>EVENT>Prince Talk Event
(昨日の続き)
フリーズ。
「ツナさんに誘われてね。いやあ、こういうのって誘われると、普通『行きます』って言っても、なかなかいかないでしょう。で、誘ったほうも来ると思ってない。だから、その裏をかいて、驚かせようと思って来てみました」とますます低音とスキンヘッドに磨きをかけたルーサーさんが事も無げに言った。実際、ルーサーさんがお店に入ってきた時、ツナさんはかなりびっくりしたらしい。
それにしても、彼の低く響く声は美しい。そしてきらきら輝く頭も美しい。「ルーサーさん、その声っていつからですか?」 「小学校6年の時からです。ある朝、起きたら突然、こうなってました。ぜんぜん前兆もなくね。だから、最初は(自分でも)わからなかったんですよ。親に言われて初めて気がついたんです」 「ああ、じゃあバリー・ホワイトと一緒だ」 「あ、そうなんですか」 「バリーもある朝起きたら突然こんな低い声になっていて、どうしたのかびっくりしたそうです」
彼の在籍するリアル・ブラッドは現在ジェイ公山さんがしばし離れているために3人組のグループ、スロットになっている。「どうなるんでしょう」と尋ねると「まだわかりませんが、とりあえず3人で何か録音してみようか」という話をしているそうだ。
最初はジェイさん(バリトン・ボイス)が担当していた部分をリーダーであるブラザー・トムさんがやろうということになっていたが、いつの間にか、ルーサーさん、シルキーさん、トムさんの3人で分担しようということになった。僕が、「それって、ひょっとしてトムさんが、歌詞覚えるのめんどくさくて、3人で分けたんじゃないですか」と尋ねると、「そうかもしれません(苦笑)」との答え。時々、どっちがやるのかわからなくなって、(ステージで)目と目が合って、止まってしまうこともあるという。
ところで、イヴェント会場ネイキッド・ロフトの前に「とんかつ三裕」という看板があり、目に入った。「三裕」といえば、あのキムカツをそもそも始めたとんかつ屋さんだ。だが、新宿にあるとはでていなかった。同名異店、あるいはのれんわけか。(実際はキムカツとは関係ないみたいですね) で、しばしキムカツの話題になり、ル―サーさんに「とんかつとか食べますか」と聞くと、「僕、肉ぜんぜんだめなんです」との意外な答え。その昔、水疱瘡(みずぼうそう)だったかになって、それもかなり重症で、直った後に体質が劇的に変化してしまった、という。それでその病気が直った後に、何も知らずに肉を食べたら、いきなり蕁麻疹(じんましん)がでてしまい、それ以来食べられるなくなった、そうだ。牛も豚も、鳥も、ジンギスカンも、おまけに鯨なんかもだめだそうだ。もちろん、ハンバーグもだめ。ということは、フランクリンのハンバーガーもNGか。
「じゃあ、お肉はお嫌いですか」と尋ねると、これ以上ないといったほど困った顔をして、「大好きなんですよ」との答え。「だから、この辺(やたらと焼肉店などが乱立し、焼肉の匂いが立ち込めているエリア)歩くとつらいんですよ〜〜」 ルーサーさんは、昔このあたりをクラシックを歌いながら流していたという。
ルーサー市村さんのウェッブ
http://www.luther-net.com/
リアル・ブラッドはご存知の通り全国各地を回っているが、都市によってお客さんの反応が違うという話になった。概して大阪、関西全般、九州はのりがいいが、東北がちょっと弱いという。一度、郡山でディナーショウをやった時のことだ。観客はみな食事に夢中で、フルバンドつきのリアル・ブラッドが「見事にBGMになりました」。リアルのショウでは、一旦、途中で観客の反応が悪い時に演出で舞台から帰ってしまうというパフォーマンスを見せるのが常だが、その時ばかりは、舞台をはけるのを止めたという。もし、はけたら、戻って来てくれの拍手もなく、そのままになってしまいそうだったからだ。(笑) 普通、彼らが舞台から姿を消すと、拍手が巻き起こり、盛り上がって、彼らの再登場を観客がうながすのだが、さすがにこの時はあまりに静かでまいったそうだ。まさに郡山で氷ついたというお話だった。
ルーサーさんから名刺をいただいた。そこには、いくつかの肩書きがあったのだが、なんとそのひとつに「東京アナウンス学院・講師」というのを発見。わお! 低音の声の出し方を教えてくれるのだろうか。「あ〜〜〜、う〜〜〜、ボンボンボン・・・」(低い声で)
(2005年6月22日水曜・新宿ネイキッド・ロフト=プリンス・トーク・イヴェント)
ENT>EVENT>Prince Talk Event
【プリンス・トーク・イヴェント】
レア物。
プリンスのトーク・イヴェントに行ってきた。新宿のトークイヴェントを行うスペース、「ネイキッド・ロフト」というお店で行われた。僕はちょうど前に収録があったので、頭からはおじゃまできなかったが、9時前に到着。すると、満員でもうはいれない、と断られた。だが、「出演者です」と言ったら、いれてくれた。60人くらいは入っていただろうか。立ち見もでていた。
イヴェントは、このソウル・サーチンのBBSでもプリンスのことがわからなくなると、いつも教えてくれるツナさんと、同じくプリンス・フリークのテリー植田さんがおしゃべりと映像を紹介してくれた。僕が軽くゲスト。
ステージ後ろにスクリーンがあって、ビデオやDVD、また手元の資料などをカメラで撮ってプロジェクターに映すことができるようになっている。最近のトークショウはみなヴィジュアル重視だ。
それにしても、いろいろ珍しい映像を見せてもらった。おもしろかったのは、日本でも放映された『マペット・ショウ』にプリンスが出た時のもの。なんと日本語吹き替えで、プリンスが日本語をしゃべっている! これはすごいわ。(笑) そして、そこのマペットとの話の流れから「スターフィッシュ・アンド・コーヒー」へ。うまく出来てる。しかも、この「スターフィッシュ…」は、テレビのストーリーに合わせて歌詞を微妙に変え、録音しなおしている。プリンスの地の声を知ってると、この吹き替えの違和感がものすごい。しかし、プリンスの吹き替えにいい日本人声優あるいは俳優でもいい、って誰だろう。皆目見当がつかない。
もうひとつ圧巻だった映像が、2005年3月に行われたNAACP(全米有色人種地位向上協会)のイメージ・アワードで『ミュージコロジー』が「ベスト・アルバム」を受賞した時のパフォーマンス。プリンスは自分のヒット曲だけでなく、アレサ・フランクリン、ジェームス・ブラウン、カーティス・メイフィールドなどの作品を歌った。約16分ほどのパフォーマンスの中でシーラE、そして、モリス・デイとジェローム・ベントンまで登場。おなじみの「バード」を披露。さらに、個人的に衝撃だったのが、なんと、あのフランク・マッコムがこのステージでキーボードを演奏していたことだ。
イメージアワードの記事。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200503/diary20050327.html
