Eugene Record Of Chi-Lites Dies At 64
2005年7月24日【シャイ・ライツのリード・シンガー、ユージーン・レコード死去】
シカゴアン。
シカゴ・ソウルのR&Bヴォーカル・グループ、シャイ・ライツのリーダー的存在でリード・シンガーでもあったユージーン・レコードが7月22日(金)、シカゴ郊外の娘の自宅で癌のため死去した。64歳だった。
ユージーン・レコードは1940年12月23日イリノイ州シカゴ生まれ。幼少の頃ギターをもらい弾き出したことから音楽にのめりこむようになり、十代の頃から音楽活動を開始。十代後半ですでにR&Bヴォーカル・グループを結成した。58年頃、二つのヴォーカル・グループ(シャンターズとディサイデロス)が合体。グループ名はハイ・ライツとなった。その後64年頃にレコード会社を移籍する時に、名前をシャイ・ライツとした。シャイ・ライツは、シカゴの灯の意味。68年、シカゴの有力プロデューサー、カール・デイヴィスによってブランズウイック・レコードと契約。彼らはデイヴィスのプロデュースで次々と作品を送り出すようになる。
69年、「ギヴ・イット・アウェイ」が初ヒットしたのを皮切りに次々とヒットを出すようになる。70年のヒット「アー・ユー・マイ・ウーマン」(ソウル・チャートで最高位8位)は、後にビヨンセの「クレイジー・イン・ラヴ」にサンプリングされ再び注目された。71年暮れにだしたバラードの「ハヴ・ユー・シーン・ハー」、さらに72年の「オー・ガール」の2大ヒットで、一躍人気グループに。
美しいメロディーとユージーンのリード・ヴォーカルがグループの最大の魅力だったが、76年までに所属レコード会社が脱税で告発され、それにともないグループに税務調査が入り、同じく脱税で罰金刑を言い渡されグループ活動に危機が訪れた。さらに、ユージーンはこうしたことに嫌気がさしグループを脱退し、76年、ソロへ独立。だがソロとしてはそれほどのヒットを放つことはなかった。
またユージーンは一時期、ブランズウィック・レコード所属の女性R&Bシンガー、バーバラ・アクリン(1943〜1998)(後にスイング・アウト・シスターズでヒットする「アム・アイ・ザ・セイム・ガール」で有名)と結婚していた。
シャイ・ライツは1980年、一度オリジナル・メンバーで再結成。メンバーは頻繁に入れ替わったが、90年に再びユージーンが脱退していた。88年、ユージーンはクリスチャンの洗礼を受け、93年にゴスペル・アルバムを出している。また、ユージーンは、ここ数年を癌を患っていた。現在の妻ジャッキーとは31年間連れ添った。シカゴ生まれ、シカゴ育ちの生粋のシカゴアンだった。
また、シャイ・ライツとしては映画『ソウル・サヴァイヴァー(Only The Strong Survive)』に出演していたが、ここで登場していたのはマーシャル・トンプソン、ロバート・レスター、アンソニー・ワトソンの3人でユージーンは参加していなかった。このライヴの模様は99年5月に収録されていた。
ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64)
nasaさん、第一報の情報ありがとうございます。
シカゴアン。
シカゴ・ソウルのR&Bヴォーカル・グループ、シャイ・ライツのリーダー的存在でリード・シンガーでもあったユージーン・レコードが7月22日(金)、シカゴ郊外の娘の自宅で癌のため死去した。64歳だった。
ユージーン・レコードは1940年12月23日イリノイ州シカゴ生まれ。幼少の頃ギターをもらい弾き出したことから音楽にのめりこむようになり、十代の頃から音楽活動を開始。十代後半ですでにR&Bヴォーカル・グループを結成した。58年頃、二つのヴォーカル・グループ(シャンターズとディサイデロス)が合体。グループ名はハイ・ライツとなった。その後64年頃にレコード会社を移籍する時に、名前をシャイ・ライツとした。シャイ・ライツは、シカゴの灯の意味。68年、シカゴの有力プロデューサー、カール・デイヴィスによってブランズウイック・レコードと契約。彼らはデイヴィスのプロデュースで次々と作品を送り出すようになる。
69年、「ギヴ・イット・アウェイ」が初ヒットしたのを皮切りに次々とヒットを出すようになる。70年のヒット「アー・ユー・マイ・ウーマン」(ソウル・チャートで最高位8位)は、後にビヨンセの「クレイジー・イン・ラヴ」にサンプリングされ再び注目された。71年暮れにだしたバラードの「ハヴ・ユー・シーン・ハー」、さらに72年の「オー・ガール」の2大ヒットで、一躍人気グループに。
美しいメロディーとユージーンのリード・ヴォーカルがグループの最大の魅力だったが、76年までに所属レコード会社が脱税で告発され、それにともないグループに税務調査が入り、同じく脱税で罰金刑を言い渡されグループ活動に危機が訪れた。さらに、ユージーンはこうしたことに嫌気がさしグループを脱退し、76年、ソロへ独立。だがソロとしてはそれほどのヒットを放つことはなかった。
またユージーンは一時期、ブランズウィック・レコード所属の女性R&Bシンガー、バーバラ・アクリン(1943〜1998)(後にスイング・アウト・シスターズでヒットする「アム・アイ・ザ・セイム・ガール」で有名)と結婚していた。
シャイ・ライツは1980年、一度オリジナル・メンバーで再結成。メンバーは頻繁に入れ替わったが、90年に再びユージーンが脱退していた。88年、ユージーンはクリスチャンの洗礼を受け、93年にゴスペル・アルバムを出している。また、ユージーンは、ここ数年を癌を患っていた。現在の妻ジャッキーとは31年間連れ添った。シカゴ生まれ、シカゴ育ちの生粋のシカゴアンだった。
また、シャイ・ライツとしては映画『ソウル・サヴァイヴァー(Only The Strong Survive)』に出演していたが、ここで登場していたのはマーシャル・トンプソン、ロバート・レスター、アンソニー・ワトソンの3人でユージーンは参加していなかった。このライヴの模様は99年5月に収録されていた。
ENT>OBITUARY>Record, Eugene>2005.07.22 (64)
nasaさん、第一報の情報ありがとうございます。
【フェイト:R&Aアーティスト】
オルタナティヴ。
昨日モーションブルーでのKDのライヴになんとちらっとケイリブ・ジェームスが来ていた。ちょうど僕の席の真後ろで、何かの拍子に振り向いたらケイリブがいて、びっくりした。ガッツのライヴ以来だ。ガッツの時には、喉の炎症でまったく声が出せずに、筆談をしたほどだったが、この日は声が戻っていた。ただ、あと数日歌は歌えない、という。
ところが、ファーストの途中で彼は帰ったらしい。後で聞くと、その後ギグがあったので早めに出たとのこと。そんなこんなで、彼から昼間電話があり、今日、自分のグループ、フェイト(Phate)のライヴが四谷であるので来ないかという。初めての場所だが行ってみた。
フェイトに関しては、前々から聴いていた。4-5人のバンドでロック色でファンクの要素もあるサウンドという。この日は、ケイリブの声が完治していないので、メンバーとゲスト・ヴォーカルの鈴木桃子さんを大々的にフィーチャーすることになった。
全体的に感じたことは、オルタナティヴなロックでファンクの要素もあるサウンドだな、ということ。ベース(ロレンゾ)とキーボード(ケイリブ)が黒人、もうひとりのキーボード(ベン・フランクリン)はドイツ人、ドラムス(山田たつや)とギター(ディッキー福田)、そして、ゲスト(鈴木桃子)は日本人ということでちょっとした多国籍バンドだ。
ベースとドラムで作るリズムが意外とファンキーだが、その他のギターなどが作るサウンドがロック。このサウンドが出たら、レコードショップ(CDショップ)はどこの棚に置くか悩むだろう。なかなかこういうジャンルがない。従来のバンドで言えば、リプレイスメンツとか、ロマンティックスとか、インエクセスとかそのあたりを思い浮かべた。
そこで思いついたジャンル名! じゃじゃ〜〜ん! R&Bではなく、R&A! リズム&ブルースではなく、リズム&オルタナティヴ。リズムオルタナ、略して、リズオル。(そこまで略すな)
てな話をケイリブにしたら、彼はこう言った。「まだグループとしてのサウンドの方向性が決まっていないんだ。R&A? おもしろいね。僕らは最初、ロンク(Rock + Funk=Rounk)っていうイメージを考えたんだよ(笑)」 なるほどね。ベースのロレンゾはかなりファンキーなベースを弾いていておもしろい。ロンクねえ。なかなかのネーミング。
それにしても、ソウル・サーチンで聴かせるケイリブとはまったく想像もつかないタイプの音楽を聴かせる。ケイリブは引き出しが多いミュージシャンだ。
Setlist
show started 20:22
1. Better Place
2. Rubberman
3. Here And Now
4. Drive
5. Eletrified
6. Yellow Brick Road
7. No No No
8. Bugfood
9. Star
show ended 21:25
Phate:
Kaleb James, Dickey Fukuda, Tsuyoshi Yamada, Lorenzie, Ben Franklin, Momoko Suzuki,
(2005年7月22日金、四谷・ライヴゲイト=フェイト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Phate
オルタナティヴ。
昨日モーションブルーでのKDのライヴになんとちらっとケイリブ・ジェームスが来ていた。ちょうど僕の席の真後ろで、何かの拍子に振り向いたらケイリブがいて、びっくりした。ガッツのライヴ以来だ。ガッツの時には、喉の炎症でまったく声が出せずに、筆談をしたほどだったが、この日は声が戻っていた。ただ、あと数日歌は歌えない、という。
ところが、ファーストの途中で彼は帰ったらしい。後で聞くと、その後ギグがあったので早めに出たとのこと。そんなこんなで、彼から昼間電話があり、今日、自分のグループ、フェイト(Phate)のライヴが四谷であるので来ないかという。初めての場所だが行ってみた。
フェイトに関しては、前々から聴いていた。4-5人のバンドでロック色でファンクの要素もあるサウンドという。この日は、ケイリブの声が完治していないので、メンバーとゲスト・ヴォーカルの鈴木桃子さんを大々的にフィーチャーすることになった。
全体的に感じたことは、オルタナティヴなロックでファンクの要素もあるサウンドだな、ということ。ベース(ロレンゾ)とキーボード(ケイリブ)が黒人、もうひとりのキーボード(ベン・フランクリン)はドイツ人、ドラムス(山田たつや)とギター(ディッキー福田)、そして、ゲスト(鈴木桃子)は日本人ということでちょっとした多国籍バンドだ。
ベースとドラムで作るリズムが意外とファンキーだが、その他のギターなどが作るサウンドがロック。このサウンドが出たら、レコードショップ(CDショップ)はどこの棚に置くか悩むだろう。なかなかこういうジャンルがない。従来のバンドで言えば、リプレイスメンツとか、ロマンティックスとか、インエクセスとかそのあたりを思い浮かべた。
そこで思いついたジャンル名! じゃじゃ〜〜ん! R&Bではなく、R&A! リズム&ブルースではなく、リズム&オルタナティヴ。リズムオルタナ、略して、リズオル。(そこまで略すな)
てな話をケイリブにしたら、彼はこう言った。「まだグループとしてのサウンドの方向性が決まっていないんだ。R&A? おもしろいね。僕らは最初、ロンク(Rock + Funk=Rounk)っていうイメージを考えたんだよ(笑)」 なるほどね。ベースのロレンゾはかなりファンキーなベースを弾いていておもしろい。ロンクねえ。なかなかのネーミング。
それにしても、ソウル・サーチンで聴かせるケイリブとはまったく想像もつかないタイプの音楽を聴かせる。ケイリブは引き出しが多いミュージシャンだ。
Setlist
show started 20:22
1. Better Place
2. Rubberman
3. Here And Now
4. Drive
5. Eletrified
6. Yellow Brick Road
7. No No No
8. Bugfood
9. Star
show ended 21:25
Phate:
Kaleb James, Dickey Fukuda, Tsuyoshi Yamada, Lorenzie, Ben Franklin, Momoko Suzuki,
(2005年7月22日金、四谷・ライヴゲイト=フェイト・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Phate
【K.D.ブロージア・ライヴ】
試行錯誤。
K.D.ブロージアというミシシッピー州出身アトランタ在住の男性ソウル・シンガーのライヴを見た。ソウル・サーチン・トーキングでサックスを吹いていただいた太田剣さんからのお誘いで、モーションブルー。彼がゲストで参加。ソウルバンドなので、きっと僕が興味を持つだろうとのことで誘われた。いろいろな点で興味を持ちました。
ドラムス、ギター、ベース、キーボード1名がブラザーで、もうひとりのキーボードは、あのフィリップ・ウーさん。ソウル・セッションというと、フィリップに会う。(笑) ガッツの時同様、かなりファンキーなバンドで感心した。ドラムス、ギター、ベース、サックスと各人のプレイは気に入った。日本・東京近辺在住の黒人ミュージシャンっていったい何人くらいいるんだろうと思っていたら、ギターのアルバートが2-30人はいるんじゃないか、と教えてくれた。
さて、KDだが、声はなかなかいい。ちょっと深みがあるみたいで、よく言えばフランク・マッコム、ブライアン・マクナイト系か。本人はよくスティーヴィーに声が似ているといわれるそうだが、あんまり感じなかった。また本人はミュージック・ソウルチャイルドを気に入っていて、なるほど、その路線もあるのかな、と。
1部がカヴァー中心で、2部が日本のインディで出したミニアルバムからの曲中心。ところが、彼が実によく日本語をしゃべる。六本木あたりにいるあやしげな黒人がしゃべりそうな日本語が次々とでてくる。けっこうおもしろいところはあるのだが、果たしてソウルシンガーのMCとしてはどうか。逆に吉本あたりに所属する黒人タレントなんて立ち位置だったらおもしろいかもしれない。だから、ヴァラエティーにでる少しおもしろい黒人タレントで、ちょっと歌わせたら、けっこう歌えた、みたいなポジションがあるかもしれないと思った。
1部の選曲は、なかなか興味深く楽しめた。正直に言うと2部のオリジナルはかなりきつい。特に日本語の歌は、外に出た。まずアドヴァイスとすれば、今のところ、KDブロージアとしての音楽的方向性がはっきりしていないので、そこをはっきりさせるのが先決。いわゆるカヴァー・バンド、あるいはカヴァー・アーティストとしてはそこそこいけるだろうから、そこからどう一歩発展させるか。
また書いてしまうが、この名前はなんとかしないと。かっこいい芸名を考えよう。また、本人は気に入ってるというのだが、このドレッドヘアからのヴィジュアルのイメージも、とてもソウルシンガーとは思えない。それと、MCでの日本語はステージでは厳禁にしたほうがいい。どうしても、そこら辺の不良外人に見えて、品が下がる。本人は日本のネオ・ソウル・シンガーとして行きたいとステージで宣言した。ならば、ネオ・ソウル・シンガーらしくクラスを持たないと。エリック・ベネーや、マックスウェル、ディアンジェロのような。
1部の途中から入った太田さんは、「ディスタント・ラヴァー」あたりのブローしまくりがかなりいい感じ。サックスというのは、ソウル度を高める上でいい楽器だ。
とりあえず、まずやってみて、これからいろいろ試行錯誤していくのがいいと思う。ディレクション(方向性)を決めることが第一歩だ。キャラがおもしろいから、そこを生かせるといいかもしれない。
Setlist : original artists are in the ( )
1st
show started 18:44
1. Actions Speak Louder Than Words (Frank McComb)
2. On Broadway (George Benson)
3. Forever, For Always, For Love (Luther / Lalah Hathaway version)
4. World Is A Ghetto (War / Will Downing version)
5. Early In The Morning(Gap Band)
6. Distant Lover (Marvin Gaye)
7. So Fine (Howard Johnson)
show ended 20:01
2nd
show started 20:39
1. How Many Ways 2say Love Part 1(Original)
2. Another Day
3. 青い季節 (Original)
4. I Keep Forgetting (Michael MacDonald)
5. Do Right By U (Original)
6. ハジメマシテ (Original)
7. How Many Ways 2say Love Part 2(Original)
8. Roll Ya Tang (Original)
Enc. Do I Do (Stevie Wonder)
show ended 21:51
メンバー
K.D.Brosia(vo), Philip Woo(key), Anthony Johnson(key), Albert Martin(g), Keith Williamson(b), Jay Stixx(ds) ゲスト:太田 剣(sax)
(2005年7月21日木曜、横浜モーションブルー=K.D.ブロージア・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Brosia, K.D.
試行錯誤。
K.D.ブロージアというミシシッピー州出身アトランタ在住の男性ソウル・シンガーのライヴを見た。ソウル・サーチン・トーキングでサックスを吹いていただいた太田剣さんからのお誘いで、モーションブルー。彼がゲストで参加。ソウルバンドなので、きっと僕が興味を持つだろうとのことで誘われた。いろいろな点で興味を持ちました。
ドラムス、ギター、ベース、キーボード1名がブラザーで、もうひとりのキーボードは、あのフィリップ・ウーさん。ソウル・セッションというと、フィリップに会う。(笑) ガッツの時同様、かなりファンキーなバンドで感心した。ドラムス、ギター、ベース、サックスと各人のプレイは気に入った。日本・東京近辺在住の黒人ミュージシャンっていったい何人くらいいるんだろうと思っていたら、ギターのアルバートが2-30人はいるんじゃないか、と教えてくれた。
さて、KDだが、声はなかなかいい。ちょっと深みがあるみたいで、よく言えばフランク・マッコム、ブライアン・マクナイト系か。本人はよくスティーヴィーに声が似ているといわれるそうだが、あんまり感じなかった。また本人はミュージック・ソウルチャイルドを気に入っていて、なるほど、その路線もあるのかな、と。
1部がカヴァー中心で、2部が日本のインディで出したミニアルバムからの曲中心。ところが、彼が実によく日本語をしゃべる。六本木あたりにいるあやしげな黒人がしゃべりそうな日本語が次々とでてくる。けっこうおもしろいところはあるのだが、果たしてソウルシンガーのMCとしてはどうか。逆に吉本あたりに所属する黒人タレントなんて立ち位置だったらおもしろいかもしれない。だから、ヴァラエティーにでる少しおもしろい黒人タレントで、ちょっと歌わせたら、けっこう歌えた、みたいなポジションがあるかもしれないと思った。
1部の選曲は、なかなか興味深く楽しめた。正直に言うと2部のオリジナルはかなりきつい。特に日本語の歌は、外に出た。まずアドヴァイスとすれば、今のところ、KDブロージアとしての音楽的方向性がはっきりしていないので、そこをはっきりさせるのが先決。いわゆるカヴァー・バンド、あるいはカヴァー・アーティストとしてはそこそこいけるだろうから、そこからどう一歩発展させるか。
また書いてしまうが、この名前はなんとかしないと。かっこいい芸名を考えよう。また、本人は気に入ってるというのだが、このドレッドヘアからのヴィジュアルのイメージも、とてもソウルシンガーとは思えない。それと、MCでの日本語はステージでは厳禁にしたほうがいい。どうしても、そこら辺の不良外人に見えて、品が下がる。本人は日本のネオ・ソウル・シンガーとして行きたいとステージで宣言した。ならば、ネオ・ソウル・シンガーらしくクラスを持たないと。エリック・ベネーや、マックスウェル、ディアンジェロのような。
1部の途中から入った太田さんは、「ディスタント・ラヴァー」あたりのブローしまくりがかなりいい感じ。サックスというのは、ソウル度を高める上でいい楽器だ。
とりあえず、まずやってみて、これからいろいろ試行錯誤していくのがいいと思う。ディレクション(方向性)を決めることが第一歩だ。キャラがおもしろいから、そこを生かせるといいかもしれない。
Setlist : original artists are in the ( )
1st
show started 18:44
1. Actions Speak Louder Than Words (Frank McComb)
2. On Broadway (George Benson)
3. Forever, For Always, For Love (Luther / Lalah Hathaway version)
4. World Is A Ghetto (War / Will Downing version)
5. Early In The Morning(Gap Band)
6. Distant Lover (Marvin Gaye)
7. So Fine (Howard Johnson)
show ended 20:01
2nd
show started 20:39
1. How Many Ways 2say Love Part 1(Original)
2. Another Day
3. 青い季節 (Original)
4. I Keep Forgetting (Michael MacDonald)
5. Do Right By U (Original)
6. ハジメマシテ (Original)
7. How Many Ways 2say Love Part 2(Original)
8. Roll Ya Tang (Original)
Enc. Do I Do (Stevie Wonder)
show ended 21:51
メンバー
K.D.Brosia(vo), Philip Woo(key), Anthony Johnson(key), Albert Martin(g), Keith Williamson(b), Jay Stixx(ds) ゲスト:太田 剣(sax)
(2005年7月21日木曜、横浜モーションブルー=K.D.ブロージア・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Brosia, K.D.
【ヒュー・マサケラ自筆のサインを貰う】
ハグ。
自伝本『スティル・グレイジング』を買って、彼を待っていると、登場するなり、いきなりハグをしてきた。「(日本語で)ありがとう、ありがとう。(これは英語)名前はなんだ?」 「マサハル、これです」 名刺を渡す。
「南アフリカには戻りましたか?」と僕は彼に尋ねた。「今は住んでるよ」 「え〜〜、いつから?」 「14-5年になるかな。アパルトヘイトがなくってからすぐに戻った」 「その時どんな気持ちでしたか?」 「それは素晴らしかったよ。自分が生まれ育った街だし。だが、多くのものが破壊されていた」 自伝本にていねいにサインを書きながら、彼は僕の質問に答えてくれた。
その自伝本を出したのは、1939年南アフリカ生まれのトランペッター、ヒュー・マサケラである。今年66歳。ブルーノートでライヴを行い、CDと自伝を即売し、買ってくれた人にサインをするというわけだ。自伝(2004年発売がでているのは知らなかったので早速買い求め、サインしてもらうことにした。
実は彼のライヴはいつか見てみたいと20年近く思っていた。2年ほど前にひょんなことで来日していたのを後から知ってひじょうに残念な思いをしたが、今回はブルーノートということで期待していた。
なぜ20年も前からか。少し長くなるが書いてみよう。ヒュー・マサケラの存在は知っていた。ヒット・ポップスを追っていれば彼の68年の大ヒット「グレイジン・イン・ザ・グラス」という曲を知ることになる。なにしろ全米ナンバーワン・ヒットだから、どこかで聴いたり、CDのヒット・コンピレーションに入っていたりする。その後70年代に彼がカサブランカ・レコードから出した、少しばかりディスコ調のアルバムも数枚持っている。
そして、1985年9月、彼がジャイヴへ移籍して出したアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・レイン』のライナーを書く機会に恵まれた。これはジャイヴ・アフリカからの彼の2作目だったが、この時いろいろとヒューのことを調べ、彼について詳しく知って大変感銘を受けたのだ。
その後ジャイヴからは同じく南アフリカ出身のギタリスト、ジョナサン・バトラーがデビューする。時を同じくして、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)が国際的に非難をあびるようになり、ミュージシャンたちも反アパルトヘイトの作品を出すようになる。例えば、85年の「サンシティー」(アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト)や、同年のスティーヴィー・ワンダーの『イン・スクエア・サークル』収録の「イッツ・ロング・アパルトヘイト」などである。南アフリカ、アパルトヘイトなどへの興味が広がりつつ、何人かの南アフリカのミュージシャンが長く母国に帰れないでいることを知った。
ジョナサン・バトラーにはインタヴューする機会があったが、ヒュー・マサケラとはまったく縁がなかった。その後僕は88年から『ソウル・サーチン』を書き始め、2000年に出版するが、実はヒュー・マサケラ、ジョナサン・バトラーの二人は、もし取材がじっくりできるなら、書いてみたいと思っていたのだ。
なにしろ、ミュージシャン本人にはなんともし難い政治という要因で母国を追われ、イギリスやアメリカなどのどこかの外国で生きていかなければならない。そして、仮に外国で成功し、南アフリカでレコードが売れても、そこでライヴをできない。そういう過酷な状況でミュージシャンはどう考えていくのか。
ジョナサン・バトラーだったかのインタヴューで、「自分はアパルトヘイトがなくならない限り、母国には帰らない」という強い主張があったが、これはジョナサンだけでなく、一度南アフリカをでた人間にとっては、共通の認識だったようだ。80年代の半ばまではとてもアパルトヘイトがなくなるなどという状況ではなかったから、なおさら、絶望感は強かったに違いない。当然、そこには各人のソウル・サーチンがあるはずで、それを知りたいと思っていた。
ヒュー・マサケラは21歳の時、1960年に、ニューヨークに留学のため行って以来、ずっと母国に帰らないでいた。彼もアパルトヘイトに反対の立場をとるため、母国には帰らないという強い意志をもっていた。そんな彼が南アフリカに戻るのは、91年、アパルトヘイトの撤廃が発表されてからすぐのこと。31年ぶりの帰郷である。
「あなたのライヴは、20年以上、待ち続けていたんですよ」 英語が少し訛っているヒューは、きっと日本語アクセントの僕の英語も聞き取り辛いのだろう。「何年だって?」 「20年以上ですよ」 「それはありがとう」 そして、僕の名刺を見ながら、尋ねてきた。「ソウル・サーチャーか。君は何のソウルを探してるんだ?」 「毎日、あらゆるソウルを探してますよ」と答えると、彼がにやっとして僕に再びハグしてくれた。
+++++
ブルーノートのウェッブ
http://www.bluenote.co.jp/art/20050719.html
(2005年7月20日水曜、ブルーノート東京・ファースト=ヒュー・マサケラ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Masekela, Hugh
ハグ。
自伝本『スティル・グレイジング』を買って、彼を待っていると、登場するなり、いきなりハグをしてきた。「(日本語で)ありがとう、ありがとう。(これは英語)名前はなんだ?」 「マサハル、これです」 名刺を渡す。
「南アフリカには戻りましたか?」と僕は彼に尋ねた。「今は住んでるよ」 「え〜〜、いつから?」 「14-5年になるかな。アパルトヘイトがなくってからすぐに戻った」 「その時どんな気持ちでしたか?」 「それは素晴らしかったよ。自分が生まれ育った街だし。だが、多くのものが破壊されていた」 自伝本にていねいにサインを書きながら、彼は僕の質問に答えてくれた。
その自伝本を出したのは、1939年南アフリカ生まれのトランペッター、ヒュー・マサケラである。今年66歳。ブルーノートでライヴを行い、CDと自伝を即売し、買ってくれた人にサインをするというわけだ。自伝(2004年発売がでているのは知らなかったので早速買い求め、サインしてもらうことにした。
実は彼のライヴはいつか見てみたいと20年近く思っていた。2年ほど前にひょんなことで来日していたのを後から知ってひじょうに残念な思いをしたが、今回はブルーノートということで期待していた。
なぜ20年も前からか。少し長くなるが書いてみよう。ヒュー・マサケラの存在は知っていた。ヒット・ポップスを追っていれば彼の68年の大ヒット「グレイジン・イン・ザ・グラス」という曲を知ることになる。なにしろ全米ナンバーワン・ヒットだから、どこかで聴いたり、CDのヒット・コンピレーションに入っていたりする。その後70年代に彼がカサブランカ・レコードから出した、少しばかりディスコ調のアルバムも数枚持っている。
そして、1985年9月、彼がジャイヴへ移籍して出したアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・レイン』のライナーを書く機会に恵まれた。これはジャイヴ・アフリカからの彼の2作目だったが、この時いろいろとヒューのことを調べ、彼について詳しく知って大変感銘を受けたのだ。
その後ジャイヴからは同じく南アフリカ出身のギタリスト、ジョナサン・バトラーがデビューする。時を同じくして、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)が国際的に非難をあびるようになり、ミュージシャンたちも反アパルトヘイトの作品を出すようになる。例えば、85年の「サンシティー」(アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト)や、同年のスティーヴィー・ワンダーの『イン・スクエア・サークル』収録の「イッツ・ロング・アパルトヘイト」などである。南アフリカ、アパルトヘイトなどへの興味が広がりつつ、何人かの南アフリカのミュージシャンが長く母国に帰れないでいることを知った。
ジョナサン・バトラーにはインタヴューする機会があったが、ヒュー・マサケラとはまったく縁がなかった。その後僕は88年から『ソウル・サーチン』を書き始め、2000年に出版するが、実はヒュー・マサケラ、ジョナサン・バトラーの二人は、もし取材がじっくりできるなら、書いてみたいと思っていたのだ。
なにしろ、ミュージシャン本人にはなんともし難い政治という要因で母国を追われ、イギリスやアメリカなどのどこかの外国で生きていかなければならない。そして、仮に外国で成功し、南アフリカでレコードが売れても、そこでライヴをできない。そういう過酷な状況でミュージシャンはどう考えていくのか。
ジョナサン・バトラーだったかのインタヴューで、「自分はアパルトヘイトがなくならない限り、母国には帰らない」という強い主張があったが、これはジョナサンだけでなく、一度南アフリカをでた人間にとっては、共通の認識だったようだ。80年代の半ばまではとてもアパルトヘイトがなくなるなどという状況ではなかったから、なおさら、絶望感は強かったに違いない。当然、そこには各人のソウル・サーチンがあるはずで、それを知りたいと思っていた。
ヒュー・マサケラは21歳の時、1960年に、ニューヨークに留学のため行って以来、ずっと母国に帰らないでいた。彼もアパルトヘイトに反対の立場をとるため、母国には帰らないという強い意志をもっていた。そんな彼が南アフリカに戻るのは、91年、アパルトヘイトの撤廃が発表されてからすぐのこと。31年ぶりの帰郷である。
「あなたのライヴは、20年以上、待ち続けていたんですよ」 英語が少し訛っているヒューは、きっと日本語アクセントの僕の英語も聞き取り辛いのだろう。「何年だって?」 「20年以上ですよ」 「それはありがとう」 そして、僕の名刺を見ながら、尋ねてきた。「ソウル・サーチャーか。君は何のソウルを探してるんだ?」 「毎日、あらゆるソウルを探してますよ」と答えると、彼がにやっとして僕に再びハグしてくれた。
+++++
ブルーノートのウェッブ
http://www.bluenote.co.jp/art/20050719.html
(2005年7月20日水曜、ブルーノート東京・ファースト=ヒュー・マサケラ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Masekela, Hugh
【試行錯誤の選曲】
没。
実は、昨日のライヴで、他にいくつかの候補曲があったが、ぼつになったものがあった。当初、いろいろ候補曲を上げてみて、その中から17曲ほど選んだCDをメンバー用に作った。1曲目にいれたのが、「スターダスト」だった。
フランクリンズは3回リハーサルをやったが、「スターダスト」は結局、できなかった。というのも、時間がなくなってしまったということと、この曲はかなり難しいということで、西任(にしと)さんがギヴアップした。一方、スティーヴィーの「レイトリー」はリハーサルはして一応形にはなったが、オリジナルの持つ独特の雰囲気を出すことがひじょうに難しいということで、没になった。
他に、幸三さんのリクエスト、「青い影」が没になった。リハができなかった。こういうポップスを1曲いれてもよかったかもしれない。その代わり、お店のスタッフのリクエストで「シャドウ・オブ・ユア・スマイル(いそしぎ)」が入った。
純粋な40年代のスタンダードから、60年代のオールディーズ、ジャズ・インスト、ボサ調とか、ヴァラエティーをだしてもよかった。
また40分を2ステージということで、結局7曲ずつ14曲を選んだが、これでも実際の時間は50分近くになった。きっと、6曲ずつてもよかったのかもしれない。
2度のセットのトップはインストゥルメンタルでというのは、すぐに決まった。そして、一番最後の曲を決め、その間にはいる曲をいろいろ考えながらみんなで決めてみた。
曲順の順列組合せは星の数ほどある。そこからひとつのセットリストを作るのは、けっこう大変だ。
ENT>MUSIC>LIVE>Franklins
没。
実は、昨日のライヴで、他にいくつかの候補曲があったが、ぼつになったものがあった。当初、いろいろ候補曲を上げてみて、その中から17曲ほど選んだCDをメンバー用に作った。1曲目にいれたのが、「スターダスト」だった。
フランクリンズは3回リハーサルをやったが、「スターダスト」は結局、できなかった。というのも、時間がなくなってしまったということと、この曲はかなり難しいということで、西任(にしと)さんがギヴアップした。一方、スティーヴィーの「レイトリー」はリハーサルはして一応形にはなったが、オリジナルの持つ独特の雰囲気を出すことがひじょうに難しいということで、没になった。
他に、幸三さんのリクエスト、「青い影」が没になった。リハができなかった。こういうポップスを1曲いれてもよかったかもしれない。その代わり、お店のスタッフのリクエストで「シャドウ・オブ・ユア・スマイル(いそしぎ)」が入った。
純粋な40年代のスタンダードから、60年代のオールディーズ、ジャズ・インスト、ボサ調とか、ヴァラエティーをだしてもよかった。
また40分を2ステージということで、結局7曲ずつ14曲を選んだが、これでも実際の時間は50分近くになった。きっと、6曲ずつてもよかったのかもしれない。
2度のセットのトップはインストゥルメンタルでというのは、すぐに決まった。そして、一番最後の曲を決め、その間にはいる曲をいろいろ考えながらみんなで決めてみた。
曲順の順列組合せは星の数ほどある。そこからひとつのセットリストを作るのは、けっこう大変だ。
ENT>MUSIC>LIVE>Franklins
本日の出演者=Franklins (フランクリンズ)
西任白鵠(にしと・あきこ)=ヴォーカル
永田ジョージ(ながた・じょーじ)=ピアノ
森田聡(もりた・さとし)= ベース
松本幸三(まつもと・こうぞう)=ドラムス
ゲスト:中津留哲志(なかつる・さとし)=サックス
+++++
永田ジョージさんのブログ (すでに18日の記事です)
http://kamesan.net/blog/archives/2005/07/syncopationfran.html
西任白鵠さんのブログ
http://blog.so-net.ne.jp/acko/
+++++
SETLIST
FIRST SET
show started 19.10
1. Now’s The Time (Instrumental)
2. Close To You
3. Cry Me A River
4. Smile
5. Theme From Mahogany
6. Shadow Of Your Smile (Instrumental)
7. Fly Me To The Moon
show ended 19.53
SECOND SET
show started 20.21
1. On The Green Dolphin (Instrumental)
2. Moonlight Serenade
3. Over The Rainbow
4. The Look Of Love
5. Someone To Watch Over Me
6. My Favorite Thing
Enc. Night & Day
show ended 21.08
(2005年7月18日月曜、フランクリン・アヴェニュー=フランクリンズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Franklins