顔がアップになった時、あのフランクが一張羅のスーツを着ていた。昨年12月にフランクとプリンスのコネクションについて書いた。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200412/diary20041220.html
これがきっかけで、フランク・プリンス・コネクションはできたわけだが、まさかこんな形でその姿を見ることになるとは夢にも思わなかった。あのマイ・ブラザー、フランクがプリンスとともにステージにいるというだけで興奮した。彼はカーティスの作品、「ムーヴ・オン・アップ」を歌っていた。堂々たる歌いっぷりだ。
他にもたくさん珍しい映像が紹介された。前半では時代を追って、80年代のプリンスについて細かく紹介されていたという。途中から見たが、中でも「アルファベット・ストリート」のプロモ・ヴィデオに「ブラック・アルバムを買うな」という隠されたメッセージがあったと、ツナさんが紹介。なかなかそのポイントが探せなかったが、その文字が画面にでた時は拍手が巻き起こった。
一番受けたのは、2002年の東京国際フォーラムでのライヴのいわゆるブートレッグ。このトークイヴェント用にうちで見ていたら、ツナさんがプリンスに呼び出されてステージにあがるシーンが映し出されていて、思い出した。そうだった。で、昼間ツナさんに連絡すると、やはりこのDVDを持っているというので、最後にプレイしてもらった。プリンスが、「彼の名前はツナだ〜。ゲット・ファンキー! ツナ!」というところは、すごい。だが、ツナさんは恥ずかしくて画面を直視することができない様子だった。(笑) 逆に僕が恥ずかしかったのが、1990年にテレビ朝日の『プレステージ』でプリンスの特番に出た時のビデオが流されたこと。そういえば、出ましたね。これとて、もう15年前だ。レア物映像満載だ。
ところで、僕は2部にゲストで少しおしゃべりをさせていただいたが、出番を待ってる間、ステージ横にいると、どこかで見慣れたお顔を発見。なんと、あのリアル・ブラッドのルーサー市村さんではないか。なぜ、ルーサーさんがここに。一体ルーサーさんとどんな話になったか。トゥー・ビー・コンティニュード!
(明日に続く)
(2005年6月22日水曜・新宿ネイキッド・ロフト=プリンス・トーク・イヴェント)
ENT>EVENT>Prince Talk Event
レア物。
プリンスのトーク・イヴェントに行ってきた。新宿のトークイヴェントを行うスペース、「ネイキッド・ロフト」というお店で行われた。僕はちょうど前に収録があったので、頭からはおじゃまできなかったが、9時前に到着。すると、満員でもうはいれない、と断られた。だが、「出演者です」と言ったら、いれてくれた。60人くらいは入っていただろうか。立ち見もでていた。
イヴェントは、このソウル・サーチンのBBSでもプリンスのことがわからなくなると、いつも教えてくれるツナさんと、同じくプリンス・フリークのテリー植田さんがおしゃべりと映像を紹介してくれた。僕が軽くゲスト。
ステージ後ろにスクリーンがあって、ビデオやDVD、また手元の資料などをカメラで撮ってプロジェクターに映すことができるようになっている。最近のトークショウはみなヴィジュアル重視だ。
それにしても、いろいろ珍しい映像を見せてもらった。おもしろかったのは、日本でも放映された『マペット・ショウ』にプリンスが出た時のもの。なんと日本語吹き替えで、プリンスが日本語をしゃべっている! これはすごいわ。(笑) そして、そこのマペットとの話の流れから「スターフィッシュ・アンド・コーヒー」へ。うまく出来てる。しかも、この「スターフィッシュ…」は、テレビのストーリーに合わせて歌詞を微妙に変え、録音しなおしている。プリンスの地の声を知ってると、この吹き替えの違和感がものすごい。しかし、プリンスの吹き替えにいい日本人声優あるいは俳優でもいい、って誰だろう。皆目見当がつかない。
もうひとつ圧巻だった映像が、2005年3月に行われたNAACP(全米有色人種地位向上協会)のイメージ・アワードで『ミュージコロジー』が「ベスト・アルバム」を受賞した時のパフォーマンス。プリンスは自分のヒット曲だけでなく、アレサ・フランクリン、ジェームス・ブラウン、カーティス・メイフィールドなどの作品を歌った。約16分ほどのパフォーマンスの中でシーラE、そして、モリス・デイとジェローム・ベントンまで登場。おなじみの「バード」を披露。さらに、個人的に衝撃だったのが、なんと、あのフランク・マッコムがこのステージでキーボードを演奏していたことだ。
イメージアワードの記事。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200503/diary20050327.html
顔がアップになった時、あのフランクが一張羅のスーツを着ていた。昨年12月にフランクとプリンスのコネクションについて書いた。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200412/diary20041220.html
これがきっかけで、フランク・プリンス・コネクションはできたわけだが、まさかこんな形でその姿を見ることになるとは夢にも思わなかった。あのマイ・ブラザー、フランクがプリンスとともにステージにいるというだけで興奮した。彼はカーティスの作品、「ムーヴ・オン・アップ」を歌っていた。堂々たる歌いっぷりだ。
他にもたくさん珍しい映像が紹介された。前半では時代を追って、80年代のプリンスについて細かく紹介されていたという。途中から見たが、中でも「アルファベット・ストリート」のプロモ・ヴィデオに「ブラック・アルバムを買うな」という隠されたメッセージがあったと、ツナさんが紹介。なかなかそのポイントが探せなかったが、その文字が画面にでた時は拍手が巻き起こった。
一番受けたのは、2002年の東京国際フォーラムでのライヴのいわゆるブートレッグ。このトークイヴェント用にうちで見ていたら、ツナさんがプリンスに呼び出されてステージにあがるシーンが映し出されていて、思い出した。そうだった。で、昼間ツナさんに連絡すると、やはりこのDVDを持っているというので、最後にプレイしてもらった。プリンスが、「彼の名前はツナだ〜。ゲット・ファンキー! ツナ!」というところは、すごい。だが、ツナさんは恥ずかしくて画面を直視することができない様子だった。(笑) 逆に僕が恥ずかしかったのが、1990年にテレビ朝日の『プレステージ』でプリンスの特番に出た時のビデオが流されたこと。そういえば、出ましたね。これとて、もう15年前だ。レア物映像満載だ。
ところで、僕は2部にゲストで少しおしゃべりをさせていただいたが、出番を待ってる間、ステージ横にいると、どこかで見慣れたお顔を発見。なんと、あのリアル・ブラッドのルーサー市村さんではないか。なぜ、ルーサーさんがここに。一体ルーサーさんとどんな話になったか。トゥー・ビー・コンティニュード!