西任白鵠(にしと・あきこ)=ヴォーカル
永田ジョージ(ながた・じょーじ)=ピアノ
森田聡(もりた・さとし)= ベース
松本幸三(まつもと・こうぞう)=ドラムス
ゲスト:中津留哲志(なかつる・さとし)=サックス
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永田ジョージさんのブログ (すでに18日の記事です)
http://kamesan.net/blog/archives/2005/07/syncopationfran.html
西任白鵠さんのブログ
http://blog.so-net.ne.jp/acko/
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SETLIST
FIRST SET
show started 19.10
1. Now’s The Time (Instrumental)
2. Close To You
3. Cry Me A River
4. Smile
5. Theme From Mahogany
6. Shadow Of Your Smile (Instrumental)
7. Fly Me To The Moon
show ended 19.53
SECOND SET
show started 20.21
1. On The Green Dolphin (Instrumental)
2. Moonlight Serenade
3. Over The Rainbow
4. The Look Of Love
5. Someone To Watch Over Me
6. My Favorite Thing
Enc. Night & Day
show ended 21.08
(2005年7月18日月曜、フランクリン・アヴェニュー=フランクリンズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Franklins
Franklins Live At Franklin Avenue
2005年7月19日【フランクリンズ初ライヴ】
感謝。
島津山の瀟洒の一軒屋でおいしいハンバーガーを供して15年。フランクリン・アヴェニューが15年にして初めてのライヴ・イヴェントを行った。幸三さんのひょんな一言から始まったこのイヴェント。7月18日、海の日、無事終った。結局満員になってしまい、何人かのお客様は外のテラスでのお食事となってしまったが、とりあえず戻ってきたアンケートではよかったという声が多く一安心している。ご来場いただいたかた、ありがとうございます。
なんと40枚のアンケートが返ってきたのだが、これは驚異的。6割以上の方に書いていただいたことになります。ありがとうございます。イヴェント自体素晴らしかった45%、よかった50%、普通5%との結果。ライヴの評価も90%が好意的、さらにハンバーガーとドリンクへの評価は、素晴らしかった50%、よかった45%でさすが。
やってみていろいろ反省点もでたので、次回以降はさらにブラッシュアップしたものを試してみたい。やはり一番はステージの場所かなあ。今回はピアノの位置を動かさずにやろうということになったが、やはり次回はピアノをお店の中央に持ってきたほうがお客さんからすると見やすい。それと、席数の問題もある。お店が比較的ゆったりはしているものの、普段とは違うシーティングでけっこう入ってる感がある。外は食べるのには使えるが、ライヴも聞こえるが、集中して聴くことはできない。もっともおしゃべりしながら、BGMとして音楽を捉えるとなれば、外の席もとてもいい。例えば50名限定という考え方もあるかもしれない。ステージの場所とか、照明とか、いろいろ考えるときりがない。(笑)
とはいうものの、基本的にはおいしいものを食べて、そこに気軽な生の音楽があって、そして語らいがあるパーティーの雰囲気はとてもよかったと思う。それらがあれば、休日の夜は満ち足りるものになるだろう。やってるほうも、そして来て頂いた方も楽しんでいただければ、それでいい。
今、さきほどの同録を聴きながら書いてるが、お客さんの拍手の入ったライヴを聴いていると、いつの日にか『LIVE AT FRANKLIN AVENUE』なんてCDができればなどと思う。
演奏をしてくれた永田さん、西任さん、森田さん、中津留さん、そして、松本幸三さん、写真を撮ってくれたゆんこさん、CDジャケットのデザインをしてくれた栗原さん、CD焼きをすべてやっていただいた森下さん、そして、フランクリンのスタッフのみなさん、ありがとうございました。
最後片付けが終った後、幸三さんがもらした一言が印象に残った。「あんな一言(幸三さんが言った『バンドやりたいんだけど』)からでも、(こうして)できちゃうんだねえ」。
本日フランクリンズが披露した曲のリストと簡単な紹介をプリントしたものを、終演後お客様にお配りした。それをそのままご紹介します。
+++++
SETLIST FOR FRANKLINS JAZZ & BURGER VOL.1
2005.07.18 AT 7025 FRANKLIN AVENUE, Shimazuyama, Tokyo
今日はようこそ、フランクリンズ・ジャズ&バーガーVOL.1へいらっしゃいました。お楽しみいただけたでしょうか。カーネギー・ホールを目指すフランクリンズが本日演奏した作品をご紹介します。
また、予約された方にお渡ししたCDは、当初、メンバーがこんな曲をやってみたいという候補としてあげた作品を集めたものです。その中から何曲かが選ばれ、そして、何曲かがこのCDに収録されていないものから選ばれました。
FIRST SET
1. Now’s The Time (Instrumental)
チャーリー・パーカーの作品。1945年に愛弟子マイルス・デイヴィスを加えてレコーディングした作品。ジャズの定番となり、後に多数のアーティストが録音した。
1. Close To You
名作曲家チーム、バート・バカラック&ハル・デイヴィッドが書いた作品。1970年に兄弟姉妹デュオ、カーペンターズがヒットさせ全米ナンバーワンに輝いた。
2. Cry Me A River
1953年アーサー・ハミルトンが書いた作品。同年ジュリー・ロンドンで大ヒット。その後多くのシンガーがカヴァーした。「あなたも泣いたというけれど、それなら、泣きなさい。私だって泣かされたんだから」という強烈なメッセージの作品。
3. Smile
チャーリー・チャップリンが映画『モダンタイムス』のために1936年に書いた作品。作詞はジョン・ターナー、ジェフリー・パーソンズ。1954年にナット・キング・コールの歌で大ヒットした。
4. Theme From Mahogany
ダイアナ・ロスが主演した映画『マホガニー』のテーマ曲。75年11月からヒットし全米ナンバーワンに。日本ではコーヒーのネスカフェのCMに長く使われて有名。
5. Shadow Of Your Smile (Instrumental)
1965年エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが主演した映画『サンドパイパー』のテーマ曲。65年度のアカデミー賞主題歌賞、グラミー賞を獲得した。トニー・ベネットなど多数が録音。
6. Fly Me To The Moon
元々1954年にバート・ハワードという人によって書かれたが、63年ボサノヴァ調のジョー・ハーネルのヴァージョンが大ヒットした。その後カヴァー多数。
SECOND SET
1. On The Green Dolphin Street (Instrumental)
マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、ライオネル・ハンプトン、オスカー・ピーターソンなど多数のジャズミュージシャンに愛されているジャズの名曲のひとつ。元々映画『大地は怒る(Green Dolphin Street)』のテーマ曲をうまくアレンジして作られた作品。エラ・フィッツジェラルド、ダイナ・ワシントンなどヴォーカルものもあるが、ジャズインストものも多数。
2. Moonlight Serenade
1939年にグレン・ミラーが書いたクラシック。映画『グレン・ミラー物語』にも使われている。グレン・ミラー楽団のテーマ曲ともなった。
3. Over The Rainbow
1939年ミュージカル映画『オズの魔法使い』でジュディー・ガーランドが歌って大ヒットした。同年度アカデミー賞受賞。ジュディー・ガーランドのテーマ曲。レイ・チャールズの遺作『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』にも収録されている。
4. The Look Of Love
1965年バート・バカラック&ハル・デイヴィッドが書いた作品。67年、ダスティー・スプリングフィールドのヴァージョンがヒット、その翌年セルジオ・メンデス&ブラジル66のものもトップ10に入る大ヒットとなった。映画『カジノ・ロワイヤル』にも使われた。
5. Someone To Watch Over Me
1926年にガーシュイン兄弟によって書かれた名曲。ジョージ・ガーシュインの伝記映画『ラプソディー・イン・ブルー』を始め多数の映画、ミュージカルなどに使われている。
6. My Favorite Thing
1959年オスカー・ハマーステインとリチャード・ロジャースのコンビによって書かれた名曲。同年のミュージカル、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入歌。映画版ではジュリー・アンドリュースが歌った。
アンコール Night & Day
1932年にコール・ポーターによって書かれた作品。フレッド・アステアらが出たミュージカル『ゲイ・ディヴォース』で使われた。その映画版『コンチネンタル』(1934年)では、アステアとジンジャー・ロジャースが歌った。同名のミュージカル映画にも使用された。多数のカヴァーがあるが、フランク・シナトラのヴァージョンは特に有名。一時期、シナトラはこれをオープニングテーマにしていた。
本日の出演者=Franklins (フランクリンズ)
西任白鵠(にしと・あきこ)=ヴォーカル
永田ジョージ(ながた・じょーじ)=ピアノ
森田聡(もりた・さとし)= ベース
松本幸三(まつもと・こうぞう)=ドラムス
ゲスト:中津留哲志(なかつる・さ…
感謝。
島津山の瀟洒の一軒屋でおいしいハンバーガーを供して15年。フランクリン・アヴェニューが15年にして初めてのライヴ・イヴェントを行った。幸三さんのひょんな一言から始まったこのイヴェント。7月18日、海の日、無事終った。結局満員になってしまい、何人かのお客様は外のテラスでのお食事となってしまったが、とりあえず戻ってきたアンケートではよかったという声が多く一安心している。ご来場いただいたかた、ありがとうございます。
なんと40枚のアンケートが返ってきたのだが、これは驚異的。6割以上の方に書いていただいたことになります。ありがとうございます。イヴェント自体素晴らしかった45%、よかった50%、普通5%との結果。ライヴの評価も90%が好意的、さらにハンバーガーとドリンクへの評価は、素晴らしかった50%、よかった45%でさすが。
やってみていろいろ反省点もでたので、次回以降はさらにブラッシュアップしたものを試してみたい。やはり一番はステージの場所かなあ。今回はピアノの位置を動かさずにやろうということになったが、やはり次回はピアノをお店の中央に持ってきたほうがお客さんからすると見やすい。それと、席数の問題もある。お店が比較的ゆったりはしているものの、普段とは違うシーティングでけっこう入ってる感がある。外は食べるのには使えるが、ライヴも聞こえるが、集中して聴くことはできない。もっともおしゃべりしながら、BGMとして音楽を捉えるとなれば、外の席もとてもいい。例えば50名限定という考え方もあるかもしれない。ステージの場所とか、照明とか、いろいろ考えるときりがない。(笑)
とはいうものの、基本的にはおいしいものを食べて、そこに気軽な生の音楽があって、そして語らいがあるパーティーの雰囲気はとてもよかったと思う。それらがあれば、休日の夜は満ち足りるものになるだろう。やってるほうも、そして来て頂いた方も楽しんでいただければ、それでいい。
今、さきほどの同録を聴きながら書いてるが、お客さんの拍手の入ったライヴを聴いていると、いつの日にか『LIVE AT FRANKLIN AVENUE』なんてCDができればなどと思う。
演奏をしてくれた永田さん、西任さん、森田さん、中津留さん、そして、松本幸三さん、写真を撮ってくれたゆんこさん、CDジャケットのデザインをしてくれた栗原さん、CD焼きをすべてやっていただいた森下さん、そして、フランクリンのスタッフのみなさん、ありがとうございました。
最後片付けが終った後、幸三さんがもらした一言が印象に残った。「あんな一言(幸三さんが言った『バンドやりたいんだけど』)からでも、(こうして)できちゃうんだねえ」。
本日フランクリンズが披露した曲のリストと簡単な紹介をプリントしたものを、終演後お客様にお配りした。それをそのままご紹介します。
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SETLIST FOR FRANKLINS JAZZ & BURGER VOL.1
2005.07.18 AT 7025 FRANKLIN AVENUE, Shimazuyama, Tokyo
今日はようこそ、フランクリンズ・ジャズ&バーガーVOL.1へいらっしゃいました。お楽しみいただけたでしょうか。カーネギー・ホールを目指すフランクリンズが本日演奏した作品をご紹介します。
また、予約された方にお渡ししたCDは、当初、メンバーがこんな曲をやってみたいという候補としてあげた作品を集めたものです。その中から何曲かが選ばれ、そして、何曲かがこのCDに収録されていないものから選ばれました。
FIRST SET
1. Now’s The Time (Instrumental)
チャーリー・パーカーの作品。1945年に愛弟子マイルス・デイヴィスを加えてレコーディングした作品。ジャズの定番となり、後に多数のアーティストが録音した。
1. Close To You
名作曲家チーム、バート・バカラック&ハル・デイヴィッドが書いた作品。1970年に兄弟姉妹デュオ、カーペンターズがヒットさせ全米ナンバーワンに輝いた。
2. Cry Me A River
1953年アーサー・ハミルトンが書いた作品。同年ジュリー・ロンドンで大ヒット。その後多くのシンガーがカヴァーした。「あなたも泣いたというけれど、それなら、泣きなさい。私だって泣かされたんだから」という強烈なメッセージの作品。
3. Smile
チャーリー・チャップリンが映画『モダンタイムス』のために1936年に書いた作品。作詞はジョン・ターナー、ジェフリー・パーソンズ。1954年にナット・キング・コールの歌で大ヒットした。
4. Theme From Mahogany
ダイアナ・ロスが主演した映画『マホガニー』のテーマ曲。75年11月からヒットし全米ナンバーワンに。日本ではコーヒーのネスカフェのCMに長く使われて有名。
5. Shadow Of Your Smile (Instrumental)
1965年エリザベス・テイラーとリチャード・バートンが主演した映画『サンドパイパー』のテーマ曲。65年度のアカデミー賞主題歌賞、グラミー賞を獲得した。トニー・ベネットなど多数が録音。
6. Fly Me To The Moon
元々1954年にバート・ハワードという人によって書かれたが、63年ボサノヴァ調のジョー・ハーネルのヴァージョンが大ヒットした。その後カヴァー多数。
SECOND SET
1. On The Green Dolphin Street (Instrumental)
マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、ライオネル・ハンプトン、オスカー・ピーターソンなど多数のジャズミュージシャンに愛されているジャズの名曲のひとつ。元々映画『大地は怒る(Green Dolphin Street)』のテーマ曲をうまくアレンジして作られた作品。エラ・フィッツジェラルド、ダイナ・ワシントンなどヴォーカルものもあるが、ジャズインストものも多数。
2. Moonlight Serenade
1939年にグレン・ミラーが書いたクラシック。映画『グレン・ミラー物語』にも使われている。グレン・ミラー楽団のテーマ曲ともなった。
3. Over The Rainbow
1939年ミュージカル映画『オズの魔法使い』でジュディー・ガーランドが歌って大ヒットした。同年度アカデミー賞受賞。ジュディー・ガーランドのテーマ曲。レイ・チャールズの遺作『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』にも収録されている。
4. The Look Of Love
1965年バート・バカラック&ハル・デイヴィッドが書いた作品。67年、ダスティー・スプリングフィールドのヴァージョンがヒット、その翌年セルジオ・メンデス&ブラジル66のものもトップ10に入る大ヒットとなった。映画『カジノ・ロワイヤル』にも使われた。
5. Someone To Watch Over Me
1926年にガーシュイン兄弟によって書かれた名曲。ジョージ・ガーシュインの伝記映画『ラプソディー・イン・ブルー』を始め多数の映画、ミュージカルなどに使われている。
6. My Favorite Thing
1959年オスカー・ハマーステインとリチャード・ロジャースのコンビによって書かれた名曲。同年のミュージカル、映画『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入歌。映画版ではジュリー・アンドリュースが歌った。
アンコール Night & Day
1932年にコール・ポーターによって書かれた作品。フレッド・アステアらが出たミュージカル『ゲイ・ディヴォース』で使われた。その映画版『コンチネンタル』(1934年)では、アステアとジンジャー・ロジャースが歌った。同名のミュージカル映画にも使用された。多数のカヴァーがあるが、フランク・シナトラのヴァージョンは特に有名。一時期、シナトラはこれをオープニングテーマにしていた。
本日の出演者=Franklins (フランクリンズ)
西任白鵠(にしと・あきこ)=ヴォーカル
永田ジョージ(ながた・じょーじ)=ピアノ
森田聡(もりた・さとし)= ベース
松本幸三(まつもと・こうぞう)=ドラムス
ゲスト:中津留哲志(なかつる・さ…
False Ending For Party
2005年7月18日【後テーマに乗せてお祝いメッセージ】
祝。
番組のスタッフ橋本安弘くんと優子さんの結婚披露宴があって、『ソウル・ブレンズ』チーム、全員で参加した。1-2週間前から、我々で何か余興をやらないとだめだという話になっていて、オッシーが考えたのが・・・。
ちょうど、この日、日曜は『ソウル・ブレンズ』の生放送終わりでかけつけることになる。そこで、「番組のエンディングでヤス(橋本くんの愛称)へのお祝いの言葉をみんなで言って、それを録音して、披露宴の会場で披露しよう」ということにあいなった。
しかし、さすがに2-3分それに費やすとなると、若干の問題があるのと、あまりに内輪受けになるのではと懸念されたので、そっくりそのまま番組終ってすぐに録音することにしたのだ。
で、スタッフ全員が番組の後テーマに乗って、一言お祝いを言った。BGMは、通常のエンディングテーマで、いかにもそれ風にリスナーからのお便りを一通読んだ後に、スタッフからのメッセージを紹介。徐々にスタッフのメッセージもエキサイト。ほんとにこんなの放送で流せるのか、って感じに。BGMは、途中からアトランティック・スターの「オールウェイズ」! 直球です。(笑)
そして、これを会場で流しました。けっこうかなりの人が本物だと思ったみたい。最後流し終わった後、オッシーが、「実はこれは・・・オンエアしたものではなく、このために録音したものです」と種明かしをしたのだが、まあ、よかったのではないだろうか。
披露宴は、ブラジルのダンサーが登場し、かなりはちゃめちゃな感じで、楽しかった。
2次会では、もうひとりのソウルメイト、デイヴ・フロム氏、デイヴ節炸裂で手がつけられません。これを封じ込める唯一の秘策は、デイヴを司会者の役に押し込めるしかない、という結論に達した。
安弘さん、優子さん、末永くお幸せに。
Peace!
ESSAY>DIARY>
祝。
番組のスタッフ橋本安弘くんと優子さんの結婚披露宴があって、『ソウル・ブレンズ』チーム、全員で参加した。1-2週間前から、我々で何か余興をやらないとだめだという話になっていて、オッシーが考えたのが・・・。
ちょうど、この日、日曜は『ソウル・ブレンズ』の生放送終わりでかけつけることになる。そこで、「番組のエンディングでヤス(橋本くんの愛称)へのお祝いの言葉をみんなで言って、それを録音して、披露宴の会場で披露しよう」ということにあいなった。
しかし、さすがに2-3分それに費やすとなると、若干の問題があるのと、あまりに内輪受けになるのではと懸念されたので、そっくりそのまま番組終ってすぐに録音することにしたのだ。
で、スタッフ全員が番組の後テーマに乗って、一言お祝いを言った。BGMは、通常のエンディングテーマで、いかにもそれ風にリスナーからのお便りを一通読んだ後に、スタッフからのメッセージを紹介。徐々にスタッフのメッセージもエキサイト。ほんとにこんなの放送で流せるのか、って感じに。BGMは、途中からアトランティック・スターの「オールウェイズ」! 直球です。(笑)
そして、これを会場で流しました。けっこうかなりの人が本物だと思ったみたい。最後流し終わった後、オッシーが、「実はこれは・・・オンエアしたものではなく、このために録音したものです」と種明かしをしたのだが、まあ、よかったのではないだろうか。
披露宴は、ブラジルのダンサーが登場し、かなりはちゃめちゃな感じで、楽しかった。
2次会では、もうひとりのソウルメイト、デイヴ・フロム氏、デイヴ節炸裂で手がつけられません。これを封じ込める唯一の秘策は、デイヴを司会者の役に押し込めるしかない、という結論に達した。
安弘さん、優子さん、末永くお幸せに。
Peace!
ESSAY>DIARY>
【おいしいバーガーとテイスティーなワインとグッドミュージック】
発信。
いよいよフランクリンズのイヴェントが明日になった。昨日(土曜)夕方、ミュージシャン5人で最終的なリハーサルを3時間ほどやってきた。それはさておき、フード&ドリンクが、かなり充実しているらしい。
フランクリンのオウナー、松本幸三さんの話によると「ワインもけっこういいもの用意しました。ソフトドリンクも多数あります。イチゴも頼んでしまいました。ハンバーガー3〜4種に、フライドポテト、チキン、サラダなどなど、たくさん食べていただきます」という。「飲み放題」という表記は「好きではない」という理由から、そう書いていないが、実際はいくら飲んでいただいてもかまわない。
15年のフランクリンの歴史の中で初めてのイヴェントなので、果たしてどうなることやら。おいしいバーガーとドリンクと、そして、気持ちよい音楽。あとはそこに来るお客さんがどういう楽しみ方をするかだ。僕は、きっといい雰囲気のパーティーになるような気がしている。
そもそも、昨年だったか、フランクリンにハンバーガーを食べに行った時に、「吉岡さん、誰かいいシンガーいません? 今度バンドやるんですよ」と幸三さんに言われてから始まったプロジェクトだった。かなり、成り行き度の強いプロジェクトだったが、5月くらいから準備して、準備は万端。
実は幸三さんは、その昔、グループサウンズでドラムを叩いていた。アルバムも出しているフィンガーズというグループだ。ここには高橋幸宏氏の兄もいたり、シー・ユー・チェンといった人物がいたりというかなりマニアックながらおもしろいバンドだった。といっても、僕なんかが知る由もないのだが。
ハンバーガーが大当たりして、このところ、休みの日などに昔とった杵柄(きねづか)で、ドラムをやりだしたあたりから、またぞろ、バンドマン魂が頭をもたげてきたらしい。
ここ2ヶ月ほど、毎日のようにドラムの練習をしているらしく、体中、筋肉痛になっているという。だが健康的にはかなりいいようだ。
幸三さんが言った。「お店も同じことをしていてもだめだと思うんですよ。隣の(ヌキテパの)田辺さんもね、店は常に何かを発信してないとだめなんだって言うんですよ。こんどのイヴェントは、フランクリンからの発信になるんです」。
今回のイヴェントは実験的な意味合いもあるので、お店では一切告知してこなかった。
+++++
基本的には予約が必要です。おみやげCDは予約者だけの特典。予約のない方は、予約者の入場が終ってからになります。ひょっとするとライヴ時は立ち見になるかもしれませんが、まだなんとかなるかもしれません。予約ご希望の方は、下記へ、お名前、電話番号、メールアドレス、どこでこのイヴェントを知ったかを書いて、メールを送ってください。
Franklins0718@yahoo.co.jp
詳細は7月11日付日記をご覧下さい。
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_11.html
+++++
ENT>MUSIC>EVENT>Franklin’s Jazz & Burger Vol.1
発信。
いよいよフランクリンズのイヴェントが明日になった。昨日(土曜)夕方、ミュージシャン5人で最終的なリハーサルを3時間ほどやってきた。それはさておき、フード&ドリンクが、かなり充実しているらしい。
フランクリンのオウナー、松本幸三さんの話によると「ワインもけっこういいもの用意しました。ソフトドリンクも多数あります。イチゴも頼んでしまいました。ハンバーガー3〜4種に、フライドポテト、チキン、サラダなどなど、たくさん食べていただきます」という。「飲み放題」という表記は「好きではない」という理由から、そう書いていないが、実際はいくら飲んでいただいてもかまわない。
15年のフランクリンの歴史の中で初めてのイヴェントなので、果たしてどうなることやら。おいしいバーガーとドリンクと、そして、気持ちよい音楽。あとはそこに来るお客さんがどういう楽しみ方をするかだ。僕は、きっといい雰囲気のパーティーになるような気がしている。
そもそも、昨年だったか、フランクリンにハンバーガーを食べに行った時に、「吉岡さん、誰かいいシンガーいません? 今度バンドやるんですよ」と幸三さんに言われてから始まったプロジェクトだった。かなり、成り行き度の強いプロジェクトだったが、5月くらいから準備して、準備は万端。
実は幸三さんは、その昔、グループサウンズでドラムを叩いていた。アルバムも出しているフィンガーズというグループだ。ここには高橋幸宏氏の兄もいたり、シー・ユー・チェンといった人物がいたりというかなりマニアックながらおもしろいバンドだった。といっても、僕なんかが知る由もないのだが。
ハンバーガーが大当たりして、このところ、休みの日などに昔とった杵柄(きねづか)で、ドラムをやりだしたあたりから、またぞろ、バンドマン魂が頭をもたげてきたらしい。
ここ2ヶ月ほど、毎日のようにドラムの練習をしているらしく、体中、筋肉痛になっているという。だが健康的にはかなりいいようだ。
幸三さんが言った。「お店も同じことをしていてもだめだと思うんですよ。隣の(ヌキテパの)田辺さんもね、店は常に何かを発信してないとだめなんだって言うんですよ。こんどのイヴェントは、フランクリンからの発信になるんです」。
今回のイヴェントは実験的な意味合いもあるので、お店では一切告知してこなかった。
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基本的には予約が必要です。おみやげCDは予約者だけの特典。予約のない方は、予約者の入場が終ってからになります。ひょっとするとライヴ時は立ち見になるかもしれませんが、まだなんとかなるかもしれません。予約ご希望の方は、下記へ、お名前、電話番号、メールアドレス、どこでこのイヴェントを知ったかを書いて、メールを送ってください。
Franklins0718@yahoo.co.jp
詳細は7月11日付日記をご覧下さい。
http://blog.soulsearchin.com/archives/2005_07_11.html
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ENT>MUSIC>EVENT>Franklin’s Jazz & Burger Vol.1
Shirley Goodman Dies At 69
2005年7月16日【シャーリー・グッドマン死去】
他界。
1956年夏に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」のヒットを放ったデュエット、シャーリー&リーのうち、シャーリー・ピクスレー・グッドマンが、去る7月5日ロス・アンジェルスで死去した。69歳。シャーリー・グッドマンは、1936年6月19日ニューオーリンズ生まれ(35年説も=その場合は70歳)。男性シンガー、レオナード・リーと組んで、シャーリー&リーとしてニューオーリンズを本拠に活躍。52年、「アイム・ゴーン」の大ヒットで一躍知られるようになる。
その後56年に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」が大ヒット。しばらくシャーリー&リーとして活動していたが、63年、パートナーを変え、シャーリー&ジェシー(・ヒル)として活動。
75年、ニュージャージー州のインディ・レーベル、ヴァイブレーション(シルヴィア・ロビンソンが経営)から、シャーリー&カンパニーとして「シェイム・シェイム・シェイム」の大ヒットを放った。この曲は当時ニューヨークを中心としたディスコでヒット。日本でも一部のディスコでプレイされた。この大ヒットの後、シャーリーは79年頃まで音楽活動を続けていたが、79年に引退していた。
なお、シャーリー&リーのうち、レオナード・リー(1935年6月29日生まれ)は、1976年10月23日、心臓発作で41歳の若さで他界している。
ENT>OBITUARY>Goodman, Shirley>2005.07.05 (69)
他界。
1956年夏に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」のヒットを放ったデュエット、シャーリー&リーのうち、シャーリー・ピクスレー・グッドマンが、去る7月5日ロス・アンジェルスで死去した。69歳。シャーリー・グッドマンは、1936年6月19日ニューオーリンズ生まれ(35年説も=その場合は70歳)。男性シンガー、レオナード・リーと組んで、シャーリー&リーとしてニューオーリンズを本拠に活躍。52年、「アイム・ゴーン」の大ヒットで一躍知られるようになる。
その後56年に「レット・ザ・グッドタイムス・ロール」が大ヒット。しばらくシャーリー&リーとして活動していたが、63年、パートナーを変え、シャーリー&ジェシー(・ヒル)として活動。
75年、ニュージャージー州のインディ・レーベル、ヴァイブレーション(シルヴィア・ロビンソンが経営)から、シャーリー&カンパニーとして「シェイム・シェイム・シェイム」の大ヒットを放った。この曲は当時ニューヨークを中心としたディスコでヒット。日本でも一部のディスコでプレイされた。この大ヒットの後、シャーリーは79年頃まで音楽活動を続けていたが、79年に引退していた。
なお、シャーリー&リーのうち、レオナード・リー(1935年6月29日生まれ)は、1976年10月23日、心臓発作で41歳の若さで他界している。
ENT>OBITUARY>Goodman, Shirley>2005.07.05 (69)
Nothing Happened As Scheduled
2005年7月15日【予定外】
ハプニング。
突然音楽とまったく関係ない友人から、今日スイートベイジルでポンタボックスのライヴがあるから行きませんか、との誘い。調べてみたら、近藤房之助 さんとのジョイント。予定を変更して行ってみた。
3部構成。1,2部がポンタボックスのトリオでの演奏。1部はマイルス作品などを演奏。ハービー・ハンコックの作品が多かったのが特徴。ポンタさんはハンコックが好きなんですね。
3部で、近藤氏登場。レイ・チャールズの作品を10曲、アンコール2曲はレイ以外の作品。アンコール1曲目はなんとカーティス・メイフィールドの「トリッピン・アウト」。観客がレイの作品を知らないのか、その他の理由か、反応がかなり鈍かった。グルーヴがロックオリエンテッドなのが僕にはちょっと。7時半過ぎに始まって11時まで、長丁場でした。同行ソウルブラザーU氏の一言。「ドラムも音楽も、結局ラーメンと一緒ですね。どんな味か、好みの問題ですよ」。けだし名言。
その後、ソウルメイトYと東京駅前にオープンしたキャノヴィアーノ東京(イタリアン・レストラン)とM東京(バー)のレセプションに。八重洲通りに面していて、これはすごい場所。歩道にたくさんの花束が飾られ、場所を探すこともなく、すぐにわかった。中に入ろうとすると、そこでばったし、「売れっ子放送作家カニ先生」とでくわす。おっと、違う「超売れっ子放送作家カニ先生」、と言い直さないと・・・。「なんで、いるの、なんで、なんで」と食いつかれるが、「ちょっと、じゃあ、案内してよ〜〜」と僕。
K先生は案内してくれなかったが、自力で見学。各階100坪はあるという店で、1階がイタリアン・レストラン、地下がバー。広いよ、かなり。建物自体は昭和5年に建てられたそうで、中をリノヴェーションしたそうだ。ゆったりした感じでいい雰囲気。
地下のバーの運営を西麻布・嵐をてがけた北添氏が統括しているということで、彼に軽く解説してもらった。新しい名刺をくれようとしたとき、その名刺入れを見たら、3センチくらいに膨れ上がっていた。「これ、今日だけで?」 「そうです(笑)」。
基本的には昼間はここはブライダルでやっていて、夜をこうしたバー営業で行くという。中央にピアノが置いてあり、ピアノのライヴもいれるそうだ。フルーツのカクテルが売りだそうで、大きなスイカがあったので、スイカのカクテルでも頼もうかと思ったが、車なので、スイカのジュースを絞ってもらった。うま〜〜い。バーのM東京は、朝6時まで営業するという。
K先生、なんと麻布十番の23時間営業しているという話題の麻布ハウスに行くというので、「連れってくれ」とひれ伏すと、「じゃあ、連れてってやろう」と代官様のようになった。麻布ハウス、噂は聞いており、一度場所を探したが、わからずにいたところだったので、これぞ渡りに船。ところが、K先生が電話で予約をしようとすると、まだ満員で入れないという。夜中の12時過ぎですよ。どうなってるんだろう。結局、別の店に行くことになった。しかし、K先生、話題の店、ぬかりなくチェックしてるなあ。それにしても今日はすべてがハプニングの1日だった。
ハプニング。
突然音楽とまったく関係ない友人から、今日スイートベイジルでポンタボックスのライヴがあるから行きませんか、との誘い。調べてみたら、近藤房之助 さんとのジョイント。予定を変更して行ってみた。
3部構成。1,2部がポンタボックスのトリオでの演奏。1部はマイルス作品などを演奏。ハービー・ハンコックの作品が多かったのが特徴。ポンタさんはハンコックが好きなんですね。
3部で、近藤氏登場。レイ・チャールズの作品を10曲、アンコール2曲はレイ以外の作品。アンコール1曲目はなんとカーティス・メイフィールドの「トリッピン・アウト」。観客がレイの作品を知らないのか、その他の理由か、反応がかなり鈍かった。グルーヴがロックオリエンテッドなのが僕にはちょっと。7時半過ぎに始まって11時まで、長丁場でした。同行ソウルブラザーU氏の一言。「ドラムも音楽も、結局ラーメンと一緒ですね。どんな味か、好みの問題ですよ」。けだし名言。
その後、ソウルメイトYと東京駅前にオープンしたキャノヴィアーノ東京(イタリアン・レストラン)とM東京(バー)のレセプションに。八重洲通りに面していて、これはすごい場所。歩道にたくさんの花束が飾られ、場所を探すこともなく、すぐにわかった。中に入ろうとすると、そこでばったし、「売れっ子放送作家カニ先生」とでくわす。おっと、違う「超売れっ子放送作家カニ先生」、と言い直さないと・・・。「なんで、いるの、なんで、なんで」と食いつかれるが、「ちょっと、じゃあ、案内してよ〜〜」と僕。
K先生は案内してくれなかったが、自力で見学。各階100坪はあるという店で、1階がイタリアン・レストラン、地下がバー。広いよ、かなり。建物自体は昭和5年に建てられたそうで、中をリノヴェーションしたそうだ。ゆったりした感じでいい雰囲気。
地下のバーの運営を西麻布・嵐をてがけた北添氏が統括しているということで、彼に軽く解説してもらった。新しい名刺をくれようとしたとき、その名刺入れを見たら、3センチくらいに膨れ上がっていた。「これ、今日だけで?」 「そうです(笑)」。