(明日に続く)
(2005年6月22日水曜・新宿ネイキッド・ロフト=プリンス・トーク・イヴェント)
ENT>EVENT>Prince Talk Event
Great Unknown Song Discovered By Kaleb
2005年6月22日【ケイリブが見出す隠れた名曲】
発掘。
日曜日の『ソウル・サーチン』の最終打ち合わせをケイリブとしてきた。今回はビデオとゲストがちょっと多めになるので、ケイリブの比重が過去2回に比べると少ないかもしれない。しかし、そこはソウル・サーチン・レジデント・アーティスト、ケイリブ、いろいろ考えているようだ。
いつも、彼の選曲には驚かされるが、今回もあっという曲が選ばれていた。これは、ちょっとネタバレになってしまうが、誰もこの曲を予想などしないだろうから、ちょっと書いてしまう。予習の意味で、CDなどを聴かれてから会場に来られてもいいと思う。
彼がどうしてもやりたい、と言った曲は「ベイビー・グランド」という曲である。僕はわからなかったので、「何、それ?」と尋ねた。「レイがビリー・ジョエルとデュエットした曲だ」 「レイ・チャールズの名義、それともビリー名義? レイとしてはCD出してる?」 「たぶん、ビリー・ジョエル名義だと思う」
うちに戻って調べると、やはりビリー・ジョエルのアルバム『ブリッジ』に収録されている1曲だった。レイ名義ではなかった。86年のアルバムだ。(その後、『グレイテスト・ヒッツ3』にも収録) 早速聴いてみると、いやあ、めちゃくちゃいい曲じゃないか。ビリー・ジョエルが書いた曲だが、歌い方はレイ・チャールズ節を真似ている。ちょっとレイ・チャールズの名曲「ユー・ドント・ノウ・ミー」(『ジーニアス・ラヴズ・カンパニー』では、ダイアナ・クラールとデュエット)に似たタイプの曲だ。誰よりもレイ・チャールズに憧れたビリー・ジョエルにとって、そんな神様とのデュエットは死ぬほど嬉しかったに違いない。たぶん、ビリー・ジョエル・ファンの方ならご存知なのだろうが、いわゆるシングルカットもされずにヒットはしていないので、一般的には隠れた名曲と言えるだろう。
「ベイビー・グランド」とは、小さなグランド・ピアノのこと。「僕がブルーで寂しい時、僕が手を伸ばすのは、ベイビー・グランド。僕が世界中どこに行こうとも、ベイビー・グランドはどこにでもある。いつも僕を優しく包み込んでくれる」といったいかにもピアノ・マン、ビリー・ジョエルらしい1曲だった。
レイ・チャールズには星の数ほどヒット曲がある。しかし、こんな隠れた名曲を選んでくるケイリブに拍手だ。ケイリブは言った。「まだ、人前で歌ったことは一度もないんだ。だけど、レイ・チャールズってことで、思いついたのがこれだった。ずっと歌ってみたかったんだよ」。日曜までに、彼はマスターできるだろうか。(笑) 彼の解釈によるこの曲を聴くのが待ちきれない。たのむぜ、ケイリブ!
+++++
ビリー・ジョエル『ジ・アルティメイト・コレクション』
ビリー・ジョエル『ブリッジ』
ENT>EVENT>Soul Searchin Talking
発掘。
日曜日の『ソウル・サーチン』の最終打ち合わせをケイリブとしてきた。今回はビデオとゲストがちょっと多めになるので、ケイリブの比重が過去2回に比べると少ないかもしれない。しかし、そこはソウル・サーチン・レジデント・アーティスト、ケイリブ、いろいろ考えているようだ。
いつも、彼の選曲には驚かされるが、今回もあっという曲が選ばれていた。これは、ちょっとネタバレになってしまうが、誰もこの曲を予想などしないだろうから、ちょっと書いてしまう。予習の意味で、CDなどを聴かれてから会場に来られてもいいと思う。
彼がどうしてもやりたい、と言った曲は「ベイビー・グランド」という曲である。僕はわからなかったので、「何、それ?」と尋ねた。「レイがビリー・ジョエルとデュエットした曲だ」 「レイ・チャールズの名義、それともビリー名義? レイとしてはCD出してる?」 「たぶん、ビリー・ジョエル名義だと思う」
うちに戻って調べると、やはりビリー・ジョエルのアルバム『ブリッジ』に収録されている1曲だった。レイ名義ではなかった。86年のアルバムだ。(その後、『グレイテスト・ヒッツ3』にも収録) 早速聴いてみると、いやあ、めちゃくちゃいい曲じゃないか。ビリー・ジョエルが書いた曲だが、歌い方はレイ・チャールズ節を真似ている。ちょっとレイ・チャールズの名曲「ユー・ドント・ノウ・ミー」(『ジーニアス・ラヴズ・カンパニー』では、ダイアナ・クラールとデュエット)に似たタイプの曲だ。誰よりもレイ・チャールズに憧れたビリー・ジョエルにとって、そんな神様とのデュエットは死ぬほど嬉しかったに違いない。たぶん、ビリー・ジョエル・ファンの方ならご存知なのだろうが、いわゆるシングルカットもされずにヒットはしていないので、一般的には隠れた名曲と言えるだろう。
「ベイビー・グランド」とは、小さなグランド・ピアノのこと。「僕がブルーで寂しい時、僕が手を伸ばすのは、ベイビー・グランド。僕が世界中どこに行こうとも、ベイビー・グランドはどこにでもある。いつも僕を優しく包み込んでくれる」といったいかにもピアノ・マン、ビリー・ジョエルらしい1曲だった。
レイ・チャールズには星の数ほどヒット曲がある。しかし、こんな隠れた名曲を選んでくるケイリブに拍手だ。ケイリブは言った。「まだ、人前で歌ったことは一度もないんだ。だけど、レイ・チャールズってことで、思いついたのがこれだった。ずっと歌ってみたかったんだよ」。日曜までに、彼はマスターできるだろうか。(笑) 彼の解釈によるこの曲を聴くのが待ちきれない。たのむぜ、ケイリブ!