基本的には昼間はここはブライダルでやっていて、夜をこうしたバー営業で行くという。中央にピアノが置いてあり、ピアノのライヴもいれるそうだ。フルーツのカクテルが売りだそうで、大きなスイカがあったので、スイカのカクテルでも頼もうかと思ったが、車なので、スイカのジュースを絞ってもらった。うま〜〜い。バーのM東京は、朝6時まで営業するという。
K先生、なんと麻布十番の23時間営業しているという話題の麻布ハウスに行くというので、「連れってくれ」とひれ伏すと、「じゃあ、連れてってやろう」と代官様のようになった。麻布ハウス、噂は聞いており、一度場所を探したが、わからずにいたところだったので、これぞ渡りに船。ところが、K先生が電話で予約をしようとすると、まだ満員で入れないという。夜中の12時過ぎですよ。どうなってるんだろう。結局、別の店に行くことになった。しかし、K先生、話題の店、ぬかりなくチェックしてるなあ。それにしても今日はすべてがハプニングの1日だった。
Don & Roland; Two Cool DJs On FEN
2005年7月14日【なぜかFENのDJ話】
雑談。
真夜中過ぎ、昨年のオープンからちょくちょく顔をだしている東銀座のバー、B。オウナーのアッコ、シェフのクロウドなども昔から知っているので、近くにいる時には寄ったりする。
中に入ると、奥のほうに大きな人物が。おっと、コニシキではないか。でかい。しばし友人と談笑していると、下町兄弟の工藤さんが携帯を持って外にでようとしていた。お互い指差して、「おお〜〜」。なんと、工藤さん、そのコニシキの新作アルバム『ロコスタイル』で楽曲を提供しているという。ちょうど、ネリー(武道館)のライヴにご一行で行ってきて、その帰りだという。で、工藤さんがコニシキを紹介してくれた。握手したら、やはり、でかかった。
工藤さんが残り、てれてれ雑談。そこでラジオの話になり、彼が昔FENでドン・トレイシー・ショウともうひとつ渋い声の番組をよく聴いていたという。渋い声のほうは、名前がわからなかったが、「最後になんとかバイとか言うんですよ、今、思い出した!」 「おっと、またでた。それは、ローランド・バイナムです」 「ドン・トレイシーのほうは、ほんと曲のタイミングとか、しゃべりのタイミングがめちゃくちゃかっこよくて、よくテープにとってた。オープンリールですけどね。まだ実家に置いてあるんじゃないかなあ」 「ローランドのほうは?」 「それも、何本かあるかも」 「その辺の聴きたいねえ。オープンひっぱりだして、CDに焼いてよ(笑)」 「そうですねえ、やりましょうか」
以前書いたかもしれないが、『ドン・トレイシー・ショウ』や、『ローランド・バイナム・ショウ』は、当時80年代は、番組が収録された30センチのLP盤がFENに送られてきて、それを放送していた。全世界に何百とある基地などに送るためには、テープのコピーより、アナログディスクのプレスの方が早くて安かったのだろう。
そこで日本でもそのLP盤が空輸されてそのまま放送されていたのだが、時々針とびを起こす。曲の途中の時もあれば、しゃべりの途中の時もある。しゃべりの途中で針飛びするのがおもしろくて、なぜ、しゃべりが針とびするのか、最初はわからなかったが、番組がLPで来てるということを知って納得した。
「あの頃の番組ってよく針とびしてましたよね。それがおもしろくて、ずっとそれ、録音してましたよ。3分くらい針とびしてるのね」と工藤氏。「ドン・トレイシーは、(番組が)いきなり曲から始まるんですよね。あれがかっこよくてね」 「そうそう、で、後テーマはあって、『SWATのテーマ』(リズム・ヘリテージ)ね」 「ドン・トレイシーのかっこいいDJの部分だけ集めて、そこに自分の違うお気に入りの曲編集して、テープ作ったこともあります」 「そんなことまでしてたんだ。マニアックですねえ〜〜」
そうそう、ドンに「なぜテーマ曲を作らないのか」と尋ねたことがある。「そういうの(テーマにのってしゃべるスタイル)は、もう古いんだ。曲で始まるほうがかっこいい」と彼が答えたのを思い出した。
『ローランド・バイナム・ショウ』のオープニングとエンディング・テーマで使われていたデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイング・オン」は、ご存知の通り、日曜の「ソウル・サーチン」のコーナーのテーマ曲に使わせてもらっている。
ドン・トレイシーとの話、KDAYを訪れた話、ドンの娘の名前はシャーデーといい、息子は確か、キダダという話などした。しかし、確かにあの頃のようなかっこいいDJというのが、本当に最近はいなくなった。
雑談。
真夜中過ぎ、昨年のオープンからちょくちょく顔をだしている東銀座のバー、B。オウナーのアッコ、シェフのクロウドなども昔から知っているので、近くにいる時には寄ったりする。
中に入ると、奥のほうに大きな人物が。おっと、コニシキではないか。でかい。しばし友人と談笑していると、下町兄弟の工藤さんが携帯を持って外にでようとしていた。お互い指差して、「おお〜〜」。なんと、工藤さん、そのコニシキの新作アルバム『ロコスタイル』で楽曲を提供しているという。ちょうど、ネリー(武道館)のライヴにご一行で行ってきて、その帰りだという。で、工藤さんがコニシキを紹介してくれた。握手したら、やはり、でかかった。
工藤さんが残り、てれてれ雑談。そこでラジオの話になり、彼が昔FENでドン・トレイシー・ショウともうひとつ渋い声の番組をよく聴いていたという。渋い声のほうは、名前がわからなかったが、「最後になんとかバイとか言うんですよ、今、思い出した!」 「おっと、またでた。それは、ローランド・バイナムです」 「ドン・トレイシーのほうは、ほんと曲のタイミングとか、しゃべりのタイミングがめちゃくちゃかっこよくて、よくテープにとってた。オープンリールですけどね。まだ実家に置いてあるんじゃないかなあ」 「ローランドのほうは?」 「それも、何本かあるかも」 「その辺の聴きたいねえ。オープンひっぱりだして、CDに焼いてよ(笑)」 「そうですねえ、やりましょうか」
以前書いたかもしれないが、『ドン・トレイシー・ショウ』や、『ローランド・バイナム・ショウ』は、当時80年代は、番組が収録された30センチのLP盤がFENに送られてきて、それを放送していた。全世界に何百とある基地などに送るためには、テープのコピーより、アナログディスクのプレスの方が早くて安かったのだろう。
そこで日本でもそのLP盤が空輸されてそのまま放送されていたのだが、時々針とびを起こす。曲の途中の時もあれば、しゃべりの途中の時もある。しゃべりの途中で針飛びするのがおもしろくて、なぜ、しゃべりが針とびするのか、最初はわからなかったが、番組がLPで来てるということを知って納得した。
「あの頃の番組ってよく針とびしてましたよね。それがおもしろくて、ずっとそれ、録音してましたよ。3分くらい針とびしてるのね」と工藤氏。「ドン・トレイシーは、(番組が)いきなり曲から始まるんですよね。あれがかっこよくてね」 「そうそう、で、後テーマはあって、『SWATのテーマ』(リズム・ヘリテージ)ね」 「ドン・トレイシーのかっこいいDJの部分だけ集めて、そこに自分の違うお気に入りの曲編集して、テープ作ったこともあります」 「そんなことまでしてたんだ。マニアックですねえ〜〜」
そうそう、ドンに「なぜテーマ曲を作らないのか」と尋ねたことがある。「そういうの(テーマにのってしゃべるスタイル)は、もう古いんだ。曲で始まるほうがかっこいい」と彼が答えたのを思い出した。
『ローランド・バイナム・ショウ』のオープニングとエンディング・テーマで使われていたデイヴィッド・T・ウォーカーの「ホワッツ・ゴーイング・オン」は、ご存知の通り、日曜の「ソウル・サーチン」のコーナーのテーマ曲に使わせてもらっている。
ドン・トレイシーとの話、KDAYを訪れた話、ドンの娘の名前はシャーデーといい、息子は確か、キダダという話などした。しかし、確かにあの頃のようなかっこいいDJというのが、本当に最近はいなくなった。
TKY With Kamayatsu Live At JT Hall
2005年7月13日【TKYとムッシュの夜】
意外。
前日、日野賢二さんとは、目黒のブルースアレーで、「じゃあまた明日」と言って別れた。本日(12日)は、TKYのライヴだ。これは、虎の門のJTホールで定期的に行われている「ジャズ・イン・東京」というイヴェントの一環で、今回で16回目を向かえるという。また8月に行われる「東京ジャズ2005」のプレイヴェントという意味合いもある。
TKYにスペシャルゲストで、なんとムッシュことかまやつひろしさんが登場! 第二部でスパイダースのヒットなどを実に今風にアレンジして歌ったりした。
TKYとしては、前回、渋谷クワトロ以来(2005年5月13日)。いやあ、あの衝撃がいまだに忘れられないが、今回はちょっと空気が違った。それは、おそらくこのホールのためだろう。JTホールは、とてもきれいで天井が高い。だから、クワトロのように空気がどんよりして、濃密になるということがない。なんかクリアにすっきり、きれいになってしまう。
したがって、このホールではアコースティックなピアノ・トリオとか、比較的静か目系のアーティストのほうがあうのではないだろうか。TKYは、のりのグルーヴ感抜群のバンドだけに、この抜けてしまう天井の高さが微妙に雰囲気が違うかなという気がした。あるいは、後方にリアスピーカーでも置いて、前後左右から音の洪水にするという手もある。以前ニューオーリンズのバンドをここで見た時も、音の拡散が気になっていたことを思い出した。クワトロだと音が一方向に凝縮していく感じなのだが、ここはどこかに拡散していく感じなのだ。まあ、音響のセッティングの問題かもしれない。
とはいうものの、それはライヴのホールと音響、言ってみれば、ハード(環境)の問題であり、中身、ソフト(音楽)のほうは相変わらずグルーブ炸裂だ。しかし、このTKYの5人衆が作り出す音はかっこいい。
第二部始まっていきなりムッシュかまやつ氏登場。そして、あの「ゴロワーズ」(正式タイトルは、「ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい?」)からだ。1975年に録音されたというこの曲は、ヒップホップやラップが1979年に世界に登場する4年も前に作られていたラップ曲だ。(笑) これをTKYのバックでやる日が来るなんて誰が予想しただろうか。 さらにスパイダーズ時代の「ノー・ノー・ボーイ」を、ポリス風のアレンジで聞かせた。
かまやつさんも、TKYメンバーも、実に楽しそうにセッションしている。かまやつさんは66歳、その半分くらいのメンバーとひとつの言葉でセッションができるのだから、音楽とは「いい言葉」だ。
かまやつさんとTKYという意外な組合せ。なかなかおもしろかった。っていうか、かまやつさんて、きっと誰とでも音楽を楽しめるんだろうなあ。とても素敵なことです。
しかし、ふと考えると、JT(煙草)のスポンサーでゴロワーズ(煙草)というのもおもしろい。
+++++
■TKY過去のライヴ評
2004/09/22 (Wed)
TKY Live At Sweet Basil: Fire On The Scene
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200409/diary20040922.html
2005/05/14
TKY Live At Shibuya Quatro: A Vague Outline Become Firm Style
http://diarynote.jp/d/32970/20050514.html
+++++
Setlist TKY @ Toranomon JT Art Hall Afinis
First
1. TKY
2. Snail
3. Reminiscence
4. As Allure
Second
1. Gauloise ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい?
2. No No Boy ノー・ノー・ボーイ
3. Bang Bang Bang バン・バン・バン
4. Talking Low
Enc. Just For Fun!
Enc. Yeah Yeah
(2005年7月12日火曜、虎の門・JTアートホール アフィニス=TKYウィズ・ムッシュかまやつ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>TKY with Monsieur Kamayatsu
意外。
前日、日野賢二さんとは、目黒のブルースアレーで、「じゃあまた明日」と言って別れた。本日(12日)は、TKYのライヴだ。これは、虎の門のJTホールで定期的に行われている「ジャズ・イン・東京」というイヴェントの一環で、今回で16回目を向かえるという。また8月に行われる「東京ジャズ2005」のプレイヴェントという意味合いもある。
TKYにスペシャルゲストで、なんとムッシュことかまやつひろしさんが登場! 第二部でスパイダースのヒットなどを実に今風にアレンジして歌ったりした。
TKYとしては、前回、渋谷クワトロ以来(2005年5月13日)。いやあ、あの衝撃がいまだに忘れられないが、今回はちょっと空気が違った。それは、おそらくこのホールのためだろう。JTホールは、とてもきれいで天井が高い。だから、クワトロのように空気がどんよりして、濃密になるということがない。なんかクリアにすっきり、きれいになってしまう。
したがって、このホールではアコースティックなピアノ・トリオとか、比較的静か目系のアーティストのほうがあうのではないだろうか。TKYは、のりのグルーヴ感抜群のバンドだけに、この抜けてしまう天井の高さが微妙に雰囲気が違うかなという気がした。あるいは、後方にリアスピーカーでも置いて、前後左右から音の洪水にするという手もある。以前ニューオーリンズのバンドをここで見た時も、音の拡散が気になっていたことを思い出した。クワトロだと音が一方向に凝縮していく感じなのだが、ここはどこかに拡散していく感じなのだ。まあ、音響のセッティングの問題かもしれない。
とはいうものの、それはライヴのホールと音響、言ってみれば、ハード(環境)の問題であり、中身、ソフト(音楽)のほうは相変わらずグルーブ炸裂だ。しかし、このTKYの5人衆が作り出す音はかっこいい。
第二部始まっていきなりムッシュかまやつ氏登場。そして、あの「ゴロワーズ」(正式タイトルは、「ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい?」)からだ。1975年に録音されたというこの曲は、ヒップホップやラップが1979年に世界に登場する4年も前に作られていたラップ曲だ。(笑) これをTKYのバックでやる日が来るなんて誰が予想しただろうか。 さらにスパイダーズ時代の「ノー・ノー・ボーイ」を、ポリス風のアレンジで聞かせた。
かまやつさんも、TKYメンバーも、実に楽しそうにセッションしている。かまやつさんは66歳、その半分くらいのメンバーとひとつの言葉でセッションができるのだから、音楽とは「いい言葉」だ。
かまやつさんとTKYという意外な組合せ。なかなかおもしろかった。っていうか、かまやつさんて、きっと誰とでも音楽を楽しめるんだろうなあ。とても素敵なことです。
しかし、ふと考えると、JT(煙草)のスポンサーでゴロワーズ(煙草)というのもおもしろい。
+++++
■TKY過去のライヴ評
2004/09/22 (Wed)
TKY Live At Sweet Basil: Fire On The Scene
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200409/diary20040922.html
2005/05/14
TKY Live At Shibuya Quatro: A Vague Outline Become Firm Style
http://diarynote.jp/d/32970/20050514.html
+++++
Setlist TKY @ Toranomon JT Art Hall Afinis
First
1. TKY
2. Snail
3. Reminiscence
4. As Allure
Second
1. Gauloise ゴロワーズという煙草を吸ったことがあるかい?
2. No No Boy ノー・ノー・ボーイ
3. Bang Bang Bang バン・バン・バン
4. Talking Low
Enc. Just For Fun!