+++++
ビリー・ジョエル『ジ・アルティメイト・コレクション』
ビリー・ジョエル『ブリッジ』
ENT>EVENT>Soul Searchin Talking
【エリック・ベネイ6年ぶりの新作は彼の最高作か】
足跡。
エリック・ベネイの6年ぶりの新作が到着した。タイトルは『ハリケーン』(6月22日日本発売)。同曲が最初のシングルとして既にリリースされているが、これがなかなかいい曲で、覚えやすい。今作は、全体的に、実にポップなわかり易い作品になったなという印象。それも、歌のうまさを存分に出して、しかも、プロデューサーにデイヴィッド・フォスターや、ウォルター・アファナシエフまで起用して、「売り」に出た。
歌詞の内容では、元妻ハリー・ベイリーとの別離が最大のテーマ。別れて自分は立ち直ったという雰囲気の「ハリケーン」から、まだまだ未練があるぞという「マイ・プレイヤー」、あるいは失恋自体を歌った「ホエア・ダズ・ザ・ラヴ・ゴー」、「マン・イナフ・トゥ・クライ」、「アイ・ノウ」などほとんどの作品に恋に破れた男の弱々しさがこれでもかというほど表現されている。
この未練ぶりは、しばらく前のブライアン・マクナイト、あるいは、かつてのルーサー・ヴァンドロスの作品群などに匹敵する。「ザ・ラスト・タイム」では、新しい恋の始まりを歌うが、これは新しい恋人が出来たことを示すのか。
それにしても、エリックってこんなに歌がうまかったっけと思わせるほど、今作では歌のうまさが際立つ。普通のソウル、R&Bアルバムというより、ポピュラーなヴォーカル・アルバム的なニュアンスのほうが強い。
アルバムには14曲の歌が収録されているが、その歌詞(日本盤は訳詞があります)をじっくり読んでいくと、彼の元妻への熱い思いがつたって来る。
ちなみに「インディア」というミディアム調の心温まる曲は、娘さんのことを歌った作品で、途中にクリス・ボッティーのトランペットがはいる。あるいは、デイヴィッド・フォスター・プロデュースの1曲「ザ・ラスト・タイム」なんて、こんなに大甘のサウンドでいいのってほど甘々。
時々、ベイビーフェイスやスティーヴィー・ワンダーを思わせたりするところもある。これがエリック・ベネイにとって最大のヒットになったとすれば、ベネイは大失恋を最大の武器にして、傑作を作ったということになる。おそらく失恋で、相当なソウル・サーチンしたんだろう。このアルバムには彼の苦しみのソウル・サーチンの足跡が記されている。
ところで、インナーのエリックの写真が平井堅みたいだ。あれ、平井堅がエリック・ベネイみたいだったんだっけ。(笑)
ENT>MUSIC>ALBUM>Benet, Eric
足跡。
エリック・ベネイの6年ぶりの新作が到着した。タイトルは『ハリケーン』(6月22日日本発売)。同曲が最初のシングルとして既にリリースされているが、これがなかなかいい曲で、覚えやすい。今作は、全体的に、実にポップなわかり易い作品になったなという印象。それも、歌のうまさを存分に出して、しかも、プロデューサーにデイヴィッド・フォスターや、ウォルター・アファナシエフまで起用して、「売り」に出た。
歌詞の内容では、元妻ハリー・ベイリーとの別離が最大のテーマ。別れて自分は立ち直ったという雰囲気の「ハリケーン」から、まだまだ未練があるぞという「マイ・プレイヤー」、あるいは失恋自体を歌った「ホエア・ダズ・ザ・ラヴ・ゴー」、「マン・イナフ・トゥ・クライ」、「アイ・ノウ」などほとんどの作品に恋に破れた男の弱々しさがこれでもかというほど表現されている。
この未練ぶりは、しばらく前のブライアン・マクナイト、あるいは、かつてのルーサー・ヴァンドロスの作品群などに匹敵する。「ザ・ラスト・タイム」では、新しい恋の始まりを歌うが、これは新しい恋人が出来たことを示すのか。
それにしても、エリックってこんなに歌がうまかったっけと思わせるほど、今作では歌のうまさが際立つ。普通のソウル、R&Bアルバムというより、ポピュラーなヴォーカル・アルバム的なニュアンスのほうが強い。
アルバムには14曲の歌が収録されているが、その歌詞(日本盤は訳詞があります)をじっくり読んでいくと、彼の元妻への熱い思いがつたって来る。
ちなみに「インディア」というミディアム調の心温まる曲は、娘さんのことを歌った作品で、途中にクリス・ボッティーのトランペットがはいる。あるいは、デイヴィッド・フォスター・プロデュースの1曲「ザ・ラスト・タイム」なんて、こんなに大甘のサウンドでいいのってほど甘々。
時々、ベイビーフェイスやスティーヴィー・ワンダーを思わせたりするところもある。これがエリック・ベネイにとって最大のヒットになったとすれば、ベネイは大失恋を最大の武器にして、傑作を作ったということになる。おそらく失恋で、相当なソウル・サーチンしたんだろう。このアルバムには彼の苦しみのソウル・サーチンの足跡が記されている。
ところで、インナーのエリックの写真が平井堅みたいだ。あれ、平井堅がエリック・ベネイみたいだったんだっけ。(笑)
ENT>MUSIC>ALBUM>Benet, Eric
Countdown To Soul Searchin’ Talking
2005年6月20日【ソウル・サーチン・トーキング開催迫る】
間近。
いよいよ『ソウル・サーチン・トーキング第4回』が間近に迫ってきた。26日の日曜、7時半から目黒のブルースアレー。今、最終的なプログラムの構成やら、歌う曲の調整などをしているが、出演していただけるアーティストも豪華なら、明日編集するビデオ素材なども、かなり見ごたえがあるものになりそうで、自分でも楽しみ。
基本的には、7時半から1時間パート1、9時から10時までがパート2という形。ただし前回、前々回ともに1時間の予定が1時間20分くらいになっている。2回目までは映像を使わなかったが、前回ほんの少しだがダニーの動く映像を紹介した。そして今回のレイは、前回のダニーがほとんど動く映像がなかったのに対し、膨大な量の映像がある。といっても、入手したかったが、入手できなかったものもある。それでも、かなりの量があるので、うまく編集しなければと思う。
入手できていないのは、映画『星空』。レイが登場する60年代中期の映画だ。プログラムは見たことがあるが、本編はない。一方、過去1年でたくさんのDVD作品がでている。それらをハイライトでまとめるだけでもけっこうな量になるが、ビデオ紹介だけやっているわけにもいかないので、バランスを取るのが難しい。
今回もソウル・サーチン・トーキングのレジデント・パフォーマー、ケイリブ・ジェイムスがレイ・チャールズをかなり研究してくれていて楽しみだ。月曜に最終的な打ち合わせをするが、これまで、スティーヴィーやダニー作品のケイリブ・ヴァージョンで充分に驚かせてくれたが、今回もきっと大きなサプライズを見せてくれるだろう。これに、今回は初の試みでサックスの太田剣さんがからんでくれる。
そして、二人のシークレット・ゲストの部分はかなり会場も熱くなってくれるはずだ。お二人の名前は告知はできないことになっているのだが、この日記にはよく登場している人たち。このお二人はまだ会ったことがないということだが、それぞれ会えるのを楽しみにしているとのこと。
「ソウル・ミュージックの神様」レイ・チャールズの元に、ミュージシャンが一同に会する。いまからわくわくする。ソウルの神様から一粒のソウルが舞い降りてくることだろう。
+++++
予約は、
soul_searchin_talking@hotmail.com
まで、お名前、人数、連絡先、何でこのイヴェントを知ったかをお書きの上お送りく ださい。折り返し確認メールを差し上げます。
イヴェントの詳細は
http://www.soulsearchin.com/event/talking/talking20050626.html
+++++
間近。
いよいよ『ソウル・サーチン・トーキング第4回』が間近に迫ってきた。26日の日曜、7時半から目黒のブルースアレー。今、最終的なプログラムの構成やら、歌う曲の調整などをしているが、出演していただけるアーティストも豪華なら、明日編集するビデオ素材なども、かなり見ごたえがあるものになりそうで、自分でも楽しみ。
基本的には、7時半から1時間パート1、9時から10時までがパート2という形。ただし前回、前々回ともに1時間の予定が1時間20分くらいになっている。2回目までは映像を使わなかったが、前回ほんの少しだがダニーの動く映像を紹介した。そして今回のレイは、前回のダニーがほとんど動く映像がなかったのに対し、膨大な量の映像がある。といっても、入手したかったが、入手できなかったものもある。それでも、かなりの量があるので、うまく編集しなければと思う。
入手できていないのは、映画『星空』。レイが登場する60年代中期の映画だ。プログラムは見たことがあるが、本編はない。一方、過去1年でたくさんのDVD作品がでている。それらをハイライトでまとめるだけでもけっこうな量になるが、ビデオ紹介だけやっているわけにもいかないので、バランスを取るのが難しい。
今回もソウル・サーチン・トーキングのレジデント・パフォーマー、ケイリブ・ジェイムスがレイ・チャールズをかなり研究してくれていて楽しみだ。月曜に最終的な打ち合わせをするが、これまで、スティーヴィーやダニー作品のケイリブ・ヴァージョンで充分に驚かせてくれたが、今回もきっと大きなサプライズを見せてくれるだろう。これに、今回は初の試みでサックスの太田剣さんがからんでくれる。
そして、二人のシークレット・ゲストの部分はかなり会場も熱くなってくれるはずだ。お二人の名前は告知はできないことになっているのだが、この日記にはよく登場している人たち。このお二人はまだ会ったことがないということだが、それぞれ会えるのを楽しみにしているとのこと。
「ソウル・ミュージックの神様」レイ・チャールズの元に、ミュージシャンが一同に会する。いまからわくわくする。ソウルの神様から一粒のソウルが舞い降りてくることだろう。
+++++
予約は、
soul_searchin_talking@hotmail.com
まで、お名前、人数、連絡先、何でこのイヴェントを知ったかをお書きの上お送りく ださい。折り返し確認メールを差し上げます。
イヴェントの詳細は
http://www.soulsearchin.com/event/talking/talking20050626.html
+++++
Ronald Winans Of Winans Died At 48
2005年6月19日【ロナルド・ワイナンズ死去】
大家族。
グラミー賞に輝くゴスペルの名門グループ、ワイナンズのシンガーのひとり、ロナルド・ワイナンズが6月17日(2005年)、デトロイトの病院で死去した。48歳。6月30日に49歳の誕生日を迎える予定だった。ロナルドは10人兄弟の2男。ロナルドは1997年心臓発作を起こしていた。木曜の夜に容態が悪くなり、ファミリーが全員集められ、最後を看取った。
ワイナンズ一家は多くの子供がいて、複数のグループが活動している。ワイナンズとしては、マーヴィン、カルヴィン、ロナルド(17日に死去)、マイケルの4人組。同じくゴスペル・フィールドの大御所アンドレア・クロウチに見出され、1981年、クロウチの持つライト・レコードからアルバム『イントロデューシング・ザ・ワイナンズ』でデビューした。その後コンスタントにアルバムを発表、クインシー・ジョーンズのクエスト・レーベルでアルバムも出した。グラミー賞も5回受賞、その他のアワードも多数受賞している。
ワイナンズ・ファミリーは、父と母(ポップ=デイヴィッド、ママ=デローズ)の間に息子・娘が10人いる。上から順に、デイヴィッド(長男、ギタリスト。ゴスペル界では活動せず、R&Bをやっているという)、ロナルド(2男)、カルヴィン(3男)とマーヴィン(4男=この二人は双子)、マイケル(5男)、ダニエル(6男)、ビービ―(ベンジャミン=7男)、シーシー(第8子=長女)、アンジー(第9子=2女)、デビー(第10子=3女)。2番目から5番目の子供でワイナンズが結成されている。それぞれが、ソロあるいはデュオとしてもCDを出している。さらにそれぞれに子供もあり、相当な大家族になる。
中でも、第4子マーヴィンとその妻ヴィッキー・ワイナンズ(ヴィッキーはソロでも活動)の間に生まれたマリオ・ワイナンズは、ショーン・パフィーと手を組み現在のR&B界で大ヒットを飛ばし人気を集めている。
ロナルドもソロ作品を出していた。彼の最後の作品は、今年初めに出た『セレブレーティング』というアルバム。ロナルドは7年前の心臓発作のときに、医師に無理をしないようにと忠告されたが、それに耳を貸さず精力的にレコーディング、ライヴなどゴスペルの活動を続けていた。最後のアルバムが、『セレブレーティング』(祝い)というのも、彼の旅立ちに花を添えることになりそうだ。
ご冥福をお祈りする。
Fri Jun 17, 5:09 PM ET
http://news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/ap/20050617/ap_en_mu/obit_winans_3
DETROIT - Ronald Winans, a Grammy-winning member of The Winans and of gospel’s first family, died Friday at the age of 48.
Winans, who had suffered a heart attack in 1997, died at Harper Hospital of heart complications, his family said. He had recently been admitted for observation, the family said, after doctors realized he was retaining fluid.
"The family wishes to thank everyone who joined us in prayer and will continue to extend their unwavering support during our time of loss," BeBe Winans, one of Ronald Winans’ brothers, said in the statement.
Ronald Winans, along with brothers Marvin, Carvin and Michael, was discovered by Grammy-winning gospel singer Andrae Crouch. The group released their first album in 1981 titled, "Introducing The Winans." Later, their siblings, BeBe and CeCe Winans, would record as a duo and then separately.
Ronald Winans, who sang on five Grammy-winning albums, released his final CD, a live recording titled, "A Celebration," earlier this year.
Arrangements were pending Friday.