Enc. Yeah Yeah
(2005年7月12日火曜、虎の門・JTアートホール アフィニス=TKYウィズ・ムッシュかまやつ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>TKY with Monsieur Kamayatsu
【ガッツ・ライヴ】
強力。
日曜日、別件でガッツに電話をしたら、その用件が終った後、「いただいた電話で恐縮ですが、明日、ライヴあるんですけど・・・」というお誘い。そうだ、ガッツ、目黒ブルースアレーでやるんだった。忘れてた。ケイリブ、日野賢二らもでるライヴだ。
というわけで、再び目黒ブルースアレー。ソウルサーチン以来、ジョジョ、そして、ガッツとちょくちょくくるなあ。
ガッツも久々だが、今回のバンドはかなり強力だ。ドラムスにロレンゾ・ブレイスフル、ギターにザンドレ・ヤーブロー、ベース日野賢二、キーボードにケイリブ・ジェームスというバンドは、今東京でもっともファンキーなバンドではないだろうか。3人がアメリカの黒人、しかも、ベースの日野もニューヨーク育ちで、アメリカ人と同じグルーヴを持つ。
ガッツは、相変わらずよく通る荒削りな声で、このざらざら感のするソウルフルな歌声がひじょうにいい。ガッツィーで、グリッティで、グルーヴィーな声というか。
特に2部はぐいぐいと盛り上げた。トップを飾った「こんなにも君が」は、彼の18番でもあるが、彼の日本語の代表曲にふさわしい。
そして、でました、ルーサー・トリビュート! 「先週、僕が現役のシンガーの中で一番好きかもしれないシンガーが亡くなりました。僕は、ルーサーのライヴ、3回ほど見たことあるんですが・・・」 え〜〜? 3回も見たの? いいなあ、いいなあ 「1回はニューオーリンズで、あとどこだったかな・・・。彼のライヴ見て、あまりに歌がうまいんで、自分は歌うの辞めようかと思ったくらいですよ・・・」
日野賢二のベースからがんがんくる「ネヴァー・トゥ・マッチ」。この曲をライヴで聴くのは初めてのような気がする。なるほど、こうなるのか。何度もCDで聴いた曲。頭の中でルーサーの声を重ねてみた。(ガッツ、ごめん=(笑))
そして、それに続いてスローの「スーパースター」。10分近くの超大作。よくやった。レオン・ラッセルが書き、カーペンターズでヒットし、ルーサーがカヴァーしたヴァージョンをガッツはカヴァーした。ルーサー節をよく研究し、実にガッツらしい渋いヴァージョンにした。ここからは、レオンやカーペンターズの面影はない。カヴァーするというのは、こうして既存曲を独自の解釈でやるということなのだ。ここまで歌を聴かせられるガッツはたいしたもの。
そして、スペシャル・ゲスト、シャンティを迎えてマーヴィン&タミー・テレルの「ユア・プレシャス・ラヴ」。シャンティ、どんどんきれいになって、歌もよくなってる。ソウル・サーチン・トーキングでマーヴィンをやる時には、ぜひ、シャンティにも声をかけたい。「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」あたりも聴いてみたいな。
その後の「ピープル・ゲット・レディー」は、カーティス・メイフィールドの名曲。ガッツの歌の中でも抜群のでき。カーティスをやるときは、ガッツには絶対に来てもらおう。(笑)
アンコールは、結局バンド全員で「ホワッツ・ゴーイン・オン」に。ガッツ、しばらくこの強力なバンドで固めていったらいいんじゃないかなあ。
++++
■ガッツの次回のライヴは、8月19日横浜のサムズアップ。
■ガッツ前回のライヴの日記
2005/03/04 (Fri)
Friends Joined Gats To Sing "What’s Goin’ On"
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200503/diary20050304.html
+++++
Setlist--First Set at Meguro Blues Alley
show started 19:47
1. Around (オリジナル=日本語)
2. Can’t Hide Love (EWF)
3. Someday We’ll All Be Free (Donny Hathaway)
4. Are You Happy? (オリジナル=日本語)
5. いつまでも (オリジナル=日本語)
6. ありがとう (オリジナル=日本語)
7. Change The World (Eric Clapton)
show ended 20:43
Second Set
show started 21:20
1. こんなにも君が (オリジナル=日本語)
2. ~Luther Tribute~ Never Too Much (Luther Vandross)
3. Superstar (Leon Russell, Carpenters, Luther Vandross)
4. 風 (オリジナル=日本語)
4". 風 (やりなおしヴァージョン)
5. 交差点 (オリジナル=日本語)
6. Your Precious Love (With Shanti)(Marvin Gaye & Tammi Terrell)
7. People Get Ready (Curtis Mayfield)
8. Dear My Friend (オリジナル=日本語)
9. TKB (オリジナル=日本語)
Encore. What’s Going On (Marvin Gaye)
show ended 23:12
+++++
■シャンティ・ライヴ
2005年7月29日(金) 18時開場 20時開演
渋谷クロコダイル 問合せ 03-3499-5205
チャージ 3000円
■シャンティ・ウェッブ
http://snydersmarket.com/shanti.html
■ガッツ新ホームページ(2005年8月1日から稼動開始予定)
http://www.big.or.jp/~rubicon/gats/
+++++
(2005年7月11日月曜、目黒ブルースアレー=ガッツ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Gats
強力。
日曜日、別件でガッツに電話をしたら、その用件が終った後、「いただいた電話で恐縮ですが、明日、ライヴあるんですけど・・・」というお誘い。そうだ、ガッツ、目黒ブルースアレーでやるんだった。忘れてた。ケイリブ、日野賢二らもでるライヴだ。
というわけで、再び目黒ブルースアレー。ソウルサーチン以来、ジョジョ、そして、ガッツとちょくちょくくるなあ。
ガッツも久々だが、今回のバンドはかなり強力だ。ドラムスにロレンゾ・ブレイスフル、ギターにザンドレ・ヤーブロー、ベース日野賢二、キーボードにケイリブ・ジェームスというバンドは、今東京でもっともファンキーなバンドではないだろうか。3人がアメリカの黒人、しかも、ベースの日野もニューヨーク育ちで、アメリカ人と同じグルーヴを持つ。
ガッツは、相変わらずよく通る荒削りな声で、このざらざら感のするソウルフルな歌声がひじょうにいい。ガッツィーで、グリッティで、グルーヴィーな声というか。
特に2部はぐいぐいと盛り上げた。トップを飾った「こんなにも君が」は、彼の18番でもあるが、彼の日本語の代表曲にふさわしい。
そして、でました、ルーサー・トリビュート! 「先週、僕が現役のシンガーの中で一番好きかもしれないシンガーが亡くなりました。僕は、ルーサーのライヴ、3回ほど見たことあるんですが・・・」 え〜〜? 3回も見たの? いいなあ、いいなあ 「1回はニューオーリンズで、あとどこだったかな・・・。彼のライヴ見て、あまりに歌がうまいんで、自分は歌うの辞めようかと思ったくらいですよ・・・」
日野賢二のベースからがんがんくる「ネヴァー・トゥ・マッチ」。この曲をライヴで聴くのは初めてのような気がする。なるほど、こうなるのか。何度もCDで聴いた曲。頭の中でルーサーの声を重ねてみた。(ガッツ、ごめん=(笑))
そして、それに続いてスローの「スーパースター」。10分近くの超大作。よくやった。レオン・ラッセルが書き、カーペンターズでヒットし、ルーサーがカヴァーしたヴァージョンをガッツはカヴァーした。ルーサー節をよく研究し、実にガッツらしい渋いヴァージョンにした。ここからは、レオンやカーペンターズの面影はない。カヴァーするというのは、こうして既存曲を独自の解釈でやるということなのだ。ここまで歌を聴かせられるガッツはたいしたもの。
そして、スペシャル・ゲスト、シャンティを迎えてマーヴィン&タミー・テレルの「ユア・プレシャス・ラヴ」。シャンティ、どんどんきれいになって、歌もよくなってる。ソウル・サーチン・トーキングでマーヴィンをやる時には、ぜひ、シャンティにも声をかけたい。「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」あたりも聴いてみたいな。
その後の「ピープル・ゲット・レディー」は、カーティス・メイフィールドの名曲。ガッツの歌の中でも抜群のでき。カーティスをやるときは、ガッツには絶対に来てもらおう。(笑)
アンコールは、結局バンド全員で「ホワッツ・ゴーイン・オン」に。ガッツ、しばらくこの強力なバンドで固めていったらいいんじゃないかなあ。
++++
■ガッツの次回のライヴは、8月19日横浜のサムズアップ。
■ガッツ前回のライヴの日記
2005/03/04 (Fri)
Friends Joined Gats To Sing "What’s Goin’ On"
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200503/diary20050304.html
+++++
Setlist--First Set at Meguro Blues Alley
show started 19:47
1. Around (オリジナル=日本語)
2. Can’t Hide Love (EWF)
3. Someday We’ll All Be Free (Donny Hathaway)
4. Are You Happy? (オリジナル=日本語)
5. いつまでも (オリジナル=日本語)
6. ありがとう (オリジナル=日本語)
7. Change The World (Eric Clapton)
show ended 20:43
Second Set
show started 21:20
1. こんなにも君が (オリジナル=日本語)
2. ~Luther Tribute~ Never Too Much (Luther Vandross)
3. Superstar (Leon Russell, Carpenters, Luther Vandross)
4. 風 (オリジナル=日本語)
4". 風 (やりなおしヴァージョン)
5. 交差点 (オリジナル=日本語)
6. Your Precious Love (With Shanti)(Marvin Gaye & Tammi Terrell)
7. People Get Ready (Curtis Mayfield)
8. Dear My Friend (オリジナル=日本語)
9. TKB (オリジナル=日本語)
Encore. What’s Going On (Marvin Gaye)
show ended 23:12
+++++
■シャンティ・ライヴ
2005年7月29日(金) 18時開場 20時開演
渋谷クロコダイル 問合せ 03-3499-5205
チャージ 3000円
■シャンティ・ウェッブ
http://snydersmarket.com/shanti.html
■ガッツ新ホームページ(2005年8月1日から稼動開始予定)
http://www.big.or.jp/~rubicon/gats/
+++++
(2005年7月11日月曜、目黒ブルースアレー=ガッツ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Gats
【フランクリンズ・ジャズ&バーガー・イヴェントのお知らせ】
残席僅。
一度6月3日付けでご紹介したイヴェントのお知らせの最終ご案内です。島津山の人気ハンバーガー・ショップ、フランクリン・アヴェニューで好きなだけおいしいハンバーガーを食べ、軽くジャズ、ポップスでも聴きながら、おしゃべりを楽しみましょう、という集いです。歌われる曲は「オーヴァー・ザ・レインボウ」「スターダスト」など誰もが知ってるスタンダードばかり。
フランクリン・アヴェニューは、1990年オープンの今年で開店15年を迎えるもはや老舗の人気ハンバーガーショップ。瀟洒な一軒屋で供されるハンバーガーは週末ともなると、長蛇の列を覚悟しなければありつけません。
そんなフランクリンでの初の試みとなるイヴェントです。席数に限りがあるので、これが最終案内です。予約がないとはいれませんので、もし行こうと思っていてまだ予約されていない方は、最後のチャンスです。
+++++++++++++++++++
サマーブリーズとともに、テイスティーなジャズと、デリシャスなバーガーのひと時を〜〜
島津山の片隅で妥協を許さないハンバーガーを作りつづけて15年〜
瀟洒な一軒家フランクリン・アヴェニューを舞台に行われるカジュアルでクラッシーな一夜
ハンバーガー片手に、ジャジーなひと時を過ごしませんか?
Tasty Jazz and Delicious Burger〜ジャズとバーガーの夕べ
Franklins’ Jazz & Burger Vol.1 〜 "Summer Breeze" Night
【日時】 2005年7月18日(月曜・海の日祝日)
【開場】 18時 開演 ファースト19時、セカンド20時 (入れ替えなし)
【出演】 ザ・フランクリンズ (西任白鵠=ヴォーカル、永田ジョージ=ピアノ、森田聡= ベース、松本幸三=ドラムス)
【場所】 7025フランクリン・アヴェニュー 東京都品川区東五反田3-15-18
【料金】 ¥4000--(税込み) ハンバーガーとドリンクが充分についています。CDおみやげ付き
【予約制】 席数に限りがありますので、予約された方のみご入場いただけます。
【予約方法】 下記問合せアドレスへ、お名前、電話番号、人数をお送りください。折り返し予約確認メー ルとお店への行きかた等をお送りいたします。
【問合せ】 Franklins0718@yahoo.co.jp までメールでお問合せください。申し訳ございませんが電話での問い合わせは受けておりません。
では、7月18日、フランクリン・アヴェニューでお会いしましょう。
ENT>MUSIC>EVENT>Franklins’ Jazz & Burger Vol.1
残席僅。
一度6月3日付けでご紹介したイヴェントのお知らせの最終ご案内です。島津山の人気ハンバーガー・ショップ、フランクリン・アヴェニューで好きなだけおいしいハンバーガーを食べ、軽くジャズ、ポップスでも聴きながら、おしゃべりを楽しみましょう、という集いです。歌われる曲は「オーヴァー・ザ・レインボウ」「スターダスト」など誰もが知ってるスタンダードばかり。
フランクリン・アヴェニューは、1990年オープンの今年で開店15年を迎えるもはや老舗の人気ハンバーガーショップ。瀟洒な一軒屋で供されるハンバーガーは週末ともなると、長蛇の列を覚悟しなければありつけません。
そんなフランクリンでの初の試みとなるイヴェントです。席数に限りがあるので、これが最終案内です。予約がないとはいれませんので、もし行こうと思っていてまだ予約されていない方は、最後のチャンスです。
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サマーブリーズとともに、テイスティーなジャズと、デリシャスなバーガーのひと時を〜〜
島津山の片隅で妥協を許さないハンバーガーを作りつづけて15年〜
瀟洒な一軒家フランクリン・アヴェニューを舞台に行われるカジュアルでクラッシーな一夜
ハンバーガー片手に、ジャジーなひと時を過ごしませんか?