+++++
ENT>OBITUARY>Winans, Ronald / 2005.6.17 (48)
大家族。
グラミー賞に輝くゴスペルの名門グループ、ワイナンズのシンガーのひとり、ロナルド・ワイナンズが6月17日(2005年)、デトロイトの病院で死去した。48歳。6月30日に49歳の誕生日を迎える予定だった。ロナルドは10人兄弟の2男。ロナルドは1997年心臓発作を起こしていた。木曜の夜に容態が悪くなり、ファミリーが全員集められ、最後を看取った。
ワイナンズ一家は多くの子供がいて、複数のグループが活動している。ワイナンズとしては、マーヴィン、カルヴィン、ロナルド(17日に死去)、マイケルの4人組。同じくゴスペル・フィールドの大御所アンドレア・クロウチに見出され、1981年、クロウチの持つライト・レコードからアルバム『イントロデューシング・ザ・ワイナンズ』でデビューした。その後コンスタントにアルバムを発表、クインシー・ジョーンズのクエスト・レーベルでアルバムも出した。グラミー賞も5回受賞、その他のアワードも多数受賞している。
ワイナンズ・ファミリーは、父と母(ポップ=デイヴィッド、ママ=デローズ)の間に息子・娘が10人いる。上から順に、デイヴィッド(長男、ギタリスト。ゴスペル界では活動せず、R&Bをやっているという)、ロナルド(2男)、カルヴィン(3男)とマーヴィン(4男=この二人は双子)、マイケル(5男)、ダニエル(6男)、ビービ―(ベンジャミン=7男)、シーシー(第8子=長女)、アンジー(第9子=2女)、デビー(第10子=3女)。2番目から5番目の子供でワイナンズが結成されている。それぞれが、ソロあるいはデュオとしてもCDを出している。さらにそれぞれに子供もあり、相当な大家族になる。
中でも、第4子マーヴィンとその妻ヴィッキー・ワイナンズ(ヴィッキーはソロでも活動)の間に生まれたマリオ・ワイナンズは、ショーン・パフィーと手を組み現在のR&B界で大ヒットを飛ばし人気を集めている。
ロナルドもソロ作品を出していた。彼の最後の作品は、今年初めに出た『セレブレーティング』というアルバム。ロナルドは7年前の心臓発作のときに、医師に無理をしないようにと忠告されたが、それに耳を貸さず精力的にレコーディング、ライヴなどゴスペルの活動を続けていた。最後のアルバムが、『セレブレーティング』(祝い)というのも、彼の旅立ちに花を添えることになりそうだ。
ご冥福をお祈りする。
Fri Jun 17, 5:09 PM ET
http://news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/ap/20050617/ap_en_mu/obit_winans_3
DETROIT - Ronald Winans, a Grammy-winning member of The Winans and of gospel’s first family, died Friday at the age of 48.
Winans, who had suffered a heart attack in 1997, died at Harper Hospital of heart complications, his family said. He had recently been admitted for observation, the family said, after doctors realized he was retaining fluid.
"The family wishes to thank everyone who joined us in prayer and will continue to extend their unwavering support during our time of loss," BeBe Winans, one of Ronald Winans’ brothers, said in the statement.
Ronald Winans, along with brothers Marvin, Carvin and Michael, was discovered by Grammy-winning gospel singer Andrae Crouch. The group released their first album in 1981 titled, "Introducing The Winans." Later, their siblings, BeBe and CeCe Winans, would record as a duo and then separately.
Ronald Winans, who sang on five Grammy-winning albums, released his final CD, a live recording titled, "A Celebration," earlier this year.
Arrangements were pending Friday.
+++++
ENT>OBITUARY>Winans, Ronald / 2005.6.17 (48)
【ミッドナイト・アワーの夜は更けて】
談義。
フライデイ・ナイト夜11時半、またまた行ってしまったキムカツ。なんと一組並んでた。だがすぐ入れた。同行は、オッシー。しかし、キャベツ食べる食べる。4回もお代わりするか。食べ終わると、見計らったようにトクのマネージャー、M氏から電話。M氏宅すぐ近くにあるソウル・バー、ミッドナイト・アワーにいるので、来ないかと。
ちょうど、何かスイーツが欲しいなあなどと思っていたところなので、バーにスイーツはないが、ちょこっとスクランブル発進。恵比寿から目黒に移動し、久々のミッドナイト・アワー。オッシーはお初です。マスター、ナル君をご紹介。前回M氏に会った時、初めてここにきた時、どんちゃんさわぎでめちゃくちゃ楽しかったと言われ、なんで電話くれないんですか、と詰め寄った経緯があってのこの日の電話だ。(よしよし)
するとM氏、それ以来かなりひんぱんに入り浸っているらしい。もともとソウル好きではあったが、なんと前日も来ていたという。(おいおい)
そこにまた、トラックメイカー、ヒップホップ、R&B系アーティストの3人組ユニット、ツー・バッカ(表記は2 Backka)のひとりハマちゃんがいた。最近大ブレイクのベニーKのトラックなどを作ったりしている。以前ここで会って以来久々の再会。ナル君と同級生とかで、家は横浜だがよく来ているという。
M氏を含めて『ソウル・ブレンズ』の選曲話でえらく盛り上がる。M氏は番組へヴィーリスナー。一方、オッシー・ヨッシーで、トクの番組『キー・オブ・ライフ』(静岡Kミックス=毎週金曜夕方17時25分〜55分)というのをやっていて、その収録がまたおもしろい。
30分番組で4-5曲の選曲をするのだが、みんながあ〜だこ〜だ言って、なかなか決まらないのだ。基本はトクが決めるのだが、外野がうるさいうるさい。オッシー、ヨッシーも提案をするが、先のM氏がかなり強力なご提案を出してくる。もちろん、いい番組、いい選曲をするための提案だから、みな大盛り上がりになる。
そうして、下手すると1時間以上、2時間近く選曲、雑談をしている。「これどう?」「いいね、いいね。これなら、その後、これもいいよ」「いいね、いいね。それなら、こう続く流れがサイコーよ」「いいね、いいね、だったら、こう来てもいいんじゃないの」「いいね、いいね、そう来たら、次こう行くでしょ」「いいね、いいね、でもこの曲、このアーティストのヴァージョンもあるよ・・・」「いいね、いいね…」 終わらないっちゅ〜に。選曲は時間かけてるが、収録はまちがいない。トクはジャズミュージシャンである、アドリブ一発の男、ワンテイクの男だ。なんとか、そこで収録時間の帳尻を合わせる。
というわけで、この前、由緒権威ある『キー・オブ・ライフ』厳選選曲委員会で「番組トップには最高だね」と言って選ばれた「ワーク・トゥ・ドゥ」(アイズレー・ブラザースのカヴァー、AWBヴァージョン)を前回の『ソウル・ブレンズ』のトップに持ってきたところ、それを聴いていたM氏、感激のあまり、ラジオの前で泣き伏せたという。
そんなソウル談義でミッドナイト・アワーの夜はとっくにミッドナイトを過ぎていたとさ。
+++++
静岡エリアにお住まいの方、『キー・オブ・ライフ』(DJ,トク)は、K−MIXで毎週金曜夕方5時25分からオンエアーしています。どうぞお聞きください。また、その後おなじくK−MIXでは午後7時から『ブギー・ナイツ』(DJ,服部敦)もよろしく。
++++++
ENT>RADIO>Soul Blends
ENT>RADIO>Key Of Life
ENT>SOULBARS>Midnight Hour
談義。
フライデイ・ナイト夜11時半、またまた行ってしまったキムカツ。なんと一組並んでた。だがすぐ入れた。同行は、オッシー。しかし、キャベツ食べる食べる。4回もお代わりするか。食べ終わると、見計らったようにトクのマネージャー、M氏から電話。M氏宅すぐ近くにあるソウル・バー、ミッドナイト・アワーにいるので、来ないかと。
ちょうど、何かスイーツが欲しいなあなどと思っていたところなので、バーにスイーツはないが、ちょこっとスクランブル発進。恵比寿から目黒に移動し、久々のミッドナイト・アワー。オッシーはお初です。マスター、ナル君をご紹介。前回M氏に会った時、初めてここにきた時、どんちゃんさわぎでめちゃくちゃ楽しかったと言われ、なんで電話くれないんですか、と詰め寄った経緯があってのこの日の電話だ。(よしよし)
するとM氏、それ以来かなりひんぱんに入り浸っているらしい。もともとソウル好きではあったが、なんと前日も来ていたという。(おいおい)
そこにまた、トラックメイカー、ヒップホップ、R&B系アーティストの3人組ユニット、ツー・バッカ(表記は2 Backka)のひとりハマちゃんがいた。最近大ブレイクのベニーKのトラックなどを作ったりしている。以前ここで会って以来久々の再会。ナル君と同級生とかで、家は横浜だがよく来ているという。
M氏を含めて『ソウル・ブレンズ』の選曲話でえらく盛り上がる。M氏は番組へヴィーリスナー。一方、オッシー・ヨッシーで、トクの番組『キー・オブ・ライフ』(静岡Kミックス=毎週金曜夕方17時25分〜55分)というのをやっていて、その収録がまたおもしろい。
30分番組で4-5曲の選曲をするのだが、みんながあ〜だこ〜だ言って、なかなか決まらないのだ。基本はトクが決めるのだが、外野がうるさいうるさい。オッシー、ヨッシーも提案をするが、先のM氏がかなり強力なご提案を出してくる。もちろん、いい番組、いい選曲をするための提案だから、みな大盛り上がりになる。
そうして、下手すると1時間以上、2時間近く選曲、雑談をしている。「これどう?」「いいね、いいね。これなら、その後、これもいいよ」「いいね、いいね。それなら、こう続く流れがサイコーよ」「いいね、いいね、だったら、こう来てもいいんじゃないの」「いいね、いいね、そう来たら、次こう行くでしょ」「いいね、いいね、でもこの曲、このアーティストのヴァージョンもあるよ・・・」「いいね、いいね…」 終わらないっちゅ〜に。選曲は時間かけてるが、収録はまちがいない。トクはジャズミュージシャンである、アドリブ一発の男、ワンテイクの男だ。なんとか、そこで収録時間の帳尻を合わせる。
というわけで、この前、由緒権威ある『キー・オブ・ライフ』厳選選曲委員会で「番組トップには最高だね」と言って選ばれた「ワーク・トゥ・ドゥ」(アイズレー・ブラザースのカヴァー、AWBヴァージョン)を前回の『ソウル・ブレンズ』のトップに持ってきたところ、それを聴いていたM氏、感激のあまり、ラジオの前で泣き伏せたという。
そんなソウル談義でミッドナイト・アワーの夜はとっくにミッドナイトを過ぎていたとさ。
+++++
静岡エリアにお住まいの方、『キー・オブ・ライフ』(DJ,トク)は、K−MIXで毎週金曜夕方5時25分からオンエアーしています。どうぞお聞きください。また、その後おなじくK−MIXでは午後7時から『ブギー・ナイツ』(DJ,服部敦)もよろしく。
++++++
ENT>RADIO>Soul Blends
ENT>RADIO>Key Of Life
ENT>SOULBARS>Midnight Hour
【「とん黒」〜誰も知らない名店】
肉質勝負。
みんなトンカツ好きなんですねえ。(笑) たまにぽろっと書いてしまう食べ物系ネタへの食いつきがやたらいい。(笑) トンカツ・ネタ、おまけです。
トンカツと言えば、うちの近所では、目黒のとんきが有名。確か昭和29年か30年の開店の老舗。卵を何度もつけて衣を厚くして作る「ハード系カツ」(C=yoshioka)の代表格。この目黒店の最大のうりは、一階にいる小さなおばあちゃんだ。お客さんが入ってくると、注文を取って、そこに何十人というお客さんが無造作に後ろの待合席に座っていても、絶対に順番を間違えることなく、着た順に席(カウンター)にご案内〜〜。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200408/diary20040824.html
それに対して「ソフト系カツ」は、青山のまい泉。ここも一時期すごくよく行った。
白金の首都高速の下にあるオレンジ色の看板が目印の「とんかつ・すずき」は、昔ながらの正統派。もっともコンサヴァなカツだ。店員にあいそはないが、きっちり仕事をしている感じでだまってまた食べにくる。夜9時までしかあいていないので、なかなか行けないが、8時過ぎに夕食がまだで、ここの前を通ったら、入らずにはいられない。するすると引き戸に吸い込まれる。最近味噌汁のおわんが小さくなってちょっと寂しい。
それはさておき、ここでご紹介するとんかつ屋さんは、上記人気店舗の知名度と比べると、月とすっぽんくらいの違いがある。だが味は上記店舗に勝るとも劣らない。
その昔、79年〜81年頃、目黒に懇意にしているとんかつ屋さんがあった。その名は「とん黒(とんくろ)」。僕の父親とその主人が親しく、最初は親に連れられて行っていたが、しばらくしてから僕ひとりだけでも行くようになった。たまたま2年弱ほどその店のとなりのマンションに住んでいたこともあり、週5回ランチか夜に行ったこともある。
何がいいかと言えば、単純に肉の質がいいのだ。それはその主人が一時期、芝浦の食肉市場で仕事をしていて、いい肉を見る目を持っているからだ。値段は普通だが、そのコストパフォーマンスから言えば、ワンランクもツーランクも上の肉が使われている。最近、あちこちのとんカツ店で、高級豚肉黒豚なんたら、というのが出ているが、ここ「とん黒」のロースやヒレなど、そんなの問題にならないくらい質がいい。普通の値段で、高級食感、という感じだ。