Tasty Jazz and Delicious Burger〜ジャズとバーガーの夕べ
Franklins’ Jazz & Burger Vol.1 〜 "Summer Breeze" Night
【日時】 2005年7月18日(月曜・海の日祝日)
【開場】 18時 開演 ファースト19時、セカンド20時 (入れ替えなし)
【出演】 ザ・フランクリンズ (西任白鵠=ヴォーカル、永田ジョージ=ピアノ、森田聡= ベース、松本幸三=ドラムス)
【場所】 7025フランクリン・アヴェニュー 東京都品川区東五反田3-15-18
【料金】 ¥4000--(税込み) ハンバーガーとドリンクが充分についています。CDおみやげ付き
【予約制】 席数に限りがありますので、予約された方のみご入場いただけます。
【予約方法】 下記問合せアドレスへ、お名前、電話番号、人数をお送りください。折り返し予約確認メー ルとお店への行きかた等をお送りいたします。
【問合せ】 Franklins0718@yahoo.co.jp までメールでお問合せください。申し訳ございませんが電話での問い合わせは受けておりません。
では、7月18日、フランクリン・アヴェニューでお会いしましょう。
ENT>MUSIC>EVENT>Franklins’ Jazz & Burger Vol.1
Luther’s Funeral Was Celebration
2005年7月10日【ルーサー葬儀は、セレブレーション】
セレブレーション。
去る7月1日に死去したソウル・レジェンド、ルーサー・ヴァンドロスの葬儀が、8日(金)午前11時(日本時間9日午前0時)からニューヨーク・マンハッタンのリヴァーサイド教会で多くのエンタテインメント界の友人などに囲まれ行われた。スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン、パティー・ラベルなどが歌い、スピーチをした。地元のR&Bステーション、WBLSはこの日24時間ルーサー・トリビュートを放送した。
リヴァーサイド教会は120丁目から122丁目までをまたぐイーストサイドにある大きな教会。この日、関係者、友人などが2400名以上が教会に訪れ、さらにこのほか一般のファンが沿道に列をなした。一般のファンは、5列に並んで献花したが、その列は125丁目のアポロ劇場のあたりまでつながっていたという。中にはマイアミから1400マイルも車を運転してこの葬儀にかけつけたファンもいた。
この日はアポロ劇場のマーキー(歩道につきでている看板)には、ルーサー・ヴァンドロスの名前が出ていた。
ヴァンドロスのゴールドのカスケットは、教会の中央に置かれ、その横で友人のシンガーたちが歌った。スティーヴィー・ワンダーは、先ごろのロンドンでの同時多発テロについて「殺戮とテロリズムは、神の願うところではない。愛だけが(人々を救う)唯一の方法だ」とコメントしてから、レイ・チャールズの葬儀の時と同じく「アイ・ウォント・コンプレイン」を熱唱した。
(スティーヴィーのレイ・チャールズの葬儀での歌とコメントについての日記)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040622.html
スピーチをするあらゆる人からヴァンドロスを、アーティストとしてだけでなく、ひとりの人間として賞賛する声が続いた。
パティー・ラベルは、ゴスペル曲「アイ・ドント・フィール・ノー・ウェイズ・タイアード」を歌い、ルーサー・ヴァンドロスの母、メアリー・アイダが息子に向けて書いた詩を読み上げた。「神はあなたに世界のために歌う機会を与えました。そしてあなたは神からいただいた物を世界に返したのです。それは、愛です」
親友アレサ・フランクリンは、ソウルフルな「アメイジング・グレイス」を熱唱。アドリブでヴァンドロスの家族への言葉をメロディーにのせた。ルーサーの葬儀は、セレブレーションになった。
ルーサーを乗せたカスケットは、リヴァーサイド教会からアポロ劇場の横を通り抜け、墓地に向かった。その時、マンハッタンには小雨が降り注いでいた。
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
セレブレーション。
去る7月1日に死去したソウル・レジェンド、ルーサー・ヴァンドロスの葬儀が、8日(金)午前11時(日本時間9日午前0時)からニューヨーク・マンハッタンのリヴァーサイド教会で多くのエンタテインメント界の友人などに囲まれ行われた。スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン、パティー・ラベルなどが歌い、スピーチをした。地元のR&Bステーション、WBLSはこの日24時間ルーサー・トリビュートを放送した。
リヴァーサイド教会は120丁目から122丁目までをまたぐイーストサイドにある大きな教会。この日、関係者、友人などが2400名以上が教会に訪れ、さらにこのほか一般のファンが沿道に列をなした。一般のファンは、5列に並んで献花したが、その列は125丁目のアポロ劇場のあたりまでつながっていたという。中にはマイアミから1400マイルも車を運転してこの葬儀にかけつけたファンもいた。
この日はアポロ劇場のマーキー(歩道につきでている看板)には、ルーサー・ヴァンドロスの名前が出ていた。
ヴァンドロスのゴールドのカスケットは、教会の中央に置かれ、その横で友人のシンガーたちが歌った。スティーヴィー・ワンダーは、先ごろのロンドンでの同時多発テロについて「殺戮とテロリズムは、神の願うところではない。愛だけが(人々を救う)唯一の方法だ」とコメントしてから、レイ・チャールズの葬儀の時と同じく「アイ・ウォント・コンプレイン」を熱唱した。
(スティーヴィーのレイ・チャールズの葬儀での歌とコメントについての日記)
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040622.html
スピーチをするあらゆる人からヴァンドロスを、アーティストとしてだけでなく、ひとりの人間として賞賛する声が続いた。
パティー・ラベルは、ゴスペル曲「アイ・ドント・フィール・ノー・ウェイズ・タイアード」を歌い、ルーサー・ヴァンドロスの母、メアリー・アイダが息子に向けて書いた詩を読み上げた。「神はあなたに世界のために歌う機会を与えました。そしてあなたは神からいただいた物を世界に返したのです。それは、愛です」
親友アレサ・フランクリンは、ソウルフルな「アメイジング・グレイス」を熱唱。アドリブでヴァンドロスの家族への言葉をメロディーにのせた。ルーサーの葬儀は、セレブレーションになった。
ルーサーを乗せたカスケットは、リヴァーサイド教会からアポロ劇場の横を通り抜け、墓地に向かった。その時、マンハッタンには小雨が降り注いでいた。
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
【レイ・デイヴィス死去】
Pファンク。
パーラメント/ファンカデリック(Pファンク)のベース・ヴォーカル、レイ・デイヴィスが2005年7月5日(火曜)、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックのロバート・ウッド・ジョンソン大学病院で、呼吸器疾患で死去した。65歳だった。
Pファンクの総帥、ジョージ・クリントンは次のような声明を発表した。「私たちはみなレイをしのぶ。レイは、パーラメントのベース・ヴォーカルだった。だが、彼は本当にパーラメントの心だった。きっと新しい世界でも歌っているだろう」
レイモンドは、1940年3月29日サウス・キャロライナ州サムター生まれ。12人兄弟の末っ子。愛称「スティング・レイ」。子供の頃から教会でゴスペルを歌っていた。1961年、それより先にニュージャージーで結成されたR&Bのドゥワップ・グループ、パーラメンツに加入。パーラメンツとして、「アイ・ウォナ・テスティファイ」(67年)などのヒットを放った。その後71年、グループ名はパーラメントに。また、グループを作ったジョージ・クリントンはパーラメントのほかにほぼ同じメンバーで同系統のファンカデリックというグループを結成。実質的には同じグループだが、グループ名を違えるだけで二つのレコード会社と契約するという前代未聞のことを行った。
レイ・デイヴィスは、ファンカデリックでもベース・ヴォーカルを担当。「ギヴ・アップ・フォー・ザ・ファンク」、「ワン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ」など多数のヒットで歌った。
その後、84年にPファンクを離れ、ザップ/ロジャーに参加。88年頃までザップの一員となった。その後、しばらく歌手活動を辞め、サウスキャロライナに戻った。しかし、93年9月、テンプテーションズから思いもよらぬ誘いがきた。
デトロイトの名門ソウル・ヴォーカル・グループ、テンプテーションズのベースシンガー、メルヴィン。フランクリンが体調を崩し、カムバックできそうにないので、グループに参加しないかというオファーだった。メルヴィンは結局95年2月に死去。レイも、しばしテンプスに参加した。
ENT>OBITUARY>Davis, Ray>2005.07.05 (65)
Pファンク。
パーラメント/ファンカデリック(Pファンク)のベース・ヴォーカル、レイ・デイヴィスが2005年7月5日(火曜)、ニュージャージー州ニュー・ブランズウィックのロバート・ウッド・ジョンソン大学病院で、呼吸器疾患で死去した。65歳だった。
Pファンクの総帥、ジョージ・クリントンは次のような声明を発表した。「私たちはみなレイをしのぶ。レイは、パーラメントのベース・ヴォーカルだった。だが、彼は本当にパーラメントの心だった。きっと新しい世界でも歌っているだろう」
レイモンドは、1940年3月29日サウス・キャロライナ州サムター生まれ。12人兄弟の末っ子。愛称「スティング・レイ」。子供の頃から教会でゴスペルを歌っていた。1961年、それより先にニュージャージーで結成されたR&Bのドゥワップ・グループ、パーラメンツに加入。パーラメンツとして、「アイ・ウォナ・テスティファイ」(67年)などのヒットを放った。その後71年、グループ名はパーラメントに。また、グループを作ったジョージ・クリントンはパーラメントのほかにほぼ同じメンバーで同系統のファンカデリックというグループを結成。実質的には同じグループだが、グループ名を違えるだけで二つのレコード会社と契約するという前代未聞のことを行った。
レイ・デイヴィスは、ファンカデリックでもベース・ヴォーカルを担当。「ギヴ・アップ・フォー・ザ・ファンク」、「ワン・ネイション・アンダー・ザ・グルーヴ」など多数のヒットで歌った。
その後、84年にPファンクを離れ、ザップ/ロジャーに参加。88年頃までザップの一員となった。その後、しばらく歌手活動を辞め、サウスキャロライナに戻った。しかし、93年9月、テンプテーションズから思いもよらぬ誘いがきた。
デトロイトの名門ソウル・ヴォーカル・グループ、テンプテーションズのベースシンガー、メルヴィン。フランクリンが体調を崩し、カムバックできそうにないので、グループに参加しないかというオファーだった。メルヴィンは結局95年2月に死去。レイも、しばしテンプスに参加した。
ENT>OBITUARY>Davis, Ray>2005.07.05 (65)
【ムーンウォークと芸名】
芸名。
新人を売るための、アイデアを二つ授けましょう。
クライアントは、カナダ出身のカナダ人ギタリスト、カイル・リアブコという新人。彼がデビュー・アルバムの宣伝のために来日、7日(木)、都内のカナダ大使館でショーケース・ライヴを行った。リアブコ? 覚えにくいなあ。(笑) カイルはよろしい。
パーカッション1人とカイルの2人だけのステージ。カイルがギターを弾き歌う。僕は初めてライヴを見たが、なかなかルーツに黒い音楽あることを感じさせた。例えば、ブルースをやろうと言ってブルースをやったり、ジミ・ヘンドリックスの「フォクシー・レディー」をカヴァーしたり。何より、そのリズム感の良さ、ステージ上で上下に勢いよく跳ねる様は元気一杯でこちらも高揚してくる。しかも、これがまだ弾ける17歳。若きことはそれだけで素晴らしい。
パーカッションとギター、歌だけで、かなりのグルーヴ感がでる。彼が足で床を叩くので、ちょっとタップダンス的にリズム感がでていた。とても二人だけでやっているとは思えないほど迫力がある音だ。
当初イケメンのジャズアーティストのショーケースということで、ハリー・コニック的な雰囲気ものを予想していたら、まったく違っていて、ある意味予想を裏切られておもしろかった。
一番驚いたのは、ギターを弾きながら、〜It’s close to midnight and something evil’s lurking in the dark〜と歌いだした瞬間。おや、どこかで聞いたことがあるメロディーと詞。そう、マイケル・ジャクソンの「スリラー」ではないか。ほ〜〜、この曲をこうやる。そのアイデアだけで脱帽だ。これほど、マイケルのイメージが強い曲を、いとも簡単に自分風にしてしまうというのはなかなかのものだ。これで、ステージでムーンウォークでもやられたら、観客は腰を抜かすだろう。ギター弾きながらムーンウォークやったら、世界初のオリジナルだと思うが・・・。(笑) これが、ナイスなアイデアのその1、お勧めです。
カイルが生まれたのは1987年9月29日。現在17歳で、先月ハイスクールを卒業したばかり。夏休みではなくツアーが始まる。「スリラー」は、82年暮れの作品でシングルとしては83年暮れからのヒットだから、もちろん、カイルの生まれる前の作品ということになる。10歳からギターを始めたということだが、それでもまだ弾き始めてたかだか7年だ。7年でここまで来るかあ・・・。若者が才能を伸ばすというのは、こういうことなのだろう。若きことはそれだけで素晴らしい。
途中のリズムの取り方に、JBズ風のところも感じられて、ブルース、ジミヘン、JB、そして、マイケルとかなりブラック・ミュージックが好きなんだろうな、と思った。もちろん、他にも何でも聴いているのだろうが。
ライヴが終って少しだけ話す機会があった。「ブルースが好きなの?」 「イエー、大好きだ。自分がよく行っていたカナダのライヴハウスで、たくさんのブルース音楽を聴いて育ったんだ。マディー・ウォーターズ、ロバート・ジョンソン、あらゆるブルース・アーティストを聴いた」 「ジェームス・ブラウンは好き?」 「もちろん、彼は素晴らしい。この前の夏だったか、彼の前座をやった。すごいよね、彼」 他にはと尋ねると、「スライ・ストーン、パーラメント/ファンカデリック・・・」ときた。スライの曲などをライヴでやるのだろうか。「やるよ、『イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ』とかね」 「お〜、イエー。R&Bの曲ばかりのカヴァーアルバムを作る気は?」 「将来ね、いつか」 この日はパーカッションと二人だけだったが、通常は4−5人編成のバンドでツアーするという。
とてもファンキーなイケメン君が踊りながらグルーヴ感を出して弾いているその様を見て、同じくかなりのテクニックを見せるチャーリー・ハンターとはまた違った生々しいストリート感を感じた。
ステージでロック・アーティストのように跳ねるところを見て、とてもバブリーだと思った。つまり、彼はシャンペーンのアワのように跳ねている。よって、彼にニックネームを授けよう。カイル・シャンペーン・リアブコだ。そしてリアブコは、ちょっとメジャー感がないので、もう思い切ってカットして、カイル・シャンペーンっていうのはいかが? これは、スターの名前だ! (笑) ナイスなアイデアその2、お勧めです。会って話してた時には、そこまでのアイデアを思いつかなかったんだよなあ。今度会ったら、絶対に言おう。
「スリラー」弾きながらムーンウォークをし、名前をカイル・シャンペーンに変えれば、ルックス抜群、音楽性もしっかりしているし、女性ファンがすぐにつくことマチガイな〜い。これでミリオンヒットになったら、年間コンサルタントにしてね。(笑)
デビュー・アルバムは『ビフォー・アイ・スピーク』(ソニー)。
ENT>ARTIST>Riabko, Kyle
芸名。
新人を売るための、アイデアを二つ授けましょう。
クライアントは、カナダ出身のカナダ人ギタリスト、カイル・リアブコという新人。彼がデビュー・アルバムの宣伝のために来日、7日(木)、都内のカナダ大使館でショーケース・ライヴを行った。リアブコ? 覚えにくいなあ。(笑) カイルはよろしい。
パーカッション1人とカイルの2人だけのステージ。カイルがギターを弾き歌う。僕は初めてライヴを見たが、なかなかルーツに黒い音楽あることを感じさせた。例えば、ブルースをやろうと言ってブルースをやったり、ジミ・ヘンドリックスの「フォクシー・レディー」をカヴァーしたり。何より、そのリズム感の良さ、ステージ上で上下に勢いよく跳ねる様は元気一杯でこちらも高揚してくる。しかも、これがまだ弾ける17歳。若きことはそれだけで素晴らしい。
パーカッションとギター、歌だけで、かなりのグルーヴ感がでる。彼が足で床を叩くので、ちょっとタップダンス的にリズム感がでていた。とても二人だけでやっているとは思えないほど迫力がある音だ。
当初イケメンのジャズアーティストのショーケースということで、ハリー・コニック的な雰囲気ものを予想していたら、まったく違っていて、ある意味予想を裏切られておもしろかった。
一番驚いたのは、ギターを弾きながら、〜It’s close to midnight and something evil’s lurking in the dark〜と歌いだした瞬間。おや、どこかで聞いたことがあるメロディーと詞。そう、マイケル・ジャクソンの「スリラー」ではないか。ほ〜〜、この曲をこうやる。そのアイデアだけで脱帽だ。これほど、マイケルのイメージが強い曲を、いとも簡単に自分風にしてしまうというのはなかなかのものだ。これで、ステージでムーンウォークでもやられたら、観客は腰を抜かすだろう。ギター弾きながらムーンウォークやったら、世界初のオリジナルだと思うが・・・。(笑) これが、ナイスなアイデアのその1、お勧めです。