そして衣も比較的軽く、今で言うソフト系。さくさくっとくる。しかも、ここは、キャベツがいくらでもでてくるのはもちろんのこと、ゴハンの量、そして、お新香の量が半端ではなく多い。お新香好きの僕としてはお新香だけでも満足してしまうほど。
ところが、このお店、ある日突然、目黒の店を引き払い、川崎市は高津区に引っ越していってしまった。あ〜〜〜、わがとん黒よ、なぜに〜〜〜。すぐに後を追うように僕も足を運んだが、さすがに遠い。軽く思いついて、行ける距離ではない。これとて、20年近く前の話だ。目黒の店もけっこう入っていたので、なぜこんなとても食事処を出すようなエリアではないところへ引っ越したのか、大きな疑問だった。その理由を昔聞いたが、さすがにもう忘れた。
行きかたは、東京から行く場合、第三京浜・川崎インターを下り、そのまままっすぐ第三京浜の下を走る。アンダーパスがあって、それを走るとつきあたるので、右折。しばらく走って右側に「とんかつ・とん黒」の看板がある。この道は産業道路のようで、車の往来が激しく、駐車はできないが、店の裏に顧客用に駐車場が2台ほど用意されているので、あいていれば、そこに止められる。横浜側から来たら、インター下りてユーターンだったと思う。以下同じ。(住所から各自、地図をご確認ください)
店内は、別にこれといってきらびやかでもなく、テレビや週刊誌が雑然と置かれている普通の定食屋と変わらない。が、とんかつの味は高いレベルで安定している。内装などは、ほんとどうということないが、まさにとんかつそのもので勝負、いや正確に言えば、とんかつなどが載っているお膳のものだけで勝負、という感じだ。雑誌やテレビに取り上げられるようないわゆる「メディアに載る店」ではないから、地元の人以外おそらく知らない。よって誰も知らない名店だ。ご主人もそんなことにまったく興味なしという感じで、ただひたすらニコニコかつを揚げている。
横浜アリーナのライヴの帰りとかに寄ってみたいのだが、ここも9時まで。だから、行けない。こんなことを書いていたら、久々に行ってみたくなってしまった。
【とんかつ・とん黒 】
住所 神奈川県川崎市高津区新作3-3-11
電話 044-866-8210
休業日 月曜日
営業時間 11:30〜14:30 17:00〜21:00
最寄駅 武蔵新城
駐車場 有
DINNING>RESTAURANTS>ESSAY>Tonkatsu
肉質勝負。
みんなトンカツ好きなんですねえ。(笑) たまにぽろっと書いてしまう食べ物系ネタへの食いつきがやたらいい。(笑) トンカツ・ネタ、おまけです。
トンカツと言えば、うちの近所では、目黒のとんきが有名。確か昭和29年か30年の開店の老舗。卵を何度もつけて衣を厚くして作る「ハード系カツ」(C=yoshioka)の代表格。この目黒店の最大のうりは、一階にいる小さなおばあちゃんだ。お客さんが入ってくると、注文を取って、そこに何十人というお客さんが無造作に後ろの待合席に座っていても、絶対に順番を間違えることなく、着た順に席(カウンター)にご案内〜〜。
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200408/diary20040824.html
それに対して「ソフト系カツ」は、青山のまい泉。ここも一時期すごくよく行った。
白金の首都高速の下にあるオレンジ色の看板が目印の「とんかつ・すずき」は、昔ながらの正統派。もっともコンサヴァなカツだ。店員にあいそはないが、きっちり仕事をしている感じでだまってまた食べにくる。夜9時までしかあいていないので、なかなか行けないが、8時過ぎに夕食がまだで、ここの前を通ったら、入らずにはいられない。するすると引き戸に吸い込まれる。最近味噌汁のおわんが小さくなってちょっと寂しい。
それはさておき、ここでご紹介するとんかつ屋さんは、上記人気店舗の知名度と比べると、月とすっぽんくらいの違いがある。だが味は上記店舗に勝るとも劣らない。
その昔、79年〜81年頃、目黒に懇意にしているとんかつ屋さんがあった。その名は「とん黒(とんくろ)」。僕の父親とその主人が親しく、最初は親に連れられて行っていたが、しばらくしてから僕ひとりだけでも行くようになった。たまたま2年弱ほどその店のとなりのマンションに住んでいたこともあり、週5回ランチか夜に行ったこともある。
何がいいかと言えば、単純に肉の質がいいのだ。それはその主人が一時期、芝浦の食肉市場で仕事をしていて、いい肉を見る目を持っているからだ。値段は普通だが、そのコストパフォーマンスから言えば、ワンランクもツーランクも上の肉が使われている。最近、あちこちのとんカツ店で、高級豚肉黒豚なんたら、というのが出ているが、ここ「とん黒」のロースやヒレなど、そんなの問題にならないくらい質がいい。普通の値段で、高級食感、という感じだ。
そして衣も比較的軽く、今で言うソフト系。さくさくっとくる。しかも、ここは、キャベツがいくらでもでてくるのはもちろんのこと、ゴハンの量、そして、お新香の量が半端ではなく多い。お新香好きの僕としてはお新香だけでも満足してしまうほど。
ところが、このお店、ある日突然、目黒の店を引き払い、川崎市は高津区に引っ越していってしまった。あ〜〜〜、わがとん黒よ、なぜに〜〜〜。すぐに後を追うように僕も足を運んだが、さすがに遠い。軽く思いついて、行ける距離ではない。これとて、20年近く前の話だ。目黒の店もけっこう入っていたので、なぜこんなとても食事処を出すようなエリアではないところへ引っ越したのか、大きな疑問だった。その理由を昔聞いたが、さすがにもう忘れた。
行きかたは、東京から行く場合、第三京浜・川崎インターを下り、そのまままっすぐ第三京浜の下を走る。アンダーパスがあって、それを走るとつきあたるので、右折。しばらく走って右側に「とんかつ・とん黒」の看板がある。この道は産業道路のようで、車の往来が激しく、駐車はできないが、店の裏に顧客用に駐車場が2台ほど用意されているので、あいていれば、そこに止められる。横浜側から来たら、インター下りてユーターンだったと思う。以下同じ。(住所から各自、地図をご確認ください)
店内は、別にこれといってきらびやかでもなく、テレビや週刊誌が雑然と置かれている普通の定食屋と変わらない。が、とんかつの味は高いレベルで安定している。内装などは、ほんとどうということないが、まさにとんかつそのもので勝負、いや正確に言えば、とんかつなどが載っているお膳のものだけで勝負、という感じだ。雑誌やテレビに取り上げられるようないわゆる「メディアに載る店」ではないから、地元の人以外おそらく知らない。よって誰も知らない名店だ。ご主人もそんなことにまったく興味なしという感じで、ただひたすらニコニコかつを揚げている。
横浜アリーナのライヴの帰りとかに寄ってみたいのだが、ここも9時まで。だから、行けない。こんなことを書いていたら、久々に行ってみたくなってしまった。
【とんかつ・とん黒 】
住所 神奈川県川崎市高津区新作3-3-11
電話 044-866-8210
休業日 月曜日
営業時間 11:30〜14:30 17:00〜21:00
最寄駅 武蔵新城
駐車場 有
DINNING>RESTAURANTS>ESSAY>Tonkatsu