カイルが生まれたのは1987年9月29日。現在17歳で、先月ハイスクールを卒業したばかり。夏休みではなくツアーが始まる。「スリラー」は、82年暮れの作品でシングルとしては83年暮れからのヒットだから、もちろん、カイルの生まれる前の作品ということになる。10歳からギターを始めたということだが、それでもまだ弾き始めてたかだか7年だ。7年でここまで来るかあ・・・。若者が才能を伸ばすというのは、こういうことなのだろう。若きことはそれだけで素晴らしい。
途中のリズムの取り方に、JBズ風のところも感じられて、ブルース、ジミヘン、JB、そして、マイケルとかなりブラック・ミュージックが好きなんだろうな、と思った。もちろん、他にも何でも聴いているのだろうが。
ライヴが終って少しだけ話す機会があった。「ブルースが好きなの?」 「イエー、大好きだ。自分がよく行っていたカナダのライヴハウスで、たくさんのブルース音楽を聴いて育ったんだ。マディー・ウォーターズ、ロバート・ジョンソン、あらゆるブルース・アーティストを聴いた」 「ジェームス・ブラウンは好き?」 「もちろん、彼は素晴らしい。この前の夏だったか、彼の前座をやった。すごいよね、彼」 他にはと尋ねると、「スライ・ストーン、パーラメント/ファンカデリック・・・」ときた。スライの曲などをライヴでやるのだろうか。「やるよ、『イフ・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ステイ』とかね」 「お〜、イエー。R&Bの曲ばかりのカヴァーアルバムを作る気は?」 「将来ね、いつか」 この日はパーカッションと二人だけだったが、通常は4−5人編成のバンドでツアーするという。
とてもファンキーなイケメン君が踊りながらグルーヴ感を出して弾いているその様を見て、同じくかなりのテクニックを見せるチャーリー・ハンターとはまた違った生々しいストリート感を感じた。
ステージでロック・アーティストのように跳ねるところを見て、とてもバブリーだと思った。つまり、彼はシャンペーンのアワのように跳ねている。よって、彼にニックネームを授けよう。カイル・シャンペーン・リアブコだ。そしてリアブコは、ちょっとメジャー感がないので、もう思い切ってカットして、カイル・シャンペーンっていうのはいかが? これは、スターの名前だ! (笑) ナイスなアイデアその2、お勧めです。会って話してた時には、そこまでのアイデアを思いつかなかったんだよなあ。今度会ったら、絶対に言おう。
「スリラー」弾きながらムーンウォークをし、名前をカイル・シャンペーンに変えれば、ルックス抜群、音楽性もしっかりしているし、女性ファンがすぐにつくことマチガイな〜い。これでミリオンヒットになったら、年間コンサルタントにしてね。(笑)
デビュー・アルバムは『ビフォー・アイ・スピーク』(ソニー)。
ENT>ARTIST>Riabko, Kyle
Mugen: The Legendary Disco
2005年7月7日【伝説のディスコ、ムゲン】
ムゲン。
1968年5月にオープンし、87年2月にクローズするまで、多くの話題をまいた伝説のディスコ、赤坂のムゲン。今、ムゲンにかかわった方々に話を聞いている。実は9月号の雑誌ブリオでちょっとした「大人の遊び」を特集するのだが、そこで伝説のディスコ、ムゲンについて書くことになった。
ムゲンは、僕個人も何度か行っていて、個人的な思いいれもあるが、さすがにオープン当初のことは知らない。ムゲンを始めた方々に話を聞いていると、タイムスリップしたようで、じつにわくわくしてくる。
時間的な制限から、お話をうかがいたくても、実現しなかった方もおられるが、ムゲンについては前々から書いてみたいテーマだったので、今回取材できなかった方々にもいつか改めて話を伺えればと思う。
なによりも、ムゲンがすごかったところは、生の黒人バンドが毎日演奏していたことだ。それもかなりのレベルのバンドだ。時に、アイク&ティナ・ターナー、サム&デイヴのような大物も来日してライヴをやっていった。そして、あらゆる意味で、大人の遊び場としての文化というものが形成されつつあった場所だった。
68年のオープン当初は、当時のクリエイティヴ系の人々がこぞって集まっていたところもすごい。コシノジュンコさんから、三宅一生さん、菊地武夫さんなどからグループサウンズの面面まで。作家の川端康成、三島由紀夫まで来ていたという。
サイケの殿堂、ブラックバンドの殿堂。ムゲンは約20年弱、続いた。これほど続いたディスコは、世界中にないといわれる。オープン当初はディスコとは言わずに、「ゴー・ゴー・クラブ」と銘打っていた。
真っ暗な中、地下二階という深いところへ降りていくと、そこはブラックライトに照らされ、独特の非日常空間を作り出す。ストロボがたかれ、人々は高揚し、我を忘れてダンスに興じる。そこには、人種も階級もなく、ただ楽しい時間を過ごすためだけにおしゃれな人々が集まっていた。
一体60年代後半から70年代にかけて、ムゲンは何を成し遂げたのか。ムゲンとはなんだったのか。ムゲンが残した軌跡は何か。そして、ムゲンが起こした奇蹟とは。そこに集っていた人々、また、ムゲンを作り上げた人々にとって、ムゲンとはなんだったのか。そのあたりにフォーカスをあててみたい。
ムゲンを取り巻く物語、ご期待ください。ブリオ9月号は7月23日発売です。
ENT>DISCO>Mugen
ムゲン。
1968年5月にオープンし、87年2月にクローズするまで、多くの話題をまいた伝説のディスコ、赤坂のムゲン。今、ムゲンにかかわった方々に話を聞いている。実は9月号の雑誌ブリオでちょっとした「大人の遊び」を特集するのだが、そこで伝説のディスコ、ムゲンについて書くことになった。
ムゲンは、僕個人も何度か行っていて、個人的な思いいれもあるが、さすがにオープン当初のことは知らない。ムゲンを始めた方々に話を聞いていると、タイムスリップしたようで、じつにわくわくしてくる。
時間的な制限から、お話をうかがいたくても、実現しなかった方もおられるが、ムゲンについては前々から書いてみたいテーマだったので、今回取材できなかった方々にもいつか改めて話を伺えればと思う。
なによりも、ムゲンがすごかったところは、生の黒人バンドが毎日演奏していたことだ。それもかなりのレベルのバンドだ。時に、アイク&ティナ・ターナー、サム&デイヴのような大物も来日してライヴをやっていった。そして、あらゆる意味で、大人の遊び場としての文化というものが形成されつつあった場所だった。
68年のオープン当初は、当時のクリエイティヴ系の人々がこぞって集まっていたところもすごい。コシノジュンコさんから、三宅一生さん、菊地武夫さんなどからグループサウンズの面面まで。作家の川端康成、三島由紀夫まで来ていたという。
サイケの殿堂、ブラックバンドの殿堂。ムゲンは約20年弱、続いた。これほど続いたディスコは、世界中にないといわれる。オープン当初はディスコとは言わずに、「ゴー・ゴー・クラブ」と銘打っていた。
真っ暗な中、地下二階という深いところへ降りていくと、そこはブラックライトに照らされ、独特の非日常空間を作り出す。ストロボがたかれ、人々は高揚し、我を忘れてダンスに興じる。そこには、人種も階級もなく、ただ楽しい時間を過ごすためだけにおしゃれな人々が集まっていた。
一体60年代後半から70年代にかけて、ムゲンは何を成し遂げたのか。ムゲンとはなんだったのか。ムゲンが残した軌跡は何か。そして、ムゲンが起こした奇蹟とは。そこに集っていた人々、また、ムゲンを作り上げた人々にとって、ムゲンとはなんだったのか。そのあたりにフォーカスをあててみたい。
ムゲンを取り巻く物語、ご期待ください。ブリオ9月号は7月23日発売です。
ENT>DISCO>Mugen
Luther Vandross Talks In Brooklyn Accent
2005年7月6日【ルーサーのアクセント】
後悔。
僕個人のルーサーへの思いもかなりある。80年代後半から、どうしてもライヴを見たいアーティストで、見ることができないアーティストが2人いた。アレサ・フランクリンとルーサー・ヴァンドロスである。二人とも飛行機嫌いゆえに日本には来ないとされていたアーティストである。その後90年代に入ってバーブラ・ストライサンドがそのリストに加わる。ストライサンドの場合は、めったにライヴをやらないから、これは難しい。しかも、引退とか言ってるし。アレサのライヴ情報は、けっこう追いかけ、結局91年にニューヨークで捕まえることができた。だが、ルーサーはかなわなかった。僕のライヴ人生の中でも最大の悔いかもしれない。
ルーサーは、基本的によくライヴをやっていた。80年代後期に日本の業界関係者も何人か見ているし、またライヴのヴィデオも出ているので、その雰囲気はある程度はつかめる。しかし、あのヴェルヴェット・ヴォイスは一度生で見たかった。
ルーサーは、76年に出たグループ「ルーサー」の時からずっとリアルタイムで聞いてきたので、同時代感がものすごくある。81年『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再デビューした時も、まずは、グループ時代からずいぶんと洗練されたなと思った。そして、何度もアルバムを聴くうちにその素晴らしさに感心するようになった。今ではルーサーのベスト・アルバムと言われる傑作だ。
その後アルバムを次々とだし、そのどれもが大ヒット。彼の後を追って、フレディー・ジャクソン、キース・ワシントン、ジョニー・ギルなど続々と登場した。
+++++
ブルックリン訛り。
これは以前どこかで書いたか話したと思うが、ルーサーとは一度会ったことがある。場所はロスのスタジオ。記憶がはっきりしないのだが、86〜87年頃のことだと思う。誰かジャズかフュージョンのアーティストのレコーディングがロスのスタジオであり、その発売元のレコード会社(ポニー・キャニオンのパシフィック・コースト・ハイウェイというレーベル)の担当に連れられて、そのレコーディングを覗きにいった。主人公はそのアーティストなのだが、名前は覚えていない。(笑) ところが、そのレコーディング・セッションに大柄な黒人シンガーがきていたのだ。
僕はあれ、どこかで見たことあるシンガーだな、と思い、ガラスの向こうの彼をじっと見て、まもなく、ルーサーではないかと思った。担当者に「ねえ、ねえ、あれってルーサーじゃないの」と聞くと、担当者は「知らない、わからない」という。もっともその彼はルーサー自身を知らなかったので、話にならなかったのだが。ただ、僕も半信半疑だった。まず彼がニューヨーク・ベースで活動していること、飛行機嫌いということから、ロスにいるわけはないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。それに、無名のこのアーティストのセッションにルーサーほどの大物が来るわけがないと。でも、そっくりに思えた。特に太り具合は。
そこで、一段落してスタジオから出てきた彼に意を決してずばり尋ねた。「あなたは、ミスター・ルーサー・ヴァンドロスですか?」 後から考えると、とんでもない質問をなげかけたものである。鳥肌ものだ。相手はその時点で何百万枚ものレコードを売ってるスーパースター。アメリカの音楽業界人なら誰もが知っているそんな時期だった。すると彼は満面の笑みで「イエ〜ス」と答えた。お〜〜、まじか〜〜と超びっくりし、これは一期一会だと思い、「インタヴューしてもいいか」と尋ねた。すると彼は「う〜ん、ノー、今、僕はヴァケーション中なんだ」とあっさり断られた。
インタヴューは断られたが、なぜロスにいるのか、というと「今、ロスに住んでるんだ」と答えが返ってきた。ニューヨークではないかのか疑問に思ったら、ニューヨークにもロスにもどちらにも家があるという。なるほど。たまの移動は、なんとか飛行機に乗るらしい。
その時、写真を撮っていいかと尋ねると、「かまわない」という。そこで写真を撮ることにしたが、カメラを向けると、「胸から上だけにしてくれ」と注文をつけられた。やはり太っていることを気にしていたのだ。
それから何ヶ月後かに、ルーサーに電話インタヴューをする機会があった。87年10月のことだった。どういう時期かというと86年秋に『ギヴ・ミー・ザ・リーズン』のアルバムが出たほぼ1年後というタイミングである。今から考えるとなぜ、そんな中途半端な時期にインタヴューが取れたのか、よく覚えていないのだが、なんらかの理由で電話インタヴューはできた。
その時の印象は、はっきりした発音で、独特の訛りがあるなということ。そして、その訛りを以前に聞いたことがあった。話しているうちに誰か考えていたのだが、ふとわかった。カシーフだった。カシーフも、ルーサーもどちらもニューヨークのブルックリン生まれ。いわゆる「ブルックリン・アクセント」というものだった。その後、確かあのウィル・ダウニングと話をした時もその「ブルックリン・アクセント」を感じた。そういえば、ウィル自身もずいぶんとルーサーの影響を受けたシンガーではないだろうか。
ルーサーよ、Always & Forever!
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)
後悔。
僕個人のルーサーへの思いもかなりある。80年代後半から、どうしてもライヴを見たいアーティストで、見ることができないアーティストが2人いた。アレサ・フランクリンとルーサー・ヴァンドロスである。二人とも飛行機嫌いゆえに日本には来ないとされていたアーティストである。その後90年代に入ってバーブラ・ストライサンドがそのリストに加わる。ストライサンドの場合は、めったにライヴをやらないから、これは難しい。しかも、引退とか言ってるし。アレサのライヴ情報は、けっこう追いかけ、結局91年にニューヨークで捕まえることができた。だが、ルーサーはかなわなかった。僕のライヴ人生の中でも最大の悔いかもしれない。
ルーサーは、基本的によくライヴをやっていた。80年代後期に日本の業界関係者も何人か見ているし、またライヴのヴィデオも出ているので、その雰囲気はある程度はつかめる。しかし、あのヴェルヴェット・ヴォイスは一度生で見たかった。
ルーサーは、76年に出たグループ「ルーサー」の時からずっとリアルタイムで聞いてきたので、同時代感がものすごくある。81年『ネヴァー・トゥ・マッチ』で再デビューした時も、まずは、グループ時代からずいぶんと洗練されたなと思った。そして、何度もアルバムを聴くうちにその素晴らしさに感心するようになった。今ではルーサーのベスト・アルバムと言われる傑作だ。
その後アルバムを次々とだし、そのどれもが大ヒット。彼の後を追って、フレディー・ジャクソン、キース・ワシントン、ジョニー・ギルなど続々と登場した。
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ブルックリン訛り。
これは以前どこかで書いたか話したと思うが、ルーサーとは一度会ったことがある。場所はロスのスタジオ。記憶がはっきりしないのだが、86〜87年頃のことだと思う。誰かジャズかフュージョンのアーティストのレコーディングがロスのスタジオであり、その発売元のレコード会社(ポニー・キャニオンのパシフィック・コースト・ハイウェイというレーベル)の担当に連れられて、そのレコーディングを覗きにいった。主人公はそのアーティストなのだが、名前は覚えていない。(笑) ところが、そのレコーディング・セッションに大柄な黒人シンガーがきていたのだ。
僕はあれ、どこかで見たことあるシンガーだな、と思い、ガラスの向こうの彼をじっと見て、まもなく、ルーサーではないかと思った。担当者に「ねえ、ねえ、あれってルーサーじゃないの」と聞くと、担当者は「知らない、わからない」という。もっともその彼はルーサー自身を知らなかったので、話にならなかったのだが。ただ、僕も半信半疑だった。まず彼がニューヨーク・ベースで活動していること、飛行機嫌いということから、ロスにいるわけはないだろう、と勝手に思い込んでいたのだ。それに、無名のこのアーティストのセッションにルーサーほどの大物が来るわけがないと。でも、そっくりに思えた。特に太り具合は。
そこで、一段落してスタジオから出てきた彼に意を決してずばり尋ねた。「あなたは、ミスター・ルーサー・ヴァンドロスですか?」 後から考えると、とんでもない質問をなげかけたものである。鳥肌ものだ。相手はその時点で何百万枚ものレコードを売ってるスーパースター。アメリカの音楽業界人なら誰もが知っているそんな時期だった。すると彼は満面の笑みで「イエ〜ス」と答えた。お〜〜、まじか〜〜と超びっくりし、これは一期一会だと思い、「インタヴューしてもいいか」と尋ねた。すると彼は「う〜ん、ノー、今、僕はヴァケーション中なんだ」とあっさり断られた。
インタヴューは断られたが、なぜロスにいるのか、というと「今、ロスに住んでるんだ」と答えが返ってきた。ニューヨークではないかのか疑問に思ったら、ニューヨークにもロスにもどちらにも家があるという。なるほど。たまの移動は、なんとか飛行機に乗るらしい。
その時、写真を撮っていいかと尋ねると、「かまわない」という。そこで写真を撮ることにしたが、カメラを向けると、「胸から上だけにしてくれ」と注文をつけられた。やはり太っていることを気にしていたのだ。
それから何ヶ月後かに、ルーサーに電話インタヴューをする機会があった。87年10月のことだった。どういう時期かというと86年秋に『ギヴ・ミー・ザ・リーズン』のアルバムが出たほぼ1年後というタイミングである。今から考えるとなぜ、そんな中途半端な時期にインタヴューが取れたのか、よく覚えていないのだが、なんらかの理由で電話インタヴューはできた。
その時の印象は、はっきりした発音で、独特の訛りがあるなということ。そして、その訛りを以前に聞いたことがあった。話しているうちに誰か考えていたのだが、ふとわかった。カシーフだった。カシーフも、ルーサーもどちらもニューヨークのブルックリン生まれ。いわゆる「ブルックリン・アクセント」というものだった。その後、確かあのウィル・ダウニングと話をした時もその「ブルックリン・アクセント」を感じた。そういえば、ウィル自身もずいぶんとルーサーの影響を受けたシンガーではないだろうか。
ルーサーよ、Always & Forever!
ENT>OBITUARY>Vandross, Luther/2005.07.01(54)